2017/11/30

天下分け目の『関ヶ原の戦』は朝八時にこの場所で始まった!

「関ヶ原」開戦シリーズ第2弾!「戦闘はこの場所から始まった。」9月15日早朝8時、垂れ込めていた霧が少しずつ消え始めた頃、井伊直政隊が緊張に耐えかねて、先走って抜け駆け戦闘を起こしてしまいます。歴史学者によると、抜け駆け行為は霧の中での偶発的な遭遇戦という形をとっており、戦闘開始はそれに続く福島正則の宇喜多隊に向けた銃撃戦とされています。

これは、家康から諸将に七月七日付で出された軍法の第四条で抜け駆けを厳禁の決めを破った事に成ります。この合戦に就いては先陣が福島正則と決まっていました。

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(史跡関ケ原古戦場 開戦地・井伊家の井戸囲いと福島の桐)


しかし、合戦開始時においても、合戦後においても福島正則から井伊直政に対して何らの抗議は示されておらず、井伊隊の開戦時における行為は、かなり抑制されたものであって、福島隊の名誉を傷つけないように配慮されたものだったと推測されます。

福島正則VS宇喜田直家の戦いで開始された「関ヶ原合戦」最初の二時間の様子を見てみましょう。新説では、小早川秀秋が最初から裏切っていた事で正午までの4時間で決着したとも言われてますが、ここでは通説の6時間で2時間区切りの三回で合戦をまとめたいと思います。

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【開始2時間!早朝8時~10時】

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(西軍副大将宇喜多秀家陣所・秀吉の養子として波乱の人生を送ります。)
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(宇喜多秀家陣所跡の天満神社・父は秀吉を苦しめた直家です。)
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(こちらも秀吉の親戚筋何故こんなことになったのでしょう。)
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(福島正則は春日神社に陣を構えています。)
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(樹齢800年の大杉!ということは、「関ケ原」に有りました。関ケ原前回の屏風右側の一番左下に描かれています。)

前回も最後に書いた通り、開戦直後に激突した主な武将は以下のとおりです(Wikipediaの資料を参考に部隊人数も記載しておきます。ただし人数には諸説あるのでおおよそと考えてください)。

東軍・福島正則(6000)VS西軍・宇喜多秀家(17220)
東軍・藤堂高虎(2500)・京極高知(3000)VS西軍・大谷吉継・吉治(3100)
東軍・織田長益「信長の弟・有楽斎如庵」(450)・古田重勝(1200)VS西軍・小西行長(4000)
東軍・松平忠吉(3000)、井伊(3600)、本多忠勝(500)VS西軍・島津義弘(1588)
東軍・黒田長政(5400)、細川忠興(5000)VS西軍・島清興「石田三成隊先陣」(6900内)

東軍・福島隊と西軍の宇喜多隊の争いは、「福島家の旗と、宇喜多家の旗が双方とも二、三度も退却した」(『関ヶ原軍記大成』)という激しい戦闘でした。

石田隊には黒田隊、細川隊が攻めかかりました。石田隊は木柵、空堀からなる野戦陣地(本当に笹尾山だったのか?)で敵勢を防ぎつつ、鉄砲、大筒などを用いて、必死に東軍部隊を抑えています。黒田隊の精鋭別働隊狙撃兵15名が石田隊の先陣・島左近の右山手に迂回して狙撃!左近を負傷させ、石田隊の先陣が退却すると、一斉攻撃を加える黒田・細川隊に石田隊は大砲の発射で応戦しています。

やや遅れて大谷隊には藤堂隊、京極隊が襲い掛かります。兵力的には東軍側が圧倒していましたが、吉継は2倍近い藤堂隊、京極隊を何度も押し返しています。西軍部隊の前線は地形の利を事前に考慮して陣を配置していたのが少数ながら善戦した要因の一つに成ります。

PA140936.jpg(不運の義将、大谷吉継陣所跡の看板、北斗の拳ならレイ?シュウですか?)
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(少し歩くと松尾山の小早川陣が良く見えます。)
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(小学校の中にあります。当日関ケ原祭りで開放中。土日は開いていても平日は無理かもです。)
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(藤堂・京極陣跡、京極氏は宮津に入封されますその後分家して我が但馬豊岡藩の殿様に成りますよ。)

小西隊には古田隊、織田隊がそれぞれ攻めかかりました。ここで疑問点が有るのでご紹介しておきます。新井白石は『藩翰譜』の中で古田重勝を茶人として有名な古田重然(漫画・「へうげもの」の織部で有名!「織部」の名は、従五位下織部正の官位に叙任されたことに由来しています)の甥としていますが、古田重勝重は慶長5年(1600年)、上杉景勝討伐のため会津に向かいますが、西軍挙兵の報を受け急ぎ帰国しています。松坂城に篭り鍋島勝茂らと対峙します。『日本戦史』図では重勝が関ヶ原合戦に参戦したように描かれていますが、重勝は松坂城に籠城していることは明らかであることから、関ヶ原に参戦したのは古田重然の誤りであると考えられています。

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(小西行長陣所)
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(キリシタン大名がゆえに自殺できず、捕縛されます。最後は三成と共に斬首されました。)

【家康本隊3万が戦闘不参加の理由】

明治時代に成って日本陸軍に招聘されたドイツ陸軍の参謀メッケルが「関ケ原布陣図」を見て即座に西軍勝利と断じたのは有名な逸話です。つまりそれほど東軍の布陣は無謀だったと言えます。

にもかかわらず、家康本隊3万は戦闘には参加していませんでしたが、開戦間もなく桃配山を降りて最前線近く(現在の床几場)まで陣を移しています。関ケ原の戦いに参加したのは豊臣恩顧の武将達がほとんどです。家康軍は徳川本隊3万は中山道を秀忠と共に進んでおり。家康本体3万も家康の旗本だけで、強力な武将が居たわけではありません。

歴戦の強者、本田忠勝は軍監として兵数は500で戦闘には参加していませんし、井伊直政・松平忠吉がそれぞれ3600・3000の兵で島津義弘に対峙していましたが、逆に島津義弘は兵数も少なかったせいか、ほぼ趨勢が決まるまで戦いに参加してい無いのです。

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(鬼島津と呼ばれた名将!この人物の「関ケ原」の戦いが明治維新を切り開いたと言える。お楽しみにね~!)
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(遠方から訪れるファンも多いようです。)
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(この日も島津イベントが有りました。来年の大河ドラマの影響もありかな?)

調略によって南隅山の毛利勢を足止めした家康にとって、戦闘は必要ではなかったと言えます。豊臣恩顧の武将たちによる。消耗戦を見ているだけで良かったと考えられます。双方が消耗しあう方が家康にとっては都合が良かったのかもしれませんね。

【三成動く】

三成は、開戦から2時間を過ぎたころ(11時頃とも)、まだ参戦していない武将に戦いに加わるように促す狼煙を打ち上げました。さらに動きのない島津隊に応援要請の使いを出しています。西軍は総兵力のうち、戦闘を行っているのは3万3,000ほどながら、地形的に有利なため戦局をやや優位に運んでいました。しかし、西軍は宇喜多、石田、小西、大谷とその傘下の部隊がそれぞれの持ち場を守って各個に戦っているだけで部隊間の連携が取れているとは言えませんでした。

それに対し、部隊数、戦闘兵力数で上回る東軍は西軍一部隊に対し、複数の軍勢が連携して、同時多方面から包囲攻撃を仕掛け、または入れ替わり立ち代り波状攻撃を仕掛けるなどして間断無く攻め立てました。

さらに遊撃部隊として最前線後方に控えていた寺沢勢、金森勢が増援として加わったため、時間が経つにつれて次第に戦局は東軍優位に傾き始め、特に石田隊は攻撃を受けて柵の中に退却しています。各西軍武将にとっても三成の首を上げることが最大の戦功だということは分かっていたでしょう。しかしながら地の利がある西軍主力部隊の抵抗も頑強であり、戦況を決めるには至りませんでした。

【動かない西軍】

西軍の抵抗から、ここで松尾山の小早川秀秋隊1万5,000と南宮山の毛利秀元隊1万5,000、その背後にいる栗原山の長宗我部盛親隊6,600ら、計4万7,000が東軍の側面と背後を攻撃すれば、西軍の勝利へと形成は逆転するものと思われました。

しかし、島津は「使者が下馬しなかったため無礼だ」という理由で応援要請を拒否、また毛利秀元(輝元養子)・長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊らは、徳川家と内応済みの吉川広家に道を阻まれて参戦できずにいました。

うんちく「宰相殿の空弁当」毛利軍の背後に陣を構えていた長宗我部盛親の出陣要請に困惑した秀元は、苦し紛れに「今、兵に弁当を食べさせている」と答えた。そこから秀元の官位(参議。唐名で宰相)をとって「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれています。

結局、最後まで南宮山の毛利軍ら3万3,000もの大軍は参戦せず、直後に起きる小早川秀秋の裏切りと並ぶ西軍の敗因となりました。

【最後に一言】

陣形的には圧倒的に有利な西軍でしたが内情は、ほとんどが戦闘に参加しない日和見でした。その中で自分の陣地を守り抜いた西軍戦闘隊の諸将の活躍は目を見張るものが有ります。

宇喜多秀家・大谷吉継・小西行長などの西軍防御ラインの頑強さは素晴らしいの一言です。それにもまして、笹尾山に陣取る石田三成隊の活躍はすさまじいとしか言いようが有りません。

ここで私が最後に言いたいのは、三成隊に逃亡者も裏切り者も出ていないことです。通常これほどまでに劣勢で勝ち目のない戦いの場合、兵士たちは浮足立って次第に雲散逃亡して行くのが戦場の常ではないでしょうか?

ところが石田隊にはそのような兆候はみじんも見られていません。先方の島左近(生存説もあり)と蒲生郷舎も最後まで奮戦して討ち死にしています。二人のみならず末端の兵士一人に至るまで、配色歴然たる陣中においても最後まで三成の元を去らずに奮戦敢闘した態度は正にあっぱれで、三成が天下無双の徳川家康に匹敵する武将だったという証明ではないでしょうか。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/11/26

「開戦?」布陣を終えたはずの陣営に謎の情報が飛ぶ『関ケ原開戦』

前回、細川藤孝(幽斎)の「古今伝授の太刀(こきんでんじゅのたち)」の御紹介をいたしました。同じような出来事が他でも起きています。9月2日に西軍の北陸道平定軍に従軍していた京極高次が突如として戦線を離脱、翌3日、居城の大津城に籠城して東軍への加担を鮮明にしました。

このため三成は毛利元康を大将に、小早川秀包、立花宗茂、筑紫広門ら1万5000の軍勢を割いて、9月7日、大津城攻撃へと向かわせました。この「大津城の戦い」は京極高次の開城で終わったものの、毛利元康らは本戦当日の9月15日まで足止めされ、関ヶ原に布陣する事は出来ませんでした(ここでも1万5000の軍勢・猛将、立花宗茂や毛利元康等は「関ヶ原」に必要な人材でした)。

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(関ケ原合戦屏風左西軍部分)

また三成は大坂城に居る豊臣秀頼、あるいは総大将である輝元の出馬を要請していましたが、いずれも淀君に拒否され果たせなかったといわれています。輝元には出馬の意思があったといわれますが、このころ増田長盛内通の風聞があり、動けなかったともされています。

更には、前図のように布陣したといわれる通説が、一時資料によって覆される発見も見られます。

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(関ケ原合戦屏風右東軍部分)



【西軍有利「鶴翼の陣」のはずが?】

関ケ原配置図
(定説関ケ原配置図、慶長5年9月15日午前8時前)
PA140692.jpg(石田三成陣最前列右翼の旗は島左近、左翼は蒲生郷舎が配置しています。お祭りのテントが邪魔ですね、笑)
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(島左近陣地幟)
PA140609.jpg(島左近については漫画にも成っていますからご存知ですかね?討ち死にしたとも?笑ここみそです。)
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(左近の陣地を抜けて笹尾山に登ります。ほんの15分ほどです。三成の霊が写っているんじゃないですから)
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(丁度開戦時間の8時ごろでした。)
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(不運の天才武将と言えるのかもしれません。)
PA140624.jpg(大一大万大吉の家紋がさみしそうにはためいていました。)

細川幽斎の丹後田辺城籠城、京極高次の大津城籠城、増田長盛内通の風聞、さらに9月14日には西軍の首脳であったはずの前田玄以が大坂城を退去し、閑居するという事態も発生しました。この玄以も、一説には東軍に内応していたといわれます。

このように西軍の統率は東軍とは対照的にまとまりに欠けており、当初の戦略に少しずつ狂いが生じて来ます。家康は秀忠の到着を待ちましたが、9月14日に美濃の赤坂の岡山(現在の岐阜県大垣市赤坂町字勝山にある安楽寺)に設営した本陣に入ります。

三成は家臣である島清興(左近)の進言により、赤坂付近を流れる杭瀬川に兵を繰り出して、東軍の中村一忠・有馬豊氏を誘い出し、宇喜多隊の明石全登と連携してこれをに打ち破っています「杭瀬川の戦い」。

14日夜家康が赤坂を出て中山道を西へ向かう構えを見せます。これを察知した三成は東軍よりも早く大垣城を出陣、福原長堯に城の守りを託して、関ヶ原方面へ転進します。西軍の転進を知った家康も、関ヶ原への進軍を命じ、松平康元や堀尾忠氏、津軽為信らに大垣城監視を命じて夜中(15日2時)、西へ向かっています。

この14日には、小早川秀秋がそれまで陣を敷いていた伊藤盛正を追い出す形で松尾山に陣を構えます。秀秋は伏見城の戦い以降病と称して戦場に出ず、東軍への内応を黒田長政経由で家康に打診していました。このため三成ら西軍首脳は秀秋に対する不信の念を抱いていました。秀秋は文禄・慶長の役で三成の報告が元で筑前名島35万石から越前北ノ庄12万石に大減封されており、それを家康に回復してもらった経緯が有ったのです。

【不思議な幾つかの一次資料】

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(三成は本当に笹尾山に布陣していたのか?)

