2016/11/29

織田信長の子孫は?子孫転々!篠山市二つ目の「建勲神社」

今日は、日本に三つしかないといわれている、「建勲神社」のうちの一つ、兵庫県丹波市柏原に在る「建勲神社」を偶然に?作為的じゃ無いですよ❗

実はこの日、何かしらイベントは無いかと車を走らせておりましたら、私の好きな丹波布の展示会があることを知りまして、訪ねてみることにしました。
更に偶然なことに、お友達の丹波布作家の「イラズムス千尋」さんもいらっしゃって更に驚いたのですが、少し前に先輩ブロガーさんが柏原の建勲神社のお話をUPされていたので、「あれ~?」もしかしてこれか!となったわけです。

本当に偶然ですが、せっかくなのでご紹介しましょう。
ついでといっては失礼ですが素敵な丹波布もご覧ください。

CIMG1516.jpg(素朴なところが素敵な魅力です。)
CIMG1508.jpg
(横に白い縞が見えますね~そこのところ絹が使ってあるんですよ。)


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さて柏原の「建勲神社」をご紹介するのですが...

兵庫県丹波市柏原(かいばら)は織田家以外の大名はいませんでしたが、一家支配というわけではなく、前期織田家として織田信包が三代(織田信秀「信長の父」の三男、ちなみに次男信行は信長に殺害されています。本来は先に生まれた本当の長男といえる信広がいますが正妻の子ではないので信長を長男としています。)続き、後期織田家(織田信長の二男の織田信雄の子孫)に分かれ、系統が違います(織田家⇒天領⇒織田家ですね)。



織田家の血筋を引く大名家は、織田信長の二男の織田信雄の系統と、信長の弟、有楽斎織田長益の系統が、結果的には明治まで残ります(大河ドラマでは井上順さんが悪い役をこなしてます。)。
当初は、信長の三弟(本来は四弟)の織田信包が残っていました。
しかしこの織田信包家は、三代継ぐが無嗣絶家となってしまいました。

戦国時代に覇を唱え!天下布武の旗印の下、天下統一迄後一歩としながら、散っていった織田信長
信長には彼を支えた妻たちと側室たちが生んだ子供が幾人もいました。
信長亡き後、彼の遺伝子を受け継ぐ子供たちが、どんな運命をたどったのか知りたく無い方はおられませんよね!

今回は信長が亡くなった本能寺の変の後の、織田信長の子供たちとその子孫について少しお話しましょう。

織田信長には血縁関係不明瞭な子も含めて男女合わせて20人を越える子供が居るようですが、今回は男子のをみ対象とさせて頂きましょう(^人^)。

まず長男【織田信忠】

織田信長の嫡男として生まれた信忠は、生まれながらにして信長の家督を継ぐことが決まっていました。
1576年11月には信長から織田家の家督を生前相続し、本能寺の変の際には信長と共に備中高松城攻めをしている羽柴秀吉の援軍に向かうべく京都の妙覚寺に滞在しており、明智光秀による謀反を知ると本能寺へ救助に走ります。
途中信長自害の報を受け二条御所に移動します。
誠仁親王を脱出させるとわずかな兵と共に籠城し善戦しましたが、明智軍の伊勢貞興に攻め込まれ自害しています。
享年26歳。

次男【織田信雄】

1558年に生駒屋敷にて生まれました。1569年に父・信長と北畠家の和睦条件として北畠具房の養嗣子になり、具房の妹・雪姫と結婚。
1572年、元服し北畠家の家督を相続します。

本能寺の変の折には近江国甲賀郡まで進軍しましたが戦わないまま撤退します。
兄・信忠亡き後清州会議において織田家の後継者一番手と言えますが、秀吉の策略も有り、当主候補にされることはありませんでした。
この時の不遇が、逆に彼の血脈を今日迄保った理由と言えますね。

1583年、秀吉と信孝・柴田勝家が争った賤ヶ岳の戦いでは秀吉方につき、信孝を岐阜城に攻め降伏させ、信孝は尾張に送られ自害します。
三法師(信忠の嫡男)の後見人として安土城へ入城しましたが、秀吉に退去させられ、妹徳姫(徳川家康嫡男信康正室)の縁をたどり徳川家康に接近します。
その後もことあるごとに徳川と豊臣の間を行き来し戦国時代を上手く乗り切った一人と言えないでしょうか?

1630年4月30日京都北野邸で死去。
享年73歳。

三男【織田信孝】

1558年尾張衆岡本良勝の屋敷で生まれたとされます。
1568年、信長が伊勢国を平定した際、降伏した神戸(こうべじゃなくてかんべです。)城主、神戸具盛の養子となり、信長によって具盛が隠居させられた後の1572年に神戸氏の家督を相続します。

相続後は神戸検地と呼ばれる検地をおこない、城下には楽市楽座をしき、領地経営に力を注ぎました。
そのため神戸は伊勢神宮参拝の街道宿場町として大いに栄えたということです。

1582年5月から丹羽秀永と共に、四国攻めの準備をしており、本能寺の変の際は堺にて渡海の準備をしていました。

本能寺の変が勃発した際は逃亡兵が後を絶たず、積極的な行動には出られなかったため明智光秀の娘婿で四国攻めの副将を命じられていた従兄弟の津田信澄を自害に追い込んでいます。

山崎の戦いでは名目上の総大将になり明智光秀を撃破、後の清州会議では信忠の後を継いだ三法師の後見人になり、信忠の領地であった美濃国を与えられました。

その後、秀吉と対立していた柴田勝家に接近し勝家とお市の方の婚儀を仲介しますが、12月秀吉が信孝に向けて挙兵し岐阜城を囲まれてしまいます。
信孝は降伏せざるを得なくなり、母と娘を人質に取られ、三法師を秀吉に引き渡すことに成りました。

1583年賤ヶ岳の戦いが起きると信孝は再度挙兵します。
しかし、信雄に岐阜城を囲まれ、柴田勝家が北ノ庄城で自害すると岐阜城を開城し降伏。
信孝は尾張国の大御堂で自害させられました。
享年26歳。

信孝の子孫として側室・小妻氏と信孝の子である織田信豊の次男・織田信国の子孫だという川上家が現存しているようです。

四男【羽柴秀勝】

織田信長の四男として1568年に生まれました。
1576年10月側室との間に生まれた石松丸秀勝を亡くした秀吉が織田家に主家との養子縁組を願い出たため、四男の於次丸秀勝は羽柴秀吉の後継者になるために養子になりました。

残虐非道が信長のイメージですが意外と血族を優遇していたことから、秀吉が自分の地位を擁護するためだったと言われます。

1582年3月8日信長の命で秀吉が中国征伐に出征し備中を攻める際にはそれに従って17日の備前児島・常山城攻めで初陣を果たします。
4月からの高松城攻めにも参加。

6月2日の本能寺の変で信長が自害したのちは秀吉の中国大返しに同行。
信長の四男として山崎の戦いに参加、異母兄信孝と共に弔い合戦の旗印となりました。

秀吉が信長の葬儀を出すときの喪主となった事でも有名ですね。

信長の後継者を決める清州会議では秀吉が信長の孫である三法師を推したため後継者候補にはなりませんでした。
織田領の再分配により於次丸秀勝は丹波亀山城の城主となりました。

1583年賤ヶ岳の戦いにも参加し、1585年には正三位・権中納言にまでなりますが病に倒れ、1585年12月10日、母養観院に看取られながら、丹波亀山城で死去しました。
享年18歳。

五男【織田勝長】

勝長は岩村城主遠山景任の未亡人で織田信長の叔母であるおつやの方の養子になりました。
それは景任が嗣子がないまま死去してしまったため、遠山氏を継がせるためにおつやの方が信長に頼み込んだためといわれます。

1572年11月、甲斐の武田信玄が美濃国へ侵攻してきた際、武田の家臣・秋山虎繁に攻められ岩村城は降伏、武田の居城となってしまいます。

おつやの方は岩村城代となった虎繁を夫とし武田方との和議を結びました。
その際に勝長は甲斐国へ人質として送られ、信玄の養子になります。

これに激怒した信長は後年岩村城を奪回した際に秋山虎繁とおつやの方を逆さ磔にしています。
1581年11月、武田勝頼によって勝長は送還され同年元服。
尾張国犬山城主となります。

