2017/01/30

禁断のドラマ!『ゲーム・オブ・スローンズ』を見た?

私、テレビを見ないんです(@_@;)。

なんて書くと少しびっくりされるかも知れませんが、色々と人生の無駄遣いをしてきた私は、テレビを生で見ない事にしているのです(見るんかい!Σ(×_×;)!)。

基本、興味を持った番組はほとんど録画します。
録画していないテレビ番組は見られませんし、面白くないものは削除して時間の無駄を省いているのです。

近頃生放送で見たのは、錦織圭とフェデラーの全豪オープン前半位です(スポーツはライブじゃないと意味無いのでね)。

その分TSUTAYAさんに御世話に成っているのですが(意味ないやん(/-\*)笑)

その中で是非皆さんに御紹介したいアメリカのテレビドラマがあるのです。

其が『ゲーム・オブ・スローンズ』です。
『ゲーム・オブ・スローンズ』(原題:Game of Thrones)は、ジョージ・R・R・マーティン著のファンタジー小説シリーズ『氷と炎の歌』を原作としたHBOのテレビドラマシリーズです。

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(現在第6シーズン、二話ずつ出すから全60話に成ります。見ごたえありますよ~!)

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この「ゲーム・オブ・スローンズ」ですが、ややこしい事に?何とファンタジーにも関わらず、R-15禁なんですよね(#^.^#)。

暴力シーン(残虐シーン)と性描写が少し?(凄く)刺激が強いのです。
にもかかわらず?引き込まれるともうたまりません!
テレビ界のオスカーと言われるエミー賞の作品賞を2015・2016と二年連続で獲得しています。

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(原作ですがドラマが面白いので、読まないことにしました。)

【ストーリーの原点をご紹介】
一つの季節が不規則に70年、80年と続く大陸ウェスタロス(今は冬が近づいています。)と、海を隔てた東の大陸エッソスが主な舞台と成っています。

古代には、ウェスタロスには〈森の子ら〉と呼ばれる小柄な種族が住んでいたが、ここに〈最初の人々〉と呼ばれる民族が侵入して〈森の子ら〉との戦争の後に講和し、古の悪の勢力〈ホワイト・ウォーカー〉と呼ばれる北からの超自然的脅威に備えるために、協力して「グレートウォール」〈壁〉と呼ばれる魔法的防壁を築きました。

〈壁〉は歴代の王によって支持され、志願者および追放された犯罪者が送られて防御にあたっています。
北部にはいまだに〈最初の人々〉の影響が色濃く残り、〈古の神々〉があがめられています。

その後、アンダル人がウェスタロスを征服し、七王国を成立させました。
アンダル人の持ちこんだ〈七神正教〉は、北部と〈鉄諸島〉を除くウェスタロス中で信奉されています。

物語の数百年前、エッソスでは古代ヴァリリア帝国が崩壊し、ヴァリリア人のターガリエン家がドラゴンを使ってウェスタロスに襲来し、七王国を征服、解体してターガリエン統一王朝を開き、倒した敵の剣を溶かして作られた〈鉄の玉座〉に座ることになりました。

物語の十数年前に、〈ロバートの反乱〉と呼ばれる出来事がありました。
ターガリエン家の庶流であるバラシオン家がターガリエン王朝を倒して〈鉄の玉座〉に座り、ターガリエン王朝のほとんどは殺されたが、デナーリス・ターガリエンなど一部の血縁の者はエッソスに逃れます。

この反乱を引き起こしたのは、ロバート・バラシオンの婚約者で、エダード・スタークの妹であったリアナ・スタークが、エイリス・ターガリエン二世王の息子のレイガー・ターガリエンと共に失踪したことであり、抗議したエダードの父と兄はともに王に処刑さてしまいます。

ロバートとエダードは、里親であったジョン・アリンと共に反乱を立ちあげます。
王は自らの護衛〈王の盾〉であったジェイミー・ラニスターによって裏切られて殺され、ロバートが代わって新王朝をひらきました。
エダードはタリー家を味方につけるため、キャトリン・タリーと結婚します。
リアナもレイガーも死に、エダードはジョン・スノウを自らの落とし子として戦いから連れ帰えります。

その後はジョン・アリンがロバートの〈王の手〉として、宰相の役目を担う事に成りました。
ロバートは、反乱に加わったラニスター家から、ジェイミーの双子の姉のサーセイ・ラニスターを娶って妻にします。

その数年後、〈鉄諸島〉のグレイジョイ家が反乱をおこしたが鎮圧され、幼いシオン・グレイジョイはスターク家の人質となってウィンターフェルで育てられることとなりました。

このような歴史背景の中、ウェステロスにある7大王国で、紛争の芽が膨らみつつあります。
この幻想の世界の住民たちは衝動に突き動かされており、ウェステロスの「鉄の王座」を掌中に収め、強大な権力を握ろうとしています。

そして〈王の手〉ジョン・アリンが謎の死を遂げたところから、物語は始まります。

【content】
このドラマシリーズは、ジョージ R.R.マーティンのベストセラーシリーズ、“氷と炎の歌”をベースにした大叙事詩です。

王族・貴族が、支配をめぐり血なまぐさい闘争を繰り広げます。

中世ヨーロッパに類似していますが(そこはファンタジー)ドラゴンや魔法が存在する架空の世界において、多くの登場人物が入り乱れる群像劇で、人間関係がややこしく、此れは誰だっけなんてざらなんですけど、相関図をプリンアウトして「これは~?この人の息子だな、なんて感じで」見ています。

とにかく自然の映像が綺麗で、撮影は北アイルランド、マルタ、クロアチア、アイスランド、モロッコ、スコットランド、アメリカ合衆国、スペイン等で撮影されています。

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(お父さんのエダード公はロードオブザリングに出てましたね?)
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(皆さんに見ていただきたいので、イメージだけの画像をHBOのCMページから拝借しました。)

【どんだけ~(^^;】
このドラマ「ゲーム・オブ・スローンズ」がいかに凄いかですが、結論から言えば見ていただければ簡単に解るわけですが、それでは意味がありませんから、私が凄いと思う視点を簡潔に説明しましょう。

日本ドラマと桁違いのスケールです。
例えば大河ドラマ「おんな城主直虎」と比べてみますか?

スタジオセットらしい物が無いです~(^^;
NHKがいかに大河ドラマにお金を掛けていても、やはりスタジオ撮影だな~と思えてしまうのですが、「ゲーム・オブ・スローンズ」には、そんな感じはさらさらしません。
全て実際に存在する、城や街で撮影されているようです(全てではないと思いますが?)。

次はCGですが、同じくNHKの評判ファンタジーの「精霊の守り人 悲しき破壊神」(綾瀬はるかファンの皆さんご免なさい!)のCGと比べると、これ又大人と子供位は違うのでびっくりします(ハリウッドで作ってるんですかね~?)。

そして最後に、俳優・女優陣の覚悟の問題ですが、例えば日本の同じキャリア、年齢の俳優・女優が居たとしたも、絶対に無理((;^_^A見ればわかります!)

