FC2ブログ
2016/04/28

生物学的に有るわけ無いよ「因幡の白兎」

古事記の『素兎』(古事記の記載は白兎ではなくて素兎)は白兎だったのか?

其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいね(人´ω`*).☆.。
ブログランキングならblogram
👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。

CROOZ


一般的に目にする白兎はアルビノ兎です。

アルビノとは、先天的なメラニンの欠乏により体毛や皮膚は白く、瞳孔は毛細血管の透過により赤色を呈します。
劣性遺伝や突然変異によって発現しているのです。
広く動物全般(もちろん人も)に見られ、シロウサギやシロヘビが有名です。

ほとんどの場合、視覚的な障害を伴い、日光(特に紫外線)による皮膚の損傷や皮膚がんのリスクが非常に高くなります。

また外部から発見されやすく自然界での生存は極めてまれです。
そのため、しばしば神聖なものやあるいは逆に凶兆とされ、信仰の対象として畏れられました。

また、観賞用としても人気があります。なおアルビノは、正常な遺伝情報により白化した白変種とは異なります。
つまりは、白ではなくて無色なのです(あの愛らしい赤い目も、血液中のヘモグロビン色素の為です。)。

昔は齧歯目に分類されていたウサギが、「ウサギ目」として独立した理由は、齧歯目の上顎の門歯が2本しかないのに対し、ウサギの上顎の門歯は表の2本の裏に小型のくさび状の門歯が重なって生えている(つまり門歯が4本ある)ことが大きいのです。

ウサギの絵を描くとき、かならず二本の可愛らしい上前歯を描きますよね、実は重なっているから4本なんですよ。
少し前までは、「重歯目(歯が重なっているから)」と呼んでいました(最近はゾウも長鼻目ではなくゾウ目などと呼ぶように変わってきています)。

『古事記』に出てくる白兎!「本当は素兎と記載」は学名Lepus brachyurusニホンノウサギ(日本野兎)Japanese hareのはずです。毛色はもちろん野生色!
更に隠岐の島からワニを騙して渡ってきたことから、L. b. okiensis オキノウサギ(隠岐野兎)という日本野兎の固有亜種と考えられます。

日本野兎
(良い写真がなくてwkiからお借りしました)

だからどうなんだ、という話しなのですが、アルビノのJW(ジャパニーズホワイト)は 起源は明らかでないですが、明治初期に輸入された外来種と日本在来種との混血によって生じたと考えられています。
日本でよく見かけるアルビノ、JWとNZW(ニュージーランドホワイト)の見分けかたを少し教えましょう。
外見殆ど変わり無いのですが、耳の長さがJWの方が1.5倍ほど長いです。
写真で比べてみましょう(笑)。

JW.jpg
(JW、耳が長いのがおわかりですね?)
NZW.jpg
(NZW、短い耳動物園で見分けて、自慢しましょう、笑)

日本における飼育の始まりは、欧州等を原産とするアナウサギを改良して近世以降に輸入・飼育されるようになったものであるとされます。
移入された時期は天文年間 (16世紀前半) で、オランダ人がペットとして日本へ連れて来たと伝えられています。

ですから、因幡の白兎が本当に白かったはずは有りません。
白い兎なんて天敵の肉食獣や猛禽類の格好の的ですものね。

冬毛で白かった可能性も否定は出来ませんが、山陰の海岸をわざわざ冬に、嫁探しの旅をする必要性を感じませんし、「古事記」の内容からも冬をイメージさせるものは有りません。
更に、蒲の穂先に花粉がつく頃は夏から秋にかけてですから、兎が冬毛のはずもないのです。

それを、神聖な白兎に変えたのは、神々の神格化を強めたい、明治政府の策略かも知れません。
明治の教科書には、真っ白な兎が大国主と一緒に描かれています。

「古事記」にも『素兎』と書かれています。素のままの兎の事ですよね。
古事記も、大国主の心の広さと知識が国を治める条件、としたかったのではないでしょうか(一般的に蒲の穂にくるまった様な印象が有りますが、前回UPしたように、蒲の花粉にくるまっているんです。)?

ガマを刈り取って穂をはたくと、黄色い花粉が取れます。
この花粉が 「ホオウ 穂黄」。
中国漢方の生薬で、止血剤、鎮痛剤、利尿剤として用いられます(大国主、流石は神様、凄い知識力ですよね!)。

皆さんはどう思われますか?

いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ぽちぽち」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。

ブログランキングならblogram

リュミエールブラン ネージュ

関連記事
  
2016/04/26

「因幡の白兎」の『白兎神社』で兎焼きが食べたい!

「古事記」出雲神話の旅シリーズです
神話の順番通りにUPしたいけど行ってない所もまだまだ有りますので、許して下さい、それに因幡は、出雲じゃないですけどね~♪。

今回は『白兎神社』を紹介いたします!

