2017/02/01

歴史のいたずらが神々の系図を二つに分ける!『出雲国造 北島家』

久しぶりに出雲の話題に帰って来ました~色々有った一月も終わり今日から二月です。今月も宜しくお願い致します(^人^)

今日はおめでたい話題からです(乗り遅れ感凄いです)。2014年(平成26年)10月5日、出雲大社の権宮司・千家国麿氏が高円宮憲仁親王と同妃久子の次女典子女王と結婚されました。TVニュースはもちろん、新聞雑誌でも取り上げられたので、皆さんご存知ですよね。

『出雲大社』についてお話したいのですが、書くべき事が多過ぎて一度ではとても無理ご自身出来そうにありませんので、少しずつ外堀から埋めて行きながら、最後は、出雲大社の神殿で終わりをむかえたいと考えております。

今回は出雲国造の「千家家」「北島家」両家より『北島家』を取り上げますf(^_^;!

CIMG9778.jpg(結婚式が行われていました。松江の友人曰く北島家での婚儀の方が離婚率が少ないとか(;^_^A、友人の私見です。m(__)m)


それでは、『市郎右衛門』の歴史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
ブログランキングならblogram
👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。

CROOZ


【北島家って誰?】

「北島家」って何?誰~?と思われる方も多いかも知れませんね。かくいう私も、出雲巡りをするようになって初めて、古来の国造が連綿と続いていること、又その国造が二家に別れて大国主の御霊を祀っておられることを知りましたf(^_^;。

CIMG9777.jpg(北島国造館、出雲大社の隣ですが、静かなところです。)




【じゃあ出雲国造て何?】

出雲国造(いずものくにのみやつこ、いずもこくそう)は、出雲国(現在の島根県東部地方現在の出雲市とは違いますよ。)を古に支配した国造です。

国造(くに の みやつこ・こくぞう・こくそう)とは、古代日本の行政機構において地方を治める官職のことです(また、その官職に就いた人)。当初は軍事権、裁判権などを持つその地方の支配者でしたが、大化の改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となりました。その氏族の出雲氏の長が代々出雲大社の祭祀と出雲国造の称号を受け継いできました。

『先代旧事本紀』の10巻『国造本紀』によれば、第10代崇神天皇のとき、天穂日命(あめのほひのみこと)の11世の孫である宇賀都久怒(うかつくぬ)を国造に定めたとあります(つまり神様の末裔ということになります(゜ロ゜;ノ)ノ)。

天穂日命は、誓約によって天照から生まれた、五兄弟の次男に成ります!、ちなみに天皇家は、天照大神→天忍穂耳命(アメノオシホミミ)古事記では、スサノオがアマテラスの勾玉を譲り受けて生まれた五皇子の長男で、アマテラスの子→瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)天照大神の命により、葦原中国を統治するため高天原から地上に降りた(天孫降臨)→火遠理命(オホリノミコト)一般には山幸彦(ヤマサチヒコ)の名で知られている(神武天皇の祖父)→神武天皇(初代天皇)!の流れに成ります。

『古事記』によれば、无邪志国造(武蔵国東部)・上菟上国造(上総国海上郡)・下菟上国造(下総国東部)・伊自牟国造(上総国埴生郡)・遠江国造(遠江国西部)も天穂日命の子神・建比良鳥命(たけひらとりのみこと)を同祖とします。

出雲氏は、国譲りに応じた大国主命を祀るため、天日隅宮(あめのひすみのみや=出雲大社)の祭祀を担った天穂日命を始祖、その子神・建比良鳥命が第2代と成ります。
初めて出雲国造に任じられたのは『先代旧事本紀』(国造本紀)によれば第12代宇賀都久怒からであるが、千家家の伝承をまとめた『出雲国造伝統略』によれば第17代出雲宮向からであるといわれます。

第12代景行天皇の条には、小碓命(をうすのみこと、倭建命)が地名を名に負う出雲建を殺した話が見えるように、上古の出雲地方を中心に大きな勢力を誇った出雲氏が、倭王権下において出雲国造に任ぜられました。

国造制は7世紀半ばの大化の改新以後、全国的に廃止される方向に進み、『続日本紀』によれば第43代元明天皇の和銅元年(708年)に、忌部宿禰子首が新たに出雲国守に任ぜられました(国造に代わり中央から国司が派遣されるように成ったということですね!)。
これは、国造制から律令に基づく国郡里制に支配体制が移行したことを示します。

