2016/09/30

奇岩に祈願する?謎に次ぐ謎!「阿陀萱神社」

出雲から少し離れた、取鳥県米子市の、「阿陀萱神社」に行ってきました。
古事記によりますと、大国主命因幡の白兎を助けた縁で八上姫と結ばれ、出雲の直江で多岐喜姫が生まれます。
事情により(笑)因幡の国に里帰りする途中、榎原郷橋本邑の榎の俣に指を挟まれ此処にとどまります。

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米子市内から行くと、石井郵便局の信号を左に曲がって、保育園横の畑に沿って、山の方に細い坂道があります。その道を上がっていくと、高い樹木に囲まれた、切通の何かありげな道をさらに歩くと、光のあたる開けた場所に出ます。
そこが、阿陀萱神社へと続く石段のある参道になります。


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(雰囲気ありますでしょ。途中の石のくぼみに仏さまが収められていました。)
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(さあ!隕石でしょうか?物知りおじさんに捕まった?のは私の後に訪れたお二人でした。汗)

鳥居の前には大きな石があり、しめ縄が飾り付けられていました。
天から降ってきた石だとか?
言い伝えには「昔、宝石天より降りて一夜に出現す、降りし三宝石(三つも?)は村中に二つ、神社に一つそれ故に宝石山と称す」とあります。

つまり隕石?この大きさなら、キロメートルサイズのクレーターが開くなと思いつつも、お祀りしようと後由緒を読んでおりますと、自転車に乗ったオジサン~(^^;
良くいらっしゃるんですよね、お話がしたくてしょうがない方!(笑)
いえいえけして迷惑ではありませんよ~地元の知らない情報とかも教えていただけますし、楽しみにしています。

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(ご由緒です。)
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(石段も古そうですね。)
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(周りの木々も立派です。)

一見古事記とは関係ない石のようですが、米子の民話散歩道では以下のように書かれています。

「神代の昔、宝石天降り一夜の中に(石が)出現せしゆえ、この山を宝石山と称す。
この石社伝秘訣あり。
異名石にて側に小社を建て、産石神社と崇敬す。」

この石を産石神と崇めたことからわかるように、安産祈願の石として拝まれてきました。
なぜ産石といわれるようになったのかは、「社伝秘訣」で語られていませんが、ある人は大国主命伝説にあると説かれます。
大国主命は、兄神たちに妨害されながらも美女八上姫を得ましたが、八上姫は大国主の正妻スセリ姫のしっとにいたたまれず、娘阿陀萱奴志喜岐姫を連れて、因幡に帰ることになりました。
帰路、橋本を通られた時、娘の姫が榎の枝に手の指を挟まれて抜けなくなりました。
そこで娘の姫は「私はこの地で住むから、お母さんは因幡に帰って」といわれました。
その娘姫の住居が阿陀萱神社で、この阿陀萱姫はまことに安産で生まれられたので、それでこの石を産石というのだそうです。
(米子の民話散歩道から引用させていただきました。)

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(今回私が注目したのは、狛犬ではなくて石灯籠です。)
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(龍が載って巻き付いているのがわかりますか?珍しい素敵な灯篭ですね~!)
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(左手残り桜です。いい日よりでした。)
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(時代を感じる拝殿です。)
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(多岐喜姫の住む場所として造られたとか、勿論今の神社ではありませんよ、笑)
阿陀萱神社は、大国主命と結ばれた八上姫との間に生まれた多岐喜姫が、因幡の国への里帰りの途中に指を挟まれここにとどまり、鎮守神になったとされる神社といわれています。
多岐喜姫はやはり木俣神ということに成るようです!

皆さんもよろしければ、ぜひ行ってみてはいかがですか?


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2016/09/28

出雲大社の御神体判明!?意宇六社最後の『六所神社』で驚愕の事実?

出雲の国、意宇郡(出雲の中心部)の旅、意宇六社の最後は国府跡に寄り添う『六所神社』です。

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『六所神社(ろくしょじんじゃ)』は、島根県松江市大草町にある神社です。
意宇六社の一つ(これで全てご紹介出来ましたね~(^^)d)。
出雲国総社であり、旧社格は県社ですね(出雲では新政府「明治政府」の格などは気にしていなかったと宮司さんのお話でした~さすがです)。
出雲国府の跡地に鎮座しています。



CIMG2411.jpg(六所神社最後に訪れて本当に良かったです。)
CIMG2415.jpg(吽形は石工伊右衛門作です。阿形は別の名工林蔵の作品、作者が違うのは珍しい、写真が無いのはごめんなさいです。)
CIMG2416.jpg(小泉八雲も出雲五大社と紹介しています。)
CIMG2417.jpg(これ~?虫送りの儀式ですか?わかります方がおられましたら教えてください。)
CIMG2414.jpg(拝殿です。)

御祭神は、伊邪那岐命・伊邪那美命・天照皇大神・月夜見命・素盞鳴尊命・大己貴命(六柱勢揃いです♪)

境内の北側に1968年に発掘された出雲国府の遺跡があり、境内の東側の隣接地に国庁の正殿の遺構の一部があります。
鎮座地が国庁と重なることから、別の場所にあったものが移転したと考えられています(そりゃそうだわな)。

八重垣神社とともに『延喜式神名帳』出雲国意宇郡に記載された「佐久佐神社」の論社とされます。
明治5年に八重垣神社が式内社佐久佐神社として認定され、当神社は6柱の神を祀る六所神社として結論付けられましたがその後も論争が続いている様ですね。
「佐久佐神社」とは出雲風土記に記載のある「青幡佐久佐日古命(素盞嗚尊と櫛稲田姫の子供)」を祀る神社であったといわれています(本当はどっち?ミステリーですね~)。

