2017/06/29

「豊鍬入姫命」「卑弥呼」「台与」?誰が眠るんだ~『ホケノ山古墳』

纒向型前方後円墳の最後のひとつ(箸墓古墳は別格扱いしました)ホケノ山古墳を御紹介します。

これまで御紹介した纒向形前方後円墳と少し位地が違っていて、箸墓古墳の後円部の後ろ側に造られています。
何かの関係が有るのか?疑ってしまいますよね(笑)

p15698755.jpg(箸墓古墳ホケノ山古墳!「桜井市埋蔵文化センター」より)

これで帆立型といわれる「纒向古墳群」は全てご紹介しました。
次回は「卑弥呼」が眠る?箸墓古墳ついに登場か~(笑)


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リュミエールブラン ネージュ



そうそう先日、恒例の友達ブロガーの飲み会「馬肉会」が今週の月曜日(26日)に行われました。
今回は美魔女ブロガー(魔女じゃなくて普通に綺麗でとても可愛い女性でしたが)の「みーな」さんが参加してくださって盛り上がりました~。
彼女のブログみーなのキラメキ日和 ~私のキレイになる道のりと副収入チャレンジの記録~ を共有させていただく事に成りましたのでこちらもよろしくお願します。当然ですが、女性には超おすすめのブログです(笑)。


【ホケノ山古墳ってどんな古墳?】


P5190154.jpg(一寸間延びしましたホタテ山古墳じゃダメなのか?)

所属:纒向古墳群
所在地:奈良県桜井市大字箸中字ホケノ山
墳形:纒向型前方後円墳(葺石あり)、円墳に短い前方部を東南方向に付けている
規模:全長約80m、後円部径約55m(3段築成)、前方部長約25m、前方部高さ約3.5m、後円部高さ約8.5m、周濠幅約10.5~17m(西側のほうが広い)
築造年代:3世紀中頃
埋葬施設:後円部、前方部被葬者不明
出土品:画文帯神獣鏡、鏡片、鉄製刀剣類、銅鏃、鉄製農工具等が出土
指定文化財:国指定(纒向古墳群)

ホケノ山古墳(ほけのやまこふん)は、奈良県桜井市大字箸中字ホケノ山に所在する古墳時代前期初頭の纒向型といわれるホタテ貝型の前方後円墳です。

三輪山の西山麓、箸墓古墳の東側に位置し、葺石をともないます。

P5190158.jpg
(葺石が再現されています。)
【ホケノ山古墳石棺データ】

1999年9月から奈良県立橿原考古学研究所と桜井市教育委員会によって発掘調査が実施されました。

石棺(橿考研附属博物館展示)
所在地:三輪山の西山麓、箸墓古墳の東側の丘陵。
被葬者:不明(大神神社豊鍬入姫命の墓とされています)。
築造時期:副葬品や埋葬施設などから箸墓古墳に代表される定型化した出現期大型前方後円墳よりあまり遡らない時期の前方後円形墳墓と考えられ、築造は中国史書に記された邪馬台国の時代にちょうど重なると推測されていて、前方後円形をした弥生墳丘墓であるとする見方と、古墳時代出現期のものであるとする見方に別れています。

墳頂部中央から「石囲い木槨」が出土しています。
大きな土壙内に内側の長さ約7メートル、幅約2.7メートル、高さ推定1.5メートル(現在約1.1メートル)の石室状の「石囲い」施設で、その内部にコウヤマキ製の約5メートルの刳抜式(くりぬきしき)木棺(割竹形木棺もしくは舟形木棺を納めた大規模な木槨が出土しました。天井は木材を渡し、その上に地元の川原石を積んでいます。棺内は水銀朱で覆われていたと思われます。くびれ部に簡単な埋葬施設1基がある他、前方部裾葺石を一部除去して木棺を埋葬しています。

P5190164.jpg
(前方部裾葺石を一部除去して木棺を埋葬しています)
P5190167.jpg
(大きな壺は何のための物なのでしょう?三段築成分かります?)
P5190163.jpg
(説明通りの埋葬施設、晴れの日の外での撮影は自分の影が気に成って難しいです。)

更に上記2つとは別に、主体部西側に横穴式石室があります。すでにあった墳丘を利用して6世紀末頃に営まれたものと考えられ、石室全長14メートル以上、玄室に組合式家形石棺が存在します。

【豊鍬入姫命ってどんな人?】

丁度この時代の女性は誰もが、「卑弥呼」もしくは「台与」の可能性が有るのでお話は慎重になってしまいますね。
「豊鍬入姫命」第10代崇神天皇の皇女で、天照大神の宮外奉斎の伝承で知られる巫女的な女性です。
『日本書紀』『古事記』によれば、第10代崇神天皇と、紀国造の荒河戸畔(あらかわとべ、荒河刀弁)の娘の遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくわしひめ、遠津年魚目目微比売)との間に生まれた皇女とされています。

同母兄に豊城入彦命(豊木入日子命)がいますね。豊城入彦命は『日本書紀』によると、崇神天皇48年に天皇は豊城命(豊城入彦命)と活目尊(いくめのみこと、後の垂仁天皇)に勅して、共に慈愛のある子でありどちらを後継者とするか決めがたいため、それぞれの見る夢で判断すると伝えます。豊城命は「御諸山(みもろやま:三輪山)に登り、東に向かって槍(ほこ)や刀を振り回す夢を見た」と答え、活目尊は「御諸山に登り、四方に縄を張って雀を追い払う夢を見た」と答えました。
その結果、弟の活目尊は領土の確保と農耕の振興を考えているとして位(大王・天皇)を継がせることとし、豊城命は東に向かい武器を振るったので東国を治めさせるために派遣されたといわれています。

さて当人の「豊鍬入姫命」ですが、『日本書紀』崇神天皇6年条によれば、百姓の流離や背叛など国内情勢が不安になった際、崇神天皇はその原因が天照大神(のちの伊勢神宮祭神)倭大国魂神(のちの大和神社祭神)の二神を居所に祀ったことにあると考えます。
そこで天照大神は豊鍬入姫命につけて倭の笠縫邑(かさぬいのむら:比定地未詳)に祀らせ、よって磯堅城の神籬を立てました。一方、倭大国魂神は渟名城入姫命につけて祀らせたが失敗しています。

同書垂仁天皇25年3月10日条によると、天照大神は豊鍬入姫命から離され、倭姫命(垂仁天皇皇女)に託された。その後、倭姫命は大神を奉斎しながら諸地方を遍歴し、伊勢に行き着くこととなります(伊勢神宮起源譚)。

『古事記』では、豊鉏比売命(豊鍬入姫命)は伊勢の大神の宮を祀ったと簡潔に記されています。
つまり~伊勢神宮を造った女性ですね(おいおい~簡潔すぎるやろ!)。

【「ホケノ山古墳」副葬品や出土遺物の詳細】

土器は、庄内式の二重口縁壺が20体、その他が出土しています。

大型壺(瀬戸内系、高さ77センチメートル・最大径65センチメートル)
中型壺(東海系、高さ26センチメートル・最大径24センチメートル)
銅鏃 約60本
鉄鏃 約60本
素環頭大刀 1口
鉄製刀剣類 10口
加飾壺

画紋帯同向式神獣鏡(がもんたいどうこうしきしんじゅうきょう)1面
画紋帯神獣鏡かと考えられる銅鏡片2個体分、内行花文鏡片
鉄製農工具
二重口縁壺20体(庄内式)
布留0式土器3点

2006年1月26日、纒向古墳群の一つとして国の史跡に指定されて、復元整備され一般に公開されています。

P5190168.jpg
(ホケノ山古墳の後円部の上ヵら見た箸墓古墳後円部、「でかい~!」)
P5190138.jpg
(卑弥呼が眠るのか?宮内庁は倭迹迹日百襲姫命が眠ると、真実はどっちだ!)

箸墓に眠るのは誰?ホケノ山に眠るのは誰なんでしょう?
古代ロマンは眠れない~~~~!


