2018/03/24

禁断の近代史へ『ペリリュー ─楽園のゲルニカ─ 』を読んで!

以前からお話していますように、右寄りの考え方を持っている私(だからと言って、戦争肯定論者でも戦前の大陸侵攻が正しかったとも考えておりません。)は、公平な歴史ブログの観点から、議論を呼ぶと思われる近代史(第二次世界大戦前後)を避けてきました。

P3241077.jpg(日本軍兵卒の視点からペリリューの『徹底持久』戦を描いています。米軍上陸!)

天皇皇后両陛下が慰霊された事で、戦闘方法方針の転換期と成ったぺリリュー島には、興味を持っていましたが、今回書店で、日本軍兵卒の視点からペリリューの『徹底持久』戦を描いたコミック『ペリリュー ─楽園のゲルニカ─ 』という、漫画本が目に留まり読んでみたところ、片寄りのない事実に近い物語の中で、いかに戦争が恐ろしく、繰り返してはいけない事であり、私の子どもの様な若い青年が、地獄の戦闘にさらされて何を見たのか、等の観点から心を打つものが有りましたので、是非ともご紹介したいと思いタブーを、一時的に解禁することにしました。ペリリュー島の戦いを知らない若い人達に是非とも読んで頂きたいと思います。

それでは、『市郎右衛門』の自分史ブログ(笑)をお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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(太平洋戦争全域図、いかに無謀な戦いだったのか分かる広さです。)

【ペリリュー島の戦いとは】

P3241082.jpg(米軍上陸三日後からが描かれています)

ペリリューの戦い(英: Battle of Peleliu)は、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)9月15日から11月27日にかけペリリュー島(現在のパラオ共和国)で行われた、日本軍守備隊(守備隊長:中川州男陸軍大佐)とアメリカ軍(第1海兵師団長:ウィリアム・リュパータス海兵少将、第81歩兵師団長:ポール・ミュラー陸軍少将)の陸上戦闘のことです。アメリカ側の作戦名は『ステールメイトII作戦(Operation Stalemate II、stalemateは「膠着」の意味)』。

1944(昭和19)年7月にマリアナ諸島が陥落し、絶対国防圏が破られた日本は、疲弊した戦力を回復し、日本本土の防備を固めるために、時間を稼がねばなりませんでした。そのため、援軍の見込みのない太平洋の島々では、守備隊が強力な陣地を築き、長期にわたって徹底抗戦する戦術に変化していきました。

戦争:太平洋戦争(大東亜戦争)
年月日:1944年9月15日~11月27日
場所:パラオ諸島 ペリリュー島
結果:アメリカ軍の勝利

大日本帝国指揮官 中川州男
アメリカ合衆国指導者 ウィリアム・リュパータス、ポール・ミュラー

『戦力』

「大日本帝国」
歩兵第2連隊
歩兵第15連隊2個大隊
など10,900 (内軍属3,000~)
戦車17輌
稼働航空機少数

「アメリカ合衆国」
47,561(他海軍も含めると54,000)
戦車117輌
航空機1800機

『損害』
「大日本帝国」
戦死 10,695
捕虜 202
生存34

「アメリカ合衆国」
戦死2,336
戦傷8,450
戦病者2500以上

ペリリューはこれまで行われていた、「万歳突撃」を廃止し、最後の一兵卒までが徹底交戦するという、消耗戦を日本軍が最初に採用したことで知られています。要塞化した洞窟陣地などを利用しゲリラ戦法を用いるという、日本軍が見せた組織的な抵抗戦術はアメリカ軍を苦しめ、後の硫黄島の戦いへと引き継がれていくことになります。 ペリリュー戦は第1海兵師団(海兵隊最大最強部隊)が壊滅した唯一の戦いでもあります。

【背景日本側の事情】

パラオは第一次世界大戦後に国際連盟による日本の委任統治領となり、1922年南洋庁がコロール島に設置されて内南洋の行政の中心となっていました。日本人はパラオに米食の習慣を定着させ、なすやきゅうりなど野菜やサトウキビ、パイナップルなどの農業を持ち込み、マグロの缶詰やカツオ節などの工場を作って雇用を創出しています。道路を舗装し、島々を結ぶ橋をかけ、電気を通し、電話を引くなどの、ライフラインも整備しています。

南洋興発などの企業が進出し、水産業、リン鉱石採掘業と小規模なパイナップル農業が企業化されていて、1943年にはパラオ在住者は33,000人おり、その内の7割は日本本土、沖縄、日本が統治する朝鮮や台湾などから移り住んできた人達でした。

国際連盟規約に基づく委任統治領の軍備制限により、パラオへ要塞など軍事的な根拠地を構築することは禁止されて、パラオ本島(バベルダオブ島)に民生用として小規模な飛行場があるだけでしたが、国際連盟脱退後はパラオは重要な軍事拠点のひとつとして整備が進められます。1937年にパラオ本島飛行場の拡張とペリリュー島に飛行場の新規建設が開始され、1941年太平洋戦争開戦時のペリリュー島には1200m滑走路2本が交差して上空からは誘導路含め 4 の字に見える飛行場が完成します。 そしてペリリュー島の300m北隣のカドブス島にも滑走路1本が造られ、両島の間には長い桟橋が伸びていて橋として渡ることができました(戦闘の破壊から免れたコンクリート製橋脚の一部が2010年現在でも遺されています。)。1943年9月30日絶対国防圏の設定、10月11日付「作戦航空基地ニ関スル陸海軍中央協定」により、防衛体制の整備が進められていったのでした。

内南洋での日本海軍根拠地に対してアメリカ機動部隊は、1944年2月17日にトラックを、同年3月30日にはパラオを空襲し、その機能を喪失させます。3月31日古賀峯一連合艦隊司令長官は連合艦隊司令部をミンダナオ島ダバオへ移そうとして海軍乙事件が起きてしまいます。海軍乙事件とは、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)3月31日、連合艦隊司令長官 古賀峯一海軍大将が搭乗機の墜落により殉職した事件です。事件の際に、日本軍の最重要軍事機密文書がアメリカ軍に渡ってしまっています。

中部太平洋のアメリカ軍侵攻ルートを地図上にたどれば、タラワ、マーシャル、トラックとほぼ一直線に並んでおり、その先にはパラオがありました。大本営はその状況から、アメリカ軍はパラオ経由でフィリピンに向かうものと判断し、西カロリン、西部ニューギニア、フィリピン南部を結んだ三角地帯の防備を強化して、アメリカ軍へ反撃を加える構想を練り上げていました。

ニミッツ軍とマッカーサー軍の二方面で進攻してくるアメリカ軍を迎え撃とうとします。しかし海軍乙事件での連合艦隊司令部壊滅により、二方向の予想アメリカ軍進攻ルートは合流してフィリピンに向かうものという一方的な想定に変わり、西カロリン、西部ニューギニア、フィリピン南部の三角地帯の内側に有るパラオは、グアムやサイパンの後方支援基地としても、パラオは当時の日本軍にとって戦略的価値が急浮上していました。

日本陸軍は絶対国防圏を守るため、中部太平洋方面防衛の第31軍の作戦地域にパラオを含め、関東軍最強と呼ばれてマリアナ諸島への配備を予定していた第14師団(照兵団)を1944年4月に東松5号船団によってパラオへ派遣しました。

