2017/10/22

全ての始まりがここにあるのか?「願いが叶うお寺」『満願寺』

台風憎しの日曜日になってしまいしたね。現在台風21号は現在19:30紀伊半島の沖合に在って明日未明に関東を直撃する模様です。関東方面の皆さんは気を付けてくださいね。

昨日21日は京都東寺の弘法市(今年は休みが合わなかったり、家族のごたごたで行くことが出来ず)や丹波焼祭りもありましたが、動きが取れず。今日22日は一連の関ケ原最後の取材ともいえる、伏見城址や京都にある武将の墓などを取材する予定でしたがそれもかないませんでした(残念)。唯一、映画「関ケ原」を大雨警報の中見に行くことが出来たのが救いです。映画の出来については後程簡単に説明したいと思います。

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(みました~ん~映画館で見ると良いですね~!)


そこで今日ご紹介するのは関ヶ原から,、550年ほど前のお話をご紹介したいと思います。全ては此処から(こちらの寺ではないのですが)と考えて、清和源氏ゆかりの寺兵庫県川西市に在る『満願寺』をご紹介したいと思います。

その前に、以前からお約束していました。皆さんご存知の日曜日だけのお楽しみ、お友達ブロガー皆さんも良くご存知のハナ(ビー玉)さんの洗濯実験ブログハナの洗濯ラボノートをご紹介します。洗濯が苦手な皆さん、洗剤どれにしようかな?と迷っている皆さん是非ご覧くださいね。

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【いつもの「満願寺」ってどんな寺?】

P7150634.jpg(兵庫県川西市「満願寺」です。)
P7150649.jpg(山門ですが、ちょっとめずらしい形ですね。)


兵庫県川西市にある『満願寺』は、山号を「神秀山」、宗派は「高野山真言宗 」、寺格「真言宗七十五名刹 」、御本尊「千手観世音菩薩 」、創建年「奈良時代 」と言われます。寺伝によれば奈良時代、聖武天皇の勅願により、「勝道」上人が開基・創建されています。

札所としては「新西国33観音13番」「摂津国88箇所68番」「摂津国33箇所18番 」。文化財は、「石造九重塔(国の重要文化財)」「木造金剛力士立像ほか(県文化財)」等の文化財が有ります。

【全ての始まりがここにあるの訳は?】

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(源 経基、清和源氏の初代です。)
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(源満仲、清和源氏二代多田源氏の祖ですか、JR川西駅前に像があります。かっこいいね。)

平安時代中期には源満仲がこの寺院に帰依し、以来源氏一門の祈願所として栄えました。源満仲の父、源 経基(みなもと の つねもと、源 經基)は、経基流清和源氏の初代です。『保元物語』によれば、源 経基の父は清和天皇の第 6皇子・貞純親王で、母は右大臣・源能有の娘。皇族に籍していたとき「六孫王」と名乗ったとされます。居館は六宮とも八条御所ともいわれます。

嵯峨天皇から分かれた嵯峨源氏や清和天皇からの清和源氏を含め、二十一の流派(二十一流)があるとされています。中でも家格が最も高いのは村上源氏とされ、室町幕府の成立まで源氏長者と呼ばれていました。

『尊卑分脈』等によると経基の孫とされる源頼信が誉田八幡宮に奉ったという願文の写しが石清水八幡宮田中家文書の中にあります。それによると、源頼信は、八幡大菩薩すなわち応神天皇を自らの「二十二世の氏祖」であるとして、「先人新発、其先経基、其先元平親王、其先陽成天皇、其先清和天皇、(以下略)」と自らの祖を列記しています。これに従うと、経基の父は清和天皇の皇子貞純親王ではなく陽成天皇の皇子元平親王となり。清和源氏ではなくて、陽成源氏に成るのですが、あまり難しくは考えないで起きますか?

【姓(かばね)について少し説明しましょう】

姓(かばね)は天皇が臣下に与える姓の事で、代表的なものの一つとして、平氏・藤原氏・橘氏とともに「源平藤橘(四姓・特例?として秀吉が豊臣姓を名乗っています)」と総称されています。姓(かばね)は現在私たちが名乗ってる姓とは違うものです。

姓については簡単に説明すると、氏「古代日本で親族ごとに集団を作っていた残りの呼名や氏族」、姓「天皇からもらったもの。朝廷での役職や地位をあらわすものです」、名字「自由に付けていいもので。氏が分家したときに区別に使ったり、武士が増えてきて自分の支配する地名を名字にして所有権を表したものです。一般的には。明治になって法令によって定められています。」

平民苗字必称義務令(へいみんみょうじひっしょうぎむれい、平民苗字必唱義務令)は、日本の法令である(明治8年太政官布告第22号)。1875年(明治8年)2月13日公布。すべての国民に苗字(名字・姓)を名乗ることを義務付けました。

江戸時代まで、日本において公的に苗字を使用したのは、原則として、公家及び武士などの支配階層に限られ、一種の特権とされていました。明治維新により、従来の身分制度の再編が図られ、明治3年9月19日(1870年10月13日)に「平民苗字許可令」(明治3年太政官布告第608号)が発布されました。この布告では初めて「平民」の語を用いて、華族及び士族(この両者は公家・武士の家柄がほとんどですが)に属さない平民に「苗字」の使用が許可されました。

しかし、当時の国民(平民)の中には、「課税されることを恐れて届け出が少なかったり」「めんどくさい・・・おらは団子屋の市さんでいいや」とあえて苗字を使用しない人も多かったので、1875年(明治8年)に改めて名字の使用を義務づける「苗字必称義務令」が発令され、すべての人々が名字を名乗ることに成りました。

かなりややこしくなってきましたね。具体例を出してみたいと思います。「織田信長」さんと「徳川家康」さんにお願いしましょう。 正式名は「源朝臣徳川次郎三郎家康」と「平朝臣織田三郎信長」です。この場合、「織田信長」さんは氏姓・平朝臣、名字・織田、通称・三郎、 実名・信長、「徳川家康」さんは氏姓・源朝臣、名字・徳川、通称・次郎三郎、 実名・家康に成ります。

信長が平氏だったので、部下の秀吉は同じく平氏姓を名乗ったために征夷大将軍に成れなかったといわれています。征夷大将軍って源氏しかなれないらしいです。家康さんが源氏だったのもハッキリしているとはいえないのですがね~。

