2016/12/31

「出雲」の人々の信仰心を改めて感じさせられる『一畑薬師』

今年も後僅かですね~(^^;!
皆さんお正月の用意はお済みですか?(こんな時間ですからもう終わっますよね~)

さて今年最後のブログになりました。
自分自身にどの程度の発信力が有るのか?試してみるために始めたブログUPですが、一年と少しの割には成果かが出ているのではないでしょうか?

専門外の好きなだけの歴史分野で、健闘出来たのも皆様の、応援のお陰と感謝しております(^人^)。

テクニック的にも、文章でもまだまだな私のブログですが、更なる高みを目指して精進したいと思いますので今後とも宜しくお願い致しますm(__)m

最期は実家に帰って但馬の話題をと思っておりましたが、子供達の受験や私の元日出勤等で、出来なく成ってしまいました。

其処でやはり、『出雲』を取り上げさせて頂きますね(#^.^#)

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(大きなお寺ですね~!)
CIMG2214.jpg(1300段の階段を登ってきます。宍道湖が綺麗に見えていますね~。)

出雲神仏霊場第三番『一畑寺』です。

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医王山 一畑寺(一畑薬師)

〒691-0074 島根県出雲市小境町 803番地



一畑薬師は、出雲神話の国引きで名高い島根半島の中心部、標高三百メートルの一畑山上にあります。
「目のお薬師さま」「子どもの無事成長の仏さま」として、古くから全国的に知られ、千三百段余りの石段(参道)でも有名です。

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(実は急いでいたので?1300段持ちそうになかったので?(;´・ω・)車で登らしていただきました。)
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(狛犬ですが、少し中東な感じしませんか?狛犬はもともとスフィンクスだって言われてますからなるほどですね。)

宗派は禅宗(臨済宗妙心寺派、元は天台宗でした)、また一畑薬師教団の総本山として全国に約五十の分霊所があります。

創開は、平安時代寛平6年(894)一畑山の麓、日本海の赤浦海中から漁師の与市が引き上げた薬師如来をご本尊としておまつりしたのが始まりで、与市の母親の目が開いたり、戦国の世に小さな幼児が助かったことから、諸願に霊験あらたかなお薬師様として篤く信仰されています。
武家の時代には歴代の領主の祈願所として寄進・安堵を受け、ゆかりの品々も数多く残されています。
全国から年間七十万人余の参拝があり、日々のご祈念、例月祭、座禅会、団体研修、茶会、奉納音楽祭など年間を通してさまざまな行事がります。 
 
さて、お寺開基のお話を致しましょう。

CIMG2197.jpg(薬師如来を引き上げたご由緒が書かれています。)

今からおよそ1100年前の寛平6年(894)、一畑寺の麓、日本海岸の坂村に与市という漁師がいました。
盲目の母親と二人暮らしであった与市は、ある日何気ないことから金色に輝く薬師如来を海中より引き上げます

この後、与市の家には不思議なことが相次いで起こり、夢に薬師如来のお告げを受ける。
そのお告げとは、母親の眼病を治すために、千把の藁を身にまとい、近くの百丈が滝から飛び降りるというものでした
お告げの無謀さに村人はこれをなだめ、母親もこれを聞き、何とか思いとどめさせようしますが、与市はお告げを信じて滝に飛び降り、千把の藁はバラバラになって転げ落ちていきました。
意識を失った与市が気が付くと、大きな石の上に安座した与市の体に怪我はなく、我が子の身を案じて駆け寄った母親の目はしっかりと開いていたといいます
 
その後与市は、目の前が開けたこの地を選び、四間四面のお堂を建てて如来をご安置し、自らは比叡山に上り出家をして名を補然と改めます。
寺はもともと医王寺と称し、天台宗でしたが、正中年間に臨済宗に変わり、一畑寺と改名しました。

CIMG2206.jpg(鐘堂と前に水木しげるさんのブロンズ像が有りますね~。)
CIMG2207.jpg(「のんのんばあば」と一畑薬師の由緒が書かれています。)
CIMG2209.jpg(本堂横に釈尊の弟子の像が安置されています。)
CIMG2199.jpg(十大弟子のはずですが?12人ですね~!)
CIMG2210.jpg(観音堂)
CIMG2208.jpg(さあ、本堂です。)
CIMG2213.jpg(本堂、本尊薬師瑠璃光如来をまつる瑠璃光殿)
CIMG2219.jpg(彫り物も素晴らしいですね。)
CIMG2211.jpg(失礼して本堂内部も撮らせていただきました。)

以来、疫病平癒の勅命を頂いたり、尼子・毛利、の戦国大名や、堀尾・京極・松平の松江藩と代々のこの地の大名から寺領を受け、加護も賜っています。
ゆかりの品々も多く、寺宝として今日に伝えられてもいます。
長い歴史を通じて、お薬師さまの御利益を信仰する沢山の人々の力によって守り伝えられた信仰の寺ですね。 
一度出掛けてみてはいかがでしょうか?
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(凄い数の如来様です。)
CIMG2216.jpg(現在4万8000体~!)

『出雲』に出かけて感じることは、神様だけではない、自然な信仰心がすべての人にあるような気がしますね。
人々が本当に心豊かに生活されています。
訪れるたびに、新しい日本らしさを感じさせてくれる場所です。


いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
更には来年も宜しくお願い致しますね(#^.^#)

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2016/12/28

大国主の正妻「須勢理姫命」誕生の地?『那賣佐神社』

今日は出雲の国『那賣佐神社』をご紹介します。

と!その前に、又皆様におことわりをしなければならなく成りました。(またかい(*`Д´)ノ!!!と怒らないで下さいm(__)m)

「ブログ表記の変更を御許し下さい(^人^)」のお願いです。

歴史を勉強された、若しくはお好きな片方は当然ご存知でしょうが、「記紀」の記述は、同じ神様で有っても呼び名が違う事が多いですし、当て字の漢字もほとんど違っています。

それは『古事記』が国内向けに音を漢字の当て字にしたのに比べて、『日本書紀』は対外的に朝鮮や中国にも通じる様に、漢文で書かれた為です。

此れまでは、「出雲の国『古事記』の神話を旅する」のテーマの基に、ブログをUPし始めた為に、一分を除いて(神社縁起の記入等)、表現を「古事記」の記載表記に統一していました。

例えばイザナギは古事記では伊邪那岐、日本書紀では、「伊弉諾神」と表記されます。
スサノオは須佐之男ですね、日本書紀ですと「素戔男尊、素戔嗚尊」です。

資料やデータに神社の縁起を使わして頂く事の多い私ですが、縁起は「日本書紀」の表記が多く使われておりますので、此れまでは訂正するのが大変でした(自分のテーマとの板挟みに悩んでおりました。汗)。

そこで、前回の「藩」使用解禁と同じように、縁起が日本書紀の表記の場合そちらを使わせて頂きますm(__)m。
出来るだけ併記もしくは説明を入れたいとは考えておりますので、宜しくお願い致しますm(__)m。

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(那賣佐神社なのに岩坪ってなんだ~?)

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さて「那賣佐神社」ですね。

さて御由緒記の記載ですが!