第14師団麾下の水戸歩兵第2連隊が中核となってペリリュー島の守備に当たらせ、パラオ本島とマラカル島には状況に応じて機動的に運用できる予備兵力として高崎歩兵第15連隊を基幹とした兵力を配置しています。彼らは大本営よりアメリカ軍の戦法についての情報伝達を受け、水際の環礁内の浅瀬に乱杭を打ち、上陸用舟艇の通路となりそうな水際には敵が上陸寸前に敷設できるよう機雷を配備して兵士を訓練し、サンゴ礁で出来ていてコンクリート並に硬い地質を利用して500以上に及ぶといわれる洞窟には坑道を縦横に掘り回して要塞化するなど、持久戦に備えた強固な陣地を築きアメリカ軍の上陸に備えました。

日本海軍も、西カロリンにアメリカ機動部隊が1944年5月末から6月中旬頃に進攻してくると予想して、新設の第一機動艦隊(空母9隻、搭載機数約440機)と基地航空隊の第一航空艦隊(約650機)を軸に決戦の必勝を期し、ペリリュー島飛行場にも第61航空戦隊の、零式艦上戦闘機(第263海軍航空隊と第343海軍航空隊)、月光(第321海軍航空隊)、彗星(第121海軍航空隊と第523海軍航空隊)、一式陸上攻撃機(第761海軍航空隊)が分遣されています。

アメリカ軍の動きは速く、6月11日マリアナへ来襲、6月15日サイパン島に上陸しています。日本海軍は敗戦を重ね、この時点でパラオ防衛の戦略的価値は、単にアメリカ軍のフィリピン侵攻の足がかりに利用されるのを防ぐという意味しかなくなってしまっていた。

【アメリカ側の事情】

太平洋方面のアメリカ軍首脳部は、マリアナ攻略戦の最中に今後の進撃ルートの再検討を始めた。アメリカ海軍チェスター・ニミッツ提督は「マリアナの後、フィリピン、台湾を目指し、台湾を拠点として海上封鎖とアメリカ陸軍航空軍による戦略爆撃で日本を降伏に追い込む」のを目指していた。アメリカ陸軍ダグラス・マッカーサー大将は「ニューギニア西方に位置するモルッカ諸島のモロタイ島からフィリピンのミンダナオ島、レイテ島を経由して、日本本土侵攻」をも視野に入れていた。するとアーネスト・キング海軍作戦部長が「南方資源地帯と日本本土の間のシーレーンを遮断し、フィリピンは迂回して台湾に上陸、中国大陸沿岸部の到達を目指すべきで、最終的に日本本土を攻略」と主張し陸海軍の混乱は収拾がつかなくなっています。

結局フランクリン・ルーズベルト大統領の指示によりアメリカ統合参謀本部がフィリピン侵攻に至る作戦計画を作成して、混乱は収拾されました。計画では「1944年9月15日マッカーサーの陸軍主体の連合国南西太平洋方面軍が担当するモロタイ島攻略実施。海軍主体の連合国中部太平洋方面軍が担当して同日パラオのペリリュー島とアンガウル島、10月5日ウルシー環礁の攻略実施。11月15日ミンダナオ島へ、12月20日レイテ島へ上陸」という予定で、9月11日の第2回ケベック会談でイギリスのウィンストン・チャーチル首相に対して発表されます。

パラオ侵攻についてウィリアム・ハルゼー中将は「ペリリュー攻略はタラワの戦いのように多大な損害を強いられるだろうし、アメリカ機動部隊の空襲でパラオの日本軍飛行場と航空戦力はもはや脅威ではないからパラオは迂回すべきである」と正確に情勢判断しており、艦隊泊地として利用価値のあるウルシー攻略を優先するようニミッツへ意見具申していましたが、ニミッツはマッカーサーの陸軍と張り合う立場上から「ミンダナオ島から800kmしか離れていないパラオから日本軍が、アメリカ軍のフィリピン攻略部隊へ航空攻撃を仕掛けてくる懸念がある。」「フィリピン進行への航空作戦の拠点ともなる前進基地を確保する。」という理由づけで、パラオ攻略作戦を計画して実行に移すこととなります。 それは海軍の肩を持つルーズベルトの指示で練られ、イギリスなど同盟国にも説明済で準備も進められているパラオ侵攻計画を覆すことにもなるハルゼーの意見が到底受け入れられる筈も無かったのです。

ペリリュー島の上陸部隊は、ガダルカナル島の戦いによりアメリカ軍最強とうたわれ、ニューブリテン島西部でのグロスター岬の戦いも経験し、日本軍相手に敵前上陸とそれに続く激しい攻防戦での戦訓を得ていて、強大化され士気も旺盛な第1海兵師団が担当することとなります。師団長ウィリアム・リュパータス海兵少将は、ガダルカナル戦当時は准将で同師団の副師団長としてツラギ上陸部隊を指揮し、その後のニューブリテン島では師団長として戦闘を経験した強者でした。

【戦力比較】

P3241088.jpg(その後の戦闘から、11月24日までを描く続刊)

『日本軍』
「陸軍」
総員 約10,500名
第14師団歩兵第2連隊(連隊長:中川州男 大佐)
第14師団派遣参謀:村井權治郎少将海軍
「海軍」
西カロリン航空隊司令:大谷龍蔵大佐
「朝鮮人労働者」
3000人(当時は日本人)

「日本側装備」
小銃5,066挺
九六式軽機関銃200挺
九二式重機関銃58挺
九七式中迫撃砲(長)ほか火砲約200門
九五式軽戦車17両

『アメリカ軍』
総員 48,740名
第1海兵師団 24,234名
第81歩兵師団 19,741名
付属海軍部隊 4,765名

「アメリカ側装備」
小銃、自動小銃41,346挺
機関銃1,434挺
拳銃3,399挺
火砲729門
戦車117両
バズーカ砲180基
戦艦5隻(ペンシルバニア、メリーランド、ミシシッピ、テネシー、アイダホ)
重巡洋艦5隻(インディアナポリス、ルイビル、ミネアポリス、ポートランド)
軽巡洋艦4隻(クリーブランド、デンバー、ホノルル)
駆逐艦14隻

日本側の朝鮮人労働者数(軍属)を兵数としてカウントするべきか否かは議論の余地があるが、実質的に日本軍の兵力はアメリカ軍の6分の1以下だったと言える。また戦力差については航空機による爆撃、軍艦からの艦砲射撃等を考慮するとアメリカ側が少なくとも数十~数百倍の火力で日本軍を圧倒しています。

【戦闘経過】

P3241094.jpg(組織戦闘は終わりを告げるが、米軍の掃討戦が始まります。5巻はまだ発売されていません。)

戦闘経過については長くなりますので、簡単に説明させてください(本を読んでいただけるとよくわかります)。日本軍約1万名が玉砕、米軍の死傷率も史上最も高く「忘れられた戦場」と呼ばれるパラオ諸島・ペリリュー島。「こんな島、3日もあれば占領できる」と豪語した米軍を、日本軍は6分の1の兵力で、73日間にわたり釘付けにしました。昭和19年9月、サイパン、テニアン、グアムを攻略した米軍の次の目標はペリリュー島飛行場でした。フィリピン総攻撃態勢を敷く米軍にとって、放置すれば日本軍航空機がフィリピン攻略の邪魔となり、占領すれば飛行基地として使用できる。ペリリュー島の戦いは「東洋一」といわれた飛行場の争奪戦でした。

9月15日早朝、南北9キロ東西3キロの小島にガダルカナル上陸以来、その精強をうたわれたウィリアム・M・ルパータス少将率いる米海兵隊の第1海兵師団2万8000名が上陸を開始。ルパータス少将は「こんな小さな島は3日間もあれば占領できる」と豪語し、2個師団約4万名の海兵、陸軍部隊をつぎ込みました。

