2017/09/20

山陰但馬の小京都、出石藩「仙石家」の居城『出石城』

今日は、但馬の「出石」を代表する建築遺跡『出石城』をご紹介いまします。出石城跡(いずしじょうし)は、兵庫県豊岡市出石町に有る但馬に残る唯一の城です。

城を中心とした静かなたたずまいと、江戸期を思わせる古民家は山陰の小京都と呼ばれ、出石蕎麦をはじめ白磁の出石焼などが有名で、年間を通して多くの観光客が訪れます。

DSC_0173 (2)(復元された西隅櫓)


江戸時代には漫画「センゴク一統記」でも有名な「仙石権兵衛秀久の末裔」仙石政明が長野から転封され、明治迄の時代を出石藩仙石家として廃藩置県まで居城を守っています。

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DSC_0070 (2)(子供の頃は登城橋が無かったのでもっぱらこの有子橋から登城してましたね~!)
DSC_0153 (2)(最上段稲荷曲輪へ続く朱の鳥居綺麗ですね~笑)

 
【出石ってどんな町?】

DSC_0071 (2)(夏らしく風鈴がいっぱいでした。蛍の季節も綺麗だそうですよ。)

以前には、大手門跡の「辰鼓楼」や「おりゅう灯篭」をご紹介しました。その他にも天日槍を祀る、但馬一宮「出石神社」や出石生まれの沢庵禅師で有名な「宗鏡寺」などがあり、家老屋敷や町のたたずまい、小京都にふさわしい街並みを残しています。
近年では100年以上歴史を持つ建築の劇場「永楽館(えいらくかん)」がリニューアルされました。永楽館は1901年(明治34年)に竣工し、現地に現存する劇場建築としては日本最古とされます。(現存する日本最古の劇場は旧金毘羅大芝居 金丸座)
座頭6代目 片岡愛之助によるこけら落とし公演が行われ、愛之助さんは毎年のように永楽館歌舞伎を公演されていますね~(笑)奥様も来られるので話題になっていますね。

【出石の戦国時代~江戸期(時代をすべて書くと膨大になりますので)】

DSC_0131 (2)(東の隅櫓)
DSC_0126 (2)(手前に少しだけ庭園跡が残る本丸跡。石垣の上は最上段の稲荷曲輪です)
DSC_0148 (2)
(そして仙石権兵衛秀久を祀る感応殿)
DSC_0133 (2)(感応殿)

山名氏の最盛期、但馬国守護となった山名時義が、出石神社の北側の此隅山に、此隅山城(このすみやまじょう)を築きます。
永禄二年(1559)、丹波福知山城主の明智光秀が、出石の此隅山(このすみやま)城が虚城であることを聞いて攻撃しようと考え、陣代として大野内膳統康・伊藤七之助次織・伊藤加助の三名を派遣、進美寺(しんめいじ)の東に「掻上の城(かきあげじょう)」を築いて、「水生城(みずのうじょう)」を攻撃しましたが水生城は落ちませんでした。

此隅山城は長らく山名氏の本拠でしたが、1569年(永禄12)の織田軍の羽柴秀吉による但馬遠征で落城します(一次但馬征伐とは違います)。城主山名祐豊は城を失いましたが、今井宗久の仲介によって織田信長と和睦することになり、領地但馬にに復帰しています。

1574年(天正2)、祐豊は標高321mの有子山山頂を天守とする有子山城(ありこやまじょう)を築き、本拠を移します。麓には下館も築かれ小城下町の体を成しました。しかし、毛利氏方についたため、1580年(天正8)、羽柴秀吉による第二次但馬征伐で有子山城も落城、但馬国山名氏は滅亡してしまいます。

DSC_0157 (2)(山城の有子山後に登山しようともくろみましたが(-"-;A ...アセアセ)
DSC_0156 (2)(熊には勝てませんから~熊鈴もつけてるんですけどね。)

有子山城は、しばらく城代の時代が続きましたが、1585年(天正13)から前野長康(秀吉最古参の家臣)、1595年(文禄4)から小出吉政(秀吉のいとこ)が城主を務めました。関ヶ原の戦いにおいて、小出氏は家名存続のため、吉政が西軍、弟・秀家は東軍に分かれて戦う苦肉の策をとり、勝ちを納めた東軍に付いた秀家の功績により、吉政の西軍への加担の責任は問われず、出石の領土は安堵されています。

1604年(慶長9)、小出吉英(吉政嫡男)により有子山城の山上の丸および天守部分が廃され、有子山城山麓の郭および館のみを出石城と命名し幕府に居城として届けられました。それにともない平地に、堀で囲まれた三の丸が築かれ、下郭、二の丸、本丸、稲荷丸が階段状に築かれました。城主の居館も出来、このとき城下町も整備され、出石の町並みが形成されてゆきました。

山上の旧有子山城天守は取り壊しは行われませんでしたが、幕府をはばかって荒れるにままにされたため樹木が生い茂り一見したところ山林となってしまいました。出石城は、一国一城令により、但馬守護山名氏以来の出石城が但馬国唯一の城郭となっています。

江戸時代は、出石藩の藩庁となり、小出英及(吉英嫡男)が1696年(元禄9)3歳で死去すると小出氏は無嗣改易となりました。代わって松平(藤井)忠周が入城しますが、1706年(宝永3)忠周が転封となると、仙石政明(権兵衛秀久の末裔)が信濃小諸藩から転付入城し、廃藩置県まで仙石氏の居城となっています。江戸末期には「江戸期三大お家騒動といわれる」仙石騒動がおこっています。

DSC_0196 (2)(家老屋敷こちらも復元かな?)
DSC_0209 (2)(こんなに質素な生活だったのか~~?)

明治時代になり、廃城令で出石城も取り壊されましたが、辰鼓楼、堀、石垣などが現存、また隅櫓、登城門・登城橋などが復元され、堀の周囲一帯は登城橋河川公園として整備されて、観光地となっています。
おかしいと思ったんですよ~子どもの頃からよくお蕎麦を食べに行ってはおりましたが、お城はそんなにうかがう機会はありませんので、登城門・登城橋を通った時にこんな所有ったっけと思いましたもの、復元されていたのですね。

DSC_0164 (2)(最上階からの出石の町、真ん中のキノコみたいな建物「ひぼこ」ホールです。丸い山が進美寺か~?)
DSC_0191 (2)(子どもの頃には無かった登城橋と登城門初めてきぐりました。)

【出石といえばお蕎麦~~~!】

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(これが出石蕎麦「一鶴さん」の物で~す!上手いんだなこれが・・・・)


そうそうお蕎麦ですが、仙石政明が信濃小諸藩から転付時に蕎麦職人を伴ったことから発展したといわれています。今回はお蕎麦もご覧いただきましょう。
Facebookで店主さんとお友達になって頂いている「一鶴」さんのお蕎麦、ミシェラングリーンガイド2016兵庫特別版に記載された、ビブグルマン(5000円以下でコストパフォーマンスが高く、行く価値がある店)に記載されたお店です。

DSC_0185 (2)(最後に忘れてはいけない、親戚筋にあたる斎藤隆夫記念碑)
20150905200742b29[1]
(命を懸けた軍縮演説で有名ですね!ネズミの大将のあだ名が・・・納得。凄い人ほど見た目はそうでないのかも?)

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リュミエールブラン ネージュ

2017/09/18

13年待ちの「旭屋」神戸ビーフコロッケ『極み』が来た~~!

金曜日に帰宅すると、留守番電話に「旭屋です。ご注文頂いておりました、極みコロッケを日曜日到着で発送させていただきます。つきましては、電話にてもう一度ご確認させてください」との録音が入っていました。

???なんだなんだと~思ったのですが、前回ブログでもお話しました様に、ブログ仲間で行っている「馬肉会」の話題に上がっておりましたので、すぐにピンと来ました。

P9170004.jpg
(来た~~13年待ちの『極み』コロッケ!)


急いで電話をかけ直したのですが、営業時間終了!心配だったのでメール連絡を入れました。翌日土曜日の朝「旭屋」さんからお電話がありまして日曜日に配送が決定しました。

長く待つ間に住所が変わった等、連絡がとられなくなる方もおられるそうで、電話で確認してから配送するように成ったそうです。

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【販売終了~~~?驚】

P9170001.jpg(台風迫りくる午前11時到着~く)

メール連絡するためにホームページを見ると、何と販売終了!(あえてHP載せません、13年待ちで一発検索できます)

神戸ビーフコロッケ『極み』のご注文についてこの度、お待たせする期間が13年以上と想定以上に長くなってしまった為、神戸ビーフコロッケ極みを一旦販売終了とさせて頂く事となりました。販売再開については現状ではいつ頃になるか分かりかねる状態です。

これから注文をご検討頂いておられたお客様は、大変申し訳ございませんが他のコロッケ・お惣菜をご検討頂けますようお願いいたします。また、ネット注文は出来ませんが、「神戸セレクション9」にて認定された下記のような新しいタイプの極みコロッケが神戸の北野店舗限定で販売しております。

これまでにご注文頂きました方については、順次発送して参りますのでご安心ください


とのコメントがついているでは有りませんか!これはある意味「チャンス」かも、この食レポブログを書けるのは、もしかして私だけかもしれないと思い、UP予定を変更しまして「旭屋」さんの神戸ビーフコロッケ『極み』のグルメブログに変更しました~~。

P9170008.jpg(いくつ入っているのかさえも忘れていました。注文したの6年忘れてたんですからね~笑!)

【それにしてもいつ注文したのか?】

現在13年待ちのこのコロッケそもそもいつ注文したのか?まったく覚えておりませんでした。ネット環境も3回ほど変えましたし記録がありません。「旭屋」さんのホームページを見てみますと以下のような文章がありました。

『極みコロッケの配送状況につきまして』
平素より名産神戸肉 旭屋をご利用いただき誠にありがとうございます。 現在の極みコロッケの配送状況についてのご案内です。(随時更新中)
●現在、2011年3月上旬ご注文分を出荷中でございます。

(申し訳ございません。神戸牛だけでなく、天候の影響でじゃがいも不足しており、ご注文時にお知らせしている出荷予定より数ヶ月遅れが生じております。)
また、極みコロッケの注文受付を終了しておりますが、これまでにご注文頂いております分は順次発送して参りますのでご安心ください。 毎日造りたてを「生」のまま急速冷凍してお送りいたします! 旭屋特選神戸牛は数に限りがあるため、配送状況は日々変動しています。


とのコメントがありました。つまり6年半の間待ったことに成ります。当時は鳥取県の米子市に単身赴任中でしたので、帰宅したときに、このコロッケが到着するまでには関西(自宅)に帰りたいとの思いで注文したのだと思います。ちなみに当時の待ち時間は6年だったと記憶しています(半年遅れでした)。

お値段ですが、10個入り2700円です。ただ代金引換のみの購入なので送料が1000円、手数料が300円で計4080円です。
電話確認後すぐに発送されるようで、他の方法だと間に合わないのかもしれません。

【さて作るぞ~食べるぞ~】

日曜日の朝、宅急便で届きました~(笑)早く食べたかったのですが、昨日はあの台風の中長女がアルバイトに行っておりました。そちらの方が気がかりで、ゆっくりコロッケを揚げている状態ではありませんでしたので、本日になりました。私は仕事が有ったのですが、半ドンだったのでかえって準備万端コロッケを料理いたしました~(揚げただけですが)。

説明文による「コロッケの揚げ方」商品に牛脂が付属している場合は揚げる前に油に入れてください。コロッケが香ばしく揚がり衣にコクが出て美味しくなります。凍ったまま170~180℃で4分程度上げます。衣がキツネ色になったら完成です。と記載されています。もちろんこの通りの揚げ方で揚げてみました。

P9180022.jpg(付属の牛脂がおいしさを引き立てます。)
P9180026.jpg(油を新しく交換して、180℃でタイマー4分しっかっり揚げます)
P9180029.jpg(3分キツネ色になって来ました。泡も少なく細やかに!)


