2017/08/18

男の嫉妬は怖い~!えっまたまた生き返る?「大穴牟遅(大国主)」『大石見神社』

今日のお話は時代が前回より1000年ほどさかのぼります。「古事記」神代のお話です。
皆さん「因幡の白兎」は良くご存じですよね。裸の兎を助けて八上比売(ヤガミヒメ)と結婚した大国主之命、お話はめでたしめでたしで終わるのですが、実は「古事記」ではその後に、怖~い八十神の兄弟たちの恨み節サスペンス劇場が有るんですよ~(-""-;)。面目をつぶされた兄弟達は、みんなで大国主之命を殺してしまおうという計画をたてたのです。

P8120024.jpg(本日紹介する大石見神社車で来たけど入れるかな?)

一度目の計画は、「燃え盛る猪作戦」、猪ならぬ焼石につぶされて殺されてしまった大国主ですが、何と母の愛で生き返ります(驚)
そのお話は以前に「赤猪岩神社」の紹介でお話させて頂きました。


今回は二度目の計画のお話と、其にまつわる、『大石見神社』を御紹介します。

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【意地悪な姉達ならぬ嫉妬深い兄弟八十神達!】

CIMG6532.jpg(ちょっとおじさんの足が邪魔ですが、白兎神社の砂像「素兎・八上比売・大穴牟遅)

まずは、因幡の白兎の後のお話を簡単にお話致します。八上比売と結婚した大国主之命(大国主と言っていますが、この時はまだ「大穴牟遅」オオナムジと呼ばれています)ですが、嫉妬深い?八十神の兄弟たちの恨みをかってしまいます。兄弟達は、みんなで大国主之命を殺してしまおうという計画をたてたのです。

一行が旅を続けて伯耆の国の手間の山の麓に来た時、兄弟たちは「大国主之命よ。この山には赤い猪がいるというぞ、我々が山の上からそいつを追い落とすからお前は下で待っていて、そいつをうまく捕まえろ。もし捕まえなかったらお前を殺すぞ。(いじめの域はすでに越えていますよね。)」と言って猪の形に良く似た大きな石を、火で真っ赤になるほど焼いて、これを山の上から突き落とします。これを猪だと思った大国主之命は 追いかけていってこれを抱きとめますが、その石に焼かれ死んでしまいます。

CIMG6585.jpg(こちらは南部町「赤猪岩神社」の邪悪な灼熱猪石を封印している巨石です。)

この知らせを聞いた母は嘆き悲しんで、高天原の神産巣日神(かむむすひのかみ)に御子の命を助けて頂きたいとお願いしました。 そこで生成をつかさどるこの神様は赤貝であるさき貝比売(さきがいひめ)と蛤である蛤貝比売(うむがいひめ)とに命じ、大国主之命を治療させて再び命を吹き返させました。

これを見た兄弟たちは、事が失敗したのでまた大国主之命を騙して、深い山の中へ連れて行きました(ひつこいなな~(*´ω`*))。そこで大きな木を切り倒し、木の割れ目にくさびを入れて開いておいて、大国主之命がその割れ目に入った時にくさびを引き抜いて挟み殺してしまいました。 ここでもまた母は泣きながら大国主之命の亡骸を木から取り出して、生き返らせました。

ちなみにここまでのお話については、以前にもブログでUPしましたので、そちらも参考にしてみてください。

①「因幡の白兎」の『白兎神社』で兎焼きが食べたい!
②生物学的に有るわけ無いよ「因幡の白兎」 
③大国主は何度でも生き返る!「甦り」の神社『赤猪岩神社』

そして大国主之命に「お前がここにいると本当に兄弟達に殺されてしまうでしょう。」と紀伊の国の植林の神様である大屋毘古之神(おおやびこのかみ)の元へ逃がします。 ところが、兄弟たちは紀伊の国まで追いかけて矢をつがえて殺そうとしたので、大国主之命は木の下に身を隠し、こっそりと木のまたから抜け出して逃げ出しました。

こうした度重なる危機を見て、母は「お前の祖父(六代前の先祖だったり、義父だったりします)にあたる須佐之男命がいらっしゃる根の堅州国(ねのかたすくに)逃げなさい。そうすれば大神がきっと良い取り計らいをしてくれましょう」と言われましたので、大国主之命はひとりで遠い根の国へと旅立ちました。

【大石見神社ご紹介~~~!】

P8120017.jpg(大石見神社に着いたのですが~と)
P8120019.jpg
(私を拒むかのように突然の雷雨!何かありそうです。)
P8120027.jpg(階段を上り始めると結界が解けたように雨がぴたりとやみました。)
P8120030.jpg(お約束の長階段です。)
P8120034.jpg(神門を通り抜けると少し。)

大石見神社(おおいわみじんじゃ) は、鳥取県日野郡日南町上石見の大倉山南に位置する神社です。大国主之命が二度目の復活を遂げた地と言われ、再生復活のパワースポットとして近年注目を浴びています。大名牟遅(大国主之命)は 南部町の赤猪岩神社での復活の後も、腹違いの兄弟・八十神の嫉妬が和らぐのを大倉山(大蔵山)の麓に隠れて逃れたともいわれます。また八十神の兄弟神に謀られ落命しますが、母神の助けにより二度目の復活をしたとも言い伝えられます。

ここ上石見の地は、八十神が木の割れ目にくさびを入れて開いておき、大国主之命がその割れ目に入った時にくさびを引き抜いて挟み殺した場所ともいわれています。

神社の神紋は「亀甲の中に三つ葉柏」で、柏の葉は春の新芽が出るのを見届けるまで落葉しないことから「復活」にあながち無縁ではないように感じられます。

P8120076.jpg
(到着です。大石見神社!)
P8120046.jpg(拝殿を見守るのは狛犬ならぬ、お狐様?さっきの雨は狐の成せる業か!)
P8120069.jpg(神殿の枕木・鰹木も男神様ですね、大名牟遅神・大国主之命別名・根の国では「葦原醜男」ですよ、笑)

【オハツキタイコイチョウで有名?】

また、境内には樹齢約300年以上とも推定される直径1.5mもの(「オハツキタイコイチョウ」(鳥取m県指定天然記念物の大イチョウ)があり、普通の種子(ギンナン)の他に「御葉付(葉の表面に種子が実る)」や「太鼓(二個組の種子が実る)」といった特徴のある種子をつけることで知られ、全国的に見ても珍しいイチョウです。

P8120083.jpg
(オハツキタイコイチョウまだ身が落ちて居なかったので、どのような物かよくわからなかったです。)
P8120094.jpg(写真が飾ってありました。こんな感じだそうです。変わってますね葉っぱ付き銀杏。)

【物語の真実はどうだ?】

手間山(鳥取県西伯郡南部町)で殺された大国主命は、母親と二人の女神の力により再生しさらに山奥へ逃げます。どこに逃げて行ったのか古事記にはその記載がありません。しかしながら、日野郡誌(1926)に「伝承の地」として記載あるそうですし、南部町の赤猪岩神社と同様の内容が大石見神社の由緒として残っているそうです。怪我が治る処まではほぼ同じ内容です。面白いのは「古事記」にはない八上比売同伴の記載が有るようです。二人でこっそり隠れ住んだのかもしれません。

上石見地区は、日南町の最南で中国山地の盆地にあります。もうあと少しで岡山県です。つまり伯耆国の最も奥地!今はのどかな土地ですが、大名牟遅の頃は昼なお暗いうっそうとした森だったに違いありません。裂いた木の間に挟まれた土地、皆さん納得できないでしょうか?

大岩見神社では、狛犬(こまいぬ)ではなく、キツネ様が、拝殿の両脇で社殿をお守りしています。ここでの大名牟遅は、お稲荷様(農耕神)なのかもしれません。


須佐之男命が治める根の堅州国(ねのかたすくに)、そこで大穴牟遅は正妻と『大国主』の名前を持つことに成りますが、そのお話はまたいつか?あれ!もう話しちゃったかもしれません(爆)



CIMG2282.jpg(須佐乃男祀る出雲、韓竈神社で出会った正にスサノオ30cm~~!葦原醜男の運命はいかに!)


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リュミエールブラン ネージュ

2017/08/16

後醍醐天皇!悪党「名和長年」を頼って都に帰り咲く!『名和神社・MODIFY』

今日御紹介致しますのは、伯耆国のお話です。地理に弱い私の子供達の為?に伯耆国の位置を説明します。山陰地方、鳥取市辺りの因幡国と島根県東の出雲国の間、現在の米子市、倉吉市辺りと考えて下さいね(#^.^#)。

以前、「名和長年」を祭る、『名和神社』を御紹介しました。

P8130645.jpg
(別格官幣社当然別格ですね、笑)

前回のお詣り時は、本殿の改築が行われておりまして、社殿がブルーシートで覆われ神社全体を撮影出来ず、御紹介出来ませんでした。先日訪れますと綺麗に改修されておりましたので、改めて御紹介させて頂きます。

名和長年は鎌倉時代末に隠岐国から脱出した後醍醐天皇を迎えて倒幕(鎌倉幕府ですよ!)に功があり、最後まで後醍醐天皇の御側で戦った武将の一人です。

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【名和神社ってどんな神社なの?】

鳥取県西伯郡大山町(旧名和町)にある神社です(山陰道を走ると見落としてしまうので注意です)。旧社格は別格官幣社。建武中興十五社の一社です。社紋は、名和氏の家紋の帆懸船です。

名和神社1(雨上がりの朝は気持ちが良いですね~~本当に綺麗な神社です。)
名和神社2(駐車場もしっかりあります?相変わらずの看板撮影が難関です。笑)
名和神社3(参道、朝早くて?人影なし!こちらは前回お祀りの一枚すこしだけブルーシートが写ってます。笑工事車両もね。)
P8130583.jpg(はい!綺麗な神門です。)
P8130615.jpg(前回は気が付かなかったですが、しめ縄が有りますね。)
P8130611.jpg(神門を反対側から、人物を表すようなシンプルで穏やかな神社です。)
P8130586.jpg(そして拝殿の工事も終了していました。)

名和長年を主祭神とし、名和一族以下42名を合祀しています。

私!僭越ではございますが、歴代の天皇の中でも五本の指に入る、後醍醐天皇ファンなのです。後醍醐天皇の不屈の精神力と意志の強さに憧れております。100年早くにお生まれに成ってしまったと思うくらいに天才的な天皇だと心酔しています。勿論昭和天皇陛下、今上陛下を御尊敬している事は当然なのですけれどね(#^.^#)



【後醍醐天皇、隠岐の島を脱出、伯耆の浜に降り立つ!】

CIMG8651.jpg
(後醍醐天皇が浜でお座りに成られた腰掛石です。見えてないですね~前のブログではばっちりです。)

1331年(元弘元年)の元弘の乱で鎌倉幕府の討幕計画が露見してしまい捕縛されて隠岐島に流罪となっていた後醍醐天皇が、1333年(元弘3年、正慶2年)閏2月、名和長年を頼って隠岐島を脱出し、伯耆国の船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発しました。

時代背景の詳しい?所や後醍醐天皇伯耆到着の場所等も、以前にブログUP致しましたので、詳しく知りたい方はそちらを読んで頂けましたらありがたいです。

①鎌倉幕府消滅の足音!『後醍醐天皇』VS『鎌倉幕府』
②『後醍醐天皇』悪党「名和長年」の力を頼って隠岐を脱出す!