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リュミエールブラン ネージュ

2017/06/27

今日六月二十七日は「小泉八雲」と「?」の誕生日です。

今日六月二十七日は作家・日本研究家、小泉八雲(1850-1904)の誕生日です。
其処で、出雲大好きな私が同じく出雲が大好きだった「小泉八雲」を御紹介いたします。


P6270001.jpg(実は娘の誕生日なのですが少し照れてまして、笑)

「日本人の愛情は言葉としては発されない。口調に現れることすら稀である。それは緻密な親切と思いやりの行為という形で主に現れる。」――『東の国より/心』(1895)

其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログ「おめでとう里音」をお楽しみくださいね(人´ω`*).☆.。
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【?て誰!】 

実は今日は私の次女(里音)の誕生日です。
我が家では、必ず毎回ケーキをリクエストしてお祝いする事にしています。
この風習?は私が妻と結婚して20年間毎年行われてきました。
長女が加わり、長男が加わり、そして次女が加わって、現在では年5回行われています。
次女は卵アレルギーが有るので、製造ラインでも卵を使わないしっかりしたケーキ屋さんで購入します。
今回は、素材にこだわる極上スイーツ 神戸の洋菓子店レーブドゥシェフで購入しました(es koyamaさんかどちらかなのですがね、笑)。
                                                     
しかしながら歴史ブロガーですから、そこは同じく今日誕生日の小泉 八雲さんもご紹介するわけです(一寸ひねくれてるかな?)。

【小泉八雲って誰?】

CIMG9651.jpg(月照寺は松江藩松平家の菩提寺です。以前ご紹介しましたね。夜になると動き出す亀石があります。)

小泉 八雲(こいずみ やくも、ラフカディオ・ハーン、1850年6月27日~1904年(明治37年)9月26日)は、ギリシャ生まれの新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、日本民俗学者です。
東洋と西洋の両方に生きた人物とも言われています。

1904年9月26日、日本・東京府豊多摩郡大久保村西大久保(東京都新宿区大久保)で亡くなりました。(満54歳没)
墓地:雑司ヶ谷霊園
職業:小説家・随筆家・民俗学者その他
国籍:イギリス
日本活動期間:1894年~1904年代表作『骨董』『怪談』等
配偶者:マティ・フォリー(1875年~1877年)、小泉セツ(1891年~1904年)
子供:小泉一雄(長男)稲垣巌(次男)小泉清(三男)
親族:小泉凡(曾孫、島根県立島根女子短期大学准教授)

ファミリーネームは来日当初「ヘルン」とも呼ばれていましたが、これは松江の島根県立中学校への赴任を命ずる辞令時に、「Hearn」を「ヘルン」と表記したのが広まり、当人もそのように呼ばれることを非常に気に入っていたことから定着したようです。
ただ、妻の節子には「ハーン」と読むことを教えたことがありました。
HearnもしくはO'Hearnはアイルランド南部では比較的多い姓のようです。

1896年(明治29年)に日本国籍を取得して「小泉八雲」と名乗ります。
「八雲」は、一時期島根県の松江市に在住していたことから、そこの旧国名(令制国)である出雲国にかかる枕詞の「八雲立つ」に因むとされます。
日本の怪談話を英語でまとめた『怪談』を出版した事は有名ですね。

母がシチリア島またはマルタ島生まれのギリシャ人で、アラブの血も混じっていたらしく、のちに八雲自身、家族や友人に向かって「自分には半分東洋人の血が流れているから、日本の文化、芸術、伝統、風俗習慣などに接してもこれを肌で感じ取ることができる」と自慢していたようです。
父母を通じて、地球上の東西および南北の血が自分の中に流れているという自覚が、八雲の生涯と文学を特徴づけていたようです。
異国情緒を求める時代背景もありましたが、八雲は生涯を通じてアイルランドからフランス、アメリカ、西インド諸島、日本と浮草のように放浪を続けました。
かつ、いかなる土地にあっても人間は根底において同一であることを信じて疑わなかったようです。

シンシナティでは州法を犯してまで混血黒人と結婚しようとし、のちに小泉セツと家庭を持つに際しても、何ら抵抗を感じなかったと言われます。

1850年、当時はイギリス領であったレフカダ島(1864年にギリシャに編入)にて、イギリス軍医であったアイルランド人の父チャールス・ブッシュ・ハーンと、レフカダ島と同じイオニア諸島にあるキティラ島出身のギリシャ人の母ローザ・カシマティのもとに出生、生地レフカダ島からラフカディオというミドルネームが付いようです。

フランスやイギリスのダラム大学の教育を受けた後、1859年に渡米、得意のフランス語を活かし、20代前半からジャーナリストとして頭角を顕し始め、文芸評論から事件報道まで広範な著述で好評をえました。

1890年(明治23年)、アメリカ合衆国の出版社の通信員として来日します。
来日後に契約を破棄し、日本で英語教師として教鞭を執るようになり、翌年小泉セツ(島根県士族小泉湊の娘、第七十五代出雲国造千家俊勝の次男千家俊信[国学者]の玄孫)と結婚します。
松江・熊本・神戸・東京と居を移しながら日本の英語教育の最先端で尽力し、欧米に日本文化を紹介する著書を数多く遺しています。
日本では『雨月物語』『今昔物語』などに題材を採った再話文学で知られていますね。
彼が松江時代に居住していた住居は、1940年(昭和15年)に国の史跡に指定されています。


【出雲国国造家って】

IMG_5866.jpg(神魂神社は出雲国造家とは切り離せない神社です。私は国造家のためだけの神社と考えています。延喜式にも無い?)

天照大神素戔嗚命誓約をしたときに、天照大神の右のみずらに巻いた勾玉から成った五兄弟の次男天穂日命(長男は、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊で天皇家の祖)から派生したとなっています。
天穂日命は天照大神と共に地上に降り、その後は地上の最高神である大国主命に仕えました。
そのため子孫である千家家は、大国主命を祀る出雲大社の宮司を代々務めています。
つまり、小泉八雲は天照大神の子孫と結婚したことに成ります。
「数遊びをしてみましょう。」
正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊の子、天津日高彦瓊瓊杵尊(天孫降臨のニニギです)の子、海幸彦の孫と言われる神武天皇が即位したとしましょう。
神代では現実味が有りませんか?それでは神武天皇と同一人物とも言われる10代崇神天王(現実の人物と考えられています)を初代と想定して、二人の子供が生まれる(一人は11代垂仁天皇ですが)、二人の息子が妻を娶って子供を二人ずつ生んでいくと仮定しましょう。
2人・4人・8人・16人・32人…と計算すると、26代過ぎて36代孝徳天皇で13427728人で現在の日本人口を軽く超えます。
40代天武天皇(天智天皇「中大兄皇子」とは両親を同じくする弟)に成ると21億人を超えてしまうのです(有史以前の日本人口より多い?)。
つまり日本人全てが親戚といっても過言ではないし(畏れ多いですが125代今上陛下とも親戚?)、神社詣りってご先祖様の供養の様なものだと思うのですよ(笑)。

【津波の紹介者って知ってました?】

tsunamiという英語をみんなが知る英語にしたのはスマトラ島沖地震 (2004年)からであるが、最初に英語として紹介したのはハーンの 1897年の作品「生神」の英語版"A Living God"からです。
2004年まではtidal waves(潮波、高波、大津波、大変動、大動揺などの意味)と地震と無関係の用語と混同されていたようです。

【来日後の著作】

IMG_5850.jpg
(素戔嗚、稲田姫、大蛇退治にまつわる神社女性に大人気です。)

知られざる日本の面影 (Glimpses of Unfamiliar Japan) 1894年 - 鳥取のふとんの話、日本人の微笑、他
東の国より (Out of the East) 1895年
心 (Kokoro) 1896年 - 小説やエッセイなど15編の短編集。きみこ、あみだ寺の比丘尼、ハル、他
仏陀の国の落穂 (Gleanings in Buddha-Fields) 1897年 - 生神、人形の墓、勝五郎の転生、他
異国風物と回想 (Exotics and Retrospectives) 1898年
霊の日本にて (In Ghostly Japan) 1899年
影 (Shadowings) 1900年 - 和解、死骸にまたがる男、他
日本雑録 (A Japanese Miscellany) 1901年 - 守られた約束、破られた約束、果心居士のはなし、梅津忠兵衛、漂流、他
骨董 (Kotto) 1902年 - 幽霊滝の伝説、茶碗の中、常識、他
怪談 (kwaidan) 1904年 - 耳なし芳一のはなし、むじな、ろくろ首、雪女、葬られた秘密、食人鬼、他

私ちなみに今、小泉八雲の「神々の国の首都」読んでます。



【最後にもう一人本日誕生日の女性のご紹介】

本日誕生日の方の名言をご紹介してブログを終わります。

幸福への1つの扉が閉じる時、別の扉が開きます。けれども私達はしばしば閉じた扉をいつまでも見ているので、開かれた扉が目に入らないのです。――『We Bereaved』(1929) 三重苦の社会福祉事業家、ヘレン・ケラー

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2017/06/25

「こいこい」恋しい青空 『教王護国寺の柳と蛙のお話』

皆さん梅雨ですね~!流石に雨の日は古墳も一休みしてカウチポテトを楽しみましょうか(笑)。
雨が気にならない方なら、この時期は紫陽花や苔の綺麗な寺院などに出かけると良いのでしょうが。

私、実は出不精なんです(どれだけ出かけとんねん!と怒られるかもしれませんが(;^_^A)。
今日はブログを書き続ける自分への自戒も込めてこちらのお話をご紹介します。
皆さんもこちらの絵はご存知ですよね(そう「こいこい・花札」の蛙に小野道風ですね)。


yanagi0[1]
(花札の柳に飛びつく蛙と小野道風です)

この絵柄の人物誰だか知っておられましたか?
小野道風さんといわれる公卿さんです。
その公卿さんと、蛙の関係は?そして「教王護国寺」てどこ?

