2017/05/31

初めて見た!「前方後方墳」『下山池古墳』の隠された意味を探る!

文字色今日は私が初めて見た「前方後方墳」山辺の道に有る『下池山古墳(しもいけやまこふん)』を御紹介します。
奈良県天理市成願寺町に所在する墳丘全長約120メートルの前方後方墳です。
大和古墳群に属す古墳時代前期前半の古墳で先日ちらっと紹介した、「西殿塚古墳(にしとのづかこふん)」宮内庁により「衾田陵(ふすまだのみささぎ)」として第26代継体天皇皇后の手白香皇女陵(一説には卑弥呼の後継者「壱与」の墓とも言われます。)の直ぐ下(西側)に有ります。

P5190246.jpg(前方後方墳て初めて見ました~。本当は今日は石神神社の予定でしたが、黄門様が書きたくて、こちらに成ってしまいました。)


国の史跡に指定されています(史跡「大和古墳群」の一つ。)。

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【黄門様が考古学者?】

皆さん、古墳を最初に調査!測量した人物ってご存知ですか?誰あろう「先の中納言水戸光圀公に在らせられるぞ~」「水戸黄門」様です。
日本最初の考古学者といえるかもしれません、那須の「下侍塚古墳」(前方後方墳、全長84m)で4世紀末や、「上侍塚古墳」(前方後方墳、全長114m)で4世紀後半を調査しています。


【黄門って何?】

水戸家は御三家の中では格下で、尾張・紀伊が大納言なのに比べて、中納言の地位に留まっています。
中国の宮殿の「禁門」(きんもん)を、秦や漢では、宮殿の門が黄色に塗られていたことに由来して「黄門」と呼びました。
中国皇帝に近侍して勅命を伝える職務であった「黄門侍郎」(または「給事黄門侍郎」)を略して黄門と呼び、転じて、日本の中納言を唐名の「黄門侍郎」または「黄門」と呼んだことから、水戸の中納言「水戸黄門」なわけですね。
ドラマでは「諸国漫遊」を楽しむ黄門様ですが、水戸家は参勤交代もなく、当主は江戸常駐を言い渡されていたので、漫遊どころか、江戸から出たことも無いと思われます。

そこで活躍するのが、格さん助さんですが、ドラマでの名前は助さんは佐々木助三郎、格さんは渥美格之進です。
この二人はモデルが実在します。
本当の名前は助さんは、佐々木十竹(ささじゅちく)(介三郎宗淳)(1640~1698)、格さんは、安積澹泊(あさかたんぱく・覚兵衛)(1656~1737)という学者だそうです。

さてお話をこの上記二つの古墳に戻して、元禄5年(1682)に水戸黄門様(水戸光圀)の命によって近侍の佐々木十竹と地元庄屋 の大金重貞によって両古墳の発掘がなされました。
此処で重要なのは、栃木県の古墳といえば、下侍塚古墳と上侍塚古墳を指すこと、この二つの古墳が前方後方墳であることに実は大きな意味が有るのでは?と考えて見たのです。


【下山池古墳データ】

P5190249.jpg(写真が少ないのは道が少ないからです。言い訳まで(;^_^A)

(拡大してみてください)
1995年(平成7年)から1996年(平成8年)にかけて奈良県立橿原考古学研究所により竪穴式石室の発掘調査が行われました。
多数の板石の用いられた石室は、長さが6.8メートルで、その内部からは木棺とともに鉄製品等が出土しています。
石室の北西側からは小石室が検出され、その内部で大形の内行花文鏡が発見されました。
共伴する遺物等より、古墳の造営年代は4世紀前半と推定されています。

2014年(平成26年)10月6日、ノムギ古墳・中山大塚古墳とともに「大和古墳群」として国の史跡に指定されました。

萱生集落の南西側に所在し、山の辺の道(南)ルートを南下し、萱生の集落を抜けて西を見ると、約200m位先に見えてきます。
春日断層崖から盆地へ延びる丘陵の一つに立地し、同じ丘陵の東約450mには西殿塚古墳が所在します。
古墳の周りには水田と果樹園が広がっています。
下池山古墳は東側の東殿塚古墳、西殿塚古墳と同じ丘陵の西端に位置し、主軸は両古墳と同じ南北方向です。
墳形は前方後方墳で、この地域では少数派の墳形です。

古墳の南側には溜池が広がり、北側と東側には周濠の痕跡を示す水田や溜池があります。
墳丘規模は現状で全長約120m、後方部長約60m、後方部幅57m、後方部の高さ約14m、前方部長約60m、前方部の幅27m、前方部の高さ約6mを測ります。
平成7(1995)年と8(1996)年に調査が行われ、後方部で埋葬施設が見つかりました。
内法の長さ6.8m、幅0.9~1.3m、高さ1.8m前後の合掌形をする竪穴式石室で、内部には全長約6mのコウヤマキ製の割竹形木棺や、鉄製品などが納められていました。
また、石室の北西側で小石室が見つかり、直径37cmもある大形の内行花文鏡が一面出土しています。
築造された年代は4世紀前半(古墳時代前期前半)と考えられています。
参考文献:奈良県立橿原考古学研究所編 2001 「大和前方後円墳集成」

墳丘はやや傾斜が急で、当時からそれほど崩れていないものと見られます。
また、墳頂部では耕作が行われておらず、盆地を眺めるのには絶好の場所ですが、蛇などがいるので晩秋から冬の間がお勧めです(ということで今回は眺めるだけです)。

【私の妄想】

前方後方墳の分布を調べると、東日本に多い事がわかります(黄門様が調べた古墳も栃木県です)。
それが早い時期にヤマトに築かれたことに意味が有ると思うのです。

ズバリ、『下山池古墳』埋葬者は東国人だと考えました。
つまり関東とヤマトの同盟が出雲の国譲りを成し遂げたと考えます。

古事記では「建御雷神」が葦原中国平定をなし終え、高天原に復命します。
日本書紀では「經津主神(ふつぬし)」・「武甕槌神(たけみかづち)」を遣して葦原中國を平定させました。

建御雷神が祀られる鹿島神宮は、茨城県鹿嶋市宮中にあり常陸国一宮です。
經津主神が祀られる香取神宮は、千葉県香取市香取にあり下総国一宮です。


両方とも東国じゃないですか~(笑)
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2017/05/29

イメージを凌駕した飛鳥『石舞台古墳』の凄さ!


「山辺の道」を少し離れて、古墳は古墳ですが、少し(300年程)新しい古墳を御紹介致します。


飛鳥に有る『石舞台古墳』です(教科書にも必ず出てますよね~今もかな?色々変わってますからね)。

P5200485.jpg
(何をかいわんや!とにかく凄い。インパクトならこれですね。)

石舞台古墳(いしぶたいこふん)は、奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳です。
勿論!国の特別史跡に指定されています。

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【石舞台古墳データ】

P5200482.jpg(とにかくでかいです。確かに石舞台。)
P5200515.jpg(説明版、特別史跡、確かに特別だね。)



露出する横穴式石室で有名な石舞台古墳ですが!
所在地: 奈良県高市郡明日香村島庄
形状: 不明
築造年代: 7世紀初頭
被葬者:(推定)蘇我馬子
指定文化財: 国の特別史跡「石舞台古墳」

元は土を盛りあげて作った墳丘で覆われていた筈ですが、その土が失われて巨大な石を用いた横穴式石室が露出しています。
埋葬者としては蘇我馬子が有力視されています。

墳丘は現在失われているが、下部は方形で、20-50センチメートル大の花崗岩の貼石を約30度の傾斜で積み並べられてい様です。
墳丘の周りに幅5.9~8.4メートルの空堀がめぐり、幅約7.0メートルの外堤が設けられています。
外堤を復元すれば一辺約80メートルで、高さは約1.2メートルです。

P5200478.jpg(斜面の葺石ですが再現されたものかな?)
P5200507.jpg(入り口が見えてきました。)
P5200512.jpg(方墳の斜面は本当に綺麗です。)


封土(盛土)の上部が剥がされているため、その墳形は明確では有りません。
2段積の方墳とも上円下方墳とも、あるいは、下方八角墳とも推測されています(台座を考えて階段ピラミッドも有るかも(^_^;))。
また、一辺51メートルの方形基壇の周囲に貼石された空濠をめぐらし、さらに外提(南北約83メートル、東西81メートル)をめぐらした壮大な方形墳であるとも考えられています。
これまでの、円墳や前方後円墳から仏教寺院の基台を取り入れた方形という考えも有るようです。

埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、西南方向に開口しています(花崗岩で作られた石組みです。)。

玄室は、長さ約7.7メートル、幅約3.5メートル、高さ約4.7メートル、羨道は長さ約11メートル、幅2.5メートルの規模を誇ります(大いです。)。
石室内部には排水施設もありました。
約30の石が積まれ、その総重量は2,300トンに達すると推定されており、石は古墳の側を流れる冬野川の上流約3キロメートル、多武峰のふもとから運ばれたと推定されています。