迎え撃つのは関東軍最強と呼ばれた第14師団(照兵団)麾下の歩兵水戸第2連隊(連隊長・中川州男大佐)、高崎第15連隊を中心とする守備隊9838名。中川大佐は隆起珊瑚礁の島の至る所にある自然の洞窟を縦横無尽に拡張して要塞化していました。米軍上陸前、3日間にわたるすさまじい艦砲射撃や航空機爆撃にさらされ、豊かなジャングルは消え、辺りは一面、瓦礫の山となりました。

守備隊は、自殺的な突撃である、いわゆる「バンザイ攻撃」を行わず、1発1殺、1人1殺を貫いた。この敢闘に米第1海兵師団は敗北、特に上陸第1陣を担った第1海兵連隊は惨敗し、後方基地に撤退しました。それでも、最後には玉砕必至とみていた中川大佐は、内地にこう連絡していました。

通信断絶の顧慮大となるをもって最後の電報は左記の如く致したく承知相成(あいなり)たし
一 軍旗を完全に処し奉(たてまつ)れり
二 機秘密書類は異狀なく処理せり
右の場合、サクラを連送(サクラサクラ)するにつき報告相成たし

各地で敢闘するも、米艦隊に包囲され、補給路を断たれた守備隊は弾薬も食料も途絶え、11月24日、中川大佐らが自決、電文が打たれました「サクラ、サクラ、サクラ 我が集団の健闘を祈る」。11月27日、米軍が全島を占領し戦闘が終結します。しかし戦死2336名、戦傷者8000名以上を出した米軍に甚大な損害を与えました。3日間で終わるはずの戦いは上陸後、73日間に及んでいます。

守備隊の抗戦は米軍の予想をはるかに上回る敢闘であり、ペリリュー島神社に建立された碑には米太平洋方面艦隊司令長官C・W・ニミッツの言葉も刻まれています。

諸国から訪れる旅人たちよ
この島を守るために日本軍人が
いかに勇敢な愛国心をもって戦い
そして玉砕したかを伝えられよ
――米太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ

ペリリュー島の戦いがあったのは、すでに日本の戦局が悪化していた1944年9月15日からの73日間。日本軍が、それまでの自決覚悟で一斉突入して玉砕する「万歳突撃」をやめ、持久戦で時間稼ぎをするよう方針転換がなされた最初の戦いとなりました。兵士らは塹壕に潜んでゲリラ戦を続け、約1万人が亡くなっています。最後まで戦って生き残った日本兵はわずか34人。米海兵隊の死傷率も、史上最も高い約60%に上っています。その犠牲の多さと過酷さから、ほとんど語られることのない、「忘れられた戦い」と言われていました(私も両陛下の慰霊が行われるまで知ることはありませんでした)。

NHKスペシャルを見たのも、ペリリュー島の戦いを知るきっかけとなりました。
NHKスペシャル 狂気の戦場 ペリリュー~“忘れられた島”の記録~

昨年、NHKがこの戦いを撮影したフィルム113本を米国立公文書館などで見つけ、両軍の元兵士らへのインタビューと併せて、ドキュメンタリー番組として放送した。約13時間の映像は、米軍のカメラマンたちが撮影したもの。銃弾が飛び交う接近戦の状況や、死傷した両軍兵士の姿、さらには当時は最新兵器だった火炎放射器で日本兵が籠もる塹壕を焼き尽くす様子なども、カラー映像で映し出された。この番組『NHKスペシャル 狂気の戦場 ペリリュー~“忘れられた島”の記録~』は、今でもNHKのサイトから見ることができます(視聴料は3日間で216円)。

活字メディアや現在の映像ではなかなか伝わりにくい、戦争のむごたらしさを映し出した映像には慄然とさせられました。双方の軍人の累々とした死体。すでに戦いを放棄している日本兵にも、容赦なく銃弾が撃ち込まれます。放置された日本兵の遺体にハエがむらがる映像が映し出す映像は本当に無残なものです。

恐怖のあまり、精神状態がおかしくなった米兵の姿も映されています。精神が錯乱して大声を上げた兵士が、相手方に居場所を知られてしまわないよう、味方に射殺された、と語る元兵士の証言。手足を縛られ、自軍に殺害されたと見られる日本兵の遺体もありました。「投降は許されなかった」など、そうした制裁があったことを裏付ける日本兵生存者の証言もあります。こうした映像や証言は、どれだけの費用をかけてつくった映画やドラマでも、とうてい伝えきれないほどの衝撃力を持っています。映像の力と体験者の証言の意味をあらためて感じさせられる番組でした。

【戦いの終わり】

ペリリュー島上陸と同日にマッカーサーが率いる南西太平洋方面軍の陸軍部隊がモロタイ島に上陸し、ニミッツの海軍主体の中部太平洋方面軍との間で張り合う格好でしたが、モロタイ島攻略は米側死傷者44名と軽微な損害だけで簡単に終了します。海兵隊がペリリュー島から交代した頃には、アメリカ軍のフィリピン攻略の中継地点にモロタイ島が利用されており、レイテ沖海戦が行われていて、日米の主要な戦場は既にフィリピンに移っていました。アメリカ海軍のマッカーサーへの対抗上からも、また海兵隊のアメリカ軍部内での存在意義を示す(つまり「敵前強行上陸を行って前進根拠地を確保する戦力である」と証明する)意味からも、早期攻略が為し得なかったことでアメリカ軍にとってのペリリュー攻略は、もう戦略的価値はなくなっていました。

11月24日にはついに司令部陣地の兵力弾薬もほとんど底を突き、司令部は玉砕を決定、地区隊長中川州男大佐(歩兵第2連隊長)は拳銃で自決。村井権治郎少将(第14師団派遣参謀)、飯田義栄中佐(歩兵第15連隊第2大隊長)が割腹自決した後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られ、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵力による「万歳突撃」が行われました。 こうして日本軍の組織的抵抗は終わり、11月27日、ついにアメリカ軍はペリリュー島の占領を果たすこととなります。南カロリン諸島の司令官J・W・リーブス少将は「ペリリュー島で、予定を大幅に超過したものの、敵の組織的抵抗を崩壊させて、作戦を成功に導けたことに心からお祝い申し上げる。」と第81歩兵師団(ワイルド・キャット師団)に労いの言葉をかけたが、第1海兵師団リュパータス師団長の「激しいが短い、長くて4日」の作戦は結果として73日もかかったことになりました。

戦闘終了後、ワイルド・キャット師団の兵士が、最後の最後まで激しく抵抗した日本軍の司令部壕に恐る恐る入ると、中川大佐と村井少将の遺体を発見しました。二人の遺体は所持品により確認され、敬意をもって丁重に埋葬されます。ワイルドキャット師団のペリリューの戦闘報告書には「日本軍守備隊は、祖国の為に、全員忠実に戦死せり」と書かれました。ペリリュー守備隊の異例の奮闘に対して昭和天皇から嘉賞(今でいえば佳賞ですが当時天皇陛下からの直接褒められるわけですから、そりゃ士気も上がりますよね。)11度、上級司令部から感状3度が与えられ、中川は死後に2階級特進し陸軍中将となります。

司令部全滅後も他の陣地に籠っていた関口中尉以下50名がアメリカ軍の掃討作戦をかわし遊撃戦を展開しました。1945年1月には関口中尉が戦死し、山口少尉を最高位として34名が生き残っていました。その34名はアメリカ軍の食糧貯蔵庫を襲撃し3年分の食糧を確保すると手製の蛮刀と手榴弾で武装し、アメリカ軍の遺棄物資や手作りの生活用品を用いながら2年近く洞窟内で生きながらえたが、1947年4月22日に澄川道男少将の誘導により米軍へ投降しました(勿論戦争は1945年8月15日敗戦)。この生き残りの34人は後に「三十四会」(みとしかい)という戦友会を結成しておられるそうです。

