2018/02/11

吉備に突然巨大古墳が造られた謎!全国10位『作山古墳』

前回楯築墳丘墓をご紹介しました。私的には楯築墳丘墓は古墳と呼んでも差し支え無いと考えますが、教科書通り(本当に教科書の区分分けははっきりしています、笑)墳丘墓を使用させて頂きました。吉備は古代の国の中でも、後に中央と呼ばれることに成る大和(奈良)、出雲と共に中央集権国家の成立に、欠かせない存在だったと考えます。

勿論!「いやいや、九州を忘れるな!四国はどうした?近江や丹波・丹後も」と仰られる方々の意見を否定などするつもりは有りませんが、私がフィールドワークで現地に立った印象では、今のところ大和・出雲・吉備は飛び抜けていると思います。特に九州の皆さまには、私が神戸在住と言うことで、苦々しい思いをされていることも先にお詫びさせて頂きます。

P7290430.jpg(後円部左寄りの作山古墳の姿です。)

さて今日は、5世紀に大和以外でこれ程の巨大な古墳を造る勢力が、吉備に存在したという証明も込めて、作山古墳をご紹介致します。

その前に、本当に長くお待たせしてしまったのですが、皆さまが何時も興味を持って頂いている「馬肉会」にわざわざ愛知県から御参加くださいました、「アラフォー・シングルのカラーセラピストBlogger」「仁依菜」さん(私より有名なので皆んご存知ですよね)のブログをリンクさせて頂く事に成りました。

仁依菜さんは、日々実践しているダイエットのお話や健康のこと、日々感じたことなどをブログ『色とりどりな生活』でUPされています。私のブログ共々素敵なブログに訪れて頂けましたら幸いです。

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【全国10位は伊達じゃない「作山古墳」概要】



P7290435.jpg(それでは前方部左側の尾根を登ります。駐車場もありますよ。)
P7290432.jpg
(駐車場に在ったハイキングコースかな?)

作山古墳(つくりやまこふん、三須作山古墳)は、岡山県総社市三須(みす)にある古墳です。形状は勿論、前方後円墳ですね、その規模や時代その他要因により、当然国の史跡に指定されています。

別名:三須作山古墳
所在地:岡山県総社市三須
形状:前方後円墳
規模墳丘長:282m(全国10位)
高さ:24m(後円部)
築造年代:5世紀中頃(古墳時代中期)
埋葬施設:不明
出土品:円筒埴輪・朝顔形埴輪
指定文化財:国の史跡「作山古墳 第一古墳」特記事項全国第10位・岡山県第2位(まだ一位が在るってのが凄いねぇ)の規模

岡山県南部の独立低丘陵を加工して築造された巨大前方後円墳です。東方の造山古墳(岡山市北区新庄下)も「つくりやまこふん」であるため、作山は「さくざん」、造山は「ぞうざん」と呼び分けられています(当初取材時は造山古墳のWki航空写真が作山古墳だったと思います)。これまでに本格的な発掘調査は実施されていません。

岡山一位の造山古墳も未盗掘で調査されていません。歴史(考古学)ファンとしては当然調査してほしい訳ですが、高松塚古墳やキトラ古墳が石室内の調査後にどうなったかを考えると、開けてしまえば良いとは行かないのですよね。より良い保存方法が見つかる迄、待つしか無さそうです。因みに岡山の古墳は宮内庁の管理では無いので、期待しても良いかも知れませんが、私が生きている間には無理かも知れませんね~f(^_^;

さて作山古墳の墳形は前方後円形で、前方部を南西方に向けています。墳丘は3段築成です。墳丘長は282メートルを測りますが、これは岡山県では造山古墳(350メートル、全国第4位/岡山県第1位)に次ぐ第2位になります。墳丘表面では角礫の葺石、埴輪列が認められます。また墳丘北側には造出を有するほか、前方部前面には未削平の残丘があります(途中で中断されたのでしょうかね?)。墳丘周囲に周濠は認められていません。主体部の埋葬施設は明らかでは有りませんが、盗掘坑が認められないことから、墳丘内部での現存が推測されています。

【古墳の見どころの基本】

P7290439.jpg(周濠に見えますがテラスが在るということで、テラス部分の耕作地かもしれません。)
P7290441.jpg(前方部縦側一段目段築)
P7290443.jpg(前方部正面側一段目段築)
P7290446.jpg(前方部縦側二段目段築)
P7290448.jpg(前方部正面側二段目段築)

以前古墳の見どころについてお話しました。勿論時代によっても違うのですが、『段築』 『周濠』 『葺石』 『埴輪』の四点に注目してください。作山古墳に無いのは『周濠』ですが、これは独立低丘陵を加工して築造された事によるものかもしれません。『周濠』は平坦地域で古墳を作るのに土を運ぶ必要があるときに掘られたものです。造山古墳も山の先端を利用したために、『周濠』は見られません。

P2220001.jpg(神戸五色塚古墳、復元すると全て明らか『段築』 『周濠(水は無いですが)』 『葺石』 『埴輪』)
P7290478.jpg(どう見ても周濠に見えるのですがね~笑)

古墳時代の日本の大型墳墓は、墳丘の斜面などにびっしりと『葺石』が施され、遠目には石塚のように見えました。平坦なテラス部分『段築』には『円筒埴輪』をならべ、さらに墳丘周囲には『周濠』をめぐらせて、その外側には数基より成る陪塚をともなうなど、色彩豊かで華麗な装いをみせています。規模や形状のみならず、当時は側面からしか古墳を見られない人びとに対して、葺石によって白く輝く構築物としての陵墓の色彩的イメージは、他の構築物とのあいだに大きな格差を感じさせるに充分であったと考えられます。このような意味からも、古墳は単なる墓ではなくて政治の柱として機能したのでした。

P7290454.jpg(前方部最高地点から後円部を望み下っていきます。)
P7290458.jpg(後円部に向かって進んでいきます。畿内の物は前方部が平坦の物が多いです。)

【作山古墳の立ち位置】

P7290460.jpg(美しい物に出会うとつい撮影してしまいます。見事な松茸(-"-;A ...アセアセ)
P7290462.jpg
(後円部の頂きです。)
 
つまり、この作山古墳は、古墳時代中期の5世紀中頃の築造と推定されます。作山古墳の南側には近世の旧山陽道が通りますが、作山古墳・造山古墳や両宮山古墳(赤磐市穂崎「備前国分寺側」)がいずれも旧山陽道沿いに位置することから、5世紀にはすでに旧山陽道に先行する道があり、その道を通る人々に対して権力を誇示する意図があったと推測されます。

一帯の首長墓系譜としては、推定首長墓系譜(古墳名・墳丘長・時期)造山古墳・350m・5c前半、作山古墳・282m・5c中頃、小造山古墳・142m・5c後半(岡山市北区新庄上・総社市下林)、の順に作られたと考えられます。順に墳丘規模が縮小する様相を示し、作山古墳自体も未削平の残丘などの点で端正さを欠いています。なお、吉備地方では前期古墳の営造地に中期古墳はほぼ築造されず、前期古墳の存在しない地にこれら中期古墳が突如営造される点が注目されます。

古墳域は、1921年(大正10年)に残丘部分を「第一古墳」とする「作山古墳 第一古墳」の名称で国の史跡に指定されています。現在では毎年12月に下草刈りが行われるそうです。かなりの木々が大きく成長しているため、巨木?を残して下草刈りを行っています。

【作山古墳あれこれ】

P7290463.jpg
(航空写真、後円部のテラスと左上に独立丘陵の一部が未削残存が分かります。)
P7290472.jpg(中央下の造山古墳と比べると後円部がいびつです。)
P7290470.jpg(さらにナガレ山古墳と比べると歴然、これが勢力の違いですかね~?)

