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2018/02/07

謎が謎を呼ぶ?『楯築遺跡(楯築墳丘墓 )』に眠るのは「吉備津彦」それとも「温羅」?

少し前に古墳と墳丘墓の違いについて、書きました。そのなかで、楯築遺跡が出て来ましたね、私見では「時代は弥生時代に入り、主墳に2基の埋葬施設が確認されましたが、墳頂中央部地下1.5メートルに埋葬されていた大きな木棺がこの墓の主人のものと思われる事。首長の墓として、周囲の物との規模にかなりの違いが有ること、同時代の他墳丘墓と比べても大きさが桁違いな事などから、古墳と呼んで良いのではないかと」提唱させて頂きました。

P7290034.jpg(備後一ノ宮「吉備津神社」の桃太郎です)

今回はその楯築遺跡をご紹介させて頂きます。楯築墳丘墓(古墳)には桃太郎の原型ともいわれる「吉備津彦と温羅」伝説もあり!今回も皆さんの想像力を刺激します。

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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【楯築遺跡】



P7290315.jpg(王墓の丘史跡公園・楯築地区)

楯築遺跡(たてつきいせき、楯築墳丘墓)は、岡山県倉敷市矢部にある墳丘墓です。形状は「双方中円形墳丘墓(珍しいですし、前方後円墳の原型ともされます)」です。国の史跡に指定されています。古くは「片岡山古墳」と呼ばれていました。

墳頂所在地 岡山県倉敷市矢部
形状双方中円形墳
丘墓規模両端72m
墳丘直径50m
築造年代2世紀後半~3世紀前半
出土品鉄剣・首飾・ガラス玉・小管玉
指定文化財国の史跡に指定「楯築遺跡」昭和56年(1981年)12月9日
特記事項全国最大規模の弥生墳丘墓

【楯築墳丘墓概要】

P7290344.jpg(周りに小さい石室古墳が結構あります。)
P7290385.jpg(墳丘墓の中心に神社の代わりか?祠がありました。)
P7290356.jpg(祠の周りに正に楯のような板石が5個立っています。)
P7290393.jpg(神社跡と板石、何故このように立てたのでしょう。)


王墓山丘陵の北側に弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)に造営された首長の墳丘墓です。墳丘の各所から出土した土器片の多くが壺形土器、特殊器台(これ覚えてくださいね)・特殊壺の破片です。

直径約43メートル、高さ4、5メートルの不整円形の主丘に北東・南西側にそれぞれ方形の突出部を持ち、現在確認されている突出部両端の全長は72メートルで同時期の弥生墳丘墓としては日本最大級です。主墳の頂上には木棺を取り囲むように5個の巨石が立てられ、また、斜面にも2列に地表の露出分に高さ・幅とも1メートルあまりの20個ほどの列石がめぐらされ、北東側の突出部は団地造営工事のため、残念ながら破壊されています。

今ではその名残を一部にとどめているだけですが、前方部状の突出で、およそ十数メートルほど伸びています。その上面は幅約3、4メートルで、わずかに前面に向かって下降気味ですが、ほぼ平坦に造られています。突出部の前面はかなり急な傾斜で2~3メートルほど下がり、東西に走る小道に達しており、小道をわたると突出部の続きと思われる高まりがつづき、盛り土しているのが分かります。また円礫が二重三重に置かれていて、円丘につけられた遺構であることが分かります。

南西側の突出部は約20数メートルにわたって細長い幅数メートル高さ2メートルほどの尾根状のものが伸びている。先端部の両側が丸く整形されていてその先端には大きな列石が貼られている。西部分には現在、給水塔が建っていて、今は見ることができません(残念ですね~~!)。

香川県高松市の猫塚古墳や奈良県天理市の櫛山古墳などと同じ双方中円墳ですが、先行的な形態をしています。 2世紀末に起こった倭国大乱が終わった後、瀬戸内海沿岸地方では、古墳造営の新しい兆しが見られ、吉備でも墳丘の造営の動きが見られるようになっています。