【後醍醐天皇船上山に立つ!】

IMG_6145.jpg
(まさしく天然の要害です。)

幕府は船上山を討つため、足利高氏名越高家らの援兵を送り込みます。しかし、4月27日には名越高家が赤松円心に討たれ、足利高氏(尊氏)所領のあった丹波国篠村八幡宮で幕府へ反旗を翻します。
5月7日、足利高氏は佐々木道誉や赤松則村らと呼応して六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧しました。北条仲時、北条時益ら六波羅探題の一族郎党は東国へ逃れようとししますが、5月9日、近江国の番場蓮華寺で自刃し、光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇は捕らえられることになりました。

この伯耆、船上山からの倒幕戦に勝利した名和長年は後醍醐天皇により伯耆守に任じらています。また、後醍醐天皇の帰洛の際の護衛も務めています。
船上山に天皇を迎えて討幕活動に参画するまでのくだりは、方『太平記』『梅松論』に詳細に記載されていますが、船上山リポートもブログUPしておりますので、天然の要害と後醍醐天皇御座所をご覧頂けましたら幸いです。

③後醍醐天皇反撃の狼煙を上げる『船上山登山記』壱
④後醍醐天皇反撃の狼煙を上げる『船上山登山記』弐


幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された『建武の新政』において、河内国の豪族、楠木正成らとともに天皇近侍の武士となり、記録所や武者所、恩賞方や雑訴決断所などの役人を務め、帆掛け船の家紋を与えられました。

P8130592.jpg(帆掛け船の家紋)
P8130588.jpg(神殿は横からの撮影が出来なかったので拝殿から失礼いたしました。)

また、京都の左京の市司である東市正にも任じられました。これは名和氏の商業者的性格を重んじての人事と考えられています(現代なら東寺の弘法市も名和長年の仕切りですね(^〇^))。この役職は代々中原氏が世襲してきたが、後醍醐天皇は強引にこのポストに長年を組み込み込んでいます。自分の手足となって動いてくれる長年をこの役職に就任させることで、京都の商業・工業を直接掌握しようとしたと考えられます。

建武2年(1335年)に西園寺公宗が北条氏の残党と組んで新政を転覆しようとした謀略が発覚して逮捕されると、公宗を出雲国へ流刑する途中に謀って処刑しています。また、討幕運動において京都の六波羅探題を滅ぼした足利尊氏と対立し、後醍醐天皇とも確執があった護良親王を結城親光とともに捕縛するなど、後醍醐天皇の先兵として活躍しています。

足利尊氏が中先代の乱の討伐を契機に、建武政権から離脱すると、「楠正成」「新田義貞」らと共に宮方として足利尊氏と戦いますが、延元元年(建武3年、1336年)の湊川の戦いの後に京都に入った足利尊氏に敗れ討死してしまいました。討死にした場所については、『太平記』には京都大宮、『梅松論』には三条猪熊とされています。

後醍醐天皇はこの後、京都脱出し奈良吉野へ移られ、京都と吉野に二人の天皇が居られることになりました。この事件以降を「南北朝時代」といいます。

【建武政権下の立役者「三木一草」って誰のこと?】

長年の死を以って、後醍醐天皇の恩寵を受け栄達した「三木一草」( 三木一草は、後醍醐天皇の建武政権下で寵遇を受けた4人の寵臣の呼称。楠木正成、結城親光、名和長年、千種忠顕をあわせて呼ぶ。 名称の由来は、楠木は「クスノキ」、結城は「ユウキ」、名和は伯耆守であったことから「ホウキ」、千種は「チグサ」と4人の姓や官職名に因みます。 )は悉く果てました。

『歯長寺縁起』は長年の戦死を「南朝の盛運が傾く凶兆である」と記しており、その通り廷臣を相次いで喪った南朝は劣勢に追いやられてゆくことになって行きます。

名和氏1(神社の近くに名和一族の墓所がありました)
名和氏「2
(左から長年、義高、高光ですか?)
P8130606.jpg(誰一人いないのが?私?笑、気持ちよいほど質素で心が洗われるようでした。)




今回の伯耆国の旅どうでしたでしょうか?出雲も良いけど、伯耆も格別です。是非お出掛け下さいね(#^.^#)
リメイクなので全てがご理解いただけるように工夫しています。お楽しみいただけましたら幸いです。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/08/14

出雲の国は安来、「清水寺」の隠れ家宿坊『松琴館』の精進料理が完璧過ぎる!

清水寺といえば京都音羽山清水寺ですよね~~~!ええ?違うとおっしゃる方も居られるようですね、西国三十三観音霊場、第二十五番・御嶽山播州清水寺ですよね!(私もご紹介いたしました。)しかしながら、本日ご紹介いたしますのはそのどちらでもありません。

用明天皇二年(587)尊隆上人によって開かれ、当時一滴の水も出なかった山陰の山奥の山で、一週間祈願したところ水が湧出し、しかもその水が雨期に濁ることなく、乾期にも枯れることなく、常に清い水を湛えたところから「清い水の出る寺」清水寺と命名されたと伝えられれる、島根県安来市に在る天台宗の寺、清水寺(きよみずでら)で山号は瑞光山といいます

中国観音霊場第28番札所、出雲観音霊場第27番札所、出雲國神仏霊場第11番札所、ご本尊には推古天皇が瑞夢に厄ばらいの霊験あらたかを感得されたと云われる十一面観音様をお祀りし、ご祈祷をする寺として、厄ばらいの観音様として祟められ、毎年厄年に当たる人たちを中心に信仰を集めています。

さて、勿論素晴らしい出雲の古刹「瑞光山『清水寺』」をご紹介する予定だったのですが、その前に素晴しいお宿と精進料理をご紹介したいのです。

P8120381.jpg(精進料理の始まりですがまだまだ出て来ますよ~。)

二年前に子供達と一緒に伯耆富士こと「大山」にチャレンジました。疲れた身体を癒すには、賑やかな町中のホテルではなく。静かなお寺の縮合が良いのではないかと考えて予約したのが、今日ご紹介するお宿『松琴館』でした。

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【精進料理って何?】

P8120315.jpg
(精進料理って何でしょうね?笑清水寺で教えていただきましょう。)
P8120320.jpg(以前家族で来た時より看板も綺麗になっています。)
P8120326.jpg(結構階段が続きます。大山登山の後は裏道をバスで運んでいただきました。)
P8120333.jpg(お盆前なので門も飾り付けられています。)
P8120332.jpg(参拝する者を見極めるかのような不動明王が睨んでおられます。)

境内の参道沿いにある旅館『松琴館』で、寺坊伝統の肉、魚を一切使わないヘルシーな名物精進料理をご紹介しましょう。仏教の「不殺生」の思想から、肉や魚を食べることを禁ずる精進料理が生まれ、その原則を守り、古くから伝えられた調理法に現代の感覚を加え、会席料理と見紛うばかりの献立を提供するところに、この料理の特徴があります。当時の僧坊を思いながら、しばしこの芸術とも言うべき皿に舌鼓を打ってみてくださいね(写真だけで申し訳ございませんが)。

【実は前回は、大山登山で疲れていて写真が撮影できなかった?】



P8120344.jpg(やっと「松琴館」へお寺は閉門しておりますので、訪れるのは二軒の宿坊のお客だけです。)
P8120349.jpg(130年の歴史を誇る建物です。風情が有りますね~~~!)
P8120354.jpg
(と書いてありますが、予約した方が良いです、昨年は予約は取るとが出来ませんでした。)
P8120356.jpg(古い旅館ならではの心遣いが感じられますね。)
P8120361.jpg(大きな部屋に一人で食事静かな時間が流れます。窓からは清水寺の三重塔「重文」です。)

実は家族でお世話になった時には、大山登山の後で、とても疲れておりまして、写真に気が回らずお料理の写真を撮影出来なかったのです。今回この精進料理の写真を撮るためだけに、11日(山の日)に出雲に出かけ、12日の夕方の食事だけを予約してお願いし、「更にブログに乗せたいので、出来るだけ一緒に出していただけますか?」とご無理をお願いして撮影してきた苦労写真です(ブログ馬鹿ですが、それほど皆さまにご紹介する価値が有ると思ったのです)。
因みに此方のお宿、TV無し!スマホも通じません。俗世と隔離された空間が心を癒してくれます。まるで大正時代にタイムスリップしたようです。

松琴館(精進料理)
こちらのYahooトラベルの点数を見ていただければどれほどの物かお解りに成ると思います。今回私が頂いたのは3200円の清水コースです(HPで料理内容もご覧いただけますのでそちらも楽しんでください)。

安来・清水寺境内の宿、松琴館主人自慢精進料理を御覧頂けましたでしょうか?、130年もの歴史を持つ老舗の旅館。風情豊かな四季と、耳を澄ませば聞こえてくる「風の音」「虫の声」に包まれた環境で、6代目主人が「精進料理」に腕を揮う。その巧みな技術によって生み出される料理は芸術です!
これらがすべて魚肉類を一切使わない料理なんですよ、信じられますでしょうか?勿論全ての料理をお勧めいたしますが、その中でも手前の先付けの黒豆に似た食べ物「うれしの」は味噌に山わさびを紫蘇でくるんで漬け込んだもので、思わず笑いが出てしまう程のおいしさです。胡麻豆腐もトロトロで最高ですし、イカの刺身に見えるのは臭みの無い吉野葛で出来ています。ウナギのかば焼きに見える物は(姿、味もそのものです)山芋を焼いて作っているのですが、ノリがウナギの皮のようになっていてパリパリ感まで再現されています。

P8120370.jpg(料理編、名物うれしの)
P8120368.jpg(それぞれにこだわりが有りますね、もずくは山陰の細もずくOK!)
P8120367.jpg

(ゆず、生麩、白和え、トロトロ胡麻豆腐。最高!)
P8120400.jpg(最後にすべてをご披露します。お蕎麦、ウナギもどき、イカ刺もどき、これで3200円、至高のお料理です。お吸い物と御飯ももちろんついています。)

そしてこの日、他にも宿泊されているお客様もおられましたが、一組だけだったのか?大きな12畳の部屋に私一人での食事!さみしいようですが、窓から「清水寺」のライトアップされた三重塔が正面に見えて、至福の時を楽しんだのでした~贅沢すぎたかな?