墳丘長に関して、かつては航空測量図を基に約286メートルという値が知られたが、1997-2014年度(平成9-26年度)の測量結果では282メートルの値に修正されました。墳丘は北側で良好に遺存するが、南側では民家・道路の建設により裾部で大きく改変を受けています。また作山古墳の墳丘には、独特な築造企画として次の幾つかの点が挙げられます。まず、前方部前面などに、元の独立丘陵の一部が未削平のまま残存しています。前方部前端に台形突出部の存在があります(あまり聞いたことが無いです)。前方部前面の堀切(空堀の一種)が水平でなく高低差(約2メートル)が存在します。後円部が正円形でなく楕円形(墳丘を大きく見せるため?)。後円部周囲に「作山段」と呼ばれる段の存在(段築では無いようです)。

造出については、墳丘北側で認められるほか、南側にも存在可能性が指摘されます。造山古墳の造出がくびれ部付近にあるのに対し、作山古墳の造出はくびれ部から前方部寄りに位置し、後出的な様相になります。また、この北造出のさらに前方部寄りには、規模の小さい造出状の張出し部も認められています(色々と試してみた感じがありますね~プロトタイプ?)。

周濠の有無は明らかでない。周堤状の地形が見られることから周濠が存在したとする説もありますが、これについても墳丘テラス内側部分の耕作での削平によるもの(残存テラス部)という見解が示されています。なお吉備地方では、造山古墳も非常に浅い周濠(または周濠なし)と見られ、畿内地方のような深い周濠を有する大型古墳は『両宮山古墳』のみになります。

【出土品】

作山古墳からの出土品のほとんどは、円筒埴輪・朝顔形埴輪です。これらの埴輪列が墳丘各段の平坦面に巡らされたと見られています。総数は5,000本にも及ぶと推計されています。円筒埴輪・朝顔形埴輪のほとんどは窖窯焼成(登り窯は古墳時代中期より朝鮮半島より須恵器が伝来したことに伴って伝来しています。)と見られ、形状は多様です。製作時期にも時間幅があると見られますが、概ね5世紀第2四半世紀に始まり中頃に完成したと推定されています。そのほかには形象埴輪として、わずかに武人埴輪の肩鐙片1点、蓋形埴輪片数点、器種不明埴輪片のみが検出されています(未削平の残丘と共に形象埴輪の破片だけというのも何かありそうです)。

【陪塚】

陪塚(ばいちょう)とは日本の古墳時代に築造された古墳の様式です。 大型の古墳とともに古墳群をなす小型の古墳であり、なおかつ大型の古墳と同一の時代に、その周囲に計画的に築造されたとみなされるものを指します。中心となる大型の古墳に埋葬された首長の親族、臣下を埋葬するもののほか、大型の古墳の埋葬者のための副葬品を埋納するために築造されたものもあると考えられています。

作山古墳の陪塚(陪冢)の存在は明らかに成っていません。かつては、くびれ部南側にある小丘陵が陪塚と見られ「作山第1古墳」と称されていましたが、実際には前方部前面のものと同様に、未削平の残丘の1つと見られます。なお、作山古墳北側の丘陵尾根上には前方後円墳の野宮古墳の存在が知られるが、作山古墳との関係は明らかではありません。

【最後に一言】

吉備に大きな勢力を有した、首長の存在が有った事は事実なようです。しかしながらその勢力が急な拡大と衰退を経験したことは間違いないと思います。その原因が何だったのかは今後の研究の課題かもしれませんね。ここら辺にも吉備津彦命や倭迹迹日百襲姫命辺り絡んでいるかもしれませんね~?(時代は無視ですが、笑)

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リュミエールブラン ネージュ

2018/02/07

謎が謎を呼ぶ?『楯築遺跡(楯築墳丘墓 )』に眠るのは「吉備津彦」それとも「温羅」?

少し前に古墳と墳丘墓の違いについて、書きました。そのなかで、楯築遺跡が出て来ましたね、私見では「時代は弥生時代に入り、主墳に2基の埋葬施設が確認されましたが、墳頂中央部地下1.5メートルに埋葬されていた大きな木棺がこの墓の主人のものと思われる事。首長の墓として、周囲の物との規模にかなりの違いが有ること、同時代の他墳丘墓と比べても大きさが桁違いな事などから、古墳と呼んで良いのではないかと」提唱させて頂きました。

P7290034.jpg(備後一ノ宮「吉備津神社」の桃太郎です)

今回はその楯築遺跡をご紹介させて頂きます。楯築墳丘墓(古墳)には桃太郎の原型ともいわれる「吉備津彦と温羅」伝説もあり!今回も皆さんの想像力を刺激します。

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【楯築遺跡】



P7290315.jpg(王墓の丘史跡公園・楯築地区)

楯築遺跡(たてつきいせき、楯築墳丘墓)は、岡山県倉敷市矢部にある墳丘墓です。形状は「双方中円形墳丘墓(珍しいですし、前方後円墳の原型ともされます)」です。国の史跡に指定されています。古くは「片岡山古墳」と呼ばれていました。

墳頂所在地 岡山県倉敷市矢部
形状双方中円形墳
丘墓規模両端72m
墳丘直径50m
築造年代2世紀後半~3世紀前半
出土品鉄剣・首飾・ガラス玉・小管玉
指定文化財国の史跡に指定「楯築遺跡」昭和56年(1981年)12月9日
特記事項全国最大規模の弥生墳丘墓

【楯築墳丘墓概要】

P7290344.jpg(周りに小さい石室古墳が結構あります。)
P7290385.jpg(墳丘墓の中心に神社の代わりか?祠がありました。)
P7290356.jpg(祠の周りに正に楯のような板石が5個立っています。)
P7290393.jpg(神社跡と板石、何故このように立てたのでしょう。)


王墓山丘陵の北側に弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)に造営された首長の墳丘墓です。墳丘の各所から出土した土器片の多くが壺形土器、特殊器台(これ覚えてくださいね)・特殊壺の破片です。

直径約43メートル、高さ4、5メートルの不整円形の主丘に北東・南西側にそれぞれ方形の突出部を持ち、現在確認されている突出部両端の全長は72メートルで同時期の弥生墳丘墓としては日本最大級です。主墳の頂上には木棺を取り囲むように5個の巨石が立てられ、また、斜面にも2列に地表の露出分に高さ・幅とも1メートルあまりの20個ほどの列石がめぐらされ、北東側の突出部は団地造営工事のため、残念ながら破壊されています。

今ではその名残を一部にとどめているだけですが、前方部状の突出で、およそ十数メートルほど伸びています。その上面は幅約3、4メートルで、わずかに前面に向かって下降気味ですが、ほぼ平坦に造られています。突出部の前面はかなり急な傾斜で2~3メートルほど下がり、東西に走る小道に達しており、小道をわたると突出部の続きと思われる高まりがつづき、盛り土しているのが分かります。また円礫が二重三重に置かれていて、円丘につけられた遺構であることが分かります。

南西側の突出部は約20数メートルにわたって細長い幅数メートル高さ2メートルほどの尾根状のものが伸びている。先端部の両側が丸く整形されていてその先端には大きな列石が貼られている。西部分には現在、給水塔が建っていて、今は見ることができません(残念ですね~~!)。

香川県高松市の猫塚古墳や奈良県天理市の櫛山古墳などと同じ双方中円墳ですが、先行的な形態をしています。 2世紀末に起こった倭国大乱が終わった後、瀬戸内海沿岸地方では、古墳造営の新しい兆しが見られ、吉備でも墳丘の造営の動きが見られるようになっています。

このような大きな墳丘墓が、古墳時代より先に築造されていたのは、この地に葬送儀礼に特殊器台・特殊壺を用いる大きな政治勢力があったことを窺わせます。その勢力の代表的な首長の墓ではないかと推測されています。吉備地方では、後の古墳時代中期には造山(全国4位・350メートル)、作山古墳(全国9位・270メートル)の大前方後円墳が造られました。吉備の勢力がいかに大きかったか、を物語る墳丘墓(古墳)です。

【楯築墳丘墓発掘調査】

P7290326.jpg(双方中円形墳丘墓です。分かりますか?)
p159654753.jpg
(良く覚えてくださいね~!南西側には給水塔が、北東側は住宅地に成っています。)
P7290369.jpg(北側は宅地化されて削られています。)
P7290337.jpg(発掘調査説明版)
P7290371.jpg(北東方向は少し残っていますが、その先は削られていました。)
P7290401.jpg(西側の盛り土、南西側の方部の上に立っています。)
p1435789564.jpg
(特殊器台にも弧帯文がデザイン?朝顔型埴輪とどう違うのか?)

