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2018/06/28

「大国主神」こと「大穴牟遅神(おおなむぢ)」に、ご挨拶『出雲大社』にお詣りするvol①

さぁ!拝殿です。出雲大社も、まとめに入らせて頂きます。月曜日は一月ぶりの馬肉会!素敵な出会いが有りましたので、プロローグでご紹介します。



【プロローグ】素敵な出会いに乾杯



月曜日は1月に一度の恒例の馬肉会でしたが先月と今月は、ブログ仲間の参加もゲストもおらず、「こんなまったりもいいね」とtaka:aさんとさしつさされつな感じで、美味しい料理に舌鼓を打っていました。

前日ワールドカップの日本vsセネガル戦があったせいかも分かりませんが、自宅で鑑賞をされた方々の鬱憤が溜まっていたのか?月曜日にも関わらず、あれよあれよという間に満席になってしまいました。

私たちも、副店長や店員のお姉さんをからかいながら、ちびりちびりと飲んでいたのですが、カウンターの隣に座られた、素敵なミドルの木村暢義・るい子夫妻と意気投合し、楽しくお話をさせていただきました。

木村さんは九州長崎は諫早(海水の塞き止めの件で有名ですよね)で四社を切り盛りする社長さんで、奥様は副社長として支えておられます。

今回の神戸は、暢義さんの肝臓癌の治療のため2週間にわたって入院治療されるとのこと、暢義さんには若い頃の武勇伝や苦労話・長崎話などをして頂き、大盛り上がりで楽しいひと時を過ごすことができました。

「長崎に遊びに来ないかね?」とお誘いを受け、taka:aさんと二人で「ほんまに行くで」ええよ「うまいもん食わしたるわ」と長年の友人のようにお話させて頂きました。

お二方が先に店を出られる時には、馬肉会恒例となったハグ大会で別れを惜しみました。元気になってくださいね~。長崎、本場九州に馬肉会開催しに行くかい?長崎で開催するぞ~~!

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(ショッキングな写真は1953年5月27日の火に包まれる出雲大社拝殿!拝殿は新しいので、重要文化財ではありません。)

何時もと又違った、楽しい一日を過ごした後ですが、素敵な出会いのお話の後は、ジョギングな写真と共に、出雲大社拝殿をご紹介します(ご夫妻の笑顔は下でご覧下さい。)。

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(木村さんご夫妻。素敵ですね~ワラ)
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(お二人も仲良く餅つきが出来ますように…)

出雲大社の神紋「花剣菱」



出雲大社の神紋「花剣菱」と出雲発祥の地、意宇六社の神紋について少しお話させて頂きます。

「出雲大社」の神紋は、現在『二重亀甲に剣花菱』で「揖夜神社」「八重樫神社」がそうです。

一方出雲大社の以前の神紋は二重亀甲に「有」の文字でした。有をばらすと、十と月ですよね!つまり十月、出雲で旧暦十月といえば、神在月、正に神々が居られる場所と言うわけです。

この社紋を使っているのは、意宇六社では「神魂神社」「真名井神社」「六所神社」です。

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(意宇六社の一社、真名井神社の狛犬は、出雲型狛犬の中で最も美しいと思います)


出雲大社と並ぶ出雲一宮、熊野大社は別格?「一重亀甲に「大」の文字」です。

CIMG2554_20180628222427932.jpg(熊野大社は別格?「一重亀甲に「大」の文字」です。)


「拝殿」が重要文化財じゃないってホント?


CIMG9769.jpg(これが重要文化財じゃない!)

拝殿は、室町時代の1519年に尼子経久が造営しました。名工の坪井大隅守が華・青龍・松竹梅など豪華絢爛で高く評価されていましたが、1953年5月27日午前1時ごろ本殿が72年ぶりの正遷宮奉祝期間中に鑽火殿(さんかでん)から出火、拝殿まで及び灰塵に帰しました。原因は鑽火殿で餅をつき終わって酒を飲んでいたことから残り火の不始末だそうです(コラ!せめて三島由紀夫さんに書いてもらえるくらいのインパクト残せ…)。

日本全国の崇敬者から寄付金1億円を集め、復興事業として、高松宮宣仁親王を総裁として、1959年に再建されました。

P5041697.jpg(やはり拝殿のしめ縄大ですね~!)

二礼四拍一礼は珍しい?



出雲大社の二礼四拍一礼は有名ですが他にも拍手が多い神社が在りますのでご紹介します。一般参拝者が行う作法として、宇佐神宮(大分県宇佐市)、弥彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村)などは二礼四拍手一礼です。

ちなみに、伊勢神宮での八拍手(八開手)は神宮神官が祭祀の時にのみ行う儀礼で、一般参拝者は行いません。 一般参拝者は二礼二拍手一礼をお願いいたします。

旧拝殿の寄進者は「尼子経久」って知ってた?


P8120252.jpg(左が月山富田城跡の傍に在る洞光寺・島根県安来市の尼子経久の墓地です。)

尼子経久(あまご つねひさ)は、戦国時代の武将・大名で出雲守護代です。北条早雲と並ぶ下剋上の典型であり、毛利元就や宇喜多直家と並ぶ謀略の天才とも云われ、大内義興と戦い、尼子氏の領地をひろげ、全盛時代(実際の全盛期は彼の嫡孫にあたる、尼子晴久の代です。)を作ったことから、「謀聖(ぼうせい)」「謀将(ぼうしょう)」と称されました。経久、元就、直家はよく中国の三大謀将と呼ばれています。

経久の人物像については、家臣に対しては非常に気を使う優しい人物だったようです。『塵塚物語』によれば、経久は家臣が経久の持ち物を褒めると、たいそう喜んでどんな高価なものでも、すぐにその者に与えてしまうため、家臣たちは気を使って、経久の持ち物を褒めず眺めているだけにしたと伝えています。

ある時、家臣が庭の松の木なら大丈夫だろう思い、松の枝ぶりをほめたところ、経久はその松を掘り起こして渡そうとしたため、周囲の者が慌てて止めました。それでも経久は諦めず、とうとう切って薪にして渡したと言われています。世人はもったいないことだ、と話したが、経久は全く気にもしませんでした。また、冬には着ている着物を脱いでは家臣に与えていたため、薄綿の小袖一枚で過ごしていたとの逸話もあります。『塵塚物語』では経久のことを「天性無欲正直の人」と評しています。

【最後に一言】日本代表の『君が代』姿勢にもの申す


P5041696.jpg(皆で出雲大社にお願いしよう。)


今日、これから戦うワールド日本代表の「君が代」を聞く姿勢に対して思うところがあります。初戦では強豪コロンビアを破り、第2戦のセネガルでは、相手には先制されながら二度も追いついた姿は、当然賞賛に値します。しかしながら「君が代」を聞く姿勢に一言苦言を呈したいと思います。

国家斉唱の最中、肩を組んでいる姿はいかがなものか?胸の国旗日の丸と八咫烏に手を当てて「君が代」を聞く姿勢が、国の代表としての取るべき態度ではないかと思っています(バッシングされそうで怖いですが(;^_^A)。

私の記憶が正しければ、肩を組むようになったのは前々回のワールドカップからだと記憶しています。チームの団結(一体感)を出すため、スタメンばかりではなく控え選手や監督コーチも同様に肩を組んでおられたと記憶しています。今回見ていると背中で手を交差させていますね、肩を組むよりは少しマシなような気もします。

先日、神戸新聞のコラムに、ある有名 DJ のコメントとして日本国歌「君が代」に二番を作ってほしいという話が載っていました。スポーツシーンで「日本の君が代はおとなしすぎる」という意見です。「もっと明るく軽快なテンポでさあ行くぞ」という風に変えて、厳粛な式典では一番を、スポーツなどでは二番をという、私からすればとんでもない意見が載っていました「神戸新聞さん精査しなさいよ!」と思わず思ってしまいました。

その DJ さんは申し訳ないですが、君が代の本質を全く分かっておられないと思います。「君が代」ほど荘厳で美しい国歌は世界中どこを探しても見当たりません。世界の他の国歌は大抵マーチですよね、つまり行進曲です。日本で言えば軍歌に成りますでしょうか?まずそれこそ全く日本的ではありません。おいおいDJ君!深く考えたことがあるのですか?と思わず聞きたくなりました。

世界一長い歴史を持った天皇陛下を君主に据える日本の国家に二番などもってのほかだと思います。この DJさん は国歌として軍歌を歌いたいのでしょうか?「君が代」をよく知らないのだと思って我慢することとします。

さて、今日の「君が代」効果はいかに?今夜キックオフ見えた決勝トーナメント行けるぞ日本!『頑張れ日本~~~!』

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2018/06/24

『出雲大社』「荒垣内摂社」で神々と御縁を結ぶ旅!vol④

本殿以外の全ての瑞垣内の建物をご紹介させていただきます。御紹介漏れは、「門神社」二社・「神饌所」二棟・本殿東の「天前社」「御向社」・本殿西の「筑紫社」です。



【プロローグ】やっと平常が職場に戻った。



金曜日に帰宅する準備をしていると、大阪モノレール彩都線が再開通されました。私は車通勤なので関係はないのですが、他の社員皆さんの通勤の足が戻ったことで、仕事ルーティンも平常に戻ると思います(結構チームワークな面も有りますので)。

今回の大阪北部地震は、我が家にとっては大きな被害もなかったわけですが、地震大国日本としては、またいつかどこかで、同じような天災が今後も起きることは否めません。是非皆さんも、もう一度地震などの天災に対する準備をして頂きたいと思います。いえ、必ず準備してください!

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(兎の可愛さに本当に癒されます。)

さて今回ご紹介するのは、「出雲大社」八足門内の「本殿」以外の全ての建物および、お社です。今日のご紹介で出雲大社で紹介する建物の残りは、「拝殿(重要文化財)」と「本殿(国宝)」のふたつとなりました。どうにか、来週中にはご紹介できるものと考えています。

出雲大社の「八足門」内は正月三が日などの特別な日や、ご祈祷を受けた方以外は入ることができない特別なエリアです。今回も写真は私の撮影したものと、平成の大遷宮事業パンフレットの併用に成ります。

【おことわり】

些細な事ですが、寺社仏閣をご紹介する事が多くなりましたので人気ブログランキングのカテゴリーを寺社仏閣に変更しています。ブログ村は以前の通り日本史カテゴリーです。

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御門を守られる神を祀る「門神社」二棟


P5041758.jpg(瑞垣外から東「門神社」)
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(「門神社」正面から簡素な造りです。)

瑞垣の内側、八足門を入ったところに、二つ向かい合ったようにあるのが「門神社(もんじんのやしろ)」です。御門を守られる神として東側は宇治神(うぢのかみ)、西側には久多美神(くたみのかみ)がお祀りされています。プロローグでも申しましたように、八足門内は通常では入れませんので、そっと瑞垣の外からのお詣りをお勧めします。

「門神社」は瑞垣内八足門を入った、東西両側に向かい合わせに立つ二棟のお社です。この社殿は本殿と異なり、縁がなく社殿と木階が一つの屋根の下にあります。本殿や御向く社などを簡略化した建物の形式と言えます。

神様へのお供えを準備する「神饌所」二棟


12698658954768.jpg(東「神饌所」北本殿向きに出入り口があります。)