其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいね(人´ω`*).☆.。
ブログランキングならblogram
👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。

CROOZ




白兎神社1(国道9号線からすぐでわかりやすいです。兎に似ている沖ノ島!)
白兎神社2


『因幡の白兎』のお話ご存じですよね。

【こんなお話です「因幡の白兎」】

大国主命には、八十神と呼ばれる兄弟たちがいました。兄弟たちは美しいことで知られる、因幡の国の八上姫を妻にめとろうと、出雲の国をあとにしました。命は兄弟たちの大きな荷を背負わされ、とぼとぼと後に続いていきました。

はじめに、泣いている赤むけうさぎを見つけたのは八十神たちでした。兄弟たちは、からかい半分、こう言いました。
「やい、うさぎ。よいことを教えてやろう。まず海の水でからだを洗い、それから風の吹きさらす山のいただきにねころんでおれ。そうすれば、すぐにもとどおりのすがたになるであろう。」
さっそく言われた通りにしたうさぎは、よくなるどころか、塩が乾いて傷がしみ、いっそうひどく赤むけてしまいました。
うさぎが、あまりの痛みにしくしく泣いていると、そ こにおくれて来た大国主が通りかかりました。
「おや、うさぎ。どうしたのだ」
大国主がおだやかな声でたずねると、赤むけうさぎは答えていわく
「わたくしは、おきの島にすんでいたもの。いつか島を抜けだしたいと想いこがれて、あるとき、海の鮫たちをだまして、陸にあがる方法を思いついたのでございます。わたくしは浜から鮫たちに言いました。
『おうい。わたしたちうさぎの数と、おまえたち鮫の数のどちらが多いかくらべてみないか。まずはおまえたちがこの浜から気多のみさきにかけて、一列に並んでみるがよい。わたしがおまえたちの背中をとびながら数を数えてやろう。では、いくぞ』

ところが、さいごの一尾というところで、わたくしは、うれしさのあまりつい口をすべらせてしまったのでございます。
『やいやい、だまされたな。わたしは海をわたりたかっただけなのだよ』
はらを立てた鮫は、あっという間にわたくしをがぶり。そのうえ八十神さまたちのおっしゃることを信じたばかりに、痛みはひどくなる一方でございます」
こころやさしい大国主の命は、うさぎに教えました。
「いますぐ河口に行って、真水で塩を洗い落とし、蒲の花粉をしきちらした上に寝ころびなさい。そうすれば、すぐにもとどおりのすがたになるであろう」
命のことばにしたがうと、うさぎは見る間に元気になりました。
たいそうよろこんだうさぎは、命に予言を授けました。
「あなたはいまでこそ、おおきな袋をかついでみすぼらしいなりですが、八上姫さまを嫁にされるのは八十神たちではありません。大国主命、あなたさまなのです」
このうさぎ、じつは”因幡の白兎”と呼ばれる、 八上姫の使いのものだった、ということです。

そしてご紹介するのは『白兎神社』です。

白兎神社4(白兎、大国主、八上姫のサンドアートが迎えてくれます。)
白兎神社6(まさに白兎?)
白兎神社5(拝殿正面)
白兎神社9(本殿)
白兎神社7(礎石が珍しいので見てみましょう)
白兎神社8(確かに菊の御門ですが、踏みつけてもいいの?)
白兎神社11(真水で洗うんですよね?)
白兎神社10(傷が化膿しそうですが!笑ってはいけませんよ)

白兔神を主祭神とし、保食神を配祀します。
白兔神は日本神話に登場する因幡の白兎のことであり、その説話の内容から皮膚病に霊験のある神として、また、大国主と八上姫神との婚姻を取り持ったことから特定の人との縁結びの神として、かなわぬ恋をかなえ、特定の人との親交をより深めると信仰されています。
さらに、遠国の人もこの兎に願えば早く国に帰れるというご利益も有るそうです。
また、もちろん、大国主関連で医療の神でもあります。

前を国道9号線が走り、何時も日本海に見とれてしまうのですが、近頃売り出された、鯛焼きならぬウサギ焼(何故か紅白!まあおめでたいからね)を食べたくて毎回(そんなには行ってないのですけど)よるのですが、何時も人気で?売り切れてます(ToT)。

今年こそ食べてみたいと思っています!

いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ぽちぽち」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。

ブログランキングならblogram

リュミエールブラン ネージュ

関連記事
  
2016/04/24

久しぶりに『私の陶芸』を紹介しますm(__)m

陶芸教室を決してサボっていたわけではないのですが、ろくろでの作品作りがうまくならずに悩んでおりました。

丸一日時間がある時ではないと、ろくろでの作品作りに取り掛かる気にならなかったのですが、先生のアドバイスをいくつかいただいて、少しコツがつかめたのか?肩の力が抜けたのか、半日あればどうにか、ろくろの作品作りに、挑戦できるようになりました。

今回お茶碗等を焼いていただいたので、ご紹介したいと思います。
まだまだ下手なのですが、今年一年で教室で一番上手になることを目指しています(結構難しい目標です。)。

私の陶芸2

まず写真上左の白いサラダボールですが、たたら作りを型にはめて丸みを持たせ、高台をつけて、信楽の白土わら釉薬を施しています(上部にギザギザを施してアクセントを出しました)。

次に上の青い器ですが、少し珍しい?青イラボ釉薬を使っています。

最後の二色のお茶碗は同じく信楽の白土に黒イラボの釉薬をかけるのですが、少しかけ残しを作り重なるようにわら釉薬をかけて白と黒の間に混ざり合った部分を作っています。

陶芸は炎という自然との闘いでもあります。
窯焼きは先生にお願いしてるとはいえ、作成段階で最善を尽くさないとなかなか満足のいく作品はできません。
改めてプロの陶芸家さんはすごいと思い知らされます。

もっともっと上手に成りたい~!