その後は兄・信忠の与力として活躍しますが、本能寺の変で信忠と共に明智光秀の軍勢に攻め込まれ二条御所にて奮戦するも討死しています。

五男までは有名で?私も知っておりました。
六男以下は調べはしましたがあまり印象には残りません。


ここらへんで柏原「建勲神社」をご紹介しましょう。

CIMG1532.jpg(柏原建勲神社、イベントの張り紙で頭が見えません(;^_^A)
CIMG1533.jpg(日本に三社しかないとはっきり書かれていますね~信長の業績から考えると少ないですね。)
CIMG1534.jpg(拝殿です。かわいらしい。)
CIMG1535.jpg
(堂々としてますか~笑)
CIMG1536.jpg(神殿もこんなに小さいですね。)

六男【織田信秀】

1571年生まれまれ、信長から美濃国揖斐地方に所領を与えられていたようです。
1582年本能寺の変が起きた時は美濃の仏照寺に逃れて事なきを得たようです。

清州会議後、近江国栗太郡へと所領を移され、1583年に元服し名を信秀と名乗るようになります。
秀吉が権力を握ると稲葉良通の口添えで秀吉の家臣となり1585年、羽柴姓を与えられます。

その後豊臣姓も与えられています。
キリスト教徒で1587年の九州征伐の際にはロザリオをつけて出陣したそうです。
晩年は剃髪し浦坊を号しました(キリスト様は?)。

七男【織田信高】

1576年織田信長の七男として生まれました。
1582年の本能寺の変で信長が自害すると、氏家行広に預けられ養育されます。
1585年兄・織田信秀が羽柴姓を与えられた際に仲介してもらい豊臣秀吉に仕えました。
1591年には自らも羽柴姓を与えられ、羽柴藤十郎と名乗りました。
1600年関ヶ原の闘いにおいては『関原軍記大成』などに、弟信吉・信貞らとともに西軍に属したが戦後赦免されたとされる。
1603年12月12日、死去。
享年28歳。

1616年(元和2年)1月、信高の嫡男高重は幕臣として召し出されて近江・安房に2000石を与えられた。
高重の孫信門は高家となり、以後、同家は明治維新まで高家旗本として存続しました。

因みに、アイススケートの織田信成君も彼の末裔に成りますね~(^^)d

八男【織田信吉】

1573年に織田信長と側室お鍋の方の間に生まれました。
七男の信高の方が3年遅く生まれていますが、織田家中の席次が信高の方が上であるため便宜上信高が兄とされています。
本能寺の変後、母お鍋の方(興雲院)とともに小倉にて蟄居していましたが、1583年に羽柴秀吉により召し出され、羽柴姓と武蔵守の官、近江国に2000石の所領を与えられています。
1600年の関ヶ原の戦いでは西軍につき弟の長次と共に平塚為広勢に加わりました。
本戦では同陣の諸将が討ち死にする中、脱出に成功。
戦後は豊臣家を頼り大阪城下で暮らしました。
晩年は剃髪し京都で暮らしていましたが、1615年死去。享年43歳。

九男【織田信貞】

1574年に生まれたとされています。
1582年信長が本能寺の変で死去したため埴原長久に養育されたようです。
埴原は信長の死後、次男の信雄に仕えていました。
1600年、関ヶ原の戦いでは西軍を支持し伏見城攻めに参加しました。
1614年の大阪の陣の際は徳川方として従軍、功績をあげました。
1624年6月6日死去。
享年51歳。

十男【織田信好】

1582年の本能寺の変が起きた時はまだ幼かったため、秀吉に引き取られ家臣になりました。
茶人だったようです。
1609年7月14日死去。

十一男【織田長次】

生年は不詳で1574年~1582年の間だと言われています。
謎が多く1582年本能寺の変で信長が自害した後は羽柴秀吉の馬廻になったそうですが、豊臣時代のその後は不明です。

1600年の関ヶ原の戦いでは西軍を支持し、信長の八男の兄信吉とともに平塚為広勢に加わり戦いました。
しかし、9月15日の本戦で所属していた大谷軍が壊滅し、為広らとともに戦死しました。

戦国の習いといえばそれまでですが、どの戦場でも各々の立場で戦っていますね。
関ヶ原の戦いでは東軍・西軍に兄弟も分かれて闘わざるを得なくなっています。

生まれた時には、自分の父親が最高の権力者でした。
その後は次々と変わる、権力や時代にほんろうされながらも、精一杯の人生を歩んだのでしょう。
名門ゆえの苦悩を感じざるを得ませんね。



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2016/11/27

「第六天魔王」神になる!『建勲神社』を訪ねて…

織田信長は生前「第六天魔王」と呼ばれ、自身でもこの呼び名を気に入っていたようです。

仏教の世界観では 三界といってこの世を大きく三つに分けます。
無色界 (欲も色も離れた精神のみの世界)
色界 (欲にはとらわれないが色「物質 肉体」のある世界)
欲界 (欲望にとらわれた世界)

欲界は地獄界や我々のいる人間界ですが、天界の下層6天(欲天)を含みます。
その欲天の最上天が他化自在天(第六天)で、
その他化自在天、つまり欲界を支配しているのが「第六天魔王」です。

この魔王は、元はヒンズー教のシヴァ派の神ですが、
仏教に取り入れられて第六天魔王になりました。
仏道修行者を色や欲で惑わし、天魔、天魔波旬とも呼ばれます。
つまり仏敵、欲界最強の魔王です

そして今日、ご紹介するのは「第六天魔王」こと織田信長をお祀りする、『建勲神社』です。

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(船岡山の神社全体図、横着して裏道からショートカットいたしました。)
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(ご由緒板)
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信長の異名「第六天魔王」、一向宗との争い、延暦寺焼き討ちの頃から、仏徒らにそう呼称されたようです。
しかし信長自身この呼び名を嫌ってなかったようで、信玄からの書状の天台座主沙門、に対抗して自ら第六天魔王、と自称したといわれています。
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(紅葉が綺麗でよかったです。)
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(たけいさおじんじゃが正式名です。)
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(信長といえば敦盛ですよね~どうにかしてこれ踊れるようにならないものか。)
建勲神社は、明治2年(1869)、明治天皇の御下命により「日本が外国に侵略されなかったのは、天下統一をめざして日本を一つにまとめた信長のおかげ」「戦国時代を天下統一、朝儀復興などを進めた織田信長を賛える」ため、健織田社(たけしおりたのやしろ)として創建された織田信長公をお祀りする神社です。

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(狛犬さんも力強そうです)
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(狛犬の最初はエジプトのスフィンクスらしいですよ~ホント?)
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(上に神楽殿があるようですね?)
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(次女と弟がお詣りしています。)
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(何か絵が奉納されているようですね。)
明治3年10月17日(1870年11月10日)、信長の子孫で天童藩知事・織田信敏の邸内(東京)と織田家旧領地の山形県天童市に建勲社が造営されました
。明治8年(1875年)4月24日に別格官幣社に列格しています。

現在地の船岡山は平安京の四神相応の玄武に位置し、豊臣秀吉によって信長の廟所と定められた地でした。
その船岡山に神社を移すことになり、明治13年(1880年)9月、社殿が竣工して東京より遷座しました。
なお、この時は現在表参道を少し登ったところにある「大平和敬神」の石碑が建っている場所に本殿があった様です。
明治14年(1881年)に長男織田信忠が合祀されます。
明治43年(1910年)に社殿が現在の山頂部分に移建され現在に至っています。

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(本能寺の変で同じく亡くなった信忠公も祀られています。)
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(本殿です。)
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(織田家といえば木瓜ですね!)
私が知る限り「建勲神社」は全国に3か所?しか在りません。
まずこの場所ですね。
それから、信長の次男、織田信雄子孫が「天童織田家」によって祀られた、山形県天童市の「建勲神社」
もう一つは兵庫県篠山に織田信雄の五男・織田高長から始まる大和宇陀から織田信休が、2万石で柏原(柏原)に入部したことにより、柏江に一時存在した織田家によって祀られたものです。

明治8年(1875)に別格官幣社に列せられ、京都の船岡山に社地を賜りました。明治13年(1880)、新たに社殿を造営し、御嫡子織田信忠卿を配祀し、明治43年(1910)に山麓から山頂へ社殿を移建し現在に至っています。

船岡山は玄武の小山として平安京造営の際に北の基点になったとされる小高い丘で、緑豊かな建勲神社の境内からは比叡山や大文字山(如意ヶ嶽)など東山三十六峰の眺望も楽しめます。
正式には「たけいさおじんじゃ」といいますが、一般には「けんくんじんじゃ」「けんくんさん」として親しまれています。

戦国フアンなら誰もが憧れ、「もし本能寺の変が起こらなかったら、中国や東南アジアも日本だった?」なんて思うのは私だけではないはずです。
良く「当時の全世界の鉄砲の半分が日本に存在」した?はあながち嘘では無いかも?と思う市郎右衛門です。


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2016/11/24

『山陰海岸ジオパーク』で古代生物の足跡化石を探してみた!