昭和51年(1976年)より昭和61年(1986年)の間に、岡山大学文学部考古学研究室を中心とした調査団により6度にわたる調査が行われました。

主墳には2基の埋葬施設が確認され、墳頂中央部地下1.5メートルに埋葬されていた木棺がこの墓の主人のものと思われます。出土した木棺は全長約2メートル・全幅約0.7メートルで棺の底には30キログラムもの朱が厚く敷かれていました(古代の朱)。

「うんちく『古代朱』」について、硫黄と水銀を混ぜ、加熱し硫化水銀を作り、さらに加熱し硫黄分を飛ばして作ります。混合比・加熱温度によって黄~赤~黒まで色が作られます。辰砂(私も陶芸の釉薬に使います)と朱は両方とも硫化水銀が原料で、天然の硫化水銀(辰砂鉱・辰砂石)から作られたものが辰砂と呼ばれます。成分は同じで、天然物か人工物かの違いみたいです。硫化水銀を作る技術はかなり古くからあったようです。古代朱は、朱に特別な加工を施して作られた色だそうです。つまりとても貴重な物でした。

本題に戻りまして、遺骨は検出されず歯の欠片が僅かに2個出土したのみでした(遺骨は何処へ行ったのか?)。木棺は全長3.5メートル、全幅1.5メートルの木製外箱(木槨・朝鮮楽浪古墳に多い埋葬方法です。更には楽浪郡は鉄とも関係が深いのです。)に納められていました(かなり大きいですね)。副葬品が外箱の中に置かれており鉄剣1本、首飾り2個、多数のガラス玉と小管玉が一括り出土しました。これらは岡山大学考古学資料館に収蔵されています。

また、もう1基の埋葬施設は中心埋葬の南東9メートルの位置に発見されたが僅かに朱が認められるのみで出土品は有りませんでした。副葬品の貧弱さは、権威や富に関係するのではなく、その時代の埋葬の習俗の影響と考えられます。意味がよく分からないのですが、夫婦?とか、墳丘墓の設計者とかですかね?(ん~~謎です。)。

団地造成時に破壊された突出部分にはかつて石列があり朱塗りの壺型土器が配列されていそうです(墳丘墓から見ると一目瞭然ですが、今は住宅地なんですよね~f(^_^;)。

P7290390.jpg(給水塔側から見た墳丘墓東側高4~5mくらいですね。)
P7290398.jpg(墳丘墓斜面にも2列に地表の露出分に高さ・幅とも1メートルあまりの20個ほどの列石があります。)

【弧帯文石(弧帯石)】

p7536512546.jpg(複製品、弧帯文石・東京国立博物館展示。)

墳丘上には大正時代の初め頃まであった楯築神社に、代々伝世し、ご神体として神石(亀石)と呼ばれる全表面に毛糸の束をねじったような弧帯文様が刻まれた石が安置されていましたが、現在はこの遺跡のそばの収蔵庫に祀られてます。こちらは「伝世弧帯文石」と呼ばれています。 この弧帯文は、纏向遺跡の弧文円板と葬送儀礼で共通するといわれているのです。纏向遺跡(箸墓古墳に眠るといわれる、倭迹迹日百襲姫命は、吉備津彦の姉妹に成ります。)との繋がりが出て来ました~f(^_^;

ここ楯築遺跡にも吉備津神社や鬼ノ城などのように温羅伝説が残っており、吉備津彦が温羅との戦いに備えて石楯を築き、防戦準備をしたと伝わっています(私には墓を壊して石室を曝した跡にしか見えなかったけどね!)。

鬼ノ城については、以前天智天皇が天智2年(663年)白村江の戦いで、倭(日本)百済復興軍は、朝鮮半島で唐・新羅連合軍に大敗した事をきっかけに、瀬戸内の守りを固めるために作らせたとの考えを以前ご紹介しました。

P7290236.jpg(温羅の本拠地?鬼ノ城!)

【吉備津彦は桃太郎か?温羅って誰だ?】

P369875461.jpg
(岡山駅の温羅の銅像、男前です。)


温羅(うら・おんら)は、岡山県南部の吉備地方に伝わる古代の鬼です(岡山駅の銅像が有名です。中央にまつろわない「服従しない」、国・地域・人物等を鬼と呼んだ様です。)。温羅とは伝承上の鬼・人物で、古代吉備地方の統治者であったとされます。「鬼神」「吉備冠者(きびのかじゃ)」という異称があり、中央の伝承によると吉備には吉備津彦命(きびつひこのみこと)が派遣されたとされ、吉備に残る伝承では温羅は吉備津彦命に退治されたといわれます。

伝承は遅くとも室町時代末期には現在の形で成立したもので、文書には数種類の縁起が伝えられています。また、この伝承は桃太郎のモチーフになったともいわれているので、岡山は『桃太郎』で有名なんですよね。

伝承によると、温羅は吉備の外から飛来(渡来)して吉備に至り、製鉄技術を吉備地域へもたらして鬼ノ城を拠点として一帯を支配したといわれます。吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたため(支配した?製鉄技術を教えたりして、名首長じゃないですか!)、これを救うべく崇神天皇(第10代)は孝霊天皇(第7代)の子で四道将軍の1人の吉備津彦命を派遣しました。

討伐に際し、吉備津彦命は現在の吉備津神社の地に本陣を構えまさた。そして温羅に対して矢を1本ずつ射ましたが矢は岩に呑み込まれて外れます。そこで命は2本同時に射て温羅の左眼を射抜きます。すると温羅は雉に化けて逃げたので、命は鷹に化けて追いかけます。さらに温羅は鯉に身を変えて逃げたので、吉備津彦は鵜に変化してついに温羅を捕らえました。そうして温羅を討ったといわれています。

討たれた温羅の首はさらされることになりましたが、討たれてなお首には生気があり、時折目を見開いてはうなり声を上げたそうです。気味悪く思った人々は吉備津彦命に相談し、吉備津彦命は犬飼武命に命じて犬に首を食わせて骨としましたが、静まることは有りませんでした。次に吉備津彦命は吉備津宮の釜殿の竈の地中深くに骨を埋めましたが、13年間うなり声は止まず、周辺に鳴り響きました。

ある日、吉備津彦命の夢の中に温羅が現れ、温羅の妻の阿曽媛に釜殿の神饌を炊かせるよう告げます。このことを人々に伝えて神事を執り行うと、うなり声は鎮まったといいます。その後、温羅は吉凶を占う存在となりました(吉備津神社の鳴釜神事がそれですね)。私は占いをお願いしたことは無いのですが、現地には訪れています。

