2016/12/14

「市郎右衛門の討ち入り蕎麦」modify

今日12月14日は、赤穂浪士の討ち入りの日です。

我が家では赤穂浪士の討ち入り日に合わせて、毎年お蕎麦を食べています。

つまり、今日の晩御飯はお蕎麦なんです(実際の討ち入りは15日未明)。

昨年「我が家の討ち入り蕎麦」と題してわが家に伝わる古いお話をUPさせて頂きました!

その後ちょっとした経緯が有り、調べ直しますと、但馬豊岡京極家と大石(内蔵助妻)りくの実家石束家、更にはわが家との関係に少し新しい事実か判ったのでお話しましょう!

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討ち入りそば(出西窯の器に輪島塗の箸で100円のかきあげでも少し贅沢な感じです)

昨年の今日このようにブログをUP致しました!

【以下昨年分です】
話せば長いお話なのですが、簡単に書きますと、大石内蔵助の妻、りくの父親、豊岡京極家家老、石束源五兵衛と我が家のご先祖が懇意にしていたらしく、赤穂浪士討ち入り成功(仇討ち成就)が伝わると、近所に蕎麦がき(当時蕎麦切りが、全国に的に広まっていたかは不明ですf(^_^;)を振る舞ったという、言い伝えが残っているからです。

離縁されて実家に帰って来ていたりくと子ども達ですが、のちに三男大三郎が、忠臣の子息と言うことで、広島安芸、浅野本家に仕官がかない(りくも忠臣の妻として録をもらってます)、我が家で家財を売って、路銀のたしにして広島へ向かったという、言い伝えが有り、そのとき石束家からの家屋を借りた礼として、野点の茶道具を頂いたと伝えられています(実物確認出来ていません、時間が有るときに倉の中を調べて見ます)。

と昨年書きました。
今年に成って調べてみますと、石束家と懇意にしていた事実は変わりませんが、家財を売った人物の経緯に?が見つかりました。

当時の石束家は但馬豊岡京極家筆頭家老として1200石の家柄でした。
貞享4年(1687年)にりくが播州赤穂浅野家、筆頭家老大石(内蔵助)良雄(知行1500石)の正室となったのも頷けます。

CIMG1191.jpg
(大石りく、長女くう、大石主税ですかね~?)
CIMG1192.jpg(顕彰碑)

大石りくの父、石塚源五兵衛は寛永18年(1641年)、但馬国豊岡京極家筆頭家老の石束毎術(知行1200石)の長男として生まれます。
名は「毎公」でしたが、主君京極高住に対しては「毎好」を使っています。
佐々休西(佐々成政の曾孫)の娘と結婚し、その間に石束毎明・石束毎済・りく(香林院)などの子をもうけます。
延宝2年(1675年)、父の隠居により家督相続、このとき父と同じ源五兵衛に改名し、筆頭家老職を継ぎました。

赤穂事件の際には、赤穂浅野家改易後の元禄14年(1701年)5月には大石(内蔵助)良雄が、遠林寺で赤穂藩残務処理にあたっている間、りくやその子・松之丞(大石良金)通称(こちらの方が有名ですね)は主税(ちから)らを石束家に受け入れました。
この際に良金に自らの脇差を与えています。
7月に大石良雄が山科に住居を落ち着けると、りくや良金たちも山科へ移りますが、次男の吉之進(碑文では吉千代)は石束家に残っています。
元禄15年(1702年)4月15日、仇討ち計画が進むなか大石は、盟約に加わることを望んだ長男良金を除いてりくと子らを再度石束家に戻しました。
このときりくは身ごもっており、7月に石束家にて大石大三郎を出産しています。
元禄16年(1703年)に家督を長男の毎明に家督を譲って隠居しました。
正徳3年(1713年)7月25日に死去、享年73

石束家を継いだ、りくの兄石束毎明(いしづか つねあき、生年不詳 - 宝暦5年1月15日(1755年2月25日)もちろん豊岡京極家の筆頭家老です。
通称は宇右衛門(うえもん)。

