2018/06/16

『出雲大社』「荒垣内摂社」で神々と御縁を結ぶ旅!vol②

引き続き荒垣内摂社と建造物を、ご紹介させていただきます。瑞垣内は次回のおたのしみです。



【プロローグ】荒垣内摂社の素鵞社と文庫・彰古館・宝庫をご紹介させていただきます。


出雲大社に車で参拝しますと、参道の西側に大きな駐車場があるのですが、拝殿に向かうにはお土産屋さんが並ぶ細道を神楽殿の方角(北)に歩き、千家家館前・神楽殿前(祓社がありますのでお詣りしてください。)の道路から出雲大社荒垣内に入る事が出来ます。つまり横から入るにもかかわらず、荒垣内の銅鳥居の中に入る事に成ります。

今日は、荒垣内で瑞垣外の拝殿(改めてご紹介させていただきます。) 神祜殿(宝物殿)・収蔵庫・仮拝殿・庁舎以外の荒垣内の建物で、前回ご紹介出来なかった建築物の荒垣内摂社の素鵞社と文庫・彰古館・宝庫をご紹介させていただきます。

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(嫌いな方は申し訳ないのですが無類の蛙好き。無事帰るにかけて拉致被害者の皆さん無事帰れ!)


今更ですが出雲大社建築物の歴史について少しお話しさせていただきます。出雲大社は『古事記』や『日本書紀』の日本神話において特に重要な神社として登場し大国主大神をっ御祭神としています。神話では国譲りの時に神の国の宮殿と同じように太い柱や厚い板で本殿が建てられたと語られています。また平安時期には平安時代には奈良にある東大寺大仏殿を凌ぐ48mのもの高さがあったと記録されています。

現在の境内は江戸時代前期、寛文7年(1667年)の造営遷宮で計画されたもので、今もその時の建物が多く残っています。本殿など瑞垣内のお社はその次の延享元年(1740年)の造営遷宮で建て替えられたものです。今の本殿はかつての半分ほどの高さですが国内最大級の社殿建築であり往時のお社を彷彿とさせる迫力があります。

遷宮はその後、文化6年(1809年)明治14年(1881年)昭和28年(1953年)に行われ、そのたびに本殿をはじめとする諸社殿の修造が行われてきました。平成の修造については、平成20年から8年にわたる「平成の大遷宮」の主事業として行われ平成25年5月10日には本殿遷座祭が執り行われました。

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DSC_0036_2018061613273592c.jpg(出雲国造館千家家です。)
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(「平成の大遷宮」まだ屋根がふさがっている状態。)
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(歴史そのものさざれ石!)
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(銅鳥居の傍には神牛?)
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(そして神馬。)

荒垣内摂社の素鵞社


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(石垣に張り付くように、素鵞社。)

素鵞社(そがのやしろ)は延享2年(1745年)以降に建立され、本殿は出雲大社本殿後方の山際に築かれた石垣の上にあり、素戔嗚尊が祀られています。社殿は延享の造営で建られたもので、この時に立て替えられた出雲大社本殿や御向社、門神社などの寛文造営時に使われていた部材が一部使用されています。社殿の形式は二間×二間の大きさで、切妻造妻入、檜皮葺で、正面東側に階隠しが取り付きます。本殿を一回り小さくしたような形ですが、心御柱がない点が本殿と異なります。

平成の修造では小屋裏などから延享造営時の墨書きが見つかり、素鵞社本殿の製造年月が延享2年(1740年6月など〉とわかった他、建設に神門郡(現在の出雲市南部)の大工が携わって言ってることもわかりました。

文庫


1265987654.jpg(文庫の写真が無かったのでパンフレットから。)

文庫(ぶんこ)は、素鵞社東に立っています。土蔵部分文化年間以前庇(ひさし)部分は文化5年(1808年)の建立されています。もとは現在の彰古館の位置にありましたが、大正元年(1912年)に彰古館建設に伴い移築されました。土蔵の周囲三方(南東西)に木造の平屋(庇と呼んでいます。)が取り付いています。これまで建立年代が不明でしたが修理中に見つかった墨書から庇部分は文化5年(1808年)に建てられたとわかりました。土蔵についても使用されている木材の材質や仕様などから文化年間以前とわかり貴重な建物と判明しました。

彰古館


DSC_0153.jpg(彰古館、正に証拠を残す?)

彰古館は、大正3年(1914年)に、出雲大社の宝物館として造営されています。現在は銅鳥居の右脇に神祜殿(宝物殿)が新設されていますので、あまり目立たなくなっています。彰古館の役割りは、出雲大社に伝わる各種資料を陳列・展示するための建物の様です。館内には「大小の大黒様」、「えびす様の木造彫刻」や、「神楽用の楽器類」、「出雲大社の1/30分のサイズの模型」さらに神社に伝わる古文書類も多数展示されています(拝観料200円)。

宝庫


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(宝庫、宝物を納める為の・・・宝庫。)


宝庫は寛文7年(1667年)に宝物を納める為の建物として((-"-;A ...アセアセ)建立されました。境内の西側北寄りに立っています。建物の壁は、東大寺正倉院と同じ校倉造りに見せかけた断面が三角形の木材を水平に積み重ねる工法となっています。

建物は寛文期のものですが、建立当時は現在地よりやや北東に位置していました。また明治の造営で大規模な修理が行われていたことがわかりました。平成17年(2005年)に屋根葺き替え行ったので「平成の大遷宮」の修理では木部の修理とゆがみの是正などを行いました。

【最後に一言】頑張れ日本!



DSC_0227.jpg(波向こうに願いを込めて。)


近頃、悲しいニュースばかりが新聞紙面を躍っています。「目黒虐待死事件」死亡した女児が遺した、ひらがなだけの”もうおねがいゆるしてゆるしてください”と書かれたノートが日本中に衝撃を与えました。静岡では闇サイトを使った「看護師拉致遺棄事件」、新幹線の安全神話を揺るがしかねない「東海道新幹線殺傷事件」、走行中の東海道新幹線車内で男女3人が刃物で襲われ男性1人が死亡した事件など、どこかおかしいくないか?ということが多いですよね。

それぞれに、対策を真剣に考えなければいけないと思いますが、私的には日本中が喜びに浸れるような良いニュースが新聞を賑やかにすることを期待しています。例えば「阪神タイガース優勝!」オットこれは間違えました、個人的な事ではいけません。「拉致被害者全員帰国」とか、したたかな北朝鮮相手に簡単にはいかないと思いはしますが…、「日本代表ワールドカップ優勝!」本日、朝のスペイン×ポルトガル戦を見た限は、100年は無理と思いましたが…、ああああああああ!やっぱりそう簡単には行かよな~~~!

「夏のボーナス過去最高を更新!どうです?私は夏のボーナスない会社なので関係ないのですが、皆が幸せを感じるムーブメント起こしてくれ~~~!頑張れ日本。

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2018/06/13

『出雲大社』「荒垣内摂社」で神々と御縁を結ぶ旅!vol①

縁を結ぶといえば結婚、出雲大社の結婚式場も兼ねる『神楽殿』と荒垣内摂社の『十九社(東西二社)』 『釡社・氏社(二社)』の五社をご紹介します。



【プロローグ】何故寺社仏閣巡りを始めたのか?


