2018/01/30

「敵は本能寺に有り!」明智光秀出陣の城『亀山城』

皆さんも勿論ご存知でしようが、天正10年(1582年)6月2日未明、京都で歴史を変える大事件が起こりました。後に『本能寺の変』と呼ばれることになる、明智光秀の織田信長に対する謀叛です。本日は毛利攻めに向かう予定だった明智光秀が京都本能寺へ向かう出発点と成った『亀山城』をご紹介します。

「敵は本能寺にあり」の言葉は、江戸時代中期以後に書かれた軍記物『明智軍記』の中にある記述で、「明智光秀」が本能寺の変の際に発したとされる台詞です。主君の織田信長より備中の毛利を攻めるように命じられていた光秀の軍勢は、討つべき敵は本能寺にいる信長であるとして、そのまま進路を東にとって京都の本能寺に向かいました(後世に創作された物と考えられます)。

pKameyamaj (2)(江戸期亀山城古地図Wikipediaより拝借いたしました。)

本能寺変といえば、「敵は本能寺にあり」の台詞が思い浮かぶほど有名ですよね。本日は「謎(何故?)」はさておき、光秀の居城の一つ(明智光秀は、坂本城も居城としていました。)亀山城をご紹介します。

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【本能寺の変時代背景】

PB230475.jpg(明智光秀が造った物はことごとく壊されたようですが、それでも痕跡を探してみましょう。)
PB230581.jpg(現在の地図、ほぼ大本さんの教団施設ですね。)
PB230574.jpg(たぶん掘割の一部が池として使われています。)

戦国時代も始まりから100年が過ぎ、織田信長の登場によって、天下統一目前の様相を呈していました。近畿地方とその周辺は、すでに信長が掌握し、次は毛利を攻めて中国地方の平定が予定されていました。

信長は、まず羽柴秀吉を毛利攻めに向かわせます。そして、秀吉に続いて、明智光秀を後詰めの援軍として、毛利攻めに向かわせるため、信長は彼に出陣の命令を下します。

【愛宕神社のくじ】

光秀は、この命を受け、すぐに出陣の準備をし、戦勝を祈願するために愛宕神社に参拝します。愛宕神社に到着した光秀は、愛宕権現に戦勝を祈願し、おみくじを引いたとされます。この時光秀は三度くじを引いています。最初に引いたくじは「凶」光秀は、再度、おみくじを引きなおしますが、二度目も「凶」の文字が書かれていました。そして、三度目をひいて満足した光秀(三度目の結果は本人しか知りませんが)は帰路についたとされています。

『愛宕山』(あたごやま)は、古典落語の演目でも有名です。上方落語の演目の一つで、春山のピクニックを描いた華やかな噺で、京都の旦那と大阪出身の幇間(太鼓持ち)とのユーモラスなやり取りが見どころです。私落語ファンなんです~!

山行きの足取りや番傘での飛び降り、谷底から飛び上がってくるシーンなど要所で派手なアクションが入るため、長時間の話芸とともに相当の体力が要求される大ネタで、亡くなられた桂米朝さんの演目の中でも大好きな話です。江戸期ののどかなお話と、光秀の心の内が相反して、登山して見たい山の一つです。以前はケーブルが有ったようですが、現在は廃止され、山頂の神社(標高924m)迄歩いて登らなければ成りません。

【里村紹巴と連歌会「愛宕百韻」】

光秀は翌日、里村紹巴と連歌会を催し、愛宕百韻を詠んだことでも知られます。亀岡市から愛宕山への登山道は光秀が通ったことから「明智越え」と呼ばれています。愛宕百韻の光秀の発句は、「ときは今 雨が下知る 五月かな」この句は、光秀が謀反を起こし、信長を討ち取る決心をしたものと解釈されています。

「とき」は、光秀が土岐氏の出身であることを意味し、「雨が下知る」は「天が下領る」と書き換えることができることから、光秀が天下を統一すると連歌会で暗に表明したものと考えられています。

【敵は本能寺に在り】

6月1日、いよいよ光秀が毛利攻めに向かう日がきました。連歌会で謀反の決意をしましたが、やはり、光秀の心の中には迷いがあったと思われます。中国の毛利か、それとも本能寺の信長か?そして、いよいよ中国地方と本能寺との分岐点に差し掛かった老の坂に着くと、光秀は軍議を行いここで初めて斎藤利三、弥平次秀満ら家臣団に真意を告げます。

「敵は本能寺にあり」の言葉通り明智軍は、この光秀に従い、6月2日未明に本能寺に向かって進軍し、遂に信長を自害に追い込見ました。水色桔梗の幟が早暁の京の町を埋め尽くす。光秀の凛とした声が、ひそとした本能寺の中へ吸い込まれた。「信長殿の御首、頂戴仕る!」―明智城の陥落から二十数年、信長のもとで異例の出世を果たし、一介の牢人から三十四万石の城主にまで上り詰めた明智光秀でした。その光秀を「本能寺」へと駆り立てたものは何だったのでしょうか?光秀はすぐに二条城にいた信長の嫡男「信忠」も討ち取り、織田家から天下を奪い取ることに成功しました。

【丹波・亀山城 】

pKameyamaj.jpg(明治5年・1872年に撮影された亀山城本丸南面)
PB230502.jpg(最初の古地図にも描かれた堀中の中之島へ)
PB230501.jpg(中之島も植物園に成っています。)
PB230492.jpg(右の社務所を訪ねて、拝殿前でお祓いをお願しないと、聖域に入れません。)

亀山城(かめやまじょう)は、京都府亀岡市荒塚町周辺(旧丹波国桑田郡亀岡)にあった城です。亀岡城とも呼ばれます。明智光秀によって丹波統治の拠点として築城され、江戸時代初頭には近世城郭として整備されました。大正時代に新宗教「大本」が購入、神殿を築きましたが、大本事件で日本政府により爆破・破却されました。戦後再建され、大本の本部が置かれています。小説家の司馬遼太郎は明智光秀と出口王仁三郎という2人の謀叛人を出したと評しています(司馬遼太郎さんの意見です。私はそうは思いませんでしたが…)。

別名:亀宝城
亀岡城城郭構造:平山城天守構造複合式層塔型5重5階
築城主:明智光秀
築城年:1578年
主な改修者:岡部長盛
主な城主:明智氏、羽柴氏、石田氏、岡部氏
廃城年:1877年
遺構:石垣等
【「亀山城」戦国時代の歴史】

PB230530.jpg(本当に紅葉が綺麗です。)
PB230549.jpg(そして見つけましたよ~矢竹ですね。矢を作るための竹です。戦国期から残っているのかな?)
PB230556.jpg
(さらに井戸石です。加工から新しい物かもしれません。)

織田信長の命を受けて丹波攻略に従事中であった明智光秀が、口丹波にある亀岡盆地の中心であった亀山に天正6年(1578年)から築城しました。丹波平定後はそのまま丹波経営の拠点とないましたが、光秀は天正10年(1582年)に本能寺の変を起こし、まもなく羽柴秀吉に敗れて、逃走中に討死します。その後は天下を統一した秀吉の重要拠点として一門の羽柴秀勝(信長の子)・豊臣秀勝(秀吉の甥・江の夫 )・豊臣秀俊(小早川秀秋)や豊臣政権で五奉行の一人となった前田玄以などが城主と成っています。

【「亀山城」江戸時代の歴史】

PB230482.jpg(天下普請の痕ともいえる石垣の印。)
PB230485.jpg(改修された石垣、拝殿下の通路で植物園に向かっています)

秀吉の死後に天下を手中にした徳川家康もこの城を重要視し、慶長14年(1609年)に譜代大名である岡部長盛(在任1609年~1621年)を入封させ、丹波亀山藩主に任じています。さらに「天下普請」により幕府が西国大名に命じ近世城郭として亀山城を大修築しています。藤堂高虎が縄張りを勤め、慶長15年(1610年)夏ごろに完成し、本丸には5重の層塔型天守が作られました。

寛延元年(1748年)以降は、形原松平氏が居城し、明治2年(1869年)に亀岡藩へ改称。同4年(1871年)に亀岡県が置県され、廃藩となりました。

「うんちく『天下普請(てんかぶしん)』」とは、江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行わせた土木工事のことです。なかでも城郭普請が有名ですが、道路整備や河川工事などインフラ整備などの工事も含んでいます。

天下普請によって築かれた城郭・江戸城(武蔵国・東京都)・名古屋城(尾張国・愛知県)・大坂城(摂津国・大阪府)・高田城(越後国・新潟県)・駿府城(駿河国・静岡県)・伊賀上野城(伊賀国・三重県)・加納城(美濃国・岐阜県)・福井城(越前国・福井県)・彦根城(近江国・滋賀県)・膳所城(近江国・滋賀県)・二条城(山城国・京都府)・丹波亀山城(丹波国・京都府)・篠山城(丹波国・兵庫県)です。名古屋城と彦根城はご紹介しましたね。

【明治維新以降の歴史と大本教(大本が本来で教は付けないそうです)】

PB230529.jpg(聖域・天守方面へまいりましょう。)
PB230538.jpg
(天主閣への階段ですが、出口なおさんの墓があるようで、行けませんでした。)
PB230548.jpg
(石垣も最下層以外はダイナマイトで吹き飛ばされたそうです。墓が天皇陵墓に似ているという不敬罪の適応でした。)
PB230566.jpg(石仏?の首が落ちていました。誰の仕業かな?)

「大本」の話は難しいので、より詳しく知りたい方はご自分でお調べください。私が訪ねた時には、神道の新興宗教のイメージしか感じませんでしたが、広大な敷地は良く整備されていて、応対されたフロントの女性も、神官?の方も、食堂のおばちゃんも好印象でした。

大本(おおもと)は、1892年(明治25年)、出口なおに降りた国祖・国常立尊の神示を立教の原点とする教派神道系の教団です。俗に「大本教」と呼称されることがありますが、正確には「教」を付けないのだそうです。

1919年(大正8年) 11月18日、新宗教「大本」の指導者出口王仁三郎(亀岡出身)が管理されず荒廃していた本城を購入、従来の根拠地綾部(現在、梅松苑「綾部祭祀センター」(京都府)大本発祥の地、大本では「祭祀の中心地」と位置付けている)に並ぶ拠点にすべく整備を開始しました。

大日本帝国政府は拡大を続ける大本に警戒を強め、1935年(昭和10年)12月8日に第二次大本事件で徹底的な弾圧を加えています。そして拘束されていた王仁三郎から所有権を格安値で亀岡町に譲渡させました。裁判結審前にも関わらず大本施設の破却が進められ、本城の破壊は清水組により1936年(昭和11年)5月11日から6月12日まで続きます。神殿は1500発のダイナマイトで爆破され、象徴的な石は再利用できぬよう日本海に捨てられたそうです。

1937年(昭和12年)に訪れた坂口安吾は『日本文化私観』で鉄条網で囲まれた城の様子を描いています。戦後本城の所有権は再び大本に渡りました。現在亀山城跡は天恩郷「亀岡宣教センター」(京都府)と成っています。大本では「宣教の中心地」と位置付けているようです。

PB230473.jpg(大本大道場)

【初の層塔型天守閣?】

明治初年に撮影されたものは、慶長14年(1609年)に建てられた層塔型5重5階の大天守と2重の小天守が複合した複合式天守です。大天守の最上階には飾りの回り縁、高欄を付け、最上重屋根に入母屋破風と軒唐破風があるのみで、それ以外の階や重には、装飾的な窓や破風は一切ありません。層塔型は少ないのでwebで調べてみてください、弘前城天守・名古屋城天守・和歌山城天守・松山城天守等、です。私的には断然望楼型ですね。

亀山城の天守は、創建当初は明智光秀によって3重の天守が構えられ、後の小早川秀秋の時(文禄2年「1593年」)に5重に改築されています。以降この天守については不明であるが、建築史の観点では、破風の一切ない層塔型天守は慶長14・15年(1609年・1610年)以降に見られるもので、それ以前の小早川時代に改変されたという天守はそれ以降に再び改変されたか解体され、明治期に撮影された姿のものが新しく建造されたのではないかといわれています。

丹波亀山城の天守を、日本初の層塔型天守であるとする見解もありますが、『寛政重修諸家譜』を根拠に今治城天守(1604年から1608年の間の建造)を移築したものであるという説があります。この説では、徳川家康がこの亀山城を天下普請によって造営した際、縄張設計を担当した藤堂高虎が、元々自身の居城である上野城へ移築するために解体していた用材を献上し、建てたものであるとされています。これを元に、今治城天守を層塔型天守の初見とする説がある一方で、今治城天守の外観や規模は不明であり、また天守の存在について発掘調査からは認められてはいません。

PB230562.jpg(天気と紅葉に恵まれた良い一日を送りました。)
PB230586.jpg(古地図の上側、東側の中之島外堀です。)


【最後の一言】

今回、偶然に訪ねた、明智光秀出陣の城『亀山城』が「大本」教の聖地となっていてびっくりしました。新興宗教「大本」に対する迫害は存じておりましたが、これほどの物だとは知りませんでした。我が家は家の宗教として「日蓮宗」を信仰しておりますが、鎌倉仏教として新しく登場した時には同じように大きな迫害が有ったと聞いております。宗教・言論の自由は憲法が改正する事に成っても堅持しなければいけませんね。