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(シンプルですが味がありますね。)
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(出雲国造、北島齋孝の文字が見えますが、千家尊福も有り両国造家の石碑です。)
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(青幡佐久佐日古命を祀る町明神社、わかりにくいですが町が丁と記載されています)
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(本殿勿論大社造りです。)
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(出雲大社と同じく右から入って左回りでご神体です。)
意宇六社最後ということで、意宇六社の神紋について少し、「六所神社」の神紋は二重亀甲に「有」の文字で、有をばらすと、十と月ですよね!つまり十月、出雲で旧暦十月といえば、神在月、正に神々が居られる場所と言うわけです。
この社紋を使っているのは、意宇六社では「神魂神社」「真名井神社」「六所神社」です。
かつては出雲大社の神紋だったそうです(現在の出雲大社は二重亀甲に剣花菱「揖夜神社」「八重樫神社」がそうです)。
別格?「熊野大社」は亀甲に「大」の文字!です(^^;

さて、訪れて御朱印を頂き宮司さんと歴史のお話で盛り上がり?(私の知識が議論に値すると思って頂けたのなら凄い事ですが!)御朱印集めを、出雲大社遷宮の前年から始め、出雲が大好きに成った等、のお話をさせて頂きますと、意宇六社の宮司さん方が出雲大社遷宮時に御神体を運ぶ役目を担っていることなどを、お話下さいました。

そこで、すかさず「出雲大社の御神体は何なのですか?」と訪ねてみたところ、遷宮の御神体移動は前日の夜に、千家当主(現在の出雲国造八十四代千家尊祐さん)が一人で神輿に移され、神事の当日に意宇六社の宮司さん方が仮神殿に移されるとのことで、御神体が何であるかは解らないそうです。
しかし、神罰に触れそうなので、はっきりとは言えませんが、ある理由から、「鏡・剣・勾玉」等では無いようです!

さて皆さん其では何だと思われますか?私の私見ですが、そこは出雲!出雲大社の御神体は、やはり出雲に関係するものですよ~Ψ( ̄∇ ̄)Ψ

有難いことに、宮司の横屋さんと一時間近くもお話させて頂きました。
宮司さんとはFacebookでもお友達に成って頂き、出雲の歴史を御教授頂いて居りますm(__)m。

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2016/09/26

古代出雲の中心地はやっぱりここだ~!『出雲国府』

前回に引き続いて、出雲国の中心を散策しましょう。
今回は『出雲国府跡』です。

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出雲国府跡は、島根県松江市大草町・山城町・竹矢町に所在する、律令制下の地方行政の中心地域です。
1971年(昭和46年)12月13日、国の史跡に指定されています。



出雲国府跡は、松江市の南東6キロメートルに所に開けた意宇平野(おうへいや、古代出雲の中心部、この古代は神話時代の意味です。)に位置します。

国庁跡は、『出雲国風土記』に記述があり、意宇平野内に所在していたことは古くから知られていましたが、具体的な場所が分からず、推定地がいくつか上がっていました。
その後、江戸時代に書かれた大草村検地帳に字名「こくてう」が発見され、現在の字竹ノ後(館の後の意味)辺りと考えられるようになりました。
国分寺の位置が判明していたはずですかから、場所の特定がそれほど難しいとは思えませんが?

八雲立つ風土記の丘(神魂神社の辺りです地図で確かめて下さいm(__)m)設置の計画が持ち上がり、1968年(昭和43年)から発掘調査が始まりました。

本国庁跡松江市大草町「六所神社」周辺であることが判明しました。

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(このような、子供向け?の説明板が本当にありがたいです。)
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(意宇の方には失礼ですが、古代の方がかなり都会です、笑)
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(先日紹介の石川年足さんもここに、お住まいだったんですね。)

国庁は、一辺167メートルの区画を大溝で区切り、その南半分に南北96メートル、東西72メートルの政庁区画を取り、その中に正殿・脇殿などを配置し、北半分も溝によって仕切られ官衙建物が並んでいたと推定されています。

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(これが全体ではありませんから、保存されている所だけでこの広さ!)
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(仕切りの溝も復元されています。)

遺物では「大原評(こおり)□部□□」「進上兵士財□…」「□□二百代」などと記された木簡、「厨」(くりや)「酒杯」「少目」(しょうさかん)などと書かれた墨書土器、「門」「社辺」(こそべ)などの篦書き土器があります。

「評」という木簡から、出雲国庁が大宝元年(701年)以前に溯って建造されたと考えられます。
ちょっぴり説明!藤原宮などの発掘によって大宝律令制定以前に書かれた木簡の表現は全て「評」と記されており、逆に「郡」表記のものが存在しないことが明らかとなりました。
このため、今日では大宝律令制定以前は「評」と表現される地方行政組織が存在したと考えられています(ちなみに「評」が使われ始めたのは大化の改新の頃です。645年~701年の間ですね。)。

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(政庁の後殿、後方に見えるのが、六所神社です。)
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(礎石は無いのですね~!)
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(後方の部分が良く調査されています。)
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(良く見え無いですが、後方茶臼山が神名樋野です。)
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(前の方の発掘調査期待します。)

その他、柱の一部、軒瓦類、大量の食器類、硯、分銅、玉作用の原石、砥石、和同開珎(銀貨)、春という文字を刻んだ銅印などが出土しています。

周辺地域は条里制(土地を約109m間隔で直角に交わる平行線「方格線」により正方形に区分)の名残をよくとどめています(地図で見ると、成る程~と思えますねぇ~(^^)d)。
国庁と同所に存在したと推測されている意宇郡家(おうぐうけ、郡衛とも呼ばれる距離の基準の役所)や駅家(ホテル兼郵便局と考えますか)などの発掘調査が望まれます。

