2017/09/04

『出雲 阿国 』、天下へ歌舞(かぶ)く!!!

歌舞伎といえば、先日最愛の奥様「小林麻央さん」がお亡くなりになった市川海老蔵さんが有名ですよね、末期の癌を宣告されながら、笑顔を絶やさなかった麻央さんの姿がすばらしいと、話題になりました。

市川さんの家は、江戸歌舞伎の代表的な家系で、市川團十郎と市川海老蔵の名跡を持ちます、屋号の成田屋は、梨園でもトップの家系なのだそうです。ちなみに梨園とは、唐の玄宗皇帝が、宮中にある梨の庭園に子弟や宮女を集めて、舞踊や音楽を学ばせたということから名づけられています。

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(稲佐の浜に立つ阿国です。)

しかし私は、かぶき者といえば漫画「花の慶次」や隆慶一郎の小説「一夢庵風流記」の『前田慶次』をつい思い出してしまうのですが、皆さんはどうですか?前田慶次(前田利益、前田慶次郎)は戦国時代の武将で加賀百万石の礎を築いた前田利家の甥にあたる人物ですが、歴史的にはそれほど活躍もしておらず、現存する資料も少ないようです。しかし、慶次郎(利益)は高い教養を持ちながら、常日頃世を軽んじ人を小馬鹿にする悪い癖があり、その逸話が面白可笑しく脚色されて人気者となっています。

さて今日は、「市川團十郎」の紹介でも「前田慶次」の紹介でもありません。歌舞伎の創始者といわれる人物『出雲阿国』をご紹介したいと思います。

それでは、『市郎右衛門』の歴史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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【いつもの、出雲 阿国って誰?】

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(お盆前で一般のお墓も有りまして、人のお参りも多かったです。)
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(小高い丘の上に在ります。)
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(いつもと違い階段も少しだけです。)
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(説明版、まあまあですか(;^_^A ・・・)

出雲 阿国(いずもの おくに、元亀3年?(1572年)没年不詳)は、安土桃山時代の女性芸能者です。ややこ踊りを基にしてかぶき踊りを創始したことで知られており、このかぶき踊りが様々な変遷を得て、現在の歌舞伎が出来上がったとされます。しかし服部幸雄(歌舞伎研究家、芸能研究家、日本文化史家、千葉大学名誉教授)は、阿国かぶきは中世以来の女性芸能の一つに過ぎず、歌舞伎の成立は若衆歌舞伎からだと推察されています。

名古屋山三郎と関係するともいわれ、「山三郎が夫である」、「山三郎の亡霊の役を演じる男性とともに踊った」といった解説がなされることもありますが、前者は伝説ともいわれており、後者も信頼性が定かとは言えないようです。資料にしか登場せず、信憑性が疑わしいようです。

現在では阿国と表記することが多いようですが、この表記は17世紀後半以降に彼女が伝説化してから広まったもののようです。歌舞伎創始期について語る場合は、彼女と同時代の資料にしたがって国、もしくはお国とするのが適切です。また、「出雲のお国」という呼称も同時代の資料には見られず、お国が出雲出身かどうかも学術的に決着がついていません(え~~~!今回お墓まで撮影してきたのに?)。f(^_^;

【阿国歌舞伎発祥地と生涯】

前述のようにお国が出雲出身かどうかは決着がついていないものの、出雲国杵築中村の里の鍛冶中村三右衛門の娘といわれ、出雲大社の巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったといわれています。

阿国本人かは不明ですが、慶長5年(1600年)に「クニ」なる人物が「ヤヤコ跳」を踊ったという記録(時慶卿記)があり、この「クニ」が3年後の慶長8年(1603年)に「かぶき踊」を始めたと考えられています。『当代記』によれば京で人気を得て伏見城に参上して度々踊ることがあったといわれています(つまり秀吉に呼ばれたということですね)。