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【教王護国寺てどこのお寺】



CIMG0221.jpg
(東寺なんです。弘法市の早朝の南大門!)
CIMG6620.jpg
(たぶん今日あたりこんな風景が見られているはずです。)
CIMG6621.jpg
(たまらない絶景!右に見えているのが問題の柳なのです。)


教王護国寺は京都の東寺の事です。
正式名として「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」「弥勒八幡山総持普賢院」の2つの名称があります。
宗教法人としての登録名は「教王護国寺」というのですね~!
奈良時代の各国にできた国分寺・国分尼寺の正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」と言います。
「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」、まさしく同じですね~平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えました(役割は国分寺と同じなんですよね)。

東寺の場所、意外と西に在ると思われませんか(JR京都駅よりも西です)?
東寺が在るのですから西寺も在ったはずですよね~?、そして真ん中に朱雀大道が在ったと考えると、御所の位置がずれているのがお判りでしょうか?平安遷都(延暦13年・794年)時の内裏は、現在の京都御所よりも1.7キロ西の千本通り沿いに在りました。
現在の京都御所は、もと里内裏(内裏が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏)の一つ、土御門東洞院殿なんです。

土御門東洞院殿は、南北朝時代(14世紀半ば)元弘元年(元徳3年・1331年)、後醍醐天皇が京都を脱出した後に鎌倉幕府が擁立した光厳天皇がこれを里内裏として使用したことから、北朝側の内裏の所在地として定着し、明徳3年(1392年)の南北朝の合一以後、ここが正式の皇居となりました。

もうわかりますよね~そう、この花札の柳が、東寺の中に残っているんです。

CIMG9330.jpg
(特別公開日の五重塔、歴史好きにはたまりません!)
CIMG9331.jpg
(中にも入れるのです~ウキッキ~!!!!)

【小野 道風さんはどんな人物?】

小野 道風(おのの みちかぜ/とうふう)は、平安時代の貴族で能書家(書道家)です。
参議であった小野篁の孫で、大宰大弐・小野葛絃の子です(知らないですよね~私も知りませんでした)。
藤原純友討伐に功を成した公卿の小野好古は実兄で(官位は正四位下・内蔵頭)、「三蹟」の一人です。

時代:平安時代前期~中期
生誕:寛平6年(894年)死没康保3年12月27日(967年2月9日)
官位:正四位下・内蔵頭
主君:醍醐天皇→朱雀天皇→村上天皇→冷泉天皇
氏族:小野氏
父:小野葛絃
兄弟:好古、
道風子:奉時、長範、奉忠、奉明、公時(一説には小野小町の従弟)

平安時代前期、10世紀に活動した能書家で、それまでの中国的な書風から脱皮して和様書道の基礎を築いた人物と評されています。
後に、藤原佐理と藤原行成と合わせ、「三蹟」と称されています。

『因みに三筆とは』
書道が上手な御三人ですが、三筆(さんぴつ)とは、日本の書道史上の能書のうちで最も優れた3人の並称で、平安時代初期の空海・嵯峨天皇・橘逸勢の3人を嚆矢(始まり)と言われます(三蹟と三筆を比べるのはやめときましょう)。

道風は中務省に属する少内記という役職にあり、宮中で用いる屏風に文字を書いたり、公文書の清書をしたりするのがその職務でした。
能書としての道風の名声は生存当時から高く、当時の宮廷や貴族の間では「王羲之の再生」ともてはやされました。
『源氏物語』では、道風の書を評して「今風で美しく目にまばゆく見える」(意訳)と言っています。
没後、その評価はますます高まり、『書道の神』として祀られるに至っています。

「小野道風神社」小野神社(滋賀県)祭神は小野道風(おののとうふう)(894-966)。
道風は小野篁(おののたかむら)の孫(甥という説もある)にあたる人物です。

一方で気性が激しく、「空海筆の額を批判した」などという不評も同時に伝わっており、晩年は健康を壊し、随分苦しんだといわれています。

【小野道風と蛙】

CIMG8717.jpg
(これがその伝柳です。宝蔵の周りを囲む堀の前に在ります。)
3107e0b2[1]
(歌舞伎の物語はかなり複雑になっています。千年経ったとは思えません(;^_^A)

道風が、自分の才能のなさに自己嫌悪に陥り、書道をやめようかと真剣に悩む程落ち込んでいた時のこと。
ある雨の日散歩に(東寺ですね)出かけていて、柳に蛙が飛びつこうと、何度も挑戦している姿を見て「蛙はバカだ、いくら飛んでもあれほどの高さの柳に飛びつけるわけない」と馬鹿にしていた時、偶然にも強い風が吹き、柳がしなり、見事に飛び移ることが出来ました。
これを見た道風は「馬鹿は自分の方だ、蛙は一生懸命努力をして偶然を自分の味方としたのに、自分はまだまだ努力が足りないではないか」と目が覚め、血を滲むほどの努力をするきっかけになったといわれています。

ただし、この逸話は史実かどうか不明で、広まったのは江戸時代中期の浄瑠璃『小野道風青柳硯』(おののとうふうあおやぎすずり:宝暦4年〈1754年〉初演)からと見られます。
その後、第二次世界大戦以前の日本の国定教科書にもこの逸話が載せられ、多くの人に広まる事に成りました。
戦後の道徳の教科書にも採用されています。

この逸話は多くの絵画の題材とされ、花札の札の一つである「柳に小野道風」の絵柄もこの逸話を題材としています。
また現在では東名高速道路上での春日井市のカントリーサインの絵柄にこの絵が採用されています。

【最後に】

今日は柳に蛙、東寺についてはいずれまたの機会にご紹介いたします。
皆さん、あの世界の?「任天堂」が花札の会社だった事をご存知でしょうか?
任天堂も、蛙と同じくいつも一生懸命に飛び続けて、蛙と同じように柳(テレビゲームか!)をつかんだんですね~!


実はわたくし蛙が大好きなんです~あの蛙と同じように跳び続けて、柳を必ずつかみますので皆さん応援してくださいね。
しかし「柳の下には泥鰌は二匹居ない」とも言いますけどね~(;^_^A


PAP_0054.jpg
(こちらの蛙に興味を持たれた方が居られましたら、応援クリックしていただきましたら、情報をお教え致します。)


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2017/06/23

次の古墳は?まとめ二つご覧下さい 『纒向矢塚古墳』 『東田大塚古墳』だ~!

「一気に箸墓まで突っ走るか~?」と思いながらも、「少し柔らかい話題も入れた方が良いかな?」などとも考えつつ、やはり「古墳をご紹介する」(;^_^Aに落ち着きました。
林ばかりの写真だと、飽きられるかも知れません(笑)!

P5190087.jpg
(小学校の校舎から石棺が見える事間違いなしです。)

次回は御期待してください(^人^)それでは「古墳でGO!」

今回御紹介致しますのは(お分かりでしょうが)。
『纒向矢塚古墳』と『東田大塚古墳』です。


前回、前々回と同じく纒向古墳群の二つの古墳です。

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P5190083.jpg(矢塚古墳の方が近いですね(;^_^A)

【先ずは纒向矢塚古墳からどうぞ】

(纒向小学校検を索した方が早いですね!)
P5190088.jpg
(すこしだけ近づいて見ましたが、竹藪蝮注意~退散!失礼しました。登山靴持ってたのに暑くて半ズボンです。)

所在地:奈良県桜井市東田(ひがいだ)字矢塚
形状:纒向型前方後円墳(葺石・埴輪なし)
規模:全長約96m、後円部径約64m、前方部長32m、周濠幅約17-23m、周濠深さ約0.6m
築造年代:3世紀中頃以前
被葬者:不明
指定文化財:国指定(纒向古墳群)

『纒向矢塚古墳』の埋葬部は未調査ですが、墳頭部より板石が露出しているので竪穴式石室・箱式石棺だと考えられます(小学校の窓から見えてるんじゃないかな?)。
出土遺物は、埴輪、纒向3類の須恵器、瓦器です。

【東田大塚古墳に行きましょう】


P5190126.jpg(だいたい後円部正面に成ります。)
P5190120.jpg
(確かに大分削られているのがわかります。)

所在地:奈良県桜井市東田字大塚
形状:纒向型前方後円墳規模全長約120m、後円部径約68m、前方部長約50m、周濠幅約21m、周濠深さ1.3メートル
築造年代:3世紀後半
埋葬施設:周濠外堤部1基(ちょっと珍しくありませんか?陪塚の始まりかな?)
被葬者:不明
指定文化財:国指定(纒向古墳群)

現在はかなり削られている前方部が西南に長く延びていたようです。
試掘調査により前方部に盛土が残っていることが確認され、2007年4月12日、桜井市教育委員会は全長がこれまでの推測より14メートル長く110メートル以上である旨を発表しました。

周濠外堤部より東海系壺片で蓋をした西部瀬戸内系土器棺「甕棺」が埋納されていました。
名古屋の蓋をした広島産の甕に入った遺骨が古墳外の堀の外で見つかったと書けばわかりやすいですかね?
出土遺物、土師器(布留0式)、木製品等。

P5190123.jpg(私有地立ち入り禁止、上は花畑かな?取り会えず、注意書きは守りました。)

ちなみに「東田大塚古墳」私有地で立ち入り禁止、日本史の転換点の大地で大根作る農家のおばあちゃん、ある意味大物です(畑作られてるのがおばあちゃんだとか、私の勝手な妄想ですからね、笑)。
田んぼ道なので、車で行くのはやめた方が良いと思いました(軽自動車で精一杯です)。

地図で秘密の大発見~!前述の石塚古墳と勝山古墳、今回の矢塚古墳とを結ぶとほぼ正三角形の配置となります。
地図で確認してください、真ん中掘ったらお宝ザクザクと考えるのは、欲に目がくらむ素人考えですかね~?
でも、三角形の真ん中小学校の校庭ですね。

P5190130.jpg(斜め後ろから撮影、本当に穏やかな土地です。暑かったけど~!)