全ての役で(幾つかは演じられるかも?)、登場人物に思いつく日本人の俳優を当てはめて見て頂ければ、いかに凄いドラマなのかが解ると思います!
ハッキリ言って日本では撮影できません。

現在シーズン6がTSUTAYAでリリースされており、残念なことにシーズン8で完結するそうです。

始まった頃は無名の俳優さん達も、近頃は映画等で見るように成りました~(^^;

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(最後に鉄の玉座に座るのは誰でしょう?ワクワクしますね~。)


ファンタジーですから当然、ドラゴンや生ける死者の群れに、黒魔導士や魔女が登場するのですが、それらを脇に追いやってしまう人間ドラマが秀逸です。
是非!大人のファンタジーを楽しんで頂きたいのですが、最初に申しました様に、R-15禁なのでお子様を寝かし付けてこっそり(笑)、見て頂ければ楽しいと思いますよ~(笑)

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2017/01/28

「因幡の素兎(白兎じゃないんだよ~!)」で有名な『因幡の国・国分寺』をご紹介。

前回の「宇部神社」に引き続き因幡国(いなばのくに)『国分寺』をご紹介しましょう。

因幡国は山陰道に属する、日本の地方行政区分だった令制国の一つですね(鳥取東部といえばわかりやすいですか)。
「古事記」大国主の「因幡の素兎(白兎ではありません素兎が本当です)」で有名です。
「因幡」の名称と由来については、「いなば」の表記について、古くは『古事記』で「稲羽」『先代旧事本紀』で「稲葉」と記されます。

その由来は定かではありませんが、稲葉神社(鳥取市立川)では、社名を因幡国の名称の由来と伝えています。

以前に垂仁天皇(11代)の王子、誉津別皇子のお話で鳥取部が作られたお話を紹介しましたね。
鳥取が先か因幡が先か?(笑)卵と鶏ではありませんが、面白いではありませんか。

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「因幡国分寺」管轄領域因幡国ですが、明治維新の直前では現在の鳥取県鳥取市、岩美郡、八頭郡にあたります。

【因幡国府】
国府は法美郡(法味郡)にありました。
現在の鳥取市国府町中郷と考えられています。
平安時代末期から鎌倉時代にかけての国衙跡中心部の遺跡が発掘され、現在は史跡公園に整備されています。

因幡国は古く稲葉国造の所領域であったとされます。
令制国としての因幡国は7世紀に成立し、国司が派遣されます。



【国分寺・国分尼寺】
「因幡国分寺」の住所は、鳥取市国府町です(宇部神社も国府址に含まれていましたね。)。
千代川の沖積平野に位置しますが、塔跡と南門などが確認されたにとどまり、全容は不明です。

「国分尼寺跡」は国分寺跡の西方にある法花寺集落の周辺と推定されていますが、確認されていません。

痕跡を訪ねてみましたが、私の実家の近く「但馬国分寺」その他「伯耆国分寺」「出雲国分寺」「備中国分寺」等に比べると、礎石がぽつりの状態でここら辺だねの感じです(詰まる所写真が無いのを言い訳しているわけですが、笑)。

CIMG6522.jpg(国分寺の礎石が4っつほど集めて安置されている国分禅寺。)
CIMG6521.jpg(説明版、本当に申し訳ないのですが、以前は御朱印集めに夢中で写真の重要性を認識していませんでした。笑)

【因幡の室町~戦国時代】
室町時代は因幡山名氏の一族が因幡国の守護を務めたが、周辺の但馬や伯耆の山名家と比べて、守護家の支配基盤は脆弱でした。
そのため、但馬惣領家が家督争いに介入するなど政情が不安定な部分もありました。
また、八上・八東といった因幡南部には独立性の高い奉公衆系の国人が多数存在しており、これらの国人の一部は文明年間~長享年間にかけて2回に亘る反乱を起こしています(毛利次郎の乱)。

戦国時代も因幡山名氏の支配が続きますが、因幡山名氏の勢力が内紛などで衰えたため、因幡は織田・毛利の争乱の地となってしまいます。
また、毛利氏と手を結んだ武田高信が勢力を拡大したが、一国を支配する大名までには成長しきれませんでした(こちらは鳥取城の項目でご紹介しました)。
羽柴秀吉により鳥取城が陥落してからは因幡一国は織田氏の支配下に置かれます。

江戸時代初期は複数の大名に分割されましたが、その後は明治維新まで池田氏が鳥取藩32万石の大名として因幡を支配します。

さて取材不足を露呈している市郎右衛門ですが、私の専門から神話の真実に迫ってみる話題を一つ、『古事記』に出てくる「因幡の白兎」!(本当は素兎と記載)学名Lepus brachyurusニホンノウサギ(日本野兎)Japanese hareのはずです。
毛色はもちろん野生色(アグーチ「野生色という意味と、A遺伝子座がA/AまたはA/aの遺伝子構成で野生色と同じ配色パターンという意味」)!
更に隠岐の島からワニを騙して渡ってきたことからL. b. okiensis オキノウサギ(隠岐野兎)という日本野兎の固有亜種と考えられます。

さあ皆さんこんなうんちくどうですか?周りのみんなに自慢して見ようね(笑)

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2017/01/26

長寿世界一?「武内宿禰」を祀る因幡一の宮『宇倍神社』

やっべっ!ブログランキング、ブログランキングならblogram『出雲部門』で二位に転落してました~(^^;

出雲部門首位奪還を目指して、書き上げたのが~?「因幡」じゃん(東京か~爆)。

今日は、「因幡国一宮宇倍神社(うべじんじゃ)」を御紹介します。

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『宇部神社』
鳥取県鳥取市国府町宮下にある神社です。
式内社(名神大社)、因幡国一宮
旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社と成っております。

CIMG6515.jpg(写真が少ないのは、御朱印集めは始めてはいたものの、ブログを書こうとは思ってもいなかったからです。(;^_^A)




【宇倍神社社名について】
古代に清音で「うへ」神社と呼ばれましたが、語義は不明だそうです。

境内社の国府神社に合祀された「上神社」に由来するとする説も有ります(因幡国府もここにあったんですね♪)。

【御祭神武内宿禰命】
御神体の武内宿禰命360余歳((゜ロ゜;ノ)ノ)の長寿であったため長寿の神とされています(解りやすいですよね。)。
明治32年(1899年)、神社で初めて拝殿が日本の紙幣の図案となり、その後も数度社殿や祭神が図案となったため、金運・財宝の神ともされます(神官の方が丁寧に教えて下さいました。小学生の頃に古銭収集「当時の小学生は、切手集めか、古銭集めを必ず?してましたね。」していて、確か持ってたと思ったので、実家探しましたが見つかりませんでした。)。

なお、『神祇志料』では祭神を『国造本紀』にある因幡国造の祖先、彦多都彦(ひこたつひこ)命としていますが、延暦3年(784年)撰述の『因幡国伊福部臣古志』にある伊福部氏の祖先、武牟口(たけむくち)命とする説もあり、本来は伊福部氏の祖神を祀り、後に武内宿禰命が祀られたとみられています。

『日本書紀』では「武内宿禰」『古事記』では「建内宿禰」と記載されています。
他文献では「建内足尼」とも表記されます。
「宿禰」は尊称で、名称は「勇猛な、内廷の宿禰」の意だそうです。

景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・応神天皇・仁徳天皇の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣ですね。
紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされます。
当然ですが、300歳!実在の人物とは考えにくいかもしれませんが、皇紀2600年を作り上げようとすると、300歳もしょうがないのかも知れませんね(笑)。
けっして、皇紀が嘘などとは考えていませんよ、2600年前と成ると、日本の歴史は縄文時代後期、若しくは弥生時代初期に成りますか?
どちらにしても素晴らしい邑や数々の製品を造り上げる能力をすでに有していますし、その集団をまとめるカリスマリーダーが居たことは否定致しません(^^)d

そういえば、一昨年真田丸の取材で、大阪の「三光神社」にお詣りした時に、武内宿禰命が祀られておりました。
宮司は創建以来、武内宿禰の末裔武川家が神職として奉職しておられ、現在は86代目だそうです(これも凄い!)。

CIMG0282.jpg(真田丸の取材で行った、大阪「三光神社」武内宿祢社ありますね~!)
CIMG0283.jpg(神職武川氏が武内宿祢の八十六代と記載されています。驚!)