【伝説登場人物の紹介】

『温羅』

温羅(うら)「吉備冠者」「鬼神」とも呼ばれます。鬼ノ城を拠点とした鬼です(鬼ノ城については前出!)。渡来人で空が飛べた、大男で怪力無双だった、大酒飲みだった、等の逸話が伝わります。出自についても出雲渡来説・九州渡来説・百済渡来説・加耶渡来説・新羅渡来説など複数の伝承があります。

『阿曽媛』

阿曽媛(あそひめ)温羅の妻。阿曽郷(現・総社市奥坂)の祝(神に祈る人)の娘。

『王丹』

王丹(おに)温羅の弟(そのままやん)。

『吉備津彦』

吉備津彦命(きびつひこのみこと)記紀に記載が有ります。「大吉備津日子命」ともいわれます。いずれも吉備平定後の名で、本当の名は「彦五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと、比古伊佐勢理毘古命)」。第7代孝霊天皇皇子。『日本書紀』では四道将軍に数えられます。『古事記』『日本書紀』とも、吉備へ征伐に派遣されたとされます。地元では、妃として百田弓矢比売命や高田姫命(たかだひめのみこと)の名が伝わっています。

四道将軍とは、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと・北陸道方面司令官)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと・東海道方面軍司令官)、吉備津彦命(きびつひこのみこと・山陽道方面軍司令官)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと・丹波丹後方面司令官)の4人を指します。

吉備津彦命(弟)は、稚武彦命(わかたけひこのみこと)とも記紀に記載があります。「若日子建吉備津日子命」ともいわれます。兄を「大吉備津彦命」、稚武彦命を「吉備津彦命」と記す場合もある様です。第7代孝霊天皇皇子で、吉備津彦命の弟です。『古事記』では、兄とともに吉備へ派遣されたとされます。(倭迹迹日百襲姫命の兄と弟か?)

『犬飼武命』

犬飼武命(いぬかいたけるのみこと)忠実な家臣といい、桃太郎における犬のモデルとされます。後世、犬養毅はその後裔を称しています(出来すぎです(;^_^A)。

『楽々森彦命』

楽々森彦命(ささもりひこのみこと)当地出身の家臣で智将といい、桃太郎における猿のモデルとされます。その出自は県主(律令制以前の地位、国造や伴造より古い呼び名です。)であったともいい、娘の高田姫命が吉備津彦命に嫁いだともいわれます。

『留玉臣命』

留玉臣命(とめたまのみこと)「遣霊彦命」とも言われます。鳥飼に優れた家臣といい、桃太郎における雉のモデルとされます。

【うらじゃ祭】

うらじゃ祭とは、岡山県岡山市にて行われている夏祭りです、新しい祭りで、YOSAKOIと同じようなお祭りです。岡山県に古くから伝わる鬼神「温羅(うら)」の伝説を元にしたものであり、名称もそれに由来します。「うらじゃ、うらじゃ」の掛け声で練り歩くお祭りのようです。つまり「鬼だぞ~鬼が来たぞ~」のイメージですかね(笑)?現在では、「おかやま桃太郎まつり」のメインイベントとして、8月の第1日曜日とその前日の土曜日に岡山市中心市街地で開催されています。踊りに参加する人が全員、顔に化粧を施すのが特徴だそうです。

【最後に一言】

いつもの事ですが、勝った者が歴史を書き換えていきます。渡来人「温羅」は人々から慕われ、首長として大きな力を持つようになったのかもしれません。その最新の技術や情報は、中央政権として台頭してきた倭の王からは邪魔な存在だったと考えられます。「出雲王国」と「吉備王国」の連携は中央集権国家を目指す倭にとって一番の脅威だったでしょう。

「楯築墳丘墓」は吉備津彦が温羅との戦いに備えて石楯を築き、防戦準備をしたとの伝承がありますが、私の現地での感覚は中央にたてついた温羅の墓を暴き死体を晒ものにした後のようにも見えました。防戦基地としてはお粗末すぎます。

歴史って本当に面白いですよね~!
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リュミエールブラン ネージュ

2017/09/30

(続)『備前国分寺』の周りは古墳の宝庫だった!「両宮山古墳」と稚媛(わかひめ)伝説

前回は、岡山県第3位の大きさを誇る「両宮山古墳」のすぐそば、『備前国分寺跡』をご紹介しました。
備前国分寺の周りには、「両宮山古墳」をはじめとして、規模の大きな前方後円墳が数多くある両宮山古墳群(西高月古墳群)が有るともご紹介しました。
今日は両宮山古墳群の内、私が取材出来たいくつかの古墳をご紹介します。


P35976541.gif(両宮山古墳を中心に左に国分寺+古墳が点在しています。)

一帯には、「両宮山古墳」を含む前方後円墳4基・帆立貝形古墳2基などからなる「西高月古墳群」が存在しています。取材(偉そうですけど要は写真に収められたものです)出来た古墳をご紹介します。広い地域なので徒歩で廻れた分だけですその他は説明だけでご勘弁願います。

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P7300889.jpg(まずは両宮山古墳)




【両宮山古墳周辺の古墳】

両宮山古墳が築かれた平野をみてみると、同じく古墳時代中期の後半頃に造られた古墳が両宮山古墳の周辺に集中し、1つの古墳群を形成しています。これを「両宮山古墳群(西高月古墳群)」と呼んでいます。

これらの中には両宮山古墳の陪塚(ばいちょう)と考えられている古墳もありますが(和田茶臼山古墳)、それぞれの古墳に埋葬されている人物が、両宮山古墳の埋葬者の親族や政権を支えた官僚的人物、あるいは両宮山古墳の埋葬者とは別系統の首長であるのかなど、はっきりとわかっていません。

『うんちく「陪塚(ばいちょう)」って何?』大形古墳(主墳)の近くに計画的に造られたと考えられる小形の古墳の事で。陪塚に埋葬された人物は、大形古墳に埋葬された人物に対して、従属的な立場であったと想定されます。主墳の製作者、子供・妻・殉死した者などと考えられています。

参考にしてくださいね。
①今話題の『前方後円墳を嗜(たしな)む』見処と鑑賞法!
②備前地域最大の前方後円墳、『両宮山古墳』は倭への架け橋か!

【和田茶臼山古墳(陪塚)】

P7300852.jpg(陪塚・和田茶臼山古墳)
P7300876.jpg(和田茶臼山古墳の段築から両宮山古墳後円部を望む!)



両宮山古墳の後円部北側に造られた、墳丘全長55m、後円部径(推定かけて畑に成っています)41.5mの帆立貝形古墳です。後円部の高さは北西のくびれ部から5.65mの高さです。後円部は二段築成とかんがえられます。

両宮山古墳と同様に葺石や埴輪は伴わず、また、外濠が両宮山古墳の外濠と一部共有する二重周濠がめぐらされていました。こうしたことから、この古墳の埋葬者は、両宮山古墳の埋葬者と親密な関係であったと想定されています。5世紀後半~末の築造と考えられます。

『うんちく「帆立貝形古墳」てどんな形?』正にホタテ貝の形です(当たり前やんか、笑)円墳に低く短かい突出部がついた平面形が、帆立貝に似ているところからホタテ型と呼ばれています。奈良の纏向古墳群が始まりといわれています。大和政権と地方首長の間での政治的関係から、同じ形態の古墳が築造されたのではないかと推測できますね。

【森山古墳】

P7300898.jpg(森山古墳、二段築成が綺麗に目られますね。周濠は今は田んぼに成っています。)
P7300900.jpg(後円部の高さに比べて前方部は平たいイメージです。後に畑に変化したせいですかね?)