【またまた最後に私の妄想を膨らませます】

私は、子供の頃から古墳がが大好きで、掃除中に小学校の裏庭で前方後円墳のレプリカを作って遊んでました(掃除しろよ!)。
鬼ごっこもお寺の墓地で遊んでいたので、お墓が怖いという感覚はありません(笑)

色々な事が有りまして、歴史探訪を長い間してなかったのですが、米子に単身赴任したことが、私の歴史熱を再燃させる切っ掛けに成った訳ですが、出雲(旧出雲国)の地形はけして穏やかな土地とは言えません。
雲南市や奥出雲町を散策すると、ここなら八岐大蛇が本当にいても可笑しくないと思わせる、厳しく荒々しい自然に囲まれています。

そういえば、話180度変わりますが、映画『たたら侍』見たかったな~( ノД`)…
不祥事で打ちきりに成ってしまいました~f(^_^;、DVD出てくれるかな~?


オット、本論ですね、それに比べて「山辺の道(やまのべのみち)」は本当に穏やかです。
有史以前から、ここは古代の人々によって「道」として使用されていました。
山辺の道は、史実に記される我が国最古の道、遠く弥生時代から、すでに道として機能していた痕跡があります。
そして古墳時代には、街道として整備され、飛鳥時代になるとその名を文献に残しています。
「山辺の道」の途中途中に在る古墳群、それらはまるで弥生の甍とも思え、古墳の数々は目を見張るものが在りました。
史実もさることながら、実際歩いてみると、「ここは弥生から万葉の時代まで、確実に古代日本の最重要拠点だったに違いない」と確信できる、史実上の重要な遺跡の多さに驚かされます。

そして、今日もご紹介した、「纒向の地」はおおらかで優しく、初めてここに立った者なら、「ここに住んで生活を営もう」「神殿を建てて神も迎えよう」と考えたに違いないと思える場所です。
卑弥呼も、そう思ったはずなんです。

ここは、まだ大部分が解き明かされていない、弥生・古墳・飛鳥の古代日本ミステリースポットの中心地です。
是非お出かけください、そして妄想(想像)をフル回転させてみてお楽しみください。


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2017/06/21

古さでも有名ですが、「卑弥呼の父親かも?」『纒向勝山古墳』

前回の続きで、本日御紹介しますのは纒向墳群の古墳の一つ『纒向勝山古墳(まきむくかつやまこふん)』です。

奈良県桜井市の、纒向古墳群に属する古墳の一つです。
纏向石塚古墳と同じ様に、最も古いと言われる前方後円墳の一つです

P5190079.jpg
(纒向小学校の校舎から纒向勝山古墳が見えるのですから)

先日発見されて大きな話題に成っている『纒向遺跡』もすぐ近くに在りますし、纒向は日本最初の都所在地かも知れません。

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【纒向勝山古墳ってどんな古墳なの?】

P5190075.jpg
(一見すると古墳には見えませんが、下の地図や写真で見ると古墳だらけです。)



Makimuku_kohun.jpg
(国土交通省 国土画像情報を基に作成しましたが、映りは勘弁です)
P5190072.jpg
(形が少し?変わっていますね、うちわみたいです)


纒向勝山古墳(まきむくかつやまこふん)は、奈良県桜井市の纒向古墳群に属する古墳です。
2006年1月26日、纒向古墳群の一つとして国の史跡に指定されました。

【規模・年代等の編集】

P5190076.jpg
(少しずつ回り込んでみましょう。結構歩きますよ~!)

所属:纒向古墳群
所在地:奈良県桜井市東田字勝山
形状:纒向型前方後円墳
規模:全長約115m、後円部径約70m、前方部長約45m、周濠幅約25m(葺石・埴輪もなし)
築造年代:3世紀前期~後期
被葬者:不明
国指定指定文化財(纒向古墳群として)

【纏向勝山古墳出土遺物】

埋葬施設:未調査のため詳細不明(早く~調べて!)。
出土遺物:主として周濠部より出土しています。
木製の刀剣把手・団扇・槽等の祭祀具・U字形木製品(くびれ部の周濠から出土)・土師器(布留0式土器)

【纒向古墳群とは?】

前回も説明しましたが、初めての方々へ、纒向古墳群(まきむくこふんぐん)は、奈良県桜井市に所在する古墳時代前期初頭の古墳群です。

「オオヤマト古墳集団」は、奈良盆地の南東部に所在し、北から、萱生古墳群・柳本古墳群・纒向古墳群・磯城の古墳の4グループに分類され、本古墳群は、天理市から桜井市の「山辺の道」沿いに広がる柳本古墳群の南、かつての「水垣郷」に位置し、広大な纒向遺跡のなかに分布しています。

纒向古墳群の古墳は、3世紀の中頃から後半に築造されたと推定されます。
この定型化古墳の出現をもって「古墳時代」が始まったという時期区分が一般的に採用されています。
つまり、前方後円墳「発祥の地」というわけです。
こちらより古い前方後円墳は無いのですが、実は岡山の「楯築墳丘墓」が前方後円墳のモデルとも言われています(まだ行って無いんです~涙)。

箸墓古墳は『魏志』倭人伝のいう邪馬台国に都した倭の女王卑弥呼の墓ではないかという説を唱える研究者もいますが、宮内庁では「倭迹迹日百襲姫命大市墓」として管理しています。
地形的には、珠城山丘陵によって柳本古墳群とは分断されます。

盟主墳とされる「箸墓古墳(箸中山古墳)」は、定型化した最初の前方後円墳とみなされており、その他の纒向古墳群古墳の特徴は特別です。
ちなみに箸墓古墳以外の主な古墳は、纒向勝山古墳・矢塚古墳・石塚古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳です。
順番にご紹介しますね。

箸墓古墳をのぞく5基の前方後円形の墳墓は「纒向型前方後円墳」と呼ばれ、帆立貝のような形状をもっており、以下のような共通の特徴を有しています。

P5190082.jpg
(前方部まで回ってきました。箸墓では一周は出来ませんね。)

後円部に比べ前方部が著しく小さく低平でに成っています。
墳丘全長・後円部直径・前方部の長さの比は、正しく3:2:1を原則としています。
後円部は、扁球・倒卵か不正円形で正円形ではありません。
周濠を持つ古墳は、前方部が狭いようです。


いっぽう箸墓古墳は、後円部が5段築成によるものであり、前方部の前面幅は撥(ばち)状を呈し、規模も他の5基の約3倍に相当する278メートルであり、そこには隔絶性が明らかに存在し、しばしば「初期ヤマト王権最初の王墓」と評されます。

P5190133.jpg(「箸墓古墳」に眠るとされる「倭迹迹日百襲姫命=吉備津彦の妹」なのでしょうか?)

P5190083.jpg
(さて次回はどちらを訪ねましょうね~?って二者選択じゃん!)


【最後に私の妄想を膨らませてみましょう】

纏向石塚古墳出土遺物の周濠より弥生時代後期最終末期から古墳時代初頭の土器と共に、弧紋円盤(こもんえんばん、吉備系の祭祀用遺物)が出土していますね、この吉備の遺物にとても興味深いロマンを感じるのです。
当然、纏向石塚古墳だけでなく、纏向勝山古墳も吉備の人物が埋葬されている可能性があります。
被葬者は不明ですが卑弥呼の父親とも言われているのです。

邪馬台国論争はいつも「場所がどこだ?」に成りますよね~しかし「都はどこだ?」と考えてみてはどうでしょう。
日本の首都は東京ですか?因みに、遷都は天皇が行う行為で、明治天皇の即位は元服前の満14歳(今の中学校二年生)、「東京に遷都するぞ~d(^-^)」なんて事実が有るでしょうか?取り巻きの海千山千の大人発想ですよね。
つまり東京は首都ですが、実は都では無い事に成りますね、間違っていても私の妄想ですから(笑)

しかしながら天皇が居られる場所が都だと考えると、今上天皇が居られる東京は都ということに成ります。
同じ論理で高天原や邪馬台国も大王と一緒に移動したと考えてみてはどうでしょう。
古事記によると神武天皇東征過程は吉備に8年もの間滞在しています。

この長い滞在は何を意味するのでしょうか?私は、神武天皇が此処で大きな味方を二つ見つけたのだと考えました。
一つは吉備の巫女「卑弥呼」です(倭迹迹日百襲姫命の系図には代八代孝元天皇と共に吉備津彦命の名前が有ります。
もう一つは隣の国、出雲の「大国主」です。
隣の国なら交渉「国譲り」も出来ますよね~(-_-;)

この時代、三国大連合国家に歯向かって勝てる国が有ったでしょうか?
この後、神武天皇は大和へ入り、橿原の宮で即位、卑弥呼は箸墓古墳に眠り、大国主は大物主として三輪山に眠ったなんてサクセスストーリーはいかがですか?(笑)

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2017/06/19

日本最古の「前方後円墳」はこれだ~!纒向古墳群 『纒向石塚古墳』

そろそろ皆さんが?古墳も見たいな~と思って下さるのではないかと思い(笑)、今日御紹介しますのは、『纒向石塚古墳(まきむくいしづかこふん)』です。

奈良県桜井市にある、纒向古墳群に属する古墳です。
纏向遺跡内では最古の古墳の可能性があります。
つまり日本一古い前方後円墳かもしれませんね。

P5190056.jpg(何処に行こうか迷いますよね~全部行きますけどね。笑)

纒向遺跡が発見されたことも相まって、前方後円墳成立期の古墳として注目されているのです
纒向古墳群の纒向石塚古墳をご覧下さい。

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【纒向石塚古墳ってどんな古墳なの?】

P5190062.jpg(綺麗に若草が生えています。上まで登りたかったのですが、蝮注意です。)
P5190064.jpg
(墳丘に段築成が在りませんか?どうだろこんな初期からは無かったかな?)