【出来た~~~!】

『極みコロッケ原材料』
ばれいしょ(国産)、牛肉(神戸牛)、玉ねぎ(国産)、衣{パン粉(小麦をふくむ)、小麦粉、バッターベース(卵・小麦・大豆を含む)}、食塩、胡椒/イーストフード、ベーキングパウダー、乳化剤(大豆由来)、V.C、調味料(アミノ酸等)、着色料(アナトー、ビタミンB2)、香辛料抽出物です。
ん?ん~~!もっとシンプルかと思ったのですがね~。

P9180037.jpg(ばれいしょは強い黄色の芋で、神戸牛がごろっと入っています)
P9180056.jpg(大きさも一般的な物より一回り大きいですね)

【さて肝心のお味ですが~~~~?】

お友達の本日の一杯 -Cupmen Blog of taka- カップ麺と激辛のブログtaka:aさん◝( ꒪౪꒪)◜ケケケ…の真似をさせていただきました。(笑)

評価:★★★★★☆☆☆☆☆ (5+)
(標準は★3です)

確かに美味しいです。ばれいしょのあまさが強く感じられ、何も余計なものを足さなくてもとても美味しいいです。サクサクの衣の食感も気持ちの良いものですし、神戸牛の角切りがごろっと入っている所は並みのコロッケではありません。しかしながら324円の値段は普通のコロッケの三倍の値段です。三倍の美味しさは有って当然でしょう。私は6年半待ちましたが、13年待って食べる価値があるのかと問われるとハッキリ言って疑問です。
得点が高いのに酷評なのは、お値段と4745日分のコストパフォーマンスを考えると仕方ないのではないかと思います。期待が大きかっただけに少し残念な結果に成りました。確かに美味しい、しかし「13年待ち」が独り歩きしてしまったかもしれませんね。そういう意味で朝日屋さんの販売終了は賢明な選択だと思われます。より良い商品を作るための努力を惜しまないでいただきたいですね。

【最後に一言】

限定品・残り僅か・特別仕様などの言葉にだまされやすい私ですが、消費者も賢くならなければならないと思います。今回「旭屋」神戸ビーフコロッケ『極み』は、旭屋さんの食に対する真摯な態度は好感が持てる物でした。電話連絡、メール対応全てにおいて嫌な思いはは何一つありませんでした。コロッケはとても美味しくいただきました。ごちそうさまでした。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/09/16

豊臣秀吉の伏見城本丸跡地に眠る「明治天皇」『伏見桃山陵』

前回、前方後円墳(古墳)を取りあげたので、今期はどこかの大きな天皇陵をご紹介しようと思っておりましたが、期待を裏切るのもまた面白いかなと勝手に思い、古いとは言えない?天皇陵墓をご紹介します。

今日は次女の運動会が台風の雨で中止!だらだらの一日でしたが、嬉しい事が二つありました。まず第一に入院していた父の退院が来週火曜日に決まりました。本当は今日にも退院だったのですが、次女の運動会のため一日伸ばしましたところ、この台風でさらに伸びて火曜日に成ってしまいましたが、良かったです。もう一つは明日17日にコロッケが届きます(笑)毎回皆さんが話題にしてくださるブログ仲間の「馬肉会」でメンバー続、ものグラムな生活。(ラーメン編)の「ものグラム」さんが話題にされて、「アッ!それ頼んでる」と思いだした凄いコロッケです。
また到着しましたら、ブログでご紹介します。

CIMG7435.jpg(明治天皇が眠られる伏見桃山陵)

本題に帰って、京都府京都市伏見区に在る『伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ、ふしみももやまりょう)』をご紹介します。被葬者は『明治天皇』です。
形状は上円下方墳で、1912年築造(大正元年)、 宮内庁治定「伏見桃山陵」として文化財指定されています。

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【明治天皇って誰?(不敬な表現は慎みましょう)どんな方?】

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(軍服姿の明治天天皇!、凛々しいですね)
 

明治天皇は第122代天皇です。
在位期間は1867年1月30日~1912年7月30日(慶応2年12月25日~明治45年7月30日)です。

即位礼は1868年10月12日(慶応4年8月27日)京都御所において行われました。

1852年11月3日(嘉永5年9月22日)中山忠能邸 にて誕生され、1912年(明治45年)7月30日に(宝算59)崩御されています。
喪儀は1912年(大正元年)9月13日、帝国陸軍青山練兵場 にて執り行われました。

【生誕から即位まで】

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(誕生された中山邸跡)
DSC_0080.jpg
(明治天皇生誕の地)
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(産湯を汲んだ井戸が二歳の時に枯れたので掘りなおした井戸だそうです。ややこしい(-"-;A ...アセアセ)

孝明天皇の第二皇子として生まれます。生母は権大納言・中山忠能の娘・中山慶子、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)に京都石薬師・中山邸にて誕生。出生8日目(9月29日)に父・孝明天皇が祐宮(さちのみや)と命名されました。中山邸で暮らし安政3年(1856年9月29日)に宮中に転居します。

予定より2年遅れて万延元年(1860年)閏3月16日に深曽木の儀を行う。7月10日、儲君(皇太子、東宮) と定められ、准后(文字の通り皇后に准ずる)・九条夙子の実子とされます。9月28日、親王宣下を受け睦仁の諱名(天皇からもらう名前で皇室は「仁」が付いています)を賜ります。

うんちく「深曽木の儀」とは?松と山橘の小枝を持って碁盤の上に乗り、子の髪を少し切った後、掛け声とともに飛び降りる儀式。悠仁親王の際41年ぶりに行われましたね。
「親王宣下」とは?、明治以前は親王宣下を受けなければ、天皇の子どもでも皇族とは認められませんでした。

慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇が崩御されると。慶応3年1月9日(同2月13日)、満14歳で践祚(「践」とは位に就くこと、「祚」は天子の位を意味する)の儀を行い皇位につきました。

慶応4年1月15日(1868年2月8日)、元服、同年8月21日(10月6日)からの一連の儀式を経て、8月27日(10月12日)、京都御所にて即位の礼を執り行い即位を内外に宣言しました。大嘗祭(天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭[収穫祭ですね])は明治4年11月17日(1871年12月28日)に東京で行い、12月28日、一条美子を皇后に定めています。

幕末の動乱については、あらためてご紹介する機会があると思いますので、今回は我慢していただきます。

【新時代明治始まる】

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(紅葉が綺麗な時期でした~が、この楓一本だけです。)

慶応4年(明治元年)3月14日(1868年4月6日)には五箇条の御誓文を発布して新政府の基本方針を表明し、閏4月21日(6月11日)には政体書によって新しい政治制度が採用されます。また、明治と改元して一世一元の制を定めた(改元の詔書を発したのは、慶応4年9月8日(1868年10月23日)でしたが、改元は慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って適用されました。

江戸開城から半年を経た明治元年10月13日、明治天皇は初めて江戸に行幸し、同日江戸を東京に、江戸城を東京城に改称します。一旦京都に還幸後、翌明治2年(1869年)に再び東京に移り崩御まで東京に居住しました。

明治2年6月17日(1869年7月25日)には版籍奉還の上表を勅許し、明治4年7月14日(1871年8月29日)には廃藩置県を断行し、中央集権体制を確立しました。

1872年(明治5年)に太陽暦を導入し、明治5年12月2日(1872年12月31日)の次の日(1873年1月1日)を「明治6年1月1日」と定めています。

明治天皇は外国要人と頻繁に会談しています。まず明治2年(1869年)に英国女王ヴィクトリアの子・アルフレートが英国王族として初めて訪日し会談、明治12年(1879年)にはユリシーズ・グラントが、アメリカ大統領経験者として初めて訪日し会談しました。明治14年(1881年)にハワイ国王(まだアメリカではありません)カラカウアが外国元首としては初めて訪日し会談しました。

【政府内部の政治的対立調停役としての明治天皇】

明治6年(1873年)に征韓論を巡って政府部内が紛糾した明治六年の政変では、勅旨を出して西郷隆盛の朝鮮派遣を中止させてこれを収め、明治7年(1874年)から同8年(1875年)にかけて続いた自由民権運動では、立憲政体の詔を発して政体改革を進めるなど、天皇は政府内部の政治的対立を調停する役割を果たしています。この自由民権運動への対応として、明治14年(1881年)には、国会開設の勅諭を発して議会創設の時期を明示し、運動の沈静化をうながしています。

明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法が発布されました。この憲法は、日本史上初めて天皇の権限(天皇大権)を明記しており、立憲君主制国家確立の基礎となりました。翌明治23年(1890年)10月30日には教育勅語を発し、近代天皇制国家を支える国民道徳を育てて広めることに努めました。

【日本世界の列強国へ変貌する】

日本が初めて直面した近代戦争である日清戦争と日露戦争では、天皇は大本営で直接戦争指導にあたっています。また、外交上は日英同盟を締結し、列強の一員たるべく、軍事的・経済的な国力の増強につとめました。日露戦争後は、韓国併合や満州経営を進め、日本をイギリスやフランス、ドイツなど他の列強のような植民帝国へと膨張させる政策を採用しています。

明治44年(1911年)には、開国以来の懸案であったイギリスやアメリカなどの各国との不平等条約の改正を完了させ、名実共に日本は列強の一員となっていきました。

もちろんすべてが明治天皇の指導で行われたわけではありませんが、大きな柱として天皇の存在が影響したことは間違いありません。

【明治天皇崩御】

1441920177105.jpg
(同じ一本、画質はガラケー写真なので許してください)
CIMG7433.jpg
(ここでも階段かい~桃山台地ね)
CIMG7440.jpg(上から見た南方面、宇治方面だと思うのですが?)

1912年(明治45年)7月30日、明治天皇は東京の宮城・明治宮殿で崩御しました。同年(大正元年)9月13日に東京・青山の帝國陸軍練兵場(現在の神宮外苑)にて大喪儀が執り行なわれた後、翌9月14日に埋葬されました。ん~?翌日埋葬ですか、伏見桃山陵ではありませんね~再度埋葬し直したのかな?

伏見桃山陵の敷地は、豊臣秀吉の築いた伏見城の本丸跡地で、京都に墓所が造られたのは明治天皇の遺言だったそうです。天王は京都の御所に帰りたいと言葉を漏らすほどの京都好きだったようです。すぐ東には皇后である昭憲皇太后の伏見桃山東陵(ふしみのももやまのひがしのみささぎ)が隣接しています。周囲一帯は宮内庁の管理地となっており、京都市南西部から旧山陽道、旧西海道地域の陵墓を管理する宮内庁書陵部桃山陵墓監区事務所がありました。

墳丘は古式に範を採った上円下方墳で、下段の方形壇の一辺は約60メートル、上段の円丘部の高さは約6.3メートル、表面にはさざれ石が葺かれている。方形の墓坑を掘って内壁をコンクリートで固め、その中に棺を入れた木槨が納められています。槨内の隙間には石灰を、石蓋をしてコンクリートで固めてあるようです。上円下方墳の墳形は天智天皇陵がモデルにされたといわれます。

幕末の孝明天皇についで火葬にせず、天武天皇以前の古制に戻しています。火葬に関しては今上陛下もお考えがあるような報道がされていますね。歴代天皇の陵は伏見桃山陵に至るまで、すべて近畿以西に作られていますが、大正天皇(多摩陵)と昭和天皇(武藏野陵)の各陵は東京都八王子市の武蔵陵墓地に作られています。

CIMG8217.jpg(明治天皇が帰りたいと洩らされた、京都御所「内庭園」一枚だけお見せします)
CIMG7436.jpg(最後は紅の豚と天皇陵、妻が撮影してくれているので、ちょっと恥ずかしがっていますね、恥ずかし~~~!)


【最後にお詫び】

今回のブログは漢字を意味の通りに簡単にすることと、時代が中途半端?なために敬語の使用についてとても迷いました。あえて「ですます」で書かせていただきました。不敬につきましてはお許しください。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/09/14

今話題の『前方後円墳を嗜(たしな)む』見処と鑑賞法!

今日は趣向を変えまして、古墳を見に行く機会が有ったなら、是非ここだけはチェックしてほしい四つの目利き?ポイントについてお話したいと思います。

この四つが理解出来るようになると、その古墳の位置付けが分かるように成って、かっこよくくうんちくを友達や恋人に語れるように成りますよ。

CIMG9040.jpg(今城塚古墳、真の第26代継体天皇といわれる入って遊べる天皇陵墓の埴輪レプリカ群)

それでは人気の、前方後円墳を例に上げて注目点を説明していきましょう。

キーワードは次の四つです。『段築』 『周濠』 『葺石』 『埴輪』です。それでは前方後円墳の説明から始めましょうか?

