2018/01/13

「大国主」は暗殺された?哀愁の『須勢理毘売命』を追って!vol①

前回『須勢理毘売命』のお話しをさせて頂くために、大国主の女性達を紹介致しました。反響を頂いたのですが、皆さん最初の写真の出雲大社の兎が「可愛い~~!」との反響~?。(笑)

まわしを締めていたのは、野見 宿禰(相撲の神様)のお社の隣の兎だからでした。ということで、今回も「看板兎」で皆さんを惹き付けま~す。(*^^*)

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(こちらは大国主と因幡の素兎「ガマの穂をくわえた八上姫」ですね。)

さてお話しは、『須勢理毘売命』が大国主から離れて、出雲王国の端ともいえる大山町に移り住んだ経路を追い掛けるという企画です。行ってみよう~~!

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【唐王神社の賑わい】

PB051684.jpg(小さな神社、鳥居には松籬社「松垣根の社」だそうです。何か変?)

《唐王神社公式サイトより抜粋》

「まーむしまむし、よーけよけ、唐王御前のお通りだ」とは、山の茂みや草むらなどにわけ入る時の唱え言葉でありますが、当社のご神徳はこの地方に広くゆきわたっております。

ご祭神須勢理毘売の神様は、女神様で御父神様はあのご気性のはげしい素盞鳴命(すさのうのみこと)です。当時賢明で御徳高く信望の厚い大国主命が、須勢理毘売命を妻にと申出のあった際、素盞鳴命は姫の夫をしてふさわしいかどうかを色々な方法で試されたのでした。

最初の試練は、毒蛇の室で一夜を過すことでした。大国主命が部屋に入られるや否や、大蛇や蝮等毒蛇が数知れずどっと襲いかかって来たのです。その時すかさず須勢理毘売命は「この比礼を三度打ち払い給え」と申されて、その通りに比礼を振ると毒蛇はみな姿を消して危機を助けられました。

その次は、むかでと蜂の部屋でした。又火ぜめの試練もありましたが、その都度姫のご神徳によって危険をのがれられ目出度くご夫婦となられました。後御子事代主命の神々と共に力を合わせてこの国の農業の開拓、医療の進展、温泉の開発等と人々の福祉を進められたご功績は甚大なものがあります。この神社は、この須勢理毘売命を崩った地として、以前には毎年出雲大社から祭官が参向されていたそうであります。

現在も害虫毒虫蝮よけの守護神として県内外からの参拝者も多くあり、ご本殿下の砂をいただいて田畑にまけば害虫が去り、家屋敷にまけばささりやむかでが退散するし、又お守を身につけて居るならば蝮の危害をのがれることができるし、更に神社裏奥にあるご神井の水は如何なる旱祓にも涸れたこともなく(※)、蜂にさされた折等いち速くこのご神水をぬれば勿ち治癒するといわれて居ります。

旧8月3日には早朝から参拝者で賑わい、特に地方の名産干瓢市が立ち見る間に数百貫の干瓢も売り切れてしまいます。又芸能奉納や名物「どじょう汁」の売店もあります。

<昭和49年 汗西神社案内>

※現在は整備事業の為水脈が変わり、水は出なくなりましした。

汗西神社とは唐王神社の事の様です。何故か名前が違いますし、前回気がつかれた方も居られると思いますが、鳥居の名前も(松籬社)神社でしたね。土地のなまえが唐王なので唐王神社と呼ばれているのかも知れません。

PB051686.jpg(唐王神社の千木も外削り、鰹木も三本、男神様ですね~?)

【大国主は暗殺された?】

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(古代心柱の後地上40メートルの日本最大高を誇る大神殿が実在したことが証明されました。)
PB020109.jpg(出土した古代心柱のレプリカです。)

大国主と別居することになった「須勢理毘売命」ですが、はこの別居に疑問点があると感じています。

別居された理由とされる神話は、『日本書紀』の葦原中国平定の場面の第二の一書にのみに登場します。大穴牟遅命(大国主)が国譲りを決め、幽界に隠れた後、高皇産霊尊が大物主神(大国主の奇魂・和魂)に対し「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」と申されました。このように記載される「日本書紀」の解釈を物語の通りに考えると、色々な疑問がわいてきます。

ストレートに読むと、この時点で大物主神(大国主の奇魂・和魂)と成っています。つまり神霊、幽界に隠れた後とは、大国主の死を意味していると考えるのはおかしいでしょうか。「国譲り」といえば美しいお話ですが、つまりは戦争、もしくは脅しですね、大国主は一個人ではなく、出雲大国王の名称でしょう。多くの名前(大穴牟遅神・大己貴命・八千矛神・葦原醜男・大物主神・大國魂大神
等)も多くの子孫も大きな功績(国造りの神として有名)も出雲大国王が成し遂げたと考えると、理解出来ます。

倭もしくは大和、天孫族に国を奪われた出雲王国の王は杵築大社に祀られました。出雲王国は加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡、妻木晩田遺跡、更にはヤガミヒメの因幡、ヌナカワヒメの越までを、考えると大きな都市国家を線で繋いだ、日本海側の最大勢力を誇る王国でした。本来の出雲は現在の出雲大社がある出雲市ではなく、「 出雲風土記」で語られた『意宇(出雲六社や国府跡・国分寺跡が残る)』であったことは間違いないと思います。

CIMG2378.jpg(古代出雲の中心「出雲風土記」の意宇の杜)
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(荒神谷遺跡、日本最多358本の銅剣「国宝」が出土しました。 『出雲国風土記』記載の神名火山「神の山」とされます。)
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(加茂岩倉遺跡、1ヵ所からの銅鐸出土としては全国最多、総数は39個「国宝」。)

大和政権が自分たちの神話に取り入れ、大国主が死してなおその勢力を恐れ、地上40メートルにも及ぶ巨大な空中神殿を作って祀らなければ怖くてしょうがなかったのです。前回も申しました様に、出雲王国の三種の神器は、生大刀と生弓矢、天詔琴です。しかし出雲大社の御神体は、その何れでも無いであろうことを、実は私「有る関係筋」からの聞き取り調査で存じております。大国主は、死に追いやられたと私は推測します。

