2017/10/31

「本能寺」で『本能寺の変』の真相を推理してみた!

昨日UPの予定でしたけど、一日ずらして今日に成りました。出雲に取材旅行に行く予定で、明日の夜は車の中でUP出来そうにありません。一日ずらした言い訳ですけどね~(笑)。

有名な『愛宕百韻(あたごひゃくいん)』は、「本能寺の変」の直前に愛宕山で明智光秀が催した連歌会で、「明智光秀張行百韻」「天正十年愛宕百韻」ともいわれています。

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(信長公の墓所・織田信孝が信長の愛刀を埋めて作ったといわれています。場所が違うので今は無いかもですね。)


天正10年(1582年)5月24日(本能寺の変の9日前)当日、『愛宕百韻』の発句は光秀の「ときは今 あめが下しる 五月かな(有名ですね!)」で始まります。脇は行祐の「水上まさる 庭の夏山」、第三は里村紹巴の「花落つる 池の流を せきとめて」でした。発句は、明智の姓の「土岐・とき(土岐氏は摂津源氏の流れを酌む名門で、美濃守護としても有名ですね。)」をかけて、「雨が下」には「天が下」をかけて、主人織田信長の殺害という宿願の祈請のものであるといわれ、紹巴はこのために後日、責問を受けたといわれます。

もし信長に対して謀反の気持ちが有ったとしても、皆の前で詠む(この場合は、ほのめかすかな)でしょうか?私は光秀程の人物がそんな事をするはずがないと思います。織田軍最大の勢力を誇り、中心畿内を手中に収め、各方面で戦う司令官の遊撃隊を担っている明智光秀程の男が、主人殺害を簡単に洩らすはずが無いと思いませんか?それならば、この『愛宕百韻』の後に起こった何かが謀反を決意させたことに成ります。それは何だったのか推理してみましょう。

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PA280121.jpg(本能寺本堂)
PA280125.jpg(本堂は出入り自由ですが撮影は禁止!日蓮上人お帽子かぶっておられました。お帽子ちょっと大事なんです。)
PA280120.jpg(宝物殿、事前に僧侶・子者・女性は逃がされたそうです。お宝抱えてね、笑)

【「愛宕百韻」と「連歌」とは?】

「愛宕百韻」とは、天正10年(1582年)5月24日(本能寺の変の9日前)、光秀が山城国愛宕山五坊の一つ威徳院で、明智光慶(光秀の息子)、東行澄、里村紹巴、里村昌叱、猪苗代兼如、里村心前、宥源、威徳院行祐と巻いた(百韻を一巻を収める)百韻の事です。

『連歌』は五七五に七七を付けて完結する俳句のみではなく、七七にさらに五七五、七七、五七五……と次々に句を付けて展開し、おおよそ百句をもって一作品とすることが一般的となっています。このような長大な形式の連歌を「長連歌」(初期には「鎖連歌」とも)と呼び、長連歌のもっとも基本的な形式は上記のように百句を一作品とするもので、これを「百韻」と呼びます。

「愛宕百韻」では、この寺の院主・行祐が亭主、明智光秀が主客の立場で、当時の連歌界の第一人者であった紹巴が宗匠(評価して、優劣を判定する師匠役)を務めています。他には、紹巴の門下で既に名の高かった連歌師、昌叱、心前、兼如が加わり、愛宕山の僧や、光秀の家臣も参加していました。

発句は、世によく知られている、「時は今天が下しる五月かな」です。表面上句の内容は、今は正しくこの世は五月そのものであるとなります。「しる」は治めるの意味で、字句どおりに読めば、天下を治めている五月である、この世界を五月という時節にした、ということに成ります。この連歌は戦勝祈願の会でもあったので、その意も込められていなければ意味がありません。「天が下しる五月」は天下を治めることになる五月、と読めます。これで内容上もますます発句にふさわしく成っています。

句の解釈は単純ともいえますが、このような作品を詠んだ事情ということになると、誰が天下を治めることになるのか、などの問題の考察に踏み込んでいかなければならなくなります。巷間では、「本能寺の変」と絡めて、光秀自身が天下を治めることになる、と推測されることが多いですね、そうなると話としては面白くなっていきます。前出のように「時」には光秀の氏であった「土岐」が掛けられているともされています。このような真意があったのかどうかは謎ですが、当時、織田信長は天下統一の最後の段階として中国地方制覇の途上にありました。光秀の出陣も、最前線にいた羽柴(豊臣)秀吉援助のためで、信長が京都の本能寺に入ったのもそれに関わった事情です。常識的にみて、天下を治めるのは信長、もしくはその陣営ということで、この発句は信長を言葉で祝ったものでしょう。

連歌師が多くの武将と密接な関係を持ったことは確かですが、連歌師はでき得る限り政治的な偏りを持たないように心していたのは当然ですし、だからこそ、戦乱の中を比較的自由に動けたともいえます。武将の方もそれは十分に承知していましたし、どちらに付くか分からない多くの連歌師を前に光秀が危険な真意を吐露したとは考えにくいと思えます。

【リアル本能寺】

PA280135.jpg(現在の寺院には、恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、龍雲院の7院の塔頭があります。)
PA280129.jpg(「一つ結び雁金紋」は、本能寺開基・日隆聖人の実家、越中国射水の桃井氏の家紋です。現在の140世 日英貫首も、苗字は「桃井」です。見えます手水と提灯!)


羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられて6月2日(6月21日)早朝に出陣しますが、その途上の亀山城内か柴野付近の陣で光秀は重臣達に信長討伐の意を告げたといわれています。軍勢には「森蘭丸から使いがあり、信長が明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ」として京都へ向かいます。

『本城惣右衛門覚書』によれば、雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされておらず、本城惣右衛門も信長の命令で徳川家康を討つのだと思っていたと記載しています。光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して包囲しました。光秀軍13,000人に対し、近習の100人足らずに守られていた信長は奮戦しましたが、やがて寺に火を放ち自害します。
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(天文5年(1536年)天文法華の乱にて延暦寺・僧兵により旧本能寺焼失します。とにかくよく焼ける寺です~!)
PA280158.jpg(天文16年から17年(1537-1538年)ごろに寺が帰洛し、日承上人(伏見宮第5代邦高親王の子)が入寺して本能寺8世となります。)

【「本能寺の変」の原因】

近年になって、新しい資料も出てきて余計に原因が複雑になってきました。これまでに言われてきた幾つかの説から、「本能寺の変」の原因となるのではないかと思える説を簡潔に説明したいと思います。

『怨恨説』

「本能寺の変」の原因のトップに上げられます。主君の信長は短気かつ苛烈な性格であったため、光秀は常々非情な仕打ちを受けていたという説です。以下はその代表例とされるものの一部です。 信長に七盃入りの大きい盃に入った酒を強要され、下戸の光秀が「思いも寄らず」と辞退すると、信長に「此の白刃を呑むべきか、酒を飲むべきか」と脇差を口元に突き付けられ酒を飲まされた(『常山紀談』)。

同じく酒席で光秀が目立たぬように中座しかけたところ、「このキンカ頭(禿頭の意)」と満座の中で信長に怒鳴りつけられ、頭を打たれた(キンカ頭とは、「光秀」の「光」の下の部分と「秀」の上の部分を合わせると「禿」となることからの信長なりの洒落という説もあります)。

天正10年(1582年)、信長は武田家を滅ぼした徳川家康の功を労うため、安土城において家康を饗応します。この時の本膳料理の献立は「天正十年安土御献立」として『続群書類従』に収録されています。光秀は家康の接待を任され、献立から考えて苦労して用意した料理を「腐っている」と信長に因縁をつけられて饗応役の任を解かれ、すぐさま秀吉の援軍に行けと命じられてしまいます。

この時の解釈にも諸説あり、安土大饗応の時、信長は光秀に対して徳川家康を討てと命じたが光秀がそれを拒否した為に接待役を免ぜられたという説、「魚(肴)が腐っている」というのは毒を入れろと言ったのになぜ入れなかったのかという信長の怒りに触れた説、信長自らがわざわざ鷹狩の途中に立寄って材料の魚鳥を吟味したが、肉が腐っていると草履で踏み散らし、光秀が新たに用意していたところ「備中へ出陣せよ」と下知されたが、忍びかねて叛いたとしています(『常山紀談』)。

中国二国(出雲国・石見国)は攻め取った分だけそのまま光秀の領地にしてもいいが、その時は滋賀郡(近江坂本)・丹波国は召し上げにする、と伝えられました。(明智軍記)

甲州征伐の際に、信濃の反武田派の豪族が織田軍の元に集結するさまを見て「我々も骨を折った甲斐があった」と光秀が言った所、「お前ごときが何をしたのだ」と信長が激怒し、小姓の森成利(森蘭丸)に鉄扇で叩かせ恥をかかされます(明智軍記)。

フロイスは、「人々が語るところによれば密室で信長が口論の末光秀を1、2度足蹴にした」と記しています(『フロイス日本史』)。これらの史実を元に、面目を失ったための怨恨説が成り立っています。

『野望説』

光秀自身が天下統一を狙っていたという説。この説に対しては「知将とされる光秀が、このような謀反で天下を取れると思うはずがない」という意見や、「相手の100倍以上の兵で奇襲できることは、信長を殺すのにこれ以上ないと言える程の機会だった」という意見に分かれているようです。

『恐怖心説・幕府再興説』

長年信長に仕えていた佐久間信盛、林秀貞達が追放され、成果を挙げなければ自分もいずれは追放されるのではないかという不安から信長を倒したという説です。これは怨恨説など諸説の背景としても用いられています。今までにない新しい政治・軍事政策を行う規格外な信長の改革に対し、光秀が旧態依然とした統治を重んじる考えであったという説です。

理想相違説とも言われます、信長が伝統的な権威や秩序を否定し、犠牲もいとわない手法(一向宗勢力、伊賀の虐殺等)で天下の統一事業を目指したと歴史解釈した上で、光秀は衰えた室町幕府を再興し、混乱や犠牲を避けながら安定した世の中に戻そうとした、と考えたところから発生した説です。この説は、光秀は信長の命とともにその将来構想(独裁者の暴走)をも永遠に断ち切ったと主張されます。

そして光秀も自らの手でその理想を実現することは叶わなかったが、後の江戸幕府による封建秩序に貫かれた安定した社会は270年の長きに渡って続き、光秀が室町幕府再興を通じて思い描いた理想は、江戸幕府によって実現されたと考える事も出来ます。

なお、光秀は自身も教養人であったが、近畿地区を統括していた関係上、寄騎大名にも名門、旧勢力出身者が多食いました。特に両翼として同調が期待されていた細川氏(管領家の分流)、筒井氏(興福寺衆徒の大名化)は典型であり、こうした状況もこの説の背景となっています。

この説には、信長が平氏の出身で源氏が天下を治めるべきとも付説も加味されるようです(源氏の光秀、更には次の将軍復帰説にもつながります)。

『将軍指令説 』

足利将軍指令説 、室町幕府再興説光秀には足利義昭と信長の連絡役として信長の家臣となった経歴があるため、恩義も関係も深い義昭からの誘いを断りきれなかったのではないかとする説です。光秀が義昭を奉じるのは大義名分がありますが、直接の指令があったのかどうかも含めて、義昭の積極的関与を示すような証拠は依然として存在していません。

紀州の武将・土橋重治に充てた光秀直筆の書状から、光秀が「本能寺の変」の後に義昭を京に迎え入れ、室町幕府を再興するという明確な構想があったことが分かります。書状は天正10(1582)年6月2日の本能寺の変から10日後の12日付で、返信とみられます。「上意(将軍)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。しかしながら(将軍の)ご入洛(にゅうらく)の件につきましては既に承諾しています」とあります。

京を追放された義昭は当時、中国地方を支配する毛利輝元(てるもと)の勢力下にある鞆(とも)の浦(広島県福山市)にいました。義昭が京に戻る際は協力することになっていると重治から示され、光秀自身も義昭と既に協力を約束していることを伝える内容という。

書状の手書きの写しは東京大史料編纂(へんさん)所に残っています。原本は縦11.4㎝、横56.8㎝で、細かな折り目がついているそうです。畳んで書状を入れる包み紙も一緒にあったことから、使者が極秘に運んだ密書とみられます。

光秀は京に上る前の信長と義昭を取り持ち当初は双方の家臣だったとされました。義昭との関係を復活させた光秀が、まず信長を倒し、長宗我部や毛利ら反信長勢力に奉じられた義昭の帰洛を待って幕府を再興させる政権構想を持っていたと考える研究者もおられるようです。前出の理想相違説に通じる部分もあります。

『朝廷説(私はこれを推薦したいです)』

「信長には内裏に取って代わる意思がある」と考えた朝廷から命ぜられ、光秀が謀反を考えたのではないかとする説です。この説の前提として、天正10年(1582年)頃に信長は正親町天皇譲位などの強引な朝廷工作を行い始めており、また近年発見された安土城本丸御殿の遺構(見て来ましたから)から、安土城本丸は内裏清涼殿の構造をなぞって作られたという意見を掲げる識者もおられるようです。

近年には「天正十年夏記」等をもとに、朝廷すなわち誠仁親王と近衛前久が「本能寺の変」の中心人物であったと各種論文で指摘されています。この「朝廷黒幕説」とも呼べる説の主要な論拠となった「天正十年夏記」(『晴豊記』)は、誠仁親王の義弟で武家伝奏(朝廷と武家との連絡役)の勧修寺晴豊の日記の一部であり、史料としての信頼性は高いと思います。

正親町天皇が信長と相互依存関係を築くことにより、窮乏していた財政事情を回復させたのは事実ですが、信長と朝廷の間柄が良好であったという解釈は成り立ちません。三職推任問題(「太政大臣」「関白」「征夷大将軍」どれでもいいよの凄い選択肢!)等を考慮すると、朝廷が信長の一連の行動に危機感を持っていたことになります。