新たに歴史学者が「一次史料にみる関ヶ原の戦い」の中で、三成は笹尾山に布陣していないとしています。上記の家康が赤坂の岡山から中山道を西へ向かう構えを見た三成が大垣城を出陣して関ヶ原方面へ転進したことは何かしっくり行きません。後からの追撃の方が、家康を挟み撃ちにできるからです。

つまり、笹尾山という地名は一次史料には出て来ない事(山中の地名)、笹尾山には陣地の遺構が無い事等から。 通説の三成が笹尾山に本陣を置いていないとしています。これまで通説で流布してきた関ヶ原の戦いの布陣図が変更される日が来るかもしれません。

それでは何故三成が大垣城を出陣して関ヶ原方面へ転進したのか?ですが、家康ではなく裏切った小早川秀秋を先に討つためだという考えです。問鉄砲(家康が小早川秀秋に寝返りを催促した銃撃)の存在も無く、家康が赤坂の岡山から桃配山に布陣したことも「慶長年中卜斎記(軍医)」に東軍田中吉正が南宮山の毛利勢と小競り合いを起こした記録が有り。家康がそれを見ていた場所に居たのなら桃配山への布陣は無い事に成ります。

小早川秀秋は寝返ったのではなく、表帰った(伏見城では東軍に着く予定でした)ということに成ります。秀秋が手配して東軍諸将、福島正則・藤堂高虎・黒田長政・細川忠興を引き入れたともいわれ、最初から東軍として戦ったと考える歴史家もいるようです。

今これ程「関ケ原の戦」が議論を呼ぶことは歴史ファンにとっては好ましい事です。いずれ教科書が「観応の擾乱(観応のじょうらん・足利尊氏と弟直義との戦い)」のよう、『慶長の擾乱』と呼ばれるようになるかも知れません。

【事実は後世の歴史家の判断に任せて通説をお話しましょう】

前記の事情により、小早川秀秋は三成を恨んでおり当初から東軍への参戦を考えていたが、伏見攻めの一件により、成り行きで西軍についたという経緯がありました。1万5,000の大軍を擁する秀秋を繋ぎとめるため、家康と三成双方は秀秋に、恩賞を与える約束を行っています。家康は上方二ヶ国を与えると提示し、西軍は秀頼が15歳になるまでの間秀秋を関白に就け、さらに播磨一国を加増すると提示したのです。

秀秋を巡る水面下での謀略が入り乱れるなか、両軍は中山道、北国街道、伊勢街道が交差する要衝・関ヶ原に集結しました。

東軍に先んじて関ヶ原に到着した西軍方は三成の拠る笹尾山、宇喜多秀家の拠る天満山、小早川秀秋の拠る松尾山、そして毛利秀元が布陣する南宮山のラインで東軍を囲む鶴翼の陣を布くと同時に、実質的に関ヶ原における高所の大半を抑えました。しかし、東軍は鶴翼の「翼」の部分に相当する諸将の多くを内応させており、本来ならば圧倒的に不利である鶴翼の陣の奥深くに陣を置いたのである。

また、この戦いの総兵員のうち、10分の1(=約2万)ほどが鉄砲を装備しており、実際本戦や東軍の小早川秀秋に対する寝返り催促(問鉄砲といわれます)にも鉄砲が使われており、このことから、日本は世界一の鉄砲保有量を誇っていました(凄いですね~)。

主な東西の大名(石高の隣、○印は関ヶ原に布陣した大名、●は寝返った大名、▲は布陣のみに終った大名)
下表の兵力は、関ヶ原本戦に参陣した武将の動員兵力です。出典は『日本戦史・関原役』に拠る。

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(データはWikipediaより拝借しました。)


【開戦】

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(史跡「関ケ原古戦場」決戦の地)
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(「関ケ原」の戦い概要)
PA140662.jpg(笹尾山からの「関ケ原」全景)
PA140645.jpg(左手配置、写真と比べると分かりやすいですね。)
PA140647.jpg(開戦後?午後に成って家康も最後を見届けに出て来ます。最後の床几場)
PA140651.jpg(一番の激戦地と言えるかもしれません。)
PA140636.jpg(手前山頂に見えるのが小早川秀秋布陣場所、さすがに山裾までしか行けませんでした。)
PA140620.jpg(左手が開戦地、西軍は小西行長・宇喜多秀家軍が布陣していました。)


9月15日早朝霧がが立ち込める関ケ原で始まります。合戦は先陣が福島正則と決まっていたにもかかわらず、井伊直政の抜け駆けによって開始されたとされていますが、笠谷和比古によると実際は抜け駆け行為は霧の中での偶発的な遭遇戦という形をとっており、戦闘開始はそれに続く福島正則の宇喜多隊に向けた銃撃戦とされています。 家康から諸将に七月七日付で出されている軍法の第四条で抜け駆けを厳禁しています。合戦開始時においても、合戦後においても福島から井伊に対して何らの抗議めいた態度は示されておらず、井伊の開戦時における行為は、かなり抑制されたものであって、福島の名誉を傷つけないように配慮されたものと推測されています。

開戦直後に激突した主な武将は以下のとおりです。
東軍・福島正則VS西軍・宇喜多秀家
東軍・藤堂高虎・京極高知VS西軍・大谷吉継
東軍・織田長益・古田重勝VS西軍・小西行長
東軍・松平、井伊、本多忠勝VS西軍・島津義弘
東軍・黒田長政、細川忠興VS西軍・島清興(石田三成隊先陣)

東軍・福島隊と西軍の宇喜多隊の争いは、「福島家の旗と、宇喜多家の旗が双方とも二、三度も退却した」(『関ヶ原軍記大成』)という激しい戦闘となっっています。

石田隊には黒田隊、細川隊が攻めかかりました。石田隊は木柵、空堀からなる野戦陣地で敵勢を防ぎつつ、鉄砲、大筒などを用いて、必死に東軍部隊を抑えています。黒田隊の狙撃兵が石田隊の先陣・島を負傷させ、石田隊の先陣が退却すると、攻撃を加える黒田・細川隊に石田隊は大砲の発射で応戦しています。

やや遅れて大谷隊には藤堂隊、京極隊が襲い掛かります。兵力的には東軍側が圧倒していましたが、吉継は三倍近い藤堂隊、京極隊を何度も押し返しています。小西隊には古田隊、織田隊がそれぞれ攻めかかりました。

家康本隊3万は戦闘には参加していませんでしたが、開戦間もなく桃配山を降りて最前線近く(現在の床几場)まで陣を移しています。

【本日の最後は】

笹尾山陣地跡敵味方押し合い、鉄砲放ち矢さけびの声、天を轟かし、地を動かし、黒煙り立ち、日中も暗夜となり、敵も味方も入り合い、しころ(錣)を傾け、干戈を抜き持ち、おつつまくりつ攻め戦う―激戦をこの地で体験した太田牛一は『慶長記』において次のように記しています。

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(さあ~三成どうする~?)

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リュミエールブラン ネージュ

2017/11/23

「関ヶ原の生き証人」、国宝太刀『銘 豊後国行平作』は歴史その物だった!

日曜日(19日)に国宝展に行って来ました。国宝展は、今週末迄8週間に渡り2週間ずつⅠ~Ⅳ期にわたって、作品を入れ替えて行われていました。私が訪れたのはⅣ期でした。知ってれば他の時期も見に行ったのですが残念です。

皆さんもご存知の一番小さな国宝、「漢委奴国王印」や「火炎縄文土器」「縄文のビーナス」等の土器や土偶、俵屋宗達の「風神雷神図」等が見られずに残念でしたが、ここのところブログでご紹介している「関ケ原」のタイムカプセルとも思えるすばらしい国宝の太刀が有りましたのでご紹介します。

p3217856468.jpg(今日は隠し立てせずに見せます。国宝太刀『銘 豊後国行平作』)

今日その追加取材に丹後迄、出掛けて来ました。その太刀は『銘豊後国行平作(古今伝授の太刀)』(永青文庫)です。

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PB190160.jpg(左の平等院鳳凰堂の雲中供養菩薩像と伝源頼朝図は見られました。)

【国宝って何?】

日本において「国指定等の文化財」として数えられているものは、国宝だけでも1108件存在しており、そのうち885件が美術工芸品で、223件(282棟)が建造物です。また、重要文化財になると13,110件が登録されています(文化庁発表、平成28年9月1日現在。重要文化財の数は国宝の件数を含む)。

「国宝(こくほう)」とは、日本の文化財保護法によって国が指定した「有形文化財」というカテゴリにおいて、重要なものを「重要文化財」、世界文化の見地から価値の高いものでたぐいない国民の宝たるものである として国(文部科学大臣)が「国宝」指定したものです(文化財保護法第27条第2項)。

『国宝の指定件数』

2017年(平成29年)9月指定分までを含めた国宝の指定件数は次のように成っています。
•建造物 223件(282棟)(2016年2月9日指定分まで)。
•美術工芸品 885件(2017年9月15日指定分まで)(以下内訳)。
絵画 160件・彫刻 134件・工芸品 253件・書跡典籍 227件・古文書 61件・考古資料 47件・歴史資料 3件

なお以上の数字は指定の「件数」であって、「点数」では有りません。福岡県宗像市・宗像大社神領沖ノ島出土祭祀遺物約8万点、京都・醍醐寺の醍醐寺文書聖教(もんじょしょうぎょう)69378点、京都府立京都学・歴彩館が保管する東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)24067通のように員数の多いものも件数としては「1件」と数えられます。

【国宝と重要文化財の違いとは】

「有形文化財」というカテゴリにおいて、重要なものを「重要文化財」、世界文化の見地から価値の高いもので、たぐいない国民の宝という国の表現、分かりにくいですよね、今回国宝展を見に行ってなんとなく理解出来ましたので、分かりやすく?説明したいと思います。国民栄誉賞を例にとってみましょう。国民栄誉賞は内閣総理大臣が決めるので、国宝のように明確な定義が有るわけではありませんが、国宝に通じるものが在ると感じたので、ちょっとお付き合いください。

柔道家の「山下泰裕」さん、ロサンゼルスオリンピック無差別級金メダル。対するのは「斎藤仁」さんロサンゼルス五輪およびソウル五輪の柔道競技男子重量級(95kg超級)金メダリストです。この場合山下さんは金メダル1個斎藤さんは2個ですが、山下さんが国民栄誉賞を受賞されています。

ここで明暗を分けるのは、連勝記録ではないでしょうか?山下さんは、逆算して203連勝(引き分け含む)、また対外国人選手には生涯無敗(116勝無敗3引き分け)という大記録を打ち立てたました。引退前の1985年4月には、最後となる全日本選手権決勝で斎藤さんと対戦(この試合私は斎藤さんが勝利していたと思っています)も、僅差の判定で破り優勝しています(負けずに引退)。

次の例は、女子マラソンのQちゃんこと「高橋尚子」さん、シドニー五輪での金メダル獲得は、日本陸上界64年ぶり(戦後初)であるとともに、日本女子陸上界においては史上初の栄誉でした。またゴールタイムの2時間23分14秒は、ジョーン・ベノイトがロサンゼルス五輪でマークしたタイムを16年ぶりに更新する五輪最高記録(当時)でも有ります。これらの功績により同年10月30日に国民栄誉賞を受賞されています。

対するのは、2004年8月22日(日本時間23日)、アテネ五輪金メダリストの女子マラソンの「野口みずき」さんです。女子マラソンの日本記録、アジア記録保持者でシドニー五輪の高橋尚子に続き、日本に2大会連続のオリンピック女子マラソン金メダルをもたらしたらしました(記録は2時間26分20秒)。この場合は日本女子陸上界においては史上初が明暗を分けたかたちです。

最近の例では、女子レスリングの「吉田 沙保里」さん、女子レスリング個人で世界大会16連覇、個人戦206連勝を記録し、「霊長類最強女子(あんまり有難くないかも)」の異名を持ち、アテネ・北京・ロンドン五輪で3連続金メダル。2012年には13大会連続世界一でギネス世界記録認定、国民栄誉賞受賞を受賞しています。

対するのは「伊調 馨」さんですが、ロンドン五輪までは吉田 沙保里さんと同じく五輪3連覇でしたが、国民栄誉賞受賞には至らず。アテネ・北京・ロンドン・リオデジャネイロ五輪4連覇で金メダリストとなった、つまり「吉田 沙保里」さんを超えた時点で国民栄誉賞受賞を受賞しています。

なんとなくお判りでしょうか?日本初・連勝・記録時間・分野などの要因が複雑に絡んできます。「国宝」にも同じことが言えると思いました。重要文化財の条件に加算される条件が、重要文化財のうち極めて優秀で、かつ、文化史的意義の特に深いもの、つまり古さ日本一(日本史上初めて)・それぞれの時代において初めて、それ以上の物が無い・その物しか無いなどが条件となるようです。

今回新たに「国宝」指定された、大阪金剛寺の「大日如来像」と「不動明王座像」「降三世(ごうざんぜ)明王坐像(国宝展には出ていませんでした)」のように、平成22年から始まった3体の保存修理に伴う大規模調査の結果、「不動明王坐像」は仏師・快慶の高弟、行快(ぎょうかい)の作で、胎内にあった墨書から天福2年(1234年)完成と判明しました。3体がそろう形になるまで約50年という歳月がかかっていたことなどが分かって、重要文化財から格上げされることもあるようです。

【国宝・太刀『銘 豊後国行平作』】

今回私がご紹介する太刀『銘 豊後国行平作』、ですが、刀剣の国宝は数えましたところ109本(太刀・短刀・薙刀など)が有ります(島根県荒神谷遺跡の全国最多358本の銅剣と16本の銅矛は刀剣としての国宝指定ではありません)。その中で御紹介するのはもちろん理由が有ります。

所蔵の「永青文庫(東京都文京区目白台)」は、日本・東洋の古美術を中心とした美術館です。旧熊本藩主細川家伝来の美術品、歴史資料や、16代当主細川護立の蒐集品などを収蔵し、展示、研究を行っています。運営主体は公益財団法人永青文庫で理事長は18代当主の細川護煕(元内閣総理大臣)。もうお分かりですね、細川護煕さんは、戦国大名細川藤孝(幽斎)・細川 忠興(三斎・妻は明智光秀の子女ガラシャ)の末裔にあたります。

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(梵字と帝釈天像・不動立像、豊後国行平読めますか?)