【社伝「須勢理毘売命」の道行き】

PB051801.jpg(上陸地大山町の阿弥陀川河口付近、今はサーファーの聖地と成っていました。)
PB051793.jpg(浜を上がると大山が見えます。やはり目印は大山!)
PB051841.jpg(最初の地、国信の「若宮原」付近)
PB051847.jpg(鳥居は在っても社は在りません。戦国期には吉川元春VS尼子勝久の戦があった森末城の一部に成ったかもしれません。)
PB051848.jpg(振り返るとやはり大山)


倭に首都を奪われた、大国主の妻「須勢理毘売命」は辺境の妻木晩田遺跡(妻木晩田は1世紀に最盛期を迎え2世紀後半に滅んでいます。)からすぐ傍の唐王の地に逃れる事を余儀なくされます。その道行は意宇から東に逃れ揖屋の港から米子市夜見を通り(ここまでは私の私見です。)、大山町の阿弥陀川河口付近に上陸され、最初は大山町国信の「若宮原」に居を構え暫らく滞在します。今でも大きな松の切り株や弥生式の土器が出土するようです。

しかしここは、海辺ゆえの波風が立ち海の音も高いがゆえに、大山町末吉の「天皇さん」に居を移されたといいます。暫らくご滞在になられましたが、やはりまだ海から近いということで、末長の「天皇さん(地元でこのように呼ばれています。末吉・末長共にめでたい名前ですね。)」に移られたということです。近くに喉を潤した湧き水と腰を下ろされた腰掛岩が在るとの記載がありました。そこでもまだ海が近いと唐王へお移りになったとの言い伝えもあります。

PB051767.jpg(末吉の「天皇さん」と呼ばれているらしい。由来は地元の方も良くわからない様子でした。)
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(質素なお社、謎が謎を呼ぶ~笑次回もよろしくお願します。)

【最後に一言】

フィールドワークの大切さを実感させられるようなブログに成りました。ハインリヒ・シュリーマンが19世紀末に、ギリシャ神話やホメーロスの英雄叙事詩『イーリアス』をもとに、長く伝説上の古代都市と思われていたトロイアの都市国家イーリオス遺跡を発見したことに思いをはせました。あのトロイの木馬が現実の話だったとなると、出雲神話の神々や場所も神話としてかたずけて良いのでしょうか?神話や伝承を語り継がない国は滅びる運命にあります。

アメリカがスターウオーズを必死に製作するのは、出雲神話や金太郎や桃太郎に浦島太郎が無いからだと思いませんか?チューバッカ・C‐3PO・R2-D2が猿・犬・雉に見えてきたらルークが桃太郎だとわかりますよね。(笑)

歴史って本当に面白いですよね~!
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リュミエールブラン ネージュ

2018/01/10

高天原の圧力による政略結婚と『須勢理毘売命』の悲哀。

今日は『出雲繁栄』に至る大国主の奥様達について少しお話させて頂きます。建速須佐之男命の娘『須勢理毘売命』がメインなのですが、今日はまず神話の舞台を楽しんでいただきましょう。

その前に少し、今日は西宮神社の開門神社が有りました。毎年TV等で話題に成るので、皆さんもご存じですよね~。私の同僚、勿論若手(サッカー経験者)ですよ~(*^^*)、がチャレンジしてたんです。前回は最前列のA組108人に選ばれたので、「今回も」と期待したのですが、残念ながら抽選に漏れてしまいました。もし彼が抽選されていたら、開門神事の記事をUPするつもりだったのですが、来年に期待です。(笑)

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(今人気の出雲大社のうさぎさんもちろん因幡の素うさぎですが全部で何匹居るのかな?)

ということで、神話のお話です。『古事記』での出雲神話の主人公『大国主(大穴牟遅命)』の活躍はまず、「因幡の素兎(これでしろうさぎです)」「燃え盛る猪岩(八十神の嫉妬)」「復活して根の国へ逃亡(母の愛)」と進んで行きます。そして須佐之男の娘『須勢理毘売命』と結ばれ大国主と呼ばれる様に成ります。まずはこの辺の神話、思い出して頂きましょう。

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【再生した大穴牟遅命】

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(出雲大社の大国主様)

『古事記』での出雲神話の主人公『大国主(大穴牟遅命)』の活躍は、「因幡の素兎(これでしろうさぎです)」「燃え盛る猪岩(八十神の嫉妬)」「再生するもまた殺害(ひつこい八十神)」「復活して根の国へ逃亡(母の愛)」と進んで行きます。

因幡の国(稲羽の素兎物語)ヤガミヒメ(八上姫)に選ばれた、オオナムヂ(大穴牟遅命)の復活を知った八十神は、再度殺害を試みます。大木を切り倒して楔で割れ目を作り、そのなかにオオナムヂを入らせ、楔を引き抜いて打ち殺してしまいます。母親は泣きながらオオナムヂを探して大木をみつけ、すぐに木を裂いて取り出してまた生き返らせます。

母親は、「あなたはここにいたら、八十神に滅ぼされてしまうだろう」といい、木国のオオヤビコの所へ行かせることになります。オオヤビコの所へ行くと、追ってきた八十神がオオナムヂの引き渡しを求めてきます。オオヤビコはオオナムヂを木の股を潜り抜けさせて逃がし、スサノオのいる根の堅州国に向かうようにいいます。

【根の国訪問と須勢理毘売命との出会い】

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(須勢理毘売命生誕の地)
CIMG2429.jpg(須勢理毘売命が産湯代わりにつかったと言われる岩坪、神社もあります。)

