2017/03/21

平家物語の最後を飾るのは「灌頂巻 」そして舞台は『寂光院』

「祇園精舎の鐘の音」とは、無常院無常堂の鐘の事だそうです。
無常堂は祇園精舎で終末期を迎えた僧たちが、最後のひとときを過ごす場所、彼等が臨終を迎えると、建物の4隅に配されていたこの鐘が、ひとりでに鳴るのです。
信者の内なる世界にしみこみ、不安やおそれを取り除いて心の平安をもたらす癒やしの鐘の音は、「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」(すべての物がうつろうのは世の定め。この法則を超越すると、死もまた楽しみとなる)と聞こえるらしいです。
病僧は、その響きを聞いて死の苦悩から解放され、安らかに浄土に旅立ったといわれます。
そして、人々はそこの鐘の音を聞き、いかほど栄華を極めた人でも、最後は滅亡してしまうことを知るのです

飛ぶ鳥を落とす勢いの平家一族の滅亡、平家座頭(平家物語を語る琵琶法師)は当初から廻国の芸能者でありました。
中世には文化人の伝手や紹介状を頼りに、各地の有力な大名家に芸を披露して回りました。

CIMG9938.jpg
(季節外れですが、やはり幕を下ろすにふさわしいのは紅葉ではありませんか?)

琵琶法師が弾き語る歴史物語の『平家物語』、今回シリーズの平家物語の最後を飾るのはやはり、幕引き役平徳子(建礼門院)と後白河法皇ですね。
「盛者必衰の理」の総括を『寂光院』からお届けします

其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいね。 
ブログランキングならblogram

👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。
バナーをクリックいたしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~(笑)
市郎右衛門は現在すべてTOP10に入っておりますので、そちらをもう一度クリック頂きますとブログに戻れます(^人^)。


【後白河法皇寂光院大原御幸((おおはらごこう))】
平家物語の最後は「灌頂巻」といって徳子の後日譚です。
平家滅亡時に壇ノ浦で入水しようとした徳子は助けられて京の大原で隠棲し出家します。
平家や安徳天皇の菩提を弔いますが、そこに後白河法皇が、大原に隠棲した建礼門院徳子(平清盛・時子の娘。安徳帝の母)を訪れる「大原御幸」で終わります。
そして二人は平家の栄華と滅亡を振り返るのです。

そして「平家物語」は徳子の極楽往生で物語が終わります。



CIMG9918.jpg
(有名な大原女も伝統漬物のひとつ「大原のしば漬」も寂光院が始まりだそうです。)
CIMG9941.jpg
(素敵な門構えです。)
CIMG9924.jpg
(雪見鉄灯篭は豊臣秀吉ゆかりの物だそうです。秀吉は平氏を名乗ったために征夷大将軍に成れなかったのだそうです。驚)


『平家物語』によると徳子は安徳天皇・時子の入水の後に自らも飛び込みますが、渡辺昵に救助されたといわれます。
しかし同じ『平家物語』の「大原御幸」の章や説話集『閑居友』では、時子(清盛の妻)が「一門の菩提を弔うために生き延びよ!」と徳子に命じたとしています。
いずれが正しいか不明ですが(後の演者の創作?)、生き残った徳子は平宗盛・平時忠らと京都に護送されます。
宗盛は斬首、時忠は配流となりますが、徳子は罪に問われることはなく洛東の吉田の地に隠棲します。
5月1日には出家して、直如覚を名乗ります。

7月9日、京都を大地震が襲い、多くの建物が倒壊してしまいます。
吉田坊も被害を受けたと思われ、9月になると徳子は「山里は物のさびしき事こそあれ 世の憂きよりは住みよかりけり」(『古今集』読人知らず)の心境で比叡山の北西の麓、大原寂光院に入ります(『平家物語』)。
大原を訪れた建礼門院右京大夫は、御庵のさま、御住まひ、ことがら、すべて目も当てられず (ご庵室やお住まいの様子など、すべてまともに見ていられないほどひどいものだった)。
都ぞ春の錦を裁ち重ねて候ふし人々、六十余人ありしかど、見忘るるさまに衰へはてたる墨染めの姿して、僅かに三四人ばかりぞ候はるる (都ではわが世の春を謳歌して美しい着物を着重ねて仕えていた女房が、60人余りもいたけれど、ここには見忘れるほどに衰えた尼姿で、僅かに3、4人だけがお仕えしている)と涙を流し、今や夢昔や夢とまよはれて いかに思へどうつつぞとなき (今が夢なのか、それとも昔が夢なのかと心は迷い、どう考えても現実とは思えません)
仰ぎ見し昔の雲の上の月 かかる深山の影ぞ悲しき (雲の上のような宮中で見た中宮様を、このような深山で見るのは悲しいことです)と歌を詠んでいます(『建礼門院右京大夫集』)。

CIMG9936.jpg
(ご本尊は聖徳太子ゆかりの六万体地蔵尊と称される地蔵菩薩です。)
CIMG9931.jpg
(建礼門院座像)
CIMG9928.jpg
(庭も美しいですね~写真一杯あるんですけど…ほどほどで、笑)
CIMG9927.jpg
(一昨年の紅葉はイマイチでした~残念!)

後白河法皇が大原「寂光院」の徳子を訪ねる「灌頂巻」は古典文学『平家物語』の終巻で、徳子の極楽往生をもって作品は終わりますが、この大原御幸の史実性については諸説ある様です。

文治2年(1186年)4月、後白河法皇が徳大寺実定、花山院兼雅、土御門通親や北面武士を伴にお忍びで大原の閑居を訪ねます。
徳子は落魄した身を恥じらいながらも、泣く泣く法皇と対面して、「太政大臣清盛の娘(人間)として生まれ、国母となり、わたしの栄耀栄華は天上界にも及ぶまいと思っていましたが、やがて木曾義仲に攻められて都落ちし京を懐かしみ悲しみました。海上を流浪し飢えと渇きに餓鬼道の苦しみを受けました。そして、壇ノ浦の戦いで二位尼は「極楽浄土とてめでたき所へ具しまいらせ侍らふぞ」と言うと先帝を抱いて海に沈み、その面影は忘れようとしても忘れられません。残った人々の叫びは地獄の罪人のようでした。捕えられ播磨国明石まで来たとき、わたしは夢で昔の内裏よりも立派な場所で先帝と一門の人々が礼儀を正して控えているのを見ました。『ここはどこでしょう』と尋ねると『竜宮城ですよ』と答えられました。『ここに苦しみはあるのでしょうか』と問いますと『竜畜経に書かれています』と答えられました。それで、わたしは経を読み、先帝の菩提を弔っているのです」とこれまでのことを物語した。
法皇は「あなたは目前に六道を見たのでしょう。珍しいことです」と答えて涙を流したと記載されます。
あの後白河院が落ちぶ れた、建礼門院を見て涙を流して同情し、「あなたは生きながらに六道を見た稀有の人だ」等と本当に言ったのでしょうかねぇ(大河ドラマのイメージ入り過ぎかも知れませんが、笑)?

CIMG9939.jpg
(それでも綺麗に映っていますかね。)
CIMG9937.jpg
(この池のほとりでお二人の「平家物語」の最後のワンシーンが実際に在ったんですよ~!)

【建礼門院没年】

『平家物語』(覚一本)では建久2年(1191年)2月に没したとされますが、この時期はまだ人々に平氏への関心が高く、徳子の死も何らかの記録に残ったと思いますので可能性は薄いかと思います。
そのため『皇代暦』『女院小伝』『女院記』などの記述から、建保元年(1213年)に生涯を閉じたとする説が一般的となっています。

【陵墓】

陵墓入口
陵は寂光院隣接地にある(宮内庁管轄の大原西陵)。

CIMG9916.jpg
(勿論宮内庁管轄)
CIMG9947.jpg
(「建礼門院」平徳子のお墓です。)

また安德天皇とともに各地の水天宮で祀られています(前回、須磨でも一箇所御紹介致しました。)。
また、京都府京都市東山区にある長楽寺にも墓があります。

最後に、天の邪鬼の私は、後白河院なら「お前の父清盛が武家の分際で皇室を蔑ろにし、言仁親王(安徳天皇)を強引に即位させた報いなのじゃ」と建礼門院を嘲笑いそうな気もするのですが(((^_^;)。

まあ、後白河天皇(77代)→高倉天皇(80代)→安徳天皇(81代)と実の孫な訳ですから、そこまでは無いかなとも思ってますが!

平氏は滅びますが、清盛が成し遂げた武力(武士)による政治力は此の後も、ずっと続く事に成ります(むしろ武士無くしては、政治が出来なくなります。)。
清盛の努力は決して無駄ではなかったと言うことですね。


安徳天皇は「平家の都落ち」に同行、都では、新天下人たる木曽義仲の要望をあしらって、「治天の君」である後白河法皇の「天皇なしというわけにはいかない」との主張と指図により、安徳帝の異母弟・尊成親王(たかなり)が、三種の神器なしで即位します。
わずか4歳で皇位を継いだこの子こそが、後鳥羽天皇なのです。
後鳥羽帝は「承久の乱」を引き起こして鎌倉幕府討幕を目指すのですが、北条政子の有名な演説「いざ鎌倉」の一言?で坂東武士団に完敗、身柄を隠岐に流され、平家も上皇も天皇もいなくなった都では、平安時代が名実ともに幕を閉じ、武士の世が始まりを告げます。

いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチッと」クリックして頂けましたら嬉しいです。
 👇👇👇   👇👇👇   👇👇👇   👇👇👇
ブログランキングならblogram
スポンサーサイト
2017/03/18

悲劇の幼帝『安徳天皇』須磨「一の谷」内裏跡伝説地を訪れて !

今回も涙が多くなりそうでタオルが必要と思うのですが、感傷的に成るよりも、冷静に考察したいと思うお話ですσ(^_^;)?

安徳天皇は2歳で即位しながら、壇ノ浦の戦いで祖母二位の尼(清盛の妻)に抱かれ、平家一門とともに関門海峡に沈んまれた8歳の幼帝です。

須磨の安徳帝内裏跡伝説地を訪れて来たのですが、はっきり言うと「場所分かりにくい~(^^;」でした(笑)

今回のテーマは、「卑怯者だった?義経」「三種の神器の行方」について少しお話させて下さい。

P2220140.jpg
(安徳天皇内裏跡伝説の地)

須磨の安徳天皇内裏跡伝説の地とは余り関係無いのですが(^人^)、勿論内裏跡も御紹介しますよ~(^^;。

其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいね。 
ブログランキングならblogram

👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。
バナーをクリックいたしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~(笑)
市郎右衛門は現在すべてTOP10に入っておりますので、そちらをもう一度クリック頂きますとブログに戻れます(^人^)。


【安徳天皇内裏跡伝説の地】



P2220119.jpg(安徳宮と真理胡弁財天)
P2220120.jpg(安徳宮大鳥居)
P2220124.jpg(安徳宮)

安徳天皇は、高倉天皇を父親平清盛の娘「建礼門院徳子」を母として生まれた悲劇の幼帝です。
1180(治承4)年に2歳で即位しましたが、 1185(寿永4)年、壇ノ浦の戦いで平氏の敗北とともに祖母二位尼(清盛の妻)にいだかれて入水したと伝えられています。
この須磨一の谷の伝説地には、一時内裏がおかれたとのいい伝えがあり、 安徳天皇の冥福を祈って安徳宮がまつられています。

山と海に挟まれた須磨は、古くから白砂青松の景勝地として知られ、歌枕の地としても親しまれています。
かつて一ノ谷合戦で激しい戦いを繰り広げたこの地には、合戦にまつわる史跡や伝説が数多く残っています。

【一ノ谷と戦の濱】
「一ノ谷」は鉄拐山と高倉山との間から流れ出た渓流にそう地域で、須磨公園の東の境界にあたります。
1184年(寿永3年)2月7日の源平の戦いでは、平氏の陣があったといわれ、この谷を200mあまりさかのぼると、二つに分かれ、東の一ノ谷 本流に対して、西の谷を赤旗の谷と呼び、平家の赤旗で満ちていた谷だと伝えられています。

一ノ谷から西一帯の海岸は「戦の濱」といわれ、毎年2月7日の夜明けには松風と波音のなかに軍馬の嘶く声が聞こえたとも伝えられ、ここが源平の戦いのなかでも特筆される激戦の地であったことが偲ばれます(現地説明板より)。
 
「戦の濱」の碑がある辺から北(山側)に向かい、山陽電鉄の線路を越えて、つづら折れの急坂を上って行くと、高台の住宅街の一角に内裏跡公園があります(ハッキリ言って分かりずらい。)。