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【前方後円墳 って何?知らない方はおりません!】

前方後円墳 (ぜんぽうこうえんふん)は、古墳の形状の1つですよね小学校の教科書で習っています。円形の主丘に方形の突出部が接続する形式で、双丘の鍵穴形をなしています。

主に日本列島で3世紀中頃から7世紀初頭頃(畿内大王墓は6世紀中頃まで)にかけて築造され、日本列島の代表的な古墳形式としてよく知られていますね。

【あの鍵穴形の起源は何なの?】

ん~~~謎なんですよ~!、奈良県桜井市の纏向古墳群が最古の前方後円墳群とされています。3世紀中頃の築造で、完成形が箸墓古墳(卑弥呼の墓とも言われています)です。

P5190134.jpg(卑弥呼の墓とも言われる箸墓古墳)


以前に書いたブログ参考にしてください。
「豊鍬入姫命」「卑弥呼」「台与」?誰が眠るんだ~『ホケノ山古墳』
本当に眠るのは「卑弥呼」なのか?纒向遺跡最後を飾る『箸墓古墳』

日本(およびそれに影響を受けた朝鮮半島南部)でのみ見られる前方後円墳の起源については、これまでに様々な仮説が唱えられました。

最もよく知られているものは、弥生時代の墳墓から独自に発展したものという学説です。この説は従来より存在した円形墳丘墓の「周濠(あら出ちゃった)」を掘り残した陸橋部分(通路部分)で祭祀などが行われ、その後この部分が墓(死の世界)と人間界を繋ぐ陸橋として大型化し円墳と一体化したと考えられる説です。

それに対して円部は軍事・政治を担った男王、方部は祭祀を司った女王の墓に由来するという説もあります。奈良県橿原市の瀬田遺跡では弥生時代終末期(2世紀頃)の前方後円形の円形周溝墓が発見されており、前方後円墳の原型である可能性が指摘されています。

「前方後円」の語は、江戸時代の国学者蒲生君平が19世紀初めに著した『山陵志』で初めて使います。明治時代末期になり、ウィリアム・ゴーランドは円墳と方墳が結合して作られた。清野謙次は主墳と陪塚が結合して前方後円墳になったと推測します。その後、壺形土器の形や盾の形を模倣したというような学説も生まれています。

現在の研究では、平面では円形をしている後円部が埋葬のための墳丘で主丘であり、平面が撥形・長方形・方形・台形などの突出部をひっくるめて前方部と呼びます。前方部は、弥生墳丘墓の突出部が変化したもので、もともと死者を祀る祭壇として発生・発達とする説や葬列が後円部に至る墓道であったとする説があり、次第に独特の形態を成したと考えられています。ただし時代が下ると前方部にも埋葬がなされるようになっていきます。

しかし、慣習と便宜によって前方後円墳、前方部、後円部といった用語はそのまま使われています。古い形の前方後円墳は前方部は低く撥形をしており、後円部は新古にかかわらず大きく高く造られている。撥形にしているのは、葬列が傾斜の緩やかな道を通れるように前方部の左右の稜線のどちらかを伸ばしたものと考えられています。

近畿地方、宮崎県を中心として日本全国に広く分布する大型の前方後円墳の周りには、小型の前方後円墳、あるいは円墳・方墳が寄り添うように建造されており、複数の大型古墳から構成される古墳群が形成されている箇所が多くあります。古墳時代に築かれた巨大な墳墓はその多くがこの前方後円墳であり、その中で最も大きなものは大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)であり、墳墓の表面積としてはクフ王のピラミッドおよび始皇帝陵をしのぐ世界最大の墳墓に成ります。墳丘の全長が486メートル、高さが36メートル、周りには、三重の周濠を巡らしています。

後円部は、前方後円墳で最も大切な場所です。それは、そこに亡き首長を埋葬し、盛大に埋葬祭祀が行われてきたと考えられます。その頂上は狭いが平坦に造られていて、その下の土中に埋葬を行うのに都合のよい形に造られています。裾部から頂までは高く造られ、その斜面の勾配は、平均的には25度から26度もあり、それ以上の急勾配の墳墓もあります。築造当時には斜面に葺き石が敷かれて、登ることができないように造られています。

また、くびれ部や前方部の斜面も急勾配に造られており、簡単に登ることができなくなっています。葬列が登れるのは前方部の前面の左右の隅角のどちらかで、そこを緩い斜面にして登りやすくしています。このように前方後円墳は簡単に登れないような急斜面で囲まれています。登ることを慎めという意味であり、前方後円墳は禁忌の状態に築造されているのです。

前方後円墳は、墳丘(前方部・後方部・造出)、埋葬施設(棺室・槨室・石室)、副葬品、外表施設(封土固めの葺石、祭祀用の土器・埴輪など)などの諸要素から成っています。今回私が取り上げるのは、『周濠』『葺石』 『段築』 『埴輪』です。

【祈りはどこで行われた?】

CIMG9045.jpg(今城塚古墳の造出は四角いです。)

前方後円墳には造出(つくりだし)という括れ部分の突出が見られます。最古級の前方後円墳では造出は見つかっていません。大王墓および地方の有力首長墓のみに付随する物と考えられています。造出には埴輪を立て並べたり、形象埴輪を置いたりしています。祭祀・追葬が後円部や前方部の墳頂で行われるのではなく、くびれ部裾付近に作られた造出で行われたことは、埋葬祭祀の考え方が変わって来たことをうかがえます。それは、墳頂へ登ることが禁忌され、畏敬されたことと関わっていると考えられ、追葬や祭祀は一定期間行われると停止されたと考えられます(33回忌いいえ50回忌までかな?)

【最初のキーワードは 『段築』 】

P7290446.jpg(大きさは前国10位の282m、岡山2位の作山古墳三段築成の二段目!わかります?)

古墳の外部施設の一種です。墳丘を数段の階段状に造ること,またはそのような墳丘のことです。畿内の大型前方後円墳では,初期には墳丘は3~4段に造られ、後円部最上段は円丘を呈していましたが、4世紀中期以降には前方部・後円部ともに3段の形が定着しました。各平坦面には埴輪が並べられました。

箸墓古墳NO~~1!後円部は4段築成で、4段築成の上に小円丘(径約44-46メートル、高さ4メートルの土壇、特殊器台が置かれていたと考えられる)が載ったものと指摘する研究もあります(4.5段)。前方部は側面の段築は明瞭ではないが、前面には4段の段築があるとされます。ちなみに五段築成(四段築成で、後円部に小円丘が載る)は箸墓古墳のみで四段築成(三段築成で、後円部に小円丘が載る)は西殿塚古墳(大和古墳群)、行燈山古墳(柳本古墳群)、渋谷向山古墳(柳本古墳群)、桜井茶臼山古墳(鳥見山古墳群)、メスリ山古墳(鳥見山古墳群)、築山古墳(馬見古墳群)等が考えられ他の天皇陵クラスの古墳は全て三段築成(後円部も前方部も三段築成)とされます。被葬者の格付けを表しているのかも知れませんね。

0220-05[1]
(箸墓古墳、NO1、4.5段)

ちなみに最初の前方後円墳といわれる「纒向石塚古墳」は、もうすでに2段築成なんですよ~。

P5190064.jpg(纒向石塚古墳分かるかな左側面に段が有りますよね。)

【次のキーワードは『葺石』】

葺石(ふきいし)とは、主として古墳時代の墳墓の遺骸埋葬施設や墳丘を覆う外部施設の1つで、古墳の墳丘斜面などに河原石や礫石(れきいし)を積んだり、貼りつけるように葺(ふ)いたものです。「葺石」は前期古墳と中期古墳に多いが、後期になると葺石をともなわない古墳が大多数をしめるようになります。

日本の墳墓においては、中国の墳墓に顕著にみられる版築の工法がほとんどみられない一方で、斜面を礫石などで葺いてがっしりと安定させる手法が採用されており、この工法は日本列島独自のものなのです。

葺石の発生については阿波(いまの徳島県)の吉野川流域や瀬戸内海沿岸など日本の古い積石塚の分布する地域で工夫されたとする説が唱えられています。古くから瀬戸内および四国地方には石工集団がおり、石に関する知識が特に豊富であったことも指摘されています。

なお、『日本書紀』と『古事記』には、箸墓古墳(奈良県桜井市)の造営の際、大坂山の石をリレー方式(一列に大阪から並んでバケツリレーした?)で運んだという説話が記されています、このとき運ばれたのは葺石のための石材であったと考えられています。

P5190160.jpg(奈良桜井市、ホケノ山古墳の葺石です)

葺石墓は、弥生時代中期以降の西日本に点々とみられ、古墳時代へとつながっていきます。とくに一般的に「定型化された大型前方後円墳」の最古の例と考えられている箸墓古墳および若干それに先立つとみられるホケノ山古墳(奈良県桜井市)では葺石をともなうことが確認されており、葺石は、出現期古墳の特徴を示す一要素となっています。なお、定型化以前の、いわゆる「纒向型」と称される墳墓では、纒向石塚古墳、纒向勝山古墳、東田大塚古墳いずれの場合でも埴輪・葺石はともなっていません。

葺石の祖形のひとつとして掲げられることの多いのは、弥生時代の山陰地方にみられる四隅突出型弥生墳丘墓(こちらまだご紹介していませんが凄いですよ~今回少しだけ見せちゃいます)にみられる貼石(はりいし)です。島根県出雲市の西谷墳墓群3号墓では、墳丘の裾部分を全周するかたちで貼石がなされている。また、岡山県総社市の楯築遺跡(こちらもまだ内緒です)では墳丘に石列をめぐらせており、このような例は山陰・山陽で広くみられます。さらに、山陽地方においては、石垣状に積んで墳丘を造る例もみられます。

P8111324.jpg(まだ見せたく無かった!四隅突出型弥生墳丘墓、島根県出雲市の西谷墳墓群3号墓)

葺石の目的としては、墳丘の偉容を示すとともに墳丘そのものの保護を目的とするとみられています。とくに墳丘斜面に使用され、平坦面では通常使用されないことから、盛土流出を防ぐ目的があったものと考えられ、防水・排水の効果も高かったと推察されます。

また、他の隣接する地域とは明確に区別するという意味合い、すなわち、「ここからは聖域であり、霊域である」という境界を示して周囲とのあいだを画する意味合いもあったとも考えられます。

【三番目のキーワードは『周濠』】

p3652148.jpg
(奥が大仙陵古墳、三重の盾形周濠)

考古学では普通、古墳の周囲に掘られた堀をさします。湛水しているものが多いですが、空濠の場合もあります。前者では一般に、濠が畦で区切られ、水面が階段状をなすものから、畦がとれ水面が同じ高さで一周するものへと変遷したと考えられています。

形は墳丘に沿って同じ幅の周濠がめぐるもののほかに、前方後円墳では盾形(馬蹄形も含む)、前方後方墳では長方形のものが多いようです。古墳時代中期には、墳丘の巨大化に伴う外部施設の整備の一環として、著しい発達をとげ大阪府古市・百舌鳥(もず)古墳群などでは、墳丘との統一企画のもとに、二重・三重の盾形周濠が掘削されました。

すこしわかりやすく簡単に説明しますと、自然の山などを利用した場合土はいりませんよね、しかしながら平地に小山の様な古墳を作ろうとすると、当然土をどこからか運ばなければなりません。もうお分かりですよねそう「周濠」部分の土が使われたのです。

段築と同じく一重周濠からの被葬者の格付けを表しているのかも知れませんね。大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)のように、三重の周濠を巡らした古墳もあります。

【最後のキーワードは祭祀用土器『埴輪』】

P3190089.jpg(但馬の茶すり山古墳、円筒埴輪と朝顔形埴輪、朝顔形埴輪には貢物の壺を乗せたのか?)

埋葬祭祀で使用された土器は、最古級の前方後円墳では、宮山型特殊器台・特殊壺、この土器から変化した最古の埴輪といわれる都月形円筒埴輪と次に古い特殊壺形埴輪、円筒埴輪、家型埴輪、武器形埴輪、人形埴輪などが有ります。特殊土器は、日常の器台・壺と違い大きく、文様で飾られています。器台は1メートルほどもあるものもあり、壺も40センチから50センチぐらいで、器台に壺を載せると人の肩ほどにもなります。このような大きな目立つ道具を使って亡くなった首長の霊魂と首長権を継承するための祭祀を行ったと考えられています。

【まとめ「古墳を語るなら」】

P2220002.jpg(神戸五色塚古墳、復元すると全て明らか『段築』 『周濠』 『葺石』 『埴輪』)

古墳時代の日本の大型墳墓は、墳丘の斜面などにびっしりと『葺石』が施され、遠目には石塚のように見えました。平坦なテラス部分『段築』には『円筒埴輪』をならべ、さらに墳丘周囲には『周濠』をめぐらせて、その外側には数基より成る陪塚をともなうなど、色彩豊かで華麗な装いをみせています。規模や形状のみならず、当時は側面からしか古墳を見られない人びとに対して、葺石によって白く輝く構築物としての陵墓の色彩的イメージは、他の構築物とのあいだに大きな格差を感じさせるに充分であったと考えられます。このような意味からも、古墳は単なる墓ではなくて政治の柱として機能したのでした。

さあ、長々のお付き合いありがとうございました。これであなたも古墳博士です(笑)ホントか~~~!

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リュミエールブラン ネージュ

2017/09/12

但馬の小京都「出石」の名物!『辰鼓楼』と『おりゅう灯籠』

関西人で「出石のお蕎麦」を知らない人はいないかもしれませんが、関東の方々は意外に知らないかもしれませんね~。
まず、出石を「いずし」と読むことがむずかしいかもしれません。「でいし」と思われるかもしれませんものね。

兵庫県豊岡市の出石(いずし)の由来は、古代に新羅の王子である天日槍(アメノヒボコ)が渡来してきて現在の出石に住み着き、天日槍が持っていた「出石の小刀」という宝刀に由来するそうです。

CIMG0202.jpg
(出石神社裏に在る禁足地、天日槍の墓だと思っているのですが?)