根の国のスサノオ(須佐之男)の家で、オオナムヂ(大穴牟遅命)はスサノオの娘のスセリビメ(須勢理毘売命)と出会い、二人は一目で恋に落ちてしまいます。

スセリビメが「とても立派な神が来られました」というので、スサノオはオオナムヂを呼び入れますが「ただの醜男ではないか。葦原醜男(アシハラシコヲ)と言った方が良い。蛇の室にでも泊めてやれ(葦原醜男ですよ、ちょとひどくないですか、笑)」と、蛇がいる室に寝させます。スセリビメは「蛇の比礼(呪具・女性が、結ばずに首の左右から前に垂らすスカーフの様なもの)」を葦原醜男にさずけ、蛇が食いつこうとしたら比礼を三度振るよういいます。その通りにすると蛇は鎮まったので、葦原醜男は無事に一晩寝て蛇の室を出られました。

次の日の夜、スサノオは葦原醜男を呉公(ムカデ)と蜂がいる室で寝させた。スセリビメは「呉公と蜂の比礼」をさずけたので、葦原醜男は無事にムカデと蜂の室を出られた。

更に、スサノオは広い野原の中に射込んだ鳴鏑(なりかぶら)を拾うよう葦原醜男に命じます。葦原醜男が野原に入ると、スサノオは火を放って野原を焼き囲んでしまいます。

葦原醜男が困っていると鼠が来て、「内はほらほら、外はすぶすぶ」(穴の内側は広い、穴の入り口はすぼまって狭い)と教えてくれます。それを理解した葦原醜男がその場を踏んでみると、地面の中に空いていた穴に落ちて隠れることができ、火をやり過ごすことができました。

また、その鼠はスサノオが射た鳴鏑を咥えて持って来てくれました。スセリビメは葦原醜男が死んだと思って泣きながら葬式の準備を始めます。スサノオは葦原醜男の死を確認しに野原に出てみると、そこに矢を持った葦原醜男が帰って来ます。

スサノオは葦原醜男を家に入れ、頭の虱を取るように言いつけます。ところが、その頭にいたのはムカデでした。葦原醜男は、スセリビメからもらった椋(むく)の実を噛み砕き、同じくヒメにもらった赤土(これちょっと大事なので覚えいて下さいね。)を口に含んで吐き出していると、スサノオはムカデを噛み砕いているのだと思い、かわいい奴だと思いながら眠りに落ちてしまいました。

葦原醜男はこの隙に逃げようと考えると、スサノオの髪を部屋の柱に結びつけ、大きな石で部屋の入口を塞ぎました。スサノオの生大刀と生弓矢、スセリビメの天詔琴を持ち、スセリビメを背負って逃げ出そうとした時、琴が木に触れて鳴り響いてしまいます。

その音でスサノオは目を覚ましましたが、その際に髪が結びつけられていた柱を引き倒してしまいます。スサノオが柱から髪を解く間に、葦原醜男は逃げることができたのでした。

スサノオは、葦原中津国(地上)に通じる黄泉比良坂(よもつひらさか)まで葦原醜男を追いましたが、そこで止まって逃げる葦原醜男に「お前が持つ大刀と弓矢で従わない八十神を追い払え。そしてお前が大国主神、また宇都志国玉神(ウツシクニタマ)になって、スセリビメを妻として立派な宮殿を建てて住め。分かったな!」といって二人の結婚を許します(出雲神国の三種の神器は刀・弓・琴ですね~(*^^*))。

葦原醜男は出雲国へ戻って大国主となりスサノオから授かった太刀と弓矢を持って、八十神を山坂の裾に追い伏せ、また河の瀬に追い払い、全て退けます。そしてスセリビメを正妻にして、宇迦の山(宇迦の山は今の出雲大社の後方・北側の山を指しますが、古代出雲王国を考えると、違和感を感じます。)のふもとの岩の根に宮柱を立て、高天原に届く様な立派な千木(ちぎ)のある新宮を建てて住み、国づくりを始めました。

大国主はダイコクと読めることから、同じ音である大黒天と習合して民間信仰に浸透しています。子のがえびすに集合していることから、大黒様とえびすは親子といわれるようになっています。

日本書紀本文によるとスサノヲの息子であるとの記述もあり、また古事記や日本書紀の一書、新撰姓氏録によると、スサノヲの六世の孫、また日本書紀の別の一書には七世の孫などとされています。

【モテモテ大国主の妻問】

ヤガミヒメ(八上姫)は本妻のスセリビメ(須勢理毘売命)を恐れ、オオナムヂ(大穴牟遅命)との間に生んだ子を木の俣に刺し挟んで実家に帰ってしまいます。スセリビメはさすがにスサノオの娘ちょっとやんちゃで怖いです。(笑)

ヤチホコ(八千矛神、大国主の別名)は高志国のヌナカワヒメ(沼河比売)をめとろうと出かけ、歌をよみかわします。そのため、妻のスセリビメが大変嫉妬しました。困惑したヤチホコは出雲国から大和国に逃れる際にスセリビメに歌をよむと、スセリビメは杯を捧げて留める歌を返しました。二神は杯を交わし、今に至るまで二神は仲睦まじく出雲大社に鎮座することとなったともいわれます(というのが出雲大社の祭神としてのお話ですね)。

大国主は多妻な事でも知られており、様々な女神との間に子をもうけました。その数、約180柱も居られます(モテモテですね)。そんな大国主の妻は古事記と日本書紀の記述の中では上記三人の他に、「宗像三女神」の一柱で『古事記』ではタギリヒメ(多紀理毘売命)とも結ばれています。古事記の大国主神の系譜では、大国主神との間にアジスキタカヒコネ(阿遅鉏高日子根神・味耜高彦根神)とシタテルヒメ(下照姫)を生んだと記されています。

さらに、カムヤタテヒメ(神屋楯比売)。コトシロヌシ(事代主神)の母、出雲の国譲りに際し、大国主がその意見を聞いたことは、この神が神の託宣を伝える役であったと推測されます。

まだまだ居られる様ですが、問題なのはこの方です。ミホツヒメ(三穂津姫)です。ミホツヒメは、日本神話に登場する女神です。高皇産霊尊の娘で、大国主神あるいは大物主神の神后です。

『日本書紀』の葦原中国平定の場面の第二の一書にのみ登場します。大穴牟遅命(大国主)が国譲りを決め、幽界に隠れた後、高皇産霊尊が大物主神(大国主の奇魂・和魂)に対し「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」と詔しました。

本妻はスサノオの娘スセリビメですよね、タギリヒメも誓約で生まれた宗形三女神の一人ですよ、それでも天孫系では無いということですよね~ということはスサノオとアマテラスは本当の姉弟ではないのか?ちょっと面白く成って来たと思いませんか?

