2016/03/30

出雲と伯耆の間に埋葬された、伊邪那美の墓を推定①!

天地開闢において神世七代の最後に伊邪那岐 とともに生まれた『伊邪那美』

国産み・神産みにおいて 伊邪那岐との間に日本国土を形づくる多数の子を儲けます。

その中には淡路島・本州・四国・九州等の島々の他、石・木・海(オオワタツミ・大綿津見神)・水・風・山(オオヤマツミ・大山津見神)・野・火など森羅万象の神が含まれます。

伊邪那美が、火の神であるカグツチ(軻遇突智、迦具土神)を産んだために陰部に火傷を負って亡くなると、 伊邪那岐は、カグツチを殺してしまいます(その血や死体からも神が生まれます)。

古事記では、伊邪那美 の遺体は、『 神避(かみさり)し伊邪那美命(イザナミノミコト)は、出雲国の伯伎(伯耆)の国との堺の比婆山に葬りき。 「出雲と伯伎(伯耆)の国境に有る、比婆の山に埋葬した」』と書かれています( 『日本書紀』の一書によれば紀伊の熊野の有馬村「三重県熊野市有馬の花窟神社」に葬られたと記載されています)。
女神イザナミの墓地は古事記の「比婆山説」と、日本書紀の「熊野説」に分かれることになります。

しかしながら、この古事記の比婆の山も、一般的には島根県と広島県の境の『比婆山連峰の比婆山(標高1264メートル)』と解釈されています。
ご丁寧に隣の山を、 伊邪那岐が悲しんで「おおつまよ~(ToT)」と叫んだとして我妻山と名したとしています。

しかし古事記の記述を正確に信じれば、出雲と伯耆の間にあるはずですから、その地域で比婆山若しくは、伊邪那美の御陵候補地とされている場所の内、私が訪れた場所を幾つか紹介しましょう。

先ずは、比婆山(島根県安来市伯太町横屋標高280メートル)の候補地があります。



山頂に伊邪那美を御祭神とする比婆山久米神社奥の宮があり、本殿裏に一辺10メートル程の囲いがあります。
中には小籔が密生していますが、石積みも見え、古墳の様にも見えます。

久米神社3
(カメラ持っていなかったので携帯写真でごめんなさい)
久米神社4

久米神社5

久米神社2

久米神社1
(山から下りてきた現在の久米神社です)
これから、奥の宮まで登ります。

久米神社奥の院道標
(結構距離あります。道標の上に何かいますね?)
久米神社道標のクワガタ
(伊邪那岐だけに、ミヤマクワガタのメスが出迎えてくれました)
久米神社奥の院1
(奥の宮到着しました!)
久米神社おくのいん2
(まずはお詣りを、出雲構えの狛犬さんです)
久米神社奥の院3
(右に何か見えますね。伊邪那美大神御神陵とありますね)
久米神社古墳?
(確かに小さいですが古墳のようですね)比婆山1

陰陽竹2

陰陽竹1

陰陽竹3
(本当に不思議なことがあるんですね~)

訪ねたのは、もう三年ほど前になりますが、本当に神話の世界に迷い込んだ気分になった記憶が、ブログを書いているうちに甦りました。

今、書斎のドアがノックされ妻が顔を見せました。
「結婚記念日だね!」の言葉に現実に引き戻されました。
忘れとったがな~(爆m(__)m)

ランキング登録しています。お立ちより記念に「ぽちっと」クリックお願いします。
👇👇👇👇👇👇

2016/03/27

不老不死が実現する?

不老不死不老長寿のお話をUPさせて頂いたので、現実の科学のお話も少ししましょう。

さまざまな細胞や組織に成る能力がある胚性幹細胞(ES細胞)が老化しない仕組みを、あの(笑)理科学研究所多細胞システム形成研究センターの研究チームが確認しました。

通常の細胞は分裂のたびに染色体末端の「テロメア」が少しずつ短く成ることで老化します。
更には、テロメアが一定の長さに短く成ると分裂も止まってしまいます。

一方、幹細胞や生殖細胞、癌細胞では、特定の酵素や蛋白質が働き、長さを保つようにテロメアを修復。細胞は半永久的に老化せず、分裂も続く事が知られていました。

今回、研究チームはマウスのES細胞でテロメアを修復する働きがある「Zscan4」と呼ばれる蛋白質を観察して、テロメアが短い細胞ほど、 Zscan4が増えている事を確かめ、この現象が老化を防いでいることを裏付けました。

半永久的に再生を繰り返すES細胞
(半永久的に再生を切り返すES細胞、理化学研究所)

この老化を防ぐ原理を利用することで、将来的に人工多能性幹細胞(iPS細胞)の安定供給に応用出来る可能性が有るそうです。

胚性幹細胞(ES細胞)、人工多能性幹細胞(iPS細胞)難しいですよね、少し説明する写真を用意しました。

ESとiPS1

ESとiPS2

ESとiPS3

ESとiPS4

ESとiPS5
(わかりやすく説明されていると思いますが、汗)

私達が知りたいのは、この先のお話ですよね、もし老化しない、人工多能性幹細胞(iPS細胞)が作られて、体の細胞と交換出来るように成れば、寿命が100歳程延びるかも知れません。

いえいえ、不老不死・不老長寿はもう古い!もっと先の科学、若返りも可能になるかも知れません(笑)。

まあ、その前に私は死んでると思いますが!