しかし、出雲国造は紀伊国造などとともに、ごく一部の例外的な氏族として国造の称号存続を許され『続日本紀』の第42代文武天皇2年(698年) 三月の条に、「筑前国宗形と出雲国の意宇の両郡の郡司は、共に三親等以上の親族を続けて任用することを許す」との詔が記され、また、『類聚三代格』に「慶雲三年(706年)以来令國造帯郡領」とあって、律令制下における出雲氏は、延暦17年(798年)に解かれるまで、引き続き出雲国造を名乗るとともに、出雲国東部にあたる意宇郡(おうぐん)の郡司の職にも任じられました。

意宇郡司職を支族に譲った後の出雲氏本家は、意宇郡から出雲郡杵築郷(現在の出雲大社周辺)に拠点を移し(意宇郡に屋敷跡が有ったような気がします。)、元々出雲国造家の本拠である意宇の熊野大社と併せて行っていた出雲大社における祭祀に専念するようになったと考えられています。

その後、現在に至るまで、出雲大社の祭祀長を示す称号として出雲氏の子孫が出雲国造を世襲しておられます。
また、国造の代替わりの儀式である「火継式」に際しては、熊野大社と神魂神社にて儀式(秘密のベールに包まれた儀式です。)が行われ、現在でも熊野大社との関係を維持しています。

CIMG9779.jpg(見事な菊と先ほどのお二人の式典が行われています。)

【国造家の分裂】

出雲国造家の称号と出雲大社の祭祀職務は、南北朝時代に入るまで一子相伝でしたが、康永年間(1340年頃)以降、千家氏(せんげし)と北島氏(きたじまし)の二氏に分かれ、それぞれが出雲国造を名乗るようになりました。

これは、どこの名門の家でもありがちな?、兄弟の跡目争いが原因となりました。南北朝時代の第54代国造・出雲孝時(いずも のりとき)は、子の「六郎貞孝(わかりにくいので三男と考えてください)」を寵愛し、国造を継がせようと考えていました。しかし、孝時の母である覚日尼(塩冶頼泰の娘)から「三郎清孝(長男です)」は病弱であるが兄であるので、後に貞孝に継がせるとしても、まず一時的にでも兄である清孝に継がせてほしい」と説得を受け、清孝を後継者に決めました。

おばあさまの思惑どおり、清孝が第55代国造となりましたが、やはり病弱であったため職務を全うできず、弟の「五郎孝宗(次男ですね)」を代官として職務のほとんどを任せ、そのまま康永2年(興国3年/1343年)、国造職を孝宗に譲ってしまいます。

これに対して六郎貞孝(そりゃ頭に来ますよね!)は、「自分に国造職を譲るのが本来である」と猛烈に反発し、神事を中止して軍勢を集め、社殿に立てこもって紛争状態となってしまいました。

事態を重く見た守護代の吉田厳覚は、清孝・孝宗側と貞孝側の両者に働きかけ、年間の神事や所領、役職などを等分するという和睦を結ばせました。こうして康永3年(興国4年/1344年)6月5日)以降、孝宗は千家氏、貞孝は北島氏と称して国造家が並立し、19世紀後半の幕末まで出雲大社の祭祀職務を平等に分担する事に成りました。

明治時代には、千家氏・北島氏ともに男爵として遇されましたが、出雲大社自体は内務省神社局の傘下(社格は官幣大社)となり、千家氏は「出雲大社教(いずもおおやしろきょう)」、北島氏は「出雲教」と、それぞれ宗教法人を主宰して分かれ、出雲大社の宮司は千家氏が担う事に成りました。何故千家氏が担うことになったのか不思議ですよね。

戦後、神社が国家管理を離れた後は、出雲大社は神社本庁包括に属する別表神社となり、宗教法人出雲大社教の宗祠して、宮司は千家氏が担っています。

私はFacebookでどちらの宮司さんともお友達に成って頂いておりますが、当たり前ですが現在は、仲が悪いというような事は無いようです(笑)

CIMG9781.jpg(紅葉と滝!天神社の幟、綺麗ですが、カメラ本当に下手ですね~!)