所在地 出雲市東神西町字牛谷720番地

【御祭神】
主祭神  葦原醜男命(アシハラシコオ)
配祀神  須勢理姫命(スセリヒメ)
合殿 伊邪那岐命(イザナギ)




【御由緒】

古代は、現在の島根県出雲市東・西両神西町と簸川郡湖陵町江南とを併せた地域神門郡滑狭郷といっていました。

奈良時代に編纂された『出雲国風土記』の中に、次のような地名伝承が載っています。

須佐能袁命の御子、和加須世理比賣命(以下姫神と略称)が、この地に住んでおられ、そこへ所造天下大神(アメノシタツクラシシオオカミ)(⇒大穴持命=大己貴命=葦原醜男命「いずれも大国主命の別名です」)が妻問いに通ってこられた時、姫神のお住いになっている宮の前に大きな岩があって、谷川の水が、その上を大変滑らかに流れている様子を見て、「滑し磐石なるかも(滑らかな岩が在るものだな)」と感嘆して仰せられたので、「なめしいわ」がつづまって「なめさ」となり、この地を「南佐(なめさ)」というようになりました。
後に「滑狭」と書き改められます。

「出雲国風土記」迄出てくると大変ですね~(^^;、スサノオ・スセリヒメ・オオクニヌシの三人が出てきました(汗)。

これは、この地域に伝えられた神話であり、地名伝承ですが、ここには重要なことが三点隠されていると思われます。
一つは、この地に住んだ人々が現在の九景川の奥の谷間に大きな岩磐(高さ二メートル長さ十数メートルにわたる集塊岩)が存在し、流れで造成された二つの大きな穴と数ヶ所の小さな穴(これらの穴は甌穴で、俗に岩坪といわれます。)があることを知っていたこと、二つには人々が祖先神と崇める神が姫神であること、三つめにはその姫神のところへ大穴持神が外部から妻問いに通ってこられたということです。

岩磐の平滑なことや岩に大きな穴がうがたれているということは自然現象ですが、昔の人にとっては、この自然の神秘は神のなせるわざだと畏怖したことでしょう。
そして、その神秘の中から生まれる水の恩恵を受けて、農耕生活ができることに感謝の誠を捧げ、いつまでもそれが続くように、また不幸な災害などが起こらないように守護してほしいとの願いをこめて神を祀り、祈りを捧げたことでしょう。
さらに、この神の意を伝えるのが祖先神と仰ぐ姫神であり、その祀りの斎場(祭りの庭)が、神が造成した岩坪付近だったと考えた事です。

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(なんだなんだ!今度は岩坪明神?)
CIMG2427.jpg(なる程ね~中にまだ小さな丸い石が残ってたりするんだよね~笑)
CIMG2429.jpg(これが岩坪と滑な岩です。(*´ω`*))

同じ風土記の神門郡内の在神祇官社二十五所のうちに「⑨奈賣佐社」「⑱奈賣佐社」(頭書の番号は社名記載順を示す)と二社が載っています。
恐らく前者は「ナメサノヤシロ」と訓んでこの地を守護する在地神を祀るお社で、後者も同じ訓みですが、この神の意を受けてこの地を支配していた姫神を祀るお社だったと思われます(別々だったんだね!)。

風土記より約二百年後、平安時代に入って『延喜式』が編纂させた時に、神名帳巻第重要に出雲国神門郡二十七座が登載され、その中に「那賣佐神社(なめさのかみのやしろ)」と「同社坐和加須西利比賣神社(おなじきやしろにますわかすせりひめのかみのやしろ)」が鎮座していますが、これは風土記の神社に対応するものでした。

この時代には今まで二社だったのが「同社坐」と書かれていることでわかるように、すでに一社に合祀されてしまっています。

このように『延喜式』に載せられた神社のことを「式内社」といい、古来から由緒深い神社として尊崇されています。

中世のことははっきりしませんが、近世になって『雲陽誌』(黒沢長尚撰 享保二年)の神門郡東神在の項に、高倉明神 延喜式に那賣佐神社と書す、風土記に波加佐社、奈賣佐社あり、大己貴命・和加須西利比賣命をあわせて祭りて今俗に岩坪明神という、波加佐山に鎮座なり。
と書かれ、その項の諸文献には何れも高倉明神は岩坪明神ともいわれて、延喜式の那賣佐神社に当たるという書き方になっています。

もとは「滑磐石」の岩坪の傍にあって祀られていた那賣佐神社が、岩坪明神と名を改めて村人から崇敬されていたのが、自然災害等のためいつしか高倉山(波加佐山の一部)の中腹に移され、やがて高倉明神となったものと思われるのです。

CIMG2434.jpg
(なめさ神社ですね!)
CIMG2433.jpg(葦原醜男って、醜女ならわかるけどな~?の世界です。)

さて御祭神の大己貴命が現在では葦原醜男命と改められていますが、これについては次のような伝承と解釈に基づくものとされています。

第十一代の垂仁天皇の皇子本牟智和気王が生まれてから言葉を発せられなかったので、出雲大神(杵築大社)に参拝し祈願ののち、都に還られる途中、肥の河のほとりに仮宮をつくり一時おとどまりになられたことがありました。
ここへ出雲国造(いづものくにのみやつこ)がやってきておもてなしをしたとき、「この川下に青葉の山のようなものが見えるが、山ではなくて出雲の石硐之曽宮(いわくまのそのみや)においでになる葦原醜男の大神をお祀り申し上げる神職の大庭ではないか」と初めて声を発せられた。
と『古事記』に記載されています。

この「いわくまのそのみや」について、江戸時代の国学者本居宣長『古事記伝』の中で、「この宮は、何れの社を申せるにか詳ならず、杵築大社には非ず、(中略)抄(『出雲風土記抄』)に奈賣佐神社は滑狭郷神西村にあり、大穴持命と須世理比賣とを合祭る。」と「いわくまのそのみや」に比定した内山真龍(『出雲風土記解』の著者)の説を引用しています。

つまりこの神社は古事記の第十一代の垂仁天皇の皇子本牟智和気王の言葉を採用して、大己貴命の名を葦原醜男命に改めたとされています(大穴持命・大己貴命→葦原醜男→大国主と変化?私的には一人とは考えていません。系統かな?)。

なお合殿として伊邪那岐命が加えられていますが、この神は滑狭郷内に鎮座していた風土記所載の波加佐社の祭神と考えられています。

後に明治維新を迎え、王政復古の機運から神社制度が改められ、式内社が復活し、明治五年高倉明神の社名を改めて社地・社殿そのままに「那賣佐神社」となり、滑狭郷たるの故を以て、郷社の社格を与えられたのです。
当時神門郡で郷社に列せられたのは八社だけで、その中に加えられる程に重んぜられた神社だったわけです。

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(鳥居+階段、またかい~(*`Д´)ノ!!!!)
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(階段)
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(そして階段230段)
CIMG2439.jpg(やっと拝殿ですね。)
CIMG2445.jpg(はい確かに那賣佐神社です。)
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(本殿です。醜男!屋根もきっちり男神様です。)

以前実家但馬は豊岡市の「中嶋神社」のところで、『日本書紀』誉津別命(ほむつわけのみこと)の発声については『ある日、鵠(くぐい、今の白鳥)が渡るさまを見て「是何物ぞ」と初めて言葉を発しました。天皇は喜び、その鵠を捕まえることを命じます。湯河板挙(鳥取造の祖)が出雲(一書に但馬)で捕まえて献上し、鵠を遊び相手にすると、誉津別命は言葉を発するようになります。』と記載しました。

『古事記』では、あるとき本牟智和気王(誉津別命と記載されます)は天を往く鵠を見て何かを言おうとしたので、天皇はそれを見て鵠を捕らえるように命じ捕らえましたが、皇子は鵠を得てもまだ発声しません。ある晩、天皇の夢に何者かが現れて「我が宮を天皇の宮のごとく造り直したなら、皇子はしゃべれるようになるだろう」と述べた。そこで天皇は太占で夢に現れたのが何者であるか占わせると、言語(物言わぬ)は出雲大神の祟りとわかった。天皇は皇子を曙立王・菟上王とともに出雲に遣わし、大神を拝させると皇子はしゃべれるようになったという。

此処ですね(笑)出雲の呪いは征服者にとっても恐ろしいものでした。
日本書紀は対外的な物なので弱い所は書けませんでした。
しかし実際は出雲大社を作って鎮まるようにしたんですね~。
古事記の神話の部分がほとんど出雲であるのもうなずかませんか?