【ペリリュー戦は何だったのか?】

アメリカ海兵隊の評価は「日本軍はアメリカ軍に多大な犠牲を負わせる事によって、長期に渡る遅滞・流血戦術を実行する事に成功した。ペリリューで被った多大なコストは、日本に向けて太平洋を進む連合軍に大きな警鐘を鳴らした。海空で圧倒的優勢であり、莫大な量の艦砲射撃やナパーム弾を含む爆撃と4倍(実質6倍)にもなる兵力差であったにも拘わらず、日本兵1名の戦死ごとにアメリカ兵1名の死傷と1,589発の重火器及び小火器の弾薬を要した。この戦いは数か月後には硫黄島と沖縄での、日本軍の見事に指揮された防御戦術に繋がる事となった。」と中川大佐による、アメリカ軍になるべく多くの出血を強い、長い期間ペリリュー島に足止めする作戦が成功し、日本軍の頑強な抵抗が、後の硫黄島戦と沖縄戦の前哨戦となったと評価しています。

アメリカ軍内では日本軍の頑強な抵抗への評価が高い一方で、ペリリュー島攻略のメリットがその莫大な損失に見合うものだったのか?と言う疑問が今日でも投げかけられています。 陸軍第323連隊が無血占領したウルシー環礁が天然の良港で、ペリリュー島より遥かに基地を構築するのに非常に適した島であり、アメリカ海軍はここに巨大な前線基地を構築し、その後の硫黄島戦や沖縄戦での重要な拠点となりました。一方、当初の目的であったフィリピン戦への航空支援基地としての役割についても、ペリリュー島の飛行場が整備されフィリピンへの支援ができるようになったのはダグラス・マッカーサーがレイテ島に上陸してから1ヶ月も経った後の事であり、その時点では大きな戦略的価値を失っています。その為、アメリカ国内においても、ペリリュー戦はほとんど顧みられる事はなく、同時期に行われたフィリピン戦やヨーロッパ戦線のマーケット・ガーデン作戦などのニュースが新聞紙面を飾っていました。第1海兵師団戦史担当者も「激しく戦って、たくさんやられて、見返りが少ない。第一海兵師団ではいつもの事だよ。」と自虐気味に振り返っています。

アメリカ軍高官の中でも第3艦隊のウィリアム・ハルゼー提督が「(パラオの攻略は)あまりに価値に見合わない対価を払わされたと考えている。」と当初からペリリュー島を含むパラオ攻略に反対であった自分の考えは正しかったと主張し、上陸部隊を艦砲射撃で支援したオルデンドルフ少将も「パラオ攻略作戦は疑問の余地なく実施されるべきではなかった。」と辛辣な評価をしています。また、ダグラス・マッカーサー元帥は、ペリリュー攻略が自らのフィリピン攻略作戦の支援になると考え、海兵第1師団の上陸直前に「海兵隊諸君の勝利は、フィリピン上陸作戦の成功をより確固たるものにするはずであり、私は海軍ならびに海兵隊諸君らの作戦に全幅の信頼を置くものである。」と録音にて全軍に演説した程に作戦当初は入れ込んでいたが、戦後に「中部太平洋ではそれほど運がよくなく、パラオ諸島攻略に8,000名以上の死傷者を出した。」と他人事のように振り返っています。

一方でステールメイトII作戦の最高責任者であった太平洋方面軍司令チェスター・ニミッツ元帥は「(ペリリュー島の利便が)2,000名の戦死者を含む10,000名のアメリカ軍死傷者に見合うものであったかどうかについては疑問の余地があるかも知れないが、一方、パラオが日本軍の手に完全に残された場合、マッカーサーのフィリピン進撃に対して真の脅威になったであろうことには疑問の余地はない。」とその意義を強調しています。

ペリリュー戦で実際に戦った兵士の感想として、負傷したトム・ボイル二等兵は、ペリリュー戦の意義を戦後50年近く経ってから「人生締めくくりの今に振り返ってみるとそれなりに貴重な体験だった。でも惨めな体験でもあった。でも、あまり誰にでも勧められるものではないよ。なぜなら生き残る事が難しいからね」と回想しています。


【損害編集】

『日本軍』
戦死者 10,695名
捕虜 202名
最後まで戦って生き残った者34名

『アメリカ軍』
戦死者 2,336名
戦傷者 8,450名

この他に戦病になった者が数千名いた(第81歩兵師団だけで2,500名以上はいる第1海兵師団も含めると5,000以上居るという説があります)

『一般人民』
陣地構築に徴用されていたが、日本軍が戦闘前に強制退避させたため死者・負傷者ともに0名とされます。差別を助長し日本軍を美化する気持ちではありませんが、太平洋戦争で初めて非戦闘員である現地の住民を他の島に避難させて、一般人の死者を一人も出さなかった稀有な戦いでもあります。優しい日本軍の兵隊になついた地元の人達が一緒に残って戦う、と願い出た人々もいたようですが、「貴様ら土人と一緒に戦えるか!」と守備隊長中川大佐が一喝し、島民全員を船に乗せ退去させています。その際最後まで手を振っていたのは、中川大佐ご本人だったそうです。

戦果だけで判断すると、死傷者の合計で互角日本軍がいかに善戦したか分かります。参考になるか疑問ですが、数学的解析方法があります。「ランチェスターの法則」と呼ばれるものです。ペリリュー戦の後に同じく徹底抗戦が行われた硫黄島を解析した数値があります。

J.H.エンゲルE1954は、戦争における戦死者数を数理モデルにもとづいて記述したランチェスターの二次法則に従って、硫黄島の戦いの戦死者数を解析し、実データと比較しています。この結果、実際の死傷者の時間変化を表すグラフと理論から導かれる死傷者数のグラフがわずかな誤差で一致する事を確認できます。

硫黄島の戦いにおいては、日本兵1人の戦闘能力と米兵の1人戦闘能力の比を表す交換比Eをこのモデルに従って計算して見ると以下の値を得ることが出来ます、日本軍は不利な状況下にありながらも5倍もの交換比で善戦した事が分かる数値です。つまり日本軍人の戦闘力はアメリカ軍人の五倍となります。

E = 5.132

【『ペリリュー ─楽園のゲルニカ─ 』について】

P3241069.jpg(是非若い人に読んでもらいたい作品です。)

戦争漫画にも関わらず、キャラクターがかわいらしいぶん、現地の過酷さや当時の状況が不思議とリアルに伝わってくるような気がしました。漫画家の武田さんがしっかりと取材されているので是非ペリリュー戦争の現実を知ってもらいたいです。ゲルニカはチョコレートの唐辛子の時にも少しだけ説明しましたが、スペインのバスク地方の都市です。ピカソの「ゲルニカ」でも有名ですね。スペイン内戦中の1937年4月26日には、フランシスコ・フランコらの反乱軍による北方作戦の一環としてゲルニカ爆撃が行われました。同軍のエミリオ・モラ将軍は1937年3月末から同地方の攻略にかかっており、ドイツ空軍遠征隊であるコンドル軍団の爆撃隊がその支援として空襲を行っています(その悲劇を描いたのがピカソの「ゲルニカ」です)。

