2016/11/19

羽柴秀吉二度目の兵糧攻め!「鳥取の渇殺し」の悲惨!

「鳥取の渇え殺し」といえば、先日キャラクター問題で有名に成りましたね~(^^;

2014年、鳥取城跡のマスコットキャラクター「かつ江(渇え)さん」が、お披露目からわずか3日間で公開停止となったニュース知ってますよね!

7月7日に鳥取市役所の公式サイトで公開されるとネットで拡散。
反響が凄くて苦情や問い合わせが相次いだことを受けて、7月9日にはサイトから削除されてしまいました。

「かつ江(渇え)さん」見てみましょうか?(笑)

IMG.jpg


インパクト凄いけど、わざわざこれに決めなくても...というところです~(^^;


色々な情報も含めて今日は「鳥取城跡」をご紹介いたします。

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鳥取城は、鳥取県鳥取市(旧・因幡国邑美郡)に築かれた戦国時代から江戸時代に使用された城です。
勿論、国の史跡に指定されています。



別名は「久松山城(久松山に有るからですかね)」
戦国時代から江戸末期にかけての城郭形態の変化を伺うことができることから「城郭の博物館」の異名を持つそうです(なんでなんで?)。

CIMG6496.jpg(博物館や緑地がある城の入り口です。)
CIMG6499.jpg(仁風閣説明版読んでください(;^_^A)
CIMG6498.jpg(松江城もそうですが、城に洋館があるのは?なぜかな?)
CIMG6497.jpg(西側にある博物館の地下?ですね。)

鳥取城の歴史ですがややこしいので覚悟してください。

「因幡守護⇒本当は但馬山名氏支配」まず、鳥取城は戦国時代中頃の天文年間に因幡の守護である山名誠通が久松山(やっぱりね。)の自然地形を利用した山城として築城したとされましたが、近年の研究では誠通の因幡山名氏と対立する但馬山名氏(山名祐豊)の付城として成立した可能性が支持されているようです(同じ山名ですのにね~(^^;)。

「但馬山名氏支配⇒武田高信力をつける」正式に城主が確認されるのは、元亀年間の武田高信からです。
高信は誠通の滅亡後、但馬山名氏の分家として再興された因幡山名氏の家臣でしたが、しだいに力をつけ永禄年間には鳥取城を拠点として独りつした形になります。

「武田高信力下剋上達成⇒毛利氏と誼を通じる」湯所口の戦い以降、守護家に対して優勢になった高信は天神山城を攻撃し、因幡守護の山名豊数を鹿野城に逃亡させ名目上の守護・山名豊弘を擁立し下剋上を果たします。
高信はその後も豊数の弟で主筋である山名豊国としばしば対立し、安芸の毛利氏とよしみを通じるようになります。

「尼子氏再興鳥取城明け渡し⇒吉川元春に降伏⇒再度尼子氏に降伏⇒またまた毛利支配」1573年(天正元年)、高信を討つために山中幸盛ら尼子残党と結んだ豊国の攻撃を受け、劣勢の高信は和議を結び城を明け渡すが(尼子再興軍による鳥取城の戦い)、まもなく豊国の手によって謀殺されてしまいます。
因幡山名氏の本拠も鳥取城に移されますが、同年に後巻に進出した吉川元春に攻められ豊国は降伏、市場城主・毛利豊元が城主となりました。
しかし、1574年(天正2年)再度尼子氏残党に攻められて降伏します。
1575年(天正3年)芸但和睦で毛利氏の力が鳥取に直接及ぶようになると、その手から逃れるため尼子残党が鳥取城を退き豊国が城主に落ち着きました。

「織田軍に降伏⇒毛利軍に降伏⇒鳥取の渇殺しで秀吉に降伏」1580年(天正8年)に織田方・羽柴秀吉の第一次鳥取城攻めで3か月の籠城戦(この時の籠城費用は全て豊国が負担しました。)の末、9月に豊国は和議により信長へ降伏、臣従します。
ところが、同月毛利氏が襲来して再度の降伏、鳥取城は牛尾春重が城将として入ることになります。
この時点で豊国は因幡守護であるが鳥取城主ではなくなりました(あっちへ降伏、こちへ降伏、納得できなかったでしょうがこれも戦国時代の常です。)。
春重は織田方の桐山城を攻めたとき深手を負い帰還、何人かの城将の入れ替えの末、1581年(天正9年)3月毛利氏の重臣である吉川経家が城主に座ります。
同年4月、因幡守護(名目だけになっていますが)豊国は織田氏へ密使を送ります。
しかしながら密使が市場城主・毛利豊元の家臣達に斬られ織田氏への内通が発覚、豊国は秀吉の下へ出奔せざるを得なくなりました。
残存する山名氏旧臣は毛利氏への従属を継続したため、信長の部将で中国地方の攻略を担当していた秀吉は2度目の鳥取城攻撃をすることとなります。

