2016/08/02

「羽柴秀吉」天下取りの野望を決意す!『備中高松城跡』を訪ねて。

やはり男は戦国乱世ですよね~(笑)
水攻めで有名な、備中高松城の戦いを検証してみますか?

勿論今回ご紹介するのは「備中高松城跡」です!

CIMG2675.jpg
(高松城址水攻めの築堤跡は近辺ですよね。)

天正10年(1582年)織田信長の命を受けた家臣の羽柴秀吉が毛利氏配下の清水宗治の守備する備中国高松城を攻略した戦いです。
秀吉は高松城を水攻めによって包囲したことから、「高松城の水攻め」とも呼ばれます。

播磨(三木城)陥落、但馬征伐と因幡(鳥取県)鳥取城陥落によって織田軍と毛利軍の最前線は備前と備中の境ここ高松城と成ります。



水攻めの最中に主君である織田信長が明智光秀に討たれる本能寺の変が起きます。その報告を聞いた秀吉はただちに毛利方と和睦を結び、城主清水宗治の切腹を見届けた後、明智光秀を討つために軍を姫路へ引き返します。
これが世に言う「秀吉の中国大返し」です。

【備中の時代背景を少し説明しましょう】
戦国時代の備中は守護の細川氏が衰退した後、国人領主が割拠する状態にありました。
その中でも台頭していたのは三村氏でした。三村家親は、出雲尼子氏に代わって中国地方の覇者となった安芸毛利氏に接近し勢力を備前、美作に広げたものの、備前浦上氏の傘下の宇喜多直家により家親が暗殺され、つづく明善寺合戦において三村氏は敗退、その勢力は衰えます。
後に宇喜田直家と結んだ毛利氏により三村氏は滅ぼされ(備中兵乱)、その傘下であった城主の多くは毛利氏を頼ります。清水宗治もその一人でした。

一方で畿内においては織田信長が上洛を果たし、反対勢力(信長包囲網)の一部を滅ぼし、将軍足利義昭を追放し(室町幕府の滅亡)、天下統一をおしすすめていました。毛利氏と信長とは、毛利元就の代においては友好的な関係でしたが、その後継の毛利輝元は足利義昭を庇護し、さらに最大の反信長勢力である石山本願寺と同盟、信長への敵対態度を強めていきます。
信長にとって石山本願寺を滅ぼすためにはその背後の毛利氏を屈服させる必要があったため、1578年、家臣の羽柴秀吉を総大将とする中国地方への侵攻戦(中国攻め)を開始します。

この後のところ、とても長いので、以前UPした、三木城の干殺し戦と、竹中半兵衛の墓の所で復習して頂けましたら有難いです。

再び播磨を平定した秀吉は但馬、因幡に進出し、山名豊国らを降参させ、山名氏の反織田氏勢力と結んだ毛利氏の吉川経家を鳥取城の戦いにおいて破り、弟の秀長や宮部継潤に命じ山陰地方への侵攻を進めさせました(但馬征伐!但馬人としては複雑な思いがします~)。

宇喜多直家は当初は毛利氏の傘下として行動し、織田寄りであった主君の浦上宗景を追放して下剋上を果たしていましたが、織田信長と秀吉の力を知ると毛利氏を見限り、秀吉に降参を申し入れます。
直家は天正9年(1581年)に病没し、子の宇喜多秀家が跡を継ぎ、備前もまた秀吉の傘下におさまります。備中高松城の戦いはこのように秀吉(織田氏)が優位を築いた状況において始まります。
少し時代背景がご理解頂けましたか?