神饌所は建立寛文7年(1667年)楼門をくぐった玉垣内の両脇にあります。大きさは両方とも三間×三間で屋根は入母屋の檜皮葺きです。

寛文の造営で建てられた建物を、延享の造営で建て直す際に、柱の外側表面を薄く削り移築されたものです。このような建物が境内には多く残っています建物の内部は神様へのお供え物(神饌)を準備するための棚が設けてあり、出入り口は本殿に向く北面にあります。

東神饌所の屋根は檜皮葺の下に割板による下地屋根(土居葺き)のある二重屋根になっています。

大国主大神を治療した蚶貝比売命と蛤貝比売命を祀る「神魂伊能知比売神社(天前社)」正后・須勢理毘賣命を祀る「大神大后神社(御向社)」


126986589547 8- コピー(この写真だと配置が分かりやすいですね。)
P5041762.jpg(瑞垣外寄りの眺め。)
789876548691 4(左「大神大后神社(御向社)」・右「神魂伊能知比売神社(天前社)」)
P5041767.jpg(手前「神魂伊能知比売神社(天前社)」)
P5041771.jpg(奥に「大神大后神社(御向社)」)

脇宮三社と呼ばれる「大神大后神社(御向社)」「神魂伊能知比売神社(天前社)」及び下でご紹介する、「神魂御子神社(筑紫社)」は、延享元年(1744年)建立の本殿摂社です。本殿を取り囲む玉垣東に「大神大后神社(御向社)」「神魂伊能知比売神社(天前社)」、西に「神魂御子神社(筑紫社)」があり、この三社は全て形と大きさが同じに作られています。社殿の形式は大社造の本殿に似ていますが、正面中央に宇豆柱がないため御扉や階隠しが社殿の中央にあるのが特長的です。

配置が良く考えられていると思うのですが、東側左(本殿側)に大国主の正后・須勢理毘賣命を祀る「御向社」右に大国主大神を治療した蚶貝比売命と蛤貝比売命を祀る「天前社」があります。

大国主神の神話で、たくさんの兄神たちである八十神から嫉視された大国主神が、八十神が猪と偽って山上より転がした焼ける岩を抱き止めて焼け死んだところへ、「神産巣日之命」の命令によって蚶貝比売命と蛤貝比売命両神が派遣され、蚶貝比売命が「刮(きさ)げ集め」、蛤貝比売命が「持ち承(う)けて、母(おも)の乳汁(ちしる)を塗り」て治療を施すと、大国主神は蘇生したとされています(そのことから看護の神さまとして信仰されています)。

8591.jpg(大国主を殺した岩が封印されています。お~パーツ!)

こちらは、ちょっとご紹介したい私のとっておき神社が鳥取県南部町に有るのでご紹介させてください。因幡の白兎(稲羽の素兎・しろうさぎ)の続編、八上比賣(やがみ姫)と結婚した、大穴牟遲神(おおなむじ→大国主命)は八十神から嫉視され、八十神が猪と偽って山上より転がした焼ける岩を抱き止めて焼け死んでしまいます。その岩を封印している再生の神社「赤猪岩神社」です。

宗像三女神の多紀理比売命を祀る「神魂御子神社(筑紫社)」


P5041808.jpg(「神魂御子神社(筑紫社)」の檜皮葺き。)
P5041803.jpg(宗像三女神の多紀理比売命を祀る。)

瑞垣内、こちら側にあるお社は大国主大神のお后様で宗像三女神の一柱、多紀理比売命(たぎりひめのみこと)をお祀りしている「筑紫社(つくしのやしろ)」です。多紀理比売命は筑紫(福岡県)の宗像神社の祭神でもあります。古代から筑紫と出雲とは深い関係であったことを思わせます。正妻の反対側です(笑)。

『古事記』の大国主神の系譜では、大国主神との間に阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこね・味耜高彦根神)と下照姫(したてるひめ)を生んだと記されています(この二神、私は大ファンなんです。)。

P5041711_20180624194500fec.jpg(出雲大社の神門は「花剣菱」)

【最後に一言】本気で頑張れ~~~日本!


今日の夜(試合開始は日本時間では12:00なので実際は明日?)にサッカーワールドカップ、日本対セネガル戦があります。是非日本代表には頑張って勝利を掴んでほしいのですがコロンビア戦に勝ったからといって、一次リーグを簡単に通過できると考えるのは甘い考えだと思います。世界のサッカーはそんなに甘いものではないでしょう。

1回戦はコロンビア戦は日本が頑張ったというよりは、むしろコロンビアの自滅と言った方が良いかもしれません。ですから今夜のセネガル戦は全ての力を出して戦ってほしいです。それではみなさんの願いが日本代表に届くようにテレビの前ではありますが、頑張って応援しましょう《頑張れ日本~~~!》

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2018/06/22

『出雲大社』「荒垣内摂社」で神々と御縁を結ぶ旅!vol③

瑞垣・玉垣をご紹介しますが、「楼門」の写真は有りません。といいますか、瑞垣が高くて内部の写真撮影が出来ないのです。瑞垣の内はパンフレット写真でお許し下さい。



【プロローグ】地震は冷やっとしたが、ワールドカップが熱い。



何を今さら、と言われると思いますが、日本代表頑張りましたよね~!はっきり言って勝てないと思ってました(申し訳ない)。前回も1-4で負けてますし、なんといっても南米のチームにアジアチームが勝った事が無かったそうです。前半開始早々コロンビアに退場者が出て、11-10人に成ったのもラッキーでしたね。Jリーグを観る(TVも含めて)ことは余り無いのですが、日本代表にはナショナリズムも触発されるので、ついつい熱く成ってしまいます。

前回「頑張れ日本!」と書きましたので正にその通りに成りました(やった~)。しかしながら、前日は私の職場のすぐ近くを震源とする、大阪北部地震が発生(茨木市の職場に着いたばかりに「ドカーン」と突き上げるような揺れで怖かったです。)しました。最終的には5人の方々がお亡くなりに成り、負傷者も7府県で406人(23日・消防庁調べ)の大きな被害に成りました。お亡くなりになられました方々には、心よりのお悔やみを申し上げるとともに、負傷者の皆さんには一日も早い回復をお祈り申し上げます。ですから、日本代表にはより一層の活躍で、大阪へも元気を届けていただきたいと思います。

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(兎と一緒にお願いいたします。)

さて、今回(地震で大阪モノレールが金曜日も止まっているため通勤困難者が出て、ブログ更新にも影響が出ました。)は、出雲大社建物の内、「八足門」「西回廊・観祭楼・東回廊」「瑞垣・玉垣」「楼門」をご紹介させていただきます。

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(もう一度地図を確認ください。)


古代大社はここに眠る「八足門」


DSC_0067.jpg(オジサン「私じゃ無いですよ」一人だけは珍しいです。)


建立年代寛文7年(1667年)の八足門は楼門(最後にご紹介します。)南の正面に位置し東西は脇堀を介して回廊と繋がっています。欄間の彫刻は流水を基調とした中に紅葉や桜・鳥など花鳥風月が散りばめられています。柱に木目が美しい欅材を使うなど、出雲大社の建築物の中でも豊かな装飾が特徴的な門です。「平成の大遷宮」では、屋根裏小屋組の西側に昭和28年(1953年)に起きた火災の焼け跡を見つけました(この時拝殿を焼失しています。)。

八足門で特にご覧いただきたいのは、門前にある三つの円を描いた模様ですこれは古代出雲大社の心御柱の位置の上に作られています。つまり八足門の上空48mに古代出雲大社大社があったということになります。

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(曲がっている?張り出しているようにも見えます。)
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(こんな感じ?)

今上陛下の名に畏る「西廻廊・観祭楼・東廻廊」


DSC_0060 (2)(今上陛下・皇室・旧宮家のお名前が…)
DSC_0074.jpg(観祭楼美しい~!)
126986589547.jpg(内側の様子)

次にご紹介するのは東西の廻廊になりますが、瑞垣の南側には中央の八足門を挟んで東西に廻廊が配されています。廻廊は、梁間二間で屋根は切妻造りの桧皮葺、く床はなく土間となっています。西廻廊が14間東廻廊は16間と東側に脇社が1社多い分、長い作りになっています。

注目したいのは写真地図でもありますように、最後にご紹介する楼門と八足門の間に東側へのズレが見られることです。このことは先ほど八足門前に古代存在した出雲大社の傾斜と重なっているように見えます。

実際この角度が現在の参道の方角に合致するため、古代出雲大社は南向きではなく、少し東を向いていたことが分かります。つまり100m近い階段が、山道から続いていたと考えます。その方角の先には何が有るのでしょう。奈良(大和)か?伊勢(伊勢神宮)?全く別の方角か調べてみたいですね。

東西の回廊とも本殿に面する北側に壁を設けず、他の3面は腰より下を板壁、上を連子窓としています。

東廻廊の中央六間分が観祭楼です。内側(北側)に階段室を1間張り出して二階建てとし、入母屋造檜皮葺の屋根になっています。2階は畳敷きの部屋が二部屋あり、南側境内にあった舞台(現在無し)を望めるように南側は全て外側に吊り上げて開ける蔀戸となっています。

中見えないよ~「瑞垣・玉垣」


DSC_0088.jpg(これが限界です。)
126986589547 8- コピー(パンフレットで見ると、外側が瑞垣、内側が玉垣です。)

玉垣及び瑞垣は、それぞれ建立年代は玉垣・寛文7年(1667年)瑞牆は文化5年(1808年)と思われます。玉垣は寛文の造営で建てられたもので、一周延長160mです外側の瑞垣は一周延長229mあり、屋根はともに桧皮葺です。

瑞牆は文化5年(1808年)の墨書きが発見されたことや杉材を主に使用していること、風化のある廻廊の柱に、新たに瑞垣の柱を添わせていることなどから、文化の造影で建てられたものと分かりました。

玉垣は檜材が使われており、構造等も瑞垣よりも複雑で丁寧です。本殿を囲む第一の垣根ということもあり、玉垣の方をより上級な仕様にしているようです。

大社最後の門「楼門」


DSC_0069.jpg(どうにか門前まで撮影出来ました。)
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(全体はこのように成っています。)
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(飾りも複雑に成っています。)

本日最後のご紹介になりましたどうもんですが楼門は本殿南の正面に位置し東西は玉垣と繋がっていますくみものを多用し八足門とともにきょう内では珍しい装飾豊かな建物です屋根は入母屋造檜皮葺です平成12年2000年には屋根は修理しているため今回葺き替え工事は実施していません中央の円柱日本は他より一回り太く2階の屋根裏まで伸びていますと口の両脇に階段があり2階へ登ることができます。

【最後に一言】全部、国の重要文化財!