本部会館の二階に初代教主「出口王仁三郎」さんの陶器が展示されていました。金重陶陽氏(備前焼人間 国宝)の所で作陶した作品が展示してあるのですが、「耀わん」と言われる器が~(;^_^A、「大本」の方がおられましたらお許しください。お値段は勿論付けられないでしょう。3000個作成で迫害も有って300個現存とも言われています。ん~~私的には、天は二物を与えずと言っておきます。(笑)悪く取らないできださいね、芸術は自由ですし、価値を認めた方にはかけがえのない物ですから。それに一物は素晴らしいのですからね。

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リュミエールブラン ネージュ

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2018/01/28

「西国三十三観音霊場」番外札所って何だ?『法起院』を訪れてみた。

「西国三十三観音霊場」をバスでツアーすると7番札所「岡寺」と8番札所「長谷寺」の間に必ず『法起院』を訪れるコースが組み込まれていま。

もちろん、日本で一番古い「西国三十三観音霊場」を巡ってみようと考えられる、信心深い方はご存知でしょうが、私のブログはそんな方ばかりがご覧になるわけでもないですし。むしろ歴史や寺社仏閣なんて苦手~と思われる方に是非読んでいただきたいので、出来るだけ分かりやすいように、「西国三十三観音霊場」や『法起院』の魅力をお届けしたいと思います。
CIMG9260.jpg(法起院の山門です。塔頭だけにこじんまりしていますね。)

話は全く飛ぶのですが、先日新聞を読んでいると、春日大社(奈良市)の宝庫で昭和14年に見つかった太刀が、伯耆(ほうき)国(現在の鳥取県中西部)の刀工によって平安時代後期に製作された最古級の日本刀と判明し、同大社が22日(私はブログのオフ会で楽しんでいたのですが)、発表しました。刀身には使用したり研いだりした形跡がほとんどなく、「当時の長寸太刀は現存数が少なく、貴重な資料」に成るそうです。

太刀は無銘ですが、刀身の古さから「天下五剣」に数えられる国宝「童子切(どうじぎり・渡辺綱が酒呑童子の腕を切り落とした刀です)」で名高い刀工「伯耆国安綱」作の可能性もあり、南北朝~室町時代初期に武家から奉納されたと言われます。

太刀の刀身は刃長82・4センチ、反り3センチ、幅3・3~2センチ。昭和14年に宝庫の解体修理の際に天井から見つかった太刀の一振りで、刀身が錆(さび)に覆われていたことから、人間国宝の本阿彌光洲(ほんあみ・こうしゅう)氏に研磨を依頼していました。もちろん刀にもビックリですが、人間国宝の本阿彌光洲(有名な本阿弥光悦とは分家違いのようですが)さん、あの本阿彌家がまだ存続して稼業?を続けていることにビックリでした。刀剣女子の雄たけびが聞こえて来るようです。(笑)


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【西国三十三観音霊場を復習しときましょう】

西国三十三カ所観音霊場巡りの由来は、養老2年(718年)、大和国長谷寺を開山した「徳道上人」が病にて仮死状態になられた際、冥土で閻魔大王に会い、「生前の悪い行いによって地獄へ送られるものが多い故、観音の霊場へ参ることにより功徳が得られるよう、人々に観音菩薩の慈悲の心を説け」とのお告げを受け、起請文と三十三の宝印(仏教寺院で用いる印鑑の一種。宝珠形などの中に、本尊を表わす梵字や真言などが刻んであります。)を授かって現世に戻され、その証拠でもって人々に観音信仰、及びその霊場へ参ることをすすめられました。
徳道上人が極楽往生の通行証となる宝印をお配りになったという場所は、観音菩薩が衆生を救うために示現された霊験所や寺院でした。上人と弟子たちはこの三十三所巡礼を人々に説きましたが、世間の信用が得られずあまり普及しなかったため、機が熟すのを待つこととし、閻魔大王から授かった宝印を中山寺(兵庫県宝塚市)の「石の唐戸」の中に納めました。そして月日がたち、徳道は隠居所の法起院で80歳で示寂し、三十三所巡礼は忘れ去られていきます。

CIMG7777.jpg
(中山寺の石棺が「石の唐戸」?)

徳道上人が中山寺に宝印を納めてから約270年後、花山法皇(安和元年〈968年〉~寛弘5年〈1008年〉)が紀州国の那智山で修行していた折、熊野権現が姿を現し、徳道上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を授けます。

花山法皇は、988年(永延2年)観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった、中山寺で宝印を探し出し、播磨国書写山圓教寺の性空上人の勧めにより、河内国石川寺(叡福寺)の仏眼上人を先達として紀伊国熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し修行に勤め、大きな法力を身につけたといわれます。このことにより、やがて観音霊場を巡る西国三十三所という信仰となり、西国三十三所は日本最古にして、巡礼の元祖となりました。

この花山法皇の観音巡礼が、西国三十三所巡礼として現在でも継承されており、各霊場で詠んだ御製の和歌が御詠歌となっています。花山法皇は、寛弘5年(1008年)2月花山院の東対にて崩御、紙屋上陵(現在の京都市北区衣笠北高橋町)に葬られています。

【今日ご紹介する「法起院」番外札所って何?】

復習の前書きにも出て来ましたが、法起院(ほうきいん)は、徳道上人の隠居所で80歳でお亡くなりになった場所です。奈良県桜井市初瀬に所在し長谷寺の塔頭寺院(すぐ傍)です。宗派は真言宗豊山派。本尊は徳道上人。西国三十三所番外札所です。

うんちく「西国三十三所観音霊場番外札所」とは?。番外札所については、まとまった資料がなく、どれだけあるのかもよくわかっていません。 徳道上人に関係するお寺(今日ご紹介の「法起院」)、中興の祖、花山法皇と関係の深いお寺、更にはお礼参りの長野県「善光寺などが、有名な番外札所となります、菩提寺、元慶寺、法起院の3つが有名ですが、その他にもあるようです。

CIMG7451.jpg(番外札所「東光山 花山院 菩提寺」 )
CIMG0900.jpg
(番外札所「荒陵山 四天王寺 」の満願供養塔!)

「東光山 花山院 菩提寺」 兵庫県三田市尼寺352番地
「華頂山 元慶寺」 京都府京都市山科区北花山河原町13
「豊山 法起院」 奈良県桜井市初瀬776番地
「熊野妙法山 阿弥陀寺」 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町南平野2270-1
「荒陵山 四天王寺 金堂」 大阪府大阪市天王寺区四天王寺1-11-18
「比叡山 延暦寺 根本中堂」 滋賀県大津市坂本本町 4220
「高野山 金剛峯寺 奥之院」 和歌山県伊都郡高野町高野山132
「東大寺 二月堂」 奈良市雑司町406-1
「特別名跡 五百羅漢 壺阪山 奥之院」 奈良県高市郡高取町壷阪3番地
「天竺渡来 大観音石像 壺阪山」 奈良県高市郡高取町壷阪3番地
「定額山 善光寺」 長野県長野市長野元善町491

webで調べると11寺が発見できました。私は半分の6寺院にお参りしているようです。

【「法起院」について学ぼう】

開山堂(本堂):地奈良県桜井市初瀬776
宗派:真言宗豊山派
寺格:長谷寺塔頭
本尊:徳道上人
創建年:伝・天平7年(735年)
開基:伝・徳道中興年元禄8年(1695年)
中興英岳正式名:長谷寺 開山坊 法起院
札所等:西国三十三所番外
御詠歌:極楽は よそにはあらじ わがこころ おなじ蓮(はちす)の へだてやはある

CIMG9261.jpg(ご由緒書き)
CIMG9262.jpg(徳道上人の廟と伝えられる十三重石塔が見えますか?)

寺伝によれば奈良時代の天平7年(735年)に西国三十三所を創始したと伝えられている徳道がこの地で隠棲した事に始まるとされます。徳道は晩年、境内の松の木に登り法起菩薩となって遷化したと言われています。当院の名称はそれに由来します。境内には徳道の廟と伝えられる十三重石塔があります。

CIMG9263.jpg(説明札の手前の石が法起菩薩となる前に草鞋を脱いだ石だそうです。そういえば草鞋が付いているようにも見えますね。)

江戸時代前期の元禄8年(1695年)長谷寺化主の英岳僧正が寺院を再建し、長谷寺開山堂としました。

【最後の一言】

バスツアーでまわると、先達さん(西国三十三観音霊場を何度も巡られた先輩です)のお話など、とても勉強に成って面白いのですが、そこはやはりツアーなりのルール(時間が足りない等)があります。ゆっくりとお参りするなら自分で行った方が良いかもしれませんね?しかしながら「旅は道連れ世は情け」の言葉もございます。偶然お隣に成った方ともお話も面白いですし、一番札所の青岸渡寺等は自分で運転して行くなどと思うと東京の方が楽じゃない?と思えるところでした。お値段もお安いですし、ほどほどお弁当も美味しいですので、ご利用されるのもよいかと思います。私はもう一度位ツアー利用しようと考えていますよ。(笑)

CIMG9264.jpg
(タラヨウ・手紙の木、奥の木です。)


うんちく『多羅葉』、本州静岡以西~九州、中国、四国に分布します。関東にも植樹されていることがあります。雌雄異株で、花期は4~5月頃、4mmほどの小さな淡黄緑色の花が群れて咲きます。秋には8mmほどの小さな球形の赤い実がなり、葉は肉厚で20センチほどもある長楕円形をしており、その縁は鋸のように細かいきざぎざとなっています。日本では葉の裏面に経文を書いたり、葉をあぶって占いに使用したりしたため、その多くは寺社に植樹されています。また、葉の裏面を傷つけると字が書けることから、郵便局の木として定められており、東京中央郵便局の前などにも植樹されています。

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リュミエールブラン ネージュ

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2018/01/24

日本三景「天橋立」を見ながら、西国三十三所第28番札所『成相寺』を訪ねよう。

今日ご紹介するのは、西国三十三観音霊場第28番札所『成相寺』です。記事が多くなってくると、ご紹介したのか?記憶が確かでなくなってきます(確か松傘公園は紹介しましたね)。「成相寺」へは、丹後一ノ宮の「籠神社」裏手のケーブルを使って、松傘公園まで登り、そこからは徒歩(マイクロバスも有ったのですが)で、運動がてら家族で訪れました。

これが結構距離があり、山菜等を子ども達に教えながら、トレッキング気分でお参りしました。丹後国分寺跡方面から車で行くことも出来ますが、せっかくならと橋立を眺めて、徒歩で向かいました。

P4160192.jpg(左甚五郎の真向いの龍のインパクトで勝負です。笑)

もちろん松傘公園では又覗きを楽しみ、日本三景を堪能しました。

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【天橋立、又覗きイグノーベル賞を受賞】

P4160109.jpg(次女が又覗きしています。もちろん私もしましたよ。カラス飛んでますね~笑)

そりゃ絶景ですわね、日本三景なのですから、又覗きの台が有りまして、勿論チャレンジしました。今のカメラは凄く賢くて逆さに撮影しても修正してくれてます。又覗きの意味が全く無い~f(^_^;って事です。(爆)

因みにこの又覗きに関連して、イグノーベル賞を受賞しているって知ってました?立命館大学文学部の東山篤規教授が、「 光学的・身体的変換視野の効果(股のぞき効果)」 に関する研究で、第26回イグノーベル賞知覚賞を受賞されました。前かがみになって股の間から後ろ方向にものを見ると、実際より小さく見える事をを実験で示した研究に対して受賞されて居ます。だからどうなんだっていわれましても、イグノーベル賞自体そんな賞ですからご理解下さいねm(__)m

『うんちく「イグノーベル賞」』イグノーベル賞(イグノーベルしょう、英: Ig Nobel Prize)は、1991年に創設された「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」に対して与えられるノーベル賞のパロディーです。1991年、ユーモア系科学雑誌のマーク・エイブラハムズ(英語版)編集長が廃刊の憂き目に遭いながらサイエンス・ユーモア雑誌『風変わりな研究の年報』 (Annals of Improbable Research)を発刊する際に創設した賞であり、面白いが埋もれた研究業績を広め、並外れたものや想像力を称賛し、科学、機械、テクノロジーへの関心を刺激するためと始まりました。

毎年9月もしくは10月に「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」や風変わりな研究、社会的事件などを起こした10の個人やグループに対し、時には笑いと賞賛を、時には皮肉を込めて授与されます。このようにインパクトのある斬新な方法によって、脚光の当たりにくい分野の地道な研究に、一般の人々の注目を集めさせ、科学の面白さを再認識させてくれるという貢献に繋がっています。日本は、カラオケやたまごっち、バウリンガルといった商品も受賞している常連国です。

【成相寺のあらまし】

P4160131.jpg(到着~妻と長男・次女、長女はアルバイトでした。)
P4160133.jpg(成相寺ご由緒)
P4160117.jpg(「籠神社」裏手のケーブルを使って、松傘公園まで登り、そこからは徒歩)

本題に戻ります。成相寺(なりあいじ)は、京都府宮津市にある真言宗の寺院です。山号は成相山、西国三十三所第28番札所に成っています(御朱印集めをしている私にとっては是非ともお参りせねばならない寺院でした)。本尊は聖観世音菩薩で、境内から日本三景のひとつ天橋立が一望できます。

本堂所在地:京都府宮津市成相寺
山号:成相山宗派真言宗単立
本尊:聖観世音菩薩
創建年:(伝)704年(慶雲元年)
開基:真応上人
別称:成相観音
札所等:西国三十三観音28番
文化財:絹本著色紅玻璃阿弥陀像・鉄湯船ほか(重要文化財)
本堂・鎮守堂・成相寺参詣曼荼羅ほか(府文化財

【成相寺歴史】

P4160138.jpg(山門ですが、車やバスですと通り過ぎてしまいます。素敵な仁王様が迎えてくださいます。別名橋立観音!)