朝廷または公家関与説は、足利義昭謀略説、「愛宕百韻」の連歌師・里村紹巴との共同謀議説と揃って論証されることが多く、それだけに当時の歴史的資料も根拠として出されています。ただし、この説では「首謀者」であるはずの誠仁親王が変後に切腹を覚悟するところまで追い詰められながら命からがら逃げ延びていること、『晴豊記』の近衛前久が光秀の謀反に関わっていたという噂を「ひきよ」とする記述の解釈などの問題も有ります(「非挙(よくない企て)」と解釈される一方で、これは「非拠(でたらめ)」と解釈されるべきであるとの指摘もあります)。

一時期は最も有力な説として注目されていたが、現在この説を唱える研究者はいません。現在の歴史学界では義昭黒幕説とともに史料の曲解であるとの見解が主流となっていますが、僭越ながら私は、朝廷あるいは公家が光秀謀叛に大きく関与していたのではないかと推測しています。(笑)

『四国説』

昨年新しい文章が発見されて、四国説に俄然注目が当たりました。信長は光秀に四国の長宗我部氏の懐柔を命じていました。光秀は斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結ぶところまでこぎ付けますが、天正8年(1580年)に入ると織田信長は秀吉と結んだ三好康長との関係を重視し、武力による四国平定に方針を変更したため光秀の面目は丸つぶれになってしまいます。

光秀と懇意でありながら、信長と敵対関係になった四国の戦国大名、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の窮地を救うために起こしたとする説です。大坂に四国討伐軍が集結する直前を見計らって光秀(正確には利三)が本能寺を襲撃しています。

2014年に岡山県で見つかった石谷(いしがい)家文書には、6月2日の「本能寺の変」の約5カ月前にあたる1月11日付書状で、斎藤利三が長宗我部元親に「要求に従うのが長宗我部家のためになるし、光秀も努力している」と助言しています。

これに対し元親は5月21日付で「阿波国中心部の諸城からは退いたことを信長殿に伝えてほしい」と返答。信長の命に従うことで激突を避けようとしていたことが証明されています。

『諸将黒幕説(いかにも有りそう)』

織田家を取り巻く諸将が黒幕という説です。徳川家康や豊臣秀吉が主に上がります。 徳川家康黒幕説家康の場合、信長の命により、長男・信康と正室・築山殿を自害させられたことが恨みの原因の一つに挙げられました。ただし近年では、2人の殺害は信長の命ではなく、家康と信康の対立が原因とする説も出されています。

家康は後に、明智光秀の従弟(父の妹の子)斎藤利三の正室の子である福(春日局)を徳川家光の乳母として特段に推挙しています(実際に福を推挙したのは京都所司代の板倉勝重)。

どこかで書きましたが、神君伊賀越えが胡散臭いんです。窮地に陥った家康の元に200人の手勢を連れた服部半蔵が急に現れます。そんなに用意周到にできるのかな?堺~岡崎の間は新名神高速でも218キロ数日で帰れますか~(笑)。秀吉の中国大返より速いスピードじゃないかな。

豊臣秀吉黒幕説の場合は、佐久間信盛や林秀貞達が追放され、将来に不安を持ったという説があります(中国大返しの手際が良過ぎることも彼への疑惑の根拠となっています。絶対無理やん!)。光秀の謀反を知ってないと山崎の戦いに間に合ったとお燃えません。

【「本能寺の変」は何故解明できないの】

1.事件を起こした動機には触れても、黒幕とされる人物や集団が、どのようにして光秀と接触したかの説明が出来ない。
2.実行時期の見通しと、機密漏洩防止策への説明が無い。
3.光秀が謀反に同意しても、重臣たちへの説得をどうしたのかの説明が不明です。
4.黒幕たちが、事件の前も後も、光秀の謀反を具体的に支援してない事が不思議、自分の部下以外ほとんど味方がいません。
5.決定的なことは、裏付け史料がまったくないことです、近衛前久の文章でも出てきたら決定的なのですけどね。
 
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(信長の墓所説明版)
PA280131.jpg(最後も信長の墓所、安土城にもありましたね。今の場所に移動させてのは、黒幕候補秀吉です。)

【最後に】

PA280177.jpg(禁門の変(蛤御門の変)に伴い発生したどんどん焼けにより堂宇を焼失ました。)
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(そのとき長州藩の目印になったこの、イチョウが水を吹いて人々を救った伝説が有ります。)

やっぱり歴史はミステリアス (mysterious) 、英語で神秘的、不可思議な様を表すのだそうですよ~。そんな女性が居たらくらくらですよね、私が歴史にはまり込む理由がお解りいただけましたでしょうか。(爆)

皆さんはどの説を採用なさいますか?

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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リュミエールブラン ネージュ

2017/10/28

「旧本能寺跡」と現「本能寺」!「本能寺の変」の影の役者は誰だ?

今日は台風に秋雨前線が台風に持ち上げられて、ぐずついた天気に成りました。明日はもっと影響が出ると覚悟して、京都に取材に出かけました。目的の一つは旧本能寺史跡です。現在の本能寺は以前も伺っていたのですが、やはり実際に「本能寺の変」の舞台となった場所は気になりますよね。

信長は、1568(永禄11)年に足利義昭を奉じて上洛を果たしましたが、京都には居館を構えず、妙覚寺や本能寺を宿所としていたといわれています。

PA280085.jpg(旧本能寺南西角にあたると思います。)

いろいろ廻ってへとへとになりましたが、気力を振り絞って京都御苑へ行ってみました。いつもの駐車場の入り口が入車禁止になってました。引き返すとなんと蛤御門が駐車場の入り口に成ってます。「蛤御門の変の」取材に来たのでその門から入れるなんて、運がいいなと思いきや、何やら御所の門が空いているではありませんか、知らなかったのですが、(本当に歴史ブロガーかい)

2016(平成28年)7月26日から通年公開されているらしいです。是非皆さんも日程時間の変更がありますので、webでご確認の上拝観してください、素晴しいですよ~(美)

そんなんことはつゆ知らない私、「こ、これは拝観せねば~」と入所させていただいたホルダーナンバーが39番(サンキュー!)なんて出来すぎじゃないですか(笑)、雨で拝観者も少なく、御所の庭園をのんびり散策~日本人の心の豊かさを改めて感じ、癒された一日を過ごしました。

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【旧本能寺はどこにあった?】

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(一本の道標、旧本能寺南にあたります。)
PA280092.jpg(この蛸薬師通が南端部分だと思います。)

本能寺跡の所在については、元本能寺町や本能寺町の町名などから旧京都市立本能小学校付近と推定されていました。しかし、1992(平成4)年に小学校の廃校後に行われた発掘調査により、織田信長の定宿だった当時の遺構が発見されて話題を呼びました。現在では石柱が建立されているのが南側の端で、南は蛸薬師通、北は三条通、東は西洞院通、西は油小路に囲まれた区域とする説が有力視されているようです。上記の通りを囲む地域が本能寺の敷地だと考えると、寺の大きさも東西約100m、南北約200mの規模を有していたものと考えられています。

旧地の元本能寺南町には京都市立本能小学校がありましたが、平成4年(1992年)廃校となり、その際に発掘調査が行われました。現在は京都市立堀川高等学校本能学舎と高齢者福祉施設本能(京都市が設置し指定管理者が運営)、カフェ「信長茶寮」となっています。平成19年(2007年)マンション建設に伴う遺構調査では、本能寺の変において焼けたと思われる瓦や、「能」の旁が「去」となる異体字がデザインされた丸瓦が、堀跡の屁泥の中から見つかっています。

PA280088.jpg(廃校になった小学校を表す記念碑、ここで焼け瓦などの遺物が見つかっています)
PA280095.jpg(こんな物が~笑、旧本能寺境内になるはずです。元本能寺跡 信長茶寮です)

【現在の本能寺にGO!】

PA280106.jpg(雨の現代、本能寺へGO!)
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(朝鮮通信使も宿泊しています。教科書で習いましたよね。)
PA280098.jpg(表札上手く取れた?読める?)
PA280114.jpg(本能寺ご由緒沿革!)

現本能寺(ほんのうじ)は、京都府京都市中京区下本能寺前町にある、法華宗本門流の大本山。本能寺の変の舞台として知られる。現在の寺院には、恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、龍雲院の7院の塔頭があります。法華宗とは、日蓮を開祖とする宗旨の名称または、宗旨「日蓮宗」の別称です。日蓮門下の全門流の総称としての呼称でも有ります(ちょっと難しいね)。1334年に後醍醐天皇より日像が宗派の名として法華宗の宗号を賜ったといわれています。(我が家は日蓮宗ですが、本門流では無いのでよくわからないのですが(-"-;A ...アセアセ)。

日隆上人(本能寺「大本山」が所属する。法華宗本門流の開祖)は妙本寺(現在の「妙顕寺(みょうけんじ)」、京都府京都市上京区にある、日蓮宗の大本山)の4世・日霽に師事するが、法華経の解釈をめぐり本迹勝劣を主張した日隆は、妙本寺5世・月明と対立します。日隆は応永22年(1415年)伯父にあたる日存・日道両聖人と共に妙本寺綱紀の粛清に務めましたが志を遂げられず同寺を後にします。

うんちく『本迹勝劣』とは? 所依の法華経を構成する二十八品(28章)を前半の「迹門」、後半の「本門」に二分し、本門に法華経の極意があるとする考え方です(分からなくても良いと思いますけど・・・)。

後半の「本門」に極意があるとする勝劣思想ですが、勝劣派(対義語→一致派「二十八品(28章)」を一体として所依とします。次の問題は、勝劣派の中で本仏を、釈尊とするか日蓮とするかで意見の対立が有ります。末法思想では釈尊入寂後、年代がたつにつれて正しい教法が衰滅することを説いた仏教の予言思想で、1500年~2000年といわれ、新しい釈尊に変わる人物が現れるという思想です。法華宗ではそれが日蓮上人であるという考えに基づく宗派伐もあります。(難しいよね~説明している私が理解してない部分も多いのでね)。

応永5年(1418年)、本応寺は月明により破却され、日隆は河内三井(本厳寺)・尼崎(本興寺)へ移りました。永享元年(1429年)、帰洛して大檀那・小袖屋宗句(山本宗句)の援助により、千本極楽付近の内野(大内裏跡、南北朝時代に現在の御所に場所が移動しています。東寺・西寺跡の真ん中に朱雀大路が通っていたと考えると、大内裏は現在の千本丸太町辺りにあったと思います。)に本応寺を再建します。永享5年(1433年)、檀那・如意王丸なる人物から六角大宮の西、四条坊門の北に土地の寄進を受け再建し、寺号を「本能寺」と改めました。

そして油小路高辻と五条坊門の間に本応寺を建立し、日蓮大聖人の念願である人々の口に「南無妙法蓮華経」を唱えさせるべく教化を始めました。本能寺は1415年から1432年までは「本応寺」と寺名を使い、1433年から現在まで「本能寺」を使用しています。
その理由は「本門八品相応能弘之寺」の言葉より本応寺を本能寺という寺名に変えました。また現在「䏻」という文字に替えて使用しているが、これは五度も火災に遭遇したので匕(火)を嫌い䏻を用いる字に替えたものです。有名な信長が上杉謙信に送った「洛中洛外図屏風」では「本能寺」と書かれています。

写真のとおり、本能寺の「能」の字は「䏻」という俗字になっている。これは本能寺が度重なって焼き討ちに遭っているため、「『ヒ』(火)が『去』る」という意味で字形を変えているといわれています。なお、この「䏻」は本能寺のために作字されたわけではなく、当時は現在の「能」よりも広く使われていた字体だそうです。

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(字体の違い見てくださいね、死体が発見されなかったのにお墓?何が眠っているのかは次回です。)

その後、本能寺は法華経弘通の霊場として栄え、中世後期には洛中法華21ヶ寺の一つとなり、足利氏の保護を受けます。寺域は六角小路以南、四条坊門小路以北、櫛笥小路以東、大宮大路以西で方1町の敷地を有し、また多くの子院も有していたようです。応仁の乱後、京都復興に尽力した町衆は、大半が法華宗門徒で、法華宗の信仰が浸透し「題目の巷」と呼ばれ、本能寺は繁栄を極めます。天文5年(1536年)天文法華の乱にて延暦寺・僧兵により、堂宇はことごとく焼失し、一時堺の顕本寺に避難する事態が起きます。

【日承上人と本能寺の変】

天文16年から17年(1537-1538年)ごろに帰洛し、日承上人(伏見宮第5代邦高親王の子)が入寺して本能寺8世となります。四条西洞院大路、油小路、六角小路、四条坊門小路にわたる地域(旧本能小学校のあたり)に広大な寺地を得て、大伽藍が造営され、子院も30余院を擁しました。

日隆の開山以来、尼崎の本興寺とともに山号はなく両山一貫主制をしいていたが、その後、歴代貫主が地方に布教し、日承の時代には末寺が畿内、北陸、瀬戸内沿岸諸国さらに種子島まで広布し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立しました。

今はやりの刀剣女子にプレゼン、「本興寺」は兵庫県尼崎市にある法華宗(本門流)の本山です。天下五剣の一つ、日蓮大聖人御所持の名刀「数珠丸」(重要文化財)があることで知られています。

「うんちく『天下五剣』」

「童子切安綱」源頼光が酒呑童子退治に用い、童子の首を落とした刀。人の胴体六つを叩き斬り、土台に刃が食い込むほどの鋭さを誇るという噂です。
「鬼丸国綱 」北条時政を鬼の呪詛による病から救った刀です。その際、時頼の夢に老人の姿で現れたといわれています。
「三日月宗近 」天下五剣で最も美しいとされる刀ですね。高台院(ねね)が所有しており、高台院の死後は徳川家に渡っています。
「大典太光世 」人の胴体を二つ以上を輪切りにできるという謂れを持つほか、年月を経て強大な霊力を宿しているそうです。
「数珠丸恒次 」日蓮上人ゆかりの刀で、身延山に久遠寺を開山する際に寄進され、以来、数珠を巻き付けて“魔除けの守り刀”とされてきました。

