2016/05/30

八俣遠呂智が味わった末期の酒は『甕酒か壺酒か?』

前回に続いて出雲神話の旅なのですが、小さな議論の、お話しにお付き合いください。

須佐之男命に倒された、八俣遠呂智が飲んだ八塩折之酒が入れられたのは、「甕酒」なのか「壺酒」だったのかも考察してみませんか?
なぜ、このような話をするかと言いますと、存在するんです。 『壺!』

そもそも、甕と壺ってどう違うと思われますか?
違いを定義した人がいるんですよね~暇人ではありませんよ。

陶芸の世界では「壺」が一般的に使われます。
甕って大きくて、中々売れないので作らないのかも知れません。

備前焼の森陶岳先生は凄く大きな、五石甕を作られたりされてますけれど(笑)。

甕も壺も、どちらも胴が膨らんだ容器のことですが、「首の直径が、口か胴の3分の2以上のものが甕、以下を壺」という、人類学の先生が定義した有名な説があります。
これは古代の土器を分類するための基準です。

幾つもの山をもまたぐ 八俣遠呂智ですから間口の狭い壺では呑みにくかったのではないででしょうか?、やはり私は、甕をプッシュしたいと思います(笑)。

しかしながら、今回紹介致しますのは「オロチの壺」が埋められているとの伝承が残る『八口神社』です。

【八口神社】
木次町大字西日登1524-1


八口神社1
(熊注意の看板が目印です。汗)
八口神社2(八口神社ご由緒)
八口神社の「御祭神」は勿論、須佐之男命 櫛名田姫命
八口神社4
(神社も可愛いいですね)

以下は境内の案内より抜粋したものです。
「八口神社」の境内にある「印瀬の壺神」
【壷神由緒】

「祭礼」旧暦六月三十日

「壷」口経四寸五分・腹経六寸五分・深さ五寸
八口神社3

神代の昔、須佐之男命が八岐の大蛇を退治なされる時、脚名槌、手名槌の夫婦に「汝等は八塩折の酒を醸り、垣を造り廻らしその垣に八門を作り、門毎に八桟敷を結い、その桟敷毎に酒船を置きて船毎にその八塩折の酒を盛りて待ちてよ」と仰せられた -古事記より-
その時の酒壷の一つを祀ったものである。昔土民がこの壷に触れたところ、俄に天はかきくもり山は鳴動して止まず、八本の幣と八品の供物を献じて神に祈ったところようやく鎮まったという。村人たちは人の手に触れることを恐れ多くの石で壷をおおい玉垣で囲み、注連縄をめぐらし昔のままの姿で昔のままの場所に安置することにつとめ現在にいたっているものである。
毎年旧六月晦日の夕刻には氏子全員がにぎやかに参拝し、昔ながらの八本の幣と供物を献じて壷神祭を続けている。昔から「印瀬の壷神さん」として広く知られている。

八口神社5(この下に神話の壺が埋まっています。インディージョーンズになった気分です。)


一寸は約3センチ、失礼を承知で「ちっちゃ!」八俣遠呂智に飲ませるのですよね、高志の国から八つの山を越えて、娘をさらいに来た大蛇族が、神話に変化したのかもしれないと思えますね(笑)。

氏子さんは七戸、これからも伝説を守っていってほしいと願うばかりです。
八俣遠呂智って本当は何なのでしょう?謎は尽きないですね、島根県雲南の土地は何が出ても不思議はない雰囲気でした。

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2016/05/28

八俣遠呂智に飲ませた酒は『樽か壺か?』「須佐之男命」の行動を追いかけて!

山陰出雲神話の旅です。今回はある意味下らない論争?です。

歴史ブログと吟っているのに、近頃歴史のことUPしてないですねm(__)m

『古事記記載のオロチの物語から』

高天原を追放された(宇気比「誓約」で勝ちを宣言して慢心したのが原因です。)須佐之男命は、出雲国の肥河(島根県斐伊川)の上流の鳥髪(奥出雲町鳥上!船通山紹介しました。)に降り立ちました。

箸が流れてきた川を上ると、美しい娘を間に老夫婦が泣いています。その夫婦は大山津見神の子足名椎命手名椎命であり、娘は櫛名田比売(くしなだひめ)といいました。

夫婦の娘は8人いたが、年に一度、高志(高志については越等の論争が有ります。)から八俣遠呂智という8つの頭と8本の尾を持った巨大な怪物がやって来て娘を食べてしまうのです。
今年も八俣遠呂智の来る時期が近付いたため、最後に残った末娘の櫛名田比売も食べられてしまうと泣いています。