P5200492.jpg
(横穴の入り口です。花崗岩ね~どうでもいい凄さ!)
P5200495.jpg
(奥まで8メートル近い長さです。)
P5200497.jpg
(天井は落ちてこんかな、笑。)
P5200503.jpg
(出口?入り口175㎝の私がかがむ必要なく入れます。)

石室はすでにほとんどの埋葬品が盗掘に遭った後であり、石棺の欠片等が発見されるに留まりました。
羨道部と外堤から土師器と須恵器や銅の金具などが見つかり、時代が下る宋銭や寛永通宝も出土(昔から日本人はお賽銭を置きたがる?)。

1952年(昭和27年)3月29日、国の特別史跡に指定されました。

【被葬者は誰だ?】

被葬者は蘇我馬子であったとする説が有力です。
『日本書紀』の推古天皇34年(626年)5五月の条「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る」とあり、大臣は、蘇我馬子を指していると考えられます。
封土が剥がされ、墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する懲罰ではなかったかとする説も在ったようです(勝ったものが歴史を作る!)。

ただし、異説もあり、奈良大学の水野正好は、石の種類、築造年代などから蘇我稲目説を唱えています。

また、三重中京大学名誉教授の上野利三は石室の壁に「馬子墓」の文字が刻まれており、肉眼でも確認可能との説を主張しておられます(私にはじぇんじぇん見えませんでした、笑)。

石舞台古墳が文献に記されるのは、江戸時代になってからです。
延宝9年(1681年)の林宗甫『大和名所記』(和州旧跡幽考)に、石太屋という陵があると記しており、陵とは前後の文脈から天武天皇の陵と了解できるようです。
「石太屋」(いしふとや)は大きな石で造った屋の意味で、これが「石舞台」と転訛したのではないかとの意見がある様です。
嘉永元年(1848年)の『西国三十三所名所図会』にも、石舞台を天武天皇の殯のあとという記述がありますが、現在では天武天皇の墓とする説を支持する学者はいない様です。

【もう一度蘇我氏の系図を確認しましょう。】

武内宿禰→(4代)→蘇我稲目→馬子→蝦夷→入鹿となっています(武内宿禰の子孫なんですね~知らんかったわ~、笑)。

さて皆さん、蘇我氏の滅亡を「大化の改新(645年)」と覚えて居られる方はおられませんか?
違うんですよ~!(歴史ファンには常識でもそうでない方にも解りやすく説明しますね(#^.^#))。
中大兄皇子、中臣鎌足らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変は「乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)」と言います。

その後、中大兄皇子(天智天皇)は体制を刷新して「大化の改新」と呼ばれる改革を断行ししました。
俗に蘇我入鹿が殺された事件のことを指して「大化の改新」と言うこともありますが、厳密にはクーデターでの「乙巳の変」の後に行われた一連の政治改革が「大化の改新」なんですよ。

【石舞台古墳伝説】

地元では他に「石蓋」(いしぶた)などの名前で呼ばれていた。
「狐が女の姿に化けて古墳の上で踊ったことから石舞台と名付けられた」という伝説については、古墳のすぐそばで生まれ育った網干善教は、そのような話を自分は聞いたことがなく近年に創作された話であろう、としています。

明治時代に喜田貞吉が『日本書紀』にみえる桃原墓が石舞台にあたるとする説を発表し、以後これが有力になりました。

1933年(昭和8年)と1935年(昭和10年)に京都帝国大学(当時)の浜田耕作らが中心となり、発掘調査が行われた。
これより前には前方後円墳ではないかという説もあったが、貼石列、空堀、外堤の跡が見つかり、方形であることが判明しました。
発掘調査で古墳周囲の堀が見つかったのはこれが初めてのことでした。

1954年(昭和29年)から1959年(昭和34年)にかけて古墳の復元整備事業が行われました。

巨石が組み上げられた基本的な外観は江戸時代から変わっていないが、石室と羨道部はかなり崩れてい様です。
現在は修復され、内部が公開されているので玄室内に入ることも可能です。

【入場時間・料金】

8時から17時まで
大人・大学生:250円
高校生:200円
中学生:150円
小学生:100円

【今年三月発表の方墳のお話】

先日、方墳の濠(ほり)とみられる巨大な石溝が見つかった奈良県明日香村の小山田遺跡で、新たに石室への通路跡が見つかったと県立橿原(かしはら)考古学研究所が発表しました。
一辺約70メートルと推測され、飛鳥時代(7世紀)最大級の方墳と確定しました。
研究所は「出土した瓦片などから640年ごろの築造とみられますが。
当時の最高権力者の墓」と指摘、被葬者は「舒明天皇初葬墓」か大臣の「蘇我蝦夷の大墓」に絞られたようです。

曽我氏って悪役のイメージが在りませんか?私もそんな風に考えていました。
石舞台古墳を見て、こんな凄い物をいくら強制されたとしても、尊敬や敬愛もしないで作ろうとするのだろうかと?
悪いのは、天智天皇をそそのかした中臣鎌足(天皇を悪く言うのは気が引けるので…)ではないかと、中臣鎌足は藤原に氏を変えてこの後長きにわたって日本の政治の中枢で我が世の春を謳歌するのですからね~(笑)

P5200521.jpg
(復元石室「曽我馬子」が本当に眠っていたのでしょうか?)
P5200526.jpg
(本当に綺麗な方墳でした。どうやらこれよりも大きな方墳が発見されたようですね~!楽しみです。奈良に住みたいわ)

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2017/05/27

大き過ぎるが故に小ネタに成ってしまいそう「崇神天皇陵墓」

周囲を小高い山に囲まれた奈良盆地、古代東に連なる美しい青垣の山裾を縫うように、三輪山の麓から石上布留を通り、奈良へと通じる道がありました。
「日本書紀」にその名が残る、「山の辺の道」です。
山の辺の道沿いには、今も「記紀・万葉集」ゆかりの地名や伝説が残り、数多くの史跡に出遭え、訪れる人を「古代ロマンの世界」へと誘います。

P5190258.jpg(こちらが宮内庁が比定する、崇神天皇陵です。)

今日は、山の辺の道途中に在る10代天皇の陵墓「崇神天皇山邊道勾岡上陵」を御紹介します(ちょとひつこいけど汚名挽回に必死な市郎右衛門ですf(^_^;)。

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【崇神天皇山邊道勾岡上陵データ】

P5190263.jpg(拝所から眺める前方部)
P5190253.jpg(左括れ部分位から拝所を眺めています。)
P5190268.jpg(拝所左から前方部)
P5190275.jpg(拝所右~前方部右コーナーがわかりますね)

別名 行燈山古墳
所属 柳本古墳群
所在地 奈良県天理市柳本町字行燈
形状 前方後円墳
規模 墳丘長242m
高さ 31m(後円部)
築造年代4世紀前半
埋葬施設(推定)竪穴式石室
被葬者(宮内庁治定)第10代崇神天皇
出土品 銅板・円筒埴輪・土師器・須恵器
全国 第16位の規模

『行燈山古墳(あんどんやまこふん、行灯山古墳)』は、奈良県天理市柳本町にある古墳です。

実際の被葬者は明らかではありません。
宮内庁により「山辺道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ、山邊道勾岡上陵)」として第10代崇神天皇の陵に治定されています。

全国では第16位の規模の古墳で、4世紀前半頃(古墳時代前期)の築造と推定されます。

奈良盆地東縁において、丘陵先端部を切断して築造された巨大前方後円墳です(このパターン結構多いんですよね~造るのが簡単なのかな?)。
江戸時代末期に柳本藩による修陵事業が実施され、周濠等に改変が加えられています。

現在は宮内庁治定の天皇陵として同庁の管理下にあります。

墳形は前方後円形で、前方部を北西方に向けています。
墳丘は3段築成で、墳丘長は242メートルを測るが、これは全国では第16位、柳本古墳群では渋谷向山古墳(天理市渋谷町、300メートル)に次ぐ第2位の規模になります。
墳丘表面では葺石・埴輪が検出されています。
墳丘周囲には盾形の周濠が巡らされており、周濠を含めた全長は360メートルにも及ぶほか(周濠の一部は後世の改変でしたね)、陪塚的性格を持つ古墳数基の築造も認められます。
主体部の埋葬施設は、後円部における竪穴式石室と推定されます。

出土遺物としては、円筒埴輪・土師器・須恵器(以上宮内庁書陵部の調査時)のほか、江戸時代の修陵の際に出土した銅板1枚があります。

この行燈山古墳は、出土埴輪・出土銅板から古墳時代前期後半の4世紀前半頃の築造と推定されます。
柳本古墳群では「渋谷向山古墳(景行天皇陵、『古事記』『日本書紀』に記される第12代天皇。日本武尊の父」)に先行する時期の築造とされ、渋谷向山古墳とともに初期ヤマト王権の大王墓と考えられます。