【『満願寺』のお話なのですが写真で説明したいと思います。】

P7150661.jpg(きれいなお寺です。)
P7150668.jpg(本坊)
P7150686.jpg(高野山真言宗なので御大師様です。)
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(石造九重塔「国の重要文化財」)

平安以降臣籍降下が頻発して源・平の二姓ばかりになって来ます。最近の研究で「一世王、二世王が源、三世以降が平」だった事が判明しています。源姓(本姓が源氏)の家系はそれぞれ別の苗字を号しているため、現在「源」を今日的な意味の姓として名乗る例は少なく(それでもいるんですね)、推定人口は4,000人程だそうです。

平安時代以降は、皇族の分家はおおむね「源」か「平」になり、その家の開祖となる天皇の名前をつけて呼ばれます。例として、平将門・清盛らの「桓武平氏」、源頼朝・義経らの「清和源氏」などが有ります。

一世(天皇の子)のうち、母親の身分が低くて皇族扱いされない「庶子」は、源氏を名乗ります。嵯峨源氏の源融(みなもとのとおる)、醍醐源氏の源高明(みなもとのたかあきら)などがいます。

二世(天皇の孫)でも、天皇にならない親王から生まれた子は源氏です。清和天皇の孫は源経基(みなもとのつねもと、源満仲の父ですね)と呼ばれ、この人が源頼朝らの祖先に成ります。

平氏は三世(天皇の曾孫)以降が名乗ります。桓武天皇の曾孫は高望王(たかもちおう)と呼ばれますが、この人が最初に平氏を名乗り、桓武平氏となりました。高望王は平清盛の祖先に成ります。

【源氏の活躍】

P7150702.jpg(源家の七塔、源の領地を表しているようです。)

中級貴族であった経基の子・源満仲(多田満仲)は、藤原北家の摂関政治の確立に協力して中央における武門としての地位を築き、摂津国川辺郡多田の地に武士団を形成しました。そして彼の子である頼光(摂津源氏の祖)、頼親(大和源氏の祖)、頼信(河内源氏の祖)らも父と同様に藤原摂関家に仕えて勢力を拡大しました。

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(源頼光「摂津源氏の祖」、但馬国司としても赴任しています。)
P7150718.jpg(まさかり担いだきんたろうさん、源頼光の部下四天王の一人です。)
P7150727.jpg(四天王といえば、酒呑童子の腕を切り落とした、渡辺綱も刀「童子切」も有名ですね。)
P7150736.jpg(本名は坂田金時です。こんな所にお墓が!)

のちに主流となる頼信流の河内源氏が東国の武士団を支配下に置いて台頭し、源頼朝の代に武門の棟梁として鎌倉幕府を開き、武家政権を確立しました(東国に左遷?されたのを利用した頼信はえらいですね~家康はやっぱり源氏ですね(笑)。その後の子孫も、嫡流が源氏(鎌倉)将軍や足利将軍家として武家政権を作ったほか、一門からも守護大名や国人が多く出ています。

清和源氏の代表的な家紋である「笹竜胆」は日本最古の家紋であると言われています。

P7150710.jpg(金堂とむこう毘沙門堂です。)


【映画「関ケ原」の出来は!】

★★★☆☆☆☆☆☆☆(3.5)
(平均は★3です)

良い映画だったと思いますが、司馬朗太郎の関ケ原を読んでいた私には、やはりという感じでした。二時間半で本の上中下巻を描ききる事に無理が有ります。歴史大好きな私でも、事前(それも一週間前)に関ケ原取材に行っていなければこれ誰?な事も多かったかも分かりませんね、むしろエンターテーメントとして鑑賞すれば、楽しめるかもしれません。戦国ファンは見て損はないと思います。岡田君ファンとエンターテーメントを楽しめる人もOKです(今日は台風もあり似ている人も10人くらいなのは良かったかな)。亜人ファンはやめときましょう(笑)

【最後に一言】

皆に名字が付いたことに関連して一言!明治4年(1871年)の戸籍法に基づいて、翌明治5年(1872年)に壬申戸籍(じんしんこせき)が編製されました。編製年の干支「壬申」から「壬申戸籍」と呼んでいます。制度としての賎民は廃止され、法的に平民と一体となりましたが(四民平等)、そのため、特定の職業を独占していた権利が無くなり、逆に納税の義務や、兵役の義務を新たに課されることとなりました。制度の上での差別はなくなったものの、人々の間に差別意識は根強く残り、平等であるはずの元賎民らを「新平民」と呼び差別を続けた地域もあったことは是非忘れないで、考えていただきたいと思います。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/10/18

羽柴秀吉天下取りへの第二歩?「城持ち大名に躍進『長浜城』」

関ケ原を取材してきたので、関ケ原古戦場をご紹介したかったのですが、妻が司馬朗太郎原作の映画「関ケ原」を見に行きたいというので、それでは少し時代を遡る長浜城(ながはまじょう)をそれまでのつなぎにご紹介しておこうと考えて、本日は長浜城のご紹介です。

現在の長浜城資料館はもちろん模擬天守のコンクリート造りなので、秀吉が作った当時の城とは景観もかなり違うとおもいます。そのあたりも前座とは申しませんが、先に登場の要因の一つに成りました。

PA151790.jpg(言われてみれば「白帝城こと国宝・犬山城に似てます。)

しかしながら、天守展望台から四方を見渡すと。東は賤ケ岳古戦場から、浅井氏の小谷城や鉄砲で有名な国友村方面、南は彦根城や、その後ろに佐和山城跡、西を見ると安土城址や比叡の山々、北は三十三観音霊場でも有名な竹生島が一望できる素晴しい景観です。私が登城した当日はあいにくの雨に降られて残念な景観となってしまったのですが、天気が良い日には是非出かける価値はあります。


お得情報として、整備された駐車場が3時間(城内展示と散策には十分な時間です。)無料開放されていました。

さてそれでは、滋賀県長浜市公園町にある羽柴秀吉(豊臣秀吉)が築城した『長浜城跡』をご紹介しましょう。

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【秀吉の長浜城と城下町】

PA151777.jpg(駐車場は少し南側北に通りすぎると戻らなければなりません。)
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(本丸跡・天守閣跡もほんの少し北にあります。)
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(秀吉像・大阪城の豊國神社前の銅像がカッコイイです。)
PA151793.jpg(歴史博物館に成っていますが、古い古典資料の文字が読めたらな~。)