『日本書紀』では、垂仁天皇3年3月条において新羅王子の天日槍が渡来したと記されます。天日槍は自分を新羅国王の子であるといい、日本に聖皇がいると聞いたので新羅を弟の知古(ちこ)に任せて自分は日本への帰属を願ってやって来た、と語っています。その際に次の8宝、羽太の玉(はふとのたま)または葉細の珠(はほそのたま) 1箇・足高の玉(あしたかのたま) 1箇・鵜鹿鹿の赤石の玉(うかかのあかしのたま) 1箇・出石の小刀(いづしのかたな) 1口・出石の桙(いづしのほこ) 1枝・日鏡(ひのかがみ) 1面・熊の神籬(くまのひもろき) 1具・胆狭浅の大刀(いささのたち)1口・を献上し諸国をめぐった後に但馬国出石に定住します。

出石の由来話は、後世に作られた物語のような気がしますね~(笑)。

やはり私としては、但馬で唯一残る城「出石城」をご紹介したいのですが、小京都といわれる町の魅力もご紹介したいので、今日は『辰鼓楼』と『おりゅう灯籠』をご紹介します。

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CROOZ

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(出石神社のお正月3日目!)


【「辰鼓楼(しんころう)」って何だろう】

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(「辰鼓楼」ただいま修理中で訪れても見られませんよ~)
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(辰鼓楼は元大手門でした。)
CIMG3145.jpg(設計図説明版)

辰鼓楼(しんころう)は、兵庫県豊岡市出石町の出石総合支所敷地(旧出石町役場、旧弘道小学校敷地)にある明治時代初期の時計台です。豊岡市出石伝統的建造物群保存地区を代表する建造物です。

楼閣本体は1871年(明治4年)に完成します。元々は辰の刻(7時から9時)の城主登城を知らせる太鼓を叩く楼閣でした。旧藩医の蘭方医、池口忠恕が大病を患った際、多くの人々が病気快癒の願掛けをしました。忠恕は回復後、病気中出石の人々に多大な精神的支援を受けた感謝の意思を形にしたいとして、時計技師2名を招くとともにオランダ製の機械式大時計を取り寄せ寄贈しました。これによって1881年(明治14年)より現在の姿の時計台とまりました。以後、弘道小学校では機械式時計の錘(おもり)を掛け替えるのが児童の大事な役割となります。現在は時計本体は入れ替えられて機会電波時計になっているそうです(最後のところは市郎右衛門の想像です)。

CIMG3144.jpg(そう、戦国大名山名氏が作った有子山城、今回熊出没注意で登山できず!)
CIMG3149.jpg(あの山の上です。有子山~や~い!)

【日本最古の時計台】

日本最古の時計台とされることが多いのですが、時計台となったのは1881年(明治14年)であり、1878年(明治11年)完成の札幌農学校演武場に時計塔(札幌の時計台)が設置されたのも1881年です。どちらが古いかは今一つ決め手に欠けます。しかし、建物から独立した洋式時計台、一般市民が時刻を共有するための洋式時計台、国以外が設置した洋式時計台としてはこれより古いものは知られていません。

ちなみに、札幌の時計台を見ましたが、ビルの谷間に挟まれて「ええっ~これ?」って感じでした。断然『辰鼓楼』の方が風情があります。出石町民よ誇りを持とう~!(札幌いえ、北海道の皆さん悪気はありませんからお許しください、郷土愛のなせる業です。)

【涙が止まらない『おりゅう灯籠』秘話】

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(灯篭といっても半端ない力強さです。)
DSC_0020.jpg(凄いですね何十万石の藩なんだって感じの看板ですがちっちゃい藩ですし、その上に・・・またの機会に!)

かつては日本海より三十石船が入れるほど広かった谷山川(旧出石川)の大橋東詰にあった船着場の灯籠です。

「おりゅう」という名の由来は、鎌倉時代の悲恋物語の主人公「おりゅう」にちなんだものとされています。灯籠のすぐそばには柳の木があり、おりゅうと恋人が寄り添う様子に似ていることから名づけられました。現在では常夜灯として使用されています。

城下町出石に伝わる悲恋の物語、今から七百年ほど前、出石川は町のまん中を流れ、大きな船が往来して、毎日賑わっていました。そのころ、出石のある豪族の屋敷には若い侍が暮らしていました。彼は書を学び、武術を練習し、凛々しい青年に育っていきました。
屋敷には、おりゅうという心優しい美しい娘が奉公していました。お互いに惹かれ合う二人は、たちまち恋に落ちます。しかし、身分の違いの恋はは実ることはありませんでした。おりゅうは里に帰されてしまいます。そんな時、日本に蒙古軍が攻め込んできました。蒙古襲来です。

武術に優れた若い侍は九州の防衛のために、あわただしく旅立っていきました。愛する彼の出征を聞いたおりゅうは船着き場に走りました。しかし、彼をのせた船は見る見る遠ざかってしまいました。

それから数ヶ月後、彼の戦死の報が屋敷にもたらされました。おりゅうの体が出石川に浮いたのは、その数日後でした。以後、大雨のたびに出石川は氾濫します。人々は、これはおりゅうの悲しみの現れだと語り合いました。そして、これを鎮めるために、船着き場にほこらを建てて供養し、そのそばには灯籠も建てました。その灯は、上り下りする船の船頭たちの道しるべになり、「おりゅう灯籠」とよばれるようになりました。今も、出石川の橋のたもとに、おりゅう灯籠は建っています。

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(オッ!現役赤ポス、ヤッパリいい味出しますね~寄り添うような灯篭としなやかなな柳です。)

ちなみに、元寇(げんこう)は日本の鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称です。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)といいます。

【最後に「但馬太田文」】

但馬で一番古い文章といわれる「太田文」。もちろん太田氏の事が書いてあるのですが、承久の乱では後鳥羽上皇と鎌倉幕府執権である北条義時を天秤にかけて、義時に従い但馬守護の地位を得ています。更には、後醍醐天皇が元弘3年 / 正慶2年(1333年)、太田氏と血縁の名和氏に護られて船上山に御幸された事を知ると、太田守延(太田氏当主)は意を決して後醍醐天皇皇子、恒良親王を奉じ錦の御旗を立てて、山陽山陰の兵を集めて都を攻める左衛門中将・源忠顕の軍と合流しました。「機を見るに敏」な太田氏でしたが、最後気が緩んでしまいました~。

討幕軍は都に迫り、守延らは人を京中に入れて火を放ち、火勢に押されて退く賊軍を追って六波羅を攻めますが、新手の軍に遭遇して敗走の途中、田のぬかるみに足を取られ馬が転倒し、追手に捕らえられて首を打たれてしまいました。最後がちょっとさみしいいですね~(寂)

『おりゅう灯籠』の若武者も太田氏の一族だったかもしれませんね?同級生にも太田君居るんですよ~子孫かもしれません。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/09/10

女子力高い!と評判の?私の『通勤鞄の中身見せます』

『ピンク』が大好きですが何か?私は子供の頃から赤、ピンクが大好きです。今日は自慢話になりそうですが、「お前の鞄の中身なんかどうでもいいわ」という方はさらっと流してくださいね。

子供の頃、近所の一つ年上の洋子ちゃんが「赤い服着てる~僕にも買って~」と言って母を困らせたと大人になってからよく笑い話で聞かされました。

ブログ友達本日の一杯 -Cupmen Blog of taka- カップ麺と激辛のブログのtaka:aさん◝( ꒪౪꒪)◜ケケケ…からも、「女子力高すぎ~!」と何時も言われるのですが、好きなものは好きなのだから、しょうがありません。

こだわりが偶然赤系統が多いってだけなんですけど、やはり「可愛らしい・美しい」物は本当に好きなんですよね。

市郎右衛門
(もう一度販売してください、L.L.Beanさん)

ちょっと毎日の通勤鞄の中身をお見せして、本当に女子力が高いのか皆さんに判断してもらいましょう(#^.^#)。確かにちょっとだけ女子力高いかな(可愛らしいものというか、おばちゃん御用達が多い?)長く使っているので、汚れや傷も有りますことをお許しくださいね。

アッ!作ってませんよ、ゴミは片付けましたが、何時もの通りの中身です。それから、ブログ取材のときは本の代わりに御朱印帳が「神社用とお寺用の二帳」入ります。

先ず、通勤鞄と言いましたが、仕事が内勤(日の目を見られない)なので、スーツでは有りませんし(一応、出向先なので、シーズンで行くことはありませんが、襟つきならポロシャツにチノパンでもOKです。)、車で通勤していますので、誰にとがめられるわけでもないので、通勤鞄といっても、L.L.Beanのトートバックです(勿論ピンクの、笑)。

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【L.L.Beanの桜のトートバック(M)】

L.L.Beanとのお付き合いは長いです。まだ日本に直営店が無かった30年位前に、大学の准教授がアメリカの学会に行ったときにカタログを持って帰ってこられたのがきっかけで購入するようになりました。日本語のカタログも無かったので、和約に苦労しました。船便は三か月くらい来なかったです。今は大きな都市ならだいたいありますね。神戸店が出来た時に二度ほど伺いました。

写真は私の物ではありませんオークションサイトからお借りしました(ソールドアウト)。L.L.Beanは名前を500円だったかな?で刺繍してくれるので、「市郎右衛門(本名がローマ字のみの刺繍)」と刺繍が有るので見せられません。米国メイン州のブランズウィックにあるL.L.Bean(エルエルビーン)自社工場で、 ひとつひとつ手作りされています。 サクラの刺繍入りは日本限定、大好きなピンクがネットショップでセール(確か3900円)になっていたので買っちゃいました。今は二年ほど使っている上にコーヒーこぼして汚れてしまいました。これで通勤していますが、再販してくれないかな~と願っております。桜タイプは内ポケットが付いているのも使いやすいですよ。

【本とブックカバー・ほぼ日手帳】

P9100013.jpg(本は大好きですが近頃読むひまがない、もちろんブログ書きたいから~~!)

近頃ブログをスマホで書くことが多くなったので黄色は外してるかな。本は平行読み?5冊位を一緒に読みます。ミステリー・時代小説・エッセイ・ノンフィクションなどです。今は話題の映画、司馬遼太郎原作「関ケ原の中巻」、読み始めたら急に映画化されることになって、ビックリしています。次は推理小説、綾辻行人さんの「緋色の囁き」こちらはゾクゾクするのでミステリーかな?もう一冊は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の作品「神々の国の首都」です。本は綺麗に読みたいので必ずカバーしてます。

すこし汚れが目立ちますが、左上は本革にグスタフ・クリムト(世紀末ウィーンを代表する帝政オーストリアの画家)の絵が特殊印刷されていてとても気に入っています。 青いのは本藍染めに島根県の広瀬絣のブックカバー正にジャパニーズブルーです。これほど濃く染めるには手間がかかかるんですよね。黄色は何かでもらった(町内会の役員かな)?景品です。(笑)

ほぼ日手帳は皆さんもご存知ですよね。スマホの手帳でもよいのですが、なぐり書きしたものやレシートをはったりして乱暴に使うのでこちらの方が便利です。ちなみに中身はもちろん毎年交換しますが、カバーはもったいないので三年間使っています。先日カバーのカバー(ビニール)が破れ、まわりもささくれて来たので来年はカバーも一緒に買い替えですね。

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(今はこんなですね、こんなに渋くはないか?ジブリさんの宣伝ポスターからお借りしました。)

【印伝財布・ストラップ】

印伝屋のHPご参考ください。

私も若いころは、ブランド物が好きでしたが、LVマークに何万円も使うのはどうだろう?と思っていると、偶然目にした印伝の渋さに引き込まれました。「甲州印伝」は、甲州(山梨県)に400年以上にわたり伝承されてきた鹿革に漆で模様付けした伝統工芸です。「印傳屋」は、天正十年(1582年)に創業。「甲州印伝」の総本家です。二つ折りの財布が10000円位です。鹿皮なので使うほどに柔らかくなっていきます。その上に描かれた漆の絵柄が素敵です。伝統の柄なんです。財布は花唐草模様。ストラップは蜻蛉(勝ち虫といわれます)です。トンボは後ろに下がらないので、戦国武将も兜飾りによく用いていますね。三年ほど使用しているので次は「菖蒲柄(勝負)」の財布欲しいです。

印伝
(財布、歪んでますがこの柔らかさが使いやすいのです。この写真は古いのでスマホが旧機種ですね。)

【長財布にコインケース】

P9100024.jpg(500のボトル用が800円、小さな方が600円だったかな?)

でた~LVマーク!唯一といっていいです。「カード入れ」これでも20000円以上の値段(そんなでもなかった?)馬鹿らしいと思いませんか?カラビナはモンベルの物です。物をすぐ落とすので重宝してます。つなぎ皮は栃木レザーですが、本のおまけ(本がおまけかもしれませんが)で私自身が編み上げて作ったものです。意外と器用でしょ?