宇部神社に戻っていますよ。

CIMG6517.jpg(当時はまだ日本的な美しさに目を撮られていました。)
CIMG6516.jpg(睡蓮の緑が綺麗でしょ。)

【神社歴史】
祖神を祀ったとされる伊福部氏の居住したころが創建と思われます(私の但馬実家、江戸時代は伊福村といっておりまして、何か関係が有るのかもと考えています、笑。)。
『因幡国伊福部臣古志』には伊福部氏の第16世、伊其和斯彦宿禰(いきわしひこのすくね)が因幡国造となり、成務天皇から賜った太刀等を神として祀ったとあるのが宇部神社の創祀かもしれません。

吉田家本『延喜式神名帳』では、仁徳天皇55年、三百六十余歳の武内宿禰が因幡国の宇倍山中腹の亀金山に双履を残して行方知れずになったと書かれています。

なお、本殿裏に残る2つの「双履石」は古墳の一部のようで、後に武内宿禰に関する伝説がつくられたのではないでしょうか(双履石!ここで写真が欲しい所ですよね~残念!)。

所在地は遺跡が多く、因幡国府が置かれるなど、古くから因幡国の政治・文化の中心であり、宇部神社も尊崇され、『延喜式神名帳』では因幡国唯一の名神大社に列され、同一宮とされました。

承徳3年(1099年)、因幡守となった平時範が国府に初登庁した翌日に当社に参拝して奉幣や告文を行い、郡司からの利田請文を奉納した事が知られています。

中世以降、社領を失って衰退し、天正9年(1581年)、羽柴秀吉の鳥取城攻め(以前取り上げました、干殺しで有名ですね~(^^;)で社殿全てが灰燼となり、神職も離散てしまいますが、『鳥取藩史』によると、江戸時代初期、寛永10年(1633年)鳥取藩主池田光仲の社領25石の寄進を受けて社殿も復興し、歴代鳥取藩主の崇敬を受けました。

明治4年(1871年)に国幣中社に列し、戦後は神社本庁の別表神社となっています。

CIMG6520.jpg(拝殿右から、杉が邪魔で屋根が見えません。カメラワークもまだまだですね~笑)
CIMG6519.jpg(これは良く取れています。千木は男性カットですが、鰹木は二本ですね~?例外もありますよね。)

【神職について】
当初より伊福部氏が神職を世襲したとされます。
伊福部氏は『因幡国伊福部臣古志』によると、大己貴命(大国主)の神裔を称すが、第8世を櫛玉神饒速日命(神武東征の時に反抗した長髄彦の神として登場しています。)とするなどの混乱があります。
また、第14世の武牟口命を直接の祖として、平安時代の第36世助茂臣(すけもちのおみ)の子から2流に別れ、第37世厚孝宿禰(あつたかのすくね)の流れが「国造」「大宮司」と称して、第55世伊福部信世の時に戦乱により国を去ったこともありましたが、一貫して奉仕したと伝えられています。
明治13年(1880年)第65世の信世(作曲家伊福部昭の祖父だそうです)の時に神職を離れました。

【五円札の社殿】
『二十二社註式』にある大化4年(648年)の創建以降、社殿はたびたび再建され、現在の本殿は明治31年(1898年)の再建です。
正面三間側面二間の三間社流造の正面一間に向拝を縋破風で付け千木・鰹木が置かれています。
同年、本殿階下の正面一間側面二間の切妻造妻入の幣殿と、方三間の入母屋造妻入で正面に一間の向拝屋根を追加した拝殿(幣殿に接続)も再建されました。
なお、明治32年(1899年)発行の五円紙幣にある拝殿はこの時のものです

sukene.png
(こちらが明治の五円です。当時の五円は相当な額面ですよ!下の神社正面と比べてください。)
CIMG6518.jpg(綺麗な神社出した。流石はお札に描かれるだけのことはあります。)

【双履石】
後丘の亀金山に本殿を見下す位置にあり、祭神終焉の遺蹟と伝える磐境であるが、地下1.2mの所から竪穴式石室が発見され、古墳時代前期末から中期の円墳(もしくは前方後円墳)の一部と判明しています(宇部神社そのものがこの古墳を祀るためのものかも知れません)。

【鳥取県指定文化財麒麟獅子】
宇倍神社獅子舞(無形民俗文化財)昭和34年指定。
因幡地方特有の麒麟獅子舞で山陰独特の獅子舞の原形を伝え、先導役の猩々と獅子の頭役、後役が各1名、太鼓・鉦鼓・能管からなる囃子方3名の計6名で構成され、「入座の曲」の調べにあわせて舞う姿は勇壮です。
舞は「三方舞」を本式とし、単調でゆるやかな動作は伎楽や能楽に近いとされ、現在は廃れた樗谿神社獅子舞を受け継いでおり、因幡に伝承される各神社の麒麟獅子舞の多くは、この影響を受けたとされます。
宇倍神社御幸祭祭具(有形民俗文化財)23点が昭和39年に指定されました。
大神輿は明治年間の新調ですが、獅子舞に使用される獅子頭や楽器は、藩主池田家寄進の(正徳4年(1714年)の銘の台矛と平矛)物だそうです。
ちなみに、因幡が本流(百数十か所)かもしれませんが、但馬にも麒麟獅子(十数か所)あるんですよ~是非ご覧ください(私もまだ見ていないんですけどね(;^_^A)。

宇部神社では、東京からいらした素敵な一人旅のご婦人とお会いしました。
御朱印の旅で出雲まで行かれる途中とのこと、当日私も出雲へ行く予定でしたので、「御一緒いかがですか?」の一言を喉の奥にしまい込んだ市郎右衛門でした。
その後偶然?必然?「白兎神社」でまたもやお会いしました~(笑)!がやっぱり一言は胸の中にしまい込んだのでした。
意気地のない市郎右衛門でした(涙)。


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2017/01/24

ひこにゃんも気になる大河ドラマ「おんな城主直虎」の視聴率!『国宝 彦根城見参』

彦根城(ひこねじょう)に行ったのは、五年前に成ると思います。

勿論、当時は大河ドラマで井伊直虎が取り上げられると思ってもおらず!
むしろ当時の大河ドラマ2011年の「江~姫たちの戦国~」の宣伝ポスターが有ったと記憶してます。

実は海洋堂フィギュアミュージアム(長浜)が主な目的だったので、長浜城にもいきませんでした(今考えるともったいないな~)。
勿論ブログを書くこと等考えてもおらず、写真も家族のスナップ写真で少ないです。

それでも、今回大河ドラマの人気にあやかって(姑息な考えですね~(^^;)、国宝彦根城を御紹介します。

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『彦根城』は日本の滋賀県彦根市金亀町にある城で~す。

天守、附櫓及び多聞櫓は国宝に指定されています。
城跡は特別史跡かつ、琵琶湖国定公園第1種特別地域に成っています。

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(天秤櫓です。確かに天秤に見えますね~。時代劇でもよく見かける場所です。)




【築城について!】
江戸時代初期、現在の滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、徳川幕府の鎮西を担う井伊氏の拠点として置かれた平山城です。山は「金亀山(こんきやま)」(標高50m)との異名を持つため、城は「金亀城(こんきじょう)」とも言われます。
多くの大老を輩出した譜代大名である井伊家14代の居城でした。

明治時代初期の廃城令(此が無ければもっとお城が残ってたと思うと残念でなりません。)に伴う破却を免れ、天守が現存します(戦国~江戸初期の現存天守の数は12だったと思います。「国宝五城」、「重文七城」)。

天守と附櫓(つけやぐら)及び多聞櫓(たもんやぐら)の2棟が国宝に指定されるほか、安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し、国の重要文化財に指定されている。
中でも馬屋は重要文化財指定物件として全国的に稀少だそうです。

天守が国宝指定された五城の一つに数えられます。
姫路城とともに遺構をよく遺している城郭で、1992年(平成4年)に日本の世界遺産暫定リストに掲載されましたが、近年の世界遺産登録の厳格化の下、20年以上推薦は見送られています(残念です!)。