今日はマニアしか見てくれないかもしれませんね(笑)

ところで皆さん、山陰海岸が『世界ジオパーク』認定ってことは、ご存知ですよ~ねぇ?

CIMG1164.jpg(兵庫県豊岡市竹野町のはさかり岩です。)
CIMG1166.jpg(説明版ここで覚えるべきは凝灰角礫岩です。ギョウカイガンと覚えてください。)



今日は歴史には違いないのですが、有名な神様も、力のある貴族も、勇壮な武士も出て来ません。
しかしながら、子供の頃に心躍らせたお話をいたしましょう。

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ジオパークをご存じですか?
地球科学的に見て、美しく貴重な地質遺産を含む自然公園の事です。

その一つである「山陰海岸ジオパーク」は、 京都府(京丹後市)、兵庫県(豊岡市・香美町・新温泉町)、鳥取県(岩美町・鳥取市)にまたがる広大なエリアを有しており、山陰海岸国立公園を中心に、京丹後市の東端から鳥取市の西端まで、東西約120km、南北間最大30㎞、面積は2458.44㎢で、東京都よりひとまわり大きい広さになります。

2010年に「世界ジオパーク」に認定されました。

山陰海岸ジオパークの最大の特徴は、約2,500万年前にさかのぼる日本海形成に関わる火成岩類や地層、日本海の海面変動や地殻変動によって形成されたリアス式の香住海岸や鳥取砂丘をとする多彩な海岸地形をはじめ、城崎や湯村等の温泉、 近畿では数少ない火山の神鍋山に玄武洞、貴重な地形・地質遺産を数多く観察できることです。

日本海形成から現在に至る様々な地形や地質が存在し、それらを背景とした生き物や人々の暮らし、文化・歴史に触れることができる地域です。

但馬海岸のほとんどを占める岩石は、約2500万年~数百万年前のものです。
確認できる範囲の古い順でいうと、新温泉町浜坂の東に約7000万年前の流紋岩・凝灰岩があり、同じ頃の花崗岩が、田井ノ浜(新温泉町・旧浜坂町)に見られます。
まだ日本が大陸の一分だった時代花崗岩ということになります。
旧香住町(現香美町)豊岡市竹野町の海岸では約2000万年前以降、日本海が形成し始めた頃のゾウやシカ等の足跡化石が見つかりました。

今日化石を探す場所は、香美町の海岸です。
テトラポットの向こうでは香住高校の水産学部の生徒がレガッタの練習していました。


(場所がさせないので、民宿の海側のでっぱりです。)

それでは、子供の頃のロマン化石発掘(もしくは発見)に行ってみましょうか。
CIMG1146.jpg(さあ探してみましょうか、ゾウ・サイ・シカ・ツルですよ~!)
CIMG1149.jpg(穴の所なんですけど、ツルです。笑、かもしれません?)
CIMG1148.jpg(これははっきりわかりますね偶蹄類、シカの足跡です?)
CIMG1147.jpg(この大きさゾウに違いありません、キッパリ!)
CIMG1152.jpg(サイに決まっているじゃないですか~?(;^_^A)
CIMG1158.jpg(これこそサイですね歩幅まで確認できます。(ノ-_-)ノ~┻━┻)
CIMG1154.jpg(三つ穴ツルですね~。( ・_・)ノΞ●~*)

香美町のゾウやシカの足跡化石を探しに行って来ました。
ただし~!お見せした写真の足跡化石が実物かどうかの判定は専門家に依頼してください。
無責任とお思いでしょうが、はっきりって地図を頼りに、かなり一生懸命探したのですが、これだと正確に言える物はありませんでした(m(__)m)。
いくつかは、確実に本物だとだけ申しておきます( v^-゜)♪。

超古代史どうでしたか?
子供に戻って足跡探し、こんな一日もリフレッシュには最高ですよね。



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2016/11/22

究極の日本流「おもてなしの原点」が全て揃ってる『桂離宮』

日曜日に桂離宮に出掛けました。

せっかくなので皆さんに御報告です。
以前は、3ヶ月前からの完全予約制でしたが、少し緩く成ったようです。

7月から当日も午後1:30から一時間毎に、20名ずつ三時間で60人の参観が認められるように成っています(予約のキャンセルが出たらその分増えるそうですが?)。

この紅葉の時期のうえに、日曜日!何時に並んだものか間よっったのですが、7時に京都住まいの弟と阪急桂の駅で待ち合わせ、早速向かいました。

阪急桂駅からは直ぐでが、余りに誰も居ないので、拍子抜けして少し離れたコンビニへ朝御飯を買いに行きました~(^^;

帰って見ると、男性がお一人並んで居られました。

只今7時や45分!10時に整理券、11時に受付開始です。

注意!18歳未満は参観出来ません❗宮内庁に電話しましたが、無理でした~( ノД`)…
次女は車のなかで待つことに、可哀想な事に成ったので、御菓子を一杯買ってごめんなさいでした🙏💦💦

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桂離宮を参観してきました。

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(紅葉が綺麗ですね。)
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(御幸門に通じている)
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(全体が見渡せない造りになっています。)
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(サプライズですね遠近法が持ちいてあるそうです。向こうが狭く遠くに感じます。)

江戸時代の17世紀に皇族の八条宮の別邸として創設された建築群と庭園です。
面積はなんと約7万平方メートルで、うち庭園部分は約5万8千平方メートルです(と言われてみてもimageつきませんよねf(^_^;)。
離宮とは皇居とは別に設けた宮殿の意味ですが、 「桂離宮」と称する様に成ったのは明治16年(1883年)からで、それ以前は「桂別業(別荘の意味です)」などと呼ばれていました。

江戸時代初期の造営当初の庭園と建築物を遺しており、当時の朝廷文化の粋を今に伝えています。
回遊式の庭園は日本庭園の傑作とされます(是非行かれたら解りますが傑作でした)。
また、建築物のうち書院は書院造を基調に数寄屋風を採り入れています。
庭園には茶屋が四ヶ所配されています。

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(黒い石を砂浜に見立てた州浜!灯篭が夜は素晴らしいでしょうね。)
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(天橋立初代の奥方は丹後主審だとか?)
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(松琴亭、一番目の茶屋です。)
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(松琴、松琴?意味がありそうです。)
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(モダンな市松模様、二代の奥様前田家の誂えだそうです。)
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(冬に使われる茶室、火を起こして上の棚の食事を温める趣向です。さすがのおもてなし!)