戦後70年を超え、当事者の直接体験を聞くことが難しくなる中で、私たちよりもさらに下の若い世代に伝えていくことはさらに難しいと思います。そのために、しっかりと事実を知って、生存者の話を聞くということを丹念にやっておられるからこそリアルに感じられる漫画なのだと思います。

【最後に一言】

まず、私の力では近代史を取り上げるのはやはりやめた方が良いと考えました。まだ無理です。

ペリリュー島戦はほぼ決着がつき、太平洋戦争全体状況を考えてもにアメリカ軍のフィリピン侵攻の足がかりに利用されるのを防ぐという意味しかなくなってしまっていました(これも飛行場が使用できるという状況下です。)。しかし、戦闘がやむことはありませんでした。米軍による殺戮は続き、日本兵は投降も玉砕も許されず、最後まで抗戦を余儀なくされました。両軍の兵士は何のために、最後まで闘ったのでしょう。ペリリュー島での死は、何の意味があったのでしょうか。 

特攻隊員を題材にした「永遠の0」小説が大ヒットし、映画にもなりました。作品自体は、何も戦争を賛美するために作られたわけではありません。また、知覧特攻平和記念会館や靖国神社遊就館などに展示された、死を前にした兵士が家族に宛てた手紙などは、見るたびに心打たれずにはいられません。当然その死になんらかの意味を与えなければという気持ちにさせられます。しかし私たちは、「悲しくも美しい物語」や「崇高な自己犠牲の物語」だけでなく、人々の意味のない死を強いた「無残な現実」も、もっと継承していかないといけないのではないでしょか。

そのためには、とても心苦しいことではあるけれど、戦争での死について、もう一度考え直すべきだと思います。戦争によって、人々は狂気に駆り立てられ、意味のない死へと追い立てられました。その究極の姿が、ペリリュー島の戦いだと思います。そこでの死の無意味さを直視し、戦争とは何かを考えることによって初めて、彼らの死にも本当の意味が出てくるのではないかと考えるのです。

歴史って本当にこわいですよね~!
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リュミエールブラン ネージュ

2017/09/10

女子力高い!と評判の?私の『通勤鞄の中身見せます』

『ピンク』が大好きですが何か?私は子供の頃から赤、ピンクが大好きです。今日は自慢話になりそうですが、「お前の鞄の中身なんかどうでもいいわ」という方はさらっと流してくださいね。

子供の頃、近所の一つ年上の洋子ちゃんが「赤い服着てる~僕にも買って~」と言って母を困らせたと大人になってからよく笑い話で聞かされました。

ブログ友達本日の一杯 -Cupmen Blog of taka- カップ麺と激辛のブログのtaka:aさん◝( ꒪౪꒪)◜ケケケ…からも、「女子力高すぎ~!」と何時も言われるのですが、好きなものは好きなのだから、しょうがありません。

こだわりが偶然赤系統が多いってだけなんですけど、やはり「可愛らしい・美しい」物は本当に好きなんですよね。

市郎右衛門
(もう一度販売してください、L.L.Beanさん)

ちょっと毎日の通勤鞄の中身をお見せして、本当に女子力が高いのか皆さんに判断してもらいましょう(#^.^#)。確かにちょっとだけ女子力高いかな(可愛らしいものというか、おばちゃん御用達が多い?)長く使っているので、汚れや傷も有りますことをお許しくださいね。

アッ!作ってませんよ、ゴミは片付けましたが、何時もの通りの中身です。それから、ブログ取材のときは本の代わりに御朱印帳が「神社用とお寺用の二帳」入ります。

先ず、通勤鞄と言いましたが、仕事が内勤(日の目を見られない)なので、スーツでは有りませんし(一応、出向先なので、シーズンで行くことはありませんが、襟つきならポロシャツにチノパンでもOKです。)、車で通勤していますので、誰にとがめられるわけでもないので、通勤鞄といっても、L.L.Beanのトートバックです(勿論ピンクの、笑)。

それでは、『市郎右衛門』の歴史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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CROOZ


【L.L.Beanの桜のトートバック(M)】

L.L.Beanとのお付き合いは長いです。まだ日本に直営店が無かった30年位前に、大学の准教授がアメリカの学会に行ったときにカタログを持って帰ってこられたのがきっかけで購入するようになりました。日本語のカタログも無かったので、和約に苦労しました。船便は三か月くらい来なかったです。今は大きな都市ならだいたいありますね。神戸店が出来た時に二度ほど伺いました。

写真は私の物ではありませんオークションサイトからお借りしました(ソールドアウト)。L.L.Beanは名前を500円だったかな?で刺繍してくれるので、「市郎右衛門(本名がローマ字のみの刺繍)」と刺繍が有るので見せられません。米国メイン州のブランズウィックにあるL.L.Bean(エルエルビーン)自社工場で、 ひとつひとつ手作りされています。 サクラの刺繍入りは日本限定、大好きなピンクがネットショップでセール(確か3900円)になっていたので買っちゃいました。今は二年ほど使っている上にコーヒーこぼして汚れてしまいました。これで通勤していますが、再販してくれないかな~と願っております。桜タイプは内ポケットが付いているのも使いやすいですよ。

【本とブックカバー・ほぼ日手帳】

P9100013.jpg(本は大好きですが近頃読むひまがない、もちろんブログ書きたいから~~!)

近頃ブログをスマホで書くことが多くなったので黄色は外してるかな。本は平行読み?5冊位を一緒に読みます。ミステリー・時代小説・エッセイ・ノンフィクションなどです。今は話題の映画、司馬遼太郎原作「関ケ原の中巻」、読み始めたら急に映画化されることになって、ビックリしています。次は推理小説、綾辻行人さんの「緋色の囁き」こちらはゾクゾクするのでミステリーかな?もう一冊は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の作品「神々の国の首都」です。本は綺麗に読みたいので必ずカバーしてます。

すこし汚れが目立ちますが、左上は本革にグスタフ・クリムト(世紀末ウィーンを代表する帝政オーストリアの画家)の絵が特殊印刷されていてとても気に入っています。 青いのは本藍染めに島根県の広瀬絣のブックカバー正にジャパニーズブルーです。これほど濃く染めるには手間がかかかるんですよね。黄色は何かでもらった(町内会の役員かな)?景品です。(笑)

ほぼ日手帳は皆さんもご存知ですよね。スマホの手帳でもよいのですが、なぐり書きしたものやレシートをはったりして乱暴に使うのでこちらの方が便利です。ちなみに中身はもちろん毎年交換しますが、カバーはもったいないので三年間使っています。先日カバーのカバー(ビニール)が破れ、まわりもささくれて来たので来年はカバーも一緒に買い替えですね。

p184623357.jpg
(今はこんなですね、こんなに渋くはないか?ジブリさんの宣伝ポスターからお借りしました。)

【印伝財布・ストラップ】

印伝屋のHPご参考ください。

私も若いころは、ブランド物が好きでしたが、LVマークに何万円も使うのはどうだろう?と思っていると、偶然目にした印伝の渋さに引き込まれました。「甲州印伝」は、甲州(山梨県)に400年以上にわたり伝承されてきた鹿革に漆で模様付けした伝統工芸です。「印傳屋」は、天正十年(1582年)に創業。「甲州印伝」の総本家です。二つ折りの財布が10000円位です。鹿皮なので使うほどに柔らかくなっていきます。その上に描かれた漆の絵柄が素敵です。伝統の柄なんです。財布は花唐草模様。ストラップは蜻蛉(勝ち虫といわれます)です。トンボは後ろに下がらないので、戦国武将も兜飾りによく用いていますね。三年ほど使用しているので次は「菖蒲柄(勝負)」の財布欲しいです。

印伝
(財布、歪んでますがこの柔らかさが使いやすいのです。この写真は古いのでスマホが旧機種ですね。)

【長財布にコインケース】

P9100024.jpg(500のボトル用が800円、小さな方が600円だったかな?)