「松琴館」は緑に囲まれた純和室の部屋がメインで古いためもあり、部屋にはバス・トイレも有りませんが、そんなことを考慮してもなお、満足のいく宿だと思います。また、予約しておけば朝から座禅体験も出来て、日本の精神文化を学ぶ、素晴らしい機会も出来ます。



私の写真以外にもHPに移動できますので、ご覧に成られまして、是非安来「清水寺」にお出掛けの際は「松琴館」にご宿泊されて至高の精進料理をご堪能ください。

 松琴館

交通アクセス  車米子から10㎞ 安来から4㎞ 交通標識あり 駐車場情報大型バス20台 普通車150台
ちなみに、カードは使えませんので現金をご用意ください(笑)

さて、最後に成りましたが、瑞光山清水寺(きよみずでら)は素晴しいお寺なので、近い機会にご紹介させていただきます。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/08/12

桃太郎の正体は誰だ!犬・猿・雉は?吉備『鬼ヶ城』を訪ねて!

先日市郎右衛門が岡山(吉備の国)へ取材旅行へ行ったのは皆さん周知の事実ですね。岡山といえば桃~~~!と思われていらっしゃると思いますが、何と桃生産高1位は山梨県です。それでは2位?残念ながら福島県です。なんと岡山県はベスト5にも入らず6位なのです。
それではなぜ桃のイメージが岡山県に定着しているのでしょう?


やはり「桃太郎伝説」ですか?(笑)実は桃太郎ゆかりの地とされる場所は全国にあります。その中でも岡山県は(吉備の国)江戸時代の地元土産品「吉備団子」と同音の黍団子、(一寸キツイこじ付けですけどね)、をつなげさせるなどして、全県を挙げての宣伝活動を行いました。そのおかげでゆかりの地として全国的に有名になりましたが、「吉備団子」と作中の「黍団子」との関係は証明されて居ません。

P7290229.jpg
(皆さんどうですか~~~!再現された西の門鬼の城のイメージ出ていますか?)


今回はそんな吉備の国で鬼ヶ島ならぬ「鬼ノ城(キノジョウ)」をご紹介します。鬼が出るか蛇が出るか?はたまた桃太郎の伝説はどうなんだよ~~~!

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(展望台から「鬼の城」全景を望む!西門(復元・右)角楼(左))
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(散策コースを歩いていくと、出た~て感じですね。)
P7290258.jpg
(西の門、直ぐに入りたいのを我慢して周りを探索してみます。)

【昔話桃太郎超簡単あらすじ】

むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。ある日、おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました(懐かしの定番ですね(#^.^#))。
おばあさんが川で洗濯していると、「どんぶらこっこどんぶらこ」と、川上から大きな桃が流れてきました。おばあさんはその桃を家に持ち帰りました。

桃を食べようと割ったところ、桃の中から元気な男の子が飛び出しました。子どもがいなかったおじいさん、おばあさん大変喜んで、桃から生まれた男の子に桃太郎と名付け、大事に育てました。

大きく成長した桃太郎は、鬼ヶ島へ鬼退治に行くことになりました。おばあさんが作ってくれたきび団子を腰にぶらさげ鬼ヶ島へと出発しましたが、道中、犬、猿、キジが順番に現れ、きび団子を欲しがります。桃太郎は、鬼ヶ島へ同行することを条件に、きび団子を分け与えます。

犬、猿、キジの3匹は桃太郎の家来となり船で鬼ヶ島へと向かいます。鬼ヶ島では鬼たちが酒盛りの真っ最中で、奇襲を仕掛けた桃太郎と3匹の家来は大勝利、鬼が悪行を重ねて集めた宝物を荷車に山積みにして村へと持ち帰りましたとさ。おわり!(簡単に過ぎるわの謗りも承知でお受けします、笑)

【桃太郎原作?】

さて、桃太郎伝説の原作とも言えるお話は、第7代孝霊天皇の第3皇子・彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、吉備津彦命)、稚武彦命(わかたけひこのみこと)の兄弟が、吉備国(岡山)の鬼・温羅(うら)を退治して吉備国を平定したことが語り継がれて、室町時代以降、江戸時代に曲亭馬琴の草双紙「童蒙話赤本事始」が初版本で五大昔噺の冒頭を飾り、その後、「桃太郎」、「桃太郎昔話」などが出版され、広く世に広まりました。
1887年(明治20年)に国定教科書にも採用されて皆の知るところとなって、1894年(明治27年)巖谷小波により「日本昔話」にまとめられました。

その様な訳で、岡山の吉備津彦神社で吉備津彦命が祀られて、岡山の桃太郎になり、また、岡山の沖と云うよりも高松の屋島の沖に鬼が島(女木島)があったりして、岡山の桃太郎が有名になりました。
桃太郎の話は岐阜県の木曽川の辺りを始め、全国にもあるようです。なお、桃の収穫量の話ですが、岡山県で桃の栽培が始まったのは明治時代以降で、昔話ではありませんよ(笑)。

【それでは私が訪れた、鬼城山(鬼ノ城)とは何なの?】

『鬼ノ城(きのじょう)』は、岡山県総社市の鬼城山(きのじょうさん)に築かれた、日本の古代山城(神籠石式山城)です。
城跡は、1986年(昭和61年)3月25日に指定された国指定史跡「鬼城山」に含まれています。

城郭構造:古代山城(神籠石式山城)、築城主(推定)大和朝廷と考えられます。
築城年:(推定)7世紀後半に作られて、荒廃城年も不明です。
遺構:城門、角楼、石塁、土塁、水門、敷石指定文化財国の史跡「鬼城山」に含まれています。
再建造物:城門、角楼。

当時の倭朝廷は、乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)は、中大兄皇子、中臣鎌足らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代のクーデターの後、大化の改新のを行った中大兄皇子(天智天皇)ですが、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗してしまいます。
大和朝廷は倭(日本)の防衛のために、対馬~畿内に至る要衝に様々な防御施設を築きました。鬼ノ城は史書に記載が無い上に、築城年も不明ですが、発掘調査では7世紀後半に築かれたとされている事から、唐・新羅連合軍に対する防衛拠点の一つではないかと考えられます。

鬼ノ城は、吉備高原の南端に位置し、標高397メートルの鬼城山の山頂部に所在してあます。すり鉢を伏せた形の山容の7~9合目の外周を、石塁・土塁による城壁が鉢巻状に2.8キロメートルに渡って巡っています。城壁で囲まれた城内の面積は、約30ヘクタール、城壁は土塁が主体で、城門4か所・角楼1か所・水門6か所などで構成されます。そして、城壁を保護するための敷石の発見は、国内初のことでした。城内では、礎石建物跡7棟・掘立柱建物跡1棟・溜井・烽火場・鍛冶遺構などが確認されました。西門と角楼や土塁は復元され、その他、城門・水門・礎石建物跡・展望所・見学路などの整備とともに、「鬼城山ビジターセンター」と駐車場を整え、「史跡・自然公園」として一般公開されています。

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(角楼跡です。)
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(中国、朝鮮半島の城を再現した造りに成っているようです。)
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(角楼から見た西の門です。)
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(城の内側に張り巡らされている敷石、かなりの幅が有ります。)
P7290276.jpg(柵が出来る前の敷石に成ります。)


城壁は、幅7メートル×高さ6~7メートルの版築土塁が全体の8割強を占めています。しかし、城壁最下の内外に1.5メートル幅の敷石が敷設されており、石城の趣が強いようです。そして、防御正面の2か所の張り出しは、石垣で築かれています。流水による城壁の崩壊を防止するための水門が、防御正面に集中しています。城壁下部の2~3メートルに石垣を築いて水口を設け、通水溝の上部を土塁で固めた水門が4か所あります。他の2か所は、石垣の間を自然通水させる浸透式の水門です。また、水門の城内側の2か所の谷筋で、土手状遺構が発掘されました。土石流や流水から城壁を守るためと、水を確保するための構築物であるとかんがえられます。そして、第10水門の城壁下部で、マス状の石囲の浅い貯水池が発掘され、多くの木製品が出土しています。
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(正面側に積み上げられた城壁の石垣です。)
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(排水施設も確認されています。七世紀の時代にと考えると見事ですね。)

城門は、防御正面に東門・南門・西門、防御背面に北門の4ヵ所が開きます。主の進入路と思われる場所に西門があり、西門の北側約60メートルの隅かどに角楼がありました。各々の城門は、門礎を添わせた掘立柱で、門道は石敷きである。西門は平門構造で、他の門は懸門構造になっています。

城内の中心部には、食糧貯蔵の高床倉庫と思われる礎石総柱建物跡5棟、管理棟と思われる礎石側柱建物跡2棟が発掘されました。また、12基の鍛冶炉の発掘は、鉄器製作の鍛冶工房とされ、羽口・鉄滓・釘・槍鉋・砥石などが出土しています。他の出土遺物は、須恵器の円面硯・甕・壺・食器類に加え、土師器の製塩土器・椀・皿などです

鬼ノ城は、山城に必要な設備がほぼ備わっています。未完成の山城が多い中で稀な完成した古代山城といえますね。

瀬戸内海は、いにしえから海外交流交易の主海路でした。東端の難波津(港)の西方、約180キロメートルに吉備津は位置すします。吉備津港の西方、約240キロメートルに那大津港の博多湾があります。吉備津は、東西航路のほぼ中間点に位置するのです。鬼ノ城の山麓一帯は、勢威を誇った古代吉備の中心部であり、鬼ノ城は吉備津から約11キロメートルの距離感です。

鬼ノ城は、いにしえから吉備津彦命による温羅退治の、伝承地として知られていました。苔むした石垣が散在する状況から、城跡らしいと判断され、「キのシロ」と呼んでいました。「キ」は、百済の古語では城を意味し、後に「鬼」の文字をあてたにすぎません。「鬼ノ城」は「シロ」を表す、百済と倭との言葉を重ねた名称です(偶然かも知れませんが)。

鬼城山の山頂では、眼下に総社平野・岡山平野西部・岡山市街が一望できます。児島半島の前方は瀬戸内海、海の向こうの陸は香川県に成ります。坂出市の「讃岐城山城」と高松市の「屋嶋城」が視野に入り瀬戸内海の往来を一望出来るわけですね。

【関連の歴史について少しだけ】

『日本書紀』に記載された、白村江の戦いと、防御施設の設置記事は下記の通りです。

663年(天智天皇2年)の白村江の戦いで、倭(日本)百済復興軍は、朝鮮半島で唐・新羅連合軍に大敗します。664年には対馬島・壱岐島・筑紫国などに防人と烽(とぶひ)を配備し、筑紫国に水城を築きます。665年には長門国に城を築き、筑紫国に大野城と基肄城を築く、667年には大和国に高安城・讃岐国に屋嶋城・対馬国に金田城を築城。この年、中大兄皇子は、大津に遷都し、翌年の正月に天智天皇に即位しました。

【とどのつまり】

P7290312.jpg(西門復元前の遺構です。ファンには再現されたものよりもマニアックで良いかな?)
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(これを攻めあがるのは難しいです。城を作ることが外的に対するものというより、倭の結束のためとも思われました。)
P7290310.jpg(素晴しいい景色、靄が無ければ、瀬戸内海まで見えるはずですが…)

鬼ノ城は、鬼が住んでいたわけでも無ければ、吉備国の鬼・温羅の城でも無かった。むしろ、桃太郎こと中大兄皇子が唐・新羅連合軍という「鬼?」から倭を守るための要塞だった訳ですね!其では桃太郎は天武天皇(中大兄皇子)として、猿は中臣鎌足(藤原鎌足)と成りますか?犬は鎌足の次男、藤原不比等、文献『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などの史料では天智天皇の御落胤と書かれていますし、諡号は文忠公(犬公にぴったりです。)、最後の雉ですが、中大兄皇子に上手く利用された?朝廷に滞在し、百済復興を図った百済王子・扶余豊璋でしょうか?

