2017/06/09

「戦いに生き・信仰に死す」殉教者『高山右近』福者に認定②!

今回は「戦いに生き・信仰に死す」と題して「高山右近」を御紹介します。
今日は、前回とは逆に「戦国武将」としての高山右近を取り上げます。

P6040276.jpg
(「太平記英雄伝」より戦国時代には用いない大鎧に薙刀で床机に座る右近!)


前回とは全く逆の、凛々しい?錦絵から御紹介です。
やはり戦国武将なんですよね~(^^;
余りのイメージの違いに驚かれたかもしれませんf(^_^;

其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいねm(__)m。
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【高山右近の戦!高槻城主編】

P6040181.jpg(こちらの裏側が本丸辺りに成ります。)
P6040177.jpg(前回も申しましたが。高山右近の時代は城も整備されていません。)

高山氏は摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人領主でした。
出自は秩父氏の一派の高山党の庶流とも甲賀五十三家の一つともいわれています。

父の友照が当主のころには、当時畿内で大きな勢力を振るった三好長慶に仕え、三好氏の重臣・松永久秀にしたがって大和国宇陀郡の沢城(現在の奈良県宇陀市榛原)を居城としていました。

そうした中、右近は天文22年(1553年)に友照の嫡男として生まれます。
永禄6年(1563年)に10歳(数え12歳?)でキリスト教の洗礼を受けたようです。
それはが友照が奈良で琵琶法師だったイエズス会修道士・ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためでした。

永禄7年(1564年)、三好長慶が没すると三好氏は内紛などから急速に衰退し、高山氏の本来の所領がある摂津国においても豪族の池田氏・伊丹氏などが独自の力を強めていきました。

永禄11年(1568年)に織田信長の強力な軍事力の庇護の下、足利義昭が15代将軍となると状況は一変します。
義昭は摂津国の土着領主の一つである入江氏を滅ぼすと、直臣である和田惟政を高槻城に置き、彼と伊丹親興・池田勝正を加えた3人を摂津守護に任命しました(摂津三守護)。
高山父子はこの和田惟政に仕えることとなります。

元亀2年(1571年)、和田惟政が池田氏の被官・荒木村重と中川清秀の軍に敗れて討死し(白井河原の戦い)、まもなくその村重が池田氏を乗っとるかたちに成ります。
村重は信長に接近して「摂津国の切り取り勝手(全域の領有権確保)」の承諾を得ると、三好氏に再び接近した伊丹氏を滅ぼし
、摂津国は石山本願寺が領有する石山周辺(現在の大阪市域)を除き、村重の領有となりました。

和田惟政の死後高槻城はその子・惟長が城主となりましたが、17歳と若年だったため、叔父の和田惟増が彼を補佐することに成ります。
しかし惟長は何を思ったのか、この叔父を殺害してしまいます。

これにより高山家が和田惟長の主だった相談役とりましたが、これを良く思わない和田家臣たちは、惟長に高山親子の暗殺を進言します。
高山家には「惟長は好機があり次第、高山親子を殺すことに決めた」という知らせが届いていましたが、友照はこの事を荒木村重に相談、村重は「もしそうであるなら殺される前に殺すべき、自分は兵をもって援助する。」と言い、惟長の所領から2万石を与えるという書状を与えます。

元亀4年(1573年)3月、惟長は反高山派の家臣と共に、高山父子を話し合いと偽って呼び出しに成功します。
高山父子は仲間から呼び出しが罠だと聞かされていましたが、14~15名の家臣を連れて高槻城へ赴き、待ち構えていた惟長らと斬り合いになります。

夜だった上に乱闘で部屋のロウソクが消えてしまい真っ暗な中、右近は火が消える直前に惟長が床の間の上にいるのを確認、火が消えるとすぐさま床の間に突っ込んで、腕に傷を受けつつも惟長に二太刀の致命傷を負わせました。
だが、騒ぎを聞いて駆けつけた高山の家臣達が加勢すると、そのうちの1人が誤って右近に斬りつけ、右近は首を半分ほども切断するという大怪我を負ってしまいます(半分は言い過ぎ違いますか?)。
およそ助かりそうにない傷でしたが、右近は奇跡的に回復し、一層キリスト教へ傾倒するようになりました。
一方、惟長は輿に乗せられて家族や家臣たちと和田家の生国・近江国甲賀郡へ逃れましたが、同地で死亡します。

この事件の後、高山父子は荒木村重の支配下に入る事になります。
村重は既に信長から摂津一円の支配権を得ていたため、この事件は問題にされることもなく、高山父子は晴れて高槻城主となることができました。
2人はまもなく高槻城の修築工事を行い、石垣や塗り壁など当時畿内で流行しつつあった様式を取り入れました。