ランキング登録しています。お立ちより記念に「ぽちっと」クリックお願いします。
👇👇👇👇👇👇



関連記事
  
2016/04/21

奇祭『婆々焼き祭り』と承久の乱の顛末!そして時代は変わる。③

「市郎右衛門」の歴史ブログをお楽しみください。
ブログランキングならblogram
👆 絶賛ランキング参加中!「 ポチッ」と応援お願いします(^人^)。

前回UPしました。「婆々焼き祭り」伝承ですが、現兵庫県豊岡市高屋迄の行程『地名と日数』と、川に身を投げる『人物』が、但馬の昔話でも、食い違いが有りますので、もう一方の昔話もお話しましょう。

1221年、雅成親王承久の乱で幕府の手に捕らえられ、但馬国は室の朝倉(豊岡市高屋)に流されます。

雅成親王には、幸姫というお妃がいました。
幸姫は 雅成親王と別れた後、子どもを懐妊していることが分かり、すぐにでも 雅成 親王に知らせたいと思い、但馬へ侍女を連れて出向きました。
途中、丁度豊岡市日高町松岡に差し掛かった頃、疲労困憊の幸姫はいつまでこのたびが続くのか?見掛けた、ばばどのに尋ねるように頼みます。
侍女は、ばばに豊岡高屋までの距離を聞いたところ、「高屋なら、二日かかる府中、七日かかる納屋、九日かかる九日市、十日かかる豊岡があって、その先に人をとる一日市がありますで。」(此方のお話では29日に成りますね)と言い、去っていった。
幸姫は、落ち込みながらも明るい声で「死後必ず、南風(高屋は松岡の北方向です。)となって高屋へ達しましょう。」と川へ身を投げたが、侍女の叫び声に人々が駆けつけ、助けられます。
その後、皇子が生まれますが、幸姫は産後のひだちが悪く、すぐにお亡なりになってしまいます。

村人が侍女から老婆の話を聞いたその夜、南風が強くなり、大雨が降り、円山川(兵庫県北部を流れる一級河川)は大水に見舞われます。
侍女は人々が大水に気をとられている隙に川へ身を投げます。
それからも、大雨は降り続け、洪水と成って人々を苦しめました。

人々は幸姫様のたたりと、嘘をついた老婆を引きずり出し、火あぶりにして焼き殺し、幸姫の御霊を産土神とし、十二所神社に祀りました。

それ以来、毎年4月14日には、お宮の前でわらで作った老婆の人形を焼いて幸姫様の霊を慰める行事が(800年間にわたり)続いています。

此方のお話では高屋までの日にちは29日幸姫は病死、身を投げたのは侍女と成ってます。



二宮尊徳
(城崎小学校の二宮尊徳さん立派です。今時珍しい大きさ!)

【若上臈稲荷】
城崎温泉の町の入口すぐ(城崎小学校の裏山)に『若上臈(わかじょうろう)稲荷』という場所があります。
上臈というのは、宮中で身分の高い女の人、つまり貴婦人のことです。
円山川の海に出る直前、河口に近い城崎の川岸に流れ着いた身分の高い上臈の亡骸がまつられているとの伝承が有ります。

若上臈稲荷1
(プールの横に鳥居が並んでいます)

学校裏の小山の斜面に朱色の小さな鳥居がずらりと並んでいます。
その若上臈稲荷に祭られている女性こそ、雅成親王の妻、幸姫(もしくは侍女ですね)だそうです。

若上臈稲荷2(説明文はどこも少しずつ違っています。広い心で読みましょう。笑)
若上臈稲荷3(お稲荷さんですね。)
若上臈稲荷5
(狐様!こ、怖い~怨念が乗り移ったようです。)
若上臈稲荷4(本当にお祀りされているのは誰なのでしょう?)


鎌倉幕府成立後も西日本では朝廷により国司が決められていました。
しかし承久の乱の結末により、守護職の権限が増大する結果を呼び、但馬では、太田氏 (源頼朝の義経討伐に功があったとして、 但馬守護に成った一族です。)が力を得て数代の間、但馬を支配することに成りました。
正に「ご恩」の一族ですね(笑)。

この様な悲しい昔話は、謎が多くて、ミステリアスなほうが良いに決まっています。

ついでに松岡の隣の地区は、鶴岡といいます。鶴岡地区の村社は「井田神社」なんですが、地区の人々は「鶴岡の八幡さん」と呼んでいます。

源氏の血統が途絶えた場所は「鶴岡八幡宮」、良くできた偶然ですが、ミステリアスなお話は、偶然の重なりがより一層面白く?させるのかも知れませんね(笑)。

ランキング登録しています。お立ちより記念に「ぽちっと」クリックお願いします。
👇👇👇👇👇👇
ブログランキングならblogram

関連記事
  
2016/04/19

奇祭『婆々焼き祭り』と承久の乱の顛末!哀しみの幸姫②

兵庫県但馬地方に在住の方々でも、豊岡市日高町松岡地区「十二所神社」で行われる『婆々焼き祭り』という奇祭をご存知の方は少ないでしょう。

4月14日に毎年行われるこの奇祭は、承久の乱にまつわる、悲しい物語の語り部です。

先ず、祭の模様を御覧いただきましょう。

ばば焼
(結構高いです。8Mほどはありますね。)

【婆々焼祭り概要】
松岡の御柱祭(婆々焼祭り)

豊岡市日高町松岡で行われる。
市指定無形民俗文化財。

十二所神社前の円山川河川敷(台風で河川敷が削られて、私が子供の頃と場所が少しずれているような気がします。)で夕刻、老婆に見立てた藁(わら)人形を焼きます。

婆々焼き1
(松に何かありますね~?)
婆々焼き3
(ひゃ~わら人形です~!)