CIMG2431.jpg
(神社の山が戦国尼子時代の山城に成っていました。)
CIMG2446.jpg(神西城址!登りませんでしたよ。勿論230段の後ですし)
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(だそうです。行けばよかったかな~後悔先に立たず、涙)

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2016/12/26

歴史の悪戯を垣間見る事に成った「大山寺」参拝!③

Christmas!優しい事に、成績ダウンの子供達にもサンタクロースさんは訪れてくれました(笑)。

高三の長女は本人もビックリのティファニーのリングが、長男にはアルファのMA-1、次女にはレジンを固めるUVライト(小物の工作や指先のお洒落に使います。)

何と優しいサンタクロースなんでしょうね(#^.^#)

yoyoiy.jpg
(前回より少し小さな60センチ水槽流木のモスが綺麗です。)


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大山寺アーカイブ

開山の経緯について、公式ホームページの記述がWikipediaと違い、面白いので参考迄にお借りして記載させて頂きますm(__)m

奈良時代養老二年(七一八)出雲の国玉造りの職人依道によって山が開かれました。

「大山寺縁起」によると依道がある日金色の狼を追って大山に入り一矢にして射ようとすると、矢の前方に地蔵菩薩が現れ信心の心がにわかに湧き起こり弓矢を捨てました。

狼はいつの間にか老尼と化し依道に話しかけました。

この出来事により依道は出家し仏教の修行をして、この山に地蔵権現を祀りその名を金蓮と改めたと記されています。

また「選集抄」にもほぼ同じ説話がのっています(Wikipediaでは鹿に成っているので前回UPと比べて下さい)。

CIMG8603.jpg(四合目の山の神様!)


【山号】

「大山寺縁起」によると、天空はるかかなたの兜率天( 六欲天の下から四番目の天。内外二院あり,内院には将来仏となるべき菩薩が住み,現在は弥勒菩薩がそこで修行されています。)の角が欠けて大きな盤石が地上に落ちて来ました。

盤石は三つに割れてその一つは熊野山になり、二つは金峰山になり、三つはこの大山になりました。
こうしたことからこの山は角磐山と名付けられました。
大山寺は山岳信仰の対象となる霊山大山に早くから山岳修行僧が入り「修験の山」として全国に知られました。

米子市にも角盤町の名前が有りますし、以前紹介致しました、市内の阿陀萱( あだかや)神社にも石が三つ堕ちてきた伝承が有りましたね~?
関係有るのかな?

CIMG8599.jpg
(雪で倒れた巨木の根にも自然の神が宿っているようです。)


【権現】

権現は、日本の神の神号の一つですね。

家康の「東照大権現」は有名ですね!
日本の神々を仏教の仏や菩薩が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号です。
権という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示します。

平安時代、村上天皇より大山権現(地蔵権現)を大智明菩薩とするみことのりが下され、御本尊を本殿権現社(現在の「大神山神社奥宮」)にまつり大智明権現というようになりました。

両部習合、すなわち神と仏とを一緒に御祀りする習わしで明治初めまで続きましたが当時の神仏分離の政策により別けられました。

【大山寺の兵力】

戦国時代の末世になり世が乱れ至る所に騒動が起こり、寺院も兵力を用いなければ保護する事が出来なくなりました。

大山寺も僧兵を蓄え強力な勢力を誇っていました。

戦国時代では有りませんが、元弘三年、当山の別当職にあった信濃坊源盛は兄名和長年が後醍醐天皇を奉じて船上山に立てこもった際、兄を助け当山の僧兵七百余騎をしたがえて船上山に馳せ参じ王事に勤めたのです。

船上山は以前御紹介しましたが、後醍醐天皇が隠岐島を脱出されて、鎌倉幕府打倒の詔を出された場所です。
正しく天然の要害!素晴らしいでしょう。

IMG_6147.jpg
(数十メートルの断崖の上に船上山の寺社の遺構が有ります。左奥手から大山寺に通じています。)


【衰退】

明治初年、神と仏とを別々に祀れという神仏分離の政令が出され、当時の座主北白川能久親王もどうする事もできず実に開山以来、一,二〇〇年の間、御本尊を御祀りしていた本殿を、明治八年神社に引き渡し大日堂にうつし祀らねばならなくなりました。

寺号も廃絶し、大山寺は急激に頽廃するに至ったのです。

CIMG6606.jpg(登ってもいないのにどや顔、笑)

さて前回北白川能久親王について少しお話させて頂く宿題を残していたのでお話します。

何故お話をさせて頂くかなのですが、戊辰戦争を皆さん「旧幕府軍対官軍」の戦いだと思われて居ませんか?

「勝てば官軍」の言葉の通りに、勝った薩摩藩長州藩土佐藩(肥前は少し考え方が違ったようですが)が賊軍を作り上げたと考えるからです。
明治天皇即位は16歳!数え歳ですから、実際は14歳(今の中学二年生です。)です。
政治力や軍を率いる力が有ったとは思えませんね。

実質的な総大将は、有栖川宮 熾仁親王です。
有栖川宮 熾仁親王は孝明天皇の妹和宮親子内親王の婚約者だった人です。

北白川能久親王は明治天皇の義理の叔父にあたられる方です。
東京オリンピック招致理事長の竹田 恆和さん(憲法学者、竹田 恒泰さんのお父様です。)のひいおじいさまに当たります。

北白川能久親王「三山管領宮」「日光宮」「上野宮」「東叡大王」など様々な呼称をもちました。
朝廷や公家からは「輪王寺宮様」、江戸幕府や武士からは「日光御門主様」、江戸庶民からは「上野宮様」と呼ばれました。
輪王寺宮は輪王寺(日光)と江戸上野の輪王寺及び寛永寺(徳川将軍家の菩提寺)の住持を兼ね、比叡山(延暦寺)、日光、上野のすべてを管轄して強大な権威をもっていました。

これは、敵対勢力が京都の天皇を擁して倒幕運動を起こした場合、徳川家が朝敵とされるのを防ぐため、独自に擁立できる皇統を関東に置いておくという江戸幕府の策だったとも考えられます。
これにより朝廷対朝敵の図式を、単なる朝廷の内部抗争と位置づけることができ、実際に幕末には北白川能久親王が東武皇帝(東武天皇)として即位したかたちに成りました。

つまり戊辰戦争は薩長土肥連合が担ぎ上げた「有栖川宮 熾仁親王」VS奥羽越列藩同盟が担ぎ上げた「北白川宮能久親王(東武皇帝)」の構図といえます。
決して官軍VS賊軍の戦いでは無かったと考えます。


CIMG8628.jpg(全然関係のない頂上での私の満足顔で今回は失礼いたします。)


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2016/12/22

歴史の悪戯を垣間見る事に成った「大山寺」参拝!②

さて前回途中で尻切れ蜻蛉になった「大山寺」を紹介致します。

それとは別に(笑)、今回市郎右衛門の趣味の一つをご紹介させて頂きます。
ブログ記事写真のインパクトも考えてみました(^人^)。

hihyf.jpg
(アクアリウムも趣味の一つ神社仏閣巡りが、水景を作るのに役立ちます、笑)


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さて今日御紹介するのは、申しました通りに「大山寺」です。

CIMG6599.jpg
(CM後のTVのようです。少し前回分を見せてます。)
CIMG6600.jpg(大神山神社奥の宮が大山寺の本堂でした。)

大山寺は鳥取県西伯郡大山町の伯耆大山中腹にある天台宗別格本山の寺です。
出雲神仏霊場の第十番です(大神神社が九番なので、一度に二つ廻れるんですよね♪)
中国三十三観音第二十九番。
山号は角磐山。
本尊は 地蔵菩薩(神号 大智明大権現)。

大山寺は奈良時代に成立した山岳信仰の霊場であり、養老2年(718年)に俊方(金蓮上人)によって開かれたとされます。
『選集抄』『大山寺縁起』によると、俊方はある日大山で鹿を弓で射たが、その対象が鹿ではなく地蔵尊だったと知ります。
公式HPでは、出雲の国玉造りの人で依道と云う方によって山が開かれたと記載され、金色の狼を射っていますね?
この「起源」の説話が影響しているのか、現在も、大山には石造りの地蔵が多数みられます。