元禄16年(1703年)に石束家の家督と家老職を相続しました。
この際に300石を加増され、石束家の家禄は都合1500石となります。
しかし享保12年(1727年)主家京極家が無嗣になり、京極高永に家督相続が認められたものの3万石から1万5千石に半地(末期養子の決りですね~(^^;)される事件があり、石束家の家禄も半減します。
毎明はこの半地に対応するため、積極的に家人(武士)のリストラと倹約にあたり、豊岡京極家の財政維持にあたります。

殖産興業に力を尽くし、のちに豊岡名物品となる柳行李を生産させたのも彼の業績なんですよ~。

中谷高房の娘を妻に迎え、その間に石束毎雅をもうけます。
毎雅に家老職を譲りますが、毎雅は京極高永と御家改革を巡って対立を深め、延享4年(1747年)には家老を辞して京極家を去ることとなり、毎明も豊岡を去っています。
晩年は甥、大石大三郎(大石良雄の子)のもとに身を寄せています。
宝暦5年(1755年)広島で死去。
妹・りくと同じ国泰寺に埋葬された。

石束毎雅(いしづか つねまさ、元禄13年(1700年) - 宝暦2年5月22日(1752年7月3日))は、但馬豊岡京極家の筆頭家老でしたが、主家京極高永と対立を深めて御家を去ています。
通称は、一学(いちがく)、源五右衛門(げんごえもん)、宇右衛門(うえもん)。

父毎明から豊岡京極家筆頭家老職を受け継ぎ、また前の殿様京極高住の娘万里姫を妻に迎えますが、当代主家・京極高永とは御家改革を巡って対立を深め、延享4年(1747年)に家老を辞して豊岡京極家を去ることになってしまいます。
その後は京都に隠遁し、宝暦2年(1752年)に同地で死去しています。
京都の妙心寺に眠ります。
芳名は馨徳院殿立所?伯居士。

さてここで問題が起こるわけです。
我が家の言い伝え石束家が家財を売ったという話は、お父さんか?りくの兄か?それとも殿様と喧嘩別れしたりくの甥かという事です。
どうも当初は赤穂事件に関係している(石束家から大罪人の妻を出した!)と考えていましたが、りくの兄や甥の可能性の方が高いのではないかと思われます。
理由の一つは、うちの父が「源五右衛門」の名前を記憶(先祖から伝えられていること)二つ目は我が家に置いて行ったとされる、野点の茶器が京極の殿様から拝領したものだと記憶(先祖から伝えられていること、そんな大事な物をと考えますよね)等です。



CIMG1193.jpg(正福寺の大石りく遺髪塚、長女くう、次男吉千代?吉之進の墓です。)
CIMG1195.jpg(大石良雄妻理玖の墓はちょっと歌いすぎではないですかね~笑)

最後にすごく余談なお話をいたしましょう(笑)
赤穂浪士の討ち入りは、12月14日とされていますが、実際は15日未明です(ただし当時では朝日が登って翌日感覚だった様ですが)。

又、旧暦元禄15年12月14、15日はユリウス暦1703年1月30、31日に成りますし、今年?の旧暦12月14、15日は、2017年の1月1日2日に成るはずです(月の満ち欠けで満月)というわけで、蕎麦をいつ食べるのかはっきりと決めているわけではないのですが?(何を書いているのか解らなくなって来ました)今年は今日12月14日にしました。

つまり我が家では、この時期にお蕎麦が食べたく成ると(年越し蕎麦とは別です)、子供たちに少しだけ赤穂浪士のお話と、我が家との関わりを話して、お蕎麦(必ず出石蕎麦)を食べる事にしています。


今年はあえて書かなかったのですが、まだ父が「え~?」と思う話をしていますのでそちらは来年の十二月にでもお話ししましょう。
『忠臣蔵』における不忠臣の代表格、「大野九郎兵衛」播磨国赤穂浅野家の末席家老650石の子孫についてのお話です。

いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!
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