童子切安綱・鬼丸国綱は「鬼を斬った」という退魔の霊刀であり、また童子切安綱・三日月宗近・大典太光世は国宝指定を受けています。鬼丸国綱に至っては「御物(ぎょぶつ/皇家所蔵の宝物)」です。 数珠丸恒次も重要文化財とされています。

年に一度の数珠丸お披露目。それが、11月3日に行われる大本山本興寺(ほんこうじ)の虫干会です。つまり来週の金曜日です。
刀剣女子は是非お出かけください。私?もちろん出雲取材中です(今年も見られへん~涙)。

織田信長は日承に帰依して、この寺を上洛中の宿所としていました。しかし、天正10年6月2日(1582年6月21日)、明智光秀の率いる軍勢に包囲されるという本能寺の変が起きて、その際の兵火で本能寺は焼失しました。『信長公記』では同寺で信長が自害したとされていますが、遺体は発見されず、その最期は明らかに成っていません。しかし一般的には生害地とされ、光秀を破って京に入城した織田信孝(秀吉はいまだ影に徹しています)は、16日、焼け跡に光秀の首と胴、その手勢3,000の梟首を晒させて供養しています。7月4日、信孝は同寺に御触を出して、信長の御屋敷として造成された焼け跡を墓所とするように、離散した住僧は戻るように命じています。

【現在の場所への移転とその後】

天正19年(1591年)、豊臣秀吉の命で、現在の寺域(中京区下本能寺前町)へと移転させられました(現在の京都を作り上げたのは基本秀吉です)。伽藍の落成は、天正20年(1592年)。現在の御池通と京都市役所を含む広大な敷地でした。元和元年(1615年)、江戸幕府から朱印地40石を与えられた。前述の理由で戦国大名との関係も深かったこともあり、寛永10年(1633年)の『本能寺末寺帳』によれば末寺92を数える大寺院になっています。

PA280102.jpg
(辻説法をする日蓮上人像!いいですね~個人は宗教観はあんまりですが、長男なので家の宗派は大事にしています。笑)

天明8年(1788年)の天明の大火、元治元年(1864年)の禁門の変(蛤御門の変)に伴い発生したどんどん焼けにより堂宇を焼失しています。従来は長州藩邸に隣接していたため、長州藩邸の火が延焼したと思われていたが、それ以前に薩摩藩の砲撃により長州藩邸よりも先に焼け落ちたという説もあります。境内の大銀杏が長州藩邸の目印になったためとも言われますが、このイチョウにも伝説があるのですが、長くなったので次回にお話しします。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/10/26

勝負に勝ちたいならここへ参れ!『応頂山 勝尾寺』

1300年の時を越え、今も多くの人が踏みしめる巡礼の道、幸せを願い心に安らぎを求めるとき、人はなぜこの旅路を選ぶのでしょうか。

西国三十三観音巡礼祈りの旅、『勝尾寺』今日はしみじみとご紹介したいと思います。

CIMG9117.jpg(勝ち達磨可愛いですよね。)

ところで、今日はドラフト会議が有りましたよね~!清宮幸太郎君「日本ハム」でした。分かってましたよというか的中です。私神ってますからね、北海道の皆さんおめでとうございます。

『勝尾寺』は勝ち達磨の寺と呼ばれます。奉納されている達磨はすべて両目が入っていますよね、賢明な皆さんならもうお分かりですよね、そう念願が叶った達磨ばかりなのです。清宮幸太郎君を引き当てた「日本ハム」関係者もこちらの勝ち達磨購入されたかもしれません。(笑)

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【勝尾寺ってどんなお寺】

PA260015.jpg(今日15分早く家を出て撮影した大鳥居の清和天皇の直額)
CIMG9131654.jpg
(開くのはのは、開成皇子命日旧暦10月4日か新暦10月29日です?どっちだ~笑)

勝尾寺(かつおうじ)は、大阪府箕面市にある高野山真言宗の寺院です。三十三観音霊場の中では、現在の私の職場から一番近く、通勤道路的には宝塚の「中山寺」と同じくらいに近くです。昨夜下調べしていて、西国街道沿いに大鳥居が有る事を知って今日撮影してきました。(笑)

平安時代に成和天皇(第56代天皇)に寺号を賜っています。西国三十三所の第二十三番札所。開山は開成皇子(かいじょう皇子)、本尊は十一面千手観世音菩薩です。寺号は「かつおじ」「かちおじ」などとも読まれるようです。

勝尾寺の所在地は大阪府箕面市粟生間谷にあります。山号「応頂山」、宗派高野山真言宗、創建年は伝・神亀四年(727年)開基伝・善仲、善算、開成(開山)
中興は源頼朝で正式名名称の「応頂山勝尾寺」を名づけています。元は別称の「弥勒寺」と呼ばれていたようですね。

【札所としては】

DSC_0111.jpg
(勝尾寺と法然札所)
CIMG9110.jpg(綺麗なお寺です。)
CIMG9104.jpg(山門ですが後ろが重要です。)
DSC_0090.jpg
(門を後ろから見ると勝王寺の文字)
CIMG9116.jpg(こんな所にも勝ち達磨)

法然上人二十五霊場6番(二階堂)
西国三十三所23番
摂津国八十八箇所54番
摂津国三十三箇所22番
神仏霊場巡拝の道 第65番文化財法華経 巻第四(重要文化財)
木造薬師如来及び両脇侍像(重要文化財)ほかです。

伝承によれば、勝尾寺の草創経緯は次のようです。奈良時代の神亀4年(727年)、 藤原致房の子の善仲、善算の兄弟はこの地に草庵を築き、仏道修行に励んでいました。それから約40年後の天平神護元年(765年)、光仁天皇の皇子(桓武天皇の異母兄)である開成皇子が2人に師事して仏門に入いりました。宝亀8年(777年)、開成は念願であった大般若経600巻の書写を終え、勝尾寺の前身である弥勒寺を創建しました。

そして、観音様の化身といわれた妙観が18人の弟子と数年後の宝亀11年(780年の7月18日に発願し8月18日に結願奉納されました。)、十一面千手観世音菩薩立像を制作したと伝えられています。毎月18日は観音御縁日(結願奉納日)とされ御本尊を拝むことが出来ます。

妙観は勝尾寺の観音像を彫った名工といわれています。『徒然草』二二九段に「よき細工は少しにぶき刀を使ふといふ。妙観が刀は、いたく立たず。」とあります。名工は少し鈍い刀を使う、名工妙観の刀は、ひどくは突き立たない(あまり鋭くない)。これが鋭くなくても良い仏像を作るなのか?、鋭くないからこそ柔らかな優しいい仏像が作れるの意味なのかは、皆さんがお考え下さい。

【 開成皇子って誰?】

CIMG9114.jpg
(見つけるのが楽しいんですよね)

「開成皇子(かいじょうおうじ)、神亀元年(724年)~天応元年10月4日(781年10月29日)」は、奈良時代の僧侶です。父は光仁天皇で、桓武天皇の庶兄にあたります。

765年(天平神護元年)宮中を出て勝尾山に入って禅居し、善仲・善算の二人の師に出会って出家・受戒した。両師の発願した大般若経書写の遺志を継ぎ、八幡大菩薩の加護を受けて6年の歳月をかけて完成させたといわれます。勝尾山中にその経を安置する道場を建立し、弥勒寺と号したと言われます。

開成皇子の僧としての事績については正史に記載がなく不明な点も多いですが、北摂地域の山間部には当寺以外にも高槻市の神峯山寺など、開成の開基または中興とされる寺院が点在しています。

勉強不足だったのですが、勝尾寺から山道に入って標高差約130mを登りますと、開成皇子墓のある最勝ヶ峰が有ります。781年(天応元年)に58歳で没し、(現・大阪府箕面市の明治の森箕面国定公園内)に葬られました。墓は現在「開成皇子墓」として宮内庁管理となっています。

【勝尾寺の歴史】

CIMG9119.jpg(日本最初の荒神様です。)
CIMG9126.jpg(法然が過ごした?新しい二階堂)
DSC_0096.jpg(本堂)
DSC_0094.jpg(負けることは絶対ないな。笑)
CIMG9112.jpg
(多宝塔も綺麗です。)

勝尾寺は平安時代以降、北摂山岳信仰の拠点として栄え、天皇など貴人の参詣も多かった。元慶4年(880年)、当時の住職行巡が清和天皇の病気平癒の祈祷を行い、「勝王寺(現在も寺門の額には勝王寺の名前が有ります)」の寺号を賜るが、「王に勝つ」という意味の寺号は畏れ多いとして勝尾寺に差し控えたと言われます。『日本三代実録』は、元慶4年、清和天皇死去についての記事で、同天皇が「勝尾山」に参詣したことを述べており、これが勝尾寺の文献上の初見と成っています。

私が、今日撮影した西国街道の表参道の起点となる大鳥居の扁額は清和天皇の直額です。当時の神仏は一体化していました。
ここから勅使門まで約4キロです。

元暦元年(1184年)、治承・寿永の乱(源平合戦)の一ノ谷の戦いのあおりで焼失しています。文治4年(1188年)、源頼朝の命により、熊谷直実・梶原景時によって再建されました。

本堂東側には、二階堂が有り、承元4年(1210年)には晩年の、讃岐国流罪から戻った浄土宗の開祖法然が最後の修行の場として4年間当寺に滞在して浄土信仰を開眼したと言われています。

山岳信仰の拠点だった広大な山に旧境内牓示八天石蔵及び町石が有ります。中世、勝尾寺が寺領を明示し、土地をめぐる争いを避けるため、寺の周囲8箇所に設置したもので、四天王・四明王の像を埋納していました。

【いつもの最後に・・・】

CIMG9130.jpg(パワースポット渦巻)
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(これはたまりませんね~)
DSC_0089.jpg(弁天池)
CIMG9113.jpg(どか~んと勝ち組!)
DSC_0110.jpg(弁天池から振り返ると全山が見えます。)


授与所の大小の達磨に違いはありません。勝ち達磨はただ授かればご利益を受けられるものではありません。勝ち達磨はあなたを写す鏡です。成就したいと思う事柄に少しでも近づこうと日々努力しているか、またご両親をはじめ、先祖様や周囲の人々への感謝を忘れず自身の命を懸命に生きているのか?勝ち達磨が一番良く見ているのです。

御詠歌:重くとも 罪には法(のり)の 勝尾寺(かちおでら) ほとけを頼む 身こそやすけれ

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リュミエールブラン ネージュ

2017/10/24

阪神タイガースの聖地『廣田神社』で神様の意思を推察す。

私、『阪神タイガース』の熱狂的なファンでした!。いえいえファンをやめたわけでは無いんですよ、今でも大のファンですが、昔ほどは熱中できなくなってきました。勝てばうれしいですが、何か夢中になれないのです。阪神ファンがライバルと勝手に思い込んでいる「G」チームがライバルと思えるほど強くないからかもしれませんね(笑)。そうそう、「広島カープ」ファンの皆さんおめでとうございます。あまりお金も無いのに素晴しい成績、頭が下がります。タイガースも考えなければいけないのではないでしょうか(訂正を一つ、CSシリーズで負けたのは残念でしたが、今年一年間ダントツに強かったのは、広島カープです。その強さに敬意を表しますm(__)m)。

それに比べるとサッカーは力が入ります。でもJリーグではなくて、日本代表戦です。やはりナショナリズムが触発されるのですかね。ワールドカップは頑張って欲しいですね~。

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(これくらいおっきく育って欲しいよ若手の皆さん!)


これでも(こんなに太っていても)、中学校三年間はしっかりバスケット部だったんですよ、現在はBJリーグが出来て、兵庫県にも「西宮ストークス」というチームが有ります。しかしながら私がBJリーグで応援しているのは「島根スサノオマジック」です。歴史ブロガーですからね~名前だけじゃん!(笑)
 
 
p1654987.jpg(ヤッパリ恰好いいね~笑)
 

さて今日は、ちょっとファン離れが進んでいる、「阪神タイガース」が全選手・監督・コーチが揃って毎年キャンプイン前の1月に武運長久を願って参拝する事でも有名な、廣田神社をご紹介します。

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【廣田神社はどんな神社?】

CIMG7761.jpg(まだブログ撮影意識してないですね。オカルト写真じゃないですから。)
CIMG7762.jpg(鳥居も背後から~全然じゃん。)
CIMG7763.jpg(人の顔も平気で写してるし、修正済)
CIMG7767.jpg(拝殿と本殿が一体化してないですか?)


