2016/10/22

涙ながらの別居を選んだのか?嫁と畳は新しいに限るのか?『唐王神社』

NEWSが入って来ました!鳥取中部で大きな地震゜゜(´O`)°゜
友人もおりますし、前々日倉吉の神社をUPしたばかりでしたが、

怪我をされた方もおられるようですが、大きな被害やお亡くなりに成ったか方が居られなかった事が不幸中の幸いです。

一日も早く平常の生活に戻れます様にお祈り申し上げますm(__)m

さて、本来の山陰「古事記」のミステリーにもとりましょう。

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ご紹介致しますのは、『唐王神社』です。
御祭神は須勢理毘売命(すせりびめのみこと、須佐之男命の娘で、大国主の正妻)「毒虫・蝮よけの守り神」
正妻である須勢理毘売命が亡くなった地といわれています。

御配神菅原道真命「学問・文化の守り神」

住所は鳥取県西伯郡大山町



唐王例祭日
四月二十五日
虫よけ大祭 
旧八月三日
建造物本殿・幣殿・拝殿・神楽殿
境内坪数220坪
氏子40戸(明治13年に記された社伝には12,300人とあります)

IMG_5616.jpg
(先に謝っておきますが、三年前ブログを書くなんて頭の隅にも無かったので、写真は二枚だけです。)

現在のように医薬が発達していなかった時代、蝮や毒虫は人々の暮らしに危険この上ない存在だったと想像できます。
しかし蝮や毒虫の危険が減るに連れ、往年の参詣者は減り賑わいも無くなっています。
面白いのは、蝮や毒虫の危険が去った時代にはなりましたが、昔ながらの悪い虫が現在では、女性にとっての男性、男性にとっては女性となって信仰されている点です(笑)。

唐王神社も「唐王御前」と呼ばれ崇められ、「まーむしまむし、よーけよけ、唐王御前のお通りだ」は、山の茂みや草むらなどにわけ入る時の唱え言葉があるそうでうです。
現在も害虫毒虫蝮よけの守護神として県内外からの参拝者も多くあり、玉垣内の砂をいただいて、田畑にまけば害虫が去り、家屋敷にまけばささりやむかでが退散するし、又お守を身につけて居るならば蝮の危害をのがれることができるし、更に神社裏奥にあるご神井の水は如何なる旱祓にも涸れたこともなく、蜂にさされた折等いち速くこのご神水をぬれば勿ち治癒するといわれます(現在は整備事業の為水脈が変わり、水は出なくなっています)。
唐王神社のご神徳は、この地方に広くゆきわたっていたようです。
旧8月3日には早朝から参拝者で賑わい、特に地方の名産干瓢(かんぴょう)市が立ち見る間に数百貫の干瓢も売り切れてしまいます。
芸能奉納や名物「どじょう汁」の売店もあります。

<昭和49年 神社案内>

IMG_5618.jpg
(須佐之男の娘で大国主の正妻にしては、本当に小さな神社です。)

御祭神須勢理毘売の父神は、ご気性のはげしい須佐之男命です。
当時賢明で御徳高く信望の厚い大国主命が、須勢理毘売命を妻にと申出のあった際、須佐乃男命は姫の夫をしてふさわしいかどうかを色々な方法で試されたのでした(古事記にお話が載っていますね)。 

最初の試練は、毒蛇の室で一夜を過す命令です。
大国主命が部屋に入られるや否や、大蛇や蝮等毒蛇が数知れず襲いかかって来たのです。
その時すかさず須勢理毘売命は「この比礼を三度打ち払い給え」と申されて、その通りに比礼を振ると毒蛇はみな姿を消して危機を助けられました。
 
その次は、須佐乃男命が頭の虱を取るよう命じます。
実際にはムカデがいたのだが、須勢理毘売命は木の実と赤土を大穴牟遅命に与え、ムカデを噛み潰しているように見せかけるよう仕向け記紀をしのぎます。
(このお話百足と蜂の部屋に寝る話もあるようですね。私が読んだ子供用の古事記は上のお話でした。)

三度目は火ぜめの試練でしたが、その都度須勢理毘売命によって危険をのがれ夫婦となられました。 

  「古事記」には、お二人は杵築の日隅宮(出雲大社)でお暮らしになったと記されております。
ですが唐王は、出雲から二十余里(80km強)も離れております。
それではなぜに別居されたのでしょう?

別居された理由は、次の一節により推察されます。
『日本書紀』の葦原中国平定の場面の第二の一書にのみ登場する。
大己貴神(大国主)が国譲りを決め、幽界に隠れた後、高皇産霊尊(たかみむすひ)が大物主神(大国主の奇魂・和魂)に対し「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八百万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」と申され、大国主命が天津神の一族になるように取り計らいます。
社伝には大国主神がこの扱いに感涙したと有ります。

以上のような経緯により、大国主神には新たに三穂津姫という天津神の女である妃ができたのです。
ですから須勢理比売命は唐王の別墅にお移りになったと想像できます。

唐王(とうのう)という村名は、実に奇妙です。
鳥取県神社誌にありますように、往古殆ど交通網のなかった頃は、海の向こうや遠方の国はみな加羅と称していたそうです(ちょっと説明に無理があるような気がしますが)。
ですから夜見の国から船で来られた須勢理比売命を、唐の王と称してきました。
それが村名になったとのことです。

尚、須勢理比売命は海辺の近くの国信辺りにお着きになったが、波の音が近すぎると末吉へお移りになりました。
しかしそこも音が近く末長へお移りになった。
そこでもまだ音が近いと唐王へお移りになったとの言い伝えもあります。
政略結婚!三度も引っ越した須勢理比売命、それに付き合った大国主、二人の愛情はやはり本物だったのではないでしょうか?


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