【崇神天皇陵に治定された流れ】

江戸時代の寛政9~享和元年(1797-1801年)、蒲生君平が『山陵志』で景行天皇陵に比定します(地図で見て頂きますと直ぐ南に、渋谷向山古墳「景行天皇陵」が有ります。)。
安政2年(1855年)、景行天皇陵に治定されます(誰が?幕府ですかね?)。
元治元年(1864年)9月~慶応元年(1865年)4月、柳本藩による修陵、銅板が出土しています。
慶応元年(1865年)、崇神天皇陵に治定変更(^_^;)。
慶応3年(1867年)、谷森善臣が『山陵考』で崇神天皇陵に比定。
明治期、宮内省(現・宮内庁)により崇神天皇陵に治定されました。


【古墳規模「国土交通省 国土画像情報より」】

cimg03598743.jpg
(拝所の前の濠が広すぎると思いませんか?ちょうど小島辺りが基の濠でピッタリかと思います。)



古墳総長:360メートル 周濠を含めた全長。
古墳最大幅:230メートル 周濠を含めた最大幅。
墳丘長:242メートル
後円部:3段築成。
後円部直径:158メートル
後円部高さ:31メートル
前方部:3段築成。
前方部幅:100メートル
前方部高さ:13.6メートル

墳丘周囲には周濠が巡らされており、この周濠は3ヶ所で渡堤によって区切られる(傾斜地での湛水のため)、そのうち前方部南側、後円部南側・東・北側の部分が築造当初の形状とされ、前方部側の他の部分は江戸時代末の柳本藩の修営により農業用溜池として拡張を受けたとされます(私が勘違いした小島も拡張部分に入ります。)。

【出土品はどないなん?】

行燈山古墳からの出土品としては、特に銅板1枚が知られています。
この銅板は、江戸時代の修陵の際に後円部南側から出土したもので、現在は所在不明に成っていますが(誰かが隠してるな!)、拓本が残されているそうです。
拓本によれば銅板は長方形で、長辺70センチメートル・短辺53.8センチメートルです(盾みたいな感じかな?)。
片面には内行花文鏡に似た文様を、他面には田の字形の文様を有する点が注目されています。
そのほかの出土品としては、宮内庁書陵部による調査時に出土した円筒埴輪・土師器・須恵器等が有ります。

【本当の被葬者はだ~れ?】

行燈山古墳の実際の被葬者は明らかではありませんが、宮内庁では第10代崇神天皇の陵に治定しています。
崇神天皇の陵について、『古事記』では「山辺道勾之岡上」の所在とあり、『日本書紀』では「山辺道上陵」と記載されています(景行天皇陵と同名)、『延喜式』では、大和国山辺郡の衾田墓(手白香皇女墓)の条において、「山辺道匂岡上陵」の陵戸が衾田墓の守戸を兼ねることが記されています(衾田墓と山辺道上陵が隣り合わせという事ですかね?景行天皇陵と同名ならわからないじゃないですか~)。

江戸時代後期に蒲生君平は『山陵志』で本古墳を景行天皇陵に比定しましたが、江戸時代末期に谷森善臣は『山陵考』で崇神天皇陵に比定し、その説が現在まで踏襲されています。
この説の根拠の1つとしては、上述の衾田墓(衾田陵。現陵は西殿塚古墳、真陵は西山塚古墳)には行燈山古墳の方が近いことがあった様です。

P5190276.jpg
(10代崇神天皇陵と12代景行天皇陵の可能性があるようです。ちなみに景行天皇陵は地図の少し右に在ります。)
P5190242.jpg(「衾田陵」(すまだのみささぎ)」西殿塚古墳「にしとのづかこふん」第26代 継体天皇皇后の手白香皇女の陵)

【陪冢もでかいので一寸ご紹介】

P5190271.jpg(綺麗な前方後円墳が拝所裏手向かって左に在りました。でかい!こちらが陪塚なのが凄い。)


通称「アンド山」、位置は山辺道勾岡上陵拝所の北側に位置し、古墳名は「アンド山古墳」。
前方後円墳で、墳丘長120メートル、段築は認められず、葺石・埴輪は不明、周濠は本来存在しないと推測され、主体部の埋葬施設は竪穴式石室と見られ、築造時期は行燈山古墳と同時期と推定されます。

P5190273.jpg(こちらも小さい?けど綺麗なR線の前方後円墳です。)


通称「南アンド山」、山辺道勾岡上陵拝所の南側に位置し、古墳名は「南アンド山古墳」です。
前方後円墳で、墳丘長65メートル、段築は認められず、葺石・埴輪は不明、周濠は本来存在しないと推測され、築造時期は行燈山古墳と同時期と推定されます。

山の辺の道の周辺は小高い森や岡、林や山は全て古墳です。
歴史好きにはたまりませんねぇ~。
前方後円墳が女性に人気だとか?抱き枕やクッショングッズが数か月待ちですって(笑)

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2017/05/25

「天日槍」の玄孫『田道間守』の墓に冷や汗が止まらない!

私(市郎右衛門)の前回ブログですが、大きな勘違いをしておりました~m(__)m。
歴史好きの皆様は前回UPの時に直ぐに気付かれたと思いますが、垂仁天皇陵墓と崇神天皇陵墓を勘違いしておりました。
まことにお恥ずかしいですが、勉強不足とお許し下さい。


冷や汗の究明を少しさせていただきたいと思います(^人^)。

以前に実家の兵庫県豊岡市に有る、「お菓子の神様」『田道間守の中島神社』をブログで御紹介しました。

800px-Tajimamori[1]
(田道間守命wikiより)

当時心残りだったのは、垂仁天皇に忠義を尽くして亡くなった「田道間守」の墓(伝、垂仁天皇陵墓側)を御紹介できなかった事でした。

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今回の旅行で目的地の取材が出来たと勘違いして、御紹介致してしまいました(^人^)。

P5190265.jpg(どど~んとこちら地図にも載ってる田道間守の墓と勘違いした小島、崇神陵にも有るのが不思議ですね~(^^;???)

【伝承によると】

田道間守の逸話、垂仁天皇の家臣で、『日本書紀』によると、天皇から「常世の国へ行って、不老不死の霊菓、非時(ときじく)の
香菓(かぐのみ)を探してくるように」と命じられ、苦難の末にやっと常世の国に到達し、命令通り香菓を持ち帰ったのは、10年後のことでした。
しかし彼が帰国する1年前に垂仁天皇は崩御しており、「ご命令を受けて遠く遥かな国へ行き、万里の波濤を越えて帰国したのに、天皇は既にお亡くなりになり復命することも叶いません。自分は生きていても何のためにもならない」と嘆き悲しみ、天皇の陵に参拝し、その前で泣き叫んで死んでしまいました。
群臣たちは、これを聞いて皆泣き、その亡骸を陵の傍らに葬ったといわれています。

【記紀の記載では】
『日本書紀』垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇90年2月1日に田道間守は天皇の命により「非時香菓(ときじくのかくのみ)」すなわちタチバナ(橘当初は何なのか分からなかったと思いますが)を求めに常世国に派遣されました。
苦労に苦労を重ねてやっと見つけた果物を天皇に届けに帰途に着きます。
十年後(景行天皇元年)3月12日、田道間守は非時香を持って常世国から帰ってきましたが、前年垂仁天皇99年7月1日に天皇は田道間守の帰りを待たずして、崩御されてしまいます。
天皇がすでに崩御したことを聞き、垂仁天皇陵墓の前で泣き叫んで、そのまま亡くなった田道間守を 当時の人々が不憫に思い、天皇のお傍に墓を作って、永遠に仕えていただく事にしたといわれます。
涙無くしては語れないお話ですね~!(その涙が私の思い込みで台無しですが( ノД`)…)。



(此方の地図は本当の垂仁天皇陵墓です、グーグルアースで拡大したときに、拝所への通路が少し違う?変だな~と思って気が付きました~(;゜∇゜))



(崇神天皇陵は箸墓古墳のすぐ傍です。箸墓にも同じような島らしき物が有るんですよ~?)
cimg03598743.jpg
(崇神天皇陵「行燈山古墳」ハッキリ小島が見えますよね~(;^_^A)
P5190250.jpg(視点を変えて~左の前方部先端辺りから見た田道間守の墓?と勝手に思い違いをした小島です。)
P5190133.jpg(こちら箸墓古墳、ヤッパリ小島が在ります。不思議ですよね~?)
P5190276.jpg
(崇神天皇山邊道勾岡上陵!この時に気付くべきでした~(^^;)


【何故勘違いが起こったのか~?】

 今回取材旅行の事前計画が不足していた(行き当たりばったりで旅行本も買わず。)。
京都でもそうですが、文化財が多すぎて行き先が絞り込めない(何処にも行きたいですしね~(;^_^A)。

 垂仁天皇は崇神天皇の王子で親子関係にある上に、名前も似ている(私の勉強不足ですがf(^_^;)。

 崇神天皇が10代、垂仁天皇が11代とこれまた、間違えやすくなっています。

 カーナビゲーションを頼りすぎた。
ナビが悪いのでは無いですが、自分で思考を止めていたと思えます(新車でつい嬉しくて、笑)。

⑤ 崇神天皇陵にタイミング良く(悪くf(^_^;)、小島が有った(これ一番だな!)。

等の条件が重なって、私の勘違いが起こったと考えます。

【崇神天皇陵の小島は何?】

これはですね~ 、農地用水の池として濠の利用を考えた時に、絶対量の不足が起こり、濠の拡張をはかる時に、残った濠外側の遺構の様です(何でこの部分だけ?不思議ですけどね。)。