1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、浅井長政攻めの功績により織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に、当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名しました。小谷城で使用されていた資材や、あらかじめ、竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用し築城を開始しました。

他のブロガーさんもWikipediaのこの記載を使われていますが、古来、信仰の対象となった島で神の棲む島とも言われ、奈良時代に行基上人が四天王像を安置したのが竹生島は、南部には都久夫須麻神社(竹生島神社)、宝厳寺(西国三十三所三十番)があり、古来から神仏習合の一大霊場でした。寺社殿建て替え用の、針葉樹林の森が大切に保存されていたのでは推測します。これが密かに隠されていた木材の正体だと思います。

PA151834.jpg(美人薄命、割とよくある人柱伝承、松江城にもありました。盆踊りで人柱を決めたために松江には盆踊りが無いとか?)
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(かなり琵琶湖湖面まで城が有ったようです。水中にも石垣遺跡が残るようです。)
同3~4年頃長浜城が完成し秀吉が入城しています。湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていました。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した形跡があります。そのため、現在でも城下町には当時の面影や名残がありました(一時間半くらいの滞在で長浜全てを見て来たようです、講釈師見てきたような嘘を言い、笑)。秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を徐々に作りあげた場所でもあります。

PA151811.jpg(竹生島が見えますね。)
PA151812.jpg(賤ヶ岳古戦場辺り!)
PA151823.jpg(滋賀県一番の高さを誇る伊吹山先端少しだけ見えています。わかりますか?登って来ました(;^_^A アセアセ・・・)
PA151824.jpg(白い建物の後ろ、彦根城天主見えますか~右に三段櫓も見えますね)

『うんちく「長浜曳山まつり」』は毎年4月9日~16日に、長濱八幡宮の春の例祭に合わせ執行されます。13日~16日は、絢爛豪華な山車「曳山」が登場し、その舞台の上で「子ども歌舞伎」が演じられます(子ども歌舞伎が演じられるのは毎年4台のようです)。曳山は「長刀山」と子ども歌舞伎が演じられる12基とあわせて13基あります。

長浜曳山まつりの由来ですが、秀吉が長浜城主だったころに初めての男の子が生まれました?(誰の事でしょうね)。たぶん羽柴 秀勝(はしば ひでかつ、生年不詳~天正4年10月14日(1576年11月4日))と思われます。羽柴秀吉が、近江長浜城主時代にもうけた子で、幼名は石松丸(いしまつまる)または石松のことと思われます。その他にも織田信長の四男で秀吉の養子に迎えられた於次丸「秀勝」と、秀吉の甥でのちに秀吉の養子となった小吉「秀勝」がいて少しややこしいです。

「石松丸秀勝」の出生を喜んだ秀吉は城下の人々に金(きん)を振る舞い、町民がこれをもとに山車を作って八幡宮の祭礼に曳き回したのが始まりといわれています。

【秀吉城主後の長浜城】

1582年(天正10年)の本能寺の変後、清洲会議で長浜の支配権を獲得したのは柴田勝家でした(秀吉の計略で獲得させられたとも考えられますが)。勝家の甥の柴田勝豊が長浜城の守将として入城ることに成りました。同年末には勝家と対立した秀吉に攻められ、勝豊は城ごと降伏しています。秀吉に見透かされていたのかもしれませんね。

1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い後は、山内一豊が城主となり、6年間在城しています。1586年1月18日(天正13年11月29日)には天正地震により城が全壊し、一豊の一人娘である与祢らが死亡しています。

【関ケ原後の長浜城】

1606年(慶長11年)に内藤信成・信正が城主になりますが(長浜藩)、大坂の陣後の1615年(元和元年)に内藤氏は摂津高槻に移封され、長浜城は廃城になっています。資材の大半は彦根城の築城に流用されました。彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられています。その他、長浜市内にある大通寺の台所門は長浜城の大手門を移したものと伝えられ、今でも矢尻の跡を見ることができるそうです。同市内にある知善院の表門は、長浜城の搦手門を移したものと伝えられています(きれいに解体されていますね)。

PA151688.jpg(彦根城の天秤櫓こちらも国宝です)

現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので、市立長浜城歴史博物館として運営されています。
PA151808.jpg(訪れる価値あり!市郎右衛門)

ハッキリ言って行くだけの価値があるかですが、この地に後に天下人と呼ばれる豊臣秀吉が立っていた。同じ場所に自分自身も立っていると考えると、ほんの一時間程度のお安い買い物?違うか(笑)、一見するのも楽しいいですよ。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/10/16

歴史の禁忌を開放するIF「秀頼野戦を選択」『瀬田の唐橋で家康を迎え撃つ』

前回のお約束、歴史にIFはありませんが、その禁忌を破って、豊臣秀頼が野戦を選んで近畿を制圧、瀬田の唐橋において家康を迎え撃ちます。そんな設定でシュミレーションを楽しんでみましょう。
紀州九度山で 真田昌幸が亡くなる直前 息子の信繁(幸村)に託した 豊臣勝利の秘策に勝利の奇跡は起こるのか?から想像を働けせて見ましょう。

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(真田信繁(幸村)出したかっただけです。)


【真田昌幸の秘策は、こんな作戦】

豊臣秀頼から兵を借り 青野ヶ原(現大垣市)へ布陣、します。そこは何もないただの平原で何故真田がこんなとこに布陣したのか徳川は疑問に思います。物見などを出してこちらの様子を伺いますが(家康は過去に昌幸に散々に負けた経験があり、真田が無策でこんなとこに布陣したとは考えないと推測します)。そうこうしているうちに一ヶ月は時間を稼ぐ事に成功、真田の小勢が徳川の大軍を一ヶ月も釘付けにしたとなれば、豊臣有利とみて寝返る武将も出てくるのではないかと想像できます。そうなると徳川方に猜疑心が生まれ、混乱も起き始めます。そこを一気に攻め立てて劇はする作戦でした。しかし野戦上手の家康をそうも簡単に敗れるはすはありません。その時は「瀬田の唐橋」を落としてさらに時間を稼ぎ、西国大名の心変わりを待つというものでした。

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【真田幸村の父真田昌幸ってどんな武将?】

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(ちょっと見ずぼらしいいおじいさんですね。草刈正雄フアンの皆さん、期待裏切って申しわけない!)

