2016/08/08

出雲人の矜持にかけて!国引き神話の終点「意宇の杜」

今回ご紹介するのは「小さな林」なんですがこの林に出雲国人の矜持がかかっているというお話です。

奈良時代の初め、中央政府から各国に対して、一つの命令書が下されました。
「郡内の特産物や土地の肥沃状態、山川原野の地名の由来、古老が相伝している伝承などを記録して報告せよ」、というものです。
後世、『風土記』撰進の命と称されるもので、この命令が下されたのは和銅6年(713) 太安万侶が『古事記』を撰上した翌年のことです。
それから20年後の天平5年(733)、出雲の地誌を記録した報告書が出雲の国から大和中央政府に提出されます。
この報告書が、後に『出雲風土記』と呼ばれるようになる地誌でした。

以前にもお話ししましたように、『風土記』として残っているのは、 写本として5つが現存し、『出雲国風土記』がほぼ完本、『播磨国風土記』『肥前国風土記』『常陸国風土記』『豊後国風土記』が一部欠損して残っているのみです。

その出雲国風土記中の意宇郡(おうのこおり)の記述に、有名な「国引き神話」があります。
記紀神話の伊邪那岐と伊邪那美の二神が島に天下って国生みする話はよく知られています。
奈良時代の初め頃の出雲では、中央政府が編纂した「国生み神話」よりも「国引き神話」が広く知れわたっていました。

「国引き神話」は、八束水臣津野命(ヤツカミズオミツヌノミコト)という名前の巨人神を主人公にしています。
誕生して間もない出雲が、幅の狭い布のように小さい国なのを見て、この神は他の国の余っている土地を引いてきて縫い足すことにします。
最初に目をつけたのが朝鮮半島にある新羅の三埼(みさき)でした(実際には、その頃には新羅はまだ建国されていません。新羅建国は紀元前57年で皇紀の神武天皇以前の神話とすると、まだということです。)。

新羅の三埼に土地が余っているのを知ると、八束水臣津野命は乙女の広い胸のような鋤で大きな魚のエラを突き刺すように土地を分け取ります。
そして大綱をかけて、河船を引くように「土地よ来い、土地よ来い」とゆっくりと引っ張ってきて縫い合わせました。その場所が島根半島西部の去豆(こず)の折絶(おりたえ)から支豆支(きずき)の御崎にかけての地域であるといわれます。
このとき国引きに用いた綱が薗長浜(そのながはま)で、それをつなぎ止めた杭が佐比売山(三瓶山)とされています。

次いで、出雲にとって北の門にあたる佐伎(さき)国、さらにもう一カ所、良波国を同様に引いてきて縫い合わせた。その場所が多久(たく)の折絶から狭田(さだ)国、および宇波の折絶から闇見(くらみ)国です。
最後に、高志(こし)の都都(つつ、能登半島の珠洲?)から余った土地を引いてきて縫いつけました。
これが美保崎(みほのさき)であり、その際に使った綱が夜見島(弓ヶ浜)で、綱をつなぎ止めた杭が火神岳(大山)でした。

Shimane_Peninsula_Relief_Map,_SRTM-1
(確かに四つに分かれている様に見えますね。)


こうして国引きを終えた神は、「意宇の杜」に杖を突き立てて「おぇ(終えるとも考えられますね)」と言われた。それで現在の郡が「意宇郡」と呼ばれるようになったといわれます。
まるで語呂合わせのような苦しい地名起源伝承ですね。
しかしながら、意宇という地名の由来を説明するために、『出雲風土記』は国引き神話を長々と引用しています。
私も出雲観光協会の文章を引用させて頂きました~ありがとうございました。

「出雲国風土記」の冒頭に語られるこの国引き神話は、数ある出雲神話の中でも特にスケールが大きく、まさしく神の御業と呼べる内容の物語です。
それ故に全くの作り話と解釈してしまいそうですが意外にもそうとは言えません。
その理由の一つとして、神話に出てくる舞台が、現在の地形や地名と合致する点にあります。

この話の舞台となる出雲地方を地図で確認すると、宍道湖・中海の南側に出雲国本土があり、北側には東西に細長い島根半島があり、この島根半島が四つの大きな地域に分かれていることに気づきます。

この地域こそが八束水臣津野命が「国来、国来(くにこ、くにこ)」と引き寄せた土地であり、杭に見立てた大山や三瓶、綱と見立てた薗の長浜や夜見の島など、その位置関係など神話の内容とぴたり一致するところがびっくりだと思われませんか?。

縄文時代、島根半島の部分は海であったとする説もあり、現在の地形が自然現象で出来上がったものだとしても、これを出雲創世の神の御業とした古代出雲人の豪快な発想力には、驚かされますね。

長々と読んでいただきありがとうございました。

ご紹介するのは、八束水臣津野命が杖を最後に突き立てて「おぇ」と叫んだ 「意宇の杜」です。
周りは意宇六社の神社もあり国府、国分寺跡もあるまさに古代の出雲の都です。


CIMG2377.jpg
(こんなに小さな杜です。私の小さな軽自動車と比べても小さい!)

CIMG2376.jpg(タブの木?桜も交じってどれ~て感じですが、伝承というのは凄いですね!)

CIMG2380.jpg
(ロケーション最高です。大山があんなに綺麗に見えています。いつもは山頂に雲がかかっているのに、正に神話の山ですね。)

CIMG2374.jpg
(田んぼの中で地図で場所の説明が出来ませんでしたm(__)m。左の橋脚は山陰道で更に左に国分寺、真名井神社が在ります。カメラマンの後ろ側は出雲国府跡です。)

出雲国国司は出雲国庁に出雲国造の出雲臣果安(いずもおみはたやす)を招き、出雲国風土記の編纂を委嘱します。
733年(天平5年)になって、出雲国造の出雲臣広島の監修のもと、秋鹿郡(あいかのこおり)の人、神宅臣金太理(かんやけのおみかなたり)の手によって出雲国風土記は編纂されました。

「記紀」の国譲りで、高天原(和国)意向に取り込まれてしまった出雲国ですが「出雲風土記」には出雲国の反骨精神がみてとれます。

小さな林ですが「古事記」編纂時には入らなかった出雲の神話を「風土記」の冒頭に記載した神宅臣金太理の「中央政府の思い通りにはならないぞ」という矜持を感じるのは私だけではないはずです。

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コメント

非公開コメント

No title

毎日、暑い日が続いてますね〜…。、

エアコンの無い室内での熱中症対策として
制汗スプレーと扇風機を併用して頑張ってますw

それにしても小さな杜ですね…!
このサイズは初めて見たかもしれません。

歴史の事は何のこっちゃサッパリですけど(おいw)
周りに見える田舎の風景、やっぱりいいですね〜。

大山の写真も確かにロケーション最高!

taka:aさんコメントを頂きありがとうございます。

taka;aさんいつもありがとうね~(笑)
> エアコンの無い室内での熱中症対策として
> 制汗スプレーと扇風機を併用して頑張ってますw
> 大山の写真も確かにロケーション最高!

但馬のそれも豊岡でエアコン無しは自殺行為だと思いますけど!
体調にはきをつけてね。

近頃山登りしてないな~どこか行きたいですね。
現実逃避にね~(笑)