(国土交通省 国土画像情報カラー空中写真をご覧下さい)。

所属:纒向古墳群
所在地:奈良県桜井市太田字石塚
形状:纒向型前方後円墳
規模:全長約96m(後円部径約64m、周濠幅約20m)
築造年代:3世紀初頭
被葬者:不明

2006年1月26日、纒向古墳群の一つとして国の史跡に指定されました。

P5190060.jpg(なるほどね~造り側もどうするか悩んだかもしれないね~!埋葬施設が確認されれば分るか?)
P5190068.jpg(周濠は今はありませんが昔は在ったんだ、小さく見えるけど96メートルデカい!)


【規模・年代等の編集】

纒向型前方後円墳丘墓で、規模は全長96メートル、後円部径64メートル、後円部の主丘部の東西59メートル、南北45メートル、前方部の長さ約32メートル、幅約34メートル(くびれ部の幅15-16メートル)。
周濠幅約20メートルです。
後円部は不整形円形で、前方部は三味線の撥状に開いているのが特長的です。
葺石および埴輪は用いられていません。
残念なことに、墳頂部は太平洋戦争末期に削平され、そこに高射砲か対空機銃の砲台の基礎部分の跡が検出されています。

その際、埋葬施設の検出や遺物の出土がなかったことから、後円部に埋葬施設が在るのではないのか、あるいは削平のおよばない深淵部に埋葬施設があるものと考えられています。

築造時期は古墳時代前期初頭と推定されています。
3世紀の初頭(庄内0式期、西側周濠の出土土器による)、前半(庄内1式期、盛土内出土土器による)、または中頃(庄内3式期、導水溝出土土器による)という3つの説があります(被葬者は不明です)。

【纏向石塚古墳出土遺物】

周濠より弥生時代後期最終末期から古墳時代初頭の土器が出土しています。
その他、弧紋円盤(こもんえんばん、吉備系の祭祀用遺物)、朱塗の鶏形木製品、木製鋤・鍬、横槌、水槽、建築部材などの木製品、土師器(纒向I式期)が出土しました。

【纒向古墳群とは?】

纒向古墳群(まきむくこふんぐん)は、奈良県桜井市に所在する古墳時代前期初頭の古墳群の事です。
オオヤマト古墳集団のなかの1つで、柳本古墳群の南に位置し、三輪山の西麓に広がります。
前方後円墳発祥の地とみられています。
こちらより古い前方後円墳といえば実は無いのですが、岡山の「楯築墳丘墓」が前方後円墳のモデルとも言われています(まだ行って無いんです~涙)。

盟主墳とされる「箸墓古墳(箸中山古墳)」は、定型化した最初の前方後円墳とみなされており、その他の纒向古墳群古墳の特徴は特別です。
ちなみに箸墓古墳以外の主な古墳は、纒向勝山古墳・矢塚古墳・石塚古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳です。
順番にご紹介しましょうかね~(笑)

箸墓古墳をのぞく5基の前方後円形の墳墓は「纒向型前方後円墳」と呼ばれ、帆立貝のような形状をもっており、以下のような共通の特徴を有しています。

後円部に比べ前方部が著しく小さく低平でに成っています。
墳丘全長・後円部直径・前方部の長さの比は、正しく3:2:1を原則としています。
後円部は、扁球・倒卵か不正円形で正円形ではありません。
周濠を持つ古墳は、前方部が狭いようです。


P5190070.jpg(青草の辺りに水面が有ったんですね~綺麗な古墳です。)

いっぽう箸墓古墳は、後円部が5段築成によるものであり、前方部の前面幅は撥(ばち)状を呈し、規模も他の5基の約3倍に相当する278メートルであり、そこには隔絶性が明らかに存在し、しばしば「初期ヤマト王権最初の王墓」と評されます。

P5190133.jpg(こちらは堂々とした完成形「箸墓古墳」さあ「倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼」かな?)


何がうらやましいって「纒向小学校」の生徒達、周りにこんなに素晴らしい古墳がいっぱいあるんですよ~(;^_^A。
私、小学校の卒業時の目標は「歴史学者に成りたい」でした~どこで道を間違えたのかな~?不思議です。

P5190085.jpg
(さて次回はどちらを訪ねましょうね~?)


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2017/06/17

こんなのを残しておかなきゃね~「国指定重要有形民族文化財」『下谷上農村歌舞伎舞台』

今日はちょっと地味な話題です。
しかながら、文化を継承するためには必要な場所だと思いご紹介させていただきます。

本日ご紹介するのは「下谷上農村歌舞伎舞台」です。
P6030153.jpg
(国指定重要有形民族文化財下谷上農村歌舞伎舞台です)

農村歌舞伎舞台(のうそんかぶきぶたい)は、日本において江戸時代より農民の娯楽として行われている農村歌舞伎や人形浄瑠璃を催すための舞台で兵庫県では特に数多く残されています。

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【農村歌舞伎舞台って何?】

P6030158.jpg
(江戸時代の舞台がこんなに綺麗に残されているのですね~)

農村歌舞伎舞台(のうそんかぶきぶたい)は、日本において江戸時代より農民の娯楽として行われている農村歌舞伎や人形浄瑠璃を催すための舞台なのです。

西日本、特に兵庫県において発達しました(なんでだろう?宿題ですね)。
農村舞台は全国に1000基以上残っていますが、およそ10%が兵庫県内に存在するって知っていましたか?
旧・山田町を含む北神戸には15の農村舞台があり、この地域で特に盛んであったと推測されていますね。
一般に歌舞伎舞台は神社境内に建てられることが多く、奉納芸能であり、主に農閑期に上演されました。
当初は田んぼなどに仮設の小屋をかけただけの素朴な形で上演されていたものが発達し、神社境内の長床などを舞台として上演されるようになりました。

【今回ご紹介する「下谷上農村歌舞伎舞台」】

以前千年家の時にも少しお話させていただきましたが、心の病気を患っていました時に、体力作りの為の水曜日の恒例ウォーキングの行き先がこちらでした。

P6030139.jpg
(説明版がいつも私の説明よりも分かりやすいです。字が大いのだけ私の勝ちですかね(;^_^A)
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(天彦根神社鳥居、毎週病気の完治を願って毎週お詣りいたしました。)
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(歌舞伎舞台は必ず神社併設なんですよね~)

天彦根神社境内の下谷上農村歌舞伎舞台(天保11年、1840年建立)は特に保存状態がよく当時の面影を伝えています。
江戸時代には農民による芝居の鑑賞や上演は原則禁止されていたが、実際には各地にこうした歌舞伎舞台が造られ農民らは歌舞伎を楽しんでいたのです。

下谷上農村歌舞伎舞台では、天保12年(1841年)から始まった水野忠邦による天保の改革の風俗粛清の影響で閉鎖された大坂の芝居小屋の浄瑠璃太夫や人形遣いらがこの地に流れ込み、特に水野忠邦の失脚後には盛況を極めました。

規模は間口12m、奥行8mと壮大です。
また舞台には、皿回し型の回り舞台が設置され、花道には一部が反転すると反り橋が現れる「裏返し機構」まで備わっていた様です。
これは全国的に見ても珍しく、ここ以外では見られない装置です。

P6030149.jpg
(横は舞台袖に成って、俳優の出入り場所にも使われます)
P6030166.jpg
(地下も補強されています。回り舞台やせり上がりが地下に在るのでは?の写真です)
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(緞帳も上に隠れてますね~!)
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(茅葺を保存するのが、大変ですね)

本来は神社境内の付属建造物である長床を舞台に利用したり、その他、太夫座、二重台、回り舞台、大迫(おおせり)、ぶどう棚など多彩な機能を有していたと考えられます。

【その他県指定重要有形民族文化財指定の舞伎舞台のご紹介】

『上谷上農村歌舞伎舞台』

天満神社(神戸市北区山田町上谷上)境内には文久3年(1863年)年建立の、割拝殿形式の歌舞伎舞台があり、床几回しという装置を備えていた。
また山田村周辺で催された人形浄瑠璃は山田文楽と呼ばれ、淡路島の三原地区と並び称されるほど有名であったが、その後芸能が継承されずに現在では上演不能となっていました。
平成29年1月に屋根の葺き替えが終わり、秋に農村歌舞伎が上演されます。