寺伝によれば704年(慶雲元年)、真応上人の開基で、文武天皇の勅願寺となったといわれますが、中世以前の寺史は良く解っていません。2007年(平成19年)、高野山真言宗から独立し、真言宗単立寺院となっています。

寺は天橋立を一望する成相山(569m)の山腹にあります。創建時は山のさらに上方に位置し、修験の道場となっていました。現在地に移ったのは1400年(応永7年)の山崩れ以降のようです。山号は古くは「世野山」と称し、雪舟の『天橋立図』(京都国立博物館蔵、国宝)には、「世野山成相寺」の書き込みとともに寺が描かれています。

p352846.jpg(雪舟の『天橋立図』(京都国立博物館蔵、国宝)には、右上「世野山成相寺」分かりますか?)

【寺名の由来と撞かずの鐘の伝説】

P4160166.jpg(最後の階段です。)
P4160176.jpg(本堂ですね。中に入ると奥に秘仏聖観世音菩薩の厨子があり、甚五郎の龍も睨んでます。)

真応上人が霊地を求め諸国を旅していたが、この地の風景に惹 かれて庵を結び修行していたところ、慶雲元年(704年)のある 日、老人が現れ観世音菩薩像を置いて立ち去りました。上人はこの像 を安置するための堂を建てたのが寺の創始とされています。 大雪の続いた冬のある日、食べ物はなくなり上人は餓死寸前となりましたが、そこに一頭の傷ついた鹿が現れます。肉を食べてはなら ないという戒律に心は揺らぎますが、命には代えられず、その鹿の肉を煮て食べました。上人は食べてから、鹿の肉と思ったのは本尊の腿の木 片であることに気付き、観世音菩薩が身代わりになり助けてくれたことを知ります。 上人は喜び、木片を観世音菩薩の腿につけると像は元通りになったといわれます。これが成相(合) 寺の寺名の由来とされている伝説です。

鹿が出る話、割と良くあるようです。鹿の角は冬落ちて春に生え変わる事から、再生をイメージするようです。絵画銅鐸にも鹿は題材として出て来るようですが、食料よりも呪術の利用として捕らえられたようです。食料用はは猪が多いです。

慶長十四年(1609年)、お寺で新しく鐘を作ることになり、 村人から寄付を募りました。 一回、二回と鋳造に失敗し、三回目の寄進を募ったとき、 ある長者の妻はお金の代わりに自分の子供を寄進すると言って、寄付を断りまし た。 やがて鋳造の日、人々が見物に集まりました。 その中に例の長者の妻も子供を抱えて見物をしていました。 ところが長者の妻は誤って 煮えたぎるルツボの中に我が子を落としてしまったのです。 このような悲劇もありましたが出来上がった鐘は美しい音色を響かせていまし た。 しかし耳を澄ますと子供の泣き声のように聞こえたそうです。 人々はあまりの哀れさに子供の成仏を願って一切この鐘を撞くことをやめ、 それ以来「撞かずの鐘」と呼ばれるようになりました。
《成相寺ホームページより》

P4160164.jpg(撞かずの鐘のご由緒)
P4160162.jpg(撞かずの鐘、鐘楼です。次になるのは91年後ですかね~?)

成相寺の撞かずの鐘が400年ぶりに撞かれたニュースを見つけました(2011年8月の京都 新聞です)。400年の時を越え 伝説の鐘が響く 宮津・成相寺で「撞かずの鐘供養」(宮津市成相寺) 日本 三景・天橋立近くにある 宮津市成相寺の西国第28番札所・成相寺で11日、 「撞(つ)かずの鐘供養」が行われた。 鋳造時以来約400年間、突かれることがなかった伝説の鐘が1日だけ復活、 境内一帯に時を超えた音を響かせた。 寺伝によると、江戸時代の初めに新鐘を鋳造。 乳飲み子が銅湯のルツボに落ちたまま完成した鐘を鳴らすと、 子どもの泣き声が聞こえたため、その成仏を願って突かれなくなった、とされる。 今回、開山1300年の記念行事の一環として、 供養と鐘本来の時を告げる役目を再現しようと鐘突きが実現した。 この日午後、石坪昭真住職ら11人が参道脇の鐘堂前で読経。 この後、板張り、密封された堂内の鐘を 僧侶らが中に入って交代で打ち鳴らした。 午後2時半に2回、3時に3回、4時に4回、5時に5回。 「ゴーン」という鐘の音が周囲の山間にこだまし、 詰めかけた多くの参拝者や観光客らも静かに手を合わせていた。 この鐘は12日から再び100年間封印され、「撞かずの鐘」に戻る。
《2011年8月12日の京都 新聞より抜粋》

【成相寺の秘仏】

本堂は1774年(安永3年)の再建されています。堂内には中央の厨子内に本尊の聖観音(しょうかんのん)像、向かって左に地蔵菩薩坐像(重要文化財)、右に千手観音立像を安置します。本尊は33年に一度開扉の秘仏で、近年では2005年(平成17年)に開扉されました。なお、西国三十三所観音霊場の中興の祖とされる花山法皇の一千年忌を記念して、2008年から2010年にかけて各札所寺院で本尊の開帳が行われ、当寺の本尊は2008年9月6日~11月30日、2009年4月5日~5月30日に開帳されました。

五重塔は本堂下、山門近くの広場に面して建つ。1998年(平成10年)に完成した新しい塔ですが、鎌倉時代の建築様式を再現した木造塔です。

P4160154.jpg
(そして近年に建てられた五重の塔です。新しいですが鎌倉様式に成っています。)

【最後に一言】

P4160214.jpg(本堂全景です。)
P4160085.jpg(又覗き、実際はこんな感じに撮影出来たはずなんですけどね)

時々お話させていただいていますが、8年ほど前に心を患いまして、入院いたしました。現在も完治したとはいえないのですが、寺社仏閣を巡ることで、少しづつではありますが、自分を取り戻して来たような気がします。御朱印集めから始まった寺社仏閣巡りはブログという形で新たな花を開かせてくれました。素敵な友人も出来ました。有難い事、神仏に感謝ですね、今後もより良い方向へ進んでいけたらと日々願っております。

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リュミエールブラン ネージュ

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2018/01/20

「大国主」は屠られて『出雲王国』は滅亡した?

今回のブログは、「大国主」は暗殺された?哀愁の『須勢理毘売命』を追って!vol③に当たるものです。このシリーズはvol②で終わる予定でしたが、鳥取県の考古学関係者の友人から愛あるクレームが有りました。(笑)成る程~と思ったので、vol③に当たるこのブログを書くことにしました。

問題点は前回の「まだご紹介していないのですが、出雲には四隅突出墓といわれる、独特の古墳が有り、国譲り以前の出雲が独特の文化を有していたのではないのかと考えています。妻木晩田遺跡には四隅突出墓が数多く発掘されています。」の部分です。

CIMG1626.jpg
(やはり大国主は殺されたのか?神話の謎を解き明かそう。)

彼いわく、「四隅突出墓では無い!正確には四隅突出墳丘墓で、古墳では無い!」とのこと。説明が難しいので調べてみると共に、vol①でプレゼントのお話もしたので、そちらも合わせて今回のシリーズは最終話にしたいと思います。(^人^)

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【墳丘と古墳の違い】

P5190131.jpg(墳丘と古墳の基準となる箸墓古墳!やはり美しいですね。)
CIMG2608.jpg(妻木晩田遺跡で最初に作られた洞ノ原1号墳。)
P8111380.jpg(四隅突出墳丘墓の分布図、これが出雲王国の全貌だと思います。)
P8111360.jpg(西谷墳墓群の横穴墓と呼ばれる横穴の墳墓群)

愛有るクレームを頂きまして、墳丘墓と古墳にどのような違いがあるのか調べてみました。webの見解では「古墳」は墳丘が一人の埋葬者のために造成されている(複数の埋葬者がある場合は古墳に含めない)。前方後円墳、または前方後方墳・円墳・方墳という規定形で、一定の政治的意味が付与されていると考えられているようです。

吉野ヶ里の墳丘墓、山陰地方の四隅突出墳丘墓(西谷墳墓群も取材済みですが、まだご紹介していません。)などは複数の埋葬者があるので古墳とは呼べません。更に、岡山の楯築遺跡(此方もまだご紹介していません。取材済みです。)は、一人の墳丘ですが、前方後円墳ではないので古墳と認められない(前方後円墳の原型ともいわれ、方部が2つの双方中円墳)、という論理のようでした。

また、wikipediaを参考にすると、3世紀後半を境に呼び方を変え、区別していると説明されています。これは箸墓古墳を基準にしていると思われ、それ以前は墳丘墓、それ以降を古墳と呼ぶようです。実際は箸墓古墳の在る纒向遺跡には、箸墓古墳以前の纒向石塚古墳・纒向勝山古墳(此方を卑弥呼の墓と考える学説も有るようです。)・纒向矢塚古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳があり、木製品の年輪年代測定などから、纒向石塚古墳は遅くとも225年頃までには造られていた事がわかっています。

この事実から、古墳の形や発展、社会の動きや時代を基準に墳丘と古墳を分ける明確なラインはないと考えますが、教科書や新聞では、はっきりと分かれているようです。墳丘墓と古墳を分けているのは、時代の様です。初現期については諸説あり、意見が割れていますが、極論で分けてしてしまえば、古墳時代に作られたのが古墳で弥生時代以前に作られたものが墳丘墓と呼ばれています。

楯築や四隅突出型などは誰もが弥生時代と認めるので墳丘墓と成るようですが、纏向にある箸墓以外の5つの墳丘を持つ墓は3世紀代を古墳時代に含めるか、箸墓以降を古墳時代とするかの見解が割れているので、人によっては古墳と言い、人によっては墳丘墓と呼んでいます。ただし、教科書的には従来からの箸墓以降を古墳時代とするという見解を取っていますので、箸墓よりも古いものは墳丘墓、箸墓より新しいものは古墳と分けて記載しているようです。

古墳であるか否かの基準としては「定型化(前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳等)」ということがあげられますが、この条件をいろいろ調べていくと古墳時代でも小さい古墳や地方の古墳だと整合性の無い物が多く現れ、基準や定義だけから古墳と墳丘墓を厳格に区別するのは事実上無理だと考えます。

岡山の楯築遺跡は、埋葬者は一人ですが、前方後円墳でない上に弥生時代の物ですから古墳と認めないという考え方は、明らかに間違っていると思います。「古墳」というものが王権の象徴と考えたうえで、弥生時代とは全く異なる社会的な意味がある物なのだということを強調し明確化するために用語が変えられていると思います。

私の結論では、基本的に箸墓古墳以降の物は全て古墳(人数が二人の野口王墓や藤ノ木古墳は個人墓では有りません)と呼ばれます。一方纒向遺跡の5古墳や楯築遺跡は、箸墓古墳より古いのですが、古墳と呼んで差し支えないと思います。墳丘墓と呼ばれるのは、明らかに弥生時代のもので(移行期は個々に選定する。)、なおかつ現代の○○家代々の墓、に相当するものです。

前回私が四隅突出墓(墳丘墓)を古墳と書いたのは使用間違いだったわけですが、私的には固有名詞としての古墳ではなく、古い墓の意味で使用したつもりだったので、お許し頂けましたら幸いです。

CIMG2398.jpg
(出雲では狛犬も独特、意宇六社の中でも私が最も美しいと思える、真名井神社の云型狛ちゃんです。)

【雲太、和二、京三】

p1596869.jpg
(48mと言われる中古代の出雲大社当時の復元模型・雲太です)
CIMG1283.jpg(和二・東大寺大仏殿!建設当時は横幅がさらに大きかったようです。)
PA280331.jpg(現在京都にある御所の大極殿ですが、南北朝時代にこの場所に移って建て直されています。)

松江市出身の友人が「雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きようさん)という言葉を、小学生時代に覚えされられた」と言っていたのでご紹介します。平安時代中ごろに「口遊(くちずさみ)」と呼ばれた、大建造物の歌謡の事です。「雲」は出雲、「太」は太郎という名前が示すように長男、「和」は大和、「京」は京都。つまり、出雲大社が1番、奈良の大仏殿が2番目、京都御所の大極殿が3番目という意味で、日本の巨大建築のベスト3を表しています。

世界最大の伝統木造建築物として大仏殿をご紹介する予定が有るのですが、(此方も取材は行っているのですが、まだご紹介出来ていません。)、それより大きな建築物があったのです。

現存する大仏殿は、正面の幅57.5m、奥行き50.5m、棟までの高さ49.1mで、古代の物より少し高いようですが、『東大寺要録』の「大仏殿碑文」によると創建時の大仏殿の規模は、幅29丈(約85.8m)、奥行き17丈(約50.3m)、高さ12丈6尺(約37m)と記録されています。高さは現在の方が高いようですが、横幅は現在1.5倍も有ったんですね~驚きました。

現在は焼失して実物は残っていませんが、昔の書物に「出雲大社は16丈(48.5m)、大仏殿は15丈(46.4m)」と記録されています。つまり古代出雲大社の方が高さは高かったことになります。