さてコインケースもブランドかな?BREE(レザーバッグ、ヌメ革バッグ、財布やブックカバーなどの革小物)ラゲッジのドイツブランドです。長く使えば味が出るヌメ革が気に入ってますが、これまで二度落として無くしました。結構お高いです。(涙)

長財布もお気に入り、バーミリオンさんという作家さんの長財布です。こちらはクーズーという南アフリカの牛の仲間の皮でつくられています。ブブゼラ知ってますか?サッカーW杯南アフリカ大会の時に「ぶ~~~ぶ~~~」と大きな音鳴らしてた笛(今はプラスチックだそうです)は、元々クーズーの角で作っていたそうです。こちらもオイルで磨くと味がでてきます。LVマークから比べたら半分ほどの値段ですか?ここでちょびっと訂正です。私、決してLVマークがだめだとは言っているわけではありません。凄く良いものだと思いますし、使いやすいので私も長く使用しましたが、私はもういいかなと思うだけです。

それからペットボトルカバー、可愛いですよね「猫に小判」も「フレンチブルドック」も、こちらは京都東寺市(弘法市・毎月21日)で購入したものです。ハンドメイド感がとてもいいので即購入、他にも「猫」と「鳥獣戯画」のものを持っています。

PICT0258.jpg
(一応歴史ブログなので私の歴史?15年位前です。ひげは気に入ってたのですが、妻の両親に却下されました(笑))

【私には欠かせない秘密物】

P9100015.jpg(母は器用な人で趣味も多かったですね~最後がパッチワークだったかな?)

まずはペンケース。母の作品です。もう亡くなって7年がたちますができるだけつぎはぎしても長く使いたいです。絶対に作られないものですから。意外とピンク少ない?次はドピンクの充電器1000円意外と重宝してます。上の真ん中も母が作ったティッシュ入れです。内側のポケットに香の袋を入れて楽しんでいます(京都御所近くの香木店、山田松香木店の香木を使ってます)。

二つの巾着は赤い方が「こぎん刺し」の巾着、こぎん刺しは江戸時代に津軽地方(青森県弘前市を中心とした地域)で生まれ、現代に受け継がれている刺しゅうです。藍染の麻布で作られた野良着の保温と補強の為に白い木綿糸で刺したことが始まりといわれています。

もう一つは、「丹波布」の巾着、丹波布(たんばふ / たんばぬの)とは、丹波国佐治村(現在の兵庫県丹波市青垣地域)で織られていた手紡ぎの絹と木綿を交織にした平織の手織り布の事です。丹波布作家のイラズムス千尋さんと仲良くさせていただいていて、こちらは彼女の作品では無いと思いますが、ご縁が有って購入したのでこぎん刺しから持ち替えました。中身はお薬「ピルケース」が入っています。年を重ねるとお薬が手放せないのです。(笑)

【スマホケースとハンケチとポーチなど】

P9100001.jpg(ポーチ綺麗にできていると思いませんか?一番のお気に入りです。)

まずはピンクのポーチ、こちらも母が作った作品です。縫い合わせてから切れ目を入れて模様を出す面白い手法を使っていますね。私のお気に入りです。お隣のアマガエルはカードケースです。私蛙が大好きで「無事かえる」にもつながるので、なんとなく気に入って購入しました。もちろんハンドメイドです。普段はポーチの中です。その他の物和風のハンケチ、におい袋も普段はポーチの中です。意外に量が入るポーチなので重宝してます。

スマホケースは安物ですが、先ほどの印伝ストラップに海洋堂の鶴を抱えた福禄寿を下げています(七福神の一人福禄与えてくれないかな?。

(最後に忘れてた、いつ何が有るかもわからないのでカメラ入れてます。一応Bloggerですからね(#^.^#))

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(35年前、化け物じゃないですよ、細いな~(((^_^;))

大学時代に二年間Mr.美人大会に美術部の先輩に無理やり出場させられ、連続優勝した時の写真です。体重は58キロで、今より33キロ痩せてます。髪の毛は勝手に切らせてもらえないし、体毛も綺麗に無理やり剃られてしまい、踊りの練習も夜中まで頑張りました。ご褒美はゲイバーに飲みに連れて行ってもらいましたっけ(笑えない)。

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(これ誰ですか~って感じです。やっぱりピンクじゃん!)

【最後に少し】

LGBTの問題についてお話しときたいと思います。LGBTとは性的少数者を限定的に指す言葉です。 レズビアン(女性同性愛者)、ゲイ(男性同性愛者)、バイセクシュアル(両性愛者)、トランスジェンダー(出生時に診断された性と、自認する性の不一致)の頭文字をとった総称です。

私はピンクが好きです。会社のシャワ-ルームマットの色が決まっていて、男性はブルーで女性はピンクなんです。私が交換すると次の日には元通りになっています。不思議なんですよね、誰が決めとんねん?なんで女性のスリッパはピンクで男性のスリッパはブルーなの?頭の固いオジサンたちもう少し考えようや。決して多数が正義では無いのだからね。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/09/08

「祈りとは何なのか?」世界遺産よりも明解に示してくれる場所 『猪目洞窟』

「夏も過ぎた気配なのに、今頃怪談話か」と笑われそうですが、「見た人には確実に死が訪れるといわれる『猪目洞窟(いのめどうくつ)』をご紹介します。

まず安心してくださいね、生き物は必ずいつか死にますから、洞窟を見ない人も必ずいつか死にますからね!それにすぐに死が訪れるとも言っておりませんし、どうやら「夢を見ると」の但し書きまである丁寧さですから、そう簡単に死にそうにもありません。まず私の死亡記事(私などで死亡記事が出ることは無いです)が出ましたら、少しだけ心配しましょうか。

P8111310.jpg(道路向こうのトンネルが西向き、出雲大社方向です。)

猪目洞窟は『出雲国風土記』出雲郡条の宇賀郷の項には、「夢にこの磯の窟の辺に至れば、必ず死ぬ。故、俗人古より今に至るまで、黄泉の坂、黄泉の穴と名づくるなり」と書かれ、夢で猪目洞窟を見た者は必ず死ぬ、ここは黄泉の穴であると記されています。また伊邪那美命(イザナミノミコト)が、死んだ伊邪那岐命(イザナギノミコト)を迎え行った黄泉の国の入り口であるともいわれています。

島根県安来町の揖屋神社の近くに「黄泉比良坂・(伊賦夜坂)」が有りますが、お話は似ているような気がしますね。心霊スポットだと聞いたこともありませんが、ん?そういえば近頃、転んでひざ小僧をすりむいたり、カメラの充電ジャックが壊れたし、娘のバイトの迎えで車のバンパー2㎝ほど傷付けたし、悪いことが続けておきているような気がしますね~(゜゜;)

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【猪目洞窟ってどこに在るの?】

P8111304.jpg(この看板見逃したら、ちょっとやばいかもしれません。)
P8111256.jpg(あの世への入り口説明版です。)
P8111261.jpg(道路から下る細道を下りてゆきます。)

住所は、島根県出雲市猪目町ですね、猪目洞窟は出雲大社の艮(うしとら・鬼門)の方角に位置しています。日御碕から島根県道23号へと山道へ入り13km、30分程度でしょうか?もちろん人も訪れることもほとんどない、寂しいところです。私の取材中に上の道路を通過した車は2台、お会いした人物は釣りに来られたおじさん一人だけでした。

『出雲風土記』の「夢至此礒窟之辺者必死。故俗人 自古至今 号黄泉之坂 黄泉之穴也。」は現代語に訳すと「夢の中でこの洞窟に行くのを見たならば、必ず死んでしまう。ここは昔から黄泉の坂、黄泉の穴と呼んでいる。」となります。

日御碕方面から向かいますとカーブの先のトンネルを抜けて直ぐ橋下のため、この時も対向車が来てスピードを下げていなければ、通り過ごしていたかもしれないようなへんぴな場所です。

【猪目洞窟の何が凄いの?】

P8111255.jpg(猪目洞窟遺物包含層説明版)
P8111302.jpg(絵に成りそうです。100号くらいはかけるかな。)
P8111267.jpg(美しいですね~本当!地層がこんなにまで美しいなんて、ビックリです。)
P8111262.jpg(猪目洞窟および遺物説明版)

猪目洞窟は天平5年(733)に編纂された出雲国風土記によると「夢で猪目洞窟を見た者は必ず死ぬ」と記され黄泉の国の入口とも云わっています。昭和23年(1948年)に発掘され、弥生時代から古墳時代にかけての人骨や副葬品が発見されました。発掘調査によるとゴボウラ製貝和をはめた弥生時代の人骨や、古墳時代の木棺墓に葬られた人骨、副葬品が須恵器だったものなど13体の人骨が発見され古くからの聖地だった事が推察されます。

発見当時、大社考古学会により調査が行われた関係から、出土品は現在、大社町の史跡猪目洞窟遺物包含層出土品収蔵庫で保管されているとの説明版がありました。1700年前の美女性の白骨が状態よく残っているらしいので是非見たいですね~。

史蹟調査によれば猪目洞窟は、人骨なども発見されていることから、かつての埋葬地であったと考えられています。実際に訪れると、出雲大社裏の山を越えて丁度同社真裏の海辺に存在することから、古代の人々の聖域観など、神道を育んだ基層的信仰の問題を考える上で示唆に富んだ地理的要件を持つことが考えられます。

猪目洞窟遺物包含層(いのめどうくついぶつほうがんそう)は1957(昭和32)年7月27日国指定史跡に、猪目洞窟遺跡出土遺物が1974(昭和49)年12月27日島根県指定文化財にそれぞれ指定されています。

【猪目洞窟遺物包含層】

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(小さな祠が有りました。)
P8111290.jpg(洞窟の中に入ってみましょう。)
P8111283.jpg(奥まで行くとこんな感じ、この土の下に遺物が埋まっていました。まだ先があるそうです。)

この洞窟遺跡は、1948(昭和23)年に、漁船の船置場として利用するため入口の堆積土を取り除いた時に発見されたものです。猪目洞窟は猪目湾の西端にある海蝕大洞穴で、凝灰岩の絶壁にできた洞窟の洞口は東に向き、幅36メートル、奥行き30m高さ中央部で約12メートル有ります、奥に進むにしたがって幅と高さがちいさくなり、トンネル状の岩隙となっています。洞底には凝灰岩の巨塊小片微砂等が推積しています。

発掘遺物は層序的に良好な保存状態で存するもので縄文式土器、弥生式土器、貝釧及び土師器、須惠器、各種木製品より成り、人骨も埋存していました。

この遺跡は、縄文時代中期の土器片も少量採集されていますが、弥生時代以降、古墳時代後期まで(2,300~1,400年前)の埋葬と生活の遺跡といえます。埋葬の遺跡としては、人骨が13体以上見つかっており、特に注目されるものとしては、南海産のゴホウラ製貝輪をはめた弥生時代の人骨や、舟材を使った木棺墓に葬られた古墳時代の人骨、稲籾入りの須恵器を副葬した人骨などがあります。

生活の遺跡としては、各種木製品、土器、骨角器などの道具や、食料の残滓と思われる貝類、獣骨、鳥骨、木の実など、また多量の灰などがあります。

題名を考えるときに、「死を招く洞窟で死者の国の入り口を見た『猪目洞窟』にしようとも考えましたが、人間の何世紀にもわたる純粋な祈りをオカルトまがいの題名でかたずけても良いものかと考えて、祈りとしました。この猪目洞窟で人々は何を祈ったのでしょう。為政者が行った大掛かりな祈りとはまた違った、単純で純粋な生活の祈りだったに違いないと思う市右郎衛門です。
P8111292.jpg(黄泉の世界から出ると、現実がすぐそこにありました~(笑))
P8111295.jpg(猪目湾の向こうにも洞窟が見えます。綺麗な山陰の景色にうっとりです。)


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リュミエールブラン ネージュ

2017/09/06

歴史のいたずらが神々の系図を二つに分ける!『出雲国造 千家家』

「祝」大変おめでたい話題から始めましょう。

秋篠宮家の長女、眞子様(25)と、大学時代の同級生で法律事務所職員、小室圭さん(25)の婚約内定が9月3日、宮内庁から正式発表され、お二人は東京都港区の赤坂御用地の赤坂東邸で記者会見されました。

結納にあたる「納采のうさいの儀」などを経て、来秋にも結婚式が行われる見通しです。眞子さまは結婚後、皇籍を離れられることになります。皇族女子の結婚は戦後8例目で、天皇、皇后両陛下の孫では初となります。

素敵なお二人のご結婚は、たいへんおめでたい事ですが、皇族が一人少なくなることで、悠仁親王(ひさひとしんのう)へのプレッシャーが半端なくなるのでは?と心配している一人です。

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(出雲大社では今、兎たちが大人気です。この可愛いい二匹にも秘密が隠れています。)