桂離宮は京都市の西郊、桂川西岸の旧・下桂村に位置しています。
ここは桂川とかつての山陰道(丹波街道)が交わる、交通の要衝であった。川と道の交点にはかつては「桂の渡し」があり、現在は桂大橋が架かります。

『源氏物語』「松風」帖に登場する光源氏の「桂殿」はこの地にあったという設定である。
物語に登場する冷泉帝は「月のすむ川のをちなる里なれば桂の影はのどけかるらむ」という歌を詠んでいます。
この地は風流な観月の名所としても知られていました。

桂離宮の近くの西京区松室には月読神社があり、桂の地名も中国語の「月桂」の故事から来ているといわれます。
こうした地にある桂離宮には、観月のための別荘という意味合いがあります。
それとともに、池での舟遊び、庭に点在する茶屋を用いての茶会、酒宴など、さまざまな遊興や行事の場としての機能があり、単なる鑑賞のための庭ではなかった事がわかります。

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(必ず休憩所が在りますね~。)
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(橋だけでなんて素晴らしいのでしょう?)
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(賞花亭)
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(必ずくどが在ります。亭主が作るのが、一番のおもてなし。) 
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(ですね~。)
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(夏用?涼しげです。)

桂離宮は最古の回遊式庭園として知られ、庭園と建物が一体となって、日本的な美を形成している。
作庭者については、古くから小堀遠州とする伝承がありますが、実際に作庭に携わった可能性のある人物としては、遠州の義弟である中沼左京、遠州の門下である玉淵坊などの名前が挙げられています。

昭和8年(1933年)に来日したドイツ人建築家ブルーノ・タウト、ヴァルター・グロピウスは桂離宮を、簡素さの中に美と深い精神性を表した建築及び庭園として高く評価しています。
ブルーノ・タウトは桂離宮の簡素な美を絶賛し、その知名度を国際的に高めたことで知られています。

タウトは昭和8年5月と翌昭和9年(1934年)5月に桂離宮を拝観し、その折の所感を著作に記しています。
古書院の広縁から張り出した竹縁(月見台)から庭園を鑑賞したタウトは、その時の感興を「ここに繰りひろげられている美は理解を絶する美、すなわち偉大な芸術のもつ美である。すぐれた芸術品に接するとき、涙はおのずから眼に溢れる」と表現しました。

PB200163.jpg
(高い橋は船が通過できるように作られています。)
PB200169.jpg
(こちらも)
PB200172.jpg
(同じくですね。)
桂離宮は八条宮家初代の智仁親王(1579年 - 1629年)によって基礎が築かれます。
智仁親王は正親町天皇の皇孫後陽成天皇の弟に当たります。
智仁親王は初め豊臣秀吉の猶子となったが、秀吉に実子が生まれたため、八条宮家(桂宮家)を創設することになります。
本邸は京都御所の北側、今出川通りに面して建設され、現存する(ただし築地塀と表門・勅使門だけを残し、建物群は二条城に移築されています。おりしも待ち時間に二条城に行ったのは智仁親王のお導きかもしれません。)。

桂離宮の書院は「古書院」「中書院」「新御殿」の3つの部分に分かれ、このうち古書院の建設は1615年頃と推定されています。
書院、茶屋、庭園などの造営は、八条宮家2代の智忠親王(1619年 - 1662年)に引き継がれ、数十年間をかけて整備されました。

庭園は多くの入江と複雑な汀線をもつ池を中心とし、池には大小5つの島がある。
池の西岸の平坦地には古書院、中書院、新御殿が北東から南西へ雁行形に並びます。

中書院と新御殿の間には小規模な「楽器の間」がある。
これらの建物は一時に建てられたものではなく、元和初年から寛文初年(1615年頃 - 1662年頃)にかけて順次建立されたものです。

他の建物としては茶屋として松琴亭、賞花亭、笑意軒、月波楼の4棟、持仏堂の園林堂があります。
古記録によれば茶屋は5棟あったが、残り1棟の竹林亭は現存しません(残念ですね)。

PB200171.jpg
(笑意軒、舟でつけるように成っています。)
PB200188.jpg
(見る方向で違うように月・日・星!全ての灯篭が二つ以外足元だけを照らすように低い造りです。)
PB200177.jpg
(笑意軒)
PB200178.jpg
(外に見えるのは何かわかりますか?)
PB200174.jpg
(契約農家が田んぼを作られています。つまり四季の田の演出が味わえるわけです。凄すぎる!)


桂別業が所在する下桂村は八条宮の知行地でした。
同村が八条宮の所領であったことを示す史料として、元和3年(1617年)9月11日付、将軍徳川秀忠の花押のある知行安堵状が存在します。

これによれば、当時、下桂村や桂川対岸の川勝寺村など6か村、3千石余が八条宮の知行地でした。
同朱印状に「右如先々可有全御知行之状如件」とあることから、下桂村など6か村は元和3年以前(「先々」)から八条宮の領地であったことが明らかです。

元和年間(1615 - 1624年)には下桂に「茶屋」と呼ばれる建物が存在し、智仁親王がそこへ出向いていたことは、現存する史料から読み取れます。
いくつかの史料と、1976年から行われた「昭和の大修理」時の知見により、おおむね元和初年(1615年)頃に現在「古書院」と呼ばれる建物が完成したとみられ、それから半世紀近くにわたり、三期に分けて、現存する桂離宮の書院群と庭園が整備されたとみられます。

3次造営(新御殿の建立)は寛文2年(1662年)頃に行われたとみられています。
現在「新御殿」と呼ばれる建物は、翌寛文3年(1663年)の後水尾院桂御幸に備え、御幸御殿として整備されたとするのが通説です。

ただし、当時法体であった後水尾院のための御幸御殿というよりは、八条宮2代智仁親王ないし3代穏仁親王自身の御座所として整備されたのではないかとする見方もあります。
智忠親王は寛文2年に死去し、寛文3年の後水尾院御幸の際の当主3代穏仁親王は、2年後の寛文5年(1665年)に23歳で死去します。
PB200184.jpg
(園林堂、持仏堂です。菩提を弔うための物です。扁額は後水尾上皇です。)


以後の八条宮家(後に常盤井宮、京極宮、桂宮と改称)は短命の当主が続き、当主のいない時期も長く続きます。
7代京極宮家仁親王(1704 - 1768年)は歴代の中では珍しく長命で、桂別業にしばしば滞在し、庭園や建物の修復整備にも力を注いだので、「桂別業」の名園としての評価が高まり、訪れる人も多くなっていました。
11代桂宮淑子内親王が当主となった文久2年(1862年)までの間、宮家の当主は不在も同然でした。
淑子内親王が没した明治14年(1881年)をもって桂宮家は断絶してしまいました。

PB200196.jpg
(見えにくいですがでっぱりが、月見台!お月様見たんでしょうね~。)
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(写真を撮れと言わんがばかりに堂々とした、アオサギです。本物です。)
PB200208.jpg
(最後の茶室月波楼)
PB200204.jpg(月波)


明治16年(1883年)以降、桂別業は「桂離宮」と称されるようになり、宮内省(のち宮内庁)の管轄下となりました。
第二次世界大戦後は、宮内庁が管理している。
建物については、1976年から「昭和の大修理」が実施され現在に至っています。

PB200210.jpg
(最後の最後に全てを語る松が一本、向こうが見えそうで見えない!行く先々で場面が変わるすばらしいお庭でした。)


平安時代の貴族の別荘(藤原道長の山荘・桂家を発見した八条宮初代智仁親王の創意)を桃山時代から江戸時代の初期に再現(茶屋などは江戸初期の文化形態ですかね)してそのままの状態で残してある庭園と建物群です。
まあ驚くほど?驚愕のすばらしさです。
 


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2016/11/21

第一次鳥取城攻略本陣跡?「川原城」

出雲へ旅行するときに、高速道路代を考えて、神戸から中国自動車道佐用JCT~鳥取道(無料)を通ります。
米子自動車道を使うと一時間以上早いと思うのですが、いつも貧乏旅なのでね~(^^;
岡山県を抜けて、鳥取市近くの道の駅川原を過ぎてすぐに、左手に凄く綺麗なお城が見えてきます。

それが、今日ご紹介する「川原城」です。

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CIMG6491.jpg(御覧の通り綺麗なお城ですが、故郷創成に役立っているとは思えませんね、笑)

河原城(かわはらじょう)は、鳥取県鳥取市河原町谷一木にかつて存在した城です(今も存在しますが近年に建てられたものです)。



川原城の正式名称は「丸山城」と言うのですが、鳥取市内には丸山城という名の城跡がこの城を含めて3つあり、旧邑美郡でも、この城を含めて2つあるのでややこしいです。
河原城は、天守風建造物(模擬天守)が建てられて以後の名称に成りますが、他2城との混同を避けるため、ここでは河原城と呼ばせていただきます。