祭りの由来は、1221年、但馬(豊岡市高屋)に雅成親王(後鳥羽上皇第四皇子)が、承久の乱に連座して流刑となり、その後を追って、雅成親王の妻、幸姫が京の都からやってきました。
その時、幸姫は懐妊の身で急に産気づき、この松岡の近くで王子を生み落としましたと伝承されます。
しかし、産後の肥立ちが悪く、一刻も早く親王のところまで行きたいと、ある老婆に「高屋(雅成親王御在所)まであと何日かかりますか?」とたずねたところ、老婆は意地悪く「高屋まで九日通る九日市、十日通る豊岡、その先は人を取る一日市で(九日市・豊岡・一日市は地名です)、合わせて20日はかかる」と答えました。
これを聞いた幸姫は、「3日歩けば気力が尽きてしまうほどなのに、これ以上到底生きる望みがありません。」と、王子を残し円山川に身を投げてしまいました (実際には松岡~高屋までは10キロ足らず、半日も有れば充分な距離です。更に身を投げた円山川の水運を使えば2時間も有れば当時でも行けそうです。) 。

 その後、毎年洪水が起き、村人を苦しめたため、 人々は幸姫様のたたりと、嘘をついた老婆を引きずり出し、火あぶりにして焼き殺し、幸姫様の御霊を産土神とし、十二所神社に祀りました。
その霊を祀ったのが祭の始まりと伝えられています。

十二所神社縁起

竹と藁で鉢型の土台を作り、その上部に「御柱松(おたいまつ)」を立て、老婆に見立てた藁人形をくくりつけ、焼き捨てるという奇祭です。

婆々焼き2
(18:40区長さん?が提灯の火でわらに火をつけました。)
婆々焼き4
(すぐに周りの皆さんも火のついたわらを松の中心へ投げ入れます。)
婆々焼き6
(炎が一気に大きく成りました。)
婆々焼き7
(松に燃え移るとさらに炎は高くなります。)
婆々焼き8
(離れていても熱が届いてきます。)
婆々焼き9
(パンパンと竹がはぜる音がすごいです。)
婆々焼き10
(ほんの30分ほどで燃え尽きてしまいました。)

いくら罪を犯した?といっても、おばあさんを800年にわたって焼いているなんて、恐ろしい祭りだと思われませんか?。

小さな子供達も見学にきていましたが、松岡の皆さんは、子供達にどんなお話を語っておられるのか?気になりましたが、火祭りということで、「婆」「厄」を表し、「厄を払い、地域を清める民俗行事」つまりは「虫送り」と一体化しているように思えます。

日本人は、「死者に罪なし」の精神性を持ち合わせていますから、婆の罪を攻め続けるのではなく、自然に対する畏怖の気持ちが、800年以上にわたり長くこの奇祭を存続させているのではないでしょうか?

ほんの一時間程ですが、中々面白い?お祭りを観ることが出来ました。

次回幸姫の墓所についても少しお話をさせて頂きます。

ランキング登録しています。お立ちより記念に「ぽちっと」クリックお願いします。
👇👇👇👇👇👇
ブログランキングならblogram

関連記事
  
2016/04/17

奇祭『婆々焼き祭り』と承久の乱の顛末!雅成親王の憂鬱①

皆さん、歴史お好ですか~?

「市郎右衛門」の歴史ブログをお楽しみください。
ブログランキングならblogram
👆 絶賛ランキング参加中!「 ポチッ」と応援お願いします(^人^)。

歴史という、「今も執筆され続ける壮大な時の流れの物語」。
その大河を遡り、禁断のifを推察する、スリルに満ちたエンターテイメント。
深い河淵の底や、切り立った岩肌の上は、未だ解明されない多くの謎に満ちています。
この、大長編スペクタクルストーリーに魅了されない人はいないですよね?(そこまで~笑)。

歴史好きの皆さん方、知識内の点であった記憶がある時、ふとつながって一本の線に変わり、改めて歴史物語の本質に気が付く楽しみを体験された事は有りませんか?

私はラッキーなことに、時々あるんです。つい先日も、小学生の時に見た町内の『婆々焼祭り』なる奇祭、中学生の社会(歴史)で勉強した『承久の乱』の「御恩と奉公」、高校生の友達の家の近くで見た、兵庫県豊岡市高屋『黒木御所跡』の石碑、年を取りそれらが、後鳥羽上皇の御歌「 人もをし 人も恨(うら)めし あぢきなく 世を思ふ故(ゆゑ)に もの思ふ身は 」をふとした切っ掛けで調べたことから、点の記憶でしかなかったものが、一本の線で繋がったとき、頭の中でシナプスに電流が流れるのを感じました(笑)。

さて、但馬の国、豊岡市日高町松岡地区「十二所神社」前の円山川河川敷で行われる、御柱(おとう)祭り通称『婆々焼祭り』という奇祭をご存知の方は但馬在住の方々でも少ないでしょう。

4月14日に毎年行われるこの奇祭は、承久の乱にまつわる、悲しい物語が有るのです(涙💧)。

『十二所神社』
所在地 兵庫県豊岡市日高町松岡字宮後228



十二所神社覆殿
(十二所神社覆殿、千木のカットは男神様ですね)
十二所神社狛犬群(狛犬たち)
十二所神社縁起
(こ、これは?千木の形十二所の名前、第三皇子?縁起としてはどうでしょう。)
十二所神社古墳(横穴石室!本来はこの方をお祀りしていたのでしょうか?)
十二所神社本殿(なかなか見られない本殿!祭りの日で良かった~)