またまた但馬国府と比べてみます?但馬国府の位置は何度か移動したために特定されていません。
ただ、山陰線に国府駅(無人駅)が在り府市場等の地名も残っています。

但馬国司として有名なのは源頼光!後世に成立した『今昔物語集』『宇治拾遺物語』、室町時代になって成立した『御伽草子』などで丹波国大江山での酒呑童子討伐土蜘蛛退治の説話でも知られる。
説話の頼光四天王(渡辺綱、坂田金時「きんたろう」、碓井貞光、卜部季武)は有名ですね~。

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2016/09/24

国分寺サミット企画する?出雲国『国分寺』を紹介します。

今回ご紹介するのは『出雲国分寺址』です。
出雲の国分寺は意宇平野(おうへいや)の北東(松江市竹矢町)にあり、史跡公園として保存されています。『出雲国風土記』には登場しませんが、出雲の代表的な古代寺院跡です。

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(本当に良く残っています。人々の信仰心の高さかな?)




「風土記」が書かれた6年後の奈良時代、天平13年(741年)、 聖武天皇が全国の国ごとに「国分寺」と「国分尼寺」を建てるように命じました(つまり官営の寺です。)、出雲国分寺は750年代に完成しました。
昭和和30年から31年、および昭和45年から46年にかけての2回、国分寺跡の発掘調査が行われました。
水田の下から南門・中門・金堂・講堂・僧坊・回廊・塔などの跡が発見され、これらの伽藍が南北一直線に並ぶ「東大寺式」の配置だったことが確認されました。

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(島根県は宣伝が上手ですね~笑)
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(南門址)
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(礎石の配列もぴったりです。)

出雲国分寺跡は建物の下の土壇(基壇)がよく残っており、柱が据えられていた礎石(そせき)が復元されて並べられています。

南から南門、中門、金堂(こんどう−仏像が安置された仏殿)、講堂(法会が行われた場所)、僧房(僧が住んだ場所)が一直線になるよう配置され、中門の東南に塔が建てられていました。

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(ちょっと写真がわかりにくいですよね。)
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(島根県のHP~原本?お借りしました。)
kokuato[1]
(一直線に国府方面です。)

現在は塔の東側までしか公園となっていませんが、本来は218m四方(方二町)の規模があったと推定されています。
聖武天皇は国分寺とともに国分尼寺も建てるよう命令しました(セットなんですね、国分寺は東大寺の管轄、国分尼寺は法華寺の管轄です)。
出雲国分尼寺は国分寺の東約400mにあったと考えられますが、民家が密集しておりはっきりしていません。

真っ直ぐに伸びる道を「天平古道」と呼び、は当時の出雲国府に繋がっていたと思われます(勿論アスファルトの路では無くて地下1.5メートルに在る石だたみです)。

国分寺および国分尼寺の建立に寄与したとという功績で昇進したと思われる出雲国司の名前わかっています。
蘇我氏の流れをくむ奈良時代の律令官僚出雲守従五位下、石川朝臣年足(いしかわのあそんとしたり)です。

ちなみに、手前味噌なのですが、私の実家の但馬にも国分寺と国分尼寺は有ります。
先日大きな発見が在りましたので、ご紹介いたします。

兵庫県豊岡市日高町の但馬(たじま)国分寺跡(国史跡)で、金堂などの主要な建物を結んだ回廊とは別の、新たな回廊跡が見つかりました。
市教育委員会が二月に発表、全国にある国分寺跡で主要伽藍(がらん)以外の回廊跡が確認されたのは初めてです。
何らかの重要施設(「院」の墨書銘土器の出土から「大衆院跡」と推定する説が在ります。)があるがあった可能性が高いとみて、回廊跡内を今後調べことに成りました。

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2016/09/22

お酒好きなら此処に行かなきゃねぇ!『佐香神社』

昨夜はブログ仲間の先輩?(年は私が一番上なのですが)と三宮に飲みに行って、楽しい時間を過ごす事が出来ました。
若いのに本当にしっかりしていて、よく考えておられるし、勉強させてもらいました。
流石はトップブロガー、感謝の気持ちで一杯です。
また機会が在れば面白いお話も出来るかもしれません?

さて私も負けてはおられ無いのですが、今回はちょっとずるいです。
それでは行ってみましょう。

出雲神仏霊場の一畑寺(三番)に向う途中に鳥居が有ったので、神社だ~と思いお詣りすることにしたのですが、鳥居には松尾神社と書かれているのに、なぜか佐香神社?とりあえず行ってみようと伺いました(笑)。

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(松尾神社?)

ご紹介するのは『佐香神社』です。



CIMG2239.jpg
(佐香神社です。)

佐香神社(さかじんじゃ)は島根県出雲市小境町に鎮座する神社です。
別名、松尾神社
酒造の神として酒造業者からの信仰を集めています。

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(出雲は風土記の看板が在って本当に親切です。)
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(ご由緒、読みにくいですよね、下に書いてありますので、ご安心ください、笑)
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(やっぱり階段、そうそうぎっくり腰を患っていたのですが、良くなりました~。)

主祭神 久斯神(くすのかみ)、大山咋命

配神 天津彦彦火瓊瓊杵命(瓊瓊杵尊、ににぎのみこと) 、木花咲耶比売命(このはなさくやひめのみこと)、百八十神(ももやそがみ)

久斯神は酒の神のことであり、少彦名神の別名ともされます。
大山咋命は京都の松尾大社からの勧請です(ですから松尾神社なのですね)。
また配神の木花咲耶比売命も酒造に関係のある神です。

『出雲国風土記』楯縫郡の条の佐香郷に、川の中州で180柱もの神が集まって御厨を建てて酒を造り、180日もの間宴会をしたあと解散したという説話が記載されています。
配神の百八十神はこれを意識したものでしょう。