平安時代に入って天台宗が統括するようになり、西日本に於ける天台宗の一大拠点となります。
寺の住職である座主は比叡山から派遣され、ここでの任期を勤めた後、比叡山に戻って昇格するという、僧侶のキャリア形成の場となります(現代の国家公務員上級甲種試験 →国家公務員I種試験 → 国家公務員総合職試験「名前が変わった様です」合格者の感じですか?)。

古くから信仰の道である大山道が岡山県岡山市から南北に整備され、途中出雲街道とも交差することもあって、信仰だけでなく、商業交通の面でも発展しました。

中世には尼子氏・毛利氏などの戦国武将からも崇敬され、盛んに寄進や造営がなされます。

江戸時代に入ると一時、中村一忠によって寺領の一部が没収されましたが慶長15年(1610年)、西楽院の僧正豪円によって寺門の興隆がなされ、徳川家康に請願して慶長19年(1614年)3000石の寺領を得て、三谷四十二坊の制をしき寺勢を回復します。

CIMG6601.jpg(山門ですね~入山料が少し要ったと思います。)
CIMG6602.jpg(茶店を左に曲がると大神山神社奥の宮への参道になります。)

ここで、中村一忠とは何者か、説明しときますね~。
米子藩主です(藩が使えると楽々ですね~(^^;)、伯耆国17万5000石の領主。
一忠は豊臣氏三中老の一人であった駿府城主中村一氏の子です。
一氏は関ヶ原本戦直前の7月17日に病により急死しましたが、死の前に駿府城下で徳川家康と会談しており、東軍に加わることを明らかにしていました。
一氏の功績により、一氏の嫡子である一忠に3万石が加増されて移封が実現し、米子藩が立藩されました。

話を戻しまして、江戸時代の宝永7年(1710年)より日光宮公辯法親王学頭に就任し、日光宮の大山寺御兼摂となり本坊西楽院に留守居僧が派遣されることになります。
 
明治維新時の戊辰戦争の影響で彰義隊がたまたま大山寺主座たる日光宮北白川能久親王(日光輪王寺門跡公現入道親王)を擁したため、一時朝敵になる地位にたち、対立していた鳥取藩は王政復古の流れに乗じて大山寺一山寺院に苛列な処分を行います(次回、日光宮北白川能久親王のお話を少し詳しくさせて頂きます)。

明治4年年(1871年)大政官布告により寺領は没収されます。
明治8年(1875年)廃仏毀釈により大山寺の号が廃されます。
大日堂(現在の本堂)に本尊を移し、本殿を大神山神社に引き渡します。
これにより大山寺は衰退してしまいました。

明治36年(1903年)に大山寺の号が復活しましたが七堂八社四十二坊も三堂十坊に減ってしまいました。

昭和3年(1928年)には4度の火災に見舞われてしまいます。

CIMG6603.jpg(凄い杉ですね~御本尊が地蔵菩薩なので、いたるところにお地蔵様が見られます。)
CIMG6604.jpg(鐘楼、奥にはやはり地蔵様)CIMG6605.jpg(現在の本殿、神仏習合時はは大日堂でした。)
CIMG6607.jpg
(私、ダイエットに成功した時?痩せてますね~笑)


「歴史の悪戯を垣間見る事に成った」と題しました。
鳥取藩の最後の藩主池田慶徳は十五代将軍慶喜の兄です。
兄弟で有りながら、長州藩と京都の位置関係を考え、鳥取藩池田家の存続をも考えると、新政府に味方せざるを得なかったと思います。
日光宮北白川能久親王が三山管領宮「上野東叡山寛永寺貫主、日光日光山輪王寺門跡を兼務し、比叡山延暦寺天台座主も就任」でなければ、そしてその方が大山寺の大山寺主座でなければ、大山寺の衰退は無かったと思います。
正に神様の悪戯としか思えませんねぇ!



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2016/12/20

歴史の悪戯を垣間見る事に成った「大山寺」参拝!①

今回は「大山寺」をご紹介するのですが、その前に、皆様におことわりをしなければならなく成りましたm(__)m

暫く間が開いてしまったのも、熟慮していたからです(本当か~?)f(^_^;

歴史を勉強された、若しくはお好きな皆さまはご存知だと思いますが、現在の文章表現と実際の時代の表現ではかなりの差があります。

実は私、無茶を承知で(出来る限り、過去の事実通りにしようと思い)?、「藩」という言葉を使わずにブログを書いてまいりました

さて皆様へのおことわりとは、「私の横着を御許し下さい(^人^)」のお願いです。

前回、「討ち入り蕎麦」のお話を書きましたが、凄く苦労したので、『○○藩の記載を解禁致しますm(__)m(説明は下に、笑)』

CIMG8934.jpg(やっぱり大山ですよね~!)

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言い訳を、少しさせて頂きますが、江戸時代には○○藩と言う呼び方をしておりませんでした

江戸時代を通じて「○○藩」というのは現代の通称に過ぎません。
それどころか、江戸時代初めにはこのような呼称などなかったのです。

江戸幕府の力が強く、大名の改易処分(とりつぶし)やお国替えが多かった時代には○○藩と言っても通じなかったと思われます。

例えば姫路城で有名な播州姫路藩?の大名家を例に出しましょう。

池田恒興の代に織田家重臣となり清洲会議に出席し、その子池田輝政は徳川家康の愛娘督姫を後妻にし松平姓を許された池田家からです。

池田家「外様 」52万石
輝政・利隆・光政
本多家「譜代 」15万石
忠政・政朝・政勝
松平(奥平)家「親藩」18万石
忠明・忠弘
松平(越前)家「親藩 」15万石
直基・直矩
榊原(松平)家「譜代 」15万石
忠次・政房・政倫
松平(越前)家「親藩 」15万石
直矩
本多家「譜代 」15万石
忠国・忠孝
榊原家「譜代 」15万石
政邦・政祐・政岑・政純
松平(越前)家「親藩」 15万石
明矩・朝矩
酒井家「譜代 」15万石
忠恭・忠以・忠道・忠実・忠学・忠宝・忠顕・忠績・忠惇・忠邦

これでは、姫路藩といっても、何処の家か?藩主は誰か全く解らずの状態に成ってしまうのです。

藩と言う呼び方は、江戸時代半ば以降に現れ、幕末(幕府の権力が弱まって国替え等も亡くなった?)になって広まったと考えられています。

そして「藩」が公式の行政区分の1つになるのは明治維新後、明治2(1869)年の版籍奉還後にそれぞれの諸侯(旧大名)たちが「知藩事」(「○○藩知事」と称する)に任命されてからです。
このときには藩庁所在地によって「○○藩」と呼ぶことになりました。
ですから「長州藩」でも「防州藩」でもなく「山口藩」
同じく「薩摩藩」ではなく「鹿児島藩」、「土佐藩」ではなく「高知藩」となりました。

ですから、こんな言葉、藩主・藩士・脱藩も無いですよねf(^_^;

例えば私がこんな内容のブログを書きたいとしましょう。

「元赤穂藩士が藩主の仇討ちを成し遂げました。」
の場合?『元播州赤穂浅野家御家中の武士が主家浅野内匠頭の仇討ちを成し遂げました(かな?)。』

「土佐藩を脱藩した坂本龍馬は薩摩藩に匿われました。」
の場合なら、『土佐山内家中の下士、坂本龍馬は逐電して、薩摩島津家下屋敷に匿われた。』とでも成りますかね、一寸キツいな~というわけです。

ちなみに1867年のパリ万国博覧会に参加した薩摩藩は「日本薩摩琉球国太守政府」という名称を名乗っています。

つまり、此れまでは出来うる限り事実に基づいて藩を使っていなかったのですが、流石に無理が有るし、私の知識では其を補う事が出来ません。
というわけで今後、○○藩と書きますけど御許し下さいm(__)m


まあ長々と弁解を読んで頂いてありがとうございました。

さて今日御紹介するのは、『大山寺』です。



大山寺(だいせんじ)は鳥取県西伯郡大山町(大山隠岐国立公園内)伯耆大山中腹にある天台宗別格本山の寺です。
出雲神仏霊場第十番
中国三十三観音第二十九番。
山号は角磐山
本尊は地蔵菩薩。

CIMG6599.jpg
(大山寺参道)
CIMG6600.jpg(大山寺は割と楽々ですよ~是非おいでください。)

弁解が、長すぎた~!
一つ雑学覚えたと思っていただいて、今日は此処までにします。
次回は必ず大山寺をご紹介いたします。



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2016/12/14

「市郎右衛門の討ち入り蕎麦」modify

今日12月14日は、赤穂浪士の討ち入りの日です。

我が家では赤穂浪士の討ち入り日に合わせて、毎年お蕎麦を食べています。

つまり、今日の晩御飯はお蕎麦なんです(実際の討ち入りは15日未明)。

昨年「我が家の討ち入り蕎麦」と題してわが家に伝わる古いお話をUPさせて頂きました!