P6040265.jpg(西国街道の位置と比べると重要な要害なのが解りますね!側面を突かれると終わりです。)
P6040258.jpg(こちらはかなり新しい江戸中期の高槻城、守りも固くできていますね!)
P6040330.jpg(だそうです(;^_^A、枡形門とは、コの字型に入った敵を三方から攻撃できる防御門です。上の模型でも確認できます。)
P6040331.jpg(桜の根本の石がそうですが、右近は築城の技術にも優れていたようですね。)

【高槻城主変遷】

P6040176.jpg
(全国の城が破却されずに残っていたらどんなに凄いかといつも思います。)

室町時代は入江氏の居城でしたが織田信長に滅ぼされ、その後和田惟政、次いで高山右近が城主と成ります。
天正元年(1573年)からは本格的な城塞が築かれました。
豊臣氏滅亡後は内藤信正が城主となり、以降高槻藩の藩庁として用いられ、内藤氏の後は土岐氏、松平氏、岡部氏、永井氏とたびたび城主が入れ替わりますが、長井氏は十三代を数え廃藩置県を迎えます。

【天下人の影響による畿内動乱】

P6040196.jpg
(もう少し戦国武将としても評価されても良いのではないでしょうか?)

天正6年(1578年)、右近が与力として従っていた荒木村重が主君・織田信長に反旗を翻します(三木の別所氏に呼応する形です)。
村重の謀反を知った右近はこれを翻意させようと考え、妹や息子を有岡城(伊丹市錦絵城跡が残ります)に人質に出して誠意を示しながら謀反を阻止しようとしましたが重村の考えは変わりませんでした。
右近は村重と信長の間で苦悩し、尊敬していたイエズス会員・オルガンティノ神父に助言を求めました。
神父は「信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよ」とアドバイスしたようです。

高槻城は要衝の地(西国街道のそばです)であったため、信長はここをまず落とそうとします。
右近が金や地位では動かないと判断した信長は、右近が降らなければ畿内の宣教師とキリシタンを皆殺しにして、教会を壊滅させると脅迫までします。

城内は徹底抗戦を訴える父・友照らと開城を求める派で真っ二つに別れました。
懊悩した右近は信長に領地を返上することを決め、紙衣一枚で城を出て、信長の前に出頭しました(豊臣秀吉の前に出た伊達政宗ですね)。
村重は城に残された右近の家族や家臣、人質を殺すことはしませんでしたが、結果的に右近の離脱は荒木勢の敗北の大きな要因となりました(後に村重の重臣であった中川清秀も織田軍に寝返っています)。
この功績を認めた信長によって、右近は再び高槻城主としての地位を安堵された上に、2万石から4万石に加増されました。

天正10年(1582年)6月に「本能寺の変」で信長が没すると、明智光秀高山右近中川清秀の協力を期待していたようですが、右近は高槻に戻ると羽柴秀吉の幕下にかけつけました。
まもなく起こった「山崎の戦い」では先鋒を務め、清秀や池田恒興と共に奮戦、光秀を敗走させ、清洲会議ではその功を認められて加増されています。
また、本能寺の変後の動乱で安土城が焼けると安土のセミナリヨ(イエズス会司祭・修道士育成のための初等教育機関、小神学校のこと)を高槻に移転しています。

「賤ヶ岳の戦い」では岩崎山を守るものの、柴田勝家の甥・佐久間盛政の猛攻にあって清秀は討死し、右近はやっとのことで羽柴秀長の陣まで撤退して一命を保ちました。
この件では助かったことで、勝家への内通を疑われ、天正11年5月16日(1583年7月5日)には一時、居城・高槻城を攻められています(多聞院日記)。
その後も「小牧・長久手の戦い」「四国征伐」などにも参戦しています。

秀吉からも信任のあつかった右近は、天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城としました。
しかし、まもなくバテレン追放令が秀吉によって施行されてしまいます。
キリシタン大名には苦しい状況となるが、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、世間を驚かせます。
その後しばらくは小西行長に庇護されて小豆島や肥後国などに隠れ住むが、天正16年(1588年)に前田利家に招かれて加賀国金沢に赴き、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らしました。

天正18年(1590年)の「小田原征伐」にも建前上は追放処分の身のままでありながら前田軍に属して従軍しています。

金沢城修築の際には、右近の先進的な畿内の築城法の知識が大きく役に立ったともいわれます。
また利家の嫡男・前田利長にも引き続き庇護を受け、政治・軍事など諸事にわたって相談役になったと思われます。

慶長14年(1609年)には、利長の隠居城・富山城の炎上により、越中国射水郡関野(現富山県高岡市)に築かれた新城(高岡城)の縄張を担当したともいわれます。

慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康による「キリシタン国外追放令」を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去しました。
長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着しました。
しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに熱病にかかります。
翌年の1月6日(1615年2月3日)に息を引き取ります(享年63)。

P6040283.jpg
(高槻カトリック教会の式場ですか?十字架の光が取り入れられていますね。)
P6040287.jpg
(その一番下にやはり高山右近のレリーフです。)


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歴史って本当に面白いですよね~!

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