ランキング参加しています。お立ち寄り記念に「ぽちっと」クリックお願いします。
👇👇👇👇👇👇
ブログランキングならblogram

2016/03/26

八百比丘尼 と人魚伝説

前回UPの粟嶋神社の社叢小さな祠があるのですが!

粟島神社1
(使い回して申し訳ありませんm(__)m)
粟島神社社叢

先ずは、 粟嶋神社社叢を紹介!干拓地である周辺地域や中海のなかでは例外的に、山全体にスダジイなど高木から中低木が生い繁り、この地域としては珍しい照葉樹林を形成しています。
島全体が原始林とされ、特に西斜面に群落を形成してるシャシャンボ(ツツジ科)が大型化しているのも特徴的で、全体が「 粟嶋神社神社社叢」として鳥取県の天然記念物の指定を受けています(残念ながら六年前の元日、山陰豪雪で大きな被害を受けました。)。

その社叢を右側に進んで行くと、洞穴の小さな祠が有ります。

粟島神社8

静の岩屋
(六年前の元旦山陰豪雪で鳥居も折れてしまっていました。あの時雪で国道9号線に閉じ込められた車1000台の中に私も居たんです。涙!)

「静の岩屋」と呼ばれていて、こんな昔話が伝わっています。

粟嶋神社神社がある所は、昔は文字通りの島で、舟の渡し賃は3文じゃった。
昔、この粟嶋神社に数人で信仰していたリンゴン(龍神)講があって、当番になると神さん拝みの後、講仲間にごちそうを出すのがきまりでの。
ある年の当番が、ごちそうぶりに見たことのない肉を出したんじゃ。
聞くと「これは人魚の肉で食べるとうまいし、不老長寿の肉だよ」と言ったそうな。
みんなは珍しげに見たもんの、気味が悪うて、食べたふりをして肉を着物のたもとに入れ、帰りの舟の中で海に捨ててしまったんじゃ。
ところが、一人だけ酒に酔っぱらっておって捨て忘れたもんがおっての。
こな衆は、家に戻るとじきにいびきをかいて寝てしまったんじゃ。
家には18になる娘がいて、父親の着物を脱がせていて、たもとにあった肉を見つけ、土産だ、と思って食べてしまった。
はじめ体がとろけるように思われて、ちょっと気を失い、気が付くと肌はつるつる、耳はアリの歩く音、眼はノミが蜂ほどに見えるようになったそうな。
それからじゃ。
この人はなんぼ年をとっても、18の娘のまんまで老けんようになりましたでの。
同い年の者は、みんなしわくちゃ婆さんになって死んで行くのに、われ一人何年経っても一向に年をとらん。
寂しいでしょうで、知った者がみんな死んでしまって、自分だけ生き残っとるのは。
『定ジョウに入いる』って言いますが、食を絶ってわざと死ぬことを。
この人も仏壇の鐘を持ち出いて、そげして村人に「わしは粟嶋に渡って定に入る。」
「生きとる間は鐘をチーン、チーンと打つ。」
「音がせんようになった時が、わしの命日だと思うてごせ」って言って洞穴に入って行った。
定に入って何日か後に鐘が鳴らんようになりましたと。
その時この人は800歳だったので、村人は、八百べくさん、と言いましたと。
べくさんとは比丘尼(びくに)、女の坊さんのことです。


今でも、この洞穴(静の岩屋)は残っていて、戦争中は出征兵士の武運長久を祈って参る人が多かったといいます。

ここにも、不老不死のお話が出てきましたね。
八百比丘尼のお話は山陰地方だけでなく、北陸・越後・佐渡まで日本海側の多くの地域に残っているようです。
これが、海人族の伝承なのかもしれませんね?古代の日本は、海の道が交通手段の中心だったでしょうからね。

釈尊(仏陀・ブッタ)は少年期に城の四方の門で『四苦』を見ます。
その内の一つは『生』仏教において、生きる事は苦しみなんですね、不老不死とは幸せなことなのか?考えさせられますね。