太刀『銘 豊後国行平作』は、刃長80.0cm、反り2.8cm、元幅2.7cm、豊後の刀工行平の作銘は、裏に「豊後国行平作」と掘られています。表裏に棒樋を搔流し、腰の部分の樋中に彫刻が施されており、表は梵字と倶利迦羅龍、裏は梵字と帝釈天像(不動立像)が彫られています。目釘孔2個、うち上1個を埋めてあります。「古今伝授の太刀(こきんでんじゅのたち)」とも呼ばれる。

【関ケ原前哨戦「田辺城籠城戦」】

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(ゆるキャラゆうさいくん可愛いですね。)
PB230207.jpg(現在は舞鶴公園です。)
PB230198.jpg(田辺城図城郭復元図)

田辺城の戦い(たなべじょうのたたかい)は、慶長5年7月19日(1600年8月27日) から9月6日(10月12日)にかけて、丹後田辺城(現在の京都府舞鶴市)をめぐり起こった戦いです。広義の関ヶ原の戦いの一環として戦われ、丹波福知山城主小野木重次、同亀岡城主前田茂勝らの西軍が、田辺城に籠城する細川幽斎(幽斎・忠興親子は早くから東軍支持を表明していました。)を攻めました。

豊臣秀吉の没後、政権の首座に就いた大老徳川家康は、度重なる上洛命令に応じず敵対的姿勢を強める会津の上杉景勝を討伐するために、慶長5年(1600年)6月に諸将を率いて東下します(会津征伐)。家康と対立し、佐和山に蟄居していた石田三成は、家康の出陣によって畿内一帯が軍事的空白地域となったのを好機と捉え、大坂城に入り家康討伐の兵を挙げました(これは以前にもご紹介しました)。

西軍は、まず畿内近国の家康側諸勢力の制圧に務めます。上杉討伐軍に参加していた細川忠興の丹後田辺城もその目標の一つで、小野木重次・前田茂勝・織田信包・小出吉政・杉原長房・谷衛友・藤掛永勝・川勝秀氏・早川長政・長谷川宗仁・赤松左兵衛佐・山名主殿頭ら、丹波・但馬の諸大名を中心とする1万5000の兵が包囲します。

忠興が殆んどの丹後兵を連れて出ていたので、この時田辺城を守っていたのは、忠興の実弟の細川幸隆と父の幽斎および従兄弟の三淵光行(幽斎の甥)が率いる500人にすぎなかったといわれます。圧倒的不利、その状況で幽斉がとった戦術は「籠城」でした。幸隆と幽斎は抵抗したものの、兵力の差は30倍、援軍の見込みもなく、7月19日から始まった、1か月半にわたる籠城戦は落城寸前となっていました。

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(細川幽斎、護熙元総理とは似ていませんね、笑)
PB230430.jpg(籠城戦の図、丹波・但馬の諸大名を中心とする1万5000の兵が包囲周り敵だらけです。)

幽斉は実の父が室町幕府第十二代将軍・足利義晴とも言われており、将軍家や公家と親密な関係にありました。また、戦国の世にあってすぐれた文人であり、和歌・連歌をはじめ太鼓・謡曲・乱舞・禅・料理・茶道・書道・鞠・有職故実にいたるまで、多彩な才能を発揮していました。田辺城制圧に参加していた石田軍の諸将の中には、幽斉を歌道の師として崇拝する者が少なくなく、城を攻め落とすことにためらいがありました。

そこへ後陽成天皇の勅命が届けられます。なかでも三条西公枝から歌道の奥義を許された「古今和歌集」の秘事口伝の伝承者(古今伝授)であり、継承者であり歌道の達人の幽斎が討死することによってその廃絶を後陽成天皇が憂慮されたことが、三条西実条、中院通勝、烏丸光広の3名を勅使として派遣する事に繋がります。天皇の勅命とあって西軍はただちに包囲を解き、およそ1か月半にわたる籠城が幕を下ろしたのでした。

勅命ということで、かたち的に敗者となった幽斎と幸隆はこれに従い、9月13日に田辺城を明け渡し、敵将前田茂勝の居城である丹波亀山城に身を移されることとなります。

【古今伝授とは】

「古今伝授(こきんでんじゅ)」または「古今伝受」とは、勅撰和歌集である古今和歌集の解釈を、秘伝として師から弟子に伝えたもの。狭義では東常縁から宗祇に伝えられ、以降相伝されたものを指します。

「うんちく『古今和歌集』(こきんわかしゅう)」とは、平安時代前期の勅撰和歌集のことで、全二十巻。勅撰和歌集として最初に編纂されたものです。略称を『古今集』(こきんしゅう)といいます。撰者は、紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人、醍醐天皇の勅命により『万葉集』に撰ばれなかった古い時代の歌から撰者たちの時代までの和歌を撰んで編纂し、延喜5年(905年)4月18日に奏上されました。

古今和歌集の読み方や解釈を秘伝とする風習は、平安時代末期頃から現れつつありました。鎌倉時代以降公家の家筋が固まり、家の家職が分別化されると、古今和歌集の解釈は歌学を家職とする二条家の秘事として代々相承されるようになってゆきます。しかし二条為衡の死によって二条家が断絶すると、二条家の教えを受けた者達(二条派)によってこれらの解釈が受け継がれるようになっていきます。

後に受け継がれた、三条西家は代々一家で相伝していましたが、三条西実枝はその子がまだ幼かったため、後に子孫に伝授を行うという約束で「細川幽斎」に伝授を行いました。幽斎は八条宮智仁親王、三条西実条、烏丸光広らに伝授を行い、1625年(寛永2年)、後水尾上皇は八条宮から伝受をうけ、以降この系統は「御所伝授(実はほかにも2系統有ったのですが)」と呼ばれるようになります。

【関ケ原への影響】

この戦いは西軍の勝利となったが、小野木ら丹波・但馬の西軍1万5000はこの間田辺城に釘付けにされ、開城から2日後の関ヶ原の戦い本戦に間に会いませんでした。もし小野木ら丹波・但馬の西軍1万5000が関ヶ原に駆けつけていたら、どうなっていたでしょう。

「関ケ原の戦」の後、細川幽斎は烏丸光広に古今伝授を行い、その際にこの太刀を贈ったと伝えられます。つまり「古今伝授の太刀(こきんでんじゅのたち)」は、幽斎より光広に贈られた際に「古今伝授伝承者」の証となったために、この名で呼ばれることになったのです。

昭和初期、幽斎の子孫である細川護立が買い取ったことにより、再び細川家の所有となっています。現在は細川家に伝来する文化財を保存する永青文庫に収蔵されています。

【最後に一言】

「芸は身を助ける。」それだけかい~!と怒られそうですが、この太刀『銘 豊後国行平作』の凄さが分かって頂けましたでしょうか?国宝の凄さは、美術的価値はもちろん、その太刀が歴史そのものであるという一言に尽きます。

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(歌碑が有りました。)

『古(いにし)へも 今もかはらぬ 世の中に 心のたねを 残す言の葉 』   

細川藤孝(幽斎) が死を覚悟してこの田辺城籠城時に歌ったとされます。

変わらない悠久の時の流れの中に、和歌は言葉によって心の種を残していくものである。(そのように私の歌と心も残るのならば有り難いことだ。)

PB230433.jpg(資料館の細川藤孝・幽斎)

日本に生まれて良かったと思った今日一日でした。

田辺城のレポートが少ないですが、またの機会にご紹介します。今回は主題とは違ったので(-"-;A ...アセアセ

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リュミエールブラン ネージュ

2017/11/21

「三成に過ぎたるものが二つある。島の左近に佐和山の城」『佐和山城』をご紹介します!

早く関ケ原に行け~!という皆さんの声が聞こえそうですが、私にも都合が有りまして(言い訳ですけど、笑)その前に三成の居城『佐和山城』をご紹介します。「三成に過ぎたるものが二つある。島の左近に佐和山の城」は三成を揶揄した狂歌ですが、実は元々「○○に過ぎたるもの」の狂歌モデルが家康だったと知ってましたか?

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(じらす作戦ではありませんがもう少しお待ちください。いい話しますから、笑)

一説には怖さの余り脱糞して帰城したともいわれる、武田信玄に大敗北を喫した、三方原の戦いの前哨戦、元亀3年(1572年)10月13日に遠江国「二俣城」をめぐり、武田信玄と徳川家康の間で行われた戦いが有りました。結果はもちろん若き家康の大敗北、そして家康の退却戦「一言坂の戦い」の後、「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」という本多忠勝の武功を称える狂歌(落書)が登場しました。これは殿(しんがり)を見事に務めきった、本多平八に対して道を譲った小杉左近(武田軍将)が書いたと言われています。

「本多平八」とは徳川四天王、本多平八郎忠勝のことです。「唐の頭(からのかしら)」とはヤクの毛で作られた兜のことで、中国四川省やチベット原産(つまり「唐」原産)の日本では珍しい品でした。一説には家康が難破した南蛮船からこれを入手し、愛用していたといわれています。

正に勝者が歴史を作るのです。家康の時は勝った武田が家康を笑い(本多忠勝を褒め称えたのか?)、三成の時は関ケ原で勝った東軍が三成を笑いました。『佐和山城』は本当に三成に過ぎた城だったのか?検証もかねてご紹介します。

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p2456987.jpg(教育委員会の参考地図を見ていただけたら登るのは龍潭寺からしか行けないようです。)
PA151232.jpg(ということで龍潭寺からの朝登山です。城趾への登山道入口となっている龍潭寺門前!)
PA151224.jpg(佐和山城へGO!)


【揶揄されるほど三成は無能だったのか?】

三成のエピソードをご紹介するお約束をしておりましたので、一つ二つご紹介します。秀吉が三成に禄を与えようとしたとき、三成が「領地はいりません。その代わり、淀川の河原の葦に対する運上(税金)を許していただきたい。それで一万石の軍役を致します。」と嘆願したという逸話です。秀吉は「何と欲の無い奴よ」と笑ったといわれています。

「ちなみに『一万石の軍役』」ですが、諸大名の所領・石高で準備しておく、一定の兵員と武器最低数の事です。備える義務のある兵員は石高50石につき一人(信長・秀吉・家康時代で少しずつ変化するようです)で、1万石では最低200名が必要とされ、軍役・武器は馬上(侍)10騎・鑓30本・旗30本・弓10張・銃20丁が規定として課されていました。

話を戻して、葦はご存知のとおり、屋根を葺いたり、簾や御座などに使われるものです。当時は河原に自生していたものを、使っていました。三成はこれに課税することで、秀吉の丹波攻めの時には、約束どおり一万石分の軍役をし、華麗な軍装で参加したといわれています。

これは「古今武家盛衰記」「名将言行録」等に出てくる話ですが、他の多くの逸話と同じく史実として裏づけることは出来ません。「秀吉の丹波攻め(但馬攻めに関しては、資料が残っています。)」とは一体いつのことを指してるのか、特定できません(光秀ならわかるのですが?)。

三成には、このような官吏能力は高いが、功利的(効果や利益のみを重視するさま)な逸話が、いくつかあります。これからも江戸時代の三成観を察することができます。

「翁物語」に記載される、功利的な逸話をもう一つご紹介しましょう。大雨で淀川の水かさが増し、土嚢を積んでも間に合わず、もう少しで堤が決壊しそうになった時、三成は部下に指示して大坂城の米倉を開き、土嚢の代わりに米俵を積み上げて、決壊を食い止めたというものです。

