2017/08/31

備前地域最大の前方後円墳、『両宮山古墳』は倭への架け橋か!

さて、皆さん今日はTV見てらっしゃいますよね~~!私も珍しくリアルタイムでTV見てるんです。もちろんサッカーです(W杯ロシア大会アジア最終予選のオーストラリア戦が今始まろうとしています。ブログ書くの遅れると思いますがお許しください。ブログの途中に変な歓声が入ってしまうかもしれません(笑)

Jリーグはそれほどでもないのに、オールジャパンになると、ナショナリズムが触発されますよね~。日の丸と八咫烏(ヤタガラス)のマークにジャパニーズブルーに、ついつい拳に力が入ります。

P3265487619.jpg
(現地におかれているパンフレットをスキャンしました。)
いつもより右よりのブログになるかもしれませんね~。今日ご紹介するのは、備前地域最大(岡山県では三番目の大きさ)の前方後円墳、『両宮山古墳』です。

それでは、『市郎右衛門』の歴史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
ブログランキングならblogram
👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。

CROOZ


【八咫烏(ヤタガラス)ってどんなカラス?】

20160901082608[1]
(今日のヤタガラスはやっぱりこれですね!)

最初から脱線しますが、サッカー日本代表の胸のマークにも採用されている八咫烏(やたがらす、やたのからす)は、日本神話において神武東征(じんむとうせい)の際、高皇産霊尊(タカミムスビ)によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされるカラスです。一般的に三本足のカラスとして知られていますよね。

熊野三山においてカラスはミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)とされており、八咫烏は熊野大神(素盞鳴尊)に仕える存在として信仰されており、熊野のシンボルともされています。

『日本書紀』では、神武天皇を、「神日本磐余彦天皇(かんやまといわれひこのすめらみこと)」といい、磐余彦は八咫烏に導かれて畝傍山の東南の橿原の地を都と定めます。辛酉の歳(神武天皇元年)の正月、52歳を迎えた磐余彦は橿原宮で践祚(即位)し、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称しました。「神武天皇」は天孫降臨の瓊瓊杵尊の孫とされ、伝説の人物です。実際に「神武天皇」と呼ばれ始めたのは8世紀頃だそうです。アッ!「GOOOOOAL!日本先制~」

【ハーフタイムに両宮山古墳のご紹介】



P7300879.jpg
(大王墓だと拝所の場所ですね、両宮山古墳では両宮神社が拝所になっているのかな?)
P7300853.jpg
(民家の庭先をお邪魔しました。ありがとうございました。)
P7300860.jpg
(両宮神社への通路ですが今回は時間が有りませんでした。残念~!)
P7300864.jpg
(後円部の湾曲です。この田んぼも衆濠だったはずですね。)

両宮山古墳(りょうぐうざんこふん)は、岡山県赤磐市穂崎・和田にある古墳です。形状は前方後円墳。両宮山古墳群(西高月古墳群)を構成する古墳の1つで国の史跡に指定されています。

所在地:岡山県赤磐市穂崎山陽町穂崎
所属:両宮山古墳群(西高月古墳群)
形状:前方部2段築成の前方後円墳。中央くびれ部の両側に造出があります。二重周濠を巡らします。周堤(基底幅24m、上部幅14m)の外側に幅約13m、深さ約3mの外濠ありました(現在は田畑に成っています)。
総長346m、墳長206m、後円部径104m、高さ25.1m、頂径23x18m、前方部幅124m、長さ90m、高さ22.3m、くびれ幅75m、後後高差0.64m。葺石はありません(埴輪もありません)。
築造年代:5世紀後半(古墳時代中期)頃の築造と推定される。
埋葬施設:未調査のため不明
指定文化財:国の史跡「両宮山古墳」
特記事項:全国第36位(墳丘長200mとする場合)、岡山県第3位、備前地方第1位の規模になります。
大仙陵古墳の5分の2相似形といわれます。
その他:西の造出は、戦国時代にしろとして利用された際盛りつけたため高くなっています。

【両宮山古墳の概要】

P7300881.jpg
(どんな方が眠っておられるのか?それとも石棺は空なのか気になります。)
P7300872.jpg
(後円部を正面から撮影。)

岡山県南部、本宮高倉山南東麓の扇状地斜面に築造された巨大前方後円墳です。一帯では本古墳含む前方後円墳4基・帆立貝形古墳2基などからなる両宮山古墳群(西高月古墳群)の営造が知られ、本古墳はその主墳となります。墳丘上では前方部に両宮神社が造営されているほか、墳丘周囲部ではこれまでに数次の発掘調査が実施されています。ちょっと「鬼ノ城」への道を間違えて、両宮神社へのお参りはかないませんでした。

P7300857.jpg(衆濠の一部は田んぼに成っています。この木の板が両宮神社への道。)
P7300876.jpg
(右陪塚から後円部を望む。)

墳形は前方後円形で、墳丘主軸を傾斜面と平行とし、前方部を南東方(傾斜面の低位方)に向けます。墳丘は3段築成。墳丘長は206メートルを測るが、これは備前地方(岡山県南東部)では最大規模で、岡山県では造山古墳(岡山市北区新庄下、350メートル:全国第4位)・作山古墳(総社市三須、282メートル:全国第10位)に次ぐ第3位(全国第39位)の規模になります。墳丘の左右くびれ部には高い造出があります。墳丘表面で葺石・埴輪は検出されていません(ちょっと不思議ですね)。主体部の埋葬施設は未調査のため明らかにされていません。墳丘周囲には2重周濠が巡らされており、周濠を含めた全長は349メートルにもおよびます。2重周濠のうち外濠は周辺田畑に埋没していますが、内濠は現在も水をたたえています。また周辺では、後円部側に陪塚と見られる和田茶臼山古墳が築造されています。

周辺古墳では森山古墳(帆立貝形古墳82m)が後継首長墓と推測され、続いて朱千駄古墳(前方後円墳85m)・小山古墳(前方後円墳67m)・廻り山古墳(前方後円墳47m)と規模を縮小しながら築造されたと考えられます。また、吉備の3大古墳としては造山古墳・作山古墳に次ぐ3番目の築造になりますが、両古墳と異なり2重周濠を採用して「畿内型」の様相が強い点、および巨大古墳でありながら本古墳には葺石・埴輪が見られない点が注目されます。なお『日本書紀』雄略天皇紀には吉備の反乱伝承が見えており、その伝承と両宮山古墳以後に吉備で古墳規模が縮小することとの関連性が推測されます。

古墳域は1927年(昭和2年)に国の史跡に指定されています。なお両宮山古墳付近では、後世に古代山陽道が引かれているほか(造山古墳・作山古墳も同様)、西側では後世に備前国分寺も営まれています。

【葺石も埴輪も出土しない古墳の謎】

おおお!「GO~AL!日本追加点~~!」

この古墳は平地に作られた古墳です。盛り上げる土を採取したあとが巨大な周濠となっています。現在は後円部の北側が一部水田となっていますが、周濠を持つ古墳は岡山県ではとても珍しいです。中世には城として一部改変されたが、後円部に比べ前方部が発達している点や、造り出しの位置などから、5世紀後半の築造と推定されています。

5世紀後半は、大和朝廷の推し進める中央集権化の荒波の中で、吉備勢力が弱体化し次第に力を失っていく時期にあたります。造山古墳(全長360m)や作山古墳(全長286m)など天皇陵と規模を競うほどの墓を築造した吉備勢力は、両宮前古墳を最後に大きな墓を作らなくなります。両宮前古墳は吉備全体の盟主墳とされながら、墳丘の規模は206mと、造山、作山古墳に比べて格段に小さのです。

その後の調査の結果、後円部の周り5カ所で行った試掘の結果、幅約13m、深さ約3mの外濠(そとぼり)が幅28mの周堤の外側に巡らされていることが確認されました。この外濠は古墳を全周しています。その結果、濠を含めた古墳の総長は346メートルにも達します。すなわち、作山古墳を抜いて造山古墳に迫る大きさを持ち、畿内天皇墓に迫る規模の古墳だったことがわかりました。

発掘調査に併せて行なった墳丘測量の結果、この古墳が我が国最大の大山(だいせん)古墳のちょうど5分の2の規格で作られていることも分かりました。この古墳の被葬者は、弱体化しながらも造山・作山古墳を築いてきた系列を継ぐ首長であると、今までは考えられてきました。

P7300889.jpg
(残った周豪と前方部)
P7300893.jpg
(左周濠と左面の両宮山古墳です。)

【雄略天皇と稚媛の愛憎劇】

両宮山古墳には、以前から大きな謎がありました。天皇陵にも匹敵する前方後円墳でありながら、この時代の古墳には常識の葺石が墳丘に敷かれておらず、また埴輪の列柱も見あたらないのです。以前は、このことが弱体化した吉備勢力の象徴と考えられてきました。しかし、大山古墳の規格をきっちりとコピーし二重周濠まで築き、造山・作山古墳を築いてきた系列とは別系列であることを主張しているような古墳です。その理由は何だったのでしょう。

『日本書紀』はそのことに関係する「稚媛(わかひめ)伝説」が載っています。稚媛の夫、吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみ・たさ)は宮廷で自分の妻の稚媛が魅力的な女性であると自慢していました。これを聞いた雄略天皇は、田狭を「任那国司」に任じて国外に追いやり、稚媛を奪っってしまったのです。もしこの話が史実であれば、田狭が任那に追いやられた時点で寿陵の築造が中断し、そのままになって葺石や埴輪が見つからない理由もうなずけます。

田狭の妻だった稚媛と雄略天皇の間には星川皇子という皇子が生まれます。雄略天皇の死後、稚媛は星川皇子を天皇位につけようとして、星川皇子にクーデターを勧めます。星川皇子は諸国からの貢ぎ物を収容する大蔵を占領しますが、雄略の寵臣だった大伴室屋や東漢掬(つか)らに包囲されて、星川皇子は焼死してしまいます。 このとき吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)らは星川皇子のクーデターを聞いて水軍を率いて駆けつけようとしますが、時すでに遅く皇子は焼死したことを聞いて引き上げます。しかし、雄略天皇の後を継いだ清寧天皇は吉備上道臣らの行動を責め、その支配する山部を取りあげたといわれます。

この両宮山古墳の築造時期は5世紀の後半に想定されていましたね、その点は雄略天皇の治世の時期と重なります。もし、田狭が任那の地で計画が発覚して殺害されたのであれば、この古墳の石室には埋葬された遺体はないことになりますが、どうでしょう。(笑)

【陪塚古墳のご紹介】

P7300865.jpg(可愛い陪塚和田茶臼山古墳後円部)
P7300852.jpg(円墳ではありませんよ、ちゃんとした前方後円墳です。)

和田茶臼山古墳 墳丘(わだちゃうすやまこふん)
両宮山古墳周辺では中小古墳数基が分布するが、そのうち次の1基は陪塚と推定される。

所在地:赤磐市和田
形状:帆立貝形古墳
規模:墳丘長55メートル、後円部直径41.5メートル(推定)、前方部長さ15メートル、前方部幅19.5メートル。

両宮山古墳の後円部北側に位置します。墳丘主軸は両宮山古墳とほぼ直交し、前方部を西方に向けています。墳丘は2段築成と考えられます。現在では墳丘は後円部のみを遺存しますが、発掘調査により前方部が確認されたほか、2重周濠を伴うことも判明しています。また、両宮山古墳と同様に葺石・埴輪は検出されていません。築造時期は5世紀後半-末頃と推定されます。外濠を両宮山古墳と共有すると見られるなど、両宮山古墳とは計画的に配置されて古墳の様相も類似することから、和田茶臼山古墳被葬者は両宮山古墳被葬者と親密な関係にあると考えます。

両宮山古墳の前面には森山古墳・正免東古墳(非現存)も築造されましたが、両古墳には葺石・埴輪を伴う点が注目されます。一帯では朱千駄古墳・小山古墳・廻り山古墳といった古墳の築造も認められますが、全ての古墳で埴輪が出土しています。

【最後に!】

日本勝ちました~~~!W杯ロシア大会出場決定しました~~!
選手の皆さん、日本の皆さん、おめでとうございます。今日はしょうがないな(笑)


P7300919.jpg
(最後は少し高台から見た両宮山古墳全景、右が後円部です。)


いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。

ブログランキングならblogram

リュミエールブラン ネージュ

2017/08/29

山陰の山奥にこんなに素敵な霊場が有った『清水寺』

実は今回、備前の国分寺か古墳群をUPする予定だったのですが、昨日米子在住でご夫君の海外勤務で、ドイツに滞在中の同級生のお友達から、Facebookで連絡が有りました。

前回のブログ投稿に、「米子城気持ち良いよね~~(*^^*)」「中海の小島、サークルでご一緒してるお仲間のご主人の所有なのよ~。」と、びっくりの連絡!「えっあの無人島何て名前?(Google地図に名前無し)」と聞くと「確か 萱島と呼ばれていたように記憶してます。違ってたらゴメン!」とコメントが入り、島持ちってか~~?と驚いていると、更に別情報で妻木晩田の最高所に位置する「松尾頭地区で33次発掘が先週から始まったよ~。今回は墳丘だよ~~楽しみ~!」の情報も飛び込んで来ました。

先日ご紹介した出雲安来市の清水寺境内宿泊施設、「松琴館」の名物精進料理の反響も大きくて、今は山陰が来てるな?とかってに判断した私は、急遽記事を差し替え、『清水寺』をご紹介することにしました~~(;^_^A アセアセ・・・。

ということで、今日ご紹介するのは、「出雲国神仏霊場第十一番」『清水寺』です。

P8120324.jpg
(出雲神仏霊場のご紹介も残り少なくなって来ましたかね~。)


それでは、『市郎右衛門』の歴史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
ブログランキングならblogram
👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。

CROOZ


P8130519.jpg
(そうこの島、萱島!個人所有だそうです。その方とお友達に成りたい市郎右衛門です。)


こちらを参考にしてくださいね。石垣も美しいが、やはり眺めが絶景「米子城址」前回のブログです。
そして、清水寺境内宿泊施設、「松琴館」の名物精進料理出雲の国は安来、「清水寺」の隠れ家宿坊『松琴館』の精進料理が完璧過ぎる!
最後は、妻木晩田遺跡のご紹介!投馬国の都か?ズバリ邪馬台国なのか~!凄いぞ『妻木晩田遺跡』



【清水寺との出会い】

P8120315.jpg
(着きました~清水です。京都じゃないよ~笑)
P8120318.jpg
(二年前より案内板も新調されていました。)
P8120326.jpg
(ヤッパリ~(;^_^A 、登るのね~~~!)

私が清水寺を訪れたのは四度目です。最初は能楽の三番叟(さんばそう)を観覧に行ったのが初めてのお参りでした。当時お隣の米子市に単身赴任していました。一人の気ままな休みに日本の伝統芸能に触れてみるかなと、かるい気持ちで伺いました。

三番叟(さんばそう)は、日本の伝統芸能式三番(能の翁)で、翁の舞に続いて舞う役、あるいはその舞事をさします。能楽では狂言役者が演ずるそうです。
解説をご紹介しますと、元々「式三番」という名称は、例式の 3番の演目という意味で、「父尉」「翁」「三番猿楽」の 3演目を指すものだそうです。室町時代初期には最初の「父尉」を省くのが常態となっていましたが、式二番とは呼ばずそのままの名称が使われています。古くは、その3番のうち 1、2番目は聖職者である呪師が演じましたが、「三番叟」は 3番目の演目であり呪師に代って猿楽師が演じ、「三番猿楽」と呼ばれ、「三番三」とも呼ばれています。

三番叟の舞は、揉ノ段と鈴ノ段に分かれます。前半の揉ノ段は、面を付けず、足拍子を力強く踏み、軽快・活発に舞います。後半の鈴ノ段は、黒式尉を付け、鈴を振りながら、荘重かつ飄逸に舞うのです。

翁の舞が、天下泰平を祈るのに対し、三番叟の舞は五穀豊穣を寿ぐといわれ、足拍子に農事にかかわる地固めの、鈴ノ段では種まきを思わせる所作があり、豊作祈願の意図がうかがえます。式三番のうちでも、翁以上に後世の芸能に影響を与えたとされます。歌舞伎や人形浄瑠璃などに取り入れられ、また日本各地の民俗芸能や人形芝居のなかにも様々な形態で、祝言の舞として残されています。

【安来の清水寺ってどんなお寺なの?】

P8120329.jpg
(不動明王)
P8120335.jpg
(飾りが美しいので、先日の写真、大門です。)
P8120337.jpg
(まだ歩きます。雨だと滑るので気をつけてね。)
IMG_6022.jpg
(此処はもう敷地内ですがまだ登り!杉の太さ半端ないです。)

社寺名称:瑞光山 清水寺(ずいこうざん きよみずでら)  通称 安来 清水寺
宗派:天台宗
御本尊:十一面観世音菩薩(じゅういちめんかんぜおんぼさつ)平安初期の一木造り、島根県指定文化財に指定
創建・開創:尊隆上人 用明2年(587年) 開創
御利益:厄払い、延命長寿の観音様
お祈りの言葉:オン ロケイ ジンバラキリ ソワカ (御真言)
御詠歌:にごらじな きよみずでらに まいるみは こころのうちの つきぞさやけき
代表的宝物・文化財:国重要文化財  根本堂、十一面観音立像、弥陀三尊坐像(三体) 丈六阿弥陀坐像、県指定文化財 三重塔、十一面観音立像、梵鏡ほか


【清水寺の歴史】


用明天皇二年(587)尊隆上人によって開かれました。当時この山は一滴の水も出ませんでしたが、一週間祈願したところ水が湧出し、しかもその水が雨期にも濁ることなく、乾期にも枯れることなく常に清い水を湛えたところから清い水の出る寺、清水寺と命名されたと伝えられています。

ご本尊には推古天皇が瑞夢に厄ばらいの霊験あらたかを感得されたと云われる十一面観音様をお祀りし、ご祈祷をする寺として、厄ばらいの観音様として祟められ、毎年厄年に当たる人たちを中心に信仰を集めています。

早くから朝廷や多くの豪族の信仰を受け栄えてきましたが、盛時には四十八坊を数えたといわれます。一時荒廃しましたが平城天皇の詔勅を仰いで、中興開山盛縁上人が復興に尽くし、大同元年(806年)七堂伽藍を完備しました。中国随一を誇ったといわれます。 承和十四年(847年)十一月、慈覚大師(天台座主円仁)唐留学の帰路、当山に立ち寄り、光明真言の秘法を伝法、これを機に天台宗となっています。残念ながら尼子氏と毛利氏の戦いに巻き込まれ毛利軍によって焼き討ちを受け、根本堂のみを残して全山灰尽となるも、勝った毛利家や、江戸時代に入って松江歴代藩主の庇護を受け、今日の伽藍に再興されました。

山陰随一総欅造りの三重塔は安政六年(1869年)1万人講を組織して和尚二代、大工三代の彼岸の末完成しました。現在も清水寺のシンボルとなっています。また当寺の四季は素晴らしく、特に春の桜・新緑と秋の紅葉は絶景だそうです(私、夏にしかうかがっていません)。

CIMG8976.jpg(私、実はモスおたく、笑…この苔見ただけで来たかいがあったかも、美しさにうっとりです。)

【三斎流茶道と清水寺】

三斎流(さんさいりゅう)茶道をご存知の方は、なかなかおられないでしょう。三斎流は、豊前小倉藩主細川忠興(三斎)を祖と仰ぐ茶道の一派です。三斎の門人である一尾伊織が許しを得て興したので一尾流(いちおりゅう)、三斎流一尾派などとも言われます。現在家元は島根県出雲市にあり庵号を観翠庵、同門組織として九曜会(細川家は九曜紋です)があります。安藤家御家流も一尾流の流れを汲む他、細川三斎流と称する流派があります。

細川 忠興(ほそかわ ただおき)はご存知ですか?戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名です。細川 藤孝(幽斎)を父に、丹後国宮津城主を経て、豊前小倉藩初代藩主。肥後細川家初代となります。足利氏の支流・細川氏の出身で、正室は明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)、室町幕府将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、大坂の陣後に細川氏へ復名しています。元総理大臣の細川護熙さんは細川忠興の末裔に成ります。

参考までに、「明智光秀」山崎での敗北をさとり『勝竜寺城』へ退却す!細川 忠興・玉子(通称細川ガラシャ)のお話も書いています。

足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築来ました。また父・幽斎と同じく、教養人・茶人としても有名で、利休七哲の一人に数えられます。

茶道の三斎流の開祖、細川忠興(三斎)は利休七哲に数えられるほどの達人であり、家中には門人が多くいました。その中でも1000石の旗本で幕府御書院番を務めた一尾伊織は、三斎の家臣の佐藤将監に茶を学び、後に三斎について学んだとされ、許しを得て一派を興しました。一尾伊織の門人には稲葉正喬、米津田賢、高木正陳、舟橋希賢などがいます。

稲葉正喬は駿河守大番頭を務めた7000石の旗本で、この系譜では荒井一掌が松平不昧(出雲松江藩の第7代藩主)と親交が深 く、それにより松江に三斎流がもたらされました。松平不昧は家臣にも三斎流を学ばせますが、不昧自身はさらに石州流を学んで松江藩では現在不昧流と呼ばれる系譜が伝えられることになります。一方で三斎流は松江城鬼門にあたる普門院の住職によって受け継がれ、明治維新後は在家に下り、現在は森山家が伝承しています。

何が清水寺と関係があるのか?なのですが、十一代「得故庵恵教」・安来清水寺蓮乗院住職・観月庵三世 、十二代「制心庵真浄」・安来清水寺蓮乗院住職・観月庵四世 、十三代「花月庵教好」・安来清水寺蓮乗院住職・観月庵五世の三代の家元は清水寺の住職が務めているんですね。

IMG_6021.jpg
(はい、ほぼ全景です。カメラが変わったから、縮小率がおかしいのはご勘弁です。)
IMG_6024.jpg
(本堂前の出雲型狛犬?お寺だけどね~気にしない、来待石かな柔らかそうです。)
IMG_6023.jpg
(本堂で御朱印をいただきます。)
IMG_6025.jpg
(山陰随一の三重塔、実は但馬の養父市にも凄いの有るんだけどね、またご紹介します。)
CIMG8960.jpg
(下から眺めると組み上げがが凄いですね。大山登山の後で、足を引きずりながらここまで来ました(''◇'')ゞ)


いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。

ブログランキングならblogram

リュミエールブラン ネージュ

2017/08/27

石垣も美しいが、やはり眺めが絶景「米子城址」

先日出雲大社に参拝にした帰り、朝の運動を兼ねて米子城址に登って来ました。以前米子に単身赴任していたときにも登っていたのですが、もちろん当時はブログを書くことも考えておらずに、ガラケー写真が3枚ほどしかなかったので、今回はブログ用の撮影登城となりました。

Yonago1723[1]
(県立博物館の米子城絵図、二つ?の天守・二の丸・内膳丸等綺麗です。)


米子城は天正19(1591)年吉川広家が、月山富田城に代わる居城として築城を開始したもので、関が原の戦い後、慶長6(1601)年
伯耆17万5,000石の領主となった中村一忠により完成されました。

中村氏改易後は加藤氏(6万石)の治世を経て、近世を通して因伯32万石の池田氏のもと、家老に預けられ維新を迎えています。
現在残るのは石垣だけですが、内堀から内部は、飯山と湊山の一部を除き、「湊山公園」となっています。また、城山一帯には、市街地に残る数少ない貴重な自然が保護されており、多くの動植物に接することができます。

城山はウォーキングコースとしても市民に親しまれ、ふもとから約15分の頂上から望む大山、日本海、島根半島、中海は本当に絶景でおすすめです。

それでは、『市郎右衛門』の歴史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
ブログランキングならblogram
👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。

CROOZ




【米子城ってどんな城?】

P8130476.jpg(総石垣の本丸、石積が綺麗ですね~!)