さらに、本居宣長は、幻の出雲大社を記述した本居宣長の「玉勝間」の中で、「出雲大社本殿の高さは、太古は32丈(96.96m)、中古は16丈、近古は8丈という言い伝えを記載しています。現代の建築学者は「32丈(96.96m)は、構造的に不可能」と言っているようですが、100m近い木造建築物が本当にあったのでしょうか、見てみたいですね。

平安時代、雲太といわれたころの出雲大社は16丈(48.48m)の壮大な建物でした。これが8丈に縮小されたのは、鎌倉時代宝治2年(1248)の造営からの様です。すなわち、平安時代中ごろには、出雲大社がもっとも大きく、次いで東大寺大仏殿、京都御所大極殿の順だと歌われました。

《幻の出雲大社を記述した本居宣長の「玉勝間」を参考》

古代出雲大社、長い間その出雲大社は記録に残るだけの「幻の木造建築」でしたが、2000年にそれを裏付ける遺構が発掘されました。出雲大社の境内の地下から、直径1.35mの柱を鉄の輪で3本束ねた直径約3mの柱の跡が2ヵ所発見されたのです。

6本の柱のうち4本がスギ。あとの2本は不明ですが、おそらくヒノキかコウヤマキでしょう。建築されたのは平安末期と推定されています。江戸時代に再々建された現在の東大寺大仏殿には集成材の柱が使われていますが、平安末期すでに丸太のまま束ねて柱にするという技術があったわけです。日本の建築技術は凄いですね。

日本人気質ということで、一つお話をさせていただきます。ウズベキスタンの首都タシケントに、1,500人の観客を収容する壮麗なレンガ作りのナヴォイ・オペラ・バレエ劇場があります。1966(昭和41)年4月、震度8の大地震が市を襲い、市内の建物の殆んどが倒壊した中でも、この劇場はびくともせず、市民の避難所となりました。この劇場を造ったのは、大戦後シベリアに抑留され強制労働に従事した日本兵でした。1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本人抑留者が、このアリシェル・ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場の建設に参加し、その完成に貢献しました。

同様に、ウズベキスタン全体では、2万5,000人の日本人抑留者が強制労働に従事して、道路や運河、発電所、市庁舎、学校などを作っています。どの建物も地震被害はほとんどなく、日本人が勤勉に働いていた様子が語り継がれています。捕虜となり過酷な労働条件の中でもできうる限りの最高の物を作ろうとした日本人の姿が目に浮かびます。

現在首都タシケントでは、春になると桜が満開になるのだそうです。この桜は日本人墓地を管理してくれているタシケントの市民に感謝の意を込めて、遺族会が苗木を送ったものだそうです。お隣の国では嫌われているわが国ですが、世界で日本を嫌っている国はほんの数か国だということも考えておきたい事実です。

【追いやられた出雲系一族】

国譲り神話を元に、地方に分散され力を削がれた出雲系一族をご紹介しましょう。まずは「八上姫」です。こちらは「須勢理毘売命」の嫉妬心に恐怖した「八上姫」が子供を置いて因幡に帰国(内輪もめ)したことに成っていますが、大和から出雲を征服するコース上にあるのが、因幡に成ります。戦国時代には、羽柴秀吉が出雲進攻を美作から因幡へと行っています。因幡が懐柔され「八上姫」は実家に帰されたのかもしれません。歴史は繰り返すの例えもありますからね。

次は「須佐之男(すさのお)」です。須佐族王の意味かもしれません。日本神話の中でも三貴神の一人として登場します。しかしながら、このシリーズでご紹介したように、天孫族では無いようです。全国に須佐之男を祀る神社は数多くあります。京都祇園祭りも八坂神社(御祭神は須佐之男です)のお祭りです。須佐之男が誓約で生んだのは宗像三女神、海の神様ですね。海路の重要性を考えた大和勢力が一番先に懐柔したかった人物ではないでしょうか?

次は「事代主」です。島根県美保が関の美保神社に祀られていますが、なぜか継母の美穂津姫と一緒です(お目付け役かな?)。美保神社には古事記に題材をとった「青柴垣神事」で有名です。以前私も偶然に拝見する機会がありました。神事の中心は御船が宮灘から離れ、最も尊い神域である「青柴垣」に近づきます。そして、これまで続いた精進潔斎を経た當屋(氏子から選ばれた男性)は神がかり状態になり、その体に神霊を戴きます。ここで、當屋は船内において「生き化粧」へと化粧を塗りかえます。

IMG_6082.jpg
(美保神社の青柴垣神事、當屋が青柴垣を祀る船に向かいます。正にうなだれる「事代主」に見えませんか?)
IMG_6050.jpg
(小忌人は地面に足を突かないそうです。天津神の使いですね。)

解釈ははっきりしないようですが、精進潔斎を経た當屋がうなだれ両脇を支えられながら、御船に乗り込む姿は大和軍に引き立てられる事代主そのものに感じました。小忌人(古くは大齋人)と言われる少女が、當為知に背負われ地に足を付けない姿は天孫族の使いとも見えました。国津神から天津神へ変わる神事ということでしたが、古事記に有る青柴垣に隠れるは、死を意味するものかもしれませんし、伯耆国には事代主が逃げて来たという伝承場所(倉吉市波波伎神社社)が残っています。

さらに、『古事記』の国譲りに登場する武闘派神、「建御名方(たけみなかた)」、『先代旧事本紀』「地祇本紀(地神本紀)」では、大己貴神(大国主)が高志沼河姫(こしのぬなかわひめ)を娶って生まれた一男が建御名方であるとされます。日本書紀には記載はありません。 建御雷に力競べを挑み建御雷神の手を掴むと、建御雷神の手は氷や剣に変化しました。建御名方神がこれを恐れて下がると、建御雷神は建御名方の手を握りつぶして投げ飛ばしてしまいます。

建御名方は逃げ出したが、建御雷がこれを追い、ついに科野国(信濃国)の州羽海(諏訪湖)まで追いつめて建御名方神を殺そうとしました。その時に、建御名方はその地から出ない旨と、大国主・八重事代主に背かない旨、葦原中国を天つ神の御子に奉る旨を約束したといいます。

そして最後が今回シリーズとして取り上げた「須勢理毘売命」です。唐王神社や大山町の伝承によると、大国主と離れて大山の見える、出雲の端で生涯を閉じています。出雲大社では仲良く祀られていることに成っています。

PB020002.jpg(出雲大社一の鳥居、やはり大きいですね~!)
P8111130.jpg
(二匹の兎は大社に何を祈るのか?)

唐王神社近くに存在する「妻木晩田遺跡」も少しだけご紹介しておきましょう。標高90~120メートル前後(平野部との比高差100メートル前後)の尾根上を中心に立地し、面積約170ヘクタールにおよびます(吉野ヶ里の5倍)。これまでにま17.2ヘクタールが調査され(それでも10分の1です)、集落関係では竪穴住居395基、掘建柱建物跡502基、墳丘墓(四隅突出型墳丘墓含む)24基、環壕等が検出されています。

一連の集落は弥生時代後期を中心に中期終わり頃から古墳時代前期初頭にわたって営まれてたことが分かっています。いわゆる倭国大乱の影響とされる高地性集落ですが、比較的大規模で長期にわたる例は少なく、注目されていて昨年も12月まで発掘調査が行われていました。今年も予算が付けば、更なる調査が行われる予定です。

【最後に一言】

毎回言っていることですが、歴史は勝者が書き換えるのです。大国主の国譲りも、事代主の青柴垣へのお隠れも、建御名方の諏訪湖への逃亡劇も、須勢理毘売命が出雲大社で仲良く暮らしたお話も疑っていきますと限がありません。

しかしながら、国を譲られた大和勢力が古事記において出雲国の神話を中心に据えた理由は、やはり出雲王国の底力を恐れたからではないかと思います。邪馬台国論争、卑弥呼論争は出雲抜きでは語れないのではないかと思うのですが、皆様はどう思われますか?

最後に成りましたが、プレゼントのお話忘れていました。「須勢理毘売命」が「大国主(葦原の醜男)」を助けるために渡した砂と同じものだとも言われる唐王神社神殿下の砂です。私の分も含めて3つ頂きました。ご要望がございましたらプレゼントさせていただきます。

神話のお話、須佐之男が頭の虱を取るように言いつけられた大国主最後の試練、頭にいたのは虱ではなくムカデでした。大国主は、須勢理毘売命からもらった椋(むく)の実を噛み砕き、同じくもらった赤土(実物は赤くありませんが、笑)を口に含んで吐き出して難を逃れたあの砂と同じものだそうです。蝮や毒虫の危険は少なくなりましたが、昔ながらの悪い虫はまだいます。それは、女性にとっては男性、男性にとっては女性だそうです(爆)。この悪虫に対する須勢理比売命の神通力は今なおこの地で信じられています(結構必要な人いるかもしれません)。ご希望の方はコメントを頂きましたらお贈りいたします。応募多数の場合は厳正にくじをひかせていただきます。

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リュミエールブラン ネージュ

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2018/01/16

「大国主」は暗殺された?哀愁の『須勢理毘売命』を追って!vol②

さて、今回も前回ご紹介した、出雲の成り立ちと古事記の説明も交えながら、前回の続き『須勢理毘売命』の逃避行の続編をお送り致します。勿論看板兎もご紹介します(笑)!

P8111160.jpg(大国主と須勢理毘売命の結婚式壁画の前で三々九度をする二匹の兎可愛い~!)

現在と違い、陸路の交通網は整備されておらず、須勢理毘売命を追い掛ける?大和軍もアウェイな陸路道中のリスクは避けなければいけなかったのかも知れませし、強力な水軍の存在は疑問が残ります。元々日本海交易の中心を担って来たのは、出雲なのですから。

一方、逃げる須勢理毘売命側の上陸地点近くには環濠集落をも備えた、妻木晩田遺跡も有り、出雲勢力が色濃く残っています。妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)は、鳥取県西伯郡大山町富岡・妻木・長田から米子市淀江町福岡に所在する国内最大級の弥生集落遺跡です。遺跡の面積は156ヘクタールにもなり、これは発掘当時国内最大級と喧伝された吉野ヶ里遺跡(当時32ヘクタール、現在は調査が進み、約2倍の面積になっている)の5倍にもおよぶ大規模なものです。

ところで、まだご紹介していないのですが、出雲には四隅突出墓といわれる、独特の古墳が有り、国譲り以前の出雲が独特の文化を有していたのではないのかと考えています。妻木晩田遺跡には四隅突出墓が数多く発掘されています。正に出雲の牙城といえます。

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【意宇の杜ってなに?】

CIMG2378.jpg(杜というより林位ですが、周りは国府や国分寺、六所神社・真名井神社等、正に古代出雲の中心です。)

前回写真で紹介致しましたが意宇の杜(おうのもり)は、『出雲風土記』の中に登場する(「古事記」「日本書紀」にも登場しない)『くにびき神話(出雲成り立ちの物語)』の最後の地で古代出雲の中心といえます。国引き神話(くにびきしんわ)は、出雲国に伝わる神話の一つです。『古事記』や『日本書紀』には記載されておらず、『出雲国風土記』の冒頭、意宇郡の最初の部分に書かれています。

昔々、出雲の創造神、八束水臣津野命は出雲の国を見渡して「この国は、細長い布のように小さい国だ。どこかの国を縫いつけて大きくしよう」とお思われました。

そこで、どこかに余分な土地はないかと海の向こうを眺めると、朝鮮半島の新羅(しらぎ)という国に余った土地がありました。ミコトは、幅の広い大きな鋤(すき)を使い、大きな魚を突き刺すように、ぐさりと土地に打ち込み、その魚の身を裂いて切り分けるように土地を掘り起こし、切り離しました。

そして三つ編みにした丈夫な綱をかけて、「国来、国来(くにこ、くにこ)」と言いながら力一杯引っ張ると、その土地は川船がそろりそろりと動くようにゆっくりと動いてきて出雲の国にくっつきました。

こうして合わさった国は、杵築(きづき)のみさき「出雲市小津町から日御碕まで」になりました。その時、引っ張った綱をかけた杭が佐比売山「さひめやま、現在の三瓶山(さんべさん)」で、その綱は薗の長浜(稲佐の浜の海岸です)になりました。

その後も、ミコトは北の方の国から同じように狭田(さだ)の国「小津から東の鹿島町佐陀まで」と、闇見(くらみ)の国「松江市島根町のあたり」を引っ張ってきてつなぎ、最後に北陸地方の高志(こし)の国から引っ張ってきた国が三穂の埼「松江市美保関町のあたり」になりました。

この時、ミコトが引っ張った綱をかけた杭は伯耆の国の火の神岳「ひのかみたけ、現在の大山(だいせん)」で、持って引っ張った綱は夜見の島(弓ヶ浜)になりました。

そしてミコトは「国を引くのが終わった」とおっしゃって、杖をおつきになって「おえ。(終えた~~!おりゃ~~!の掛け声かも)」と言われたので、その地を意宇というようになりました。

意宇の杜はその杖が刺さった場所です。「出雲国風土記」の冒頭を飾る「国引き神話」の主人公である「八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)」は出雲神仏霊場の「長浜神社」に主祭神として祀られています。

【古事記を簡単に説明します】

私が出雲神話の基本としている「古事記」は上つ巻(序・神話)中つ巻(初代から十五代天皇まで)下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで)の3巻より成っています。

上つ巻神話部分の約半分が何かしら、出雲に関わっていると言われています。何故大和政権はそこまで、出雲を持ち上げる必要性が有ったのでしょう。征服者なのに不思議だと思いませんか?