須佐之男命は、櫛名田比売との結婚を条件に、八俣遠呂智退治を請け負います。
まず、須佐之男命は櫛名田比売を櫛に変えて、自分の髪に挿して隠します。

そして、足名椎命と手名椎命に、7回絞った強い酒(八塩折之酒)を醸し、8つの門を作り、それぞれに酒を満たした『酒桶』を置くように指示します。
準備をして待っていると八俣遠呂智がやって来て、8つの頭をそれぞれの酒桶に突っ込んで酒を飲み出します。八俣遠呂智が酔って寝てしまうと、須佐之男命は十拳剣で切り刻んでしまいました。

このとき,尾を切ると剣の刃が欠け,尾の中から大刀が出てきた。そしてこの大刀を天照御大神に献上します。これが「草那芸之大刀(くさなぎのたち)またの名を天叢雲剣、三種の神器の一つ」です。

さて、本題です。古事記には『酒桶』と書かれていますね、子供の頃の、絵本では酒甕だったと思うとですが?

それでは桶を作る技術がいつ頃出来たのか?あの綺麗な湾曲を削る鉋の製造技術が神話の時代に有ったとは考えがたいですよね~。
土器を作る技術は有ったのですからそちらの方が早いのではではないかと考えるのですが!

そもそも鉄鉋が有ったのかも疑わしいいですし、黒曜石で木を削ったとも考えられ難いです。タタラ製鉄遺跡は有りますが、時代考証は?です。

そこで、私は「甕に容れたと決定」します。

長々とどちらでも良い論争にお付き合いくださった皆さんには、須佐之男命が作るように指示した八塩折之酒を醸造した場所との伝承がある『釜石』と、酒を造った時の神座の前に建てられた『布須神社』を紹介します。

『布須神社』は由緒記によると御室山そのものをお祀りしているようです、神殿はありません。
山そのものを御神体とする社殿形式は“神奈備式(かんなびしき)”と呼ばれるそうです。



島根県雲南市木次町宇谷367
御祭神は勿論 須佐之男命 稻田姫命

布須神社1(由緒記)

建久2年9月(1191年)の文字が刻まれていますね、鎌倉~!(笑)
御室山の裏側には「寺床」とよばれる場所があり平安時代の初期から鎌倉時代(800から1300年ごろ)にはここに「四十二坊」があって山岳佛教、山岳信仰の拠点となっていたようです。

布須神社2
(未舗装の狭い山道で高級な普通乗用車は避けたほうが賢明です。)
布須神社3
(御室山の斜面にあり階段急です。)
布須神社4(拝殿のみで御室山を拝みます。)

神社の麓には『釜石』といわれる神石があります。須佐之男命がここで酒を造られたものという言い伝えがあるそうです。
現在は道路で隔たれていますが、以前は布須神社の参道脇だったようです。

釜石2(道路からすぐだと思って、エンジンも掛けたままだったのですが、ほどほど距離があってあせりました。汗!)
釜石1(ここで造りましたか?どんなお酒だったのでしょう?)

さて八塩折之酒ですが、米で作った日本酒の可能性は低いのではないでしょうか、山ブドウや木の実で造った発酵酒の可能性が高いと思います。

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2016/05/26

出雲風土記の御柱『三瓶山登山記』!

三瓶山(さんべさん )は、島根県のほぼ中央部の大田市・飯南町にまたがりそびえる大山火山帯に属する火山です。



2003年(平成15年)の活火山の定義見直しで活火山に指定されました。
火山噴火予知連絡会の火山活動度による活火山の分類ではランクCに位置づけられています。
知らなかったのですが、以前の様な活火山、休火山、死火山といわれていたランク(くくり)は無くなってしまったんですね。

三瓶山は主峰・男三瓶山(1126m)をはじめ、女三瓶山(957m)、子三瓶山(961m)、孫三瓶山(907m)、太平山(854m)、日影山(718m)の6つの峰が室の内と呼ばれる火口を囲んで環状に配列しています。

太平山以外の4つの峰は、いわゆる外輪山ではなく、デイサイトからなる溶岩円頂丘(円頂丘溶岩)です。
太平山は、爆発的噴火によって吹き飛ばされた土砂と火山砕屑物が積もって出来た山です。
それらの山々に囲まれた中央に「室の内」と呼ばれる直径5kmのカルデラがあります。
資料によっては室の内を爆裂火口として扱っているものもあります。