真田昌幸は現代の歴史小説においては「謀略家」「謀将」として描かれる傾向が非常に強い武将です。もちろん幸村の活躍によって創作された部分も多いかと考えます。 江戸期に書かれた、『真武内伝』が信頼できるかどうかには疑問も持たれますが、これから昌幸の人物像を紹介しますと、「昌幸卒去」の項に死に臨んで信繁に対し、昌幸は九度山幽閉中に家康が近い将来豊臣氏を滅ぼすことを予期していたと記載され、その際には青野ヶ原(大垣市を中心とする西美濃一帯・関ヶ原とほぼ同地点)で徳川軍を迎撃する策などを画し、徳川軍が攻めてくれば巧妙に撤退しながら隙を見ては反撃し、最後は瀬田の唐橋を落として守り、多くの西国大名を味方に付けるように策す事を幸村に遺言したとされています。

戦上手で徳川軍に大損害を与えた真田昌幸、真田昌幸は、基本的に少数で大軍を追い払うことと、調略戦術を得意としていました。第一次上田合戦で徳川家康を撃退した時も、第二次上田合戦(関ケ原前夜です)で徳川秀忠を追い払ったときも、軍勢で大きく劣る相手を挑発して限界までひきつけ、怒涛の攻撃を加えています。

ちなみに、第一次上田合戦で家康と戦った際は2000弱の兵力で7000の軍勢を、第二次上田合戦では3000~4000の軍勢で38000の秀忠軍を打ち払うという離れ業を演じています。

昌幸は自軍手前ぎりぎりまで敵を引き付けての、一斉攻撃が得意でした。攻め入る敵を見て焦る家臣や兵たちを前に碁を楽しんだり、配下の者に能の演目を踊るように命じたなどの逸話もあり、冷静沈着で豪快、戦慣れした名参謀としての名を欲しいままにしています。

CIMG8016.jpg(大阪城ですが、今の城は豊臣の城をつぶして作ったものです。空襲で焼けてコンクリートエレべーター付きです。)
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(幸村死す!安居神社は、慶長二十年(1615)の大坂夏の陣の時、真田幸村(信繁)が 最後を迎えた場所です)

大坂の陣で真田が大阪城に入城したと聞いた徳川家康は、「それは親か?子か?」と配下の者に聞いたという逸話があります。過去に真田昌幸に手痛い目に遭わされていた家康は昌幸を非常に恐れていたらしく、手をかけていた戸がガタガタ音を立てて震えるほどだったといわれています(ちょっと大河ドラマの見過ぎですね)。配下の者が「昌幸は既に死去しており、息子の信繁(幸村)が入城致しました」と返答すると、家康は安堵してへたり込んでいました。

【私が豊臣VS徳川を選んだ理由】

現在の瀬田の唐橋状態が一番防御力に優れていると現地で考えたからです。織田信長が現在の位置に架橋(少し上流に移動しています)しています。架橋奉行は木村次郎左衛門と瀬田城主の山岡景隆で、若狭の神宮寺山と近江朽木から材木を取り寄せ、幅四軒(約7.2m)長さ一八〇軒(約327m)の橋を90日で完成させたといわれます。

P761986549.jpg(浮世絵で見ると中州がちっちゃいんですけど実は!)

明智光秀が本能寺の変で信長を倒すと、光秀が安土を攻めようと橋を渡ろうとしたため、景隆は唐橋と瀬田城を焼いてこれを阻止しました。光秀が仮橋を架けるのに3日かかっています。焼失後の唐橋を架けたのは豊臣秀吉で、そのとき初めて現在の位置に、大小二橋の橋を架けたとされます。(ハッキリしませんが長さ一八〇軒(約327m)の橋は現在の全長260mの橋に比べてはるかに長いですよね、つまり一本橋ではなかったかと考えるのです。

中州を西に持つ現在の形なら、防御力の差は歴然です。実際に一本橋だったと思われる時代の戦乱を見ると、橋を焼き払って防御するしか方法も無く、焼き払って防御した陣営がほとんどの場合負けています。、「壬申の乱(672年 )」、「藤原仲麻呂の乱(764年)」、「寿永の乱(1180年から1185年)」、「承久の乱(1221年)」、「建武の乱(もしくは、延元の乱・1336年4月11日)」等どがその例に成ります。一本橋の上で「や~や~我こそは」とやってた時代はそんなものだったのかもしれませんね。

【真田昌幸の秘策?は実現できたのか?】

関ヶ原の戦いの時代とは異なり、20年の間に、家康は豊臣の力を弱めるために鉄壁とも呼べる布陣を行っています。大阪の陣の頃には、徳川家康の天下普請により築かれた堅城が大阪城を囲うように築かれています。

IMG_5724.jpg(西濃への通り道は彦根城が守る)

西濃への通り道は彦根藩(東国へ到る三関の一つ不破関の西方を治める)は譜代大名筆頭の井伊氏の所領であり、その居城の彦根城は、西国大名が徳川に反旗を翻した際にその軍勢を押し留める事を目的に光成の佐和山城を解体するがごとく、天下普請で築かれた城です。

彦根藩を大幅に迂回する経路(南周り)を進撃しようとしても、伊勢(東国へ到る三関の一つ鈴鹿関)は家康の信任あつい藤堂家が治めています。外様大名でありながら譜代大名格であり、徳川軍の先鋒は譜代は井伊、外様は藤堂という慣例ができた程の家康親藩です。

運よく彦根城を抜いて、美濃に入る事が出来ても、西濃(青野ヶ原を含む大垣藩)は徳川歴代の譜代家臣である石川氏の所領に成っており、その居城の大垣城は関ヶ原の合戦の際に家康がこの城に篭った西軍との決戦を避けて迂回し関ヶ原に布陣したほどの堅城です。複雑に絡み合った河川と水壕で大垣は水の都と呼ばれ、大垣城は巨鹿城とも呼ばれていました。

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(名古屋城、大垣もあるけどまだUPして無いので、ごめんなさい。)