滋賀県下で唯一、城郭建築が保存されました。
滋賀県は戦国時代は名城の宝庫でしたね~数々残っていれば凄いと思いますけどねぇ。

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(太鼓門櫓へ向かう階段!平山城ですから、少しは登りますよ~(;^_^A)
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(もうすぐ太鼓門櫓です。右上に少し見えています。)

【築城の経緯】
徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、家康は直政に全幅の信頼を寄せ、その軍功により彼を近江佐和山城18万石の大名(近江国北東部)に任じます。

佐和山城は石田三成が改築した後は「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城(ご存知だとは思いますが、武将島左近と佐和山城です。)」の一つともいわれた名城ですが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌い、湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していました。

しかしながら、関ヶ原の戦いでの戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)直政は数え42歳で亡くなっています

その後直継が家督を継ぎますが、幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して彼の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山、現在の彦根城の場所)に彦根城が築城されました。

築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩や越前藩など7か国12大名(15大名とも)が手伝いを命じられる天下普請であった。1606年(慶長11年)2期までの工事が完了し、同年の天守完成と同じ頃に直継が入城しました。
1616年(元和2年)彦根藩のみの手により第3期工事が開始され、この時に御殿が建造され、1622年(元和8年)すべての工事が完了彦根城は完成しました。

彦根城の建築物には、近江の名族京極高次が城主を務めた大津城からの天守を始め、佐和山城から佐和口多門櫓(非現存)と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城からや、どこのものかは不明とされているが太鼓門、などの移築伝承が多くあります。
建物や石材の移築転用は縁起担ぎの他、コスト削減と工期短縮のために行われたといわれています。

その後、井伊家は加増を重ね、1633年(寛永10年)には徳川幕府下の譜代大名の中では最高となる35万石を得るに至りました。
なお、筆頭家老・木俣家は1万石を領していましたが、陣屋を持たなかったため、月間20日は西の丸三重櫓で執務を行っていました。
これは、徳川統治下の太平の世においては、城郭というものがすでに軍事施設としての役目を終えて、その存在理由が、権勢の象徴物へと変じたためでした。
江戸幕府の西国への重要な備えとしての役割を担う彦根城も、彦根藩の各組織の管轄で天守以下倉庫等として江戸時代を通して使われました。

なお、幕末における幕府の大老井伊直弼は、藩主となるまでをこの城下で過ごしています。
直弼が青春時代を過ごした屋敷は「埋木舎(うもれぎのや)」として現存しています。

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(どど~ん、天守正面です。太鼓門過ぎちゃいました、涙。)
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(天守に入ってみましょう。)
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(附櫓のはずです。天守と共に国宝です。)

【計画者の井伊直政について】
徳川四天王のひとり、井伊直政は赤備え(真田信繁も赤備えで有名すよね)の軍装で知られる猛将です。
少年時代から家康に仕えた直政は、一説にはその美少年ぶりから家康の寵童(衆道(しゅどう、英: Shudō)とは日本における男性の同性愛関係「男色」の中で、武士同士のものをいいます。)となり、やがて家康から武田家の旧臣を附属されて一手の大将となりました。

その戦いぶりは勇猛果敢で、つねに陣頭でみずから刃をまじえ、家康から「直政はいつも重装備の甲冑に身を包んでいても負傷が絶えないな」とからかわれるほどでした。

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の後、家康はそんな直政の歴戦の功を賞して「開国の元勲(げんくん)」と称えています(『寛政重修諸家譜』)。
この合戦の前後、外交手腕にも長けていた直政は、多数派工作や戦後処理にも活躍し、家康の政権樹立を輔佐しました。
ちなみに関ケ原の戦いでは待ちきれずに戦端を開いた事で有名です。

直政の死因は関ヶ原の戦いでの負傷による破傷風とされますが、2年もかけて苦しむ破傷風は無いですし、2年前の古傷が開いて破傷風に感染するなど、どうにも不自然に感じられますね。

此処は素直に、破傷風は直ったが歴戦の疲れが、直政の命を縮めたと考えておきます。

【残った彦根城】
明治に入り各地の城が廃城令で破壊・売却されていく中、彦根城も例外ではありませんでした。
しかし、明治11年10月、明治天皇が巡幸で彦根を通過した際に城の保存を命じたため破却は逃れたといわれています。
その際、巡幸に随行していた大隈重信が城の破却中止を天皇に奉上したという説と、天皇の従妹にあたるかね子(住持攝専夫人)が奉上したという説があります。

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(天守左前方向~桜が満開なら最高だったですね~笑)
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(天守後方と附櫓と子供達、小さいですね~写真も小さいから怒られ無いかな?)
IMG_5724.jpg
(玄宮園の茶室八景亭のはずです。)
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(玄宮園から天守を臨む!世界遺産でも良いんじゃないですか~?)

【戦略拠点としての彦根城】
湖と山の間、5キロメートルほどの狭い平地に立地する彦根は、中山道と北陸道(俗に北国街道ともいう)が合流し、水陸から京に至る東国と西国の結節点であり、壬申の乱(672年「白鳳元年」)・姉川の戦い(1570年「元亀元年」)・賤ヶ岳の戦い(1583年「天正11年」)・関ヶ原の戦い(1600年「慶長5年」)など、古来、多くの天下を目指した合戦がこの地域で行われました。

戦略拠点として注目され、織田信長は佐和山城に丹羽長秀を入れ、ほど近い長浜城を羽柴秀吉に与えています。

豊臣秀吉と徳川家康がそれぞれ譜代筆頭の石田三成と井伊直政を、この地に配置したことが、この彦根の地がいかに天下取りにとって重要な場所だったのかを物語っていますね。

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2017/01/22

妻と長女の「happybirthday」

1日遅れのUPに成りましたが、昨日1月21日は愛する(笑)妻の誕生日です。
??歳に成りました~(^^;

この前報告しなかったのですが、元日1月1日長女の18歳の誕生日でした。
長女は平成11年1月1日生まれというとてもお目出度い子供です(笑)

今日はちょっと息抜きをさせていただきます。
昨日から新しい車の購入や 事故車の廃車手続きなどで走り回ってゆっくりブログを書く余裕が在りませんでした(;^_^A。

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我が家では「おめでとう!」のケーキは誕生日の者が指定できる事に成っています。
今回のケーキは神戸のレーブドゥシェフの苺タルトです。

今回妻は車で事故り、誕生日どころでは無かったと思いましたので、私の独断で苺タルトにしました。
実は次女がかなりの卵アレルギーなので、ケーキは卵抜きが多いのですが、予約が間に合いませんでした(三日前まで)。
タルトの生地とカスタードクリームに卵が入っているので、次女は抹茶ゼリーの「利休」と一人だけ別物に成ってしまいました。

結婚して20年、一度も欠かさず(入院や単身赴任などの障害もありましたが、日をずらしながら)良くやってこれたものだと、妻に感謝しています(ありがとう!)。

P1210008.jpg(苺タルト美味しそうですね~小さめ四号です。)
P1210010.jpg(抹茶ぜりー「利休」、卵抜きなら五号にしています。もう少しが丁度かな?)

1月1日長女はフルーツタルトをチョイスしました。
3人兄弟の一番上でで、「弟と妹の見本たれ!」と言われて、苦労していると思いますが、優しい子供(もう大人ですね(#^.^#))に育ってくれました。
只今大学受験真っ盛り!頑張ってもらわねばいけませんが、私に似たのか浮世離れしていて、大丈夫か心配です。

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(フルーツタルト、今でも1月1日はケーキの確保が大変です。帰省中の事も多いですしね~。)

次はバレンタイン、2月27日に私の誕生日、(ホワイトデーは私の懐具合で無いかも、笑)3月17日に長男の誕生日、更に3月30日は結婚20年とイベント続きますが、何よりも上二人が入試に合格することが最大のイベントに成って欲しいと願っています。

事故後の誕生日に乗用車の購入で厄払いできたと思います。
我が家に歴史有のブログUPでした~「ママ本当におめでとう」お粗末様。


P1210016.jpg
(これからもよろしくお願いしますね。)


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2017/01/20

養父神社の狛狼と「戦国大名越前朝倉氏・但馬四天王八木氏」の系譜を訪ねる!

