2017/09/12

但馬の小京都「出石」の名物!『辰鼓楼』と『おりゅう灯籠』

関西人で「出石のお蕎麦」を知らない人はいないかもしれませんが、関東の方々は意外に知らないかもしれませんね~。
まず、出石を「いずし」と読むことがむずかしいかもしれません。「でいし」と思われるかもしれませんものね。

兵庫県豊岡市の出石(いずし)の由来は、古代に新羅の王子である天日槍(アメノヒボコ)が渡来してきて現在の出石に住み着き、天日槍が持っていた「出石の小刀」という宝刀に由来するそうです。

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(出石神社裏に在る禁足地、天日槍の墓だと思っているのですが?)


『日本書紀』では、垂仁天皇3年3月条において新羅王子の天日槍が渡来したと記されます。天日槍は自分を新羅国王の子であるといい、日本に聖皇がいると聞いたので新羅を弟の知古(ちこ)に任せて自分は日本への帰属を願ってやって来た、と語っています。その際に次の8宝、羽太の玉(はふとのたま)または葉細の珠(はほそのたま) 1箇・足高の玉(あしたかのたま) 1箇・鵜鹿鹿の赤石の玉(うかかのあかしのたま) 1箇・出石の小刀(いづしのかたな) 1口・出石の桙(いづしのほこ) 1枝・日鏡(ひのかがみ) 1面・熊の神籬(くまのひもろき) 1具・胆狭浅の大刀(いささのたち)1口・を献上し諸国をめぐった後に但馬国出石に定住します。

出石の由来話は、後世に作られた物語のような気がしますね~(笑)。

やはり私としては、但馬で唯一残る城「出石城」をご紹介したいのですが、小京都といわれる町の魅力もご紹介したいので、今日は『辰鼓楼』と『おりゅう灯籠』をご紹介します。

それでは、『市郎右衛門』の歴史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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(出石神社のお正月3日目!)


【「辰鼓楼(しんころう)」って何だろう】

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(「辰鼓楼」ただいま修理中で訪れても見られませんよ~)
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(辰鼓楼は元大手門でした。)
CIMG3145.jpg(設計図説明版)

辰鼓楼(しんころう)は、兵庫県豊岡市出石町の出石総合支所敷地(旧出石町役場、旧弘道小学校敷地)にある明治時代初期の時計台です。豊岡市出石伝統的建造物群保存地区を代表する建造物です。

楼閣本体は1871年(明治4年)に完成します。元々は辰の刻(7時から9時)の城主登城を知らせる太鼓を叩く楼閣でした。旧藩医の蘭方医、池口忠恕が大病を患った際、多くの人々が病気快癒の願掛けをしました。忠恕は回復後、病気中出石の人々に多大な精神的支援を受けた感謝の意思を形にしたいとして、時計技師2名を招くとともにオランダ製の機械式大時計を取り寄せ寄贈しました。これによって1881年(明治14年)より現在の姿の時計台とまりました。以後、弘道小学校では機械式時計の錘(おもり)を掛け替えるのが児童の大事な役割となります。現在は時計本体は入れ替えられて機会電波時計になっているそうです(最後のところは市郎右衛門の想像です)。

CIMG3144.jpg(そう、戦国大名山名氏が作った有子山城、今回熊出没注意で登山できず!)
CIMG3149.jpg(あの山の上です。有子山~や~い!)

【日本最古の時計台】

日本最古の時計台とされることが多いのですが、時計台となったのは1881年(明治14年)であり、1878年(明治11年)完成の札幌農学校演武場に時計塔(札幌の時計台)が設置されたのも1881年です。どちらが古いかは今一つ決め手に欠けます。しかし、建物から独立した洋式時計台、一般市民が時刻を共有するための洋式時計台、国以外が設置した洋式時計台としてはこれより古いものは知られていません。

ちなみに、札幌の時計台を見ましたが、ビルの谷間に挟まれて「ええっ~これ?」って感じでした。断然『辰鼓楼』の方が風情があります。出石町民よ誇りを持とう~!(札幌いえ、北海道の皆さん悪気はありませんからお許しください、郷土愛のなせる業です。)

【涙が止まらない『おりゅう灯籠』秘話】

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(灯篭といっても半端ない力強さです。)
DSC_0020.jpg(凄いですね何十万石の藩なんだって感じの看板ですがちっちゃい藩ですし、その上に・・・またの機会に!)

かつては日本海より三十石船が入れるほど広かった谷山川(旧出石川)の大橋東詰にあった船着場の灯籠です。

「おりゅう」という名の由来は、鎌倉時代の悲恋物語の主人公「おりゅう」にちなんだものとされています。灯籠のすぐそばには柳の木があり、おりゅうと恋人が寄り添う様子に似ていることから名づけられました。現在では常夜灯として使用されています。

城下町出石に伝わる悲恋の物語、今から七百年ほど前、出石川は町のまん中を流れ、大きな船が往来して、毎日賑わっていました。そのころ、出石のある豪族の屋敷には若い侍が暮らしていました。彼は書を学び、武術を練習し、凛々しい青年に育っていきました。
屋敷には、おりゅうという心優しい美しい娘が奉公していました。お互いに惹かれ合う二人は、たちまち恋に落ちます。しかし、身分の違いの恋はは実ることはありませんでした。おりゅうは里に帰されてしまいます。そんな時、日本に蒙古軍が攻め込んできました。蒙古襲来です。

武術に優れた若い侍は九州の防衛のために、あわただしく旅立っていきました。愛する彼の出征を聞いたおりゅうは船着き場に走りました。しかし、彼をのせた船は見る見る遠ざかってしまいました。

それから数ヶ月後、彼の戦死の報が屋敷にもたらされました。おりゅうの体が出石川に浮いたのは、その数日後でした。以後、大雨のたびに出石川は氾濫します。人々は、これはおりゅうの悲しみの現れだと語り合いました。そして、これを鎮めるために、船着き場にほこらを建てて供養し、そのそばには灯籠も建てました。その灯は、上り下りする船の船頭たちの道しるべになり、「おりゅう灯籠」とよばれるようになりました。今も、出石川の橋のたもとに、おりゅう灯籠は建っています。

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(オッ!現役赤ポス、ヤッパリいい味出しますね~寄り添うような灯篭としなやかなな柳です。)

ちなみに、元寇(げんこう)は日本の鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称です。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)といいます。

【最後に「但馬太田文」】

但馬で一番古い文章といわれる「太田文」。もちろん太田氏の事が書いてあるのですが、承久の乱では後鳥羽上皇と鎌倉幕府執権である北条義時を天秤にかけて、義時に従い但馬守護の地位を得ています。更には、後醍醐天皇が元弘3年 / 正慶2年(1333年)、太田氏と血縁の名和氏に護られて船上山に御幸された事を知ると、太田守延(太田氏当主)は意を決して後醍醐天皇皇子、恒良親王を奉じ錦の御旗を立てて、山陽山陰の兵を集めて都を攻める左衛門中将・源忠顕の軍と合流しました。「機を見るに敏」な太田氏でしたが、最後気が緩んでしまいました~。

討幕軍は都に迫り、守延らは人を京中に入れて火を放ち、火勢に押されて退く賊軍を追って六波羅を攻めますが、新手の軍に遭遇して敗走の途中、田のぬかるみに足を取られ馬が転倒し、追手に捕らえられて首を打たれてしまいました。最後がちょっとさみしいいですね~(寂)

『おりゅう灯籠』の若武者も太田氏の一族だったかもしれませんね?同級生にも太田君居るんですよ~子孫かもしれません。

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歴史って本当に面白いですよね~!
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