2017/09/30

(続)『備前国分寺』の周りは古墳の宝庫だった!「両宮山古墳」と稚媛(わかひめ)伝説

前回は、岡山県第3位の大きさを誇る「両宮山古墳」のすぐそば、『備前国分寺跡』をご紹介しました。
備前国分寺の周りには、「両宮山古墳」をはじめとして、規模の大きな前方後円墳が数多くある両宮山古墳群(西高月古墳群)が有るともご紹介しました。
今日は両宮山古墳群の内、私が取材出来たいくつかの古墳をご紹介します。


P35976541.gif(両宮山古墳を中心に左に国分寺+古墳が点在しています。)

一帯には、「両宮山古墳」を含む前方後円墳4基・帆立貝形古墳2基などからなる「西高月古墳群」が存在しています。取材(偉そうですけど要は写真に収められたものです)出来た古墳をご紹介します。広い地域なので徒歩で廻れた分だけですその他は説明だけでご勘弁願います。

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P7300889.jpg(まずは両宮山古墳)




【両宮山古墳周辺の古墳】

両宮山古墳が築かれた平野をみてみると、同じく古墳時代中期の後半頃に造られた古墳が両宮山古墳の周辺に集中し、1つの古墳群を形成しています。これを「両宮山古墳群(西高月古墳群)」と呼んでいます。

これらの中には両宮山古墳の陪塚(ばいちょう)と考えられている古墳もありますが(和田茶臼山古墳)、それぞれの古墳に埋葬されている人物が、両宮山古墳の埋葬者の親族や政権を支えた官僚的人物、あるいは両宮山古墳の埋葬者とは別系統の首長であるのかなど、はっきりとわかっていません。

『うんちく「陪塚(ばいちょう)」って何?』大形古墳(主墳)の近くに計画的に造られたと考えられる小形の古墳の事で。陪塚に埋葬された人物は、大形古墳に埋葬された人物に対して、従属的な立場であったと想定されます。主墳の製作者、子供・妻・殉死した者などと考えられています。

参考にしてくださいね。
①今話題の『前方後円墳を嗜(たしな)む』見処と鑑賞法!
②備前地域最大の前方後円墳、『両宮山古墳』は倭への架け橋か!

【和田茶臼山古墳(陪塚)】

P7300852.jpg(陪塚・和田茶臼山古墳)
P7300876.jpg(和田茶臼山古墳の段築から両宮山古墳後円部を望む!)



両宮山古墳の後円部北側に造られた、墳丘全長55m、後円部径(推定かけて畑に成っています)41.5mの帆立貝形古墳です。後円部の高さは北西のくびれ部から5.65mの高さです。後円部は二段築成とかんがえられます。

両宮山古墳と同様に葺石や埴輪は伴わず、また、外濠が両宮山古墳の外濠と一部共有する二重周濠がめぐらされていました。こうしたことから、この古墳の埋葬者は、両宮山古墳の埋葬者と親密な関係であったと想定されています。5世紀後半~末の築造と考えられます。

『うんちく「帆立貝形古墳」てどんな形?』正にホタテ貝の形です(当たり前やんか、笑)円墳に低く短かい突出部がついた平面形が、帆立貝に似ているところからホタテ型と呼ばれています。奈良の纏向古墳群が始まりといわれています。大和政権と地方首長の間での政治的関係から、同じ形態の古墳が築造されたのではないかと推測できますね。

【森山古墳】

P7300898.jpg(森山古墳、二段築成が綺麗に目られますね。周濠は今は田んぼに成っています。)
P7300900.jpg(後円部の高さに比べて前方部は平たいイメージです。後に畑に変化したせいですかね?)

墳丘全長82m、後円部径63m、同高さ12.1m、総長136mの帆立貝形の古墳です。後円部は高さが際立ち、二段築成の可能性があります。周囲には周濠を巡らしていたことが分かっています。

両宮山古墳と異なって葺石と埴輪が伴っています。これふしぎですね~墳丘の縮小は両宮山古墳群の衰退を意味していると考えるのですか、飾りは派手になっているわけですからね~?形象埴輪では蓋(きぬがさ)や家が、朝顔形埴輪では肩部に鹿が描かれた破片が出土しました。5世紀後半の築造と考えらています。

『うんちく「蓋」』衣蓋とも表記されます。高貴な人にさしかける笠として形づくられたものです。埋葬された人物の権威の象徴を示すものとして重要だったと思われます。鹿ですが食料というよりも神聖な動物として扱われています。食料といえば猪ですね。

【正免東古墳】

墳丘の直径が23mをはかる古墳です。前方部の有無が判断できないため(道路に成って変形が激しいいです)、円墳か前方後円墳かわかりません。調査成果から葺石が認められ、二重周濠の可能性もあります。

周濠の底からは、鹿の線刻絵画や円弧文様をもつ埴輪や蓋・家の形象埴輪が出土しました。森山古墳と親密な関係が想定されます(森山古墳の陪塚の可能性もあります)。5世紀後半の築造と考えられています。 こちらの古墳道路の下に成ってしまっています。

【 廻り山古墳】

P7300907.jpg(朝日で写真が撮りにくい~!)
P7300910.jpg(近づいてみましょう。)
P7300913.jpg(説明版がありました。調査されていないそうです。)
P7300916.jpg(前方部正面の直線です。)

墳丘全長47mと推定される前方後円墳で、高さ5mの低い丘陵の頂部に造られています。墳丘は畑の開墾が著しいですが、大きく開いた前方部を北に向けています。墳丘を取り巻く周濠をもつ古墳は、周辺ではこの古墳が最後の古墳と思われます。