雨が上がったのち、三成は近在の百姓に米俵を土嚢に積み替えさせ、報酬にその米俵を与えたため、百姓も喜び工事が一気に進んだといいます。

私はこうのような逸話は?三成らしく無いように感じます。むしろ秀吉の逸話を三成にすり替えた様な気がします。三成の政策の特徴は、律儀に筋を通すことにあり、こういう奇策はいかにも秀吉らしい逸話のように感じます。ただ戦国から安土桃山のこの時期は、人々が功利性に走り、似たようなことが数多くあった可能性はあります。

三成はもともと官僚タイプです。とても優秀な官僚・政治家でした。 しかしながら、先頭に立っての戦は経験が少ないです。むしろ縁の下の力持ちといった兵站運用を得意としています。

しかしながら、本人自身はけしてひ弱な文官では有りませんでした。賤ヶ岳の戦いと言えば、七本槍(糟屋武則・片桐且元・加藤清正・加藤嘉明・平野長泰・福島正則・脇坂安治のこと)といわれるほど、秀吉の若き近習たちの武功は有名ですが、賤ヶ岳で活躍したのは七本槍だけでは有りません。賎ヶ岳の先駆け衆と呼ばれた14人の若者もおり、その中には石田三成、大谷吉継らも含まれていて、先駆け衆が一番槍を付けたともいわれています。

先駆け衆とは、その名の通り本体よりも先駆けて戦場で戦った者たちのことを呼びます。石田三成という人物は、いわゆる武断派と呼ばれた加藤清正、福島正則、黒田長政らとは反りが合わず、武断派の面々は三成は槍働きをせずに出世したと思い込んでいました。確かに武功という意味では三成は武断派には敵わなかったでしょう。しかしながら武断派の活躍は三成の兵站あってこそのものだったことを、忘れては行けません。

関が原の戦いでは戦術的には戦上手の家康と互角の戦いをしています。戦略的には三成の方が上だったと考えて良いのではないでしょうか、しかし戦には計略がつきものです。 家康と違い姑息な手段を嫌う三成にとっては考えられなかった裏切りが続出し大敗してしまいました。三成ファンにとっては残念ですね。

【佐和山城はどんな城】

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(門を入った左手に三成の像が正座して見据えています。)
PA151290.jpg(220m結構きついですよ~、登山靴を忘れないように、途中分かれ道を右へ進むと西の丸へ到着)
PA151302.jpg(塩櫓とありますが柱は硝煙櫓、混乱が有るようです。)
PA151294.jpg(硝煙櫓とあります。西の丸は三段に区切られています。かなりの段差です。)
PA151295.jpg(最後に火薬で爆発?瓦も出土!間違いありませんね、想像です。)
PA151308.jpg(西の丸だけでも竪堀がかなりあります。竪堀は自然地形の斜面に上下方向に設けた堀で、多くは攻城軍が斜面を横に移動しにくくするために設けます。)

佐和山城(さわやまじょう)は、中世中期から近世初期にかけて、近江国坂田郡(現・滋賀県彦根市)の佐和山に存在した山城です。

城郭構造は連郭式山城で天守は五層(三層説もあります)でした。主な城主は佐保氏、小川氏、磯野氏、丹羽氏、石田氏、井伊氏慶長11年(1606年)廃城と成っています。現在は、石垣、土塁、堀、曲輪、等が残っています。

織豊政権下において畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも重要な拠点であり、16世紀の末には織田信長の配下の丹羽長秀、豊臣秀吉の奉行石田三成が居城とし、関ヶ原の合戦後は井伊家が一時的に入城したことでも知られています。

【佐和山城の歴史】

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(登りました~本丸です。)
PA151325.jpg(かなりの広さです。残るのは隅石垣位です。)
PA151323.jpg(大きな城ですね~!)

佐和山城の歴史は、鎌倉時代、近江守護職・佐々木荘地頭であった佐々木定綱の六男・佐保時綱が築いた砦が始まりとされ、建久年間(1190- 1198年)の文書にその名が見られます。

六角政頼・久頼・高頼・氏綱・定頼の代の期間、六角氏が犬上郡を支配し、応仁の乱の後、家臣の小川左近大夫・小川伯耆守を城主として置いています。

しかし戦国時代が後期に入ると、北近江における六角氏勢力は衰退し、それにともなっては新興勢力である浅井氏が勢力を伸ばします。佐和山城もその支配に入って、城は磯野員吉に引き渡され、小谷城の支城の1つとなりました。

元亀年間には時の城主・磯野員昌が織田信長らと8ヶ月におよぶ戦闘を繰り広げています。しかし、1571年(元亀2年)2月に員昌は降伏し、代わって織田氏家臣の丹羽長秀が入城、浅井氏旧領と朝倉氏の旧領南部、すなわち、北近江六郡と若狭国の支配拠点としています。

天正10年(1582年)6月の本能寺の変の後に行われた清洲会議では、明智光秀討伐に功があった堀秀政に与えられ、秀政は翌年に入城しています。これ以降は事実上、豊臣政権下の城となってゆきます。堀秀政の留守中は弟の多賀秀種が城代を務めました。天正13年(1585年)には、転封となった堀家に替わって堀尾吉晴が入城、さらに、天正18年(1590年)には五奉行の一人である石田三成が入城したとされますが、三成の佐和山領有が文献上でみえるのは文禄4年からです。 三成は、当時荒廃していたという佐和山城に大改修を行って山頂に五層(三層説あり)の天守が高くそびえたつほどの近世城郭を築きました。

ただし、三成は奉行の任を全うするために伏見城に滞在することが多く、実際に城を任されていたのは父の正継であった。城内の作りは極めて質素で、城の居間なども大抵は板張りで、壁はあら壁のままであった。庭園の樹木もありきたりで、手水鉢も粗末な石で、城内の様子を見た当時の人々もすこぶる案外に感じたと記されています(『甲子夜話』)。

【佐和山城の戦いと廃城】

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(かなりの規模です。山城としては凄いです。)
PA151342.jpg(眼下に見えるのが彦根城ですよ!佐和山城本丸趾より!)

皆さんご存知でしょうが、慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を猛攻撃しています。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人でした。城主不在にもかかわらず城兵は健闘し、敵を寄せ付けなかったが、やがて城内で長谷川守知など一部の兵が裏切り、敵を手引きしたため、同月18日、奮戦空しく落城し、父・正継や正澄、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てました。

家康に従軍した板坂卜斎は陥落した佐和山城に金銀が少しもなく、三成は殆んど蓄えを持っていなかったと記録しています(『慶長年中卜斎記』)。

石田氏滅亡の後、徳川四天王の一人である井伊直政がこの地に封ぜられ、入城しています。井伊家が、このまま佐和山城を利用すると、領民は井伊家が石田家を継承したような錯覚を抱き、領民達の前領主への思慕を断ち切ることができないことから、新たに彦根城築城を計画しました。しかし、直政は築城に着手できないまま、慶長7年(1602年)に関ケ原の傷が悪化して死去します。

計画は嫡子の直継が引き継ぐこととなり、大津城・佐和山城・小谷城・観音寺城などの築材を利用しつつ、天下普請によって彦根城を完成させています。佐和山城は慶長11年(1606年)、完成した彦根城天守に直継が移ったことにともない、廃城となりました。なお、彦根城の城下町までを含めた全体の完成は元和8年(1622年)のことです。

佐和山城の建造物は彦根城へ移築されたもののほかは徹底的に城割されたため、城址には何も残っていないません。しかしそれでも、石垣の一部、土塁、堀、曲輪、その他施設が一部に現存しています。

【最後に一言】

石田三成は『大一大万大吉』と記された家紋を用いました。「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」という意味なんです。悪者に作り上げられた三成像、近頃変わって来ましたよね。テレビの影響かもしれませんが、私がいつも言うように敗者には敗者なりの言い分が有ります。「関ケ原」は天下分け目の戦い、一歩間違えば立場は逆転していたはず。敗者の言い分が正しかったとも言えませんか?

三成は関ヶ原の戦いに万が一敗北した場合を考え、佐和山城での再戦も考えていたのではないでしょか?『佐和山城』確かに堅固な素晴らしい要塞だったことが分かりました。その素晴らしい城に見合う名武将だったと思いますね。

PA151446.jpg(模型と実物の佐和山城址)
PA151363.jpg(本丸下の30cmの大キノコ、三成の心はキノコに託された~笑。)


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リュミエールブラン ネージュ

2017/11/19

ちょと一服!大名茶人も愛した松江『明々庵 』

今日は関ヶ原の合戦で喉が乾かれた皆さんへ美味しいお茶を一服差し上げましょう。ご紹介するのは、島根県松江市の塩見繩手にある松平不昧ゆかりの茶室、明々庵(めいめいあん)です。

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(今日はお茶席に呼ばれたように順番に行きたいと思います。入り口です。)

茶人としても大変有名な、松江藩松平家7代当主・松平不昧(松平治郷)によって、1779年(安永8年)に家老有沢弌善のために殿町にある彼の邸内に建てた茶室を主とする古庵です。

関ヶ原の戦いの勝ち組によって出来たともいえる、松江藩(まつえはん)は、出雲1国または隠岐国を加えた2国を領有した藩です。藩庁は松江城(島根県松江市殿町)です。藩主は外様大名の堀尾氏、京極氏と続き、親藩の越前系松平氏が廃藩置県まで支配しています。

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PB031096.jpg(松江はお茶文化が盛んです。十時・三時の休憩も薄茶の事もあるようです。)

【折角の一腹ですので、石田三成のお茶エピソードも御紹介しましょう】

三成と三献の茶による羽柴秀吉との出会いのエピソードは有名です。三成の逸話でも、最も有名なのが、このエピソードではないでしょうか?滋賀県・長浜駅前には、この三献茶に因んだ三成と秀吉の像もあります(残念ながら写真は有りません)。「砕玉話(武将感状記)」等に記された、逸話の概要はこんな具合です。映画「関ケ原」の中にもこのシーンは語られていました。

浅井攻めの行賞で長浜城主となった秀吉は、ある日、領内で鷹狩をしていました。その途中、喉の乾きを覚えて、ある寺に立ち寄って茶を所望します。対応した寺の小姓は、まず最初に大ぶりの茶碗にぬるめの茶を一杯に入れて出しました。喉の乾いていた秀吉は、それを一気に飲み干したあと、もう一杯たのみます。すると小姓は、やや小さめの碗に、やや熱めにした茶を持参します。秀吉が試みにもう一杯所望したところ、今度は小ぶりの碗に熱く点てた茶を出しました。

相手の様子を見て、その欲するものを出す、この気配りに感じいった秀吉は、その小姓を城に連れて帰り家来としました。この小姓が、その後累進し、五奉行の一人、石田三成となったのです。映画の中では秀吉が褒美は何がよいかと尋ねるシーンが有ったと思います。それは三成の才覚を表すエピソードですが、こちらはまたの機会にご紹介しましょう。

喉の乾いている相手に、まずは飲みやすい温めの茶をたっぷり出し、渇きが癒えた後は熱い茶を味わってもらう逸話は気配りの進めとして、広く語られています。「三献茶」の舞台となった「ある寺」とはどこか、という議論も色々有るようです。今のところ、大原観音寺と古橋法華寺が有力で、観音寺には「三成茶汲みの井戸」もあります。ただこの逸話そのものが真実か?、ということになると大いに疑問があります。

逸話が載っている史料が、いずれも江戸期の俗書の類であること、三成の息子が記した寿聖院「霊牌日鑑」では三成が秀吉に仕えたのは、十八才の時に姫路で、となっており、この逸話とは符合しません。ちなみに重家(三成の嫡男)は大谷吉継から上杉討伐に出陣する徳川家康の下へ参陣するように勧められるが、関ヶ原の戦いが勃発したため、豊臣家に対する人質として大坂城に留め置かれて、生存しています。

【お話を、「明々庵」 に戻しましょう】

PB031209.jpg(門からの待合)
PB031206.jpg(井戸が有りました。)
PB031128.jpg(門を入ると待合が有ります、雪隠付きでした。笑)
PB031202.jpg(躙り口)
PB031145.jpg(躙り口から三畳の茶室、額は松平不昧直筆です。 )
PB031160.jpg(少し大きな四畳半の茶室)
PB031161.jpg
(掛け軸読めません、笑)
PB031170.jpg(明々庵全景です。茅葺き、入母屋造。)

明々庵は茶人として知られる松江藩七代藩主松平不昧公の好みによって、松江市殿町の有澤(ありさわ)家本邸に建てられ、不昧公もしばしば訪れた茶室です。一時は東京の松平伯邸に移されていたが、その後松平家から郷国出雲に帰され、1928年(昭和3年)菅田庵(かんでんあん)のある有澤山荘の向月亭(こうげつてい)に隣接した萩の台に建てられていました。大戦後、管理が行き届かず、荒廃していたのを、1966年(昭和41)年、不昧公150年忌を記念して現在の赤山の大地に移されました。

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(お隣の百草亭でお茶を頂きました。)
PB031192.jpg(秀吉と同じく、撮影する前に飲んじゃった~(;^_^A アセアセ・・・)

茅葺の厚い入母屋に不昧公筆の「明々庵」の額を掲げ、茶室の床の間は、五枚半の杉柾の小巾板をそぎ合わせた奥行きの浅い床で、また二畳台目の席は中柱もなく炉も向切りといった軽快なものとなっており、定石に頓着しない不昧公の好みの一伺うことができます。また、塩見繩手の北堀町の赤山から望む松江城の景色は格別といってよいものです。

【大名茶人松平不昧ってどんな人】

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(松平 不昧公、パチスロ好きな方は鬼武者の蒼鬼の子孫にあたります。)