さて、お約束通り『出雲大社』荒垣内摂社をご紹介して行きたいと思います。本来の参拝では拝殿でお詣りし、拝殿裏に回って八足門から本殿にお詣りし、その後に時計と反対回りで荒垣内を本殿を回る様に進み駐車場に戻るのですが、今回のご紹介では先に荒垣内摂社をご紹介して行きながら、最後のクライマックスに拝殿から本殿のご紹介したいと思います。本日は出雲大社の結婚式場も兼ねる『神楽殿』と荒垣内摂社の『十九社(東西二社)』と『釡社・氏社(二社)』をご紹介します。

そもそも、私が寺社仏閣巡りを始めたきっかけは、以前にも書きましたが約8年半ほど前に心を患ったことに始まります。 3ヶ月の入院と4ヶ月の自宅療養を余儀なくされました。会社に復帰はしましたが、やはり其処は居心地の良い場所では無くなっていました。失意の底にあった私に命じられたのは、鳥取県米子市への単身赴任でした。私はそこで一冊の運命的な本に出会うことになります。それは私が「古事記赤本」と呼んでいる『山陰の古事記謎解き旅ガイド(出雲古代出雲王国研究会)』出版定価本体476円+税です。その本によって私は「多くの神社」で神様の存在を知る事に成りました。そして、歴史という長い川の上流へ船を漕ぎ出す事を決意したのでした。

DSC_0265.jpg(二十一年程前に不肖私も行いました。)

当時は、”古事記編纂1300年”に加えて、”出雲大社が60年に一度の遷宮”さらには”20年に一度の伊勢神宮の遷宮”が重なった上に御朱印ブームがそれを後押しする様に寺社仏閣パワースポットブームが巻き起こっていました。

女性の間で盛り上がり始めていた御朱印ブームは私の中にあった歴史好きの「焼けぼっくいに火を付けた」と言っても過言ではありません。そして最初に御朱印帳に御朱印を頂きましたのが、blogシリーズで紹介し続けている出雲大社でした。

ご参考までに、出雲大社での御朱印のもらい方について少し注意をさせて頂きますが、出雲大社では出雲大社公式の御朱印帳はありません。ですから御朱印をもらわれる方は、事前に御朱印帳を用意する必要があります。

当然私もそんなことは知りませんでしたので、近くのお土産さんでで御朱印帳を用意いたしました。その御朱印帳というのが、現在はFacebookでもお友達に成って頂いている、島根県安来市広瀬町の紺屋さん「天野 尚」さんが古事記編纂1300年企画で作成した。本藍型染の御朱印帳でした。

いつもは、御朱印帳及び御朱印をご紹介していないのですが、今回を最初の機会として、できれば随時「寺社仏閣」の御朱印をご紹介していきたいと思います。ただ、お寺については、一寺で数多くの御朱印があるために、全てをご紹介することはできないと考えています。これは神社の御朱印が御神札(神様・神社の御札)の性格を持つのに対して、お寺ではお経を納めた者に対する証として御朱印が押されるからです。出雲大社の出雲大社も23の摂社を持ちますが御朱印は一つです。対して私が度々「弘法市」に通う京都の「東寺」では御朱印だけで九つの種類があります。これは納経した場所(お堂)証となるからでしょう。

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P6130009.jpg(「天野 尚」さんの本藍型染の御朱印帳と出雲大社・但馬一宮出石神社御朱印。)
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(地図を参考にしながら足を進めてください。)
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(祓社の後も御手水でお清めしてください。)

神楽殿で結婚式を上げよう~!


DSC_0044_20180613210250cd0.jpg(神楽殿の文字読めますか?(;^_^A)

神楽殿は本来、千家國造家(出雲大社宮司家)の大広間として使用されており、「風調館(ふうちょうかん)」と呼ばれていました。明治に入り、出雲大社教が設立されてからは出雲大社教の神殿としても使用され、現在では國造家大広間、並びに出雲大社・出雲大社教の神楽殿として御祈祷や結婚式をはじめ様々な祭事行事が執り行われています。昭和56年に出雲大社教が特立100年を迎えた折、現在の神楽殿として規模を拡張して建て替えられました。その大広間は270畳の広さを誇り、神社建築にはめずらしく正面破風の装飾にステンドグラスが使われています。正面の大注連縄は長さ約13メートル、重さ約4.5トンに及びます。この大注連縄は数年に一度、新しい注連縄へと懸け替えられます。そして、神楽殿前庭には高さ47メートルの国旗掲揚塔が聳え立ち、揚げられる国旗は75畳の大きさです。

DSC_0038_20180613210249a37.jpg(正面の大注連縄がとにかく凄いです。正面ではなく西の方向にあります。)

以前説明いたしましたが、出雲国造家は天照大御神の第二御子の天穂日命(あめのほひのみこと)の神裔にあたります。出雲大社の祭祀者である出雲国造家は、南北朝時代に「千家」と「北島」の2家に分裂し、その祭事は幕末までは両家が二分して行っていたが、明治以降から現在までは千家家が執り行っています(島根県の友人は、北島家で結婚式を挙げた方が離婚率が低いと申しています。彼の私見ですのでお許しください)。北島家は出雲大社東に位置して健在です。少し静かで大社の喧騒につかれた方にはお勧めです。

それぞれ大国主大神を主祭神とする宗教団体として、千家家が出雲大社教、北島家が出雲教を主宰しています。出雲大社教との一体化は1951年(昭和26年)4月に出雲大社と教派神道の宗教法人出雲大社教が一体化され、出雲大社の職員は出雲大社教の職員を兼務し、出雲大社宮司は出雲国造として出雲大社教を総攬し、出雲大社教の教務本庁は出雲大社の教務部として活動しています。

荒垣と銅鳥居


DSC_0201.jpg(銅鳥居をくぐると、そこからが境内です。)

荒垣内だ荒垣外だと散々言ってきましたので、どこからどこまでが内側でどこからどこまでが外側だと疑問に思われた方も多いと思います。「荒垣」とは本殿鎮座地の四囲にめぐらした石垣と塀で、大社ではこの内側をいわゆる「境内」としています。簡単に説明しますと囲い(荒垣)が有り囲まれている場所が、当然荒垣内なわけですが通りぬけられる場所があります。それが次で説明する銅鳥居です。

出雲大社の荒垣正門に立つ銅鳥居の建立は寛文6年(1666年)毛利輝元の孫綱広により寄進されたものです。毛利藩の鋳物師「郡司喜兵衛」が長州阿武郡(現在の山口県萩市)で鋳造したものと伝えられています。銅鳥居両柱の銘文には、出雲大社の御祭神や毛利家ゆかりの鳥居のいわれなどが刻まれています。修理に伴う基礎の調査によって銅鳥居の足元は地表に見える大きな石以外に大小をたくさんの石で支えられていることが明らかになりました。銅製の鳥居は全国でも例が少なく非常に貴重な建造物で、国の重要文化財に指定されています。この銅鳥居の中が荒垣内ということになります。

十九社(東西二社)


P5041740.jpg(東十九社この時は神様の到着待ちでした。)
P5041841.jpg(神様の到着を待つ西十九社。出雲大社ならではの建築物です。)
P5041845.jpg(西十九社ですね。)

十九社二棟は建立年代・文化6年(1809年)です。二棟は、瑞垣(本殿を囲む外側の垣根)の東西に向かい合うように建っています。南北約34.5メートルに及ぶ細長い建物です。全国から八百万の神々が集まるとされる神在祭では諸神の宿所となります。他の神社には例のない出雲大社ならではのお社です。修理中に発見された棟札から、文化6年(1809年)に建てられたことがわかりました。十九社では多くの部材にモミの木が使われています。建材にもみの木が使用されることは珍しく、出雲大社でも十九山本の二棟しかありません。当然ですが、国の重要文化財に指定されています。

釡社と氏社(二社)



本日最後の御紹介になりましたのは、釜社と氏社です。釜社(かまのやしろ)と氏社(二棟)はどちらも本殿を正面とし、釜社は東十九社北側に氏社(二棟)は西十九社北側に建てられています。三棟共寛文期に建てられました。どちらも境内で最も古いお社です。三棟は同じ形、同じ大きさの建物ですが、釜社の垂木の数が一本少ないことが異なる点です。修理中氏社の屋根から「東側御向」等と墨書きされた材料が、また釜社からも端垣内の建物にしかない階隠の転用材が発見され、いずれも延享の修理の際に瑞垣内のお社の材料を再利用していることがわかりました。