米子市街地の西側、中海に突き出た標高約90mの湊山と、標高約600mの飯山に築かれ、湊山頂上部に総石垣の本丸があり、
5層の天守閣、4層の副天守を備えた山陰随一の近世平山城郭で、本丸北側には内膳丸があり、その東麓には政庁が置かれた二の丸がありました。その南東下には大型の外枡形を構えています。水堀を巡らした三の丸は現在埋め立てられ市街地となっていて、鳥取大学病院もその三の丸の敷地に建てられています。

西伯耆の拠点的な城であった米子城は、山陰で最初に築かれた近世初期の城郭です。天守のあった標高90メートルの湊山は、北側に丸山、東側に飯山、さらに南西側には中海という天然の要衝を擁する地で、この城山を内堀で囲み、さらに外郭に武家屋敷を配し、外堀を巡らせるという、典型的な平山城の特色を備えていました。

湊山頂上には、四層五重の天守閣と四重櫓という大小2つの天守が、華麗に連なっていました。江戸時代に発布された「一国一城令」の下、例外として存続を許された「支城」と呼ばれる城のなかで、このような天守をそなえたものは全国でも稀です。城の建物は、ほとんど姿を変えることなく、明治にいたるまでその偉容を誇りました。

現在その城の建物は残っていませんが、石垣や礎石などは城郭の形態をよくとどめ、その構造を知ることができる城跡として重要です。また、米子城に関する文献・絵図資料なども数多く、良好な状態で伝えられています。そのため、平成18年1月26日、米子城跡は国史跡に指定されました。

【米子城データ】

P8130413.jpg(大学病院裏の三の丸登り口から内膳丸を見て天守を目指し二の丸方向に下ります。)
P8130423.jpg(さあ、登りますよ~!)
P8130462.jpg(当然いつもの階段です。笑)

米子城(よなごじょう)は、鳥取県米子市久米町にあった日本の城です。久米城、湊山城ともいわれました。江戸時代初期は米子藩(伯耆藩)の藩庁でした。

別名:久米城、湊山金城
城郭構造:梯郭式平山城
天守構造:不明4重(1596年)、独立式望楼型4重5階(1601年)ともに非現存。詳細は同項の構造を参照 してください。
築城主:山名氏か?
築城年:文明2年(1470年)頃
主な改修者:吉川広家、中村一忠
主な城主:山名氏、尼子氏、吉川氏、中村氏、加藤氏、池田氏
廃城年:1871年
遺構:石垣
指定文化財:平成18年(2006年)1月26日 国の史跡に制定されました。

【米子城概要】

P8130472.jpg(天守台が見えてきました。内膳丸は後でご紹介。)
P8130478.jpg(石垣とイワシ雲、綺麗ですね~)
P8130479.jpg(まだまだ当然お城ですから簡単には攻め込めませんよ。)
P8130488.jpg(くさびを打ち込んだ石、われなかったのか?)

米子城には、戦国時代の飯山(いいのやま:国道9号線南側)に営まれた砦と、湊山(みなとやま:国道9号北側)を中心に営まれた近世城郭があります。江戸時代初期には伯耆国一国を支配した中村氏による米子藩の藩庁となり、その後鳥取藩の支城となりました。
P8130528.jpg
(戦国時代の飯山砦国道9号線南側と、湊山国道9号北側を中心に営まれた近世城郭があります。)


戦国期には飯山の頂上に、南北約85メートル、東西約35メートルの郭を構え、東と北に野面積みで高さ2メートル前後の石垣を各2段設けていた。門が3か所あり、現在は削平されていますが、南が1段高く、建物の痕跡があったといわれています。

江戸期には湊山に新たに築かれ、山頂の本丸、北側の中腹に二ノ丸、その下に三ノ丸を置き、戦国期に米子城の主郭であった飯山は出丸として利用されましたあ。四重天守(大天守)と四重櫓(小天守)、30棟の櫓と20棟の門が建てられ、城域の周囲に廻した堀には中海から海水をひき入れていました。

ただし、飯山と湊山が別の山と認識されたのは後世の話で、中世には1つの山に付けられた別名が「飯山」「湊山」であったとする考えもあります。現在は国道9号線で分けられているので、別の山の印象が大きい様です。

【江戸期の米子城の構造】

標高90mの湊山と峰続きの丸山、湊山と隣接する飯山のそれぞれ山頂部と山麓部に曲輪が設けられました。

本丸は湊山山頂に位置し、西伯耆から出雲の平野部や日本海、中海、島根半島、中国山地が一望できます。大天守や四重櫓、二重櫓、多聞櫓、鉄御門(くろがねごもん)などが置かれました。なお、本丸までに番所跡や遠見櫓(とおみやぐら)跡などが残っています。

天守は1600年(慶長5)に城主となった中村一忠が吉川広家の四重天守の横に建てた独立式望楼型4重5階の天守で、1878年(明治11)に撮影された古写真が残っています。
初重平面は10間×8間、2重目も同じ規模で、3重目は7間×6間、4重目と5重目は3間×2間半を測り、外観は2重目を大入母屋破風と千鳥破風・軒唐破風、3重目には入母屋破風と千鳥破風、最上重には軒唐破風があった。5階には望楼部の外廻り縁高欄を覆ったと見られている板庇があり、特異な外観となっていた。高さは21メートルはあったと考えられており、本城である鳥取城の天守(2重2階)や三階櫓をもしのいでいました。

四重櫓は、1591年(天正19)に城主となった吉川広家が建てた初代の天守であるといわれ、中村一忠が新たに5重の天守を建てた後に「四重櫓」と呼んで存続させたという伝承があります。規模を考慮して古天守や副天守とも呼ばれます。独立式望楼型3重4階の大型櫓で初重平面形は不整形で、石落としや出張がありました。天守と同じく、最上層の外廻り縁高欄を板庇で覆っていたことが分かっています。
古写真は残っていないが、幕末に櫓台と小天守の修築工事をしているため、外観および内部各階の詳細な絵図面が残っています。また米子市にある山陰歴史館、米子市立義方小学校、及び鹿島家分家に四重櫓の鯱一つずつ保存されています。

二の丸は、城主の御殿や、その台所、藩の役所が置かれていた。1603年(慶長8)に横田村詮は二の丸の建物内で暗殺された。
二の丸入口は、東西25.4メートル・南北22.7メートルの桝形があります。現在、裏門にあたる太鼓御門跡や御殿御用井戸が残るほか、1953年(昭和28)に移築された小原家の表門長屋が置かれ、テニスコートとなっている部分もあります。

P8130543.jpg(御殿御用井戸跡)
P8130548.jpg(二の丸に移築された、小原家の表門長屋、米子市で唯一残る武家屋敷だそうです。)
P8130563.jpg(二の丸入り口の大きな枡形門、鳥取城より大きいかもしれません。)

三の丸は、作事小屋、厩舎、資材小屋、米蔵、番人詰所などか建ち並んでいました。外周には内堀を廻らせ、大手門、搦手門、鈴の門(すんずのもん)で守られていた。現在、鳥取大学医学部付属病院や米子市営湊山球場の敷地となっています。

P8130426.jpg(こちらは、鳥取大学医学部付属病院裏に少し残る三の丸庭園跡です。)

内膳丸は、本丸に登る途中右手に分かれて登ったところにあります。丸山と呼ばれ、標高52メートル。中村一忠の家老である横田内膳正村詮が担当して構築したため「内膳丸」と呼ばれました。二重櫓数棟と武器庫が設置されました。横田村詮が暗殺された時、その一族が立て籠もったという記録もあるようですが、一族が立て籠もったのは、飯山との見方が強い様です。飯山は戦国期の砦跡が出丸として改修され、「東の丸」あるいは「采女丸(うねめまる)」と呼ばれたと伝わります。

P8130441.jpg(一番先に到着した内膳丸入り口です。)
P8130457.jpg(内膳丸はただの原っぱに成っています。(;´・ω・))
P8130487.jpg(さあもう少しで本丸天守です。)
P8130498.jpg(天守台跡と米子市街地。)

【中世の歴史】

P8130573.jpg(説明版やっぱり上手くなってきました。)

応仁の乱時、西軍の山名氏が支配する伯耆と、東軍京極氏が支配する出雲の国境は緊張します。『出雲私伝』によると、文明2年(1470年)尼子清定と戦った伯耆方が敗れて米子城に入るとあり、この頃の築城と考えられます(飯山砦)。
大永4年(1524年)、大永の五月崩れによって落城、尼子氏の支配となる。永禄5年(1562年)頃、毛利氏の尼子氏攻略に伴い、山名氏の支配に復します。

永禄12年(1569年)、尼子氏再興の旗揚げをした山中幸盛(鹿之助)らは、米子城主山名之玄と結ぶ。しかし、毛利方の吉川元春(毛利元就次男)に攻められ落城、城主・山名之玄は自害しています。吉川元春は配下の福頼元秀、天正5年(1577年)から古曳吉種を城主にしたと推定されています。

天正19年(1591年)、東出雲・隠岐・西伯耆を領した吉川広家が城主となり、古曳吉種に命じ、湊山に築城を始める。しかし古曳吉種は文禄の役で戦死し、吉川広家は関ヶ原の戦いの結果、岩国へ転封されました。

【江戸時代(米子藩と横田村詮謀殺事件て何?)】

豊臣秀吉の死後、徳川派と反徳川派の中、豊臣家の三中老である父・一氏は、嫡子・一忠の将来と中村家の存続を願う家老・横田村詮の意見を聞き、慶長5年(1600年)、駿府城下の村詮内膳屋敷で徳川家康と会談し、東軍方に加わることを決めました。しかしながら、重い病にかかっていた一氏は、関ヶ原の戦いの直前の慶長5年7月17日(1600年8月25日)に死去してしまいます。

関ヶ原の戦いの後の同年11月、先の会談での一氏の約束論功を踏まえた家康は、11歳の一忠に伯耆一国を与え、米子17万5,000石領し米子城に拠り、初代米子藩主となります。さらに一忠は伯耆守に任じられ国持大名とされました。また、幼少の一忠に叔父の横田村詮を後見役、執政家老として同行させました。一忠は執政家老の横田村詮と共に、米子城を完成させ、さらに新たに米子城下町を建設し、現在の商都米子の礎を築来ました。

村詮は年少の一忠に替わって藩政に携わり、城下町米子の建設に辣腕を振るいます。この村詮の手腕を妬み、出世を目論む一忠の側近・安井清一郎、天野宗杷らは村詮の排除を計画し、一忠に甘言を弄して惑わせます。慶長8年11月14日(1603年12月16日)、一忠は正室浄明院との慶事に託けて責めを負わせて村詮を謀殺します。村詮の子・主馬助、柳生宗章らは飯山に立て篭もったが、一忠は隣国出雲松江藩主・堀尾吉晴の助勢を求め、これを鎮圧しました。徳川幕府は、首謀者、安井、天野両名を容赦なく切腹に処しています。

慶長14年(1609年)、中村一忠が急死、中村氏は家系断絶のため改易され、翌年、替わって加藤貞泰が伯耆の内で2郡6万石を領して藩主となります(中村氏旧領の残り11万5000石は、八橋藩市橋氏・黒坂藩関氏・天領などに分割統治されます)。元和3年(1617年)、加藤貞泰が大洲藩に移され、米子藩は廃藩となって消えました。

伯耆・因幡が全て鳥取藩池田光政の所領となったことにより、米子城には家老の池田由成が城代として駐在した。池田光政が鳥取に入封した際、鳥取城が32万5千石の居城としては手狭であったため、新城が検討されたことがありました。その際に候補に挙がったのが、布勢天神山城・倉吉打吹城・久米郡の茶臼山・米子城でした。いずれの城・地域とも一長一短ある中、米子城は「藩侯の居城としてふさわしい城」として最後まで新城の候補地とされ、激論が交わされました。結局、鳥取城を改築する運びとなり、米子城が鳥取の首府になることはありませんでした。
寛永9年(1632年)、池田光政の岡山国替により、池田光仲が藩主となり、明治維新に至るまで米子城は家老の荒尾氏が城代として駐在しています。



【最後に米子城が鳥取の首府だったら】
P8130507.jpg(天守台から中海を眺める絶景です~。中海絶景。)
P8130520.jpg(この日は大山はもやっていて撮影は出来ませんでした。右の小高い山は粟島神社、その左に水鳥公園、小島は萱島だそうです。ドイツからの友人上方!)
P8130515.jpg(米子市街地と境港市に美保関半島です良い眺めです。)

もちろん鳥取県の県庁所在地は米子市でしょう。私が単身赴任している間も山(大山)と海(中海と日本海)に囲まれた米子は素敵な町でした。商売の町ということもあり、大阪人の気質に近いかもしれませんね。それに女性が元気な印象です。それに湊山に大きな天守を持った、米子城が残っていたかもしれません。(残念!)今回もっと写真が有ったのですが紹介しきれなくて残念です。

いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。

ブログランキングならblogram

リュミエールブラン ネージュ

2017/08/25

御礼第二弾!お腹がふくらんだら、懐もふくらませていただきましょう。『金持神社』

さて、お腹が膨らんだら次は何ですか~~?そうです。懐もふくらませたいですよね~任せてください、一気に大金持ちを目指しましょう。(笑)
そこでご紹介するのは、鳥取県日野郡日野町金持に鎮座する『金持神社(かもちじんじゃ)』です。「金持神社は金運祈願・開運祈願で有名な神社です。

主祭神、天之常立尊(あめのとこたちのみこと)、配神に八束水臣津努命(やつかみずおみずぬのみこと)、淤美豆奴命(おみずぬのみこと) を御祭神とし、国土経営、開運、国造りの神様をお祀りしています。

P8120119.jpg
(どうですか~そこらじゅうに飾ってある高額当選御礼凄いですね。)

開運伝説もある金持神社には多くの参拝客が訪れます。中には参拝し商売がうまくいった、宝くじの一等が当たったなどの開運話が多くあるそうです。金運祈願・開運祈願で有名になった今は、人気のスポットになっています。

いつものそれではの前にもう一つ大事なご報告が有ります。先日、私たちが主催した「馬肉会(ブログオフ会)」がサークルで話題に成りました。出席メンバーも有名ブロガーばかりなので(私は肩身が狭いですが)、本当に有り難いことだと感謝しています。
そしてわざわざスペシャルゲストとして、埼玉から参加してくださったLOCOさんのブログを私がリンクさせていただきます。
LOCOさんのブログは皆さんもご存知ですよね、そうLOCOの 簡単セルフネイルのカリスマブロガーLOCOさんです。私などが申し上げるのもヘンなお話ですが、LOCOさんのブログも私のブログ共々よろしくおねがいします。

それでは、『市郎右衛門』の歴史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
ブログランキングならblogram
👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。

CROOZ




【金持神社(かもちじんじゃ)ってどんな神社?】

P8120131.jpg(人気なのか御水舎も整備されています。)
P8120138.jpg
(はい恒例の長階段です。(笑))
P8120150.jpg
(まだまだ~~~!本当にダイエットしたいよ~~~!)
P8120157.jpg(本殿が見えてきました。)

鳥取県日野郡日野町金持(かもち)に鎮座する、金運祈願・開運祈願で有名な神社です。

主祭神、天之常立尊(あめのとこたちのみこと)は、天地開闢の際、別天津神五柱の最後に現れた神です。独神であり、現れてすぐに身を隠してしまいます。『日本書紀』本文には現れず、『古事記』および『日本書紀』の一書にのみ登場します。『古事記』では天之常立神と表され、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)の後、国之常立神(くにのとこたちのかみ)、『古事記』においては、神世七代の最初の神様に先立って登場します。(簡単に説明すると、日本神話で五番目に現れたえらい神様です。)

天(高天原)そのものを神格化し、天の恒常性を表した神であると考えられています。『先代旧事本紀』では天之御中主神(あめのみなかぬし)と同一の神であるとしています。

旧社格は村社なんですよね~(笑)。創建は810年といわれています。

【金持神社の概要】

P8120147.jpg(その前に久々の出雲駒ちゃんやっぱり風情が有りますね~。)
P8120142.jpg(身構えるように頭を低くして尾を建てる出雲型素晴しい造形です。)
P8120158.jpg(はい本殿に着きました、コンパクトな可愛い拝殿です。)
P8120198.jpg
(樹木で見えにくいですが、綺麗な神殿ですね。周りに御札は珍しいです。)

その縁起のよい名前から、金運・開運祈願の神社として広く信仰を集めています。このため、ジャンボ宝くじ発売シーズンになると参拝者が急増するそうです。(サマージャンボも終わってたから空いてたのかな?)

金持郷は、昔、黄金より勝ると言われた「玉鋼」の産地で、原料の真砂鉄が採れる谷を多く所有し、金具の文字で表されているように、鉄(てつ)のことを金(かね)と読んでいた事から、金の採れる谷を多く持つ郷「金持」と呼ばれるようになったと伝えられています。

810年(大同5年~弘仁元年)出雲国の神官の次男が、伊勢神宮参拝のため、この地(当時は伯耆国日野郡金持郷)を通りかかったところ、お守りとして身につけていた神前の根付の玉石が急に重くなりました。そして、この地に宮造りするよう神夢があったので、宮造りしたと伝えられています。

【金持景藤公が必勝祈願】

P8120096.jpg(今回碑文綺麗に撮れてます。そろそろ慣れてきたかも?)
P8120170.jpg(御由緒と龍神図の説明)
P8120175.jpg(「金持神社だけに」金銀の龍が迫力です。)

この地の豪族、金持景藤(鎌倉時代~南北朝時代)は、1333年、隠岐を脱出された後醍醐天皇を奉じて船上山へと義兵を挙げた元弘の忠臣です。鎌倉幕府討伐の軍に参加し大活躍しました。その際、金持神社に必勝祈願し、神前の戸帳を御旗にしたと伝えられています。京都への遷幸の折には、天皇の右側に名和長年公・左側が金持景藤公で「錦の御旗」を持ち上洛しました。金持大和守景藤公のお墓と伝えられている宝篋印塔が金持地内に現在も残っています。

金持神社の縁起物や、日野町の特産品を販売している、観光物産館 金持神社札所(売店)が、神社近く(国道181号沿い)にあります。

【境内の銘木サワラとチャンチン 】

P8120204.jpg(サワラの木は見つけました。チャンチンはどこに在ったんだろう?)

金持神社境内には、鳥取県銘木100選中、サワラ、チャンチンの2本があり樹齢600年位と云われています。サワラは神社の遷宮の際に屋根のコワ材として利用するために植えられたものと考えられています。チャンチンはセンダン科の薬木で、実は目薬に用い、先人が鉄生産の予防薬として、中国より取り寄せたものと考えられています。 鳥取県内では、このチャンチンの木は、この「金持神社」の銘木1本しか確認されていません。縁起物として、金持箸(350円)や金運招福ケースが販売されていました。

【金持姓のルーツはここだ~!】

P8120100.jpg
(金持姓が何人おられるのかわかりませんが?ここが発祥だそうです。)

日本で一番景気の良い名字の「金持」。その金持姓のもとになった地名がこの地です。歴史は古く鎌倉幕府御家人、金持広親は1205年から守護職として、この伯耆の国を治め、鉄器製造が盛んである地域にふさわしく、国宝・太刀「童子切安綱」で知られる日本最古の刀匠、伯耆安綱を輩出しています。「金持」は「吾妻鏡」などにも記載のある由緒ある名字なんです。
ちなみに、近頃刀剣女子なる刀好きの女性が多いいようですが、「童子切安綱」は清和源氏の嫡流である源頼光が丹波国大江山に住み着いた鬼・酒呑童子の首をこの太刀で切り落としたという伝承から「童子切」の名がついたとされる国宝です。

【開運伝説ももちろんあるよ~!「長谷部信連公の再起」 】

平家物語や源平盛衰記など多くの古書で快男児としてうたわれている長谷部信連公。1180年、後白河法皇の第二皇子の平氏追討計画が事前に発覚、信連公は密かに皇子を宮殿から脱出させ、孤軍奮闘しました。そのため七年間、金持郷に流刑の身となりました。その間に日野町にとって大切な延暦寺、長楽寺、祇園神社などを残しています。平氏滅亡後、源頼朝御家人七人衆の一人として、安芸国宮島の検非違使、能登国の地頭職として山中温泉の発掘等を手がけ、のちに加賀百万石前田家の筆頭家老職(穴水城主)として明治まで続く長氏の始祖となりました。つまりこれも金持郷「金持神社」の開運 祈願がかなったということですね。

P8120162.jpg(最後にもう一度正面から、自分の心とお金に向き合っておきましょう。)




【最後に一言】

現在、長崎県の五島列島沖で国立研究開発法人、情報通信機構(NICT)チームが太平洋戦争後米軍によって五島列島沖に沈められた、旧日本軍の潜水艦を撮影しています。目的は広島に落とされた原爆・リトルボーイの部品を運んだ重巡洋艦インディアナポリスを沈めた潜水艦「伊58」です。
「伊58」の戦果は素晴らしいかもしれません。ただ「伊58」が人間魚雷といわれる、人間魚雷回天を戦線に初めて投入し、第一陣である菊水隊(名前が悲しい)で初めて作戦に使われたことを忘れてはいけません。さらに重巡洋艦インディアナポリスを沈めた部隊では多聞隊(こちらも悲しい名前です)の一艦として「伊58」は呉を出撃し戦闘におよびました。

菊水は後醍醐天皇が楠木正成に菊の紋を与えようとしたところ「畏れ多い」といって半分をみずから水の流れにかえた紋ですし、多門は隠岐に流された後醍醐天皇を待つ間、京都で潜伏していた時に使用していた正成の偽名です。

先日TVのニュースで流れた人間魚雷回天の映像には、確かに菊水の紋が有りました。軍記物語『太平記』には、正成について「智・仁・勇の三徳を備え、命をかけて善道を守るは古より今に至るまで正成ほどの者は未だいない」と書かれていますが、陛下に対する忠勤を戦争に利用するのは、天皇が本来神を祀る最も大きな存在であることを考えると残念でなりません。

いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。

ブログランキングならblogram

リュミエールブラン ネージュ

2017/08/23

リアル『コード・ブルー』に感謝を込めて!

私、テレビをリアルタイムでは見ませんので、『コード・ブルー -ドクターヘリ-』を知りませんでした。時間の無駄を減らすために録画したものだけ見るようにしているのです。妻に「人気なのよと」いわれてwebで見てみました。(笑)
「コード・ブルー ドクターヘリ緊急救命」は、フジテレビ系で放送されている山下智久さん主演のテレビドラマシリーズだそうです。皆さんはご存知でしたよね~。今回リアル『コード・ブルー』に父が命を救われたので、このテレビ番組見てみようと思いました~。

父はオペの翌日早くも一般病棟に移りました。順調に回復しているようで、有り難いことです。

P8130639.jpg(右側50mでもう海、漁港です。朝取れた魚がもう食べられる。行くっきゃないよね~。)

今日は、父を助けて下さった皆様へ感謝の気持ちと、ありがたいお声がけをいただいた皆様へのプレゼント?として、私のとっておき鳥取県の隠れ家的・食堂をお教えいたします~。
先日「名和神社」をご紹介したときの取材帰りにも食べて帰った、米子方面なら日吉津イオンの隣(中といってもOK)の山芳亭に行くのですが、早く帰宅したいときはこちらかな?お魚センターみくりやの2階 『地魚料理 恵比須』さんです。

其では、『市郎右衛門』のグルメブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
ブログランキングならblogram
👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。

CROOZ




【地魚料理 恵比須ってどうよ?】

ボリューム満点でトレトレピチピチの鮮度で勝負します。(すぐ隣が漁港ですから)地元のネタ満喫でついつい「えびす”」顔に
成ってしまうところから、名づけられたそうです。

P8130629.jpg(ヤッパリイカは白だぜ、私もお持ちかえりしました~。甘くてムフフ)
P8130630.jpg(のどぐろが欲しかったけど、錦織君が宣伝するから買えない値段になってます。嘘で~す!)
P8130623.jpg(ここいら辺はお得感満載じゃない?)
P8130632.jpg(シイラがお刺身で行けますぜ。)

1階は新鮮な魚屋さん、お魚センターみくりや!「買うだけじゃいやなんじゃ~」「とにかくその鮮度を早く食べたい~」そんな方は、迷わずに階段を上がって2階へ、営業は11時開店です。「地魚料理」その店名が示すとおり、ここでは御来屋の魚が主役。しかも1階の直売所同様、漁協直営ならではのリーズナブルな価格で、鮮度抜群の旬魚を心行くまで堪能させてくれます。

刺身、焼魚、フライ、煮付け・・・。メニューは魚のおいしさを直球勝負で楽しませてくれる献立が中心で、1階の鮮魚を新鮮なまま調理するだけに、内容はその日の仕入れによる日替わりがほとんど。3つの定食と海鮮丼。たった4つのメニューにもかかわらず、ここには地物の魚のすべてがしっかりと詰まっているのです。まずは、超お得なメニューからご紹介です。

【わたしの定番「海鮮丼 1100円」どうだ~!】

P8130620.jpg(そして私が食べた海鮮丼肉厚で美味!)