その後ちょっとした経緯が有り、調べ直しますと、但馬豊岡京極家と大石(内蔵助妻)りくの実家石束家、更にはわが家との関係に少し新しい事実か判ったのでお話しましょう!

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討ち入りそば(出西窯の器に輪島塗の箸で100円のかきあげでも少し贅沢な感じです)

昨年の今日このようにブログをUP致しました!

【以下昨年分です】
話せば長いお話なのですが、簡単に書きますと、大石内蔵助の妻、りくの父親、豊岡京極家家老、石束源五兵衛と我が家のご先祖が懇意にしていたらしく、赤穂浪士討ち入り成功(仇討ち成就)が伝わると、近所に蕎麦がき(当時蕎麦切りが、全国に的に広まっていたかは不明ですf(^_^;)を振る舞ったという、言い伝えが残っているからです。

離縁されて実家に帰って来ていたりくと子ども達ですが、のちに三男大三郎が、忠臣の子息と言うことで、広島安芸、浅野本家に仕官がかない(りくも忠臣の妻として録をもらってます)、我が家で家財を売って、路銀のたしにして広島へ向かったという、言い伝えが有り、そのとき石束家からの家屋を借りた礼として、野点の茶道具を頂いたと伝えられています(実物確認出来ていません、時間が有るときに倉の中を調べて見ます)。

と昨年書きました。
今年に成って調べてみますと、石束家と懇意にしていた事実は変わりませんが、家財を売った人物の経緯に?が見つかりました。

当時の石束家は但馬豊岡京極家筆頭家老として1200石の家柄でした。
貞享4年(1687年)にりくが播州赤穂浅野家、筆頭家老大石(内蔵助)良雄(知行1500石)の正室となったのも頷けます。

CIMG1191.jpg
(大石りく、長女くう、大石主税ですかね~?)
CIMG1192.jpg(顕彰碑)

大石りくの父、石塚源五兵衛は寛永18年(1641年)、但馬国豊岡京極家筆頭家老の石束毎術(知行1200石)の長男として生まれます。
名は「毎公」でしたが、主君京極高住に対しては「毎好」を使っています。
佐々休西(佐々成政の曾孫)の娘と結婚し、その間に石束毎明・石束毎済・りく(香林院)などの子をもうけます。
延宝2年(1675年)、父の隠居により家督相続、このとき父と同じ源五兵衛に改名し、筆頭家老職を継ぎました。

赤穂事件の際には、赤穂浅野家改易後の元禄14年(1701年)5月には大石(内蔵助)良雄が、遠林寺で赤穂藩残務処理にあたっている間、りくやその子・松之丞(大石良金)通称(こちらの方が有名ですね)は主税(ちから)らを石束家に受け入れました。
この際に良金に自らの脇差を与えています。
7月に大石良雄が山科に住居を落ち着けると、りくや良金たちも山科へ移りますが、次男の吉之進(碑文では吉千代)は石束家に残っています。
元禄15年(1702年)4月15日、仇討ち計画が進むなか大石は、盟約に加わることを望んだ長男良金を除いてりくと子らを再度石束家に戻しました。
このときりくは身ごもっており、7月に石束家にて大石大三郎を出産しています。
元禄16年(1703年)に家督を長男の毎明に家督を譲って隠居しました。
正徳3年(1713年)7月25日に死去、享年73

石束家を継いだ、りくの兄石束毎明(いしづか つねあき、生年不詳 - 宝暦5年1月15日(1755年2月25日)もちろん豊岡京極家の筆頭家老です。
通称は宇右衛門(うえもん)。

元禄16年(1703年)に石束家の家督と家老職を相続しました。
この際に300石を加増され、石束家の家禄は都合1500石となります。
しかし享保12年(1727年)主家京極家が無嗣になり、京極高永に家督相続が認められたものの3万石から1万5千石に半地(末期養子の決りですね~(^^;)される事件があり、石束家の家禄も半減します。
毎明はこの半地に対応するため、積極的に家人(武士)のリストラと倹約にあたり、豊岡京極家の財政維持にあたります。

殖産興業に力を尽くし、のちに豊岡名物品となる柳行李を生産させたのも彼の業績なんですよ~。

中谷高房の娘を妻に迎え、その間に石束毎雅をもうけます。
毎雅に家老職を譲りますが、毎雅は京極高永と御家改革を巡って対立を深め、延享4年(1747年)には家老を辞して京極家を去ることとなり、毎明も豊岡を去っています。
晩年は甥、大石大三郎(大石良雄の子)のもとに身を寄せています。
宝暦5年(1755年)広島で死去。
妹・りくと同じ国泰寺に埋葬された。

石束毎雅(いしづか つねまさ、元禄13年(1700年) - 宝暦2年5月22日(1752年7月3日))は、但馬豊岡京極家の筆頭家老でしたが、主家京極高永と対立を深めて御家を去ています。
通称は、一学(いちがく)、源五右衛門(げんごえもん)、宇右衛門(うえもん)。

父毎明から豊岡京極家筆頭家老職を受け継ぎ、また前の殿様京極高住の娘万里姫を妻に迎えますが、当代主家・京極高永とは御家改革を巡って対立を深め、延享4年(1747年)に家老を辞して豊岡京極家を去ることになってしまいます。
その後は京都に隠遁し、宝暦2年(1752年)に同地で死去しています。
京都の妙心寺に眠ります。
芳名は馨徳院殿立所?伯居士。

さてここで問題が起こるわけです。
我が家の言い伝え石束家が家財を売ったという話は、お父さんか?りくの兄か?それとも殿様と喧嘩別れしたりくの甥かという事です。
どうも当初は赤穂事件に関係している(石束家から大罪人の妻を出した!)と考えていましたが、りくの兄や甥の可能性の方が高いのではないかと思われます。
理由の一つは、うちの父が「源五右衛門」の名前を記憶(先祖から伝えられていること)二つ目は我が家に置いて行ったとされる、野点の茶器が京極の殿様から拝領したものだと記憶(先祖から伝えられていること、そんな大事な物をと考えますよね)等です。



CIMG1193.jpg(正福寺の大石りく遺髪塚、長女くう、次男吉千代?吉之進の墓です。)
CIMG1195.jpg(大石良雄妻理玖の墓はちょっと歌いすぎではないですかね~笑)

最後にすごく余談なお話をいたしましょう(笑)
赤穂浪士の討ち入りは、12月14日とされていますが、実際は15日未明です(ただし当時では朝日が登って翌日感覚だった様ですが)。

又、旧暦元禄15年12月14、15日はユリウス暦1703年1月30、31日に成りますし、今年?の旧暦12月14、15日は、2017年の1月1日2日に成るはずです(月の満ち欠けで満月)というわけで、蕎麦をいつ食べるのかはっきりと決めているわけではないのですが?(何を書いているのか解らなくなって来ました)今年は今日12月14日にしました。

つまり我が家では、この時期にお蕎麦が食べたく成ると(年越し蕎麦とは別です)、子供たちに少しだけ赤穂浪士のお話と、我が家との関わりを話して、お蕎麦(必ず出石蕎麦)を食べる事にしています。


今年はあえて書かなかったのですが、まだ父が「え~?」と思う話をしていますのでそちらは来年の十二月にでもお話ししましょう。
『忠臣蔵』における不忠臣の代表格、「大野九郎兵衛」播磨国赤穂浅野家の末席家老650石の子孫についてのお話です。