このような大きな墳丘墓が、古墳時代より先に築造されていたのは、この地に葬送儀礼に特殊器台・特殊壺を用いる大きな政治勢力があったことを窺わせます。その勢力の代表的な首長の墓ではないかと推測されています。吉備地方では、後の古墳時代中期には造山(全国4位・350メートル)、作山古墳(全国9位・270メートル)の大前方後円墳が造られました。吉備の勢力がいかに大きかったか、を物語る墳丘墓(古墳)です。

【楯築墳丘墓発掘調査】

P7290326.jpg(双方中円形墳丘墓です。分かりますか?)
p159654753.jpg
(良く覚えてくださいね~!南西側には給水塔が、北東側は住宅地に成っています。)
P7290369.jpg(北側は宅地化されて削られています。)
P7290337.jpg(発掘調査説明版)
P7290371.jpg(北東方向は少し残っていますが、その先は削られていました。)
P7290401.jpg(西側の盛り土、南西側の方部の上に立っています。)
p1435789564.jpg
(特殊器台にも弧帯文がデザイン?朝顔型埴輪とどう違うのか?)

昭和51年(1976年)より昭和61年(1986年)の間に、岡山大学文学部考古学研究室を中心とした調査団により6度にわたる調査が行われました。

主墳には2基の埋葬施設が確認され、墳頂中央部地下1.5メートルに埋葬されていた木棺がこの墓の主人のものと思われます。出土した木棺は全長約2メートル・全幅約0.7メートルで棺の底には30キログラムもの朱が厚く敷かれていました(古代の朱)。

「うんちく『古代朱』」について、硫黄と水銀を混ぜ、加熱し硫化水銀を作り、さらに加熱し硫黄分を飛ばして作ります。混合比・加熱温度によって黄~赤~黒まで色が作られます。辰砂(私も陶芸の釉薬に使います)と朱は両方とも硫化水銀が原料で、天然の硫化水銀(辰砂鉱・辰砂石)から作られたものが辰砂と呼ばれます。成分は同じで、天然物か人工物かの違いみたいです。硫化水銀を作る技術はかなり古くからあったようです。古代朱は、朱に特別な加工を施して作られた色だそうです。つまりとても貴重な物でした。

本題に戻りまして、遺骨は検出されず歯の欠片が僅かに2個出土したのみでした(遺骨は何処へ行ったのか?)。木棺は全長3.5メートル、全幅1.5メートルの木製外箱(木槨・朝鮮楽浪古墳に多い埋葬方法です。更には楽浪郡は鉄とも関係が深いのです。)に納められていました(かなり大きいですね)。副葬品が外箱の中に置かれており鉄剣1本、首飾り2個、多数のガラス玉と小管玉が一括り出土しました。これらは岡山大学考古学資料館に収蔵されています。

また、もう1基の埋葬施設は中心埋葬の南東9メートルの位置に発見されたが僅かに朱が認められるのみで出土品は有りませんでした。副葬品の貧弱さは、権威や富に関係するのではなく、その時代の埋葬の習俗の影響と考えられます。意味がよく分からないのですが、夫婦?とか、墳丘墓の設計者とかですかね?(ん~~謎です。)。

団地造成時に破壊された突出部分にはかつて石列があり朱塗りの壺型土器が配列されていそうです(墳丘墓から見ると一目瞭然ですが、今は住宅地なんですよね~f(^_^;)。

P7290390.jpg(給水塔側から見た墳丘墓東側高4~5mくらいですね。)
P7290398.jpg(墳丘墓斜面にも2列に地表の露出分に高さ・幅とも1メートルあまりの20個ほどの列石があります。)

【弧帯文石(弧帯石)】

p7536512546.jpg(複製品、弧帯文石・東京国立博物館展示。)