P5041751.jpg(少し歪んでます?急いでましたのでお許しください。)
P5041753.jpg(宇迦之御魂神を祀る釜社、東十九社のすく北側です。)

釜社の御祭神は、「スサノオノミコト」の子神で「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」です。この御祭神は、食物を司る神様で、全国にある稲荷社の御祭神としても祀られています。「宇迦之御魂神」は女神とされています。この神様は神宮(伊勢)の外宮の主祭神「豊受大御神」や伏見稲荷大社の主祭神「稲荷大神」と同じ御神体です。

11月23日の「古伝新嘗祭(こでんしんじょうさい)」の夜には、この社より御釜を拝殿に移して「御釜神事」が行われます。古伝新嘗祭は、国造の霊力を蘇らせる祭事であるのと同時に、神職が御釜の周りを巡る「御釜神事」によって「五穀豊穣(ごこくほうじょう)」への感謝と来年の豊作の祈りが捧げられるものです。つまり、これらが「釜社(かまのやしろ)」の名前の由来となります。

氏社(うじのやしろ)は境内西側、西十九社の奥に二つの殿舎が北と南に至近距離に建てられています。いずれの社の御祭神も大国主大神と非常に深いかかわり合いのある神様です。

P5041816.jpg(天穂日命を祀る氏社です。)
P5041811.jpg(北の氏社。)

二社のうち北側には、天照大御神の第二子である、「天穂日命(あめのほひのみこと)」が祀られています。この「天穂日命」は、天照大御神の国譲りの使者として出雲の国に来られましたが、逆に大国主大神に言いくるめられて家臣になってしまいます。その後3年間、高天原へ復命しなかったそうです。また「天穂日命」は出雲国造家の始祖であり祖神でもあります。

P5041832.jpg(南の氏社ですね。)
P5041826.jpg(南の氏社、宮向宿彌を祀ります。人が並んでおられるのは本殿神坐正面がこちらに成るからです。)

南側の社には、「天穂日命」の子孫で17代にあたる「宮向宿彌(みやむきのすくね)」が祀られています。「宮向宿彌」は19代天皇から「出雲臣」の姓を頂き、その子孫は出雲大社の宮司家として今日に至っています。

近年になって「氏社」を修理した際、屋根から「東側御向」や「東門神」と墨書きされた部材が見つかりました。これは、延享造営時(1744年)に新築した他のお社の材料を一部利用して補修(解体移築時)したということを意味しています。

このことから、「氏社」の創建は御本殿の造営をした1667年と考えられています。尚、この氏社は2004年(平成16年)7月6日に国の重要文化財の指定を受けています。

【最後に一言】神の伊吹を感じる。



ゴールデンウィーク企画の後に、近頃ずっと出雲大社の摂社巡りの企画で神社ばかりブログにUPしていたので、次は、お寺をご紹介しようか?とかいやいや古墳も有るしお城も有ると悩んで過ごしておりました。

当然の事ですが、旅行は楽しいですし、色々な歴史遺物を見るのは大好きなので、どうしても取材が先行してしまうのです。歴史というのは、川の流れの様な物です。河口の小石を拾い上げても、何処から流れてきたのか調べてみたくなります。

つまりは、きりがないのです。そんな私ですから、一度脱線し始めると彼方此方の方角へ飛んで行きそうに成るに違いありません。ですから、ここはしっかり出雲大社を終わらせようとの結論に至りました。

出雲に出向くと、本当に神々が近くに居られる気がします。出雲大社の瑞垣の回りでは、神々の伊吹が聞こえて来るようです。古代の人々が現在よりもより神々との距離感を身近に感じて事は想定の内ですが、出雲大社ではその距離感を実際に感じることが出来るような気持ちになるのです。

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2018/06/06

「ゴールデンウィーク企画」最終回?は我が村の神社『井田神社』をご紹介します。

「ゴールデンウィーク実家帰省企画」の最期を飾るのは、思いでの詰まった我が村の社『井田神社』です。



【プロローグ】故郷の誇りを確かめに『八幡さん』にお詣り。


今回ご紹介いたしますのは、私の故郷”兵庫県豊岡市日高町鶴岡区”の村社『井田神社』です。前回も申しましたように、鶴岡区は、日高町(市町村合併によって現在豊岡市日高町(旧:城崎郡日高町)の中でも歴史上一番といっても過言では無い大きな地区です(地図をご覧に入れます。)。勿論但馬地方の過疎化によって人口は減ってきてはいますが、平安時代に国府が存在した場所(二度の移動があり二期国府の位置は確定出来ていません。)と、明治以降日高町久斗地区にグンゼ工場の社員寮(女工さんがかなりの人数労働に従事していました。)が有った時期意外は、日高町(旧但馬國氣多郡)最大の人口を誇っていたと思います。

CIMG3119.jpg(顔の修正はしてませんが、区長さんの許可の元撮影してます。でも真ん中はひどい?弟です。笑)

子供の頃は、お詣りに行くというよりはよく遊びに行きました。カブトムシやクワガタムシを取りに行く場所でした。私が初めて徹夜をしてカブトムシを一人で捕獲したのも、この神社でした。要領の良い上級生がいつも私よりも先に行って昆虫を取ってしまっていたので、絶対に欲しかった私にとっては徹夜して暗いうちにチャレンジするしか彼らに勝てる方法はなかったのです。最初に取った一匹はカブトムシの♀でしたがすごく嬉しかったことを記憶しています。

そんな井田神社ですが、古い歴史を誇る神社であるとともに円山川の岸壁という天然の要害を備えた山城「伊福城」という側面も持ち合わせています。今回ネットで地図を探してみたところ神社の裏山そのものが城として存在していたことにが分かり、びっくりしました。

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兎追いしあの頃、「凄いぜ!でかいぜ!」



”兎追いしあの頃”と書きましたが、実際は昆虫追いしあの頃ですね、先日クワガタムシの値段について検索するとミヤマクワガタとノコギリクワガタを比べるとミヤマクワガタの方が高額なのにびっくりしました。井田神社にはミヤマクワガタが以外に多くてノコギリクワガタが少なかったので、ノコギリクワガタの方が値段が高いと大人になるまで思っていました。ノコギリクワガタの顎のラインの美しさに魅了され、今でもノコギリクワガタは上手にスケッチできます。



上の地図は、鶴岡地区の現在の範囲を赤線で囲い表したものですが、いかに鶴岡地区が大きいかお分かりでしょう。実際に人が暮らしているのは円山川の西側と対岸一部なのですが地区が多くの山林を保有しているのは珍しいと思います。

時代を遡ること400年前、戦国時代に豊臣秀吉の弟秀長が但馬征伐(但馬人としては但馬侵略としたいです)の時秀長に味方して、”漫画センゴク”で有名な「仙石権兵衛久秀」や城作りの名人としても有名な「藤堂高虎」などと共に『水生城』を攻略した郷氏一族がいました。その一族は宵田城主の垣屋氏に代わって、但馬国氣多郡のほとんどを褒美として手中にしたと言われています。

その一族は現在も続いており地区のほとんどの土地に関係を持っておられます(つまり大庄屋さんです。)。さて我が家ですが、どちらかと言うと但馬側勢力であったと伝わっています。ただ郷氏一族との関係もあり、古くは婚姻関係も結んでいるようです(江戸初期に二度、我が家から嫁に行っているようです。その理由も調べたいですね。)。