廣田神社(ひろたじんじゃ)は、兵庫県西宮市の閑静な住宅街の中にあります。式内社(「延喜式神名帳に記載された神社」名神大社)、二十二社(下八社)の一社です。簡単に説明すると、古代から格式の有る神社だと考えてください。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社に成っています。

主祭神は天照大神荒魂です。この荒魂って難しいですよね~後で説明したいと思います。撞賢木厳之御魂天疎向津媛(つきさかき いつのみたま あまさかる むかつひめ)が主祭神荒魂として祀られています。 これは、伊勢神宮内宮の第一別宮荒祭宮祭神と御同体となっています。

原子は最小の物だと思っていたら中性子と電子が発見されたみたいに考えてみてください。怒られるなきっと、先に謝っておこう「勝手に好きなこと書いてごめんなさい」。

神社創建(伝)は神功皇后2年(神話、朝鮮征伐の後に成ります。)本殿の様式は神明造です。札所としては、神仏霊場巡拝の道68番(兵庫3番)となっています。

【廣田神社の歴史をお話しましょう】

CIMG7764.jpg(昔から説明版撮影はだめですね。)
CIMG7765.jpg(昔の西宮!ほとんどが海です。下にあるのが西宮神社ですね。)

日本書紀に「廣田神社」創建のことが書かれています。神功皇后の三韓征伐に出発する際、天照大神の神託がありました。和魂(また難しい言葉後に回しましょう)が天皇の身を守り、荒魂が先鋒として船を導くだろうとのお告げがあります。

神功皇后の三韓征伐の留守の間に忍熊王(瀬田の唐橋でも出てきた、皇子の腹違いの兄弟です。)が神功皇后とお腹の中にいる皇子(後の応神天皇)を亡きものにしようと明石で待ち伏せていました。戦いを終え、帰途それを知った神功皇后は、紀淡海峡に迂回して難波の港を目指します。しかし、難波の港が目の前という所で、船が海中でぐるぐる回って進めなくなってしまったのです。

そこで兵庫の港に向かい、神意をうかがうと、天照大神の託宣がありました。「荒魂を皇居の近くに置くのは良くない。広田国に置くのが良い」とのお告げです。そこで皇后は、山背根子の娘の葉山媛に天照大神の荒魂を祀られました。これが廣田神社の創建のいわれです。

このとき、生田神社・長田神社・住吉大社に祀られることになる神からも託宣があり、それぞれの神社の鎮座が行われました。すると、船は軽やかに動き出し、忍熊王を退治することができたのでした。

創建の後には、朝廷より篤い崇敬を受け、『延喜式神名帳』では名神大社に列し、二十二社の一社とされました。たびたび奉幣勅使の派遣があったようです。平安時代後期より、神祇伯白川家との関係が深く、代替わりのごとに「廣田神社」に参詣しています。中世には和歌の神として信仰されるようになり、社頭にて何度か歌合せが行われています。

うんちく『伯家神道(はっけしんとう)』とは、花山天皇(西国三十三観音霊場でも有名)の子孫で神祇伯を世襲した白川家によって受け継がれた神道の一流派の事です。

【近代の歴史】

当初は甲山山麓の高隈原に鎮座し、後に御手洗川のほとりに遷座しましたが、水害のため、享保9年(1724年)に現在の西山の地に遷座し、1945年、空襲による全焼までは西側の廣田山に鎮座していました。戦後、その東側の現在地に移転しています。明治4年(1871年)には官幣大社に列格した(兵庫県で最初、淡路の伊弉諾神宮は1931年に列格されています)。かつて「向か津峰」と呼ばれた六甲山全山は、元は廣田神社の社領であったともいわれます。

CIMG0735.jpg(淡路の伊弉諾神宮の不思議!)


六甲山大権現を古くからの祭神とする六甲山神社(むこやまじんじゃ石の宝殿=現廣田神社の摂社)と六甲比命神社(むこひめじんじゃ)がかつての奥宮と考えられます。六甲比命神社は、インドの渡来僧法道仙人(また出てきてますね)によって大化の改新の頃に、付近の心経岩・雲ヶ岩とともに、唐櫃(からと)の吉祥院多聞寺 (神戸市北区)(本尊は毘沙門天・吉祥天・禅膩師童子)奥の院とされました。

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(唐櫃(からと)の吉祥院多聞寺です。よく有ったね、どこでも撮影しとくもんだ~!)

六甲山東麓の社家郷山は廣田神社宮司家の所有地であったその名残といわれます昭和20年に空襲によって社殿を焼失、現在の本殿は伊勢神宮荒祭宮の旧社殿を譲り受けて昭和31年に竣工したものです。平成13年に鎮座1800年の喜節を迎えました。

廣田神社を中心とする神社群は、京から西国方向を目指す街道上にある神社ということで「西宮」(にしのみや)とも呼ばれていました。「西宮」の語は、後に廣田神社の神郷一帯(現在の神戸市東部から尼崎市西部まで)を指すようになりましたが、行政区画では廣田神社が武庫郡大社村、戎社(現・西宮神社)が西宮町となり、現在は町村合併により西宮市に含まれています。えべっさんで有名な「西宮神社」も元は「廣田神社」の境外摂社に成ります(西宮神社の方が有名に成っていますね)、浜南宮で、西宮神社境内の南宮神社がその原型といわれます。

【為に成るかなトリビヴィア】

西宮神社(西宮戎)も元は浜南宮と呼ばれ、当社の境外摂社でした~。境内にはコバノミツバツツジの群落があり、総数2万株に及美ます。このツツジ群落は兵庫県指定天然記念物に指定されています。阪神タイガースが全選手・監督・コーチをそろえて毎年キャンプイン前の1月に廣田神社(武運長久⇒優勝を祈願)に参拝する行事は、球団創立時からの伝統です。

神功皇后の新羅征伐からの帰還伝説からの発祥と思われる廣田神社・西宮神社の夏祭御神幸が戦国時代まで行われていました。やはり、神功皇后に従って先祖が出兵したとの伝説を持つ北風家等がある和田岬(輪田岬)まで、往路は数百艘の船で、復路は陸路で馬に乗った一群の辰馬・八馬・葛馬・乙馬・音馬・小上馬・六馬・七馬・十馬・中馬・大黒馬・一馬・大徳馬・小唐馬・善茂馬などの家の者が付き従っていました。

主祭神の天照大神荒魂とは、実は「瀬織津姫」のことであったとする説があります。戦前の由緒書きには、瀬織津姫を主祭神とすることが明確に記されていました。しかし瀬織津姫という神様のお名前は「記紀」に一切の記載がありません。

【最後の難題、荒魂・和魂って何】

Ichireishikon[1]
(こんな関係です)

一霊四魂説の概念図を見ていただきましょう。荒魂・和魂・幸魂・奇魂が並列的に存在し、それらを直霊という一つの霊がコントロールしているとする考え方です。神様のお心と考えずに人間として考えると分かりやすいかもしれません。

荒魂(あらたま、あらみたま)・和魂(にきたま(にぎたま)、にきみたま(にぎみたま))とは、神道における概念で、神の霊魂が持つ二つの側面のことです。

荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂です。勇猛果断、義侠強忍等に関する側面とされるます。これに対し和魂は神の優しく平和的な側面であり、仁愛、謙遜等の側面とされています。ちなみに私の卒業高校には正門すぐに『和魂』の石碑が置かれています。仁愛・謙遜を常とせよの教えだったんですね~!高校時代に気づけばよかったのにな(-"-;A ...アセアセ。

p216545983.jpg
(『和魂』の石碑、素晴らしい!)

荒魂と和魂は、同一の神であっても別の神に見えるほどの強い個性の表れであり、実際に別の神名が与えられたり、皇大神宮(伊勢神宮の事です)の正宮と荒祭宮といったように、別に祀られていたりすることもあります。人々は荒魂と和魂を支えるために、神に供物を捧げ、儀式や祭を行ってきました。

この神の御魂の二面性が、神道の信仰の源となっているのです。また、荒魂はその荒々しさから新しい事象や物体を生み出すエネルギーを内包している魂とされ、同音異義語である新魂(あらたま、あらみたま)とも通じるとされています。

和魂はさらに幸魂(さきたま、さきみたま、さちみたま)と奇魂(くしたま、くしみたま)に分けられます(しかしこの四つは並列の存在です)。幸魂は運によって人に幸を与える働き、収穫をもたらす働きをつかさどります。奇魂は奇跡によって直接人に幸を与える働きであり、知識才略、学問、技術を表します。幸魂は「豊」、奇魂は「櫛」と表され、神名や神社名に用いられていますね。

江戸時代以降、復古神道がさかんとなり、古神道の霊魂観として、神や人の心は天と繋がる一霊「直霊」(なおひ)と4つの魂(荒魂・和魂・幸魂・奇魂)から成り立つという一霊四魂説が唱えられるようになりました。

【いつもの最後に・・・】

神社に参拝する人のほとんどは、神様に願い事を伝える為に伺いますよね、でも実は私は神社はお願いに行くところでは無いと考えています。神社を参拝することで自分の目的を再確認し、それを成し遂げる力にすることにお詣りの意味があるのです。

神社でお願い事をしても問題が有るわけではありませんが、お願い事が叶ったならお礼に参拝する必要があります。お礼参りに行けるのでしたら、いくらでもお願い事をしてもけっこうです。旅行先などでたくさんの神社へお願い事をされたのでしたらお礼参りも大変に成りますね。お礼参りに行けない場所の神社なら御挨拶程度にしておいた方が無難ではないでしょうか(笑)。

人でも神様でもお願い事をしたなら、お礼をするのが常識ですよね、私はこのように考えています。「見ていてください」のお詣りです。神様にお願いが有るときは、「私はこのように努力しますから見守ってください」とお願いします。お願いしたことが叶ったならばお礼にお詣りします。「ありがとうございます」のお礼、これが本来の神社のお詣りの作法だと思います。

以前鳥取県の「金持神社」をご紹介しました。「高額宝くじ当選お願いします」に神様が答えてくださるはずが無いと思いませんか、「毎日努力を怠らず、一生懸命頑張りますから見ていてください」ならばきっと「金持神社」の神様も答えてくだされのではないかと思うのですがどうでしょう。

ちなみに、神社によっては自分事のお願いをしてはいけない神社もあります。伊勢神宮の本宮では個人的なお願いはしてはいけないことになっています。国を護り、国民の幸せを願う神社です。個人の雑念は必要ありませんね。

CIMG7768.jpg(神様来年はお願い来てくださいね、タイガース優勝!選手は頑張りますからね。)

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リュミエールブラン ネージュ

2017/10/22

全ての始まりがここにあるのか?「願いが叶うお寺」『満願寺』

台風憎しの日曜日になってしまいしたね。現在台風21号は現在19:30紀伊半島の沖合に在って明日未明に関東を直撃する模様です。関東方面の皆さんは気を付けてくださいね。

昨日21日は京都東寺の弘法市(今年は休みが合わなかったり、家族のごたごたで行くことが出来ず)や丹波焼祭りもありましたが、動きが取れず。今日22日は一連の関ケ原最後の取材ともいえる、伏見城址や京都にある武将の墓などを取材する予定でしたがそれもかないませんでした(残念)。唯一、映画「関ケ原」を大雨警報の中見に行くことが出来たのが救いです。映画の出来については後程簡単に説明したいと思います。

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(みました~ん~映画館で見ると良いですね~!)


そこで今日ご紹介するのは関ヶ原から,、550年ほど前のお話をご紹介したいと思います。全ては此処から(こちらの寺ではないのですが)と考えて、清和源氏ゆかりの寺兵庫県川西市に在る『満願寺』をご紹介したいと思います。

その前に、以前からお約束していました。皆さんご存知の日曜日だけのお楽しみ、お友達ブロガー皆さんも良くご存知のハナ(ビー玉)さんの洗濯実験ブログハナの洗濯ラボノートをご紹介します。洗濯が苦手な皆さん、洗剤どれにしようかな?と迷っている皆さん是非ご覧くださいね。

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【いつもの「満願寺」ってどんな寺?】

P7150634.jpg(兵庫県川西市「満願寺」です。)
P7150649.jpg(山門ですが、ちょっとめずらしい形ですね。)


兵庫県川西市にある『満願寺』は、山号を「神秀山」、宗派は「高野山真言宗 」、寺格「真言宗七十五名刹 」、御本尊「千手観世音菩薩 」、創建年「奈良時代 」と言われます。寺伝によれば奈良時代、聖武天皇の勅願により、「勝道」上人が開基・創建されています。

札所としては「新西国33観音13番」「摂津国88箇所68番」「摂津国33箇所18番 」。文化財は、「石造九重塔(国の重要文化財)」「木造金剛力士立像ほか(県文化財)」等の文化財が有ります。

【全ての始まりがここにあるの訳は?】

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(源 経基、清和源氏の初代です。)
P7150626.jpg
(源満仲、清和源氏二代多田源氏の祖ですか、JR川西駅前に像があります。かっこいいね。)

平安時代中期には源満仲がこの寺院に帰依し、以来源氏一門の祈願所として栄えました。源満仲の父、源 経基(みなもと の つねもと、源 經基)は、経基流清和源氏の初代です。『保元物語』によれば、源 経基の父は清和天皇の第 6皇子・貞純親王で、母は右大臣・源能有の娘。皇族に籍していたとき「六孫王」と名乗ったとされます。居館は六宮とも八条御所ともいわれます。

嵯峨天皇から分かれた嵯峨源氏や清和天皇からの清和源氏を含め、二十一の流派(二十一流)があるとされています。中でも家格が最も高いのは村上源氏とされ、室町幕府の成立まで源氏長者と呼ばれていました。

『尊卑分脈』等によると経基の孫とされる源頼信が誉田八幡宮に奉ったという願文の写しが石清水八幡宮田中家文書の中にあります。それによると、源頼信は、八幡大菩薩すなわち応神天皇を自らの「二十二世の氏祖」であるとして、「先人新発、其先経基、其先元平親王、其先陽成天皇、其先清和天皇、(以下略)」と自らの祖を列記しています。これに従うと、経基の父は清和天皇の皇子貞純親王ではなく陽成天皇の皇子元平親王となり。清和源氏ではなくて、陽成源氏に成るのですが、あまり難しくは考えないで起きますか?