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2016/12/12

地元民に愛される生け花発祥の地『六角堂頂法寺』

今日(10日)は充実した一日でした~(笑)

と二日前に投稿予定がPC不調で最悪の日曜日に成ってしたいました。
しかしながら、文章は土曜日のままなので、少し浮かれています。
それでは(笑)。

気分が良いので?京都の中心に入ってみましょうか。
以前からお花とお茶は、ぜひ習いたいと考えております(いまだ叶ってはおりませんが)。
母が「未生流」を学んでおり名取?(私には師範と名取がどう違うのかわかりませんが)実際に仕事を持っていたので、教えることは有りませんでしたが、分厚い板に「未生流〇〇所?」と母の名前「華郁(華道名?です)」が残っています。

先日Facebookでとても素敵な方からリクエストを頂き、鼻の下を伸ばした市郎右衛門ですが、和の文化を教えておられる先生の様で、お花も「池坊流」だそうです。
そこで今日は『六角堂頂法寺』というわけです。

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西国三十三観音霊場第十八番
紫雲山『六角堂頂法寺』



CIMG2105.jpg(お昼時で休憩に来られたOLもおられました。)
CIMG2106.jpg(聖徳太子といえば六角形、やはり仏教の六道からですかね?)
 
CIMG2117.jpg
(勿論お堂も、六角形に作られています。)
CIMG2108.jpg(扁額、頂法寺)

散歩や仕事の合間に参詣する人が終日絶えず、正式な寺号は頂法寺ですが、地元の人々からは御堂の形から「六角堂」「六角さん」と呼ばれ、親しまれています。
門前を東西に走る道も六角通りといいます。

淡路島に漂着した如意輪観音像を念持仏としていた聖徳太子は、用明天皇2年(587)、四天王寺建立の材木を求め、京都盆地を訪れました。
太子が池で身を清めるにあたり、念持仏を木に掛けたところ動かなくなり、この地にとどまって人々を救いたいと太子に告げたため、六角形の御堂を建てて安置したといわれます。
聖徳太子開創の古刹ということは、つまり平安遷都以前から京都の中心に佇み町の変化を見守り続けて来たといえますね。

CIMG2120.jpg
(聖徳太子沐浴の池?跡ですか、鯉が気持ちよさそうに泳いでいました。)
CIMG2119.jpg
(はい!説明通りです。)

鎌倉時代の初め、比叡山で修行していた親鸞は、建仁元年(1201)二十九歳の時、六角堂に百日参籠するという誓いを立てました。
聖徳太子を深く尊敬していた親鸞は、京都における太子ゆかりの寺院として、六角堂に思いを寄せたのです。
参籠は、夜になると比叡山を下りて六角堂に籠もり、朝には山に戻る繰り返しだったといいます。
そして九十五日目の暁に如意輪観音からお告げを受け、浄土真宗を開くきっかけを得ました。

CIMG2125.jpg
(親鸞聖人像)

室町時代、寛正2年(1461)の飢饉にあたり、人々が集まってくる六角堂の門前で炊き出しがおこなわれました。
応仁の乱後、京都は上京と下京に分かれましたが、六角堂は下京の町堂として町衆の信仰を集め、集会所や公民館のような機能も果たすようになります。
また十数回の火災の度も本尊が救い出され、本堂も再建復興を重ねながらこの地にあり続けることが、京都の暮らしに根ざしている証ではないでしょうか。
更には、日本を代表する祭礼の一つ、祇園祭の山鉾巡行の順番を決めるくじ取り式は、江戸時代末まで六角堂でおこなわれていました。
これらのことから、六角堂は京都の中心と認識されるようになりました。

CIMG2134.jpg(京都のおへそだそうです。)
CIMG2140.jpg(要石ですね。平城京の中心からはかなり離れています。訂正中心をどのように考えるかにもよりますね。)
CIMG2121.jpg
(首をかしげておられるのは何か一つだけ願いを変えるために悩んでおられます。)
CIMG2115.jpg(北を向いて御所を守る北向き地蔵尊、御所は北にあるんです。)

境内には聖徳太子が沐浴したと伝わる池が在り、小野妹子を始祖とする僧房の住坊が在ったことから「池坊(知らなかったです。勉強になりました。)」と呼ばれるようになったそうです
朝夕ごとに仏前に供えていた花が華道の起こりとなって、最大流派「池坊流」が発祥、発展したと知られています。
池坊の家元が代々住職を務め、花行列や花供養といった独自の法要を営むようになりました。

CIMG2113.jpg
(池坊家元の名人、家元はすべて名人でしょうが、モニュメントです。)
CIMG2112.jpg(三十二世専好三でした。)

寺の本尊である如意輪観世音菩薩様は、名前の通り、思いのままに願い事をかなえてくれる「宝珠(如意宝珠)」と、魔を打ち砕く「輪宝(法輪)」を持っておられます。
古来より六角堂ご本尊如意輪観世音菩薩様は、人々の苦しみを除き、願いをかなえ、特に寿命を延ばす、病気を治すなどの健康面でのご利益があるとされ、子宝に恵まれたり、難産を緩和させるといったご利益もあります。

観音様は人の音(声)を観(観察)て救ってくれるとされています。
仏教には六道輪廻という考え方があり、人間が輪廻を繰り返す際に生まれ出る世界が6つあり、仏道に入って悟りに至らなければ六道を永久に回り続けるのだとされます
如意輪観音様はその中でも天道に迷う者を救うとして信仰されています。

CIMG2109.jpg
(御前立、本物は秘仏となっておりますねで、1.5倍のレプリカだそうです。ご利益は勿論ありますよね。)


平安時代に書かれた『今昔物語』に次のような話が載せられています。
ある時、観音様の熱心な信者であった年の若い侍が一条堀川の橋を渡る鬼に唾をかけられ姿が見えなくなってしまいました。
侍は信心する六角堂に篭って祈ったところ、観音様よりお告げがあり、朝早くに出会った牛飼いに付いていきました。
行った先には長者の家の姫君が病気で床に伏しており、そばにいた修験者が祈祷したところ侍の姿は元に戻り、姫君も病が治りました。それから先、侍も姫君も病になることは無く、観音様のご利益は希有なことであったと結ばれています。

CIMG2141.jpg
(後ろのビルが池坊家元ビル?地図では生け花資料館です。)

PC不調でUPが遅れて申し訳ありません。
京都の町は、ブログを書く者にとって、ある意味怖い所だと感じています。
今回もそうですが、時代が幾重にも重なって、読み手にも難しいでしょうし、書き手にも(知識不足の私は特に)大変だと思います。
しかしながら歴史は川の流れ、上流には上流の楽しみ方が、中流下流にはまた違う楽しみを与えてくれます。
肩の力を抜いて、少しずつまいりましょうか(笑)


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2016/12/08

歴史好きの奇跡!「愛宕山古墳」についちゃった!

兵庫県豊岡市のFacebookでお友達の「中貝宗治市長」から嬉しいニュースが届きました。
「米・食味分析鑑定コンクール国際大会」で、兵庫県豊岡市日高町の青山直也さんのコウノトリ育むお米・無農薬が食味日本一になりました(万歳~!おめでとうございます。)。
それも最高賞「国際総合部門金賞トップ15」の最高得点だそうです。


更に同じく豊岡の(有)グリーン出石のコウノトリ育むお米・減農薬も「都道府県代表お米選手権」部門「特別優秀賞」おめでとうございます。

CIMG9824.jpg(帰省するたびに見られる、当たり前の景色になりましたね。うれしい事です。)

ちなみに、我が家の子供達、外食は別にして、実家から送って貰っている、日高のお米と出石のお米、以外食べたことないのですが、これってどうなのかな?
娘を嫁に出すのが怖くないですか、米の味で姑さんともめたりして・・・(笑)

さて、今日の本題に戻ります。
先日、岡山に観光に行った帰りに、うっかり道を間違えました。
山陽道を真っ直ぐに神戸に向かうつもりが、なぜか播磨自動車道に迷い込んでしまい、感を頼りに(以外に方向音痴では有りません)、姫路・加古川・三木・神戸へと走っていきますと、横目にちらりと「愛宕山古墳」の文字が!