「福原鬢(びん)鏡」では、安徳天皇皇居跡としながらも、平家の諸軍勢がこもった場所で土手の跡が今も残っているとしています。

【安徳天皇を祀る安徳宮】

安徳帝は平家物語にあるように「海の下にも都があります、涙」との祖母二位の尼の言葉と共に千尋の底へ鎮まれました。
海の下の都とは龍宮であって、龍宮の主は龍神であり、安徳帝の御守護神であると伝えられております。
公園奥には安徳天皇の冥福を祈って「安徳宮」が祀られると共に「真理胡弁財天(龍神)」も祀られています。

P2220131.jpg(説明版)P2220133.jpg(海の下の龍神を祀っています。)

平氏の総大将宗盛(清盛の三男)は、一の谷合戦の三日前に清盛の三回忌を海上で営み、上陸する間もなく突然の源氏軍の来襲に、そのまま安徳天皇や建礼門院らと沖合の船で、戦いの情勢を見守っていたので、実際にここに内裏があったのかどうかはっきりしませんが、地元ではこの地に一時安徳天皇の内裏があったと伝えています。

後白河法皇は源氏に対して平氏追討の命令を発する一方、戦いの直前まで、平氏との間で三種の神器の返還をめぐる和平交渉を進めていました。
講和の相談のために静賢法印(平治の乱で殺害された信西の子)を2月8日に派遣、という内報が平氏側に伝わりましたが静賢法印が辞退してしまい、法皇は和平の提案をしておきながら、結果的に平氏を騙討ちにしたことになりました。
そのような交渉は休戦状態のもとでしか進められないはずであり、平氏側はこの内報を信じ、油断していたようですが、7日、突如源氏軍(義経)が来攻し、意表をつかれた形となりました(この点も平氏惨敗の一因とされています)。

【壇之浦での義経は卑怯者?】

ちょっと強引に壇ノ浦の戦い話題なのですが、関門海峡は潮の流れの変化が激しく、水軍の運用に長けた平氏軍はこれを熟知しており、早い潮の流れに乗ってさんざんに矢を射かけて、海戦に慣れない坂東武者の義経軍に対して優勢に戦いを進めました。
義経軍は満珠島・干珠島のあたりにまで追いやられ、勢いに乗った平氏軍は義経を討ち取ろうと攻めかかります。

ここで不利を悟った義経が敵船の水手、梶取(漕ぎ手)を射るよう命じます(この時代の海戦では非戦闘員の水手・梶取を射ることは戦の作法に反する行為だったのです、現在の戦いでも民間人に対する誤爆が問題になりますが、それを故意に行う事は、戦時国際法違反となります「非戦闘員への攻撃」。)。
義経があえて、その掟破りを行って戦況が変化させたとする話が、ドラマや小説等によく見られます。
しかし『平家物語』では義経が水手・梶取を射るよう命じる場面はなく、もはや大勢が決した段階で源氏の兵が平氏の船に乗り移り、水手や船頭を射殺し、斬り殺したと描かれています(義経は卑怯な戦法を取ったのか?取らなかったのか?)。
義経を弁護するなら、阿波重能の水軍300艘が寝返ったこと?潮の流れが変わった事が勝因として挙げられます。

【源氏の反攻と平氏滅亡】

『平家物語』には平氏一門の最後の様子「先帝身投」の場面が描かれています。
敗けを覚った、建礼門院や二位尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えます。
安徳天皇が「どこへ行くのか」と仰ぎ見れば、二位尼は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、安徳天皇とともに海に身を投じたとされます。
『吾妻鏡』によると二位尼が宝剣と神璽を持って入水、按察の局が安徳天皇を抱いて入水したとあり、続いて建礼門院ら平氏一門の女たちも次々と海に身を投げたと記載が有ります。

武将たちも覚悟を定め、平家の総帥宗盛(清盛の三男)以下教盛(清盛の弟四男)・経盛(清盛の弟三男)・資盛(平清盛の嫡男である平重盛の次男)・有盛(平重盛の四男)・行盛(平清盛の次男である平基盛の長男)・清宗(平宗盛の長男)・入水、皮肉な事に宗盛だけが、水練が達者なために泳ぎ回っていたところを義経軍に捕らえられてしまいました。

【義経の八艘飛びは逃亡するためだった?】
剛の者である平教経(平清盛の弟教盛の次男)は、鬼神の如く戦い坂東武者を多数討たました、知盛(清盛の四男)が既に勝敗は決したから罪作りなことはするなと伝えます。
教経は、ならば敵の大将の義経を道連れにせんと欲し、義経の船を見つけてこれに乗り移った。
教経は小長刀を持って組みかからんと挑むが、義経はゆらりと飛び上がると船から船へと飛び移り八艘彼方へ飛び去ってしまいます。
これが世にいう義経の「八艘飛び」です(詰まり、攻撃の為の八艘飛びではなくて、一目散に逃亡するため~(^^;)。
義経を取り逃がした教経に大力で知られる安芸太郎が討ち取って手柄にしようと同じく大力の者二人と組みかりますが、教経は一人を海に蹴り落とすと、二人を組み抱えたまま海に飛び込んで最後を遂げます。
『平家物語』に描かれた平氏随一の猛将として知られ屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで義経を苦しめた教経(義経のライバルといえますね)の最後ですが、『吾妻鏡』によれば教経はこれ以前の一ノ谷の戦いで討ち死にしているという記述がありますが、『醍醐雑事記』には壇ノ浦で没した人物の一人として教経の名が挙げられている。
知盛は「見るべき程の事は見つ(最後は見届けたの意味ですかね?)」とつぶやくと、鎧二領を着て乳兄弟の平家長と共に入水しました。

申の刻(16時ごろ『玉葉』)(『吾妻鏡』では午の刻(12時ごろ))平氏一門の多くが死ぬか捕らえられ、戦いは源氏の勝利に終わりました。

なお、この戦いで平氏一門は政治勢力としては滅亡しましたが、一般的なイメージとは異なり一門そのものは断絶することなくその後も続いています(私の実家但馬の海岸にも平家の落人村が有るようです。ここでいう「一門そのもの」とは意味合いが違うのですが…)。

【後白河法皇も最後までこだわった『三種の神器』の行栄】

「吾妻鏡」などでは、安徳天皇や二位の尼とともに「三種の神器」が海に沈みます
「八咫鏡」の記載は少なく、引き上げられたとも言われますが、八咫鏡は元来伊勢の神宮の皇大神宮に収められていて、壇ノ浦の「八咫鏡」「形代(レプリカという意味ではありません)」」ということに成りますか。
「八尺瓊勾玉」はハッキリと浮び上がった記載がありますし現在は、皇居の吹上御所の「剣璽の間」に安置されています。
「草薙剣(天叢雲剣、あまのむらくものつるぎ)」は海中に沈んでしまい、行方不明になったとあります。

朝廷に伝わっていたとされる壇ノ浦の「草薙剣」ですが、第十代崇神天皇が神器と一緒にいるのは畏れ多いと剣の「形代」を鋳造し、これを護身のため宮中に置いたといわれます。
『古語拾遺』にも、第十代崇神天皇の時、鏡と剣は宮中から出され、外で祭られることになったため、「形代」が作られたと記載されます。
第十一代垂仁天皇の時、伊勢神宮が創始されたおり、旧剣は伊勢に移され新剣のほうが宮中に留まったとみられています(この新しい剣が壇ノ浦で沈んだ「草薙剣」ではないかと推測します。
日本武尊(第十二代景行天皇の皇子)東征のおりに伊勢神宮から持ち出された「草薙剣(旧剣)」は熱田で宮簀姫(みやずひめ)に渡り、宮簀姫は熱田神宮を建ててこの草薙剣を祀ったとされています

つまり、現在では「草薙剣(旧剣)」は熱田神宮に、「八咫鏡」は伊勢の神宮の皇大神宮内宮にそれぞれ神体として奉斎され、「八尺瓊勾玉「と「草薙剣の形代」、「八咫鏡の形代」は宮中三殿吹上御所の「剣璽の間」に保存されています。
三神器[1]
(三種の神器のイメージ図)

しかし同皇居内に皇族らが住まいされていますが、天皇陛下でさえもその実見はでさえ未だになされていないという事です。

さて、今回の平家物語の最後を飾るのはやはり、幕引き役平徳子(建礼門院)ですね。
平家物語の最後は「勧請巻」といって徳子の後日譚です。
平家滅亡時に壇ノ浦で入水しようとした徳子は助けられて京の大原で隠棲し出家します。
平家や安徳天皇の菩提を弔いますが、そこで後白河法皇の訪問をうけ、平家の栄華と滅亡を振り返ります
そして徳子は極楽に往生して物語が終わります。

私も次回「盛者必衰の理」の総括を寂光院からお届け出来ればと考えています。

いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチッと」クリックして頂けましたら嬉しいです。
 👇👇👇   👇👇👇   👇👇👇   👇👇👇
ブログランキングならblogram
2017/03/16

涙脆い人はハンケチをご用意下さいね!平敦盛『首塚』

前回に引き続き平敦盛ゆかりの場所を御紹介させて頂きます(^人^)。

「敦盛」と言えば「人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり~。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか~~。」の「織田信長」の幸若舞で有名ですが、原作とは少し?意味合いが違い、信長の創作?らしいですよ~(嘘でしょ~って感じです(^^;)

引き続き、「平家物語」の中でも、最も涙の量が多くなる?「巻第九~敦盛最後」ゆかりの地から、須磨寺の「平敦盛の首塚」を御紹介します(。´Д⊂) 
涙脆い人は注意してね~の第二段です。

P2220146.jpg(須磨寺奉納額より、敦盛青葉の笛を奏でる。)

其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいね。 
ブログランキングならblogram

👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします|o´艸)。oO(Thank you)。
バナーをクリックいたしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~(笑)
市郎右衛門は現在すべてTOP10に入っておりますので、そちらをもう一度クリック頂きますとブログに戻れます(^人^)。


幸若舞の演目のひとつ「敦盛」は前回御紹介した「平家物語」のお話と少し?相違点がようなので、御紹介します(作者と製作年は不詳ですね)。

【ストーリー】

1184年(元暦元年)(平家方の呼ぶ寿永2年)、治承・寿永の乱(源平合戦)の一戦である須磨の浦における「一ノ谷の戦い」で、平家軍は源氏軍に押されて敗走をはじめます。
 平清盛の甥で平経盛の子、若き笛の名手でもあった平敦盛は、退却の際に愛用の漢竹の横笛(青葉の笛・小枝)を持ち出し忘れ、これを取りに戻ったため退却船に乗り遅れてしまいます。
出船しはじめた退却船を目指し渚に馬を飛ばす敦盛、退却船も気付いて岸へ船を戻そうとしますが、逆風で思うように船体を寄せられません。
敦盛自身も荒れた波しぶきに手こずり馬を上手く捌けずにいました。

そこに源氏方の熊谷直実が通りがかり、格式高い甲冑を身に着けた敦盛を目にすると、平家の有力武将であろうと踏んで一騎討ちを挑みます。
敦盛はこれに対して受けあいませんでしたが、直実は将同士の一騎討ちに応じなければ兵に命じて矢を放つと威迫します。
多勢に無勢、一斉に矢を射られるくらいならと、敦盛は直実との一騎討ちに応ました。
しかし実戦経験の差は歴然、百戦錬磨の直実に一騎討ちでかなうはずなく、敦盛は捕らえられてしまいます。

直実がいざ頸を討とうと組み伏せたその顔をよく見ると、元服間もない紅顔の若武者、名を尋ねて初めて、数え年16歳の平敦盛であると知ります。
直実の同じく16歳の息子熊谷直家は、この一ノ谷合戦で討死したばかり、我が嫡男の面影を重ね合わせ、また将来ある16歳の若武者を討つのを惜しんでためらっていました。
これを見て、組み伏せた敵武将の頸を討とうとしない直実の姿を、同道の源氏諸将が訝しみはじめ、「次郎(直実)に二心あり!次郎もろとも討ち取らむ」との声が上がり始めたため、直実はやむを得ず敦盛の頸を討ち取ります。

一ノ谷合戦は源氏方の勝利に終わりましたが、若き敦盛を討ったことが直実の心を苦しめ事に成ります。
合戦後の論功行賞も芳しくなく同僚武将との所領争いも不調、翌年には屋島の戦いの触れが出され、また同じ苦しみを思う出来事が起こるのかと悩んだ直実は世の無常を感じるようになり、出家を決意して世をはかなむようになります。

という具合です。
敦盛最初は逃げたんですね、幾つか相違点が出てきました。
此方の方が美化が少なくて、現実に近い感じがしますし、直実の無情感の出所を克明に描いていますね。




P2220206.jpg(須磨寺の庭に、合戦のシーンが再現されています。)
P2220207.jpg(呼び止められる敦盛像)
P2220208.jpg(勿論呼び止める直実像)

【人物紹介です前回もしましたが...】
「平敦盛」(1169~1184)父は平経盛、平清盛の甥にあたる。
従五位下に叙せられるが官職につかなかったため、無官大夫と呼ばれます。
笛の名手とされ、愛用の青葉の笛は、祖父の平忠盛が鳥羽院より下賜されたものでだそうです。
この一ノ谷の合戦が初陣、兄(経正・経俊)も一ノ谷の合戦で討死しています。

「熊谷直実」(1141~1207)武蔵国熊谷の御家人、源頼朝の挙兵直後より源氏方となり、各地を転戦します。
一ノ谷の合戦で平敦盛を討ち取る功績を挙げるが、同時に戦いの無常を知り、徐々に仏門への帰依の念を強めていきました。
建久3年(1192年)に相続争いの裁定を不服として出奔、翌年、浄土宗開祖「法然」の弟子となって出家し、名を蓮生とし、後は浄土宗の普及に努めます。

【須磨寺の『敦盛首塚』と平家関連史跡の紹介】

大師堂傍らの池は「敦盛首洗い池」、その背後には、合戦終了後、義経が池の前に腰を掛けて平家武将らの首実検をした名残という「義経腰掛の松」があります(この5年後、義経自らが鎌倉で首実検されるとは、思いもよらなかったでしょうが(((^_^;))。

P2220197.jpg
(義経首実検、腰掛の松です。前に首洗いの池が在るのですが、撮影し忘れてます(;^_^A)

敦盛の首は「須磨寺」で実検を終えると葬られ、その境内に「首塚」が建てられ祀られました。

P2220158.jpg(敦盛首塚の入り口です。)
P2220159.jpg(堂に成っています。五輪塔が首塚)
P2220162.jpg(首塚、敦盛さん眠っておられるのですかね?)