丼を覆いつくすほどに魚で隠れているにも関わらずこの値段。丼を飾る日替わりの日替わりネタは全部で7種で、そのネタそれぞれをよ~く見てみると、何かが違う。単に枚数だけが多いだけでなく、一枚一枚がとにかくぶ厚い。御来屋のほか、境港や賀露の魚も組み合わせたザ・鳥取な丼は、お魚を食べるという点ではこれ以上にない満足感。ぜひお試しください。

定食はお好みで3つのタイプを選んでください。申し訳ないのですが、一人なもんで写真取れませんでした。ご自身で確かめてくださいね。(笑)

【更にオススメ「みくりや定食 750円」この値段はやばいぜ!】

地元民に人気のメニューは、早さと安さがウリ。メインのおかずは日替わりで、煮魚、焼き魚をローテションにて提供。ほか小鉢2品に、あら汁付きだよ。

【そして「えびす定食 1300円」】

刺身から、煮魚、焼き魚など旬の魚を様々な調理法にて提供。この日の献立はサバ煮付けに、刺身3種、石もずくと赤イカの小鉢に、赤貝、そして大山町特産のブロッコリーのおしたし。さらにもちろんあら汁付きだよ。

【最後はやっぱり「刺身定食 1200円」】

せっかくの港食堂。やっぱ刺身でしょ?という人にはコチラ。旬の刺身5種盛りに、小鉢3品、あら汁付き。御来屋の海を大満喫。この日はメインのお刺身を三種類から選べる形に成ってました。

P8130627.jpg(岩ガキも二階で生から食べられます。)

最後に今の時期なら「岩ガキ 時価500位~」が美味しいです。でかい岩ガキがこの値段?本当なら絶対に教えませんけど、今回はン?なんで教えてるんだろう。(笑)
実はここ、シンプルな空間ながら、周囲の窓からは日本海を一望で来ますし。北は島根半島がどどんと見えます。真っ青な海を眺めながら開放感満点のランチタイムをなんていうお楽しみも。港町の漁港内の食堂ならではなお店だから、超穴場の絶景レストランとしていえなくもないので是非お出かけください。

お徳情報を1つmont-bellのカードを持っていると50円引きに成ります。私、カードは車の中でしたが、Tシャツmont-bellだったので、「いいよ引いとくよ~」と値引きして貰いました。(笑)

【ついでに日吉津イオンの隣(中といってもOK)の山芳亭も紹介しちゃえ~!】

HI3E0194.jpg(特別メニュー、一日二食限定ノンアルコールも付いた船盛がなんと1000円だ~こちら大山登山の時に妻が食べたやつです。)
CIMG2647.jpg(中とろドン)
CIMG2646.jpg(山芳海鮮丼)

【最後はまじめに歴史のお話(笑)】

御来屋は先日もご紹介した、後醍醐天皇が沖ノ島から戻られた場所で、漁港内に天皇がお座りに成られた「お座り岩」も在る、歴史ある場所です。御来屋という名前ですが、御厨から来ているのではないかと考えています。

先日の名和神社のブログもよろければ参考にしてださい後醍醐天皇!悪党「名和長年」を頼って都に帰り咲く!『名和神社・MODIFY』。

御厨(みくり・みくりや)とは、「御」(神の)+「厨」(台所)の意味で、神饌を調進する場所のことです。本来は神饌を用意するための屋舎を意味しています。御園(みその・みそのう)ともいわれます。神饌を調理するための屋舎を意味していますが、神饌を調進するための領地も意味します。

古来神社は神田、神郡、神戸といった領地を持っていましたが、平安時代中期以降荘園が増え神社も権禰宜による自墾地系の地域の特産品を納めるかわりに神税を免除される御厨・御園という名の荘園を持つようになります。その後、権禰宜の仲介で武士からの寄進地系の御厨・御園が増加してい来ました。

御来屋もそんな土地の一つだったかもしれません。なんでこんなブログに成ったんだ?ちょっと反省してます。

いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。

ブログランキングならblogram

リュミエールブラン ネージュ

2017/08/21

十八代市郎右衛門生死をさ迷う!大動脈瘤破裂からの帰還!

皆さん私は何処へ居るのでしょうか?なんて冗談言っていられない状況に成りました。今日は歴史とは関係ありません。

朝仕事(久々の日曜仕事)へ向かう為にスマホの5時45分タイマーの音で起きて自宅のリビングへ降りたその時です。

電話ので呼び出し音が、父からの電話でした!電話口で先日から痛めていた、腰痛の凄まじさを力説する父!「○○(本名)、お父さん動かれんわいや、トイレにも行けん!」「どないしょうな?」「来られんか?」と、それが今日は日曜日の一人仕事で、昨日私の病院の都合で責任者と交代して貰ったばかりです。「今日仕事やねん」「無理やわ~」「一寸待ってな!」妻を起こして相談するも、妻も外せない仕事!もうどうにでもなれの心境で「救急車呼んで救急病院行って!」冷たいようだが他に方法がみつからない。

P65498745.jpg(豊岡市が誇るドクターヘリ、なんで?今回活躍していただきました。)

「何処に電話するんだいや?」「119番!」「分かったそうするわ~!」と電話を切った父!その後大変な事態になってしまった。非日常な一日日記です。

其では、『市郎右衛門』の非日常ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
ブログランキングならblogram
👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。

CROOZ


【とは言ったものの】

やはり心配で仕事に行けそうもないですし、父が救急車で運ばれて病院に向かわない息子もないだろうと、意を決して上司に電話しました。朝6:15分ですがそんなことはいっていられません。電話口の上司に事情を説明、どうにか代わりの出勤をお願いしました。上司の家は滋賀県~大阪の研究所までの時間を考えると、ぎりぎりだと思いました。この時程上司に感謝を感じたことは、実はこれまで(5年間一緒の職場なのです。)ありませんでした(笑)。

お盆とその前に取材旅行に行ったそのままの鞄を(ある意味都合が良かった)車に乗せて6:45に出発、まずガソリン給油して中国縦貫道・舞鶴自動車道・春日から北近畿豊岡自動車道 を乗り継いで、自宅へ到着8:40。自宅はもぬけの殻でカギすらかかっていません。ひとまず父が救急車で運ばれたことは確かな様子です。

【豊岡市民病院】

今度はどこに運ばれたか、ネットで検索すると整形外科の救急は新しくなった豊岡市民病院、電話で確認すると確かに運ばれているようです。直ぐに豊岡市民病院に向かいました。9:00に到着すると父親の処置は始まっておりましたが、ERの先生が相談が有るとの事、腰の様子がだいぶん悪いのか?と思ってドクター横の席に着きました。

sub04_01[1]
(典型的な動脈瘤の造影像白い丸が造影剤で染まった流れる血流・膨らんでいるのが動脈瘤です。)

そこで見せられたのがMRI画像、脊椎がが見事に一本圧縮骨折しています。これは痛いわな~と思った次の瞬間「問題はこちらなんですが」、え~これじゃないの?「こちらご覧いただけますか」といわれた場所は背骨の前側に何やら肝臓の様な10センチほどの影が見えます。なんじゃこれは~?、医者ではありませんが、生物は専門なので腹腔のどこに何が有るのか程度は分かるのですが、こんな臓器は無いぞと思っていると「本来こちらに腹大動脈が、ここら辺に腹大静脈が見えるはずなんですが、お父さんのには見ないんです」と先生、アッ、動脈瘤破裂!?病名が頭をよぎったのですが、動脈瘤破裂してなんで生きてるん?「動脈瘤破裂の可能性が有りますので検査させてください」との事です。

参考までに、大動脈瘤が破裂したら、救命率は10~20%と言われています。また、緊急手術における死亡率は、胸部大動脈瘤では50%と言われています。

とにかく造影剤で確認させてくださいといわれ、断わる理由も無くお願いしますとうなずくのみ。父の意識ははっきりしていて、話は出来ますが、これはちょっと今日は大変な一日に成りそうだなと感じました。

P65987412.jpg(動脈血管の図今回父は内膜まで破裂かろうじて外膜でもっていました奇跡が~~~!)


そして待つ事1時間、ERに呼び出され説明が始まりました。「やはり胸部大動脈瘤が破裂しています。」「ただ奇跡的に動脈の外膜が伸び切った状態で止まっています。更に漏れ出した血液の一部が固まって血流を維持しています。」運の良いやっちゃ。「しかしこの状態はいつ外膜が破裂して、言葉はあれですが、ぽっくり行ってしまうかわかりません。それにまだ漏れは続いていておりますのでが緊急オペが必要です。術式は年齢や救急性を考えてカテーテルでステントを入れる方法で行いたいと思います。」直ぐお願いします~と拝みたいところでしたが、その後先生が「本日こちらには機器と専門医が居りませんのでオペ出来ません。」なんやと~!

stentgraft01[1]
(ステントグラフト治療図今回は腰部だったので腎臓の下位でしたか?)


「現在(今日)この手術ができるのは、近くでは、神戸日赤病院・姫路中央病院・鳥取県立中央病院だけです。」と説明を受けまして、「大動脈破裂の治療は、一刻も早く心臓の緊急手術が行える病院に駆けつける事が最優先です。ヘリで飛びます。何処が良いですか?」なんじゃと~ヘリ?ドクターヘリで飛ぶ?「それでは神戸の自宅から近い神戸日赤病院で調整しましょうか?」はいお願いします。頭の中はぐるぐる回転し始めました。

【ドクターヘリってか!コードブルー?】

人工呼吸器や除細動器などの専用の医療機器を備え、救急専門医と看護師を乗せ、直接、緊急患者の元に向かう専用のヘリコプターのことです。空飛ぶ救命室とも呼ばれています。

ドクターヘリを用いる最大の利点は、緊急患者のいる救急現場に医師・看護師を素早く送り届け、すぐさま救命処置を開始し、 適切な医療機関への迅速な搬送が可能になることです。一分一秒を争う緊急患者の適切な治療が、いち早く行われるこにより、救命率の向上や後遺症の軽減に大きな効果が期待されます

ドクターヘリは、時速200キロから250キロで飛行できるため、常駐する豊岡病院から、30km圏内を9分、50km圏内を15分、70km圏内を21分で医師・看護師を乗せ、移動することができます。これにより、治療開始時間の短縮が図れ、救命効果を高めることができます。

P12365987.gif
(このスピードのおかげで命が助かりました。)


原則として、豊岡病院から半径50km圏内にかかる消防本部の管轄区域とします。 ただし、ドクターヘリによる搬送が医療上有効と認められる場合や災害時には、その他の地域へも出動します。
(豊岡市HPより抜粋)

【鳥取中央病院】

P8200007.jpg(鳥取県立中央病院!良い病院です。ERの看護婦さんが鳥取弁でなまっているのが可愛い♡)
P8200002.jpg(綺麗な夕方の病院写真を撮る余裕が出ています。豊岡では全く無理でした。)
P8200005.jpg(病院の皆さんこれからの入院生活もよろしくお願いします。父は鳥取大学の出身、後輩に命救われて本望でしょ。)


車の中で、家族(万が一の事が有ればと待機してくれてました)、弟や叔父に状況報告の電話しながら、鳥取中央病院に向かいました。

病院到着13:30、ERに向かうとやはり父の方が先に着いていました。心臓外科の先生から説明を受け、今「米子から機器が向かっています。」、そう以前単身赴任していた鳥取大学の物です。「本来なら、事前に打ち合わせをして、細かいところまで詰めてから行うのですが、今回は緊急なのでリスクもあります。」しかし私は、なんとなく良い方に風が吹いているのを感じました。

鳥取大学病院はカテーテルでステントで有名な事は単身赴任時から有名だったんです。「届きました。OPは15:10からに成ります4時間程だと思います。」、そして父が運ばれてOPが始まりました。その後の4時間(実際は3時間半)の長い事長い事、18:40にOPは終了!「終わりました。」「うまくいったと思います。」術後の経過が良ければ、明日遅くとも明後日には一般病棟にうつられます。」父のは意識も回復しており、話せる状態!ERの面会時間は19:00までなので、「お母さんが天国で手を広げてたけど、行かれへんかったな~!もう少しこっちで孫のために頑張れていう事だな~」精一杯の皮肉を涙をこらえながら話しました。本人は麻酔でまだ状況が分かっていない様子でしたが。)「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と我が家の宗派日蓮のお経を唱えておりました。

【最後に】

昨日父を助けるために力を貸していただいた全ての皆様に対して心より御礼を申し上げます。「本当にありがとうございました」

私は涙をこらえながら(ちょっぴり漏れたかも)、病院を後にして実家の後始末に戻りました。大変な一日でした。昨日という一日は生涯忘れられない一日に成りましたが、おやじの悪運?はまだまだ続きそうです。元気でいてもらいたいですね、親孝行もまだしっかりできていないですしね~(笑)

以上長々と失礼いたしました。UPが一日遅れた言い訳でした(笑)

いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ぽちぽち」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。

ブログランキングならblogram

リュミエールブラン ネージュ

2017/08/18

男の嫉妬は怖い~!えっまたまた生き返る?「大穴牟遅(大国主)」『大石見神社』

今日のお話は時代が前回より1000年ほどさかのぼります。「古事記」神代のお話です。
皆さん「因幡の白兎」は良くご存じですよね。裸の兎を助けて八上比売(ヤガミヒメ)と結婚した大国主之命、お話はめでたしめでたしで終わるのですが、実は「古事記」ではその後に、怖~い八十神の兄弟たちの恨み節サスペンス劇場が有るんですよ~(-""-;)。面目をつぶされた兄弟達は、みんなで大国主之命を殺してしまおうという計画をたてたのです。

P8120024.jpg(本日紹介する大石見神社車で来たけど入れるかな?)