墳丘上には大正時代の初め頃まであった楯築神社に、代々伝世し、ご神体として神石(亀石)と呼ばれる全表面に毛糸の束をねじったような弧帯文様が刻まれた石が安置されていましたが、現在はこの遺跡のそばの収蔵庫に祀られてます。こちらは「伝世弧帯文石」と呼ばれています。 この弧帯文は、纏向遺跡の弧文円板と葬送儀礼で共通するといわれているのです。纏向遺跡(箸墓古墳に眠るといわれる、倭迹迹日百襲姫命は、吉備津彦の姉妹に成ります。)との繋がりが出て来ました~f(^_^;

ここ楯築遺跡にも吉備津神社や鬼ノ城などのように温羅伝説が残っており、吉備津彦が温羅との戦いに備えて石楯を築き、防戦準備をしたと伝わっています(私には墓を壊して石室を曝した跡にしか見えなかったけどね!)。

鬼ノ城については、以前天智天皇が天智2年(663年)白村江の戦いで、倭(日本)百済復興軍は、朝鮮半島で唐・新羅連合軍に大敗した事をきっかけに、瀬戸内の守りを固めるために作らせたとの考えを以前ご紹介しました。

P7290236.jpg(温羅の本拠地?鬼ノ城!)

【吉備津彦は桃太郎か?温羅って誰だ?】

P369875461.jpg
(岡山駅の温羅の銅像、男前です。)


温羅(うら・おんら)は、岡山県南部の吉備地方に伝わる古代の鬼です(岡山駅の銅像が有名です。中央にまつろわない「服従しない」、国・地域・人物等を鬼と呼んだ様です。)。温羅とは伝承上の鬼・人物で、古代吉備地方の統治者であったとされます。「鬼神」「吉備冠者(きびのかじゃ)」という異称があり、中央の伝承によると吉備には吉備津彦命(きびつひこのみこと)が派遣されたとされ、吉備に残る伝承では温羅は吉備津彦命に退治されたといわれます。

伝承は遅くとも室町時代末期には現在の形で成立したもので、文書には数種類の縁起が伝えられています。また、この伝承は桃太郎のモチーフになったともいわれているので、岡山は『桃太郎』で有名なんですよね。

伝承によると、温羅は吉備の外から飛来(渡来)して吉備に至り、製鉄技術を吉備地域へもたらして鬼ノ城を拠点として一帯を支配したといわれます。吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたため(支配した?製鉄技術を教えたりして、名首長じゃないですか!)、これを救うべく崇神天皇(第10代)は孝霊天皇(第7代)の子で四道将軍の1人の吉備津彦命を派遣しました。

討伐に際し、吉備津彦命は現在の吉備津神社の地に本陣を構えまさた。そして温羅に対して矢を1本ずつ射ましたが矢は岩に呑み込まれて外れます。そこで命は2本同時に射て温羅の左眼を射抜きます。すると温羅は雉に化けて逃げたので、命は鷹に化けて追いかけます。さらに温羅は鯉に身を変えて逃げたので、吉備津彦は鵜に変化してついに温羅を捕らえました。そうして温羅を討ったといわれています。

討たれた温羅の首はさらされることになりましたが、討たれてなお首には生気があり、時折目を見開いてはうなり声を上げたそうです。気味悪く思った人々は吉備津彦命に相談し、吉備津彦命は犬飼武命に命じて犬に首を食わせて骨としましたが、静まることは有りませんでした。次に吉備津彦命は吉備津宮の釜殿の竈の地中深くに骨を埋めましたが、13年間うなり声は止まず、周辺に鳴り響きました。

ある日、吉備津彦命の夢の中に温羅が現れ、温羅の妻の阿曽媛に釜殿の神饌を炊かせるよう告げます。このことを人々に伝えて神事を執り行うと、うなり声は鎮まったといいます。その後、温羅は吉凶を占う存在となりました(吉備津神社の鳴釜神事がそれですね)。私は占いをお願いしたことは無いのですが、現地には訪れています。