松平治郷(まつだいら はるさと)は、出雲松江藩松平家の第7代藩主です。松平直政系(結城秀康の三男・結城秀康は家康の次男ですが秀吉の養子となっていました。)越前松平家宗家7代。江戸時代の代表的茶人の一人で、号の不昧(ふまい)で知られる。その茶風は不昧流として現代まで続いています。利休七哲の細川忠興(三斎)によって開かれた、茶道の流派三斎流も庇護しています。

寛延4年2月14日(1751年3月11日)、第6代藩主・松平宗衍の次男として生まれる。明和4年(1767年)、父の隠居により家督を継意でいます。将軍・徳川家治からの偏諱と祖父・宣維の初名「直郷」の1字とにより治郷と名乗ります。この頃、松江藩は財政が破綻しており、周囲では「雲州様(松江藩の藩主)は恐らく滅亡するだろう」と囁かれるほどでした。

そのため治郷は、家老の朝日茂保と共に藩政改革に乗り出し、積極的な農業政策の他に治水工事を行い、木綿や朝鮮人参、楮、櫨などの商品価値の高い特産品を栽培することで財政再建を試みます。しかしその反面で厳しい政策が行なわれ、それまでの借金を全て棒引き、藩札の使用禁止、厳しい倹約令、村役人などの特権行使の停止、年貢の徴収を四公六民から七公三民にするなどの厳しい年貢の取り立てを行いました。

これらの倹約、引き締め政策を踏まえ、安永7年(1778年)に井上恵助による防砂林事業が完成、天明5年(1785年)の清原太兵衛による佐陀川の治水事業も完了し、これらの政策で藩の財政改革は成功しています。これにより空になっていた藩の金蔵に多くの金が蓄えられました。

しかしながら、財政が再建されて潤った後、茶人としての才能に優れていた治郷は、1500両もする天下の名器「油屋肩衝」をはじめ、300両から2000両もする茶器を多く購入するなど散財が激しく。このため、藩の財政は再び一気に悪化したといわれています(改革自体は茂保主導による所が大きく、治郷自身は政治に口出ししなかったことが原因とされています)。

P6598741254.jpg(油屋肩衝(あぶらやかたつき)は、古来より「大名物」として知られる茶器のひとつ。畠山記念館 持ち主•豊臣秀吉•毛利輝元•福島正則•徳川家光•土井利勝•松平不眜など~凄いですね)

文化3年3月11日(1806年4月29日)、家督を長男の斉恒に譲って隠居し、文政元年4月24日(1818年5月28日)に死去しました。享年68歳。墓所は松江市の月照寺です(出雲国神仏霊場第5番札所、月照寺は以前ご紹介しましたね)。

【利用情報】

所在地 - 〒690-0888 島根県松江市北堀町278
開館日・時間:年中無休・9時15分~17時(入館は16時30分まで、季節変動あり)

見学とお茶で1100円だったと思います。見学だけも500円でOKでした。

【最後に少し】

毎年のように松江や出雲に足を運びます。今回訪れた明々庵 は初めてですが、出された茶菓子は松江三大銘菓の「菜種の里」「山川」「若草」の内「菜種の里」「若草」でした。ブログプロフィールに載せている大山山頂の抹茶のお菓子もこの三大銘菓の詰め合わせを持参しました。

「山川」「若草」はどちらのお菓子屋さんでもあるのですが。「菜種の里」は『三英堂』でしか作られておりません。『明々庵 』でも当日の朝に作ったものだけを持ってこられるそうです。さらに「若草」についてはもちろん春の菓子ということで、以前は季節の移り変わりによって色が濃く変わっていったようです。

お抹茶も当然ですが、前日に碾いたものだけを使用するといっておられました。私が「お茶は『中村茶舗』さんですか?」と聞きますと「練習用のお安いものですが、そうです。」との答えに満足いたしました(笑)。「加島茶舗さんも頑張っておいでで美味しいですよ」とのこと、是非美味しい松江のお菓子とお茶を味わっていただきたいです。

私が「中村茶舗」さんのお茶を押す理由ですが、歴史や格も有りますが、混ざり物のない真摯なお茶だと思うからです。お土産やさんでお茶をふるまって試飲するとすごく美味しく感じるお茶もあるのですが、後味に感じない程度ですが、舌にピリリとした刺すような感じと、しょっぱい味覚が残るお茶が有ります。その原因はクルタミン酸ナトリウムです。表示してあるので参考にされたらよいかと思います。本来のお茶を嗜むなら、私のお勧めを是非にと思います。

PB031219.jpg(城見台、明々庵から望む松江城ビューポイントの一つ)


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リュミエールブラン ネージュ

2017/11/17

天下分け目の『関ヶ原』「鶴翼の陣」の西軍に東軍風前の灯か?

今日も書き終える時間が足りませんね~。また日付変更線またいでしまいました。

前回までは、西軍の動きを中心において物語を進めてまいりました。今回は出来るだけ東軍にスポットを当てて、「家康」の動きを追っていきたいと思います。

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(狸親父です。)

7月25日の小山評定を終え、東軍諸大名が清洲城を目指し西進を開始した後も、家康は動向が不明な背後の佐竹義宣に対する危惧から江戸城に8月7日帰城しその後9月1日まで留まり、おおよそ23日にもわたって、藤堂高虎や黒田長政(黒田官兵衛嫡男)らを使って諸将に書状を送り続け、豊臣恩顧の武将の東軍繋ぎ止めと、西軍への調略による切り崩しを図っています。

その間も先発隊諸将はすでに西軍との戦闘を始めており、勢いに任せた東軍諸将は西軍を撃破して清洲城に集結しています。

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(桃配山の家康陣地)

【天下分け目は関ヶ原に決定】

以前「天下分け目の天王山」という題名でブログをUPしましたが、勉強不足だったと反省しているので、この機会をお借りして、訂正したいと思います。「天下分け目」といえば「関が原」ですね。徳川家康と石田三成が、文字通り天下分け目の戦いを繰り広げました。

「天王山」は、羽柴秀吉が明智光秀を破った場所(京都南部)で、その故事から、勝負事や運命の分かれ道、という意味で使われますが、通常「天下分け目の」を頭につけるには早いといざざるをえません。

もし明智光秀が勝利していたとしても、まだ織田家の中には柴田勝家や滝川一益がいますし、もちろん徳川家康も健在でした。外部にも武田家は滅んだとはいえ、毛利、上杉、北条といった秀吉に匹敵する戦国大名が残っています。

【江戸城滞在で家康が行った事】

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(西軍の集結した大垣城)

話を戻して、多方面への家康の書状戦略、使い頭となった黒田長政は吉川広家に毛利家所領の安堵を、小早川秀秋に、高台院への忠節を説いて内応を約束させています。江戸城内で家康が東軍諸大名などに宛てた書状は約200通にも及び、家康の書状による情報処理は、その後の戦いの雌雄を決定付けることになりました。

一方、三成が西軍諸大名に宛てた書状は家康のそれよりもかなり少なく、真田昌幸からは「なぜ挙兵前に(挙兵の意思を)知らせなかったのか」と、返書で問われています。

【東軍優勢】

家康が書状作戦を展開している頃、正則ら東軍先鋒は清洲城に集結します、その後一向に家康からの連絡がなく、正則は、自分たちを捨石にするのかと激怒してしまいます。家康の娘婿である池田輝政がこれに反発して、口論したとも伝えられています。
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(東軍落城させられた岐阜城跡)

しかし家康の使者・村越直吉が到着し「なぜ早く美濃攻略に掛からないのか」と尋ねられると、正則ら東軍諸大名は勇躍して美濃へと侵攻しました。8月22日に輝政らが河田(現一宮市)より木曽川を渡り、米野村(現笠松町)付近で西軍と激突(河田木曽川渡河の戦い、米野の戦い)、加賀野井(現羽島市)から渡河した正則らも竹ヶ鼻城を陥落させ(竹ヶ鼻城の戦い)、その後東軍はさらに進軍し、翌日には、1日で織田秀信が城主の岐阜城を落としています(岐阜城の戦い)。城主である秀信は、正則や輝政の助命嘆願もあって弟の織田秀則と共に高野山へ追放され、のちにその地で病没。織田氏本宗家は断絶しました。

『ちょっとうんちく』「織田秀信(信忠の長男・信長の孫)」。本能寺の変後の清洲(きよす)会議で羽柴(豊臣)秀吉に支持され、3歳で織田家を相続しています「三法師」の方が分かりやすいですね。

同時期美濃国内では、東美濃で妻木頼忠が東軍方として西軍についた田丸直昌の家臣らと交戦していましたが、遠山友政、小里光明など本能寺の変後に秀吉に服属する事を拒絶して領地を失い、家康に保護されていた東美濃の元領主が、旧領復活を狙い妻木軍と組んで西軍方の田丸直昌や河尻秀長の領地に攻めこみ苗木城、明智城などを陥落させ、西美濃でも市橋長勝や徳永寿昌らが福束城や高須城など、西軍方の拠点を次々に陥落させていきました。

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(国宝犬山城!西軍が放棄したことで国宝に成ったんですよね~。)

さらに犬山城守備の任に就いていた関一政や加藤貞泰、竹中重門(竹中重治「半兵衛」の嫡子)が井伊直政の誘いで東軍に降り、郡上八幡城の稲葉貞通も降伏するなど東軍の優勢で戦況は進んでいます(1596年(文禄4年)から城主となっていた石川貞清だけは犬山城を放棄し関ヶ原に参陣し敗北したが、東軍についた木曽衆の山村良候らを犬山城で解放したことが評価され助命されています)。

【ついに「家康」西への進軍を決める】

岐阜城が落ちたのを知ると、家康は五男の武田信吉(名門武田源氏の名跡を継がせて武田を名乗っています)や浅野長政らに江戸城留守居を命じて、9月1日に約3万3,000の兵とともに出陣し、東海道を大坂方面へと西上します(当前のことですが、都は京都西上ですね)。一方、徳川本隊ともいえる秀忠隊3万8000は中山道を進みますが、9月3日から8日にかけて真田昌幸2000が籠もる上田城を攻略し損ねた上、足止めを食らい(第二次上田合戦についてはまた取材してご報告いたします、笑)、関ヶ原の戦いには間に合っていません。

しかし、実際は秀忠軍が家康から受けた当初の任務は中山道の制圧であり、上田城攻城は秀忠の独断ではなく家康の直近の命令に沿ったものでした。家康の西進の知らせと関ヶ原方面への合流という新たな命令は利根川の増水により使者が遅れ、秀忠の手に渡ったのは9月9日となり、14日に信濃本山宿、17日に南木曽馬籠宿、19日に美濃赤坂宿、20日にやっと大津城に到着し家康に追いついており、15日に関ヶ原に布陣することは使者が到着した時点ですでに不可能に成っています。

【三成の誤算】

一方の三成は大坂城に居る豊臣秀頼、あるいは総大将である輝元の出馬を要請していましたが、いずれも淀殿に拒否され果たせていません。輝元には出馬の意思があったといわれますが、このころ増田長盛内通の風聞があり、動けなかったともされています。また、9月2日に西軍の北陸道平定軍に従軍していた京極高次が突如として戦線を離脱、翌3日、居城の大津城に籠城して東軍への加担を鮮明にしました。

このため三成は毛利元康(元就の第八子)を大将に、小早川秀包(毛利元就の9男)、立花宗茂、筑紫広門ら1万5,000の軍勢を割いて、9月7日、大津城攻撃へと向かわせます。この戦いは京極高次の開城で終わったものの、毛利元康らは本戦当日の9月15日にまで足止めされ、関ヶ原に布陣する事ができませんでした。時代が戦国時代から二代目の時代に変遷しているため、武将の実力が分からないと感じられると思いますが、この面々の1万5,000の軍勢が到着していれば、家康の首は無かったかもしれませんね。

さらに9月14日には西軍の首脳であったはずの前田玄以が大坂城を退去し、閑居するという事態も発生しています。この玄以も、一説には東軍に内応していたといわれています。このように西軍の統率は東軍とは対照的にまとまりに欠けており、当初の戦略は狂っていきました。家康の書状作戦が功を奏したと言わなければなりませんね。

【家康布陣】

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(右に中山道!桃配山の名は「672年」壬申の乱で、大海人皇子が兵士に桃を配った事から名づけられたそうです。)
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(関ケ原古戦場・徳川家康最初陣地)
PA140553.jpg(金扇の大馬印が立っていました。)
PA140584.jpg(中山道から家康陣地を見上げる。)

家康は秀忠の到着を待つために、9月14日に美濃の赤坂の岡山(現在の岐阜県大垣市赤坂町字勝山にある安楽寺)に設営した本陣に入ります。三成は家臣である島清興(左近)の進言により、赤坂付近を流れる杭瀬川に兵を繰り出して、東軍の中村一忠・有馬豊氏を誘い出し、宇喜多隊の明石全登と連携してこれをに打ち破っています。

14日夜、家康が赤坂を出て中山道を西へ向かう構えを見せます。これを察知した三成は東軍よりも早く大垣城を出陣、福原長堯に城の守りを託して、関ヶ原方面へ転進します。西軍の転進を知った家康も、関ヶ原への進軍を命じ、松平康元や堀尾忠氏、津軽為信らに大垣城監視を命じて西へ向かっています。何故?が付きますね、大垣城の守りを固め、西国街道を下る毛利元康、1万5,000の軍勢を待つのが最適な作戦に思えます。先に関ヶ原に入れば挟撃できるのですから、歴史の綾は絡み続けています。

この14日には、小早川秀秋がそれまで陣を敷いていた伊藤盛正を追い出す形で松尾山に陣を構えています。秀秋は伏見城の戦い以降病と称して戦場に出ず、東軍への内応を黒田長政経由で家康に打診していたといわれます。このため三成ら西軍首脳は不信の念を抱いていました。

秀秋は文禄・慶長の役で三成の報告が元で、筑前名島35万石から越前北ノ庄12万石に大減封されており、それを家康に回復してもらった恩義が有ります。従って秀秋は三成を恨んでおり当初から東軍への参戦を考えていたが、伏見攻めの一件により、成り行きで西軍についたという経緯がありました。

1万5,000の大軍を擁する秀秋を繋ぎとめるため、家康・三成は秀秋に、恩賞を与える約束を行っています。家康は上方二ヶ国を与えると提示し、西軍は秀頼が15歳になるまでの間秀秋を関白に就け、さらに播磨一国を加増すると提示していたのです(どっちが得かよ~く考えよう)。

PA140570.jpg(毛利が陣取った南宮山家康陣地のすぐ後ろに成るのですが~。)

小早川秀秋を巡る水面下での謀略が入り乱れるなか、両軍は中山道、北国街道、伊勢街道が交差する要衝・関ヶ原に集結しました。

関ケ原配置図
(配置完了!)