【トドのつまりうんちく~~~!】

とどは魚のボラの名前の事です。とどは、いな、ぼら、とどと名前を変える魚(出世魚)なのですが、鰤(ぶり)や鱸(鱸)など他の出世魚に比べると味が相当落ちる?魚です、(ぼらは、泥臭いような独特のにおいがあり、一度焼いてから煮るなどの工夫をしないと食べにくい魚です。住処によって違うと思いますが、汽水域に生息すことが多いのでなのかもしれません。)。

このことから、「出世したところで、たいしたものにならない。行き着いたところで、たかが知れている。」等の意味で、「とどのつまり」という語が使われています。更に、「良くない計画を進めていて、結局行き詰った」というような場合にも使われますね。

さて、鬼ノ城は、2006年4月6日に日本城郭協会が選定した、日本100名城(69番)に選定されています。



最後に、伝説は謎が多ければ面白いですよね!是非「鬼ノ城」出掛けてみて下さい。トレッキングとしても中々楽しいですよ(笑)。
山道は整備されて居ますが、靴は最低スニーカーをお勧めします。
更に鬼ヶ城の登り口には、総社市砂川公園が有って、キャンプやBBQに川遊びも出来るので、家族で是非お出掛け下さい。

お問い合わせは砂川公園管理事務所(TEL0866-92-1118)
キャンプ場使用料、宿泊利用1000 円/区画 (テント設営)日帰り利用500円/区画 (バーベキュー等)

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リュミエールブラン ネージュ

2017/08/09

『丹後国分寺』は海に面した美しい寺だった!

本日ご紹介するのは、丹後の国国分寺跡です。丹後国分寺跡の前面に、宮津湾を二分する天橋立が有り、約7000本の松林が続く長さ3.3kmの砂州が望見できます。眺望は最高なのですが、こちらの国分寺はこれまでご紹介した国分寺と少し違うところが有るのです。

京都府立丹後資料館の前に「史跡丹後国分寺跡」と書かれた標石が立っていて、その先の広大な芝生が広がっています。国の史跡に指定された寺域です。その中に礎石が露出して保存されている場所があり、金堂跡と塔跡の標識があることから、かってこの地に壮大な伽藍が存在したことを連想させてくれます。

P4160333.jpg(金堂跡から海の向こうに美しい天橋立が見えますね。)

しかしながら残念な事に、これらの丹後国分寺跡は、奈良時代のものでは有りません。現在の史跡は「天平国分寺跡」を保存しているのではなく、鎌倉時代に再建された「建武国分寺跡」だったのです(残念?(-"-;A ...アセアセ)そんなことは有りませんよね。

奈良時代に全国に建てられた国分寺は、鎮護国家思想に基づいて仏教により護国を祈る寺でした。丹後の国にも国分寺が建立されたのですが、だが、その所在はまだ正式には特定されていません。

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京都府宮津市国分にある国分寺院跡。丹後半島の東南、成相山(なりあいさん)から南へなだらかに下る扇状地に所在しています。現在の真言宗国分寺境内には、金堂跡、塔跡、中門跡などの礎石や基壇が残り、奈良時代の瓦が出土し、往時の国分寺の様子が想定できることなどから、1930年(昭和5)に国の史跡に指定されました。
正確な創建年代は不明ですが、8世紀末には建立されていたものと推定されています。金堂跡には35個、塔跡には16個、中門跡には2個の礎石が残りますが、中門の礎石以外は粗雑なもので、火災を受けた痕(あと)があることから、創建当初のものではなく再建されたときのものと考えられています。現在、国分寺跡一帯は整備が行われ公開されています。北側に隣接して京都府立丹後郷土資料館があり、出土瓦の一部と関係資料が展示されています。

P4160322.jpg
(村道を選んでしまいました。車ではちょっときついです)
P4160328.jpg(苦手な説明版何枚も撮影するのですけれど、今回も歪んだ物しかなかった、涙。)

【国分寺って何?いつも説明してますけどね~!】

P4160331.jpg
(こちらは美しです。トリミングのおかげです。)
P4160321.jpg(塔跡、天平時代の塔なら七重の塔に成ります。)
P4160311.jpg
(金堂跡海の向こうに日本三景が見られますね。)
P4160315.jpg(こちらにも礎石がまだあるようです。これからの調査を待ちたいですね。)

国分寺に付いて少し詳しく説明しましょう!国分寺は、聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院です、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれています。
正式名称がこれまた長いんですよ、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」といいます。なお、壱岐や対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられました(当たり前の事ですね、笑)。また、大和国の東大寺と法華寺は総国分寺と総国分尼寺とされ、全国の国分寺と国分尼寺の総本山に位置づけられました。

【うんちく~!いつも書いてるし】

平安京の「東寺」(私も弘法市で良く行くのですが)は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場としての役目を担ったのですが、その「東寺」正式名称を「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」といいます。本当にそっくりでしょう、役目も同じく都を守りそれぞれの国を守るために建立されたということでしょう。

【さて丹後国が丹波国から分裂したなんて事ご存知ですか?】

丹波国府が置かれていたと推定される、現在の南丹市や亀岡市から丹後の中心(現在の橋立近辺かな)が遠方にあることが分国の背景にあったと考えられています。南部の亀岡桑田郡には国分寺・国分尼寺が建立されており、奈良時代には丹波国の中心地となっていたことが知られています。和銅6年(713年)4月3日に丹波国の北部、加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡を割いて、「丹後国」として設置されました。

そして私にとっては悲しいお知らせをしなければなりません~。我が故郷但馬も丹波同様丹波から分裂したんです(ワオ~~~~ン)。かつては丹波(たにわ)が丹波・但馬・丹後に分立するまで丹波の中心は日本海に面した丹後半島地域だったとも言われています。海洋交通の担い手丹後の地位は強かったと考えられています。

また、分国後の丹波国が丹後国に対して「丹前国」とされなかったのは、分国当時(和銅6年)の分国の原則が、それ以前の同等な国の分割(吉備国を備前、備中、備後とするような分割)とは異なり、母国から一部を割いて、分割された側に別の新国名を付ける形(備前から美作が分国するような形)がとられていた為であると考えられます。そして分割された側でありながら、丹後(二字で「タニハノミチノシリ」と訓じられた)とされて新たな国名が与えられなかったのは、ここが元々の丹波の地であるので、タニハノミチノシリとして「タニハ」の名を残した為と考えられます。(但馬も「タニハノミチノウマ」だったのかな~?私の勝手な推測です。)

なお分国後の国名については、『大日本古文書』で丹波国を「丹波前国」、『日本霊異記』で丹後国を「丹波後国」と記した例があり、前者は「タニハノミチノクチ」、後者は「タニハノミチノシリ」(和名類聚抄)に対応したものと考えらます(いずれも「ミチ(道)」が省略されています)。

京都国立博物館蔵には、水墨画で知られる雪舟がこの地にやってきて描いた「天橋立図」が所蔵されています。「天橋立図」に描かれている塔は「五重塔」だそうです。「天平国分寺」の塔は「七重塔」だったとされていますから、彼が描いたのは後に建武元年(1334)に再建された「建武国分寺」だったことになりますね。

私が確認してきた礎石は、創建時のものではなく、建武元年(1334)再建時の礎石ということに成りますが、創建時も位置はだいたい同じ場所に建てられていたといわれています。雪舟の「天橋立図」には、金堂とその脇に五重塔が描かれていますが、その礎石がこれらと思われます。雪舟の絵にはほかには伽藍が見られず、たぶん再建された国分寺はこれだけの規模であったようです。
創建当時のものは周辺から出土した軒丸瓦と軒平瓦の2個だけだそうです。これらから創建は奈良期の末頃と推測されていて、時期としてはあまり早くは有りません。



【現在も残る丹後国分寺概要】

P4160334.jpg(現在の丹後国分寺です。)
P4160344.jpg(天平時代の物と比べてはいけません!信心はお金では買えないのですからね。)

天平13年(741)、聖武天皇の勅願により創建された丹後国分寺の流れを汲む寺院で、境内前には鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて再建した時の礎石や土檀の跡が残っています。苔むした参道に正面には一間一戸、入母屋、桟瓦葺の鐘楼門があり境内には石仏や五輪塔などが安置されています。高野山真言宗「丹後国分寺」。

最後に御見せするのが国宝です。国宝「天橋立図」 雪舟等楊 室町時代(16世紀)本物を見たい方は京都国立美術館へお出かけください。

P4160318.jpg(国宝「天橋立図」から国分寺部分を抜粋しています。五重塔ですね~建武元年(1334)再建以降の塔を書いたと思われます。)
p352846.jpg(国宝「天橋立図」 雪舟等楊 室町時代(16世紀)です。流石かないませんね~!かなうか~~~!)