また、須磨寺には敦盛が身につけていた名笛「青葉の笛」が収蔵されています(須磨寺については、とても素敵なお寺なので、又の機械に丁寧に御紹介させて頂きます。)。

P2220210.jpg(青葉の笛?二本在りますね~確か細い方だったような…)
 

【さて幸若舞の謡?ですが】

直実が出家して世をはかなむ中段後半の一節に、『思へばこの世は常の住み家にあらず草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる南楼の月を弄ぶ輩も月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり一度生を享け、滅せぬもののあるべきかこれを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ』
という詞章があり、織田信長がこの節を特に好んで演じたのは皆さんもご存知ですね(#^.^#)。

「人間(じんかん、又は、にんげんと詠みます)五十年」は、人の世の意味です。
「化天」は、六欲天の第五位の世化楽天で、一昼夜は人間界の800年にあたり、化天住人の定命は8,000歳とされます(800×360×8000=23040000年ですか?する事無くなるf(^_^;)。
「下天」は、六欲天の最下位の世で、一昼夜は人間界の50年に当たり、住人の定命は500歳とされます。
信長は16世紀の人物なので、「人間」を「人の世」の意味で使っていた様ですし「化天」を「下天」と読み替えています。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」は、「人の世の50年の歳月は、下天の一日にしかあたらない」という意味になりますが、現代において、「(当時の平均寿命から)人の一生は五十年に過ぎない」という意味としばしば誤って説明される場合があるが、この一節は天界を比較対象とすることで人の世の時の流れの儚さについて説明しているだけで、人の一生が五十年と言っているわけではないのです。
さて、信長が49歳で本能寺に倒れた事もあり、人の人生は50年と信長が謡っていたと思っておられる方が多いいのでは無いでしょうか(若しくは信長が本当に間違えていたのかも知れませんが!)?

【最後にこんな伝説も】

直実は建久元年(1190年)法然の勧めにより、高野山で敦盛の七回忌法要を行っています。
また『一谷嫩軍記』では、実は敦盛は後白河院のご落胤で、直実はそれを知っていて、自分の息子小次郎の首を刎ねたという記述となっているのも面白いですねσ(^_^;)?。

【最後にも一つ】

2012年NHK大河ドラマ「平清盛」で題字を担当し、多岐に渡り様々な活動を展開、人々に感動と勇気と希望を与えているダウン症の女流書家「金澤翔子」さんの書を紹介します(偶然出会えたし、実は大河ドラマの題字の事を知りませんでしたf(^_^;)。

P2220214.jpg
(素晴しいものに出会うことが出来ました。これも敦盛さんの導きです。)
P2220216.jpg(「慈眼視衆生」意味は上に…ガラスが光って申し訳ありません)


1985 年東京都目黒区に誕生。
5歳から書道を始め、母でもある金沢蘭凰に師事。
10歳で「般若心経」を書き、2004 年に雅号 小蘭を取得。
2005年より様々な会場にて席上揮毫を行い、 奇跡の天才書家として注目をあつめる。
2009 年京都・建仁寺に「風神雷神」を奉納(こちらは写真に収めているはずなので、建仁寺ご紹介のおりに紹介いたします)。

歴史は私に新しい発見と素晴しい出会いをもたらしてくれます。
学生時代を通してこんなにも勉強したことが有ったかと思ってしまう、今日この頃です。


又、長々とお付き合いをありがとうございましたm(__)m

いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチッと」クリックして頂けましたら嬉しいです。
 👇👇👇   👇👇👇   👇👇👇   👇👇👇
ブログランキングならblogram
2017/03/14

涙脆い人はハンケチをご用意下さいね!平敦盛『胴塚』

私のブログの特徴として、時代(時間)の移動が極端すぎる事をご理解ください(^人^)。
今回も12世紀の終わり、前回から7~800年程移動しました(笑)。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。 
中学で覚えて40年忘れた事は有りませんでした。
自慢に成りますけど(自慢するな~(*`Д´)ノ!!!)。
やはり琵琶の音とか欲しいな(((^_^;)

今日は「平家物語」の中でも、最も涙の量が多くなる「巻第九~敦盛最後」ゆかりの地から、「平敦盛の胴塚」を御紹介します(。´Д⊂) 
涙脆い人は注意してね!

神戸市須磨区の須磨公園駐車場の直ぐ隣に有ります。

P2220144.jpg
(須磨寺奉納額より「平敦盛を呼び止める熊谷直実」)

其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいね。 
ブログランキングならblogram

👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします|o´艸)。oO(Thank you)。
バナーをクリックいたしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~(笑)
市郎右衛門は現在すべてTOP10に入っておりますので、そちらをもう一度クリック頂きますとブログに戻れます(^人^)。


『平家物語』の中でも最も有名な逸話であり、諸行無常の念を強くさせるのが、平敦盛の最期の場面です。

【平敦盛って誰?】
平 敦盛(たいら の あつもり)は、平清盛の弟、平経盛末子です(清盛の甥に成ります。)。
織田信長が『敦盛』を好んで舞ったと伝わることから、戦国史ファンにとっては馴染の有る名前ですね。  
平敦盛は若年ながら笛の名手と歌われます。
平氏軍が敗走する際、漢竹の横笛(青葉の笛・小枝)を忘れ取りに戻る
そんな「平家物語」のシーンが有名ですね。

【ストーリー】
平安時代末期、政治の実権を握り、栄華を極めていた、平氏一門。
しかし、それに反発する源氏の勢力も急速に拡大し、平清盛の死後、源氏の軍の圧倒的な兵力により、平氏は一度は都を追われてしまいますが、何とか軍勢を立て直し、神戸「一ノ谷(現在の須磨公園の辺りです)」に陣をかまえます。

寿永3年(1184年)の一ノ谷の合戦は、源義経の奇襲によって勝敗を決します

P2220065.jpg(須磨公園駐車場の直ぐ西側、敦盛胴塚です。)
P2220090.jpg(この角度を馬で駆け下りた義経もさるものですね~驚!)
P2220091.jpg(須磨海水浴場が見えていますが、平地部分が一の谷ですね。)
P2220106.jpg(標高253mの旗振山頂上です。ここから源氏の猛攻が始まったんですね。)
P2220108.jpg(駆け下る?ハッキリ言って歩いても簡単ではありません。私はロープウェーです。(;^_^A)

不意を突かれた平家軍は堪えきれず、逃げまどい総退却、 屋島(香川県高松市の東北部)に向かって海上を船で敗走し始めます。

先陣を切ったものの、戦功を挙げることが出来ずにいた源氏方の「熊谷直実」は、「平氏の軍が、助け船に乗ろうと、波打ちぎわの方へ逃げているにちがいない、 身分の高い大将と立ち合いたいものだ」と考えていました。
そこに、馬で沖の舟まで辿り着こうとする一騎の武者を見つけます。
身なりからいって平家の公達であることは間違いないと考えた熊谷直実が「待て敵に背中を見せて逃げるか?戻って立ち合え!」と声を掛けると、敵将の一人がその呼びかけに振り向き、「おう」と凛々しくも応じて陸に向かって引き返して一騎打ちとなります。

直実は歴戦の強者、またたく間に敵将を馬から引きずり下ろして組み伏せます。
そして首を切ろうと相手の顔を見ると、まだ幼さが残る薄化粧にお歯黒(当時の貴族は男性も既婚者は此のような化粧だったようです。)の若く美い若者でした。
直実には、ちょうど自分の息子「小次郎」と同じぐらいに見えました。

直実が名を尋ねると、若者は「名乗る必要は無い。首実検すればわかること」とにべもない返事、殺すに忍びないと、逃がそうかとも考える直実(なんと立派な大将だ!この者一人を討ち取っても、討ち取らなくても、 勝つ時は勝つ、負ける時は負けるのが戦というものであろう。この者の父は、この者が討たれたと聞けば、どんなにか嘆き悲しむ事だろう。 なんと哀れなことだ。なんとかして助けてやろう!)だったのですが。

しかしこの時、味方の騎馬50騎程が近づいており、ここで敵将を助けたならば、武士として恥ずべき裏切り行為を犯すことになります。
「あなたを何とか助けたいとは思うが、味方も数多く迫ってくるので、 もう逃がす事ができない。 あわれとは思うまい、他の誰かの手にかけるよりは、せめて私が首をとって、後に立派に供養いたします」と声をかけるものの、それを聞いても若武者は、 「さあ、さっさと首を取れ!」と相変わらず堂々とした、毅然とした態度は変わりません。

直実は、後世の供養を誓うと、涙ながらに若者の首を取ったのでした。

直実が後に知る事ですが、若武者は名を「平敦盛」といい、歳はまだ16歳。
そして遺体についていた腰の袋の中に、笛を見つけます。
甲冑を着ながらも所持していたその笛は、こんな戦場でも雅を忘れない、貴族の心を持っていた人物だという事の証拠でした。
敵陣から聞こえてきた笛を吹いていたのがこの若者であったのかと気づき、戦の世の無常を悟るのです(ToT)。

平家物語の中でも最も悲しく泣ける話と有名な、敦盛の最後のシーンです。

【平敦盛胴塚】
一ノ谷の古戦場のそば、国道2号線に面したところに大きな五輪塔があります。



これが平敦盛の胴塚とされる敦盛塚です。
高さ3.5mという大きな塔で、室町時代に供養塔として建てられたとされます
一方、敦盛の首は実検を終えると近くの須磨寺に葬られ、その境内に首塚が建てられています。
また、須磨寺には敦盛が身につけていた名笛「青葉の笛」が収蔵されています(首塚・青葉の笛は次回御紹介させて頂きます。)。
 
P2220074.jpg
(敦盛の胴塚お花に線香!美少年の人気は800年経っても変わりませんね。)
P2220067.jpg(五輪塔説明版)
P2220069.jpg
(凄い大きさです。全国2位、1位は石清水八幡宮に在るそうです。写真有ったかな?)


【うんちく~アツモリソウ】
アツモリソウ(敦盛草)の名前は、寿永3(1184)年2月、源氏の名将源義経は、平氏を真下に見下ろす、人間が降りることが困難な断崖絶壁である鵯越を馬で降りて、平氏の陣に火を放ちます。
この奇襲攻撃で平氏は大敗し沖の船に乗り込み逃げ落ちる事に成りました。
この戦いで討たれた平家の若き将、平敦盛の名に由来する花です。

DSC00314[1]
(Wikipediaよりアツモリソウ、綺麗ですね~丸いところが母衣に似ています。)

和名の由来は勿論!当時合戦で流れ矢を背後から受けた場合の防具として、大きく膨らませた袋(母衣、近頃のドラマや映画ではよく出て来るように成りましたね。)を鎧の上に背負っていたようで、その形がこの花の形に似ていることから付いた名称といわれています。

Kumagai_Naozane,Ichinotani[1]
(Wikipediaより、平敦盛を呼び止める熊谷直実。その背中に大きな赤い母衣を負う。永青文庫蔵「一の谷合戦図屏風」より。)

袋状の唇弁を持つ花の姿を、平敦盛の背負った母衣(ほろ)に見立ててつけられています。
また、この命名は熊谷直実の名を擬えた同属のクマガイソウと対をなしています。

W_kumagaisou4041[1]
(Wikipediaよりクマガイソウです。)

日本人の美意識に敬服しますね。
戦国武将の家紋も殆どが花ですが、そんな国が日本以外に有りますかね~(*^.^*)
本当に日本人で良かったと思える発想ですね(#^.^#)。


いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチッと」クリックして頂けましたら嬉しいです。
 👇👇👇   👇👇👇   👇👇👇   👇👇👇
ブログランキングならblogram
2017/03/12

謀略の偽陵なのか?「五色塚古墳」に浪漫を求めて!