さて、今日の本論なんですが、『出雲大社』のご紹介をしたいのですが、書くべきことが多過ぎて一度ではとても無理と考えまして、少しずつ外堀から埋めて最後にどど~~ンと『出雲大社』大社造りの大神殿で完結と考えています(そういうパターン多いな!(-_-;))。
2014年(平成26年)10月5日にも、出雲大社の権宮司「千家国麿さん」が、高円宮憲仁親王と妃久子さんの次女「典子女王」とご結婚されました。こちらも、話題で取り上げられたので、皆さんご存知ですよね。

今回は、出雲国造『千家家』『北島家』より『千家家』を取りあげます。

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記者会見で千家国麿さんは自ら、 「私の祖先は2000年前の、天照大御神の弟です」とちゃめっぽく自己紹介されていましたが実際はちょっと違うかも?遠慮されたのかな。
『千家家』って何?誰~?と思われる方も多いかも知れませんね。かくいう私も、出雲巡りをするようになって初めて、古来の国造が連綿と続いていること、又その国造が二家に別れて大国主の御霊を祀っておられることを知りました。



【出雲国造って何?】

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(千家国造館・永職館)
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(永職館とは?)
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(出雲大社側からの入り口です。)
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(こちらが千家家のお住まいです。)

出雲国造(いずものくにのみやつこ、いずもこくそう)は、出雲国(現在の島根県東部地方現在の出雲市とは違いますよ。)を古に支配した国造です。

国造(くに の みやつこ・こくぞう・こくそう)とは、古代日本の行政機構において、地方を治める官職のことです(また、その官職に就いた人)。軍事権、裁判権などを持つその地方の支配者でしたが、大化の改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となりました。その氏族の出雲氏の長が代々出雲大社の祭祀と出雲国造の称号を受け継いできました。

『先代旧事本紀』『国造本紀』によれば、第10代崇神天皇のとき、天穂日命(あめのほひのみこと)の11世の孫である宇賀都久怒(うかつくぬ)を国造に定めたとあります(つまり神様の末裔ですね(゜ロ゜;ノ)ノ)。

「古事記」では『天穂日命』は、誓約によって須佐之男命が天照命の勾玉を譲り受けて生まれた五皇子の次男に成ります。ちなみに天皇家は、「天照大神」→「天忍穂耳命(アメノオシホミミ・五皇子長男)」→「瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)」天照大神の命により、葦原中国を統治するため高天原から地上に降りた(天孫降臨の神様)→「火遠理命(ホオリノミコト)」一般には山幸彦(ヤマサチヒコ)の名で知られている(神武天皇の祖父)→「神武天皇(初代天皇)」の系図に成ります。

『古事記』によれば、无邪志国造(武蔵国東部)・上菟上国造(上総国海上郡)・下菟上国造(下総国東部)・伊自牟国造(上総国埴生郡)・遠江国造(遠江国西部)も天穂日命の子神・建比良鳥命(たけひらとりのみこと)をおなじ祖としています。

出雲氏は、国譲りに応じた大国主命を祀るため、天日隅宮(あめのひすみのみや=出雲大社)の祭祀を担った「天穂日命」を始祖、その子神「建比良鳥命」が第2代と成ります。初めて出雲国造に任じられたのは『先代旧事本紀』(国造本紀)によれば第12代宇賀都久怒からとの記載があるようですが、千家家の伝承をまとめた『出雲国造伝統略』によれば第17代出雲宮向からであるといわれています。

第12代景行天皇の条には、倭建命(やまとたけるのみこと)が地名を名に負う出雲建を殺した話があるように、いにしえの出雲地方を中心に大きな勢力を誇った出雲氏が、倭王政権下において出雲国造に任ぜられました。

【全国の国造の廃止】

7世紀半ばの大化の改新以後、中央集権化が進むにつれて、国造制は全国的に廃止される方向に進み、『続日本紀』によれば第43代元明天皇の和銅元年(708年)に、忌部宿禰子首が新たに出雲国守に任ぜられます。国造に代わり中央から国司が派遣されるように成ったことは、国造制から律令に基づく国郡里制に支配体制が移行したことを示しています。

しかし、出雲国造は紀伊国造などとともに、ごく一部の例外的な氏族として国造の称号存続を許され『続日本紀』の第42代文武天皇2年(698年) 三月の条に、「筑前国宗形と出雲国の意宇の両郡の郡司は、共に三親等以上の親族を続けて任用することを許す」との詔が記され、また、『類聚三代格』に「慶雲三年(706年)以来令國造帯郡領」とあって、律令制下における出雲氏は、延暦17年(798年)に解かれるまで、引き続き出雲国造を名乗るとともに、出雲国東部にあたる意宇郡(おうぐん)の郡司の職にも任じられました。

意宇郡司職を支族に譲った後の出雲氏本家は、意宇郡から出雲郡杵築郷(現在の出雲大社周辺)に拠点を移し、元々出雲国造家の本拠である意宇の熊野大社と併せて行っていた出雲大社における祭祀に専念するようになったと考えられています。

その後、現在に至るまで、出雲大社の祭祀長を示す称号として出雲氏の子孫が出雲国造を世襲しておられます。また、国造の代替わりの儀式である「火継式」に際しては、熊野大社と神魂神社にて儀式(秘密のベールに包まれた儀式です。)が行われ、現在でも熊野大社との関係を維持しています。

【国造家の分裂】

出雲国造家の称号と出雲大社の祭祀職務は、南北朝時代に入るまで一子相伝でしたが、康永年間(1340年頃)以降、千家氏(せんげし)と北島氏(きたじまし)の二氏に分かれ、それぞれが出雲国造を名乗るようになりました。

これは、どこの名門の家でもありがちな?、兄弟の跡目争いが原因となりました。南北朝時代の第54代国造・出雲孝時(いずも のりとき)は、子の「六郎貞孝(わかりにくいので三男と考えてください)」を寵愛し、国造を継がせようと考えていました。しかし、孝時の母である覚日尼(塩冶頼泰の娘)から「三郎清孝(長男です)」は病弱であるが兄であるので、後に貞孝に継がせるとしても、まず一時的にでも兄である清孝に継がせてほしい」と説得を受け、清孝を後継者に決めました。

おばあさまの思惑どおり、清孝が第55代国造となりましたが、やはり病弱であったため職務を全うできず、弟の「五郎孝宗(次男ですね)」を代官として職務のほとんどを任せ、そのまま康永2年(興国3年/1343年)、国造職を孝宗に譲ってしまいます。

これに対して六郎貞孝(そりゃ頭に来ますよね!)は、「自分に国造職を譲るのが本来である」と猛烈に反発し、神事を中止して軍勢を集め、社殿に立てこもって紛争状態となってしまいました。

事態を重く見た守護代の吉田厳覚は、清孝・孝宗側と貞孝側の両者に働きかけ、年間の神事や所領、役職などを等分するという和睦を結ばせました。こうして康永3年(興国4年/1344年)6月5日)以降、孝宗は千家氏、貞孝は北島氏と称して国造家が並立し、19世紀後半の幕末まで出雲大社の祭祀職務を平等に分担する事に成りました。

明治時代には、千家氏・北島氏ともに男爵として遇されましたが、出雲大社自体は内務省神社局の傘下(社格は官幣大社)となり、千家氏は「出雲大社教(いずもおおやしろきょう)」、北島氏は「出雲教」と、それぞれ宗教法人を主宰して分かれ、出雲大社の宮司は千家氏が担う事に成りました。何故千家氏が担うことになったのか不思議ですよね。

戦後、神社が国家管理を離れた後は、出雲大社は神社本庁包括に属する別表神社となり、宗教法人出雲大社教の宗祠して、宮司は千家氏が担っています。

私はFacebookでどちらの宮司さんともお友達に成って頂いておりますが、当たり前ですが現在は、仲が悪いというような事は無いようです(笑)

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(Facebookのお友達、権禰宜の飯塚さんです。男前ですね~隣のおっさんがいけませんな。)

【歴代出雲国造(一部省略)】

初代:天穂日命
2代:武夷鳥命~(中略)~
11代:阿多命- 出雲振根。『日本書紀』「崇神紀」60年の条に出雲臣之遠祖とあり、神宝を崇神天皇に差し出した弟・飯入根を殺し、崇神天皇の命により吉備津彦らに誅殺されたと記載されます。
12代:氏祖命- 鵜濡渟、宇迦都久怒。『先代旧事本紀』(国造本紀)よればこの宇迦都久怒が最初の出雲国造の名前を名乗っています。『日本書紀』「崇神紀」60年の条には、振根の別の弟・甘美韓日狭の子として神宝を差し出し、後に振根の弟殺しの件を報告しました。
13代:襲髄命- 『日本書紀』垂仁天皇紀に登場する野見宿禰と同一人物だといわれます。
14代:来日田維穂命- 『古事記』垂仁天皇の条に出雲国造の祖として登場する岐比佐都美と同一人物だといわれます。
15代:三島足奴命
16代:意宇足奴;- 意宇宿禰。『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇即位前紀(応神天皇41年/310年)の条に淤宇宿禰の名で出雲臣之祖とあり、倭(奈良県)の屯田司に任じられていたが額田大中彦(仁徳天皇の兄)に職務を妨害された話が載っています。
17代:出雲宮向-允恭天皇元年(412年)に初めて国造となり出雲の姓を賜った(一説によれば允恭天皇元年ではなく反正天皇4年ともいわれます。
いずれにしろ記紀には記載されていません。)。
18代:出雲布奈~(中略)~27代:出雲廣島-『出雲国風土記』を編纂しました。
28代:出雲弟山~(中略)~55代:出雲清孝

【千家家(分裂を経て!)】

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(神楽殿・結婚式が行われます。)
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(大きなしめ縄です。日本一かもしれませんね。)
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(松江の友人は千家家での婚儀の方が離婚率が多いといいます(;^_^A、友人の私見です。m(__)m)

56代:千家孝宗~(中略)~68代:千家尊能
69代:千家尊光 - 通称右京~(中略)~76代:千家俊秀 - 通称清主。千家俊信の兄で千家俊信の門弟。千家 俊信(せんげ としざね)は、日本の国学者であり歌人です。第七十六代出雲国造千家俊秀の弟。のちに分家して、千家日古主と名乗ったり、清主と改名したりしています。明治の文豪小泉八雲の妻セツは玄孫にあたります。
77代:千家尊之~(中略)~79代:千家尊澄
80代:千家尊福 - 出雲大社教を設立。司法大臣・東京府知事等を歴任されています。
81代:千家尊紀 - 先代の弟、明治15年(1882年)に継がれます。
82代:千家尊統 - 著書『出雲大社』(学生社)があります。昭和43年(1968年)没。
83代:千家尊祀 - 昭和22年(1947年)に父から国造職を継ぎ、半世紀以上務めました。
84代:千家尊祐 - 平成14年(2002年)に父から、国造職を継いでおられます。
84代の長男:千家国麿 - 出雲大社権宮司。2014年(平成26年)10月5日、高円宮憲仁親王と同妃久子の次女典子女王と結婚されました。

【『出雲国造神賀詞』の奏上】

奈良・平安時代の出雲国造は、その代替わりごとに朝廷に参向して『出雲国造神賀詞』を奏上する儀礼を行っていました。儀式の次第は『延喜式』に記されており、それによれば、まず新しく国造となった者は朝廷に上って新任の式を行い、天皇から「負幸物」を賜ります。その後、出雲に帰って1年間潔斎をした後、再び朝廷に上り、神宝・御贄を献って神賀詞を奏上します。また、出雲に帰ってまた1年の潔斎を行い、再び朝廷に参向して献物を捧げて神賀詞を奏上するという儀礼をおこなっていました(大変ですね)。

文献の記録では、霊亀2年(716年)2月に第23代国造出雲臣果安が奏上したとの記事(『続日本紀』)が初見で、以後、天長10年(833年)4月の第35代国造出雲臣豊持による二度目の奏上(『続日本後紀』)まで15回の記録が見られます。しかしこれはあくまでも文献上であり、実際は最初の奏上が果安以前の国造であったり、最後の奏上が豊持以降の国造である可能性は高いといえるでしょう。

また神賀詞の内容や儀式の次第についても記録は延喜式制定時点のものであり、各代の奏上において同一ではなく、時代を追って変遷していると思われます。奏上儀式の起源については、朝廷が古代の在地勢力による服属儀礼を、代表として出雲国造に命じて行わせたとする説や、出雲国造が自らの系譜を朝廷の神話体系の中に売り込むべく始めたとする説などがあり、定かではないようです。

しかしいずれにしろ、この儀式は古代日本において他の国造に見られない出雲国造独特の儀式であって、記紀神話において出雲神話が非常に大きなウェートを占めていることや、国造制の廃止後も出雲国造が存続された理由とも切り離すことのできない儀式です。

またまた、長々と書いてしまいましたが、出雲国造の仕事とは、国譲りで傷ついた大国主(出雲王国)の御霊を慰め祀ることだと考えます。
巨大な空中神殿、古事記に書かれた神話部分の多くを占める出雲神話、倭大王がいかに出雲の霊力(科学を生業とする私には認めるわけにはいきませんが!)を恐れていたかがうかがえるのではないでしょうか?