ランキング登録しています。お立ちより記念に「ぽちっと」クリックお願いします。
👇👇👇👇👇👇
2016/03/25

一寸法師のモデル?「少彦名命」を祀る『粟嶋神社』

鳥取県米子市に単身赴任していたマンションのすぐ近くに、少彦名命を祀る粟嶋神社(あわしまじんじゃ)が有りました。

粟島神社1
(小高い丘、古墳かと思いました)
粟島神社2

「風土記逸文」 (他の書物などに一部が引用されているだけで、完全な形では伝わっていない文章)の 『伯耆国風土記』によると。

「少日子(スクナヒコナ)命、粟を蒔きたまひしに、秀実りて離々りき。
即ち、粟に載りて、常世の国に弾かれ渡りましき。故、粟島と云ふ。」
と記載されています。

こびとのスクナビコナ(少彦名命)がこの地で粟を蒔いて、実ってはじけた粟の穂に乗って常世の国へ渡り、そのために粟島と呼ばれている、と書かれているます(つまり、粟嶋神社は少彦名命の現世での最後の地、ということになります)。

720年(養4老年)上奏の『日本書紀』でも同じような逸話があり、スクナビコナが淡島(粟島)で粟茎に弾かれて常世へ渡ったとされています。

さらに、地元に伝わる民話では、こびとであるスクナビコナが天界から下界の海へ落ちてしまい、空豆の皮で船を作って伯耆の島(のちの粟島)に漂着します。
そこで出雲の神であるオオクニヌシ(大国主)と知己に成ります。
スクナビコナが排便すると、天界にいた頃に食べた粟の実の種が出てきたので、これを島に植えたところ数年で島は粟が一面に広がりました。
すると、アワ畑に据えられた案山子のお告げで天界に戻るように命を受け、粟の茎を曲げて穂につかまり、茎がまっすぐに戻る力で天界へ飛んでいった。
このことから、オオクニヌシはこの島を「粟島」と名づけたといわれます。

粟島神社3
(結構きついです)
粟島神社4
(ほらね!上から見るとわかるでしょ)
粟島神社5
(きれいに整備されています)

【粟嶋神社、米子の地名由来元と成る】
粟嶋の分限者(鳥取言葉でお金持ちの意味)には子がなく、88歳の米寿を迎えたときに初めて子を授かったことから、「米子」の地名が発祥したと伝えられています。

この粟嶋神社、 来待石を積み上げた、角度のきつい石段が187段、登り切ると、丘の頂上に社、標高は38メートル(36メートルとも?結構息切れします)。
もともと、ここは離れ島であったらしいく江戸時代の中頃、陸続きとなったようです。



粟島神社6

粟島神社7
(小さな本殿、少彦名そのものですね)
粟島神社8
(島だったことがよくわかりますね)

【ちょっぴり面白いなと思う神話や昔話の共通点が!】


神話に登場する少彦名命は、手に乗るほど小さく、おとぎ話『一寸法師』のモデルとも云われています。

因幡のしろ兎を助けた大国主命は、医学の神です。
皮をはがれて赤裸にされた 「因幡の素兎」(本当は素兎なんですよ)救出の物語。
ガマを刈り取って穂をはたくと、黄色い花粉が取れます。
この花粉が 「ホオウ 穂黄」。
中国漢方の生薬で、止血剤、鎮痛剤、利尿剤として用いられます(凄い知識力ですよね!)。

大国主命と共に、国造りを担った少彦名命もまた、医療を人々に広めた神とされます。
ことに、まじないの術に長けて、病に苦しむ人々を救ったと伝えられています。

一寸法師は鬼に勝って打出のこずちで、大きな青年に成ります。

打出のこずちを持っているといえば、大黒さまです。
大黒天(大黒さま)は大国主とも同一視されています。

そして中国の徐福伝説!常世の国に不老不死の薬を取りに行った徐福は子供たちを連れていたとか?、徐福の職業は、方士です。
方士とは、呪術師や祈祷師・薬剤師であり、占星術・天文学にも秀でた学者のことをさしています。

そして、子供たちは成長期を向かえると、大きく成って、こびとでは無くなります。

なんともお話がうまく繋がり過ぎると思いませんか(笑)?

ランキング登録しています。お立ちより記念に「ぽちっと」クリックお願いします。
👇👇👇👇👇👇
2016/03/24

八岐大蛇退治と愛の聖地『八重垣神社』

縁結びの聖地『出雲八重垣神社』は、島根県松江市にある神社です。


八重垣神社1

旧称佐久佐神社。
式内社で、旧社格は県社。
意宇六社の一社です
出雲國神仏霊場第十四番札所です。


八重垣神社2

八重垣神社B
(狛犬かわいそう!来待石の風化がすごいです)
八重垣神社4

素盞嗚尊稲田姫命の故事から縁結びの神社として信仰を集めています。

八重垣神社5
八重垣神社3
(きれいな神社です。女性参拝者が本当に多いですね。この日はなぜか少ないな~?)