「五色塚古墳」「小壺古墳」最後はのロマンな?お話を御紹介したいと思います。

「五色塚古墳」に関して、『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条が関連記事として知られています。

そちらにによれば、新羅征討から戻った神功皇后が、征討前に崩御した仲哀天皇(第14代)の遺骸および誉田別尊(のちの第15代応神天皇)を伴って大和に戻る際、麛坂皇子と忍熊皇子(いずれも仲哀天皇皇子)が次の皇位が誉田別尊に決まることを恐れて皇后軍を迎撃しようとしたというのです。
25498.jpg
(神功皇后の五円紙幣、価値は60万円程だそうです。ちなみにこっそり教えますが、モデルは造幣局の職員だそうです。)

どうですか?興味が湧いてきませんか。

それでは、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいね。 
ブログランキングならblogram

👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします|o´艸)。oO(Thank you)。
バナーをクリックいたしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~(笑)
市郎右衛門は現在すべてTOP10に入っておりますので、そちらをもう一度クリック頂きますとブログに戻れます(^人^)。


【この物語の登場人物は以下の方々です。】

神功皇后
第14 第天皇仲哀天皇
第15 第応神天皇(誉田別尊)
麛坂皇子(仲哀天皇皇子ですが母親は別人)
忍熊皇子(仲哀天皇皇子ですが母親は別人)

【そもそも三韓征伐とはどんな事件なのでしょう?】

三韓征伐(さんかんせいばつ)は、仲哀天皇皇后、神功皇后が軍を起こして三韓に攻め入り新羅を屈服、任邦(みなま)に日本府をおき大陸経営にいそしみ、後に百済を拠点として、朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる戦争を指します。
神功皇后は、仲哀天皇の后で応神天皇の母です(遠征の途中に仲哀天皇を亡くし、応神天皇を身ごもりながら戦闘を行った(井伊直虎も真っ青な女傑です)。
経緯は『古事記』『日本書紀』に記載されていますが、朝鮮や中国の歴史書にも関連するかと思われる記事があります。
新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるためこの名で呼ばれますが、直接の戦闘が記されているのは対新羅戦だけなので新羅征伐とも言われます。
吉川弘文館の『国史大辞典』では、「新羅征討説話」という名称で項目となっています。
ただし三韓とは馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加羅)・辰韓(後の新羅)を示し高句麗を含まない朝鮮半島南部のみの征服とも考えられます。

動機としては、神功皇后は新羅人の族長の娘で自分を追い出した新羅への復讐だったとも言われていますが、定かではありません。
私の実家のある但馬一宮「出石神社」の天の日矛は新羅の王族の王子で、神功皇后の祖先といわれています。
戦後は日本の学者は神功皇后自体を架空の人物として否定的に捉える向きもあるようです。

三韓御征伐の神託を受けた神功皇后は、九州に軍をすすめますが、仲哀天皇の崩御という予期せぬ事態?が起こります。
そこで神功皇后は重臣、武内宿禰と協議の上、仲哀天皇の崩御を隠してして、妊娠の身にももかかわらず男の姿で、多くの軍船を率いて筑紫の松浦より、玄海の荒波を乗越へ、新羅に侵攻します。
朝鮮の史書『三國史記(新羅本紀)』では、第11代新羅王 助賁尼師今3年(西暦232)4月、初めて倭が新羅の都まで討入り「金城」包囲の記述があるようです。
倭国を見た新羅王は、驚いて一戦も交えずして軍門に降り、たとえ太陽が西より出て、河の水が逆さまに流れるようとも、倭国には逆らわない、また毎年貢物を献上すると誓って、80艘に金銀財宝を積み献上をしたので、皇后はこれを許し、毎年貢物を献上される事に成ったと記録されていますが、いかにも都合の良い話です。

むしろ目的は、新羅攻略では無くて、朝鮮と関係を強くして、後躯の憂いを取ってから、倭国の不穏な状況を一掃しようと考えたのではないかと、勝手に想像します。

P2220019.jpg
(管理事務所のフイルムが光って申し訳ありません。海上封鎖には丁度良い淡路島までの距離ですかね?)
P2220040.jpg
(大阪湾の立地も考えると迎え撃つのは此処が最適か?)
P2220035.jpg
(高台は砦としても使えますね、それでは埴輪の必要はあるかな?)
P2220041.jpg
(鉄道が無い古代すぐに海です。陸を進めば前に在るのはこの古墳ということに成りますが?)

五色塚古墳の築造に関しては、『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条が関連記事として知られる。
同条によれば、新羅征討から戻った神功皇后が、征討前に崩御した仲哀天皇(第14代)の遺骸および誉田別尊(のちの第15代応神天皇)を伴って大和に戻る際、麛坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)、(いずれも仲哀天皇皇子)が次の皇位が誉田別尊に決まることを恐れて皇后軍を迎撃しようとしたというのです。

麛坂皇子と忍熊皇子両皇子が仲哀天皇の陵の造営のためと偽り、播磨に陵(をまねた砦)を、淡路島まで船を渡しその石を運んで赤石(= 現明石)に陣地を構築しました。
明石海峡も封鎖しますが、その名目として、「淡路島の石を運ばせていると嘘をつくのです」( 『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条)。
この伝承について、明石の海沿いで「陵」と呼べる規模の古墳は五色塚古墳のみであることから、古くより五色塚古墳がこの「赤石の山陵」に比定されている。

上の伝承に関連する記事として、『播磨国風土記』賀古郡大国里条(印南郡大国里条)にも、息長帯日女命(神功皇后)が帯中日子命(仲哀天皇)の埋葬の際に讃岐国の羽若石(= 羽床石か)を求めたとする伝承があります。
なお、『播磨国風土記』では明石郡条が欠落していることもあり(残念!)、五色塚古墳自体に関する記述は在りません。

P2220049.jpg
(戦闘の基本は高地に陣すること、理にかなっています。)
P2220032.jpg
(淡路から運んだ石は偽装のためか?投石様か?)
P2220057.jpg
(凄い量だったですよね~(;^_^A)
P2220063.jpg(墓なのか偽陵墓なのか?謎は多いい方が楽しめます。)
【つまりはこういうお話】
仲哀天皇(第14代天皇)の死後、二人の皇子、麛坂皇子忍熊皇子が、神功皇后に政権を握られることを快く思わず、朝鮮遠征から帰国する皇后を迎え討つために軍船を明石海峡に浮かばせましたが、そのままではクーデターがバレてしまうので、仲哀天皇の墓をつくるための葺石を淡路島から運搬する船に見せかけるため、この墓?7を造ったという事です。
つまり、五色塚古墳は仲哀天皇の偽墓で、実は何も埋葬されていないということに成ります。
実に手の込んだ嘘ですよね。
ちなみに、神功皇后とは、実在性が濃厚な最古の天皇とも言われる応神天皇の生母で、この人が卑弥呼ではないかという説もある人物です(逆に神功皇后そのものが想像の人物との考えもあるようです)。

浪漫~ではないでしょうか?
結局、応神天皇が即位されたということから、このクーデターは失敗に終わって二人の皇子、麛坂皇子と忍熊皇子は無くなってしまったのですかね?


さて、三回にわたって「五色塚古墳」「小壺古墳」についてお話させていただきました。
「前方後円墳」「円墳」ですね。

先日すごい「方墳」の記事が新聞を賑わせました。

方墳の濠(ほり)とみられる巨大な石溝が見つかった奈良県明日香村の小山田(こやまだ)遺跡で、新たに石室への通路跡が見つかったと県立橿原(かしはら)考古学研究所が1日発表した。一辺約70メートルと推測され、飛鳥時代(7世紀)最大級の方墳と確定した。研究所は「出土した瓦片などから640年ごろの築造とみられる。当時の最高権力者の墓」と指摘。被葬者は舒明(じょめい)天皇か大臣(おおおみ)の蘇我(そがの)蝦夷(えみし)に絞られた。

 橿考研は2015年1月、県立明日香養護学校の校舎建て替えに伴い、長さ約48メートル、上部幅約7メートル、底面幅約3・9メートル、残存する深さ約1メートルの石溝を発見したと発表。墳丘の斜面に板石を階段状に積む特異な構造も注目された。石溝は方墳の北辺と考えられ、橿考研は昨年12月から溝の南約60メートルの地点を発掘していた。(新聞記事より)

時代は墳墓の形を方墳に(仏教寺院の影響か?)そして六角形、さらには八角形(現在の天皇陵墓は八角です)と時代と共に変化
していきます。


しかしながら、前夫後円墳という日本独特の墳墓も形の謎はいまだ解けておりません。
一部につぼ型と考えて、壺の中に現世と同じ生活ができる、来世が有ると考えられている学者もおられるようです。
「壺の中を覗いてみたいですね~」市郎右衛門でした。


いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチッと」クリックして頂けましたら嬉しいです。
 👇👇👇   👇👇👇   👇👇👇   👇👇👇
ブログランキングならblogram
2017/03/10

五色塚古墳にひっそり寄り添う『小坪古墳』可愛いと思ったらデカかった!

『小壺古墳』を御紹介します。
『五色塚古墳』と一緒に御紹介する予定だったのですが、文章長くなり過ぎて、別々にしました(o^-')b !

ところで、兵庫県が古墳の数日本一ってご存知でしたか?

文化庁のウェブサイトの中に埋蔵文化財の数を調査した報告書があります。
その中から古墳・横穴だけを抽出、数の多い都道府県順に並べてみました。
『最新全国古墳の数、多い順ランキング!』
「平成24年度周知の埋蔵文化財包蔵地数(古墳・横穴)」(文化庁調べ、現存と消滅を合算した数です。)

総数:158905
1位:兵庫県:18841個
2位:鳥取県:13459個
3位:京都府:13089個
4位:千葉県:12750個
5位:岡山県:11726個

2位3位の鳥取県京都府を5000個引き離して、断トツのトップです(⌒‐⌒)v

兵庫県って但馬・播磨・淡路・摂津・丹波の五つの国が合併しているので、まず広いですからね~(^^;

それでは18841個の一つ「小壺古墳」を御紹介します。

P2220007.jpg
(小壺古墳、大きいですよね、写真のテクニックです。笑)

『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみください。 
ブログランキングならblogram

👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします|o´艸)。oO(Thank you)。
バナーをクリックいたしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~(笑)
市郎右衛門は現在すべてTOP10に入っておりますので、そちらをもう一度クリック頂きますとブログに戻れます(^人^)。


【小壺古墳】

所在地兵庫県神戸市垂水区五色山4丁目

高さは8.5mです。
築造年代4世紀末~5世紀初頭。
国の史跡に指定「五色塚(千壺)古墳 小壺古墳」。

P2220008.jpg
(二段目が埋められて小さく見えるようです。)

「小壺古墳(こつぼこふん)」は、五色塚古墳の西にある古墳です。
形状は円墳。
五色塚古墳と合わせて国の史跡に指定されています。



P2220006.jpg
(柴の変わり目あたりから、二段目が有るようです。)

古墳名の「小壺」は、五色塚古墳の別称「千壺」との対比とされます(小さな壺が一つだけ出土では無いですよ!)。
墳丘は2段築成。
下段直径は70メートル、上段直径は43メートル、墳頂高さは約8.5メートルを測り、円墳としては茶すり山古墳(朝来市、直径86メートル、北近畿豊岡自動車道からよく見えますよ。)に次ぐ兵庫県第2位の規模になります(結構でかいんじゃない?)。
現地での感じでは、陪塚(中心となる大型の古墳に埋葬された首長の親族、臣下を埋葬するもののほか、大型の古墳の埋葬者のための副葬品を埋納するために建設されたものもあるようです。)かと思いました。

P2220002.jpg
(手前の五色塚古墳後円部と比べると「小壺古墳」はいかにも小さいと思いませんか?)