参考までに以前UPしました「北島家」もご覧ください。ほとんど同じ家なので変わらないのですがね~(笑)
歴史のいたずらが神々の系図を二つに分ける!『出雲国造 北島家』

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(最初の可愛い兎の秘密!国麿さんと典子さんのご結婚祝いの兎だったんです。凄く多い兎たち秘密の国に迷い込みましょう。)


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リュミエールブラン ネージュ

2017/09/04

『出雲 阿国 』、天下へ歌舞(かぶ)く!!!

歌舞伎といえば、先日最愛の奥様「小林麻央さん」がお亡くなりになった市川海老蔵さんが有名ですよね、末期の癌を宣告されながら、笑顔を絶やさなかった麻央さんの姿がすばらしいと、話題になりました。

市川さんの家は、江戸歌舞伎の代表的な家系で、市川團十郎と市川海老蔵の名跡を持ちます、屋号の成田屋は、梨園でもトップの家系なのだそうです。ちなみに梨園とは、唐の玄宗皇帝が、宮中にある梨の庭園に子弟や宮女を集めて、舞踊や音楽を学ばせたということから名づけられています。

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(稲佐の浜に立つ阿国です。)

しかし私は、かぶき者といえば漫画「花の慶次」や隆慶一郎の小説「一夢庵風流記」の『前田慶次』をつい思い出してしまうのですが、皆さんはどうですか?前田慶次(前田利益、前田慶次郎)は戦国時代の武将で加賀百万石の礎を築いた前田利家の甥にあたる人物ですが、歴史的にはそれほど活躍もしておらず、現存する資料も少ないようです。しかし、慶次郎(利益)は高い教養を持ちながら、常日頃世を軽んじ人を小馬鹿にする悪い癖があり、その逸話が面白可笑しく脚色されて人気者となっています。

さて今日は、「市川團十郎」の紹介でも「前田慶次」の紹介でもありません。歌舞伎の創始者といわれる人物『出雲阿国』をご紹介したいと思います。

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【いつもの、出雲 阿国って誰?】

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(お盆前で一般のお墓も有りまして、人のお参りも多かったです。)
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(小高い丘の上に在ります。)
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(いつもと違い階段も少しだけです。)
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(説明版、まあまあですか(;^_^A ・・・)

出雲 阿国(いずもの おくに、元亀3年?(1572年)没年不詳)は、安土桃山時代の女性芸能者です。ややこ踊りを基にしてかぶき踊りを創始したことで知られており、このかぶき踊りが様々な変遷を得て、現在の歌舞伎が出来上がったとされます。しかし服部幸雄(歌舞伎研究家、芸能研究家、日本文化史家、千葉大学名誉教授)は、阿国かぶきは中世以来の女性芸能の一つに過ぎず、歌舞伎の成立は若衆歌舞伎からだと推察されています。

名古屋山三郎と関係するともいわれ、「山三郎が夫である」、「山三郎の亡霊の役を演じる男性とともに踊った」といった解説がなされることもありますが、前者は伝説ともいわれており、後者も信頼性が定かとは言えないようです。資料にしか登場せず、信憑性が疑わしいようです。

現在では阿国と表記することが多いようですが、この表記は17世紀後半以降に彼女が伝説化してから広まったもののようです。歌舞伎創始期について語る場合は、彼女と同時代の資料にしたがって国、もしくはお国とするのが適切です。また、「出雲のお国」という呼称も同時代の資料には見られず、お国が出雲出身かどうかも学術的に決着がついていません(え~~~!今回お墓まで撮影してきたのに?)。f(^_^;

【阿国歌舞伎発祥地と生涯】

前述のようにお国が出雲出身かどうかは決着がついていないものの、出雲国杵築中村の里の鍛冶中村三右衛門の娘といわれ、出雲大社の巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったといわれています。

阿国本人かは不明ですが、慶長5年(1600年)に「クニ」なる人物が「ヤヤコ跳」を踊ったという記録(時慶卿記)があり、この「クニ」が3年後の慶長8年(1603年)に「かぶき踊」を始めたと考えられています。『当代記』によれば京で人気を得て伏見城に参上して度々踊ることがあったといわれています(つまり秀吉に呼ばれたということですね)。

慶長8年5月6日に女院御所で踊ったという記録があり、文献によって踊ったものの名称が「ヤヤコ跳」「ややこおとり」「かふきおとり」と異なっています。この事と記述の内容から考えて、慶長8年5月からあまり遡らない時期にかぶき踊というあらたな名称が定着したのだと考えられているようです。内容面でもかわいらしい少女の小歌踊と考えるややこ踊から、傾き者が茶屋の女と戯れる場面を含むようなものに質的に変化した様子がうかがえます。なお、お国がかぶき踊りを創始するに際して「念仏踊り」を取り入れたとする記述が一般向けの解説書や高校生向けの資料集などに書かれている事がありますが、これは俗説の域を出ず、ややこ踊の一座やお国が念仏踊りを踊った可能性は低いようです。

その後「かぶき踊」は遊女屋で取り入れられ(遊女歌舞伎)、当時各地の城下町に遊里が作られていたこともあり、わずか10年あまりで全国に広まりましたが、のちに江戸幕府により禁止されています。もともとお国が演じていたものも前述のように茶屋遊びを描いたエロティックなものであり、お国自身が遊女的な側面を持っていた可能性も否定できません。従来の説では寛永6年(1629年)に女性の芸能者が舞台に立つことを禁止したとされるが、近年では十年あまりの歳月をかけて徐々に規制を強めていったと考えられています。

歌舞伎に女性が登場せず男性が女性を演じる女形があるのも、江戸幕府のおかげ?かも知れません。ちなみに私坂東玉三郎さんの大フアンです。玉三郎さんのは早い時期からで歌舞伎以外のジャンルにも興味を持たれ。『日本橋』、『白鷺』などの泉鏡花作品を中心とした耽美な作品への出演、映画化された『夜叉ケ池』でもすばらしい美しさを見せておられます。シネマ歌舞伎『天主物語』まだ見ていないので、是非見たいのです。

【その後の阿国】

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(余生を過ごしたといわれる阿国寺・連歌庵。)
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(東京美大の先生のレリーフが飾ってありました。)
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(可愛い地蔵菩薩が並んでいます。)
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(こちらが、たぶん?絶対立て直された連歌庵です。)
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(出雲大社のすぐ近く、杵築の森に抱かれるような場所です。)

阿国自身は慶長12年(1607年)、江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、消息が途絶えています。慶長17年4月(1612年5月)に御所でかぶきが演じられたことがあり、阿国の一座によるものとする説もあるようです。

没年は慶長18年(1613年)、正保元年(1644年)、万治元年(1658年)など諸説あり、はっきりしません(二代目阿国がいたのではないかという説もあります)。晩年は出雲大社に帰って尼とな智月と称し、連歌庵で連歌と読経三昧の生活を送り、静かな余生を過ごしたといわれます。

【国(クニ)に関する史料】

『多聞院日記』天正10年5月(1582年6月):「加賀国八歳十一歳の童」が春日大社で「ややこ踊り」を行ったという記事があります。それは「於若宮拜屋加賀國八歳十一歳ノヤヤコヲトリト云法樂在之カヽヲトリトモ云一段イタヰケニ面白云々各群集了」というものです。これを8歳の加賀、11歳の国という2人の名前と解釈し、逆算して国を1572年生まれとするのが通説化しています。しかし、加賀出身の8歳・11歳の娘という解釈も出来ますね(な~る程)。

確実な資料では『時慶卿記』に慶長5年7月1日条に(1600年8月9日)、京都近衛殿や御所で雲州(出雲)のクニと菊の2人が「ややこ踊り」を演じたという記録があり、ここでクニと名乗っていたことがわかります。「近衞殿ニテ晚迄雲州ノヤヤコ跳一人ハクニト云菊ト云二人其外座ノ衆男女十人計在之」。

『当代記』慶長8年4月に、「此頃カフキ踊ト云事有出雲國神子女名ハ國 <但非好女>出仕京都ヘ上ル縱ハ異風ナル男ノマネヲシテ刀脇差衣裝以下殊異相也彼男茶屋ノ女ト戲ル體有難クシタリ京中ノ上下賞翫スル事不斜伏見城ヘモ參上シ度々躍ル其後學之カブキノ座イクラモ有テ諸國エ下ル江戸右大將秀忠公ハ不見給」とあります。

『時慶卿記』より遡る記録では、『御湯殿の上日記』天正9年9月(1581年10月):御所で「ややこ踊り」が演じられた。『言経卿記』天正15年2月(1588年3月)、出雲大社の巫女が京都で舞を踊ったなどです。

【折角の「花の慶次」なのでかぶき者って、どんな感じ?】

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(迷ったけど登場させちゃいましょう。かぶき者「前田慶次郎」ご本人です。笑)



かぶき者(かぶきもの。傾奇者、歌舞伎者とも表記)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮です。特に慶長から寛永年間(1596年~1643年)にかけて、江戸や京都などの都市部で流行しました。異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのことを指します。茶道や和歌などを好む者を数寄者と呼びますが、数寄者よりさらに数寄に傾いた者と言う意味も含むようです。

かぶき者の一例として、当時男性の着物は浅黄や紺など非常に地味な色合いが普通でした。しかし、かぶき者は色鮮やかな女物の着物をマントのように羽織ったり、袴に動物皮をつぎはうなど常識を無視して非常に派手な服装を好んだようです。他にも天鵞絨(ビロード)の襟や立髪や大髭、大額、鬢きり、茶筅髪、大きな刀や脇差、朱鞘、大鍔、大煙管などの異形・異様な風体が「かぶきたるさま」として流行しました。「花の慶次」みてくださいわかりやすいです。

多くは徒党を組んで行動し、飲食代を踏み倒したり因縁をふっかけて金品を奪ったり、家屋の障子を割り金品を強奪するなどの乱暴・狼藉をしばしば働来ました。自分の武勇を公言することも多く、それが元でケンカや刃傷沙汰になることもあったようですね。辻斬り、辻相撲、辻踊りなど往来での無法・逸脱行為も好んで行い、衆道や喫煙の風俗とも密接に関わっていました。こうした身なりや行動は、世間の常識や権力・秩序への反発・反骨の表現としての意味合いがあったようです。

彼らは、仲間同士の結束と信義を重んじ、命を惜しまない気概と生き方の美学を持っていました。1612年(慶長17年)に捕縛・斬首されたかぶき者の巨魁大鳥居いつ兵衛(大鳥一兵衛、同逸兵衛、逸平などとも書く)は、厳しい拷問を受けながらも仲間の名は最後まで吐かず、代わりに全国の大名の名を書き出してみせました。彼はまた、刀のなかごに「廿五まで 生き過ぎたりや 一兵衛」と死を恐れぬ心意気を刻んでいました。当時25歳まで生きていることは、大きな戦場に出会わない不幸な意味合いが有ったようです。

1603年(慶長8年)に出雲阿国がかぶき者の風俗表現したかぶき踊りを創始、男装し最新のファッションで身をまとった阿国歌舞伎は一世を風靡し、のちの歌舞伎の原型となりました。かぶき者の文化は慶長期にその最盛期をみましたが、同時にその頃から幕府や諸藩の取り締まりが厳しくなっていき、やがて姿を消すことになります、その美意識は歌舞伎という芸能の中に受け継がれていくことになります。

資料などはWikipediaや出雲観光協会のパンフレットから拝借しました。

【最後に出雲阿国見たくありませんか?】

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(阿国の墓です。)
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(ヒビが入っているのが墓石ですね。)


出雲阿国が登場する歌舞伎が有ります。春霞歌舞伎草紙(出雲の阿国と名古屋山三の悲恋物語)です。お話は出雲大社の巫女である阿国は、勧進興行のため念仏踊りを踊りながら京の都に上ります。一座の女や若衆と共に、阿国が踊っているうちに、名古屋山三の亡霊が現れます。恋人同士であったお国と山三の二人はいつまでも踊り続けるという演目です。

日本史の教科書にも出てくる、歌舞伎の創始者阿国を題材とした舞踏です。名古屋山三も、同時代の伊達男として有名な人物だったらしいです。流行の最先端を行く美男、美女を組み合わせた華やかな歌舞伎演目です。是非どうぞ!