今回ご紹介した全ての建物は国の重要文化財に指定されています。が前回及び前々回からご紹介しているもので、国の重要文化財以外のものは、『国宝の本殿』「拝殿」「文庫」「彰古館」しかありません。

もちろん庁舎や仮拝殿、収蔵庫や新垣新子田宝物の新子田なのは指定外なわけですが、ご紹介しなかった解消なども銅鳥居と同様に国の重要文化財に指定されています。

さて、これで出雲大社でご紹介がまだなのは、新しい社務所等を除けば、瑞垣内のお社や拝殿、それと『国宝の本殿』だけと成りました。

出雲大社のご紹介も残り少しに成ってきました。出雲大社が終了いたしましたら、一息入れさせて頂きたいと思います。もちろん歴史の旅をやめる訳では有りませんが、2年と10ヶ月も書いておりますと、初期の記事があまりに稚拙で恥ずかしくも成ってきました。

ここらで、思い入れの有る記事はリ「ブログ」させて頂きます。その為新規更新は減るかもしれませんが、全体でより良いブログに成ればよいなと考えます。

元々自身の発信力を試すために始めたブログです。日本史部門の一位も一瞬頂きましたが、限界も感じさせられました。新たな企画も始めようかと計画中です。目的(まだ秘密です。)を達成するために今後も努力いたしますので、応援よろしくお願いいたします。

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2018/06/16

『出雲大社』「荒垣内摂社」で神々と御縁を結ぶ旅!vol②

引き続き荒垣内摂社と建造物を、ご紹介させていただきます。瑞垣内は次回のおたのしみです。



【プロローグ】荒垣内摂社の素鵞社と文庫・彰古館・宝庫をご紹介させていただきます。


出雲大社に車で参拝しますと、参道の西側に大きな駐車場があるのですが、拝殿に向かうにはお土産屋さんが並ぶ細道を神楽殿の方角(北)に歩き、千家家館前・神楽殿前(祓社がありますのでお詣りしてください。)の道路から出雲大社荒垣内に入る事が出来ます。つまり横から入るにもかかわらず、荒垣内の銅鳥居の中に入る事に成ります。

今日は、荒垣内で瑞垣外の拝殿(改めてご紹介させていただきます。) 神祜殿(宝物殿)・収蔵庫・仮拝殿・庁舎以外の荒垣内の建物で、前回ご紹介出来なかった建築物の荒垣内摂社の素鵞社と文庫・彰古館・宝庫をご紹介させていただきます。

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(嫌いな方は申し訳ないのですが無類の蛙好き。無事帰るにかけて拉致被害者の皆さん無事帰れ!)


今更ですが出雲大社建築物の歴史について少しお話しさせていただきます。出雲大社は『古事記』や『日本書紀』の日本神話において特に重要な神社として登場し大国主大神をっ御祭神としています。神話では国譲りの時に神の国の宮殿と同じように太い柱や厚い板で本殿が建てられたと語られています。また平安時期には平安時代には奈良にある東大寺大仏殿を凌ぐ48mのもの高さがあったと記録されています。

現在の境内は江戸時代前期、寛文7年(1667年)の造営遷宮で計画されたもので、今もその時の建物が多く残っています。本殿など瑞垣内のお社はその次の延享元年(1740年)の造営遷宮で建て替えられたものです。今の本殿はかつての半分ほどの高さですが国内最大級の社殿建築であり往時のお社を彷彿とさせる迫力があります。

遷宮はその後、文化6年(1809年)明治14年(1881年)昭和28年(1953年)に行われ、そのたびに本殿をはじめとする諸社殿の修造が行われてきました。平成の修造については、平成20年から8年にわたる「平成の大遷宮」の主事業として行われ平成25年5月10日には本殿遷座祭が執り行われました。

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DSC_0036_2018061613273592c.jpg(出雲国造館千家家です。)
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(「平成の大遷宮」まだ屋根がふさがっている状態。)
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(歴史そのものさざれ石!)
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(銅鳥居の傍には神牛?)
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(そして神馬。)

荒垣内摂社の素鵞社


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(石垣に張り付くように、素鵞社。)

素鵞社(そがのやしろ)は延享2年(1745年)以降に建立され、本殿は出雲大社本殿後方の山際に築かれた石垣の上にあり、素戔嗚尊が祀られています。社殿は延享の造営で建られたもので、この時に立て替えられた出雲大社本殿や御向社、門神社などの寛文造営時に使われていた部材が一部使用されています。社殿の形式は二間×二間の大きさで、切妻造妻入、檜皮葺で、正面東側に階隠しが取り付きます。本殿を一回り小さくしたような形ですが、心御柱がない点が本殿と異なります。

平成の修造では小屋裏などから延享造営時の墨書きが見つかり、素鵞社本殿の製造年月が延享2年(1740年6月など〉とわかった他、建設に神門郡(現在の出雲市南部)の大工が携わって言ってることもわかりました。

文庫


1265987654.jpg(文庫の写真が無かったのでパンフレットから。)

文庫(ぶんこ)は、素鵞社東に立っています。土蔵部分文化年間以前庇(ひさし)部分は文化5年(1808年)の建立されています。もとは現在の彰古館の位置にありましたが、大正元年(1912年)に彰古館建設に伴い移築されました。土蔵の周囲三方(南東西)に木造の平屋(庇と呼んでいます。)が取り付いています。これまで建立年代が不明でしたが修理中に見つかった墨書から庇部分は文化5年(1808年)に建てられたとわかりました。土蔵についても使用されている木材の材質や仕様などから文化年間以前とわかり貴重な建物と判明しました。

彰古館


DSC_0153.jpg(彰古館、正に証拠を残す?)

彰古館は、大正3年(1914年)に、出雲大社の宝物館として造営されています。現在は銅鳥居の右脇に神祜殿(宝物殿)が新設されていますので、あまり目立たなくなっています。彰古館の役割りは、出雲大社に伝わる各種資料を陳列・展示するための建物の様です。館内には「大小の大黒様」、「えびす様の木造彫刻」や、「神楽用の楽器類」、「出雲大社の1/30分のサイズの模型」さらに神社に伝わる古文書類も多数展示されています(拝観料200円)。

宝庫


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(宝庫、宝物を納める為の・・・宝庫。)


宝庫は寛文7年(1667年)に宝物を納める為の建物として((-"-;A ...アセアセ)建立されました。境内の西側北寄りに立っています。建物の壁は、東大寺正倉院と同じ校倉造りに見せかけた断面が三角形の木材を水平に積み重ねる工法となっています。

建物は寛文期のものですが、建立当時は現在地よりやや北東に位置していました。また明治の造営で大規模な修理が行われていたことがわかりました。平成17年(2005年)に屋根葺き替え行ったので「平成の大遷宮」の修理では木部の修理とゆがみの是正などを行いました。



【最後に一言】頑張れ日本!



DSC_0227.jpg(波向こうに願いを込めて。)


近頃、悲しいニュースばかりが新聞紙面を躍っています。「目黒虐待死事件」死亡した女児が遺した、ひらがなだけの”もうおねがいゆるしてゆるしてください”と書かれたノートが日本中に衝撃を与えました。静岡では闇サイトを使った「看護師拉致遺棄事件」、新幹線の安全神話を揺るがしかねない「東海道新幹線殺傷事件」、走行中の東海道新幹線車内で男女3人が刃物で襲われ男性1人が死亡した事件など、どこかおかしいくないか?ということが多いですよね。

それぞれに、対策を真剣に考えなければいけないと思いますが、私的には日本中が喜びに浸れるような良いニュースが新聞を賑やかにすることを期待しています。例えば「阪神タイガース優勝!」オットこれは間違えました、個人的な事ではいけません。「拉致被害者全員帰国」とか、したたかな北朝鮮相手に簡単にはいかないと思いはしますが…、「日本代表ワールドカップ優勝!」本日、朝のスペイン×ポルトガル戦を見た限は、100年は無理と思いましたが…、ああああああああ!やっぱりそう簡単には行かよな~~~!

「夏のボーナス過去最高を更新!どうです?私は夏のボーナスない会社なので関係ないのですが、皆が幸せを感じるムーブメント起こしてくれ~~~!頑張れ日本。

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2018/06/13

『出雲大社』「荒垣内摂社」で神々と御縁を結ぶ旅!vol①

縁を結ぶといえば結婚、出雲大社の結婚式場も兼ねる『神楽殿』と荒垣内摂社の『十九社(東西二社)』 『釡社・氏社(二社)』の五社をご紹介します。



【プロローグ】何故寺社仏閣巡りを始めたのか?


さて、お約束通り『出雲大社』荒垣内摂社をご紹介して行きたいと思います。本来の参拝では拝殿でお詣りし、拝殿裏に回って八足門から本殿にお詣りし、その後に時計と反対回りで荒垣内を本殿を回る様に進み駐車場に戻るのですが、今回のご紹介では先に荒垣内摂社をご紹介して行きながら、最後のクライマックスに拝殿から本殿のご紹介したいと思います。本日は出雲大社の結婚式場も兼ねる『神楽殿』と荒垣内摂社の『十九社(東西二社)』と『釡社・氏社(二社)』をご紹介します。

そもそも、私が寺社仏閣巡りを始めたきっかけは、以前にも書きましたが約8年半ほど前に心を患ったことに始まります。 3ヶ月の入院と4ヶ月の自宅療養を余儀なくされました。会社に復帰はしましたが、やはり其処は居心地の良い場所では無くなっていました。失意の底にあった私に命じられたのは、鳥取県米子市への単身赴任でした。私はそこで一冊の運命的な本に出会うことになります。それは私が「古事記赤本」と呼んでいる『山陰の古事記謎解き旅ガイド(出雲古代出雲王国研究会)』出版定価本体476円+税です。その本によって私は「多くの神社」で神様の存在を知る事に成りました。そして、歴史という長い川の上流へ船を漕ぎ出す事を決意したのでした。

DSC_0265.jpg(二十一年程前に不肖私も行いました。)

当時は、”古事記編纂1300年”に加えて、”出雲大社が60年に一度の遷宮”さらには”20年に一度の伊勢神宮の遷宮”が重なった上に御朱印ブームがそれを後押しする様に寺社仏閣パワースポットブームが巻き起こっていました。

女性の間で盛り上がり始めていた御朱印ブームは私の中にあった歴史好きの「焼けぼっくいに火を付けた」と言っても過言ではありません。そして最初に御朱印帳に御朱印を頂きましたのが、blogシリーズで紹介し続けている出雲大社でした。

ご参考までに、出雲大社での御朱印のもらい方について少し注意をさせて頂きますが、出雲大社では出雲大社公式の御朱印帳はありません。ですから御朱印をもらわれる方は、事前に御朱印帳を用意する必要があります。

当然私もそんなことは知りませんでしたので、近くのお土産さんでで御朱印帳を用意いたしました。その御朱印帳というのが、現在はFacebookでもお友達に成って頂いている、島根県安来市広瀬町の紺屋さん「天野 尚」さんが古事記編纂1300年企画で作成した。本藍型染の御朱印帳でした。

いつもは、御朱印帳及び御朱印をご紹介していないのですが、今回を最初の機会として、できれば随時「寺社仏閣」の御朱印をご紹介していきたいと思います。ただ、お寺については、一寺で数多くの御朱印があるために、全てをご紹介することはできないと考えています。これは神社の御朱印が御神札(神様・神社の御札)の性格を持つのに対して、お寺ではお経を納めた者に対する証として御朱印が押されるからです。出雲大社の出雲大社も23の摂社を持ちますが御朱印は一つです。対して私が度々「弘法市」に通う京都の「東寺」では御朱印だけで九つの種類があります。これは納経した場所(お堂)証となるからでしょう。

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P6130009.jpg(「天野 尚」さんの本藍型染の御朱印帳と出雲大社・但馬一宮出石神社御朱印。)
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(地図を参考にしながら足を進めてください。)
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(祓社の後も御手水でお清めしてください。)

神楽殿で結婚式を上げよう~!