「早く出雲の八重垣様に、縁の結びが願いたい」という出雲の古い民謡が有るそうですが、その一節からもわかるとおり、八重垣神社は出雲の縁結びの大神として知られています。

八岐大蛇退治で名高い素盞嗚尊と、国の乙女の花(国や部族の為に自を大蛇に差し出す、大和撫子はここから来ている様です。)と歌われた稲田姫命の御夫婦が主祭神です。

出雲神話によると、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治する際、斐の川上から7里(約28km)離れた佐草女の森(現・八重垣神社奥の院)が安全であると判断し、大杉を中心に八重垣を造って稲田姫命を隠し、みごと八岐大蛇を退治に成功ししました。

神社内に有る石碑に『八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を』の短歌があります。
八重垣神社A

これは日本最古の短歌と言われています。

八岐大蛇にずっと脅えていた美しい妻を迎え、二度と同じような想いはさせ無いと誓った。
愛する妻を護るために幾重にも垣根を作って御殿を建てた。
幾重にも重なり沸き上がる、あの雲を見ていると、天からも守られているように感じる(こんな感じですか?)。

『古事記』では建速須佐之男命が出雲の国、肥の川(菱の川・今の斐伊川)沿いで一目惚れした櫛名田比売を護るために八股の大蛇を退治します。(名前の表記は古事記は上記の通り、その他は神社公式ホームページより)
二人は結婚し、新しい御殿を建てる場所を見つけます。御殿の上に雲が立ち上り、愛する妻と幸せに暮らせる喜びの歌がこの歌です。

その御祭神を始め六神像が描かれた壁画が元々御本殿にあり、古色蒼然雄渾な筆力は神社建築史上類例のない壁画と推賞され、国家より重要文化財の指定を受け、現在は安全な宝物収蔵庫で公開し専門家巡観者の絶賛の的となっています(残念ながら見ていません、次は是非!)。

また境内には椿の木が多く、その中でも三本ほど夫婦椿と呼んでいる木は、地面から二本の木が出て地上で一本(一寸怪しい、シンボルとして作られた木かな?疑ったら罰が当たるかも、ごめんなさい。)になっているので、一身同体、愛の象徴として神聖視されています。
年により二葉の葉が現れることもあり、御神徳の表れと大切にされている。

八重垣神社7


男性器や女性器のシンボルが多くて、子供たちの手前恥ずかしい思いをしました…(笑)。

八重垣神社6


御本殿後方の奥の院佐久佐女の森は、稲田姫命が八岐大蛇の難を避けられた時の中心地で、日々水を召し上がり姿を写された鏡の池があります。
八重垣神社C
(佐久佐女の森へ!)
八重垣神社8

八重垣神社D

縁結び、心願成就占いの池として占い用紙に硬貨を乗せて浮かべ、縁の遅早を占う多くの方の姿が毎日見受けられます。

八重垣神社9


早く沈むと婚期が早い、沈んだ場所で意中の人は身近な人か遠くの人かがわかるようです。
とにかく、若い女性ばかりです乙女の願いは何時でも王子様到来なのかな(笑)?

ランキング登録しています。お立ちより記念に「ぽちっと」クリックお願いします。
👇👇👇👇👇👇
2016/03/22

春の風物詩『いかなごのくぎ煮』を作る。

兵庫県(播磨・摂津)春の風物詩といえば『いかなごのくぎ煮』ですよね、以前はよく煮ていたのですが、近頃あまり作っておりませんでした。

いかなごのくぎ煮5
(上手にできました。山椒の青葉がよかったですが花をあしらいました。)

それに今年は、不良で値段が高いと新聞で知って、あきらめていたのですが、昨日スーパーに行くと少し安かった(一キロ1650円)ので久しぶりに購入して、作ってみることにしました。

①いかなごの用意
いかなごを荒いザルに上げ、しっかり水を切ります(4~5分置き、あとはザルを2~3回振る程度)。
土しょうがはよく洗い水気を取り、皮付きのまま細かく千切りにします。

いかなごのくぎ煮1
(少し大着させてもらいました。たれ付きです。)

②鍋の用意
鍋より一回り小さくアルミホイルに穴をあけて落し蓋を作っておきます。

③下ごしらえ
濃い口醤油、ザラメ、みりん、酒、土しょうがを合わせたものをしっかりと煮立たせる。

いかなごのくぎ煮2
(水あめで照りを出します。)

④鍋に入れる
煮立ったところで、いかなご一キロを一度に入れる。入れ終わったら、手早く手で、いかなごの間に出しが均等に回るように隙間(穴)を開けます。

⑤火加減の調整
事前に用意したアルミホイルの落し蓋を入れ、強火で一気に煮立たせ、吹きこぼれない程度の火加減で煮ます。
この時いかなごにまんべんなく煮汁がかぶさっている状態にします。
箸等で絶対にかき混ぜてはいけません。

いかなごのくぎ煮3
(落し蓋を外したところ)

⑥火を止める
アワが鎮まり、いかなごの間に小さなアワが、ブクブク出るくらい煮汁が減ったとき、中火~弱火にして落し蓋を外して、煮汁の残りの量を確かめながら、煮詰め、少しの煮汁が残っている状態で火を止めます。

⑦仕上げ
煮あがったら、平ざるに素早くかえして残り汁をきり素早く冷やします。
お好みで白ごまをかけてください。

いかなごのくぎ煮4
(汁を素早く切って、素早く冷まします。)

上手に仕上げるポイント!