内容は、神代における天地の始まりから推古天皇の時代に至るまでの様々な出来事(神話や伝説などを含む)が紀伝体で記載された歴史書です。また、数多くの歌謡を含みます。さらに、『古事記』は「高天原」という語が多用される点でも特徴的な文書です。

【古事記より古い文献の存在が有った?】

中大兄皇子(天智天皇)らによる蘇我入鹿暗殺事件「乙巳の変(いっしのへん」に憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害しました。この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上したと言われています。『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ「国記」は難を逃れ天智天皇に献上されたとされますが、共に現存していません。

天智天皇は白村江の戦いで唐と新羅連合に敗北し、予想された渡海攻撃への準備のため記紀編纂の余裕はな有りませんでした。その時点で既に諸家の帝紀及本辭(旧辞)には虚実が交じってしまいました。壬申の乱後、天智天皇の弟である天武天皇が即位し、『天皇記』や焼けて欠けてしまった「国記」に代わる国史の編纂を命じます。

まずは28歳の稗田阿礼の記憶と帝紀及本辭(旧辞)など数多くの文献を元に『古事記』が編纂されました。古事記には、大国主と須勢理毘売命は杵築の日隅宮[ひすみのみや](出雲大社)でお暮らしになったと記されています(この取材の趣旨からすると間違いですね。)。なんて事をしてくれたんだ、中大兄皇子・中臣鎌足~~と叫びたいところです。(ノ-_-)ノ~┻━┻

奈良県高市郡明日香村豊浦にある丘陵、「甘樫丘(あまかしのおか)」の、朝廷の歴史書を保管していた書庫が残っていたら、『天皇記』など数多くの歴史書が失われずに現存したら、今日の教科書の古代史部分にかなりの違いが有るはずです。

【唐王神社御由緒書(公式サイトより抜粋)】

PB051686.jpg(神紋は梅!)
PB051699.jpg(千木・鰹木・神紋はどうやら菅原道真公のようです。)

須勢理比売命[すせりびめのみこと]は古来唐王御前神社と号し、普[あまね]く諸民の尊崇他に異れる旧社なり。

社伝に曰く、須勢理比売命は、大国主大神と共に夜見[よみ]の国より帰り座して、土地経営の神功を畢[お]へ、稼穡[かしょく](農業)の道を立て、疾苦患難救助の神咒[かじり]の法則[ことわり]を萬世に垂訓し給ひて、大国主大神は永く日隅宮[ひすみのみや](出雲大社)に鎮座し、須勢理比売命は比地に鎮座す。

故に該神社域内宏大なりしこと、往古の規模を存せり。字御前畑[あざごぜんばた]と申所西側にあり。

井屋敷とて御手洗の井泉東側にあり、今は人家の邸内となれども汚穢[おあい]の輩[やから]此の水を汲めば忽[たちま]ち濁る、即ち社前の砂を投じて浄むれば、自ら清水となる。

社伝口碑に據[よ]るに、此の所正しく須勢理比売の御陵[みささぎ]ならむと。太古より一社の伝説あり。

蓋[けだ]し該地位は大山を距[へだた]る三里、夜見浜を距ること三里強、其の中間にあり。

往古は此地も出雲の国境なるや詳[つまび]かならざれども、出雲風土記に「持曳く綱は夜見島是なり云々」中世海洋を隔[へだ]つる外国は総て加羅と通称せり、故を以て夜見国より帰り給ひをも唐土より来り給へるものとし、又大国主大神の后神[きさきがみ]なるを以て唐王御前神と稱[たた]へ奉りしなり。

亦、命の御陵と認むる所以は、神験不測[しんけんふそく]の神呪方神蹟[しんせき]今猶此地に存在す。

本殿の下に方一間余の石の玉垣あり、其中に高五尺余の古造の碑石あり。中古仏者の為に惑わされ、命の尊陵たるを知らず。往々祭祀を廃絶し社字衰頽す。

諸人該玉垣内の砂を請ひ或は之を御手洗の井泉に撒きて其の身を清むれば、年中虫毒の難に触るること無く、適其害に遭ふも其水を温湯にし砂を入れて紙に涵し、身体の損傷せし所を摩拭すれば疼痛忽ち止み全癒す。故に崇敬の信徒日に増し月に加はる。

《鳥取県神社誌より》

現在のように医薬が発達していなかった時代、蝮や毒虫は人々の暮らしに危険この上ない存在だったと想像できます。明治初期の氏子が12300人で、その範囲は中山町から東出雲町にまで及んでいたのはそれ故でしょう。しかし蝮や毒虫の危険が減るに連れ、往年の参詣者は減り賑わいも無くなっています。

鳥居の扁額は松籬社とありました。神殿の屋根の千木は外削り、鰹木は3本でしたね、神紋は梅(どうやら天満宮が合祀されたようです。『鳥取県神社誌』によれば「菅原道真は古来天満宮と号し壹宮神社の摂社なり、明治元年10月神社改正の際唐王神社の境内に移転し松籬神社と称せしを同12年允許を得て唐王神社と改称合祀せらる。」とのことですので、扁額は明治初期の物に成るかと思われます。唐王神社の謎が、少し解けて来ました。

【『須勢理毘売命』の道行き続編】 

大山町の阿弥陀川河口付近に上陸され、最初は大山町国信の「若宮原」に居を構え暫らく滞在します。今でも大きな松の切り株や弥生式の土器が出土するようです。

しかしここは、海辺ゆえの波風が立ち海の音も高いがゆえに、大山町末吉の「天皇さん」に居を移されたといいます。暫らくご滞在になられましたが、やはりまだ海から近いということで、末長の「天皇さん(地元でこのように呼ばれています。末吉・末長共にめでたい名前ですね。)」に移られたということです。近くに喉を潤した湧き水と腰を下ろされた腰掛岩が在るとの記載がありました。そこでもまだ海が近いと唐王へお移りになったとの言い伝えもあります。

PB051735.jpg(末長の「天皇さん」ここも神社では無いので、聞き込みに苦労しました。)
PB051741.jpg(石の祠がいくつかありますが、神社の痕跡は在りません。)
PB051742.jpg(祠はあるのですが、須勢理毘売命とは関係なさそうです。場所は末長の「天皇さん」に間違いありません。)
PB051762.jpg
(走り回る事一時間、これか~?)
PB051753.jpg(須勢理毘売命が喉を潤した湧き水!私も舐めてみました。笑)
PB051765.jpg(須勢理毘売命が腰かけた岩、さすがに座れませんでした。)

【最後に一言】

PB051725.jpg(本当にこの下に眠るのか?「須勢理毘売命」)


神蹟を探すことは容易な事ではありません。時代を考えるとイエス・キリストの井戸や住処先をたどるのと変わりが無いのです。現地の古老のお話に耳を傾け地域地域を何度も回りました。そしてついにという感じですが、移動場所らしき場所は全て見つけました。最後の「本殿下に方一間余の石の玉垣があり、その中に高五尺余の古い碑石が在り、それが須勢理毘売命の陵墓だという。」だけ見つかりませんでした。唐王神社の神殿下に眠るのか?とても残念です。

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2018/01/13

「大国主」は暗殺された?哀愁の『須勢理毘売命』を追って!vol①

前回『須勢理毘売命』のお話しをさせて頂くために、大国主の女性達を紹介致しました。反響を頂いたのですが、皆さん最初の写真の出雲大社の兎が「可愛い~~!」との反響~?。(笑)

まわしを締めていたのは、野見 宿禰(相撲の神様)のお社の隣の兎だからでした。ということで、今回も「看板兎」で皆さんを惹き付けま~す。(*^^*)

DSC_0129.jpg
(こちらは大国主と因幡の素兎「ガマの穂をくわえた八上姫」ですね。)

さてお話しは、『須勢理毘売命』が大国主から離れて、出雲王国の端ともいえる大山町に移り住んだ経路を追い掛けるという企画です。行ってみよう~~!

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【唐王神社の賑わい】

PB051684.jpg(小さな神社、鳥居には松籬社「松垣根の社」だそうです。何か変?)

《唐王神社公式サイトより抜粋》

「まーむしまむし、よーけよけ、唐王御前のお通りだ」とは、山の茂みや草むらなどにわけ入る時の唱え言葉でありますが、当社のご神徳はこの地方に広くゆきわたっております。

ご祭神須勢理毘売の神様は、女神様で御父神様はあのご気性のはげしい素盞鳴命(すさのうのみこと)です。当時賢明で御徳高く信望の厚い大国主命が、須勢理毘売命を妻にと申出のあった際、素盞鳴命は姫の夫をしてふさわしいかどうかを色々な方法で試されたのでした。

最初の試練は、毒蛇の室で一夜を過すことでした。大国主命が部屋に入られるや否や、大蛇や蝮等毒蛇が数知れずどっと襲いかかって来たのです。その時すかさず須勢理毘売命は「この比礼を三度打ち払い給え」と申されて、その通りに比礼を振ると毒蛇はみな姿を消して危機を助けられました。

その次は、むかでと蜂の部屋でした。又火ぜめの試練もありましたが、その都度姫のご神徳によって危険をのがれられ目出度くご夫婦となられました。後御子事代主命の神々と共に力を合わせてこの国の農業の開拓、医療の進展、温泉の開発等と人々の福祉を進められたご功績は甚大なものがあります。この神社は、この須勢理毘売命を崩った地として、以前には毎年出雲大社から祭官が参向されていたそうであります。

現在も害虫毒虫蝮よけの守護神として県内外からの参拝者も多くあり、ご本殿下の砂をいただいて田畑にまけば害虫が去り、家屋敷にまけばささりやむかでが退散するし、又お守を身につけて居るならば蝮の危害をのがれることができるし、更に神社裏奥にあるご神井の水は如何なる旱祓にも涸れたこともなく(※)、蜂にさされた折等いち速くこのご神水をぬれば勿ち治癒するといわれて居ります。

旧8月3日には早朝から参拝者で賑わい、特に地方の名産干瓢市が立ち見る間に数百貫の干瓢も売り切れてしまいます。又芸能奉納や名物「どじょう汁」の売店もあります。

<昭和49年 汗西神社案内>

※現在は整備事業の為水脈が変わり、水は出なくなりましした。

汗西神社とは唐王神社の事の様です。何故か名前が違いますし、前回気がつかれた方も居られると思いますが、鳥居の名前も(松籬社)神社でしたね。土地のなまえが唐王なので唐王神社と呼ばれているのかも知れません。

PB051686.jpg(唐王神社の千木も外削り、鰹木も三本、男神様ですね~?)

【大国主は暗殺された?】

DSC_0055.jpg
(古代心柱の後地上40メートルの日本最大高を誇る大神殿が実在したことが証明されました。)
PB020109.jpg(出土した古代心柱のレプリカです。)

大国主と別居することになった「須勢理毘売命」ですが、はこの別居に疑問点があると感じています。

別居された理由とされる神話は、『日本書紀』の葦原中国平定の場面の第二の一書にのみに登場します。大穴牟遅命(大国主)が国譲りを決め、幽界に隠れた後、高皇産霊尊が大物主神(大国主の奇魂・和魂)に対し「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」と申されました。このように記載される「日本書紀」の解釈を物語の通りに考えると、色々な疑問がわいてきます。

ストレートに読むと、この時点で大物主神(大国主の奇魂・和魂)と成っています。つまり神霊、幽界に隠れた後とは、大国主の死を意味していると考えるのはおかしいでしょうか。「国譲り」といえば美しいお話ですが、つまりは戦争、もしくは脅しですね、大国主は一個人ではなく、出雲大国王の名称でしょう。多くの名前(大穴牟遅神・大己貴命・八千矛神・葦原醜男・大物主神・大國魂大神
等)も多くの子孫も大きな功績(国造りの神として有名)も出雲大国王が成し遂げたと考えると、理解出来ます。

倭もしくは大和、天孫族に国を奪われた出雲王国の王は杵築大社に祀られました。出雲王国は加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡、妻木晩田遺跡、更にはヤガミヒメの因幡、ヌナカワヒメの越までを、考えると大きな都市国家を線で繋いだ、日本海側の最大勢力を誇る王国でした。本来の出雲は現在の出雲大社がある出雲市ではなく、「 出雲風土記」で語られた『意宇(出雲六社や国府跡・国分寺跡が残る)』であったことは間違いないと思います。

CIMG2378.jpg(古代出雲の中心「出雲風土記」の意宇の杜)
IMG_6188.jpg
(荒神谷遺跡、日本最多358本の銅剣「国宝」が出土しました。 『出雲国風土記』記載の神名火山「神の山」とされます。)
IMG_6206.jpg
(加茂岩倉遺跡、1ヵ所からの銅鐸出土としては全国最多、総数は39個「国宝」。)

大和政権が自分たちの神話に取り入れ、大国主が死してなおその勢力を恐れ、地上40メートルにも及ぶ巨大な空中神殿を作って祀らなければ怖くてしょうがなかったのです。前回も申しました様に、出雲王国の三種の神器は、生大刀と生弓矢、天詔琴です。しかし出雲大社の御神体は、その何れでも無いであろうことを、実は私「有る関係筋」からの聞き取り調査で存じております。大国主は、死に追いやられたと私は推測します。