最初から話がずれていると思われるかも知れませんが、皆さん朝倉山椒知ってますよね~(^^;♪

「但馬の朝倉山椒は日本の絶品にて・・・この山椒は毎年幕府に進献するの例なりしか(校補但馬考)。」

トゲのない山椒として知られている朝倉山椒は、八鹿朝倉村の豪族朝倉氏とその地名から朝倉山椒の名がついたと言われます。

現在の兵庫県養父市八鹿町朝倉で取れる、スーパーブランド山椒なんですよね。

先日、この朝倉山椒を使ったショコラ食べました(絶品!o(^o^)o)(あの「es koyama」の小山シェフもショコラに使われていたと思います♪)!

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(今回のブログはインパクトで勝負!どど~んと狼さんです。)

今日御紹介するのは、狼伝説と鎌倉時代~戦国武将です!

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山椒の話では無いので、話題を狼に戻しましょう。

お正月は、「養父神社」に初詣に行かれた但馬の方も多いのではないでしょうか(昨年私も詣りいたしました)?

氏子総代が中学の恩師で、亡き母とも同僚だった「小島 勝 先生」でした(昨年時)。
小島先生は絵が凄くお上手で、養父神社の絵葉書だけでなく、養父市「道の駅」の休息ルームや、朝来市和田山の「OX(オックス)」という喫茶店に絵が飾られています(又、思い出話に成ってました~(^^;)!

児島先生絵葉書
(昨年可愛くて買ってしまった?児島先生の絵葉書です。恐れ多くて使えません、笑!)

さて、養父神社の拝殿の前に、尻尾を高く上げた狼の石像があることをご存じでしょうか。

二対の狛犬が並んでいるように見えますが、一対は明治26年(1893)に建立された狼の石像です。
口を開けているのが雌で、閉じているのが雄です。

日本狼は明治38年(1905)に絶滅しましたが、養父神社には石像として残っています。
田畑を荒らす猪や鹿から作物を守る益獣として、狼を守り神にしています。

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(口を開けているのが雌だそうです。そういえば、お〇ん〇んが見えませんね~。(〃_ _)σ∥。)
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(凄い迫力です。市郎右衛門は実は53年間養父神社に訪れていませんでした。)
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(口を閉じているのが、雄だそうです。なるほどね~もっこり、笑!)
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(先輩ブロガーさんに教わるまで猪か豚だと思っていました~(;^_^A)

話は変わりますが、徳川家康の旗本になった朝倉氏(戦国大名越前守護の朝倉氏末裔)八木氏(但馬守護山名氏の下で、但馬四天王の一氏末裔)が、江戸幕府に提出した系図が残っています。
そこに「朝倉高清」と養父神社の係わりが書かれています。

鎌倉時代の関東に、大きくなると210cmを越える白猪が暴れていました。
源頼朝は、朝倉高清(朝倉氏二代と成りますか?)にこの白猪退治を命じました。
そこで但馬に帰って7日間、養父神社にこもって祈願し神前から鏑矢(かぶらや)をもらいました。
この矢で白猪を退治して、源頼朝の家来になれたという話です。



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(今回は養父神社は脇役です。申し訳ないです(^人^)。)
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(ここまでです。昨年の初詣UPが有ったので、またいずれあらためて書かせていただきます。)

【ここで朝倉氏の系図について少しお話させて頂きます。】

但馬には、 開化天皇の後裔とも孝徳天皇の後裔とも伝わる日下部氏が、平安時代から大武士団を形成し栄えていました。
朝倉氏は、この日下部氏の流れをくむ氏族のひとつです。

朝倉氏の本貫は但馬国養父郡朝倉(兵庫県養父市八鹿町朝倉)です。
但馬朝倉氏から分かれ越前に移った系統が越前朝倉氏と成りますね。
越前朝倉氏は、越前国守護の斯波氏に仕えて、甲斐氏、織田氏に次ぐ斯波三守護代の第三席となり、後に朝倉氏自体が守護に任命されるようになって自立し、越前国を支配する戦国大名になりました。

日下部氏の流れをくむ氏族は、越前戦国大名朝倉氏(前出武家)土佐朝倉氏(武家)溝江氏(武家)又、山陰最大の守護大名・山名氏の家老職である但馬四天王の太田垣氏(竹田城主)・八木氏(前出・八木城主)などがあります。

【但馬朝倉氏】

平安時代末期に日下部宗高が但馬国養父郡朝倉に住し、はじめて朝倉氏を称したとされます。

伝説では、宗高の子・朝倉高清は平家に与したことで鎌倉時代に領地を没収されましたが、関東で誰も退治できなかった白猪を射て退治した功績によって、源頼朝より領地の安堵と木瓜紋(三つ盛木瓜)を賜ったとされます。

その後、朝倉氏は朝倉城を築き、代々この城に拠ったと言われます。
通し字は「高」

高清の長男・安高は八木氏を興し、次男の信高が朝倉氏を継ぎましたが、承久の乱で信高は敗れた後鳥羽上皇側に付いたため朝倉氏は衰退してしまいます。
このため八木安高の孫・高実が朝倉氏を継ぐ事になります。
室町時代には但馬守護の山名氏に仕えましたが、戦国時代に織田信長(羽柴秀吉)に敗れて、但馬朝倉氏の名前はみられなくなりなります。

【越前朝倉氏】

越前朝倉氏は、南北朝時代に足利氏の一族である斯波氏に仕えた朝倉広景から始まります。
通し字は「景」

近年、但馬で発見されたとされる「桜井八木系図」「粟鹿社系図」によれば、朝倉信高の兄安高(弟ともいわれます。)が八木氏を名乗り、信高-高吉-高実(安高の孫、養子として朝倉本家を次いでいます。)-高景-高資-広信と続き、その跡を継いだのが広景です。

「朝倉始末記」によれば、正慶2年(1333年)4月下旬に足利尊氏が丹波国篠村に着陣したときに、朝倉広景は尊氏のもとに馳せ参じ、その後足利一族の斯波高経に属して越前に転戦したとされますが、これはあくまで通説と成っています。

次代の朝倉高景(但馬時代の高景とは別人です。)は斯波高経に仕えて高経が守護に任じられた越前国に所領を与えられますが、高経が室町幕府によって越前守護を奪われて討伐された貞治の変の際には、幕府軍に寝返って所領を安堵されています(朝倉氏「機を見るに敏」ですね、最後の?朝倉義景のみ残念でした。)。

その後、外来の武士ながら越前国に定着して勢力を築き、斯波氏が越前守護に復帰すると帰参しますが、既に越前に勢力を築いていた朝倉氏の存在を斯波氏も無視する事は出来ず、室町時代に入ると、甲斐氏・織田氏とともに守護代に任ぜられるようになりました。

室町時代後期に入ると、朝倉孝景は守護代甲斐常治とともに主である斯波義敏と対立して長禄合戦を引き起こしておきながら、足利将軍家の家督争いなどから発展した応仁の乱では山名宗全率いる西軍から細川勝元率いる東軍に属し、越前から甲斐氏を追い払います。

戦国時代には越前支配のみならず、隣国若狭、近江にも進攻し、領土を広げたが、尾張国の織田信長と対立し、1573年(天正元年)、戦国大名としての勢力を失ってしまうのは、皆さんもご存知の通りです。


最初の鎌倉時代に400年さかのぼって、朝倉高清は、暴れまわる白猪を、狼が守る養父神社から授かった矢の霊力によって退治することができました。
狼は、養父神社では今も田畑の作物を猪や鹿から守る良い獣なのです。