DSC_0044_20180613210250cd0.jpg(神楽殿の文字読めますか?(;^_^A)

神楽殿は本来、千家國造家(出雲大社宮司家)の大広間として使用されており、「風調館(ふうちょうかん)」と呼ばれていました。明治に入り、出雲大社教が設立されてからは出雲大社教の神殿としても使用され、現在では國造家大広間、並びに出雲大社・出雲大社教の神楽殿として御祈祷や結婚式をはじめ様々な祭事行事が執り行われています。昭和56年に出雲大社教が特立100年を迎えた折、現在の神楽殿として規模を拡張して建て替えられました。その大広間は270畳の広さを誇り、神社建築にはめずらしく正面破風の装飾にステンドグラスが使われています。正面の大注連縄は長さ約13メートル、重さ約4.5トンに及びます。この大注連縄は数年に一度、新しい注連縄へと懸け替えられます。そして、神楽殿前庭には高さ47メートルの国旗掲揚塔が聳え立ち、揚げられる国旗は75畳の大きさです。

DSC_0038_20180613210249a37.jpg(正面の大注連縄がとにかく凄いです。正面ではなく西の方向にあります。)

以前説明いたしましたが、出雲国造家は天照大御神の第二御子の天穂日命(あめのほひのみこと)の神裔にあたります。出雲大社の祭祀者である出雲国造家は、南北朝時代に「千家」と「北島」の2家に分裂し、その祭事は幕末までは両家が二分して行っていたが、明治以降から現在までは千家家が執り行っています(島根県の友人は、北島家で結婚式を挙げた方が離婚率が低いと申しています。彼の私見ですのでお許しください)。北島家は出雲大社東に位置して健在です。少し静かで大社の喧騒につかれた方にはお勧めです。

それぞれ大国主大神を主祭神とする宗教団体として、千家家が出雲大社教、北島家が出雲教を主宰しています。出雲大社教との一体化は1951年(昭和26年)4月に出雲大社と教派神道の宗教法人出雲大社教が一体化され、出雲大社の職員は出雲大社教の職員を兼務し、出雲大社宮司は出雲国造として出雲大社教を総攬し、出雲大社教の教務本庁は出雲大社の教務部として活動しています。

荒垣と銅鳥居


DSC_0201.jpg(銅鳥居をくぐると、そこからが境内です。)

荒垣内だ荒垣外だと散々言ってきましたので、どこからどこまでが内側でどこからどこまでが外側だと疑問に思われた方も多いと思います。「荒垣」とは本殿鎮座地の四囲にめぐらした石垣と塀で、大社ではこの内側をいわゆる「境内」としています。簡単に説明しますと囲い(荒垣)が有り囲まれている場所が、当然荒垣内なわけですが通りぬけられる場所があります。それが次で説明する銅鳥居です。

出雲大社の荒垣正門に立つ銅鳥居の建立は寛文6年(1666年)毛利輝元の孫綱広により寄進されたものです。毛利藩の鋳物師「郡司喜兵衛」が長州阿武郡(現在の山口県萩市)で鋳造したものと伝えられています。銅鳥居両柱の銘文には、出雲大社の御祭神や毛利家ゆかりの鳥居のいわれなどが刻まれています。修理に伴う基礎の調査によって銅鳥居の足元は地表に見える大きな石以外に大小をたくさんの石で支えられていることが明らかになりました。銅製の鳥居は全国でも例が少なく非常に貴重な建造物で、国の重要文化財に指定されています。この銅鳥居の中が荒垣内ということになります。

十九社(東西二社)


P5041740.jpg(東十九社この時は神様の到着待ちでした。)
P5041841.jpg(神様の到着を待つ西十九社。出雲大社ならではの建築物です。)
P5041845.jpg(西十九社ですね。)

十九社二棟は建立年代・文化6年(1809年)です。二棟は、瑞垣(本殿を囲む外側の垣根)の東西に向かい合うように建っています。南北約34.5メートルに及ぶ細長い建物です。全国から八百万の神々が集まるとされる神在祭では諸神の宿所となります。他の神社には例のない出雲大社ならではのお社です。修理中に発見された棟札から、文化6年(1809年)に建てられたことがわかりました。十九社では多くの部材にモミの木が使われています。建材にもみの木が使用されることは珍しく、出雲大社でも十九山本の二棟しかありません。当然ですが、国の重要文化財に指定されています。

釡社と氏社(二社)



本日最後の御紹介になりましたのは、釜社と氏社です。釜社(かまのやしろ)と氏社(二棟)はどちらも本殿を正面とし、釜社は東十九社北側に氏社(二棟)は西十九社北側に建てられています。三棟共寛文期に建てられました。どちらも境内で最も古いお社です。三棟は同じ形、同じ大きさの建物ですが、釜社の垂木の数が一本少ないことが異なる点です。修理中氏社の屋根から「東側御向」等と墨書きされた材料が、また釜社からも端垣内の建物にしかない階隠の転用材が発見され、いずれも延享の修理の際に瑞垣内のお社の材料を再利用していることがわかりました。

P5041751.jpg(少し歪んでます?急いでましたのでお許しください。)
P5041753.jpg(宇迦之御魂神を祀る釜社、東十九社のすく北側です。)

釜社の御祭神は、「スサノオノミコト」の子神で「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」です。この御祭神は、食物を司る神様で、全国にある稲荷社の御祭神としても祀られています。「宇迦之御魂神」は女神とされています。この神様は神宮(伊勢)の外宮の主祭神「豊受大御神」や伏見稲荷大社の主祭神「稲荷大神」と同じ御神体です。

11月23日の「古伝新嘗祭(こでんしんじょうさい)」の夜には、この社より御釜を拝殿に移して「御釜神事」が行われます。古伝新嘗祭は、国造の霊力を蘇らせる祭事であるのと同時に、神職が御釜の周りを巡る「御釜神事」によって「五穀豊穣(ごこくほうじょう)」への感謝と来年の豊作の祈りが捧げられるものです。つまり、これらが「釜社(かまのやしろ)」の名前の由来となります。

氏社(うじのやしろ)は境内西側、西十九社の奥に二つの殿舎が北と南に至近距離に建てられています。いずれの社の御祭神も大国主大神と非常に深いかかわり合いのある神様です。

P5041816.jpg(天穂日命を祀る氏社です。)
P5041811.jpg(北の氏社。)

二社のうち北側には、天照大御神の第二子である、「天穂日命(あめのほひのみこと)」が祀られています。この「天穂日命」は、天照大御神の国譲りの使者として出雲の国に来られましたが、逆に大国主大神に言いくるめられて家臣になってしまいます。その後3年間、高天原へ復命しなかったそうです。また「天穂日命」は出雲国造家の始祖であり祖神でもあります。

P5041832.jpg(南の氏社ですね。)
P5041826.jpg(南の氏社、宮向宿彌を祀ります。人が並んでおられるのは本殿神坐正面がこちらに成るからです。)

南側の社には、「天穂日命」の子孫で17代にあたる「宮向宿彌(みやむきのすくね)」が祀られています。「宮向宿彌」は19代天皇から「出雲臣」の姓を頂き、その子孫は出雲大社の宮司家として今日に至っています。

近年になって「氏社」を修理した際、屋根から「東側御向」や「東門神」と墨書きされた部材が見つかりました。これは、延享造営時(1744年)に新築した他のお社の材料を一部利用して補修(解体移築時)したということを意味しています。

このことから、「氏社」の創建は御本殿の造営をした1667年と考えられています。尚、この氏社は2004年(平成16年)7月6日に国の重要文化財の指定を受けています。

【最後に一言】神の伊吹を感じる。



ゴールデンウィーク企画の後に、近頃ずっと出雲大社の摂社巡りの企画で神社ばかりブログにUPしていたので、次は、お寺をご紹介しようか?とかいやいや古墳も有るしお城も有ると悩んで過ごしておりました。

当然の事ですが、旅行は楽しいですし、色々な歴史遺物を見るのは大好きなので、どうしても取材が先行してしまうのです。歴史というのは、川の流れの様な物です。河口の小石を拾い上げても、何処から流れてきたのか調べてみたくなります。

つまりは、きりがないのです。そんな私ですから、一度脱線し始めると彼方此方の方角へ飛んで行きそうに成るに違いありません。ですから、ここはしっかり出雲大社を終わらせようとの結論に至りました。

出雲に出向くと、本当に神々が近くに居られる気がします。出雲大社の瑞垣の回りでは、神々の伊吹が聞こえて来るようです。古代の人々が現在よりもより神々との距離感を身近に感じて事は想定の内ですが、出雲大社ではその距離感を実際に感じることが出来るような気持ちになるのです。

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2018/06/10

安い?旨い?早くない!我が家の『牛丼』のレシピ教えます。「Allez cuisine!」

鬱陶しい梅雨が始まりましたね~!こんな時は肉でしょ?余り関係ないけど、牛丼作ろ!そうそう前回の神楽のお話も補足させていただきます。



【プロローグ】前回の補足と料理大好き市郎右衛門。


前回、「実家の神楽は伊勢大神楽(いせだいかぐら)の模倣と考える」と、お話をしましたので、伊勢大神楽を簡単に説明します(機会が有ればまた丁寧に説明させてください)。伊勢大神楽は獅子舞を舞いながら諸国を巡り、かつては伊勢神宮、現在では伊勢大神楽の神札を配布してまわる神楽師のことを指します、広義には彼らのおこなう芸能の総称です。神楽師達は各戸で竈祓(祈祷)を行う際に獅子舞を舞いますが、それ以外にも特定村落の鎮守社境内などで総舞と呼ばれる娯楽要素の強い芸能を披露します。

1954年(昭和29年)には三重県の指定文化財となり、1981年(昭和56年)には「とくに放下の芸系を遺す演目は芸能史的に貴重であり、獅子による曲芸という芸態にも特色があると認められている」との理由で、国の重要無形民俗文化財に指定されています(現在、伊勢大神楽講社所属の5社中が当該文化財の保護団体になっています)。

私は5年ほど前に、鳥取県の加藤菊太夫家の神楽を松江城で観覧する機会に恵まれました。神楽支配を家職としていた公家・持明院家と深い繋がりを持ち、主に鳥取県を檀那場(だんなば・得意先やテリトリーの意味)としていた加藤孫太夫の分家にあたる家元です。加藤菊太夫家は檀那場以外での総舞披露や公演活動にも力を入れている家元であり、2008年・2009年には韓国公演を行うなど、海外公演も積極的に行っておられます。古来よりの檀那場は、滋賀県・鳥取県・岡山県・島根県・大阪府・兵庫県です。

放下芸とは、中世から近世にかけて行われた大道芸の一つ。伊勢太神楽にも、綾(あや)とりの曲、水の曲、手鞠の曲、傘の曲などが「放下芸」として残っています。剣舞等に代表される竈祓(祈祷)と違い、曲と名付けらるコミカルな曲芸を指します。とても片手間で出来るようなものでは無いので、村々の神楽からは消え去ったのでしょう。演目も(約2時間近くだったと記憶しています。)長いですが、これも地区だけに御札を渡し竈祓をすればよいというものではなく、遠方からも呼ぶための一大エンターテイメントだった為と思われます。