戦国期の但馬は山名氏と山名氏四天王(垣屋・田結庄・太田垣・八木)が支配していましたが、「織田勢・羽柴秀吉軍」が攻撃を始め山名が有子山城(現出石城山城部)から逃れると、羽柴軍に内通するものも出て、毛利支配下の但馬勢力と二派閥に分かれて戦闘に成ります。この隙をつくように美作を抜けて因幡に攻め込んだ秀吉と対峙する事になった「毛利勢・吉川元春」は、但馬に援軍を送りようもなく弟「羽柴秀長軍」が難なく但馬を制圧しています。

伊福城が併設されています(笑)。 


P5052023.jpg(円山川沿いの井田神社参道ですが、車通交止めに成っています。)
0365215594.jpg(伊福城図、井田神社裏山全てが山城ですね。)

次は伊福城概略ですが、山名氏の家臣下津屋氏の居城でした。康正年間(1455年~1457年)頃には下津屋伯耆守、永正年間(1504年~1521年)頃には下津屋新三郎、永禄年間(1558年~1570年)には下津屋安芸守、天正年間(1573年~1592年)には下津屋丹後守の名が城主として知られています。

CIMG0919.jpg(父が新鶴岡橋の工事を撮影していました。手前の山が北西五郭「曲輪4」、奥に見える三連山は須留岐山です。川の岸壁は天然の要害です。)

「伊福城」は円山川に沿って北西に伸びた丘陵に築かれており、登山道が整備されていました。以前は地区の花見を北西五郭(曲輪4)あたりで催すことがありましたが、現在は台風の影響によって登山道が削られることも度々あり、花見なども催されなくなったことで、北西五郭の状況もよく分かりません。

主郭は山頂にあって東西に長く城内で最も広く平坦です。この主郭の周辺に腰曲輪などが付いており、曲輪の切岸も高く明瞭です。主郭の北西側は堀切状の窪地の先に一段の曲輪があり、南東側は竪堀が長く伸びた堀切と、北側のみ竪堀のような感じに落とした二重の堀になっています。また、北東側の山腹に三条の竪堀があり、西の二条はともに深く長く伸びているようです。子どもの頃に神社の裏山に当る城山中を駆けずりまわって遊びました。当時は城山だとは思ってなかったですね~(;^_^A

式内社:但馬國氣多郡『井田神社』



P5052119.jpg(鳥居が新しくなってました19年前長女の宮参り以来です。)

P5052105.jpg(かごの木?なんじゃもんじゃ?)


式内社但馬國氣多郡『井田神社(旧村社)』は主祭神「倉稲魂命(ウカノミタマミコト)」 配祀神に「誉田別命・気長足姫命(ホンダワケノミコト・オキナガタラシヒメノミコト)」を祀っています。                  

倉稲魂命(ウカノミタマミコト)は、『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記されます。名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神です。両書とも性別が明確にわかるような記述はないが、古くから女神とされてきました。『特選神名牒』には、大冝都比賣命(オオゲツヒメ)とありやはり穀物神です。

誉田別命(ホンダワケノミコト)応神天皇(おうじんてんのう)の事です。(仲哀天皇9年12月14日~応神天皇41年2月15日)は、第15代天皇(在位:応神天皇元年1月1日~同41年2月15日)。諱は誉田別尊(ほむたわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけのみこと)。

気長足姫命(オキナガタラシヒメノミコト)神功皇后は『古事記』ではオキナガタラシヒメ命という名で記され、神社ではその名で祀られることが多いです。オキナガとは地名とも長寿の意味とも言われ、タラシは尊称でこの語を名にもつ天皇も多いそうです。第十四代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の后で、八幡神として祀られる第十五代応神天皇の母です。但馬では始祖とも言われる『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」が出石神社に祀れており、神功皇后の祖先としても知られています。

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(古い神社は階段が定番。)


創祀は不詳ですが、元々は倉稲魂命を祀っていましたが、嘉祥元年(848)悪疫流行の際、山城国「石清水八幡宮」より誉田別命・気長足姫命の二柱を勧請したと言われています。

山陰本線「江原駅」の北東1.5Kmほどの距離です。国道482号線を進み、円山川にかかる新鶴岡橋を渡って左に戻りと参道入口(鳥居)がありますが、車は通行止め、入口には「式内井田神社」と刻まれた社号標が立っています。車で向かうなら、新鶴岡橋経由上之郷区から井田神社へ向かう山道か、もしくは日置区日置橋から鶴岡区の多田谷経由の迂回路を使わないと行けなくなっています。

社号の井田は「いだ」とも「いた」とも読み、通称は伊福八幡社(伊福は鶴岡、江戸期前の名前です。)です。神社の鳥居は円山川に面しており、川の方向から階段が続き船着場があります。現在の参道が付く前は対岸から船で参拝するのが正式な参拝していました。鳥居(私の知る限り3回作り直され現在は御影石)をくぐり階段を上り、木々の茂った参道を進むと境内です。明治以降の一時期、円山川対岸の楯縫神社が井田神社に合祀されていましたが、昭和二十二年、現在地(対岸日高区)に分離されました。

P5052125.jpg(もう少し、見えて来ました。)
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(初めてカブトムシをつかまえたしいの木です。)
P5052145.jpg(拝殿と神殿は一緒にUPします。)


『播磨国風土記』では、「アシハラシコの黒葛は一条は但馬の気多の郡に、一条は夜夫(養父・ヤブ)の郡に、もう一条はこの村(御方里・おごうり)に落ちたので三条(ミカタ)と云う。」とあり葦原醜男(大国主・アシハラシコ)と天之日矛の土地争いの話が出て来ます。


さらに『但馬故事記(貴重な歴史資料と考えるべきか偽物と考えるべきか?な書物です。)』では、神功皇后2年、気多の大県主の物部連大売布命が亡くなり、その子・物部多遅麻連公武をもって多遅麻国造とする。 多遅麻国造、彦狭知命(職の神)の末裔・楯縫首を召し、矛・楯を作らせ、(式内楯縫神社は現在地ではなく鶴岡字多田谷) 石凝姥命の末裔・伊多首を召し、鏡を作らせたとあります(式内井田神社)。伊多首は鏡造りの祖・石凝姥命(いしこりどめのみこと)事で鋳含(いふく)丘に祀りました。やはり伊福は鋳含から来ているようです。

兵庫県無形文化財”井田大神楽”と四年に一度の大祭り


CIMG3086.jpg(幟を持った村役さんたちです。)
CIMG3088.jpg(続いてお囃子。)
CIMG3108.jpg(御神輿来ました。皆さんへべれけですが、大祭りですから。)
(子どもだんじり、一つの区で出来るレベルは越していると思いませんか?凄いぜ~!)
CIMG0825.jpg
(女の子たちの手踊りですが、雨のため急遽、我が家で踊る事に(;^_^A、30分で準備無理があると思うけどね。)


井田神社大祭(ここでいう大祭四年に一度の事ではなく通常の秋のお祭り)は、鶴岡区の氏神である井田神社に奉納する秋の神事で、五穀豊穣、村内安全を祈願するため江戸初期から始まったと伝えられています。

例年は『大神楽』と「子どもだんじり」だけの奉納ですが四年ごとの夏のオリンピックの歳には区民総出の大祭が行われます(戦中戦後は時節柄、また男手不足から中断していました。私が中学生の1976年モントリオールオリンピックの年に再開されるようになったと記憶しています)。

昔の大祭では、屋台に乗る囃子や三十石船で円山川を渡る雅やかな船渡御(ふなとぎょ)勇壮な馬の早駆けなども行われ、一つの地区の祭としては稀有のにぎやかさでした。現在は、陸渡御(りくとぎょ)のみとなり、旗持ちと大太鼓を先導に神輿が練り歩き、それに続き屋台、囃子、大神楽、子供の手踊り、子供だんじりなどが随行して総勢300人の行列が区内を一日かけて巡行します。