【国譲りと須勢理毘売命の哀愁】

PB051665.jpg(須勢理毘売命の墓の上に立つという言い伝え唐王神社)
PB051671.jpg(最終目的地を先に見せるのは、実は以前にご紹介してたんです。今回は神の痕跡を探す一大スクープとなるか?)

三穂津姫は大国主大神の后神として高天原から稲穂を持って降り、稲作を出雲地方に広めたと言われています。后という漢字は正妻の意味です。大国主大神の正妻といえば須世理姫神を思い浮かべますが、三穂津姫神は国譲り後、出雲の姫神が正妻であるのは信用出来ないと、国譲りの証と誓いの一つとして高天原より降嫁したと言われます。

さて、「須勢理毘売」ですが「古事記」には、お二人は杵築の日隅宮(出雲大社)でお暮らしになったと記されております。ですが鳥取県西伯郡大山町唐王にある『唐王神社(とうのうじんじゃ)』は、須勢理毘売が最後を迎えた場所として知られています(現在はあまり知られてはいないと思いますが、古くは有名だったようです。出雲大社から80kmも離れています。そのように離れて暮らしたことは不思議ですが、当時はこの地方も出雲国の一部だったと私は考えています。

別居された理由は「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」という高皇産霊尊の一言です。このような経緯により、大国主神には新たに三穂津姫という天孫系神后ができたのです。ですから須勢理比売命は唐王へ別居せざるをえなかったと考えます。

唐王(とうのう)という村名は珍しいと思いませんか?鳥取県神社誌にあるように、昔ほとんど交通網のなかった時代は、海の向こうや遠方の国はみな加羅と言っていました。ですから夜見の国から船で来られた須勢理比売命を、唐(から)の王と呼んできました。それが村名になったとのことです。須勢理比売命は海辺の近くの国信辺りに着岸されたようですが、波の音が近すぎると末吉へ移っています。しかしそこも音が近く末長へ移住、そこでもまだ音が近いと唐王へ移られたたとの言い伝えがあります。

今回その、須勢理比売命の言い伝えを追って、着岸場所の国信から末吉・末長・唐王へと女神の足跡をたどる旅に出て来ました。これが大変!土地の古老も全く知らない場所やwebにも載っていない場所を探して駆けずりまわり移住ルートを発見してきましたので、ご紹介しましょう。今日はここまでです。次回のお楽しみですね~それによければですが、プレゼントもありますので期待して?ください。(笑)

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リュミエールブラン ネージュ

2018/01/07

一月七日は、正月疲れの胃腸もケアして『七草粥』Modefai

一月七日は「人日の節句」、やはり『七草粥』ですね。私はお酒が飲めないので、お正月の飲み疲れということも無いのですが、年末からの風邪の影響でお腹の調子も万全とは言えません。

さらに、やはり文化の伝承は必要だと思いますので、一月七日の『七草粥』の話題は昨年もご紹介しましたが、更に丁寧に調べなおしての今日のご紹介です

P1070011.jpg(リゾット風七草粥、器に注目してください。島根「湯町窯」のガレナ柚の黄色素敵です。角皿は自作!)

せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、春の七草
5、7、5、7、7で覚えると覚えやすいと亡き母に教わりました

子供の頃は母や祖母と畦道を探したりした経験があります。なずな(蕪)とすずしろ(大根)は、近年まで形の違いと思ってました。(笑)

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【春の七草見つけてみよう】

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(今年は愛媛県JA西条、盛実 武志さんの名前入りです。)

流石に、現代では七草を全て摘みに行って集めるのはかなり厳しいでしょう。すべて集まらなくても良いと思うのですが、今はスーパーのセットで全て揃ってしまうのが、逆に残念だと思います。神戸といっても、私の自宅近辺は自然も多いので摘みに行っても良いのですが、冬休みの宿題に追われている子どもたちに、私のわがままを押し付けるわけにもいきませんから、スーパーで七草セットを昨日購入してきました。

本来は前日に七草を摘みに出かけ、7日の朝にお粥にしていただ きます。はこべら・なずなはわが家の庭でも見つけました。うんちく~!ナズナはアブラナ科ナズナ属の越年草です。別名ペンペングサ(ぺんぺん草)、シャミセングサ(三味線草)とも言われます。田畑や荒れ地、道端など至るところに生えています。ムギ栽培の伝来と共に日本に渡来した史前帰化植物と考えられています(そうだったんだ)。(;^_^A

子供の頃、すずな(蕪)と区別が付かなかったすずしろ(大根)は、お正月に1日だけ帰省した時に持ち帰った但馬産を使いました。今年は卵アレルギーの次女が先に食事を済ませていたので、にとろけるチーズと卵を入れてリゾット風に仕上げました。やはり土鍋で作ると熱々で美味しいですね。

【五節句と祝儀料理】

起源は中国から来ています。1月7日の「人日(じんじつ)の日」に行われる「人日の節句」の行事で、五節句のひとつです。節句(せっく)は、中国の陰陽五行説に由来して定着した日本の暦における、伝統的な年中行事を行う季節の節目(ふしめ)となる日の事です。日本の文化・風習に溶け込んで色々な行事が行われます。古くは節日(せちにち)とも呼ばれていました。