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リュミエールブラン ネージュ

2017/08/07

「事代主神と鶏異聞」の真相は?『長田神社』って面白い。

文字色本日ご紹介いたしますのはご近所?の神社です。と、その前にうれしいニュースが飛び込んで来ましたので、先にこちらをご紹介いたします。

文化審議会は7月31日、2019年の世界文化遺産登録を目指す候補に「百舌鳥・古市古墳群」(大阪府)を推薦することを決めました。閣議了解などを経て、政府が来年2月1日までに推薦書を国連教育科学文化機関(ユネスコ)に提出。19年夏のユネスコ世界遺産委員会で審査される事に成ります。

百舌鳥古墳群(堺市)と古市古墳群(羽曳野市、藤井寺市)を知らない方は居ませんよね?しかしながら私市郎右衛門、いまだ訪れたことが有りません(ToT)。
二つの古墳郡の合計49基で構成され、古墳時代最盛期の4世紀後半から5世紀後半にかけて築造され、古代日本の王と関係者が埋葬されたと考えられています。堺市の仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)は墳丘の長さ486メートルの前方後円墳で、日本最大の古墳(広さでは世界一?)。
記者会見した文化審世界文化遺産部会長の佐藤信東京大大学院教授は「世界最大級から小規模までの古墳がまとまって造営され、古代王権確立期の社会、文化を示す世界的にまれな物証という普遍的価値が視覚的に理解されやすく、推薦書の準備も相対的に最も進んでいた」との評価が有りました。

CIMG7751.jpg(季節違いで申し訳ないですがおめでたいのでご勘弁ください。)
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(見せないわけにもいかないかな?堺市のホームページより)

おめでたいお話は此くらいで、本日御紹介するのは、ご近所神戸市長田区長田町に有ります。『長田神社』です。

廣田神社・生田神社とともに神功皇后以来の歴史を持つ名社とされ、生田神社・湊川神社とともに神戸を代表する神社の一つです(此まで御紹介しなかったのが不思議です)。

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【長田神社ってどんな神社なの?】



CIMG7753.jpg(神門!震災で被害もなんのその、綺麗に再建されました。)
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(カメラに納まらないほどの大楠)

長田神社(ながたじんじゃ)は、兵庫県神戸市長田区長田町にある神社です。『延喜式神名帳』にある「長田神社(摂津国・八部郡)」に比定される式内社(名神大社・月次相嘗新嘗)で、近代社格では官幣中社、現在は神社本庁の別表神社となっています。

主祭神:事代主神「於天事代於虚事代玉籖入彦厳之事代主神(あめにことしろそらにことしろたまくしいりひこいつのことしろぬしのかみ)」を主祭神としています(舌噛みそうですし、神様の名前ほど覚えにくいものは有りません)。事代主神は大国主の息子で天津神に国譲りを認めた神として有名です。
境内社に、垣内に八幡社・天照皇大御神社があり、他に、楠宮稲荷社、蛭子社・出雲大社、月読社・松尾社などがお祀りされています。

創建:201年(神功皇后摂政元年) と伝わります。

【創建歴史についてのお話】

CIMG7755.jpg(初詣といっても一月の終わり頃ですから、長田神社の初詣がおじいさん二人と思わないでね!アッ私もいますし。)
CIMG7754.jpg(御祭神版)

『日本書紀』によると、201年(神功皇后摂政元年)2月、神宮皇后が三韓征服後、新羅から難波に帰還する途中、武庫の水門(現在の駒ケ林あたりといわれます)で船が進まなくなったので占いを行ったところ、事代主の神より「吾を長田國に祀れ」と御神託を受け、創祀されたといわれています(以前にもこんなお話有りましたね)。
確か、生田神社の由緒とも共通しています。なお、この事代主の神が最初に降臨した地が天神山であるとされ、その地には今、神戸水天宮が鎮座しています。また、『日本書紀』には、住吉大社(大阪市)も同様な由緒による創建とされています。『日本書紀』には有りませんが、社伝では神戸市の海神社も同様の由緒ですね。

この由緒から、2001年(平成13年)には鎮座1,800年を世盛大にお祝いいたしました。太古から長田神社と呼ばれていましたが、その他にも長田社・長田宮・長田大明神・摂津本宮長田大明神等とも呼ばれていました。

延喜式神名帳では名神大社、神名帳の他に、『延喜式』巻3「臨時祭」祈雨神祭条に「長田社一座」とあり、祈雨神祭85座に含まれます。また、『延喜式』巻11「玄蕃寮」に記載されている新羅から入朝した者に賜う神酒を作る工程の中で記された神社の一つでもあります。社に奉祀する神戸(かんべ)41戸によって護持されていました(新抄格勅符抄)。現在まで続く「神戸(こうべ)」の地名は、この神戸職に由来しています(これまた同じようなお話いたしましたね?)。

1862年(文久2年)刊行の随筆『雲錦随筆』(暁晴翁(暁鐘成)・著)には長田神社の追儺式神事(鬼追い)についての著述が、鬼の挿絵とともに記載されています。

近代社格制度のもとで1871年(明治4年)に県社に列格し、その後1885年(明治18年)に明治天皇の西国巡幸の際、初めて官幣社に列し官幣小社に、1896年(明治29年)には官幣中社に昇格しました。なお、社格昇格の経緯は同じ神戸市内の生田神社と全く同様・同時です。

明治時代末期まで55代、約1000年にわたり大中家が代々神職を務めてきました。

【事代主神と鶏異聞】

私は阪神・淡路大震災の時は神戸市民では無かったのであの大変さを良く知らないのですが、1995年(平成7年)1月17日の大震災では本殿こそ倒壊を免れたものの、大きな被害を受けました。参集殿は震災時、避難所と成りました。氏子以下の寄進等により、2000年(平成12年)夏に復旧しています。
現在は境内には鳩が放されていますが、かつては境内には数百の鶏が飼われており、外国人からは「チキンテンプル」と呼ばれていたようです。その由来から祈願の際には、境内に鶏を奉納したり、鶏の絵馬を捧げる風習がありました。そしてかつては氏子は鶏肉や卵を一切食さない、また、婦女の歯を鶏の羽根を用いて染める風習も在ったようです。

此処の長田神社の説明に一寸興味を持ちました(面白い~σ(^_^;)?同じ御祭神「事代主」なのに)。
島根県は美保関町の「美保神社(勿論御祭神は、事代主命)」では、事代主が鶏を嫌うという言い伝えがあります。その理由として、事代主の妻訪い(妻問い)の物語が紹介されています。それによると、「事代主は、夜毎海を渡って対岸の揖夜(イフヤ)の里の美保津姫のもとへ通っていましたが、鶏が間違って真夜中に鳴いたため、事代主はうろたえて小船に乗ったものの、櫂を岸に置き忘れて仕方なく手でかいたところ、鰐(サメのこと)に手を噛まれてしまいました。以来、事代主は鶏を憎むようになり、それにあやかって美保関では鶏を飼わず、参詣人にも卵を食べることを戒める」としています。

島崎藤村は、「釣り好きの事代主が寝ぼけて鳴いた鶏の声を聞いて未明に船を出し、荒れた海で櫓も櫂も失い、足で水をかいたところ鰐に足を噛まれた」という話を紹介していて、現代でも、事代主を再現した美保関の青柴垣神事の際に当屋に指名された者は、1年間鶏肉を食べないで身を清める習わしがあり、美保関から中海を渡った対岸には、美保津姫を祀った揖夜神社があるのです。

事代主神という同じ神様をお祀りしているにもかかわらず、食べないことは全く同じですが、その理由が全くの逆なのが面白いと思いませんか?何処でお話が変化したのか興味が湧きますね~?、子供の頃伝言ゲームって有ったでしょ!あれかな(笑)

【黄金伝説御船山旧跡】

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(此処には埋まっていませんから掘り返すと捕まりますよ~笑)

旧西国街道から長田神社に至る参道の中ほど東方、新湊川沿いに碑石が立っています。明治時代の湊川改修のためかつての位置とは異なっているのだそうです。かつては30坪ほどの丘があり御船山もしくは御船の森と呼ばれており長田神社付属の土地でした(30坪ほどの丘=古墳だな!)。伝説によると、長田大神鎮座の際、神功皇后が御船具を埋めた場所とされており、黄金の船が埋まっているといわれています。近隣の町名、御船通はこの旧跡の伝説にちなんだものだそうです。三韓征伐で多くの宝物を持ち帰った神功皇后が、何か人々に困ったことが起きた時に掘り出して使うように埋めたのかもしれませんね。ん~~またまた同じような話をブログに書いた記憶が有りますね?あの時は金の鶏でした(笑)

【大変珍しい?「痔の神様」楠宮稲荷社】

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(こちらがお尻に心地よい楠宮稲荷神社です。)
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(アカエイの絵馬が有名なの当時は知らなかったのです。勘弁してください。)

痔の神様としても知られる長田神社内にある摂社「楠宮稲荷社」同神社に伝わる話によると、6世紀ごろ、近くの刈藻川が台風で増水したとき、繁殖のために近くの海にいたアカエイの群れが川をさかのぼり、浸水した境内にも入ってきたそうです。住民たちが捕まえようと追いかけたが、神社内にある摂社、楠宮稲荷社のご神木クスノキ付近で見失居ました。以来、このクスノキは神の化身であるアカエイが宿るとして信仰されるようにまりました。昔は貴重なタンパク源だったアカエイを食べることを断ち、同稲荷社に祈願すると、腫れ物、できもの、特に痔に効くとされています。

市郎右衛門は痔と水虫は経験したことが無いので、良く分からないのですが、良く効く御守りが有るそうです。佐々木知行禰宜(55)は「おおっぴらにできず、痔で苦しんでいる人が、懐にお守りを忍ばせることで少しでも楽になってほしい」と話しておられました(本当に話したのか?)。類似の信仰は、大阪市浪速区の廣田神社にもある様です。

ちなみに、楠宮稲荷社と永田神社を一緒に参拝すれば、御朱印を頂けるのは勿論ですが。二つで500円でした(100円得したかな?)。



【お得情報「長田神社宝物庫はひょうごっ子ココロンカードの無料対象」】

ひょうごっ子ココロンカード(通称:ココロンカード)は、兵庫県内の小学生・中学生が兵庫県内の優待対象に指定された博物館などに入場する際に提示すると入場料や観覧料が無料になるカードです。ただし、一部の特別展示などは無料対象外の場合も有ります。カードは小学校新1年生時に配布され、転入・紛失の場合は学校に申請すれば発行・再発行が可能だそうです。小中学生の学校外活動を促進する為に兵庫県の「博物館等無料開放事業」として1992年(平成4年)度より開始されました。

元々無料の施設を含め県内176箇所の施設が対象となっています(平成23年度時点)。内訳は、県立施設11箇所、市町立施設や私立施設などが神戸地区25箇所・阪神南地区21箇所・阪神北地区19箇所・東播磨地区5箇所・北播磨地区14箇所・中播磨地区12箇所・西播磨地区23箇所・但馬地区32箇所・丹波地区8箇所・淡路地区6箇所です。
兵庫県の子供達~~使わなければもったいないじゃないか!夏休み皆で色々な博物館に無料で出かけよう。

最後に観ていないのでエラそうには言えませんが節分良いらしいでよ~~~!

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リュミエールブラン ネージュ

2017/08/05

「一休み一休み」!社員会の写真コンテストに出品してみた。第二弾!