『出雲国風土記』楯縫郡の条の在神祇官社「佐加社」 、延喜式神名帳の出雲国楯縫郡の「佐香神社」に比定されます。

享保2年(1717年)の地誌『雲陽誌』の小境村の項に「松尾明神」とあり、それによれば明応9年(1500年)の棟札があるとされ、室町時代には前述の松尾大社の祭神が京都から勧請されたと考えられます。
江戸時代に入っても松江松平家を初め近隣の出雲杜氏たちの崇敬を集めていたようです。
明治に入り社名を「佐香神社」に復したが、通称の「松尾神社」も併用されて現在に至っています。

例大祭は10月13日に行われる。濁酒祭(どぶろくまつり)とも呼ばれ、室町時代から続いているとされます。
10月1日の未明に宮司自ら杜氏となって神酒の醸造を行い、祭礼の前日に国税庁の係員の検査を受けます。
当日には酒造業者たちが集まり、安全を祈願する奉納祭が執り行われます。
ちなみに当社では財務省より、祭礼のために毎年1石以下までのどぶろくの醸造の許可を得ています。

突然のお詣りで資料が無く、Wikiよりデータをお借りしました。

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(出雲型の狛犬さん、やはり躍動感が違いますよね~。)
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(来待石は柔らかいので加工しやすいですが、風化も激しいのが残念ですね。)
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(綺麗に掃き清められた参道は気持ちが洗われますね。)
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(拝殿、そういえばお賽銭ですが、御縁が在るように五円を集めています。ケチじゃないですよ。)
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(大社造り!小さくてもやっぱり素敵です。)


御朱印を頂いたのですが、宮司さんはお隣のご自宅に居られました。
例大祭の丁寧なご説明を頂きました。
当たり前の事ですが、宮司自ら御一人でどぶろくを作ることは全国でもここだけではないかとおっしゃっておられました。
「是非一杯お神酒を飲みにいらしてください」と誘われましたが、残念でした~(笑)

一畑薬師の途中でと最初に書きましたが、次回一畑薬師では無いと思います。
お許しをお願いいたします(笑)

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2016/09/19

ついに、出雲神仏霊場満願成就記念!『賣布神社』

出雲に戻ってまいりました~(笑)。
出雲神仏霊場二十箇所をすべて巡ることが出来ました。
特別な御朱印帳と御朱印、それに御縁珠(次の機会にご披露いたします。)がもらえます。

最初に収集を始めたのが、今回ご紹介する『賣布神社』でした。
出雲神仏霊場代六番札所

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賣布神社なのですが、はっきり言って、私などの素人には理解できない複雑さ?です。
出来るだけ簡単に?説明しますが、本人も良く理解していないので変になるかもです(笑)



『賣布神社』は、遠く神代において摂社の御祭神である「櫛八玉神」が、潮の流れの中にあるとされる「速秋津比賣神」を生命の祖神としてお祀りになったことに始まり、後に樹種の神とされる「相殿の三神」が合わせ祀られたと伝えられています。
このことは、海の潮の働きと地上の樹木の働きがあいまって海河山野の幸がもたらされ、人々も生かされていることが示されているとも言われます。

主御祀神の速秋津比賣神速秋津比古神・速秋津比売神の夫婦神とも言われます。)は、日本神話に登場する神です。
神産み神話(伊邪那岐・伊邪那美が生んだ神の一人?ないし二人)で生まれています。
『古事記』では速秋津比古神・速秋津比売神、『日本書紀』では速秋津日命と表記されます。
古事記では別名『水戸神(みなとのかみ)』と記されています。

「水戸神」とはすなわち港の神の意味です。
地図を見ていただいたら解るように、宍道湖と中海をつなぐ重要な場所に在ることがわかりますよね~。

古代の港は河口に作られるものであったので、水戸神は河口の神でもあります。
川に穢を流す意味から、祓除の神ともされます。

神名の「ハヤ」は川や潮の流れの速さを示し、かつ、河口の利用は潮の流れの速さに左右されることから出た神名と考えられているようです。
また、「アキツ」「明津」で、禊によって速やかに明く清まるの意とする解釈もある様です。

更に、その原点は、大自然の営みに畏敬の念をはらい、自己の生き方を律して、諸々の禍いや過ち、そして気枯れ(穢れ)などあればこれを見直し、人本来の生き方や生命力を蘇らせることにあり、それが「祓え・清め」の真の意義でしょう。
自然再生のための活力は、「潮の気(水気や塩気)そして樹木の気に宿る神々によってもたらされる」と信仰されて来ました。

CIMG9692.jpg(所在地は、松江の町中です。)
CIMG9693.jpg(綺麗な神社ですね。)
CIMG9694.jpg(神殿)
CIMG9695.jpg
(やはり木の神が祀られていますからね。)


速秋津比賣神を祀ったとされる櫛八玉神ですが、葦原中国平定の段で国譲りを承諾した大国主のために造営された宮殿(出雲大社)で、膳夫となった櫛八玉神は、水戸神二神(速秋津比古神・速秋津比売神)の孫と記されています。

「大祓詞」では、川上にいる瀬織津比売神によって海に流された罪・穢を、「荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百会に坐す速開津比売(はやあきつひめ)と云ふ神」が呑み込んでしまうと記されています。

CIMG6566.jpg(ご由緒)

『賣布神社(めふじんじゃ)』 通称 白潟(しらかた)さん 橋姫(はしひめ)さん。
主祭神 速秋津比賣神(はやあきつひめのかみ)
水戸(みなと)の神であり、祓(はら)え戸(門)の神