墳丘全長82m、後円部径63m、同高さ12.1m、総長136mの帆立貝形の古墳です。後円部は高さが際立ち、二段築成の可能性があります。周囲には周濠を巡らしていたことが分かっています。

両宮山古墳と異なって葺石と埴輪が伴っています。これふしぎですね~墳丘の縮小は両宮山古墳群の衰退を意味していると考えるのですか、飾りは派手になっているわけですからね~?形象埴輪では蓋(きぬがさ)や家が、朝顔形埴輪では肩部に鹿が描かれた破片が出土しました。5世紀後半の築造と考えらています。

『うんちく「蓋」』衣蓋とも表記されます。高貴な人にさしかける笠として形づくられたものです。埋葬された人物の権威の象徴を示すものとして重要だったと思われます。鹿ですが食料というよりも神聖な動物として扱われています。食料といえば猪ですね。

【正免東古墳】

墳丘の直径が23mをはかる古墳です。前方部の有無が判断できないため(道路に成って変形が激しいいです)、円墳か前方後円墳かわかりません。調査成果から葺石が認められ、二重周濠の可能性もあります。

周濠の底からは、鹿の線刻絵画や円弧文様をもつ埴輪や蓋・家の形象埴輪が出土しました。森山古墳と親密な関係が想定されます(森山古墳の陪塚の可能性もあります)。5世紀後半の築造と考えられています。 こちらの古墳道路の下に成ってしまっています。

【 廻り山古墳】

P7300907.jpg(朝日で写真が撮りにくい~!)
P7300910.jpg(近づいてみましょう。)
P7300913.jpg(説明版がありました。調査されていないそうです。)
P7300916.jpg(前方部正面の直線です。)

墳丘全長47mと推定される前方後円墳で、高さ5mの低い丘陵の頂部に造られています。墳丘は畑の開墾が著しいですが、大きく開いた前方部を北に向けています。墳丘を取り巻く周濠をもつ古墳は、周辺ではこの古墳が最後の古墳と思われます。

未調査のため、埋葬の主体部や葺石や埴輪などの外表の様子はよくわかりませんが、6世紀前半の築造と考えられています。

【 朱千駄古墳】

墳丘全長85m、後円部径40m、同高さ6.5mの二段築成の前方後円墳です。北に延びる丘陵斜面に平行して築かれ、前方部を東に向けています。

後円部には兵庫県の竜山石(たつやまいし)製の長持式(ながもちしき)石棺が置かれていたようです。中からは、この古墳名の由来となった大量の朱や銅鏡、玉類、刀剣類が出土しました。5世紀末に築造されたと考えられます。

『うんちく「石の宝殿・竜山石(たつやまいし)」』おもに古代の石棺、石碑、モニュメントなどに使われています1700年の歴史を誇る石切場といえます。姫路城石垣、皇居吹上御苑、国会議事堂、日本帝国ホテル等の建築物に使用されています。

参考にしてくださいね。
③日本三奇 石乃寶殿 !「オーパーツ?」『生石神社(おおしこじんじゃ)』の凄さ!

【 小山古墳】

墳丘全長67m、後円部径42m、同高さ7.9m、総長89mの前方後円墳で、二段築成の前方部と三段築成の後円部をもちます。低い丘陵の先端部分に築かれ、前方部を南に向けています。

後円部にある社殿の裏側には、熊本県の阿蘇(あそ)産の溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)製である家形石棺の身と蓋(ふた)が破片となって残されています。埴輪が列状にめぐっており、5世紀末の築造と考えられています。

【岩田14号墳】

P7300875.jpg(綺麗な横穴式石室)
P7300915.jpg
(出土品の雁木玉・トンボ玉です。きれいですね~!)

6世紀中ごろに築造された長さ11.8mの横穴式石室を有する後期円墳です。石室は片袖式で、7基の木棺痕跡が確認されています。山陽団地造成の際に発掘され、公園として保存されています。

中からは単竜環頭太刀や雁木玉を初めとする多量の須恵器や馬具類が出土しました。出土品は赤磐市山陽郷土資料館に展示・保管してあります。最初の地図には入っていませんが、両宮山古墳北側団地の中に有りました。

今回の資料データは岡山県赤磐市教育委員会作成のパンフレット(国分寺のポストに濡れぼそって入っていました。)を拝借しました。

【最後の前に両宮山古墳と稚媛伝説】

1500年前ほど前、このあたり備前地方は、吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)田狭(たき)という豪族が支配し、大和朝廷に並ぶほどの強い勢力を誇っていました。 両宮山古墳は、その田狭の墓ではないかと言い伝えられてきました。

田狭には稚媛という美しい妻がいましたが、あまりの美貌ゆえに雄略天皇は田狭を任那(または「伽耶」は、当時日本の勢力下にありました)の国司として派遣し自分の后にしてしまいました。 任那に国司として派遣された田狭は、留守中に妻を天皇に奪われたことを知り、新羅と結んで天皇に背こうとしました。

怒った天皇は田狭の子で弟君(おとぎみ)に父を討つことを命じましたが、弟君は新羅へは向かわず。田狭の軍と結ぼうとしました。 これを知った弟君の妻樟姫(くすひめ)は、夫に謀反の心があることを知り、夫を殺し百済から工人たちを連れて帰り、天皇に献じています。

妻稚媛を天皇に奪われ、わが子弟君を殺された田狭の嘆きはどのようなものであったのでしょうか。 しかし、田狭のその後は「日本書紀」に記されていません。

それから十数年後、雄略天皇が崩御(雄略23年・西暦479年)されると、稚媛は雄略天皇との間に生まれた星川皇子(ほしかわのみこ)を天皇にしようと 田狭の子・兄君(えぎみ)らとともに大和政権に対して反乱を起こし。皇太子白髪皇子(しらかのみこ)と争いましたが、やがていずれの反乱も鎮圧されてしまい、立てこもっていた大蔵に火が放たれて、無残な最期を遂げます。これらを機会に吉備の政治的衰退が始まったとされています。

「日本書紀」には、滅びゆく豪族の姿と稚媛の数奇な運命がこのように描かれています。壮大な両宮山古墳は、今もなお、古代の悲しい物語を語り続けているのですね。

P7300918.jpg(遠方より両宮山古墳を眺める、悲しい歴史が埋まっているのか?)

両宮山古墳と和田茶臼山古墳(陪塚)には葺石と埴輪が見つかっていません。埴輪に関しては森山古墳・正免東古墳・朱千駄古墳・小山古墳・廻り山古墳では出土しています。南西の造り出しからも古墳に伴う遺物は見つかりませんでした。二重の環濠に陪塚まで備えた巨大古墳に葺石や埴輪が無いのjは大変不思議ですよね?やはり雄略天皇や皇太子白髪皇子への反乱が大和の怒りを買い古墳の祭祀が完結しなったのかもしれません。これもまた古代のロマンです。

【本当に最後】

今回の取材で、吉備(今日の記事は備前ですが)地方が古代史において、近畿(奈良・大和)や九州と同等の勢力を持っていたと考えました。出雲国も入れて四巴の論争が今後展開されることは間違いないと思います。古代の歴史は感動的ですらありますね。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/09/16

豊臣秀吉の伏見城本丸跡地に眠る「明治天皇」『伏見桃山陵』

前回、前方後円墳(古墳)を取りあげたので、今期はどこかの大きな天皇陵をご紹介しようと思っておりましたが、期待を裏切るのもまた面白いかなと勝手に思い、古いとは言えない?天皇陵墓をご紹介します。

今日は次女の運動会が台風の雨で中止!だらだらの一日でしたが、嬉しい事が二つありました。まず第一に入院していた父の退院が来週火曜日に決まりました。本当は今日にも退院だったのですが、次女の運動会のため一日伸ばしましたところ、この台風でさらに伸びて火曜日に成ってしまいましたが、良かったです。もう一つは明日17日にコロッケが届きます(笑)毎回皆さんが話題にしてくださるブログ仲間の「馬肉会」でメンバー続、ものグラムな生活。(ラーメン編)の「ものグラム」さんが話題にされて、「アッ!それ頼んでる」と思いだした凄いコロッケです。
また到着しましたら、ブログでご紹介します。