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リュミエールブラン ネージュ

2017/09/02

但馬でコストパフォーマンスが一番高いランチ『西村屋ホテル招月庭 レストラン Ricca (リッカ)」』

珍しく?グルメレポートです。有り難い事に父が、昨日鳥取中央病院から地元但馬の豊岡市民病院に転院出来ました。良かった良かった(ほっ!)。

心臓はもう大丈夫ですが、腰はまだかなり痛い様子でしたが、顔色も良く少しずつ元気になっています。

主治医先生の外勤診療が、16:00くらいまであるということでしたので、少しゆっくりとランチを楽しむことにしました。

そこで訪れたのが、前回一月大雪の日に訪れて素晴らしくおいしかった、但馬・城崎温泉『西村屋ホテル招月庭レストラン 「Ricca(リッカ)」』 のランチです。

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(西村屋ホテル招月庭レストラン 「Ricca(リッカ)」)

電話をすると一席だけ空いていたので早速予約、少し遅いお昼でしたが、朝も食べていなかったので、とても満足なランチに成りました。

それでは、『市郎右衛門』グルメブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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【たぶん(笑)】

同じ但馬内で、同じ元城崎郡(現在豊岡市)ですが城崎温泉は子どもの頃から外湯めぐり(めぐるといってもわが家は一乃湯専門専門ですが)でしか訪れたことが有りませんでした。

そんな知識しか持ち合わせてはおりませんが、城崎温泉にホテルや旅館が数ある中で西村屋はNO1のホテルだと思います。その西村屋ホテルが満を持して出店したレストラン「Ricca(リッカ)」、美味しくないはずがないじゃありませんか!

以前は、土曜・日曜・祝日限定でご好評だったレストラン「Ricca(リッカ)」のランチを、平日も前日までに4名様以上で予約するとで食べられるとホームページには記載されていたのですが、私前回は予約なしで当然来店(情報を知りませんでした。)今回も一人で予約(当日お昼、事前に確認しました)して食べちゃいました。今回は時間も遅かったせいか、レストラン独り占めで楽しませていただきました。「Ricca(リッカ)」のスタッフの皆さんありがとうございました。

【「Ricca(リッカ)」のランチコース】

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(城崎温泉にホテルや旅館が数ある中で西村屋はNO1ホテルだと思います。たぶんですよ?)

さて、「Ricca(リッカ)」のホームページには、「但馬は食材の宝庫。和牛のルーツ・但馬牛、冬の味覚の王様・松葉かにをはじめ、野菜、米、水、当たり前のものが本当に美味しい。 そんな地元但馬の食材をシェフ自ら厳選し、四季折々の一皿に仕上げた逸品”但馬キュイジーヌ”。 なかでも但馬牛を約2ヵ月にわたり熟成させ、炭火で丁寧に焼き上げた『但馬牛熟成肉のステーキ』は絶品。 冬のかに料理、季節の旬彩、厳選されたワインと共に、ここでしか味わえない贅沢なひとときをお愉しみください。」と紹介されています。

もちろん、夜のディナーコースの内容紹介でしょう。しかしながらそれにも劣らないお料理をお昼のランチコースで味わえるのです。凄いですね~!お昼のコースは二種類です。
A)フルコースランチ  ¥3800(税込ですがサービス料は別で実質3996円)
B)Riccaのランチ  ¥2800(税込同くじサービス料は別)

春はA)春のフルコースランチ 、B)Riccaの春ランチと名前がついていましたが、今回は予約時に3800円のコースでと頼んだので、正式名称は分かりませんでした。(;´・ω・)

こいつ、昼から贅沢しやがってなんて思われるかもしれませんが、実は昨年11月高校の同窓会に出席したときに、西村屋さんの商品券10000円分(1000円券10枚)をビンゴゲームでゲットしていたのです(ほ~~ほほ~~)。有りがたく使わせていただきました。

【さてフルコースランチのご紹介です】

最初にA)ランチとB)ランチのメニューの違いですが、B)コースにはアミューズ(突き出し)が無い、オードブルの数が少し違う。そしてメイン料理が肉か魚の一品になる処だと思います。私はプレゼントチケットで贅沢させていただきましたが、B)のRiccaのランチでも充分満足できると思います。

さてそれでは、メニューを順にご紹介していきましょう。

最初は『アミューズ』、城崎温泉の海側にある津居山蟹で有名な津居山漁港で水揚げされた白烏賊(一般的にはケンサキイカ)と雲丹のまわりに但馬牛のコンソメジュレ。

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(白烏賊(一般的にはケンサキイカ)と雲丹のまわりに但馬牛のコンソメジュレです)

この季節山陰は白烏賊が美味しいのです。歯ごたえもしっかりしていて甘みが素晴らしい、そこに但馬牛のコンソメジュレがさらに甘さを引き立てます。

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(但馬の幸・アンティパストミスト「イタリアンの前菜盛り合わせ」6種。相変わらずの写真下手!)

オードブル『但馬の幸・アンティパストミスト(イタリアンの前菜盛り合わせ)6種。』は六品、右上から行きます。

「津居山港」より穴子のフリット、フリットはフランス語の揚げ物の事ですが、食材に、小麦粉・卵黄・油・牛乳・塩、そしてメレンゲの入った衣をつけて揚げたものを指します。メレンゲを衣に使うことで、外はカリカリ、中はふわふわといった仕上がりになります。あなごの旬は6~8月。 基本的にさっぱりとした味が良いとされるため脂分の少ない夏が旬ですね~。まさに揚げ物としてはベストシーズンです。

次に「本日のカルパッチョ(大徳寺醤油)の泡」、カルパッチョはスタンダードで説明はいりませんよね。魚は山陰では「(かわすみ一般的にはアコウ」ですとウエイトレスの方がおしゃっていましたが、アコウ・キジハタをかわすみと、呼ぶのは島根県ですね~、すこし遠くの沖ノ島近辺でとれたアコウだったのかもしれません。私は大徳寺醤油の泡に注目しました。兵庫県北部の山間地帯、養父(やぶ)という小さな町の小さな醤油蔵「大徳醤油」。 創業より守り続ける伝統の“天然醸造”により四季の温度変化の中、蔵に住み着いた多様な酵母や微生物の活動で、1年~2年間じっくりと発酵・熟成させる醤油づくりに取り組んでいます。国産の大豆・小麦を使用した、化学調味料・合成保存料無添加の醤油づくりをされています。もっちりしたかわすみの身に、大徳寺醤油の泡が絡んでいうことなしです。

三品目は「香美町(香味煙)より燻製味噌と但馬の有機野菜」、もうこれは香味煙さんの燻製味噌に脱帽です。もともと燻製は好きで自分でも作ったりするのですが、酸味が出たりと以外に繊細な燻煙管理が必要なんです。つけて食べるお野菜の美味しいこといったら、完璧でした!

四品目は「有機野菜のキューブ」、モロヘイヤと人参にトウモロコシ、をキューブに上にトウモロコシのひげの素揚げがあしらってあるぬるつるさらしゃき?(笑)の遊び心の有る一品です。

五品目は「但馬牛のブレザオラ」、イタリア北西部の郷土料理だそうです。簡単にいうと牛肉で作った赤っぽい生ハムといったところでしょうか、本来のブレザオラは塩漬けした肉を脱水するだけのシンプルな作り方なのだそうです。イタリア北西部はフランス南部にも近く、雨も少なく乾燥に適した地域だったと思います。この地域の気候はブレザオラつくりには最適ですが、ここは気候正反対の但馬
ですから、シェフの苦労が見えるようです。(・・;)

最後のオードブルは「谷口さんの但馬鴨のテリーヌ」でした。鴨の臭みもなくてとてもおいしゅうございました(あんた誰やねんな!)。どちらかの谷口さんでしょう?是非教えて頂きたいですね(*^^*)

【大きなミスが~~『中務ファームよりトウモロコシと蛤の冷製ポタージュ』】

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(器可愛いよね~~(;^_^A アセアセ・・・)

料理がおいしくて気があせり、写真を撮り忘れてしまった一品です。(涙)蛤のジュースと有機トウモロコシをシンプルに岡ちゃん卵冷たいフラン(スペイン語ではプリン「カスタードプディング」のことですが)スープや素材を考えると冷製茶碗蒸しのイメージでした、蛤の身がアクセントの歯ごたえとなって、茶碗蒸しの鶏肉と勘違いしそうでした。器がユラリユラリと揺れるところが可愛いです。お味ですが私には少ししょっぱかったです。蛤・キャビアと塩味のあるものが入っているのでもう少し薄味の方が好みだったかもしれませんm(__)m。

【メインのお魚とお肉】

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(本日の鮮魚のグリルとアラビアータ)

まずはお魚『本日の鮮魚のグリルとアラビアータ』、豊岡りゅう製麺所より、生パスタ「ルスティチ」、本日の鮮魚は美味しい地元の鯛でした。生パスタ「ルスティチ」は食通を自認するなら、覚えておいた方が良いかもしれませんよ~。日本では珍しい形状のショート形パスタとしてメジャーになると思います。サラダに、スープに、カレーライスのライスの代わりに、揚げておつまみになど、使い方は豊富でお料理好きの方には重宝する形状です。さらに豊岡りゅう製麺所ではホウレン草入りの生パスタ!アラビアータの辛みがはえてとてもおいしいです。もちろん鯛もしっかり鯛でしたよ。
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(但馬牛「ラムイチ」のタリアータ)

お肉~~!『但馬牛「ラムイチ」のタリアータ』朝倉山椒のバルサミコソース、但馬育ちのサラダを添えて、「ラムイチ」その名の通りランプとイチボに分かれます。 ランプの下側(イチボ)を切り出した残りの部分をランプ肉と呼びサーロインに続く、腰からお尻にかけての大きな赤身で、モモ肉の中で特に柔らかい旨みのある一番やわらかい部位です。 赤身の中にも適度な霜降りがあり、いろいろな料理に合います。
「タリアータ」とは基本ステーキ(牛に限らず)を切って出したイタリア料理をタリアータと呼びます(薄く切った又は切ったと言う意味)。基本的にはルッコラなどのイタリア野菜(こちらの皿にはズッキーニ・ピーマン・オクラ・人参などが)も付け合わせでのせます。チーズを乗せる場合もあるようで、此方もチーズが載ってました。
ソースのバルサミコ酢がとても美味しく、甘みが強く酸味が柔らかだったので、朝倉山椒のピリリがお肉によく合いました。ただ但馬牛は、二ヶ月の熟成肉だそうですが、ん~~~?と感じてしまいました。このお値段で完璧を求めるのは、無理があるのかもしれませんが、前回食べた但馬牛の赤ワイン煮の時にも感じた、もの足りなさを感じてしまいました。

【最後は楽しみにしていたデザート】

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(岡ちゃん卵使用 クリームブリュレ)

デザートは三種類用意されていて、好きなものを選べます。「久美浜メロンノガトー(平林乳業)のヨ-グルトとミルクアイス」「フォンダンショコラ」「岡ちゃん卵使用 クリームブリュレ」の三種類です。実は私大山ソフトクリームが日本一美味しいと思っておりましたし、実際それ以上のソフトクリームを食べたことはありませんでした。前回こちらでいただいた、ミルクアイスは完全に大山ソフトを凌駕しておりました。もう一度確かめねば?の気持ちで食べにきたのです。どのデザートにもミルクアイスが入っておりましたので、「岡ちゃん卵使用 クリームブリュレ」をチョイスいたしました。

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(おまけにもう一皿ミルクアイスをプレゼント)

ウエイトレスさんにそのお話をすると、おまけにもう一皿ミルクアイスをプレゼントしていただきました。「GETだぜ~!」
やはり大山ソフトクリームよりおいしかったです。ただ、大山ソフトファンの皆さん、このアイスはRicca (リッカ)さんが「平林乳業」のジャジー牛のミルクからつくられた、ミルクアイスです。京都府丹後久美浜の「平林乳業 ミルク工房 空」さんでもソフトクリームは作っておられるので、一度食べに行ってみたいと思います。

【紅茶・お茶菓子そして、最後に】

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(朝倉山椒のガトーショコラと久美浜の天然塩を使ったガレット)

『本日の茶菓子』コーヒーor紅茶でお昼ごはん終了!お茶菓子は西村屋ホテル招月庭 でも一日五本限定の朝倉山椒のガトーショコラと久美浜(京都府ですがすぐ隣、母の実家もあります)の天然塩を使ったガレットで締めくくりです。

『西村屋ホテル招月庭 レストラン Ricca (リッカ)」』さんは地産地消にこだわり、水・野菜・魚・但馬牛・パン(コウノトリ米や地元小麦)牛乳に至るまで、但馬とその周りから集められたすばらしい素材を使ったレストランだと感じました。とにかく一度足をお運びください。但馬の自然のすばらしさを胃袋が証明してくれますよ~~。

【連絡】

〒669-6101 兵庫県城崎温泉西村屋ホテル招月庭
お電話 : 0796-32-3535 (西村屋ホテル招月庭予約係)
ご注意 : 小学生以下のお子様はご利用いただけません。
仕入れ状況によりメニューが変更となる場合があります。

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地元って本当にありがたいですよね~!

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