相殿神 五十猛命(いたけるのみこと) 大屋津姫命(おおやつひめのみこと)柧津姫命(つまづひめのみこと)
日本書紀に登場し須佐之男命の子である樹木を司る三柱で、須佐之男命を助け樹木を日本中に繁殖させたとされます。
日本の国土に樹種を播かれたと伝わる神々と出雲国風土記にも記されます。

ご利益は「祓え清め、そして生命力のよみがえり」
祈りの言葉「祓え給い 清め給え、守り給え 恵み給え」

ご由緒では、『当社は、「出雲国風土記」に「賣布社」、「延喜式」には「賣布神社」と記された古社であり、社名の『めふ』とは、海藻や草木の豊かに生えることを意味しています。
元の鎮座地は、古代名の「意宇の入海」(今の宍道湖)の西部湖岸と考えられ、潮の流れや地形の変動に伴い遷座され、岩崎鼻(袖師ガ浦)に鎮座した時代もあり、潟地が広がって白潟の地が形成されて現在地に遷座されたのが十三世紀頃と考えられ、「白潟大明神」とか、十五世紀には「橋姫(はしひめ)大明神」とも称され、水郷松江の産土神(うぶすながみ)として鎮座しました。
また、中世には港町「白潟」の宮座の権利として神田や漁業権を保有してきた歴史があり、祭儀では摂社の「櫛八玉神」の御事蹟と関連して、古代神話の国譲りの段に因む神事が継承されてきた。』と記載されます。

わっフル
(写真を撮っていなかったので「島根欲張り図鑑」よりお借りしました。)

全くの余談ですが、神社の門前にワッフルがとってもおいしい老舗の洋菓子店が在ります。
松江市民にとって「ウエダのワッフル」と言えば、知らない人はいないというぐらい、の定番らしいのです(松江出身の友人に教えていただきました)。
柔らかめの生地に、甘さ控えめのクリームの味はは子供から大人まで万人受けし、手土産として実に最適なのだそうです(懐かしい昭和のかおりする味でした)。

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2016/09/17

我が家も安産!西国三十三観音霊場第二十四番札所 『中山寺』

西国三十三観音霊場第二段です。
ご紹介するのは『中山寺』です。
中山寺は、兵庫県宝塚市にある真言宗中山寺派の大本山寺院です。

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山号は紫雲山
本尊は十一面観音
西国三十三所第24番札所(私が現在まわれているのはちょうど半分です)。



本尊は十一面観世音菩薩で、インドの勝鬘夫人勝鬘夫人(「しょうまんぶにん、シュリーマーラー」は、古代インドの在家仏教徒。シリーマーラーとは「素晴らしい花輪」という意味で、勝鬘はそれを漢訳したもの)の姿を写した三国伝来の尊像と伝えられます(私見ですが、御本尊の十一面観世音菩薩、西国三十三観音霊場の御本尊の中で一番艶やかなお姿をされていると思います)。
左右の脇侍も十一面観世音菩薩で、本尊と脇侍をあわせて三十三面となり、西国観音を総摂すると共に法華経に説く、観音の三十三権変化身を表象し、真の三十三所巡拝と同じ功徳がえられるという便利な?お寺です。
普段は秘仏となっていますが、毎月18日に開扉されます。

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(姫路書写山園教寺にあるレプリカ?鋳造仏です。艶っぽいですよね。)

地元では「中山さん」と親しみを込めて呼ばれていますし、「中山か~んの~ん」のメロディーのTVコマーシャルは関西では?誰もが耳にしているはずです(^^;。

また、摂津国八十八ヶ所霊場会の本部も、設置されています。
御朱印集めを楽しんでいる者といたしましては、ありがたいですが、懐具合も気に成ってしまいます(笑)。

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(山門も豪華です。縁日のように参道にお店が並ぶのが楽しいですね。)
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(この日のお店は少ないですが、私は寺町で七味唐辛子を必ず買うことにしています。これが美味しい!)
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(本堂!何度も御参りしているので、写真が一杯と思っていましたが、HD壊れて飛んで行ってしまったようです。)
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(新しくできた大願塔です。)

寺伝では聖徳太子が建立したとされる日本最初の観音霊場です。
「極楽中心仲山寺」と称されていました。
現在の本堂(慶長8年・1603年再建)や阿弥陀堂は豊臣秀頼が片桐且元に命じて再建されたようです。
羅漢堂に約800体の羅漢像が並ぶ姿は荘厳ですね。

ここで少しうんちく!「西国三十三カ所観音霊場巡りの由来」
養老2年(718年)、大和国長谷寺の開山「徳道上人」が病にて仮死状態になられた際、冥土で閻魔大王に会い、「生前の悪い行いによって地獄へ送られるものが多い故、観音の霊場へ参ることにより功徳が得られるよう、人々に観音菩薩の慈悲の心を説け」とのお告げを受け、起請文と三十三の宝印を授かって現世に戻され、その証拠でもって人々に観音信仰、及びその霊場へ参ることをすすめられました。
徳道上人が極楽往生の通行証となる宝印をお配りになったという場所は、観音菩薩が衆生を救うために示現された霊験所や寺院でした。
上人と弟子たちはこの三十三所巡礼を人々に説きましたが、世間の信用が得られずあまり普及しなかったため、機が熟すのを待つこととし、閻魔大王から授かった宝印を中山寺の「石の唐戸」の中に納めました。
そして月日がたち、徳道は隠居所の法起院で80歳で示寂し、三十三所巡礼は忘れ去られていきます。

徳道上人が中山寺に宝印を納めてから約270年後、花山法皇(安和元年〈968年〉 - 寛弘5年〈1008年〉)が紀州国の那智山で修行していた折、熊野権現が姿を現し、徳道上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を授けます。

中山寺古墳1
(兵庫県宝塚市中山寺の古墳。おじさんの影が~!)
中山寺古墳2
(石の唐戸?三十三の宝印が封印さていたの?)