美作方面への街道と播磨方面への街道の結節点であり、重要な水運路でもあった千代川を見下ろす要衝の小丘に建てられ、1580年羽柴秀吉による第一次鳥取城攻略戦の際に陣が置かれたと伝えられています。
ただし、川原城が本当に秀吉の本陣だったかどうかは不明です。

CIMG6492.jpg
(愛称は若鮎城!自ら考え自ら行う地域造り。暴走しましたね~)
CIMG6493.jpg(これでもか~の大国主と八上姫まで引っ張り出されています。(;´・ω・))

城跡には犬山城天守を模した(模擬天守どこかで見たような気がしたのはそのせいですね)展望台が建設され、「河原城」「お城山展望台」と呼ばれています。
最初に見つけた時にはこれは~なんだ~!とびっくりしてしまいました。
展望台の内部は、旧河原町の観光案内所と資料館となっており、羽柴秀吉が因幡平定後に発した感状などが展示されています。

武田高信(前回のUPで出て来ましたね。)が守る大振袖山城(鳥取市河原町曳田)の砦として建造されました。
正確な建造年代は不明ですね。
1580年(天正8年)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉鳥取城の山名豊国を攻める際に陣がおかれました(第一次鳥取城攻め)
鳥取城主豊国は3か月の籠城戦を戦い抜きますが、力及ばず落城!
川原城は廃城となった様です。

CIMG6494.jpg(確かに犬山城の天守によく似ていますね~。)

1991年(平成3年)から翌年にかけて城跡の全面発掘調査が行われ、曲輪跡・堀切跡・掘っ立て柱の跡などが発見され、古城跡であったことが確認されました。

そこで「ふるさと創生事業」として山頂に展望台(模擬天守)が設置されたというのがこの綺麗なお城の経緯です。
気持ちはわかりますが、少し無理されたんじゃないですかね~(笑)
私も無理がたたらないように、今日は楽させていただきました。


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2016/11/19

羽柴秀吉二度目の兵糧攻め!「鳥取の渇殺し」の悲惨!

「鳥取の渇え殺し」といえば、先日キャラクター問題で有名に成りましたね~(^^;

2014年、鳥取城跡のマスコットキャラクター「かつ江(渇え)さん」が、お披露目からわずか3日間で公開停止となったニュース知ってますよね!

7月7日に鳥取市役所の公式サイトで公開されるとネットで拡散。
反響が凄くて苦情や問い合わせが相次いだことを受けて、7月9日にはサイトから削除されてしまいました。

「かつ江(渇え)さん」見てみましょうか?(笑)

IMG.jpg


インパクト凄いけど、わざわざこれに決めなくても...というところです~(^^;


色々な情報も含めて今日は「鳥取城跡」をご紹介いたします。

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鳥取城は、鳥取県鳥取市(旧・因幡国邑美郡)に築かれた戦国時代から江戸時代に使用された城です。
勿論、国の史跡に指定されています。



別名は「久松山城(久松山に有るからですかね)」
戦国時代から江戸末期にかけての城郭形態の変化を伺うことができることから「城郭の博物館」の異名を持つそうです(なんでなんで?)。

CIMG6496.jpg(博物館や緑地がある城の入り口です。)
CIMG6499.jpg(仁風閣説明版読んでください(;^_^A)
CIMG6498.jpg(松江城もそうですが、城に洋館があるのは?なぜかな?)
CIMG6497.jpg(西側にある博物館の地下?ですね。)

鳥取城の歴史ですがややこしいので覚悟してください。

「因幡守護⇒本当は但馬山名氏支配」まず、鳥取城は戦国時代中頃の天文年間に因幡の守護である山名誠通が久松山(やっぱりね。)の自然地形を利用した山城として築城したとされましたが、近年の研究では誠通の因幡山名氏と対立する但馬山名氏(山名祐豊)の付城として成立した可能性が支持されているようです(同じ山名ですのにね~(^^;)。

「但馬山名氏支配⇒武田高信力をつける」正式に城主が確認されるのは、元亀年間の武田高信からです。
高信は誠通の滅亡後、但馬山名氏の分家として再興された因幡山名氏の家臣でしたが、しだいに力をつけ永禄年間には鳥取城を拠点として独りつした形になります。

「武田高信力下剋上達成⇒毛利氏と誼を通じる」湯所口の戦い以降、守護家に対して優勢になった高信は天神山城を攻撃し、因幡守護の山名豊数を鹿野城に逃亡させ名目上の守護・山名豊弘を擁立し下剋上を果たします。
高信はその後も豊数の弟で主筋である山名豊国としばしば対立し、安芸の毛利氏とよしみを通じるようになります。

「尼子氏再興鳥取城明け渡し⇒吉川元春に降伏⇒再度尼子氏に降伏⇒またまた毛利支配」1573年(天正元年)、高信を討つために山中幸盛ら尼子残党と結んだ豊国の攻撃を受け、劣勢の高信は和議を結び城を明け渡すが(尼子再興軍による鳥取城の戦い)、まもなく豊国の手によって謀殺されてしまいます。
因幡山名氏の本拠も鳥取城に移されますが、同年に後巻に進出した吉川元春に攻められ豊国は降伏、市場城主・毛利豊元が城主となりました。
しかし、1574年(天正2年)再度尼子氏残党に攻められて降伏します。
1575年(天正3年)芸但和睦で毛利氏の力が鳥取に直接及ぶようになると、その手から逃れるため尼子残党が鳥取城を退き豊国が城主に落ち着きました。

「織田軍に降伏⇒毛利軍に降伏⇒鳥取の渇殺しで秀吉に降伏」1580年(天正8年)に織田方・羽柴秀吉の第一次鳥取城攻めで3か月の籠城戦(この時の籠城費用は全て豊国が負担しました。)の末、9月に豊国は和議により信長へ降伏、臣従します。
ところが、同月毛利氏が襲来して再度の降伏、鳥取城は牛尾春重が城将として入ることになります。
この時点で豊国は因幡守護であるが鳥取城主ではなくなりました(あっちへ降伏、こちへ降伏、納得できなかったでしょうがこれも戦国時代の常です。)。
春重は織田方の桐山城を攻めたとき深手を負い帰還、何人かの城将の入れ替えの末、1581年(天正9年)3月毛利氏の重臣である吉川経家が城主に座ります。
同年4月、因幡守護(名目だけになっていますが)豊国は織田氏へ密使を送ります。
しかしながら密使が市場城主・毛利豊元の家臣達に斬られ織田氏への内通が発覚、豊国は秀吉の下へ出奔せざるを得なくなりました。
残存する山名氏旧臣は毛利氏への従属を継続したため、信長の部将で中国地方の攻略を担当していた秀吉は2度目の鳥取城攻撃をすることとなります。

CIMG6501.jpg(城門跡)
CIMG6502.jpg
(勿論ですが、登ります。)
CIMG6503.jpg(二の丸高いのが三階櫓跡です。)
CIMG6504.jpg(三階櫓跡)
CIMG6505.jpg(石垣の修復が急ピッチで進められていました。)

最後の織田信長の中国攻めでは、家臣の羽柴秀吉が兵糧攻めを用いて攻略しました。
秀吉は播磨・三木城攻め(三木合戦)で行った徹底的な兵糧攻めをここでも実施します。
これが、「鳥取の渇殺し」と呼ばれます(秀吉は、但馬を弟の小一郎秀長に任せて、美作から因幡へ直接攻め込みます。)。

「鳥取の渇殺し」について簡単?に説明しますね。
『陰徳太平記』によると、秀吉は若狭から商船を因幡へと送り込み米を高値で買い占めさせる一方で、1400の兵が籠る鳥取城に付近の農民ら2000以上を城に追いやります(勿論、理由はおわかりですよね~(^^;)。
さらに河川や海からの毛利勢の兵糧搬入も阻止します。
このとき城には20日分の兵糧しか用意されておらず、この作戦により瞬く間に兵糧は尽き飢餓に陥ります。
何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、4か月も経つと餓死者が続出し人肉を食らう者まで現れたと言われています。
『信長公記』には「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と記されています。
城主の吉川経家はこの凄惨たる状況に、自決と引き換えに開城しました。