【御祭神】
伊邪那岐命
配祀神 伊邪那美命・天児屋根命


【先ずは、「承久の乱」の概要を説明しましょう】


承久の乱は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、源氏の血筋が途絶え、これをチャンスと見た後鳥羽上皇が時の執権、北条義時追討の声を上げ、鎌倉幕府に対して、討幕の兵を挙げて敗れた兵乱の事です。
承久の変(乱なのか変と呼ぶべきかは議論が有ります)、承久合戦ともいいます。

日本史上初めて、朝廷の勅や院宣に逆う軍事行動によって朝廷に反乱軍が勝利した事件です。

武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていましたが、この乱の結果、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになりました。

鎌倉幕府の源氏一門(御門葉)の重鎮であった大内惟信は後鳥羽上皇に味方し敗死し、源頼朝が最も信頼を置いていた平賀氏・大内氏は没落することになります(幕府側も一枚岩ではなかったのですね)。

きっかけを、もう少し詳しくお話しましょう。

源平の戦いで平氏を滅亡させた源頼朝は、その後、鎌倉に幕府を開き、自らは征夷大将軍に就任(1180年~1192年頃)します。 (子供の教科書を読んでいると、昔覚えた「いい国」作ろう鎌倉幕府の1192年は今「いい箱」作ろう鎌倉幕府1185年となっていてびっくりしました)

当時は、後白河法皇が亡くなり、源頼朝と親しい九条兼実が朝廷の中心であった為、幕府と朝廷の関係は良好でした。

しかし、征夷大将軍の任命からわずか7年。1199年に源頼朝が馬から落ち怪我をしたのが災いし、亡くなってしまいます。

その後を継いだのは、息子の源頼家でしたが、この18歳の青年、評判がすこぶる悪く、有力御家人達の権力争いを背景とした政変もあり結局、失脚してしまいます。
更には、1204年に叔父の北条時政により暗殺されてしまいます。

その後を継いだのは、わずか12歳の源実朝でしたが、1219年に頼家の子である公暁によって鶴岡八幡宮にて暗殺、さらにその公暁も殺害されてしまい、ついに源氏の正当な血筋が途絶えてしまいます。

文武に秀でた後鳥羽上皇にとっては、千載一遇のチャンスと思ったでしょう。
これが、承久の乱の始まりです。

その時、登場するのが源頼朝の妻である北条政子です。
“尼将軍”とよばれていた政子は、頼朝が築いた「ご恩と奉公」の大切さを説きます。
それは、頼朝政権を支えた仕組みでした。
頼朝は戦で活躍した御家人にほうびとして土地をあたえました。これが頼朝に対する「ご恩」に成ります。
これに対し御家人は、戦のとき「いざ鎌倉!」とかけつけ戦いました。これが「奉公」です。

政子は声を上げてうったえます。
『 あなた達、よく聞きなさい!頼朝様が平氏を滅ぼし関東に幕府を開いてから、あなた方の役職や収入は随分と上がって生活が楽になったではありませんか!その恩は山よりも高く、海よりも深いのではないのですか?その恩を忘れ、彼方側につきたいというのであれば、別に止めはしませんこの場から出てきなさい! 』
そう涙ながらに訴えたのです(まるで見ていたかのようです。笑) 。
御家人たちは深く感動し、再び団結します。

北条政子の訴えで結束を固めた幕府軍の強さは凄まじく、わずか1ヶ月で乱は鎮圧。
後鳥羽上皇をはじめ、3上皇は各地に配流され、関係した公家たちも処罰されました。
そして、上皇側の領土も没収され、その領土は功績のあった御家人たちに配られ、以後、幕府の力は更に強固なものとなるのです。

長々とご静読ありがとうございました(笑)。

この時、血脈の絶えた幕府から最初に打診が有ったのが、(後鳥羽上皇第四皇子)雅成親王を征夷大将軍に迎え鎌倉幕府を存続することでした。

雅成親王も但馬は現豊岡市高屋に流され(一度は京都に戻りますが)、但馬でさびしくお亡くなりに成ってしまいます。

雅成親王黒木御所
(親王が住まわれた黒木御所跡、こんなところに!)
雅成親王墓所1(新三十六歌仙、才能豊かな方でした。)
雅成親王墓所2(宮内庁はいつも鍵かけて~!お詣りできないよ~!)
雅成親王墓所3(ご冥福をお祈りいたします。)

この事が、『婆々焼き祭り』なる奇祭とどう繋がるのか、次の機会にお話致しましょう。


ばば焼
(どんなお祀り?ワクワク)


いつも応援いただき、本当にありがとうございます。ランキングを競わせていただいています。
これは納得!もしくは面白い!と思われましたら「ぽちっと」日本人気ブログランキングバナーとブログ村の日本史バナー二か所クリックをお願いいたします。
👇👇👇👇👇👇👇 👇👇👇👇👇
ブログランキングならblogram


関連記事
  
2016/04/13

日本三奇 石乃寶殿 !「オーパーツ?」『生石神社(おおしこじんじゃ)』の凄さ!

生石神社(おうしこじんじゃ)は、兵庫県高砂市・宝殿山山腹にある神社です。
石の宝殿と呼ばれる巨大な石造物を神体としており、宮城県鹽竈神社の塩竈、鹿児島県霧島神宮の天逆鉾とともに「日本三奇」の一つとされています。

生石神社1
(桜がきれいでした。でも花散らしの雨の翌日!)

