2016/11/07

「明智光秀」山崎での敗北をさとり『勝竜寺城』へ退却す!

皆さんご存知の通りに、山崎の戦い「天王山の戦い」は、羽柴秀吉軍の勝利に終わります。
明智光秀は敗北を悟り、軍を「勝竜寺城」へ引かせます。

一方、羽柴軍も無傷というわけでもなく、前線部隊の消耗が激しく、日没が迫ったこともあり追撃は散発的なものに留まります。
しかし、それ以上に明智軍では士気の低下が著しく、勝竜寺城が大軍を収容できない平城だったこともあって兵の脱走・離散が相次ぎ、その数は700余にまで減少したといわれます。

明智光秀は勝竜寺城を密かに脱出して居城坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖の藪(京都市伏見区、現在は「明智藪」と呼ばれる)で土民の落ち武者狩りに遭い、竹槍に刺されて絶命したとも、何とか逃れたものの力尽きて家臣の介錯により自刃したとも伝えられます。

光秀の最後はみじめな結果に終わり、この後秀吉は天下統一への道を進んでいくことになります。
彼の謀反は、今なお原因がよく分かっておらず、日本史においても最もミステりーな出来事といえるでしょう。

今日はその明智光秀が最後に退却した「勝竜寺城」をご紹介します。


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「勝竜寺城」の歴史は、南北朝にさかのぼります。
延元4年(南朝)、暦応2年(北朝、1339年)、京都をうかがう南朝方に対抗するため、北朝方の細川頼春が築いた城と言われてきた様ですが、
資料精査では、山城守護畠山義就が郡代役所として築城したと推定されています。



北朝方の細川頼春が築いたに関しては、『よみがえる日本の城』によると「歴史的根拠はなく、むしろ後に城主となる細川藤孝(幽斎)の正当性を強調するための創作である可能が高い(幽斎は頼春次男頼有の末裔)」としています。


戦国時代末期には淀古城と共に松永久秀、三好三人衆の属城となっていました。

観音寺城の戦いで勝利した織田信長は、足利義昭を奉じて上洛する2日前の永禄11年(1568年)9月26日柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚ら4人の家臣に先陣を命じ、桂川を渡河し三好三人衆の岩成友通が守る勝竜寺城を攻撃させます。

岩成友通は足軽衆を全面に押し立て応戦したが、織田軍は精鋭の馬廻り衆を乗り入れ戦いを有利に進めて首級を50余りあげ、上洛を果たしていた信長の陣所である東福寺へ届けたとされます。

信長は、上洛を果たした翌9月29日に全軍に出陣を命じ、自身が5万兵を率いて勝竜寺城の攻略に向かいます。
畿内の広範囲を勢力下に置いていた三好三人衆でしたが、織田方の大軍を前に降伏開城を余儀なくされます。
これは、三好衆が観音寺城の戦いで近江守護六角義賢・義治父子が織田軍の上洛を防ぐと予想していたが、一日も経たずに観音寺城が落城したことが、少なからず影響したと考えられます。

その後信長は芥川山城、越水城、高屋城を攻城、降伏させていき、三人衆を阿波に追い出し畿内から掃討することになります。
元亀2年(1571年)、細川藤孝が山城西岡一帯を信長より与えられ勝竜寺城主となり、二重の堀を持つ堅固な城に改修したといわれます。

この頃の勝竜寺城槇島城と共に信長の山城の二大前線拠点としての役割を担っていたと思われます。

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(右が本丸楼閣、左が沼田丸の分かれ目になります。)
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(説明版、私の説明が無くても良いですね~!)
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(南門から歴史観です。ボランティアガイドさんがいらして、ご丁寧な説明をしていただきました。)

勝竜寺城は細川忠興・ガラシャ夫妻ゆかりの城としても有名です。
天正6年(1578年)8月、藤孝の嫡男忠興と明智光秀の娘お玉(細川ガラシャ)が勝竜寺城で盛大な結婚式を挙げ、新婚時代を過ごしたとされています。

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(細川忠興、玉夫妻の像が…とても仲が良い夫婦でした。天下分け目の関ケ原で悲しい顛末を迎えるのですが。)
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(細川忠興のちに利久七哲「三斎」を名乗り、細川護熙総理は末裔になります。玉はガラシャの方が有名ですかね。)


細川藤孝は天正9年(1581年)に丹後に入封し、代わって村井貞勝の家臣矢部善七郎、矢部猪子兵助の両名が城主となったが、翌天正10年(1582年)、本能寺の変によって明智光秀の属城となる。
山崎の戦いで敗走した光秀隊退去の後は、翌日に明智軍を破った秀吉が勝竜寺城に入城しました。

日本史最大のミステリーですが今年新たな資料が見つかったのでご紹介いたしましょう。

今年6月、土佐(高知)の戦国大名、長宗我部元親が四国の領有権をめぐり、本能寺の変の直前に織田信長の命令に従う意向を示した手紙が見つかり、本能寺の変の動機解明につながる有力な新史料として大きな注目を集めました(新聞でも大きく扱われましたね)。
所蔵する林原美術館(岡山市)と、共同研究する岡山県立博物館によると、信長は当時、四国攻めの準備を進めており、元親との交渉役を任されていた明智光秀が恭順の意を示した元親との武力衝突を回避するため、本能寺の変を起こしたとする「四国説」を後押しする有力史料と評価されました。
つまり、自分が御膳立てをして、長宗我部元親の恭順を調整したにも関わらず、信長に四国征伐を開始されると、男としての矜持が立たないというところでしょうか。

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