室の内には室の内池と呼ばれる火口湖があります。
室の内池は水深1.4m足らずの浅い池で流入する河川もなく、貧栄養池です。

火口はこのほか奥の湯火口があり、ここに三瓶温泉の泉源があります。
西の原の西側に浮布池、北の原には姫逃池があります。
浮布池は三瓶山の噴火でできた堰止湖です。

大山隠岐国立公園の一部に指定されており、男三瓶山北麓から室の内にかけて広がる自然林は、「三瓶山自然林」として国の天然記念物に指定されています。
この自然林は、標高800m以上にはブナ林、それ以下にはコナラやミズナラなどの高木が茂 ます。

石見国と出雲国の国境に位置する三瓶山は、『出雲国風土記』が伝える「国引き神話」に登場します。
国引き神話では、三瓶山は鳥取県の大山とともに国を引き寄せた綱をつなぎ止めた杭とされていますね。
『出雲国風土記』では、三瓶山は「佐比売山(さひめやま)」の名で記されています。
「佐比売」の名は、1954年(昭和29年)に大田市に合併するまでの地名「佐比売村」として残っていましたが、現在は名前が無くなってさみいし限りです。

さて今回の歴史登山は、もちろん一番高い男三瓶山(1126m)です。

三瓶山1(北側登山口)三瓶山4
(雲に隠れていますが大山です。)
三瓶山3
(はい!もう山頂、ここに杭を立てて島根半島を引っ張る壮大な物語です。)
三瓶山2
(ススキが本当にきれいです。)三瓶山5(室の内のカルデラと左は女三瓶です。)
三瓶山7
三瓶山8
三瓶山9
(この三枚は北の原の姫逃池です。綺麗ですね~真ん中は浮き島になっています。)

登山道は何本か有るのですが、時間の関係で登は姫逃池(ひめのがいけ)ルート
三瓶自然館サヒメル駐車場から男三瓶山山頂までの最短ルート(山頂まで約90分)降りは、名号(みょうごう)ルート、国指定天然記念物の三瓶山自然林内を進み、男三瓶山山頂へ至るルート(山頂まで約120分、降りでしたが少しなだらかです。)でゆっくり森林浴を楽しみました。

早めに降りて、国立三瓶青少年交流の家で地元物産イベントを楽しんだのでした。

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2016/05/24

謎の鳥はなんだ???

本当に狭い地域のお話しなのですが、私が通勤している途中の大阪府茨木市や箕面市を通る国道171号線沿いの、業務スーパー TAKENOKO箕面店(大阪府箕面市 今宮3丁目5-22)の前に汚い?m(__)m池(沼)が有るんです。



元々は灌漑用の池だったのか?それとも何かの養殖池だったのか?疑問ですが、三年ほど前から、その池の元通路用?の杭の残骸の上に春先になると、大きな鳥が巣を作るようになったのです。
そして子供を育てて巣立っていくのです。

なんにでも興味をそそられる私、気になってしょうがないのですが、国道171といえば交通量の多い片側二車線の四車線道路、とてもではないが、止まって眺めることもできず、ただただ横目でチラ見しながら、「卵だいてるな~」とか、「オット幼鳥が見えた~♪」、とか思っているうちに毎回巣立ってしまい、よく確かめられずにいました。

今年ちょうどゴールデンウイークに会社出勤となったので、道路ガラガラを良いことに、ハザードランプを着けて停車して写真に撮ってみたんです。

後は、鳥類辞典とにらめっこして発見しました~♪「青さぎ」でした。

アオサギ1
(大きいですよね♪)
アオサギ4(こんな所で繁殖しています。)
アオサギ5(巣が7個、コロニーは10数羽位ですか?)
アオサギ2(何処も青く無いですけどね、むしろ灰色!)
アオサギ3(可愛らしいんですけどね♪)

河川、湖、池沼、湿原、干潟、水田などに生息する。非繁殖期には単独で生活するが、小さな群を作ることもあります。

食性は動物食で、魚類、両生類、鳥類の雛、小型哺乳類、甲殻類、昆虫などを食べます。水辺で待ち伏せたり、水辺や浅瀬を徘徊しながら獲物を探すことも、獲物を発見すると、素早く頸部を伸ばし捕食します。水深の深い場所では、体を水に浮かべて泳いでいることがあるそうです。

優雅な姿をしていますが、意外にも攻撃的で神経質な鳥で、餌場では羽毛や飾り羽を逆立てて他の鳥を威嚇して追い出すことがよくあります。特に獲物が共通するダイサギなどのサギ類には容赦なく攻撃をしかけて執拗に追い立てるつわものでした。 また、獲物に対する執着も強く、他の鳥から獲物(主に魚類)を奪って捕食することが見られるのだとか。ミサゴなどの猛禽類や、時にはツルやコウノトリなどの自分よりもはるかに強大な相手でも付け回して隙があれば横取りするそうです。

繁殖形態は卵生で。同科他種を含めた集団繁殖地(コロニー)を形成します。雄が巣材を集め、雌が樹上に木の枝を組み合わせた皿状の巣を作り、日本では4-5月に1回に3-5個の卵を産みます。巣は同じ巣を使いつづける(確かにそうですね)。雌雄交代で抱卵し、抱卵期間は23-28日。育雛は雌雄共同で行います。雛は孵化してから50-55日で巣立ちます。生後2年で性成熟するそうです。

もう少しは居そうですが、子供が巣立つと見えなく成ります、来年も来てくれますでしょうか?