今回は余り歴史とは関係ない?話題です。たまには「一休み一休み」です。ブログを書き始めた頃に、丁度会社(社員会)の写真コンテストがあったのです。

二年前位ですね、現社員会の会長はほぼ同期入社なので、協力しなければ、と出品してみたのですが、あえなく落選!もう二度と出すものか~とふて腐れていたのですが、今回は社員の皆さんも興味が薄れたのか出品数が定数に届かないという、お粗末さだったので、再募集のメールが各現場に回ってきました。

わが社は社員200名程の中小企業ですし、殆どの社員が派遣されたり出向したりと、横の繋がりがはとんど無いのです。
かくゆう私も、現在の職場(「国立研究所(医薬系)」、凄くかっこいい響きですが下働きです)にお世話に成って五年程に成りますが。他の現場がどんな状態かよく分からないのです(;^_^A。

そこで出品数が少ないのなら、社長賞(10000円券)のチャンスも在るのでは?と意地汚く考え、普段からブログで色々廻って写真だけは撮影しているので、何か掘り出し物がが有るだろうと、探してみたのですが、ブログ用の写真は記録が本分なので、面白みに欠けてしまいます。

P4160110.jpg
(社員会のコンテストに応募した、次女出演の「天の橋立又覗き」賞金が出たらアイスいっぱい買ってやろっと!)

そこで私が選んだのが、丹後国一宮「元伊勢の一社」の『籠神社(このじんじゃ)』と西国三十三所観音霊場第28番札所『成相山 成相寺』、先日に家族で行きましたおりに、撮影した傘松公園からの「日本三景又覗きの図」を景品欲しさに出品してみました。

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【一寸休憩して日本三景を!】



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(登りはケーブルカーを使いました。桜がまだ残っていますね。)

傘松公園(かさまつこうえん)は、京都府宮津市にある日本三景の天橋立を眼下に望む展望公園です。天橋立の北西にあり、丹後海陸交通が運営している展望台は観光名所のひとつになっています。麓の府中からケーブルカー(天橋立鋼索鉄道)かリフトで登ることができます。

【展望の醍醐味】

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(傘松公園の松、江戸末期宮津藩主松平伯耆の守一行が急な雨をしのいだことから名前がついたそうです。)
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(当時の松とは違うと思いますが、枝ぶりはなかなかのものです。)
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(見事な橋立、実は又覗きで撮影したのですが、カメラの修正機能が賢いのか普通に撮れています。私が逆転すべき?)

傘松公園から観る天橋立は「斜め一文字」と呼ばれ、股のぞきをして観ることの楽しさで有名です。股のぞきをすると、天地が逆転し、まさに天にかかる橋のようにみえます。公園は山の上にありますが、さらに徒歩で3分ほど登ると、「傘松」という名の松がある『股のぞき発祥の地』があります(ちょっと歴史ブログらしく成って来ました。笑)。発祥の地からは西国三十三所第28番札所の成相寺へ行くバスが出ています(料金がもったいないので?健康のために歩いてみました?。どっちやねんな)。公園内には「天橋立パノラマハウス」があり、中には、レストランや軽食コーナー、売店などがあります。また公園の一角には籠神社の祭神が降臨したとされる冠島、沓島遥拝所がありました。

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(籠神社の祭神が降臨したとされる冠島、沓島遥拝所がありました。)
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(冠島見えますよね~(;^_^A)

天橋立を挟んで対岸には同様の展望施設がある天橋立ビューランド(眺めは「飛龍観」と呼ばれる)が所在しています。

【日本三景って誰が決めたの?】

江戸時代前期の儒者、林羅山の三男の林 鵞峰(はやし がほう)、元和4年5月29日(1618年7月21日) ~延宝8年5月5日(1680年6月1日)が決めています。

那波活所(なわかっしょ)に師事し、その後父羅山同様江戸に赴き江戸幕府に仕えました。父羅山の死去後の明暦3年(1657年)林家を継ぎ、幕政に参与しています。寛文3年(1663年)、4代将軍徳川家綱に五経を講義して弘文院学士号を与えられ、訴訟関係・幕府外交の機密を担った役人です。

日本史に通じ、父羅山とともに『日本王代一覧』、『本朝通鑑』(『本朝編年録』)、『寛永諸家系図伝』など、幕府の初期における編纂事業を主導し、近世の歴史学に大きな影響を与えました。鵞峰が整えた林家学塾の組織は、その後の昌平坂学問所の基礎となっっています。

多方面な関心をいだいて博学広才ぶりを発揮した父羅山にくらべ、鵞峯は、『本朝通鑑』や『日本王代一覧』などにおいて「日本」の国柄がどのようなものであったかを追究し、幕府政治の正統性や妥当性がどうあればいいかについて、その支配イデオロギー形成の端緒を開いたとも評されています。

寛永20年(1643年)の著書『日本国事跡考』のなかで「松島、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳、與丹後天橋立、安藝嚴島爲三處奇觀」(松島、この島の外に小島若干あり、ほとんど盆池月波の景の如し、境致の佳なる、丹後天橋立・安芸厳島と三処の奇観となす)と記していて、これが現在の「日本三景」の由来となったと思われます。2006年(平成16年)、林鵞峰の誕生日にちなみ、7月21日が「日本三景の日」と制定されています(へ~そうなんだ!林 鵞峰の経歴はWikiを参考にさせて頂きました)。

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(のこり桜の橋立もなかなかです。)
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(下りはリフトで、これが子供達には好評でした。)




丹後国一宮「元伊勢の一社」の『籠神社(このじんじゃ)』と西国三十三所観音霊場第28番札所『成相山 成相寺』は又の機会に必ずご紹介させていただきます。

【最後にもう一つ、らしいうんちくを】

題名にした「一休み一休み」!は私が子供の頃のアニメ一休さんのCM前の「あわてない、あわてない、一休み一休み」の一言から遣わしていただきました。一休さんこと(一休宗純・いっきゅうそうじゅん)は、1394年(応永元年)正月元旦に、後小松天皇と、宮仕えしていた日野中納言の娘照子姫との間に生まれました。つまり皇子ですね、お墓は京田辺市薪の酬恩庵一休寺にあります。
皇族ですから勿論宮内庁管轄なんですよ。(オット行ってない所は書かない御約束なので、この辺で止めておきます。)

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リュミエールブラン ネージュ

2017/08/03

草薙剣より霊力は上位?「天十握剣」を追って『石上布都魂神社』へ

昨夜ブログを書こうと思いPC前に座ったのですが、FC2ブログ下書一覧が開きません?ウェイト合図がくるくる回っているだけでした(皆さんは大丈夫でしたか?)。

今日は何故か?治っていたので、急いでブログ製作に取り方かかりました。さて今回は、お寺・城・古墳と順次UPしてきましたので、順番的に神社を御紹介したいと思います。

そして、こんなにも早く岡山取材の秘密兵器レポートをUPする予定は無かったのですが、岡山で一生懸命探しながら、極上桃を食べられなかった私は、「ほ~ら羨ましいだろう~(⌒0⌒)/~~」桃が無くてもこの神社にお詣りに行ければ満足なんだ~よ~な~と考え方を変えました(*´ω`*)(子供か?笑)。

ということで、あの八俣遠呂智を叩き斬った「天十握剣(十拳剣)」が最初に収められたといわれる、『石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)』をご紹介です(歴史ファンなら垂涎の的のはず!)。ネット状態も今二つ?だったことも秘密兵器情報投入の一因です。

P7301004.jpg(こちらが石上神社の原点ともいえる備前古一宮石上布都魂神社です)


さて、最初にお話するのは、勿論神話「須佐乃男命の八俣大蛇退治」からですが、此までにも幾度となくお話しておりますので、簡単に粗筋だけ行きますよ~(^^)b

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タイトルで使用した「天十束剣」は、日本三霊剣の一本で、すべての剣の祖とされる剣です。凄まじい破壊力を秘め、使いこなせば一太刀で海を割る事も出来るともいわれ、折れる事や刃毀れする事も有りません。更に、この刀は意思を持っており、自ら持ち主を選ぶといわれます。刀に気に入られた相手でなければ抜く事はおろか、持つ事すら出来ないのです。十握と言うのは、刀身が十握り分、約75.8㎝~78.8㎝程度の長さがあるという事に成ります。

別名が非常に多い剣である事も有名です。 「天羽々斬(あめのはばきり)」(天の羽羽斫、天羽羽斬)、「10束(束は長さの単位で、拳1つ分の幅)の長さの剣」十握り分という意味では「十握剣(とつかのつるぎ)」「十拳剣」「十掬剣」など様々に表記されています。一つの剣の固有の名称ではなく、長剣の一般名詞と考えられ、それぞれ別の剣と考えた方が良いかもしれません。

【「昔話」須佐乃男の八俣大蛇退治!】

むかし、その昔、そのまた古い神代のお話、高天原で悪戯がすぎて、姉の天照大御神に追放処分にされた、建速須佐之男命は、出雲国肥の河(斐伊川)上流の、鳥髪(現奥出雲町鳥上)に降ってきました。

この時、須佐乃男命が河の流れに目をやると、箸が河を流れ下ってきました。須佐乃男命は、その河上に人が居ると考え尋ねて上ってゆくと、おじいさんとおばあさんの二人が美しい娘と一緒に泣いているでは有りませんか。

須佐乃男が「あなた達は誰か?」と問うと、おじいさんは「私は国の神。大山津見神の子で名前を足名椎(あしなづち)、妻の名は手名椎(てなづち)、娘の名は櫛名田比賣(くしなだひめ)といいます」と答えました。

「どうして泣いているのか?」と訳を聞くと、足名椎は「私には八人の娘がいましたが、高志(越の国)の八俣遠呂智が毎年来て、一人ずつ喰ってしまいました。今年も来る頃なので、悲しくて泣いているのです」と答えました。

その八俣遠呂智とは「どのような形をしているのか?」と尋ねると、「その目は、あかかがち(ほおずき)ように真っ赤で、一つの身に八つの頭と八つの尾があり、体には苔や檜や椙が生え、その長さは八つの峡谷と八つの尾根に渡っています。その腹を見ると、いつも血でただれています」と足名椎は答えました。

「八岐大蛇を退治するから娘を私の妻に貰えないか」と足名椎に問うと、「恐れ多いことですが、あなたの御名を存じません」と答えました。「私は、天照大御神の弟須佐乃男だ。いま高天原から降ってきたところだ」。足名椎と手名椎は畏み「それは恐れ多いことを申しました。娘をさし上げます」と申し奉りました。

須佐乃男命はすぐにを隠すために、櫛名田比賣を櫛に変えて自分の角髪に刺しました。そして足名椎と手名椎とに、「何度も醸した、八鹽折の強い酒を造り、垣根をめぐらし、垣根に八つの門を作り、門毎に八つの桟敷を作り、その桟敷毎に酒船を置き、船ごとに八鹽折の酒を盛って待て」と命じました。

命ぜられたように備えをして待っていと、八俣遠呂智がが本当に現われ来て、八つの頭を酒船ごとに垂らし入れ、その酒を飲み干すと、強い酒に酔いが回り死んだように伏して寝てしまったのです。すかさず須佐乃男命は、十拳剣を抜いて、「大蛇」を切り散らすと、肥の河は「血の河」に変わり流れ下りました。

中の尾を切った時、十拳剣の剣先が欠けたので、怪しいと思い御刀で刺し割って見ると、都牟刈大刀(つむかりのたちは、草薙の剣であり、天叢雲劒でもあります。)が出て来ました。須佐乃男はこの不思議な大刀を、姉の天照大御神に献上しました。この大刀が、天皇の証「三種の神器」の一つ『草那藝之大刀(くさなぎのたち)』なのです。

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(私たちの大蛇のイメージはやっぱりこれかな?)