【新しい事実が見え隠れ!】

神武東征を全くの神代と仮定します。
もしくは、欠史八代を正しいと考えて、神武天皇と崇神天皇は同一人物とする!
更には、神武天皇も想像の人物と考えて、崇神天皇が最初のヤマトの大君と考えた場合、二代に当たる垂仁天皇に忠義を尽くした、田道間守命の行動力は的を射たものといえますし、先見の明が有ったと考えて良いのではないでしょうかね(#^.^#)。

「勘違いが実に成る」とはこの事か?
私の頭の中に美味しい橘の実が成りましたね~o(^o^)o。
めでたしめでたし(笑)。

最後に、勘違いのいい加減なブログ記事にも関わらず、夜の修正版がこれまでで一番のポイントを獲得いたしました。
ひとえに皆様のおかげと感謝しておりますと共に、「もっと頑張れ~」の励ましと心を戒めましめて、これからも頑張りたいと思いますので今後とも応援をよろしくお願いいたします(本当にありがとうございました)。


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2017/05/23

「天日槍」の玄孫『田道間守』の墓に涙が止まらない!

「お詫び5月24日」
今回のブログの内容ですが、私(市郎右衛門)大きな勘違いをしておりました~m(__)m。
歴史好きの片方はもうお分かりだと思いますが、垂仁天皇陵墓と崇神天皇陵墓を勘違いしております。
まことにお恥ずかしいかぎりですが、何分歴史素人の歴史好きゆえの勘違い、どうかお許し下さい(^人^)。


お詫びの後の本文です。
間違いは素直に認めさせていただきまして訂正いたしました。

長い間のお休み失礼しました。
実は、「言い訳ですが(笑)」取材旅行で4日ほど出かけておりました。

場所は奈良で~す。
Facebookでお友達の皆さんは(報告していたので)ご存知だと思いますが、何分あの暑さ、熱中症にかかったのか?帰宅後熱を出して寝込んでしまい、月曜日はお仕事もお休みして病院に通院した上に、こちらも疲れのせいなのか、歯茎まで炎症を起こして歯科医院ヘ!散々な昨日に成ってしまった市郎右衛門です。

今日は元気になりました~(笑、頭はまだだったようです。)、さて本題に戻りますが、以前に実家の兵庫県豊岡市に有る、「お菓子の神様」『田道 間守の中島神社』をブログで御紹介しました。
当時心残りだったのは、垂仁天皇に忠義を尽くして亡くなった「田道間守」の墓(伝、垂仁天皇陵墓側)を御紹介できなかった事でした。
今回の旅行で目的地「田道間守の墓」の取材が出来たと勘違いして、御紹介致してしまいました(^人^)。

P5190276.jpg
(崇神天皇山邊道勾岡上陵!この時に気ずくべきでした~(^^;)


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【お菓子の神社なんて有るの?】

先ずは、但馬の神社をご紹介しましょう。
子供たちが大好きな?お菓子の神社「中島神社」です。

『中嶋神社(なかしまじんじゃ)』は、兵庫県豊岡市にある神社です。
「菓祖・菓子の神」として製菓業者の崇敬を受けています。

CIMG3055.jpg
(縣社~!立派な鳥居です。身近過ぎたのか?訪れたのは二度目でした。)
CIMG3057.jpg(菓祖!みかんがね~?柿の方が甘くてイメージ湧くけどね。)
CIMG3064.jpg(ご由緒)
CIMG3063.jpg(田道間守命ベンチはすべてお菓子屋さんのメーカー名が入ってました。)

祭神田道間守命祀しています(此処だけかもしれない?)。

田道間守命天日槍命(但馬一宮出石神社に祀られています)の5代後(一説には玄孫・孫とも)の子孫で、『日本書紀』に記される所によると、垂仁天皇の命により常世の国から「非時香果(ときじくのかぐのみ)」(橘のことといわれています。)を持ち返ったとされる人物です。
橘は菓子の最上級品とされたことから、菓子の神・菓祖として崇敬されています。

神社の歴史は、『国司文書』によれば、推古天皇15年(606年)、田道間守命の7代の子孫の三宅吉士が、祖神として田道間守命を祀ったのに創まるといい、「中嶋」という社名は、田道間守命の墓が垂仁天皇陵の池の中に島のように浮かんでいるからだそうです(このイメージが私の思い込みを生んだ原因です。)。


【田道間守って誰?】

田道間守の生まれについて、『日本書紀』では垂仁天皇3年条で天日槍(新羅からの伝承上の渡来人)の玄孫で、清彦の子とされています。
一方『古事記』応神天皇段では、天之日矛(天日槍)の玄孫は同じながら多遅摩比那良岐(但馬日楢杵)の子とし、清日子(清彦)は弟とされていますね。

『日本書紀』垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇90年2月1日に田道間守は天皇の命により「非時香菓(ときじくのかくのみ)」すなわちタチバナ(橘当初は何なのか分からなかったと思いますが)を求めに常世国に派遣されました。
苦労に苦労を重ねてやっと見つけた果物を天皇に届けに帰途に着きます。

翌年(景行天皇元年)3月12日、田道間守は非時香菓8竿8縵(やほこやかげ:竿・縵は助数詞で、葉をとった8枝・葉のついた8枝の意味)を持って常世国から帰ってきましたが、前年垂仁天皇99年7月1日に天皇は田道間守の帰りを待たずして、崩御されてしまいます
天皇がすでに崩御したことを聞き、垂仁天皇陵墓の前で泣き叫んで、そのまま亡くなった田道間守を 当時の人々が不憫に思い、天皇のお傍に墓を作って、永遠に仕えていただく事にしたといわれます。
涙無くしては語れないお話ですね~!(その涙が私の思い込みで台無しですが( ノД`)…)。



(此方の地図は本当の垂仁天皇陵墓です、拡大したときに、田道間守命墓位置が、少し違う?と思って気が付きました~(;゜∇゜))

P5190255.jpg(崇神天皇陵宮内庁管轄、こちらは常駐されているようです。)
P5190261.jpg(立派~拝所の上に少し見えるのが後方部の森です、崇神天皇陵は次の機会に、しっかりとご説明します。)
P5190262.jpg(島のように見えますね~(^^; 垂仁陵の拝所は前方部の右側からの通路に成っています。)
P5190250.jpg(視点を変えて~左の前方部先端辺りから見た田道間守の墓?と勝手に思い違いをした小島です。)
P5190265.jpg(どど~んと地図にも載ってる田道間守の墓と勘違いした小島、崇神陵にも有るのが不思議ですね~(^^;???)

以前にもお話しましたが、田道間守が垂仁天皇の命をうけて、 不老不死の木の実「非時香菓(ときじくのかくのみ)」を探しに出掛るお話、秦の始皇帝と徐福伝説に何か似ているような気がするのは私だけでしょうか?

そちらから伝わって来たお話の再編成かもしれませんね~(;^_^A。

いつか必ず本物を御紹介する事をお約束するとともに、私の勘違いについても検証してみたいと思います。


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2017/05/17

神様以外に誰が投げ入れられる?「三徳山三仏寺」『投げ入れ堂』

鳥取県の三徳山「投入堂」が昨年の鳥取中部地震の影響を受けて、登る事が出来ず見る事が出来なかったようなのですが、安全が確保されて、開山式が平成29年4月18日(火)10時からと決定しました。
開山法要及び、慶雲入峰修行後、一般の方も入山可能となりましたので、皆様にも是非とも御紹介したいと思い、今日は国宝三徳山三仏寺「投入堂」をご覧頂きます。

CIMG15961.jpg(国宝!「投入堂」役行者が投げ入れた伝説があります。)

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【三徳山 三佛寺ててどんなお寺なの?】

山号は三徳山、三仏寺は宗派天台宗の寺院です。
住所は、鳥取県東伯郡三朝町三徳1010



御本尊は、「釈迦如来」「阿弥陀如来」「大日如来」です。

創建年は嘉祥2年(849年)とされ、開基は慈覚大師と伝わっています。

『札所』中国三十三観音霊場31番
伯耆観音霊場29番
中国四十九薬師43番(皆成院)


『文化財』
投入堂(国宝)
文殊堂、地蔵堂、納経堂ほか(重要文化財)

元々は、慶雲3年(706年)に役行者(ここにも役行者が!)が修験道の行場として開いたとされ、その後、慈覚大師円仁により嘉祥2年(849年)に本尊釈迦如来・阿弥陀如来・大日如来の三仏が安置され開山に至ったとされています。