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リュミエールブラン ネージュ

2017/11/15

「石田三成」挙兵、伏見城を落として『大垣城』へ進軍す。

今日は、関ヶ原の戦い前夜の「石田三成」と「徳川家康」双方の動きを説明しながら、西軍の拠点となった『大垣城』をご紹介します。ドキドキしますよね~じわりじわりと近づいてくる感じがしますね。

「大垣城」は、岐阜県大垣市郭町にあった平城です。麋城(びじょう)または巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれます。現在の「大垣城」はけして大きなものではありませんが、水郷の町大垣というように、本丸と二ノ丸のまわりを河川を利用した堀で囲んだ惣構の城です。

PA140392.jpg(先の大戦で燃え落ちた天守を再現しています。)


大垣城は織田信長が岐阜を掌握した後は、賤ヶ岳の戦いに勝利してこの地域の支配権を獲得した豊臣秀吉により、1583年(天正11年)に池田恒興が(所領15万石)城主となりました。翌1584年(天正12年)に小牧・長久手の戦いで恒興が戦死すると息子の輝政が継ぎましたが、さらに翌年の1585年(天正13年)に輝政が岐阜城主になると、代わって田中吉政(秀次近侍)・中村一氏(近江水口岡山城)・堀尾吉晴(近江佐和山城)・山内一豊(近江長浜城)らとともに秀吉の甥・豊臣秀次(近江八幡山城)の宿老に任命された「一柳直末」が、3万石を領して大垣城主に成りますが1586年(天正13年)11月29日(旧暦)(1月18日)の天正地震で城は全壊焼失してしましました。

1588年(天正16年)に一柳直末によって、若しくは 1596年(慶長元年)頃、伊藤祐盛が城主の時に改築が行われ、天守が築かれたとされています。天正18年(1590年)の小田原征伐で功を挙げたことから伊藤盛景が城主となり、1599年に盛景が死ぬと子の伊藤盛宗があとを継いでいます。

そして1600(慶長5年) 年、関ケ原の戦いに向かいます。

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【三成挙兵す!伏見城を攻略すると共に畿内を平定。】

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(石田三成が1600年に本陣とした大垣城です。)
PA140379.jpg(復元城門、腰曲輪の櫓と合わせて国宝だったそうです。焼失前!)
PA140383.jpg(平成22年に改修が行われて綺麗になってます。北東櫓、民家と近いね~。)
PA140386.jpg(城としては、小さいですが右下の地図を見ると以前の、大きさが分かりますね。)
PA140472.jpg(大垣市指定史跡、説明版も得意になってきたかな?)
PA140452.jpg(茶色にぬられている部分が再建部分です。本丸周囲は堀ですが今はありません。)
PA140437.jpg(公園側から再建された門を眺める。ぴかぴか~!)
PA140491.jpg(河川をうまく利用して堀に成っています。こちらも外堀の残りです。)
PA140490.jpg(大垣は、芭蕉が曾良と別れた場所としても有名ですね。)

1600年(慶長5年)7月5日、宇喜多秀家が豊国社で出陣式を行い(『舜旧記』)、これに高台院(秀吉妻ねね・おねとも)は側近の東殿局(大谷吉継の生母)を代参させています。 7月11日、三成は東軍に加わる予定の大谷吉継に「家康打倒」を打ち明け、吉継を己の陣営に引き込みます。大谷吉継は光成を止めたとも言われますし、高台院は家康寄りだったとも言われています。

7月12日、佐和山城で三成は吉継、増田長盛、安国寺恵瓊と秘密会議を行い、毛利輝元への西軍総大将就任要請などを決定しました。同日、愛知川に東軍に参加予定の諸将を食い止める関所が設けられ、 長宗我部盛親、鍋島勝茂、前田茂勝(玄以の子)らが足止めを食らい、結果的に西軍への参加を余儀なくされました。また島津義弘は家康との約束に従い伏見城に入城しようとしたが、鳥居元忠に断られ(『島津家代々軍記』)西軍に身を投じています。

この動きは当初三奉行側に通牒されておらず、三奉行は徳川家康と毛利輝元に急使を送り、至急大坂に戻り石田・大谷の動きを鎮定するよう要請しています。

7月17日、安国寺の建議を採用した毛利輝元は大坂城に入城して、家康が割拠していた西の丸を、家康妻妾を落ち延びさせることと引き換えに留守居役佐野綱正から無血接収し、西軍の総大将に就任します。ここに至って三成は増田長盛・長束正家・前田玄以三奉行の連署による挙兵宣言「内府ちがひの条々」を発し、主に中国・四国・九州の諸大名が追従、およそ10万の兵力とないました。しかし内部は必ずしも一枚岩ではなく、吉川広家(吉川元春・三男)や鍋島直茂(勝茂の父)のように早くも東軍への内応を画策する武将もいました。

三成はまず会津征伐に従軍していた諸大名の妻子を人質に取る作戦を発動します。しかし、加藤清正や黒田長政の妻子が逃亡、さらに細川忠興の正室である細川ガラシャが、人質に取られることを拒否し、細川邸に火を掛け自害するなどして計画は頓挫しています。細川ガラシャの死は有名ですね、キリシタンだった彼女は自殺は許されません。家臣・小笠原秀清が障子越しに槍で突いて介錯し最期を遂げたといわれています。

この諸大名の妻子を人質に取る作戦は、ガラシャの死の壮絶さに石田方が驚き、天守閣に集める行動を、むやみに拡大することをやめています。また、「内府ちがひの条々」には家康が勝手に諸大名の妻子の帰国を認めていたことを弾劾する一文があり、家康の養女で真田信幸の妻の小松姫(沼田城において西軍についた舅・真田昌幸を追い返したという伝説で有名)が開戦以前に帰国していた可能性が指摘されています。

翌18日、西軍は鳥居元忠が預かる伏見城に、毛利輝元の名で開城要求を勧告しています。当然鳥居元忠は拒絶、明くる7月19日から伏見城の戦いが始まりました。伏見城は宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘ら4万の大軍により攻められ、8月1日に陥落しています。

伏見城陥落後、三成は家康に味方する細川幽斎( 藤孝・忠興の父)が籠る、丹後国の田辺城を制圧するため、親密な関係にあった小野木重勝を総大将に1万5,000の軍勢を丹後に差し向け、宇喜多秀家を総大将に毛利秀元や鍋島勝茂など約3万の軍勢を、伊勢国平定に送り込んでいます。大谷吉継は北陸道平定に向かい、三成自身は美濃方面を抑えるため、8月10日に佐和山城から西軍の拠点をなす大垣城に入城しています。その先の岐阜城には織田信長の嫡孫である織田秀信が城主として拠っていましたが、秀頼の後見と美濃・尾張加増を条件に西軍へ引き入れることに成功しています。

【「家康」三成成挙兵の報を得て小山評定を開く】

PA140431.jpg(本文とは関係ないのですが、1635年(寛永12年)に戸田氏鉄が城主となって以降、明治に至るまで大垣藩戸田氏の居城でした。)

この頃、家康は会津征伐のために江戸城に居ましたが、7月19日に書状が家康に届けられます。差出人は西軍首脳の増田長盛であり、三成らが家康打倒の謀議を行っているという内容でした。その後も長盛からの書状は届けられており、この書状を送った時点では長盛は石田方には与していないようです。また淀殿も石田・大谷の動きを鎮圧するよう要請を送っています。しかし家康はそのまま7月21日には江戸城を発ち、7月24日に下野小山に到着。ここで三成が挙兵し伏見城攻撃を開始したことを鳥居元忠の使者によって知らされたといわれます。

ここで、家康は会津征伐に従軍した諸大名を招集し、翌25日に今後の方針について軍議を開きます。いわゆる「小山評定」です。家康にとって最大の問題は、東海道・東山道に所領を有する豊臣恩顧の武将たちが、どのような態度をとるかであった。三成挙兵の報は彼らの耳にも届いており、動揺するとともに判断に苦慮していました。そのため、家康の命を受けた黒田長政は福島正則に秀頼には害が及ばないこと、三成が秀頼のためにならないことを説明し、東軍につく態度を鮮明にするよう説得したといわれます。

なお、この時点では「内府ちがひの条々」はまだ小山に届いておらず、毛利輝元が大坂城で秀頼を擁して石田方の総大将になっていることは、家康以下諸将の知るところではなかったはずです。さきに届いた淀殿や三奉行からの鎮定要請に基づき、大坂城からの指示に従っている形式を保っていました。

評定では情勢の説明と、妻子が人質になっているため進退は各自の自由であるとの、家康の意向が伝えられます。すると真っ先に福島正則が大坂のことは考えず、家康に味方することを表明します。黒田長政・徳永寿昌がこれに続き、ほぼ全ての従軍諸将が家康に従うことを誓約しました。その一方で信濃上田城主である真田昌幸と、美濃岩村城主である田丸直昌はこれに与せず、西軍へ退転します。

【それぞれの道】

山内一豊のお話も有名です。一豊は関ケ原後、大出世しますが、ほとんど小山評定での功績と言われます。上方の情勢を伝える妻の手紙を未開封のまま家康に差し出したといわれ、評定で一豊は「わが城をお使いくだされ」と提案した。一豊の城は東海道中の静岡・掛川。これに東海道筋に領地を持つ大名が「わが城も」と続き、家康は安全に西に向かうことができたといわれます。

一豊は、豊臣秀吉にその忠実さ、真面目さを買われて掛川の領地を任されていました。秀吉は、家康を東海から関東に領地替えさせ、なおもその西上に備え、通り道の東海道に最も信頼できる忠義者、律義者を並べています。何重もの対家康防衛壁を戦わずして突破できた家康にとって、城の明け渡しとともに家康に対する忠誠心を明確にした一豊への感謝の念は、大きかったと思われます。

この案は堀尾忠氏(一豊の盟友、堀尾吉晴の子)と事前に協議したもので、さらに正則が秀吉より預かっていた、非常用兵糧20万石も家康に提供すると表明、秀吉が家康封じ込めのために配置した、東海道筋の諸城と兵糧を確保したことで、東軍の軍事展開と前線への兵力投入が容易となっています。

諸将が提供した居城には松平康重、松平家乗、内藤信成、保科正光、北条氏勝ら徳川譜代の武将が城将として入城し、守備に当りました。

三成迎撃で評定が決定すると、諸大名は7月26日以降陣を払い、正則の居城である尾張清洲城を目指し出陣します。また伊勢方面に所領を持つ富田信高、古田重勝、氏家行広、福島正頼、九鬼守隆らは居城防備のため各居城へ戻りました。家康は徳川秀忠に榊原康政や大久保忠隣、本多正信を添えた約3万8,000の軍勢(こちらが徳川本隊といえます)を付けて、中山道より美濃方面への進軍を命じ、8月4日に出陣しました。

一方上杉・佐竹への抑えとして、自身の次男の結城秀康を総大将に、里見義康、蒲生秀行、那須資景らを宇都宮城に留め、監視させています。家康は江戸城に戻りますが、そこから動かなくなっています。『内府ちがひの条々』の内容が東軍側にも伝わり、豊臣恩顧の武将たちの動向が不透明となる危惧を考えたといわれます。

真田家では小山評定後の「犬伏の分かれ」が有名ですね。7月21日、真田親子が宇都宮城の手前、犬伏に構えた陣所へ、石田三成の密使が到着します。 昌幸は三成とは姻戚関係で義兄弟でもあり(三成・昌幸とも宇田頼忠の娘を娶っています)、 幸村の妻は豊臣恩顧の大谷刑部小輔吉継の娘(竹林院)です。 何より昌幸は第一次上田合戦(神川合戦)の遺恨が残っており、家康を嫌っていました。

