2017/06/07

「戦いに生き・信仰に死す」殉教者『高山右近』福者に認定①!

今回は「戦いに生き・信仰に死す」と題して「(戦国武将)高山右近」を御紹介します。
今日は殉教者としての高山右近を取り上げます。

2017年2月7日(火)、大阪城ホール(最大16,000人収容)で、ある人物をたたえるためのカトリック教会の世界的式典が有りました。
そのある人物とは、400年前の戦国大名「高山右近」です。
キリシタン大名・高山右近が、キリスト教カトリックの「福者(ふくしゃ)」に認められたことを宣言する「列福(れっぷく)式」が開催されたのです。

P6040278.jpg
(福者に列せられた、ユスト高山右近)

不遇の死をとげて400年、21世紀になりその生き方に光があたり始めました。
会場には1万人近くの人が詰めかけ、コンサート前の様な熱気に包まれていました。
しなしながら、彼等が待っているのはローマ法王の使者、教皇代理のアンジェロ・アマート教皇庁列聖省長官です。
この日、戦国時代を生きた、大阪のキリシタン大名『高山右近』が「福者(ふくしゃ)」として世界に認められる存在となりました。

其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいねm(__)m。
ブログランキングならblogram
👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。
バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!現在有難いことに、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリック頂きますと元のブログに戻れます(^人^)。

【高山右近ってどんな人?】

P6040289.jpg
(高槻カトリック教会に在る高山右近像です)
P6040295.jpg
(綺麗な教会ですね~これまで古い寺社ばかりUPしていたので違和感がありますか?)

高山右近(たかやま うこん)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名です。
代表的なキリシタン大名として知られており、洗礼名は、ジュスト(ユスト)、父は摂津国人・高山友照、母は洗礼名マリアです。
12歳で洗礼を受け、父を跡を継ぎ「高槻」の城主になると熱心に布教活動を行います。
洗礼名はポルトガル語で「正義の人、義の人」を意味するジュスト(ユスト)、 号は南坊、千利休の七高弟(利休七哲)の一人としても知られています。
同じく摂津国人の中川清秀は従兄弟とされています。

高槻市には、いまもそのキリスト教の痕跡が残っています。
高槻城の跡から日本で初めてキリシタンの墓が27基見つかりました。
木の棺には十字架の印が彫られ、墓から見つかった遺骨の手元には、「ロザリオ」という祈るときに使う数珠のようなものが置かれていました。
棺の十字架とセットで発掘されたのは高槻だけだそうです。



P6040334.jpg
(こちらは現在は商工会議所に成っている。高山右近高槻天主教会跡地です)

 全領民2万5千人のうち1万8千人が信者になったとも言われていますが、豊臣秀吉が「バテレン追放令」(1587年)を出すとその人生は一変します。

しかし、右近の領地で遺志を継ぎひそかにキリスト教を信仰した人たちがいました。
茨木市の山奥の集落、千提寺地区の人々です。
その中でも、ある家では先祖代々、ひそかにキリスト教の品々をずっと守ってきました。
その品は「あけずの櫃」と呼ばれる木の箱に収められ蔵の中に隠されていました。

末裔の東満理亜さんはこのように言われています。
世継ぎだけに伝承され、『あけずの櫃』といわれてまして、開けてはいけない事に成っていました。
「あけずの櫃」の中には、教科書でお馴染みの「フランシスコ・ザビエル」の肖像画も入っていました。
明治少し前まで、盛んに日曜日ごとに集まって、洗礼式とか感謝祭もしていたそうです。

P6040282.jpg(有名!教科書で見たことない人はいないでしょうが、大阪茨木で発見?保存されていたフランシスコザビエル像です)

ひそかに息づいてきた右近の姿、時を経て世界中の脚光を浴びることになりました。
ローマ法王庁が信仰に生きて死んだ「殉教者」として「福者」に認定したのです。
「福者」とはカトリックで最高の称号である「聖人」につぐ立場、400年の時を経て、その生き方が公に認められたのです。
地位や富を捨て信念に生きた高山右近の姿が、400年の時を経て再び蘇ろうとしています。