生石神社2
(国の史跡に指定されてます)
生石神社3
(岩の前面に神社が作られています)
石の宝殿(鎮の石室)は三方岩壁に囲まれた巨岩の殿営で、国の史跡に指定され横6.4m、高さ5.7m、奥行7.2mの巨大な石造物です。
水面に浮かんでいるように見えることから「浮石」とも呼ばれます。
池中の水は霊水で有り、いかなる干ばつに於いても枯渇することなく、海水の満干を表わしていて、万病に効果が有るといわれています。

生石神社4
(浮いてますね~)
生石神社5
(綺麗に160センチの溝があります)
誰が何の目的でどのようにして作ったかは全くの謎です(正にオーパーツといえるかも知れません)。

この工事によって生じた屑石の量もまた莫大な筈ですが、この屑石を人や動物に踏ませてはいけないと、4キロ程北にある霊峰高御位山の山頂に整然と置かれています。

私自身もお詣りするまで、自然に風雨によって出来たものが、あまりに人工的に見えているのだと誤解していました(私の考えは間違いでした)。

生石神社6
(後ろ側の先端部確かに屋根のように飛び出しています)
生石神社7
(上から見ると自然物ではないですね)
生石神社8
(どうやって削り出したんだ~?)
【御祭神】
大穴牟遅命少毘古那命を主祭神とし、大国主大神、生石子大神と粟嶋大神、高御位大神を其々配祀します。

社伝では、崇神天皇の時代、国内に疫病が流行していたとき、石の宝殿に鎮まる二神が崇神天皇の夢に表れ、「吾らを祀れば天下は泰平になる」と告げたことから、現在地に生石神社が創建されたと伝えられます。

石の宝殿について『播磨国風土記』の大国里の条には「原の南に作り石がある。家のような形をし、長さ二丈、広さ一丈五尺、高さも同様で、名前を大石と言う。伝承では、聖徳太子の時代に物部守屋が作った石とされている。」という意味の記述があります。

聖徳太子が摂政であった時代には物部守屋はすでに死亡しており、矛盾をはらむ記述になりますが、8世紀初期には6~7世紀頃に人の手で造られたと考えられていたことになります。

風土記が一般に流布されたのは江戸時代後期からであり、それまでの石の宝殿に関する文献で風土記の内容を継承したものは見られません。

石の宝殿は8世紀以前からあったことになりますが、生石神社は『延喜式神名帳』や国史に掲載されておらず、 『播磨国内神名帳』「生石大神」が文献上の初見であるとされます。

『峯相記』では生石神社・高御位神社の解説で「天人が石で社を作ろうとしたが、夜明けまでに押し起こすことができずに帰っていった」という内容が記されており、この時期には石の宝殿は人の手によるものではないとする伝承が生まれていたと思われます。

『播州石宝殿略縁起』では「神代の昔、大穴牟遅と少毘古那が国土経営のため出雲からこの地に至り、石の宮殿を造営しようとして一夜のうちに二丈六尺の石の宝殿を作ったが、当地の阿賀の神の反乱を受け、それを鎮圧する間に夜が明けてしまい、宮殿は横倒し(あの岩を立てようとしたことが凄いですが)のまま起こすことができなかった。二神は、宮殿が未完成でもここに鎮まり国土を守ることを誓った。」と記載され、『峯相記』より具体的な神格が与えられています。

【戦国時代のへ~なお話】
1579年(天正7年)、羽柴秀吉が三木合戦の折、神吉城攻略のために当神社を陣所として貸与するよう申し出たが、拒否されたために焼きはらいました(当時の宮司は神吉城主の弟でした)。

焼け残った梵鐘は持ち去られ、関ヶ原の戦いの時に西軍石田三成方の勇将大谷吉継が陣鐘として使用しました。
敗戦の結果、徳川家康が戦利品として美濃国赤坂の安楽寺(大垣市)に寄進しています。
鐘の表面には、応永26年乙亥(1419年) 「播州印南郡平津庄生石権現撞鐘」と刻まれています。

【誰が、何時、何のために?】

さて、 大穴牟遅命、少毘古那命の二人の神様がお作りに成ったのか?物部守屋が作らせたのか?
また、何故?何を作ろうとしたのか?
500トンもある運べそうにないこの石の宝殿(鎮の石室)の謎?何故?何故?

生石神社9
(すごいとしか言いようがない神秘性です)

現地の岩盤に囲まれた狭い空間のなかで、この巨石と対面すると古代の圧倒的なパワーを感じさせられます。
神代(もしくは8世紀)からひっそりとこの場に存在する石の宝殿。
私たちに何かを語りかけているようにも感じました。
皆さん、是非この地を訪れてそのパワーを感じ、古代のロマンに浸ってみてはいかがでしょう。

ランキング登録しています。お立ちより記念に「ぽちっと」クリックお願いします。
👇👇👇👇👇👇
ブログランキングならblogram

関連記事
  
2016/04/08

恋する罪深き女『放火犯!八百屋お七』の顛末。

放火の罪で磔に成った、恋する罪深き女!「八百屋お七」をご存知でしょうか?