【社伝「須勢理毘売命」の道行き】

PB051801.jpg(上陸地大山町の阿弥陀川河口付近、今はサーファーの聖地と成っていました。)
PB051793.jpg(浜を上がると大山が見えます。やはり目印は大山!)
PB051841.jpg(最初の地、国信の「若宮原」付近)
PB051847.jpg(鳥居は在っても社は在りません。戦国期には吉川元春VS尼子勝久の戦があった森末城の一部に成ったかもしれません。)
PB051848.jpg(振り返るとやはり大山)


倭に首都を奪われた、大国主の妻「須勢理毘売命」は辺境の妻木晩田遺跡(妻木晩田は1世紀に最盛期を迎え2世紀後半に滅んでいます。)からすぐ傍の唐王の地に逃れる事を余儀なくされます。その道行は意宇から東に逃れ揖屋の港から米子市夜見を通り(ここまでは私の私見です。)、大山町の阿弥陀川河口付近に上陸され、最初は大山町国信の「若宮原」に居を構え暫らく滞在します。今でも大きな松の切り株や弥生式の土器が出土するようです。

しかしここは、海辺ゆえの波風が立ち海の音も高いがゆえに、大山町末吉の「天皇さん」に居を移されたといいます。暫らくご滞在になられましたが、やはりまだ海から近いということで、末長の「天皇さん(地元でこのように呼ばれています。末吉・末長共にめでたい名前ですね。)」に移られたということです。近くに喉を潤した湧き水と腰を下ろされた腰掛岩が在るとの記載がありました。そこでもまだ海が近いと唐王へお移りになったとの言い伝えもあります。

PB051767.jpg(末吉の「天皇さん」と呼ばれているらしい。由来は地元の方も良くわからない様子でした。)
PB051777.jpg
(質素なお社、謎が謎を呼ぶ~笑次回もよろしくお願します。)

【最後に一言】

フィールドワークの大切さを実感させられるようなブログに成りました。ハインリヒ・シュリーマンが19世紀末に、ギリシャ神話やホメーロスの英雄叙事詩『イーリアス』をもとに、長く伝説上の古代都市と思われていたトロイアの都市国家イーリオス遺跡を発見したことに思いをはせました。あのトロイの木馬が現実の話だったとなると、出雲神話の神々や場所も神話としてかたずけて良いのでしょうか?神話や伝承を語り継がない国は滅びる運命にあります。

アメリカがスターウオーズを必死に製作するのは、出雲神話や金太郎や桃太郎に浦島太郎が無いからだと思いませんか?チューバッカ・C‐3PO・R2-D2が猿・犬・雉に見えてきたらルークが桃太郎だとわかりますよね。(笑)

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リュミエールブラン ネージュ

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2018/01/10

高天原の圧力による政略結婚と『須勢理毘売命』の悲哀。

今日は『出雲繁栄』に至る大国主の奥様達について少しお話させて頂きます。建速須佐之男命の娘『須勢理毘売命』がメインなのですが、今日はまず神話の舞台を楽しんでいただきましょう。

その前に少し、今日は西宮神社の開門神社が有りました。毎年TV等で話題に成るので、皆さんもご存じですよね~。私の同僚、勿論若手(サッカー経験者)ですよ~(*^^*)、がチャレンジしてたんです。前回は最前列のA組108人に選ばれたので、「今回も」と期待したのですが、残念ながら抽選に漏れてしまいました。もし彼が抽選されていたら、開門神事の記事をUPするつもりだったのですが、来年に期待です。(笑)

DSC_0336.jpg
(今人気の出雲大社のうさぎさんもちろん因幡の素うさぎですが全部で何匹居るのかな?)

ということで、神話のお話です。『古事記』での出雲神話の主人公『大国主(大穴牟遅命)』の活躍はまず、「因幡の素兎(これでしろうさぎです)」「燃え盛る猪岩(八十神の嫉妬)」「復活して根の国へ逃亡(母の愛)」と進んで行きます。そして須佐之男の娘『須勢理毘売命』と結ばれ大国主と呼ばれる様に成ります。まずはこの辺の神話、思い出して頂きましょう。

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【再生した大穴牟遅命】

DSC_0229.jpg
(出雲大社の大国主様)

『古事記』での出雲神話の主人公『大国主(大穴牟遅命)』の活躍は、「因幡の素兎(これでしろうさぎです)」「燃え盛る猪岩(八十神の嫉妬)」「再生するもまた殺害(ひつこい八十神)」「復活して根の国へ逃亡(母の愛)」と進んで行きます。

因幡の国(稲羽の素兎物語)ヤガミヒメ(八上姫)に選ばれた、オオナムヂ(大穴牟遅命)の復活を知った八十神は、再度殺害を試みます。大木を切り倒して楔で割れ目を作り、そのなかにオオナムヂを入らせ、楔を引き抜いて打ち殺してしまいます。母親は泣きながらオオナムヂを探して大木をみつけ、すぐに木を裂いて取り出してまた生き返らせます。

母親は、「あなたはここにいたら、八十神に滅ぼされてしまうだろう」といい、木国のオオヤビコの所へ行かせることになります。オオヤビコの所へ行くと、追ってきた八十神がオオナムヂの引き渡しを求めてきます。オオヤビコはオオナムヂを木の股を潜り抜けさせて逃がし、スサノオのいる根の堅州国に向かうようにいいます。

【根の国訪問と須勢理毘売命との出会い】

CIMG2424.jpg
(須勢理毘売命生誕の地)
CIMG2429.jpg(須勢理毘売命が産湯代わりにつかったと言われる岩坪、神社もあります。)

根の国のスサノオ(須佐之男)の家で、オオナムヂ(大穴牟遅命)はスサノオの娘のスセリビメ(須勢理毘売命)と出会い、二人は一目で恋に落ちてしまいます。

スセリビメが「とても立派な神が来られました」というので、スサノオはオオナムヂを呼び入れますが「ただの醜男ではないか。葦原醜男(アシハラシコヲ)と言った方が良い。蛇の室にでも泊めてやれ(葦原醜男ですよ、ちょとひどくないですか、笑)」と、蛇がいる室に寝させます。スセリビメは「蛇の比礼(呪具・女性が、結ばずに首の左右から前に垂らすスカーフの様なもの)」を葦原醜男にさずけ、蛇が食いつこうとしたら比礼を三度振るよういいます。その通りにすると蛇は鎮まったので、葦原醜男は無事に一晩寝て蛇の室を出られました。

次の日の夜、スサノオは葦原醜男を呉公(ムカデ)と蜂がいる室で寝させた。スセリビメは「呉公と蜂の比礼」をさずけたので、葦原醜男は無事にムカデと蜂の室を出られた。

更に、スサノオは広い野原の中に射込んだ鳴鏑(なりかぶら)を拾うよう葦原醜男に命じます。葦原醜男が野原に入ると、スサノオは火を放って野原を焼き囲んでしまいます。

葦原醜男が困っていると鼠が来て、「内はほらほら、外はすぶすぶ」(穴の内側は広い、穴の入り口はすぼまって狭い)と教えてくれます。それを理解した葦原醜男がその場を踏んでみると、地面の中に空いていた穴に落ちて隠れることができ、火をやり過ごすことができました。

また、その鼠はスサノオが射た鳴鏑を咥えて持って来てくれました。スセリビメは葦原醜男が死んだと思って泣きながら葬式の準備を始めます。スサノオは葦原醜男の死を確認しに野原に出てみると、そこに矢を持った葦原醜男が帰って来ます。

スサノオは葦原醜男を家に入れ、頭の虱を取るように言いつけます。ところが、その頭にいたのはムカデでした。葦原醜男は、スセリビメからもらった椋(むく)の実を噛み砕き、同じくヒメにもらった赤土(これちょっと大事なので覚えいて下さいね。)を口に含んで吐き出していると、スサノオはムカデを噛み砕いているのだと思い、かわいい奴だと思いながら眠りに落ちてしまいました。

葦原醜男はこの隙に逃げようと考えると、スサノオの髪を部屋の柱に結びつけ、大きな石で部屋の入口を塞ぎました。スサノオの生大刀と生弓矢、スセリビメの天詔琴を持ち、スセリビメを背負って逃げ出そうとした時、琴が木に触れて鳴り響いてしまいます。

その音でスサノオは目を覚ましましたが、その際に髪が結びつけられていた柱を引き倒してしまいます。スサノオが柱から髪を解く間に、葦原醜男は逃げることができたのでした。

スサノオは、葦原中津国(地上)に通じる黄泉比良坂(よもつひらさか)まで葦原醜男を追いましたが、そこで止まって逃げる葦原醜男に「お前が持つ大刀と弓矢で従わない八十神を追い払え。そしてお前が大国主神、また宇都志国玉神(ウツシクニタマ)になって、スセリビメを妻として立派な宮殿を建てて住め。分かったな!」といって二人の結婚を許します(出雲神国の三種の神器は刀・弓・琴ですね~(*^^*))。

葦原醜男は出雲国へ戻って大国主となりスサノオから授かった太刀と弓矢を持って、八十神を山坂の裾に追い伏せ、また河の瀬に追い払い、全て退けます。そしてスセリビメを正妻にして、宇迦の山(宇迦の山は今の出雲大社の後方・北側の山を指しますが、古代出雲王国を考えると、違和感を感じます。)のふもとの岩の根に宮柱を立て、高天原に届く様な立派な千木(ちぎ)のある新宮を建てて住み、国づくりを始めました。

大国主はダイコクと読めることから、同じ音である大黒天と習合して民間信仰に浸透しています。子のがえびすに集合していることから、大黒様とえびすは親子といわれるようになっています。

日本書紀本文によるとスサノヲの息子であるとの記述もあり、また古事記や日本書紀の一書、新撰姓氏録によると、スサノヲの六世の孫、また日本書紀の別の一書には七世の孫などとされています。

【モテモテ大国主の妻問】

ヤガミヒメ(八上姫)は本妻のスセリビメ(須勢理毘売命)を恐れ、オオナムヂ(大穴牟遅命)との間に生んだ子を木の俣に刺し挟んで実家に帰ってしまいます。スセリビメはさすがにスサノオの娘ちょっとやんちゃで怖いです。(笑)

ヤチホコ(八千矛神、大国主の別名)は高志国のヌナカワヒメ(沼河比売)をめとろうと出かけ、歌をよみかわします。そのため、妻のスセリビメが大変嫉妬しました。困惑したヤチホコは出雲国から大和国に逃れる際にスセリビメに歌をよむと、スセリビメは杯を捧げて留める歌を返しました。二神は杯を交わし、今に至るまで二神は仲睦まじく出雲大社に鎮座することとなったともいわれます(というのが出雲大社の祭神としてのお話ですね)。

大国主は多妻な事でも知られており、様々な女神との間に子をもうけました。その数、約180柱も居られます(モテモテですね)。そんな大国主の妻は古事記と日本書紀の記述の中では上記三人の他に、「宗像三女神」の一柱で『古事記』ではタギリヒメ(多紀理毘売命)とも結ばれています。古事記の大国主神の系譜では、大国主神との間にアジスキタカヒコネ(阿遅鉏高日子根神・味耜高彦根神)とシタテルヒメ(下照姫)を生んだと記されています。

さらに、カムヤタテヒメ(神屋楯比売)。コトシロヌシ(事代主神)の母、出雲の国譲りに際し、大国主がその意見を聞いたことは、この神が神の託宣を伝える役であったと推測されます。

まだまだ居られる様ですが、問題なのはこの方です。ミホツヒメ(三穂津姫)です。ミホツヒメは、日本神話に登場する女神です。高皇産霊尊の娘で、大国主神あるいは大物主神の神后です。

『日本書紀』の葦原中国平定の場面の第二の一書にのみ登場します。大穴牟遅命(大国主)が国譲りを決め、幽界に隠れた後、高皇産霊尊が大物主神(大国主の奇魂・和魂)に対し「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」と詔しました。

本妻はスサノオの娘スセリビメですよね、タギリヒメも誓約で生まれた宗形三女神の一人ですよ、それでも天孫系では無いということですよね~ということはスサノオとアマテラスは本当の姉弟ではないのか?ちょっと面白く成って来たと思いませんか?

【国譲りと須勢理毘売命の哀愁】

PB051665.jpg(須勢理毘売命の墓の上に立つという言い伝え唐王神社)
PB051671.jpg(最終目的地を先に見せるのは、実は以前にご紹介してたんです。今回は神の痕跡を探す一大スクープとなるか?)

