2016/05/17

「船上山勝利の立役者名和長年」を祀る『名和神社』

『名和神社』は、鳥取県西伯郡大山町(旧名和町)にある神社で、「名和長年」を祭ります。

名和長年は鎌倉時代末に隠岐国から脱出した後醍醐天皇を迎えて倒幕に功があり、最後迄後醍醐天皇の御側で戦った武将です。



旧社格は別格官幣社。

建武中興十五社の一社です。
社紋は、名和氏の家紋の帆懸船です。

名和長年を主祭神とし、名和一族以下42名を合祀します。

1331年(元弘元年)の元弘の乱で鎌倉幕府の討幕計画が露見し捕縛されて隠岐島に流罪となっていた後醍醐天皇が、1333年(元弘3年、正慶2年)閏2月、名和長年を頼って隠岐島を脱出し、伯耆国の船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発しました(船上山の戦い)。

幕府は船上山を討つため足利高氏名越高家らの援兵を送り込みます。しかし、4月27日には名越高家が赤松円心に討たれ、足利高氏(尊氏)は所領のあった丹波国篠村八幡宮で幕府へ反旗を翻します。
5月7日、足利高氏は佐々木道誉や赤松則村らと呼応して六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧しました。北条仲時、北条時益ら六波羅探題の一族郎党は東国へ逃れようとするが、5月9日、近江国の番場蓮華寺で自刃し、光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇は捕らえられることになります。

これに勝利した名和長年は後醍醐天皇により伯耆守に任じられます。また、後醍醐天皇の帰洛の際の護衛も務めています。
船上山に天皇を迎えて討幕活動に参画するまでのくだりは『太平記』『梅松論』に詳細に記載されている。

幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された『建武の新政』において、河内国の豪族、楠木正成らとともに天皇近侍の武士となり、記録所や武者所、恩賞方や雑訴決断所などの役人を務め、帆掛け船の家紋を与えられました。

また、京都の左京の市司である東市正にも任じられました。これは名和氏の商業者的性格を重んじての人事と考えられています。この役職は代々中原氏が世襲してきたが、後醍醐天皇は強引にこのポストに長年を組み込みます。
自分の手足となって動いてくれる長年をこの役職に就任させることで、京都の商業・工業を直接掌握しようとしたと考えられます。

建武2年(1335年)に西園寺公宗が北条氏の残党と組んで新政を転覆しようとした謀略が発覚して逮捕されると、公宗を出雲国へ流刑する途中に謀って処刑しています。
また、討幕運動において京都の六波羅探題を滅ぼした足利尊氏と対立し、後醍醐天皇とも確執があった護良親王を結城親光とともに捕縛するなど、後醍醐天皇の先兵として活躍しています。

名和神社1(綺麗な神社です)
名和神社2(駐車場もしっかりあります)
名和神社3(参道、朝早くて?人影なし)
名和神社4(門の向こうにブルーシイト?)
名和神社5(拝殿の屋根の修理中でした。社務所にも誰もおられません)

足利尊氏が中先代の乱の討伐を契機に建武政権から離脱すると、楠正成、新田義貞らと共に宮方として足利尊氏と戦いますが、延元元年(建武3年、1336年)の湊川の戦いの後に京都に入った足利尊氏に敗れ討死しました。
討死にした場所については、『太平記』には京都大宮、『梅松論』には三条猪熊とされています。

後醍醐天皇の京都脱出以後奈良吉野へ移られたことを以て「南北朝時代」が始まります。

長年の死を以って、後醍醐天皇の恩寵を受け栄達した「三木一草」( 三木一草は、後醍醐天皇の建武政権下で寵遇を受けた4人の寵臣の呼称。楠木正成、結城親光、名和長年、千種忠顕をあわせて呼ぶ。 名称の由来は、楠木は「クスノキ」、結城は「ユウキ」、名和は伯耆守であったことから「ホウキ」、千種は「チグサ」と4人の姓や官職名に因みます。 )は悉く果てました。

『歯長寺縁起』は長年の戦死を「南朝の盛運が傾く凶兆である」と記しており、その通り廷臣を相次いで喪った南朝は劣勢に追いやられてゆくことになります。

名和氏1(神社の近くに名和一族の墓所がありました)
名和氏「2
(左から長年、義高、高光ですか?)

今回の伯耆国の旅は終わりです。時代的には、楠正成の「神戸湊川神社」をまたの機会にご紹介します。

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