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2016/05/21

山陰ジオパーク!円山川エリア『玄武洞』

兵庫県の但馬地方、JR豊岡駅JR城崎温泉駅(駅名が変わり温泉が付きました)の間に『玄武洞』という無人駅が有ります。

駅前の国道312号線の向こうは一級河川、円山川です。
その円山川を渡し舟(今は無いのかな)で渡ると山肌に素晴らしい景観が見えるのです。
その景観こそまさに『玄武洞』です。



古生代の溶岩の塊が自然に冷えてな固まり、結晶の様にひび割れた石柱として見事な洞を形成しているのです。

これら六角形の岩石を玄武岩と呼ぶのですが、玄武岩の洞だから玄武洞ではなくて、玄武洞と同じ岩石を玄武岩と呼ぶと知っていました?

ところで皆さん、山陰海岸線が2010年『世界ジオパーク』に認定されたことは、ご存知ですか?

山陰海岸ジオパークは、京都府(京丹後市)、兵庫県(豊岡市・香美町・新温泉町)、鳥取県(岩美町・鳥取市)にまたがる広大なエリアを有しており、山陰海岸国立公園を中心に、京丹後市の東端から鳥取市の西端まで、東西約120km、面積は2458.44㎢で、東京都よりひとまわりも大きい広さになります。

日本海形成から現在に至る様々な地形や地質が存在し、それらを背景とした生き物や人々の暮らし、文化・歴史に触れることができる地域です。

山陰海岸ジオパークの最大の特徴は、約2,500万年前にさかのぼる日本海形成に関わる火成岩類や地層、日本海の海面変動や地殻変動によって形成されたリアス式の香住海岸や鳥取砂丘をとする多彩な海岸地形をはじめ、城崎や湯村等の温泉、 近畿では数少ない火山の神鍋山に玄武洞、貴重な地形・地質遺産を数多く観察できることです。

この玄武洞も神鍋山と一緒に円山川エリアとしてジオパークの一部と成っています。

それでは、玄武洞の素晴らしい景観をご紹介しましょう。

玄武洞1(四神獣の名前がそれぞれついています。)
玄武洞2(玄武洞です。地震や自然崩落しているそうです。以前は更に美しかったようです。)img3930210713949[1](大正期の絵葉書と比べてください)
玄武洞3(拡大すると自然の造形美がいかに凄いかわかりますね。)
玄武洞4(青龍)(青龍洞!いかにもと思われませんか?)
玄武洞5(白虎)
(白虎の筋肉を思わせるようです。)
玄武洞6(南朱雀)(朱雀のしなやかな羽を思わせます。)
玄武洞7(北朱雀)(一番イメージが湧きやすい?羽を広げた朱雀に見えませんか?)

こんなにも素晴らしい山陰但馬のジオパーク!是非、松葉蟹と?城崎温泉と?海水浴といっしょにきんせえ~(笑)

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2016/05/20

誓約の神器を濯ぎし『天の真名井』

山に登て歴史を楽しんだ後は古代に戻って、『古事記』出雲神話の旅を続けましょう。

黄泉の国から帰った伊邪那岐命『建速須佐之男命』海原を治めるように委任しますが、須佐之男は伊邪那美命がいる根の国(黄泉の国)へ行きたいと泣き叫び、天地に甚大な被害が現れます。

伊邪那岐は怒って「それならばこの国に住んではいけない」と彼を追放します。

高天原追放命令を受けた須佐之男は高天原を出る前に、姉の天照大神に御挨拶を兼ねて弁解に行くのですが、山川が響動し国土が皆震動したので、天照大神は高天原を襲いに来たのではないかと男装に変わり弓に矢をつがえて待ち受けます。

須佐之男は天照大神の疑いを解くために、宇気比(誓約)をしようといいます。
天の安河をはさんで、二神は誓約を行うのですが、古事記と日本書紀では勝者が違ったりして不思議な事に成っています。

まず、天照大神が須佐之男の持っている「十拳剣」を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から三柱の女神(宗像三女神)が生まれました。この女神は宗像大社に祀られています。

次に、須佐之男が、天照大神の「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から五柱の男神が生まれます。

これにより『 建速須佐之男命 』は「我が心清く明し。故れ、我が生める子は、手弱女を得つ。」と勝手?に勝利を宣言してしまいます。

そもそも『古事記』では勝ちの定義説明がなく、 神々を産む行為もお互いのもを交換して行うので、ややこしいですよね?