墳丘が周辺道路の下まで及ぶため、現在は元来の2段では復元されず、盛土をして1段に成形して保護されています(だからなんだね、下はまだ埋ってるんだ!)。
墳丘表面では各段に埴輪列(推計約320本)が検出されていますが、五色塚古墳と異なり葺石は葺かれていません。
また、墳丘周囲には周濠が巡らされており、周濠内では墳丘北側で通路状遺構(土橋)も認められています。

出土品としては、円筒埴輪・朝顔形埴輪のほか、形象埴輪(家形・靭形・蓋形埴輪など)があります。
この小壺古墳は、五色塚古墳と同時期の4世紀末~5世紀初頭頃の築造と推定されますが、五色塚古墳との築造年代の前後は明らかでは有りません。

P2220023.jpg
(これ面白いです。初めてみました。滑石製子持勾玉!!!、こんな勾玉は初めてです~。驚!)
P2220024.jpg
(こちらも面白いです。場所柄明石海峡近く、昔1600年前もタコツボ漁が行われていたんですね~驚きです。)

文献によれば、かつて五色塚古墳の周囲には、小壺古墳のほかにも遊女塚・小塚(小壺古墳の事?)・四ッ塚・七ッ塚・東側陪塚と称される古墳が存在したとされます。

参考までに、兵庫県の近隣府県の古墳の大きさを比べてみると、兵庫県は数こそ日本一位ですが、大きさで負けている事が分かります(勝ち負けの問題じゃあ無いけどねf(^_^;)。

兵庫県で一番大きい「五色塚古墳」194m、鳥取県で一番大きい湯梨浜町の「北山1号墳」全長は110m(数でも大きさでも勝った!勝ち負けちゃう言うとんねん(*`Д´)ノ!!!)、岡山県で一番大きい「造山古墳」全長約350~360mの全国第4位の巨大古墳(因みに岡山2位の作山古墳も282mの規模です。)です。
京都府で最大の古墳「網野銚子山古墳」198m(惜しいf(^_^;因みに、網野銚子山古墳は山陰一位です。)、最後は大阪府ですが、此は説明する必要が有るかなって感じです。
「大仙古墳(私達が子供の頃は仁徳天皇陵でした!)」墳丘長486m(面積は世界一かも?)。

P2220055.jpg
(五色塚古墳の上からですが、周りの家から比べるとほどほどの大きさです。)

古墳大きさベスト10を御紹介(何の意味があるん?只のうんちくです。)!順位・古墳名・墳丘規模全長(約m)・所在地の順です。

1位:仁徳天皇陵古墳(大山古墳)486大阪府堺市堺区大仙町
2位:応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)425大阪府羽曳野市誉田
3位:履中天皇陵古墳(石津ヶ丘古墳)365大阪府堺市西区石津ヶ丘
4位:造山古墳350岡山県岡山市新庄下
5位:河内大塚山古墳335大阪府羽曳野市南恵我之荘・松原市西大塚
6位:五条野丸山古墳310奈良県橿原市見瀬町・五条野町
7位:ニサンザイ古墳300以上大阪府堺市北区百舌鳥西之町
8位:渋谷向山古墳(景行陵)300奈良県天理市渋谷町
9位:仲姫命陵古墳(仲津山古墳)290大阪府藤井寺市沢田
10位:作山古墳286岡山県総社市三須

P2220038.jpg
(敷地が四角いので方墳のようですが、円墳です。周りの道路下にも二段目が眠っています。)

大阪府・奈良県・岡山県、なんとなく倭が海に近づいて交易を始める、その前線基地が吉備の国!
五色塚古墳・小壺古墳はその途中の関所な感じがしてきますね。
皆さんも是非、想像を逞しくして考古学を楽しんで下さいね(#^.^#)


事実究明には、気候学や海洋科学、地質学に天文科学等の他分野からの知識が必ず必要だと考えますのでね(o^-')b !

いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチッと」クリックして頂けましたら嬉しいです。
 👇👇👇   👇👇👇   👇👇👇   👇👇👇
ブログランキングならblogram
2017/03/08

兵庫県最大の前方後円墳「五色塚古墳」の謎!

前回30年も前の取材ソースでしたので、今回は一番新しい取材から『五色塚古墳』を御紹介致します(o^-')b !

とその前に、先月末にブログ友達のオフ会を行ったのですが、新しくお友達に成って頂いた上に、意気投合した「えたばりゅ」さんを御紹介致します。

ブログ共有もしていただきました~(^o^)v。
「えたばりゅ」さんのブログは、こちらです。
自然とペットとアラフォー野郎と 生命と人とのWinWinをめざして
私の専門でも有る、動物(犬猫~爬虫類・魚類は元より、過去の恐竜やシーラカンス迄)いいえ、生き物に対する愛情に溢れたブログなんです。
是非とも私のブログ共々、応援してくださいね(^人^)。

P2220059.jpg
(史跡五色塚「千壺」古墳、小壺古墳)

『五色塚古墳(千壺古墳)』
所在地は、兵庫県神戸市垂水区五色山4丁目
形状は、前方後円墳
規模は、墳丘長194.0m、高さ18.8m(後円部)
築造年代4世紀末~5世紀初頭埋葬施(推定)
竪穴式石室被葬者(伝)第14代仲哀天皇の偽陵(偽陵ってのが不思議ですし謎?気になりますね。)
出土品円筒埴輪・形象埴輪などが史跡指定され、「五色塚(千壺)古墳 小壺古墳」が国の史跡と成っています。

それでは『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみください。 
ブログランキングならblogram

👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします|o´艸)。oO(Thank you)。
バナーをクリックいたしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~(笑)
市郎右衛門は現在すべてTOP10に入っておりますので、そちらをもう一度クリック頂きますとブログに戻れます(^人^)。


【五色塚古墳】

P2220017.jpg(モニュメントです。ちょっと前方部が長すぎないかな?)




兵庫県第1位の規模
『日本書紀』に佐紀陵山古墳(奈良県奈良市)と同形との記述が有ります。

五色塚古墳は、兵庫県神戸市垂水区五色山にある古墳です。
形状は前方後円墳、国の史跡に指定されているほか、出土埴輪は国の重要文化財に指定されています。
別称を「千壺古墳」ともいわれます。

P2220018.jpg(管理棟に在る航空写真ですが、フイルムで光って見にくいですよね~m(__)mでも明石海峡大橋のすぐ近くで、素晴らしいロケーションです。)
P2220001.jpg(手前の大きい湾曲が五色塚古墳の後円部です。右手の小高い丘が小壺古墳に成ります。)
P2220012.jpg(前方部と後円部の繫がり、くびれ部分です。二段目から葺石が見えます。)


兵庫県では最大規模の古墳で、4世紀末~5世紀初頭(古墳時代前期末~中期初頭)の築造と推測されます。
「五色塚古墳」の西側にある『小壺古墳』(五色塚古墳と合わせて国の史跡に指定!)についは次回御紹介します。

兵庫県南部、神戸市西部の垂水丘陵南端部において、眼下に明石海峡を、対岸に淡路島を望む位置に築造された巨大前方後円墳です。

古墳名の「五色塚」や「千壺」は江戸時代から呼ばれる呼称で、「五色塚」の由来は明らかでは有りませんが、「千壺」の由来は墳丘上の埴輪群による様です(数から言えば、二千坪古墳でも良いと思いますが(´∇`))。

古墳域は戦前には松林として保護されていましたが、戦中に松は油採取等に利用するため伐採され、戦後には畑として開墾されてしまいました。
加えて、前方部前面には山陽電鉄本線・JR神戸線が引かれたほか、古墳周囲にも道路が敷かれたため、周濠等も改変を受けてしまいました。

考古学的には、これまでに数回の発掘調査が実施されたほか、築造当時の姿へと復元整備も実施されており、日本で最初に復元整備が行われた古墳として知られています(知らなかった、そうだったんだ!)。

P2220031.jpg(形がわかりやすいですね~!くびれのマウンドと右斜めのマウンドを覚えていてください。)
P2220041.jpg(前方部から見た明石海峡大橋です。手前の線路がJR?その向こうが山陽電鉄かな?)
P2220040.jpg(この立地ですよ~大阪湾を手中に収めた水軍の王かも知れませんね。)
P2220033.jpg(三層に積まれた石が良くわかります。)

【歴史に残る記録】

明暦3年(1657年)の『摂津名所図会』に、「五色塚」の名称で図示。

元禄11年(1698年)の『諸陵周垣成就記』に、「仲哀天皇陵土俗五色塚千壺と云ふ」と記載(『兵庫縣史蹟名称天然記念物調査報告書 第一輯』に引用、ただし「勤王文庫」所収原本に記載なし)。

享保年間(1716-1736年)の『明石記』に詳述(宝暦12年(1762年)の『播磨鑑』にも引用)。

古墳域は、1921年(大正10年)に小壺古墳の古墳域と合わせて国の史跡に指定されました。

2012年(平成24年)9月6日には、出土品(円筒埴輪群)が国の重要文化財に指定されています。

【形状と規模】

墳形は前方後円形で、前方部を南方(瀬戸内海側)に向けています。
墳丘は3段築成。
墳丘長は194メートルですが、これは兵庫県では最大規模になります(全国では第40位程度ですね。)。

墳丘表面の各段には円筒埴輪列が巡らされるほか、各段斜面には葺石が葺かれています。
特に埴輪は推計2,200本、葺石は推計2,233,500個(数えたんか?)・2,784トンにおよび、上段・中段の葺石は淡路島産と判明しています。

P2220036.jpg(くびれ部分のマウンド、やっぱり造出かな?司祭が行われたのでしょうか?)

墳丘周囲には深い周濠・浅い外部周溝が2重(二重部分は分からなかったです。)で巡らされており、周濠内では、墳丘のくびれ部左右・後円部北東の3ヶ所に方形の島状遺構(マウンド)が認められています
くびれ部左右の島状遺構は一辺20メートル。
後円部北東の島状遺構では円筒埴輪棺および副葬品が出土しています。
これらの島状遺構の用途は明らかでないが、一説にくびれ部の遺構は祭壇(後の造出?)、後円部北東の遺構は陪塚(中心となる大型の古墳に埋葬された首長の親族、臣下を埋葬するもののほか、大型の古墳の埋葬者のための副葬品を埋納するために建設されたものもあるようです。)と推測されます。
主体部の埋葬施設は明らかでは有りませんが、竪穴式石室の使用が推定されています。

P2220063.jpg(こちらちょっと見えにくいですが後円右側のマウンド、真ん中の白い部分です。陪塚と考えらています。)


この五色塚古墳は、墳形・出土埴輪から古墳時代前期末~中期初頭の4世紀末~5世紀初頭頃の築造と推定されています。
被葬者は明らかでは無いのですが(ここが重要です。)、明石海峡やその周辺を支配した豪族首長では無いかとと推測されています。
特に、築造に際して明石海峡対岸の淡路島から多量の石が運ばれたという事実は、『日本書紀』神功皇后紀の記事と対応するものとして注目され、これより被葬者の支配領域は淡路島まで及んだとする説もあります。

P2220050.jpg(埋葬されたのは誰でしょう?浪漫が掻き立てられますね。)

また、当時としてはヤマト王権の大王墓(佐紀古墳群)に匹敵する規模の古墳になりますが、一帯は明石海峡を押さえる要衝でありながら、巨大古墳を築造できるだけの経済基盤の無い地域であることから、築造に際してはヤマト王権中枢からの強い関与が推測されます。
加えて、当時はヤマト王権の大王墓が大和(佐紀古墳群)から河内(百舌鳥・古市古墳群)へと移行する時期にも重なるため、ヤマト王権中枢の移動との関係を想定する説もあります。

古墳の規模は次の通り(括弧内は信頼性に欠ける推定値です)。
長さ・後円部直径・くびれ部幅・前方部幅の順番に記載。
上段(3段目)150.5m72.2m19.0m33.5m
中段(2段目)171.0m100.0m37.0m53.7m
下段(1段目)194.0m125.5m65.2m(82.4m)

五色塚古墳の墳形は佐紀陵山古墳(奈良県奈良市)伝日葉酢媛命陵とほぼ同一規格とされます。

墳丘周囲には鍵穴形と見られる周濠(水を張らない空濠)が巡らされています。
前方部前面には山陽電鉄本線・JR神戸線が通過し、墳丘周囲には道路が敷かれているため周濠の全体像は明らかでは有りませんが、元来の周濠は墳丘を全周していたと推測されています。
周濠の前方部南側では、通路状遺構(土橋)も検出されました。

また後円部側では、周濠のさらに外側に周溝も巡らされていたようです。
この周溝は西側で小壺古墳の周濠外側へと沿うように変形しますが、これが五色塚古墳・小壺古墳の同時築造を示すものか、いずれかが後に築造された際に溝に変形を加えたものかは定かでは有りません。

【埴輪】

P2220020.jpg
(鰭付き朝顔型埴輪です。)
P2220022.jpg(鰭付き円筒型埴輪)
P2220048.jpg(並びはこんな感じに成ります。)

墳丘表面では、墳頂・テラスの各段に円筒埴輪列が巡らされています。
埴輪列は10メートルに18本程度とし、鰭付円筒埴輪5~6本に1本の割合で鰭付朝顔形埴輪が、いずれも鰭を墳丘と平行に置かれています。

各段計3重に巡らされる埴輪の総数2,200本程度と推計され、検出された埴輪は全て黒斑を有しています。
また鰭付円筒埴輪は4条突帯5段構成・5条突帯6段構成の2型で、高さはそれぞれ100センチメートル・114センチメートルと異なりますが、突帯間隔は約17.5センチメートルと共通しています。
なお、同様の埴輪列は一部の周濠外堤でも見つかっています。

なお、五色塚古墳の円筒埴輪と同様の埴輪は、西隣の小壺古墳のほか、歌敷山東古墳、歌敷山西古墳、舞子浜遺跡、幣塚古墳でも検出されています。

【葺石「石にも歴史有り」】

墳丘各段の斜面には、葺石が葺かれ、古墳全体としては2,233,500個・2,784トンにも達します。

石材は、上段・中段(推計714,800個・2,278トン)では主に斑糲岩(一部に花崗岩等)で、地質学的には明石海峡対岸の淡路島北東岸産と推定されました。
下段では主にチャート・珪石で、古墳付近の海岸・河川産です。
『日本書紀』神功皇后紀の記載では、淡路島の石を運んで赤石(= 明石)に陵を築いたとする伝承が記されており、上の事実はその伝承を裏付けるものとして注目されます(面白いじゃないですか~(^^;)。

P2220044.jpg(後円部!流石に大きいですね~(;^_^A)
P2220046.jpg(後円部の上に立っています。石室が埋まっているはずでが?)