鳥取県のほぼ中央に位置する三徳山(標高900メートル)に境内を持つ山岳寺院です。
古くは三徳山全体を境内としていた様です。
「投入堂」(なげいれどう)の通称で知られる奥院の建物は、垂直に切り立った絶壁の窪みに建てられた他に類を見ない建築物で、国宝に指定されています(これを是非ご覧頂きたいです。)。

伝説では草創の時期や事情についてははっきりわかっていない様ですが、近世の地誌『伯耆民談記』によれば、慶雲3年(706年)、修験道の開祖である役小角が子守権現、勝手権現、蔵王権現の三所権現を祀ったのが始めとされています。

役小角は伝説的要素の多い人物で、この伝承を文字通り信じることはできないのが残念ですが、三徳山(近世以前は「美徳山」と書くことが多いそうです。)は、同じ鳥取県所在の大山や船上山(両方登りましたしブログにUPさせて頂きました。)と同様、山岳信仰の霊地として古くから開けていたことが想像されます。

なお、子守権現、勝手権現、蔵王権現はいずれも奈良県の吉野山(修験道の霊地)に祀られる神です。

前出の『伯耆民談記』によれば、嘉祥2年(849年)慈覚大師円仁が釈迦如来・阿弥陀如来・大日如来の三仏を安置して「浄土院美徳山三佛寺」と号したといわれていますが、この説も伝承の域を出ないものですね(^_^;)。

中世になると、平安時代末期頃までの寺史はあまりはっきりしていないが、現存する奥院(投入堂)の本尊「蔵王権現像」の像内に納められていた文書には仁安3年(1168年)の年記があり、奥院の建物自体も様式上平安時代後期にまでさかのぼるもので、この頃には山岳修験の霊場として寺観が整っていたものと思われます。

中世以降、文書、記録等に「美徳山」の名が散見されるが、「三佛寺」の寺号が文献に現われるのは江戸時代中期以降に成ります。

近世に入って、慶長4年(1599年)には近隣の坂本村(三朝町坂本)のうち百石が三仏寺に寄進され、寛永10年(1633年)には鳥取藩主池田光仲から百石を寄進されます(これらの寺領は幕末まで維持されています)。
天保10年(1839年)には池田斉訓が本堂を再建するなど、近世を通じて鳥取藩主の庇護を受けました。

境内は、石段など一般的な参道によりアクセス可能な山下区域と、険しい登山道(行者道)によってのみアクセス可能な山上区域とに実質分かれています。

本堂裏にかかる宿入橋を境に、これより先は滑落事故の前歴を有する険しい行者道によってのみアクセス可能な山上区域となり、野際稲荷(十一面観音堂)、文殊堂、地蔵堂、鐘楼、納経堂、観音堂、元結耕堂、不動堂、投入堂などが所在します。

なお、山上区域への進入は「8時から15時まで」とされており、当該時間帯以外はもちろんのこと、冬季(12月~翌年3月)および荒天時には進入禁止となります。
加えて、進入に際しては寺側が定める入山手続きを踏む必要があります(結構厳しい約束事が在ります)。

【投入堂って何?勿論知ってるよね】

CIMG15931.jpg(どうやって投げ入れたんだ~?造るっていってもね~!すごいよね。)

奥の院(投入堂)実は、平安時代後期の建立(つまり役行者とは時代が違うんです、残念!)。
国宝指定名称は「三仏寺奥院(投入堂)」となっています。
愛染堂、棟札1枚、古材43点が国宝の附(つけたり)として指定されています。
永和元年(1375年)の修理棟札によると、当時は「蔵王殿」と呼ばれていた様ですね~。

「投入堂」左手奥にわずかに見えるくっついた小さい棟が「愛染堂」です。

当寺の奥の院たる「投入堂」は、前述の険しい登山道(行者道)を登った先、三徳山の北側中腹の断崖絶壁の窪みの中に建てられており、堂の上方は岩壁がオーバーハングしています。
堂が所在する場所は文字通りの絶壁となっており、参拝者は堂を斜め上方に見上げる地点までは立ち入りが出来るが、堂に近付くことは危険なため固く禁じられています。
過去に投入堂に近付こうとして滑落死した人もいるそうです。

投入堂の東(向かって左)には小規模な愛染堂が付属しています。
愛染堂は桁行一間、梁間一間、切妻造、檜皮葺きで、投入堂側の西面に両開きの板扉が設けられています。
投入堂の縁の東端は格子でふさがれており、投入堂・愛染堂間の行き来はできなくなっているそうです。

投入堂の写真から明らかなように、堂の正面・側面のいずれにも入口はなく、特別に許可されて入堂する者は、崖伝いに堂の床下を通って背面から縁に這い上がるしかないそうです。

前記の通り立ち入りが固く禁じられている投入堂であるが、2007年11月14日に約100年ぶりに修復されたことを祝する落慶法要が同堂内に於いて営まれ、その際に約60年ぶりに同堂の一般拝観が許可され、18歳以上の身体健康な約340名の応募者の中から選出された3名が、草鞋に作務衣・輪袈裟姿に着替えた上で、当寺住職・米田良中や当寺境内に構える三徳山皆成院住職の清水成眞などと共に行者道を登って入堂し、同法要に参列しました(凄!)。

日本建築史上他に例を見ない特異な建造物であるとともに、屋根の軽快な反り、堂を支える長短さまざまな柱の構成など、建築美の観点からも優れた作品ですよね。
建造時期については、様式上平安時代後期と言われてきましたが、確実な史料がなく、修験道の開祖、役小角がその法力でもって建物ごと平地から投げ入れたという伝説が語り継がれていたそうです(「投入堂」の名称はこの伝説に由来する)。

【さあ投入堂まで行ってみよう】

投入堂は険しい登山道(行者道)のみによりアクセス可能な山上区域内(区域末端)に所在します。
このため、同堂の参拝には本堂裏手に設置されている登山事務所で入山手続きを済ませる必要があります(受付時間「8:00~15:00」)。

この際、寺側による靴と服装のチェックを受けます。
三仏寺では投入堂への入山はあくまでも観光ではなく修行であるとされていて、三仏寺拝観料とは別にここで入山料(800円)を支払い、入山届に記入した上、貸与された「六根清浄」と書かれた輪袈裟を身につけ、すぐ裏にかかる宿入橋から行者道を登ることになります。
そして下山時には登山事務所でたすきを返納すると共に下山時間を入山届に記入してもらうことで、入山者の下山の確認を行い、不慮の事故に備えています。

投入堂への行者道は非常に険しく、登山に不適当な服装や靴を着用している者は入山を拒否されることがあり、特に女性のスカート姿は厳禁で、スラックスも望ましくないとされています。
また靴では底面にスパイクが付いたものについても、行者道や木の根の損傷防止の観点から、禁じられていました。

寺側では、投入堂の参拝に際し、動きやすい服装に登山に適した靴の着用、更に荷物をリュックサックに纏める等して両手が使える状態にすることを要求していますが、更に手袋(軍手、確か借りられました。)やタオルも準備しておくことが望ましいとされています(私は用意して行ったので問題はありませんでした)。
ここで使用する靴について、寺側では金具の付いていない登山用シューズの使用を推奨していますが、深い溝のついたゴム底を備えた靴であってもOKです。
登山事務所では、登山に適しない靴を履いて来た参拝者のため、草履を販売していました(私は勿論登山靴です。)。
なお、行者道には水分補給のための水場が無く、水筒等の装備も準備しておいたほうが望ましいが、途中トイレも無いため、初めから水分を摂り過ぎるのはよくない点にも注意が必要です。
登山事務所には飲料の自動販売機、トイレが備え付けられています。

以上のように寺側、滑落事故はあとを絶たないため、現在では1人での入山は拒否されている様です(私は一人でもOKでした?記憶違いかなぁ、同じ時間に来られた男性グループと一緒に成ったかも?)。
CIMG1602.jpg
(宿入橋、たどり着けるのか?)
CIMG1590.jpg
(文珠堂!高所恐怖症の方は絶対に無理です。写真の右下の岩が登山道です。)
CIMG1589.jpg(20メートルくらいはありますか?時期も五月だったかと?緑が綺麗です。)
CIMG1587.jpg
(分かるかしれませんが?縁が斜めに下がってるんですよ~涙!)
CIMG1597.jpg(正面観音堂、左半分は元結掛堂?だと思います。)
CIMG1599.jpg(観音堂の向こう登ってきた納経堂です。)
CIMG1592.jpg
(到着~国宝「投入堂」確かに登山というより修行でした。修行した甲斐は勿論ありますよね~美!)