CIMG7435.jpg(明治天皇が眠られる伏見桃山陵)

本題に帰って、京都府京都市伏見区に在る『伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ、ふしみももやまりょう)』をご紹介します。被葬者は『明治天皇』です。
形状は上円下方墳で、1912年築造(大正元年)、 宮内庁治定「伏見桃山陵」として文化財指定されています。

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【明治天皇って誰?(不敬な表現は慎みましょう)どんな方?】

235487.jpg
(軍服姿の明治天天皇!、凛々しいですね)
 

明治天皇は第122代天皇です。
在位期間は1867年1月30日~1912年7月30日(慶応2年12月25日~明治45年7月30日)です。

即位礼は1868年10月12日(慶応4年8月27日)京都御所において行われました。

1852年11月3日(嘉永5年9月22日)中山忠能邸 にて誕生され、1912年(明治45年)7月30日に(宝算59)崩御されています。
喪儀は1912年(大正元年)9月13日、帝国陸軍青山練兵場 にて執り行われました。

【生誕から即位まで】

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(誕生された中山邸跡)
DSC_0080.jpg
(明治天皇生誕の地)
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(産湯を汲んだ井戸が二歳の時に枯れたので掘りなおした井戸だそうです。ややこしい(-"-;A ...アセアセ)

孝明天皇の第二皇子として生まれます。生母は権大納言・中山忠能の娘・中山慶子、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)に京都石薬師・中山邸にて誕生。出生8日目(9月29日)に父・孝明天皇が祐宮(さちのみや)と命名されました。中山邸で暮らし安政3年(1856年9月29日)に宮中に転居します。

予定より2年遅れて万延元年(1860年)閏3月16日に深曽木の儀を行う。7月10日、儲君(皇太子、東宮) と定められ、准后(文字の通り皇后に准ずる)・九条夙子の実子とされます。9月28日、親王宣下を受け睦仁の諱名(天皇からもらう名前で皇室は「仁」が付いています)を賜ります。

うんちく「深曽木の儀」とは?松と山橘の小枝を持って碁盤の上に乗り、子の髪を少し切った後、掛け声とともに飛び降りる儀式。悠仁親王の際41年ぶりに行われましたね。
「親王宣下」とは?、明治以前は親王宣下を受けなければ、天皇の子どもでも皇族とは認められませんでした。

慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇が崩御されると。慶応3年1月9日(同2月13日)、満14歳で践祚(「践」とは位に就くこと、「祚」は天子の位を意味する)の儀を行い皇位につきました。

慶応4年1月15日(1868年2月8日)、元服、同年8月21日(10月6日)からの一連の儀式を経て、8月27日(10月12日)、京都御所にて即位の礼を執り行い即位を内外に宣言しました。大嘗祭(天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭[収穫祭ですね])は明治4年11月17日(1871年12月28日)に東京で行い、12月28日、一条美子を皇后に定めています。

幕末の動乱については、あらためてご紹介する機会があると思いますので、今回は我慢していただきます。

【新時代明治始まる】

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(紅葉が綺麗な時期でした~が、この楓一本だけです。)

慶応4年(明治元年)3月14日(1868年4月6日)には五箇条の御誓文を発布して新政府の基本方針を表明し、閏4月21日(6月11日)には政体書によって新しい政治制度が採用されます。また、明治と改元して一世一元の制を定めた(改元の詔書を発したのは、慶応4年9月8日(1868年10月23日)でしたが、改元は慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って適用されました。

江戸開城から半年を経た明治元年10月13日、明治天皇は初めて江戸に行幸し、同日江戸を東京に、江戸城を東京城に改称します。一旦京都に還幸後、翌明治2年(1869年)に再び東京に移り崩御まで東京に居住しました。

明治2年6月17日(1869年7月25日)には版籍奉還の上表を勅許し、明治4年7月14日(1871年8月29日)には廃藩置県を断行し、中央集権体制を確立しました。

1872年(明治5年)に太陽暦を導入し、明治5年12月2日(1872年12月31日)の次の日(1873年1月1日)を「明治6年1月1日」と定めています。

明治天皇は外国要人と頻繁に会談しています。まず明治2年(1869年)に英国女王ヴィクトリアの子・アルフレートが英国王族として初めて訪日し会談、明治12年(1879年)にはユリシーズ・グラントが、アメリカ大統領経験者として初めて訪日し会談しました。明治14年(1881年)にハワイ国王(まだアメリカではありません)カラカウアが外国元首としては初めて訪日し会談しました。

【政府内部の政治的対立調停役としての明治天皇】

明治6年(1873年)に征韓論を巡って政府部内が紛糾した明治六年の政変では、勅旨を出して西郷隆盛の朝鮮派遣を中止させてこれを収め、明治7年(1874年)から同8年(1875年)にかけて続いた自由民権運動では、立憲政体の詔を発して政体改革を進めるなど、天皇は政府内部の政治的対立を調停する役割を果たしています。この自由民権運動への対応として、明治14年(1881年)には、国会開設の勅諭を発して議会創設の時期を明示し、運動の沈静化をうながしています。

明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法が発布されました。この憲法は、日本史上初めて天皇の権限(天皇大権)を明記しており、立憲君主制国家確立の基礎となりました。翌明治23年(1890年)10月30日には教育勅語を発し、近代天皇制国家を支える国民道徳を育てて広めることに努めました。

【日本世界の列強国へ変貌する】

日本が初めて直面した近代戦争である日清戦争と日露戦争では、天皇は大本営で直接戦争指導にあたっています。また、外交上は日英同盟を締結し、列強の一員たるべく、軍事的・経済的な国力の増強につとめました。日露戦争後は、韓国併合や満州経営を進め、日本をイギリスやフランス、ドイツなど他の列強のような植民帝国へと膨張させる政策を採用しています。

明治44年(1911年)には、開国以来の懸案であったイギリスやアメリカなどの各国との不平等条約の改正を完了させ、名実共に日本は列強の一員となっていきました。

もちろんすべてが明治天皇の指導で行われたわけではありませんが、大きな柱として天皇の存在が影響したことは間違いありません。

【明治天皇崩御】

1441920177105.jpg
(同じ一本、画質はガラケー写真なので許してください)
CIMG7433.jpg
(ここでも階段かい~桃山台地ね)
CIMG7440.jpg(上から見た南方面、宇治方面だと思うのですが?)

1912年(明治45年)7月30日、明治天皇は東京の宮城・明治宮殿で崩御しました。同年(大正元年)9月13日に東京・青山の帝國陸軍練兵場(現在の神宮外苑)にて大喪儀が執り行なわれた後、翌9月14日に埋葬されました。ん~?翌日埋葬ですか、伏見桃山陵ではありませんね~再度埋葬し直したのかな?