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(山野口神社、神の滝があるようですね~次までには必ず。)
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(社殿です。しっかりお詣りしてきました。)

養父神社の摂末社、山野口神社は「狼の社」(おおかみのやしろ)と言われ、病気平癒を祈願する神社です。

童話に出てくる狼は、主人公わをたべてしまう悪役な事が多いですが、養父神社の狼は人を助ける神様の使いなのです。

養父市には宿南にも、狼にまつわる伝説があります。
掃部狼婦(かもんろうふ)物語という狼伝説です。
此方のお話は又次の機会に致します(^人^)


時代が400年間にも及び、説明がわかりにくかったと思いますが、養父神社の狼の狛犬?が戦国大名朝倉義景の滅亡にまで影響を与えたと考えると、この栄枯盛衰は平家物語に匹敵するお話かもしれませんね(言いすぎました。笑!)。

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2017/01/18

苔に座る地蔵に禅宗の真髄を見た!出雲『瑞塔山 雲樹寺』

ブログランキング、ブログランキングならblogram『出雲部門』で一位に成ってました~(^^;

出雲好きで良かったです(笑)
という事で、久しぶりに出雲?に帰って来ました!
出雲神仏霊場第十二番札所の『雲樹寺』を御紹介します。

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(苔むせる地蔵尊、京都大原にも似ていますね。)

南北朝の姿を今に残す臨済宗の古刹、雲樹寺は、古くから鉄の積み出しで栄えた安来港から伯太川(安来市伯太町)を遡ったところにあり、冬には白鳥が飛来する能儀平野の一画に位置します。

出雲神仏霊場第十二番札所
中国観音霊場第二十七番札所

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瑞塔山 雲樹寺(ずいとうさん うんじゅじ)臨済宗妙心寺派
所在地は、島根県安来市清井町281



元亨2年(1322年)、孤峰覚明(三光国師)によって創建された禅寺で、出雲地方では最古の禅寺の一つです。
後醍醐天皇・後村上天皇、南北両朝の勅願寺にもなっています。
四脚門や朝鮮銅鐘など多数の文化財を有し、方丈裏は1万坪の枯山水の庭園があります。

最初に見える季節の花に彩られた、松並木の参道中程にある四脚門(大門、国重文)は1300年代当時のままの姿で参拝者をむかえています。

CIMG2593.jpg(四脚門鎌倉時代から室町時代前期の物良く残ってますね~。)
CIMG1645.jpg(道路建設で有水が枯れていました。残念ですね~。(。´Д⊂))

境内に入ると大きな山門、説明板によれば、元禄8年(1695)の再建で、掲げられている勅額は後醍醐天皇の御親筆とのことです(凄い!後醍醐天皇フアンの私としては是非訪れたかった寺院の一つです(^_^)v)。

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(中国観音霊場二十七番札所です。)
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(御手水舎の龍ですが、ドラゴンボールの神龍に見えませんか?)
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(睡蓮が綺麗ですね。)

さらに歩いて石門を抜けると左に広がる境内に山門・仏殿・方丈と伽藍が一直線に並んでいます。
五山十刹に多く見られる禅宗様式の構えで、地方寺院にしては珍しい貴重なたたずまいは凛とした閑けさに包まれていました。

CIMG2574.jpg(山門、向こうに仏殿が一直線なのがわかりますよね~ここ大事です(^^)d。奈良纒向遺跡のビックリと同じです。)
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(説明だと、半分に切って上に乗っけたのかな?)
CIMG2597.jpg(ん~一文字ずつ釘の後が見えますね~うまく並べ直したようですね!)

その他「酒断ち地蔵」の祠、中国観音霊場第二十七番札所になっている観音堂には、「子授け・子育て観音」が祀られており、所願成就と供に、古来より多くの信仰を集めています。
また、仏殿に祀られているご本尊は拈華微笑佛(ねんげみしょうぶつ)で、家内和楽のご利益があるそうです。

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(私的に特別にUPです「笑」。笑えないか、出来ないですものね~なかなか!)
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(勤労断酒会!入りたいですね~断!)
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(酒絶ち地蔵尊、よ~くお参りしときました。f(^_^;)

拝観コースでは、県下でも数少ない高麗梵鐘(朝鮮鐘・国重要文化財)を見ることができきます。
日本最古といわれる新羅時代の鐘と伝わります(こちらに在るいわれが知りたいですが?)。

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(境内に苔むしたお地蔵さまが、いっぱいでした。)
CIMG2580.jpg(これは誰?大黒様と、恵比寿様かな?)

【狐峰禅師について少し説明しますね】
狐峰禅師は南北朝時代の名僧で、応長元年(1311)唐に渡り天台山で学び、帰国後雲樹寺を創建します。
元弘の役で伯耆に行幸した後醍醐天皇は、船上山に師を招いて戒を受け、その後「建武の新政」以後国「済国師の号」「天長雲樹興聖禅寺」の頼願を下賜しました。
禅師は後に後村上天皇より「三光国師号」を加賜され、勅詔あって和泉高石に「大雄寺」を建て隠棲した、「二祖国師号」を持つ稀代の名僧です。 

こうした名僧知識の法を嗣いだ雲樹寺は、次第に寺運も発展し、塔頭二十余院を含む大伽藍となったが、もとは千歳(せんざい)の沼を囲む鬱蒼とした森であった。
狐峰禅師はこの沼を干拓し、参道の一部を造営しました。
この偉業は後世に伝えられ、今も地名に残っています。

天文年間から元禄にかけて伽藍の大修理が行われ、参道の松の植栽や方丈の背面の山には、禅宗枯山水形式の庭が整備されました。

元禄時代整備されたこの庭には、斜面を利用して植えられたツツジが打ち寄せる波のように重なりあい咲きほこり、静寂な境内は禅寺としての厳しい面持ちが見られますが、5月に咲き誇る数百株のツツジは圧巻らしいです(またその時期に行ってみよ)。
見ごろは4月~6月で、次々と花を咲かせるそうです。

CIMG1649.jpg(つつじが咲いてますね~季節が二つなのに気づかれましたか?六月の頭と七月の終わりでした。)

文政3年不慮の天災で堂塔のほとんどが焼失しましたが、大門、山門、薬師堂、庭園はかろうじて難を逃れました。
江戸末期より仏殿、方丈、開山堂を再建し、往時の姿を取り戻しています。

凛とした、禅宗らしい気持ちの良いお寺でした。
実は我が家の宗派は日蓮宗なのですが、昨年から兵庫県三田市の曹洞宗「永澤寺」で座禅をやろうと通い始めたのですが、これが辛いのです。
足にもろに体重が係るので痛いのなんのって(笑)どうにかダイエットせなば、仏の声も聞こえてこない市郎右衛門なのでした。


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2017/01/16

秀吉の「第二次但馬攻略」スピンオフ「願入寺」!

折角先週末に、但馬に帰省したにも関わらず、ご存知の大雪で何処も?行けず!