さらに、私の私見で獅子舞のスト-リーを展開しましたが、獅子が伊勢神宮の使いなら「天照大御神」を表し、天狗「猿田彦命」は前政権の象徴なのかもしれません。私見は全くの逆説ということに成ります。

P6100008.jpg(シンプルなお肉だけの牛丼おいしそうでしょ。)

さて前置きが長くなりました。昨日三宮の病院に定期健診にまいりましたので、ついでにお肉を買ってきて『牛丼』作りました。たまに作るのですが、これがなかなかいけるので是非皆さんも挑戦して欲しいです。

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牛丼の誕生は明治時代に入ってからです。



牛丼(ぎゅうどん)は、薄く切った牛肉(切り落とし、小間切れ等、今回は違います。)とタマネギなどを醤油などで甘辛く煮込み、丼に盛った飯の上に載せた料理の総称です。

牛丼は牛鍋を丼飯にかけた料理が原型で、初期には「牛めし」と呼ばれ、明治時代に誕生しました(牛を食べる習慣自体が江戸時代にはありませんでした。)。「牛丼」の名称は、吉野家を1899年(明治32年)に創業した松田栄吉が名付けたとされています(やはり吉野家です!)。

すき焼き丼も同類とされています。すき焼きの名残から、しらたき、焼き豆腐、ネギなどを入れる店舗もありますが、大手の牛丼チェーンでは牛肉やタマネギのみが乗せられる場合が多いですね。また、食べる者の好みに応じ、紅しょうが、七味唐辛子、生卵などが付け合わせとして使用されることもあります(皆さんご存知ですよね。)。

牛丼は醤油ベースで調味されることが多いが、神戸らんぷ亭が2010年1月25日に発売した日本初の「塩牛丼」は味付けに塩ダレを使用している点で珍しいです。また、神戸らんぷ亭は、「味噌牛丼」も期間限定で提供し、醤油・塩・味噌の「牛丼3兄弟戦略」を2010年に展開したそうです(覚えてますか?)。このほか、牛肉を焼く調理法を採用したメニューでも牛丼の範囲として扱う場合があり、その際は「焼き牛丼」と呼ばれています。

牛丼の歴史を紐解こう。


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(2.5キロの肉ですから大きな寸胴で作りますが…台所が汚くて写真は小ぶり。(-"-;A ...アセアセ)

牛丼の源流に該当する料理は牛鍋であり、1862年(文久2年)横浜入船町の居酒屋「伊勢熊」が店の半分を仕切り、日本初の牛鍋屋を開業したとされています。幕末から明治時代初期の牛肉は硬く獣臭さが目立ち、それらを緩和するために関東の牛鍋は紅葉(鹿肉の別名)鍋に類似した内容で、具材は牛肉(当時はまだ薄切り肉の使用が定着しておらず、角切り肉を使う場合もあった)とネギのみで味噌仕立ての味付けで、煮るか炒め煮にする調理法が主流でした。ネギを五分(一寸の半分で約16 - 17mm)の長さに切ったことから、明治初期には具材のネギが「五分」と呼ばれたこともありました。

明治時代の文明開化により牛肉を食べる習慣が広まり、東京”芝”に外国人向け食肉加工場が完成したこと、などの要因から肉質が良くなるにつれ、関東地方の味付けは味噌から醤油と砂糖などを調合したタレ(割下)が主流になっていきます。1877年(明治10年)には、東京での牛鍋屋は550軒を超えて大流行となりました。1887年(明治20年)頃になると、具材において牛肉や野菜以外にも白滝や豆腐が使われ始め、ネギはザクザクと切ることから「ザク」と呼ばれ、この「ザク」という言葉は具材全体の総称にもなっており、これらを沢山の割下で煮た牛鍋が関東風すき焼きの原型となりました(なるほど~!)。

「牛丼」は当初、牛飯もしくは牛めしという名称で1890年代には発売されており、この時期の東京にはあったが京阪にはありませんでした。その後、1899年に創業した吉野家の牛丼も同様の料理であり、当時は「牛鍋ぶっかけ」と呼ばれ、主客である日本橋の魚河岸の人々に親しまれました。浅草や上野の広小路一帯にも牛丼の屋台が沢山出店しており、そこでは「かめちゃぶ」の俗称も使われていたそうです。かめちゃぶの表現は、古川ロッパ(1930年代の日本の代表的コメディアン・編集者、エッセイスト)の随筆集「ロッパの悲食記」の中でも登場しています。大正から昭和初期にかけ、牛スジの煮込みを使った屋台料理として浅草で人気を呼び、本格的な完成品となりました。

吉野家での具材は明治から大正時代は牛鍋と同様の時期が続きましたが、客側の「特に牛肉とご飯を一緒に楽しみたい」という要望が高まり、それを追求・進化していった結果、現在に通じる「牛肉とご飯を一緒に楽しむ」ことに特化した内容へ変化していったようです。

1973年から吉野家がファーストフードの一種としてフランチャイズチェーンを展開したことで一般に親しまれるようになった後、養老乃瀧、松屋、すき家、なか卯、神戸らんぷ亭などが牛丼(牛めし)をチェーン展開した(「養老乃瀧」は後に牛丼から撤退)。1993年当時、ダイエーグループの神戸らんぷ亭が恵比寿に1号店の出店を発表した際にはセゾングループの吉野家が即座に対抗し、2軒隣に吉野家恵比寿駅前店を開店して対抗しました。

各牛丼チェーンでは持ち帰り用の容器を用意しており、「牛丼弁当」としても販売しています。また注文の際に「つゆだく」など客の好みに合わせた盛りつけを無料または有料で行っている場合があります(私はつゆだくは結構です。)。これはチェーン店によってマニュアルを定めた内容に限り対応可能としている特殊なサービスです。吉野家ではこれを「特殊オーダー」と呼んでいるようです。ただし、これは店内のどこにも明示されていない「特殊」サービスです。

つゆだくとは(説明要りますか?一応ね。)牛丼における盛り付け指定の一種であり、具材の汁(つゆ)を多めに盛りつけた状態のことを指す符丁です。 つゆを少なめに盛り付けることはつゆ抜き(つゆ切り)とよばれています(知りませんでした。)。また、つゆだくだくというさらに多めにつゆを盛り付けた状態を指す言葉もある。ときに「つゆだくだくだく…」のように、「だく」を多くしてつゆをとても多くしてもらう人もまれにいるようです。「だく」は「たくさん」の「たく」が濁ったものだという説と、「だくだく」という擬音が短縮されたものだという説があります(どっちでもいいよね。)。

つゆだくの語源・普及は、1950年代頃につゆを多めに頼む常連客が存在しており、その注文を簡潔に調理場へ伝えるため店員同士のやりとりに使用する合い言葉(符丁)として使い始めたとされ、1990年代中頃には一般にも定着し、1997年頃につゆだくで牛丼を食べることが女子高生の間で流行して一気に広まりを見せました(やっぱり流行はJKが作るんやね。)。店側にとっては、通常の注文と同価格でより多くのつゆを提供することとなるため、一品当たりのコストが増すことに成ります。ある牛丼チェーン店ではつゆだくに伴うコスト増が年間数億円に上るといわれます。

吉野家、すき家、松屋では、つゆだく牛丼弁当を注文すると弁当容器の上につゆだくと印刷されたシールが付くので、中を開けなくてもつゆだく牛丼弁当を見分けることができるそうです。

又、ねぎだく・ねぎ抜きも存在します。ねぎだく・ねぎ抜きとは、牛丼における盛り付け指定の一種であり、ねぎだくは具材のタマネギ(玉ねぎか~(;^_^A)を多めに盛り付けた状態、ねぎ抜きはタマネギを抜いた状態のことです。吉野家では2007年12月をもって一部店舗を除きねぎだく・ねぎ抜きの注文受け付けを終了しています。すき家・松屋は現在もねぎだく・ねぎ抜き共に注文可能です。

メニューに表示されていませんが、一部のトッピングやメインの具材量を有料・無料で変更可能な場合があるそうです。松屋では福神漬の量調節やサラダのコーンを抜く注文が可能ですし、すき家では過去の期間限定メニューの一部が「隠しメニュー」という形で存在しており、牛丼の「キング」(940円、肉の量が並盛りの6倍、ご飯の量が2.5倍)と、「プチ」(130円、並盛りの4割ほどの量)が店内食のみで注文可能だそうです。吉野家では肉を多めに食べたいがご飯は少なくていい場合、大盛りを頼んでご飯少なめ(頭の大盛り)という注文で対応可能、なお、吉野家では現在「頭の大盛り」は正式メニューとなっているそうです(近頃食べて無です。)。

牛丼チェーンの地域的特性として、関東地区は吉野家・すき家・松屋が数百店規模で拮抗し、中国・四国・九州エリアではすき家が最も多く、信越・北陸ではすき家が吉野家の2倍以上の店舗を出店しています。大都市圏の傾向では東京では松屋が頭一つ抜けた店舗数で、大阪ではゼンショーグループであるなか卯・すき家の両社を併せた状態だと少し抜け出た店舗数となっています。 また、イベント会場などでテナントとして出店し、牛丼弁当などを販売するケースもあるようです。

さて、次はみそです(ちょっと疲れて来ました。笑)。みそ汁は有料である店舗が多いですが、店内食の場合に限りみそ汁を無料で付けるサービスを行う店もあります。大手チェーンでは松屋全店舗(持ち帰り牛丼は除く)、東京チカラめし全店舗(お持ち帰り牛丼は除く)、すき家の一部店舗(赤坂六丁目店など)で実施されています。

47都道府県すべてに展開している企業は吉野家とすき家のみである。2000年代の一時期では、こういった状況やエリアごとの店舗分布や売り上げから考慮して、吉野家とすき家の「2強」時代と見る傾向がありました。しかし2000年代後半以降に発生した価格競争に松屋も度々参戦したことから、すき家・吉野家・松屋の3社が「3強」「御三家」といった主要チェーンとして認識されています。

2010年代初旬では、低価格居酒屋チェーンの「居酒屋270」シリーズを展開した三光マーケティングフーズが2011年6月に牛丼市場に参入し、「焼き牛丼」を看板メニューとした「東京チカラめし」が新たな勢力として存在感を見せましたが、一過性のブームに終わり、2014年には直営店の8割を閉めています。牛丼市場は日常食として需要が安定していることや、新たにファミリー層などを取り込んだこと、低価格業態が消費者の支持を集めて堅調なことから、調査会社において2010年代前半から中盤にかけて市場の拡大が予測されています(2018年、どうですか?)。

A5神戸牛で作るにもかかわらず安い!でも、当日は食べられません(カレーか?)