お七の生涯については伝記・作品によって諸説ある様ですが、比較的信憑性が高いとされる『天和笑委集』によるとお七の家は天和2年12月28日(1683年1月25日)の天和の大火で焼け出され、お七は親とともに正仙院に避難します。
寺での避難生活のなかでお七は寺小姓生田庄之介(名前は所説有ります)と恋仲になります。
やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払って家に帰りますが、お七の庄之介への想いは募るばかり。
そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、庄之介に会いたい一心で自宅に放火してしまいます。
火はすぐに消し止められ「ぼや」にとどまりますが、お七は放火の罪で捕縛されて鈴ヶ森刑場で火あぶりで処刑されます。

お七の恋人の名は、井原西鶴の『好色五人女』や西鶴を参考にした作品では吉三郎とするものが多く、そのほかには山田左兵衛、落語などでは吉三(きっさ、きちざ)などさまざまです。

さて、その後この恋人はその後どうなったのでしょうか?

前回UPした島根半島の東側突端に美保神社が有るのを紹介しました。

仏国寺
(行幸の路から佛国寺へ)
その美保神社の側に『 佛谷寺(ぶっこくじ)』があります。

もともとこの地は、「三明院」と呼ばれ後鳥羽上皇後醍醐天皇(私が日本の歴史上最も尊敬する天皇のおひとりです)が隠岐に配流される折の御在所でした。

今でも港から寺に向かう道が行幸(みゆき)の路と呼ばれており、他に美保小路、月名小路の名も残るなど都の面影を偲ばせてくれますが、その後は衰退し、天正年間に再興されたのがこちらの佛谷寺です。

大日堂に安置される古色の美しい薬師如来、日光・月光・虚空蔵・聖観音菩薩の5体仏像は、出雲様式と呼ばれる一木造りで、天平様式を残す貞観時代の作。
山陰最古の木仏像は国指定重要文化財にも指定されています(拝見致しましたが素晴らしい物です)。

その佛国寺に、お七の恋い焦がれた吉三の墓が有ります。
お七の墓は長妙寺(日蓮宗、千葉県八千代市)・円乗寺(天台宗、東京都文京区)等にあるようですが
寺小姓の吉三は、お七の骨を携えて諸国を行脚し、病にかかりこの地で病没したといわれます。

仏国寺吉三の墓
(名前は吉三です)
伝えによると、お七の処刑後、吉三は自分のために、罪を犯したお七の遺骨を抱いて菩提を弔うため、発心して「西運」と称し江戸より巡礼の旅に出ていたのです。
各地にお七の地蔵を建てながら、元文2年(1737年)に70歳で亡くなり、それを葬ったのがこの地であるといわれています。
大きな歴史の隙間を埋めるように小さな?物語に出会う、それもまた歴史の面白いところです。

ランキング登録しています。お立ちより記念に「ぽちっと」クリックお願いします。
👇👇👇👇👇👇
ブログランキングならblogram

関連記事
  
2016/04/05

事代主命を祀る『美保神社』を紹介してませんでした?

以前「二人の恵比須神」でも紹介しましたが、今回正式に『美保神社』を紹介します。



まずは、美保神社の有る美浦関の町ですが、地図でもわかるように、風避けとしても最良の地形に恵まれ、古くから海上交通の要所、風待ちの港として栄えた港町です。
朝鮮半島等との環日本海交易の拠点であった美保関は、たたら製鉄による鉄の輸出港として繁栄し、室町時代には将軍の直轄領に成りました。
江戸時代には北前船交易の要所としても繁栄し、多くの廻船問屋などが存在しており、今も往時の面影を残しています(女の子が産まれると、一族で喜んだ等の艶っぽいお話も残るようです)。

美保神社青石畳通り
(青石畳み通り、大名家の御用廻船問屋が並びます)

町の概容が解ったところで、神社を紹介します。

『美保神社』(みほじんじゃ)は、島根県松江市にある神社です(地図の通り、島根県半島の東端ですね)。
式内社で、旧社格は国幣中社に指定されています。

出雲神仏霊場第八番札所。

美保神社鳥居

美保神社2

美保神社3

美保神社4
(最初の参拝時は朝も早くて静かな時間帯でした。笑)
美保神社6
(この日は綺麗に飾り付けられていました)
美保神社生け花
(草月流生け花で飾り付け)
御神祭は右殿に、大国主神の子の事代主神、左殿に大国主神の后の三穂津姫命を祀っています。

三穂津姫命は大国主神の幸魂奇魂(さきみたま・くしみたま 「幸魂は幸福 、奇魂は霊感 を担う 」つまり?本当の后ではないのかな?)です。
「大物主神」の后神とも(大国主=大物主?一寸難しいです(^^))。
事代主命は神屋楯比売神(かむやたてひめ)と大国主神との間の子供なので三穂津姫命は義理の母親に成ります。

『出雲国風土記』には、大穴持命(大国主神は名前が5つ程有りまして、汗)と奴奈宣波比売命(奴奈川姫命)の間に生まれた「御穂須須美命」が美保郷に坐すとの記述があります。
元々美保神社の祭神は御穂須須美命のみであったのが、記紀神話の影響により事代主神と三穂津姫命とされたものとみられます。

三穂津姫命は大国主神の御后で、高天原から稲穂を持ち降り耕作を指導した農業及び子孫繁栄の守り神です。
事代主神は大国主神の第一の御子神で、「ゑびすさま」すなわち漁業・商業を始め広く生業の守護神として敬仰され、美保神社も全国各地にあるゑびす社3385社の総本社として、ことに水産・海運に携わる人々から広く敬い親しまれてきました。