【もう一つ雑学!城の水攻め。】
水攻めという戦闘は世界的に見ても非常に珍しいものです。確認されている水攻めによる攻城戦は世界で五例しかないといわれています。オランダで一例、中国で一例、そして日本で三例で、成功したのはこの備中高松城だけです。
「のぼうの城」で有名な、忍城攻略戦も失敗に終わっています。

【清水宗治の最後】
さて本題に戻って、城内では水攻めという奇想天外な戦法に動揺し、物資の補給路を断たれて兵糧米が少なくなったことと、毛利氏の援軍が来ないことも相まって兵の士気は低下、城内まで浸水したため、城兵は小舟で連絡を取りあったといわれます。毛利輝元は、5月21日になって猿掛城に輝元の本陣を置き、高松城に近い岩崎山(庚申山)に吉川元春、その南方の日差山に小早川隆景が着陣します。しかし、既に堤防は完成しており、秀吉の築いた湖を前にして身動きがつかず、さらに信長の援軍が送られてくるとの情報から、秀吉との講和を決意しました。

CIMG2664.jpg(こんな感じで眺めていたのですかね~?)
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(おおむね北東側に布陣しているのが秀吉軍南西側が毛利軍です。)
CIMG2670.jpg(本丸!先に謝っておきますが、梅雨明け宣言日車のエアコンがつぶれて意識もうろう、大事な宗治胴塚と自刃の地は写真が在りません)
CIMG2673.jpg(後ろに見える方角が東側で秀吉本陣方角です。)

毛利方は軍僧の安国寺恵瓊黒田孝高(官兵衛)のもとに派遣し、「五国(備中・備後・美作・伯耆・出雲)割譲と城兵の生命保全」の条件で和議を提示します。しかし、秀吉はこれを拒否して「五国割譲と城主清水宗治の切腹」を要求したため、交渉は決裂します。
毛利方は清水宗治に対して救援の不可能なことと、秀吉に降伏するべきという旨を伝えますが、宗治は自分の命を城とともにしたいとしてこれを拒否、毛利方は安国寺恵瓊を高松城に送り込んで説得を試みますが、宗治は主家である毛利家と城内の兵の命が助かるなら自分の首はいとも安いと述べ、自らと兄である月清と弟の難波宗忠、末近左衛門の4人の首を差し出す代わりに籠城者の命を助けるようにという嘆願書を書き、安国寺恵瓊に託します。

ちょうどこの時(6月3日夜)、秀吉方は明智光秀から毛利方に送られた使者を捕らえ、信長が明智光秀の謀反によって京都の本能寺で落命した(本能寺の変)という密書を手にしたといわれます
秀吉はすぐに黒田孝高と合議し、一刻も早く毛利と和睦して明智光秀を討つべく上洛する方針を固めます。

秀吉方は信長落命によって秀吉が後ろ盾を失った状態であることを毛利方に知られないように徹底的に信長落命の事実を隠匿します。
翌6月4日に秀吉は安国寺恵瓊を呼び、和議の条件を先の5か国から、備中・美作・伯耆の3か国に譲歩し、清水宗治自刃を和睦条件として提示します。
毛利方はやむなくこの条件を受け入れ、ここに和睦が成立します。

清水宗治は秀吉から贈られた酒と肴で別れの宴を行い、城内の清掃などを家臣に命じ、身なりを整えた。その後、宗治ら4人は秀吉から差し向けられた小舟に乗って秀吉の本陣まで漕ぎ、杯を交わしたとされます。
そして舞「誓願寺」を踊った後「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」という辞世の句をしたため、自害します。
他3人も次々と自害を遂げ、4人の介錯を行った國府市正も自刃します。
秀吉は宗治を武士の鑑として賞賛しました。

CIMG2666.jpg(本丸の宗治首塚です。)
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(辞世の句碑)
CIMG2672.jpg(浪漫を感じますね~宗治も眺めたはずですね。)


本能寺の変を伝える報せが毛利方に届いたのは、宗治の切腹直後である6月4日の夕刻とされる。元春は秀吉軍の追撃を主張したが、隆景は和睦を遵守すべきと反対したため、交戦にはいたりませんでした。
秀吉は、毛利軍の出方を一日見極めた上で、6日の昼過ぎに京に向けて山陽道を東へ移動を開始します。
この移動「中国大返し」こそ秀吉の天下人を意識した最初の一歩と言えるでしょう。

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