2016/11/22

究極の日本流「おもてなしの原点」が全て揃ってる『桂離宮』

日曜日に桂離宮に出掛けました。

せっかくなので皆さんに御報告です。
以前は、3ヶ月前からの完全予約制でしたが、少し緩く成ったようです。

7月から当日も午後1:30から一時間毎に、20名ずつ三時間で60人の参観が認められるように成っています(予約のキャンセルが出たらその分増えるそうですが?)。

この紅葉の時期のうえに、日曜日!何時に並んだものか間よっったのですが、7時に京都住まいの弟と阪急桂の駅で待ち合わせ、早速向かいました。

阪急桂駅からは直ぐでが、余りに誰も居ないので、拍子抜けして少し離れたコンビニへ朝御飯を買いに行きました~(^^;

帰って見ると、男性がお一人並んで居られました。

只今7時や45分!10時に整理券、11時に受付開始です。

注意!18歳未満は参観出来ません❗宮内庁に電話しましたが、無理でした~( ノД`)…
次女は車のなかで待つことに、可哀想な事に成ったので、御菓子を一杯買ってごめんなさいでした🙏💦💦

「市郎右衛門」の日本歴史ブログをお楽しみください。 
ブログランキングならblogram

👆 絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クイックして応援お願いします(^人^)。

桂離宮を参観してきました。

PB200108.jpg
(紅葉が綺麗ですね。)
PB200100.jpg
(御幸門に通じている)
PB200093.jpg
(全体が見渡せない造りになっています。)
PB200103.jpg

(サプライズですね遠近法が持ちいてあるそうです。向こうが狭く遠くに感じます。)

江戸時代の17世紀に皇族の八条宮の別邸として創設された建築群と庭園です。
面積はなんと約7万平方メートルで、うち庭園部分は約5万8千平方メートルです(と言われてみてもimageつきませんよねf(^_^;)。
離宮とは皇居とは別に設けた宮殿の意味ですが、 「桂離宮」と称する様に成ったのは明治16年(1883年)からで、それ以前は「桂別業(別荘の意味です)」などと呼ばれていました。

江戸時代初期の造営当初の庭園と建築物を遺しており、当時の朝廷文化の粋を今に伝えています。
回遊式の庭園は日本庭園の傑作とされます(是非行かれたら解りますが傑作でした)。
また、建築物のうち書院は書院造を基調に数寄屋風を採り入れています。
庭園には茶屋が四ヶ所配されています。

PB200122.jpg
(黒い石を砂浜に見立てた州浜!灯篭が夜は素晴らしいでしょうね。)
PB200124.jpg
(天橋立初代の奥方は丹後主審だとか?)
PB200126.jpg
(松琴亭、一番目の茶屋です。)
PB200130.jpg
(松琴、松琴?意味がありそうです。)
PB200139.jpg
(モダンな市松模様、二代の奥様前田家の誂えだそうです。)
PB200145.jpg
(冬に使われる茶室、火を起こして上の棚の食事を温める趣向です。さすがのおもてなし!)

桂離宮は京都市の西郊、桂川西岸の旧・下桂村に位置しています。
ここは桂川とかつての山陰道(丹波街道)が交わる、交通の要衝であった。川と道の交点にはかつては「桂の渡し」があり、現在は桂大橋が架かります。

『源氏物語』「松風」帖に登場する光源氏の「桂殿」はこの地にあったという設定である。
物語に登場する冷泉帝は「月のすむ川のをちなる里なれば桂の影はのどけかるらむ」という歌を詠んでいます。
この地は風流な観月の名所としても知られていました。

桂離宮の近くの西京区松室には月読神社があり、桂の地名も中国語の「月桂」の故事から来ているといわれます。
こうした地にある桂離宮には、観月のための別荘という意味合いがあります。
それとともに、池での舟遊び、庭に点在する茶屋を用いての茶会、酒宴など、さまざまな遊興や行事の場としての機能があり、単なる鑑賞のための庭ではなかった事がわかります。

PB200134.jpg
(必ず休憩所が在りますね~。)
PB200150.jpg
(橋だけでなんて素晴らしいのでしょう?)
PB200155.jpg
(賞花亭)
PB200154.jpg
(必ずくどが在ります。亭主が作るのが、一番のおもてなし。) 
PB200156.jpg
(ですね~。)
PB200157.jpg
(夏用?涼しげです。)

桂離宮は最古の回遊式庭園として知られ、庭園と建物が一体となって、日本的な美を形成している。
作庭者については、古くから小堀遠州とする伝承がありますが、実際に作庭に携わった可能性のある人物としては、遠州の義弟である中沼左京、遠州の門下である玉淵坊などの名前が挙げられています。

昭和8年(1933年)に来日したドイツ人建築家ブルーノ・タウト、ヴァルター・グロピウスは桂離宮を、簡素さの中に美と深い精神性を表した建築及び庭園として高く評価しています。
ブルーノ・タウトは桂離宮の簡素な美を絶賛し、その知名度を国際的に高めたことで知られています。

タウトは昭和8年5月と翌昭和9年(1934年)5月に桂離宮を拝観し、その折の所感を著作に記しています。
古書院の広縁から張り出した竹縁(月見台)から庭園を鑑賞したタウトは、その時の感興を「ここに繰りひろげられている美は理解を絶する美、すなわち偉大な芸術のもつ美である。すぐれた芸術品に接するとき、涙はおのずから眼に溢れる」と表現しました。