ならば、時間も早い事だし行かずばなるまいと、ナビって見るとすぐ傍ではないですか。
ということで、「愛宕山古墳」の紹介です。

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『愛宕山古墳』
兵庫県三木市別所町下石野
愛宕山古墳(あたごやまこふん)は、兵庫県三木市別所町下石野にある前方後円墳です。
三木市指定文化財に(史跡)2004年(平成16年)4月19日指定されています。

CIMG3211.jpg
(大きいですが、今は草の中でよく形がつかめません。)
CIMG3221.jpg(前方部から後円部を眺める。)
CIMG3219.jpg(逆に後円部から前円部!)
CIMG3220.jpg
(竹や杉の木に侵食されています。)

概要(形状は前方後円墳)
墳丘長91メートル
後円部径50メートル・高さ9メートル
前方部幅40メートル・高さ3.7メートル。


兵庫県内の前方後円墳では十番目の大きさを誇ります(兵庫県は五か国「但馬」「播磨」「摂津」「丹波」「淡路」が合併しているために、広く墳墓も多いので、古墳の数としては日本一です)。
4世紀末から5世紀初めごろに造られたと推測されています。

三木市には別に別所町正法寺所在の正法寺古墳群があり。
こちらも有名で、正法寺古墳公園となっています。

「愛宕山古墳」は、標高74mの弁天山に直続する地点に立地し、丘陵尾根にそって主軸を南北にとり、前方部を北にむけて築造された前方後円墳です(山の丘陵をうまく使って造るこのタイプの古墳は全行的にも多くみられます。
全国四位の大きさを誇る、岡山の「造山古墳」もその代表です。

丘陵尾根の終末部分を使わずに作る古墳の特徴について少しうんちくです。
当然ですが、平地に古墳を作るためには多くの土が要るわけですよね。
そうもうお分かりですね、平地に作られた巨大古墳の特徴はお堀(土を掘って丘を作るわけです。)
逆に山の尾根の最終部を利用した場合には、元々岡があるわけですから、お堀はありません。
なるほどでしょ!

さて「愛宕山古墳」古墳の南側では、尾根が幅を狭め、ここを里道が東西に通るように、北からの尾根がひと区切りをなしています。
後円部の頂部は標高44mで、おそらく南側に比べていくぶん高い尾根となっていたのではないかと考えられます。
古墳の築造に際しては、低い尾根のうちでも、低い南側とは区切られてやや高くなっていた地点を選択したと推測できます。

なお、加古川市との境界は、ほぼ低平な頂部の西縁に沿って走っており、愛宕山古墳の墳丘は、すべて三木市側におさまっています(良かったね三木市)。

CIMG3214.jpg(後円部の上に何かあるようですね。)
CIMG3215.jpg
(階段が整備されています。)
CIMG3216.jpg(真ん中で一段平地に成っています。)
CIMG3218.jpg
(小さな祠が祀ってありました。誰が眠っておられるのでしょうね?)

歴史を追いかけるということは、もちろん目的が在って行くことが多いのですが、運よく今回のケースのように、素敵な出会いに恵まれることもあります(笑)。

逆に訪ねて行ったにも関わらず、工事中だりとか、寺社仏閣に人がおられず、御朱印が頂けなかったりとか、後で本で調べるともう一つ別の名所が在ったりするとか、残念なことも良くあります。

以前はそれを悔しく思ったこともありましたが、現在はもう一度の御縁を頂いたのだと思えるようになって来ました。
大人になりましたね~(笑)
皆さんもぜひそのように考えて素敵な名所旧跡を廻られて下さいね。


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2016/12/06

『生田神社』伝説知ってますか?

先日、久々に神戸三宮に食事に行きました。
私はいつも東急ハンズハンズのすぐ裏手『生田神社』の駐車場を利用します。
確か駐車券に参拝代金と書かれていたと思うので、駐車する度に生田神社にお詣りしたこととなり、有りがたい気持ちに成れます。
現在は普通の駐車券に変わってしまいました。
残念ですね。

そこで以前『生田神社』の歴史遺跡をご紹介するといっていたのを思い出しましたので。
今日はそれをご紹介しましょう。

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兵庫県神戸市中央区下山手通一丁目にある神社です(勿論ご存知ですよね)。
式内社(名神大)で、旧社格は官幣中社。
同じ兵庫県内の廣田神社・長田神社とともに神功皇后以来の歴史を有します。



生田神社1(木の鳥居は伊勢神宮の遷宮による木材で作られたものです。)

生田神社5(拝殿、少し人が居なくなるまで待ちました)


かつて、現在の神戸市中央区の一帯が社領であり、これが「神戸」という地名の語源となりました。
地元では「生田さん」として親しまれており、初詣時期(兵庫一番の人出!)にはもちろん、それ以外の時期にも参拝客が絶えません。

祭神は『稚日女尊(わかひるめのみこと』「稚く瑞々しい日の女神」を意味し、我国における最高神太陽神と崇められ伊勢神宮内宮にお祀りされる、天照大神の幼名とも妹とも和魂(荒魂と相対するもので、雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面である。神の加護は和魂の表れです。 )であるともいわれています。
稚くみずみずしい日の女神様であり、物を生み育て万物の成長を御加護する神様です。

生田神社の御創建は神功皇后(じんぐうこうごう)元年(西暦201年)と日本書紀に記されており、『日本書紀』神功皇后条巻第9(神功皇后摂政元年2月)」に下記のように記されています。

「吾は活田長峡国(いくたながをのくに)に居らむとす」とのたまふ。
因りて海上五十狭茅(うなかみのいさち)を以て祭(いわ)はしむ。


『神功皇后』が海外外征の帰途、今の神戸港にてお船が進まなくなったために神占を行ったところ、稚日女尊が現れられ、 「吾は活田長峡国に居らむと海上五十狭茅に命じて生田の地に祭らしめ。(=私は“いくた”の“ながさの国”におりたいのです。“うなかみのいそさち”に命じて生田の土地に祀らせてほしい)。」との神託があったので、海上五十狭茅という者を神主として祀られたと、日本書紀に記されています。

同じくこの時に、大阪の住吉大神と総称され海の神として信仰される、底筒男命・中筒男命・表筒男命が住吉神社に、天照大神の荒魂が西宮市の広田神社(阪神タイガースフアンはご存知ですよね。)に、事代主神が神戸市長田区の長田神社にお祀りされたと伝えられています。

当初は、現在の新神戸駅の奥にある布引山「砂山(いさごやま)」に祀られていた。799年(延暦18年)4月9日の大洪水により砂山の麓が崩れ、山全体が崩壊するおそれがあったため、村人の刀祢七太夫が祠から御神体を持ち帰り、その8日後に現在地にある生田の森に移転したといわれています。

平城天皇の806年(大同元年)には「生田の神封四十四戸」と古書には記され、現在の神戸市中央区の一帯が社領であった所から、神地神戸(かんべ)の神戸(かんべ)がこの地の呼称となり中世には紺戸(こんべ)、近年に神戸(こうべ)と呼ばれるようになりました。

生田神社は珍しいことに、元旦には門松は立てず杉飾りを立てるそうです。
それは、延暦18年の大洪水の際、社の周囲には松の木が植えられていたそうですが、全く洪水を防ぐ役割を果たさなかったので、その故事から、今でも生田の森には1本も松の木は植えられていません。
また過去には能舞台の鏡板にも杉の絵が描かれいたという徹底ぶりです。

さて今回は神社内の歴史遺産をご紹介しましょう。

CIMG1772.jpg(時期が悪いのはお許しくださいね~。)


まずはその生田の森です。「枕の草子」の一一五段に「森は大あらきの森…信田の森生田森…」とあり平安の昔から多くの歌に詠まれています。
神なびの森での月や花の名所です。