古来、「ゑびすさまは鳴り物がお好き」との信仰があり、海上安全をはじめ諸処の祈願とともに、おびただしい数の楽器が奉納され、その内846点が現在、国の重要文化財に指定されています。

美保神社本殿
本殿は「美保造」と称し、大社造の本殿を左右二棟並立させ、その間を装束の間でつなぎ、木階を覆う向拝を片流れに二棟通しでつけるという特殊な様式として、また屋根についても桧皮葺の共皮蛇腹で国の重要文化財に指定されています。

年間通じてさまざまなお祭りが執り行われますが、中でも12月3日の諸手船神事と、4月7日の青柴垣神事は、古事記等に題材を取ったものとして有名です。

青柴垣神事5
(青柴垣神事)

出雲国神仏霊場事務局によると、事代主神系えびす社3千余社の総本社であると自称しておられます(ただしこの3千余社は蛭子神系のえびす社とあわせた数であり正確とはいえません。えびす云々ではなく事代主神を祀る神社の総本宮の意と思われます)。
北前船1美保神社
(東日本大震災復興事業の北前船)
北前船美保神社2
(ゲストは元シンクロナイズドスイミング日本代表武田 美保さんです。現三重県知事の鈴木英敬夫人だったと?)
北前船美保神社3
(火縄銃も見られました)

家族で訪れた時は、北前船の再現航行(北海道~大阪?)が偶然行われていて、北前船内を見学出来たり楽しい一日でした。

ランキング登録しています。お立ちより記念に「ぽちっと」クリックお願いします。
👇👇👇👇👇👇
ブログランキングならblogram

関連記事
  
2016/04/04

光の天才画家クロード・モネの『印象・日の出』を見てきました。

私の大好きなモネ『印象・日の出』が21年ぶりに日本に来ると言うので見てきました。

モネ展

クロード・モネ(Claude Monet, 1840年11月14日 - 1926年12月5日)は、印象派を代表するフランスの画家です。
「光の画家」の別称があり、時間や季節とともに移りゆく光と色彩の変化を生涯にわたり追求した画家です。
モネは印象派グループの画家のなかでは最も長生きし、20世紀に入っても『睡蓮』(有名で日本にもかなり有るので、ご覧の方も大いでしょう)の連作をはじめ多数の作品を残しています。

印象派の名称の由来となった、巨匠クロード・モネが手がけた最も有名な作品のひとつ『印象・ 日の出』。
本作は画家が10代の頃に住み風景画家ウジェーヌ・ブーダンから自然光(外光)の美しさを学んだ地であるノルマンディ地方のル・アヴールの港町の写真家ナダールのスタジオで開かれた1874年に開かれた第一回印象派展でモネが出品した作品です。

当初『日の出』のみの名称で出品されていたが、名称が短すぎるとの指摘を受けて、画家自らが前部に『印象』と付け加えた本作は、画家の最も特徴的な手法である筆触分割(色彩分割とも呼ばれ、細く小さな筆勢によって絵具本来の質感を生かした描写技法)を用いて、ル・アヴール港を素描写生的に描いた作品ですが、当時の批評家ルイ・ルロワはル・シャリヴァリ誌に「印象?たしかに私もそう感じます。しかしこの絵には印象しかない。まだ描きかけの海景画(壁紙)の方がマシだ。」と本作を嘲笑する記事を諷刺新聞に寄稿し掲載されますが、この記事によって反伝統のバティニョール派が開催した最初の独立展覧会に出典した画家ら(モネ、ルノワール、エドガー・ドガ、カミーユ・ピサロ、ギヨマン、ベルト・モリゾ、セザンヌ、シスレーなど)は印象派と呼称されるようになりました。

本風景の海面、船舶、船の漕ぎ手、煙、そして太陽などの構成要素は筆触分割によって、形状や質感の正確性・再現性は失っているものの、大気の揺らぎや、刻々と変化する海面とそこに反射する陽の光の移ろい、陽光による自然界での微妙な色彩の変化など観る者がこの風景の印象として受ける独特の感覚は、英国を代表するロマン主義の風景画家ウィリアム・ターナーの『ノラム城、日の出』に強い影響を受けたモネがより進化(発達)をさせた筆触分割兼印象的描写でなければ表現できなかったものであり、この新たな表現手法こそ当時席巻していたアカデミー的な伝統主義とは、決定的に異なるモネのアプローチ方法であったと言えます。

なおこの第一回印象派展は、ルイ・ルロワの批評もあって不評に終わっています。

印象・日の出

■ 印象 -日の出- (Impression, soleil levant) 1872年
48×63cm | 油彩・画布 | マルモッタン美術館(パリ)

【私の感想】

驚くべきは、この絵がまったく下書きなしで描かれた点でしょう。
動いている光を一瞬で描ききる、モネの面目躍如と言えます。

以前オルセー美術館展を見たときには、写真の発明による画家達の焦りの様な感覚を受けて、がっかりしてしまいましたが、今回のモネは何枚ものカンバスを駆使して、光と色を瞬間的にとらえようとする真摯な姿勢に感銘を受けました。

青森の奥入瀬渓流で、春の木漏れ日の美しさに感銘を受け、倉敷の大原美術館でモネの睡蓮を見た後に、長女にそれらにちなんだ名前をつけた私としては、今回のモネ展は思いで深い一日と成りました。


ランキング登録しています。お立ちより記念に「ぽちっと」クリックお願いします。
👇👇👇👇👇👇
ブログランキングならblogram



関連記事