さらに、美濃国には家康の娘婿たる奥平信昌が立藩した加納藩が控えていますし、しかも美濃の隣国尾張には御三家筆頭となる家康の九男、徳川 義直(とくがわ よしなお)が守っているのです。先日尾張城がさらに堅固な守備機能を持とうとしていた、古図面も確認されましたね。

それなら東国へ到る最後の三関の愛発関。越前(北周り)は、家康の次男秀康が立藩した福井藩(67万石)があります。

『うんちく三関(さんげん、さんかん)』とは、古代の日本で畿内周辺に設けられた関所の内、特に重視された三つの関の総称です。三国之関とも呼ばれた。当初は不破関(美濃国、現在の岐阜県不破郡関ケ原町)、鈴鹿関(伊勢国、現在の三重県亀山市近辺)、愛発関(越前国、現在の福井県敦賀市内)の三つを指したが、9世紀初頭に逢坂関(相坂関。近江国、現在の滋賀県大津市付近か)が愛発関に代わりました。また、三関のある律令国は三関国と呼ばれています。

結論から言いますと真田昌幸の策は無理だったと考えます。それでは、豊臣側に勝機は無かったのか?と考えるのですが、私は「瀬田の唐橋」で家康を迎え撃つ方法なら勝利できたと、現地を見て考えました~(*^^*)

【豊臣勝利の法則「瀬田の唐橋」】

大阪冬の陣の時点の双方の勢力です。徳川将軍家側約20万、豊臣側約9万でした。私の構想では豊臣側は半数の4万5千でも勝利できたのではないかと考えます。

幾つか条件が在るのですが、まず天皇です。後水尾天皇(ごみずのおてんのう)第108代天皇(在位:慶長16年3月27日(1611年5月9日) ~寛永6年11月8日(1629年12月22日))を調略する事です。後陽成天皇の第三皇子ですが、母は、関白太政大臣・豊臣秀吉の猶子(兄弟や親族の子などを自分の子として迎え入れたもの。義子)で後陽成女御の中和門院・近衛前子ですから意外とすんなり調略できるかもしれません。さらに当然幕府を開くことは政治から切り離されることであり、天皇としては喜ばしい事ではないはずです。

次に天皇の綸旨を発して西国の武将を味方に付けます。実際味方につけなくても家康の誘いに乗らないだけで充分です。

【いざ決戦~】

PA080294.jpg(逃げ道無いでしょ。まあ川に飛び込むくらい?)
PA080303.jpg(西は直ぐなので補給が簡単。)
PA080308.jpg(東は必死で逃げる~)PA080322.jpg(お水頂戴が届きそうです。)

畿内を手中に治めた、豊臣軍の本体は「瀬田の唐橋」で家康軍を迎え撃ちます。一部一万は福井藩秀康の牽制に向かいます(牽制して軍を止めるだけで充分です)。
一万は南下して桂川を牽制(山崎の橋はもったいないけど落とします)に向かいます。これにより渡河できるのは瀬田の唐橋のみです。さらに、もう一万は(必要ないかもしれませんが)姫路の池田家に備えて湊川を守備します(池田家は徳川家と親族関係に有りもしかすると?の懸念があります)。

西国の武将は九州には関ヶ原敗戦組の島津家の動向が気になって動けないでしょうし、中国地方も同様に毛利家が後ろに控えていますから、そう軽々には動けませんね。土佐に入った山内家も長宗我部の残党に苦しめられているので四国も動きは無いと考えました。

さあ舞台は整いました。豊臣軍の残存勢力は6万ですが、対する徳川将軍家は、前述の事情で、20万から2割減の16万ほどに減っている筈です。決戦はもちろん『瀬田の唐橋』です。出来れば西側正面に新真田丸でも築けば完璧ですが(笑)。



ここで現在の航空写真をご覧いただきましょう。中州が意外に多きい事に気が付かれましたか?大きな駐車場やレストラン、食堂など実際の地図は浮世絵とは全く違います。攻める徳川軍は7.5m幅の橋を200mも攻め込まなければ前線での戦いは出来ませんし、橋の幅は7.5mしかありません、横に並んで戦えるのは、10人が限度だと考えます。徳川軍は最前列の50人程度が戦闘に参加できたら精一杯ではないでしょうか。

一方豊臣軍は中州の両側に2000人ずつ位は入れると現地で感じました。正面には3000人!ちょっと、ぎゅぎゅう詰めですが(実質戦闘参加は500人程度かと考えます。)、それでも徳川軍の10倍の戦力の上にこちら(もう西軍の味方、笑)は1人に対して3方向(中州南北と西側)から攻め込めます。城でいえば桝形構造のうえに鶴翼陣形。それが小橋のお陰で二重に配置出来る所に、更に地形の有利さが有ります。対する徳川軍は突撃して突き破る以外に方法はありません。

戦いが始まれば、損失の差は数だけでも10:1ですね、単純に考えれば初戦?の徳川勢2万人が突撃して、戦闘不能に落ちいった時点で、こちら(豊臣軍)の損失は2000人です。200mの橋の上で引くこともできない徳川軍に対してこちらは60mで補給ができます。豊臣軍の損失は2000を毎回補うこととすると、徳川軍が14万に成った時点でこちらは58000人、12万で56000人、10万で54000人、8万人で52000人、6万人で5万人、4万人で48000人!もういいでしょう。家康軍が壊滅した時点で、豊臣軍は44000人が残っていることになります。

PA080327.jpg(瀬田の唐橋)
PA080336.jpg(美しいけど怖いです~!)
PA080363.jpg(古代から戦争に次ぐ戦争!)