【埋葬施設】

埋葬施設は調査が実施されておらず、明らかでは有りません(未盗掘ですかね?)。
復元整備前の墳丘後円部において結晶片岩(徳島県東部産か)の出土が見られたことから、竪穴式石室(竪穴式石槨)が存在するものと推測されますが、詳らかでは有りません。

文献上では、『播磨鑑』『明石記』から引用して本古墳について「石棺露」と記すことから石棺(一説に長持形石棺)が使用されたと推測する説がありますが、これについて近年の『発掘調査・復元整備報告書』では、この「石棺露」は実際には「竪穴式石槨の一部の露出」を指したものであって、時代的には割竹形木棺が埋納されている可能性が高いと考えられます。

なお、『日本書紀』神功皇后紀の記事では遺骸を伴わない「偽陵」が赤石(= 明石)に築かれたとされますが(ワクワク(*^.^*))、考古学的には本古墳が古墳時代の人物の墓であることは確実とされています(ロマンぶち壊し~(*`Д´)ノ!!!)。

【出土品】

出土埴輪(国の重要文化財)五色塚古墳からの出土品としては、前述の円筒埴輪群が代表的なものとして知られます。
埴輪は総数2,200本と推計されるうち600本が採集されています。
特に採集埴輪のうち鰭付円筒埴輪42点・鰭付朝顔形埴輪3点・円筒埴輪3点の計48点は全形が復元されており、国の重要文化財に指定されています。
以上の出土品の多くは、神戸市埋蔵文化財センターで保管されています。

五色塚古墳の築造には、『日本書紀』に有るように、神功皇后の三韓征伐帰途に応神天皇の母違い兄弟の謀略目的によって造られた説が、私的には古代ロマンを掻き立てられるのですが、其は又お話致します(^人^)。

いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチッと」クリックして頂けましたら嬉しいです。
 👇👇👇   👇👇👇   👇👇👇   👇👇👇
ブログランキングならblogram
2017/03/06

『日本中央の碑』と「坂上田村麻呂」

もう一つ青森話題をお送りします(o^-')b !

記事を書くにあたり、調べなおしてびっくり!
なんじゃこりゃ~~~!Σ(×_×;)!
正に、「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」大袈裟かな?。

hinomoto_monument[1]
(青森県のHP~お借りしました。現在はこんなに整備されたようです。それではタイムカプセルで30年前へ!)

御紹介するのは30年前の『日本中央の碑』ですf(^_^;。

それでは『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみください。 
ブログランキングならblogram

👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします|o´艸)。oO(Thank you)。
バナーをクリックいたしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~(笑)
市郎右衛門は現在すべてTOP10に入っておりますので、そちらをもう一度クリック頂きますとブログに戻れます(^人^)。



【そもそも、『日本中央の碑』って何?】
何か分からないんですよね、此がf(^_^;。
日本古代史の中でも屈指の謎を持つのが「日本中央の碑」なのです。

「遠くの土地にある謎めいた何か」ですかね。
その典拠は意外に古く、歌学者の藤原顕昭が出した『袖中抄』『陸奥には「つぼのいしぶみ」という石碑があり、蝦夷征討の際に田村将軍(坂上田村麻呂)が矢筈を使って「日本中央」という文字を刻んだものである』という一説があります。

そんな言い伝えもありまして、平安時代の昔から東北の歌枕として数多くの偉人・歌人に和歌に使われた「壷の石文(つぼのいしぶみ)」という、幻の遺跡ではないかと言われてきたのです。

江戸時代には宮城県の多賀城の碑が「つぼのいしぶみ」と考えられていましたが、その所在は明治天皇も気にかけられ、明治9年の天皇の東北行幸に際して、宮内省から青森県に「つぼのいしぶみ」発見の要請がありました。
石文にまつわる伝説の残る千曳神社の境内を掘り起し、捜索したのです。
千曳神社には魔除として崇めていた巨大な石碑を1000人で引っ張ったという伝説がありました(千曳神社は、『大同2年(807年)坂上田村麻呂の創始と伝えらられる、青森県最古の神社です。「日本中央」と刻んだ「つぼのいしぶみ」を建てたという伝説があり、これを訪ねた和歌や紀行文などが多いことで知られます。)。
それが、「つぼのいしぶみ」=「日本中央の碑」ではなかったかと考えられたのですが、残念ながら明治天皇(政府?)はその石碑を見つけることはできませんでした。

235487.jpg
(一生懸命に探された明治天皇様、写真の枚数の関係で大変失礼なのですが、勇ましいお姿を載せさせていただきました。)

ところが昭和24年6月に、その千曳神社近くの青森県東北町石文(いしぶみ)という所から突如として「日本中央」と刻まれた石碑が出土してきたわけです。
村の農家が馬頭観音を祀るためにちょうど良い石を物色していたところ、湿地帯で半分土中に埋もれた大石を掘り起し、汚れを落としたところ「日本中央」と刻まれていました。
壷の碑伝説は村人も周知しており、村中が大騒ぎになったといいます(大騒ぎしたわりには、私が知る限り、発見から30年以上放置?されていましたけど!)。



現在は、青森県東北町(旧七戸町)の国道4号線沿いにある「日本中央の碑歴史公園」の敷地内にあり、無料で見学できる保存館には、日本中央の碑はもちろん、石碑にまつわる興味深い伝説や、東北町に残る伝承、源頼朝や西行法師、岩倉具視ら数々の偉人・歌人が詠んだ歌などが展示されて、本州の果てにある日本中央の碑の謎への好奇心が大いにくすぐられます。

【「日本中央の碑保存館」で日本中央の碑を見てみましょう】

「日本中央」、正確には「ひのもとのまなか」と読みます。
かつて東北の人々は、自らの国を日本、すなわち「ひのもと」と称していたとされます。

お世辞にも達筆とは言えない字体で「日本中央」と彫られていますが、彫ったのは平安時代の征夷大将軍・坂上田村麻呂と伝えられています
征夷大将軍がこんな字を!?といった所からして大きな謎ですが、坂上田村麻呂が彫ったという確証は得られていません。
というよりは、坂上田村麻呂が青森に迄攻め込んだ記録が無いと思うのですが!

【「日本中央の碑発見地」はぬかるみの湿地帯に有った】

日本中央の碑保存館から車で5分ほど。青森方面に向かい、国道4号線から右折し、県道8号線に入り、青い森鉄道・千曳駅と交差した先に、日本中央の碑発見地があります。
発見地は、県道8号線沿いに大きな看板があって見つけやすく、完備された駐車場があり、そこから木造の階段を降りると、「日本中央の碑」と書かれた180cm(発見された石碑と同じ大きさ)の木造の碑が建っています(私が訪れた時には、現物が置かれて居ました。)。

SCN_0007.jpg
(スキャンで読みにくいですが、説明版が有りました。場所は此処ではないのかな?)

石が発見された集落の名は、今でも残っている地名で、「石文(いしぶみ)」、隣の地名は「都母(つぼ)」で、これがまさに「つぼのいしぶみ」の伝説と地名の符合する場所だったのです(私には出来すぎに思えますが!)。

日本中央の碑発見地は、発見当時と変わらず今でも小川が流れる泥濘の湿地帯で、何かに曳きつけられるような不思議な雰囲気が漂っています(私の記憶では畑+林+雑木林のイメージでしたが。)。

【最北の真ん中?「日本中央の碑」を訪ねて…】

SCN_0010.jpg
(あばら家に鎮座する30年前の日本中央の碑!色も感じが違いますね、日は読めますね~笑)


日本中央の碑は、その信憑性が証明されないためか国からの文化財指定はありません(失礼を承知で「そりゃそうだわな」)。
しかし、東北町の人々により大切に保管され、古くから信じられてきた伝説の「壷の碑」として、東北町の有形文化財に指定されています。

しかしこの碑の最大の謎は、ここに刻まれた文字「日本中央」です。
なぜこのような文字が日本の最北部に当たる青森県に置かれたのでしょうか?。
蝦夷征討の際に刻まれたという逸話から考えると、まだここは「日本」の領土ではなく、しかも「日本」という国号が使われていなかった時代です。
さらに付け加えると、この碑を刻んだとされる坂上田村麻呂はこの地まで遠征していません(後任の征夷大将軍・文屋綿麻呂がはじめてこの地域一帯まで足を運んだのが史実です。文屋綿麻呂が刻んだとも考えられますね。)。

実際のところ、ここに刻まれた「日本」という文字は「ひのもと」と読ませ、平安初期の文献によると、東北地方一帯を指す言葉として使われていたようです。
つまり、この「日本中央」とは、坂上田村麻呂以下の蝦夷征討軍が敵地の中央部分に当たる場所としてマークしたポイントではないでしょうか(若しくは全くの出鱈目、ロマン無いですね~(*^.^*))?

☆藤原顕昭
1130?~1209?。
平安末~鎌倉初期の歌僧。
六条藤家の中心的存在として活躍(本人は藤原氏の出身ではなく、養子として姓を賜う)。
当時最高峰の歌合と言われた「六百番歌合」にも参加しています。
『袖中抄』は文治年間(1185~1190年)に出されています。

☆つぼのいしぶみの歌枕
和泉式部・寂蓮・西行・慈円などが詠んで居ます。
「遠くにあるもの」や「どこにあるか分からないもの」という意味で使われることが多い様ですね。

☆多賀城碑
江戸時代初期に発見された古碑。
発見当初より「つぼのいしぶみ」であるとされてきた。
松尾芭蕉が『奥の細道』で「つぼのいしぶみ」と記しているのは、この碑のことでで、青森県の物では有りません(因みに、松尾芭蕉も奥の細道で青森には行っていませんね。)。

☆坂上田村麻呂
758~811。
平安初期の武官。
797年に征夷大将軍に任ぜられ、蝦夷征討の最高責任者となります。
801年に遠征を行い大勝、翌年に胆沢城(現・岩手県奥州市)を建設、さらに次の年に志波城(現・岩手県盛岡市)を建設しました。東北地方の多くの社寺の創建伝説、またその他の伝承に多数登場するが、そのほとんどは後年の創作と思われます。

日本の中心候補の中で最も異彩!数々の偉人たちが思いを馳せ、1000年以上も謎とされてきた「日本中央の碑(つぼのいしぶみ)」。
皆さんはどう考えられますか?


余談ですが、私学生時代を青森県で過ごした事もあり、青森県が大好きです。
そのなかでも、ねぶた祭りは日本一番の祭りだと思います(他のお祭りファンの方々m(__)m)。


他のお祭りも凄いと思うのですが、観光客がその日に御祭りの輪の中で参加できるお祭りが有るでしょうか?
ねぶた祭りは其が可能何です。
衣装さえちゃんとしていれば、あっという間に跳人の一人として祭りの中に溶け込む事が出来ます(跳ねるのにコツが有るので、地元の方には観光客だとすぐ解るようですが、地元の皆さんは優しく接して、楽しく過ご過ごす事が出来ます。)。
因みに私、二回跳ねてます(o^-')b !