一度目の計画は、「燃え盛る猪作戦」、猪ならぬ焼石につぶされて殺されてしまった大国主ですが、何と母の愛で生き返ります(驚)
そのお話は以前に「赤猪岩神社」の紹介でお話させて頂きました。


今回は二度目の計画のお話と、其にまつわる、『大石見神社』を御紹介します。

其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいね(人´ω`*).☆.。
ブログランキングならblogram
👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。

CROOZ


【意地悪な姉達ならぬ嫉妬深い兄弟八十神達!】

CIMG6532.jpg(ちょっとおじさんの足が邪魔ですが、白兎神社の砂像「素兎・八上比売・大穴牟遅)

まずは、因幡の白兎の後のお話を簡単にお話致します。八上比売と結婚した大国主之命(大国主と言っていますが、この時はまだ「大穴牟遅」オオナムジと呼ばれています)ですが、嫉妬深い?八十神の兄弟たちの恨みをかってしまいます。兄弟達は、みんなで大国主之命を殺してしまおうという計画をたてたのです。

一行が旅を続けて伯耆の国の手間の山の麓に来た時、兄弟たちは「大国主之命よ。この山には赤い猪がいるというぞ、我々が山の上からそいつを追い落とすからお前は下で待っていて、そいつをうまく捕まえろ。もし捕まえなかったらお前を殺すぞ。(いじめの域はすでに越えていますよね。)」と言って猪の形に良く似た大きな石を、火で真っ赤になるほど焼いて、これを山の上から突き落とします。これを猪だと思った大国主之命は 追いかけていってこれを抱きとめますが、その石に焼かれ死んでしまいます。

CIMG6585.jpg(こちらは南部町「赤猪岩神社」の邪悪な灼熱猪石を封印している巨石です。)

この知らせを聞いた母は嘆き悲しんで、高天原の神産巣日神(かむむすひのかみ)に御子の命を助けて頂きたいとお願いしました。 そこで生成をつかさどるこの神様は赤貝であるさき貝比売(さきがいひめ)と蛤である蛤貝比売(うむがいひめ)とに命じ、大国主之命を治療させて再び命を吹き返させました。

これを見た兄弟たちは、事が失敗したのでまた大国主之命を騙して、深い山の中へ連れて行きました(ひつこいなな~(*´ω`*))。そこで大きな木を切り倒し、木の割れ目にくさびを入れて開いておいて、大国主之命がその割れ目に入った時にくさびを引き抜いて挟み殺してしまいました。 ここでもまた母は泣きながら大国主之命の亡骸を木から取り出して、生き返らせました。

ちなみにここまでのお話については、以前にもブログでUPしましたので、そちらも参考にしてみてください。

①「因幡の白兎」の『白兎神社』で兎焼きが食べたい!
②生物学的に有るわけ無いよ「因幡の白兎」 
③大国主は何度でも生き返る!「甦り」の神社『赤猪岩神社』

そして大国主之命に「お前がここにいると本当に兄弟達に殺されてしまうでしょう。」と紀伊の国の植林の神様である大屋毘古之神(おおやびこのかみ)の元へ逃がします。 ところが、兄弟たちは紀伊の国まで追いかけて矢をつがえて殺そうとしたので、大国主之命は木の下に身を隠し、こっそりと木のまたから抜け出して逃げ出しました。

こうした度重なる危機を見て、母は「お前の祖父(六代前の先祖だったり、義父だったりします)にあたる須佐之男命がいらっしゃる根の堅州国(ねのかたすくに)逃げなさい。そうすれば大神がきっと良い取り計らいをしてくれましょう」と言われましたので、大国主之命はひとりで遠い根の国へと旅立ちました。

【大石見神社ご紹介~~~!】

P8120017.jpg(大石見神社に着いたのですが~と)
P8120019.jpg
(私を拒むかのように突然の雷雨!何かありそうです。)
P8120027.jpg(階段を上り始めると結界が解けたように雨がぴたりとやみました。)
P8120030.jpg(お約束の長階段です。)
P8120034.jpg(神門を通り抜けると少し。)

大石見神社(おおいわみじんじゃ) は、鳥取県日野郡日南町上石見の大倉山南に位置する神社です。大国主之命が二度目の復活を遂げた地と言われ、再生復活のパワースポットとして近年注目を浴びています。大名牟遅(大国主之命)は 南部町の赤猪岩神社での復活の後も、腹違いの兄弟・八十神の嫉妬が和らぐのを大倉山(大蔵山)の麓に隠れて逃れたともいわれます。また八十神の兄弟神に謀られ落命しますが、母神の助けにより二度目の復活をしたとも言い伝えられます。

ここ上石見の地は、八十神が木の割れ目にくさびを入れて開いておき、大国主之命がその割れ目に入った時にくさびを引き抜いて挟み殺した場所ともいわれています。

神社の神紋は「亀甲の中に三つ葉柏」で、柏の葉は春の新芽が出るのを見届けるまで落葉しないことから「復活」にあながち無縁ではないように感じられます。

P8120076.jpg
(到着です。大石見神社!)
P8120046.jpg(拝殿を見守るのは狛犬ならぬ、お狐様?さっきの雨は狐の成せる業か!)
P8120069.jpg(神殿の枕木・鰹木も男神様ですね、大名牟遅神・大国主之命別名・根の国では「葦原醜男」ですよ、笑)

【オハツキタイコイチョウで有名?】

また、境内には樹齢約300年以上とも推定される直径1.5mもの(「オハツキタイコイチョウ」(鳥取m県指定天然記念物の大イチョウ)があり、普通の種子(ギンナン)の他に「御葉付(葉の表面に種子が実る)」や「太鼓(二個組の種子が実る)」といった特徴のある種子をつけることで知られ、全国的に見ても珍しいイチョウです。

P8120083.jpg
(オハツキタイコイチョウまだ身が落ちて居なかったので、どのような物かよくわからなかったです。)
P8120094.jpg(写真が飾ってありました。こんな感じだそうです。変わってますね葉っぱ付き銀杏。)

【物語の真実はどうだ?】

手間山(鳥取県西伯郡南部町)で殺された大国主命は、母親と二人の女神の力により再生しさらに山奥へ逃げます。どこに逃げて行ったのか古事記にはその記載がありません。しかしながら、日野郡誌(1926)に「伝承の地」として記載あるそうですし、南部町の赤猪岩神社と同様の内容が大石見神社の由緒として残っているそうです。怪我が治る処まではほぼ同じ内容です。面白いのは「古事記」にはない八上比売同伴の記載が有るようです。二人でこっそり隠れ住んだのかもしれません。

上石見地区は、日南町の最南で中国山地の盆地にあります。もうあと少しで岡山県です。つまり伯耆国の最も奥地!今はのどかな土地ですが、大名牟遅の頃は昼なお暗いうっそうとした森だったに違いありません。裂いた木の間に挟まれた土地、皆さん納得できないでしょうか?

大岩見神社では、狛犬(こまいぬ)ではなく、キツネ様が、拝殿の両脇で社殿をお守りしています。ここでの大名牟遅は、お稲荷様(農耕神)なのかもしれません。


須佐之男命が治める根の堅州国(ねのかたすくに)、そこで大穴牟遅は正妻と『大国主』の名前を持つことに成りますが、そのお話はまたいつか?あれ!もう話しちゃったかもしれません(爆)



CIMG2282.jpg(須佐乃男祀る出雲、韓竈神社で出会った正にスサノオ30cm~~!葦原醜男の運命はいかに!)


いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ぽちぽち」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。

ブログランキングならblogram

リュミエールブラン ネージュ

2017/08/16

後醍醐天皇!悪党「名和長年」を頼って都に帰り咲く!『名和神社・MODIFY』

今日御紹介致しますのは、伯耆国のお話です。地理に弱い私の子供達の為?に伯耆国の位置を説明します。山陰地方、鳥取市辺りの因幡国と島根県東の出雲国の間、現在の米子市、倉吉市辺りと考えて下さいね(#^.^#)。

以前、「名和長年」を祭る、『名和神社』を御紹介しました。

P8130645.jpg
(別格官幣社当然別格ですね、笑)

前回のお詣り時は、本殿の改築が行われておりまして、社殿がブルーシートで覆われ神社全体を撮影出来ず、御紹介出来ませんでした。先日訪れますと綺麗に改修されておりましたので、改めて御紹介させて頂きます。

名和長年は鎌倉時代末に隠岐国から脱出した後醍醐天皇を迎えて倒幕(鎌倉幕府ですよ!)に功があり、最後まで後醍醐天皇の御側で戦った武将の一人です。

其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいね(人´ω`*).☆.。
ブログランキングならblogram
👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。

CROOZ




【名和神社ってどんな神社なの?】

鳥取県西伯郡大山町(旧名和町)にある神社です(山陰道を走ると見落としてしまうので注意です)。旧社格は別格官幣社。建武中興十五社の一社です。社紋は、名和氏の家紋の帆懸船です。

名和神社1(雨上がりの朝は気持ちが良いですね~~本当に綺麗な神社です。)
名和神社2(駐車場もしっかりあります?相変わらずの看板撮影が難関です。笑)
名和神社3(参道、朝早くて?人影なし!こちらは前回お祀りの一枚すこしだけブルーシートが写ってます。笑工事車両もね。)
P8130583.jpg(はい!綺麗な神門です。)
P8130615.jpg(前回は気が付かなかったですが、しめ縄が有りますね。)
P8130611.jpg(神門を反対側から、人物を表すようなシンプルで穏やかな神社です。)
P8130586.jpg(そして拝殿の工事も終了していました。)

名和長年を主祭神とし、名和一族以下42名を合祀しています。

私!僭越ではございますが、歴代の天皇の中でも五本の指に入る、後醍醐天皇ファンなのです。後醍醐天皇の不屈の精神力と意志の強さに憧れております。100年早くにお生まれに成ってしまったと思うくらいに天才的な天皇だと心酔しています。勿論昭和天皇陛下、今上陛下を御尊敬している事は当然なのですけれどね(#^.^#)



【後醍醐天皇、隠岐の島を脱出、伯耆の浜に降り立つ!】

CIMG8651.jpg
(後醍醐天皇が浜でお座りに成られた腰掛石です。見えてないですね~前のブログではばっちりです。)

1331年(元弘元年)の元弘の乱で鎌倉幕府の討幕計画が露見してしまい捕縛されて隠岐島に流罪となっていた後醍醐天皇が、1333年(元弘3年、正慶2年)閏2月、名和長年を頼って隠岐島を脱出し、伯耆国の船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発しました。

時代背景の詳しい?所や後醍醐天皇伯耆到着の場所等も、以前にブログUP致しましたので、詳しく知りたい方はそちらを読んで頂けましたらありがたいです。

①鎌倉幕府消滅の足音!『後醍醐天皇』VS『鎌倉幕府』
②『後醍醐天皇』悪党「名和長年」の力を頼って隠岐を脱出す!