経家や山名氏旧臣に代わり、浅井氏旧臣で、秀吉の与力となっていた宮部継潤が城代として鳥取城に入り、織田勢の山陰攻略の拠点と成ります。

継潤は豊臣政権に代わった1585年(天正13年)の九州征伐で功績を挙げ、正式に因幡・但馬のうち5万石を与えられ、鳥取城を本拠として城主となります。
宮部継潤によって山上ノ丸の改修が行われました。、
その後も継潤は、九州平定後五奉行として連署するなど(宮部法印 前田玄以 富田知信 増下長盛 石田三成)秀吉の与力として重要な役割を果たし、隠居後は御伽衆として秀吉のそばに仕えます(御伽噺って微妙な表現ですが、つまるところお話相手!ですね。)。
所領は継潤の子の宮部長房が受け継ぎます。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで宮部家は西軍に所属し、城主の長房は因幡の外にいたので城代家老の伊吹三左右衛門や一族の者が留守を守りますが関ヶ原での本戦終了後、東軍の亀井茲矩らに激しく攻められ開城させられます。

関ヶ原の戦いの近江甲賀郡水口岡山城攻めでの功により、池田長吉(池田氏)が6万石で鳥取城に入り、池田氏によって近世城郭に改修されました。
江戸時代には鳥取池田家の治下に入り、麓の二の丸以下の曲輪が拡張されました。
現在は天守台、石垣、堀、井戸などが残っています(私が伺った時も修復してました。)。

1617年(元和3年)、さらに池田光政が因幡・伯耆32万5,000石の大封で入府、鳥取城も大大名に相応しい規模に拡張されます。
光政によって城下町の整備も同時に行われたといいます。
その後ふたたび、備前岡山藩に入っていた池田氏(長吉とは別系)と所領の交換が行われて池田光仲が入封、そのまま12代続いて明治維新を迎えました。

CIMG6506.jpg(右に見えるのが)
CIMG6507.jpg(天球丸かな山を頂上まで上がったところに、山之上丸、ご天守がありました。(;´・ω・)申し訳ない!)
CIMG6508.jpg(明治になり、島根鳥取が合併県になったときに松江城以外は廃城の憂き目をみたのでした。もったいない!)

分かっているだけで、山中幸盛(鹿之助)に2度、吉川元春に2度、豊臣(羽柴)秀吉に2度、と合計6度の降伏や力攻めによる落城があります。

今日ニュースで鳥取中部地震でも落ちなかった梨を「合格まちがい梨」として売り出していました。
鳥取県は「スタバ」もとい「スナバ」でもインパクトのあるコマーシャルをされますよね。
でも鳥取城が六度も落城した事は内緒にしときましょうね平井知事(笑)




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2016/11/16

またミステリーが一つ解き明かされる?山陰出雲国の法隆寺!『上淀廃寺跡』

『上淀廃寺』ご存知ですか?
まず知らない方がほとんどだと思います。

私も米子市に単身赴任しなければ、一生知る今年は無かったかもしれません!

正式には「上淀廃寺跡」になりますが、凄いお寺ですし、古代の出雲国がいかに、中央(大和政権)にとって重要であったか、解る気がします。

それでは「廃寺跡」をご紹介しましょう(笑)。

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「上淀廃寺跡」は、現在の米子市淀江町福岡に存在した、飛鳥時代(7世紀終り頃)に建てられた寺院の跡です。

CIMG2642.jpg(整備はされておりますが、何があるというわけでは無い、高台です。)
CIMG2636.jpg(凄く大きな敷地を持つ寺院だとわかりますか?太陽が恨めしい~(;´・ω・))
CIMG2638.jpg
(復元立体図、手前の小山二つの上に古墳群が見えますね~中央集権に組み込まれた証拠?前方後円墳です。)

上淀廃寺跡が創建されたのは、白鳳時代(狭義では天武~持統朝 (673~697) から平城京遷都 (710) までの約 40年間をいい,広義には大化改新 (645) から平城京遷都までの約 60年間)で、法隆寺と並ぶ国内最古の彩色された仏教壁画が発見されました。



平成3年2月(1991年)から発掘調査を行い、5月には金堂跡から法隆寺金堂壁画と並ぶ我が国最古の寺院壁画が出土し、飛鳥時代の堂塔内部を復元しうる数少ない寺院跡として、平成8年(1996年)に国の史跡に指定されました。

壁画は金堂の壁の内側に描かれていたもので、自然の絵の具を使って、仏や風景が描かれており、「変相図」と呼ばれる仏教の物語が描かれていたものと考えられます。

壁土は現在までに約4,300点が出土し、そのうち約1,300点の壁画が含まれ、そのほか壁土に混じって仏像の破片約1,900点やコンテナ約1,800箱分の瓦などが出土しました。

CIMG2639.jpg(こんなに丁寧に石敷きされています。三番目の塔がどうにか確認できます。)CIMG2640.jpg
(こちらの復元図にも三番目の塔が見えません、発掘調査でも微妙だったのかな?)
また、西に金堂東に南北三つの塔が配置され、他に例のない独特な配置となっており、堂塔配置が規格的である古代の寺院において他に例が無く、建立者の独創性が窺えるこの寺院の特徴となっています。

三つの塔を建立する例は、奈良時代以前の国内には例がなく、また、南北に並ぶ例は朝鮮半島にもありません。
現在は、塔の心礎や基壇を忠実に再現したものを見学することができます。

CIMG2641.jpg(この日ほどお日様が恨めしかったことはありません~(;^_^A)
CIMG2637.jpg(車のエアコンが壊れてたんですよね、笑)

建立者はわかっていませんが、堂塔以外にも倉庫など多くの付属施設をもつ、地方では大規模な寺院であったことは間違いありません。

古代社会制度の崩壊が進む平安時代中期(11世紀)に焼失してしまいその後再建されることはありませんでした。
上淀地区にあった名前のわからない寺という意味で「上淀廃寺」と呼ばれています。

上淀白鳳の丘展示館で復元された実寸大の金堂をあわせて見学することで、まるで当時の風景が甦ってくるようです(申し訳ありません見ていません、ソフトクリームだけ外で買って次へ、取材は厳し~い)。

この遺跡横の道は、牛馬市が盛んであった大山博労座(ばくろうざ)へ続きます
商人たちが行きかい、とても賑わいのあった場所だとも言われています。

法隆寺金堂壁画に匹敵するほどの壁画を備える大寺院が存在したこの地には、ほかにも「妻木晩田遺跡」、「向山古墳群」など山陰地方の弥生時代像の見直しを迫る資料が数多く発見されており、先人の息吹と古代ロマンにおのずと興味を掻き立てられます。 

常々申しておりますように、私理系で歴史は好きですが、専門的に研究したわけではありません。
ですから必ず現地に赴いて、感じたことをブログに書かせていただいております。
この地でも、太古の岡にたたずみながら、しばし歴史の偉大さを実感。
感慨にふけりながら、山陰「広義の出雲国」とは中央の大和(倭)政権にとってなんだったのだろうと、改めて歴史の面白さを実感した市郎右衛門でした。


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2016/11/14

投馬国の都か?ズバリ邪馬台国なのか~!凄いぞ『妻木晩田遺跡』

さて、戦国時代(山崎の戦いだけですが)も一休みして古代史に戻りたいと思います。

本日ご紹介するのは鳥取県西伯郡大山町富岡・妻木・長田から米子市淀江町福岡に所在する国内最大級の弥生集落妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)です。

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妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)、またはは妻木晩田遺跡群は、鳥取県西伯郡大山町富岡・妻木・長田~米子市淀江町福岡に所在する国内最大級の弥生集落遺跡です。
遺跡の面積は170ヘクタールにもなり、これは発掘当時国内最大級と喧伝された吉野ヶ里遺跡(発掘当時32ヘクタール、現在は調査が進み、約2倍の面積になっています)の5倍にもおよぶ大規模なものです。

大山山系・孝霊山から続く丘陵(通称「晩田山」)上に位置し、美保湾を一望できます(一度行ってみてください、天気が良ければ美保関迄一望出来る絶景です。)。
CIMG2611.jpg
(美保湾を一望、絶景です。)