その私の大好きなねぶた祭りの「ねぶた」最高賞が田村麿賞(ねぶた祭りでは田村麻呂ではなく田村麿です)だったのですが、昭和三十七年制定の、「田村麿賞」の名称が平成七年度より改称されました。
坂上田村麿が蝦夷征伐のため現在の青森県城に遠征した史実やその際にねぶたを用いた(大きな紙人形を威嚇に使用した言い伝えがあります。)ことが立証できないこと、田村麿と蝦夷征伐を結びつけてのネーミングは、民族の人権上からふさわしくないこと、国の重要無形民俗文化財指定にあたっても「ねむり流し(睡魔を払う行事。主として七夕 (たなばた) 行事として、水浴をしたり、形代 (かたしろ) などを模型船や灯籠・笹竹などにのせて川・海に送り流したりします。ねぶたも最終日は海上運航ですね。)」の習俗と明記されていること。
また、市民意識の変革 など、各界各層の意見、世論をふまえた結果、平成七年度より、青森ねぶたの最高賞は「ねぶた大賞」となりました。

此は、どうなんだろう?田村麿賞で良かったのではないかと思うのですが!
確かに私の産まれ年~ですから其ほどの歴史は無いですがねf(^_^;

会津若松でユニクロの不買運動が起きる感じなのかな(起きないけどね!)?
因みに、「ユニクロ」を中心とした企業グループ持株会社であるファーストリテイリング代表取締役会長兼社長「柳井 正」さんは山口県宇部市の出身です。

又は、戦後新嘗祭が勤労感謝の日に成った位?

どちらもしっくり来ないですね~(^^;

私的には、負けはしたが、強大な中央政権の大将軍に勇敢に戦いを挑んだ陸奥の人々の魂の鼓動がねぶた祭りにはあるように思いますし、勝利した後に武官としてではなく、執政官としての田村麻呂の手腕が陸奥の奥地に豊穣をもたらしたと考えてみたいです。

いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチッと」クリックして頂けましたら嬉しいです。
 👇👇👇   👇👇👇   👇👇👇   👇👇👇
ブログランキングならblogram
2017/03/03

雛祭りの原点?『流し雛』の民俗学的考察。

今日は桃の節句!お雛様です。

我が家には娘が二人(まん中に長男の三人兄弟です)いるのですが、ひな祭りを祝った事は余り無いです(娘達!ゴメンね)。

長女の最初の雛祭り(桃の節句)に妻の両親から大きなお雛様を頂きました。
但馬の実家に置いていて、毎年父(母が亡くなる前は二人で)が飾ってくれています。
とても大きいので、残念ながら神戸の狭い家には飾るところが無いのです。

P3030024.jpg
(桃は398円でしたが、一輪挿しは~備前焼「金重晃介」さんの作です。初めて使った~(;^_^A)

我が家のお雛様については、昨年も御紹介したので、今年は昨年のお話にプラスして、雛祭りの原型ともいえる『流し雛』について少しお話させて頂きたいと思います。

それでは『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみください。 
ブログランキングならblogram

👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします|o´艸)。oO(Thank you)。
バナーをクリックいたしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~(笑)
市郎右衛門は現在すべてTOP10に入っておりますので、そちらをもう一度クリック頂きますとブログに戻れます(^人^)。


『流し雛(ながしびな)』は雛祭りのもとになったといわれる行事とも言われています(「雛流し」ともいわれます)。

祓い人形と同様に身の穢れを水に流して清める意味の民俗行事として、現在も各地で行われています。
今回写真で御紹介するのは鳥取県倉吉市の「流し雛」です。

$RWFFTLZ.jpg
(鳥取県倉吉市の流し雛!鳥取市の物とはまた違った風情がありますね~。)
$RWS7FST.jpg
(綺麗で穏やかですが、建物は地震で被害が有ったとも聞きました。残念な出来事です。)

起源は、『源氏物語』の須磨の巻に出てくるほどに古い歴史を持っています。
光源氏がお祓いをした人形(形代)を船に乗せ、須磨の海に流したという記述がありますね。

三月節句に川や海へ流し送る雛人形、鳥取市周辺では竹骨に貼った小型の一対の紙人形を、三月節句(雛祭)に飾り祭ったうえ、3日の夕方供物の苞(つと)ともども、桟俵にのせて川へ流すのだそうです。

現在は郷土玩具として流布もしますが、罪穢を移して流す「祓」の形代(かたしろ)の古意をとどめるもので岐阜県などでは粗製の土人形を流し送る風習が残っています。
また関東・中部の各地には、三月節句に子供たちが野外に雛人形を据えて祭り、名残を惜しみつつ「雛送り」をする風習がかなりみられる様です。
さらには古びた雛人形を神社や辻に送り納める習俗も広くみられ、「流し雛」とのつながりを示していると思われます。

出雲「佐太神社」の「祓」形代(かたしろ)を紹介します。
此がお雛様の最も原形かも知れませんね。

P3030037.jpg(佐太神社の水無月大祓の形代です。これがひな人形の原型「原点」だと考えます。)

江戸時代以来、雛人形が美術工芸品と化して保存愛玩されるようになると、「祓の人形」としての古意は失われますが、なお一部には古い「流し雛」の風習が残りました
「上巳(陰暦三月三日の桃の節句。)の祓」と習合した三月節句の原義は、むしろこうした「流し雛」の風習によくその跡をとどめているように思います。

その後、流し雛からさまざまな雛人形の形が生まれます。 

そして、江戸時代のはじめに、雛祭りと呼ばれるようになり現在の雛人形の形ができあがります。

その形に至る過程は、女性自身と子供の幸せを祈る気持ちの積み重ねによるものであることが、十五人の人形や付随する道具の多くのいわれの中からうかがわれます。

【うんちく~①】
雛人形の道具の中には、一対の貝桶が付いています(家の大きいお雛様にはついてると思ったけど、ついてませんでした(;^_^A)。
貝桶とは、現在のカルタと同じような遊び方をする、平安時代の遊具を入れる器で、中には蛤の貝が百八十づつ入っています。
そして、その貝の裏側には、絵が描かれ、同じ絵を合わせて遊んだり、また、歌貝とも言われ、和歌の上歌と下歌を会わせて遊ばれました。
蛤は、他の蛤のフタとは絶対に合わないので、女の子が大きくなって婚姻したら蛤のように、一生夫と心を合わせて仲良く暮らしたいという気持ちを蛤に託したのでしょう。

今日、貝合わせの遊びはなくなりましたが、雛祭りの料理としてちらし寿司に蛤のお吸い物は、付き物になっています。

因みに、今日私も作ります~!(料理は大好きです!)。
蛤のお吸い物は先日、蛤の身を柔らかなままに作るコツを長女に伝授したので、今日は長女がチャレンジします(#^.^#)
ちらし寿司は、インスタント?ですけれどね。

P3030021 (2)(蛤のおすましに、ちらし寿司に菜の花を添えて、器の説明したいけど見えないからな~笑、残念!)

【うんちく~②】
雛人形のお飾りとして、また食べ物として欠かせないものに、菱餅があります(今日は菱餅じゃなかった、笑)。
菱餅の形は、水草のひしの実からきています(ひしの実が菱形なんです。)。
昔は、ひしの実は、万病に効く薬草として重宝されました。
また、菱餅の色は、下から白、緑、赤の順番になっていますね、これは雪が降り、芽が出て花が咲く、といった春の草木の成長を表しているようです。
子供が、健やかに成長し、立派に育ってほしいといった親の願いが込められているのですね(#^.^#)。

【うんちく~③】
同じく、雛人形の飾りとして欠かせないものとして桃の花があります(桃の節句(*`・ω・)ゞだからね)。

古くから中国では桃は単なる果物ではなく、桃源郷の不老不死の「仙果」として考えられていました。
『西遊記』の中で、仕事もなくぶらぶらしていた孫悟空は天界の桃園・蟠桃園の管理をまかされます。
その桃園には、3,600本の桃の木があり、それを食べると不老不死が約束されるとされていました
この桃を、西王母(中国で古くから信仰されている仙女)の誕生日を祝う会・蟠桃会で食べる慣わしとなっていましたが、孫悟空が盗み食いをしてしまい、蟠桃会をめちゃくちゃにしてしまったばかりか、不老不死の力も手に入れてしまうのは有名なお話です。
西王母の誕生日が3月3日、つまり桃の節句です。

また、桃の花は、悪魔を祓うと言われてきました。
古事記の神話で「黄泉の国」から逃げ帰る伊邪那岐は、その場にあった桃の木から実をもぎ取ってを投げつけることで黄泉の醜女を追い払っており、ここらにも中国文化の影響が出ているのかもしれません。

そうしたことから、お雛さまの横には、桃の花を花瓶に生けたり、前飾りとして三宝を置き、その上の徳利に、桃の花をさして飾っているのです。
そして、旧暦三月三日頃には、桃の花が咲くことから三月三日は、桃の節句とも言われています。

そして、現代になって雛人形の飾りとして、最も象徴的な存在が、雪洞(ぼんぼり)!これは、雛祭りの歌によるものが大きいと考えられます。
「あかりをつけましょぼんぼりに…」から始まるこの歌はあまりにも有名です。
雪洞に照らされたお雛さまのはんなりした雰囲気は、家庭の中にやすらぎと家族の絆を強く感じさせてくれます。
この雪洞に照らされた雛人形の姿は、日本人が世界に誇る人形文化の傑作といえます。 

PICT0291.jpg
(でかい!高い!八畳を占拠してしまいます。長女の?お雛様です。貝桶は無いかな?)


次女が産まれて、実家の物は二人の物だよと納得させようとしましたが、やはり子供の事、「私のやで~」と長女をが権利を主張するので、亡くなった母が次女を気遣って、可愛らしい、神戸でも飾る事が出来る、コンパクトなお雛様をプレゼントしてくれました。
中々セットする機会が無かったのですが、最後に御紹介したいと思います。

【うんちく~④】
ところで、お内裏様とお雛様の位置関係が、京都(京都でも一部だけかも?)と関東地方(京都以外の全て?)で違うのをご存じでしょうか。
普段見慣れているお雛様は、お内裏様は向かって左側に並べられている場合が多いと思います。
これは、関東(京都以外)でのお雛様の並べ方なんです。一般的なお雛様は向かって左側がお内裏様(男雛)で、右側がお雛様(女雛)ですね。

京都は公家の装いで飾るといわれています。
京都ではお内裏様(男雛)が向かって右側に並べられます。
理由については諸説がありまが、ちょっとややこしく成るので、よく考えて下さいね。
分りやすく説明出来ないかもしれません。
御所における天皇の玉座の位置は左だから(天皇陛下に成ったつもりで考えて下さい)。
つまり、天皇(自分に置き換えて、天子様に成ったつもりで考えてください)の左側には誰もいません。
日本古来の左は右よりも格が高い「左上座」という考えに倣っています。
「左上座」とはお雛様側に立ってみて左であり、お雛様に向かってみると右になります。
「天子は南面し、臣下は北面す」とあるように天皇は南を向いているので、東は左、右は西に成ります。
京都御所から見て東が左京区、西が右京区なのも(地図を北を上に見ると左右が逆転しています)内裏目線です。
御所の左近の桜右近の橘も同じですね。
見に行くと(勝手には入れませんよ~笑)右側が「左近の桜」です。
ここで重要なのは、日が昇る東が上座にあたるということで、天仰とも関連しているかもしれません。
左大臣・右大臣が、天子の前に座っている場合、左大臣が東側で上位に当たります(左大臣から見ると下位の右大臣が左側に居ることに成り、左上座のルールが崩れた様に思えますが、この場合も天皇を中心に考えて、西側に座って居るから右大臣が下位と考えれば良いでしょう)。
日本古来の「左上座」の考え方があるのなら、関東(京都以外)のお内裏様はなぜ向かって左に並べられているのでしょうか?江戸は武家の装いで飾る。武家社会中心の関東では「右上位」という考え方があり、身分や等級によって座る順番が決められていました。

そのため関東地方のお雛様の配置もそちらに習って決められました。
大正天皇が、御即位式で皇后陛下の右に立たれた事は、文明開化以降に西洋文化が日本に入ってきて、西洋スタイルの即位に倣ったと思われます。
大正天皇以降の天皇御即位式の配置が、お雛様の並び方に影響を与えた事は確かなようですが、それを決定付けたのは、昭和天皇の御即位式時、陛下が御立ちになる、高御座の位置が右側だった事が基準とされたようです(この時始めて新聞紙上に天皇と皇后の「写真」が載りました。)。
その際にお二人がお写りになった位置をもって、関東の雛人形では右(お雛様側からの右です)がお内裏様(男雛)、左がお雛様(女雛)と決めた様です(写真で見ると昭和天皇が左側に香淳皇后が右側ですね)。

【かわいいですね~トリを取るのは次女のお雛様です。】

CIMG2905.jpg
(最後に登場、次女のお雛様!かわいいですね~このブログは時間かかりました~半日有給、爆笑)

元は中国の影響かも知れませんが、現在は完全に日本のひな祭りに成っています。
こんな素敵な文化を子供たちに受け継いで行ければ、日本の国は1000年は大丈夫だと考える市郎右衛門です。


いつも応援、ありがとうございますm(__)m。歴史って本当に面白いですよね~!今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチッと」クリックして頂けましたら嬉しいです。
 👇👇👇   👇👇👇   👇👇👇   👇👇👇
ブログランキングならblogram
2017/03/01

縄文時代の定説をことごとく書き換えた『三内円山遺跡』

青森県三内丸山遺跡を御紹介致します(o^-')b !