【姓(かばね)について少し説明しましょう】

姓(かばね)は天皇が臣下に与える姓の事で、代表的なものの一つとして、平氏・藤原氏・橘氏とともに「源平藤橘(四姓・特例?として秀吉が豊臣姓を名乗っています)」と総称されています。姓(かばね)は現在私たちが名乗ってる姓とは違うものです。

姓については簡単に説明すると、氏「古代日本で親族ごとに集団を作っていた残りの呼名や氏族」、姓「天皇からもらったもの。朝廷での役職や地位をあらわすものです」、名字「自由に付けていいもので。氏が分家したときに区別に使ったり、武士が増えてきて自分の支配する地名を名字にして所有権を表したものです。一般的には。明治になって法令によって定められています。」

平民苗字必称義務令(へいみんみょうじひっしょうぎむれい、平民苗字必唱義務令)は、日本の法令である(明治8年太政官布告第22号)。1875年(明治8年)2月13日公布。すべての国民に苗字(名字・姓)を名乗ることを義務付けました。

江戸時代まで、日本において公的に苗字を使用したのは、原則として、公家及び武士などの支配階層に限られ、一種の特権とされていました。明治維新により、従来の身分制度の再編が図られ、明治3年9月19日(1870年10月13日)に「平民苗字許可令」(明治3年太政官布告第608号)が発布されました。この布告では初めて「平民」の語を用いて、華族及び士族(この両者は公家・武士の家柄がほとんどですが)に属さない平民に「苗字」の使用が許可されました。

しかし、当時の国民(平民)の中には、「課税されることを恐れて届け出が少なかったり」「めんどくさい・・・おらは団子屋の市さんでいいや」とあえて苗字を使用しない人も多かったので、1875年(明治8年)に改めて名字の使用を義務づける「苗字必称義務令」が発令され、すべての人々が名字を名乗ることに成りました。

かなりややこしくなってきましたね。具体例を出してみたいと思います。「織田信長」さんと「徳川家康」さんにお願いしましょう。 正式名は「源朝臣徳川次郎三郎家康」と「平朝臣織田三郎信長」です。この場合、「織田信長」さんは氏姓・平朝臣、名字・織田、通称・三郎、 実名・信長、「徳川家康」さんは氏姓・源朝臣、名字・徳川、通称・次郎三郎、 実名・家康に成ります。

信長が平氏だったので、部下の秀吉は同じく平氏姓を名乗ったために征夷大将軍に成れなかったといわれています。征夷大将軍って源氏しかなれないらしいです。家康さんが源氏だったのもハッキリしているとはいえないのですがね~。

【『満願寺』のお話なのですが写真で説明したいと思います。】

P7150661.jpg(きれいなお寺です。)
P7150668.jpg(本坊)
P7150686.jpg(高野山真言宗なので御大師様です。)
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(石造九重塔「国の重要文化財」)

平安以降臣籍降下が頻発して源・平の二姓ばかりになって来ます。最近の研究で「一世王、二世王が源、三世以降が平」だった事が判明しています。源姓(本姓が源氏)の家系はそれぞれ別の苗字を号しているため、現在「源」を今日的な意味の姓として名乗る例は少なく(それでもいるんですね)、推定人口は4,000人程だそうです。

平安時代以降は、皇族の分家はおおむね「源」か「平」になり、その家の開祖となる天皇の名前をつけて呼ばれます。例として、平将門・清盛らの「桓武平氏」、源頼朝・義経らの「清和源氏」などが有ります。

一世(天皇の子)のうち、母親の身分が低くて皇族扱いされない「庶子」は、源氏を名乗ります。嵯峨源氏の源融(みなもとのとおる)、醍醐源氏の源高明(みなもとのたかあきら)などがいます。

二世(天皇の孫)でも、天皇にならない親王から生まれた子は源氏です。清和天皇の孫は源経基(みなもとのつねもと、源満仲の父ですね)と呼ばれ、この人が源頼朝らの祖先に成ります。

平氏は三世(天皇の曾孫)以降が名乗ります。桓武天皇の曾孫は高望王(たかもちおう)と呼ばれますが、この人が最初に平氏を名乗り、桓武平氏となりました。高望王は平清盛の祖先に成ります。

【源氏の活躍】

P7150702.jpg(源家の七塔、源の領地を表しているようです。)

中級貴族であった経基の子・源満仲(多田満仲)は、藤原北家の摂関政治の確立に協力して中央における武門としての地位を築き、摂津国川辺郡多田の地に武士団を形成しました。そして彼の子である頼光(摂津源氏の祖)、頼親(大和源氏の祖)、頼信(河内源氏の祖)らも父と同様に藤原摂関家に仕えて勢力を拡大しました。

P7150720.jpg
(源頼光「摂津源氏の祖」、但馬国司としても赴任しています。)
P7150718.jpg(まさかり担いだきんたろうさん、源頼光の部下四天王の一人です。)
P7150727.jpg(四天王といえば、酒呑童子の腕を切り落とした、渡辺綱も刀「童子切」も有名ですね。)
P7150736.jpg(本名は坂田金時です。こんな所にお墓が!)

のちに主流となる頼信流の河内源氏が東国の武士団を支配下に置いて台頭し、源頼朝の代に武門の棟梁として鎌倉幕府を開き、武家政権を確立しました(東国に左遷?されたのを利用した頼信はえらいですね~家康はやっぱり源氏ですね(笑)。その後の子孫も、嫡流が源氏(鎌倉)将軍や足利将軍家として武家政権を作ったほか、一門からも守護大名や国人が多く出ています。

清和源氏の代表的な家紋である「笹竜胆」は日本最古の家紋であると言われています。

P7150710.jpg(金堂とむこう毘沙門堂です。)


【映画「関ケ原」の出来は!】

★★★☆☆☆☆☆☆☆(3.5)
(平均は★3です)

良い映画だったと思いますが、司馬朗太郎の関ケ原を読んでいた私には、やはりという感じでした。二時間半で本の上中下巻を描ききる事に無理が有ります。歴史大好きな私でも、事前(それも一週間前)に関ケ原取材に行っていなければこれ誰?な事も多かったかも分かりませんね、むしろエンターテーメントとして鑑賞すれば、楽しめるかもしれません。戦国ファンは見て損はないと思います。岡田君ファンとエンターテーメントを楽しめる人もOKです(今日は台風もあり似ている人も10人くらいなのは良かったかな)。亜人ファンはやめときましょう(笑)

【最後に一言】

皆に名字が付いたことに関連して一言!明治4年(1871年)の戸籍法に基づいて、翌明治5年(1872年)に壬申戸籍(じんしんこせき)が編製されました。編製年の干支「壬申」から「壬申戸籍」と呼んでいます。制度としての賎民は廃止され、法的に平民と一体となりましたが(四民平等)、そのため、特定の職業を独占していた権利が無くなり、逆に納税の義務や、兵役の義務を新たに課されることとなりました。制度の上での差別はなくなったものの、人々の間に差別意識は根強く残り、平等であるはずの元賎民らを「新平民」と呼び差別を続けた地域もあったことは是非忘れないで、考えていただきたいと思います。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/10/20

市郎右衛門、『倭建命と伊吹山』にリベンジを誓う

関ケ原取材当日の午後、滋賀県最高峰の伊吹山登山にチャレンジしました。伊吹山(いぶきやま、いぶきさん)は、滋賀県米原市、岐阜県揖斐郡揖斐川町、不破郡関ケ原町にまたがる伊吹山地の主峰(最高峰)で標高1,377 mの山です。前回の長浜城跡の展望台からも雲の合間から頂上がちらっと見えていましたね。

この山は滋賀県最高峰というだけではなく、「記紀神話」の『倭建命』や高山植物でも有名で、一度は登ってみたい山の一つでした。もちろん山登りも好きな私ですが。伊吹山ドライブウエイのおかげで、9合目までは簡単に車で行けますので、実質100メートルほどの登山で頂上まで登れる。大着な私にとっては最高に素敵な山なんです。

PA141121.jpg(伊吹山~さあ登りますか~って100mほどですけどね)


それでは、関ケ原を歩きまわってへとへとな私でも、割と気楽に山頂まで登ることが出来る伊吹山をご紹介しましょう。ただし、季節的にはけしてよい時期とはいえず、伊吹山の素晴しさを皆さんに伝えることが出来なかったと感じましたので、リベンジを誓うの題名を採用いたしました。

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【伊吹山てどんな山なの?】

PA141118.jpg
(芭蕉も詠んでいます。「そのままよ 月もたのまし 伊吹山」)
PA141110.jpg(関ケ原を一望、家康が最初に布陣した桃配山方面!)
PA141107.jpg(裏切り者?小早川秀秋が布陣した松尾山方面!)
PA141141.jpg(木々が少ないので紅葉もどうだろ?って感じですね。)

一等三角点が置かれている山頂部は滋賀県米原市にあり、滋賀県最高峰の山です。山域は琵琶湖国定公園に指定されています。ご紹介したように、歴史的には関ヶ原から非常に近い場所にあり、倭建命の伝説でも有名な山です。

登山好きと言いはなっておりますが、それほどガチ登山というわけでもなく、二度登った鳥取県の大山(標高1,729m)の次に標高が高いのが今回の伊吹山(標高1,377.31m)という軟弱(それも9合目までは車で行ってしまう)クライマー(アルピニスト?)です。

歴史ブログと名うってブログを書いている私ですから、以前にご紹介した、「古事記神話」の八岐大蛇を退治したスサノオが降り立ったとの伝説がある、鳥取県と島根県の県境にある『船通山(標高1,142m)』などが丁度良いのです。

そういう意味では、伊吹山も倭建命伝説があることを考えれば、私的には最高な山な訳で、以前から憧れていたのです。

【霊峰伊吹山】

古くから霊峰とされ、『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、が東征の帰途に伊吹山の神を倒そうとして返り討ちにあったとする神話が残されています。『日本書紀』では「五十葺山」あるいは「膽吹山」とも記され、古事記では「伊服阜能山」と記述されています。かつては修験道においては「大乗峰」と呼ばれていました。

『うんちく「修験道(しゅげんどう)」』とは、山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の宗教の事です。日本中の霊峰と呼ばれる多くの山で、修験道は行われています。

修験道の他にも、日本百名山、新・花の百名山、一等三角点百名山、関西百名山、近畿百名山、ぎふ百山の一つに選定されているそうです(いかにも名山ですね)。

「伊吹山」の読み方について、国土地理院の登録された山名をはじめ、地図や道路標識などの振り仮名は「いぶきやま」となっており、伊吹山の山麓地域では「いぶきやま」と呼ばれているようです。一方、「いぶきさん」という呼び方も存在し、滋賀県の伊吹町では「いぶきやま」、美濃尾張方面では「いぶきさん」とする名鑑があるほか、滋賀県内の伊吹山に近い地域では「いぶきやま」、遠い地域になるほど「いぶきさん」と呼ぶ傾向があるようで、岐阜県でも同様の傾向があります。滋賀県、岐阜県、愛知県、三重県の多くの学校の校歌で「伊吹山」に関する語句が用いられています。

【伊吹山のヤマトタケル伝説】

PA141142.jpg(もう山頂!山小屋?「伊吹山寺覚心堂」です。)
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(倭建命を死に至らしめる「伊吹大明神」の白猪)
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(倭建命!日本最大級の英雄の姿が~これ?)

伊吹山の神は「伊吹大明神」とも呼ばれ、古事記では「牛のような大きな白猪」、日本書紀では「大蛇」とされています。古事記には倭建命がこの伊吹大明神と戦って敗れる物語があります。伊吹山の神に苦しめられて敗れた倭建命は病に冒されて山を下り、居醒の泉(米原市醒ヶ井の平成の名水百選の一つに選定されている「居醒の清水」)で少し回復したものの、のちに悪化して亡くなったとする伝説が伝えられています。

山頂部にはその倭建命(白猪は、古事記伝説なので倭建命と書きましたが、山頂の石像は日本武尊と刻まれています)の像と、伊吹山の神の白猪の像が設置されています。

表登山道の三合目西側の「高屋」と呼ばれる場所はヤマトタケルが山の神に出会った場所とされ、大正時代に石の祠が建立されその中に木造の日本武尊が祀られました。山麓の長浜市山階町の「伊吹神社」は伊吹神を祭神としています。ちなみに9合目までドライブウエイで上った私には、三合目の「高屋」や「伊吹神社」は素通りなので、確かめることは出来ていません。同級生に本格的に登山している女性陣(日本アルプスやヒマラヤの練習で伊吹山に登っているらしい)が居るので今度機会が有れば聞いておきます。

【山岳宗教と伊吹山寺】
PA141183.jpg(南側にあるから?南弥勒菩薩。)
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(弥勒菩薩、三修上人が亡くなったとき、この塚あたり葬られたのではないかとも思いますね)

役小角が伊吹山に登り、弥高寺と大平寺を建立したと伝えられています。白山を開山した泰澄は、この山に分け入り白山信仰を伝えました。9世紀に伝わった密教と結びついて修験の場として、多くの寺院が山中に建立されるようになりました。

「うんちく『役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの)』」についてちょっと説明、舒明天皇6年(634年)伝 によると、役 小角は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者です。修験道の開祖とされている。 実在の人物ですが呪術者部分は後世に作られたものだと考えす。私は寺社仏閣巡りで役 小角にまつわる寺社が結構多い事も知りました。私は横山光輝のSF漫画、『時の行者』(ときのぎょうじゃ)が、「役 小角」の話だと勘違いしていました。(笑)

851-854年(仁寿年間)に僧三修により、伊吹山の南側の中腹の尾根上に山岳寺院の弥高寺が建立されたことが「日本三代実録」に記録されています。三修(さんじゅ)により山上と山麓に山岳寺院が建立され、江戸時代まで山岳修行の山とされていたようです。弥高寺は伊吹山寺と呼ばれる定額寺の中心となる一つで、伊吹四大寺として他に大平寺、長尾寺、観音寺が建立され、のちに伊吹護国寺となっっています。

鎌倉時代には修験者による山岳宗教が発達し一時は数百の堂房が山中に建ち隆盛しましたが、戦国時代に兵火でほとんどが焼失し現存せずその地名だけが残っているようです。弥高寺は戦国時代に京極氏や浅井氏により城郭の一部として改造され、1512年(永正9年)に兵火に遭い、その後ふもとに坊舎が移されました。

円空は伊吹山の太平寺に暮らし、平等石(行道岩)で修業を行い、木彫仏を残しています。「弥高寺跡」は1986年(昭和61年)3月28日に、滋賀県により天然記念物(史跡)の指定を受けました。

「うんちく『円空(えんくう)』」は、江戸時代前期の修験僧(廻国僧)・仏師・歌人です。特に、全国に「円空仏」と呼ばれる独特の作風を持った木彫りの仏像を残したことで知られ、生涯に約12万体の仏像を残したとされます。山頂の「伊吹山寺覚心堂」と呼ばれる本堂のみの小さなお寺に円空上人自刻像があってなでなですることが出来ました。

【伊吹山の歴史の時間です】

伊吹山は古くから神が宿る山として信仰の対象でした。天武天皇(673年 )により麓に三関のひとつである不破関が置かれています。平安時代には、日本七高山(近畿地方の7つの霊山)の一つに数えられました。古事記の景行記(712年「和銅5年」)に、伊吹山にまつわる日本武尊の伝説が記されています。伊吹山の南側の中腹の尾根上に山岳寺院の弥高寺が建立されました(851~854年「仁寿年間」)。