中国地方の最高峰・大山の麓に甦った弥生時代の国邑、それが妻木晩田遺跡です。
遺跡のひろがりは鳥取県米子市・西伯郡大山町にまたがる晩田山丘陵全域におよび、弥生時代に大山山麓に存在したであろう古代出雲の中心的な大集落であったと考えられます。



1995年から1998年にかけて、京阪グループによるゴルフ場建設を初めとする大規模リゾート「大山スイス村」開発計画に伴い、大山町と淀江町の教育委員会により発掘調査が行われた際に発見されました。
これにより、鳥取県は遺跡と開発の併存案を打ち出していたが、京阪側は初めから「(遺跡とリゾートの)併存はありえない」と断言し、世間の批評も受け止め「開発できないならば、中止もやむを得ない」と当初から柔軟な姿勢を執っていました(京阪グループさんやるじゃないですか!ひらパー兄さんに岡田準一さんを起用するだけの事はありますね~なんじゃそれは、笑)。

そして全国的な保存運動も展開された結果、京阪側が開発を断念(開発中止を決定)、1999年12月22日に国の史跡に指定され、後に鳥取県によって保存・整備されています。
なお、発見から全面保存に至るまで時間がかかっているのは、京阪が買い取った土地の買い戻しが懸案事項であり、土地の買い取りに税金を投入する必要があったからだそうです。

また、この一連の騒動?の中で、文化庁の対応も非常に迅速でした。
これは妻木晩田がそれほどまでに歴史的重要かつ貴重な大発見であったことのいったんを物語るものです。
また、遺跡の保存には埋め直しを行わないといけないが、発見後数年が過ぎた段階で、膠着している間に遺構の風化、荒廃が始まっており、一刻の猶予も許さない状況だったことにも起因しています。

現在、全体のおよそ1/10が発掘調査されています。
遺跡は、弥生時代中期末(西暦1世紀前半)~古墳時代前期(3世紀前半)にかけて営まれています。
いわゆる倭国大乱の影響とされる高地性集落ですが、比較的大規模で長期にわたる例は少なく、注目されています。

標高90-120メートル前後(平野部との比高差100メートル前後)の尾根上を中心に立地し、面積約170ヘクタールにおよびます。
現在までに17.2ヘクタールが調査され、集落関係では420棟以上掘建柱建物跡502棟以上墳丘墓(四隅突出型墳丘墓含む)34基環壕等が検出され、山陰地方の弥生時代像に見直しをせまる貴重な資料がたくさん発見されました(まだまだ出そうです)。

CIMG2599.jpg
(結構じゃなく半端なく広いです。これで発掘調査一割?)

妻木晩田遺跡に人々が住みはじめるのは、弥生時代中期末頃(西暦1世紀前半)です。
弥生時代後期初頭(1世紀中頃)になると、洞ノ原西側丘陵に環壕が掘られ、洞ノ原東側丘陵に四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)がつくられます。
このとき、妻木晩田遺跡に住んだ人々は、ここから東に700mほど離れた妻木新山地区、妻木山地区、松尾頭地区に住まいを構えました。

CIMG2607.jpg
(四隅突出型墳丘墓は朝鮮半島の一部と、はぼ出雲圏だけです。)
CIMG2614.jpg(子供の墓でしょうか?前方後円墳だけ覚えていたのではだめですよ~笑)
CIMG2608.jpg(柴でおおわれてわかりにくいですが、四隅突出型墳丘墓洞ノ原一号墳です。)
CIMG2609.jpg(説明版)
CIMG2610.jpg(環濠集落、夏で暑くて~望遠で申し訳ないです。(;^_^A)

その後、ムラの人口が増えるにつれて住まいの範囲は広がっていき、妻木晩田遺跡が最盛期を迎える弥生時代後期後葉(2世紀後半)には、住まいの範囲が遺跡全体に広がります。
この時期をさかいに、妻木晩田のムラは少しずつ衰えていき、古墳時代の初め頃には住まいがほとんど見られなくなるのです。

CIMG2604.jpg
(小型竪穴住居骨組み!)
CIMG2605.jpg
(小型竪穴住居?)
CIMG2606.jpg
(掘っ建て柱建物)
CIMG2615.jpg
(小型竪穴住居の中はこんな感じ鍛冶風景ですね。)

妻木晩田の集落は、東側が居住地区西側の丘陵先端が首長の墓域といった構成で、後期中頃以前には洞ノ原(どうのはら)地区の最西端に環壕が機能していたものと考えられています。
居住地区は竪穴住居と掘建柱建物各3-4棟の単位を基本として構成されており、弥生時代後期終わり頃以降では鍛冶、玉造り、土器焼成などの活動が認められます。
更に最高所に位置する松尾頭地区では、祭殿や首長の住居と推定される建物跡も確認されています。

現在確認された、竪穴住居は、全部で約700です。
小型竪穴住居は、直径3-6メートル、深さ1メートル程度、外からは屋根しか見えません。
大型竪穴住居は、直径6-8メートル、深さ0.5-0.7メートルぐらいで、外から見ても壁が見えます。
小型竪穴住居は、土屋根で、大型竪穴住居大は草葺き屋根だったと推測出来ます。

大型建物のそばには大型竪穴住居が必ずあるようで、これこそ有力者の住宅であろうと考えられている。
弥生の終わりの3世紀中頃から4世紀ぐらいまでは、有力者も竪穴住居に居住していたと思われます。

遺物は、土器、石器(調理具・農工具・狩猟具・武器)、鉄器(農工具・武器)、破鏡等が出土しています。
鉄器は鉇・斧・鑿・穿孔具・鍬鍬先・鎌・鉄鏃等、弥生時代のもののみで197点が出土しており、大陸性のものも確認されているのも見過ごせませんね。

基本的なデータはむきばんだ史跡公園の資料とWikipedia~お借りしました。

さあ~ミステリーの時間です。
この巨大ともいえる遺跡がほんの一世紀の間に消えて無くなってしまうのです。
何故でしょうね~そう!あれしかありませんよね。
皆さんもうお分かりですね!(笑笑笑)



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2016/11/12

天下分け目は天王山じゃなかった~山崎の戦い 『故事成語』

今日は写真要らず?のブログに成りそうです。

まずその前に、5000アクセス突破しました~(^人^)
ありがとうございました。
これもひとえに、私の下手くそなブログに付き合ってくださっていてくださる皆さんのお陰です。
近頃忙しくて、予定通り(二日に一度ペース)にUP出来ておりませんが、見放さずに宜しくお願い致しますm(__)m

さて「天下分け目の天王山?」と言われる、山崎の戦いですが、その戦いに因って派生した、故事成語が有るので紹介しましょう。

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先ずは「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」です。
二大勢力が争っているときに、有利な方へ味方しようと日和見することを「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」といいます。

次に、ものごとの勝敗を決める正念場や運命の分かれ目のことを「天王山(てんのうざん)」といいます。(「天下分け目の天王山」と呼ばれる場合も多いですがが、正しい使い方では有りません~(^^;,
散々使ってきたお前が言うな!(;´・ω・))。

最後は、権力を極めて短い期間のみ握ることを「三日天下(みっかてんが/みっかでんか)」といいますね。

これらはいずれもこの「山崎の戦い」に由来する成語です。
ただし必ずしも史実に即したものではなく、むしろその伝説に由来している様です。

まず最初の「洞ヶ峠」ですが、織田信長から大和一国に封じられていた筒井順慶(居城は大和郡山城です。)は、光秀が率いる畿内方面軍の中では光秀に次ぐ勢力があり、また単に光秀の与力大名としてではなく、光秀とは個人的にも極めて親しい間柄でも有りました。

CIMG1691.jpg(写真いらずですが、寂しいので郡山城址を少しだけお目にかけます。)
CIMG1661.jpg(筒井順慶の後、羽柴秀長も居城としているので立派なお城です。)
CIMG1665.jpg(堀や石垣も大ですね。)
CIMG1690.jpg(イベントが行われていました。といいますか、このイベントが目的で訪れているのでした~笑。)