まあこのいい加減な所が日本的と言えなくも無いのですが!

この十拳剣と八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠を濯ぎしたのが『天の真名井』です。

全国に真名井なる水源は数多く有ります。しかしながら、神話が出雲地方に有るのならば、真名井も出雲地方近くに有るのではないでしょうか?ということで、紹介します。



場所は鳥取県米子市淀江町高井谷に湧出する地下水です。
環境庁に指定された名水百選のひとつで、山陰を代表する名水です。
日量2500トンの湧水を誇り、蕩々と湧くクリアな水は、生活用水、農業用水、ニジマス養殖など地元民の生活に欠かせないものとなっています。
平成2年には周辺整備がなされ、カヤ葺きの水車小屋、あずまや、遊歩道、駐車場が整備されています。
景勝もすばらしく、清流と緑豊かな景色、どこか懐かしい風情は訪れる人々に潤いとやすらぎを与えています。

天の真名井1
(整備された水車小屋!風情がありますね。)
天の真名井2
(童謡、、五一じいさん、知らなかった)
天の真名井3
(ニジマス大きいですね。)
天の真名井4
(駐車場の所に御食事処がありました。)
天の真名井5
(神話の真相は?)
天の真名井6
(とてもおいしい水でした。有難い気がしますね。)
天の真名井7
(下流ではバイカモの群生が見られて、可憐な白い花が水中に見られます。)

さて最後に誓約物語の本論ですが、天照大神の珠より長男、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命 (アメノオシホミミノミコト「マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ」) が誕生して( 正勝吾勝勝速でどう考えても天照の勝ちと思いますが、笑 )、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命 (天孫降臨のニニギノミコト)に繋がり其処から統一国家としての倭国が生まれるというところかもしれません。

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2016/05/18

祝国宝認定!『松江城』

ちょっと話題としては遅く成ってしまいましたが!

2015年(平成27年)5月15日、文化審議会が松江城天守の国宝指定について文部科学大臣に答申
同年7月8日の官報告示をもって松江城が国宝に認定されました~!



「おめでとうございます」
松江城はとてもきれいな城なので私も大好きで、何度も行っています。

松江城1
(明治時代の洋館 、 松江郷土館「興雲閣」)
松江城5
(松平家初代藩主松平直政を祀る松江神社)
松江城2
(あいにくの雨)
松江城3
(祝国宝認定)

米子市に単身赴任していた時に、松江出身の友達が「松江城は江戸初期の現存天守を持つ素晴らしいお城なのになぜ国宝に指定されないのだろう?」(当時まだ国宝指定されていませんでした。)というので「そうだね、でも姫路城に行ってみたらわかると思うよ!」と兵庫県出身の私は言ったのですが、当人が実際に姫路城に行って「わかったわ!確かに違う、しょうがないな~」と行ったときには笑ってしまいましたが、今回国宝に指定されて本当に良かったですね。

これで国宝のお城が5つになり、そのうち『松本城』以外の『姫路城』『犬山城』『彦根城』『松江城』に行ったことになりました。
松本城は今年の諏訪御柱祭りに一緒に行こうと計画していましたが、残念ながら果たせず7年後(数え年)に持ち越しかもしれません。

ついでというわけではありませんが、訪れたその他の国宝もどうぞ!

姫路城(姫路城「白鷺城」白過ぎ城と子供達が、汗)
彦根城
(彦根城桜が綺麗だったけど、天守まわりはだめですね)
犬山城
(小さいけど風格が素晴らしい犬山城)

さて松江城ですが、堀尾吉晴が、慶長5年(1600)の関ケ原の合戦の功績により、遠州浜松から出雲・隠岐24万石の大名として島根県広瀬の月山富田城に入城します。

しかし、月山富田城は周囲を山々に囲まれた中世以来の山城で、大砲などを使う近代戦に不利であったこと、また家臣を住まわせる広大な城下町を形成するには土地も狭く、交通も不便でした。そのため宍道湖のほとりの標高28mの亀田山に築城を計画。
慶長12年(1607)に着工。5年間にわたる難工事の末、慶長16年(1611)に完成しました。
城郭の広さは東西360m、南北560mもあり、周囲に幅20~30mの内堀をめぐらしました。