さてこうして、須佐乃男命は、宮作りの地を出雲国に求めて須賀の地に着くと「この地に来て我が心はすがすがしくなった」と申され宮を作られました。それでこの地を今でも須賀といっています。

須佐乃男命が、初めて須賀の宮を作られたとき、その地より雲が立ち騰ぼりました。そこで歌をつくられました。その歌は、八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣つくるその八重垣を(やくもたついずもやえがきつまごみにやえがきつくるそのやえがきを)ですが。この歌が日本最初の和歌と言われています。

須佐乃男命は足名椎を喚び「我が宮の首」に任じ、「稲田宮主須賀之八耳神」(イナダノミヤヌシ スガノヤツミミノカミ)と名號けました。須佐乃男命は、櫛名田比賣と共に暮らし出雲国の基礎をつくり、子孫の「大國主命」が大八州国を平定し治めました。

【石上布都魂神社を訪れてみた】



P7300922.jpg(田舎ですが、まずは本宮を目指します。)
P7301039.jpg(本宮途中への山道に在る鳥居です。横を車ですり抜ける。)
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(石上布都魂神社奥の院への第一歩です。)
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(本殿への道まで登って来ました。)

P7300934.jpg(本殿を正面から一宮ですがかわいいですね~!)


所在地:岡山県赤磐市石上字風呂谷1448に成ります(山の中ですし、奥の宮まで登るのならトレッキングシューズが必要です)。
主祭神は1柱:素盞嗚尊です(明治時代に布都明神から改められました)。
社格:式内社(小)備前国一宮・旧郷社、創建不詳、本殿の様式流造です。

P7301012.jpg(石上布都魂神社御由緒)
P7301017.jpg(磐座祭縁起、自然のパワーが霊力を上がるのでしょうか?)
P7300940.jpg(神殿も可愛いです。吉備の神社に特徴的な鰹木の複数と枕木の縦カット!)
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(備前には一宮が三社あるのですよ~)
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(神官の奥様が言われていた、一番の霊気が湧き出る場所だそうです。)


【まずは草薙の剣の行方】

須佐乃男命は、八岐大蛇由来の神剣を高天原の天照大御神に献上しました。 続いて天孫降臨に際し他の神器と共に邇邇芸命に託され、地上に降臨しました。崇神天皇の時代に草薙剣の形代が造られ、形代は宮中(天皇の側)に残り、本来の神剣は笠縫宮を経由して、伊勢神宮に移されたといわれます。景行天皇の時代、伊勢神宮の倭姫命(やまとひめのみこと)は、東征に向かう「倭建命」(古事記)「日本武尊」(日本書紀)に神剣(草薙の剣)を託します。倭建命の死後、草薙剣は神宮に戻ることなく宮簀媛(倭建命の妻)と尾張氏が尾張国で祀り続けたます。これが熱田神宮の起源となって、現在も同宮の御神体として祀られています。

宮中(天皇の側)に残った、形代の草薙剣は、壇ノ浦合戦(源平合戦)における安徳天皇(第81代天皇)入水により関門海峡に沈み、失われてしまいました。神剣の喪失により、様々な伝説・神話が生まれました(中世神話)。その結果、後鳥羽天皇(第82代天皇)は三種の神器がないまま即位、平氏滅亡により神璽と神鏡は確保できましたが、神剣を手にすることは出来ませんでした。その後、朝廷は伊勢神宮より献上された剣を「草薙剣」とします。南北朝時代、北朝陣営・南朝陣営とも三種神器(神剣を含む)の所持を主張して正統性を争い、この混乱は後小松天皇(第100代天皇)における南北朝合一まで続いたのです(明徳の和約)。現在、神剣(形代)は宮中に祭られています。

【不遜ながら十拳剣(天羽々斬・天十握剣)の方が霊力は上なのでは?】

さて、以前から、申します通りに、大蛇の尻尾から出て来た草薙剣よりも、大蛇を退治した十拳剣の方が霊力では上なのでは?と疑問?を持っているのです。
八俣遠呂智については色々な説が有りますが、「斐伊川が血で染まる」を斐伊川の洪水を静めた須佐乃男と考える方も居られますし。「赤く染まった斐伊川」から砂鉄の存在を示唆する方々も居られます。この場合は草薙剣は鉄剣となり強力な武器と考えても良いかもしれません。更に「越の八俣遠呂智」から越国の攻撃とも考えられますね!浪漫溢れる幾つもの説、皆さんはどの説が正しいと思われますか?

そんな八俣遠呂智を退治した十拳剣、私が不遜にも三種の神器よりも霊力が上だと勝手に考えている。十拳剣が最初に納められたのが、今回の『石上布都魂神社』なのです。どのような、経緯でこちらの神社にもたらされたのかは不明ですが、十拳剣は日本神話に登場する八俣遠呂智を切り裂いた、あの刀剣です。別名「天羽々斬剣」(あめのはばきりのつるぎ)は 、奈良石上神宮では「布都斯魂剣」として祀られています。 別名「天十握剣」(あめのとつかのつるぎ)、 「蛇之麁正」(おろちのあらまさ)、 「蛇之韓鋤」(をろちのからさひ/おろちのからさび)、 「天蠅斫剣」(あめのははきりのつるぎ/あめのはえきりのつるぎ)等の別名が有ります。

須佐乃男命が八岐大蛇を斬ったときの十握剣が、石上布都魂神社(現・岡山県赤磐市)から石上神宮へ遷されたとも伝えている。この剣は石上布都魂神社では明治以前には布都御魂剣と伝えていたとされています。
須佐乃男が八俣遠呂智を退治した時に用いた神剣。 当初は十掌剣/十握剣/天十握剣としか言及されず、古事記と日本書紀本文では固有名詞を与えていません。十掌剣とは「一握り十個分の長さの剣(約75.8㎝~78.8㎝)」という普通名詞の事です。 須佐乃男の十握剣には、八俣遠呂智(八岐大蛇)退治の時に天羽々斬剣と名称がつけられました。日本書紀では複数の別名があ事は説明いたしました。伝承によれば、現在は石上神宮で祀られています。

【十拳剣は幾つも在る?】

三貴子の一柱、須佐之男命(素戔嗚尊)が最初にもっていた十掌剣は、天照大御神(アマテラス)と宇気比(誓約)した際、姉神によって三つに折られて口に含まれ、宗像三女神(多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命)に生まれ変わっています(古事記、日本書紀本文)。

天岩戸隠れを経て高天原を追放された須佐乃男は、新たな剣を持っていた。まず大気都比売神を斬り殺してしまいますが、剣の名称について古事記では言及していません。こちらも十拳剣といえるのかもしれませんね、日本書紀では穀物神の保食命(うけもち神)を斬り殺したのは月読尊(つくよみ)とされています。

「日本書紀」では布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下(夢に天照大神、高木神、建御雷神が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡っています。その後物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていましが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が「石上大神」として石上神宮に祀られています。

現在、石上神宮では天羽々斬剣とされる鉄刀が、布都御魂剣とともに石上神宮本殿内陣に奉安され祭られています。これは明治11年(1878年)の石上神宮の社殿建造のための禁足地発掘の際、出土した全長120cm位の片刃の刀です。本殿内陣には布都御魂剣とこの片刃鉄刀の他に、同じ明治11年の発掘で出土した全長60cm位の両刃の鉄剣も奉安され祭られていますが、片刃鉄刀の方が天羽々斬剣とされています。

一方、岡山の「石上布都魂神社」は布都明神を祀っていたが、明治時代に祭神を素戔嗚尊に改められました。更には鹿島神宮にも、「十握剣」とされる直刀(国宝)が納められています。こちらは国譲り神話で武甕槌が使用した十拳剣ですかね~。

【石上布都魂神社奥の宮を訪れよう】

P7301000.jpg(さあ、奥の院目指して登山です)
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(意思の坂道、意思の強さを試される階段だそうです)
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(奥の院本宮への最後の階段竜の道だそうです。竜の尻尾のようにうねっています)
P7300953.jpg(さあ奥の宮へ着きました~神秘的ですね~!)
P7300970.jpg(元々こんな感じの祠が立っていたようです。岡山藩主池田綱政公の創設時絵図です)
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(現在の小さな祠と磐座禁足地です。此処に素盞嗚命が八岐大蛇を退治した十握剣が眠っていたのでしょうか)


本宮(奥の院)、石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)は、明治時代までは、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの剣である布都御魂と伝えられていた。明治3年(1870年)の『神社明細帳』では神話の記述に従って十握剣と書かれています。

上述の十握剣を祀ったのが当社の創始と伝えられる。この剣は崇神天皇の時代に大和国の石上神宮へ移されたとされており、このことは石上神宮の社伝にも記されています。『延喜式神名帳』では小社に列し、備前国総社神名帳では128社中2位に正二位布都魂神社と記載されている。寛文9年(1669年)、岡山藩主池田光政が山頂にあった小祠を復興しました。次代綱政は延宝2年(1674年)社領20石を寄進し、宝永7年(1710年)に社殿・神楽殿を造営します。その後も歴代の藩主の崇敬を受けました。

明治6年(1873年)に郷社に列した。祭神を素盞嗚尊に変更したのはこのときと考えられます。明治40年(1907年)、大火で山頂の社殿が焼失し、大正4年(1915年)に中腹の現在地に再建されました。昭和21年(1946年)1月10日、内務省より由諸などから県社となるべき資格ありと認定されたが、この年の2月2日に社格制度が廃止されています。山上にある本宮(奥の院)が、昭和59年(1984年)2月18日に赤磐市史跡(指定当時は旧吉井町)に指定されました。

看板には、「石上布津魂神社の由来」として、「当社は日本書紀に素盞嗚命が八岐大蛇を退治した剣を奉斎したと記す古社である。延喜式内社であり備前一宮として格式高い神社で、広く全国から参拝される。山頂は磐座で、禁足地である。」と書いてあります。



この地に何故「天十握剣」が眠っていたのか、須佐乃男が持ってきたのか?出雲と吉備関係の結果なのか?そして倭「石上神宮」へ移動させたのはなぜなのか?それぞれの点が線に繋がる時、倭の政権の本質がわかるのだろうか、謎は解けるのかそれとも深まっていくのか、皆さんどう思われますか?