A、鮮度の良いいかなごを選ぶこと(そうは言ってもね~f(^^;)。
B、煮汁を素早く捨てること。
C手早く冷ますこと。
D大きく厚手の鍋を使用すること。


以上は兵庫県漁業協同組合連合会の冊子から引用いたしました。

本来は各家庭でこだわりがあるようで、水あめや味覚糖飴で甘みや照りを出したり、山椒を入れたりと、家々で味が違うのが楽しいです。
ブログのお友達は胡桃入りが良いとの事でした(ありですね)。
何十キロも購入して親戚縁者に送られる方もおられるようです。

私は専用だしなる物で、大着してしまいました(笑)。
出来が良かったのはそのせいだと思います。

ランキング参加しています。お立ち寄り記念に「ぽちっと」クリックお願いします。
👇👇👇👇👇👇

にほんブログ村
2016/03/19

二十代『市良右衛門』誕生す!

大げさな題名で申し訳ないですが、ようは長男の誕生日です。申し訳ない!

長男14歳
(おめでとう!今回のケーキはレーブドゥシェフです。)
以前もUPしましたが市良右衛門のハンドルネーム、実は我が家の世襲制の名前なんです。

当然、明治以降は普通に名前があるんですが、江戸時代以前我が家の当主は、市良右衛門を名乗っていたようです。

ですから、もし江戸時代が続いていたならば、現当主の父が十八代、私が十九代、私の長男が二十代市良右衛門となっていた事に成ります。

その二十代『市良右衛門』こと、私の長男の誕生日が今日と云うわけです。

三人兄弟のまん中で、上下を姉と妹に挟まれ、苦労していると思いますが、優しい子供に育ってくれました。

来年度は、高校受験で頑張ってもらわねばいけませんが、まだまだ頼りないですね~、当たり前か(笑)。

生き物が大好きなのと、二十代『市良右衛門』を引き継ぐ事は、何となく理解しているようです。

御宝が、モンハンのUSJアイルーフィギアと、海洋堂のブルードラゴンです。

アイルー1

アイルー2

海洋堂RED DORAGON
(こちらは本物のRED DORAGONです)

本人は、又機会がありましたらご披露できる日があると思いますので、楽しみに?しておいてください。


ランキング参加しています。お立ち寄り記念に「ぽちっと」クリックお願いします。
👇👇👇👇👇👇

にほんブログ村
2016/03/16

『森陶岳』の85メートル登り窯は、古備前を凌駕したのか?

備前焼の大家、森陶岳先生の展示会に岡山市迄出かけて来ました。

陶芸に興味がある方なら、森陶岳先生の全長85メートル・幅6メートル・高さ3メートル「森陶岳大窯」プロジェクトはご存じでしょう。

昨年1月に火入れして、燃焼三ヶ月半!さらに冷ますこと三ヶ月!窯出しは八月というビッグプロジェクトの完結を見ない訳にはいかないじゃないか、の意気込みで、2月10日(UPに一月以上もかかりました。笑)に仕事をずる休み?して出掛けて見て来ました。

場所は岡山駅前のシティミュージアムです。平日だったせいか、割りと人も少なくゆっくり観賞することが出来ました。

最高1200度まで上昇させ、107日間焚き続けた数千点の作品のなかから、「五石甕」 などの大甕、甕、大皿、花入など大小の作品約50点が展示されていました。

講演 「森陶岳、大窯プロジェクトについて語る」 も 2月7日(日)、14日(日)、21日(日)に有った様ですが、残念ながら都合が会いませんでした。

備前焼で、私が気にかけている若手(そろそろ中堅かな)作家さん(申し訳ありませんが、お名前は人気が上がり、私が購入出来ない事態が起きるとも限らないので、了見が狭いですが、教えられません、汗)の個展も近くで有ったので、一緒に行ってきました。
  
森陶岳先生(イメージしていたよりも背が高くて精悍な方です。)も居られて、握手していただきました。

古備前の凄さを改めて確認し、自身の慢心(そんな事は誰も思わないと思うのですが)に気が付き、古備前の技法復活に取り組見始めて、40年経過したそうです。

森陶岳大窯ならではの複雑な焼成環境が、過去には見られなかった独特の焼け色(これが備前焼?と思う物が有ったり、カビやねん菌の様な美しい、自然のビロード)を生み出していました。

森陶岳写真集1
(白いビードロ!粘菌にしか見えない窯変です。笑)

「公的工業試験場による成分分析では古備前と同等の数値を示すなど、大きな成果をあげた作品の数々をご覧ください」と、監修の白井洋輔さんがおっしゃる通り素晴らしの一言です。