この日には、宮廷において節会(せちえ)と呼ばれる宴会が開かれていました。年間にわたり様々な節句が存在しており、そのうちの5つを江戸時代に幕府が公的な行事・祝日として定めています。それが人日の節句(じんじつ・1月7日)、上巳の節句(じょうし・3月3日)、端午の節句(たんご・5月5日)、七夕の節句(しちせき・7月7日)、重陽の節句(ちょうよう・9月9日)の五節句です。一番なじみのないのは、重陽の節句ですかね。

「御節供」と呼ばれた節句料理はもともと五節句の祝儀料理すべてをいっていたようですが、のちに最も重要とされる人日の節句の正月料理を指すようになって行きます。そして、今日では「おせち」として、正月三が日もしくは七日にかけての松の内の期間(正月飾りを付ける期間で地域差があるようです。)において食べるものを指すようになっています。ただ、今日でも「人日の節句」の七草粥など「節句料理」として残っているものがあります。

人日(じんじつ)1月7日、七草の節句とも呼ばれ七草粥を食べます。上巳(じょうし)3月3日、桃の節句とも呼ばれ、雛祭として菱餅や白酒などを食します(雛あられ、メーカーの陰謀?)。端午(たんご)5月5日、菖蒲の節句とも呼ばれ、菖蒲酒(知らなかったです。)、菖蒲湯の習俗があります。ゴールデンウィークなので、実家に帰省しているときには、山の堤(わが家の用水池)に生えている菖蒲を取ってきてお風呂に入れます。関東地方では柏餅(これも全国区ですね。)、中国地方や関西地方ではちまきを食します(但馬でちまきを食べた事ないですけどね)。

柏餅についてですが、柏餅で使われているのは、文字通りカシワの木の葉ですが、柏の木というのは「コノテガシワ」という木のことを指しますが、実はコノテガシワの葉は細長い形をしており、我々が知っている柏餅を包んでいる葉とは異なります。実際には我々の知る柏餅の葉は「槲(カシワ)の木」の葉が使用されています。同じ「カシワ」でも、「柏」餅の柏ではなく槲の木の葉だったといううんちく話です。
 
さらに、鳥取県に単身赴任して知ったのですが、地域によってはサルトリイバラという木の葉が使われています。これは、近畿から西の地域に多く、柏の木が少なく、柏の葉が取れないのが理由と推測されます。使用している葉は、地域や習慣によって違うようです。

七夕(しちせき)7月7日、七夕(たなばた)の方がなじみがありますね。裁縫の上達を願い素麺を食べるそうです(これも知らなかった)。重陽(ちょうよう)9月9日、菊の節句とも呼ばれ菊を浮かべた酒などを飲むようです。 節句に飾られる人形(雛人形、五月人形など)は、節句人形(せっくにんぎょう)とも呼ばれています。

【七草粥の歴史】

文字通り 「人の日」という意味で、古代中国で元日に鶏、2日に犬、3日に猪、4日に羊、5日に牛、6日に馬、7日に人、8日に穀を占う行事があり、7日は人に刑 罰を与えたりせず、7種の若葉を粥に入れて無病息災を願っていたことに由来します。

この中国の風習が日本へ伝来し、当初は宮廷で行われ、古来から、日本に有った雪の間から芽を出した若菜を摘む七種の行事は「子(ね)の日の遊び」と呼ばれ、正月最初の子の日に野原に出て若菜を摘む「若菜摘み」とも言われていました。この古来からの風習と結びついて、のちに「七草粥」となり、貴族社会から庶民に広がったようです。更に、江戸時代に五節句のひとつとして定着しました。

枕草子にも、「七日の若菜を人の六日にもて騒ぎ……」の記述があるようですが、当時は羹(あつもの)と呼ばれる汁だったようです、室町時代の頃から粥に変化したと考えられています。

【最後に一言】

本当は子供たちと、図鑑片手に家の周りに探しに行きたいと思うのですが、中々付き合ってはくれません。このような、日本文化の伝統は、できるだけ子供たちに引きついでいきたいと思うのですが、私の考えの押し付けはいけないのかもしれません。毎年父親が行っている風習を、自分たちの代に成っても続けてくれると嬉しいのですが…

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リュミエールブラン ネージュ

2018/01/06

下照姫命を追いかけて!付いた先には「三ノ宮」『倭文神社』

倭文神社(しとりじんじゃ)これが読めれば、貴方は神社おたく!昨日ご紹介した、伯耆一ノ宮倭文神社に行きたくて、カーナビを操作して到着した場所は、「倭文神社」当然だけど行き先を間違えたなんて、思わないよね。(笑)

例え、其が三ノ宮だったとしても、それから一宮に辿り着いてお詣りするのに二年間かかりました。まあ一年半は勘違いに気が付かなかっただけですけれどね。

CIMG6546.jpg(三ノ宮・倭文神社の鳥居)

せっかくなので、伯耆三ノ宮の『倭文神社』をご紹介すると共に、一ノ宮や二ノ宮についても、お話させて下さいね(#^.^#)

今年も私と一緒に日本の歴史散策にお付き合いくださいね~。それではみんなで~~「歴史にGO!」

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【「三ノ宮」『倭文神社』】

CIMG6547.jpg(三ノ宮・倭文神社ご由緒)
CIMG6548.jpg(拝殿正面ですがちょっと歪んでます(;^_^A)

創立年代は不詳ですが、延喜式神名帳記載の神社(弐内社)です。古くより武門武将の信仰が厚く、中世には山名氏、吉川氏、南条氏(伯耆の国人毛利を離反して秀吉軍に剛力する)などに崇敬され、江戸時代に入っては旧鳥取藩池田家の祈願所として隆昌を極めた神社です。 

倭文とは「シツオリ」のつまった形で(シツ「日本古来の文洋」オリ「織」)、当時この一帯(現在でも倉吉絣は山陰三大絣として有名)。は、日本古来の織物(倭織)が盛んで、この地に移り住んだ特殊技能を持った集団「倭文部」が、氏神(倭文神)として機織の祖神「武葉槌神」を祀ったのが始まりと考えられます。

住所の「志津」は、社名の「倭文」から転じたもので、やがてこの里がシツ(志津)となったと思われます。武葉槌神(武神の一面があることは前回お話しました。)国譲り神話出での出雲進軍の際、陣営をかためたがこの地で、倭文神社はこの神跡であると伝えられているようです。

【御祭神】

P8260205.jpg(下照姫命の伝承が多く残ります。)
P8260206.jpg(東郷湖絶景、左奥に大山が見えます。)
P8260213.jpg(出雲山からの東郷湖絶景~!)