伏見桃山陵の敷地は、豊臣秀吉の築いた伏見城の本丸跡地で、京都に墓所が造られたのは明治天皇の遺言だったそうです。天王は京都の御所に帰りたいと言葉を漏らすほどの京都好きだったようです。すぐ東には皇后である昭憲皇太后の伏見桃山東陵(ふしみのももやまのひがしのみささぎ)が隣接しています。周囲一帯は宮内庁の管理地となっており、京都市南西部から旧山陽道、旧西海道地域の陵墓を管理する宮内庁書陵部桃山陵墓監区事務所がありました。

墳丘は古式に範を採った上円下方墳で、下段の方形壇の一辺は約60メートル、上段の円丘部の高さは約6.3メートル、表面にはさざれ石が葺かれている。方形の墓坑を掘って内壁をコンクリートで固め、その中に棺を入れた木槨が納められています。槨内の隙間には石灰を、石蓋をしてコンクリートで固めてあるようです。上円下方墳の墳形は天智天皇陵がモデルにされたといわれます。

幕末の孝明天皇についで火葬にせず、天武天皇以前の古制に戻しています。火葬に関しては今上陛下もお考えがあるような報道がされていますね。歴代天皇の陵は伏見桃山陵に至るまで、すべて近畿以西に作られていますが、大正天皇(多摩陵)と昭和天皇(武藏野陵)の各陵は東京都八王子市の武蔵陵墓地に作られています。

CIMG8217.jpg(明治天皇が帰りたいと洩らされた、京都御所「内庭園」一枚だけお見せします)
CIMG7436.jpg(最後は紅の豚と天皇陵、妻が撮影してくれているので、ちょっと恥ずかしがっていますね、恥ずかし~~~!)


【最後にお詫び】

今回のブログは漢字を意味の通りに簡単にすることと、時代が中途半端?なために敬語の使用についてとても迷いました。あえて「ですます」で書かせていただきました。不敬につきましてはお許しください。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/09/14

今話題の『前方後円墳を嗜(たしな)む』見処と鑑賞法!

今日は趣向を変えまして、古墳を見に行く機会が有ったなら、是非ここだけはチェックしてほしい四つの目利き?ポイントについてお話したいと思います。

この四つが理解出来るようになると、その古墳の位置付けが分かるように成って、かっこよくくうんちくを友達や恋人に語れるように成りますよ。

CIMG9040.jpg(今城塚古墳、真の第26代継体天皇といわれる入って遊べる天皇陵墓の埴輪レプリカ群)

それでは人気の、前方後円墳を例に上げて注目点を説明していきましょう。

キーワードは次の四つです。『段築』 『周濠』 『葺石』 『埴輪』です。それでは前方後円墳の説明から始めましょうか?

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【前方後円墳 って何?知らない方はおりません!】

前方後円墳 (ぜんぽうこうえんふん)は、古墳の形状の1つですよね小学校の教科書で習っています。円形の主丘に方形の突出部が接続する形式で、双丘の鍵穴形をなしています。

主に日本列島で3世紀中頃から7世紀初頭頃(畿内大王墓は6世紀中頃まで)にかけて築造され、日本列島の代表的な古墳形式としてよく知られていますね。

【あの鍵穴形の起源は何なの?】

ん~~~謎なんですよ~!、奈良県桜井市の纏向古墳群が最古の前方後円墳群とされています。3世紀中頃の築造で、完成形が箸墓古墳(卑弥呼の墓とも言われています)です。

P5190134.jpg(卑弥呼の墓とも言われる箸墓古墳)


以前に書いたブログ参考にしてください。
「豊鍬入姫命」「卑弥呼」「台与」?誰が眠るんだ~『ホケノ山古墳』
本当に眠るのは「卑弥呼」なのか?纒向遺跡最後を飾る『箸墓古墳』

日本(およびそれに影響を受けた朝鮮半島南部)でのみ見られる前方後円墳の起源については、これまでに様々な仮説が唱えられました。

最もよく知られているものは、弥生時代の墳墓から独自に発展したものという学説です。この説は従来より存在した円形墳丘墓の「周濠(あら出ちゃった)」を掘り残した陸橋部分(通路部分)で祭祀などが行われ、その後この部分が墓(死の世界)と人間界を繋ぐ陸橋として大型化し円墳と一体化したと考えられる説です。

それに対して円部は軍事・政治を担った男王、方部は祭祀を司った女王の墓に由来するという説もあります。奈良県橿原市の瀬田遺跡では弥生時代終末期(2世紀頃)の前方後円形の円形周溝墓が発見されており、前方後円墳の原型である可能性が指摘されています。

「前方後円」の語は、江戸時代の国学者蒲生君平が19世紀初めに著した『山陵志』で初めて使います。明治時代末期になり、ウィリアム・ゴーランドは円墳と方墳が結合して作られた。清野謙次は主墳と陪塚が結合して前方後円墳になったと推測します。その後、壺形土器の形や盾の形を模倣したというような学説も生まれています。

現在の研究では、平面では円形をしている後円部が埋葬のための墳丘で主丘であり、平面が撥形・長方形・方形・台形などの突出部をひっくるめて前方部と呼びます。前方部は、弥生墳丘墓の突出部が変化したもので、もともと死者を祀る祭壇として発生・発達とする説や葬列が後円部に至る墓道であったとする説があり、次第に独特の形態を成したと考えられています。ただし時代が下ると前方部にも埋葬がなされるようになっていきます。

しかし、慣習と便宜によって前方後円墳、前方部、後円部といった用語はそのまま使われています。古い形の前方後円墳は前方部は低く撥形をしており、後円部は新古にかかわらず大きく高く造られている。撥形にしているのは、葬列が傾斜の緩やかな道を通れるように前方部の左右の稜線のどちらかを伸ばしたものと考えられています。

近畿地方、宮崎県を中心として日本全国に広く分布する大型の前方後円墳の周りには、小型の前方後円墳、あるいは円墳・方墳が寄り添うように建造されており、複数の大型古墳から構成される古墳群が形成されている箇所が多くあります。古墳時代に築かれた巨大な墳墓はその多くがこの前方後円墳であり、その中で最も大きなものは大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)であり、墳墓の表面積としてはクフ王のピラミッドおよび始皇帝陵をしのぐ世界最大の墳墓に成ります。墳丘の全長が486メートル、高さが36メートル、周りには、三重の周濠を巡らしています。

後円部は、前方後円墳で最も大切な場所です。それは、そこに亡き首長を埋葬し、盛大に埋葬祭祀が行われてきたと考えられます。その頂上は狭いが平坦に造られていて、その下の土中に埋葬を行うのに都合のよい形に造られています。裾部から頂までは高く造られ、その斜面の勾配は、平均的には25度から26度もあり、それ以上の急勾配の墳墓もあります。築造当時には斜面に葺き石が敷かれて、登ることができないように造られています。

また、くびれ部や前方部の斜面も急勾配に造られており、簡単に登ることができなくなっています。葬列が登れるのは前方部の前面の左右の隅角のどちらかで、そこを緩い斜面にして登りやすくしています。このように前方後円墳は簡単に登れないような急斜面で囲まれています。登ることを慎めという意味であり、前方後円墳は禁忌の状態に築造されているのです。

前方後円墳は、墳丘(前方部・後方部・造出)、埋葬施設(棺室・槨室・石室)、副葬品、外表施設(封土固めの葺石、祭祀用の土器・埴輪など)などの諸要素から成っています。今回私が取り上げるのは、『周濠』『葺石』 『段築』 『埴輪』です。

【祈りはどこで行われた?】

CIMG9045.jpg(今城塚古墳の造出は四角いです。)

前方後円墳には造出(つくりだし)という括れ部分の突出が見られます。最古級の前方後円墳では造出は見つかっていません。大王墓および地方の有力首長墓のみに付随する物と考えられています。造出には埴輪を立て並べたり、形象埴輪を置いたりしています。祭祀・追葬が後円部や前方部の墳頂で行われるのではなく、くびれ部裾付近に作られた造出で行われたことは、埋葬祭祀の考え方が変わって来たことをうかがえます。それは、墳頂へ登ることが禁忌され、畏敬されたことと関わっていると考えられ、追葬や祭祀は一定期間行われると停止されたと考えられます(33回忌いいえ50回忌までかな?)

【最初のキーワードは 『段築』 】

P7290446.jpg(大きさは前国10位の282m、岡山2位の作山古墳三段築成の二段目!わかります?)