投入堂へ向かう途中には野際稲荷、文殊堂、地蔵堂、鐘楼堂、納経堂、観音堂、元結掛堂、不動堂などが建っています(文殊堂、地蔵堂、納経堂は重要文化財、他は鳥取県指定保護文化財)。
いかにも山岳信仰の中心地らしく、山の麓から投入堂までの道程のうち、特に麓から鐘楼までは、起伏に富んだ自然の山道がほとんど改良されることなく、以前のままの状態で残されているため、非常に過酷な部分が多かったです。
CIMG15955.jpg(一緒に上がって来た大学生に撮影してもらうおじさん~痩せてます(;^_^A)

本堂裏の宿入橋からの高低差200メートル、全長ほぼ700メートルの行程は全て難所と言っても過言ではありません。
ところによっては鉄の鎖やロープ、時にはむき出しになっている木の根だけを頼りにしがみついて、その都度足場を確保しながら登り下りすることになります。
なお、難所は下りの方がはるかに通過困難ですから注意してください。
CIMG1606.jpg(そして、本当の汗と冷汗は此処、有名な三朝温泉の河原露天風呂でさっぱり~鳥取って本当に魅力的です。)

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2017/05/15

「人間国宝」『桂米朝』も愛した「時うどん?」の味を楽しんでみる。

私、歴史好きということで、実は古いものなら何でも好き(ほんまかいな?)なんです。

時には、能や狂言等も見に行ったりもする市郎右衛門なのですが、単身赴任中(五年程前に鳥取県米子市に2年間)の帰宅途中に高速神戸で本当に眠く成るので、何か良い策はないかと聞き始めたのが「落語」でした。

とても面白かったので直ぐにはまりこんだのですが、やはり「人間国宝」桂米朝さんの落語は何度聞いても面白かったですね~!お亡くなりになったときは、故人を偲んで清水寺の音羽の滝側の茶屋から「はてなの茶碗」のお話をブログでもUPさせていただきました。

今回は、そんな桂米朝さんがこよなく愛したといわれるおうどんを御紹介します(ですから、時うどん!つまり歴史食レポです)。

P4290376.jpg(風が強い日で暖簾もまくれ上がっていたのをなおして撮影~笑!本吾妻、本じゃないのも在るのかな?)

池田駅近くの大阪最古のうどん屋「吾妻」『ささめうどん』です。

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池田駅近くにある「吾妻」は、大阪最古のうどん店と言われています。



P4290375.jpg(二階以上はマンションに成っていますが店舗は昔の面影ですね~。)
P4290380.jpg(麺類、あずまですかね?)
P4290379.jpg(これも?あずま?阿しか読めません(;^_^A)

創業元治元年(西暦1864年)なので、今年で151年目。
看板が創業時のままで、文字そのものが年月と歴史を物語っていますね。

現在に至るまで、大きな改装(道路拡張などで)を2回ほどされたそうですが内装はできるだけそのままの状態に保っているそうです。

大阪なのに(池田ですけどね!)田舎のお家に行ったような懐かしい雰囲気があります。

因みに、1864年の出来事といえば、アメリカでは南北戦争まっただ中、日本は幕末で、6月24日(元治元年5月21日) 幕府が神戸海軍操練所を設立、7月8日(元治元年6月5日)池田屋事件が起こり、8月20日(元治元年7月19日)禁門の変(蛤御門の変)、9月13日(元治元年8月13日)には幕府が第一次長州征伐を命じています。

以前に、桂 吉弥さん(米朝さんの孫弟子に成ります。)のラジオ番組で米朝師匠がこのおうどんが好きだとおっしゃっておられたので、一度伺いたいと思っておりました。

前回の西国七福神巡りのおりに、近くの呉服神社を訪れたので、お昼は此方でと思い立ち、伺って見ました~(^^;。

お昼の時間を少し過ぎた、1:45分位だったせいか、混雑はしていましたが、待時間も10分程度、若い大学生?らしき可愛らしい(あっそちらの趣味は残念ながら、有りません(^_^;))男の子とテーブル席に相席で座ることが出来ました。

P4290358.jpg(店内も雰囲気があります。)
P4290363.jpg
(席は満席でした。)
P4290365.jpg(有名人のサインが一杯です。)

ラジオでも紹介していたのですが、ささめうどんの名の由来谷崎潤一郎の奥様が来店されたおりに、あまりのおいしさに感動され、名作「細雪」から名前が付いた謂れが有るそうです(細くて真っ白なおうどん正にですね。)。

【ちなみに谷崎潤一郎ってどんな人?】

谷崎 潤一郎(たにざき じゅんいちろう、1886年(明治19年)7月24日 ~1965年(昭和40年)7月30日)は、明治末期から第二次世界大戦後の昭和中期まで、戦中・戦後の一時期を除き終生旺盛な執筆活動を続け、国内外でその作品の芸術性が高い評価を得ています。
現在においても近代日本文学を代表する小説家の一人として、高い評価を得ています。

初期は耽美主義の一派とされ、過剰なほどの女性愛やマゾヒズムなどのスキャンダラスな文脈で語られることが少なくないが、その作風や題材、文体・表現は生涯にわたって様々に変遷しています。
漢語や雅語から俗語や方言までを使いこなす端麗な文章と、作品ごとにがらりと変わる巧みな語り口が特徴です。
『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』など、情痴や時代風俗などのテーマを扱う通俗性と、文体や形式における芸術性を高いレベルで融和させた純文学の秀作によって世評高く、「文豪」「大谷崎(おおたにざき)」と称されました。
その一方、今日のミステリー・サスペンスの先駆的作品、活劇的な歴史小説、口伝・説話調の幻想譚、果てはグロテスクなブラックユーモアなど、娯楽的なジャンルにおいても多く佳作を残しておられます。

【時うどんってどんな落語?】

お恥ずかしい事に、「時そば」の関西バージョンだとばかり思ってましたが、時うどんが先で関東に渡って「時そば」が出来てますね(知りませんでした。)。

江戸と上方、「時そば」と「時うどん」の比較ですが、そばとうどんの違いだけでなく、ストーリーも少し違うようです。
「時そば」は、一人の男が屋台の蕎麦屋で、やたら店主を煽て褒め上げて支払いを一文ごまかし、それを脇で見ていた別の男が真似をしようとして失敗するという話です。
「時うどん」は、二人の男が何か食おうと金を出し合ったが、二人合わせても屋台のうどんを食べるのに一文足りない、そこで一人の男が良い考えがあるから一杯のうどんを二人で分けようと屋台のうどんを注文し、口先で支払いをごまかす。
もう一人の男は半分ずつという約束を反故にされて腹を立てながらも、上手い事やったなと感心し、真似をしようとして失敗するいうお話です。
これも、上方から、しかも明治になってから移入された噺なんです。
あきりにもポピュラーすぎて、咄家さんにとっても演りづらい噺のひとつだそうです。

さて食レポでしたね~おいしいおうどんをご紹介します。

P4290360.jpg
(メニュー!中身撮れっての!)

その前に、相席の男の子が天ぷらそばを注文されたので、ブロガーであることを話して写真を撮らせてもらいました。
こちらです。

P4290367.jpg(天ぷらそば~美味しそうです。学生さん?ありがとうございました。)


そしてこちらが名物の「ささめうどん」¥700

P4290371.jpg(こちらが「ささめうどん」です。ラーメンブロガーの友人が多いのにも関わらず、麺を引き上げた写真を撮れていない私って本当に勉強不足だなと実感してます。)


みつば、きざみあげ、塩昆布、おぼろこんぶ、かまぼこ、柚子、 生姜入りで、餡がからみ、アクセントの柚子で味がひきしまります。
麺の太さはにゅうめんに近く、45年前より試行錯誤してゆでる時間と食べやすさでこの細さになったそうです。
これがまた餡と絡まって、熱々のままでもつるつると食べられてしまいます。

流石は関西のおうどん、御出汁のうまさはたまりません。
熱々の餡状出汁が細い面に絡みついて上品な鰹の旨味と香りが徐々に口の中に広がってきます。
そして薬味に添えられた生姜のやわらかな辛味が御出汁に変化をもたらして、最後まで飽きの来ない味でした。

お出汁は朝一日分を作り、鰹と昆布に鯖と鰯からとり、そして一升瓶(5~6人分)ずついれて保存するそうです。
瓶づめにしているため、香りが抜けにくく、注文後に一人分ずつ出して温めるので、煮詰まることなくいつでも上品な味で用意できるそうです。

他にもかやくごはん¥350も大人気、ささめうどんと一緒に食べることに定評があるそうですが、私は売り切れで味わえませんでした(涙)。

P4290382.jpg(出口は駐車場に直結!看板の文字はもう読めませんね~生蕎麦?)