室町時代後期1558年(永禄元年)、この年から1570年(永禄13年)の間に、織田信長が南蛮人から入手した薬草を栽培する菜園を伊吹山上に野草園が造られたとされます(信長ってすごいな~と感心しました)。その菜園には、ポルトガル人が自国で用いていた約3000千種のハーブが移植されたといわれています。

明治以降には近代登山の対象となっています(もちろんドライブウエイは在りませんでした)さらに明治末には川崎義令が千種類に及ぶ薬草を採取しています。

1912年(大正元年)10月山頂の弥勒堂近くに礎石を築き、現代にも残る日本武尊の石像が供養されました。1919年(大正8年)8月1日、山頂に設置された伊吹山観測所が気象観測を開始します。この観測所の建設時には、周辺で古刀や古銭が発掘されています(山岳信仰の遺物ですかね)。さらに大正時代から中山再次郎により、関西におけるスキーの山として注目されるようになります(現在スキー場は在りません)。

1927年(昭和2年)2月14日11.82m の積雪量が観測され、世界山岳気象観測史上1位となる。1929年(昭和4年)5月1日、山頂の観測所が国営の気象庁付属伊吹山測候所となりました。2001年(平成13年)3月31日、伊吹山測候所の観測が終了しています。跡地は2010年に撤去されて更地化されています)。

1950年(昭和25年)7月24日、山腹周辺が琵琶湖国定公園の特別保護地区に指定されます。1967年(昭和42年)3月17日、岐阜県が、岐阜県側の山域を県立伊吹自然公園に指定されました。2003年(平成15年)7月25日、伊吹山頂草原植物群落が、国の天然記念物に指定されています。

1964年(昭和39年)に深田久弥により日本百名山に選定されると、百名山ブームもあり全国的に登山対象の山として知名度も高まっています。1965年(昭和40年)に伊吹山ドライブウェイが開通すると、9合目まで容易に上がれるようになり山頂部は観光地化しました。ちなみに、伊吹山ドライブウェイの料金軽自動車一台で3090円(どか~ン!)一人で行くにはもったいないですね。

【目的の一つ高山植物にがっかり?】

PA141217.jpg(イブキジャコウソウ、もう最後の一輪だそうです)
PA141136.jpg(リンドウ)
PA141219.jpg(固有種、ミヤマコアザミ!ハナムグリが可愛いね。)
PA141137.jpg(やはり日本撫子)
PA141124.jpg(リュウノウギク)

季節が悪かったです。残念、高山植物の最盛期は7~8月だそうです。伊吹山には他では見られない特産種8種あるととされています。イブキタンポポ、コバノミミナグサ、ミヤマコアザミ、ルリトラノオ、イブキアザミ、コイブキアザミ、イブキコゴメグサ、イブキレイジンソウ、ただしイブキヒメヤマアザミを固有種とするサイトも多いようですね。これを加えると9種ということになります。またイブキアザミは伊吹山地と鈴鹿山地北部に固有とされています。これを加えていいのかどうか悩むところですね。追加や変更がある可能性ももちろんあります。

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(白猪ならぬ紅の豚~脂肪どうにかしろ!シャッターをお願いした登山小屋のおじさんごめんね、笑)
PA141178.jpg(最後にミステリーの謎を解く?ヤマトタケル遭難の4合目)
PA141222.jpg(美しい花には毒がある「伊吹トリカブト」これだ~!)


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リュミエールブラン ネージュ

2017/10/18

羽柴秀吉天下取りへの第二歩?「城持ち大名に躍進『長浜城』」

関ケ原を取材してきたので、関ケ原古戦場をご紹介したかったのですが、妻が司馬朗太郎原作の映画「関ケ原」を見に行きたいというので、それでは少し時代を遡る長浜城(ながはまじょう)をそれまでのつなぎにご紹介しておこうと考えて、本日は長浜城のご紹介です。

現在の長浜城資料館はもちろん模擬天守のコンクリート造りなので、秀吉が作った当時の城とは景観もかなり違うとおもいます。そのあたりも前座とは申しませんが、先に登場の要因の一つに成りました。

PA151790.jpg(言われてみれば「白帝城こと国宝・犬山城に似てます。)

しかしながら、天守展望台から四方を見渡すと。東は賤ケ岳古戦場から、浅井氏の小谷城や鉄砲で有名な国友村方面、南は彦根城や、その後ろに佐和山城跡、西を見ると安土城址や比叡の山々、北は三十三観音霊場でも有名な竹生島が一望できる素晴しい景観です。私が登城した当日はあいにくの雨に降られて残念な景観となってしまったのですが、天気が良い日には是非出かける価値はあります。


お得情報として、整備された駐車場が3時間(城内展示と散策には十分な時間です。)無料開放されていました。

さてそれでは、滋賀県長浜市公園町にある羽柴秀吉(豊臣秀吉)が築城した『長浜城跡』をご紹介しましょう。

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【秀吉の長浜城と城下町】

PA151777.jpg(駐車場は少し南側北に通りすぎると戻らなければなりません。)
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(本丸跡・天守閣跡もほんの少し北にあります。)
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(秀吉像・大阪城の豊國神社前の銅像がカッコイイです。)
PA151793.jpg(歴史博物館に成っていますが、古い古典資料の文字が読めたらな~。)

1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、浅井長政攻めの功績により織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に、当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名しました。小谷城で使用されていた資材や、あらかじめ、竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用し築城を開始しました。

他のブロガーさんもWikipediaのこの記載を使われていますが、古来、信仰の対象となった島で神の棲む島とも言われ、奈良時代に行基上人が四天王像を安置したのが竹生島は、南部には都久夫須麻神社(竹生島神社)、宝厳寺(西国三十三所三十番)があり、古来から神仏習合の一大霊場でした。寺社殿建て替え用の、針葉樹林の森が大切に保存されていたのでは推測します。これが密かに隠されていた木材の正体だと思います。

PA151834.jpg(美人薄命、割とよくある人柱伝承、松江城にもありました。盆踊りで人柱を決めたために松江には盆踊りが無いとか?)
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(かなり琵琶湖湖面まで城が有ったようです。水中にも石垣遺跡が残るようです。)
同3~4年頃長浜城が完成し秀吉が入城しています。湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていました。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した形跡があります。そのため、現在でも城下町には当時の面影や名残がありました(一時間半くらいの滞在で長浜全てを見て来たようです、講釈師見てきたような嘘を言い、笑)。秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を徐々に作りあげた場所でもあります。

PA151811.jpg(竹生島が見えますね。)
PA151812.jpg(賤ヶ岳古戦場辺り!)
PA151823.jpg(滋賀県一番の高さを誇る伊吹山先端少しだけ見えています。わかりますか?登って来ました(;^_^A アセアセ・・・)
PA151824.jpg(白い建物の後ろ、彦根城天主見えますか~右に三段櫓も見えますね)

『うんちく「長浜曳山まつり」』は毎年4月9日~16日に、長濱八幡宮の春の例祭に合わせ執行されます。13日~16日は、絢爛豪華な山車「曳山」が登場し、その舞台の上で「子ども歌舞伎」が演じられます(子ども歌舞伎が演じられるのは毎年4台のようです)。曳山は「長刀山」と子ども歌舞伎が演じられる12基とあわせて13基あります。

長浜曳山まつりの由来ですが、秀吉が長浜城主だったころに初めての男の子が生まれました?(誰の事でしょうね)。たぶん羽柴 秀勝(はしば ひでかつ、生年不詳~天正4年10月14日(1576年11月4日))と思われます。羽柴秀吉が、近江長浜城主時代にもうけた子で、幼名は石松丸(いしまつまる)または石松のことと思われます。その他にも織田信長の四男で秀吉の養子に迎えられた於次丸「秀勝」と、秀吉の甥でのちに秀吉の養子となった小吉「秀勝」がいて少しややこしいです。

「石松丸秀勝」の出生を喜んだ秀吉は城下の人々に金(きん)を振る舞い、町民がこれをもとに山車を作って八幡宮の祭礼に曳き回したのが始まりといわれています。

【秀吉城主後の長浜城】

1582年(天正10年)の本能寺の変後、清洲会議で長浜の支配権を獲得したのは柴田勝家でした(秀吉の計略で獲得させられたとも考えられますが)。勝家の甥の柴田勝豊が長浜城の守将として入城ることに成りました。同年末には勝家と対立した秀吉に攻められ、勝豊は城ごと降伏しています。秀吉に見透かされていたのかもしれませんね。

1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い後は、山内一豊が城主となり、6年間在城しています。1586年1月18日(天正13年11月29日)には天正地震により城が全壊し、一豊の一人娘である与祢らが死亡しています。

【関ケ原後の長浜城】

1606年(慶長11年)に内藤信成・信正が城主になりますが(長浜藩)、大坂の陣後の1615年(元和元年)に内藤氏は摂津高槻に移封され、長浜城は廃城になっています。資材の大半は彦根城の築城に流用されました。彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられています。その他、長浜市内にある大通寺の台所門は長浜城の大手門を移したものと伝えられ、今でも矢尻の跡を見ることができるそうです。同市内にある知善院の表門は、長浜城の搦手門を移したものと伝えられています(きれいに解体されていますね)。

PA151688.jpg(彦根城の天秤櫓こちらも国宝です)

現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので、市立長浜城歴史博物館として運営されています。
PA151808.jpg(訪れる価値あり!市郎右衛門)

ハッキリ言って行くだけの価値があるかですが、この地に後に天下人と呼ばれる豊臣秀吉が立っていた。同じ場所に自分自身も立っていると考えると、ほんの一時間程度のお安い買い物?違うか(笑)、一見するのも楽しいいですよ。

歴史って本当に面白いですよね~!
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リュミエールブラン ネージュ

2017/10/16

歴史の禁忌を開放するIF「秀頼野戦を選択」『瀬田の唐橋で家康を迎え撃つ』

前回のお約束、歴史にIFはありませんが、その禁忌を破って、豊臣秀頼が野戦を選んで近畿を制圧、瀬田の唐橋において家康を迎え撃ちます。そんな設定でシュミレーションを楽しんでみましょう。
紀州九度山で 真田昌幸が亡くなる直前 息子の信繁(幸村)に託した 豊臣勝利の秘策に勝利の奇跡は起こるのか?から想像を働けせて見ましょう。

p651349.jpg
(真田信繁(幸村)出したかっただけです。)


【真田昌幸の秘策は、こんな作戦】

豊臣秀頼から兵を借り 青野ヶ原(現大垣市)へ布陣、します。そこは何もないただの平原で何故真田がこんなとこに布陣したのか徳川は疑問に思います。物見などを出してこちらの様子を伺いますが(家康は過去に昌幸に散々に負けた経験があり、真田が無策でこんなとこに布陣したとは考えないと推測します)。そうこうしているうちに一ヶ月は時間を稼ぐ事に成功、真田の小勢が徳川の大軍を一ヶ月も釘付けにしたとなれば、豊臣有利とみて寝返る武将も出てくるのではないかと想像できます。そうなると徳川方に猜疑心が生まれ、混乱も起き始めます。そこを一気に攻め立てて劇はする作戦でした。しかし野戦上手の家康をそうも簡単に敗れるはすはありません。その時は「瀬田の唐橋」を落としてさらに時間を稼ぎ、西国大名の心変わりを待つというものでした。

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【真田幸村の父真田昌幸ってどんな武将?】

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(ちょっと見ずぼらしいいおじいさんですね。草刈正雄フアンの皆さん、期待裏切って申しわけない!)

真田昌幸は現代の歴史小説においては「謀略家」「謀将」として描かれる傾向が非常に強い武将です。もちろん幸村の活躍によって創作された部分も多いかと考えます。 江戸期に書かれた、『真武内伝』が信頼できるかどうかには疑問も持たれますが、これから昌幸の人物像を紹介しますと、「昌幸卒去」の項に死に臨んで信繁に対し、昌幸は九度山幽閉中に家康が近い将来豊臣氏を滅ぼすことを予期していたと記載され、その際には青野ヶ原(大垣市を中心とする西美濃一帯・関ヶ原とほぼ同地点)で徳川軍を迎撃する策などを画し、徳川軍が攻めてくれば巧妙に撤退しながら隙を見ては反撃し、最後は瀬田の唐橋を落として守り、多くの西国大名を味方に付けるように策す事を幸村に遺言したとされています。

戦上手で徳川軍に大損害を与えた真田昌幸、真田昌幸は、基本的に少数で大軍を追い払うことと、調略戦術を得意としていました。第一次上田合戦で徳川家康を撃退した時も、第二次上田合戦(関ケ原前夜です)で徳川秀忠を追い払ったときも、軍勢で大きく劣る相手を挑発して限界までひきつけ、怒涛の攻撃を加えています。

ちなみに、第一次上田合戦で家康と戦った際は2000弱の兵力で7000の軍勢を、第二次上田合戦では3000~4000の軍勢で38000の秀忠軍を打ち払うという離れ業を演じています。

昌幸は自軍手前ぎりぎりまで敵を引き付けての、一斉攻撃が得意でした。攻め入る敵を見て焦る家臣や兵たちを前に碁を楽しんだり、配下の者に能の演目を踊るように命じたなどの逸話もあり、冷静沈着で豪快、戦慣れした名参謀としての名を欲しいままにしています。

CIMG8016.jpg(大阪城ですが、今の城は豊臣の城をつぶして作ったものです。空襲で焼けてコンクリートエレべーター付きです。)
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(幸村死す!安居神社は、慶長二十年(1615)の大坂夏の陣の時、真田幸村(信繁)が 最後を迎えた場所です)

大坂の陣で真田が大阪城に入城したと聞いた徳川家康は、「それは親か?子か?」と配下の者に聞いたという逸話があります。過去に真田昌幸に手痛い目に遭わされていた家康は昌幸を非常に恐れていたらしく、手をかけていた戸がガタガタ音を立てて震えるほどだったといわれています(ちょっと大河ドラマの見過ぎですね)。配下の者が「昌幸は既に死去しており、息子の信繁(幸村)が入城致しました」と返答すると、家康は安堵してへたり込んでいました。

【私が豊臣VS徳川を選んだ理由】

現在の瀬田の唐橋状態が一番防御力に優れていると現地で考えたからです。織田信長が現在の位置に架橋(少し上流に移動しています)しています。架橋奉行は木村次郎左衛門と瀬田城主の山岡景隆で、若狭の神宮寺山と近江朽木から材木を取り寄せ、幅四軒(約7.2m)長さ一八〇軒(約327m)の橋を90日で完成させたといわれます。

P761986549.jpg(浮世絵で見ると中州がちっちゃいんですけど実は!)