さて、私がお肉(我が家ではお肉=牛肉です。鳥・豚は頭に着けますが、牛は基本お肉です。カッコつけてますがつまり牛肉あんまり食べられません。)を購入する店舗は決まっています。神戸大丸正面の「守屋商店」か神戸湊川の「太田屋」さんです。今回は時間の都合(店長以下従業員がお友達なので、長話に成ります。)や駐車場(神戸の繁華街で路上駐車できません。)の関係もあり、湊川の「太田屋」さんに向かいました。

購入したのは、当日特売の牛スジ肉2.5キロ(500g1280円が当日800円)です。「太田屋」さんが扱うのは、基本但馬牛を元牛とした神戸牛・三田牛・淡路牛そして但馬牛だけです。ですからスジといってもA5ランクのスジ肉なんですよねえ~。お肉の事をあまりご存知ない方はコンビニのスジおでんを想像されるかもしれませんが、全くの別物です。スジ肉と言っても馬鹿ににはできません。お肉の味がしっかりついているんです。

さて次は調理方法ですが、やはりあく抜きは行わないといけません。ずんどうに2.5kg のスジ肉を入れひたひたになるまで水を入れます。生姜とネギを臭み抜きで入れて煮立たせます。出てきたアクをとりながら 20分ほど強火で火にかけます。火を止めて中のお肉が外に飛び出さないようにしながら水を捨てます。そしてまた水をひたひたにして同じ作業を2度繰り返します。この作業によりスジ肉の臭み(余りないです。)や抜け残ったあくも取ることができます。

この作業の後肉を一度全て取り出し、口入る大きさに切断して寸胴に戻します。寸胴に戻した後、約2時間煮込んで肉を柔らかくします。スジ肉がすべて柔らかくなった頃を見計らって味付けをします。味付けはお好みで良いのですが基本は、お砂糖・薄口醤油・みりん・酒・きざみしょうが等です。私はシンプルなものが好きなので具材は玉ねぎだけですが、お好みでねぎや糸こんにゃくなどを入れても良いかもしれません。最後の15分程なったら、切った玉ねぎを四ケ分程投入ししばらく煮つめて火を止め一晩おきます。

翌日もう一度味が染み込んだスジ肉に火を入れます。前日に入れた玉ねぎは溶けている可能性があるので、サクサクの玉ねぎがお好みの方は、後で玉ねぎを二つほど追加してください。

さあ召し上がれ。


P6100030.jpg(下で使った器の説明をさせてください。)

まずは丼ですが、同じ物が無いのでこちらの写真にはありませんが、私の陶芸師匠・京焼の吉村先生作です。シンプルな先生得意の轆轤形ですが、薄くて使いやすく刷毛目のアクセントに御本手(萩焼に多い。)の模様が浮いています。次にかくてきを乗せた小皿ですが、出雲松江藩御用窯の流れを汲む布志名焼き、松平不昧公(大名茶人)好みの袖師窯で調達しました。「かけ分け(ブリュッセル万博陶芸グランプリ)」は伊達じゃないです。小さい小鉢は丹波・渓水窯の芥川啓子(清水焼)さんの「赤絵付け」兎の可愛さに負けた(器は御夫君の芥川清さんと共にテレビや映画の撮影にも使用されるそうです)。映画”関ケ原で”家康の燭台を作成、京都で女優さんの陶芸演技指導もされるとか…。箸置きは信楽焼きでFacebookでお友達に成って頂いている篠原さんの焼き締め(徳利買ったらおまけにくださった物。)最後に忘れてはいけないのがお箸、taka:aさんから誕生日プレゼントにいただいた箸です。

さて、「牛丼」総額はお肉の4000円+玉ねぎ200+消費税=4536円でしたが、十人前は作れると思うので、一人前に換算すると玉ねぎを入れても約450円で作ることができます。皆さんも是非参考にして作ってみてくださいね。

P6100027.jpg(ほらね~全然スジ肉じゃないでしょ!)

【最後に一言】味の秘訣は手間暇と愛情。


最後の一言は、味の秘訣ですがやはり”愛情”と言わざるを得ません。時間をかけて丁寧に作ること、めんどくさいことですがこれが一番の味付けになります。スジ肉は安いお肉ではありますが、お肉の味が一番出ると考えています。口の中でとろけるゼラチン、スジについた筋肉の味も最高です。スーパーで買った紅しょうがですが色合いも兼ねて載せてみましたどうぞご堪能ください(笑)。

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2018/06/06

「ゴールデンウィーク企画」最終回?は我が村の神社『井田神社』をご紹介します。

「ゴールデンウィーク実家帰省企画」の最期を飾るのは、私の故郷の思いで詰まった”兵庫県豊岡市日高町鶴岡区”の村社『井田神社』です。

前回も申しましたように、鶴岡区は、日高町(市町村合併によって現在豊岡市日高町(旧:城崎郡日高町)の中でも歴史上一番といっても過言では無い大きな地区です(地図をご覧に入れます。)。

勿論但馬地方の過疎化によって人口は減ってきてはいますが、平安時代に国府が存在した場所(二度の移動があり二期国府の位置は確定出来ていません。)と、明治以降日高町久斗地区にグンゼ工場の社員寮(女工さんがかなりの人数労働に従事していました。)が有った時期意外は、日高町(旧但馬國氣多郡)最大の人口を誇っています。



【プロローグ】故郷の誇りを確かめに『八幡さん』にお詣り。


CIMG3119.jpg(顔の修正はしてませんが、区長さんの許可の元撮影してます。でも真ん中はひどい?弟です。笑)

子供の頃は、お詣りに行くというよりはよく遊びに行きました。カブトムシやクワガタムシを取りに行く場所でした。私が初めて徹夜をしてカブトムシを一人で捕獲したのも、この神社でした。要領の良い上級生がいつも私よりも先に行って昆虫を取ってしまっていたので、絶対に欲しかった私にとっては徹夜して暗いうちにチャレンジするしか彼らに勝てる方法はなかったのです。最初に取った一匹はカブトムシの♀でしたがすごく嬉しかったことを記憶しています。

そんな井田神社ですが、古い歴史を誇る神社であるとともに円山川の岸壁という天然の要害を備えた山城「伊福城」という側面も持ち合わせています。今回ネットで地図を探してみたところ神社の裏山そのものが城として存在していたことにが分かり、びっくりしました。

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兎追いしあの頃、「凄いぜ!でかいぜ!」



”兎追いしあの頃”と書きましたが、実際は昆虫追いしあの頃ですね、先日クワガタムシの値段について検索するとミヤマクワガタとノコギリクワガタを比べるとミヤマクワガタの方が高額なのにびっくりしました。井田神社にはミヤマクワガタが以外に多くてノコギリクワガタが少なかったので、ノコギリクワガタの方が値段が高いと大人になるまで思っていました。ノコギリクワガタの顎のラインの美しさに魅了され、今でもノコギリクワガタは上手にスケッチできます。



上の地図は、鶴岡地区の現在の範囲を赤線で囲い表したものですが、いかに鶴岡地区が大きいかお分かりでしょう。実際に人が暮らしているのは円山川の西側と対岸一部なのですが地区が多くの山林を保有しているのは珍しいと思います。

時代を遡ること400年前、戦国時代に豊臣秀吉の弟秀長が但馬征伐(但馬人としては但馬侵略としたいです)の時秀長に味方して、”漫画センゴク”で有名な「仙石権兵衛久秀」や城作りの名人としても有名な「藤堂高虎」などと共に『水生城』を攻略した郷氏一族がいました。その一族は宵田城主の垣屋氏に代わって、但馬国氣多郡のほとんどを褒美として手中にしたと言われています。

その一族は現在も続いており地区のほとんどの土地に関係を持っておられます(つまり大庄屋さんです。)。さて我が家ですが、どちらかと言うと但馬側勢力であったと伝わっています。ただ郷氏一族との関係もあり、古くは婚姻関係も結んでいるようです(江戸初期に二度、我が家から嫁に行っているようです。その理由も調べたいですね。)。

戦国期の但馬は山名氏と山名氏四天王(垣屋・田結庄・太田垣・八木)が支配していましたが、「織田勢・羽柴秀吉軍」が攻撃を始め山名が有子山城(現出石城山城部)から逃れると、羽柴軍に内通するものも出て、毛利支配下の但馬勢力と二派閥に分かれて戦闘に成ります。この隙をつくように美作を抜けて因幡に攻め込んだ秀吉と対峙する事になった「毛利勢・吉川元春」は、但馬に援軍を送りようもなく弟「羽柴秀長軍」が難なく但馬を制圧しています。

伊福城が併設されています(笑)。 


P5052023.jpg(円山川沿いの井田神社参道ですが、車通交止めに成っています。)
0365215594.jpg(伊福城図、井田神社裏山全てが山城ですね。)

次は伊福城概略ですが、山名氏の家臣下津屋氏の居城でした。康正年間(1455年~1457年)頃には下津屋伯耆守、永正年間(1504年~1521年)頃には下津屋新三郎、永禄年間(1558年~1570年)には下津屋安芸守、天正年間(1573年~1592年)には下津屋丹後守の名が城主として知られています。

CIMG0919.jpg(父が新鶴岡橋の工事を撮影していました。手前の山が北西五郭「曲輪4」、奥に見える三連山は須留岐山です。川の岸壁は天然の要害です。)

「伊福城」は円山川に沿って北西に伸びた丘陵に築かれており、登山道が整備されていました。以前は地区の花見を北西五郭(曲輪4)あたりで催すことがありましたが、現在は台風の影響によって登山道が削られることも度々あり、花見なども催されなくなったことで、北西五郭の状況もよく分かりません。

主郭は山頂にあって東西に長く城内で最も広く平坦です。この主郭の周辺に腰曲輪などが付いており、曲輪の切岸も高く明瞭です。主郭の北西側は堀切状の窪地の先に一段の曲輪があり、南東側は竪堀が長く伸びた堀切と、北側のみ竪堀のような感じに落とした二重の堀になっています。また、北東側の山腹に三条の竪堀があり、西の二条はともに深く長く伸びているようです。子どもの頃に神社の裏山に当る城山中を駆けずりまわって遊びました。当時は城山だとは思ってなかったですね~(;^_^A

式内社:但馬國氣多郡『井田神社』



P5052119.jpg(鳥居が新しくなってました19年前長女の宮参り以来です。)

P5052105.jpg(かごの木?なんじゃもんじゃ?)