『北僧尾農村歌舞伎舞台』

淡河町北僧尾厳島神社境内の農村舞台(県指定の重要有形民俗文化財であり、現存する日本最古(1777年建立)の農村歌舞伎舞台)が平成26年秋に全面改修を終えました。
これを記念し広く県民市民へ周知するために、改修記念公演が開催されました。
この記念公演において淡河中学校生徒も地元中学校として出演し、伝統文化の継承と地域の活性化に寄与し、地域の一員としての自覚を育みました。

【最後に言わなければいけないこと、無形文化財の農村歌舞伎の伝承】

北区での農村歌舞伎上演会は平成12年度から始まり、平成26年度までは毎年4月中旬~下旬に開催してきました。
平成27年度からは、北区農村歌舞伎上演会実行委員会による主催となり、秋に農村歌舞伎舞台での上演が実施されています。上演する舞台として、山田町内の4箇所の舞台(下谷上、上谷上、藍那、小河)をローテーションで活用しています。
平成28年は山田町下谷上の舞台で行われました。
平成29年は上谷上の舞台で開催予定です。

舞台の保存は勿論ですが、演じる歌舞伎の伝承が無ければ意味がないのです(難しい事でしょう)。
しかし文化の伝承は日本人の最も得意とするところではないですか。
是非農村歌舞伎文化の伝承の応援をよろしくお願いいたします。

butai.jpg
(神戸市HPの講演の写真からお借りしました。歌舞伎の伝承をよろしくお願いいたします。「回り舞台人力でした、笑」)


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2017/06/14

「播磨国風土記伝」雄略天皇の迫害を逃れた、絶体絶命の二皇子の行方『志染の岩室』!

先日Facebookのお友達がUPされておられまして、「えっ!こんな物が、結構近所に有るの?」とビックリ!
是非行ってみようと、お休みの日に出掛けて来ました。
雄略天皇に皇位継承争いで殺された、市辺押磐皇子の二人の王子、袁奚王子意奚王子の兄弟の隠れ家です!

Tennō_Yūryaku[2](雄略天皇の方がインパクト強いとWikiよりお借りしました。)

住所はネットで調べたのですが(兵庫県三木市志染町窟屋、笑)、此が中々見つからないのです。
こっちか~?あっちか~?
私、自慢ではありませんが、以外と方向音痴では無いのですが!川の側のはずとの思い込みが、私の方向感覚を撹乱していました。

そして、山方面へ、見つけました~(⌒‐⌒)v

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(やっと見つけた~!)
P6030011.jpg(仁賢天皇の皇后は雄略天皇の皇女、継体皇后はそのお二人の皇女に成ります。)
P6030014.jpg(継体天皇お手植えの桜見てみたいですね。)

【誰が隠れ住んで居たのでしょう?】

P6030055.jpg
(来ました~志染の岩室です。)
P6030040.jpg(祠の後ろが岩室)

志染の石室(しじみのいわむろ)は、兵庫県三木市にある説話伝承地です。
『播磨国風土記』美囊郡志深里(しじみのさと)条によると5世紀頃、皇位継承争いで雄略天皇派に殺された市辺押磐皇子の二人の王子、後の23代顕宗天皇である袁奚と後の24代仁賢天皇である意奚の兄弟は志深(志染)の石室に隠れ住んだとされます(継体天皇お手植の記載と名前が違います)。
日本書紀では「縮見山石室」と表記、その石室の故地であると伝承されています。

【雄略天皇って誰】

雄略天皇(ゆうりゃくてんのう、允恭天皇7年12月~雄略天皇23年8月7日)は、第21代天皇です。
大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ、大泊瀬幼武尊 おおはつせわかたけるのみこと とも)、大長谷若建命、大長谷王(古事記)、大悪天皇(大悪天皇って(;^_^A)、有徳天皇ともいわれます。

また『宋書』、『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王「武」に比定されます。
その倭王武の上表文には周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されており、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘や熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘を「犭隻加多支鹵大王、すなわちワカタケル大王」と解して、その証とする説が有力です。
雄略22年1月1日、白髪皇子(後の清寧天皇)を皇太子とし、翌23年8月、大王は病気のため崩御しました。
雄略天皇23年を機械的に西暦に換算すると479年となりますが、「梁書」によると、梁の武帝は502年、雄略天皇に比定される倭王武を征東将軍に進号しています。
この解釈としては、実際の雄略天皇の没年は記紀による年代よりも後であったとする見解と、雄略帝=倭王武の比定が誤っているとする見解が有るようです。

『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に雄略天皇が掲げられていることから、まだ朝廷としての組織は未熟ではあったものの、雄略朝をヤマト王権の勢力が拡大強化された歴史的な画期であったと古代の人々が捉えていたとみられます。

【一寸うんちく】

稲荷山古墳から出土した鉄剣の金文字に「ワカタケル(雄略天皇と推定)」の文字が発見されたことで日本中に名前がとどろいた埼玉県行田市のさきたま古墳公園は、9基の大型古墳が集中する東日本最大の古墳群として有名なのですが、特にその中でも円墳としては日本で一番大きな「丸墓山古墳」が在ります。
この円山古墳、映画の「のぼうの城」に登場した石田三成が本陣を構えた場所なのです。
行田市を中心に残る、水攻めに用いられた土手である「石田堤」が丸墓山古墳周囲に残っています。
映画を見直すと、最初に陣地を作るシーンに埴輪や土器が踏みつけられるシーンがありますので、気が向いてたら確認してください。
その円山古墳のすぐ隣から「ワカタケル(雄略天皇と推定)」の金文字鉄剣が見つかっているのです。
私も一度訪れてみたいのですが、まだ叶えておりません(涙)

【雄略天皇の迫害】

記紀によれば、安康天皇(20代)3年8月9日、安康天皇が幼年の眉輪王(『古事記』では7歳とあるが誤記と思われる)により暗殺されたとされます(7歳で暗殺は無理でしょ)。
安康天皇が、仁徳天皇(16代)の子である大草香皇子に、妹の草香幡梭姫皇女を同母弟である即位前の雄略天皇の妃に差し出すよう命令した(大草香皇子と草香幡梭姫皇女は父系の叔父と叔母に成ります)際に、仲介役の坂本臣等の祖である根臣が、大草香皇子の「お受けする」との返答に付けた押木玉鬘(おしきのたまかつら:金銅冠とも)を横取りするために、天皇に「大草香皇子は拒否した」と偽りの讒言をします。
安康天皇は大草香皇子を殺害し、その妃である中蒂姫命(長田大郎女)を奪って自分の皇后としました。
中蒂姫は大草香皇子との子である眉輪王を連れており、これが眉輪王に安康天皇が殺害される直接の原因となったといわれます。

暗殺の事実を知った大泊瀬皇子(雄略天皇)は兄たちを疑い、まず八釣白彦皇子を斬り殺し、次いで坂合黒彦皇子と眉輪王を焼き殺します。
さらに、従兄弟にあたる市辺押磐皇子(仁賢天皇 ・顕宗天皇の父)とその弟の御馬皇子(みまのみこ)をも謀殺し、政敵を一掃して、11月にヤマト王権の大王の座に就いたのでした。

雄略天皇の血筋は男系では途切れたものの、皇女の春日大娘皇女が仁賢天皇(24代)の皇后となり、その娘の手白香皇女が継体天皇(26代)の皇后となり欽明天皇を産んでいることから、雄略天皇の血筋は女系を通じて現在の皇室まで続いています。

此処で出てくるのが、『播磨国風土記』美囊郡志深里(しじみのさと)条文によると5世紀頃、皇位継承争いで雄略天皇派に殺された市辺押磐皇子の二人の王子、後の23代顕宗天皇である袁奚と後の24代仁賢天皇である意奚の兄弟が志深(志染)の石室に隠れ住んだお話なのです。

P6030050.jpg(良かったね~って事です)
P6030029.jpg(こんなんところに隠れ住んでいたとは思えませんけど?)
P6030032.jpg(村人が御守りしたのかな?)
P6030042.jpg(ひかり藻が生息する石室の湧水は「窟屋の金水」40年程光ってないそうです(;^_^A)
P6030023.jpg(独特の雰囲気がある場所でした)

窟屋の金水
ひかり藻が生息する石室の湧水は「窟屋の金水」と呼ばれるそうです。

交通アクセス
神戸電鉄粟生線 三木駅 から神姫バスで 20 分
JR神戸線 三ノ宮駅および阪急神戸本線・阪神本線 ・ポートライナー 三宮駅 から神姫バス で 50 分

歴史ってすべてがつながっているんですよね~!
歴史を楽しめるようになると、映画も楽しめるようになるんですよ(笑)

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2017/06/12

千年前?の日本最古古民家「箱木千年屋」

土曜日にFacebookを乗っ取られ大変な事態に成った市郎右衛門です。
皆様にもご迷惑をお掛けして本当に申し訳有りませんでした。
やり方が巧妙で、非常に手がこんでいますので、皆様もお気をつけ下さいm(__)m