最後に今回のブログの表記に「須佐乃男・素盞嗚尊」又「八俣遠呂智・八岐大蛇」等の名前違いが有りますが、こちらは「記紀」中表記違い、それぞれの神社御由緒の違いからですのでご容赦願います。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/08/01

この大きさになると古墳なのか山なのか分かります?「景行天皇天皇陵」

奈良の取材旅行の残りが少し?有りますので、お城の後は古墳廻りということで、崇神天皇の孫にあたります、景行天皇(第12代天皇)の陵墓を御紹介いたします。
とはいっても、題名にも付けましたように、300mを越える陵墓を近くから見ても山なのか、何なのか良く解りません(笑)、不遜な話ですが、灌漑様の池の向こう側が山に成ってる?位の感じですね。古墳拝所がなければ、いえカーナビと看板が無ければ本当に分からないのです。

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(大きすぎる場合小さな物からアピールする方が良いかもしれません。)

其では、景行天皇の陵墓、山邊道上陵(奈良県天理市)を御紹介致しますm(__)m景行天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県天理市渋谷町にある山邊道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ、山辺道上陵)に治定されています。公式形式は前方後円で考古学名は「渋谷向山古墳」(墳丘長300m国内第7位の大きさ)。

『古事記』には「御陵は山邊の道上にあり」とあります。

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【景行天皇ってどんな天皇?】

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(景行天皇の画像が無かったのでWikiよりお借りしています。)
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(拝所、玉砂利踏むと背筋が伸びますね~!)
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(宮内庁の看板は出来ればもう少し説明が欲しいですね。)
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(空撮写真も同じくWikiからお借りしました。少し時代が古いみたいですね。左の水口神社も前方後円墳に見えますが、陪塚?)

景行天皇(けいこうてんのう、垂仁天皇17年~景行天皇60年11月7日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第12代天皇です(在位:景行天皇元年7月11日~同60年11月7日)。記紀によれば第11代垂仁天皇と丹波道主王の娘日葉酢媛(ひばすひめのみこと)の子、垂仁天皇の第三皇子、日本武尊(やまとたけるのみこと)の父として有名です。『日本書紀』には自ら九州に遠征して熊襲・土蜘蛛を征伐し、東国には日本武尊を遣わして蝦夷を征討させたと伝わっています。和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)・大帯日子淤斯呂和氣天皇(古事記)と記載され。「常陸風土記」には大足日足天皇と「播磨風土記」には大帯日子天皇、大帯日古天皇、大帯比古天皇と多くの名前が有りますね~(記紀も風土記も発音を漢字に当てはめるのに苦労した様子がうかがえます)。
皇后は播磨稲日大郎姫、その死後は八坂入姫。子に第13代成務天皇、日本武尊がいます。都は纏向日代宮(桜井市穴師付近)。自ら日向(九州南部)の熊襲を討ち、日本武尊をして熊襲、出雲、東国を征討させたといわれています。子は80人におよび、その多くは地方に分封したと伝えられます。また九州関係の『風土記』には多様な巡行、活動が描かれる。伝承上の事績は事実としては疑わしいですが、地方伝承への強い浸透を念頭におくと、実在の人物としの可能性が有ります。

【物語、景行天皇熊襲を征伐する】

第12代景行天皇は、日本書紀によると、6年間にわたって、日向(ひむか)に滞在したと記され、熊襲征伐の伝承が伝えられています。ある年、九州南部の熊襲一族が朝廷に反抗し、みつぎ物を差し出しませんでした。景行天皇は熊襲を討つことを決め、みずから軍を率いて、九州へ向かいます。そして、豊後の国(今の大分県)を通って、日向の国に入ると、「高屋宮(たかやのみや)」という仮の住まいを建てました。ある日、天皇は熊襲討伐作戦を考えます。

「聞くところによると、熊襲には熊襲梟帥(くまそたける)という強者がいるらしい。何かうまく攻略する方法はないものか」景行天皇の臣の一人が、「熊襲梟帥には姿は美しく、心は雄雄しい2人の娘がいるので、その娘たちを傍に召し、利用すれば、自らの手を汚さずに、熊襲を滅ぼすことが出来るでしょう。」と天皇に奏上しました。それはいい考えということで、2人の娘は財宝を与えられ、天皇の下に召しだされます。そして景行天皇は、その姉のイチフカヤを寵愛しました(その愛は勿論偽りだったのですが)。懐柔されたイチフカヤは策を話します。「私に良い考えがあります」イチフカヤは家に帰ると強いお酒をたくさん用意して父親の熊襲梟帥にそれを飲ませると、熊襲梟帥は酔ってぐっすり寝てしまい、その間に天皇の兵によって殺されてしまいました。熊襲梟帥を失った熊襲一族は勢力を失い、その半年後には天皇によってほろぼされてしまいました。

襲国を平定し、高屋宮に滞在する事6年、景行天皇は御刀媛(ミハカシヒメ)という美しい女性を妻に迎え、豊国別皇子(トヨクニワケノミコ)という名の男の子をもうけました。豊国別皇子は日向を支配した「日向国造(ヒムカノクニノミヤツコ)」の先祖といわれています。

また、あるとき、天皇は児湯(こゆ)地方に出かけ、そのとき、東の方を見て、こう言いました。「この国はまっすぐに日の出る方に向かっている」それでこの地方を名付けて「日向(ひむか)」というようになったそうです。皆さんおかしい?と思いませんでしたか?初代天皇の神武天皇が東征に出発したのが日向ですよね~12代景行天皇が日向に名前を付けたのなら~?神武天皇の出発点は現在の日向ではないことに成りませんか(あら~やっちまったよ!大足彦忍代別天皇)?

色々な出来事が有りましたが、気がつけば景行天皇が日向にきてから、はや六年の月日が過ぎていました。天皇はいよいよ都に帰ることになり、出発した翌年に無事に都に着いたということです。

【景行天皇九州巡幸記】

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(景行天皇九州巡行記録)

景行12年熊襲が背いたので、これを征伐すべく、8月に天皇自ら西下。周防国の娑麼(さば、山口県防府市)で神夏磯媛から賊の情報を得て誅殺します。筑紫(九州)に入り、豊前国京都郡(福岡県行橋市)に行宮(かりみや)を設けます。豊後国の碩田(おおきた、大分県大分市)で土蜘蛛を誅して、11月ようやく日向国に入ることが出来ます。熊襲梟帥(くまそたける)をその娘に殺させ、翌年夏に熊襲平定を遂げた。日向高屋宮(宮崎県西都市か)に留まること6年。18年3月に都へ向け出立し、熊県(熊本県球磨郡)や葦北(同葦北郡)・高来県(長崎県諫早市)・阿蘇国(熊本県阿蘇郡)・的邑(いくはのむら、福岡県浮羽郡)を巡り、19年9月に還御しました。なお、この天皇親征について、古事記には一切記されていません。

「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇が持ち、時代が下って7世紀前半に在位したことが確実な34代舒明・35代皇極(37代斉明)の両天皇も同じ称号をもつことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであるとして、12,13,14代の称号は後世の造作と考える説があり、景行天皇の実在性には疑問が持たれています。記紀の記事は多くが日本武尊(やまとたける)の物語で占められ、残るのは帝紀部分のみになり史実性には疑いが持たれるものの、実在と仮定すれば、その年代は4世紀前半だと考えられています。

【垂仁天皇の業績と羨ましいくらいの子だくさん!】

『古事記』によれば記録に残っている御子が21人、記録に残ら無い御子が59人、合計80人もの御子がいたことになっています。

垂仁天皇37年1月1日に立太子。景行天皇元年7月に即位、翌2年3月3日に播磨稲日大郎姫を皇后に立てます。
景行4年、美濃国に行幸し、泳宮(くくりのみや、岐阜県可児市)に滞在します。八坂入媛命を妃とします。
景行51年8月4日、八坂入媛命との間の皇子・稚足彦尊(後の成務天皇)を皇太子に立てます。
景行52年5月4日に播磨稲日大郎姫が崩御されたので、同年7月7日に八坂入媛命を新たな皇后としました。
景行25年7月、武内宿禰を遣わして、北陸・東方諸国を視察させます。

【日本武尊の活躍に涙しない者はいない!】

景行27年8月、熊襲が再び叛旗を翻す。10月に日本武尊を遣わして、熊襲を征討させます。首長の川上梟帥を謀殺し、翌年に復命します。
景行40年10月、日本武尊に蝦夷征討を命じます。尊は途中、伊勢神宮で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)より草薙剣を授かっっています。陸奥国に入り、戦わずして蝦夷を平定します(常陸は蝦夷)。日高見国から新治(茨城県真壁郡)・甲斐国酒折宮・信濃国を経て尾張国に戻り、宮簀媛(みやずひめ)と結婚します。その後近江国に出向来ますが、胆吹山の荒神に祟られて身体不調に陥ります。そのまま伊勢国に入りますが、能褒野(のぼの、三重県亀山市)で病篤くなり崩御しました(景行43年)。白鳥陵に葬られました。なお、『古事記』によれば、死の直前に大和を懐かしんで「思国歌(くにしのびうた)」を詠んだとされ、この歌は、太平洋戦争中に東アジア地域へ派遣された兵士の間で大変流行ったといわれます。
『倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし(『日本書紀』歌謡三一)』
景行53年、息子の日本武尊を追慕し、東国巡幸に出る。東国から戻って伊勢に滞在し、翌年9月に纒向宮に帰ります。
景行58年、近江国に行幸、高穴穂宮に滞在すること3年、60年11月に崩御143歳でした。『古事記』では137歳でした(あと90年は生きられるな)。

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(実は前の玉砂利を踏めないので環濠も見られないのです。不遜で失礼ですが、森です。)

【宮はどこだ編】

宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では纒向日代宮(まきむくのひしろのみや)といわれます。伝承地は現在の奈良県桜井市穴師です。
また晩年の景行天皇58年には、近江国に行幸して、志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや、現在の滋賀県大津市穴太か)に滞在したと考えられます。



現実と虚像が入り混じるこの時代、真実は何処に在るのか?140歳の天皇が居たとはとても思えませんが、だからといって景行天皇の業績や、日本武尊の活躍が全くの夢物語とも思えません。さて皆さんはどう思われますか?


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