松江城4
(内堀から天守を望む)

その堀尾氏に替わって寛永11年(1634)若狭小浜から京極忠高が松江城主となり、斐伊川などの治水に努めましたが、寛永15年(1638)病死したため松江京極氏は1代で終わりました。

同年、徳川家康の孫にあたる松平直政(結城秀康の三男)が信濃松本より18万6千石で入城。以後、松江城は松平氏10代の居城として明治維新を迎えます。
松平氏の中でも七代藩主治郷(はるさと)は政治手腕だけでなく、茶の道にも通じ、不昧(ふまい)と号して茶道石州流不昧派の元祖となり、現在でもなお松江の人々に不昧公の名で親しまれています
不昧公の影響か、城には椿の花が多いです。茶花としては最適ですからね~(⌒‐⌒)

城は、松江市街の北部に位置し、南に流れる京橋川を外堀とする輪郭連郭複合式平山城です。
宍道湖北側湖畔の亀田山に築かれ、日本三大湖城の一つでもあります。
なお、城の周りを囲む堀川は宍道湖とつながっており汽水域になっています(城の周りをこたつ船で廻るツアーもあります)。

松江城6(二の丸ではおみこしの練習!夏祭りの前でした)

構造は、本丸を中心に据え、東に中郭、北に北出丸、西に後郭、東から南にかけ外郭、西から南にかけ二の丸が囲む。二の丸の南には一段低く三の丸が配されています(三の丸は現在県庁?)。

天守は外観4重内部5階地下の穴倉1階、天守の南に地下1階を持つ平屋の付櫓を付ける。外観は重箱造の二重櫓の上に3階建ての櫓を載せたようなもので3重目の南北面に入母屋屋根の出窓がついています。

意匠は下見板張りで桃山文化様式、1・2階平面は東西12間に南北10間あり、高さは、本丸地上より約30m(天守台上よりは22.4m)ある。窓は突上窓と火灯窓あり、2階に1階屋根を貫くかたちで開口した石落しが8箇所あることを特徴としています。
地下の井戸は城郭建築では唯一の現存例です(井戸の写真を撮ってなかったですが、大きいです。)。
最上階は内部に取り込まれた廻縁高欄があり、雨戸を取り付けて有ります。
鯱は、木製の銅板張で現存天守の中では最大の高さ約2mにもなります。
また、石垣は「牛蒡積み」といわれる崩壊しない城石垣特有の技術が使われている事も特徴的です。

【人柱伝説】

夏には少し早いけど、ちょっと恐ろしいお話があります。
天守台の石垣を築くことができず、何度も崩れ落ちるほどの難工事、人柱がなければ工事は完成しないと、工夫らの間から愚痴が出てしまいます。
そこで、盆踊りを開催し、その中で最も美しく、もっとも踊りの上手な少女が生け贄にされたそうです。
娘は踊りの最中にさらわれ、事情もわからず埋め殺されたといいます。
石垣は見事にでき上がり城も無事落成したが、城主の父子(京極氏の事かな?)が急死し改易となってしまいます。
人々は娘の無念のたたりであると恐れたため、天守は荒れて放置されたそうです。
その後、松平氏の入城まで天守からはすすり泣きが聞こえたという城の伝説が残っています。
また、城が揺れるとの言い伝えで城下では盆踊りをしなかったとも言われているそうです。(「小泉八雲/人柱にされた娘」など)。

もう一つ、天守台下の北東部石垣が何度も崩落するため困っていたところ、堀尾吉晴の旧友という虚無僧が現れて、崩落部分を掘らせたところ槍の刺さった髑髏が出てきたので虚無僧が祈祷したが、まだ危ういところがあるというと虚無僧は「祈祷では無理だ。」といいます。
どうすればいいのかたずねると、「私の息子を仕官させてくるのであれば、私が人柱になろう。」というので、虚無僧に人柱になってもらい工事を再開させることができたが、堀尾家は普請の途中に2代忠晴で絶え改易となった、というお話も、更に、これには別に、虚無僧の尺八が聞こえてきたので捕まえて人柱にしたところ、尺八の音が聞こえるようになった、というものもあります(姫路城のお菊井戸も時代が全然違っていますけど、古い建物には有りがちなお話ですね~、汗)。