慶長8年5月6日に女院御所で踊ったという記録があり、文献によって踊ったものの名称が「ヤヤコ跳」「ややこおとり」「かふきおとり」と異なっています。この事と記述の内容から考えて、慶長8年5月からあまり遡らない時期にかぶき踊というあらたな名称が定着したのだと考えられているようです。内容面でもかわいらしい少女の小歌踊と考えるややこ踊から、傾き者が茶屋の女と戯れる場面を含むようなものに質的に変化した様子がうかがえます。なお、お国がかぶき踊りを創始するに際して「念仏踊り」を取り入れたとする記述が一般向けの解説書や高校生向けの資料集などに書かれている事がありますが、これは俗説の域を出ず、ややこ踊の一座やお国が念仏踊りを踊った可能性は低いようです。

その後「かぶき踊」は遊女屋で取り入れられ(遊女歌舞伎)、当時各地の城下町に遊里が作られていたこともあり、わずか10年あまりで全国に広まりましたが、のちに江戸幕府により禁止されています。もともとお国が演じていたものも前述のように茶屋遊びを描いたエロティックなものであり、お国自身が遊女的な側面を持っていた可能性も否定できません。従来の説では寛永6年(1629年)に女性の芸能者が舞台に立つことを禁止したとされるが、近年では十年あまりの歳月をかけて徐々に規制を強めていったと考えられています。

歌舞伎に女性が登場せず男性が女性を演じる女形があるのも、江戸幕府のおかげ?かも知れません。ちなみに私坂東玉三郎さんの大フアンです。玉三郎さんのは早い時期からで歌舞伎以外のジャンルにも興味を持たれ。『日本橋』、『白鷺』などの泉鏡花作品を中心とした耽美な作品への出演、映画化された『夜叉ケ池』でもすばらしい美しさを見せておられます。シネマ歌舞伎『天主物語』まだ見ていないので、是非見たいのです。

【その後の阿国】

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(余生を過ごしたといわれる阿国寺・連歌庵。)
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(東京美大の先生のレリーフが飾ってありました。)
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(可愛い地蔵菩薩が並んでいます。)
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(こちらが、たぶん?絶対立て直された連歌庵です。)
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(出雲大社のすぐ近く、杵築の森に抱かれるような場所です。)

阿国自身は慶長12年(1607年)、江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、消息が途絶えています。慶長17年4月(1612年5月)に御所でかぶきが演じられたことがあり、阿国の一座によるものとする説もあるようです。

没年は慶長18年(1613年)、正保元年(1644年)、万治元年(1658年)など諸説あり、はっきりしません(二代目阿国がいたのではないかという説もあります)。晩年は出雲大社に帰って尼とな智月と称し、連歌庵で連歌と読経三昧の生活を送り、静かな余生を過ごしたといわれます。

【国(クニ)に関する史料】

『多聞院日記』天正10年5月(1582年6月):「加賀国八歳十一歳の童」が春日大社で「ややこ踊り」を行ったという記事があります。それは「於若宮拜屋加賀國八歳十一歳ノヤヤコヲトリト云法樂在之カヽヲトリトモ云一段イタヰケニ面白云々各群集了」というものです。これを8歳の加賀、11歳の国という2人の名前と解釈し、逆算して国を1572年生まれとするのが通説化しています。しかし、加賀出身の8歳・11歳の娘という解釈も出来ますね(な~る程)。

確実な資料では『時慶卿記』に慶長5年7月1日条に(1600年8月9日)、京都近衛殿や御所で雲州(出雲)のクニと菊の2人が「ややこ踊り」を演じたという記録があり、ここでクニと名乗っていたことがわかります。「近衞殿ニテ晚迄雲州ノヤヤコ跳一人ハクニト云菊ト云二人其外座ノ衆男女十人計在之」。

『当代記』慶長8年4月に、「此頃カフキ踊ト云事有出雲國神子女名ハ國 <但非好女>出仕京都ヘ上ル縱ハ異風ナル男ノマネヲシテ刀脇差衣裝以下殊異相也彼男茶屋ノ女ト戲ル體有難クシタリ京中ノ上下賞翫スル事不斜伏見城ヘモ參上シ度々躍ル其後學之カブキノ座イクラモ有テ諸國エ下ル江戸右大將秀忠公ハ不見給」とあります。