一方、長男の信之は神川合戦の後、かねてからその人物に傾倒していた家康の下に秀吉の取り成しで仕えることに成ります。
家康は神川での遺恨を信之には向けず、かえって寵愛し信之に妻として 稲姫(後の小松殿。徳川家の重臣、本多忠勝の娘)を家康(秀忠の説も有り)の養女としてから娶らせます。この処遇を見ても家康の信頼は明らかで、信之は徳川親派となりました。 家康には関東・甲信州での大名間との結びつきを強くし秀吉に対抗しようという考えが有ったかとも考えられますが。

【伊勢・美濃での前哨戦】

三成は真田昌幸への書状の中で、尾張と三河国境付近で東軍を迎撃、背後より上杉・佐竹軍と挟撃することで勝利をする目算であると言っています。そのため早急に伊勢・美濃を平定して、岐阜城を西軍の拠点とし、尾張に侵攻する必要がありました。伊勢路を進む宇喜多秀家ら西軍の軍勢約3万は、筒井定次(順慶の従兄、養嗣子)の居城・伊賀上野城を開城させ(上野城の戦い)、その後富田信高、分部光嘉が籠る安濃津城(安濃津城の戦い)、古田重勝の松坂城などを攻略し8月までには陥落させています。

その後さらに北上を進め尾張攻略を目指し、桑名城の氏家行広・氏家行継兄弟を西軍に加担させるが、東軍先発部隊(福島正則・黒田長政・池田輝政・伊直政・本多忠勝)が清洲城に集結するとの報を得て、福島正頼・山岡景友の拠る長島城攻撃を諦め、三成の居る大垣城へと向かいます。この時点で三成の尾張・三河で東軍を迎撃する戦略は破綻し、木曽川で迎撃する方針へと修正せざるをえませんでした。

一方の背後を挟撃する予定の上杉景勝は、徳川軍を攻撃せずに軍勢を山形方面の最上義光領へと向けます。佐竹軍は、当主である佐竹義宣が主張した西軍への参加に、父・佐竹義重や弟、重臣一同らの反対により、義宣は意見を押し切ることができず、佐竹義久に少数の兵をつけて秀忠軍に派遣するなどの曖昧な態度に終わり、関東の徳川領に侵攻しませんでした。結局、佐竹義宣、上杉景勝が大坂へ向かう徳川軍を攻撃しなかったことは、三成にとって大きな誤算となりました。なお、鍋島勝茂は父・直茂の命により美濃・伊勢国境付近に留まり、大垣城に向かう宇喜多・毛利軍などから離脱、以降西軍の軍事行動には加わらず傍観しています。

【西軍の大垣城集結】

PA140402.jpg(天主は100円で登れますし、重要な資料がいっぱいです。)
PA140397.jpg(私はあさ7:00に伺ったのでもちろん開いてはおりませんでした。)
PA140411.jpg(静かなお城です。笑、朝だから!)

かくして、毛利 秀元・宇喜多秀家・石田三成等は「大垣城」に入城、個人の思惑はその通りには運ばず、運命の神が振る振り子の行方に任せれたのでした。
PA140410.jpg(こちらの角度が綺麗ですかね?)


【最後に・・・】

アクセス数が20000を越えました。本当にありがたい事です。自分の好きな事を勝手に書いて読んでいただけるなんて、なんて私は幸せな人間なのでしょう。少し三成君に分けてあげたいね~。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/11/12

そろそろ関ケ原へ突入するのか?前哨戦「伏見城の戦い」

今日は母校○○高校の同窓会神戸達徳会に参加してきました。○○高校と書いたのは、自分の出身高校を今から褒めるのがはずかしいからです。(笑)

母校は明治29年に尋常中学として開校された県下有数の伝統校で、兵庫北部を代表する進学校です。普通科の他に理数科があり、理科系大学への高い進学実績を出しています。自然科学系の教育が充実しており、文部科学省からSSHの指定を受けています。兵庫県下では姫路西高校に次いで、神戸高校と並ぶ2番目に古い高校です。初代校長・岡垣徹治は「和魂の精神」(旧制○○中の建学の精神)と「花橘の気品」(旧制○○高女の校風)を受け継ぎ本校の教育理念とし、開校から120年以上経った現在まで脈々と受け継がれています。

その神戸達徳会の末席(本当にこの年で末席、Oテーブル)後輩は2人だけ、(笑)旧制中学や旧制高女の大先輩が5名も来られる、170名の盛況で、先輩方の優しさに感激しながら、旧制中学や旧制高女、現高校の3校歌を高らかに歌って帰宅、今日中のブログUPは無理かもと思いながらPCに向かっている市郎右衛門です(神戸達徳会の事はすばらしいので、又の機会にお話いたします)。

PA280032.jpg(伏見城ではなく、伏見桃山城模擬天守です。笑)

さて本題、関ヶ原の戦いの前哨戦、伏見城の戦いが行われた伏見桃山城址をご紹介いたします。

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【御紹介するのは、伏見桃山城模擬天守】



PA280014.jpg(大手門でもありません。正門トホホ!)
PA280024.jpg(伏見城ではなく伏見桃山城。)
PA280022.jpg(子どもたちは見向きもせずにサッカーに興じてました。)

伏見桃山城運動公園には天守閣を有するお城がありますが、これは豊臣秀吉・徳川家康の「伏見城」とは全く別のものです(なんじゃと~~~~!)。
運動公園のお城は、昭和39年に開園した遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」の目玉施設として建築された模造天守((-"-;A ...アセアセ)。キャッスルランドは平成15年1月に閉園となり、その際、お城も取り壊される予定でしたが、存続を求める市民の皆様の要望により、伏見のシンボルとして運動公園に引き継がれ、現在では映画やドラマの撮影等にも活用されています(許してください)。場所は大丈夫なはずです?と言いますか、明治天皇陵(以前ご紹介しました)の場所が本来の伏見城跡に成ります。

関ケ原の後、慶長7(1602)年家康によって再建され、翌年家康は伏見城で征夷大将軍に就任しました。家康は将軍在任中のほとんどを伏見城で過ごし、伏見城は近畿地方における徳川政権の拠点となりました。

大坂の陣で豊臣氏が滅亡した後、一国一城令により京都に二条城と伏見城の2つの城を維持する名目がなくなり、元和9(1623)年の徳川家光の将軍宣下が行われたことを最後に、伏見城は廃城になりました。

廃城後,各地の寺社などに伏見城の遺構が移築されましたが、これらのほとんどは、豊臣秀吉時代の伏見城ではな、徳川家康時代の伏見城の遺構と考えられています。

取り壊された伏見城跡の一帯には、桃の木が植えられ、桃山という地名が生まれました。後年、明治天皇陵造営によって、本丸跡附近が陵地となり、現在往時をしのぶものは内堀の一部が紅雪池(こうせついけ)や治部池(じぶいけ)として残っているほかはほとんど見られません。

【石田三成佐和山城に蟄居する】

PA280049.jpg
(模擬大天守です。雨も降って女性が一人沖縄民謡?の練習されてました。)

伏見城の戦い(ふしみじょうのたたかい)は、1600年8月26日(慶長5年7月18日)から1600年9月8日(8月1日)まで行なわれた関ヶ原の戦いの前哨戦に成ります。

開戦の経緯ですが、慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が死去。秀吉から生前、嫡子・豊臣秀頼が成人するまでの間、政治を託された大老・徳川家康の台頭(そろりそろりと天下を狙い始めた兆候が有ります)が始まります。家康は諸大名の屋敷を頻繁に訪問始めます。この訪問は他の大老・奉行には無断で行われており、豊臣政権の法令の一つ「傍輩のうち、その徒党を立つべからず」に反するものでした。

また家康はこの時期、他の大老・奉行に無断で諸大名との縁組を行っています。これもまた、豊臣政権の法令の1つ「諸大名の無許可での縁組の禁止」に違反する行為であったため、慶長4年1月19日、豊臣氏から無断婚姻の問罪使として三中老(生駒親正・中村一氏・堀尾吉晴)らが派遣されました。家康は追及をかわし、2月2日に前田利家らと誓書を交わすことで和睦しています。

しかし閏3月3日、家康に次ぐ実力者の前田利家が死去すると。かねてから石田三成と対立関係にあった加藤清正・福島正則ら七将が、三成の大坂屋敷を襲撃します。三成は事前に襲撃を知り、佐竹義宣の助力を得て伏見城内の自邸に逃れます。家康邸に逃げ込んだとするドラマや小説が数多くあるようですが、根拠のない俗説のようです。その後、家康は仲裁に乗り出し、仲裁の結果、三成は五奉行から退隠、佐和山城に蟄居となりました。

【上杉景勝謀反の疑いと直江状】

家康の政治的影響力が強まる中、五大老の一人・上杉景勝は家臣の直江兼続に命じて神指城を築城させるなど軍事力の増強に乗り出します。この景勝の動向は、近隣の大名である最上義光や堀秀治らによって家康に報告されていました。慶長5年3月11日、家康と景勝の関係の修復に努めていた藤田信吉が上杉家から追放されます。4月1日、家康は景勝に対して伊奈昭綱、河村長門(増田長盛の家臣)の両名を問罪使として派遣します。このとき家康は西笑承兌に弾劾状をしたためさせています。その内容は景勝の軍事力増強を咎め、異心が無いのであれば誓書を差し出した上で上洛し、弁明すべきというものでした。

これに対して直江兼続はあの有名な直江状(あまりに出来すぎの感が否めず、後世に作りあがられたともいわれます)を家康に送っています。家康への挑戦状というのは江戸幕府成立後、徳川家と上杉家の対立構図を成立させて、会津征伐を正当化する目的で改変されたとも推定されます。事実『徳川実紀』には、直江状が傲慢無礼の極みであり、そのために家康が上杉の討伐に向かったと記載されているようです。

5月3日、直江状が家康の下に届けられ、家康は即刻、景勝の征伐を決意します。会津征伐の先鋒は福島正則、細川忠興、加藤嘉明が任じられました。伏見城の留守には家康の家臣・鳥居元忠が任じられています。

【会津征伐出立と伏見城攻略】

PA280055.jpg(模擬大天守ですが風情が有ります。写真がぼやけてるの雨です。)
PA280059.jpg(こちらは小天守閣、あめが~。)

慶長5年6月18日に家康は伏見を立ち東国へ向かいました。家康は前々夜伏見城に宿泊して鳥居元忠と酒を酌み交わし「我は手勢不足のため伏見に残す人数は三千ばかりにて汝には苦労をかける」と述べると「そうは思いませぬ。天下の無事のためならば自分と松平近正両人で事足ります。将来殿が天下を取るには一人でも多くの家臣が必要です。もし変事があって大坂方の大軍が包囲した時は城に火をかけ討死するほかないのですから、人数を多くこの城に残すことは無駄です。一人でも多くの家臣を城から連れて出てほしい」と答えました。家康はその言葉に喜び、深夜まで酒を酌んで別れたと伝わっています。

一方大坂城にいた前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行は7月17日、家康が大坂城西の丸に残していた留守居役を追放して、家康に対する13か条の弾劾状を発布します。これに先立つ7月15日の時点で家康の家臣鳥居元忠らが在城する伏見城はすでに籠城を開始しており、反家康の立場を明らかにした西軍はこれに対する攻撃を準備します。 守る城側の兵力は城兵1800人に大坂城西の丸から移動してきた500人を加えた計2300人でした。

【伏見城の健闘の影響】

PA280039.jpg(ススキ原も入れると中々いいですよね。)

本格的な戦闘は19日から開始され、当初は籠城側が打って出て前田玄以、長束正家らの屋敷を焼き払うなどしますが、以降は攻め手が昼夜問わず大小の鉄砲を打ちかけ、さらに22日には宇喜多秀家勢が加勢するなどして圧力を強めます。攻め手は築山(小山)を築いてそこに大筒・石火矢を設置したり、堀を埋めるなどするが十分に防御された城は容易に落ちませんでした。 しかし孤立した城は8月1日昼ごろついに落城します。鳥居元忠は鉄砲頭鈴木孫三郎に討ち取られ、他に内藤家長父子・松平家忠以下800人が討ち死にしました。この戦いは、9月15日に行なわれることになる関ヶ原本戦の前哨戦にあたりますが、伏見城に10日以上もの時間をかけたため、美濃・伊勢方面に対するその後の西軍の展開が大きく遅れる要因となりました。

【最後に関ケ原で後の時代に影響を与える二人の武将について!】

PA280066.jpg
(裏側に廻ると?)
PA280064.jpg
(倒れたままの、昭和7年軍部駐屯地の碑、立てられない者でしょうかね?)

当初鬼島津こと「島津義弘」と金吾中納言「小早川秀秋」は当初、東軍に味方するつもりであっため、伏見城城側に入城の意思を示しましたが拒否され、やむなく西軍に属して城攻めに加わったとする説があります。しかし前者は「島津家譜」、後者は「寛政重修諸家譜」等といずれも江戸時代成立の二次史料の記述を典拠としており、史実である確証は有りません。

後に二人のキーマンの活躍が関ケ原の闘いの大きな1ページを飾る事は後のお楽しみです。

母校の歴史も120年を越えました。素晴らしいい先輩方を数多く輩出しています。私たちよりもう少し若い後輩たちに、○○高校でも当然わかるはず。来年は多くの後輩が同窓会に訪れて、私たちが末席から一つ上がれるようにお願します。母校の歴史は今後の皆さんの活躍にかかっているのですから。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/11/10

「おんな城主 直虎」も後一月、ここらで御紹介しとかないと乗り遅れるぜ『龍潭寺』

出雲神代巡りも少しお腹いっぱいになった方もおられると思いますので今日は、戦国時代「大河ドラマの世界」でお口直しをしていただきます。
本日ご紹介いたしますのは、大河ドラマ『おんな城主 直虎』 で井伊家の菩提寺である「龍潭寺」なのですが、なんとこの「龍潭寺」実は二つあります。


一つはもちろんドラマの中で小林薫さんが演じる、「南渓瑞聞禅師(なんけい ずいもん)」が二世住職を務めた、臨済宗龍潭寺で現在も静岡県浜松市北区引佐町井伊谷に存在します。

p159876549.jpg
(彦根で大河ドラマ祭りに来られた、昊天・小松和重さんとおとわ・新井美羽ちゃん可愛いですね~。NHKさんから拝借!)