本能寺の変後、光秀から味方につくように誘われると、順慶は去就に迷います。


(京都府八幡市八幡南山 と 大阪府枚方市高野道・長尾峠町の境にある峠、近くのお茶さんを出してみました。すぐの交差点の地名が洞ヶ峠です。)

伝承では、順慶は光秀に乞われて洞ヶ峠まで出陣しながら、光秀方に加勢することを逡巡、合戦が始まっても形勢を窺うばかりで兵を動かさなかったということになっています。

確かに順慶は光秀の求めに応じて少人数の配下を山城国に派遣していましたが、実際には密かに秀吉方に寝返ることを決めており、居城で籠城の準備に取り掛かっていた様です。

そうとは知らない光秀は、煮え切らない順慶に加勢の催促をしようと会談を申し入れ、次男を連れて「洞ヶ峠」まで赴きましたが、約束の日時になっても順慶は現れませんでした。
つまり、光秀はすっぽかされてしまったのです。

二番目の「天王山」山崎の戦いは、羽柴軍の中川清秀の隊が高山右近隊の横に陣取ろうと、天王山の山裾に移動してきたことが合戦の緒端となりました(西国街道が狭いんですよね)。

CIMG3261.jpg(以前にもお見せした、鉄道フアンに人気のサントリーカーブ西は直ぐ天王山東は西国街道を挟んで鴨川まですぐです。狭い戦場!)

この両隊に明智軍が襲いかかり、一時は崩壊寸前まで追いつめられますが、羽柴の援軍が到着したことにより辛くも窮地を脱し、一進一退の後に、最終的には光秀方を押し返すことに成功しました。
これがいつしか「秀吉方が天王山を占拠して光秀方を牽制したことが戦いの帰趨を決めた」と言われるようになり、そこからこの合戦は「天王山の戦い」と呼ばれるまでになります。

しかし実際には、天王山の争奪は戦局に大きな影響を与えておらず、そもそも天王山の争奪戦そのものがあったかどうかも定かでないとの疑問も有ります。

『中川家記』『太閤記』などがこの逸話を創作した、あるいは風聞を写し書きしたとする史家も多く、そのため今日ではこの合戦を「天王山の戦い」ではなく「山崎の戦い」と呼ぶことが大勢となっています。

詰まるところ「天下分け目の天王山」じゃないばかりか、「天王山の戦い」すら無いかもって事ですね、もうこれは「天下分け目」が付けば「関ヶ原」という訳ですね(笑、散々天下分け目の天王山ってブログUPしてきました(^人^))。

最後は「三日天下」ですね。
肥後細川家に伝わる『明智光秀公家譜覚書』には、本能寺の変後光秀が細川藤孝・忠興父子に味方になることを説得した書状が所収されており、その中で光秀は変の後参内し、従三位・中将に叙任された上で征夷大将軍の宣下を受けたと書かれています(事実なら、錦の御幡を背に羽柴討伐軍を組織することもできたはずですね。)。

この史料の信憑性には疑問の余地があるものの、本能寺の変後政局が光秀を中心として展開したことは間違いないと思います。

では光秀の「天下」が実際にはどのくらいだったのかというと、本能寺の変が天正10年6月2日、山崎の戦いが同月13日、差し引き11日ないし12日間の「天下」だった事に成り「三日天下」では無かった訳ですね(笑)。

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2016/11/10

羽柴秀吉は山崎の戦いで何故勝てたのか?

天下分け目の後に続く言葉は?「関ヶ原」?それとも「天王山」?7:3で関ヶ原かな~(^^;

そもそもどっちが本物なのでしょうか?
関ヶ原は新幹線や車で通り過ぎた事は有っても、古戦場や佐和山城はまだ行ってないんです。

其では今日は、「天下分け目の天王山」羽柴秀吉の勝因について少しお話させて頂きますm(__)m!

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CIMG3268.jpg
(本能寺の変時の織田軍の支配下地図!勿論真ん中の部分が織田領地です。)
CIMG6742.jpg
(秀吉の中国大返し、天王山に秀吉の道というプレートが在ります。)

「スピード」まずは、中国大返しのスピードが羽柴軍に勝利をもたらせた事は、周知の事実ですね。
中国大返しまたは備中大返しは、天正10年6月(西暦1582年6月-7月)、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長の本能寺の変での死を知った後、速やかに毛利氏との講和を取りまとめ、主君の仇明智光秀を討つため京に向けて全軍を取って返した軍団大移動のことです。
備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの約200 km を約10日間で踏破したといわれています。

その中でも私が注目したいのは、羽柴軍の兵站能力です。

兵站(へいたん)あるいはLogistics:ロジスティクス、(現代ではビジネス用語としても用いられるように成りました。)とは、
戦闘地帯から後方の、軍の諸活動・機関・諸施設を総称したものです。

戦争において作戦を行う部隊の移動と支援を計画し、また、実施する活動を指す用語でもあり、例えば兵站には物資の配給や整備、兵員の展開や衛生、施設の構築や維持などが含まれます。

現代戦では当たり前の兵站が当時(戦国時代)余り重要視されていなかった中で、羽柴軍の兵站を担った、石田三成ら文官武将の能力の高さが目につきますね!

次は何でしょう?

「戦術よりも戦略!」

秀吉の勝因はまず兵力差が挙げられます(戦闘の基本ですね。)。

これには羽柴軍の動きが、光秀の予想を遥かに上回る迅速さだったこと、中国平定のために秀吉が織田軍の主力を任されていたこと、光秀が周辺勢力の助力を得られなかったこと(特に畿内の有力大名であった細川・筒井両氏)、兵を近江方面に割いていたことなど様々な要因が絡んでおり、結果的に光秀は十分な兵力を揃えられないまま京と西国を結ぶ最後の要所である山崎での決戦に挑まざるを得ない状況に立たされました。

羽柴方にも強行軍による将兵の疲弊という不安要素はあったはずですが、総じて戦略段階で既に大勢は決していたと言えます。

これには、黒田官兵衛孝高の策略が有ったとも言われています。
畿内の有力大名であった細川・筒井両氏が光秀に味方しなかった理由の一つに、秀吉が「大殿健在」の書簡を送ったからだとも言われます。
本能寺焼き討ちの後信長の死体を探せなかった事が、光秀にとっての最初の不運でした。
信長が生きていた場合、光秀に味方することは、謀叛に加担したのと同じ事に成るからです。

CIMG6765.jpg(左が明智軍、右が羽柴軍です。狭い西国街道を出てくる羽柴軍を各個撃破できそうですが!)
CIMG6749.jpg(逃げ惑う明智軍、勝敗は決まりました。戦略の差ですね。)
CIMG6754.jpg(光秀の最後、落ち武者狩りの農民に竹槍で狙われています。涙)


『太閤記』による光秀軍の構成は、以下の通りです。

羽柴軍(約4万0000)高山右近・木村重茲・中川清秀・池田恒興・池田元助・加藤光泰・丹羽長秀・織田信孝・秀吉本隊(羽柴秀長・黒田孝高・蜂須賀正勝・堀秀政・中村一氏・堀尾吉晴・神子田正治・蜂屋頼隆など)

秀吉本隊中には他に直番衆として加藤清正・福島正則・大谷吉継・山内一豊・増田長盛・仙石秀久・田中吉政といった顔ぶれもいました。

明智軍(約1万6000)斎藤利三・柴田勝定・阿閉貞征・溝尾茂朝(明智茂朝)松田政近・並河易家・伊勢貞興・諏訪盛直・御牧兼顕・津田正時・光秀本隊(藤田行政など)

その他、小川祐忠・進士貞連・可児吉長・津田信春が参加しています。



山崎合戦之地!
現在の大山崎JCTあたりを挟んで両軍が対陣したと言われています。

CIMG6756.jpg(大阪城で利休と歓談する秀吉!大阪城が見えますね、舟に乗っている岩は蛸石ですか?)

そして最後に「運」としておきましょう(笑)本能寺の変は謎が多く日本史最大のミステリーです。
他の有力家臣団よりも有利な場所で戦闘を行っていました。
やはり後の天下人!運も味方につけなくては天下は手に入りません。

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