三穂津姫は大国主大神の后神として高天原から稲穂を持って降り、稲作を出雲地方に広めたと言われています。后という漢字は正妻の意味です。大国主大神の正妻といえば須世理姫神を思い浮かべますが、三穂津姫神は国譲り後、出雲の姫神が正妻であるのは信用出来ないと、国譲りの証と誓いの一つとして高天原より降嫁したと言われます。

さて、「須勢理毘売」ですが「古事記」には、お二人は杵築の日隅宮(出雲大社)でお暮らしになったと記されております。ですが鳥取県西伯郡大山町唐王にある『唐王神社(とうのうじんじゃ)』は、須勢理毘売が最後を迎えた場所として知られています(現在はあまり知られてはいないと思いますが、古くは有名だったようです。出雲大社から80kmも離れています。そのように離れて暮らしたことは不思議ですが、当時はこの地方も出雲国の一部だったと私は考えています。

別居された理由は「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」という高皇産霊尊の一言です。このような経緯により、大国主神には新たに三穂津姫という天孫系神后ができたのです。ですから須勢理比売命は唐王へ別居せざるをえなかったと考えます。

唐王(とうのう)という村名は珍しいと思いませんか?鳥取県神社誌にあるように、昔ほとんど交通網のなかった時代は、海の向こうや遠方の国はみな加羅と言っていました。ですから夜見の国から船で来られた須勢理比売命を、唐(から)の王と呼んできました。それが村名になったとのことです。須勢理比売命は海辺の近くの国信辺りに着岸されたようですが、波の音が近すぎると末吉へ移っています。しかしそこも音が近く末長へ移住、そこでもまだ音が近いと唐王へ移られたたとの言い伝えがあります。

今回その、須勢理比売命の言い伝えを追って、着岸場所の国信から末吉・末長・唐王へと女神の足跡をたどる旅に出て来ました。これが大変!土地の古老も全く知らない場所やwebにも載っていない場所を探して駆けずりまわり移住ルートを発見してきましたので、ご紹介しましょう。今日はここまでです。次回のお楽しみですね~それによければですが、プレゼントもありますので期待して?ください。(笑)

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2018/01/07

一月七日は、正月疲れの胃腸もケアして『七草粥』Modefai

一月七日は「人日の節句」、やはり『七草粥』ですね。私はお酒が飲めないので、お正月の飲み疲れということも無いのですが、年末からの風邪の影響でお腹の調子も万全とは言えません。

さらに、やはり文化の伝承は必要だと思いますので、一月七日の『七草粥』の話題は昨年もご紹介しましたが、更に丁寧に調べなおしての今日のご紹介です

P1070011.jpg(リゾット風七草粥、器に注目してください。島根「湯町窯」のガレナ柚の黄色素敵です。角皿は自作!)

せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、春の七草
5、7、5、7、7で覚えると覚えやすいと亡き母に教わりました

子供の頃は母や祖母と畦道を探したりした経験があります。なずな(蕪)とすずしろ(大根)は、近年まで形の違いと思ってました。(笑)

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【春の七草見つけてみよう】

P1070007.jpg
(今年は愛媛県JA西条、盛実 武志さんの名前入りです。)

流石に、現代では七草を全て摘みに行って集めるのはかなり厳しいでしょう。すべて集まらなくても良いと思うのですが、今はスーパーのセットで全て揃ってしまうのが、逆に残念だと思います。神戸といっても、私の自宅近辺は自然も多いので摘みに行っても良いのですが、冬休みの宿題に追われている子どもたちに、私のわがままを押し付けるわけにもいきませんから、スーパーで七草セットを昨日購入してきました。

本来は前日に七草を摘みに出かけ、7日の朝にお粥にしていただ きます。はこべら・なずなはわが家の庭でも見つけました。うんちく~!ナズナはアブラナ科ナズナ属の越年草です。別名ペンペングサ(ぺんぺん草)、シャミセングサ(三味線草)とも言われます。田畑や荒れ地、道端など至るところに生えています。ムギ栽培の伝来と共に日本に渡来した史前帰化植物と考えられています(そうだったんだ)。(;^_^A

子供の頃、すずな(蕪)と区別が付かなかったすずしろ(大根)は、お正月に1日だけ帰省した時に持ち帰った但馬産を使いました。今年は卵アレルギーの次女が先に食事を済ませていたので、にとろけるチーズと卵を入れてリゾット風に仕上げました。やはり土鍋で作ると熱々で美味しいですね。

【五節句と祝儀料理】

起源は中国から来ています。1月7日の「人日(じんじつ)の日」に行われる「人日の節句」の行事で、五節句のひとつです。節句(せっく)は、中国の陰陽五行説に由来して定着した日本の暦における、伝統的な年中行事を行う季節の節目(ふしめ)となる日の事です。日本の文化・風習に溶け込んで色々な行事が行われます。古くは節日(せちにち)とも呼ばれていました。

この日には、宮廷において節会(せちえ)と呼ばれる宴会が開かれていました。年間にわたり様々な節句が存在しており、そのうちの5つを江戸時代に幕府が公的な行事・祝日として定めています。それが人日の節句(じんじつ・1月7日)、上巳の節句(じょうし・3月3日)、端午の節句(たんご・5月5日)、七夕の節句(しちせき・7月7日)、重陽の節句(ちょうよう・9月9日)の五節句です。一番なじみのないのは、重陽の節句ですかね。

「御節供」と呼ばれた節句料理はもともと五節句の祝儀料理すべてをいっていたようですが、のちに最も重要とされる人日の節句の正月料理を指すようになって行きます。そして、今日では「おせち」として、正月三が日もしくは七日にかけての松の内の期間(正月飾りを付ける期間で地域差があるようです。)において食べるものを指すようになっています。ただ、今日でも「人日の節句」の七草粥など「節句料理」として残っているものがあります。

人日(じんじつ)1月7日、七草の節句とも呼ばれ七草粥を食べます。上巳(じょうし)3月3日、桃の節句とも呼ばれ、雛祭として菱餅や白酒などを食します(雛あられ、メーカーの陰謀?)。端午(たんご)5月5日、菖蒲の節句とも呼ばれ、菖蒲酒(知らなかったです。)、菖蒲湯の習俗があります。ゴールデンウィークなので、実家に帰省しているときには、山の堤(わが家の用水池)に生えている菖蒲を取ってきてお風呂に入れます。関東地方では柏餅(これも全国区ですね。)、中国地方や関西地方ではちまきを食します(但馬でちまきを食べた事ないですけどね)。

柏餅についてですが、柏餅で使われているのは、文字通りカシワの木の葉ですが、柏の木というのは「コノテガシワ」という木のことを指しますが、実はコノテガシワの葉は細長い形をしており、我々が知っている柏餅を包んでいる葉とは異なります。実際には我々の知る柏餅の葉は「槲(カシワ)の木」の葉が使用されています。同じ「カシワ」でも、「柏」餅の柏ではなく槲の木の葉だったといううんちく話です。
 
さらに、鳥取県に単身赴任して知ったのですが、地域によってはサルトリイバラという木の葉が使われています。これは、近畿から西の地域に多く、柏の木が少なく、柏の葉が取れないのが理由と推測されます。使用している葉は、地域や習慣によって違うようです。

七夕(しちせき)7月7日、七夕(たなばた)の方がなじみがありますね。裁縫の上達を願い素麺を食べるそうです(これも知らなかった)。重陽(ちょうよう)9月9日、菊の節句とも呼ばれ菊を浮かべた酒などを飲むようです。 節句に飾られる人形(雛人形、五月人形など)は、節句人形(せっくにんぎょう)とも呼ばれています。

【七草粥の歴史】

文字通り 「人の日」という意味で、古代中国で元日に鶏、2日に犬、3日に猪、4日に羊、5日に牛、6日に馬、7日に人、8日に穀を占う行事があり、7日は人に刑 罰を与えたりせず、7種の若葉を粥に入れて無病息災を願っていたことに由来します。

この中国の風習が日本へ伝来し、当初は宮廷で行われ、古来から、日本に有った雪の間から芽を出した若菜を摘む七種の行事は「子(ね)の日の遊び」と呼ばれ、正月最初の子の日に野原に出て若菜を摘む「若菜摘み」とも言われていました。この古来からの風習と結びついて、のちに「七草粥」となり、貴族社会から庶民に広がったようです。更に、江戸時代に五節句のひとつとして定着しました。

枕草子にも、「七日の若菜を人の六日にもて騒ぎ……」の記述があるようですが、当時は羹(あつもの)と呼ばれる汁だったようです、室町時代の頃から粥に変化したと考えられています。

【最後に一言】

本当は子供たちと、図鑑片手に家の周りに探しに行きたいと思うのですが、中々付き合ってはくれません。このような、日本文化の伝統は、できるだけ子供たちに引きついでいきたいと思うのですが、私の考えの押し付けはいけないのかもしれません。毎年父親が行っている風習を、自分たちの代に成っても続けてくれると嬉しいのですが…

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2018/01/06

下照姫命を追いかけて!付いた先には「三ノ宮」『倭文神社』

倭文神社(しとりじんじゃ)これが読めれば、貴方は神社おたく!昨日ご紹介した、伯耆一ノ宮倭文神社に行きたくて、カーナビを操作して到着した場所は、「倭文神社」当然だけど行き先を間違えたなんて、思わないよね。(笑)

例え、其が三ノ宮だったとしても、それから一宮に辿り着いてお詣りするのに二年間かかりました。まあ一年半は勘違いに気が付かなかっただけですけれどね。

CIMG6546.jpg(三ノ宮・倭文神社の鳥居)

せっかくなので、伯耆三ノ宮の『倭文神社』をご紹介すると共に、一ノ宮や二ノ宮についても、お話させて下さいね(#^.^#)

今年も私と一緒に日本の歴史散策にお付き合いくださいね~。それではみんなで~~「歴史にGO!」

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【「三ノ宮」『倭文神社』】

CIMG6547.jpg(三ノ宮・倭文神社ご由緒)
CIMG6548.jpg(拝殿正面ですがちょっと歪んでます(;^_^A)

創立年代は不詳ですが、延喜式神名帳記載の神社(弐内社)です。古くより武門武将の信仰が厚く、中世には山名氏、吉川氏、南条氏(伯耆の国人毛利を離反して秀吉軍に剛力する)などに崇敬され、江戸時代に入っては旧鳥取藩池田家の祈願所として隆昌を極めた神社です。 

倭文とは「シツオリ」のつまった形で(シツ「日本古来の文洋」オリ「織」)、当時この一帯(現在でも倉吉絣は山陰三大絣として有名)。は、日本古来の織物(倭織)が盛んで、この地に移り住んだ特殊技能を持った集団「倭文部」が、氏神(倭文神)として機織の祖神「武葉槌神」を祀ったのが始まりと考えられます。

住所の「志津」は、社名の「倭文」から転じたもので、やがてこの里がシツ(志津)となったと思われます。武葉槌神(武神の一面があることは前回お話しました。)国譲り神話出での出雲進軍の際、陣営をかためたがこの地で、倭文神社はこの神跡であると伝えられているようです。

【御祭神】

P8260205.jpg(下照姫命の伝承が多く残ります。)
P8260206.jpg(東郷湖絶景、左奥に大山が見えます。)
P8260213.jpg(出雲山からの東郷湖絶景~!)

武葉槌神(たけはづちのかみ)機織・織物の神、国土平定の神
下照姫命(したてるひめのみこと)安産の神、婦人病の神、和歌の神
經津主神(ふつぬしのかみ)武の神、風土平定の神、体育・運動の神

ここでも一ノ宮と同じように武葉槌神と下照姫命が何故かセットに成っています。鳥居の傍らには戦争殉職者碑らしい石版がありました。建葉槌命(たけはづち)は全国平定に功績があったことから武神としての一面が戦前は大きく祀られていたようです。残念ながら現在では人気がない。一方下照姫命は大国主の神裔に、宗像三女神のタギリ姫を妻として生んだ子として、兄アジスキタカヒコネと一緒に紹介されています。

下照姫命は国譲りで、高天原が送り込んだ第二交渉人のアメノワカヒコと結婚した女神です。出雲族と宗像族の血を受けた馬女神です。安産の神様として慕われてきました。現代の安産の定義は、一人か二人の子供を産み母子健康な状態と思いますが、戦前までは「産めや増やせや」のスローガンで、五~六人の子供を産み、しかもその都度すぐに家事ができる状態を安産と考えていました。

下照姫命は、よほど健康な女神(女性)だったと思われます。農家の若嫁の守護神として慕われています。一方で和歌の神としても有名?なのですが、日本書紀の一文に兄アヂスキタカヒコネの名を明かす歌を詠んだ。この歌は「夷振(ひなぶり)」と呼ばれ、これが和歌の原型と言われるからです。

P8260216.jpg(下照姫命伝承は此処にも…)
P8260223.jpg(弁財天は宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命と同一視されます。母親、田心姫命の姉妹関連があるのかな?)