先ず、入り口入って正面に五石瓶!五石ですよ、一合が180ミリリットル、一合の十倍が一升、一升の十倍が一斗、一斗の十倍が一石、さらにその5倍ですから、水を入れたら900リットル、約1トンです(笑)。

森陶岳写真集2
(写真集歪んでますが失礼します。)

身長174センチの私の肩位はゆうに有りました。

「何かに突き動かされてきました。後には引けません。陶芸人生のすべてをかけた挑戦です」との解説。

静かな口調ながら並々ならぬ闘志をみなぎらせる陶岳先生にとって、「新大窯」はまさに集大成であり、備前焼のみならず陶芸界にとっても画期的な一大プロジェクトなのです。

窯出しの作品がずらり並ぶ展覧会の開催が待たれるとの事でしたが、実現します。
森陶岳パンフ


写真の撮影が出来なかったので、サイン入り限定200冊の写真集を購入しました。

森陶岳サイン

陶岳先生に「次の火入れはいつ頃ですか?」と失礼にも質問してしまいました。

「そうだね~先ずは、この分を買って頂かないとね~、槇代が出ませんね~笑」とにこやかに笑われてました。

シティミーュージアムの1階上で岡山の常設展を行っておりましたので、そちらも見学して来たのですが、古備前の瓶も有りました。

陶岳先生の瓶の方が、数倍魅力的でした。
皆さんはどう感じたのでしょうか?気になりますね。

ランキング登録しています。お立ちより記念に「ぽちっと」クリックお願いします。
👇👇👇👇👇👇



2016/03/15

兵を失わずして勝つ事に徹した羽柴秀吉の『三木の干殺し戦』

以前にUPした、竹中半兵衛の墓の最後でお約束した『三木城趾』を紹介します。

昨年三木城址を訪ねたのですが、場所がわからずに、コンビニで聞くと、店長らしいおじさんが、丁寧に教えてくださったのですが、「うちの殿様ももう少しうまくやればな~」とおっしゃって、滅んでしまった地元の英雄『別所長治』を懐かしむ言葉に驚かされました。

三木城址6(以外?と大きいです)




前回、三木城攻略作戦について、お話させて頂きましたが、簡単におさらいします。

時代背景ですが、織田軍中国地方攻め司令官、羽柴秀吉小寺勘兵衛(黒田勘兵衛)の活躍も有り、播磨を平定した矢先の1778年(天正6年)三木城主、別所長治が毛利に通じて突如反旗を翻します。

備前、宇喜多直家の動向も未だに不明な時、 秀吉軍は播州(姫路)で前後ろを挟み撃ちされる形に成り、中国攻めを一時的に中断し(これにより上月城の尼子氏を見捨てざるをえなくなり、毛利軍吉川元春らに攻められて上月城は開城、尼子勝久は切腹し尼子氏は断絶、猛将山中鹿之助も謀殺されています。)、別所氏攻略に取りかかります。

別所家は播磨の名門(名門が故に新参の秀吉配下に反発した説も有ります。)、三木城は周りの一族、国人衆の支城も含めての籠城戦に入ります。

三木城址7(中心部だけ保存されています)

上月城を不本意ながら見限った事により、羽柴秀吉は三木城攻略に全力を注ぎます。
しかし、正攻法ではこの城は簡単には攻略できないと判断し、三木城を孤立させ兵糧攻めすることを決意します。

三木城址4

三木城址5(合戦絵図、夫人の活躍場面もあります)


羽柴秀吉は、周囲の支城をひとつひとつ落とすと共に、補給路の封鎖をはかり、あの有名な兵糧攻め(戦わずして勝つ!秀吉としては始めてで、その後の城攻めの転換点となります。)、戦術を取ります。

この籠城は、荒木重村小寺政職の離反応援も加わって、二年近くの長きに及びます。

毛利方も対信長の重要な拠点となる、三木城をなんとか助けようと、兵糧を三木城に送り込む事に力を注ぎますが、そのつど秀吉に阻まれます。

食料の届かない城内(領民も参加の籠城でした。)では、草はおろか、草木の根や虫、蛇、ネズミ、牛や馬まで食べつくし、飢え死にする者が続出したと記録されています。

天正8年(1580年)1月、三木城内の食料が完全に底をついた事を見越して、織田軍は三木城内の支城を攻撃、6日に長治の弟友之が守る宮ノ上砦を、11日に長治の叔父、吉親が守る鷹尾山城を攻略、残るは本城のみとなります。

14日、長治の叔父、重棟(重宗とも)の城中への勧告により、城主一族の切腹で城兵の命を助けるという条件がでます。
17日に長治一族が切腹(吉親は抗戦しようとして城兵に殺害)、1年10ヶ月に及ぶ篭城戦が終了します。