式内社但馬國氣多郡『井田神社(旧村社)』は主祭神「倉稲魂命(ウカノミタマミコト)」 配祀神に「誉田別命・気長足姫命(ホンダワケノミコト・オキナガタラシヒメノミコト)」を祀っています。                  

倉稲魂命(ウカノミタマミコト)は、『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記されます。名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神です。両書とも性別が明確にわかるような記述はないが、古くから女神とされてきました。『特選神名牒』には、大冝都比賣命(オオゲツヒメ)とありやはり穀物神です。

誉田別命(ホンダワケノミコト)応神天皇(おうじんてんのう)の事です。(仲哀天皇9年12月14日~応神天皇41年2月15日)は、第15代天皇(在位:応神天皇元年1月1日~同41年2月15日)。諱は誉田別尊(ほむたわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけのみこと)。

気長足姫命(オキナガタラシヒメノミコト)神功皇后は『古事記』ではオキナガタラシヒメ命という名で記され、神社ではその名で祀られることが多いです。オキナガとは地名とも長寿の意味とも言われ、タラシは尊称でこの語を名にもつ天皇も多いそうです。第十四代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の后で、八幡神として祀られる第十五代応神天皇の母です。但馬では始祖とも言われる『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」が出石神社に祀れており、神功皇后の祖先としても知られています。

P5052122.jpg
(古い神社は階段が定番。)


創祀は不詳ですが、元々は倉稲魂命を祀っていましたが、嘉祥元年(848)悪疫流行の際、山城国「石清水八幡宮」より誉田別命・気長足姫命の二柱を勧請したと言われています。

山陰本線「江原駅」の北東1.5Kmほどの距離です。国道482号線を進み、円山川にかかる新鶴岡橋を渡って左に戻りと参道入口(鳥居)がありますが、車は通行止め、入口には「式内井田神社」と刻まれた社号標が立っています。車で向かうなら、新鶴岡橋経由上之郷区から井田神社へ向かう山道か、もしくは日置区日置橋から鶴岡区の多田谷経由の迂回路を使わないと行けなくなっています。

社号の井田は「いだ」とも「いた」とも読み、通称は伊福八幡社(伊福は鶴岡、江戸期前の名前です。)です。神社の鳥居は円山川に面しており、川の方向から階段が続き船着場があります。現在の参道が付く前は対岸から船で参拝するのが正式な参拝していました。鳥居(私の知る限り3回作り直され現在は御影石)をくぐり階段を上り、木々の茂った参道を進むと境内です。明治以降の一時期、円山川対岸の楯縫神社が井田神社に合祀されていましたが、昭和二十二年、現在地(対岸日高区)に分離されました。

P5052125.jpg(もう少し、見えて来ました。)
P5052137.jpg
(初めてカブトムシをつかまえた、しいの木です。)
P5052145.jpg(拝殿と神殿は一緒にUPします。)


『播磨国風土記』では、「アシハラシコの黒葛は一条は但馬の気多の郡に、一条は夜夫(養父・ヤブ)の郡に、もう一条はこの村(御方里・おごうり)に落ちたので三条(ミカタ)と云う。」とあり葦原醜男(大国主・アシハラシコ)と天之日矛の土地争いの話が出て来ます。


さらに『但馬故事記(貴重な歴史資料と考えるべきか偽物と考えるべきか?な書物です。)』では、神功皇后2年、気多の大県主の物部連大売布命が亡くなり、その子・物部多遅麻連公武をもって多遅麻国造とする。 多遅麻国造、彦狭知命(職の神)の末裔・楯縫首を召し、矛・楯を作らせ、(式内楯縫神社は現在地ではなく鶴岡字多田谷) 石凝姥命の末裔・伊多首を召し、鏡を作らせたとあります(式内井田神社)。伊多首は鏡造りの祖・石凝姥命(いしこりどめのみこと)事で鋳含(いふく)丘に祀りました。やはり伊福は鋳含から来ているようです。

兵庫県無形文化財”井田大神楽”と四年に一度の大祭り


CIMG3086.jpg(幟を持った村役さんたちです。)
CIMG3088.jpg(続いてお囃子。)
CIMG3108.jpg(御神輿来ました。皆さんへべれけですが、大祭りですから。)
(子どもだんじり、一つの区で出来るレベルは越していると思いませんか?凄いぜ~!)
CIMG0825.jpg
(女の子たちの手踊りですが、雨のため急遽、我が家で踊る事に(;^_^A、30分で準備無理があると思うけどね。)


井田神社大祭(ここでいう大祭四年に一度の事ではなく通常の秋のお祭り)は、鶴岡区の氏神である井田神社に奉納する秋の神事で、五穀豊穣、村内安全を祈願するため江戸初期から始まったと伝えられています。

例年は『大神楽』と「子どもだんじり」だけの奉納ですが四年ごとの夏のオリンピックの歳には区民総出の大祭が行われます(戦中戦後は時節柄、また男手不足から中断していました。私が中学生の1976年モントリオールオリンピックの年に再開されるようになったと記憶しています)。

昔の大祭では、屋台に乗る囃子や三十石船で円山川を渡る雅やかな船渡御(ふなとぎょ)勇壮な馬の早駆けなども行われ、一つの地区の祭としては稀有のにぎやかさでした。現在は、陸渡御(りくとぎょ)のみとなり、旗持ちと大太鼓を先導に神輿が練り歩き、それに続き屋台、囃子、大神楽、子供の手踊り、子供だんじりなどが随行して総勢300人の行列が区内を一日かけて巡行します。

(物語!横暴な獅子がおりました。)
(天狗が獅子の剣を奪って懲らしめようとします。)
(力比べをして、獅子をこらしめる天狗。)
(天狗が勝利して、改心した獅子に太刀を返します。)
(獅子は大変喜んで、豊穣の舞を踊る。伊勢大神楽は、”壬申の乱”の時に大海人皇子「後の天武天皇」が舞った姿を模しているといわれます。)

『井田大神楽』ですが「伊勢大神楽」の流れを汲むと思われ、兵庫県の無形文化財に指定されています。午前中に氏子を廻り「浄めの舞」を舞い、午後2時過ぎに井田神社本殿前で「幣の舞」「天狗の舞」「祇園囃子」「剣の舞」「わくわく」「豆ひろい」「乱獅子」を奉納します。円山川の対岸(左岸)にある楯縫神社と氏子が合併した時期があり、大神楽もかつては一つで、芸態・衣装などよく似ていますがいずれも、約200年前の文化年間が起源と伝えられています。

【最後に一言】三つ子の魂百まで。


子供の頃の思い出は楽しいものばかりでもありません。せっかく捕まえたミヤマワガタを無理やり上級生に買い取られたこともあります。今思えばおかしな感じがしますが、両親は大変怒ってそのお金を私に返しに行かせました。その上私が採った虫までも、上級生にプレゼントしてしまいました。教育者だった両親は、そのようなことにも厳しかったような気がします。

さて今回久々に”お宮さん”を訪れ、やはり故郷はいいなあと感じました。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」と言いますが、離れて生活しているからこそ素晴らしさに気がつきます。父が送ってくれる米や野菜や果物はいつも新鮮で美味しい、これで母が健在でいてくれたらと思う今日この頃です。

厳しかった父も八十歳を超え、少し弱くなったなあと感じるようになりました。そろそろ田舎に帰って面倒を見る日もそう遠くないのかもと考えてしまいます。親不孝をしてきた私、親孝行できる日にも限りが有ると考えると複雑な心境です。ブログを書き終えて、目を閉じると「子供だんじりの太鼓の音」「神楽の笛の音」が頭の中に鮮烈に蘇ってきました、やはり故郷は良いですね。

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2018/06/03

「刀剣女子」必見!国宝『童子切り』はここで創られた。

『出雲大社・荒垣内摂社・そして最期の神殿』シリーズをお待ちの皆さんもう少し待ってください。出雲大社取材後ゴールデンウィークで実家に帰省する途中大山で見出し取材を慣行。



【プロローグ】刀剣女子と春日神社の屋根裏



名刀を擬人化したオンラインゲーム『刀剣乱舞(とうけんらぶ)』をきっかけに(”とうけんらんぶ”だと思ってたんですが、”らぶ”だそうです)、約3年前に火が付いた刀剣ブームがさらに広がりを見せています。人気を支えるのは「刀剣女子」と呼ばれる若い女性たちです。展覧会などが各地で計画され、開催される刀剣展にも女性たちがこぞって詰めかけているのだそうです。ブームを通して鑑賞眼を養い、知識を深めていく刀剣女子。彼女たちはなぜ日本刀に魅了されるのでしょう?女性たちはみずからをゲームでプレイヤーを指す呼称である審神者(さにわ)と呼んでいるのだそうです。ちなみに本来の歴史用語の審神者(さにわ)とは、古代の神道の祭祀において神託を受け、神意を解釈して伝える者のことです。後には祭祀の際に琴を弾く者を指すようにもなっています。

そんな「刀剣女子」の皆さんこんなレジェンドも作ってます。銘刀『蛍丸』復元のため、刀工の福留さんと興梠さんががクラウドファンディングを開始すると4500万円があっさりと集まった!ちなみに、蛍丸(ほたるまる)とは、来国俊作の日本刀(大太刀)で、阿蘇神社に保管されたことから”阿蘇の蛍丸”とも呼ばれる物ですが戦後の混乱期に行方不明に成っていました(ゲームの中では可愛い男の子キャラだそうです。)。

P5200586.jpg(奈良春日大社宝庫の写真は撮ってなかった。大社自体はまたの機会にご紹介します。)

先日、我が但馬でも「竹田城」最後の城主「赤松広秀」が所蔵し数奇な運命に翻弄された日本刀『獅子王』の写し刀が、418年ぶりに”帰郷”したニュースがありました。こちらもクラウドファンディングで刀剣女子の皆さんの尽力が有ったようです。但馬人の一人として感謝申し上げます(刀剣女子の知識は私の歴史雑学の及ぶところでは無いようなので、ちょっとビビッてます。)。『獅子王』418年ぶりに“帰郷”の話題はまたの機会に取り上げたいと思います。

春日神社の屋根裏って何だ?と考えられたと思いますが、戦前「春日大社」の宝庫の天井裏で発見された太刀を約80年経ってサビを落として修理を施したところ、最古級の日本刀だったことがわかりました。長くなりそうなので詳しく後で説明しましょう。

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天井裏の刀は古伯耆の中でも最古とみられる刀工「安綱(やすつな)」作?


ss032-3[1]
(先日国宝展に見に行ったのですが古伯耆は無かったのでWikipediaから拝借しました。)

春日大社(奈良市)の発表によりますと、所蔵する太刀1本を研磨した結果、日本刀の原型が成立した最初期である平安時代末期ごろに作られた「古伯耆物(こほうきもの)」と呼ばれる最古級の日本刀と判明したそうです。現存する鎌倉時代以前の刀剣の中でも長寸の刃長82.4センチで、製作した当時の形がほぼ残っており貴重なものだそうです。

1939(昭和14)年に大社宝庫の解体修理をした際に天井裏(屋根裏ではなく天井裏ですね・笑)から発見された太刀12本のうちの1本です。刀身がさびていた太刀について2015年から「第60次式年造替(しきねんぞうたい)」を記念して順次、刀剣研磨師の人間国宝、「本阿弥光洲(ほんあみこうしゅう・光意系本阿弥18代、本阿弥家は刀剣のとぎ(磨研)・ぬぐい(浄拭)・めきき(鑑定)の三業を家職としています。本阿弥光悦が有名ですね。)さんに研磨してもらっており、今回の太刀が4本目だったそうです。

日本の刀剣は、古代遺跡での出土品や正倉院宝物などにみられる反りのない「直刀」から、平安後期に反りなどの付いた現在の日本刀の形が成立し始めます。伯耆国(現鳥取県中西部)で作られた「古伯耆」などが最初期のものとされています。この刀も持ち手付近からの反り方など最初期の特徴を備えていたうえ、焼き入れの際に刃の表面に入った模様の特徴などから、伯耆国(現在の鳥取県)で作られた古伯耆物と分かりました。古伯耆には十数点の国宝・重要文化財があり、この刀も製作者の銘は無いものの、調査した東京国立博物館の酒井元樹・主任研究員(日本工芸史)によると、「これだけ長寸の古伯耆で、外装も残っているのは珍しく、国宝「童子切(どうじぎり)」(同博物館蔵)で知られ、同時代に活躍した刀工、安綱(やすつな)が製作した可能性があるといいます。

平安時代から武家に伝わる「伝家の宝刀」が、南北朝~室町時代初め(14~15世紀)に大社に奉納されたとみられ、外装は、中世の武士が常用していた「黒漆山金作太刀拵(くろうるしやまがねづくりたちこしらえ)」と呼ばれる作りですが、その前には別の外装が施されていたとも考えられ、日本刀の歴史を考える上で重要な資料として注目されます。 

国宝『童子切り』ってどんな刀?