CIMG6501.jpg(城門跡)
CIMG6502.jpg
(勿論ですが、登ります。)
CIMG6503.jpg(二の丸高いのが三階櫓跡です。)
CIMG6504.jpg(三階櫓跡)
CIMG6505.jpg(石垣の修復が急ピッチで進められていました。)

最後の織田信長の中国攻めでは、家臣の羽柴秀吉が兵糧攻めを用いて攻略しました。
秀吉は播磨・三木城攻め(三木合戦)で行った徹底的な兵糧攻めをここでも実施します。
これが、「鳥取の渇殺し」と呼ばれます(秀吉は、但馬を弟の小一郎秀長に任せて、美作から因幡へ直接攻め込みます。)。

「鳥取の渇殺し」について簡単?に説明しますね。
『陰徳太平記』によると、秀吉は若狭から商船を因幡へと送り込み米を高値で買い占めさせる一方で、1400の兵が籠る鳥取城に付近の農民ら2000以上を城に追いやります(勿論、理由はおわかりですよね~(^^;)。
さらに河川や海からの毛利勢の兵糧搬入も阻止します。
このとき城には20日分の兵糧しか用意されておらず、この作戦により瞬く間に兵糧は尽き飢餓に陥ります。
何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、4か月も経つと餓死者が続出し人肉を食らう者まで現れたと言われています。
『信長公記』には「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と記されています。
城主の吉川経家はこの凄惨たる状況に、自決と引き換えに開城しました。

経家や山名氏旧臣に代わり、浅井氏旧臣で、秀吉の与力となっていた宮部継潤が城代として鳥取城に入り、織田勢の山陰攻略の拠点と成ります。

継潤は豊臣政権に代わった1585年(天正13年)の九州征伐で功績を挙げ、正式に因幡・但馬のうち5万石を与えられ、鳥取城を本拠として城主となります。
宮部継潤によって山上ノ丸の改修が行われました。、
その後も継潤は、九州平定後五奉行として連署するなど(宮部法印 前田玄以 富田知信 増下長盛 石田三成)秀吉の与力として重要な役割を果たし、隠居後は御伽衆として秀吉のそばに仕えます(御伽噺って微妙な表現ですが、つまるところお話相手!ですね。)。
所領は継潤の子の宮部長房が受け継ぎます。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで宮部家は西軍に所属し、城主の長房は因幡の外にいたので城代家老の伊吹三左右衛門や一族の者が留守を守りますが関ヶ原での本戦終了後、東軍の亀井茲矩らに激しく攻められ開城させられます。

関ヶ原の戦いの近江甲賀郡水口岡山城攻めでの功により、池田長吉(池田氏)が6万石で鳥取城に入り、池田氏によって近世城郭に改修されました。
江戸時代には鳥取池田家の治下に入り、麓の二の丸以下の曲輪が拡張されました。
現在は天守台、石垣、堀、井戸などが残っています(私が伺った時も修復してました。)。

1617年(元和3年)、さらに池田光政が因幡・伯耆32万5,000石の大封で入府、鳥取城も大大名に相応しい規模に拡張されます。
光政によって城下町の整備も同時に行われたといいます。
その後ふたたび、備前岡山藩に入っていた池田氏(長吉とは別系)と所領の交換が行われて池田光仲が入封、そのまま12代続いて明治維新を迎えました。

CIMG6506.jpg(右に見えるのが)
CIMG6507.jpg(天球丸かな山を頂上まで上がったところに、山之上丸、ご天守がありました。(;´・ω・)申し訳ない!)
CIMG6508.jpg(明治になり、島根鳥取が合併県になったときに松江城以外は廃城の憂き目をみたのでした。もったいない!)

分かっているだけで、山中幸盛(鹿之助)に2度、吉川元春に2度、豊臣(羽柴)秀吉に2度、と合計6度の降伏や力攻めによる落城があります。

今日ニュースで鳥取中部地震でも落ちなかった梨を「合格まちがい梨」として売り出していました。
鳥取県は「スタバ」もとい「スナバ」でもインパクトのあるコマーシャルをされますよね。
でも鳥取城が六度も落城した事は内緒にしときましょうね平井知事(笑)




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