(物語!横暴な獅子がおりました。)
(天狗が獅子の剣を奪って懲らしめようとします。)
(力比べをして、獅子をこらしめる天狗。)
(天狗が勝利して、改心した獅子に太刀を返します。)
(獅子は大変喜んで、豊穣の舞を踊る。伊勢大神楽は、”壬申の乱”の時に大海人皇子「後の天武天皇」が舞った姿を模しているといわれます。)

『井田大神楽』ですが「伊勢大神楽」の流れを汲むと思われ、兵庫県の無形文化財に指定されています。午前中に氏子を廻り「浄めの舞」を舞い、午後2時過ぎに井田神社本殿前で「幣の舞」「天狗の舞」「祇園囃子」「剣の舞」「わくわく」「豆ひろい」「乱獅子」を奉納します。円山川の対岸(左岸)にある楯縫神社と氏子が合併した時期があり、大神楽もかつては一つで、芸態・衣装などよく似ていますがいずれも、約200年前の文化年間が起源と伝えられています。

【最後に一言】三つ子の魂百まで。


子供の頃の思い出は楽しいものばかりでもありません。せっかく捕まえたミヤマワガタを無理やり上級生に買い取られたこともあります。今思えばおかしな感じがしますが、両親は大変怒ってそのお金を私に返しに行かせました。その上私が採った虫までも、上級生にプレゼントしてしまいました。教育者だった両親は、そのようなことにも厳しかったような気がします。

さて今回久々に”お宮さん”を訪れ、やはり故郷はいいなあと感じました。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」と言いますが、離れて生活しているからこそ素晴らしさに気がつきます。父が送ってくれる米や野菜や果物はいつも新鮮で美味しい、これで母が健在でいてくれたらと思う今日この頃です。

厳しかった父も八十歳を超え、少し弱くなったなあと感じるようになりました。そろそろ田舎に帰って面倒を見る日もそう遠くないのかもと考えてしまいます。親不孝をしてきた私、親孝行できる日にも限りが有ると考えると複雑な心境です。ブログを書き終えて、目を閉じると「子供だんじりの太鼓の音」「神楽の笛の音」が頭の中に鮮烈に蘇ってきました、やはり故郷は良いですね。



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2018/06/03

「刀剣女子」必見!国宝『童子切り』はここで創られた。

『出雲大社・荒垣内摂社・そして最期の神殿』シリーズをお待ちの皆さんもう少し待ってください。出雲大社取材後ゴールデンウィークで実家に帰省する途中大山で見出し取材を慣行。



【プロローグ】刀剣女子と春日神社の屋根裏



名刀を擬人化したオンラインゲーム『刀剣乱舞(とうけんらぶ)』をきっかけに(”とうけんらんぶ”だと思ってたんですが、”らぶ”だそうです)、約3年前に火が付いた刀剣ブームがさらに広がりを見せています。人気を支えるのは「刀剣女子」と呼ばれる若い女性たちです。展覧会などが各地で計画され、開催される刀剣展にも女性たちがこぞって詰めかけているのだそうです。ブームを通して鑑賞眼を養い、知識を深めていく刀剣女子。彼女たちはなぜ日本刀に魅了されるのでしょう?女性たちはみずからをゲームでプレイヤーを指す呼称である審神者(さにわ)と呼んでいるのだそうです。ちなみに本来の歴史用語の審神者(さにわ)とは、古代の神道の祭祀において神託を受け、神意を解釈して伝える者のことです。後には祭祀の際に琴を弾く者を指すようにもなっています。

そんな「刀剣女子」の皆さんこんなレジェンドも作ってます。銘刀『蛍丸』復元のため、刀工の福留さんと興梠さんががクラウドファンディングを開始すると4500万円があっさりと集まった!ちなみに、蛍丸(ほたるまる)とは、来国俊作の日本刀(大太刀)で、阿蘇神社に保管されたことから”阿蘇の蛍丸”とも呼ばれる物ですが戦後の混乱期に行方不明に成っていました(ゲームの中では可愛い男の子キャラだそうです。)。

P5200586.jpg(奈良春日大社宝庫の写真は撮ってなかった。大社自体はまたの機会にご紹介します。)

先日、我が但馬でも「竹田城」最後の城主「赤松広秀」が所蔵し数奇な運命に翻弄された日本刀『獅子王』の写し刀が、418年ぶりに”帰郷”したニュースがありました。こちらもクラウドファンディングで刀剣女子の皆さんの尽力が有ったようです。但馬人の一人として感謝申し上げます(刀剣女子の知識は私の歴史雑学の及ぶところでは無いようなので、ちょっとビビッてます。)。『獅子王』418年ぶりに“帰郷”の話題はまたの機会に取り上げたいと思います。

春日神社の屋根裏って何だ?と考えられたと思いますが、戦前「春日大社」の宝庫の天井裏で発見された太刀を約80年経ってサビを落として修理を施したところ、最古級の日本刀だったことがわかりました。長くなりそうなので詳しく後で説明しましょう。

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天井裏の刀は古伯耆の中でも最古とみられる刀工「安綱(やすつな)」作?


ss032-3[1]
(先日国宝展に見に行ったのですが古伯耆は無かったのでWikipediaから拝借しました。)

春日大社(奈良市)の発表によりますと、所蔵する太刀1本を研磨した結果、日本刀の原型が成立した最初期である平安時代末期ごろに作られた「古伯耆物(こほうきもの)」と呼ばれる最古級の日本刀と判明したそうです。現存する鎌倉時代以前の刀剣の中でも長寸の刃長82.4センチで、製作した当時の形がほぼ残っており貴重なものだそうです。

1939(昭和14)年に大社宝庫の解体修理をした際に天井裏(屋根裏ではなく天井裏ですね・笑)から発見された太刀12本のうちの1本です。刀身がさびていた太刀について2015年から「第60次式年造替(しきねんぞうたい)」を記念して順次、刀剣研磨師の人間国宝、「本阿弥光洲(ほんあみこうしゅう・光意系本阿弥18代、本阿弥家は刀剣のとぎ(磨研)・ぬぐい(浄拭)・めきき(鑑定)の三業を家職としています。本阿弥光悦が有名ですね。)さんに研磨してもらっており、今回の太刀が4本目だったそうです。

日本の刀剣は、古代遺跡での出土品や正倉院宝物などにみられる反りのない「直刀」から、平安後期に反りなどの付いた現在の日本刀の形が成立し始めます。伯耆国(現鳥取県中西部)で作られた「古伯耆」などが最初期のものとされています。この刀も持ち手付近からの反り方など最初期の特徴を備えていたうえ、焼き入れの際に刃の表面に入った模様の特徴などから、伯耆国(現在の鳥取県)で作られた古伯耆物と分かりました。古伯耆には十数点の国宝・重要文化財があり、この刀も製作者の銘は無いものの、調査した東京国立博物館の酒井元樹・主任研究員(日本工芸史)によると、「これだけ長寸の古伯耆で、外装も残っているのは珍しく、国宝「童子切(どうじぎり)」(同博物館蔵)で知られ、同時代に活躍した刀工、安綱(やすつな)が製作した可能性があるといいます。

平安時代から武家に伝わる「伝家の宝刀」が、南北朝~室町時代初め(14~15世紀)に大社に奉納されたとみられ、外装は、中世の武士が常用していた「黒漆山金作太刀拵(くろうるしやまがねづくりたちこしらえ)」と呼ばれる作りですが、その前には別の外装が施されていたとも考えられ、日本刀の歴史を考える上で重要な資料として注目されます。 

国宝『童子切り』ってどんな刀?