「吾妻」大阪府池田市西本町6-17TEL:072-751-3644
営業時間10:30-18:00(ラストオーダー 17:45)
ランチ営業、日曜営業定休日火曜日:祝日の場合翌日(不定休有り)アクセス阪急電鉄池田駅:徒歩約10分
能勢電鉄絹延橋駅:徒歩約15分
阪急バス:西本町バス停前
駐車場有(店舗併設:3台 近隣にコインパーキングも有りました。)

本当においしいです。
大阪の歴史が此処に在ります。
人間国宝も楽しんだおうどんの味、皆さんも是非お出かけください。


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2017/05/13

阪急沿線七福神を巡る旅「満願」!第七弾「毘沙門天」を奉る『東光院』

さて今回の七福神巡りも今日で満願と成りました。
長々とお付き合いありがとうございました(^人^)。
皆様に少しでも御利益がございます様にお祈り申し上げます。

P4290539.jpg(最初の写真はインパクト!かわいらしい水かけ地蔵様、水をかけながら写真に写したのですが、ひしゃくが入らなかった。)

阪急沿線西国七福神の最後を飾りますのは、「毘沙門天」を奉る、「萩の寺」こと、『東光院』です。

西国七福神は阪急宝塚線沿いに、それぞれ由緒ある各社寺に古くから祀られている神々です。
一年の福徳を願って、集印めぐりをいたしましょう。

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【西国七福神巡りおさらい!】

P4290495.jpg
(一番霊場はこちらですが、完全に逆打ちに成ってしまいました。うるう年じゃ無かったですね?)
P4290558.jpg(こちらが大人?用の満願金杯です。300円ずつ払って印鑑を集めていきます。)

古来より七福神は、民衆の間で厚く信仰され、室町時代から盛んになりました。
神仏の数が七つに決められた経緯は諸説あるようですが、仁王般若経「七難即滅、七福即生」の出典によるというのが有力といわれています。
この七福神をそれぞれおまつりした七つの社寺を巡拝するのが「七福神巡り」ですね。
現在、今日の毘沙門天(東光院)を一番札所(巡りましたのは最後に成りました。
逆打ちに成りましたね~笑!、大阪基準かな?)とし、福禄寿(圓満寺)、大黒天(西江寺)、弁財天(瀧安寺)、恵比寿神(呉服神社)、寿老人(中山寺)、布袋尊(清荒神)が阪急宝塚線沿線の要所々々に鎮座して、多くの参拝者が訪れています。

【毘沙門天てどんな神様?】
元はインドのヒンドゥー教のクベーラ神と言われています。
戦いの神でしたが、仏教に取り入れられてから、福徳増進の神としてしだいに民衆に信仰される様に成りました。
日本では毘沙門天(ヴァイシュラヴァナ)と呼ばれます。

P4290490.jpg(萩の寺毘沙門天王略縁起です。)
P4290562.jpg(顔が欠けているのが残念ですが毘沙門天ですね~!)


毘沙門天(びしゃもんてん、梵名: ヴァイシュラヴァナ、梵: वैश्रवण, Vaiśravaṇa)は、仏教における天部の仏神で、持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神であり、四天王では多聞天として表わされます(知らんかった~(^^;、一人だと毘沙門天なんですね !)。
また四天王としてだけでなく、中央アジア、中国など日本以外の広い地域でも、独尊として信仰の対象となっており、様々な呼び方があります。

戦国武将の上杉謙信(上杉謙信は、自分のことを毘沙門天の生まれ変わりだと信じていました。軍旗にも「毘」の一字をとって使っています。更には、上杉謙信公、毘沙門天の御利益か生涯一度も敗北しなかったのです、凄!)が信仰していた事でも知られていますね。

つまり、福の神・力の神・抜苦与楽の神・として知られる毘沙門天、その御利益はといいますと、出世開運、家内安全、受験合格、病魔退散、常勝祈願、商売繁盛、良縁成就、交通安全と何でもこい状態です(笑)。

東光寺の毘沙門天王は、大阪最古の「西国七福神霊場」御本尊として、多くの人々に出世開運、福徳を授け、才能を与え、その誓願を守護する福神様です。

皆様の願い事が叶いますように、毘沙門天王の福徳ご集印にお参り下さい。

阪急七福神巡りの問い合せ、阪急電鉄交通ご案内センター TEL06-6133-3473
朱印受付時間のお問い合せ七福神会事務局 萩の寺 TEL06-6852-3002

【東光院ってどんなお寺なの?】


「東光院萩の寺」は、天平7年(735)行基開創による曹洞宗別格地寺院です。

P4290422.jpg(東光院の札、大阪に近づくとお寺の看板?もお洒落に成ります。)
P4290525.jpg(萩は秋の花、今は育成中でお庭に入れません。)
P4290474.jpg(多くの歌人の句碑がありました。一番有名な正岡子規「ほろほろと 石にこぼれぬ 萩の露」。)
P4290476.jpg
(雅号の子規はといえば不如帰の異称で、結核を病み喀血した自分を、血を吐くまで鳴くといわれる不如帰にたとえたと言われます。)
P4290455.jpg(多くの歌碑や句碑と青葉の萩の中にお寺が…)


もとは大坂豊崎の里(摂津国西成郡豊崎村下三番、現在の北区中津)にあって、境内に萩多く、通称「萩の寺」として親しまれ、「南の四天王寺、北の東光院」と並び称された格式ある古刹でした。

大正3年(1914)、阪急電車敷設により現在地に移転しました。

永い歴史の中には様々の変遷を経ておりますが、なかでも戦争にはばまれ、移転復興も中途の仮住まいを余儀なくされ、かつての名刹の偉容を知る人も少なくなって久しい時代もありました。
近年境内整備・堂宇再建も徐々に進み、その中で判明した史実も少なからずあります。
そうした点を、ふまえながら、当山の二百余年の歴史を略記します。

【萩の寺の略史】

P4290425.jpg(御由緒)
P4290428.jpg(医薬門、門構えも立派ですね。)
P4290437.jpg(門を入ってすぐにこんなものが在りました。)
P4290440.jpg
(魯山人観音!美味しんぼの世界です笑い。)
P4290449.jpg(折角の萩の寺なのですが、時期が違うので今の時期は牡丹です。また秋の東光院もご紹介できればです。)


奈良時代、行基菩薩による草創。
文化文政期の禅風による中興。
川崎東照宮の承継と道了大権現の再興。
隠岐島のあごなし地蔵尊の遷座。
阪急電車敷設による移転と沿線七福神(西国七福神)霊場の創設。
新西国霊場ご御本尊「こより十一面観音像」の復興。
スリランカ国「アヌラーダプラ仏舎利」迎聖。

さあ!西国七福神巡りいかがでしたか?
頑張れば、一日で満願できますが、無理をなされませんように、神様はお隠れにまりませんからね~。


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2017/05/10

阪急沿線七福神を巡る旅!第六弾「福禄寿」を奉る『圓満寺』

さぁ~そろそろ、西国七福神巡りも満願へ近づいてまいりました

阪急沿線と銘を打って、阪急電車で巡るからには(私は車で回りましたがf(^_^;)、何か良い事が有るのでは?とお思いの皆さんも居られるでしょう。

そうなんです。
実はこんな可愛い七福神の船と神様人形がもらえます(大人仕様?は金杯がもらえるバージョンも有るようです。)。

P4290557.jpg
(宝船ならぬ、宝阪急急行梅田行に乗り合わせた宝電車に可愛い七福神が勢ぞろいします。御朱印とは別に印と人形を集めると阪急の駅で宝電車がいただけます。)

七福神は、福をもたらすとして日本で信仰されている七柱の神ですから、これを集めて飾れば、必ず多くの副が訪れること間違い無しですね♪。

今日は「福禄寿」を奉る『圓満寺』を御紹介致します。

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【圓満寺】



P4290387.jpg
(曹洞宗圓満寺山門です。)
P4290390.jpg
(延年山圓満寺です。階段の向こうに本堂が見えますね。)
P4290394.jpg
(本堂です。ごく普通のお寺ですけど~笑)
P4290399.jpg
(御本尊の木造漆箔「阿弥陀如来座像」の説明版!)


住所:豊中市蛍ケ池東町1丁目13-12
御本尊は平安後期に造られたと推定される 木造漆箔の「阿弥陀如来坐像」です。
この御本尊、元は宝塚の中山寺にあったものと言われています。

【福禄寿たってどんな神様?】

先ずはおさらい、七福神(しちふくじん)とは、福をもたらすとして日本で信仰されている七柱の神様でしたね。

その中の一柱、「福禄寿」の名前は、「幸福の福・身分をあらわす禄・寿命を表わす寿」の三文字からなり、中国、道教の長寿神です。
南極老人(南極老人って!爆)星の化身であり中国の村や町に住み、人々の信仰を集めたといわれる仙人なのです。
長い頭、長い顎鬚、大きな耳たぶをもち年齢 千歳といわれます(仙人ですからね~、笑)。
長寿、幸福の徳を持ち、鶴と亀を連れて、左手に宝珠、右手に巻物を括り付けた杖をもつ姿が特徴です(私もスマホのストラップに福禄寿の根付を着けております。何かのオマケだったかな?この記事を書くまで、寿老人だと勘違いしてました。鶴が寄り添ってまして、驚!)。
招徳人望の神様として信仰されている他、寿老人と同一神とされることもあり、長寿と福禄をもたらしましす。

P4290407.jpg
(本堂を斜めから、西国七福神集印巡りの看板があります。)
P4290401.jpg
(西国七福神「福禄寿尊」の看板!)