「瀬田の唐橋」での豊臣勝利後の展開ですが、家康ももちろん歴戦の強者です。自軍が壊滅するまでの戦闘は行わないと考えますし、一度関東に引いて態勢を整えようとするはずです。豊臣軍?は、「瀬田の唐橋」を最前線に畿内連合を作って真田昌幸が提唱した、少しでも多くの西国大名と条約を結び時を稼ぐ作戦を取ります。史実でもそうですが、大阪夏の陣の二年後家康は天ぷらにあたって死亡しています(事実か知りませんよ?笑)。対する秀頼、史実は(享年23「満21歳没」)でしたから、これからですよね~天下の形勢がどちらに傾いたかは、考える必要も無いでしょう。

【最後に、歴史のIF「taboo」は本当に面白いですよね】

首都は京都か大阪でしょう。明治維新も起こらなかったと思いますね~。アッ!大学とかで歴史を学んでいたらこんなおとぎ話をブログに書いたりはしないと思います。
私が歴史に素人で、理系の人間だから面白可笑しく考えてみました。皆さんどうですか?楽しんでいただけました?(笑)


(最後にプレゼントです。笑)

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リュミエールブラン ネージュ

2017/10/14

伝説と歴史に彩られる『瀬田の唐橋』②

瀬田の唐橋の続編です。瀬田の唐橋が歴史に登場する事件は、まだまだ有りますよ~。今日は、戦国自体から現代(あんまり意味が無いかもですが)迄をお送りしたいと思います。

瀬田の唐橋(せたのからはし)は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる橋(現在はコンクリート、勿論昔は木材です)です。全長260mの長さを誇ります。滋賀県道2号大津能登川長浜線がこの橋を渡っていて、「勢多の唐橋」とも書き、「瀬田の長橋」とも言われています。

P761986549.jpg(安藤広重(歌川広重)の『近江八景』シリーズのひとつ「近江八景・瀬田の夕照」)


京都の宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋・日本三大古橋の一つとされてきました。また、1986年(昭和61年)8月10日の道の日に、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された、「日本の道100選」にも選ばれています。前回と同じじゃない!

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【初恋の君が本を出版されたのでご紹介します】

初恋の君!「坪内美樹」さんが本を出版されました~(*^^*)。素敵な本なのでご紹介します。

P631254879.jpg
(写真はこちらもお友達の同級生のくー子ちゃんからはいしゃくしました)

中学生・高校生と憧れの君だった美樹ちゃん、初恋の相手っていくつに成ってもドキドキするんものですよね、おじさんなのに面白いですよね、勿論やけぼっくいにも火が付く何て事は間違っても、無いので誤解の無いようにハッキリしておきましょう。私の片思いでしたし、告白して振られたとは明記しておきます~。(ToT)

それでも、私が好きに成っただけのことは有るぞというご活躍です。ブログもリンクさせて頂きますので、ご覧下さい。
坪内美樹のGood Luckブログ

【歴史と伝説「戦国から現代へ」】



さて本題ですね!東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡るか、もしくは南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川(迂回って、瀬田川、宇治川、淀川と名前を変えて大阪湾に流れ込むからどこかで渡河しなければ成りません)を渡る必要があるのです。1889年(明治22年)まで瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は、交通の要衝でもあり、京都(平安京)防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われて来ました。唐橋を舞台として繰り広げられた、壬申の乱、寿永の乱、承久の乱、建武の乱など、古代から様々な戦乱に巻き込まれています。

【突然うんちくクイズ~(* ̄∇ ̄)ノ】

平安京はいつまで続いたでしょうか?

歴史好きには当たり前なのですが、「鎌倉時代!」と答えた皆さん、間違いですよ~(*^^*)、引っかけ問題ですが、いがいにだまされませんか?平安京は明治になるまで続いて京都に有りました。「平安京時代はいつまで続いたでしょう?」と質問しないところが肝なんですよ。
クイズも楽しんで日本史を好きになってくださいね。

【戦国時代から現代まで】

PA080294.jpg(今日も瀬田の唐橋は美しいです。)
PA080335.jpg(ボートやバス釣りの方が多くて驚きました。)
PA080322.jpg(二重になった短い方です。左折用に路線が増えました。)

唐橋を現在の位置に移したのは織田信長でした。架橋奉行は木村次郎左衛門と瀬田城主の山岡景隆で、若狭の神宮寺山と近江朽木から材木を取り寄せ、幅四軒(約7.2m)長さ一八〇軒(約327m)の橋を90日で完成ました。中州(島)をはさんだ大橋と小橋の形となったのはこの時からと考えられます。

それ以前の戦いでは中州があったにもかかわらず一本の大橋だったわけですね。都守備側には不利な構造だったと言えます。明智光秀が「本能寺の変」で信長を倒した後の天王山の戦いまでの間に、光秀が安土城を攻めようと橋を渡ろうとしたため、山岡景隆は唐橋と瀬田城を焼き払ってこれを阻止しました。明智光秀が仮橋を架けるのには3日を要しました。

焼失後の唐橋を架けたのは豊臣秀吉で、そのとき初めて現在の位置に、大小二橋の橋を架けたとされます。

【江戸時代になると】

PA080330.jpg(この橋が無いと機内には入れません。「近江八景・瀬田の夕照」は最初に召せました。)


瀬田の唐橋は安藤広重(歌川広重)の『近江八景』シリーズのひとつ「近江八景・瀬田の夕照」に描かれ、往時の唐橋の様子をよく表しています。

瀬田の川橋は、膳所藩(本多家)が管理し、東海道の要所として発展しました。江戸幕府は、瀬田川に唐橋以外の他の橋をかけることを禁じ、膳所城主に保護監理の任務を課しました。1795年(寛永7年)~1894年(明治27年)までの100年間で、18回の架け換えの記録が残っています。

【明治以から現在】

1875年(明治8年)12 月には国が、1895年(明治28年)3 月には県が、ともに木造にて架替えを行っています。
1919年(大正8年)に道路構造令が公布されたのを機に、翌1922年(大正11年)4月に事業費47万円(当時)をかけて事業に着手し、1924年(大正13年)6月に、これまで木造であった橋が、はじめて鉄筋コンクリート製の橋に架け替えられました(風情は無くなりましたねぇ)。

その後、補修は何度も繰り返えし行われましたが、1974年(昭和49年)に本格的な架橋工事が行われ、1979年(昭和54年)に現在の橋が竣工されました。橋の特徴である擬宝珠は歴代受け継がれており、「文政」「明治」などの銘が入ったものも現存しています。1995年(平成7年)、瀬田唐橋の小橋に右折レーンの設置工事が行われ、1997年(平成9年)に完成しています。2012年(平成24年)には、唐茶色に塗り替えられ、現在に至っています。

【面白うんちく逸話特選】

戦国時代の武将である武田信玄は、臨終の際に「瀬田橋に、風林火山の我旗をたてよ」と言ったといわれますが、この逸話は、山を越えればすぐに京都・奈良に通じる瀬田唐橋が、軍事上の要害として重要な位置を示していたことが伺い知れるエピソードの一つになっています。