古墳の外部施設の一種です。墳丘を数段の階段状に造ること,またはそのような墳丘のことです。畿内の大型前方後円墳では,初期には墳丘は3~4段に造られ、後円部最上段は円丘を呈していましたが、4世紀中期以降には前方部・後円部ともに3段の形が定着しました。各平坦面には埴輪が並べられました。

箸墓古墳NO~~1!後円部は4段築成で、4段築成の上に小円丘(径約44-46メートル、高さ4メートルの土壇、特殊器台が置かれていたと考えられる)が載ったものと指摘する研究もあります(4.5段)。前方部は側面の段築は明瞭ではないが、前面には4段の段築があるとされます。ちなみに五段築成(四段築成で、後円部に小円丘が載る)は箸墓古墳のみで四段築成(三段築成で、後円部に小円丘が載る)は西殿塚古墳(大和古墳群)、行燈山古墳(柳本古墳群)、渋谷向山古墳(柳本古墳群)、桜井茶臼山古墳(鳥見山古墳群)、メスリ山古墳(鳥見山古墳群)、築山古墳(馬見古墳群)等が考えられ他の天皇陵クラスの古墳は全て三段築成(後円部も前方部も三段築成)とされます。被葬者の格付けを表しているのかも知れませんね。

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(箸墓古墳、NO1、4.5段)

ちなみに最初の前方後円墳といわれる「纒向石塚古墳」は、もうすでに2段築成なんですよ~。

P5190064.jpg(纒向石塚古墳分かるかな左側面に段が有りますよね。)

【次のキーワードは『葺石』】

葺石(ふきいし)とは、主として古墳時代の墳墓の遺骸埋葬施設や墳丘を覆う外部施設の1つで、古墳の墳丘斜面などに河原石や礫石(れきいし)を積んだり、貼りつけるように葺(ふ)いたものです。「葺石」は前期古墳と中期古墳に多いが、後期になると葺石をともなわない古墳が大多数をしめるようになります。

日本の墳墓においては、中国の墳墓に顕著にみられる版築の工法がほとんどみられない一方で、斜面を礫石などで葺いてがっしりと安定させる手法が採用されており、この工法は日本列島独自のものなのです。

葺石の発生については阿波(いまの徳島県)の吉野川流域や瀬戸内海沿岸など日本の古い積石塚の分布する地域で工夫されたとする説が唱えられています。古くから瀬戸内および四国地方には石工集団がおり、石に関する知識が特に豊富であったことも指摘されています。

なお、『日本書紀』と『古事記』には、箸墓古墳(奈良県桜井市)の造営の際、大坂山の石をリレー方式(一列に大阪から並んでバケツリレーした?)で運んだという説話が記されています、このとき運ばれたのは葺石のための石材であったと考えられています。

P5190160.jpg(奈良桜井市、ホケノ山古墳の葺石です)

葺石墓は、弥生時代中期以降の西日本に点々とみられ、古墳時代へとつながっていきます。とくに一般的に「定型化された大型前方後円墳」の最古の例と考えられている箸墓古墳および若干それに先立つとみられるホケノ山古墳(奈良県桜井市)では葺石をともなうことが確認されており、葺石は、出現期古墳の特徴を示す一要素となっています。なお、定型化以前の、いわゆる「纒向型」と称される墳墓では、纒向石塚古墳、纒向勝山古墳、東田大塚古墳いずれの場合でも埴輪・葺石はともなっていません。

葺石の祖形のひとつとして掲げられることの多いのは、弥生時代の山陰地方にみられる四隅突出型弥生墳丘墓(こちらまだご紹介していませんが凄いですよ~今回少しだけ見せちゃいます)にみられる貼石(はりいし)です。島根県出雲市の西谷墳墓群3号墓では、墳丘の裾部分を全周するかたちで貼石がなされている。また、岡山県総社市の楯築遺跡(こちらもまだ内緒です)では墳丘に石列をめぐらせており、このような例は山陰・山陽で広くみられます。さらに、山陽地方においては、石垣状に積んで墳丘を造る例もみられます。

P8111324.jpg(まだ見せたく無かった!四隅突出型弥生墳丘墓、島根県出雲市の西谷墳墓群3号墓)

葺石の目的としては、墳丘の偉容を示すとともに墳丘そのものの保護を目的とするとみられています。とくに墳丘斜面に使用され、平坦面では通常使用されないことから、盛土流出を防ぐ目的があったものと考えられ、防水・排水の効果も高かったと推察されます。

また、他の隣接する地域とは明確に区別するという意味合い、すなわち、「ここからは聖域であり、霊域である」という境界を示して周囲とのあいだを画する意味合いもあったとも考えられます。

【三番目のキーワードは『周濠』】

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(奥が大仙陵古墳、三重の盾形周濠)

考古学では普通、古墳の周囲に掘られた堀をさします。湛水しているものが多いですが、空濠の場合もあります。前者では一般に、濠が畦で区切られ、水面が階段状をなすものから、畦がとれ水面が同じ高さで一周するものへと変遷したと考えられています。

形は墳丘に沿って同じ幅の周濠がめぐるもののほかに、前方後円墳では盾形(馬蹄形も含む)、前方後方墳では長方形のものが多いようです。古墳時代中期には、墳丘の巨大化に伴う外部施設の整備の一環として、著しい発達をとげ大阪府古市・百舌鳥(もず)古墳群などでは、墳丘との統一企画のもとに、二重・三重の盾形周濠が掘削されました。

すこしわかりやすく簡単に説明しますと、自然の山などを利用した場合土はいりませんよね、しかしながら平地に小山の様な古墳を作ろうとすると、当然土をどこからか運ばなければなりません。もうお分かりですよねそう「周濠」部分の土が使われたのです。

段築と同じく一重周濠からの被葬者の格付けを表しているのかも知れませんね。大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)のように、三重の周濠を巡らした古墳もあります。

【最後のキーワードは祭祀用土器『埴輪』】

P3190089.jpg(但馬の茶すり山古墳、円筒埴輪と朝顔形埴輪、朝顔形埴輪には貢物の壺を乗せたのか?)

埋葬祭祀で使用された土器は、最古級の前方後円墳では、宮山型特殊器台・特殊壺、この土器から変化した最古の埴輪といわれる都月形円筒埴輪と次に古い特殊壺形埴輪、円筒埴輪、家型埴輪、武器形埴輪、人形埴輪などが有ります。特殊土器は、日常の器台・壺と違い大きく、文様で飾られています。器台は1メートルほどもあるものもあり、壺も40センチから50センチぐらいで、器台に壺を載せると人の肩ほどにもなります。このような大きな目立つ道具を使って亡くなった首長の霊魂と首長権を継承するための祭祀を行ったと考えられています。

【まとめ「古墳を語るなら」】

P2220002.jpg(神戸五色塚古墳、復元すると全て明らか『段築』 『周濠』 『葺石』 『埴輪』)

古墳時代の日本の大型墳墓は、墳丘の斜面などにびっしりと『葺石』が施され、遠目には石塚のように見えました。平坦なテラス部分『段築』には『円筒埴輪』をならべ、さらに墳丘周囲には『周濠』をめぐらせて、その外側には数基より成る陪塚をともなうなど、色彩豊かで華麗な装いをみせています。規模や形状のみならず、当時は側面からしか古墳を見られない人びとに対して、葺石によって白く輝く構築物としての陵墓の色彩的イメージは、他の構築物とのあいだに大きな格差を感じさせるに充分であったと考えられます。このような意味からも、古墳は単なる墓ではなくて政治の柱として機能したのでした。

さあ、長々のお付き合いありがとうございました。これであなたも古墳博士です(笑)ホントか~~~!

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