【二つの大きな倭文神社と二つの二ノ宮】

伯耆国(ほうき)、今の鳥取県西部には二つの大きな倭文神社がああります。一つはここで、もう一つは前回ご紹介した「倭文神社」です。古来より伯耆国一宮は倭文神社であるとされていましたが、近年には二つの「倭文神社」のどちらが一ノ宮か議論がありました。一時はこちらが一宮とされていた事もありましたが、大正になって東郷「の倭文神社」の参道脇にある経塚から発掘された経筒の銘文によって、そちらが一宮であることが判明しました。その後、こちらは三ノ宮と名乗る事になったようです。

因みに、伯耆国二宮は大神山神社(おおがみやま)とされていますが、これもまた最近は倉吉の波波伎神社(ははき)が同じく二ノ宮を称していて混乱があるようです。私的には大神山神社(おおがみやま)は、大山を信仰する自然信仰であり、古事記などの神話からの関連性を考えると、倉吉の波波伎神社は事代主の終焉の地とも言われ、社殿裏手に古墳も有るようなので、そちらが二ノ宮の方が納得できると考えています。

CIMG6593.jpg(大神山神社、こちらは大山奥の宮ではなく、米子市内にあります。)
CIMG8661.jpg(倉吉の波波伎神社、どちらが二ノ宮)

志津は小さな集落で中の道は大変狭いのです。自動車一台分の幅しかないような砂利道を進み、軽自動車でなければ曲がり切れないような直角のカーブを折れると正面が神社でした。一時は伯耆国一宮ではないかと考えられていただけに、集落の大きさにしては立派過ぎる規模の神社でした。

日本書紀によれば、高天原の天照大神は孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)にこの国である葦原中国を治めさせようと思い、出雲にいた大国主命に国譲りを迫り、平定させるため建御雷神(たけみかづちの神)と経津主神(ふつぬしのかみ)を遣わした。結局、ニ神の前に出雲は国を譲り渡すことになります。

その後更に、ニ神は従わない神々などを退治して行くのですが、星の神香香背男神(ほしのかがせおのかみ)だけが手に余り、倭文神である建葉槌命を遣わして服従させたとあります。何故、機織の倭文神であるはずの建葉槌命が、軍神、剣の神であるとされる建御雷神と経津主神が敵わない相手を倒せるのかということなのですが、私は単純に「錦の御旗」と考えたいです。

【「一ノ宮」『倭文神社』の禊水】

P8260186.jpg(宮内井戸の椿)
P8260192.jpg(大きな椿ですね~。)
P8260195.jpg(井戸は塞がれて、水は村へ流れているようです。)

「一ノ宮」『倭文神社』の登り口に宮内井戸という禊水があります。前回ご紹介できなかったのでご紹介するとともに、「三ノ宮・倭文神社」を訪れた頃はブログも書いて居ませんでしたので、写真が少ない事をご了解いただけますとありがたいです。さらに全く「一ノ宮と三ノ宮」を間違えた事にきずかなかった訳ですが、そのおかげで両方の『倭文神社』にお詣りできたことは、喜ばしいかぎりです。

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2018/01/04

新年はやはり神社から「伯耆国一宮」『倭文神社』

皆さん、明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願い致します。年末にひいた風邪の体調回復が思わしくなく、初記事が4日にずれ込んでしまいました。毎年おおくりする初日の出ですが、元旦は実家但馬に居たので、「初日の出」は曇りで撮影することが出来ませんでした(残念&申し訳ない)。

初詣も例年は、但馬一宮の出石神社に出掛けるのですが、そちらもままならずに元日神戸に帰宅しました。結局初詣は、昨日神戸の我が家からには一番近い「有間神社」に詣でて来ました。おみくじは『大吉』今年は良い年になる予感がします。

P8260042.jpg(伯耆国一宮鳥居)

ということで、関連性は無いのですが、同じ一の宮繋がりとお正月はお宮参りでしょということで、伯耆一宮の『倭文神社(しとりじんじゃ)』をご紹介したいと思います。

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【伯耆一宮『倭文神社(しとりじんじゃ)』って何処?】



P8260171.jpg(神社への道すがら、平成28年10月21日の鳥取県中部地震マグニチュード6.6の傷跡が残っていました。)
P8260043.jpg
(鳥居の扁額「伯耆一宮倭文神社」)
P8260054.jpg(神門歴史を感じますね)

『倭文神社(しとりじんじゃ/しずりじんじゃ)』は、鳥取県東伯郡湯梨浜町大字宮内にある神社です。式内社、伯耆国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社と成っています。境内にある経塚は国の史跡に指定され、出土品は国宝に指定されています。

倭文神社拝殿所在地:鳥取県東伯郡湯梨浜町大字宮内754
主祭神:建葉槌命
社格等:式内社(小)

機織に携わった氏族である倭文氏が祖神の建葉槌命を祀ったのが起源とされています。ただし、社伝には下照姫命に関するものが多く、大正時代までは下照姫命が主祭神であると考えられていました。社伝によれば、出雲から渡った下照姫命が現在の湯梨浜町(旧羽合町)宇野に着船し、御冠山に登って現在地に鎮まったといわれます。

着船したと伝えられる場所には、下照姫命が化粧を直したという「化粧水」や、腰を掛けたという「お腰掛岩」などが残っています。これについて、『式内社調査報告』では、元々は織物の神である建葉槌命を祀っていたのが、当地で織物が作られなくなったことにより建葉槌命の存在が忘れさられ、共に祀られていた下照姫命だけが残ったと推察されています。

具体的な創建年代は不明ですが、平安時代初期にあたる大同3年(808年)の医学書『大同類聚方』には「川村郡倭文神主之家所傳方 原者下照姫神方也 中暑小便止 頭痛煩熱 口乾者與之」(原文)という記述があり、これが文献上の初見とされています。

【主祭神に返り咲いた?建葉槌命とは!】

P8260127.jpg
(犬年に、狛犬阿形、出雲型の見事な狛犬です。)
P8260121.jpg
(狛犬云形、来待石ですね~見事です。)
P8260117.jpg(拝殿も綺麗でシンプル。)
P8260104.jpg(寝殿の鰹木は3本男神様です。千木も外削ぎ、同じく男神様です。アッ!一概には言えないそうですねんの為)
P8260095.jpg(神社を巡るように成って彫り物も興味が出ました。素晴らしい麒麟と牡丹ですか?)
P8260086.jpg(拝殿の中も綺麗で心洗われるようです。)

建葉槌命(武葉槌命・たけはづちのみこと)は、『日本書紀』に登場する倭文神で、経津主神(ふつぬし)・武甕槌命(たけみかずちのみこと)では服従しなかった星神香香背男(ほしのかがせお)を征服した神とされます。経津主神・武甕槌命は国譲りを成し遂げた武神として有名ですね。香取神社と鹿島神宮に祀られているので、関東の皆さんもご存知ですよね。ちなみに古事記では、「建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)」や「建御雷神(たけみかづちのかみ)」と記載される「タケミカズチ」しか出てきません。

別名と同一視されるのは天羽槌雄神(あめのはづちのおのかみ)で、日本神話の神です。こちらの方をご存知の方々も居られるかもしれません。『古語拾遺』に登場する。天羽雷命(あめのはづちのみこと)や、倭文神(しとりのかみ)、倭文神(しずのかみ)とも呼ばれます。

天照大神を天の岩戸から誘い出すために、文布(あや)を織ったとされます(女性的なのに、武神の一面も有るとは面白いですね~。)。文布は倭文布とも倭文とも書き、「シドリ」また「シヅリ」という織物の事です。同じ織物の神では栲幡千々姫命、天棚機姫命が挙げられますが、天羽槌雄神は機織りの祖神とされています(織女と違い機織工神なのですかね?)。また倭文(しどり)氏の遠祖でも有ります。

信仰としてはどちらの名でも織物の神、機織の神として信仰され、全国の倭文神社、静神社、服部神社などで祀られています。

【下照姫命って?】

下照姫命(したてるひめ)は、日本神話に登場する女神です。『古事記』、『日本書紀』などに記述される他、『先代旧事本紀』などでも記述されています。

『古事記』では、大国主神と多紀理毘売命の娘で、阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこね)の 妹として。『日本書紀』では、顕国玉(大国主)の娘として。『先代旧事本紀』地神本紀では、大巳貴神(大国主)と田心姫命の娘で、味金且高彦根神の同母妹として記載されています。

『古事記』の大国主神の系譜においては、アヂスキタカヒコネの同母妹と記されています。そのため、高比売(高姫)はシタテルヒメの別名とされるが、姉妹の別神とする解釈もあるようです。『先代旧事本紀』地神本紀では、大巳貴神と高津姫神の子、都味齒八重事代主神の同母妹に高照光姫大神命がおり、これと混同された可能性もあります。

『古事記』および『日本書紀』本文によれば、葦原中国平定のために高天原から遣わされたアメノワカヒコと結婚しました。天若日子が高天原からの返し矢に当たって死んだとき、シタテルヒメの泣く声が天(『古事記』では高天原)まで届き、その声を聞いたアメノワカヒコの父の天津国玉神は葦原中国に降りてアメノワカヒコの喪屋を建て殯を行っています。

それにアヂスキタカヒコネが訪れたが、その姿がアメノワカヒコにそっくりであったため、天津国玉神らはアメノワカヒコが生き返ったと喜びました。アヂスキタカヒコネは穢わしい死人と間違えるなと怒り、喪屋を蹴り飛ばして去って行きます。シタテルヒメは、アヂスキタカヒコネの名を明かす歌を詠みました。この歌は「夷振(ひなぶり)」と呼ばれる(夷振を詠んだという記述は『日本書紀』本文にはありません)。『日本書紀』の第一の一書では、アメノワカヒコの妻の名は記されておらず、夷振を詠んだ者の名としてのみシタテルヒメの名が登場し、アヂスキタカヒコネの妹と記載されています。

漢字・ひらがな・カタカナが混ざって混乱すると思いますが、基本的には漢字の前には「記紀」の記述どちらであるか記しています。ひらがなはその漢字の読み、カタカナは「記紀」両方の物語として簡略化して書いたものです。私的には「古事記」を正史と考えていますが、神社のご由緒には「日本書記」の記述が多いので説明文にご由緒を用いた時は、「日本書記」の記述に成っていることもあります。以上の事を踏まえて、同一人物にも関わらず漢字が違っていたり、読みが違っている事も有ると思いますが、ご容赦ください。

【配神】

通常、神社では複数の神を祀っており、その中で主として祀られる神を主神(しゅしん)・ 主祭神(しゅさいじん)、それ以外の神を配神(はいしん)と呼びます。

下照姫命:大国主と多紀理毘売命の娘
建御名方命:事代主命の弟、諏訪神社で有名
天稚彦命:下照姫命の夫、下照姫命と結婚し8年も高天原に連絡なし
事代主命:大国主の息子、恵比須神)
少彦名命:小人神、大国主とペアで祀られる事が多い
味耜高彦根命:下照姫命の兄、同じ両親

【経塚】

P8260135.jpg(経塚はこちら参道から少しだけ登ります。滑るのでトレッキングシューズが必要ですね。)
P8260057.jpg(説明版の出土品目録。)
P8260141.jpg(神様の墓ですよ、よく発掘調査出来ましたね~笑)
P8260142.jpg(穴のような物がありました。)
P8260152.jpg(国宝経筒出土場所。)

境内の塚が下照姫命の墓であると考えられていたが、大正4年(1915年)の発掘により経塚であることが判明しました。その出土品の銘文から、当社が平安時代後期には伯耆国一宮であったことがわかっています。このときの出土品である観音菩薩立像などは「伯耆一宮経塚出土品」の名称で、一括して国宝に指定されています。

先日、国宝展で足利義満が埋めた、国宝の経筒(経典を後世に遺すため埋納した塚)を見ることが、出来ましたが、此方も負けず劣らず素晴らしいものです。現在は東京国立美術館に所蔵されているようです。

戦国時代、当地を治めた武将に社領を没収され荒廃しましたが、天文23年(1554年)に尼子氏が社殿を再建しています。また、地元の国人・南条氏からも寄進を受け、その後江戸時代、当地を治めた池田氏も崇敬し、鳥取藩主の祈願所となっています。昭和14年(1939年)、国幣小社に列格し、第二次世界大戦後は別表神社となりました。

かつて主祭神であった下照姫命が女神であることから、安産に霊験があるとされています。本殿の後には、かつて「乳神」と呼ばれる神木がありましたが、現在は倒壊しています。

参道沿いには「安産岩」と呼ばれる岩があります。昔、毎回難産に苦しんでいた女性が願かけをし、その満願の日の夢に下照姫命が姿を現し、参詣の帰途、この岩の所で簡単に出産したため安産岩と呼ばれるようになったと伝えられます。この岩を削って飲むと霊験があるとされ削り後が有ります。

P8260170.jpg(安産岩右に削り跡があります。夫婦岩などもありました。)

【さあお宝、伯耆一宮経塚出土品(国宝)】

P伯耆一宮経塚出土品
(Wikipediaよりお借りしました。東京国立博物館展示、右奥は銅経筒、その手前は左から銅板弥勒像、銅鏡、銅銭、瑠璃玉。)
P伯耆一宮経塚出土_金銅観音菩薩立像・銅造千手観音菩薩立像
(Wikipediaよりお借りしました。出土品のうち金銅観音菩薩立像(左)・銅造千手観音菩薩立像(右))

伯耆一宮経塚出土品 一括(考古資料)内訳は以下のようなものです。大正4年(1915年)、社殿の南南東180メートルほどのところにある経塚(経典を後世に遺すため埋納した塚)から出土した一括遺物。銅経筒は径20センチ、高さ42.5センチで、円筒形の筒身に宝珠鈕付き、屋根形の蓋を付す。筒身には15行236字の銘文が線刻され、康和5年(1103年)に京尊という僧が埋納したものであることがわかりました。出土品のうち、金銅観音菩薩立像は奈良時代にさかのぼる作品です。出土品一括は東京国立博物館に寄託。1920年(大正9年)4月15日、当時の古社寺保存法に基づく旧国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定されます。1953年(昭和28年)3月31日に国宝に指定されました。

銅経筒 1口 康和五年十月三日伯耆一宮辰巳岳上奉埋納在銘
金銅観音菩薩立像 1躯
銅造千手観音菩薩立像 1躯
銅板線刻弥勒立像 1面
銅鏡 2面
桧扇残片 一括
短刀刀子残闕 一括
瑠璃玉 一括
銅銭 2枚
漆器残片 一括

【今日の一言は何故神社に経塚?】

何故神社に経塚が埋められていたのでしょう。平安時代も末期に成ると神仏習合が進み、神社にも神宮寺というお寺ができるようになります。

世界遺産の日光東照宮は神社で、家康は東照大権現という神様ですが、作った家光は日光山輪王寺に大猷院に廟所(墓所)がありお寺に眠っています。境内には世界遺産に 登録された22件の国宝、重要文化財が建ており、315基の灯篭も印象的です 。日本人らしくて良いではありませんか、多くの文化を柔軟に受け入れる日本人の美徳がそこに有るように感じました。

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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