江戸時代初期の安楽庵策伝『醒睡笑』巻二は連歌師・宗長の歌を引用し、「急がば回れ」の諺の発祥であると紹介されています。
「武士(もののふ)のやはせのわたりちかくともいそかはまはれ瀬田の長はし」、東から京都へ上るには矢橋(やばせ)の港から大津への航路が最も早いとされていましたが、その反面、比叡おろしの強風による船出・船着きの遅れも少なくありませんでした。 瀬田まで南下すれば風の影響を受けずに唐橋を渡ることができ、日程の乱れも起きないことから、これを「急がば廻れ」と詠んだものであると言われました。

 松尾芭蕉も旅の途上にてこの橋について「五月雨に隠れぬものや瀬田の橋」「橋桁の忍は月の名残り哉」の二句を詠んでいます。

千利休が弟子達の集まっている席で「瀬田の唐橋の擬宝珠の中に見事な形のものが2つあるが、見分けられる人はいないものか?」と訊ねました。すると一座にいた古田織部は急に席を立ってどこかに行ってしまいます。夕方になって戻ってきた織部は、利休が何をしていたのか訊ねると「例の擬宝珠を見分けてみようと思いまして早馬で瀬田に参りました。見事なものと言われました2つの擬宝珠は東と西の、これとこれではありませんか??と答えました。利休をはじめ一座の者は織部の執心の凄まじさに感心したと言われています。へうげ者と呼ばれた古田織部ならではの逸話だと思いませんか?

PA080328.jpg(織部が探し出した、擬宝珠はどれなんでしょうね~?)
PA080312.jpg(架け替えによって無くなっていますね~笑!私馬鹿ですね~!)

【最後に】

瀬田の唐橋の防御力について私なりに考察してみました。織田豊臣時代以前は、一本の大橋だったために東からの攻撃側の勝利も数多くありますが、現在の様な二橋の唐橋構造ならば、五倍の軍勢にも負けることはないと確信しました。次回は、真田幸村が籠城戦を用いずに瀬田の唐橋を手中にした場合を例に挙げて、家康との戦を検証をしてみたいと思いますので、お楽しみにしてください。
PA080354.jpg(珍しい水位観測所が有るのご存知でした?)
PA080356.jpg(こんなちっちゃな場所なんですが。)
PA080360.jpg(明治から平成4年まで使われていた、オランダの測量機これもまた歴史ですね。)

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リュミエールブラン ネージュ

2017/10/12

伝説と歴史に彩られる『瀬田の唐橋』①

今日は日本三名橋の一つ、瀬田唐橋(滋賀県大津市/瀬田川)をご紹介する予定なのですが、日本三名橋については、まず日本橋(東京都中央区/日本橋川)、錦帯橋(山口県岩国市/錦川)、眼鏡橋(長崎県長崎市/中島川)という意見があります(瀬田唐橋入っていない)。

さらには今回の瀬田唐橋(滋賀県大津市/瀬田川)、二重橋(東京都千代田区/皇居の濠)、三条大橋(京都府京都市/鴨川)の意見やウィキトラベルだと、三奇橋として錦帯橋(山口)・猿橋(山梨)・かずら橋(岩国)が選ばれています。

さて今回は歴史に基づいて、日本三古橋の宇治橋(京都府宇治市/宇治川)、山崎橋(京都府八幡市・大山崎町/淀川)、と瀬田唐橋を、日本三大橋と理解して、ご紹介したいと思います。
ちなみに山崎橋(やまさきばし)は、かつて山城国山崎–橋本間(現在の京都府乙訓郡大山崎町–八幡市橋本間)で淀川に架かっていた橋です。日本三古橋の筆頭として、山崎太郎と呼ばれましたが、現在は存在していません。

PA080294.jpg(瀬田の唐橋、ボートが行き交う優雅ですね。)


それでは、滋賀県大津市にある、瀬田川にかかる橋、瀬田の唐橋をご紹介しましょう。

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【その前に(まだあるのかい)自慢話を一つ】

(是非ご覧ください)

昨夜Facebookのお友達にはお知らせしたのですが、ブログランキングの「ブログ村」日本史部門で初めて一位を獲得しました~(喜)もちろん一日だけです。(笑)先日、現在一位の「しばやん」さん(URLをご紹介する必要もないでしょう。一位なのですからね~)とコメントでお話させていただきました。ブログがとても素晴らしいのはもちろんですが、人柄や知識にも圧倒されました。
とてもじゃないが、私の様な文章も書いた事のない、理系の人間が追いつけるレベルではありえないと思っておりました。

しばやんさんから「素敵なブログを書かれますね」とコメントされた時には、お世辞とわかっていながらうれしくてふるえてしました。そのトップブロガーさんにたとえ一日でも追いつけたことは、大きな自信につながりました。二年間ブログを書いて来てこれほど諦めなくてよかったと思った日はありませんでした。

これもひとえに、応援してくださった皆様と、支え・励まし・教授してくれた。ブログ仲間の皆さんのおかげです。これからももっともっと努力して、今回のように一日天下ではない一位を目指しますので、これからもよろしくお願いいたします。

【瀬田の唐橋(せたのからはし)に話を戻して~】



PA080303.jpg(中州が有るので、長い橋と短い橋が有ります。こちらは短い方)
PA080322.jpg(信号までの長さです交通量も多いですね。)
PA080343.jpg(下から撮影すると風情が無いですね~コンクリート橋)
PA080346.jpg(ビニール袋はゴミ箱に捨てようね、水草があります。バリスネリアか!和名はとちかがみだったかな?)