唯一訪れる事が出来た、兵庫県養父市にある浄土真宗 本願寺派の寺院、 『願入寺』がちょっと興味深いので御紹介します。

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スピンオフ「願入寺」!と名打って、羽柴秀吉の但馬平定(征伐が一般的かもしれませんが、但馬人としては悪役みたいで納得出来ませんからね)に功績のあった養父(やぶ)の太郎左衛門を取り上げてみます。

P1130001.jpg
(但馬の方でも知ってるかな~?のお寺「失礼」です。)




P1130002.jpg(綺麗なお庭です。)
P1130014.jpg(上の写真の公民館、後ろの山ももとはお寺の土地だったそうです。当時は豊臣の天下様に庇護されたのでしょう。)
P1130016.jpg(雪が降り始めました~週末の大雪の始まりがこれです。積雪0センチ、笑)
P1130019.jpg(透かし彫りが綺麗なので住職に聞いてみると~驚!)
P1130006.jpg(この山門は左甚五郎の作だそうです。「お寺伝承、左利きの甚五郎、飛騨の甚五郎の説もあるそうです」住職談話!)
P1130005.jpg(見事な透かし彫り正に~重文になる予定が、檀家さんが綺麗に見せようと白ペンキ塗ったので、ボツになったそうです。(;^_^A)
P1130004.jpg(天邪鬼が支えるのは、左甚五郎の特徴だとか?ご判断は皆様に、笑)

織田信長による但馬攻略は一度のUPでは到底書ききれないので、いつかゆっくりとお伝えいたします。
時は戦国時代(活弁史みたい、笑)天下統一を進める織田信長の命令を受けた羽柴秀吉は弟秀長に命じて但馬を平定します(一般的に第二次但馬征伐といわれます)。

天正8年(1580)6月頃、羽柴秀吉の弟である羽柴秀長は、織田信長によって出石城主に任命され、但馬国で10万5千石の領地を与えられたました。
この時、羽柴秀長は功績のあった領内の農民に対して褒美を与えました。
鮎を捕る税金を免除して自由に鮎を撮る事を許す鮎漁免状です(この頃から鮎は有名だったんですね)。
5月15日岩中村の4人、6月25日浅間村と網場村の各1人、合計6人に免状を与えました。

養父の薮崎村、太郎左衛門(たろうざえもん)には、鮎漁免状では無く、土地にかかる税金の一部を免除する免状が与えられました。
羽柴の軍勢が大屋川を渡河するのを助けた褒美だと言われています。

古文書には「諸公事(しょくじ)免許せしむのところ、違儀あるべからず候也。小一郎、長秀。八月十三日。養父、太郎左衛門」
年号は天正8年と推定されています。
秀長は当時、長秀と名乗っていました。
税金の一部を免除する諸公事免除は、鮎の免税漁業を許すという恩賞に比べて、格段に高い恩賞になります。

天正13年(信長が亡くなって三年、賤ケ岳の戦いも終わり秀吉が着々と天下統一への階段を上る頃です)、出石有子山城主(秀吉最古参の家臣である前野長康だと思います。)は同じような内容の諸公事免除の免状を広谷村に与えています。
市場を運営する特典として与えました。

出石藩は殿様が交代しても、江戸時代を通じて特典を認めました(280年間に及んでいます)。
薮崎区では太郎左衛門を顕彰し、羽柴秀長の恩賞に感謝する太閤祭(たいこうさい)を、毎年9月、太郎左衛門の供養塔の前で行っています。
その供養塔が有るのが「願入寺」というわけです。

江戸時代には太閤祭り・御免祭りと言って8月13日に行っていた伝統行事です。
供養塔は、二段の台座の上に置かれた高さ約150cmの三角形の立派な石材です。
太郎左衛門が武功によって、出石藩に減税を認めさせた功績が讃えられています。

P1130007.jpg(恩賞の文字を書いた顕彰碑です。)
P1130011.jpg
(150センチは超える立派さ!太郎左衛門の供養塔です。)

当時但馬北部を攻めるに当たって、円山川を渡ることは大変重要なポイントでした。
実は罠が現豊岡市日高町の浅倉に仕掛けられていたのです(ここまたの機会に~~~~!)。
秀長は内通者の意見を取入れ、円山川を渡って出石周りで現日高町に攻め込む迂回ルートを取ります。
中でも養父の太郎左衛門他8名(もう一人は?)増水した円山川を船で対岸まで渡したのです。
これにより羽柴勢は北上ルートを取らず出石に入ります。
そして但馬勢の籠る水生城へ、東と北から進軍、東と北の二方向から攻められた但馬勢はひとたまりもなく壊滅しました(ちょっと残念!)。

当時の但馬は守護の山名氏の力が低下し、丹波や播磨からの攻撃を受ける一方で毛利氏の影響も受けるという、複雑な時代背景がありました。
新興勢力とはいえ、絶大な力の羽柴(織田)軍に新しい時代の到来を感じて、行動を起こした郷士が居たのですね~!。


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2017/01/12

「せんとくん」より早くこんなにすごいのもが!『播州清水寺』

お正月にお詣りした「山王神社」も神戸新聞に取りあげられていて、今回の「清水寺」も先を越されて、新聞社にテレパスが居るのではと思う今日この頃(笑)。

TVドラマの視すぎかも知れません( ノД`)…

西国三十三観音第25番札所のご紹介です。

CIMG9157.jpg(山門ですが、写真の季節は初冬と初夏です。こちらは初夏の山門ですね。)

『清水寺』は兵庫県加東市平木にある天台宗の寺院です。
山号は御嶽山と言います。
本尊は十一面観世音菩薩で秘仏と成っております。

同じ西国三十三観音の第16番札所で京都市の「音羽山清水寺」と区別するため「播州清水寺」と呼ばれています。

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CIMG7861.jpg(ご由緒書、こちらは初冬の清水寺です。早朝一番雪が残っていますね。)




寺伝では1,800年前(古墳時代)、天竺(古代インド)僧の法道が創建したとされます。
627年(推古天皇35年) に推古天皇直々命により根本中堂が建立されます。
さらに725年(神亀2年) 聖武天皇が行基に命じて講堂を建立したと伝わっています。

日本へ仏教が伝来したのは6世紀のことですから、「1,800年前に法道が創建」との伝承は後世の創作ということに成りますね。
法道は「天竺から紫の雲に乗って日本へ渡来」したとされる伝説上の人物です。
法道開基を伝える寺院は兵庫県南部に集中していることから、「天竺から紫の雲に乗って」云々はともかくとして、その由来につながる僧侶がこの地を訪れた事はあり得ますね。

CIMG9161.jpg
(こんな物も、赤松氏範は兄弟と袂を別ち南朝に着いたために、足利義満の命令で兄弟一族に討伐された悲運の武将です。)
CIMG9162.jpg(またこんな物も、芭蕉の句碑「名月やどの山見ても皆低き」?ん~~~~笑)

法道開基のお寺ですが、法華山一乗寺を起点として姫路、加西、加東、三木、小野、多可町など旧播磨国を中心に丹波、但馬、神戸など兵庫県内に約120以上の寺院が法道仙人開基の寺伝を持っていると言われています。

私が訪れたのは、一乗寺(加西市)、朝光寺(加東市)等ですがまだまだあるようですね~。
法道上人を架空の人物とする説もあるようですが、「紫の雲に乗って日本へ渡来した」事は別としてカリスマ性を持った指導者としての法道上人の実在を信じたいですね。

寺は1913年(大正2年)の山火事で全焼し、現存の諸堂はそれ以後の再建です。
本堂にあたる根本中堂本尊十一面観音像は秘仏(通常秘仏/今年は30年に一度の開扉の年のはずです)。
大講堂本尊の千手観音坐像(大正時代作)は秘仏でなく拝観可能です。
西国三十三所の札所本尊大講堂の千手観音像となっています。

CIMG7865.jpg(雪の大講堂です。)
CIMG7867.jpg(とにかく寒い~~~!)
CIMG9178.jpg(こちらが西国霊場札所の本尊、千手観音ですね。)
CIMG7869.jpg
(長い階段を上がると~~~!)
CIMG7870.jpg(根本中堂です。御本尊十一面観音像は秘仏で公開は30年に一度、今年11月1日~30日です。)

今回神戸新聞でも取り上げられていたのは薬師堂の干支を題材にした「十二神将(2001~2006)」です。
作者は東京芸大大学院教授の彫刻家、薮内佐斗司さんです。
あの童子にシカの角が生えた姿で、物議をかもした「せんとくん(2008)」は有名ですね。
この干支を題材にした十二神将を見るだけでも価値が有ります。

CIMG9163.jpg
(薬師堂ですから薬師如来様、そう如来様は解脱されています。証拠が質素な袈裟と頭のでんでん…(*`Д´)ノ!!!)
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(さあ、如来様を守る十二神将行きますよ~子の毘羯羅大将)
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(丑の招杜羅大将(*´ω`*))
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(寅の真達羅大将)
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(卯の摩虎羅大将(#^.^#))
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(辰の波夷羅大将)
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(巳の因達羅大将( ☆∀☆))
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(午の珊底羅大将)
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(未の頞儞羅大将)
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(申の安底羅大将)
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(戌の「今年の干支の酉は最後に」伐折羅大将)
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(亥の宮毘羅大将)
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(そして最後は酉、まさにトリを飾るのは迷企羅大将)


神戸新聞には勝ったな(笑)

京都の清水寺もすごいですが、加東市の播州清水寺も静かですが心洗われるところです。
喧騒を忘れて自分を見つめなおすには丁度良いかもしれません
是非、お出かけください。


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歴史って本当に面白いですよね~!