童子切(どうじぎり、どうじきり)は、平安時代の伯耆国の大原の刀工・安綱作の日本刀(太刀)です。童子切安綱(どうじぎりやすつな、どうじきりやすつな)とも呼ばれ、日本の国宝に指定されています。国宝指定名称は「太刀 銘安綱(名物童子切安綱) 附 絲巻大刀 梨地葵紋散蒔絵大刀箱」(たち めい やすつな めいぶつどうじぎりやすつな つけたり いとまきたち なしじあおいもんちらしまきえたちばこ)です(;^_^A。

刃長二尺六寸五分(約80.3cm)、反り?(はばき)元にて約一寸(3.03cm)、横手にて約六分半(1.97cm)、重ね(刀身の厚さ)二分(約0.6cm)。造り込みは鎬造(しのぎづくり)、庵棟(いおりむね)。腰反り高く小切先。地鉄は小板目が肌立ちごころとなり、地沸(じにえ)が厚くつき、地斑(じふ)まじり、地景しきりに入る。刃文は小乱れで、足よく入り、砂流し(すながし)、金筋(きんすじ)入り、匂口深く小沸つく。帽子は小丸ごころに返り、掃き掛ける。茎(なかご)は生ぶ。先は栗尻。鑢目(やすりめ)は切。目釘孔1つ。佩表に「安綱」二字銘を切る。制作は平安時代後期とされます。

なお、刀身と共に金梨地鞘糸巻拵えの陣太刀様式の外装が現存していますが、この拵えは桃山時代に製作されたものであり、それ以前に収められていた拵えがどのようなものであったのかは判然としていません。天下五剣の一つで、大包平と共に「日本刀の東西の両横綱」と称される最も優れた名刀とされます(データはWikipediaより)。

『童子切り』の名前の謂れが凄すぎる。



かつて伯耆国会見郡の『大原五郎太夫安綱』という鍛冶が一心清浄の誠で鍛え、時の将軍・坂上田村麻呂(蝦夷征伐で有名)にこれを奉じたものだといわれます。田村麻呂が鈴鹿山にて鈴鹿御前と剣合わせした太刀であり、その後は田村麻呂が伊勢大神宮に参拝の折、大宮より夢の告を受け、御所望有りて御殿へ奉納したといわれています。 源頼光が太神宮参拝の時に夢想があり「汝に此剣を与える。是を以って子孫代々の家嫡に伝へ、天下の守たるべし」と示給された太刀です。ちなみに源頼光は但馬国司として但馬に赴任し、前回UPでも登場した我が家となり地区上郷の館で「朝まだき 空櫓(からろ)の音の聞こゆるは、蓼刈る舟の 過ぐるなりけり」と円山川の景観を詠っています。

さて『童子切り』ですが、酒呑童子の説話を書いた絵巻や絵詞などの諸本では、清和源氏の嫡流、源頼光(『太平記』では渡辺綱とされています。)が酒呑童子を斬った太刀として「血吸」(血すい、ちすい)の名前が登場します。頼光が丹波国大江山に住み着いた鬼、「酒呑童子」の首をこの太刀で切り落としたという伝承から「童子切」の名がついたとされます。享保4年(1719年)に江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が本阿弥光忠に命じて作成させた『享保名物帳』には「名物 童子切」として由来と共に記載されています。

慶応義塾大学図書館蔵『しゆてんとうし』には『太平記』からの引用が見られるます。『太平記』によると、坂上田村麻呂が伯耆国大原五郎大夫安綱が打った太刀であり、田村麻呂が鈴鹿御前との戦いに用いた後に伊勢神宮に納められ、頼光が参宮した際に夢中で託宣があり伊勢神宮より下賜った源氏累代の太刀とされます。しかし、その後の渡辺綱が牛鬼を切ったという逸話は綱の持つ鬼切に引用されています。また酒呑童子絵巻の中には酒呑童子の首を絶つに用いた太刀をすでに鬼切丸と称すものもあるようです。『太平記』の物語は以下のようなものです。

【大和国宇陀郡大森に夜な夜な妖者が出没するので頼光は配下の渡辺綱に妖者を討つよう命じ、貸し出したこの太刀で妖者の手を切り落とした。綱が妖者の手を頼光に奉じたところ、妖者は手を取り返そうと頼光の母に化けて頼光の家の門を叩いた。頼光が切り落とした手を見せたとたんにそれを掴み、妖者は自分の右ひじに指し合せ長二丈ばかりの牛鬼となった。頼光は件の太刀で牛鬼の頭を切り落としたがその頭は飛び踊り、太刀の切先を五寸食いちぎって半時吠え怒ったあと地に落ちて死んだという。そののち、この太刀は多田満仲の手に渡り、信濃国戸蔵山にて鬼を切ったという。これにより「鬼切」と称することになったという。— 『太平記』より大意】

現在では制作年代は酒呑童子伝説(10~11世紀)の時期よりも後なのではないかとの見解もあるようです。刀剣研究家の佐藤寒山は、「大江山物語はフィクションが多く含まれていることは否めないだろう(そりゃそうですよね)。しかし童子切は享保名物帳にあることでも、同作の安綱在銘の太刀が比較的に多く現存する中で、安綱中第一等の作であるのは明らか」と記しています。

室町時代には足利将軍家が所蔵していたとされています。足利義昭から豊臣秀吉に贈られたとされ、さらに徳川家康とその子である徳川秀忠へと受け継がれました。慶長16年(1622年)には勝姫が越前国福井藩主である松平忠直へと嫁ぐ時の引き出物であったといい、忠直から松平光長を経て津山藩の松平家に継承されたとされます。光長が幼少の頃、疳の虫による夜泣きが収まらないのでこの刀を枕元に置いたところたちどころに夜泣きが止んだ、浮かんだ錆を落とすために本阿弥家に持ち込んだところ近隣の狐が次々と本阿弥家の屋敷の周囲に集まってきた、等の様々な逸話が伝わっている刀です。

江戸時代に町田長太夫という試し斬りの達人が、6人の罪人の死体を積み重ねて童子切安綱を振り下ろしたところ、6つの死体を切断しただけではなく刃が土台まで達した、という逸話が残っています(どれほど切れるんだ~笑)。明治に入って後も津山松平家の家宝として継承され、1933年(昭和8年)1月23日付で子爵松平康春の所有名義で国宝保存法に基づく国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定されています。文化財保護法に基づく現”国宝”に指定されたのは1951年(昭和26年)です。太平洋戦争終戦後は、津山松平家から手放され、個人所蔵家の所有となりましたが、1962年(昭和37年)に文化財保護委員会(文化庁の前身)によって買い上げられ、現在は東京国立博物館に所蔵されています。

DOJI_KIRI_sword[1](初めて反りが入った刀とも言われます。)

『童子切り』はここで創られた!


P5041970.jpg(大原神社、御祭神は不明です。)
P5041980.jpg(拝殿、安綱も祈りを捧げたのか?)
P5041986.jpg(巌藻ですね~現在は伯耆国ですが古代はこの地は出雲の一部だった証拠かもしれません。)
P5041996.jpg(簡素な神殿ですが、水の流れる音が聞こえます。)



さて今回取材したのは鳥取県伯耆町大原にある伯耆安綱伝承の地と伝承地の傍の大原神社です。刀を作ることは神事ですし、当然伯耆安綱も大原神社で祈りを捧げたと思います。更には神社の御祭神は不明ですが、地下を流れる大山の湧水の音がしました。水は焼き入れに欠かせないもので、反りのかたちもこの工程で決まります。水は古い水で汲み置きして余計なガスが飛んだ落ち着いた水を使うそうです。大山の不純物の無い湧水が名刀の創出に一役買ったのではないでしょうか?