三木城址1

三木城址2

三木城址3
(辞世の句碑、『今はただ 恨みもあらじ 諸人の 命に代はる 我が身と思へば』 「 自分が死ぬことにより、長年親しんできた多くの 領民の命が救われると思えば何の恨み もない」。別に一族の物もありました。)

この戦いは、その凄まじいまでの城内の様子から「三木の干殺し」といわれるようになりました。

城兵や領民の命を助けるために、自ら切腹を選んだ、長治の遺徳が三木の皆さんの中に、名君として残っていることを感じた。三木城趾訪問でした。

三木城雲龍寺
(菩提寺「雲龍寺」)
別所長治首塚
(首塚!夫婦仲良く眠られています。花も綺麗で地元の人々の気持ちがわかりますね。)


ランキング登録しています。お立ちより記念に「ぽちっと」クリックお願いします。
👇👇👇👇👇👇
ブログランキングならblogram

2016/03/11

3・11のレクイエム「神戸淡路大震災」から「東日本大震災」へ

私こと、市良右衛門は、神戸市に住んでおりますが、阪神淡路大震災の時には、但馬の実家にまだ就職もせずに住んでおりましたので、我が家の小さな墓石が倒れた程度の被害ですみました。

東日本大震災の時にも、鳥取県米子市に単身赴任しており、何一つとして被害を受けることは有りませんでした。

神戸には震災後20年住んでおりますし、東北青森には学生時代も含めて、10年程住んで居りました。
幸いにも両震災では、何も被害を受けませんでしたが、神戸・東北共に第二の故郷とも呼べる、とても愛着の有る場所です。

それだけに、二年前の夏にお友達に「東日本大震災」の体験談を聞いて、衝撃と共に感銘を受けたので、是非皆さんにも知って、考えて頂きたいと思い、お友達の体験談を公開することにいたしました。

【2014年夏のレクイエム】はお友達の実体験の手記を記録したものです。

できる限りそのままの形で公開しますが、差しさわりのある名前などは少し訂正しました。

【2014年夏のレクイエム】
(文章の一人称はお友達のことです)

東日本大震災かぁ…。
思い出したく無くても、頭から離れない。
忘れたいけど、忘れちゃいけない。
いろいろ、酷いものも見ました。
でもあの時、多くの被災者はじっと耐え、規律を守り、乗り越えました。

ここからは、私の体験談です。
私の場合、被災者の中でも恵まれた方だったと思います。
面白い話しでは有りませんし、文章力も有りません。

大震災があったあの時、私は宮城の港町(海から100m 足らずのところ)で仕事をしていました。

一度目の揺れが止まり、従業員の安否確認をしようとしたとき、二度目のさらに大きな揺れに襲われました。
どちらもそれまの人生で体験した事が無いくらい、巨大な揺れでした。

程なくして津波警報が出され、私は近くの高台に避難しました。
回りには同じ様に避難してきた人・人・人。
皆着の身着のままの格好です。
3月でも冷え込む中、降り始めたみぞれは私達の体力を奪って行きました。

きっと大丈夫。
前の三陸沖地震でも大丈夫だった。
私の周りで年配の方々は、口をそろえておっしゃいました。

防災無線からは津波注意の声。
私も周りの人々も、家族への安否連絡のため携帯電話をかけようとしましたが、回線がパンクしていて、なかなか繋がりません。

やっと実家の母に電話が繋がり、大丈夫と伝えた時、防災無線から津波の予想高さが発表されました。
『津波の予想高さ10m』
私は耳を疑いました。

私達が居る高台はせいぜい8m 程です。
10m の津波なんて到底助かりません。
私はあの時、初めて死を意識し、そして覚悟しました。

多分、母にかけていた電話の声は震えていたでしょう。
私は最悪の事態も有りうる事、私に万が一の事が起こり、私の飼い猫が助かった場合猫の事を頼み、これ迄の感謝を母に告げ、最後まで生きる為に足掻く事を約束して、電話を切りました。

高台では少しでも高い場所へと人が殺到しています。
一人の男性がその様を制し、赤子連れ、子供、老人を優先に高い場所を確保出来るように呼び掛けました。

さすが日本人です。
その男性に従い、皆場所を譲ります。
第一波到達。
第二波到達... 津波の到達が度々報告されるなか、私は自分達の避難場所に津波が来ない事を不思議に感じました。

その時津波は湾の入り口にいた私達の場所ではなく、湾の奥にある市街地に、濁流となってなだれ込んでいたのです。

夕闇が降り始め、津波が高台まで来ないと判断した私は、帰宅するためのルートを考え始めました。

幸い、会社に置いてきた車は無事。
丘と山を抜けて行けば... 猫の安否が気がかりで、私の頭には避難所という考えは有りませんでした。
真っ暗になった道を車のライトだけで走ります。
電気も止まって、左右は全く見えません。
道は、でこぼこの起伏があり、さらには道路を一本違えたら津波に遭遇するという、恐怖の中を運転しました。

実際、水没した道路を確認する度に、迂回しながら、ようやく自宅(高台にあるマンション6階)にたどり着き、怯えていた愛猫をみたとき、緊張の糸が切れて涙が溢れ出てきました。

翌日、変わり果てた町を歩き会社に行きました。
市街地では2m 以上の浸水。
港には打ち上げられた大型漁船。
えぐられた堤防。
傾いた道路。
津波で流され重なった車。
倒壊した建物。
これ迄当たり前だったものが、自然の前ではこうも脆いのか...

