2016/09/24

国分寺サミット企画する?出雲国『国分寺』を紹介します。

今回ご紹介するのは『出雲国分寺址』です。
出雲の国分寺は意宇平野(おうへいや)の北東(松江市竹矢町)にあり、史跡公園として保存されています。『出雲国風土記』には登場しませんが、出雲の代表的な古代寺院跡です。

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(本当に良く残っています。人々の信仰心の高さかな?)




「風土記」が書かれた6年後の奈良時代、天平13年(741年)、 聖武天皇が全国の国ごとに「国分寺」と「国分尼寺」を建てるように命じました(つまり官営の寺です。)、出雲国分寺は750年代に完成しました。
昭和和30年から31年、および昭和45年から46年にかけての2回、国分寺跡の発掘調査が行われました。
水田の下から南門・中門・金堂・講堂・僧坊・回廊・塔などの跡が発見され、これらの伽藍が南北一直線に並ぶ「東大寺式」の配置だったことが確認されました。

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(島根県は宣伝が上手ですね~笑)
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(南門址)
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(礎石の配列もぴったりです。)

出雲国分寺跡は建物の下の土壇(基壇)がよく残っており、柱が据えられていた礎石(そせき)が復元されて並べられています。

南から南門、中門、金堂(こんどう−仏像が安置された仏殿)、講堂(法会が行われた場所)、僧房(僧が住んだ場所)が一直線になるよう配置され、中門の東南に塔が建てられていました。

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(ちょっと写真がわかりにくいですよね。)
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(島根県のHP~原本?お借りしました。)
kokuato[1]
(一直線に国府方面です。)

現在は塔の東側までしか公園となっていませんが、本来は218m四方(方二町)の規模があったと推定されています。
聖武天皇は国分寺とともに国分尼寺も建てるよう命令しました(セットなんですね、国分寺は東大寺の管轄、国分尼寺は法華寺の管轄です)。
出雲国分尼寺は国分寺の東約400mにあったと考えられますが、民家が密集しておりはっきりしていません。

真っ直ぐに伸びる道を「天平古道」と呼び、は当時の出雲国府に繋がっていたと思われます(勿論アスファルトの路では無くて地下1.5メートルに在る石だたみです)。

国分寺および国分尼寺の建立に寄与したとという功績で昇進したと思われる出雲国司の名前わかっています。
蘇我氏の流れをくむ奈良時代の律令官僚出雲守従五位下、石川朝臣年足(いしかわのあそんとしたり)です。

ちなみに、手前味噌なのですが、私の実家の但馬にも国分寺と国分尼寺は有ります。
先日大きな発見が在りましたので、ご紹介いたします。

兵庫県豊岡市日高町の但馬(たじま)国分寺跡(国史跡)で、金堂などの主要な建物を結んだ回廊とは別の、新たな回廊跡が見つかりました。
市教育委員会が二月に発表、全国にある国分寺跡で主要伽藍(がらん)以外の回廊跡が確認されたのは初めてです。
何らかの重要施設(「院」の墨書銘土器の出土から「大衆院跡」と推定する説が在ります。)があるがあった可能性が高いとみて、回廊跡内を今後調べことに成りました。

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