2016/07/24

尼子氏、毛利元就の知略の前に破れ去る!『月山富田城』

あまり、古代史ばかりUPしていると、「お前は本当に日本史好きなのか~」と思われそうなので、今回はやはり「男ならは戦国時代でしょう」ということで『月山富田城』を紹介します。

ここで、私のブログスタンスとして、見た物・行った場所・食べた物等私の五感で感じたこと以外は書きませんので、関西から距離がある方は気長にお待ちください(汗)。

月山富田城(がっさんとだじょう)は、島根県安来市広瀬町富田の月山(標高197m)所在した城です。
戦国時代のに山陰の覇者尼子氏が本拠を構え、170年間の尼子氏六代の盛衰の舞台となりました。
1934年(昭和9年)、城郭跡は国の史跡に指定されています。

CIMG2562.jpg(看板のすぐ隣は広瀬絣伝承館です。戦国フアンには?ですよね、笑)
CIMG2563.jpg(模型の説明版です。模型は大きすぎて全体を写せない!)
CIMG2565.jpg(良く見えませんが、歴代城主です。)
CIMG2564.jpg
(模型重要なところだけ写しています。)

歴代の出雲国守護職の居城1396年から1566年(戦国時代)には大名尼子氏の本拠地となり以後尼子氏とともに山陰の要衝の地となりました。
尼子氏は中国地方の覇権を巡って周辺諸国と争い尼子経久の時期に出雲に基盤を造り上げ、嫡孫尼子晴久の代には山陰・山陽八ヶ国守護の大大名となります。
天然の地形を利用した、最も難攻不落の要塞城といわれ「天空の城(近頃よく聞きますね~)」とも呼ばれていたそうです。その後、城を巡っても度々攻防戦が行われましたが、最終的に尼子氏は毛利氏によって滅ぼされ、城も毛利領となりました。

1600年(慶長5年)以降、堀尾氏が城主となりますが、1611年(慶長16年)、堀尾忠晴が松江城に移り廃城となっています。

毛利氏と尼子氏による月山富田城での実質的な最後の戦い「第二次月山富田城攻め」についてお話ししましょう。

永禄8年(1565年)春、毛利軍は月山富田城を包囲し兵糧攻めが始ます。この時、飯梨川を挟んで対峙していた両軍の中で、山中幸盛(鹿介)品川将員(狼介)を一騎打ちで討ち取ったとされています。

しかし、毛利軍は力攻めを行わずに兵糧攻めを続けたため、やがて城内の兵糧が窮迫してしまいました。その頃には投降者も出始めていたが、毛利軍は城兵の降伏を一切認めず、投降した者は処刑してしまいます。こうすることで、孤立した城内に多くの兵が籠もることになり、補給のない中で城の兵糧を食い尽くさせる作戦ででした(ひどい・汚いといえなくもないですが、毛利元就らしい知略ですね)。

一方の尼子側は、宇山久兼が私財をなげうって購入した兵糧を密かに間道から月山富田城に運び入れつつ、奮闘を続けていましたが、尼子義久が讒言を信じて宇山久兼を殺してしまうという一件があり、士気が一気に下がってしまいます。

やがて、冬になり兵糧が底をつき始めたところで降伏を認める高札を立てたため、尼子方の籠城兵が集団で投降するようになりました。さらには、尼子氏の譜代の家臣までも投降を始めたと言われています。

永禄9年(1566年)11月21日尼子氏は降伏。毛利側は義久ら尼子一族の生命を保証し、28日に城を出た義久らは安芸国に引き取られ幽閉されました。なお、和睦の交渉をしている間も逃亡兵が続出したため、開城時の城兵は僅か300余名だったとされます。

CIMG2557.jpg(ブルーシート!いやな予感、天守遠景です。)
CIMG2566.jpg(やっぱり整備工事で城跡に入れません。七曲りから天守通路の整備のようです。)
CIMG1640.jpg
(こんな時こそ前回の訪問が役立ちます。)
CIMG1639.jpg(確かに整備の必要有です。説明版もボロボロに。)
CIMG1638.jpg(広い平地が山中御殿?ですか。石段が七曲りですね?)
CIMG1637.jpg(天守へ向かうようですが、前回もここまででした。)

この戦いは「第二次月山富田城攻め」として有名ですが、基本的に戦術面の勝利と言えますね。毛利元就はこの尼子氏との戦いに勝つための戦略も駆使している処が、「KOEI」の『信長の野望』のシュミレーションゲームの中で毛利元就が知略値100を誇る所以だと思うのでそちらも少し…。

『新宮党の粛清は毛利元就の策略?』

新宮党という名称で呼ばれるようになったのは、尼子国久の頃とされますが、それ以前より尼子氏一門による親衛隊的な役割を持つ精鋭集団が組織されていました。この集団は尼子氏の勢力伸長に貢献し、出雲国内から安芸国・備後国等を転戦します。天文10年(1540年)の吉田郡山城の戦いにおいて、この組織の実質上の指導者であった尼子久幸が討死してしまいます。
新宮党は尼子経久の次男尼子国久が継承し、引き続き尼子一門の先兵として活躍します。

天文23年11月1日(1554年11月25日)、晴久は家中の統一を図るため、国久、誠久親子ら新宮党幹部を粛清しました。
国久は登城途中で暗殺され、誠久は新宮党館内にて自害します。その一族も自害もしくは逃亡して、新宮党は壊滅しました。
尼子晴久は尼子氏久に新宮党を率いさせたが、この粛清によって多くの精鋭が失われてしまいます。

「陰徳太平記」によれば、国久、誠久親子の粛清には、その強さを恐れた毛利元就の謀略が働いたと言われています。
現在は晴久の独断による粛清説が有力に成りつつあるようですが。
「陰徳太平記」の記述が事実ならば、元就の戦略恐るべしですね~!

ちなみに山中幸盛(優れた武勇の持ち主で「山陰の麒麟児」の異名を取る。尼子十勇士の筆頭にして、尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話で有名、山中鹿助の呼び名が有名?。)が尼子再興を託して担いだのは、この新宮党尼子誠久の遺児・勝久だったのも因縁を感じますね~!
山中鹿助さん戦国武将の中でもトップ10に入る大好きな武将です。

歴史って本当に面白いですね。

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