それから3週間。
水、電気の使えない生活(ガスは使えました)。
猫と居るため避難所に行かなかった私は、露店のような仮設の闇市みたいな所(お値段は2~3倍です)で食料を買い、ガスや塩で保存食を作り、細々と生活していきました。

オチも何も有りません。
失ったもの、得たもの、変わったもの、私の中でいろいろあります。
たかがこの程度ですが、最後まで読んで下さった方々に感謝を致します。

震災の話は、被災地に居る限り話す事は無いと思うし、話すべきで無いとも思います。
でも誰かに聞いて欲しいと思う矛盾も抱えてます。
ですから少しだけ?お話ししました。

今では、少しずつですが、海岸沿いにも家が建って来ました。
人間は強いです。

三陸の基幹産業は漁業です。
行政の復興は少しも進まない中でも、漁師さん中心に被災者の皆は必死に頑張っています。

緊急セットは準備しておいて下さい。
私は震災以降、3日分位の私の食料と2週間位の猫の食料を常備してます。
いざというときの為に是非皆さんも考えて下さい。

私個人は、被災者としては、望むべくも無いぐらい恵まれてました。
家族を失わず、家を失わず、仕事も失いませんでした。

あの震災おかげで、精神的に強くもなり、また弱くもなりました。

まだまだ宮城県でも立ち直れていない人はたくさんおられます。
岩手県や福島県でも同じでしょう。

しかしながら、私は、そんな人達が前を向いて進める様に、あるいは前を向けた時のために、活気ある街に戻して行きたいと考えます。

私に出来ることはとても小さくとても少ないと思いますが。


【友人の体験談はこれで終わりです】

私(市良右衛門)は阪神淡路大震災の時、神戸に住んでは居なかったけど、テレビ映像に「神戸は壊滅した!」と感じたのを記憶しています!
阪神高速が潰れ、長田が炎に包まれている映像は、私の脳裏に焼き付き今でもはっきりと思い出す事ができます。

其から20年!月日が神戸を元の美しい街に戻しています。

桜1(復興した神戸は満開の八重桜のイメージです)

東日本大震災で最初に見た映像は、宮城空港が津波に呑み込まれる映像でした。

未曾有の大災害!しかしながら、私は神戸と同じように、東北地方の復興を信じて疑いません。

日本人(ここで私が言う日本人とは、法律や書類上ではなく、この美しい山々や河、森や海に対して畏敬の念を感じる精神性を持つ人々の事です)は必ずそれを成し遂げるでしよう。

ある外国人宣教師が、自衛隊の給水を並んで整然と待つ被災者を「まるでキリストのパンを待つ聖者の行列に見えた」と世界に配信していました。

今正に、自分がどうなるか解らない状況に置かれた時!何を成すべきか?その答えがお友達の手記の中に有ると思います。

私には何も出来そうに有りませんが、大丈夫!お友達や私の大好きな東北は、
石割り桜 の様に、必ずや石を割って咲き誇ることを信じて疑いません。

昨日アップした「壬生義士伝」の中にこんな台詞が有ります。

「ええか、みな良ぐ聞け。南部盛岡は江戸より百二十里、奥州街道の涯ゆえ、西国のごとき実りはあり申さぬ。おぬしらが豊かな西国の子らに伍して身をばたて、国ば保つのは並大抵のことではねえぞ。盛岡の桜は石ば割って咲ぐ。盛岡の辛夷は、ほれ見よ、北さ向いて咲ぐではねえか。 んだば、おぬしらもぬくぬくと春ば来るのを待つではねえぞ。南部の武士はらば、みごと石はば割って咲げ。盛岡の子だれば、北さ向いて咲げ。春に先駆け、世にも人にも先駆けで、あっぱれな花こば咲かせてみよ」

桜2(盛岡は純白の桜をイメージします)


私の知人の東北人は、私が持っていたイメージとは全く違う、ポジティブな方ばかりです。
時間は掛かるかもしれませんが、必ず復興は成し遂げられると信じております。

桜3(私の知る東北の桜はソメイヨシノと違って緑の葉と共に花開きます

東北で被災された方々に、神戸より心からのエールを送りたいと思います。

ランキング参加しています。お立ち寄り記念に「ぽちっと」クリックお願いします。
👇👇👇👇👇👇

にほんブログ村