花山法皇は、988年(永延2年)観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった、中山寺(兵庫県宝塚市)で宝印を探し出し、播磨国書写山圓教寺の性空上人の勧めにより、河内国石川寺(叡福寺)の仏眼上人を先達として紀伊国熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し修行に勤め、大きな法力を身につけたといわれます。
このことにより、やがて観音霊場を巡る西国三十三所という信仰となり、西国三十三所は日本最古にして、巡礼の元祖となりました。
この花山法皇の観音巡礼が西国三十三所巡礼として現在でも継承されており、各霊場で詠んだ御製の和歌が御詠歌となっています。
花山法皇は、寛弘5年(1008年)2月花山院の東対にて崩御、紙屋上陵(現在の京都市北区衣笠北高橋町)に葬られています。

さて本題に戻って中山寺ですが、安産祈願の霊場として皇室源頼朝など武家、庶民より深く信仰を集めます。
豊臣秀吉が祈願して豊臣秀頼を授かったともいわれています。
また、幕末には中山一位局明治天皇を出産する時に、安産祈願して無事出産したことから、日本唯一の明治天皇勅願所となり、安産の寺として知られています。

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(皇帝ダリアが綺麗に咲いていました。)

我が家でも、三人の子供達の安産祈願を此方中山寺で行いました。
いぬ帯を持っての御礼参りを行うのですが、三人目の次女だけ行きそびれて、10年掛かって御礼参りに行かせて頂きました(罰当たりな事です。)。

中山という山が背後にあり、山麓にある中山寺奥之院には厄神明王がまつられ、本堂脇にある湧水は大悲水と呼ばれています。
中山寺の境内からは18丁、徒歩50分程度で参拝する事ができるそうですが、そんな元気は勿論ございません(笑)。

毎月の戌(いぬ)の日は、安産祈祷会があり、安産を願い、また、鐘の緒(かねのお)(祈祷を受けた腹帯)の授与を求めて、日本各地から多くの参詣者が訪れます。

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2016/09/14

御神符が欲しい~!『熊野那智大社』

今回ご紹介しますのは、前回の続き、青岸渡寺のお隣!神仏集合霊場の『熊野那智大社』です。

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熊野那智大社は、田辺市の熊野本宮大社、新宮市の熊野速玉大社とともに熊野三山の一社です。
全国約4,000社ある熊野神社の御本社でもあり、日本第一大霊験所根本熊野三所権現として崇敬の厚い社です。



古るくから那智熊野大社は、ご祭神「熊野夫須美大神(=伊邪那美=千手観音とされる)」の御神徳により「結宮」と称され、人の縁だけでなく諸々の願いを結ぶ宮として崇められます(出雲大社の様ですね!)。
熊野の自然と共に神々の恵み深い御利益のある神社です。

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(460段?の最後です。実際は青岸渡寺の後だったので帰りにパチリ。)
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(神仏習合の残り?線香をお供えしてますね。)
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(まだひつじ年です。笑)
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(ずらっと並ぶ神様の拝殿。)
参道の長い石段(467?段)の上は、右に青岸渡寺があり、左は朱の大鳥居と大社の境内が続いています(今回はバスツアーですので先に青岸渡寺にお詣りし、横切るように神社へお詣りです。)。
拝殿の奥には鈴門・瑞垣を挟んで本殿があり、向かって右から滝宮(第一殿)、証誠殿(第二殿)、中御前(第三殿)、西御前(第四殿)、若宮(第五殿)が並んでいる。正殿の第四殿が最も大きく、若宮の左手前には第六殿(八社殿)があります。

なお、現在は山の上に社殿があるものの、元来は那智滝に社殿があり滝の神を祀ったものだと思われます。

『那智の瀧』は自然を尊び延命息災を祈る人が多く、また八咫烏の縁起によりお導きの神として交通・海上の安全の守護を祈り、さらに御神木の梛の木は無事息災をあらわすものとして崇められています。
那智の滝は「一の滝」で、その上流の滝と合わせて那智四十八滝があり、熊野修験の修行地となっています。

熊野三山の他の2社(熊野本宮大社、熊野速玉大社)では、明治の神仏分離令により仏堂が廃されてしまいましたが、那智では観音堂が残され、やがて青岸渡寺として復興しました。

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(胎内くぐりも出来る大木です。全景が無いのはご容赦願います。)

御神木の「樟」平重盛のお手植えの木で、ただのご神木ではなく(樟霊社)という社にして祀っています。
平重盛の時代からですので、まさに800年以上の老樟(長寿や無病息災のご利益が在ります)。


那智山から下った那智浜には補陀落渡海の拠点となった補陀洛山寺があります。

参考迄に、内田康夫の推理小説「熊野古道殺人事件」を読みますと補陀落渡海をイメージ出来ると思いますけど(笑)

少し説明、「補陀落渡海」とは、補陀落を目指して船出するこです。
「補陀落」とはサンスクリット語の「ポタラカ」の音訳で、南方の彼方にある観音菩薩がお住まいに成る浄土のことをいいます。

日本においては南の海の果てに補陀落浄土はあるとされ、その南海の彼方の補陀落を目指して船出することを「補陀落渡海」といいました。

実際に船出した方がいるんです。
補陀洛山寺境内にある石碑に、それらの人々の名が刻まれています。
平安前期の貞観十年(868)の慶龍上人から江戸中期の亨保七年(1722)上人まで、
那智の浜からは25人の観音の信者が補陀落を目指して船出したと伝えられています。
 
補陀落渡海の多くは11月、北風が吹く日の夕刻に行われたそうです。
渡海僧は当日、本尊の千手観音の前で読経などの修法を行い、続いて隣の三所権現を拝し、それから船に乗りこんだといわれます。