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2016/05/17

「船上山勝利の立役者名和長年」を祀る『名和神社』

『名和神社』は、鳥取県西伯郡大山町(旧名和町)にある神社で、「名和長年」を祭ります。

名和長年は鎌倉時代末に隠岐国から脱出した後醍醐天皇を迎えて倒幕に功があり、最後迄後醍醐天皇の御側で戦った武将です。



旧社格は別格官幣社。

建武中興十五社の一社です。
社紋は、名和氏の家紋の帆懸船です。

名和長年を主祭神とし、名和一族以下42名を合祀します。

1331年(元弘元年)の元弘の乱で鎌倉幕府の討幕計画が露見し捕縛されて隠岐島に流罪となっていた後醍醐天皇が、1333年(元弘3年、正慶2年)閏2月、名和長年を頼って隠岐島を脱出し、伯耆国の船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発しました(船上山の戦い)。

幕府は船上山を討つため足利高氏名越高家らの援兵を送り込みます。しかし、4月27日には名越高家が赤松円心に討たれ、足利高氏(尊氏)は所領のあった丹波国篠村八幡宮で幕府へ反旗を翻します。
5月7日、足利高氏は佐々木道誉や赤松則村らと呼応して六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧しました。北条仲時、北条時益ら六波羅探題の一族郎党は東国へ逃れようとするが、5月9日、近江国の番場蓮華寺で自刃し、光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇は捕らえられることになります。

これに勝利した名和長年は後醍醐天皇により伯耆守に任じられます。また、後醍醐天皇の帰洛の際の護衛も務めています。
船上山に天皇を迎えて討幕活動に参画するまでのくだりは『太平記』『梅松論』に詳細に記載されている。

幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された『建武の新政』において、河内国の豪族、楠木正成らとともに天皇近侍の武士となり、記録所や武者所、恩賞方や雑訴決断所などの役人を務め、帆掛け船の家紋を与えられました。

また、京都の左京の市司である東市正にも任じられました。これは名和氏の商業者的性格を重んじての人事と考えられています。この役職は代々中原氏が世襲してきたが、後醍醐天皇は強引にこのポストに長年を組み込みます。
自分の手足となって動いてくれる長年をこの役職に就任させることで、京都の商業・工業を直接掌握しようとしたと考えられます。

建武2年(1335年)に西園寺公宗が北条氏の残党と組んで新政を転覆しようとした謀略が発覚して逮捕されると、公宗を出雲国へ流刑する途中に謀って処刑しています。
また、討幕運動において京都の六波羅探題を滅ぼした足利尊氏と対立し、後醍醐天皇とも確執があった護良親王を結城親光とともに捕縛するなど、後醍醐天皇の先兵として活躍しています。

名和神社1(綺麗な神社です)
名和神社2(駐車場もしっかりあります)
名和神社3(参道、朝早くて?人影なし)
名和神社4(門の向こうにブルーシイト?)
名和神社5(拝殿の屋根の修理中でした。社務所にも誰もおられません)

足利尊氏が中先代の乱の討伐を契機に建武政権から離脱すると、楠正成、新田義貞らと共に宮方として足利尊氏と戦いますが、延元元年(建武3年、1336年)の湊川の戦いの後に京都に入った足利尊氏に敗れ討死しました。
討死にした場所については、『太平記』には京都大宮、『梅松論』には三条猪熊とされています。

後醍醐天皇の京都脱出以後奈良吉野へ移られたことを以て「南北朝時代」が始まります。

長年の死を以って、後醍醐天皇の恩寵を受け栄達した「三木一草」( 三木一草は、後醍醐天皇の建武政権下で寵遇を受けた4人の寵臣の呼称。楠木正成、結城親光、名和長年、千種忠顕をあわせて呼ぶ。 名称の由来は、楠木は「クスノキ」、結城は「ユウキ」、名和は伯耆守であったことから「ホウキ」、千種は「チグサ」と4人の姓や官職名に因みます。 )は悉く果てました。

『歯長寺縁起』は長年の戦死を「南朝の盛運が傾く凶兆である」と記しており、その通り廷臣を相次いで喪った南朝は劣勢に追いやられてゆくことになります。

名和氏1(神社の近くに名和一族の墓所がありました)
名和氏「2
(左から長年、義高、高光ですか?)