明智光秀が本能寺の変で信長を倒すと、光秀が安土を攻めようと橋を渡ろうとしたため、景隆は唐橋と瀬田城を焼いてこれを阻止しました。光秀が仮橋を架けるのに3日かかっています。焼失後の唐橋を架けたのは豊臣秀吉で、そのとき初めて現在の位置に、大小二橋の橋を架けたとされます。(ハッキリしませんが長さ一八〇軒(約327m)の橋は現在の全長260mの橋に比べてはるかに長いですよね、つまり一本橋ではなかったかと考えるのです。

中州を西に持つ現在の形なら、防御力の差は歴然です。実際に一本橋だったと思われる時代の戦乱を見ると、橋を焼き払って防御するしか方法も無く、焼き払って防御した陣営がほとんどの場合負けています。、「壬申の乱(672年 )」、「藤原仲麻呂の乱(764年)」、「寿永の乱(1180年から1185年)」、「承久の乱(1221年)」、「建武の乱(もしくは、延元の乱・1336年4月11日)」等どがその例に成ります。一本橋の上で「や~や~我こそは」とやってた時代はそんなものだったのかもしれませんね。

【真田昌幸の秘策?は実現できたのか?】

関ヶ原の戦いの時代とは異なり、20年の間に、家康は豊臣の力を弱めるために鉄壁とも呼べる布陣を行っています。大阪の陣の頃には、徳川家康の天下普請により築かれた堅城が大阪城を囲うように築かれています。

IMG_5724.jpg(西濃への通り道は彦根城が守る)

西濃への通り道は彦根藩(東国へ到る三関の一つ不破関の西方を治める)は譜代大名筆頭の井伊氏の所領であり、その居城の彦根城は、西国大名が徳川に反旗を翻した際にその軍勢を押し留める事を目的に光成の佐和山城を解体するがごとく、天下普請で築かれた城です。

彦根藩を大幅に迂回する経路(南周り)を進撃しようとしても、伊勢(東国へ到る三関の一つ鈴鹿関)は家康の信任あつい藤堂家が治めています。外様大名でありながら譜代大名格であり、徳川軍の先鋒は譜代は井伊、外様は藤堂という慣例ができた程の家康親藩です。

運よく彦根城を抜いて、美濃に入る事が出来ても、西濃(青野ヶ原を含む大垣藩)は徳川歴代の譜代家臣である石川氏の所領に成っており、その居城の大垣城は関ヶ原の合戦の際に家康がこの城に篭った西軍との決戦を避けて迂回し関ヶ原に布陣したほどの堅城です。複雑に絡み合った河川と水壕で大垣は水の都と呼ばれ、大垣城は巨鹿城とも呼ばれていました。

CIMG6670.jpg
(名古屋城、大垣もあるけどまだUPして無いので、ごめんなさい。)

さらに、美濃国には家康の娘婿たる奥平信昌が立藩した加納藩が控えていますし、しかも美濃の隣国尾張には御三家筆頭となる家康の九男、徳川 義直(とくがわ よしなお)が守っているのです。先日尾張城がさらに堅固な守備機能を持とうとしていた、古図面も確認されましたね。

それなら東国へ到る最後の三関の愛発関。越前(北周り)は、家康の次男秀康が立藩した福井藩(67万石)があります。

『うんちく三関(さんげん、さんかん)』とは、古代の日本で畿内周辺に設けられた関所の内、特に重視された三つの関の総称です。三国之関とも呼ばれた。当初は不破関(美濃国、現在の岐阜県不破郡関ケ原町)、鈴鹿関(伊勢国、現在の三重県亀山市近辺)、愛発関(越前国、現在の福井県敦賀市内)の三つを指したが、9世紀初頭に逢坂関(相坂関。近江国、現在の滋賀県大津市付近か)が愛発関に代わりました。また、三関のある律令国は三関国と呼ばれています。

結論から言いますと真田昌幸の策は無理だったと考えます。それでは、豊臣側に勝機は無かったのか?と考えるのですが、私は「瀬田の唐橋」で家康を迎え撃つ方法なら勝利できたと、現地を見て考えました~(*^^*)

【豊臣勝利の法則「瀬田の唐橋」】

大阪冬の陣の時点の双方の勢力です。徳川将軍家側約20万、豊臣側約9万でした。私の構想では豊臣側は半数の4万5千でも勝利できたのではないかと考えます。

幾つか条件が在るのですが、まず天皇です。後水尾天皇(ごみずのおてんのう)第108代天皇(在位:慶長16年3月27日(1611年5月9日) ~寛永6年11月8日(1629年12月22日))を調略する事です。後陽成天皇の第三皇子ですが、母は、関白太政大臣・豊臣秀吉の猶子(兄弟や親族の子などを自分の子として迎え入れたもの。義子)で後陽成女御の中和門院・近衛前子ですから意外とすんなり調略できるかもしれません。さらに当然幕府を開くことは政治から切り離されることであり、天皇としては喜ばしい事ではないはずです。

次に天皇の綸旨を発して西国の武将を味方に付けます。実際味方につけなくても家康の誘いに乗らないだけで充分です。

【いざ決戦~】

PA080294.jpg(逃げ道無いでしょ。まあ川に飛び込むくらい?)
PA080303.jpg(西は直ぐなので補給が簡単。)
PA080308.jpg(東は必死で逃げる~)PA080322.jpg(お水頂戴が届きそうです。)

畿内を手中に治めた、豊臣軍の本体は「瀬田の唐橋」で家康軍を迎え撃ちます。一部一万は福井藩秀康の牽制に向かいます(牽制して軍を止めるだけで充分です)。
一万は南下して桂川を牽制(山崎の橋はもったいないけど落とします)に向かいます。これにより渡河できるのは瀬田の唐橋のみです。さらに、もう一万は(必要ないかもしれませんが)姫路の池田家に備えて湊川を守備します(池田家は徳川家と親族関係に有りもしかすると?の懸念があります)。

西国の武将は九州には関ヶ原敗戦組の島津家の動向が気になって動けないでしょうし、中国地方も同様に毛利家が後ろに控えていますから、そう軽々には動けませんね。土佐に入った山内家も長宗我部の残党に苦しめられているので四国も動きは無いと考えました。

さあ舞台は整いました。豊臣軍の残存勢力は6万ですが、対する徳川将軍家は、前述の事情で、20万から2割減の16万ほどに減っている筈です。決戦はもちろん『瀬田の唐橋』です。出来れば西側正面に新真田丸でも築けば完璧ですが(笑)。



ここで現在の航空写真をご覧いただきましょう。中州が意外に多きい事に気が付かれましたか?大きな駐車場やレストラン、食堂など実際の地図は浮世絵とは全く違います。攻める徳川軍は7.5m幅の橋を200mも攻め込まなければ前線での戦いは出来ませんし、橋の幅は7.5mしかありません、横に並んで戦えるのは、10人が限度だと考えます。徳川軍は最前列の50人程度が戦闘に参加できたら精一杯ではないでしょうか。

一方豊臣軍は中州の両側に2000人ずつ位は入れると現地で感じました。正面には3000人!ちょっと、ぎゅぎゅう詰めですが(実質戦闘参加は500人程度かと考えます。)、それでも徳川軍の10倍の戦力の上にこちら(もう西軍の味方、笑)は1人に対して3方向(中州南北と西側)から攻め込めます。城でいえば桝形構造のうえに鶴翼陣形。それが小橋のお陰で二重に配置出来る所に、更に地形の有利さが有ります。対する徳川軍は突撃して突き破る以外に方法はありません。

戦いが始まれば、損失の差は数だけでも10:1ですね、単純に考えれば初戦?の徳川勢2万人が突撃して、戦闘不能に落ちいった時点で、こちら(豊臣軍)の損失は2000人です。200mの橋の上で引くこともできない徳川軍に対してこちらは60mで補給ができます。豊臣軍の損失は2000を毎回補うこととすると、徳川軍が14万に成った時点でこちらは58000人、12万で56000人、10万で54000人、8万人で52000人、6万人で5万人、4万人で48000人!もういいでしょう。家康軍が壊滅した時点で、豊臣軍は44000人が残っていることになります。

PA080327.jpg(瀬田の唐橋)
PA080336.jpg(美しいけど怖いです~!)
PA080363.jpg(古代から戦争に次ぐ戦争!)

「瀬田の唐橋」での豊臣勝利後の展開ですが、家康ももちろん歴戦の強者です。自軍が壊滅するまでの戦闘は行わないと考えますし、一度関東に引いて態勢を整えようとするはずです。豊臣軍?は、「瀬田の唐橋」を最前線に畿内連合を作って真田昌幸が提唱した、少しでも多くの西国大名と条約を結び時を稼ぐ作戦を取ります。史実でもそうですが、大阪夏の陣の二年後家康は天ぷらにあたって死亡しています(事実か知りませんよ?笑)。対する秀頼、史実は(享年23「満21歳没」)でしたから、これからですよね~天下の形勢がどちらに傾いたかは、考える必要も無いでしょう。

【最後に、歴史のIF「taboo」は本当に面白いですよね】

首都は京都か大阪でしょう。明治維新も起こらなかったと思いますね~。アッ!大学とかで歴史を学んでいたらこんなおとぎ話をブログに書いたりはしないと思います。
私が歴史に素人で、理系の人間だから面白可笑しく考えてみました。皆さんどうですか?楽しんでいただけました?(笑)


(最後にプレゼントです。笑)

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リュミエールブラン ネージュ

2017/10/14

伝説と歴史に彩られる『瀬田の唐橋』②

瀬田の唐橋の続編です。瀬田の唐橋が歴史に登場する事件は、まだまだ有りますよ~。今日は、戦国自体から現代(あんまり意味が無いかもですが)迄をお送りしたいと思います。

瀬田の唐橋(せたのからはし)は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる橋(現在はコンクリート、勿論昔は木材です)です。全長260mの長さを誇ります。滋賀県道2号大津能登川長浜線がこの橋を渡っていて、「勢多の唐橋」とも書き、「瀬田の長橋」とも言われています。

P761986549.jpg(安藤広重(歌川広重)の『近江八景』シリーズのひとつ「近江八景・瀬田の夕照」)


京都の宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋・日本三大古橋の一つとされてきました。また、1986年(昭和61年)8月10日の道の日に、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された、「日本の道100選」にも選ばれています。前回と同じじゃない!

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【初恋の君が本を出版されたのでご紹介します】

初恋の君!「坪内美樹」さんが本を出版されました~(*^^*)。素敵な本なのでご紹介します。

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(写真はこちらもお友達の同級生のくー子ちゃんからはいしゃくしました)

中学生・高校生と憧れの君だった美樹ちゃん、初恋の相手っていくつに成ってもドキドキするんものですよね、おじさんなのに面白いですよね、勿論やけぼっくいにも火が付く何て事は間違っても、無いので誤解の無いようにハッキリしておきましょう。私の片思いでしたし、告白して振られたとは明記しておきます~。(ToT)

それでも、私が好きに成っただけのことは有るぞというご活躍です。ブログもリンクさせて頂きますので、ご覧下さい。
坪内美樹のGood Luckブログ

【歴史と伝説「戦国から現代へ」】



さて本題ですね!東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡るか、もしくは南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川(迂回って、瀬田川、宇治川、淀川と名前を変えて大阪湾に流れ込むからどこかで渡河しなければ成りません)を渡る必要があるのです。1889年(明治22年)まで瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は、交通の要衝でもあり、京都(平安京)防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われて来ました。唐橋を舞台として繰り広げられた、壬申の乱、寿永の乱、承久の乱、建武の乱など、古代から様々な戦乱に巻き込まれています。

【突然うんちくクイズ~(* ̄∇ ̄)ノ】

平安京はいつまで続いたでしょうか?