本日御紹介致しますのは、日本最古の民家 「箱木家住宅」です。

P6030136.jpg(箱木千年家、日本で一番古い民家といわれています。)


箱木家住宅(はこぎけじゅうたく)は、兵庫県神戸市北区山田町衝原(つくはら)にある歴史的建造物です。
国の重要文化財(1967年6月15日指定)。
「箱木千年家」(はこぎせんねんけ/せんねんや)の通称で広く知られる日本最古と推定される民家の一つです。

私はこの民家?に少し思い入れが有りますので、恥ずかしながら、そちらも一緒にお話したいと思います。

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【箱木千年家ってな~に?】

箱木家住宅
(箱木千年家)

簡単に言えば、日本で一番古い古民家です。



P6030076.jpg(勿論、箱木さんが住んでおられたわけです。現在はお隣の近代住宅に住んでおられます。)

母屋所在地(現在):兵庫県神戸市北区山田町衝原字道南1-4
旧所在地 :兵庫県神戸市北区山田町つくはら湖底(つまりダム建築で沈んだって事ですね)
類型:民家形式・構造木造、入母屋造、茅葺建築年:室町時代
文化財国の重要文化財に指定されています。

【私の思い入れ話】

もう七年半位前に成りますが、仕事のストレス?から心の病気に成り、3ヶ月程入院致しました。
心が砕けておりまして、毎日どうしたら死ねるのか?と本気で悩み考えておりました(重い話で申し訳ありません)。
体もぼろぼろで、全てを捨て去ってやり直すつもりで、入院致しました。

病院では体力作りのために一月に一度この衝原湖の周回コース10キロを歩く遠足?が有り、その主発点が千年家でした。
その時は、近くの駐車場からの出発でしたので、古民家は見ていなかったのですが、一月ごとに少しずつ体力が回復に向かっているのを感じ、まだまだ行ける「頑張れ俺!」と念じながら、湖畔を歩いた思い出の地です。
幸い、全てとは言えませんが、体力・気力共に全快に近づきつつ有ります?。
そんな、千年家に七年半ぶりに行ってみました(笑)。

P6030065.jpg(吞吐ダムと衝原湖、ダムの上も歩けます。)

【移築住宅の概要】

室町時代建立の主屋(「おもや」)江戸時代建立の「離れ」(「はなれ」)の2棟が重要文化財に指定され、他に築山、中庭、納屋、土蔵等が遺存しています。
現在は、重文の「おもや」「はなれ」は隣接している資料館と共に公開されています。

見学料金 300円
おじいちゃん(勿論箱木さん)がお店番されてました。
良い小遣いに成るか?「昭和までは住んどったからな」と教えてくださいました。

【教育委員会解説から千年家の歴史】

箱木家は地元の豪族・別所氏に仕えたとされ、後に庄屋となった一族です。

『摂津名所図会』などの近世の記録によれば、この住宅は、806年(大同元年)に建てられたとされており、近世初期から「千年家」と呼ばれていたようです。

1967年(昭和42年)に国の重要文化財に指定され、1977年(昭和52年)までは実際に住居として使用されていましたが、呑吐ダムの建設により旧所在地が水没するため、1977年から1979年(昭和54年)に掛けて現在地に移築されました。

通称「千年家」とは「古い家」の意で、実際の建立年代は不明でしたが、移築時の解体調査の結果、次のようなことが明らかになりました。

「おもや」の建設は室町時代と推定されました。

長年の間に多くの部材が取り換えられていましたが、柱などの根幹材には当初の部材が残存していました。
当初からの部材で残っているのは柱6本のほか、桁、梁、貫などの一部です。

江戸時代中期に「おもや」に隣接して「はなれ」が建設されます。
江戸時代末期に母屋と離れを連結し、屋根を広げて一つの家屋にしたようです。

ですから、「おもや」と「はなれ」は、移築以前は1棟の建物でしたが、解体修理時に、建築当初の姿に近づけるように復元され、現在は「おもや」と「はなれ」が別棟として建てられています。

2005年に当初材の松の柱6本の放射性炭素年代測定を行った結果、年輪の最も外側の炭素濃度から、1283~1307年(鎌倉時代後期)に伐採された木が使われていることがわかったという(千年家ではなくて、七百年家だった訳ですねφ(..))。

【構造】

当初建てられた「おもや」、江戸時代中期に建てられた「はなれ」(ともに入母屋造、茅葺)と「くら」から成ります。
先ずは「おもや」です。
「おもや」の内部は東半部(正面から見て右側)が「にわ(土間)」、西半部が床上部に成っています。
床上部は3室に分かれ、表側が「おもて(客間)」、裏手は土間に面した部分が「だいどこ(台所)」、奥が「なんど(納戸)」です。

P6030093.jpg(「おもて部屋」間仕切りの壁が木で仕切られています。右側!)

また、建設当初は畳が敷かれていなかったことも分りました。
移築された今も無いですが(笑)、床板も手斧(ちょうな)削りですし、部屋を仕切るのも柱のほぞに板をはめ込んで土壁ではありません。

P6030098.jpg(手前「だいどこ」と奥の「なんど」です。)
P6030099.jpg(「だいどこ」の床が手斧で削られているのが綺麗ですね。)

「おもや」内部。
「にわ(土間)」から床上部を見ます。
一番左の部屋が「おもて」、次の部屋が「だいどこ」、その奥が「なんど」です。
写真では3本の柱が見えますがが、うち左の2本は建築当初のものです。

P6030097.jpg(おくどさんから見た三部屋、何人んで暮らしていたのでしょう)
P6030107.jpg(古道具が山積みです持って帰りたい~!)

「おもや」(主屋)は、最も古い建築で入母屋造茅葺きです。
屋根が非常に巨大、かつ、軒が極端に低いため遠くから見ると縄文時代~弥生時代の竪穴住居を思わせるような形態に見えます。
また、屋根を支えるために壁が多く窓などの開口部が極端に少ないのも特徴的です。
建設当初から残る柱などには鉋が発明される前まで使われた大工道具・手斧(ちょうな)での仕上げがよい状態で残っています。
軸部は柱間を足固貫、飛貫、桁で繋ぎ、後世の民家のような、曲りのある材を用いた梁は用いていません。
小屋組は古式の「おだち鳥居組」(垂木構造)です。

P6030106.jpg(木が逆さに立てられているのが解りますか?上の方が根元で太いのです。)

土間には竈(かまど)と厩(うまや)が併設されていたため、実際に人間が起居していたのは「おもて」「だいどこ」「なんど」の3部屋のみですね。

P6030129.jpg(馬や、馬がいない代わりに、古い農機具の展示場です。)


P6030122.jpg(江戸時代中期に建てられた「はなれ」「ともに入母屋造、茅葺」)
P6030118.jpg(内部、こちらは障子やふすまが取り付けられています。)
P6030112.jpg(面白いものです。秀吉の三木城攻略時の人質文書、箱木家の母が別所氏の方?長治君自殺うんぬんの文字が読めます。)
P6030113.jpg
(こちらも面白い、千年家が通り名前です。手形も発行してますね~。)

【訪れた微笑ましい夫婦】

私は基本は、取材?は一人で行くことにしています。
かなりの強行軍に成りますので、家族に構って居られ無いのです。
子供達のわがまま?で予定が遅れたりすると折角の取材が無駄に成るので一人で行く様にしています。
この日も一人で二場所目の取材でしたが、時間が早すぎ(個人の持ち物で家族で経営されていました)、少し待つことに成りました。
9:00~の公開でしたが、門が空いたのは9:20分でした。
私が一通り見終わった頃にご夫婦が見学に来られました。
私より少し年輩ですかね?因みに、私気持ちが若いので(笑)大体私より年輩等と思うと、年下な事が多いのです。

奥様「千年家っていうのだから、千年立ってるんだよね~!」

{私心の声:いえいえ移築されてますから此処には40年ほどですよ}

夫君「そおやな~千年ゆうたら鎌倉時代か!」

{私心の声:え?1000年前は平安時代ですから~!}

夫君「いい国作ろう鎌倉幕府ゆうやろが!1192年やったな。」

{私心の声:1192年~2017年、830年ほどで、とても1000年には足りませんよ、それに今の教科書は「いい箱作ろう鎌倉幕府」って1185年に成ってます。}

奥様「そんな昔からこんな湖の側にあるんだ!」

{私心の声:ですから移築されたんですって!}

夫君「そおや、足利尊氏が幕府鎌倉に開いたときやな。」

{私心の声:え~!鎌倉幕府開いたの、源頼朝ですよ~~~!}

皆さん私が作ったと思っているでしょう~(笑)本当にあったんですって!
だから歴史って面白い?


P6030133.jpg(文化財の保存は本当に大変だと思いますが、日本人の私たちの先祖の歴史なのです。大事に保存したいですね。)


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2017/06/09

「戦いに生き・信仰に死す」殉教者『高山右近』福者に認定②!

今回は「戦いに生き・信仰に死す」と題して「高山右近」を御紹介します。
今日は、前回とは逆に「戦国武将」としての高山右近を取り上げます。

P6040276.jpg
(「太平記英雄伝」より戦国時代には用いない大鎧に薙刀で床机に座る右近!)