【伝説登場人物の紹介】

『温羅』

温羅(うら)「吉備冠者」「鬼神」とも呼ばれます。鬼ノ城を拠点とした鬼です(鬼ノ城については前出!)。渡来人で空が飛べた、大男で怪力無双だった、大酒飲みだった、等の逸話が伝わります。出自についても出雲渡来説・九州渡来説・百済渡来説・加耶渡来説・新羅渡来説など複数の伝承があります。

『阿曽媛』

阿曽媛(あそひめ)温羅の妻。阿曽郷(現・総社市奥坂)の祝(神に祈る人)の娘。

『王丹』

王丹(おに)温羅の弟(そのままやん)。

『吉備津彦』

吉備津彦命(きびつひこのみこと)記紀に記載が有ります。「大吉備津日子命」ともいわれます。いずれも吉備平定後の名で、本当の名は「彦五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと、比古伊佐勢理毘古命)」。第7代孝霊天皇皇子。『日本書紀』では四道将軍に数えられます。『古事記』『日本書紀』とも、吉備へ征伐に派遣されたとされます。地元では、妃として百田弓矢比売命や高田姫命(たかだひめのみこと)の名が伝わっています。

四道将軍とは、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと・北陸道方面司令官)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと・東海道方面軍司令官)、吉備津彦命(きびつひこのみこと・山陽道方面軍司令官)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと・丹波丹後方面司令官)の4人を指します。

吉備津彦命(弟)は、稚武彦命(わかたけひこのみこと)とも記紀に記載があります。「若日子建吉備津日子命」ともいわれます。兄を「大吉備津彦命」、稚武彦命を「吉備津彦命」と記す場合もある様です。第7代孝霊天皇皇子で、吉備津彦命の弟です。『古事記』では、兄とともに吉備へ派遣されたとされます。(倭迹迹日百襲姫命の兄と弟か?)

『犬飼武命』

犬飼武命(いぬかいたけるのみこと)忠実な家臣といい、桃太郎における犬のモデルとされます。後世、犬養毅はその後裔を称しています(出来すぎです(;^_^A)。

『楽々森彦命』

楽々森彦命(ささもりひこのみこと)当地出身の家臣で智将といい、桃太郎における猿のモデルとされます。その出自は県主(律令制以前の地位、国造や伴造より古い呼び名です。)であったともいい、娘の高田姫命が吉備津彦命に嫁いだともいわれます。

『留玉臣命』

留玉臣命(とめたまのみこと)「遣霊彦命」とも言われます。鳥飼に優れた家臣といい、桃太郎における雉のモデルとされます。

【うらじゃ祭】

うらじゃ祭とは、岡山県岡山市にて行われている夏祭りです、新しい祭りで、YOSAKOIと同じようなお祭りです。岡山県に古くから伝わる鬼神「温羅(うら)」の伝説を元にしたものであり、名称もそれに由来します。「うらじゃ、うらじゃ」の掛け声で練り歩くお祭りのようです。つまり「鬼だぞ~鬼が来たぞ~」のイメージですかね(笑)?現在では、「おかやま桃太郎まつり」のメインイベントとして、8月の第1日曜日とその前日の土曜日に岡山市中心市街地で開催されています。踊りに参加する人が全員、顔に化粧を施すのが特徴だそうです。

【最後に一言】

いつもの事ですが、勝った者が歴史を書き換えていきます。渡来人「温羅」は人々から慕われ、首長として大きな力を持つようになったのかもしれません。その最新の技術や情報は、中央政権として台頭してきた倭の王からは邪魔な存在だったと考えられます。「出雲王国」と「吉備王国」の連携は中央集権国家を目指す倭にとって一番の脅威だったでしょう。

「楯築墳丘墓」は吉備津彦が温羅との戦いに備えて石楯を築き、防戦準備をしたとの伝承がありますが、私の現地での感覚は中央にたてついた温羅の墓を暴き死体を晒ものにした後のようにも見えました。防戦基地としてはお粗末すぎます。

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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