童子切(どうじぎり、どうじきり)は、平安時代の伯耆国の大原の刀工・安綱作の日本刀(太刀)です。童子切安綱(どうじぎりやすつな、どうじきりやすつな)とも呼ばれ、日本の国宝に指定されています。国宝指定名称は「太刀 銘安綱(名物童子切安綱) 附 絲巻大刀 梨地葵紋散蒔絵大刀箱」(たち めい やすつな めいぶつどうじぎりやすつな つけたり いとまきたち なしじあおいもんちらしまきえたちばこ)です(;^_^A。

刃長二尺六寸五分(約80.3cm)、反り?(はばき)元にて約一寸(3.03cm)、横手にて約六分半(1.97cm)、重ね(刀身の厚さ)二分(約0.6cm)。造り込みは鎬造(しのぎづくり)、庵棟(いおりむね)。腰反り高く小切先。地鉄は小板目が肌立ちごころとなり、地沸(じにえ)が厚くつき、地斑(じふ)まじり、地景しきりに入る。刃文は小乱れで、足よく入り、砂流し(すながし)、金筋(きんすじ)入り、匂口深く小沸つく。帽子は小丸ごころに返り、掃き掛ける。茎(なかご)は生ぶ。先は栗尻。鑢目(やすりめ)は切。目釘孔1つ。佩表に「安綱」二字銘を切る。制作は平安時代後期とされます。

なお、刀身と共に金梨地鞘糸巻拵えの陣太刀様式の外装が現存していますが、この拵えは桃山時代に製作されたものであり、それ以前に収められていた拵えがどのようなものであったのかは判然としていません。天下五剣の一つで、大包平と共に「日本刀の東西の両横綱」と称される最も優れた名刀とされます(データはWikipediaより)。

『童子切り』の名前の謂れが凄すぎる。



かつて伯耆国会見郡の『大原五郎太夫安綱』という鍛冶が一心清浄の誠で鍛え、時の将軍・坂上田村麻呂(蝦夷征伐で有名)にこれを奉じたものだといわれます。田村麻呂が鈴鹿山にて鈴鹿御前と剣合わせした太刀であり、その後は田村麻呂が伊勢大神宮に参拝の折、大宮より夢の告を受け、御所望有りて御殿へ奉納したといわれています。 源頼光が太神宮参拝の時に夢想があり「汝に此剣を与える。是を以って子孫代々の家嫡に伝へ、天下の守たるべし」と示給された太刀です。ちなみに源頼光は但馬国司として但馬に赴任し、前回UPでも登場した我が家となり地区上郷の館で「朝まだき 空櫓(からろ)の音の聞こゆるは、蓼刈る舟の 過ぐるなりけり」と円山川の景観を詠っています。

さて『童子切り』ですが、酒呑童子の説話を書いた絵巻や絵詞などの諸本では、清和源氏の嫡流、源頼光(『太平記』では渡辺綱とされています。)が酒呑童子を斬った太刀として「血吸」(血すい、ちすい)の名前が登場します。頼光が丹波国大江山に住み着いた鬼、「酒呑童子」の首をこの太刀で切り落としたという伝承から「童子切」の名がついたとされます。享保4年(1719年)に江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が本阿弥光忠に命じて作成させた『享保名物帳』には「名物 童子切」として由来と共に記載されています。

慶応義塾大学図書館蔵『しゆてんとうし』には『太平記』からの引用が見られるます。『太平記』によると、坂上田村麻呂が伯耆国大原五郎大夫安綱が打った太刀であり、田村麻呂が鈴鹿御前との戦いに用いた後に伊勢神宮に納められ、頼光が参宮した際に夢中で託宣があり伊勢神宮より下賜った源氏累代の太刀とされます。しかし、その後の渡辺綱が牛鬼を切ったという逸話は綱の持つ鬼切に引用されています。また酒呑童子絵巻の中には酒呑童子の首を絶つに用いた太刀をすでに鬼切丸と称すものもあるようです。『太平記』の物語は以下のようなものです。

【大和国宇陀郡大森に夜な夜な妖者が出没するので頼光は配下の渡辺綱に妖者を討つよう命じ、貸し出したこの太刀で妖者の手を切り落とした。綱が妖者の手を頼光に奉じたところ、妖者は手を取り返そうと頼光の母に化けて頼光の家の門を叩いた。頼光が切り落とした手を見せたとたんにそれを掴み、妖者は自分の右ひじに指し合せ長二丈ばかりの牛鬼となった。頼光は件の太刀で牛鬼の頭を切り落としたがその頭は飛び踊り、太刀の切先を五寸食いちぎって半時吠え怒ったあと地に落ちて死んだという。そののち、この太刀は多田満仲の手に渡り、信濃国戸蔵山にて鬼を切ったという。これにより「鬼切」と称することになったという。— 『太平記』より大意】

現在では制作年代は酒呑童子伝説(10~11世紀)の時期よりも後なのではないかとの見解もあるようです。刀剣研究家の佐藤寒山は、「大江山物語はフィクションが多く含まれていることは否めないだろう(そりゃそうですよね)。しかし童子切は享保名物帳にあることでも、同作の安綱在銘の太刀が比較的に多く現存する中で、安綱中第一等の作であるのは明らか」と記しています。

室町時代には足利将軍家が所蔵していたとされています。足利義昭から豊臣秀吉に贈られたとされ、さらに徳川家康とその子である徳川秀忠へと受け継がれました。慶長16年(1622年)には勝姫が越前国福井藩主である松平忠直へと嫁ぐ時の引き出物であったといい、忠直から松平光長を経て津山藩の松平家に継承されたとされます。光長が幼少の頃、疳の虫による夜泣きが収まらないのでこの刀を枕元に置いたところたちどころに夜泣きが止んだ、浮かんだ錆を落とすために本阿弥家に持ち込んだところ近隣の狐が次々と本阿弥家の屋敷の周囲に集まってきた、等の様々な逸話が伝わっている刀です。

江戸時代に町田長太夫という試し斬りの達人が、6人の罪人の死体を積み重ねて童子切安綱を振り下ろしたところ、6つの死体を切断しただけではなく刃が土台まで達した、という逸話が残っています(どれほど切れるんだ~笑)。明治に入って後も津山松平家の家宝として継承され、1933年(昭和8年)1月23日付で子爵松平康春の所有名義で国宝保存法に基づく国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定されています。文化財保護法に基づく現”国宝”に指定されたのは1951年(昭和26年)です。太平洋戦争終戦後は、津山松平家から手放され、個人所蔵家の所有となりましたが、1962年(昭和37年)に文化財保護委員会(文化庁の前身)によって買い上げられ、現在は東京国立博物館に所蔵されています。

DOJI_KIRI_sword[1](初めて反りが入った刀とも言われます。)

『童子切り』はここで創られた!


P5041970.jpg(大原神社、御祭神は不明です。)
P5041980.jpg(拝殿、安綱も祈りを捧げたのか?)
P5041986.jpg(巌藻ですね~現在は伯耆国ですが古代はこの地は出雲の一部だった証拠かもしれません。)
P5041996.jpg(簡素な神殿ですが、水の流れる音が聞こえます。)



さて今回取材したのは鳥取県伯耆町大原にある伯耆安綱伝承の地と伝承地の傍の大原神社です。刀を作ることは神事ですし、当然伯耆安綱も大原神社で祈りを捧げたと思います。更には神社の御祭神は不明ですが、地下を流れる大山の湧水の音がしました。水は焼き入れに欠かせないもので、反りのかたちもこの工程で決まります。水は古い水で汲み置きして余計なガスが飛んだ落ち着いた水を使うそうです。大山の不純物の無い湧水が名刀の創出に一役買ったのではないでしょうか?

P5042002.jpg(伯耆安綱伝承の地)
P5042019.jpg(説明版「大原古鍛治発祥の地」と伯耆安綱の系図)
P5042007.jpg(伯耆安綱伝承の碑)

【最後に一言】やはり日本刀って凄い。



日本刀には二度の存亡の危機がありました。一度目は、1876年(明治9年)3月28日に発せられた年に出された「大礼服並軍人警察官吏等制服着用の外帯刀禁止の件(たいれいふくならびにぐんじんけいさつかんりとうせいふくちゃくようのほかたいとうきんしのけん、明治9年太政官布告第38号)は、大礼服着用の場合並びに軍人や警察官吏などが制服を着用する場合以外に刀を身に付けることを禁じる内容の太政官布告です。なお、略称として、廃刀令または帯刀禁止令と呼びます。この法令により武士の刀の着用禁止を指示しています。廃刀令による武士の消滅こそ最終的な戦国時代の終わりとも言えます。

二度目は、1945年に日本が敗戦時です。占領軍は軍隊や民間の武装解除を求め、この時 GHQ が摂取した日本刀は数百万にものぼり、名刀も多数ありました。戦利品として海外に持ち出されたもの、海に捨てられたもの、ガソリンをかけて燃やされたものまでありました。戦時の抜刀突撃の怖さはアメリカ兵を恐怖させたと言われています。1946年摂取した刀の一部は美術刀剣の名目で返されることになりました。

日本刀は古代に古来より信仰の対象権威の象徴で、美術工芸品でもありました。刀は複合的な文化財で、なくてはならないものなのです。 私は、日本刀だけは日本人として守り伝えていかなければいけないものだと思います。「美術刀剣」として、これからはクールジャパンの象徴として、刀剣を海外に発信していくことも必要だと思います。ただ、歴史の”負の部分”「刀剣が人を切るもの」だということも考えながら付き合っていく必要があると思います。命を奪う物だからこその怪しい美しさが「刀剣女子」を魅了するのかもしれません。

さらに刀剣作りには、鞘師・塗師・研り師等の関連職業があります。刀の必要性は今現在は無いわけですから、”孤塁を守る(ただ一つ残った土塁を守る)”彼ら達に頑張ってもらいたいと思います。その援軍が「刀剣女子」の皆さんになれれば良いと考えます。刀は日本人の成功と失敗の出発点になっています。失敗は刀に象徴される力や武力に過信が増えた場合に多くの問題が起きる。最も成功した事は、技術をアイデンティティにしたことだと思います。物作りをする人を尊敬する(とうとぶ)文化です。技術者全てが尊敬すると言って過言ではない、「本田宗一郎」は刀鍛冶の孫です。彼は死の床に就くまで、刀鍛冶だった祖父の話をしたといわれています。日本の"ものづくり"の精神性に刮目してほしいです。

宜しければ、日本刀ファンにもう一本送るブログ読んでください。素晴しい話ですよ!「関ヶ原の生き証人」、国宝太刀『銘 豊後国行平作』は歴史その物だった!

いつも応援ありがとうございます。歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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