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2017/01/10

山陰名物「三姉妹船長」『遊覧船かすみ丸』静かに役目を終え67年の歴史に幕!

今日は歴史は歴史でも「人に歴史有り」のお話です。

香住名物「三姉妹船長」『遊覧船かすみ丸』が静かに役目を終え67年の歴史に幕を下ろしました。
昨年の11月にUP予定でしたが、遅れてしまいましたm(__)m。

其ではノスタルジーに浸ってみましょうか。

kasumi.jpg
(ブログに書かせてくださいとお願いしていたのですが、幕を下ろしてからに成ってしまいました。FBがら写真をお借りいたしました。)


ところで皆さん、山陰海岸『世界ジオパーク』認定ってことは、ご存知ですよ~ねぇ?

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少しジオパークを説明しましょう。
地球科学的に見て、美しく貴重な地質遺産を含む自然公園の事です。

その一つである「山陰海岸ジオパーク」は、 京都府(京丹後市)、兵庫県(豊岡市・香美町・新温泉町)、鳥取県(岩美町・鳥取市)にまたがる広大なエリアを有しており、山陰海岸国立公園を中心に、京丹後市の東端から鳥取市の西端まで、東西約120km、南北間最大30㎞、面積は2458.44㎢で、東京都よりひとまわり大きい広さになります。

2010年に「世界ジオパーク」に認定されました。

山陰海岸ジオパークの最大の特徴は、約2,500万年前にさかのぼる日本海形成に関わる火成岩類や地層、日本海の海面変動や地殻変動によって形成されたリアス式の香住海岸や鳥取砂丘をとする多彩な海岸地形をはじめ、城崎や湯村等の温泉、 近畿では数少ない火山の神鍋山に玄武洞、貴重な地形・地質遺産を数多く観察できます。

つまり、日本海形成から現在に至る様々な地形や地質が存在し、それらを背景とした生き物や人々の暮らし、文化・歴史に触れることができる地域なのです。

山陰海岸ジオパーク香住海岸の美しさを、長きに渡り紹介し続けてきた、「三姉妹船長」で有名な兵庫県香美町香住区の『遊覧船かすみ丸』が、昨年(2016年11月30日)営業を終了しました。
国による貸し切りバスの安全対策の影響で、京阪神や中国地方からのツアーが激減したため、67年間の歴史に幕を下ろすことに成りました。

『遊覧船かすみ丸』について少しお話しましょう。
社名も同じ「遊覧船かすみ丸」。
遊覧船事業は、1949(昭和24)年にスタートしました。
最初は正に手探り状態で始まりました。
コースは、創業者の故山口武雄さんが竹竿で香住港の深さを計りながら、ルートを決めて行ったそうです。
会社は武雄さんの長女で、初代三姉妹船長山口都子さんが社長を引き継がれました。
遊覧船は3隻、都子さんの娘さん3 人も2代目三姉妹船長として活躍されていました。
世界ジオパークに認定された香住沖の山陰海岸を巧みな話術で説明する姿が、人気を呼び、幅広いメディアに取り上げられました。

営業終了の原因は、国の安全対策の強化で、2012年に群馬県の関越自動車道で起きた高速ツアーバスの死亡事故がきっかけです。
交代運転手の配置など安全基準が強化された上、料金制度も改定されます。

「遊覧船かすみ丸」によると、こうした影響でツアー客が激減し、乗船客は2013年の約3万2千人から14年には1万8千人に減少。
事業の見通しが立たなくなり、仕方なく営業終了を決めたという事した。
社長の都子さんは「素晴らしい香住海岸を愛し、営業してきたので残念!事業や遊覧船の売却、譲渡などはこれから検討したい」というお話でした。

昨年二月に、かすみ丸さん自身のFacebookページでも営業終了の案内がされました(内容は以下の通りです)。

●重要なお知らせ●皆様、いつも当フェイスブックをご覧頂きありがとうございます。本日の新聞でご覧になった方もいらっしゃると思いますが、遊覧船かすみ丸は今年の秋、11月30日をもちまして、営業を終了させて頂くことになりました。皆様の長年にわたるご愛顧に心から感謝申し上げます。11月30日までは通常通り、営業してまいりますので、最後までどうぞよろしくお願い致します。

Posted by 遊覧船かすみ丸(三姉妹船長) tour boat yuransen Kasumimaru on 2016年2月22日

このニュースを目にいたしまして、私は是非一度かすみ丸に乗ってみたいと思い昨年六月の梅雨前に出かけました。
実家に泊まり、早朝香住を目指して車を走らせます。

目的は「遊覧船かすみ丸」円山応挙プロデュースで有名な「大乗寺」です。
大乗寺は逃げませんが、「遊覧船かすみ丸」は11月に運航停止が決まっているうえに、日本海の模様次第ですから心配していました。

朝予約に行くと怪しい雰囲気、天候がもう一つらしく直前までわからないとのことです。
「大乗寺」に先にお参りして、予約時間のお昼に窺うと波が高いので、長いコース(コース設定は3コースでした)は無理とのこと、しかしながら一番短いコースなら遊覧できることとなりました。
そして乗船、山陰海岸を満喫した様子は写真でお楽しみください。

CIMG1092.jpg(船長は次女の初代船長です。2代目船長のお姉さんもおられたのですが、船が揺れて(;^_^A)
course[1]
(コースは一番短い1コースでした。残念!)
CIMG1100.jpg(真ん中に穴が見えますね~、北前船を繋ぎとめる為の穴だそうです。)
CIMG1112.jpg(黒島の洞門、五色洞門です。)
CIMG1118.jpg(天井から太陽の光が差し込むと、海の色が五色に変わることから名づけられました。)
CIMG1137.jpg(小白岩、天女伝説の残る岩です。)
CIMG1123.jpg(かえる岩、今子浦海岸にある、かえるの座った姿そっくりの岩です。昔、漁師が無事帰ると祈願した岩でもあります。)
CIMG1130.jpg(凝灰岩の侵食でできたはさかり岩)
CIMG1136.jpg(観音石、観音様の後ろ姿に見えますか?)
CIMG1139.jpg(足岩、船が揺れてこれが限界です。)
CIMG1143.jpg(ハート岩、まあ見えなくもない?)
最後に本当は最長コースで行きたかった。
yoroi.jpg
(鎧の袖、国指定天然記念物・日本百景です。海抜65m、長さ200mにも及ぶ柱状節理の断崖。その姿はまるで武士が着用していた鎧の袖にそっくりです。行けなかったのでWikipediaから写真を拝借しました。)
                                                                                                
本当に長い間ご苦労様でした。
今後もまた何かの形で、山陰の良さをアピールしていただきたいです。
やはり生まれ故郷は美しいですね…グスン( ノД`)…。


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