P5042002.jpg(伯耆安綱伝承の地)
P5042019.jpg(説明版「大原古鍛治発祥の地」と伯耆安綱の系図)
P5042007.jpg(伯耆安綱伝承の碑)

【最後に一言】やはり日本刀って凄い。



日本刀には二度の存亡の危機がありました。一度目は、1876年(明治9年)3月28日に発せられた年に出された「大礼服並軍人警察官吏等制服着用の外帯刀禁止の件(たいれいふくならびにぐんじんけいさつかんりとうせいふくちゃくようのほかたいとうきんしのけん、明治9年太政官布告第38号)は、大礼服着用の場合並びに軍人や警察官吏などが制服を着用する場合以外に刀を身に付けることを禁じる内容の太政官布告です。なお、略称として、廃刀令または帯刀禁止令と呼びます。この法令により武士の刀の着用禁止を指示しています。廃刀令による武士の消滅こそ最終的な戦国時代の終わりとも言えます。

二度目は、1945年に日本が敗戦時です。占領軍は軍隊や民間の武装解除を求め、この時 GHQ が摂取した日本刀は数百万にものぼり、名刀も多数ありました。戦利品として海外に持ち出されたもの、海に捨てられたもの、ガソリンをかけて燃やされたものまでありました。戦時の抜刀突撃の怖さはアメリカ兵を恐怖させたと言われています。1946年摂取した刀の一部は美術刀剣の名目で返されることになりました。

日本刀は古代に古来より信仰の対象権威の象徴で、美術工芸品でもありました。刀は複合的な文化財で、なくてはならないものなのです。 私は、日本刀だけは日本人として守り伝えていかなければいけないものだと思います。「美術刀剣」として、これからはクールジャパンの象徴として、刀剣を海外に発信していくことも必要だと思います。ただ、歴史の”負の部分”「刀剣が人を切るもの」だということも考えながら付き合っていく必要があると思います。命を奪う物だからこその怪しい美しさが「刀剣女子」を魅了するのかもしれません。

さらに刀剣作りには、鞘師・塗師・研り師等の関連職業があります。刀の必要性は今現在は無いわけですから、”孤塁を守る(ただ一つ残った土塁を守る)”彼ら達に頑張ってもらいたいと思います。その援軍が「刀剣女子」の皆さんになれれば良いと考えます。刀は日本人の成功と失敗の出発点になっています。失敗は刀に象徴される力や武力に過信が増えた場合に多くの問題が起きる。最も成功した事は、技術をアイデンティティにしたことだと思います。物作りをする人を尊敬する(とうとぶ)文化です。技術者全てが尊敬すると言って過言ではない、「本田宗一郎」は刀鍛冶の孫です。彼は死の床に就くまで、刀鍛冶だった祖父の話をしたといわれています。日本の"ものづくり"の精神性に刮目してほしいです。

宜しければ、日本刀ファンにもう一本送るブログ読んでください。素晴しい話ですよ!「関ヶ原の生き証人」、国宝太刀『銘 豊後国行平作』は歴史その物だった!

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2018/05/31

コウノトリ舞う豊岡市日高町で『楯縫古墳と故郷の地区』の歴史を考える。

『出雲大社・荒垣外摂社』シリーズは前回で終了しました。取材の後ゴールデンウィークで実家に帰省しましたので、少し故郷の話題もご紹介したいと思います。



【プロローグ】レッドリストAランクの魚「ニホンイトヨ」が5年ぶりに発見!


先日うれしいニュースに接しました。私の実家近くの、但馬豊岡市の市立ハチゴロウの戸島湿地(大陸から渡ってきたコウノトリ「ハチゴロウ」が住み付いた場所です。)で、兵庫県版レッドリストAランクの魚「ニホンイトヨ」が5年ぶりに発見されたのです(円山川城崎町楽々浦の辺りです。円山川は県北部を流れる一級河川です。)。コウノトリも帰省の度に見られる様に成りましたし、生まれ育った故郷に自然が回復していると考えると嬉しいですね。「ニホンイトヨ」長くなりそうなので、後でもう一度説明します。

CIMG98241.jpg
(毎回帰省の度に見られるようになりました。)

さて本題はこちらです。私の実家の地区に有る『楯縫古墳』と故郷の歴史を考えて見ようと思います。私の実家がある兵庫県豊岡市日高町の地区(集落)は、日高町(市町村合併によって豊岡市日高町・旧城崎郡日高町)の中でも歴史上一番といっても過言では無い大きな地区です。勿論但馬地方の過疎化によって人口は減ってきてはいますが、平安期に国府が存在した場所(二度の移動があり二期国府の位置は確定出来ていません。)と、明治以降日高町久斗地区にグンゼ工場の社員寮(女工さんがかなりの人数労働に従事していました。)が有った時期意外は、日高町最大の人口を誇っていたと思います。

地区の円山川対岸に古墳群が有り、私も子ども頃は良く行って里山遊びに興じていました。その中で一番大きな石室を有している『楯縫古墳』を40年以上ぶりに訪れて来ました。

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『ニホンイトヨ』ってどんなお魚?


「ニホンイトヨ」ご存知でしたか?北半球の亜寒帯に広く分布し、日本でも山口県と利根川以北に分布する。トゲウオ科の仲間です。全長は10cmほどで、体は木の葉のように左右に平たく。背中には背びれの棘条が3本離れて発達し、さらに腹に2本、尻びれ付近にも1本とげがある。うろこはありませんが、トゲウオ科特有の鱗板が体の側面に並ぶび、体色は褐色ですが、成熟したオスは体が青っぽくなり、のどから腹部にかけて赤色の婚姻色を発現させます。

イトヨはサクラマス・回遊型(ヤマメ・陸封型)と同じで、川で生まれた稚魚は海へ下って成長し、産卵前に川をさかのぼる回遊(遡河回遊)を行いますが、海まで降りずに淡水域に留まって成長する陸封型の個体群があります。岩手県大槌町では東日本大震災による津波の引き波で陸封型イトヨが川の下流に運ばれ、春に海から遡上してきたニホンイトヨと自然交雑した例が報告されています。

繁殖(求愛行動)に面白い特徴があるのでご紹介します。若い個体は群れで生活し、小型の甲殻類などを捕食して成長しますが、婚姻色を発現させたオスは縄張りを作り、同種のオスを激しく追い払うようになります。同時にオスは縄張り内の川底に穴を掘って水草の根などを集め、トンネル状の巣を作り、メスを誘って産卵をおこないます。オスは産卵後も巣に残って卵を保護します。寿命は1年で、オスメスとも産卵が終わると死んでしまうのですが、まれに生き残って2年目の繁殖に参加する個体もいる様です。なお、繁殖期のオスに様々な模型を近づける実験では、たとえ形が似ていなくても体の下面が赤ければ攻撃行動を起こします。この習性は本能行動の例として知られ、生物(理科)の教科書などにも登場しています。


37933[1]
(こちらが見つかたニホンイトヨです。但馬情報特急便も参考にしてください。)

私、トゲウオは以前、青森県に在住していた時に奥入瀬渓流側の蔦温泉の蔦沼で発見しました。日本のイトヨには日本海系、太平洋系降海型および太平洋系陸封型の3系群があります。豊岡市で発見されたものは日本海系に成りますね。私が青森で観察したものはもちろん太平洋系陸封型の個体群でしょう。

トゲウオ類はすべての種が、雄による巣作りと卵塊の保護を行います。海産種は海藻を、淡水産種は水草または水底を利用した巣を形成します。トゲウオ科魚類は進化学・遺伝学・動物行動学・生理学の研究対象として古くから利用され、多くの業績が導かれています。オランダの動物行動学者であるニコ・ティンバーゲンは、イトヨの本能行動を詳細に解析した研究により、1973年のノーベル生理学・医学賞を受賞しています。

但馬最大級の石室を持つ『楯縫古墳』ってどれくらいの規模なの?