【高山右近の「列福」の儀式はどんなものなのでしょう?】

大阪城ホールで開催された「高山右近」が、キリスト教カトリックの「福者(ふくしゃ)」に認められたことを宣言する「列福(れっぷく)式」は、フランシスコ教皇の代理としてヴァチカン市国の教皇庁から派遣されたアンジェロ・アマート枢機卿が進行役の主司式を務めました。
「福者」は、「聖人」に次ぐ崇敬の対象で、高山右近は昨年1月、フランシスコ教皇から承認されていました。
列福式では、聖遺物として右近のチョッキの切れ端が壇上に置かれ、岡田武夫・東京大司教区大司教が福者の列に右近を加えるよう請願。
教皇代理のアンジェロ・アマート教皇庁列聖省長官がフランシスコ教皇の書簡を読み上げ、イタリア語で「福者の列に加えます」と告げ、その後、長崎の信者で画家の三牧(みまき)樺(か)ず子さんが今回の列福式のために描いた右近の肖像画が除幕されました。
カトリック教会は、今後、高山右近が亡くなった2月3日を記念日として毎年祝うことになります。

式典の参加者数などは以下の通りです。
総参加者数 約10,000人
招待者 約200人
枢機卿 アンジェロ・アマート枢機卿(教皇代理、列聖省長官)、
     ルイス・アントニオ・タグレ枢機卿(マニラ大司教)
司 教 約30人
司 祭 約300人
聖歌隊 約1,000人

【信長の進出と荒木村重の謀反】

P6040205.jpg
(茨木城跡に建つ高山右近の像です。)
P6040190.jpg(左下にこんな文言が書かれていました。)
P6040177.jpg(先ほどの像の道を挟んで裏手に成りますが、石碑があります。右近の時代は此処までは城では無かったかも?)

高山家は主君を何度も変えながら戦国の世を渡っています。
松永久秀→和田惟政→荒木村重→織田信長→豊臣秀吉→前田利家→前田利長 以上が右近が使えた主君ですね。

天正6年(1578年)、右近が与力として従っていた荒木村重が主君・織田信長に反旗を翻します。
村重の謀反を知った右近はこれを翻意させようと考え、妹や息子を有岡城(伊丹市錦絵城跡が残ります)に人質に出して誠意を示しながら謀反を阻止しようとしましたが失敗に終わります。
右近は村重と信長の間にあって悩み、尊敬していたイエズス会員・オルガンティノ神父に助言を求めました。
神父は「信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよ」とアドバイスした様です。

高槻城は要衝の地であったため、信長はここをまず落とそうとします。
右近が金や地位では動かないと判断した信長は、右近が降らなければ畿内の宣教師とキリシタンを皆殺しにして、教会を壊滅させると脅迫までします。

城内は徹底抗戦を訴える父・友照らと開城を求める派で真っ二つに別れました。
懊悩した右近は信長に領地を返上することを決め、紙衣一枚で城を出て、信長の前に出頭しました(秀吉の前に出た政宗ですね)。
村重は城に残された右近の家族や家臣、人質を殺すことはしなかったが、結果的に右近の離脱は荒木勢の敗北の大きな要因となりました(後に村重の重臣であった中川清秀も織田軍に寝返った)。
この功績を認めた信長によって、右近は再び高槻城主としての地位を安堵された上に、2万石から4万石に加増されます。

【右近キリシタン大名として生きる】

天正10年(1582年)6月に本能寺の変で信長が没すると、明智光秀高山右近中川清秀の協力を期待していたようですが、右近は高槻に戻ると羽柴秀吉の幕下にかけつけました。
まもなく起こった「山崎の戦い」では先鋒を務め、清秀や池田恒興と共に奮戦、光秀を敗走させ、清洲会議でその功を認められて加増されています。
また、本能寺の変後の動乱で安土城が焼けると安土のセミナリヨを高槻に移転しています。
「賤ヶ岳の戦い」では岩崎山を守るものの、柴田勝家の甥・佐久間盛政の猛攻にあって清秀は討死し、右近はやっとのことで羽柴秀長の陣まで撤退して一命を保ちました。
この件では助かったことで、勝家への内通を疑われ、天正11年5月16日(1583年7月5日)には一時、居城・高槻城を攻められています(多聞院日記)。
その後も小牧・長久手の戦いや四国征伐などにも参戦しています。

右近は人徳の人として知られ、多くの大名が彼の影響を受けてキリシタンとなりました。
たとえば牧村利貞・蒲生氏郷・黒田孝高などです。
細川忠興・前田利家は洗礼を受けませんでしたが、右近に影響を受けてキリシタンに対して好意的でした。

友照の政策を継いだ右近は、領内の神社仏閣を破壊し神官や僧侶に迫害を加えたため、畿内に存在するにもかかわらず高槻周辺の古い神社仏閣の建物はほとんど残らず、古い仏像の数も少ないという異常な事態に陥要ります。
領内の多くの寺社の記録には「高山右近の軍勢により破壊され、一時衰退した」などの記述がある。
反面、『フロイス日本史』などのキリスト教徒側の記述では、あくまで右近は住民や家臣へのキリスト教入信の強制はしなかったが(実際に寺社への所領安堵状も受洗後に出している)、その影響力が絶大であったために、領内の住民のほとんどがキリスト教徒となったと記載され、そのため廃寺が増えたので、寺を打ち壊して教会建設の材料としたと記されている。