【歴代出雲国造(一部省略)】

初代:天穂日命
2代:武夷鳥命~(中略)~
11代:阿多命- 出雲振根。『日本書紀』「崇神紀」60年の条に出雲臣之遠祖とあり、神宝を崇神天皇に差し出した弟・飯入根を殺し、崇神天皇の命により吉備津彦らに誅殺されたと記載されます。
12代:氏祖命- 鵜濡渟、宇迦都久怒。『先代旧事本紀』(国造本紀)よればこの宇迦都久怒が最初の出雲国造の名前を名乗っています。『日本書紀』「崇神紀」60年の条には、振根の別の弟・甘美韓日狭の子として神宝を差し出し、後に振根の弟殺しの件を報告しました。
13代:襲髄命- 『日本書紀』垂仁天皇紀に登場する野見宿禰と同一人物だといわれます。
14代:来日田維穂命- 『古事記』垂仁天皇の条に出雲国造の祖として登場する岐比佐都美と同一人物だといわれます。
15代:三島足奴命
16代:意宇足奴;- 意宇宿禰。『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇即位前紀(応神天皇41年/310年)の条に淤宇宿禰の名で出雲臣之祖とあり、倭(奈良県)の屯田司に任じられていたが額田大中彦(仁徳天皇の兄)に職務を妨害された話が載っています。
17代:出雲宮向-允恭天皇元年(412年)に初めて国造となり出雲の姓を賜った(一説によれば允恭天皇元年ではなく反正天皇4年ともいわれます。
いずれにしろ記紀には記載されていません。)。
18代:出雲布奈~(中略)~27代:出雲廣島-『出雲国風土記』を編纂しました。
28代:出雲弟山~(中略)~55代:出雲清孝

【北島家(分裂を経て!)】

56代:北島貞孝 - 神魂神社にて、正式に火継式を斎行して、国造職を継ぎました。
57代:北島資孝~(中略)~66代:北島恒孝 - 寛文の御造営遷宮式を斎行しました。
八雲山山麓の国造館を亀山山麓に移転します。
67代:北島兼孝~(中略)~75代:北島全孝 - 通称神健彦卿。
76代:北島脩孝 - 出雲教を設立。
従三位男爵華族となります。
77代:北島齊孝 - 貴族院議員、従三位勲四等男爵。
78代:北島貴孝 - 貴族院議員、従三位勲三等旭日章男爵。
79代:北島英孝 - 藍綬褒章。
80代:北島建孝

【『出雲国造神賀詞』の奏上】

奈良・平安時代の出雲国造は、その代替わりごとに朝廷に参向して『出雲国造神賀詞』を奏上する儀礼を行っていました。

儀式の次第は『延喜式』に記されており、それによれば、まず新しく国造となった者は朝廷に上って新任の式を行い、天皇から「負幸物」を賜ります。
その後、出雲に帰って1年間潔斎をした後、再び朝廷に上り、神宝・御贄を献って神賀詞を奏上します。
そして出雲に帰ってまた1年の潔斎を行い、再び朝廷に参向して献物を捧げて神賀詞を奏上するという流れ(大変ですね)。

文献の記録では、霊亀2年(716年)2月に第23代国造出雲臣果安が奏上したとの記事(『続日本紀』)が初見で、以後、天長10年(833年)4月の第35代国造出雲臣豊持による二度目の奏上(『続日本後紀』)まで15回の記録が見られます。
しかしこれはあくまでも文献上であり、実際は最初の奏上が果安以前の国造であったり、最後の奏上が豊持以降の国造である可能性は高いと考えざるをえません。
また神賀詞の内容や儀式の次第についても記録は延喜式制定時点のものであり、各代の奏上において同一ではなく、時代を追って変遷していると思われます。

奏上儀式の起源については、朝廷が古代の在地勢力による服属儀礼を、代表として出雲国造に命じて行わせたとする説や、出雲国造が自らの系譜を朝廷の神話体系の中に売り込むべく始めたとする説などがあり、定かではないようです。

しかしいずれにしろ、この儀式は古代日本において他の国造に見られない出雲国造独特の儀式であって、記紀神話において出雲神話が非常に大きなウェートを占めていることや、国造制の廃止後も出雲国造が存続された理由とも切り離すことのできない儀式です。

CIMG9783.jpg(御祭神は少名毘古那命ですね、大国主命とはセットに成っているようです。)
CIMG9784.jpg
(亀の尾の瀧)
CIMG9785.jpg
(この位置が一番良い角度です。)
長々と書いてしまいましたが、出雲国造の仕事とは、国譲りで傷ついた大国主(出雲王国)の御霊を慰め祀ることだと考えます。
巨大な空中神殿、古事記に書かれた神話部分の多くを占める出雲神話、倭国王がいかに出雲の霊力(科学を生業とする私には認めるわけにはいきませんが!)を恐れていたかがうかがえるのではないでしょうか?


いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。

ブログランキングならblogram

リュミエールブラン ネージュ

コメント

非公開コメント