渡海僧は、30日分の食料と灯火のための油を載せて、小さな屋形船に乗りこみます。
渡海僧が船の屋形のなかに入りこむと、出て来られないように扉には外から釘が打ちつけられたそうです。
渡海船は、白綱で繋がれた伴船とともに沖の綱切島あたりまで行くと、綱を切られ、あとは波間を漂い、風に流され、いずれ沈んでいったものと思われます。
渡海僧は、船が沈むまでの間、密閉された暗く狭い空間のなかでかすかな灯火を頼りに、ただひたすらお経を読み、死後、観音浄土に生まれ変わることを願い、そして、船は沈み、入水往生を遂げたのでしょう。

船のしつらえや渡海の方法などは時代により異なるのでしょうが、補陀落渡海とは、いわば生きながらの水葬であり、自らの心身を南海にて観音に捧げる捨身行だったのですね。(補陀落渡海の記述に付きましては、「み熊野ねっと」を引用させて頂きました。ありがとうございましたm(__)m)

信仰とは?なんでしょう?本来「神道は自然崇拝」「仏教は現世での解脱」だと思うのですが、皆さんいかがでしょう。

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(カラス文字で描かれている有名なお札、午玉宝印。 これは熊野那智大社のもので、71羽のカラスで那智滝宝と書かれてあるのです。読めますか?)


題名の「御神符が欲しい~」ですが、熊野那智大社のお札はカラス文字で書かれたもので大河ドラマでも出てきていました。

私は勉強不足で知らなかったのですが、先輩ブロガーのUPで教えていただきました。
古くから熊野の神々は信仰の対象だったのですね~!知っていれば、いただいていたんですけどね~(笑)
 
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2016/09/11

新企画~?西国三十三観音霊場第一番 『那智山・青岸渡寺 』

ブログを読むだけでご利益があるかも?(笑)

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さて始めますか~の新企画?
西国三十三観音霊場廻り!

以前に「貰って嬉しい御朱印の旅(そんな企画有ったかな?)」のところでもご紹介しましたが、此方が本番です。

勿論ご紹介致しますのは、西国三十三観音霊場の第一番札所『那智山・青岸渡寺 』です(日本一の落差を誇る那智の滝で有名ですね。)。



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(思わせぶりに、那知の滝に降りる階段からです~下から写してますけど、笑)
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(滝~!鳥居が見えますね、滝そのものがご神体「飛瀧神社」です。)
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(圧巻~!説明はいりませんね。)

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(青岸渡寺への階段、460段~汗!)


青岸渡寺は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある天台宗の寺院です。
西国三十三所第一番札所。
山号は那智山。
寺号は秀吉が大政所の菩提を弔うために建てた高野山の青巌寺に由来すると言われます。

本尊は如意輪観世音菩薩

本堂および宝篋印塔は国の重要文化財。
ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年7月登録)の一部と成っています。

歴史なんですが、熊野三山の信仰が都の皇族・貴族に広まったのは平安時代中期以降であり、青岸渡寺および隣接する熊野那智大社についても創建の時期等については判然としないそうです。
伝承では仁徳天皇の時代、天竺から渡来した裸形上人による開基とされ、同上人が那智滝の滝壺で得た金製の如意輪観音を本尊として安置したと伝えられます。
後に推古天皇の勅願寺となり、6世紀末 ~7世紀初に生仏聖が伽藍を建立し、丈六の本尊を安置して、その胎内に裸形上人感得の如意輪観音を納めたといわれます。
これらのお話しはあくまでも伝承ですが、那智滝を中心とする自然信仰の場として早くから開けていたと思われます(先達さんのお話では、初期仏教の聖地では女人禁制が常でしたが、ここ青岸渡寺は那智の滝信仰と重なることもあり、女性にも開放されていたために、多くの信仰を集めたようです)。

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(初デビューの長男二年前はかわいかった?後ろに三重の塔と滝が見える撮影スポットです。)


中世から近世にかけて、隣接する熊野那智大社(次回ご紹介いたします。)とともに神仏習合の修験道場であり、如意輪堂と称されたその堂舎は、那智執行に代表される社家や那智一山の造営・修造を担う本願などの拠点でした。

CIMG8775.jpg(本堂横から、世界遺産です。)

CIMG8776.jpg(ご神木?記憶が~)

CIMG8777.jpg(本堂、世界遺産の石碑が在りますね。)

CIMG8778.jpg(豊臣秀吉が寄進した鰐口「直径1.4メートル、重さ450キロ」が有名ですが写真は在りません、ごめんなさい。)

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(御本尊の如意輪観音菩薩は秘仏で見ることができません。そこでこんなですよ~のわかりやすい鋳造仏です。)


明治時代に神仏習合が廃されたとき、熊野三山の他の2つ、熊野本宮大社、熊野速玉大社では仏堂は全て廃されましたが、熊野那智大社では如意輪堂が破却を免れ、のちに信者の手で青岸渡寺として復興しました。

とにかく、バスに揺られること往復12時間(途中休憩3回)現地一時間ほどの強行軍!
御朱印のため?とはいえ、無理が有りましたね~次回が在ればゆっくり御参りしたいですね~(;´・ω・)

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2016/09/07

流石は御三家筆頭!『名古屋城』

今回の中部地方城巡りも本当に(笑)最後に成りました。
最後は『名古屋城』です。
今回も写真満載?お楽しみください!