【後醍醐天皇船上山に立つ!】

IMG_6145.jpg
(まさしく天然の要害です。)

幕府は船上山を討つため、足利高氏名越高家らの援兵を送り込みます。しかし、4月27日には名越高家が赤松円心に討たれ、足利高氏(尊氏)所領のあった丹波国篠村八幡宮で幕府へ反旗を翻します。
5月7日、足利高氏は佐々木道誉や赤松則村らと呼応して六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧しました。北条仲時、北条時益ら六波羅探題の一族郎党は東国へ逃れようとししますが、5月9日、近江国の番場蓮華寺で自刃し、光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇は捕らえられることになりました。

この伯耆、船上山からの倒幕戦に勝利した名和長年は後醍醐天皇により伯耆守に任じらています。また、後醍醐天皇の帰洛の際の護衛も務めています。
船上山に天皇を迎えて討幕活動に参画するまでのくだりは、方『太平記』『梅松論』に詳細に記載されていますが、船上山リポートもブログUPしておりますので、天然の要害と後醍醐天皇御座所をご覧頂けましたら幸いです。

③後醍醐天皇反撃の狼煙を上げる『船上山登山記』壱
④後醍醐天皇反撃の狼煙を上げる『船上山登山記』弐


幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された『建武の新政』において、河内国の豪族、楠木正成らとともに天皇近侍の武士となり、記録所や武者所、恩賞方や雑訴決断所などの役人を務め、帆掛け船の家紋を与えられました。

P8130592.jpg(帆掛け船の家紋)
P8130588.jpg(神殿は横からの撮影が出来なかったので拝殿から失礼いたしました。)

また、京都の左京の市司である東市正にも任じられました。これは名和氏の商業者的性格を重んじての人事と考えられています(現代なら東寺の弘法市も名和長年の仕切りですね(^〇^))。この役職は代々中原氏が世襲してきたが、後醍醐天皇は強引にこのポストに長年を組み込み込んでいます。自分の手足となって動いてくれる長年をこの役職に就任させることで、京都の商業・工業を直接掌握しようとしたと考えられます。

建武2年(1335年)に西園寺公宗が北条氏の残党と組んで新政を転覆しようとした謀略が発覚して逮捕されると、公宗を出雲国へ流刑する途中に謀って処刑しています。また、討幕運動において京都の六波羅探題を滅ぼした足利尊氏と対立し、後醍醐天皇とも確執があった護良親王を結城親光とともに捕縛するなど、後醍醐天皇の先兵として活躍しています。

足利尊氏が中先代の乱の討伐を契機に、建武政権から離脱すると、「楠正成」「新田義貞」らと共に宮方として足利尊氏と戦いますが、延元元年(建武3年、1336年)の湊川の戦いの後に京都に入った足利尊氏に敗れ討死してしまいました。討死にした場所については、『太平記』には京都大宮、『梅松論』には三条猪熊とされています。

後醍醐天皇はこの後、京都脱出し奈良吉野へ移られ、京都と吉野に二人の天皇が居られることになりました。この事件以降を「南北朝時代」といいます。

【建武政権下の立役者「三木一草」って誰のこと?】

長年の死を以って、後醍醐天皇の恩寵を受け栄達した「三木一草」( 三木一草は、後醍醐天皇の建武政権下で寵遇を受けた4人の寵臣の呼称。楠木正成、結城親光、名和長年、千種忠顕をあわせて呼ぶ。 名称の由来は、楠木は「クスノキ」、結城は「ユウキ」、名和は伯耆守であったことから「ホウキ」、千種は「チグサ」と4人の姓や官職名に因みます。 )は悉く果てました。

『歯長寺縁起』は長年の戦死を「南朝の盛運が傾く凶兆である」と記しており、その通り廷臣を相次いで喪った南朝は劣勢に追いやられてゆくことになって行きます。

名和氏1(神社の近くに名和一族の墓所がありました)
名和氏「2
(左から長年、義高、高光ですか?)
P8130606.jpg(誰一人いないのが?私?笑、気持ちよいほど質素で心が洗われるようでした。)




今回の伯耆国の旅どうでしたでしょうか?出雲も良いけど、伯耆も格別です。是非お出掛け下さいね(#^.^#)
リメイクなので全てがご理解いただけるように工夫しています。お楽しみいただけましたら幸いです。

いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ぽちぽち」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。

ブログランキングならblogram

リュミエールブラン ネージュ

2017/08/14

出雲の国は安来、「清水寺」の隠れ家宿坊『松琴館』の精進料理が完璧過ぎる!

清水寺といえば京都音羽山清水寺ですよね~~~!ええ?違うとおっしゃる方も居られるようですね、西国三十三観音霊場、第二十五番・御嶽山播州清水寺ですよね!(私もご紹介いたしました。)しかしながら、本日ご紹介いたしますのはそのどちらでもありません。

用明天皇二年(587)尊隆上人によって開かれ、当時一滴の水も出なかった山陰の山奥の山で、一週間祈願したところ水が湧出し、しかもその水が雨期に濁ることなく、乾期にも枯れることなく、常に清い水を湛えたところから「清い水の出る寺」清水寺と命名されたと伝えられれる、島根県安来市に在る天台宗の寺、清水寺(きよみずでら)で山号は瑞光山といいます

中国観音霊場第28番札所、出雲観音霊場第27番札所、出雲國神仏霊場第11番札所、ご本尊には推古天皇が瑞夢に厄ばらいの霊験あらたかを感得されたと云われる十一面観音様をお祀りし、ご祈祷をする寺として、厄ばらいの観音様として祟められ、毎年厄年に当たる人たちを中心に信仰を集めています。

さて、勿論素晴らしい出雲の古刹「瑞光山『清水寺』」をご紹介する予定だったのですが、その前に素晴しいお宿と精進料理をご紹介したいのです。

P8120381.jpg(精進料理の始まりですがまだまだ出て来ますよ~。)

二年前に子供達と一緒に伯耆富士こと「大山」にチャレンジました。疲れた身体を癒すには、賑やかな町中のホテルではなく。静かなお寺の縮合が良いのではないかと考えて予約したのが、今日ご紹介するお宿『松琴館』でした。

其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいね(人´ω`*).☆.。
ブログランキングならblogram
👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。

CROOZ


【精進料理って何?】

P8120315.jpg
(精進料理って何でしょうね?笑清水寺で教えていただきましょう。)
P8120320.jpg(以前家族で来た時より看板も綺麗になっています。)
P8120326.jpg(結構階段が続きます。大山登山の後は裏道をバスで運んでいただきました。)
P8120333.jpg(お盆前なので門も飾り付けられています。)
P8120332.jpg(参拝する者を見極めるかのような不動明王が睨んでおられます。)

境内の参道沿いにある旅館『松琴館』で、寺坊伝統の肉、魚を一切使わないヘルシーな名物精進料理をご紹介しましょう。仏教の「不殺生」の思想から、肉や魚を食べることを禁ずる精進料理が生まれ、その原則を守り、古くから伝えられた調理法に現代の感覚を加え、会席料理と見紛うばかりの献立を提供するところに、この料理の特徴があります。当時の僧坊を思いながら、しばしこの芸術とも言うべき皿に舌鼓を打ってみてくださいね(写真だけで申し訳ございませんが)。

【実は前回は、大山登山で疲れていて写真が撮影できなかった?】



P8120344.jpg(やっと「松琴館」へお寺は閉門しておりますので、訪れるのは二軒の宿坊のお客だけです。)
P8120349.jpg(130年の歴史を誇る建物です。風情が有りますね~~~!)
P8120354.jpg
(と書いてありますが、予約した方が良いです、昨年は予約は取るとが出来ませんでした。)
P8120356.jpg(古い旅館ならではの心遣いが感じられますね。)
P8120361.jpg(大きな部屋に一人で食事静かな時間が流れます。窓からは清水寺の三重塔「重文」です。)

実は家族でお世話になった時には、大山登山の後で、とても疲れておりまして、写真に気が回らずお料理の写真を撮影出来なかったのです。今回この精進料理の写真を撮るためだけに、11日(山の日)に出雲に出かけ、12日の夕方の食事だけを予約してお願いし、「更にブログに乗せたいので、出来るだけ一緒に出していただけますか?」とご無理をお願いして撮影してきた苦労写真です(ブログ馬鹿ですが、それほど皆さまにご紹介する価値が有ると思ったのです)。
因みに此方のお宿、TV無し!スマホも通じません。俗世と隔離された空間が心を癒してくれます。まるで大正時代にタイムスリップしたようです。

松琴館(精進料理)
こちらのYahooトラベルの点数を見ていただければどれほどの物かお解りに成ると思います。今回私が頂いたのは3200円の清水コースです(HPで料理内容もご覧いただけますのでそちらも楽しんでください)。

安来・清水寺境内の宿、松琴館主人自慢精進料理を御覧頂けましたでしょうか?、130年もの歴史を持つ老舗の旅館。風情豊かな四季と、耳を澄ませば聞こえてくる「風の音」「虫の声」に包まれた環境で、6代目主人が「精進料理」に腕を揮う。その巧みな技術によって生み出される料理は芸術です!
これらがすべて魚肉類を一切使わない料理なんですよ、信じられますでしょうか?勿論全ての料理をお勧めいたしますが、その中でも手前の先付けの黒豆に似た食べ物「うれしの」は味噌に山わさびを紫蘇でくるんで漬け込んだもので、思わず笑いが出てしまう程のおいしさです。胡麻豆腐もトロトロで最高ですし、イカの刺身に見えるのは臭みの無い吉野葛で出来ています。ウナギのかば焼きに見える物は(姿、味もそのものです)山芋を焼いて作っているのですが、ノリがウナギの皮のようになっていてパリパリ感まで再現されています。

P8120370.jpg(料理編、名物うれしの)
P8120368.jpg(それぞれにこだわりが有りますね、もずくは山陰の細もずくOK!)
P8120367.jpg

(ゆず、生麩、白和え、トロトロ胡麻豆腐。最高!)
P8120400.jpg(最後にすべてをご披露します。お蕎麦、ウナギもどき、イカ刺もどき、これで3200円、至高のお料理です。お吸い物と御飯ももちろんついています。)

そしてこの日、他にも宿泊されているお客様もおられましたが、一組だけだったのか?大きな12畳の部屋に私一人での食事!さみしいようですが、窓から「清水寺」のライトアップされた三重塔が正面に見えて、至福の時を楽しんだのでした~贅沢すぎたかな?

「松琴館」は緑に囲まれた純和室の部屋がメインで古いためもあり、部屋にはバス・トイレも有りませんが、そんなことを考慮してもなお、満足のいく宿だと思います。また、予約しておけば朝から座禅体験も出来て、日本の精神文化を学ぶ、素晴らしい機会も出来ます。



私の写真以外にもHPに移動できますので、ご覧に成られまして、是非安来「清水寺」にお出掛けの際は「松琴館」にご宿泊されて至高の精進料理をご堪能ください。

 松琴館

交通アクセス  車米子から10㎞ 安来から4㎞ 交通標識あり 駐車場情報大型バス20台 普通車150台
ちなみに、カードは使えませんので現金をご用意ください(笑)

さて、最後に成りましたが、瑞光山清水寺(きよみずでら)は素晴しいお寺なので、近い機会にご紹介させていただきます。

いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ぽちぽち」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。

ブログランキングならblogram

リュミエールブラン ネージュ

2017/08/12

桃太郎の正体は誰だ!犬・猿・雉は?吉備『鬼ヶ城』を訪ねて!

先日市郎右衛門が岡山(吉備の国)へ取材旅行へ行ったのは皆さん周知の事実ですね。岡山といえば桃~~~!と思われていらっしゃると思いますが、何と桃生産高1位は山梨県です。それでは2位?残念ながら福島県です。なんと岡山県はベスト5にも入らず6位なのです。
それではなぜ桃のイメージが岡山県に定着しているのでしょう?