『時慶卿記』より遡る記録では、『御湯殿の上日記』天正9年9月(1581年10月):御所で「ややこ踊り」が演じられた。『言経卿記』天正15年2月(1588年3月)、出雲大社の巫女が京都で舞を踊ったなどです。

【折角の「花の慶次」なのでかぶき者って、どんな感じ?】

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(迷ったけど登場させちゃいましょう。かぶき者「前田慶次郎」ご本人です。笑)



かぶき者(かぶきもの。傾奇者、歌舞伎者とも表記)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮です。特に慶長から寛永年間(1596年~1643年)にかけて、江戸や京都などの都市部で流行しました。異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのことを指します。茶道や和歌などを好む者を数寄者と呼びますが、数寄者よりさらに数寄に傾いた者と言う意味も含むようです。

かぶき者の一例として、当時男性の着物は浅黄や紺など非常に地味な色合いが普通でした。しかし、かぶき者は色鮮やかな女物の着物をマントのように羽織ったり、袴に動物皮をつぎはうなど常識を無視して非常に派手な服装を好んだようです。他にも天鵞絨(ビロード)の襟や立髪や大髭、大額、鬢きり、茶筅髪、大きな刀や脇差、朱鞘、大鍔、大煙管などの異形・異様な風体が「かぶきたるさま」として流行しました。「花の慶次」みてくださいわかりやすいです。

多くは徒党を組んで行動し、飲食代を踏み倒したり因縁をふっかけて金品を奪ったり、家屋の障子を割り金品を強奪するなどの乱暴・狼藉をしばしば働来ました。自分の武勇を公言することも多く、それが元でケンカや刃傷沙汰になることもあったようですね。辻斬り、辻相撲、辻踊りなど往来での無法・逸脱行為も好んで行い、衆道や喫煙の風俗とも密接に関わっていました。こうした身なりや行動は、世間の常識や権力・秩序への反発・反骨の表現としての意味合いがあったようです。

彼らは、仲間同士の結束と信義を重んじ、命を惜しまない気概と生き方の美学を持っていました。1612年(慶長17年)に捕縛・斬首されたかぶき者の巨魁大鳥居いつ兵衛(大鳥一兵衛、同逸兵衛、逸平などとも書く)は、厳しい拷問を受けながらも仲間の名は最後まで吐かず、代わりに全国の大名の名を書き出してみせました。彼はまた、刀のなかごに「廿五まで 生き過ぎたりや 一兵衛」と死を恐れぬ心意気を刻んでいました。当時25歳まで生きていることは、大きな戦場に出会わない不幸な意味合いが有ったようです。

1603年(慶長8年)に出雲阿国がかぶき者の風俗表現したかぶき踊りを創始、男装し最新のファッションで身をまとった阿国歌舞伎は一世を風靡し、のちの歌舞伎の原型となりました。かぶき者の文化は慶長期にその最盛期をみましたが、同時にその頃から幕府や諸藩の取り締まりが厳しくなっていき、やがて姿を消すことになります、その美意識は歌舞伎という芸能の中に受け継がれていくことになります。

資料などはWikipediaや出雲観光協会のパンフレットから拝借しました。

【最後に出雲阿国見たくありませんか?】

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(阿国の墓です。)
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(ヒビが入っているのが墓石ですね。)


出雲阿国が登場する歌舞伎が有ります。春霞歌舞伎草紙(出雲の阿国と名古屋山三の悲恋物語)です。お話は出雲大社の巫女である阿国は、勧進興行のため念仏踊りを踊りながら京の都に上ります。一座の女や若衆と共に、阿国が踊っているうちに、名古屋山三の亡霊が現れます。恋人同士であったお国と山三の二人はいつまでも踊り続けるという演目です。

日本史の教科書にも出てくる、歌舞伎の創始者阿国を題材とした舞踏です。名古屋山三も、同時代の伊達男として有名な人物だったらしいです。流行の最先端を行く美男、美女を組み合わせた華やかな歌舞伎演目です。是非どうぞ!

いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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