今日ご紹介するのは、俳優「小松和重」さんが演じる南渓和尚の弟子「昊天宗建禅師(こうてん)」が井伊直政の関ケ原の活躍において佐和山城主に成ったのを機に、井伊谷から佐和山麓に移建開山した、井伊家と深いゆかりを持つ臨済宗妙心寺派の名刹です。

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【龍潭寺ってどんなお寺?】

PA151231.jpg(弘徳山龍潭寺入り口です。)
PA151258.jpg(山門は裏へ通じて佐和山城址登り口に成っています。)

龍潭寺(りょうたんじ)は、733年(天平5年)遠江国引佐郡(現在の静岡県浜松市北区引佐町)に行基(仏教の布教により、東大寺の大仏を造ったのが行基です)によって開かれたと伝えられます。平安時代中期一条天皇のころに、井伊共保がここで葬られたことから、井伊氏の菩提寺となりました。禅宗寺院となったのは、室町時代末期井伊直平の代のようです。 風光明媚な奥浜名湖その北に位置し、豊かな自然、緑と花に抱かれた町、浜松市井伊谷、そこに萬松山龍潭寺は有ります。

共保公とは、平安時代から戦国時代までの六百年にわたり当地方を治めた名門井伊氏の元祖です。井伊氏は保元の乱で源義朝に、鎌倉時代には源頼朝に仕え、南北朝時代では後醍醐天皇皇子、宗良親王を迎え北朝と戦い武勲をなしています。

うんちく「保元の乱(ほうげんのらん)」は、平安時代末期の保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変の事です。武家が力をつけて政治に介入するきっかけを作った乱です。

室町時代、今川氏に仕え「桶狭間の戦い」で戦死した井伊家22代直盛(ドラマでは杉本哲太さんが直虎の父直盛を演じていました)の戒名をとり龍潭寺と寺号を変えています。

【今日ご紹介するのは弘徳山龍潭寺】

PA151265.jpg(方丈入り口です。清々しですね。)
PA151559.jpg(昊天宗建禅師お手植えの松だそうです)

それが、1600年(慶長5年)に井伊氏が近江国佐和山に転封となり、龍潭寺の五世昊天禅師を招いて遠江国から分寺し、この地に建立したのがこの寺です。方丈南庭と書院東庭は、開山・昊天禅師の作庭による枯山水と池泉式庭園となっています。

PA151557.jpg
(枯山水「ふだらくの庭」真ん中の石が観音立像、大海を渡って補陀落へ向かう船「右石」を表しています。)
PA151606.jpg(書院東庭、借景式「蓬莱池泉式庭園」です。)

後背の佐和山には佐和山城跡があり、龍潭寺が全山を所有し無料での入山を許可しています(もちろん登って来ましたがご報告は又近いうちにいたします)。

昊天禅師は龍潭寺二世住職南渓瑞聞の弟子であり、井伊直虎の死後、井伊直政が小牧・長久手の戦いで先鋒として出陣する際に、南渓瑞聞から傑山宗俊(ドラマでは市原隼人さんが演じれています)とともに遣わされた。昊天は長刀の優れた人物であり、長久手にて池田恒興と森長可の両隊を討つことにより、直政は名をあげ後に徳川四天王筆頭に成っています。

1600年頃、龍潭寺四世・「悦岫永怡」より「昊天」の号を授かっています。直政の死後、遺命により佐和山に豪徳庵を建てています。1611年には、臨済宗本山妙心寺の九十七世住職と成りました。1615年、彦根に弘徳山龍潭寺を創建し、開山として迎えられる。その後、井伊谷龍潭寺五世となっています。

【なんだかおかしいい?】

大河ドラマでは「昊天」が兄弟子と「傑山」が弟弟子のような設定だと思いますが。井伊直虎(不詳~1582)・井伊直政(1561~1602)・龍潭寺一世 黙宗瑞淵(1463~1554)・龍潭寺二世 南渓瑞聞(不詳~1589)・龍潭寺三世 傑山宗俊(不詳~1592)・龍潭寺五世 昊天宗建(不詳~1644)遷化(死亡年)した年から考えると、昊天(小松和重さん)が傑山(市原隼人さん)よりも年上だとは思ませんね、昊天禅師が亡くなるのは50年も後になります。

傑山(市原隼人さん)は南渓(小林薫さんと)ほぼ同じ年代で、昊天(小松和重さん)は直虎(柴咲コウ)さんの孫位の年齢に成ります。(笑)

【いつもの最後に】

PA151528.jpg
(森川許六筆、牡丹図・獅子図「獅子の間」)
PA151542.jpg
(同じく森川許六筆の松竹梅鶴図「鶴の間」おめでたいですね。)

龍潭寺は元和三年(1617)諸堂が完成した後は、近江随一の禅刹となり、近郊に十余の末寺を有する巨刹となります。更には全国有数の禅宗大学寮として発展し、特に「園頭科」は日本の造園専門学の発祥とされ、当寺で学んだ僧たちが全国の禅寺の庭園を手掛けたことは広く知られています。
また元禄年間からは達磨様にあやかる「だるま寺」として人々の信仰を集め、四季折々に美しい花の寺としても親しまれています。
大河ドラマでも描かれる、龍潭寺の僧たちが井伊家の舞台骨を支えたからこそ、井伊家の発展が有った事を忘れてはいけません。

PA151566.jpg
(禅宗といえば達磨大師!インパクト強すぎる。)

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リュミエールブラン ネージュ

2017/11/08

驚愕のパワースポット!祠はおろか鳥居すらない?『立石神社』

古代の祈りは究極のパワースポットなのか?観光客は勿論、多分一部のマニアだけが訪れていると思われる。『立石(たていわ)神社』をご紹介します。

あれ俺ってマニアだったのか~?、ただの歴史好きだったはずなのに、このまま行くと歴史ブログの枠から外れて行きそうで怖くなって来ました。(笑)

PB020351.jpg(先に大きさイメージしてもらわないと、フレームに入らないので、笑)

島根半島の中央部、出雲市小伊津町という山陰の岸壁に張り付いた町のすぐ近くです、日本海の荒波を背に受けて、お詣りしてきました。

阿遅須枳高日子(アヂスキタカヒコネ・出雲国風土記表記)の息子である『多伎都比古』を祀る神社です。

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CIMG2254.jpg(失礼ですが、山肌にへばりつくような小伊津町、山陰の厳しい自然を感じさせます。)
CIMG2251.jpg(これが立石神社でもいいんじゃないか?)


PB020314.jpg(今日は下り~笑楽勝~?帰りは登りやんか~(;^_^A アセアセ・・・)


【まず、アヂスキタカヒコネて誰?】

アヂスキタカヒコネ(アヂシキタカヒコネとも)は、日本神話に登場する神で、『立石神社』に祀られる『多伎都比古』の父親に成ります。 『古事記』では阿遅鉏高日子根神、阿遅志貴高日子根神、阿治志貴高日子根神、『出雲国風土記』では阿遅須枳高日子と表記されています。また、阿遅鋤高日子根神、味耜高彦根命とも表記されることもあるようです。別名もあり「迦毛大御神(かものおおみかみ)」といわれます。

ビックネーム、「大国主神」と宗像三女神(誓約によって生まれた須佐之男の娘)「多紀理毘売命(古事記)」(宗像大社では「田心姫神」)として、沖ノ島にある沖津宮に祀られている今注目の女神を両親に持ちます。同母の妹に高比売命(シタテルヒメ)がいます。

農業の神、雷の神、不動産業の神として信仰されており、別名は賀茂社の神の意味である。阿遅須枳高日子神は大和国葛城の賀茂社の鴨氏が祭っていた大和の神ですが、鴨氏は出雲から大和に移住したとする説もあるようです。『古事記』で最初から「大御神」と呼ばれているのは、天照大御神と迦毛大御神だけなんです(これはすごいお宝見つけちゃったぞ~笑)。

【息子・多伎都比古】

『出雲国風土記』楯縫郡の項に、「阿遅須枳高日子根」の后・「天御梶日女命」が、多具の村に行かれて、 「多伎都比古命」を出産されます。その時、胎児の御子にかけた言葉は、 「おまえの御父上のように元気に泣きなさい。いままさに産もうと思うが、ここがちょうどよいのです(父神のおられる方向に向かった位置で産みたいと思っていたが、まさにその方向でちょうと良い)。」と言われたと記載されています。

名前に付けられた多伎は、お生まれになった土地・多具(もしくは多久)のことと思われますが、今回訪れた「多伎都比古命」の御霊代である石神「立石神社」は、日照り続きで雨乞いをした時は、かならず雨を降らせられたと伝えられ、 瀧(古代もたきが現在言葉に直結するとは思いませんが)に通じる言葉なのかもしれません。

「多伎都比古命(タキツヒコ)」という名前の神様は、『古事記』や『日本書紀』には見ることが出来ず、『出雲国風土記』の中でしか登場しない出雲在地の神ですが、日照りに必ず雨をもたらす神とすると、農耕にも関与した水神様かもしれませんね。

【立石神社の場所と立地】

PB020307.jpg(説明版は道路の上です)
PB020348.jpg
(下り道は楽勝!あっでも気を抜いてはいけませんよ。)
PB020319.jpg(鳥居代わりの注連縄を取りぬければそこはもう聖域です。)

『立石神社』島根県出雲市坂浦町立石の住所に立地しています。立地といっても社が有るわけではありません。出雲国風土記には約400の神社が記載されていますが、これは大和・伊勢に次ぐ数の多さだそうです。しかしその大半は岩に注連縄(しめなわ)を飾っただけのものだったようです。

現代までに、地元住民の手により、ほとんどの神社に社や祠が作られましたが、この「立石神社」は出雲風土記の時代そのままの姿で1300年間に至って変わらない数少ない神社の一つです。それほどに「立石神社」では古代神信仰が厚かったと考えて良いのではないでしょうか。

「雲陽誌」には「山の神」として3つの岩からなり、地元の人は立岩さんといって祀る神社があると書かれています。「立石神社」のことで、ちなみに神社の名は「たていわ」、地区名は「たていし」です。

PB020336.jpg(大きいですね~!空気が違います。)
PB020337.jpg(真ん中が祈りの場所です。)
PB020327.jpg(もちろん素敵な旅の出会いを、お祈りしてきました。)

看板から私にとっては珍しく下り道を歩いてゆくと、山中に最大高さ12m、最大幅26mなどの巨石が3つあります、一つの岩が自然に割れたものだそうです。

本殿も鳥居も無く、木と木の間に注連縄が渡してあり、そこが鳥居の代わりのように仕立てられています。祈りの場所は大岩の割れ目前に4本の細竹榊を立てた神域があるだけです。御神体である高さ十数メートルの巨石と私ひとり、人の手による構築物は何もないのですが、霊気漂う古代神道の場を彷彿とさせる貴重な場所です。

地区にある2軒の家が脈々と氏子として面倒を見てきたようです、驚くことに年に1回のお祭りも絶やさずに続けられています。

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(何処をとってもフレームから漏れてしまいます。)
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(満足しました~。)

1300年に渡り時間が止まったままのパワースポットの空気を体験されてみてはいかがでしょうか。

立岩神社から松江へ向かう途中、分かれ道の貯水タンクのところに老母石(おぼいし)神社という立看板があり、そこに地面に埋まったような石がありました。多伎都比古命の連れて来た姥(うば)を祀ったものと言われているそうです。この老母石の近くの石段の上に柵で囲まれた石は客神社です。石神が密集していてどう見ても間違えそうです。

PB020358.jpg(こちらだと思いますよね~。)
PB020364.jpg(お隣にあるこちらが老母石(おぼいし)神社だそうです。)

【最後に歴史は語る】

『出雲国風土記』に、彼の母親「天御梶日女命」がこの神社の近くの多久村で彼を生んだと書かれています。「多伎都比古命」という名前の神様は、『古事記』や『日本書紀』には見ることが出来ません。明治の初めに地域全体の神社が須佐之男を祀る鞆崎(ともさき)神社にまとめられ、「立石神社」は廃社されました。しかし昭和十年代、地元民の熱意により立石を含む庄部地区全体の祭祀の場として復活させたそうです。

ちなみに「多伎津比古命」はビッグネーム「大国主命」の孫で、この地で生まれ近くに産湯をつかった滝壺等があるとされ、更に幼い頃を過ごしたと云われているにも関わらず、今ではその滝壺の位置がどこなのか地元の人にもわからないそうです。

歴史を護り伝えることは、自国の心を伝える作業です。どんなに小さな祠や注連縄の木にも謂れが有るのです。それらの遺物に少しだけ心を残して古老の話に耳を傾けようではありませんか。

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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