前回とは全く逆の、凛々しい?錦絵から御紹介です。
やはり戦国武将なんですよね~(^^;
余りのイメージの違いに驚かれたかもしれませんf(^_^;

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【高山右近の戦!高槻城主編】

P6040181.jpg(こちらの裏側が本丸辺りに成ります。)
P6040177.jpg(前回も申しましたが。高山右近の時代は城も整備されていません。)

高山氏は摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人領主でした。
出自は秩父氏の一派の高山党の庶流とも甲賀五十三家の一つともいわれています。

父の友照が当主のころには、当時畿内で大きな勢力を振るった三好長慶に仕え、三好氏の重臣・松永久秀にしたがって大和国宇陀郡の沢城(現在の奈良県宇陀市榛原)を居城としていました。

そうした中、右近は天文22年(1553年)に友照の嫡男として生まれます。
永禄6年(1563年)に10歳(数え12歳?)でキリスト教の洗礼を受けたようです。
それはが友照が奈良で琵琶法師だったイエズス会修道士・ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためでした。

永禄7年(1564年)、三好長慶が没すると三好氏は内紛などから急速に衰退し、高山氏の本来の所領がある摂津国においても豪族の池田氏・伊丹氏などが独自の力を強めていきました。

永禄11年(1568年)に織田信長の強力な軍事力の庇護の下、足利義昭が15代将軍となると状況は一変します。
義昭は摂津国の土着領主の一つである入江氏を滅ぼすと、直臣である和田惟政を高槻城に置き、彼と伊丹親興・池田勝正を加えた3人を摂津守護に任命しました(摂津三守護)。
高山父子はこの和田惟政に仕えることとなります。

元亀2年(1571年)、和田惟政が池田氏の被官・荒木村重と中川清秀の軍に敗れて討死し(白井河原の戦い)、まもなくその村重が池田氏を乗っとるかたちに成ります。
村重は信長に接近して「摂津国の切り取り勝手(全域の領有権確保)」の承諾を得ると、三好氏に再び接近した伊丹氏を滅ぼし
、摂津国は石山本願寺が領有する石山周辺(現在の大阪市域)を除き、村重の領有となりました。

和田惟政の死後高槻城はその子・惟長が城主となりましたが、17歳と若年だったため、叔父の和田惟増が彼を補佐することに成ります。
しかし惟長は何を思ったのか、この叔父を殺害してしまいます。

これにより高山家が和田惟長の主だった相談役とりましたが、これを良く思わない和田家臣たちは、惟長に高山親子の暗殺を進言します。
高山家には「惟長は好機があり次第、高山親子を殺すことに決めた」という知らせが届いていましたが、友照はこの事を荒木村重に相談、村重は「もしそうであるなら殺される前に殺すべき、自分は兵をもって援助する。」と言い、惟長の所領から2万石を与えるという書状を与えます。

元亀4年(1573年)3月、惟長は反高山派の家臣と共に、高山父子を話し合いと偽って呼び出しに成功します。
高山父子は仲間から呼び出しが罠だと聞かされていましたが、14~15名の家臣を連れて高槻城へ赴き、待ち構えていた惟長らと斬り合いになります。

夜だった上に乱闘で部屋のロウソクが消えてしまい真っ暗な中、右近は火が消える直前に惟長が床の間の上にいるのを確認、火が消えるとすぐさま床の間に突っ込んで、腕に傷を受けつつも惟長に二太刀の致命傷を負わせました。
だが、騒ぎを聞いて駆けつけた高山の家臣達が加勢すると、そのうちの1人が誤って右近に斬りつけ、右近は首を半分ほども切断するという大怪我を負ってしまいます(半分は言い過ぎ違いますか?)。
およそ助かりそうにない傷でしたが、右近は奇跡的に回復し、一層キリスト教へ傾倒するようになりました。
一方、惟長は輿に乗せられて家族や家臣たちと和田家の生国・近江国甲賀郡へ逃れましたが、同地で死亡します。

この事件の後、高山父子は荒木村重の支配下に入る事になります。
村重は既に信長から摂津一円の支配権を得ていたため、この事件は問題にされることもなく、高山父子は晴れて高槻城主となることができました。
2人はまもなく高槻城の修築工事を行い、石垣や塗り壁など当時畿内で流行しつつあった様式を取り入れました。

P6040265.jpg(西国街道の位置と比べると重要な要害なのが解りますね!側面を突かれると終わりです。)
P6040258.jpg(こちらはかなり新しい江戸中期の高槻城、守りも固くできていますね!)
P6040330.jpg(だそうです(;^_^A、枡形門とは、コの字型に入った敵を三方から攻撃できる防御門です。上の模型でも確認できます。)
P6040331.jpg(桜の根本の石がそうですが、右近は築城の技術にも優れていたようですね。)

【高槻城主変遷】

P6040176.jpg
(全国の城が破却されずに残っていたらどんなに凄いかといつも思います。)

室町時代は入江氏の居城でしたが織田信長に滅ぼされ、その後和田惟政、次いで高山右近が城主と成ります。
天正元年(1573年)からは本格的な城塞が築かれました。
豊臣氏滅亡後は内藤信正が城主となり、以降高槻藩の藩庁として用いられ、内藤氏の後は土岐氏、松平氏、岡部氏、永井氏とたびたび城主が入れ替わりますが、長井氏は十三代を数え廃藩置県を迎えます。

【天下人の影響による畿内動乱】

P6040196.jpg
(もう少し戦国武将としても評価されても良いのではないでしょうか?)

天正6年(1578年)、右近が与力として従っていた荒木村重が主君・織田信長に反旗を翻します(三木の別所氏に呼応する形です)。
村重の謀反を知った右近はこれを翻意させようと考え、妹や息子を有岡城(伊丹市錦絵城跡が残ります)に人質に出して誠意を示しながら謀反を阻止しようとしましたが重村の考えは変わりませんでした。
右近は村重と信長の間で苦悩し、尊敬していたイエズス会員・オルガンティノ神父に助言を求めました。
神父は「信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよ」とアドバイスしたようです。

高槻城は要衝の地(西国街道のそばです)であったため、信長はここをまず落とそうとします。
右近が金や地位では動かないと判断した信長は、右近が降らなければ畿内の宣教師とキリシタンを皆殺しにして、教会を壊滅させると脅迫までします。

城内は徹底抗戦を訴える父・友照らと開城を求める派で真っ二つに別れました。
懊悩した右近は信長に領地を返上することを決め、紙衣一枚で城を出て、信長の前に出頭しました(豊臣秀吉の前に出た伊達政宗ですね)。
村重は城に残された右近の家族や家臣、人質を殺すことはしませんでしたが、結果的に右近の離脱は荒木勢の敗北の大きな要因となりました(後に村重の重臣であった中川清秀も織田軍に寝返っています)。
この功績を認めた信長によって、右近は再び高槻城主としての地位を安堵された上に、2万石から4万石に加増されました。

天正10年(1582年)6月に「本能寺の変」で信長が没すると、明智光秀高山右近中川清秀の協力を期待していたようですが、右近は高槻に戻ると羽柴秀吉の幕下にかけつけました。
まもなく起こった「山崎の戦い」では先鋒を務め、清秀や池田恒興と共に奮戦、光秀を敗走させ、清洲会議ではその功を認められて加増されています。
また、本能寺の変後の動乱で安土城が焼けると安土のセミナリヨ(イエズス会司祭・修道士育成のための初等教育機関、小神学校のこと)を高槻に移転しています。

「賤ヶ岳の戦い」では岩崎山を守るものの、柴田勝家の甥・佐久間盛政の猛攻にあって清秀は討死し、右近はやっとのことで羽柴秀長の陣まで撤退して一命を保ちました。
この件では助かったことで、勝家への内通を疑われ、天正11年5月16日(1583年7月5日)には一時、居城・高槻城を攻められています(多聞院日記)。
その後も「小牧・長久手の戦い」「四国征伐」などにも参戦しています。

秀吉からも信任のあつかった右近は、天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城としました。
しかし、まもなくバテレン追放令が秀吉によって施行されてしまいます。
キリシタン大名には苦しい状況となるが、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、世間を驚かせます。
その後しばらくは小西行長に庇護されて小豆島や肥後国などに隠れ住むが、天正16年(1588年)に前田利家に招かれて加賀国金沢に赴き、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らしました。

天正18年(1590年)の「小田原征伐」にも建前上は追放処分の身のままでありながら前田軍に属して従軍しています。

金沢城修築の際には、右近の先進的な畿内の築城法の知識が大きく役に立ったともいわれます。
また利家の嫡男・前田利長にも引き続き庇護を受け、政治・軍事など諸事にわたって相談役になったと思われます。

慶長14年(1609年)には、利長の隠居城・富山城の炎上により、越中国射水郡関野(現富山県高岡市)に築かれた新城(高岡城)の縄張を担当したともいわれます。

慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康による「キリシタン国外追放令」を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去しました。
長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着しました。
しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに熱病にかかります。
翌年の1月6日(1615年2月3日)に息を引き取ります(享年63)。

P6040283.jpg
(高槻カトリック教会の式場ですか?十字架の光が取り入れられていますね。)
P6040287.jpg
(その一番下にやはり高山右近のレリーフです。)


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