歴史好きには当たり前なのですが、「鎌倉時代!」と答えた皆さん、間違いですよ~(*^^*)、引っかけ問題ですが、いがいにだまされませんか?平安京は明治になるまで続いて京都に有りました。「平安京時代はいつまで続いたでしょう?」と質問しないところが肝なんですよ。
クイズも楽しんで日本史を好きになってくださいね。

【戦国時代から現代まで】

PA080294.jpg(今日も瀬田の唐橋は美しいです。)
PA080335.jpg(ボートやバス釣りの方が多くて驚きました。)
PA080322.jpg(二重になった短い方です。左折用に路線が増えました。)

唐橋を現在の位置に移したのは織田信長でした。架橋奉行は木村次郎左衛門と瀬田城主の山岡景隆で、若狭の神宮寺山と近江朽木から材木を取り寄せ、幅四軒(約7.2m)長さ一八〇軒(約327m)の橋を90日で完成ました。中州(島)をはさんだ大橋と小橋の形となったのはこの時からと考えられます。

それ以前の戦いでは中州があったにもかかわらず一本の大橋だったわけですね。都守備側には不利な構造だったと言えます。明智光秀が「本能寺の変」で信長を倒した後の天王山の戦いまでの間に、光秀が安土城を攻めようと橋を渡ろうとしたため、山岡景隆は唐橋と瀬田城を焼き払ってこれを阻止しました。明智光秀が仮橋を架けるのには3日を要しました。

焼失後の唐橋を架けたのは豊臣秀吉で、そのとき初めて現在の位置に、大小二橋の橋を架けたとされます。

【江戸時代になると】

PA080330.jpg(この橋が無いと機内には入れません。「近江八景・瀬田の夕照」は最初に召せました。)


瀬田の唐橋は安藤広重(歌川広重)の『近江八景』シリーズのひとつ「近江八景・瀬田の夕照」に描かれ、往時の唐橋の様子をよく表しています。

瀬田の川橋は、膳所藩(本多家)が管理し、東海道の要所として発展しました。江戸幕府は、瀬田川に唐橋以外の他の橋をかけることを禁じ、膳所城主に保護監理の任務を課しました。1795年(寛永7年)~1894年(明治27年)までの100年間で、18回の架け換えの記録が残っています。

【明治以から現在】

1875年(明治8年)12 月には国が、1895年(明治28年)3 月には県が、ともに木造にて架替えを行っています。
1919年(大正8年)に道路構造令が公布されたのを機に、翌1922年(大正11年)4月に事業費47万円(当時)をかけて事業に着手し、1924年(大正13年)6月に、これまで木造であった橋が、はじめて鉄筋コンクリート製の橋に架け替えられました(風情は無くなりましたねぇ)。

その後、補修は何度も繰り返えし行われましたが、1974年(昭和49年)に本格的な架橋工事が行われ、1979年(昭和54年)に現在の橋が竣工されました。橋の特徴である擬宝珠は歴代受け継がれており、「文政」「明治」などの銘が入ったものも現存しています。1995年(平成7年)、瀬田唐橋の小橋に右折レーンの設置工事が行われ、1997年(平成9年)に完成しています。2012年(平成24年)には、唐茶色に塗り替えられ、現在に至っています。

【面白うんちく逸話特選】

戦国時代の武将である武田信玄は、臨終の際に「瀬田橋に、風林火山の我旗をたてよ」と言ったといわれますが、この逸話は、山を越えればすぐに京都・奈良に通じる瀬田唐橋が、軍事上の要害として重要な位置を示していたことが伺い知れるエピソードの一つになっています。

江戸時代初期の安楽庵策伝『醒睡笑』巻二は連歌師・宗長の歌を引用し、「急がば回れ」の諺の発祥であると紹介されています。
「武士(もののふ)のやはせのわたりちかくともいそかはまはれ瀬田の長はし」、東から京都へ上るには矢橋(やばせ)の港から大津への航路が最も早いとされていましたが、その反面、比叡おろしの強風による船出・船着きの遅れも少なくありませんでした。 瀬田まで南下すれば風の影響を受けずに唐橋を渡ることができ、日程の乱れも起きないことから、これを「急がば廻れ」と詠んだものであると言われました。

 松尾芭蕉も旅の途上にてこの橋について「五月雨に隠れぬものや瀬田の橋」「橋桁の忍は月の名残り哉」の二句を詠んでいます。

千利休が弟子達の集まっている席で「瀬田の唐橋の擬宝珠の中に見事な形のものが2つあるが、見分けられる人はいないものか?」と訊ねました。すると一座にいた古田織部は急に席を立ってどこかに行ってしまいます。夕方になって戻ってきた織部は、利休が何をしていたのか訊ねると「例の擬宝珠を見分けてみようと思いまして早馬で瀬田に参りました。見事なものと言われました2つの擬宝珠は東と西の、これとこれではありませんか??と答えました。利休をはじめ一座の者は織部の執心の凄まじさに感心したと言われています。へうげ者と呼ばれた古田織部ならではの逸話だと思いませんか?

PA080328.jpg(織部が探し出した、擬宝珠はどれなんでしょうね~?)
PA080312.jpg(架け替えによって無くなっていますね~笑!私馬鹿ですね~!)

【最後に】

瀬田の唐橋の防御力について私なりに考察してみました。織田豊臣時代以前は、一本の大橋だったために東からの攻撃側の勝利も数多くありますが、現在の様な二橋の唐橋構造ならば、五倍の軍勢にも負けることはないと確信しました。次回は、真田幸村が籠城戦を用いずに瀬田の唐橋を手中にした場合を例に挙げて、家康との戦を検証をしてみたいと思いますので、お楽しみにしてください。
PA080354.jpg(珍しい水位観測所が有るのご存知でした?)
PA080356.jpg(こんなちっちゃな場所なんですが。)
PA080360.jpg(明治から平成4年まで使われていた、オランダの測量機これもまた歴史ですね。)

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リュミエールブラン ネージュ

2017/10/12

伝説と歴史に彩られる『瀬田の唐橋』①

今日は日本三名橋の一つ、瀬田唐橋(滋賀県大津市/瀬田川)をご紹介する予定なのですが、日本三名橋については、まず日本橋(東京都中央区/日本橋川)、錦帯橋(山口県岩国市/錦川)、眼鏡橋(長崎県長崎市/中島川)という意見があります(瀬田唐橋入っていない)。

さらには今回の瀬田唐橋(滋賀県大津市/瀬田川)、二重橋(東京都千代田区/皇居の濠)、三条大橋(京都府京都市/鴨川)の意見やウィキトラベルだと、三奇橋として錦帯橋(山口)・猿橋(山梨)・かずら橋(岩国)が選ばれています。

さて今回は歴史に基づいて、日本三古橋の宇治橋(京都府宇治市/宇治川)、山崎橋(京都府八幡市・大山崎町/淀川)、と瀬田唐橋を、日本三大橋と理解して、ご紹介したいと思います。
ちなみに山崎橋(やまさきばし)は、かつて山城国山崎–橋本間(現在の京都府乙訓郡大山崎町–八幡市橋本間)で淀川に架かっていた橋です。日本三古橋の筆頭として、山崎太郎と呼ばれましたが、現在は存在していません。

PA080294.jpg(瀬田の唐橋、ボートが行き交う優雅ですね。)


それでは、滋賀県大津市にある、瀬田川にかかる橋、瀬田の唐橋をご紹介しましょう。

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【その前に(まだあるのかい)自慢話を一つ】

(是非ご覧ください)

昨夜Facebookのお友達にはお知らせしたのですが、ブログランキングの「ブログ村」日本史部門で初めて一位を獲得しました~(喜)もちろん一日だけです。(笑)先日、現在一位の「しばやん」さん(URLをご紹介する必要もないでしょう。一位なのですからね~)とコメントでお話させていただきました。ブログがとても素晴らしいのはもちろんですが、人柄や知識にも圧倒されました。
とてもじゃないが、私の様な文章も書いた事のない、理系の人間が追いつけるレベルではありえないと思っておりました。

しばやんさんから「素敵なブログを書かれますね」とコメントされた時には、お世辞とわかっていながらうれしくてふるえてしました。そのトップブロガーさんにたとえ一日でも追いつけたことは、大きな自信につながりました。二年間ブログを書いて来てこれほど諦めなくてよかったと思った日はありませんでした。

これもひとえに、応援してくださった皆様と、支え・励まし・教授してくれた。ブログ仲間の皆さんのおかげです。これからももっともっと努力して、今回のように一日天下ではない一位を目指しますので、これからもよろしくお願いいたします。

【瀬田の唐橋(せたのからはし)に話を戻して~】



PA080303.jpg(中州が有るので、長い橋と短い橋が有ります。こちらは短い方)
PA080322.jpg(信号までの長さです交通量も多いですね。)
PA080343.jpg(下から撮影すると風情が無いですね~コンクリート橋)
PA080346.jpg(ビニール袋はゴミ箱に捨てようね、水草があります。バリスネリアか!和名はとちかがみだったかな?)

瀬田の唐橋(せたのからはし)は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる橋の名前です。全長260m。滋賀県道2号大津能登川長浜線がこの橋を通過しています。「勢多の唐橋」とも書かれ、「瀬田の長橋」とも言われています。

京都の宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋・日本三大橋の一つとされてきました。また、1986年(昭和61年)8月10日の道の日に、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定されました、「日本の道100選」にも選ばれています。

【歴史と伝説「古代から室町」】

PA080308.jpg(こちらは長い橋です。瀬田川の文字ですね。)

戦国時代から現代までは次回のお楽しみです。立地ですが、東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡るか、もしくは南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要があります。1889年(明治22年)まで瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は、交通の要衝であり、京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われて来ました。実際に唐橋を舞台として繰り広げられた、「壬申の乱(672年 )」、寿永の乱(1180年から1185年)、承久の乱、建武の乱(もしくは、延元の乱・1336年4月11日)など、昔から様々な戦乱に巡り合ってきました。

本格的には近江大津宮遷都の時に架橋されたと考えられますが、当時は現在の位置より65m南の龍王社・雲住寺を東端としていたようです。

唐橋が架けられた年代は不詳ですが、神功皇后の時代にはすでにあったと考えられ、摂政元年、香坂皇子と忍熊皇子が反乱を起こしたとき。忍熊皇子は神功皇后(応神天皇の母)の家来である武内宿禰の軍に攻められ、瀬田で自害したとされます(『日本書紀』 気長足姫尊 神功皇后)。

こちらを参考にしてください。
 ①謀略の偽陵なのか?「五色塚古墳」に浪漫を求めて!

「壬申の乱(671年)」では、大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となりました。大友皇子方が、橋板をはずして大海人皇子方を待ち受けたが、突破されて滅んでいます(私的には瀬田の唐橋は城にも匹敵する鉄壁の防御力だと考えるねですが)。御霊神社(滋賀県大津に在る四つの御霊神社の内三つの主祭神は大友皇子です(『日本書紀』天武天皇&上 元年七月)。これが瀬田の唐橋の文献上に見られる初見です。。

「藤原仲麻呂の乱(764年)」孝謙太上天皇・道鏡と対立した太師(太政大臣)藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)が軍事力をもって政権を奪取しようとして失敗した事件です。または、恵美押勝の乱とも言われ、宇治から近江を取ろうとした恵美押勝に対して、孝謙上皇方は田原道(関津遺跡)を通って瀬田の唐橋に先回りし橋を焼き落とします。押勝は高島郡に走りますが、滅びてしまいました(『続日本紀』淳仁天皇天平宝字八年九月)。

【平安時代はよく焼ける木の橋ですから】

870年1月9日(貞観11年12月4日)に火事(『日本三代実録』巻十六)。871年12月19日(貞観13年11月4日)に火事(『日本三代実録』巻二九)。『延喜式』主税式によれば、近江国の国司の管理下に置かれています。近江国の正税・公廨稲から「勢多橋料」1万料が拠出され、その出挙収入によって橋の維持が行われました、橋の建て替えは朝廷への報告義務が有ったようです。

【俵藤太「藤原秀郷」の伝説】

PA080302.jpg(俵藤太大ムカデ退治伝説の看板がありました。)

「俵藤太大ムカデ退治伝説」、近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなりましたが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまいます。その夜、美しい娘が藤太を訪ねて来ました。娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で、昼間藤太が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えた姿だったのです。娘は龍神一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願しました。

藤太は美しい娘の話に快諾し(いつでも美女には弱いよね)、剣と弓矢を携えて三上山に臨むと、山を七巻き半する大百足が現れます。藤太は矢を射たが大百足には全く通じません。最後の1本の矢に唾をつけ、八幡神に祈念して射るとようやく大百足を退治することができました。藤太は龍神の娘からお礼として、米の尽きることのない俵などの宝物を贈られます。また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、討ち取ることができたといわれています(この伝説自体が「平将門の乱平定」から作られたと思って間違いないでしょう)。

【蜻蛉日記と更級日記】

PA080327.jpg(まさしく瀬田の唐橋です。)

「更級日記(竹芝伝説の章)」で、下男と帝の娘が京から武蔵国へ逃走する際、追手から逃れるため瀬田橋を破壊したとの記述があり、当時から交通の要所であったことがうかがえます(下男といえど帝の娘と駆け落ち?する度胸が有れば、橋くらいは破壊するかもしれません)。「更級日記」の作者は菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標の次女菅原孝標女で、母の異母姉は『蜻蛉日記』の作者藤原道綱母です。970年8月25日(天禄元年7月21日)に藤原道綱母(作者本人)が明け方に船で勢多橋を渡河の記録が有ります。題名は日記のなかの文「なほものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし」からつけられています。

【鎌倉・室町の戦】

治承・寿永の乱(源平合戦) 1183年(寿永元年)に源義仲対平家が戦います(ちなみに1183年は現代歴史でも鎌倉時代ではありませんが(-"-;A ...アセアセ)。『平家物語』において源義仲は、朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれています。

以仁王の令旨によって挙兵、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京します。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となります。1184年(寿永2年)に源義経対義仲の合戦があった際に、源範頼が攻める瀬田橋の橋板をはずして守っていたのは今井兼平でした。宇治で義経に敗れた義仲と合流しますが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれています。

「承久の乱」では1221年(承久3年)、後鳥羽上皇の京軍(山田次郎重忠が率いる比叡山の僧兵三百騎)と北条義時の弟・時房率いる鎌倉幕府軍が瀬田川を挟んで交戦しました。結果はご存知ですよね~。
後鳥羽上皇は隠岐島(隠岐国海士郡の中ノ島、現海士町)に配流され、隠岐島で亡くなっています。百人一首99番目の歌人「人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は」ですね。(人を愛しくも恨めしくも思う。世の中も自分の思い通りにならなくて悩んでしまう)という感じですか?ちなみに16弁の菊の御門、後鳥羽上皇が作者です。


「建武の戦い」 1336年(建武4年)、足利直義率いる足利勢と名和長年率いる朝廷軍が瀬田川を挟んで交戦。足利尊氏は南下して宇治川で楠木正成に勝利し、京都へ進攻しました(宇治川は渡河できたんですね)。

「観応の擾乱」 1350年(観応元年)12月4日、足利直義派の伊勢・志摩守護石塔頼房が上野直勝とともに近江に進出し、近江守護軍と交戦しました。その日のうちに瀬田へ進出し、唐橋を焼き払っています(観応の擾乱 、こちらは 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦いです) 。

PA080363.jpg(4人乗りルスカル、良いですね~!)
PA080335.jpg(やはりこれでなきゃね~水面も綺麗です。笑)

【最後まで戦乱】

このように、瀬田の唐橋は古代からずっと日本の栄華と衰退を見て来た橋といって過言ではありません。次回は戦国時代から瀬田の唐橋の面白エピソードをご紹介します。

歴史って本当に面白いですよね~!
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