CIMG2042.jpg
(生田の森の祭神は神功皇后のようです。)
CIMG2041.jpg
(曲水の宴も開かれます。京都では上賀茂神社が有名ですね。)
CIMG2039.jpg(縁結も占えます。)
CIMG2040.jpg(どうなるのか?良く見て無かったです。文字が浮かぶのかな?娘がもう少し大きくなりましたら行ってみます。)

弁慶の竹社殿によれば、武蔵坊弁慶が義経の代拝として社参の時、奉納した竹と言われています。

CIMG2058.jpg(巫女さんにどれですか?と聞きましたら、そちらですと…笑👆です)

箙の梅 寿永三年源平合戦の時、梶原源太景季が境内に咲いている梅の一枝を箙(矢を入れる筒)にさして奮戦したことでこの名前がついています(戦場でも粋を忘れないなんて「花の慶次」のようです。笑)。

CIMG1791.jpg
(箙の梅!勿論何代目?何十代目?だと思います。)
CIMG2060.jpg(私、謡曲を聞かないので、良くわかりません?なんでも勉強しとかないといけませんね(;^_^A)

梶原源太景季が水を飲んだといわれる井戸「けふもまた生田の神の恵かやふたたび匂う森の梅が香」の歌が在ります。

CIMG2022.jpg
(申し訳ない、戦闘でのどが乾いたわけでは無かったようです。武運をね~勿論源頼朝の家臣です。勝ち組!)
CIMG2023.jpg(梶原の井)
CIMG2024.jpg
(けふもまた生田の神の恵かやふたたび匂う森の梅が香、読めますか?)

生田池(多くの歌の題材に成っています)。

CIMG2051.jpg
(宗像三神、弁天様は大抵、池の上に鎮座されています。)

神功皇后釣り竿の竹(確認できず)。

敦盛の萩

CIMG2056.jpg
(萩はわかりませんでした。左の穂先がその様な気もします。やはり謡曲、敦盛は平の清盛の弟ですね。)

八丁の梅(八丁先まで匂うそうですが時期的に確認できませんでした。笑)。

CIMG2054.jpg
(上の葉っぱと幹は梅のようですね。)
CIMG2044.jpg
(最後にこんな物まで、ありました。かまぼこ発祥の地!)

小学校の卒業文集に歴史学者に成りたいと書きました。
今、本当にそう思いますね~笑。


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2016/12/04

伯耆大山にも木枯らしまじか。 出雲國神仏霊場「第九番」 冷たい風に身も引き締まる『大神山神社奥宮』

前回の写真は米子市内に在る出雲國神仏霊場「第九番」『大神山神社』でした。

今日はお約束の、出雲國神仏霊場「第九番」の『大神山神社奥宮』をご紹介しましょう。

紹介文は写真をご紹介したくて同じ部分も多くなっておりますことご勘弁ください。
IMG_5745.jpg
(冬景色そろそろですね~大山モンベル前から。)

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『大神山神社奥宮』

奥宮 鳥取県西伯郡大山町大山に在ります。
石畳の参道の果てに立つ全国最大規模の権現造りは僧兵修験の舞台がはじまりといわれます。大山寺から石畳の参道をあがったところに大神山神社奥宮があり、社殿は全国最大級の壮大な権現造り。
もともとは僧が修験のために大山に登り、その道場として簡単な遥拝所を設けるようになったのが始まりとされていますが、創建・開創は出雲風土記、延喜式などに記載あるものの不明とされています。



神仏習合の中で大山寺と大神山神社奥宮は勢力を拡大し、寺院僧坊が多数存在し、寺側の勢いが大きいものの祭事はすべて神職により執り行われてきました。
明治初等の神仏分離令により大智明大権現の社殿を大山寺から分離し現在の大神山神社奥宮に至ります。
これらの歴史を背景として大神山神社奥宮には三つの「日本一」があります。

1番目は、大神山神社に続く道を自然石を敷きつめた参道の長さが約700mで我が国最長らしいです。
2番目は、社殿が国指定の重要文化財かつ国内最大の権現造りです。
3番目は、奥の宮幣殿にある白檀の漆塗りが日本一規模が大きくて美しいこと(本当に美しいです)。更に西日本最大級の神輿もあります。


CIMG7377.jpg
(日本一の自然石参道!御気を付けください、濡れているとすごく滑ります。)
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(朝の陽ざしが色づき始めた木々の葉を引き立たせますね~。)
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(狛犬も力強い!)
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(逆門前からです。)
CIMG7393.jpg(逆門後ろからです?笑)

大神山神社には“後向き門”と呼ばれる神門があります。これは扉が開かないようにするための閂(かんぬき)が外側についているので「逆門」とも言われ、もともと大山寺本坊西楽院の表門(宮家のお成門)にあったのが1875年寺から神社に引き渡され、この奥宮の門に移転されました。
その時そのまま移転したので後向きなのだそうです。

出雲國神仏霊場[第九番] 
大神山神社の奥宮の御祀神は大己貴神(大国主神)様で、大国主神のお若いときのお名前です。
御祭神大己貴神(大国主神)は古事記、日本書紀、出雲風土記等の神話・伝説に多く示すように数々の御神徳をお持ちです。
特に国造りをなされたことから産業発展、五穀豊穣、牛馬畜産、医薬療法、邪気退散の神として有名です 。

伯耆大山は中国地方屈指の霊峰であり、四季を通じて観光の中心地であり、多くの老若男女の集う山です。
出雲と言っても、大山は伯耆富士と呼ばれるように、伯耆の国に有ります。
何故、出雲國神仏霊場?大目に見てください(笑)
出雲風土記でも出雲の国を作る杭は大山ですから。

大神山神社は出雲國神仏霊場では、大山中腹に在る大神山神社奥の宮と同じ「第九番」に成りますので、足腰に自信の無い方は、米子市内の大神山神社にお詣りされて「御朱印」を頂かれたら良いと思います。

「足腰に自信」っと行っても大山に登山する事を考えれば、大したこと無いのですがね(笑)

大山は古代から奈良県の大峰山(おおみねやま)や愛媛県の石槌山(いしづちやま)岐阜県の白山(はくさん)などに並ぶ原始山岳信仰の中心であったようです。

古くから山岳信仰の聖地とされ女人禁制の山となっていました。
また、大山は江戸時代に大山寺の寺領とされ、一般人の入山も禁止されていました。
そのため、明治の中ごろまでは一般の人々の入山も禁止されていました。

入山規制が解かれたのは明治22年のことで、昭和11年に国立公園に制定されたことにより、ようやく大山は広く知られる山になったようです。

女性登山の流れについては、殆どの神社や仏閣に関しての女人禁制の地が解除された、明治5年3月27日太政官布告第98号「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス」により解除が行われた事の関連処置だと思います
現在も大山の登山道には女人禁制の碑が残っています。

大神山神社本社でも奥宮でも同じく出雲神仏霊場第九番の御朱印が頂けるのは先にお話した通りです。

CIMG7394.jpg(さあ!奥宮、結構きつい(;^_^A)
CIMG7391.jpg(大山にまだ登ってもいなかったのに、どや顔な私お恥ずかしい!)

先日の鳥取中部地震の被害について 、10月21日に発生した鳥取中部地震において、奥宮の神門下の参道石垣が一部崩れたようですが、比較的広い場所でしたので参拝には支障は無いようです。
ただ降雨等によりさらに崩れる恐れもありますので、崩れた部分には近づかないよう注意してご通行くださいとのことです。


江戸時代伯耆国は因幡と同じく、鳥取池田家 の領地で池田家は幕府との繋がりが大きく、江戸時代最後の当主池田慶徳は、水戸中納言徳川斉昭の五男五郎麿です。
異腹の弟七郎麿徳川幕府最後の将軍慶喜に当たります。

奥宮には(奥宮からの大山登山道もありますので。)何度もお詣りさせていただいておりますが、お詣りするたびに新たな自分に生まれ変わるような、清々しさを味わえます。
皆様も是非お出かけください。



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