武葉槌神(たけはづちのかみ)機織・織物の神、国土平定の神
下照姫命(したてるひめのみこと)安産の神、婦人病の神、和歌の神
經津主神(ふつぬしのかみ)武の神、風土平定の神、体育・運動の神

ここでも一ノ宮と同じように武葉槌神と下照姫命が何故かセットに成っています。鳥居の傍らには戦争殉職者碑らしい石版がありました。建葉槌命(たけはづち)は全国平定に功績があったことから武神としての一面が戦前は大きく祀られていたようです。残念ながら現在では人気がない。一方下照姫命は大国主の神裔に、宗像三女神のタギリ姫を妻として生んだ子として、兄アジスキタカヒコネと一緒に紹介されています。

下照姫命は国譲りで、高天原が送り込んだ第二交渉人のアメノワカヒコと結婚した女神です。出雲族と宗像族の血を受けた馬女神です。安産の神様として慕われてきました。現代の安産の定義は、一人か二人の子供を産み母子健康な状態と思いますが、戦前までは「産めや増やせや」のスローガンで、五~六人の子供を産み、しかもその都度すぐに家事ができる状態を安産と考えていました。

下照姫命は、よほど健康な女神(女性)だったと思われます。農家の若嫁の守護神として慕われています。一方で和歌の神としても有名?なのですが、日本書紀の一文に兄アヂスキタカヒコネの名を明かす歌を詠んだ。この歌は「夷振(ひなぶり)」と呼ばれ、これが和歌の原型と言われるからです。

P8260216.jpg(下照姫命伝承は此処にも…)
P8260223.jpg(弁財天は宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命と同一視されます。母親、田心姫命の姉妹関連があるのかな?)

【二つの大きな倭文神社と二つの二ノ宮】

伯耆国(ほうき)、今の鳥取県西部には二つの大きな倭文神社がああります。一つはここで、もう一つは前回ご紹介した「倭文神社」です。古来より伯耆国一宮は倭文神社であるとされていましたが、近年には二つの「倭文神社」のどちらが一ノ宮か議論がありました。一時はこちらが一宮とされていた事もありましたが、大正になって東郷「の倭文神社」の参道脇にある経塚から発掘された経筒の銘文によって、そちらが一宮であることが判明しました。その後、こちらは三ノ宮と名乗る事になったようです。

因みに、伯耆国二宮は大神山神社(おおがみやま)とされていますが、これもまた最近は倉吉の波波伎神社(ははき)が同じく二ノ宮を称していて混乱があるようです。私的には大神山神社(おおがみやま)は、大山を信仰する自然信仰であり、古事記などの神話からの関連性を考えると、倉吉の波波伎神社は事代主の終焉の地とも言われ、社殿裏手に古墳も有るようなので、そちらが二ノ宮の方が納得できると考えています。

CIMG6593.jpg(大神山神社、こちらは大山奥の宮ではなく、米子市内にあります。)
CIMG8661.jpg(倉吉の波波伎神社、どちらが二ノ宮)

志津は小さな集落で中の道は大変狭いのです。自動車一台分の幅しかないような砂利道を進み、軽自動車でなければ曲がり切れないような直角のカーブを折れると正面が神社でした。一時は伯耆国一宮ではないかと考えられていただけに、集落の大きさにしては立派過ぎる規模の神社でした。

日本書紀によれば、高天原の天照大神は孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)にこの国である葦原中国を治めさせようと思い、出雲にいた大国主命に国譲りを迫り、平定させるため建御雷神(たけみかづちの神)と経津主神(ふつぬしのかみ)を遣わした。結局、ニ神の前に出雲は国を譲り渡すことになります。

その後更に、ニ神は従わない神々などを退治して行くのですが、星の神香香背男神(ほしのかがせおのかみ)だけが手に余り、倭文神である建葉槌命を遣わして服従させたとあります。何故、機織の倭文神であるはずの建葉槌命が、軍神、剣の神であるとされる建御雷神と経津主神が敵わない相手を倒せるのかということなのですが、私は単純に「錦の御旗」と考えたいです。

【「一ノ宮」『倭文神社』の禊水】

P8260186.jpg(宮内井戸の椿)
P8260192.jpg(大きな椿ですね~。)
P8260195.jpg(井戸は塞がれて、水は村へ流れているようです。)

「一ノ宮」『倭文神社』の登り口に宮内井戸という禊水があります。前回ご紹介できなかったのでご紹介するとともに、「三ノ宮・倭文神社」を訪れた頃はブログも書いて居ませんでしたので、写真が少ない事をご了解いただけますとありがたいです。さらに全く「一ノ宮と三ノ宮」を間違えた事にきずかなかった訳ですが、そのおかげで両方の『倭文神社』にお詣りできたことは、喜ばしいかぎりです。

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リュミエールブラン ネージュ

2018/01/04

新年はやはり神社から「伯耆国一宮」『倭文神社』

皆さん、明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願い致します。年末にひいた風邪の体調回復が思わしくなく、初記事が4日にずれ込んでしまいました。毎年おおくりする初日の出ですが、元旦は実家但馬に居たので、「初日の出」は曇りで撮影することが出来ませんでした(残念&申し訳ない)。

初詣も例年は、但馬一宮の出石神社に出掛けるのですが、そちらもままならずに元日神戸に帰宅しました。結局初詣は、昨日神戸の我が家からには一番近い「有間神社」に詣でて来ました。おみくじは『大吉』今年は良い年になる予感がします。