その前に昨夜、ブログ友達のオフ会があり、夜遅くまで楽しい時間を過ごす事が出来ました!
ブログ共有もしていただいている、taka:aさんから、お誕生日プレゼントを頂きました。

そのプレゼントが、余りに素敵な「お箸」なので御紹介しますと共に、素敵なブログ友達の皆さんを紹介してくれたtaka:aさん、本当にありがとうございます(大事に使わせて頂きます(#^.^#))。
年齢は親子程違うのに、「この完成されたセンスはなんちゅうやっちゃ!」と驚かずにはおられません(驚愕~~く!)。

P3010008.jpg(めっちゃ素敵な、お蕎麦専用MY箸、木材は楢の木です~~!)

さて本題の「三内円山遺跡」ですが、「関西(兵庫県)やろ~!本当に行ったんか~?」と思われる方々も居られるかも知れませんが、行って来ました~20年前ですがf(^_^;。

古いので、デジカメも無く写真のスキャンに成ります(画質が悪いのはお許しくださいね~(^^;)。

それでは、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみください。 
ブログランキングならblogram

👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします|o´艸)。oO(Thank you)。
バナーをクリックいたしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~(笑)
市郎右衛門は現在すべてTOP10に入っておりますので、そちらをもう一度クリック頂きますとブログに戻れます(^人^)。


【そもそも三内丸山遺跡って何?】

三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は青森県青森市大字三内字丸山にある、縄文時代前期中頃から中期末頃の大規模集落跡です。

(地図を貼っておきますので、空からの映像と20年前を比べてください。)

今から約5500年前、集落が造られた時点での住居数は40~50棟程度、1棟に4~5人が住んでいたと仮定すると、人口は200人前後です。
その後、5000年ほど前から集落の拡大が始まり、4500年ほど前に最盛期を迎えます。
住居数約100棟、人口500人くらいの集落になっていた可能性が高いのです。

沖館川右岸の河岸段丘上に立地しており、2000年(平成12年)に国の特別史跡に指定されました(私が訪れたのは1997年でした)。

遺跡跡には住居群、倉庫群のほか、シンボル的な3層の掘立柱建物が再現されており、資料館もあります(記憶がさだかでは無くて、訪れた当時資料館が有ったか覚えていませんf(^_^;)。
2007年12月から青森県教育庁文化財保護課三内丸山遺跡保存活用推進室が、発掘調査を行っています。

SCN_0004.jpg(この細いあんちゃん誰や?笑、20年でちょうど20キロ太った!左が3層の掘立柱建物です。因みに、ブルックスブラザーズのパンツとシャツ、ラルフローレンのベストに、シェラデザイン のマウンテンパーカー!今は日本のみの販売だそうです(///ω///)♪20年経つと全てユニクロ!Σ(×_×;)!)

【遺跡保存の経緯】

この地に遺跡が存在することは江戸時代からすでに知られており、山崎立朴が弘前藩の諸事情を記した『永禄日記』(えいろくにっき、館野越本)の元和九年(1623年)正月二日条に多量の土偶が出土したことが記録されているほか、菅江真澄の紀行文『栖家の山』(すみかのやま)の寛政八年(1796年)四月十四日条に、三内の村の古い堰が崩れた場所から、瓦や甕、土偶のような破片が見つかったことが記録に残されていました。

本格的な調査は新しい県営野球場を建設する事前調査として1992年から行われました。
その結果、この遺跡が大規模な集落跡であることが分かり、1994年には直径約1メートルの栗の柱が6本出土し、大型建物の跡ではないのかと、脚光をあびます。
これを受け県では既に着工していた野球場建設を中止し、遺跡の保存を決めました。

その後、資料館を作って整備を行い、六本柱建物跡については湿度を一定に保った保存ドームを作り、柱の現物は他の場所に保存、レプリカを代わりに元の場所に置くなどの措置が行われました。
また、墓の道の遺構が非常に長く延びていることが分かったため都市計画道路建設も中止と成りました。

【遺跡の概要】

八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、標高は約20メートルで、遺跡は約40ヘクタールの広大な範囲に広がっています。
集落は住居・墓・捨て場・大型掘立柱建物・掘立柱建物・貯蔵穴・土坑墓・粘土採掘穴・盛り土・道路などが、計画的に配置されています。

この遺跡は現在の敷地から、広場を囲むように住居が造られた環状集落ではないか?と推測された事も有りましたが、住居が非同心円状に機能別に配置されているところから見て、それとは異なる形式であると考えられています。

遺跡には、通常の遺跡でも見られる竪穴住居、高床式倉庫の他に、大型竪穴住居が10棟以上、約780軒にもおよぶ住居跡、さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されています。

また、他の遺跡に比べて土偶の出土が非常に多く、板のように薄く造られた土偶は板状土偶と呼ばれています。
次の縄文後期や晩期の立体的に体の各部を表現した土偶とは大きく異なっているのが特徴的です。

遺跡から出土した栗をDNA鑑定したところ、それが栽培されていたものであることが分かり、多数の堅果類(クリ・クルミ・トチなど)の殻、さらには一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった栽培植物の種も出土しました。

これらの事実は、三内丸山の人たちが、自然の恵みのみに依存した採取活動ではなく、集落の周辺に堅果類の樹木を多数植栽しており、一年草を栽培していた可能性が考えられます(それらの分析から約1500年間続いた集落と考えられています)。

1500年という長さがいかに凄い事なのか簡単に説明致しましょう(簡単かな?)。
世界四大文明、「メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明」ですら、およばない長期間続く集落なのです。
その人口は一番多いときは500人程にもなったことになります。

世界的に見てもこれほど長く同じ土地で生活が営まれた例は少ないと言わざるを得ません。

例えば、ローマ・ん~...イスタンブール・エルサレム?とか位です(苦笑)。
日本では平安京が「鳴くよ鶯平安京(794年)」で後に京都として続き1200年と少しなのですからか、いかに凄いかお分かりですよね(笑)

【うんちく~!】
平安京っていつまで?平安京の時代は鎌倉幕府の成立で終わりだと思っておられませんか(意地悪く平安京「の」とさせて頂きました、笑)?
平安京の時代は明治に成って、天皇が東京に御移りに成るまで続いたんですよ~(^^;
約1000年間ですね!
因みに、東京は日本の首都ですが、都ではありません!?不思議に思われるかも知れませんが、遷都は天皇によって行われるもので、明治天皇は東京遷都を行っておられないはずです。
まあ天皇陛下が居られる場所を都とするならば、東京ということに成りますが。
法律上も首都が東京との明記は無いと記憶しています。

さて元に戻って「三内円山遺跡」の発掘は、これ迄の定説である小集団で食料をもとめて各地を移動しながら生活をしていたという、縄文人のイメージをまったく変えてしまう遺跡ということになります。
正に「教科書を書き換えてしまう遺跡」ということに成りますね。

三内円山遺跡からの出土品は縄文時代の文化が、従来考えられていたものよりも大きく進んだものであることを示すものでした。
遺跡は他の近くの遺跡に繋がっている可能性が高く、未だに全容は把握しきれていません(早く調べて~~(^^;)。

【遺跡の終焉の謎】

これほどの集落がなぜ終焉を迎えたのかは謎となっています。
一因としては、気候寒冷化などが挙げられますが、それだけで集落全土を手放すとは考えにくく、栗の栽培を停止しなければならない何か特別な理由があったという見解も示されてはいますが、それが何であるかは分かっていないようです。

【出土遺物】

出土遺物は段ボールで数万箱にも及ぶ量だったようです。
土器、石器が中心ですが、日本最大の板状土偶などの土製品や石製品も多く出土しています。
この他にも日本各地域を中心とした交易で得たと推測される黒曜石、琥珀、漆器、翡翠製大珠などが出土しています。
出土遺物1,958点が2003年(平成15年)5月29日に国の重要文化財に指定されています。
翡翠は糸魚川でしか産出されないので、翡翠の出土は上越地域との交易が証明される訳です。
また平底の円筒土器やけつ状耳飾りなどは遼河文明(興隆窪文化)との類似性が指摘されています(遼河文明(りょうがぶんめい)とは、満州南部、 中国東北の遼河流域で起こった中国の古代文明の一つ。紀元前6200年ごろから存在したと考えられる文明です)。

三内丸山遺跡から出土した動物遺体は、縄文集落で一般的なシカ・イノシシが少なく、7割弱がノウサギとムササビであり、三内丸山遺跡においてはノウサギやムササビの肉を食料としていたと推察でき、彼らの食生活の一端を伺い知ることができます。
背景には巨大集落を支えるシカ・イノシシ資源が枯渇していた可能性が考えられます。

【遺構『六本柱建物跡』

現在まで三内丸山遺跡で検出された遺構の中で最も重要視されているものです(私?の左に写っている巨木の建物です)。
その柱の大きさで評価されることも多いのですが、それとともに注目すべきは、柱穴の間隔、幅、深さがそれぞれ4.2メートル、2メートル、2メートルで全て統一されていることです。
これはその当時すでに測量の技術が存在していたことを示すものであり、ここに住んでいた人々が当時としては高度な技術を持っていたことを示すものです。
特に4.2メートルというのは35センチメートルの倍数であり、35センチメートルの単位は他の遺跡でも確認されている、「縄文尺」ともいう長さの単位が広範囲にわたって共通規格として共有されていた可能性が考えられます。
さらに、これほど大規模な建造物を建てるには多くの労働力を必要としたはずでですし、集落居住者の団結力と彼らを的確に指導できるカリスマ指導者がいたことも推測できますね。
また、柱本体にも腐食を防ぐため周囲を焦がすという技術が施されており、長い間腐食を防ぎ保存状態が良かった要因です。

【復元建物】

六本柱建物跡の復元に当たっては様々な意見が出された様です。
建設する場所は六本柱建物のあったと推測される場所のすぐ脇に決まったものの、ただ柱が立っていただけなのではないかと言う意見や、逆に装飾具などもある非常に凝ったものだったのではないかと言う意見も出されました。

しかし床があるのに屋根がない、もしくは床がないのに屋根があるというのは中途半端な感が否めず、後々までこれでよかったのかと疑問の声が上がる要因となっています。
私的には、物見櫓のイメージでした(縄文海進ですぐ傍が海であったと考えると、クジラや海獣を素早く発見するための櫓とイメージしました)。


【大型竪穴式住居】

三内丸山では幅10メートル以上の大型竪穴式住居跡がいくつも検出されているが、その中でも最大なものは長さ32メートル、幅10メートルのもので、これが復元されています。

SCN_0005.jpg(でかすぎて、すべてパノラマ撮影です。PCでは、少しずらして見てください。とにかくでかい!)


【竪穴式住居跡】

三内丸山遺跡では、一般の住民が暮らしていたと思われる竪穴式住居跡も多数検出されています。ています(写真でも分かるように当時まだ復元前です(;^_^A)
屋根に関しては茅葺き、樹皮葺き、土葺きの3種類の屋根を持った住居をそれぞれ想定・復元し、これも内部見学が可能だそうです。

【掘立柱建物跡(高床式倉庫跡)】

東西約75メートル、南北約18メートルの範囲に掘立柱建物のものであると推測される柱穴群が検出されています。
この掘立柱建物の柱穴の周辺及び内側には、生活の痕跡が確認できなかったため、この掘立柱建物は高床式建物であった可能性が高いと判断され、現在高床式建物として復元されていました(中に入ってきました。その後放火事件で現在は入れないようです。得したな!笑)。

SCN_0006.jpg(まだ中に入ることが出来ました。手前にもまだ調査中の跡が点在していました。)

【環状配石墓】

道の跡周辺からは環状配石墓(ストーンサークル)も検出されていました。
この墓はムラ長の墓と考えられている様です。
石の並べ方が、南方のやや離れた所にある小牧野遺跡と共通している事も注目されています。
また、1999年10月6日(私が訪ねた後ですね)にこの墓の一つから炭化材が出土したが、これは最古の「木棺墓」の跡ではないかといわれています。

とにかくまだ全然整備されていない頃です。
あらためて日本という国はすごい歴史を持っていると、感じた青森「三内円山遺跡」でした。


いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチッと」クリックして頂けましたら嬉しいです。
 👇👇👇   👇👇👇   👇👇👇   👇👇👇
ブログランキングならblogram