【右近信仰に死す】

P6040188.jpg
(本丸天守跡を見るような位置です。)
P6040185.jpg(説明版、いつも私の解説よりも説明版がわかりやすいと思ってしまいます(;^_^A)

秀吉からも信任のあつかった右近は、天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城としました。
しかし、まもなく「バテレン追放令(1587年)」秀吉によって施行されます。
キリシタン大名には苦しい状況となりますが、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、世間を驚かせました。
その後しばらくは小西行長に庇護されて淡路島、小豆島や肥後国などに隠れ住見ますが、天正16年(1588年)に前田利家に招かれて加賀国金沢に赴き、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らします。

徳川家康によるキリシタン国外追放令「キリシタン禁教令(1614年)」を受けて、人々の引きとめる中をお世話になっていた前田家(加賀)を退去しました。
キリスト教の信仰に生きるため、すでに豊臣秀吉によるバテレン(宣教師)追放令あたりで大名の身分と領地を捨てていました。
ついにフィリピン・マニラへと追放、長崎から家族と共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着、イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペインの総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けました。
しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年の1月6日(1615年2月3日)に殉教しました。
享年63歳、マニラ到着からわずか40日目のことでした。
その後、日本は厳しいキリスト教弾圧の時代に入ります。

葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげてイントラムロスの中にあった聖アンナ教会にて、10日間という長期間で盛大に行われた。右近の亡骸は、イエズス会コレジオのサンタ・アンナ聖堂の近くに埋葬されました。
1634年には、右近の遺骨はサン・ホセにあったコレジオの聖堂に移され、石棺の上には右近の画像が掲げられます。
1767年、マニラのイエズス会が閉鎖され、土地と建物はマニラ大司教区の所有となります。
その後、右近の遺骨と画像は行方不明となりますが、右近の遺骨を探す活動は今も続けられています。
右近の死後家族は日本への帰国を許され、現在、石川県羽咋郡志賀町代田、福井県福井市、大分県大分市に直系子孫の3つの「高山家」がある様です。

【カトリックの福者と聖人】

私は日本人で、神社とお寺が好きなうえに、クリスマスにはケーキを食べて、近頃USJのハロウィンに興味深々な純粋な?日本人なので、福者と聖人の違いが判りませんが、人物例を出すことでご理解いただけましたら幸いです。

カトリック教会のHPを参考にしますと殉教者であること、時がたち、法皇に認められると福者となります。
更に時がたち、更に法皇に認められた方が聖人になるようです(奇跡が起こることも重要な要因かも知れません?)。
現在日本人の聖人は20名です(たぶん(;^_^A)。

1597年2月5日、長崎・西坂において十字架刑に処せられ、最初の殉教者となった26人の司祭、修道士、信徒は、1627年に教皇ウルバノ8世により福者に、1862年、教皇ピオ9世によって聖人に列せられました。
この「日本26聖人」のうち、5人はスペイン人、1人はポルトガル人で、残りの20人が日本人です。
日本と関係が深いと言えば聖フランシスコザビエル聖人に列せられています。

時代が近い所ではマザーテレサ(聖人)列聖に先立ってマザー・テレサが福者として列福されたのは2003年10月19日、重い腹部腫瘍を患い治癒の望みのない34歳のインド人女性がマザー・テレサの設立した《死を待つ人々の家》を訪問、シスターたちと一緒に祈った翌日に腫瘍が無くなったことが奇跡と認められ、時の教皇ヨハネ・パウロ2世が福者として認定しました。
列福から13年、脳腫瘍で危篤に陥ったブラジル人男性がマザー・テレサの執り成しで回復したことが2つ目の奇跡と認められ、現教皇フランシスコ猊下が聖人として認定する運びになったそうです。

福者(ふくしゃ Beatus)は、カトリック教会において、死後その徳と聖性を認められた信者に与えられる称号です。
この称号を受けることを「列福」といいます。
その後、さらに列聖調査がおこなわれて聖人に列せられることもあります。

日本の福者は、ペトロ岐部と187殉教者、2008年11月24日、長崎市で「福者」に列せられました。
17世紀前半に全国各地でいのちを絶たれた188人の殉教者です。

そして、今回取り上げたユスト高山右近ですね。

いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ぽちぽち」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。

ブログランキングならblogram