2017/03/14

涙脆い人はハンケチをご用意下さいね!平敦盛『胴塚』

私のブログの特徴として、時代(時間)の移動が極端すぎる事をご理解ください(^人^)。
今回も12世紀の終わり、前回から7~800年程移動しました(笑)。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。 
中学で覚えて40年忘れた事は有りませんでした。
自慢に成りますけど(自慢するな~(*`Д´)ノ!!!)。
やはり琵琶の音とか欲しいな(((^_^;)

今日は「平家物語」の中でも、最も涙の量が多くなる「巻第九~敦盛最後」ゆかりの地から、「平敦盛の胴塚」を御紹介します(。´Д⊂) 
涙脆い人は注意してね!

神戸市須磨区の須磨公園駐車場の直ぐ隣に有ります。

P2220144.jpg
(須磨寺奉納額より「平敦盛を呼び止める熊谷直実」)

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『平家物語』の中でも最も有名な逸話であり、諸行無常の念を強くさせるのが、平敦盛の最期の場面です。

【平敦盛って誰?】
平 敦盛(たいら の あつもり)は、平清盛の弟、平経盛末子です(清盛の甥に成ります。)。
織田信長が『敦盛』を好んで舞ったと伝わることから、戦国史ファンにとっては馴染の有る名前ですね。  
平敦盛は若年ながら笛の名手と歌われます。
平氏軍が敗走する際、漢竹の横笛(青葉の笛・小枝)を忘れ取りに戻る
そんな「平家物語」のシーンが有名ですね。

【ストーリー】
平安時代末期、政治の実権を握り、栄華を極めていた、平氏一門。
しかし、それに反発する源氏の勢力も急速に拡大し、平清盛の死後、源氏の軍の圧倒的な兵力により、平氏は一度は都を追われてしまいますが、何とか軍勢を立て直し、神戸「一ノ谷(現在の須磨公園の辺りです)」に陣をかまえます。

寿永3年(1184年)の一ノ谷の合戦は、源義経の奇襲によって勝敗を決します

P2220065.jpg(須磨公園駐車場の直ぐ西側、敦盛胴塚です。)
P2220090.jpg(この角度を馬で駆け下りた義経もさるものですね~驚!)
P2220091.jpg(須磨海水浴場が見えていますが、平地部分が一の谷ですね。)
P2220106.jpg(標高253mの旗振山頂上です。ここから源氏の猛攻が始まったんですね。)
P2220108.jpg(駆け下る?ハッキリ言って歩いても簡単ではありません。私はロープウェーです。(;^_^A)

不意を突かれた平家軍は堪えきれず、逃げまどい総退却、 屋島(香川県高松市の東北部)に向かって海上を船で敗走し始めます。

先陣を切ったものの、戦功を挙げることが出来ずにいた源氏方の「熊谷直実」は、「平氏の軍が、助け船に乗ろうと、波打ちぎわの方へ逃げているにちがいない、 身分の高い大将と立ち合いたいものだ」と考えていました。
そこに、馬で沖の舟まで辿り着こうとする一騎の武者を見つけます。
身なりからいって平家の公達であることは間違いないと考えた熊谷直実が「待て敵に背中を見せて逃げるか?戻って立ち合え!」と声を掛けると、敵将の一人がその呼びかけに振り向き、「おう」と凛々しくも応じて陸に向かって引き返して一騎打ちとなります。

直実は歴戦の強者、またたく間に敵将を馬から引きずり下ろして組み伏せます。
そして首を切ろうと相手の顔を見ると、まだ幼さが残る薄化粧にお歯黒(当時の貴族は男性も既婚者は此のような化粧だったようです。)の若く美い若者でした。
直実には、ちょうど自分の息子「小次郎」と同じぐらいに見えました。

