2016/06/26

三十三観音霊場中興の祖、哀愁の天子『花山天皇』

三十三観音霊場番外「花山院菩提寺」を紹介する前に、『花山天皇』のお話を少ししておきましょう。

安和2年(969年)、叔父「円融天皇」の即位と共に皇太子になり、永観2年(984年)、同帝の譲位を受けて即位。生後10ヶ月足らずで立太子したのは、摂政であった外祖父伊尹の威光によるものだと考えられますが、17歳で即位時には既に伊尹は亡くなっており、有力な外戚をもたなかったことが、2年足らずの在位という結果を招いたと考えられます。

関白には先代に引き続いて藤原頼忠が着任しましたが、実権を握ったのは、帝の外舅義懐と乳母子藤原惟成でした。
義懐と惟成は荘園整理令の発布、貨幣流通の活性化など革新的な政治を行いましたが、ほどなくして天皇が退位したのに殉じて遁世します。

さて「哀愁の天子」と書いたのは悲しい裏切りに合われて帝を退位されたからです。
寛和2年(986年)6月22日、19歳で宮中を出て、剃髪して仏門に入り退位されます。
突然の出家について、『栄花物語』『大鏡』などは寵愛した女御藤原忯子が妊娠中に死亡したことが原因とされていますが、『大鏡』ではさらに、藤原兼家が、外孫の懐仁親王(一条天皇)を即位させるために陰謀を巡らしたことを伝えています(このころの宮中のドロドロは痛々しいですね~)。

蔵人として仕えていた兼家の三男道兼は、悲しみにくれる天皇と一緒に出家すると唆し、内裏から華頂山元慶寺(花山寺、三十三観音霊場番外)に連れ出そうとします。


(花山寺、三十三観音霊場番外)

このとき邪魔が入らぬように鴨川の堤から警護したのが兼家の命を受けた清和源氏の源満仲とその郎党たちである。
天皇は「月が明るく出家するのが恥ずかしいなぁ。」と言って出発を躊躇うが、その時に雲が月を隠し、天皇は「やはり今日出家する運命であったのだ。」と自身を諭したとされます。
しかし内裏を出る直前にかつて妻から貰った手紙が自室に残したままであることを思いだし、取りに帰ろうとしますが、出家を極秘に行いたかった兼家が嘘泣きをし、結局そのまま天皇は内裏から出られます。

余談ですが、安倍晴明の屋敷の前を通ったとき、中から「帝が退位なさるとの天変があった。もうすでに…式神一人、内裏へ参れ」と言う声が聞こえ、目に見えないものが晴明の家の戸を開けて出てきて一行を目撃し「たったいま当の天皇が家の前を通り過ぎていきました」と答えたとあります。

元慶寺へ着き、天皇落飾すると、道兼は親の兼家に事情を説明してくると寺を抜け出してそのまま逃げてしまい、天皇は欺かれたことを知ります。

内裏から行方不明になった天皇を捜し回った義懐と惟成は元慶寺で天皇を見つけ、そこでともども出家したと伝えられます。この事件は「寛和の変」とも称されています。


「西国三十三カ所観音霊場巡りの由来」
養老2年(718年)、大和国長谷寺の開山「徳道上人」が病にて仮死状態になられた際、冥土で閻魔大王に会い、「生前の悪い行いによって地獄へ送られるものが多い故、観音の霊場へ参ることにより功徳が得られるよう、人々に観音菩薩の慈悲の心を説け」とのお告げを受け、起請文と三十三の宝印を授かって現世に戻され、その証拠でもって人々に観音信仰、及びその霊場へ参ることをすすめられました。
徳道上人が極楽往生の通行証となる宝印をお配りになったという場所は、観音菩薩が衆生を救うために示現された霊験所や寺院でした。
上人と弟子たちはこの三十三所巡礼を人々に説きましたが、世間の信用が得られずあまり普及しなかったため、機が熟すのを待つこととし、閻魔大王から授かった宝印を摂津国の中山寺の「石の唐戸」の中に納めました。
そして月日がたち、徳道は隠居所の法起院で80歳で示寂し、三十三所巡礼は忘れ去られていきます。



徳道上人が中山寺に宝印を納めてから約270年後、花山法皇(安和元年〈968年〉 - 寛弘5年〈1008年〉)が紀州国の那智山で参籠していた折、熊野権現が姿を現し、徳道上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を授けます。

中山寺古墳1
(兵庫県宝塚市中山寺の古墳。おじさんの影が~!)
中山寺古墳2
(石の唐戸?三十三の宝印が封印さていたの?)

花山法皇は、988年(永延2年)観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった摂津国の中山寺(兵庫県宝塚市)で宝印を探し出し、播磨国書写山圓教寺の性空上人の勧めにより、河内国石川寺(叡福寺)の仏眼上人を先達として紀伊国熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し修行に勤め、大きな法力を身につけたといわれます。

このことにより、やがて観音霊場を巡る西国三十三所という信仰となり、西国三十三所は日本最古にして、巡礼の元祖となりました。
この花山法皇の観音巡礼が西国三十三所巡礼として現在でも継承されており、各霊場で詠んだ御製の和歌が御詠歌となっています。

花山法皇は、寛弘5年(1008年)2月花山院の東対にて崩御、紙屋上陵(現在の京都市北区衣笠北高橋町)に葬られています。

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こんにちは。いつもお世話になっております。
古文の授業の「大鏡」で花山天皇の出家のお話を習った時に、何てお気の毒な天皇なのかしらっと、藤原君にぷんぷんしました。
西国巡りを始めてから、花山天皇のお名前に出会って、あれ?あれ?と不思議で。受験勉強だからつまらなかったけれど、改めて知ると興味深いことが多いですね。

おじさんの影は、おでこをつまんでおいでなのでしょうか?指の形が色っぽくておいでです~(くすくす)。

つねまるさんいつもありがとうございます。

> こんにちは。いつもお世話になっております。
> 古文の授業の「大鏡」で花山天皇の出家のお話を習った時に、何てお気の毒な天皇なのかしらっと、藤原君にぷんぷんしました。
> 西国巡りを始めてから、花山天皇のお名前に出会って、あれ?あれ?と不思議で。受験勉強だからつまらなかったけれど、改めて知ると興味深いことが多いですね。

本当ですよね~理系なので古文が嫌いでした~今なら違うかもです。

> おじさんの影は、おでこをつまんでおいでなのでしょうか?指の形が色っぽくておいでです~(くすくす)。

あんなに映り込んでいたとは、つねまるさんは画像の加工がお上手ですよね~私も勉強します