でた~LVマーク!唯一といっていいです。「カード入れ」これでも20000円以上の値段(そんなでもなかった?)馬鹿らしいと思いませんか?カラビナはモンベルの物です。物をすぐ落とすので重宝してます。つなぎ皮は栃木レザーですが、本のおまけ(本がおまけかもしれませんが)で私自身が編み上げて作ったものです。意外と器用でしょ?

さてコインケースもブランドかな?BREE(レザーバッグ、ヌメ革バッグ、財布やブックカバーなどの革小物)ラゲッジのドイツブランドです。長く使えば味が出るヌメ革が気に入ってますが、これまで二度落として無くしました。結構お高いです。(涙)

長財布もお気に入り、バーミリオンさんという作家さんの長財布です。こちらはクーズーという南アフリカの牛の仲間の皮でつくられています。ブブゼラ知ってますか?サッカーW杯南アフリカ大会の時に「ぶ~~~ぶ~~~」と大きな音鳴らしてた笛(今はプラスチックだそうです)は、元々クーズーの角で作っていたそうです。こちらもオイルで磨くと味がでてきます。LVマークから比べたら半分ほどの値段ですか?ここでちょびっと訂正です。私、決してLVマークがだめだとは言っているわけではありません。凄く良いものだと思いますし、使いやすいので私も長く使用しましたが、私はもういいかなと思うだけです。

それからペットボトルカバー、可愛いですよね「猫に小判」も「フレンチブルドック」も、こちらは京都東寺市(弘法市・毎月21日)で購入したものです。ハンドメイド感がとてもいいので即購入、他にも「猫」と「鳥獣戯画」のものを持っています。

PICT0258.jpg
(一応歴史ブログなので私の歴史?15年位前です。ひげは気に入ってたのですが、妻の両親に却下されました(笑))

【私には欠かせない秘密物】

P9100015.jpg(母は器用な人で趣味も多かったですね~最後がパッチワークだったかな?)

まずはペンケース。母の作品です。もう亡くなって7年がたちますができるだけつぎはぎしても長く使いたいです。絶対に作られないものですから。意外とピンク少ない?次はドピンクの充電器1000円意外と重宝してます。上の真ん中も母が作ったティッシュ入れです。内側のポケットに香の袋を入れて楽しんでいます(京都御所近くの香木店、山田松香木店の香木を使ってます)。

二つの巾着は赤い方が「こぎん刺し」の巾着、こぎん刺しは江戸時代に津軽地方(青森県弘前市を中心とした地域)で生まれ、現代に受け継がれている刺しゅうです。藍染の麻布で作られた野良着の保温と補強の為に白い木綿糸で刺したことが始まりといわれています。

もう一つは、「丹波布」の巾着、丹波布(たんばふ / たんばぬの)とは、丹波国佐治村(現在の兵庫県丹波市青垣地域)で織られていた手紡ぎの絹と木綿を交織にした平織の手織り布の事です。丹波布作家のイラズムス千尋さんと仲良くさせていただいていて、こちらは彼女の作品では無いと思いますが、ご縁が有って購入したのでこぎん刺しから持ち替えました。中身はお薬「ピルケース」が入っています。年を重ねるとお薬が手放せないのです。(笑)

【スマホケースとハンケチとポーチなど】

P9100001.jpg(ポーチ綺麗にできていると思いませんか?一番のお気に入りです。)

まずはピンクのポーチ、こちらも母が作った作品です。縫い合わせてから切れ目を入れて模様を出す面白い手法を使っていますね。私のお気に入りです。お隣のアマガエルはカードケースです。私蛙が大好きで「無事かえる」にもつながるので、なんとなく気に入って購入しました。もちろんハンドメイドです。普段はポーチの中です。その他の物和風のハンケチ、におい袋も普段はポーチの中です。意外に量が入るポーチなので重宝してます。

スマホケースは安物ですが、先ほどの印伝ストラップに海洋堂の鶴を抱えた福禄寿を下げています(七福神の一人福禄与えてくれないかな?。

(最後に忘れてた、いつ何が有るかもわからないのでカメラ入れてます。一応Bloggerですからね(#^.^#))

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(35年前、化け物じゃないですよ、細いな~(((^_^;))

大学時代に二年間Mr.美人大会に美術部の先輩に無理やり出場させられ、連続優勝した時の写真です。体重は58キロで、今より33キロ痩せてます。髪の毛は勝手に切らせてもらえないし、体毛も綺麗に無理やり剃られてしまい、踊りの練習も夜中まで頑張りました。ご褒美はゲイバーに飲みに連れて行ってもらいましたっけ(笑えない)。

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(これ誰ですか~って感じです。やっぱりピンクじゃん!)

【最後に少し】

LGBTの問題についてお話しときたいと思います。LGBTとは性的少数者を限定的に指す言葉です。 レズビアン(女性同性愛者)、ゲイ(男性同性愛者)、バイセクシュアル(両性愛者)、トランスジェンダー(出生時に診断された性と、自認する性の不一致)の頭文字をとった総称です。

私はピンクが好きです。会社のシャワ-ルームマットの色が決まっていて、男性はブルーで女性はピンクなんです。私が交換すると次の日には元通りになっています。不思議なんですよね、誰が決めとんねん?なんで女性のスリッパはピンクで男性のスリッパはブルーなの?頭の固いオジサンたちもう少し考えようや。決して多数が正義では無いのだからね。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/04/21

柳田國男の生家に行ったら「天狗にもに出会った!」

前回、柳田國男さんの実家(移築されているのですが)の近くの公園の池に河童が出現する情報を御紹介しました。
実は隠していたのですが、出没するのは河童だけでは有りませんでした。
なんとこんな物まで~(^^;


P1080094.jpg
(池の方ばかりに気を取られていたら、頭の上に天狗が飛んできました。)

人を集めるって大変ですよね~(;^_^A
私の様な二流Bloggerには、ご苦労が本当に良くわかります(笑)。


以前何かのセミナーで、「いかに良い商品を開発するかは問題では無くて、どれだけ良いコマーシャルをするかだ」と言われて愕然(笑)
良いもの=売れるものと認識していたのですがf(^_^;

さて天狗はさておき、柳田國男の兄弟と福崎町立神崎郡歴史民俗資料館を紹介しましょう。

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「自らの民俗学の原点」と評した生家は、兵庫県福崎町に建設された柳田國男・松岡家顕彰会記念館の西隣に、移築・保存されています。
福崎町立神崎郡歴史民俗資料館が隣接しています。

東京都世田谷区成城の自宅書斎[柳田國男の書屋]は、1989年に長野県飯田市の飯田市美術博物館内へ移築されているそうです(柳田家は旧飯田藩士)。

蔵書は成城大学に寄贈され、同大学の民俗学研究所「柳田文庫」として活用されていますし、2003年には成城大学民俗学研究所編『増補改訂版 柳田文庫蔵書目録』が刊行されました(初刊1967年)。

P1080026.jpg(やっぱりこのインパクトにはかなわないかな~前回と別方向から~!)
P1080031.jpg(こちらは固まった天狗?なぜ固まったのかの説明はありませんでした。)