P8260042.jpg(伯耆国一宮鳥居)

ということで、関連性は無いのですが、同じ一の宮繋がりとお正月はお宮参りでしょということで、伯耆一宮の『倭文神社(しとりじんじゃ)』をご紹介したいと思います。

今年も私と一緒に日本の歴史散策にお付き合いくださいね~。それではみんなで~~「歴史にGO!」

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【伯耆一宮『倭文神社(しとりじんじゃ)』って何処?】



P8260171.jpg(神社への道すがら、平成28年10月21日の鳥取県中部地震マグニチュード6.6の傷跡が残っていました。)
P8260043.jpg
(鳥居の扁額「伯耆一宮倭文神社」)
P8260054.jpg(神門歴史を感じますね)

『倭文神社(しとりじんじゃ/しずりじんじゃ)』は、鳥取県東伯郡湯梨浜町大字宮内にある神社です。式内社、伯耆国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社と成っています。境内にある経塚は国の史跡に指定され、出土品は国宝に指定されています。

倭文神社拝殿所在地:鳥取県東伯郡湯梨浜町大字宮内754
主祭神:建葉槌命
社格等:式内社(小)

機織に携わった氏族である倭文氏が祖神の建葉槌命を祀ったのが起源とされています。ただし、社伝には下照姫命に関するものが多く、大正時代までは下照姫命が主祭神であると考えられていました。社伝によれば、出雲から渡った下照姫命が現在の湯梨浜町(旧羽合町)宇野に着船し、御冠山に登って現在地に鎮まったといわれます。

着船したと伝えられる場所には、下照姫命が化粧を直したという「化粧水」や、腰を掛けたという「お腰掛岩」などが残っています。これについて、『式内社調査報告』では、元々は織物の神である建葉槌命を祀っていたのが、当地で織物が作られなくなったことにより建葉槌命の存在が忘れさられ、共に祀られていた下照姫命だけが残ったと推察されています。

具体的な創建年代は不明ですが、平安時代初期にあたる大同3年(808年)の医学書『大同類聚方』には「川村郡倭文神主之家所傳方 原者下照姫神方也 中暑小便止 頭痛煩熱 口乾者與之」(原文)という記述があり、これが文献上の初見とされています。

【主祭神に返り咲いた?建葉槌命とは!】

P8260127.jpg
(犬年に、狛犬阿形、出雲型の見事な狛犬です。)
P8260121.jpg
(狛犬云形、来待石ですね~見事です。)
P8260117.jpg(拝殿も綺麗でシンプル。)
P8260104.jpg(寝殿の鰹木は3本男神様です。千木も外削ぎ、同じく男神様です。アッ!一概には言えないそうですねんの為)
P8260095.jpg(神社を巡るように成って彫り物も興味が出ました。素晴らしい麒麟と牡丹ですか?)
P8260086.jpg(拝殿の中も綺麗で心洗われるようです。)

建葉槌命(武葉槌命・たけはづちのみこと)は、『日本書紀』に登場する倭文神で、経津主神(ふつぬし)・武甕槌命(たけみかずちのみこと)では服従しなかった星神香香背男(ほしのかがせお)を征服した神とされます。経津主神・武甕槌命は国譲りを成し遂げた武神として有名ですね。香取神社と鹿島神宮に祀られているので、関東の皆さんもご存知ですよね。ちなみに古事記では、「建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)」や「建御雷神(たけみかづちのかみ)」と記載される「タケミカズチ」しか出てきません。

別名と同一視されるのは天羽槌雄神(あめのはづちのおのかみ)で、日本神話の神です。こちらの方をご存知の方々も居られるかもしれません。『古語拾遺』に登場する。天羽雷命(あめのはづちのみこと)や、倭文神(しとりのかみ)、倭文神(しずのかみ)とも呼ばれます。

天照大神を天の岩戸から誘い出すために、文布(あや)を織ったとされます(女性的なのに、武神の一面も有るとは面白いですね~。)。文布は倭文布とも倭文とも書き、「シドリ」また「シヅリ」という織物の事です。同じ織物の神では栲幡千々姫命、天棚機姫命が挙げられますが、天羽槌雄神は機織りの祖神とされています(織女と違い機織工神なのですかね?)。また倭文(しどり)氏の遠祖でも有ります。

信仰としてはどちらの名でも織物の神、機織の神として信仰され、全国の倭文神社、静神社、服部神社などで祀られています。

【下照姫命って?】

下照姫命(したてるひめ)は、日本神話に登場する女神です。『古事記』、『日本書紀』などに記述される他、『先代旧事本紀』などでも記述されています。

『古事記』では、大国主神と多紀理毘売命の娘で、阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこね)の 妹として。『日本書紀』では、顕国玉(大国主)の娘として。『先代旧事本紀』地神本紀では、大巳貴神(大国主)と田心姫命の娘で、味金且高彦根神の同母妹として記載されています。

『古事記』の大国主神の系譜においては、アヂスキタカヒコネの同母妹と記されています。そのため、高比売(高姫)はシタテルヒメの別名とされるが、姉妹の別神とする解釈もあるようです。『先代旧事本紀』地神本紀では、大巳貴神と高津姫神の子、都味齒八重事代主神の同母妹に高照光姫大神命がおり、これと混同された可能性もあります。

『古事記』および『日本書紀』本文によれば、葦原中国平定のために高天原から遣わされたアメノワカヒコと結婚しました。天若日子が高天原からの返し矢に当たって死んだとき、シタテルヒメの泣く声が天(『古事記』では高天原)まで届き、その声を聞いたアメノワカヒコの父の天津国玉神は葦原中国に降りてアメノワカヒコの喪屋を建て殯を行っています。