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『名古屋城』は、尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区・北区)にある城跡(現存天守ではないので)です。
「名城」「金鯱城」「金城」の異名を持ち、日本100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されています。



名古屋城は、織田信長誕生の城とされる那古野城跡の周辺に、徳川家康が九男義直のために「天下普請(江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行わせた土木工事のこと。)」によって築城されました。

この時、各大名は関ヶ原で徳川方に味方した事を後悔したと思います(実質天下様の家康や将軍秀忠なら未だしも、いってみれば同格の筈の大名家なんですからね~(T^T))。

徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城として、明治まで利用されました。

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(追手門!さすが天下普請、でかい・大きい・分厚い石垣~!)

大阪城熊本城(熊本城と熊本の一日でも早い復興を願います。)とともに日本三名城に数えられているます(三名城の基準が難しいですね。)。
大天守に上げられた金の鯱は、城だけでなく名古屋の街の象徴にもなっています。

CIMG6664.jpg(早くも出ました~金鯱、よく光ってますね、尾張名古屋は城で持つとは、よく言ったものです。)

大小天守と櫓、門、御殿などの一部は昭和前期まで残存していましたが、名古屋大空襲によって大部分を焼失してしまいました。
戦後に天守などの外観が復元され、城跡は名城公園として整備されています(私が行ったときも、本丸御殿が再現公開されていました。)。

CIMG6672.jpg(再現されたばかりの本丸御殿の書院です。)
CIMG6673.jpg(まあ、とにかくきらびやかです。)
CIMG6674.jpg(私寅年、トラ好きですが~今年のトラは猫に成ってます。何の話~f(^_^;?)

歴史的には、戦国時代の前半に今川氏親が、尾張進出のために築いた柳ノ丸が名古屋城の起源とされます。
この城は、のちの名古屋城二之丸一帯にあったと考えられています。

1532年(天文元年)、織田信秀が今川氏豊から奪取し那古野城と改名しました。
信秀は一時期この城に居住し、彼の嫡男織田信長はこの城で生まれたといわれています。
のちに信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となリましたが、1555年(弘治元年)、信長が清須城(清洲城)に本拠を移したため、一時廃城にされました。

清須城は長く尾張の中心でしたが、関ヶ原の戦い以降の政治情勢や、水害に弱い清須の地形の問題などから、徳川家康1609年(慶長14年) に、九男義直の尾張の居城として、名古屋に城を築くことを決定、1610年(慶長15年)、西国諸大名の助役による「天下普請」で築城が開始されます。

普請奉行は滝川忠征、佐久間政実ら5名、作事奉行には大久保長安、小堀政一ら9名が任ぜられます。
縄張は普請奉行の一人である牧長勝、石垣は諸大名の分担によって築かれ、中でも最も高度な技術を要した天守台石垣は普請助役として加藤清正が築きました。
天守は作事奉行の小堀政一、大工頭には中井正清と伝えられ、1612年(慶長17年)までに大天守が完成しました。

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(加藤清正が普請した天守石垣かな?)
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(大きいですね~戦いに巻き込まれたことはありません?米軍に焼かれたのか?(;´・ω・))
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(特設階段から中に入れます。天守の中の記憶飛んでいます。涙)

名古屋城築城普請助役としては、加藤清正以外に、寺沢広高、細川忠興、毛利高政、生駒正俊、黒田長政、木下延俊、福島正則、池田輝政、鍋島勝茂、毛利秀就、加藤嘉明、浅野幸長、田中忠政、山内忠義、竹中重利、稲葉典通、蜂須賀至鎮、金森可重、前田利光の外様大名が石に刻印を打って石垣工事を負担し延べ558万人の工事役夫で僅か1年足らずで石垣を完成させています(この大名が関ヶ原で西軍についていたならと思いますけれどね~f(^_^;)。

清須からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施した1612年(慶長17年)頃から徳川義直が名古屋城に移った1616年(元和2年)の間に行われたと思われます。
この移住は清須越しと称され、家臣、町人はもとより、社寺3社110か寺、清須城小天守も移るという徹底的ぶりでした。



戦国末期の物語も興味深いですが、江戸末期~明治維新時代のお話も少しいたしましょう。

尾張徳川家第十四代当主徳川慶勝(十七第も務めています。)は美濃高須松平家の出身です。
美濃高須松平家は、江戸時代、美濃国石津郡高須(岐阜県海津市)付近を領有し、尾張徳川家御連枝である事から江戸中期以降は尾張徳川支家でした。
美濃高須家の祖は、御三家尾張徳川第二代、徳川光友二男松平義行で、高須家は小さいながらも神君家康の血が流れています。

高須家(三万石)の第十代当主松平義建には子が多く、息子達は、「高須四兄弟」を始めとして多くが幕末期に活躍しました。
義建の次男は尾張徳川家第十四代当主徳川慶勝(慶勝は十七第も努めて居り、名古屋城最期のお殿様です。)となり、三男は石見浜田松平家当主松平武成となり、五男は高須松平家第十一代当主松平義比となった後に尾張徳川家第十五代当主徳川茂徳、さらに後には御三卿一橋家当主一橋茂栄となっています。
七男が幕末に活躍した会津松平家当主松平容保京都守護職として徳川宗家を支え美濃高須松平家から養子に入った人物です。
九男桑名松平家当主松平定敬となり、十男義勇高須松平家第十三代当主となっています。

つまり義建の子息達「高須四兄弟(何で四兄弟だけ特別?)」は、次男尾張徳川家当主徳川慶勝五男一橋家当主一橋茂栄七男会津松平家当主松平容保(京都守護職)九男が桑名松平家当主松平定敬(京都所司代)と、それぞれ幕末から明治維新にかけてそれぞれ大きな役割を担い、歴史に名前を残しています。

家に入れば家を守る!時代の流れとはいえ、兄弟で分かれて戦わなければならないのは考えさせられます。

CIMG6675.jpg(最後に、「名古屋おもてなし武将隊」あんまり?全然傾いていない前田慶次さんです~!)


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