【歴史と民族学と現地調査主義と私】

柳田國男は、『郷土生活の研究法』(1935年)において「在来の史学の方針に則り、今ある文書の限りによって郷土の過去を知ろうとすれば、最も平和幸福の保持のために努力した町村のみは無歴史となり、我邦の農民史は一揆と災害との連鎖であった如き、印象を与へずんば止まぬこととなるであろう」と述べています。

ここでは、文献史学においては典拠とする史料そのものに偏りが生まれるのは避けられないとしており、それゆえ公文書などに示された一揆や災害とかかわる民衆の姿をそこで確認できたとしても、その生活文化総体は決して見えてこないという國男独自の考えが示されています。

「常民」の生活文化史の解明を目的とする民俗学にとっては文献資料にのみ依拠することには限界と危険が伴うのであり、それゆえフィールドワークによる民俗資料の収集が重要だと論じています(私のブログも訪れた場所以外は記事にしない、又食べたもの、読んだ本以外は書かない信念で書いているんですよ~、エヘン( ̄^ ̄)柳田流フィールドワークの実践者なのですよ、笑・笑・笑・笑・笑)

また、柳田は『日本民俗学』(1942年)において「民俗学は微細な事実の考証から出発する」とし、随筆や紀行文等との差異からも確なる学的立脚を求め、計画調査を重要視しました。

【柳田國男と歴史学】

和歌森太郎『柳田国男と歴史学』(NHKブックス)によれば、國男の問題意識と関心は、常に歴史学と歴史教育にあったことが記され、國男が長野県東筑摩郡教育会で「青年と学問」と題して講演した際に、「自分たちの一団が今熱中している学問は、目的においては、多くの歴史家と同じ。ただ方法だけが少し新しいのである」と述べたことが紹介されています。

そして「日本はこういうフォークロアに相当する新しい方法としての歴史研究をなすには、たいへんに恵まれたところである」と記しています。

たとえば、ヨーロッパでは1000年以上のキリスト教文明と民族大移動、そしてまた近代以降の産業革命の進展のためフォークロア(民間伝承、民俗資料)の多くが消滅ないし散逸してしまっているのに対し、日本ではそのようなことがなく現実のいたるところに往古の痕跡が残っているというのです(なんと素晴らしい事じゃないですか!)。

言い換えれば日本にはフォークロアを歴史資料として豊かに活用できる土壌があるということであり、柳田民俗学とはこのような民間伝承の歴史研究上の有効性を所与の条件として構築されたものということが言えますね。

また東北地方や沖縄を様々な観点から詳細に調査したことから、東北と沖縄こそが柳田民俗学の出発点であり、古き日本の神話や伝説が今も生きてそこに存在する、そういう地域共同体として発見した事も重要です。

【柳田國男の兄弟も凄い】
柳田國男の兄弟の銅像が設置されている生家の裏山の「学問の道」を散策してきました。
八人兄弟なのにも関わらず、銅像は五体でしたが…

P1080064.jpg(学問成就の道この時は子供たちの学問成就を願って訪れましたが、今は自分の勉強ですね~生涯現役受験生の気持ちでね。)
P1080067.jpg(長男はお医者様です。)
P1080068.jpg(歌人で国文学者の三男)
P1080070.jpg(六男の柳田先生)
P1080074.jpg(言語学者の七男)
P1080076.jpg(日本画壇の巨匠の八男、すごい兄弟ですね~次男と四・五男は早逝されたのかな?)


今回柳田國男さんに出会えた事に加えて、私がブログにおいて行っている姿勢(フィールドワーク)が間違っていないことも確信し、とても有意義な休日を送ったのでした。

P1080084.jpg(民族資料館の前にこんなものが?)
P1080085.jpg(組み合わせ式家形石棺)
P1080086.jpg(資料館は元神崎郡役場でした。〒ポスト珍しい?それとも結構見ますかね?)
P1080082.jpg(昔の建物ってこれですよね~右のブロックもモダンな建物のお尻が、柳田國男・松岡家顕彰会記念館です。)

最後に、「餅麦麺」成る代物、もちもちで半端なく美味しいです
是非皆さんも、柳田國男・松岡家顕彰会記念館、福崎町立神崎郡歴史民俗資料館+河童を御覧に成って下さいね。

P1080098.jpg(申し訳ないのですが、もちむぎ麺食べてしまったので、河童サイダーでご勘弁を~!)


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ブロトピ:ブログ更新通知
2017/01/30

禁断のドラマ!『ゲーム・オブ・スローンズ』を見た?

私、テレビを見ないんです(@_@;)。

なんて書くと少しびっくりされるかも知れませんが、色々と人生の無駄遣いをしてきた私は、テレビを生で見ない事にしているのです(見るんかい!Σ(×_×;)!)。

基本、興味を持った番組はほとんど録画します。
録画していないテレビ番組は見られませんし、面白くないものは削除して時間の無駄を省いているのです。

近頃生放送で見たのは、錦織圭とフェデラーの全豪オープン前半位です(スポーツはライブじゃないと意味無いのでね)。

その分TSUTAYAさんに御世話に成っているのですが(意味ないやん(/-\*)笑)

その中で是非皆さんに御紹介したいアメリカのテレビドラマがあるのです。

其が『ゲーム・オブ・スローンズ』です。
『ゲーム・オブ・スローンズ』(原題:Game of Thrones)は、ジョージ・R・R・マーティン著のファンタジー小説シリーズ『氷と炎の歌』を原作としたHBOのテレビドラマシリーズです。

DSC_0621.jpg 
(現在第6シーズン、二話ずつ出すから全60話に成ります。見ごたえありますよ~!)

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この「ゲーム・オブ・スローンズ」ですが、ややこしい事に?何とファンタジーにも関わらず、R-15禁なんですよね(#^.^#)。

暴力シーン(残虐シーン)と性描写が少し?(凄く)刺激が強いのです。
にもかかわらず?引き込まれるともうたまりません!
テレビ界のオスカーと言われるエミー賞の作品賞を2015・2016と二年連続で獲得しています。

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(原作ですがドラマが面白いので、読まないことにしました。)

【ストーリーの原点をご紹介】
一つの季節が不規則に70年、80年と続く大陸ウェスタロス(今は冬が近づいています。)と、海を隔てた東の大陸エッソスが主な舞台と成っています。

古代には、ウェスタロスには〈森の子ら〉と呼ばれる小柄な種族が住んでいたが、ここに〈最初の人々〉と呼ばれる民族が侵入して〈森の子ら〉との戦争の後に講和し、古の悪の勢力〈ホワイト・ウォーカー〉と呼ばれる北からの超自然的脅威に備えるために、協力して「グレートウォール」〈壁〉と呼ばれる魔法的防壁を築きました。

〈壁〉は歴代の王によって支持され、志願者および追放された犯罪者が送られて防御にあたっています。
北部にはいまだに〈最初の人々〉の影響が色濃く残り、〈古の神々〉があがめられています。

その後、アンダル人がウェスタロスを征服し、七王国を成立させました。
アンダル人の持ちこんだ〈七神正教〉は、北部と〈鉄諸島〉を除くウェスタロス中で信奉されています。

物語の数百年前、エッソスでは古代ヴァリリア帝国が崩壊し、ヴァリリア人のターガリエン家がドラゴンを使ってウェスタロスに襲来し、七王国を征服、解体してターガリエン統一王朝を開き、倒した敵の剣を溶かして作られた〈鉄の玉座〉に座ることになりました。

物語の十数年前に、〈ロバートの反乱〉と呼ばれる出来事がありました。
ターガリエン家の庶流であるバラシオン家がターガリエン王朝を倒して〈鉄の玉座〉に座り、ターガリエン王朝のほとんどは殺されたが、デナーリス・ターガリエンなど一部の血縁の者はエッソスに逃れます。