今回の伯耆国の旅は終わりです。時代的には、楠正成の「神戸湊川神社」をまたの機会にご紹介します。

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2016/05/15

後醍醐天皇反撃の狼煙を上げる『船上山登山記』 ②

船上山に登った後は歴史遺構の見物にお連れしましょう。

【船上山の戦い】

この船上山で、1333年(元弘3年、正慶2年)、後醍醐天皇を奉じた伯耆国の武将である名和長年と、鎌倉幕府軍との間で戦いが起こります。
元弘の乱における一連の戦いです。

船上山7(頂上から地図上側、南方向に30分ほどで智積寺の遺構が点在しています)


後醍醐天皇を逃してしまった失態を犯した隠岐守護の佐々木清高は、後醍醐天皇を奪還するために手勢を率いて船上山に攻め寄せます。
伯耆国の小鴨氏や糟屋氏らも佐々木清高に応じて手勢を率いて参陣しました。

船上山に籠もる名和長年は木に四、五百もの旗を括りつけ自軍を大軍であるかのように見せかけ時折矢を放っては幕府軍を牽制する作戦を採ります。

同年閏2月29日より幕府軍は攻勢を仕掛けたが、指揮官の一人である佐々木昌綱は右目に矢があたり戦死。さらに搦手側の佐々木定宗らが降伏。

その報を知らず佐々木清高率いる本軍は船上山を攻め上がるも、夕刻の暴風雨に乗じた名和軍の襲撃に混乱し多数の兵が船上山の断崖絶壁(凄いとしか言い様の無い断崖!)から落ちるなどの被害が出て、佐々木清高は命からがら小波城へと逃げ帰っり、後醍醐天皇側の勝利が確定します。

船上山F
(52の寺坊!現在は遺構のみ。平地、石積、五輪塔などです。)
船上山A
(船上神社の石積が歴史を感じます)
船上山B
(船上神社)
船上山C
(後醍醐天皇もお触れになったかも?鳥取県天然記念物の杉)
船上山D
(何かあるようですが)
船上山I
(石に歴史有)
船上山E
(船上神社奥の宮!建物として残るのはこれだけです。)
船上山H
(色々な場所を訪れて思うのですが、戦禍による焼失が残念でなりませんね。)
船上山G
(ただの平地が残るだけです。残念)
この船上山勝利の結果を受けて、後醍醐天皇の復権が達成され、足利高氏(尊氏)新田義貞などの幕府勢力が離脱するきっかけとなり、鎌倉幕府滅亡の大きな転換点となって行きます。

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2016/05/14

後醍醐天皇反撃の狼煙を上げる『船上山登山記』①

『船上山』は、現在の鳥取県東伯郡琴浦町に位置する山です。

元弘の乱の、後醍醐天皇の足跡をたどるために、この天然の要害に登山してきました。



この登山記録を登山としてUPするべきなのか?歴史部門なのか迷いました。
写真も多いので二つに分けることで、楽しんで頂きます。

この船上山で、1333年(元弘3年、正慶2年)、後醍醐天皇を奉じた伯耆国の武将である名和長年と、鎌倉幕府軍との間で戦いが起こります。
元弘の乱における一連の戦いの1つです。

元弘2年/正慶元年(1332年)、鎌倉幕府転覆計画を企てた後醍醐天皇が捕らえられ隠岐に流されると(元弘の変)、隠岐守護をしていた佐々木清高は黒木御所に天皇一行を幽閉します。

当時は西日本を中心に後醍醐天皇の皇子である護良親王を奉じた楠木正成を筆頭に悪党と呼ばれる武士達が反幕府活動を続けていました(赤坂・千早城の戦いなど)。

佐々木清高も有志による後醍醐天皇奪還を警戒し、御所を厳しく監視していました。
しかし、同年閏2月24日(暦1333年4月19日)に突如として後醍醐天皇は隠岐を脱出し出雲を目指すも、風により東に流され隣国の伯耆国の名和の港に漂着します。

伯耆国名和(鳥取県西伯郡大山町名和)にて海運業を営んでいたとされる名和氏は後醍醐天皇を奉じて同年閏2月28日(西暦1333年4月23日)船上山にて挙兵しました。
また、大山寺の別当であった名和長年の弟の信濃坊源盛も僧兵を引き連れて船上山へと向かいます。
後醍醐天皇は船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発します。

それでは、時代背景を踏まえて、天然の要害登山を楽しみましょう。

船上山1
(綺麗ですけど城どころでは無い堅固さです)
船上山2
(まさに天然の要害!左側屏風岩は50Mはありそうです)
船上山3
(とりあえず東側登山道から登ってみましょう)
船上山4
(尾根で弓に狙われたらたまりませんね)
船上山5
(倒木さえもが芸術的です)
船上山6
(湧き上がる雲が綺麗です。戦乱時代ではなくてよかった。笑)
船上山7(船上山としては頂上ですが、歴史遺構はこの奥になります)
船上山8
(東登山道を登ってきました)


船上山は新緑、桜も綺麗ですし、紅葉も素晴らしいそうです。
歴史と登山を一緒に楽しんでみませんか?


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