それにアヂスキタカヒコネが訪れたが、その姿がアメノワカヒコにそっくりであったため、天津国玉神らはアメノワカヒコが生き返ったと喜びました。アヂスキタカヒコネは穢わしい死人と間違えるなと怒り、喪屋を蹴り飛ばして去って行きます。シタテルヒメは、アヂスキタカヒコネの名を明かす歌を詠みました。この歌は「夷振(ひなぶり)」と呼ばれる(夷振を詠んだという記述は『日本書紀』本文にはありません)。『日本書紀』の第一の一書では、アメノワカヒコの妻の名は記されておらず、夷振を詠んだ者の名としてのみシタテルヒメの名が登場し、アヂスキタカヒコネの妹と記載されています。

漢字・ひらがな・カタカナが混ざって混乱すると思いますが、基本的には漢字の前には「記紀」の記述どちらであるか記しています。ひらがなはその漢字の読み、カタカナは「記紀」両方の物語として簡略化して書いたものです。私的には「古事記」を正史と考えていますが、神社のご由緒には「日本書記」の記述が多いので説明文にご由緒を用いた時は、「日本書記」の記述に成っていることもあります。以上の事を踏まえて、同一人物にも関わらず漢字が違っていたり、読みが違っている事も有ると思いますが、ご容赦ください。

【配神】

通常、神社では複数の神を祀っており、その中で主として祀られる神を主神(しゅしん)・ 主祭神(しゅさいじん)、それ以外の神を配神(はいしん)と呼びます。

下照姫命:大国主と多紀理毘売命の娘
建御名方命:事代主命の弟、諏訪神社で有名
天稚彦命:下照姫命の夫、下照姫命と結婚し8年も高天原に連絡なし
事代主命:大国主の息子、恵比須神)
少彦名命:小人神、大国主とペアで祀られる事が多い
味耜高彦根命:下照姫命の兄、同じ両親

【経塚】

P8260135.jpg(経塚はこちら参道から少しだけ登ります。滑るのでトレッキングシューズが必要ですね。)
P8260057.jpg(説明版の出土品目録。)
P8260141.jpg(神様の墓ですよ、よく発掘調査出来ましたね~笑)
P8260142.jpg(穴のような物がありました。)
P8260152.jpg(国宝経筒出土場所。)

境内の塚が下照姫命の墓であると考えられていたが、大正4年(1915年)の発掘により経塚であることが判明しました。その出土品の銘文から、当社が平安時代後期には伯耆国一宮であったことがわかっています。このときの出土品である観音菩薩立像などは「伯耆一宮経塚出土品」の名称で、一括して国宝に指定されています。

先日、国宝展で足利義満が埋めた、国宝の経筒(経典を後世に遺すため埋納した塚)を見ることが、出来ましたが、此方も負けず劣らず素晴らしいものです。現在は東京国立美術館に所蔵されているようです。

戦国時代、当地を治めた武将に社領を没収され荒廃しましたが、天文23年(1554年)に尼子氏が社殿を再建しています。また、地元の国人・南条氏からも寄進を受け、その後江戸時代、当地を治めた池田氏も崇敬し、鳥取藩主の祈願所となっています。昭和14年(1939年)、国幣小社に列格し、第二次世界大戦後は別表神社となりました。

かつて主祭神であった下照姫命が女神であることから、安産に霊験があるとされています。本殿の後には、かつて「乳神」と呼ばれる神木がありましたが、現在は倒壊しています。

参道沿いには「安産岩」と呼ばれる岩があります。昔、毎回難産に苦しんでいた女性が願かけをし、その満願の日の夢に下照姫命が姿を現し、参詣の帰途、この岩の所で簡単に出産したため安産岩と呼ばれるようになったと伝えられます。この岩を削って飲むと霊験があるとされ削り後が有ります。

P8260170.jpg(安産岩右に削り跡があります。夫婦岩などもありました。)

【さあお宝、伯耆一宮経塚出土品(国宝)】

P伯耆一宮経塚出土品
(Wikipediaよりお借りしました。東京国立博物館展示、右奥は銅経筒、その手前は左から銅板弥勒像、銅鏡、銅銭、瑠璃玉。)
P伯耆一宮経塚出土_金銅観音菩薩立像・銅造千手観音菩薩立像
(Wikipediaよりお借りしました。出土品のうち金銅観音菩薩立像(左)・銅造千手観音菩薩立像(右))

伯耆一宮経塚出土品 一括(考古資料)内訳は以下のようなものです。大正4年(1915年)、社殿の南南東180メートルほどのところにある経塚(経典を後世に遺すため埋納した塚)から出土した一括遺物。銅経筒は径20センチ、高さ42.5センチで、円筒形の筒身に宝珠鈕付き、屋根形の蓋を付す。筒身には15行236字の銘文が線刻され、康和5年(1103年)に京尊という僧が埋納したものであることがわかりました。出土品のうち、金銅観音菩薩立像は奈良時代にさかのぼる作品です。出土品一括は東京国立博物館に寄託。1920年(大正9年)4月15日、当時の古社寺保存法に基づく旧国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定されます。1953年(昭和28年)3月31日に国宝に指定されました。

銅経筒 1口 康和五年十月三日伯耆一宮辰巳岳上奉埋納在銘
金銅観音菩薩立像 1躯
銅造千手観音菩薩立像 1躯
銅板線刻弥勒立像 1面
銅鏡 2面
桧扇残片 一括
短刀刀子残闕 一括
瑠璃玉 一括
銅銭 2枚
漆器残片 一括

【今日の一言は何故神社に経塚?】

何故神社に経塚が埋められていたのでしょう。平安時代も末期に成ると神仏習合が進み、神社にも神宮寺というお寺ができるようになります。

世界遺産の日光東照宮は神社で、家康は東照大権現という神様ですが、作った家光は日光山輪王寺に大猷院に廟所(墓所)がありお寺に眠っています。境内には世界遺産に 登録された22件の国宝、重要文化財が建ており、315基の灯篭も印象的です 。日本人らしくて良いではありませんか、多くの文化を柔軟に受け入れる日本人の美徳がそこに有るように感じました。

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