瀬田の唐橋(せたのからはし)は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる橋の名前です。全長260m。滋賀県道2号大津能登川長浜線がこの橋を通過しています。「勢多の唐橋」とも書かれ、「瀬田の長橋」とも言われています。

京都の宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋・日本三大橋の一つとされてきました。また、1986年(昭和61年)8月10日の道の日に、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定されました、「日本の道100選」にも選ばれています。

【歴史と伝説「古代から室町」】

PA080308.jpg(こちらは長い橋です。瀬田川の文字ですね。)

戦国時代から現代までは次回のお楽しみです。立地ですが、東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡るか、もしくは南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要があります。1889年(明治22年)まで瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は、交通の要衝であり、京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われて来ました。実際に唐橋を舞台として繰り広げられた、「壬申の乱(672年 )」、寿永の乱(1180年から1185年)、承久の乱、建武の乱(もしくは、延元の乱・1336年4月11日)など、昔から様々な戦乱に巡り合ってきました。

本格的には近江大津宮遷都の時に架橋されたと考えられますが、当時は現在の位置より65m南の龍王社・雲住寺を東端としていたようです。

唐橋が架けられた年代は不詳ですが、神功皇后の時代にはすでにあったと考えられ、摂政元年、香坂皇子と忍熊皇子が反乱を起こしたとき。忍熊皇子は神功皇后(応神天皇の母)の家来である武内宿禰の軍に攻められ、瀬田で自害したとされます(『日本書紀』 気長足姫尊 神功皇后)。

こちらを参考にしてください。
 ①謀略の偽陵なのか?「五色塚古墳」に浪漫を求めて!

「壬申の乱(671年)」では、大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となりました。大友皇子方が、橋板をはずして大海人皇子方を待ち受けたが、突破されて滅んでいます(私的には瀬田の唐橋は城にも匹敵する鉄壁の防御力だと考えるねですが)。御霊神社(滋賀県大津に在る四つの御霊神社の内三つの主祭神は大友皇子です(『日本書紀』天武天皇&上 元年七月)。これが瀬田の唐橋の文献上に見られる初見です。。

「藤原仲麻呂の乱(764年)」孝謙太上天皇・道鏡と対立した太師(太政大臣)藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)が軍事力をもって政権を奪取しようとして失敗した事件です。または、恵美押勝の乱とも言われ、宇治から近江を取ろうとした恵美押勝に対して、孝謙上皇方は田原道(関津遺跡)を通って瀬田の唐橋に先回りし橋を焼き落とします。押勝は高島郡に走りますが、滅びてしまいました(『続日本紀』淳仁天皇天平宝字八年九月)。

【平安時代はよく焼ける木の橋ですから】

870年1月9日(貞観11年12月4日)に火事(『日本三代実録』巻十六)。871年12月19日(貞観13年11月4日)に火事(『日本三代実録』巻二九)。『延喜式』主税式によれば、近江国の国司の管理下に置かれています。近江国の正税・公廨稲から「勢多橋料」1万料が拠出され、その出挙収入によって橋の維持が行われました、橋の建て替えは朝廷への報告義務が有ったようです。

【俵藤太「藤原秀郷」の伝説】

PA080302.jpg(俵藤太大ムカデ退治伝説の看板がありました。)

「俵藤太大ムカデ退治伝説」、近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなりましたが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまいます。その夜、美しい娘が藤太を訪ねて来ました。娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で、昼間藤太が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えた姿だったのです。娘は龍神一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願しました。

藤太は美しい娘の話に快諾し(いつでも美女には弱いよね)、剣と弓矢を携えて三上山に臨むと、山を七巻き半する大百足が現れます。藤太は矢を射たが大百足には全く通じません。最後の1本の矢に唾をつけ、八幡神に祈念して射るとようやく大百足を退治することができました。藤太は龍神の娘からお礼として、米の尽きることのない俵などの宝物を贈られます。また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、討ち取ることができたといわれています(この伝説自体が「平将門の乱平定」から作られたと思って間違いないでしょう)。

【蜻蛉日記と更級日記】

PA080327.jpg(まさしく瀬田の唐橋です。)

「更級日記(竹芝伝説の章)」で、下男と帝の娘が京から武蔵国へ逃走する際、追手から逃れるため瀬田橋を破壊したとの記述があり、当時から交通の要所であったことがうかがえます(下男といえど帝の娘と駆け落ち?する度胸が有れば、橋くらいは破壊するかもしれません)。「更級日記」の作者は菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標の次女菅原孝標女で、母の異母姉は『蜻蛉日記』の作者藤原道綱母です。970年8月25日(天禄元年7月21日)に藤原道綱母(作者本人)が明け方に船で勢多橋を渡河の記録が有ります。題名は日記のなかの文「なほものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし」からつけられています。

【鎌倉・室町の戦】

治承・寿永の乱(源平合戦) 1183年(寿永元年)に源義仲対平家が戦います(ちなみに1183年は現代歴史でも鎌倉時代ではありませんが(-"-;A ...アセアセ)。『平家物語』において源義仲は、朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれています。

以仁王の令旨によって挙兵、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京します。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となります。1184年(寿永2年)に源義経対義仲の合戦があった際に、源範頼が攻める瀬田橋の橋板をはずして守っていたのは今井兼平でした。宇治で義経に敗れた義仲と合流しますが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれています。

「承久の乱」では1221年(承久3年)、後鳥羽上皇の京軍(山田次郎重忠が率いる比叡山の僧兵三百騎)と北条義時の弟・時房率いる鎌倉幕府軍が瀬田川を挟んで交戦しました。結果はご存知ですよね~。
後鳥羽上皇は隠岐島(隠岐国海士郡の中ノ島、現海士町)に配流され、隠岐島で亡くなっています。百人一首99番目の歌人「人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は」ですね。(人を愛しくも恨めしくも思う。世の中も自分の思い通りにならなくて悩んでしまう)という感じですか?ちなみに16弁の菊の御門、後鳥羽上皇が作者です。


「建武の戦い」 1336年(建武4年)、足利直義率いる足利勢と名和長年率いる朝廷軍が瀬田川を挟んで交戦。足利尊氏は南下して宇治川で楠木正成に勝利し、京都へ進攻しました(宇治川は渡河できたんですね)。

「観応の擾乱」 1350年(観応元年)12月4日、足利直義派の伊勢・志摩守護石塔頼房が上野直勝とともに近江に進出し、近江守護軍と交戦しました。その日のうちに瀬田へ進出し、唐橋を焼き払っています(観応の擾乱 、こちらは 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦いです) 。

PA080363.jpg(4人乗りルスカル、良いですね~!)
PA080335.jpg(やはりこれでなきゃね~水面も綺麗です。笑)

【最後まで戦乱】

このように、瀬田の唐橋は古代からずっと日本の栄華と衰退を見て来た橋といって過言ではありません。次回は戦国時代から瀬田の唐橋の面白エピソードをご紹介します。

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