やはり「桃太郎伝説」ですか?(笑)実は桃太郎ゆかりの地とされる場所は全国にあります。その中でも岡山県は(吉備の国)江戸時代の地元土産品「吉備団子」と同音の黍団子、(一寸キツイこじ付けですけどね)、をつなげさせるなどして、全県を挙げての宣伝活動を行いました。そのおかげでゆかりの地として全国的に有名になりましたが、「吉備団子」と作中の「黍団子」との関係は証明されて居ません。

P7290229.jpg
(皆さんどうですか~~~!再現された西の門鬼の城のイメージ出ていますか?)


今回はそんな吉備の国で鬼ヶ島ならぬ「鬼ノ城(キノジョウ)」をご紹介します。鬼が出るか蛇が出るか?はたまた桃太郎の伝説はどうなんだよ~~~!

其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいね(人´ω`*).☆.。
ブログランキングならblogram
👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。

CROOZ


P7290239.jpg
(展望台から「鬼の城」全景を望む!西門(復元・右)角楼(左))
P7290250.jpg
(散策コースを歩いていくと、出た~て感じですね。)
P7290258.jpg
(西の門、直ぐに入りたいのを我慢して周りを探索してみます。)

【昔話桃太郎超簡単あらすじ】

むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。ある日、おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました(懐かしの定番ですね(#^.^#))。
おばあさんが川で洗濯していると、「どんぶらこっこどんぶらこ」と、川上から大きな桃が流れてきました。おばあさんはその桃を家に持ち帰りました。

桃を食べようと割ったところ、桃の中から元気な男の子が飛び出しました。子どもがいなかったおじいさん、おばあさん大変喜んで、桃から生まれた男の子に桃太郎と名付け、大事に育てました。

大きく成長した桃太郎は、鬼ヶ島へ鬼退治に行くことになりました。おばあさんが作ってくれたきび団子を腰にぶらさげ鬼ヶ島へと出発しましたが、道中、犬、猿、キジが順番に現れ、きび団子を欲しがります。桃太郎は、鬼ヶ島へ同行することを条件に、きび団子を分け与えます。

犬、猿、キジの3匹は桃太郎の家来となり船で鬼ヶ島へと向かいます。鬼ヶ島では鬼たちが酒盛りの真っ最中で、奇襲を仕掛けた桃太郎と3匹の家来は大勝利、鬼が悪行を重ねて集めた宝物を荷車に山積みにして村へと持ち帰りましたとさ。おわり!(簡単に過ぎるわの謗りも承知でお受けします、笑)

【桃太郎原作?】

さて、桃太郎伝説の原作とも言えるお話は、第7代孝霊天皇の第3皇子・彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、吉備津彦命)、稚武彦命(わかたけひこのみこと)の兄弟が、吉備国(岡山)の鬼・温羅(うら)を退治して吉備国を平定したことが語り継がれて、室町時代以降、江戸時代に曲亭馬琴の草双紙「童蒙話赤本事始」が初版本で五大昔噺の冒頭を飾り、その後、「桃太郎」、「桃太郎昔話」などが出版され、広く世に広まりました。
1887年(明治20年)に国定教科書にも採用されて皆の知るところとなって、1894年(明治27年)巖谷小波により「日本昔話」にまとめられました。

その様な訳で、岡山の吉備津彦神社で吉備津彦命が祀られて、岡山の桃太郎になり、また、岡山の沖と云うよりも高松の屋島の沖に鬼が島(女木島)があったりして、岡山の桃太郎が有名になりました。
桃太郎の話は岐阜県の木曽川の辺りを始め、全国にもあるようです。なお、桃の収穫量の話ですが、岡山県で桃の栽培が始まったのは明治時代以降で、昔話ではありませんよ(笑)。

【それでは私が訪れた、鬼城山(鬼ノ城)とは何なの?】

『鬼ノ城(きのじょう)』は、岡山県総社市の鬼城山(きのじょうさん)に築かれた、日本の古代山城(神籠石式山城)です。
城跡は、1986年(昭和61年)3月25日に指定された国指定史跡「鬼城山」に含まれています。

城郭構造:古代山城(神籠石式山城)、築城主(推定)大和朝廷と考えられます。
築城年:(推定)7世紀後半に作られて、荒廃城年も不明です。
遺構:城門、角楼、石塁、土塁、水門、敷石指定文化財国の史跡「鬼城山」に含まれています。
再建造物:城門、角楼。

当時の倭朝廷は、乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)は、中大兄皇子、中臣鎌足らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代のクーデターの後、大化の改新のを行った中大兄皇子(天智天皇)ですが、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗してしまいます。
大和朝廷は倭(日本)の防衛のために、対馬~畿内に至る要衝に様々な防御施設を築きました。鬼ノ城は史書に記載が無い上に、築城年も不明ですが、発掘調査では7世紀後半に築かれたとされている事から、唐・新羅連合軍に対する防衛拠点の一つではないかと考えられます。

鬼ノ城は、吉備高原の南端に位置し、標高397メートルの鬼城山の山頂部に所在してあます。すり鉢を伏せた形の山容の7~9合目の外周を、石塁・土塁による城壁が鉢巻状に2.8キロメートルに渡って巡っています。城壁で囲まれた城内の面積は、約30ヘクタール、城壁は土塁が主体で、城門4か所・角楼1か所・水門6か所などで構成されます。そして、城壁を保護するための敷石の発見は、国内初のことでした。城内では、礎石建物跡7棟・掘立柱建物跡1棟・溜井・烽火場・鍛冶遺構などが確認されました。西門と角楼や土塁は復元され、その他、城門・水門・礎石建物跡・展望所・見学路などの整備とともに、「鬼城山ビジターセンター」と駐車場を整え、「史跡・自然公園」として一般公開されています。

P7290232.jpg
(角楼跡です。)
P7290302.jpg
(中国、朝鮮半島の城を再現した造りに成っているようです。)
P7290299.jpg
(角楼から見た西の門です。)
P7290282.jpg
(城の内側に張り巡らされている敷石、かなりの幅が有ります。)
P7290276.jpg(柵が出来る前の敷石に成ります。)


城壁は、幅7メートル×高さ6~7メートルの版築土塁が全体の8割強を占めています。しかし、城壁最下の内外に1.5メートル幅の敷石が敷設されており、石城の趣が強いようです。そして、防御正面の2か所の張り出しは、石垣で築かれています。流水による城壁の崩壊を防止するための水門が、防御正面に集中しています。城壁下部の2~3メートルに石垣を築いて水口を設け、通水溝の上部を土塁で固めた水門が4か所あります。他の2か所は、石垣の間を自然通水させる浸透式の水門です。また、水門の城内側の2か所の谷筋で、土手状遺構が発掘されました。土石流や流水から城壁を守るためと、水を確保するための構築物であるとかんがえられます。そして、第10水門の城壁下部で、マス状の石囲の浅い貯水池が発掘され、多くの木製品が出土しています。
P7290265.jpg
(正面側に積み上げられた城壁の石垣です。)
P7290267.jpg
(排水施設も確認されています。七世紀の時代にと考えると見事ですね。)

城門は、防御正面に東門・南門・西門、防御背面に北門の4ヵ所が開きます。主の進入路と思われる場所に西門があり、西門の北側約60メートルの隅かどに角楼がありました。各々の城門は、門礎を添わせた掘立柱で、門道は石敷きである。西門は平門構造で、他の門は懸門構造になっています。

城内の中心部には、食糧貯蔵の高床倉庫と思われる礎石総柱建物跡5棟、管理棟と思われる礎石側柱建物跡2棟が発掘されました。また、12基の鍛冶炉の発掘は、鉄器製作の鍛冶工房とされ、羽口・鉄滓・釘・槍鉋・砥石などが出土しています。他の出土遺物は、須恵器の円面硯・甕・壺・食器類に加え、土師器の製塩土器・椀・皿などです

鬼ノ城は、山城に必要な設備がほぼ備わっています。未完成の山城が多い中で稀な完成した古代山城といえますね。

瀬戸内海は、いにしえから海外交流交易の主海路でした。東端の難波津(港)の西方、約180キロメートルに吉備津は位置すします。吉備津港の西方、約240キロメートルに那大津港の博多湾があります。吉備津は、東西航路のほぼ中間点に位置するのです。鬼ノ城の山麓一帯は、勢威を誇った古代吉備の中心部であり、鬼ノ城は吉備津から約11キロメートルの距離感です。

鬼ノ城は、いにしえから吉備津彦命による温羅退治の、伝承地として知られていました。苔むした石垣が散在する状況から、城跡らしいと判断され、「キのシロ」と呼んでいました。「キ」は、百済の古語では城を意味し、後に「鬼」の文字をあてたにすぎません。「鬼ノ城」は「シロ」を表す、百済と倭との言葉を重ねた名称です(偶然かも知れませんが)。

鬼城山の山頂では、眼下に総社平野・岡山平野西部・岡山市街が一望できます。児島半島の前方は瀬戸内海、海の向こうの陸は香川県に成ります。坂出市の「讃岐城山城」と高松市の「屋嶋城」が視野に入り瀬戸内海の往来を一望出来るわけですね。

【関連の歴史について少しだけ】

『日本書紀』に記載された、白村江の戦いと、防御施設の設置記事は下記の通りです。

663年(天智天皇2年)の白村江の戦いで、倭(日本)百済復興軍は、朝鮮半島で唐・新羅連合軍に大敗します。664年には対馬島・壱岐島・筑紫国などに防人と烽(とぶひ)を配備し、筑紫国に水城を築きます。665年には長門国に城を築き、筑紫国に大野城と基肄城を築く、667年には大和国に高安城・讃岐国に屋嶋城・対馬国に金田城を築城。この年、中大兄皇子は、大津に遷都し、翌年の正月に天智天皇に即位しました。

【とどのつまり】

P7290312.jpg(西門復元前の遺構です。ファンには再現されたものよりもマニアックで良いかな?)
P7290275.jpg
(これを攻めあがるのは難しいです。城を作ることが外的に対するものというより、倭の結束のためとも思われました。)
P7290310.jpg(素晴しいい景色、靄が無ければ、瀬戸内海まで見えるはずですが…)

鬼ノ城は、鬼が住んでいたわけでも無ければ、吉備国の鬼・温羅の城でも無かった。むしろ、桃太郎こと中大兄皇子が唐・新羅連合軍という「鬼?」から倭を守るための要塞だった訳ですね!其では桃太郎は天武天皇(中大兄皇子)として、猿は中臣鎌足(藤原鎌足)と成りますか?犬は鎌足の次男、藤原不比等、文献『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などの史料では天智天皇の御落胤と書かれていますし、諡号は文忠公(犬公にぴったりです。)、最後の雉ですが、中大兄皇子に上手く利用された?朝廷に滞在し、百済復興を図った百済王子・扶余豊璋でしょうか?

【トドのつまりうんちく~~~!】

とどは魚のボラの名前の事です。とどは、いな、ぼら、とどと名前を変える魚(出世魚)なのですが、鰤(ぶり)や鱸(鱸)など他の出世魚に比べると味が相当落ちる?魚です、(ぼらは、泥臭いような独特のにおいがあり、一度焼いてから煮るなどの工夫をしないと食べにくい魚です。住処によって違うと思いますが、汽水域に生息すことが多いのでなのかもしれません。)。

このことから、「出世したところで、たいしたものにならない。行き着いたところで、たかが知れている。」等の意味で、「とどのつまり」という語が使われています。更に、「良くない計画を進めていて、結局行き詰った」というような場合にも使われますね。

さて、鬼ノ城は、2006年4月6日に日本城郭協会が選定した、日本100名城(69番)に選定されています。



最後に、伝説は謎が多ければ面白いですよね!是非「鬼ノ城」出掛けてみて下さい。トレッキングとしても中々楽しいですよ(笑)。
山道は整備されて居ますが、靴は最低スニーカーをお勧めします。
更に鬼ヶ城の登り口には、総社市砂川公園が有って、キャンプやBBQに川遊びも出来るので、家族で是非お出掛け下さい。

お問い合わせは砂川公園管理事務所(TEL0866-92-1118)
キャンプ場使用料、宿泊利用1000 円/区画 (テント設営)日帰り利用500円/区画 (バーベキュー等)

いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ぽちぽち」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。

ブログランキングならblogram

リュミエールブラン ネージュ