この反乱を引き起こしたのは、ロバート・バラシオンの婚約者で、エダード・スタークの妹であったリアナ・スタークが、エイリス・ターガリエン二世王の息子のレイガー・ターガリエンと共に失踪したことであり、抗議したエダードの父と兄はともに王に処刑さてしまいます。

ロバートとエダードは、里親であったジョン・アリンと共に反乱を立ちあげます。
王は自らの護衛〈王の盾〉であったジェイミー・ラニスターによって裏切られて殺され、ロバートが代わって新王朝をひらきました。
エダードはタリー家を味方につけるため、キャトリン・タリーと結婚します。
リアナもレイガーも死に、エダードはジョン・スノウを自らの落とし子として戦いから連れ帰えります。

その後はジョン・アリンがロバートの〈王の手〉として、宰相の役目を担う事に成りました。
ロバートは、反乱に加わったラニスター家から、ジェイミーの双子の姉のサーセイ・ラニスターを娶って妻にします。

その数年後、〈鉄諸島〉のグレイジョイ家が反乱をおこしたが鎮圧され、幼いシオン・グレイジョイはスターク家の人質となってウィンターフェルで育てられることとなりました。

このような歴史背景の中、ウェステロスにある7大王国で、紛争の芽が膨らみつつあります。
この幻想の世界の住民たちは衝動に突き動かされており、ウェステロスの「鉄の王座」を掌中に収め、強大な権力を握ろうとしています。

そして〈王の手〉ジョン・アリンが謎の死を遂げたところから、物語は始まります。

【content】
このドラマシリーズは、ジョージ R.R.マーティンのベストセラーシリーズ、“氷と炎の歌”をベースにした大叙事詩です。

王族・貴族が、支配をめぐり血なまぐさい闘争を繰り広げます。

中世ヨーロッパに類似していますが(そこはファンタジー)ドラゴンや魔法が存在する架空の世界において、多くの登場人物が入り乱れる群像劇で、人間関係がややこしく、此れは誰だっけなんてざらなんですけど、相関図をプリンアウトして「これは~?この人の息子だな、なんて感じで」見ています。

とにかく自然の映像が綺麗で、撮影は北アイルランド、マルタ、クロアチア、アイスランド、モロッコ、スコットランド、アメリカ合衆国、スペイン等で撮影されています。

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(お父さんのエダード公はロードオブザリングに出てましたね?)
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(皆さんに見ていただきたいので、イメージだけの画像をHBOのCMページから拝借しました。)

【どんだけ~(^^;】
このドラマ「ゲーム・オブ・スローンズ」がいかに凄いかですが、結論から言えば見ていただければ簡単に解るわけですが、それでは意味がありませんから、私が凄いと思う視点を簡潔に説明しましょう。

日本ドラマと桁違いのスケールです。
例えば大河ドラマ「おんな城主直虎」と比べてみますか?

スタジオセットらしい物が無いです~(^^;
NHKがいかに大河ドラマにお金を掛けていても、やはりスタジオ撮影だな~と思えてしまうのですが、「ゲーム・オブ・スローンズ」には、そんな感じはさらさらしません。
全て実際に存在する、城や街で撮影されているようです(全てではないと思いますが?)。

次はCGですが、同じくNHKの評判ファンタジーの「精霊の守り人 悲しき破壊神」(綾瀬はるかファンの皆さんご免なさい!)のCGと比べると、これ又大人と子供位は違うのでびっくりします(ハリウッドで作ってるんですかね~?)。

そして最後に、俳優・女優陣の覚悟の問題ですが、例えば日本の同じキャリア、年齢の俳優・女優が居たとしたも、絶対に無理((;^_^A見ればわかります!)

全ての役で(幾つかは演じられるかも?)、登場人物に思いつく日本人の俳優を当てはめて見て頂ければ、いかに凄いドラマなのかが解ると思います!
ハッキリ言って日本では撮影できません。

現在シーズン6がTSUTAYAでリリースされており、残念なことにシーズン8で完結するそうです。

始まった頃は無名の俳優さん達も、近頃は映画等で見るように成りました~(^^;

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(最後に鉄の玉座に座るのは誰でしょう?ワクワクしますね~。)


ファンタジーですから当然、ドラゴンや生ける死者の群れに、黒魔導士や魔女が登場するのですが、それらを脇に追いやってしまう人間ドラマが秀逸です。
是非!大人のファンタジーを楽しんで頂きたいのですが、最初に申しました様に、R-15禁なのでお子様を寝かし付けてこっそり(笑)、見て頂ければ楽しいと思いますよ~(笑)

いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
ファンタジーって本当に面白いですよね~!

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2016/06/03

今井雅之の遺作「手をつないでかえろうよ~シャングリラの向こうで~」完成!

私がブログを書き始めるきっかけになった、中学・高校の同級生の俳優!『今井雅之』君が企画脚本を手掛けた遺作映画「手をつないでかえろうよ~シャングリラの向こうで~」が完成しました。

手をつないで帰ろうよ
(命日に合わせてロードショウです。)
今井君が原作・脚本・主演を務め、2009年に上演された舞台を映画化したものです。
テーマは『生と死』です。

軽度の知的障害がある主人公の数奇な人生を通じて、生きる意味を問い、明日への希望を導きだす感動的な作品です。

今井雅之君は、ちょうど一年前の5月28日に急に旅立ってしまいました。

病気会見の彼の姿は、痩せ衰えて痛々しかった!

その後、ほんの一月程で彼の悲報に接することと成ってしまいました。
私だけでなく、他の同級生やフアンの皆さんもさぞかし残念だったはずです!

しかしながら、彼の生きた証しはこうして、作品として引き継がれて残って行きます。

今井雅之君の実家の檀家寺は「隆国寺」といって『関西花の寺二十五カ所』にも数えられる有名な曹洞宗のお寺で、太田住職も私達の高校の同級生です。

隆国寺
(素敵なお寺です。牡丹の花の時期にぜひいらしてください。)



今井雅之君の葬儀も彼が取り仕切りました。

曹洞宗は禅宗ですが禅の言葉の中に『両忘』という言葉が有ります。

仲良くさせていただいている、丹波布の作家さんから教えて頂いた言葉ですが!

世の中には表裏一体、相対する事柄が数多く有ります。
生と死、富と貧、愛と憎、善と悪、勝ちと負け等、この対立する両方をともに忘れ去る心を表しています。
対立する両者を忘れ去ることにより、相対的な考えを断ち切り、何物にも捕われない無我の境地を見出すことが出来ると説きます。

つまり、生にあっては生を忘れ、死にあっては死を忘れ、苦にあっては苦を忘れ、楽にあっては楽を忘れる心です。

この生と死、苦と楽の対立を否定し超越したとき、より高い次元の生と死、苦と楽を一つにした、釈尊のいわれる『覚り』、又は『解脱』の境地が体得されます(如来と成ることかな?)。

このように禅的な考え方では、二者択一(又は全か無)ということがなく、対立する両者を空じて捨ててしまいます。

この「両忘」の境地こそ、参禅者の求める絶対の世界といえます。

輪廻を絶ちきる事が本来の佛教の目的だったはずですが、日本に伝来して、日本の自然に培われた風土の中で、和の精神を取り入れた「大乗佛教」は、また新しい形の輪廻の考え方を産み出していると思います。

今井雅之君の死は悲しいが、彼が生を超越して育んだ物が、また新たな生の始まりと考えて、彼が生んだ映画を是非見てみたいと思います。

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