直実が名を尋ねると、若者は「名乗る必要は無い。首実検すればわかること」とにべもない返事、殺すに忍びないと、逃がそうかとも考える直実(なんと立派な大将だ!この者一人を討ち取っても、討ち取らなくても、 勝つ時は勝つ、負ける時は負けるのが戦というものであろう。この者の父は、この者が討たれたと聞けば、どんなにか嘆き悲しむ事だろう。 なんと哀れなことだ。なんとかして助けてやろう!)だったのですが。

しかしこの時、味方の騎馬50騎程が近づいており、ここで敵将を助けたならば、武士として恥ずべき裏切り行為を犯すことになります。
「あなたを何とか助けたいとは思うが、味方も数多く迫ってくるので、 もう逃がす事ができない。 あわれとは思うまい、他の誰かの手にかけるよりは、せめて私が首をとって、後に立派に供養いたします」と声をかけるものの、それを聞いても若武者は、 「さあ、さっさと首を取れ!」と相変わらず堂々とした、毅然とした態度は変わりません。

直実は、後世の供養を誓うと、涙ながらに若者の首を取ったのでした。

直実が後に知る事ですが、若武者は名を「平敦盛」といい、歳はまだ16歳。
そして遺体についていた腰の袋の中に、笛を見つけます。
甲冑を着ながらも所持していたその笛は、こんな戦場でも雅を忘れない、貴族の心を持っていた人物だという事の証拠でした。
敵陣から聞こえてきた笛を吹いていたのがこの若者であったのかと気づき、戦の世の無常を悟るのです(ToT)。

平家物語の中でも最も悲しく泣ける話と有名な、敦盛の最後のシーンです。

【平敦盛胴塚】
一ノ谷の古戦場のそば、国道2号線に面したところに大きな五輪塔があります。



これが平敦盛の胴塚とされる敦盛塚です。
高さ3.5mという大きな塔で、室町時代に供養塔として建てられたとされます
一方、敦盛の首は実検を終えると近くの須磨寺に葬られ、その境内に首塚が建てられています。
また、須磨寺には敦盛が身につけていた名笛「青葉の笛」が収蔵されています(首塚・青葉の笛は次回御紹介させて頂きます。)。
 
P2220074.jpg
(敦盛の胴塚お花に線香!美少年の人気は800年経っても変わりませんね。)
P2220067.jpg(五輪塔説明版)
P2220069.jpg
(凄い大きさです。全国2位、1位は石清水八幡宮に在るそうです。写真有ったかな?)


【うんちく~アツモリソウ】
アツモリソウ(敦盛草)の名前は、寿永3(1184)年2月、源氏の名将源義経は、平氏を真下に見下ろす、人間が降りることが困難な断崖絶壁である鵯越を馬で降りて、平氏の陣に火を放ちます。
この奇襲攻撃で平氏は大敗し沖の船に乗り込み逃げ落ちる事に成りました。
この戦いで討たれた平家の若き将、平敦盛の名に由来する花です。

DSC00314[1]
(Wikipediaよりアツモリソウ、綺麗ですね~丸いところが母衣に似ています。)

和名の由来は勿論!当時合戦で流れ矢を背後から受けた場合の防具として、大きく膨らませた袋(母衣、近頃のドラマや映画ではよく出て来るように成りましたね。)を鎧の上に背負っていたようで、その形がこの花の形に似ていることから付いた名称といわれています。

Kumagai_Naozane,Ichinotani[1]
(Wikipediaより、平敦盛を呼び止める熊谷直実。その背中に大きな赤い母衣を負う。永青文庫蔵「一の谷合戦図屏風」より。)

袋状の唇弁を持つ花の姿を、平敦盛の背負った母衣(ほろ)に見立ててつけられています。
また、この命名は熊谷直実の名を擬えた同属のクマガイソウと対をなしています。

W_kumagaisou4041[1]
(Wikipediaよりクマガイソウです。)

日本人の美意識に敬服しますね。
戦国武将の家紋も殆どが花ですが、そんな国が日本以外に有りますかね~(*^.^*)
本当に日本人で良かったと思える発想ですね(#^.^#)。


いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
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