P5052024.jpg(子どもの頃は橋の欄干を歩いて度胸だめしもした旧鶴岡橋、懐かし!)
P5052029.jpg(新鶴岡橋、我が家の畑の上も通過しています。)
P5052023.jpg(円山川沿いの井田神社参道ですが、通交止めに成っています。)

『楯縫古墳』は、兵庫県豊岡市日高町日高区・鶴岡区の円山川対岸、右岸の山裾にあります。上記名称のほかに、森坂古墳とも呼ばれることがあります。現在は鶴岡橋の付け替えと井田神社参道の道路封鎖により、新鶴岡橋経由上之郷区から井田神社へ向かう山道か、もしくは日置区日置橋から鶴岡区の多田谷(たたのや・元々はひとつの集落だったと思われます)経由の迂回路を使わないと楯縫古墳には行けなくなっています。鶴岡区・多田谷集落の谷間農道を南へ進むと、楯縫古墳群の石柱が建っています。そこから林の中へ100m程入っていくと谷間の奥に但馬最大級の巨大な石室が露出しています。

P50520361.jpg(楯縫古墳群の石柱)
P5052044.jpg(熊?イノシシの罠がありました。もう怖い!)
P5052049.jpg(100mほど山に入ると見えて来ました。)

墳丘は単純な円形をしており、円墳と呼ばれる全国の古墳形態でもっとも多数を占める古墳の形状を持っています(私のblog読んでる皆さんに要るのかこの説明?笑)。墳丘の規模については資料が不足しているため、古墳側の説明板を参考にさせて頂きます。墳丘の直径が29mと測量されています。測量調査が1974年に行われました(当時小学6年生だった私は、カブトムシやクワガタ虫の採取に夢中で野山を駆け巡ってました。)。

P5052055.jpg(説明版が設置されています。)

埋葬施設は両袖型横穴式石室で、全長13m、玄室長5.1m、幅2.6m、高さ3.4m、羨道長8m、幅1.5m、たかさ1.7mの両袖式の単室構造です。しかし左袖部はほとんど削られてしまっています。床面には川原石が敷かれ、閉塞石が一部残っています。今回は確認出来ませんでしたが、周りににも古墳が有り楯縫古墳群を構成しています。私の記憶ではもう少し農道沿いに山道を行くと幾つかの石室が有ったと記憶しています。

P5052056.jpg(ど~~~ん、結構な大きさです。)
P5052060.jpg(石室内に進入禁止!こっそり入ってみましょう。良い子の皆は真似しちゃダメだよ~!)
P5052066.jpg
(天井にも、かなり大きな石が使われています。)
P5052072.jpg(石室から外を眺める!うっとりします。)
P5052069.jpg(石室の中から木漏れ日を眺めるの図)

この古墳の築造は古墳時代の後期にあたる6世紀末ごろと推定されています。 「楯縫古墳」は兵庫県の史跡に指定されています。
 

『楯縫古墳』の埋葬者の謎を推理してみましょう。


P5052073.jpg(周りを一周してみます。)P5052076.jpg
(石室むき出しです。)
P5052077.jpg(木々も伸び放題、45年も経過していますからね(;^_^A)
P5052080.jpg(こんなだったっけ?整備してほしいですね。)

盾縫(たてぬい)とは、古代日本(古墳時代から律令時代)において、盾を作ること、または作る人を指した語です。表記では、楯縫・作盾者とも記されています。盾を作る部民は楯部(たてぬいべ)と称され、神代紀には、「彦狭知神(ひこさしりのかみ)を盾縫とす」とあるように、日本神話においても、盾を製作する神々が登場しています(この他にも、大国主が白盾を作る記述が見られるようです)。

伝説上においても、盾縫は登場しており、垂仁紀39年条(10年)「一云」文註に、五十瓊敷入彦命が、「河上と称する鍛(かぬち)に命じて大刀一千口を作らしめたので、この時、楯部以下の十の品部を賜った」と記述されています(この一千口の大刀は石上神宮に奉納されたと記載されます)。職人をたたえるのは日本独特の文化だと考えます。

現在から1400年以上前に、但馬の山奥に武器を作る集団が定住していたのです(そんなに言い切っていいのか~f(^_^;)。証として私が考えているのは、場所です。後ろに須留岐山を配して、燃料の調達が簡単な事。最初にご紹介した多田谷地区に多くの田を耕作するだけの土地が無い(にもかかわらず田の多い谷は考えられない。)!楯縫古墳と鶴岡村社「井田神社」の間に「楯縫神社」が有ったとされる伝承(楯縫神社は円山川を挟んで反対側に移築されました。)。鶴岡区は江戸期以前は伊福村の名前だった(だからどうした?後で説明します。)!

そうです。もう皆さん私が言わんとしていることは、お分かりですね。結論『武具製造集落の首長の墓』です。

「実は証拠も持ってます。」


P5052100.jpg(多田谷集落、同級生も住んでいますが、10軒もありません。)

楯部の谷(たてぬいべのたに)=多田谷(たたのや)、若しくは多田谷(たたのや)=多々良の谷(たたらの谷)、更に伊福(いふく)=火吹(ひぶく)に通じるとおもいませんか?音が似ているというだけで、全て私の考え通りとは思いませんが、1400年前に造られた古墳がこんな山奥に存在する事がその事実を証明していると思いませんか?食料が多く取れる場所でもないですし、古くからの名前が残っているわけですから、山の中には当時”武器製造集団村”があり、多くの職人が武器を製造する仕事に従事していたと考えると辻褄が合うと思いませんか?

村があった痕跡も探してみました。実は子供の頃遊びに行った山の中はかなり姿を変えていましたが、当時私が夢中になったのは土器拾いだったんです。「楯縫古墳」は古墳時代としては後期に成りますが、実際に煮炊きに使用されたと考えられる土師器(はじき)がゴロゴロ拾えたと記憶していました。当時ぶどう園(デラウエア畑)だったと思われるその場所に行っていみることにしました。少し農道を奥に歩いて小川の橋を渡りますと、当寺の果樹園は牧草地になっていました。あたりを少し歩いて探してみるとありましたよほら~!あった又、45年前にタイムスリップしたように感じです。いかがですか?この山間の谷に集落が存在したことは間違いありません(笑)。

P5052090.jpg(アッ!見つけましたね~。土師器です。)
P5052095.jpg(ほんの15分ほどでこんなに見つけました。童心に帰りました。)

【最後に一言】「実は我が家、古墳の上に建ってます。」


今回の記事に地図は載せないことにします。私の同級生や同郷に住んでおられる方は場所が特定できると思いますが、あえてこの山あいの谷を皆さんに地図でご紹介するのは、土地の持ち主にもご迷惑がかかる可能性がありますので控えさせていただきます。けしてブログをご覧になる皆さんを信頼しないわけではありませんが、田舎のことですから熊が出たりイノシシが出たりと、危険もあると思われますのでお許しください。

その代わりと言ってはなんですが、もう一つ珍しいものをご覧に入れましょう。これは「楯縫古墳」と同じ時代に作られた古墳から発掘された遺物ですが、決して私が盗んだものではありません。出土したものとして鉄刀、金鍔、金環、鉄鏃と多くの須恵器・馬の下顎骨等です。この遺物実は我が家の庭から出土しました。わが家実は古墳の上に建っています(笑)。驚くべきことですが1400年間我が家の土地は堆積物に覆われませんでした。つまりつまり洪水や川の氾濫とは無縁だったと考えられます。但馬国府は第2期がどこに存在したのか、まだはっきりと証明されていません。私の実家のある地区が1400年にわたって堆積物がないことから考えても候補地の一つとなっても良いのではないかと考えています。いや~あまりに凄い事言ってしまった自分にビックリさせられました。

CIMG2800.jpg(価値は不明ですが、我が家のお宝?拾得物として届けなければ犯罪ですが、さすがに時効は成立してますね。)

いつも応援ありがとうございます。歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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