PB200163.jpg
(高い橋は船が通過できるように作られています。)
PB200169.jpg
(こちらも)
PB200172.jpg
(同じくですね。)
桂離宮は八条宮家初代の智仁親王(1579年 - 1629年)によって基礎が築かれます。
智仁親王は正親町天皇の皇孫後陽成天皇の弟に当たります。
智仁親王は初め豊臣秀吉の猶子となったが、秀吉に実子が生まれたため、八条宮家(桂宮家)を創設することになります。
本邸は京都御所の北側、今出川通りに面して建設され、現存する(ただし築地塀と表門・勅使門だけを残し、建物群は二条城に移築されています。おりしも待ち時間に二条城に行ったのは智仁親王のお導きかもしれません。)。

桂離宮の書院は「古書院」「中書院」「新御殿」の3つの部分に分かれ、このうち古書院の建設は1615年頃と推定されています。
書院、茶屋、庭園などの造営は、八条宮家2代の智忠親王(1619年 - 1662年)に引き継がれ、数十年間をかけて整備されました。

庭園は多くの入江と複雑な汀線をもつ池を中心とし、池には大小5つの島がある。
池の西岸の平坦地には古書院、中書院、新御殿が北東から南西へ雁行形に並びます。

中書院と新御殿の間には小規模な「楽器の間」がある。
これらの建物は一時に建てられたものではなく、元和初年から寛文初年(1615年頃 - 1662年頃)にかけて順次建立されたものです。

他の建物としては茶屋として松琴亭、賞花亭、笑意軒、月波楼の4棟、持仏堂の園林堂があります。
古記録によれば茶屋は5棟あったが、残り1棟の竹林亭は現存しません(残念ですね)。

PB200171.jpg
(笑意軒、舟でつけるように成っています。)
PB200188.jpg
(見る方向で違うように月・日・星!全ての灯篭が二つ以外足元だけを照らすように低い造りです。)
PB200177.jpg
(笑意軒)
PB200178.jpg
(外に見えるのは何かわかりますか?)
PB200174.jpg
(契約農家が田んぼを作られています。つまり四季の田の演出が味わえるわけです。凄すぎる!)


桂別業が所在する下桂村は八条宮の知行地でした。
同村が八条宮の所領であったことを示す史料として、元和3年(1617年)9月11日付、将軍徳川秀忠の花押のある知行安堵状が存在します。

これによれば、当時、下桂村や桂川対岸の川勝寺村など6か村、3千石余が八条宮の知行地でした。
同朱印状に「右如先々可有全御知行之状如件」とあることから、下桂村など6か村は元和3年以前(「先々」)から八条宮の領地であったことが明らかです。

元和年間(1615 - 1624年)には下桂に「茶屋」と呼ばれる建物が存在し、智仁親王がそこへ出向いていたことは、現存する史料から読み取れます。
いくつかの史料と、1976年から行われた「昭和の大修理」時の知見により、おおむね元和初年(1615年)頃に現在「古書院」と呼ばれる建物が完成したとみられ、それから半世紀近くにわたり、三期に分けて、現存する桂離宮の書院群と庭園が整備されたとみられます。

3次造営(新御殿の建立)は寛文2年(1662年)頃に行われたとみられています。
現在「新御殿」と呼ばれる建物は、翌寛文3年(1663年)の後水尾院桂御幸に備え、御幸御殿として整備されたとするのが通説です。

ただし、当時法体であった後水尾院のための御幸御殿というよりは、八条宮2代智仁親王ないし3代穏仁親王自身の御座所として整備されたのではないかとする見方もあります。
智忠親王は寛文2年に死去し、寛文3年の後水尾院御幸の際の当主3代穏仁親王は、2年後の寛文5年(1665年)に23歳で死去します。
PB200184.jpg
(園林堂、持仏堂です。菩提を弔うための物です。扁額は後水尾上皇です。)


以後の八条宮家(後に常盤井宮、京極宮、桂宮と改称)は短命の当主が続き、当主のいない時期も長く続きます。
7代京極宮家仁親王(1704 - 1768年)は歴代の中では珍しく長命で、桂別業にしばしば滞在し、庭園や建物の修復整備にも力を注いだので、「桂別業」の名園としての評価が高まり、訪れる人も多くなっていました。
11代桂宮淑子内親王が当主となった文久2年(1862年)までの間、宮家の当主は不在も同然でした。
淑子内親王が没した明治14年(1881年)をもって桂宮家は断絶してしまいました。

PB200196.jpg
(見えにくいですがでっぱりが、月見台!お月様見たんでしょうね~。)
PB200203.jpg
(写真を撮れと言わんがばかりに堂々とした、アオサギです。本物です。)
PB200208.jpg
(最後の茶室月波楼)
PB200204.jpg(月波)


明治16年(1883年)以降、桂別業は「桂離宮」と称されるようになり、宮内省(のち宮内庁)の管轄下となりました。
第二次世界大戦後は、宮内庁が管理している。
建物については、1976年から「昭和の大修理」が実施され現在に至っています。

PB200210.jpg
(最後の最後に全てを語る松が一本、向こうが見えそうで見えない!行く先々で場面が変わるすばらしいお庭でした。)


平安時代の貴族の別荘(藤原道長の山荘・桂家を発見した八条宮初代智仁親王の創意)を桃山時代から江戸時代の初期に再現(茶屋などは江戸初期の文化形態ですかね)してそのままの状態で残してある庭園と建物群です。
まあ驚くほど?驚愕のすばらしさです。
 


いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナーを「ポチッと」クリックして頂きましたら嬉しいです。
  👇👇👇   👇👇👇   👇👇👇   👇👇👇
ブログランキングならblogram

コメント

非公開コメント