【圓満寺の歴史はどうなの?】

P4290403.jpg
(本堂の圓満寺の額もなかなかです。)

住職の「伊串善道」氏のお話では、南蛍池の丘に建つ圓満寺は、天平元年(729)に行基菩薩が、この付近の新免の庄を中心に建立した、「金禅寺」という大伽藍(金寺千坊と称す)の一堂の建立を草創としたるを縁起の初めとします。
元は古義真言宗の寺院で、度重なる災禍により焼失し、後年現在の地に再建され、大阪「鳳林寺」四代目であった萬源燈瑞大和尚を招き禅宗「曹洞宗」に改めて「延年山圓満寺」と称することとなりました。

戦国時代の戦乱で焼失した後、麻田藩の初代藩主青木一重がこの地に再建したと伝えられています。
石段を登りきった正面に本堂があります。
秋の紅葉は見事で、特に本堂の左手の石垣に沿った紅葉は見事です(左手は駐車場に成っており、私はそちらから伺いました。)。

P4290384.jpg
(本堂左手の駐車場から登ると景色はこんな感じです。秋には紅葉がとても綺麗そうです(;^_^A)
P4290398.jpg
(鐘楼も普通~~!本当に普通のお寺でした~笑)

また、近年では阪急沿線の七福神めぐりの福禄寿として知られています。

【実は八福神も有るって知ってました~?】

「お多福」
お多福を加えて八福神とするケースがあります。
お多福の起源は、鎌倉時代初期の大工の高次の妻、阿亀(おかめ)らしいのですが、いかにも副が来そうです。
これに女性を表わす舞の面(お多福)や、天之宇受売命のイメージが習合した神です。

「吉祥天」
吉祥天を加えて八福神とするケースも有るようです。
吉祥天とはインドのラクシュミー女神のことで、毘沙門天の妹または妃らしいのですが、幸福・美・富などの神です。

「達磨」
達磨を加えて八福神とするケースも有ります。
達磨は、5世紀頃の人で南インドの王子ともペルシア人ともいわれる高僧で、中国の南朝の宋に渡り極東の禅宗の開祖となった事は有名ですね。
少林寺において坐禅9年、手足が腐って落ちたと伝わります(凄い修行ですね。)。
日本の曹洞宗や臨済宗もその門葉という事に成ります。

「宇賀神(男弁天)」
宇賀神は人間の頭で首から下は蛇という神で、弁財天と習合した日本土着の神です(これは知りませんでした~(^^;)。
こちらを加えて、八福神!。

流石は和国、日本ですね~!
色々な神様に対しても寛大ですね、関西人としては「ビリケンさん」なんかいかがでしょうか?(笑)

さぁ!後一柱、皆様に御利益が有ります様に頑張って、御紹介します(⌒0⌒)/~~


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2017/05/08

阪急沿線七福神を巡る旅!第五弾「弁財天」を奉る『瀧安寺』

祝10000アクセス~(#^.^#)
皆様方のおかげで一年半で1万アクセスに到達致しました♪
始めのうちはアクセスが自分だけ、なんて日が一ケ月は続いたでしょうか(笑)?

今も決して多いPVポイントでは有りませんが、Bloggerのお友達も出来てオフ会を開催したりして楽しんでいます。
これもひとえに、応援して下さった皆様のお陰です。
此れからも、より良い記事を追及しながら、頑張っていきたいと思いますので、宜しくお願い致します(^人^)。

さて本題、ゴールデンウィークも終わり、仕事に復帰しましたが、なまった身体は痛いやら怠いやら、仕事から逃げて帰りたかった市郎右衛門です(本題ちゃうやん(^_^;))。

さて今日の御紹介は、阪急沿線西国七福神の続編、「弁財天」を祀る『瀧安寺(りゅうあんじ)』です。
大阪府箕面市箕面公園にある本山修験宗(修験道の一派)の寺院です。
山号は「箕面山(みのおさん!そのものやん)」。

CIMG7824.jpg(今回は足を延ばさなかったのですが、1万アクセス記念の箕面大滝「日本100名瀑」をご覧いただきます。)


箕面公園を大滝へ向かって歩いて行くと、箕面昆虫館の直ぐ先に有ります。

宝くじの原型「富くじ」の発祥の地としても有名です。

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P4290175.jpg(良い天気!新緑も綺麗ですね~昭和の初めにタイムスリップしたみたいです。)
P4290189.jpg
(石の中~たくましく生える木「筆」と名前までついています。たくましい!)
P4290191.jpg(周りの景色を見ている間についてしまいました。瀧安寺ですが鳥居、神仏習合の名残りですね。)

【瀧安寺の歴史は?】

歴史ですが、寺伝によれば658年(一説には650年)に役小角が箕面滝の下に堂を建設し、本尊の弁財天像を安置し、「箕面寺」と命名したのが始まりとされます。
平安時代に後白河天皇が編纂したとされる「梁塵秘抄」には「聖のすみかは何処何処ぞ、箕面よ勝尾よ」と歌われています(勝尾寺「西国三十三観音霊場」へも山伝いに行けますね。)。

後醍醐天皇が隠岐に島流しになった際には、護良親王が箕面寺に帰還祈祷を依頼したといわれます(史実では無事帰還されているので、霊験あらたかですね。)。
その後「瀧安寺」という寺号を賜ったとされます。
そのほかにも、山岳霊場として栄え、「空海」「日蓮」「蓮如」(凄い面々ですね(#^.^#))が修行したほか、現在も護摩法要が行われています。

室町時代末期に織田信長によって焼失し(またか信長さん!)、江戸時代になって後水尾天皇の援助によって現在地に再建されました。

また、天正年間に日本で初めて宝くじの発祥である富くじを始めた寺院としても伝わっています。

弁財天を祀っている所から、芸能の寺としても知られ、近松門左衛門、坂田藤十郎ら上方歌舞伎関係者が大般若経を奉納しています。

【弁財天ってどんな神様?】

七福神の中で、唯一の紅一点で、元はインドヒンドゥー教の河(水)の神サラスヴァティーでしたが、やがて音楽の神、言語の神となり日本に伝わりました。
伝来当初は、弁才天と呼ばれていたようです。
その後、財宝・芸術に関係深い吉祥天の性格が吸収され弁財天といわれるようになり、財宝を授けてくださる神へとなりました。
知恵財宝、愛嬌縁結びの徳があるといわれています。
更に、仏教に取り入れられ、音楽・弁才・財福・知恵の徳のある天女となり七福神の一柱「弁財天」となりました。

【富くじって今の宝くじと同じ?】

宝くじの発祥とされる富くじはこの寺院から発祥したとされます。
富くじ発祥の年は1575年(天正3年)に始まる「富会」であり、その行事は地元民により受け継がれ、江戸時代に最盛期を迎えます。

番号が入った富札を発売し、それを同じ番号の木札に授け、期日に箱から札を選び、幸せを授けるというもので、明治時代まで続きました。
これが「宝くじ」の発祥だと主張する地元方々もおられるようですが、現在も定かではないそうです。

藤原兼隆の歌によると、約950年前以前から富くじはあったとされ、この寺院の富くじは箕面富と呼ばれていました。
富くじで当選した者は、お守り「大福御守」が授けられたといわれます。
しかしながら、江戸幕府により富くじ禁止令の発令により富くじは中止される事に成りますが、「瀧安寺」の富くじだけは特別に許されたそうです(金銭や商品では無かったからかな?)。

【美しい建物御紹介】

山門は光格天皇が1809年(文化6年)に京都御所から移築したものだそうです。

P4290196.jpg(光格天皇が御所から移築したと伝わる山門です。)
P4290208.jpg(綺麗ですね~鳳凰閣赤い橋の下を道路と川が流れます。)
P4290214.jpg(観音堂!ぴかぴかです。)
P4290236.jpg(如意輪観音「重要文化財」御前立かな?)
P4290241.jpg(護摩法要が行われる護摩場)


今日の本題、弁財天本堂(弁天堂)は後水尾天皇の勅命により1656年(明暦2年)に建てられました。
この「弁財天」は日本四弁財天に数えられています。
奥殿と拝殿から成る神社形式になっています。
本尊に弁財天、脇尊に毘沙門天と大黒天が安置されています。

P4290268.jpg(こちらが弁天様が祀られる弁天堂、前からはお寺の本堂の様な「拝殿」ですね。)P4290274.jpg(後ろから見ると奥まった場所に神社のように「奥殿」があります)

行者堂(開山堂)は本堂同様に、奥殿と拝殿から成っています。
主尊に役小角、脇尊に不動明王と蔵王権現が安置されます。

観音堂は2002年再建されました(ぴかぴかです)。
中央に如意輪観音(重要文化財)、左右に阿弥陀如来、弘法大師が安置されてます。

通路側にある鳳凰閣は昭和時代初期の建築物だそうです(とても風情があります。)。

箕面といえばお猿さん、私は何度か大滝迄行っていますが、一度も猿は見たことは有りません。
一度、日本カモシカ見ましたけど(驚)、猿に悪戯去れないように、お供え物についての注意書きがありました。

以前に箕面大滝は御紹介したと思いますので、今回は瀧安寺で引き返しました(新緑が最高だったのですが取材がまだあったのでね~残念!)。

西国七福神巡りもあと二つ、どうか皆様にご利益がありますようにお願いして巡ります。

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