未調査のため、埋葬の主体部や葺石や埴輪などの外表の様子はよくわかりませんが、6世紀前半の築造と考えられています。

【 朱千駄古墳】

墳丘全長85m、後円部径40m、同高さ6.5mの二段築成の前方後円墳です。北に延びる丘陵斜面に平行して築かれ、前方部を東に向けています。

後円部には兵庫県の竜山石(たつやまいし)製の長持式(ながもちしき)石棺が置かれていたようです。中からは、この古墳名の由来となった大量の朱や銅鏡、玉類、刀剣類が出土しました。5世紀末に築造されたと考えられます。

『うんちく「石の宝殿・竜山石(たつやまいし)」』おもに古代の石棺、石碑、モニュメントなどに使われています1700年の歴史を誇る石切場といえます。姫路城石垣、皇居吹上御苑、国会議事堂、日本帝国ホテル等の建築物に使用されています。

参考にしてくださいね。
③日本三奇 石乃寶殿 !「オーパーツ?」『生石神社(おおしこじんじゃ)』の凄さ!

【 小山古墳】

墳丘全長67m、後円部径42m、同高さ7.9m、総長89mの前方後円墳で、二段築成の前方部と三段築成の後円部をもちます。低い丘陵の先端部分に築かれ、前方部を南に向けています。

後円部にある社殿の裏側には、熊本県の阿蘇(あそ)産の溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)製である家形石棺の身と蓋(ふた)が破片となって残されています。埴輪が列状にめぐっており、5世紀末の築造と考えられています。

【岩田14号墳】

P7300875.jpg(綺麗な横穴式石室)
P7300915.jpg
(出土品の雁木玉・トンボ玉です。きれいですね~!)

6世紀中ごろに築造された長さ11.8mの横穴式石室を有する後期円墳です。石室は片袖式で、7基の木棺痕跡が確認されています。山陽団地造成の際に発掘され、公園として保存されています。

中からは単竜環頭太刀や雁木玉を初めとする多量の須恵器や馬具類が出土しました。出土品は赤磐市山陽郷土資料館に展示・保管してあります。最初の地図には入っていませんが、両宮山古墳北側団地の中に有りました。

今回の資料データは岡山県赤磐市教育委員会作成のパンフレット(国分寺のポストに濡れぼそって入っていました。)を拝借しました。

【最後の前に両宮山古墳と稚媛伝説】

1500年前ほど前、このあたり備前地方は、吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)田狭(たき)という豪族が支配し、大和朝廷に並ぶほどの強い勢力を誇っていました。 両宮山古墳は、その田狭の墓ではないかと言い伝えられてきました。

田狭には稚媛という美しい妻がいましたが、あまりの美貌ゆえに雄略天皇は田狭を任那(または「伽耶」は、当時日本の勢力下にありました)の国司として派遣し自分の后にしてしまいました。 任那に国司として派遣された田狭は、留守中に妻を天皇に奪われたことを知り、新羅と結んで天皇に背こうとしました。

怒った天皇は田狭の子で弟君(おとぎみ)に父を討つことを命じましたが、弟君は新羅へは向かわず。田狭の軍と結ぼうとしました。 これを知った弟君の妻樟姫(くすひめ)は、夫に謀反の心があることを知り、夫を殺し百済から工人たちを連れて帰り、天皇に献じています。

妻稚媛を天皇に奪われ、わが子弟君を殺された田狭の嘆きはどのようなものであったのでしょうか。 しかし、田狭のその後は「日本書紀」に記されていません。

それから十数年後、雄略天皇が崩御(雄略23年・西暦479年)されると、稚媛は雄略天皇との間に生まれた星川皇子(ほしかわのみこ)を天皇にしようと 田狭の子・兄君(えぎみ)らとともに大和政権に対して反乱を起こし。皇太子白髪皇子(しらかのみこ)と争いましたが、やがていずれの反乱も鎮圧されてしまい、立てこもっていた大蔵に火が放たれて、無残な最期を遂げます。これらを機会に吉備の政治的衰退が始まったとされています。

「日本書紀」には、滅びゆく豪族の姿と稚媛の数奇な運命がこのように描かれています。壮大な両宮山古墳は、今もなお、古代の悲しい物語を語り続けているのですね。

P7300918.jpg(遠方より両宮山古墳を眺める、悲しい歴史が埋まっているのか?)

両宮山古墳と和田茶臼山古墳(陪塚)には葺石と埴輪が見つかっていません。埴輪に関しては森山古墳・正免東古墳・朱千駄古墳・小山古墳・廻り山古墳では出土しています。南西の造り出しからも古墳に伴う遺物は見つかりませんでした。二重の環濠に陪塚まで備えた巨大古墳に葺石や埴輪が無いのjは大変不思議ですよね?やはり雄略天皇や皇太子白髪皇子への反乱が大和の怒りを買い古墳の祭祀が完結しなったのかもしれません。これもまた古代のロマンです。

【本当に最後】

今回の取材で、吉備(今日の記事は備前ですが)地方が古代史において、近畿(奈良・大和)や九州と同等の勢力を持っていたと考えました。出雲国も入れて四巴の論争が今後展開されることは間違いないと思います。古代の歴史は感動的ですらありますね。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/09/16

豊臣秀吉の伏見城本丸跡地に眠る「明治天皇」『伏見桃山陵』

前回、前方後円墳(古墳)を取りあげたので、今期はどこかの大きな天皇陵をご紹介しようと思っておりましたが、期待を裏切るのもまた面白いかなと勝手に思い、古いとは言えない?天皇陵墓をご紹介します。

今日は次女の運動会が台風の雨で中止!だらだらの一日でしたが、嬉しい事が二つありました。まず第一に入院していた父の退院が来週火曜日に決まりました。本当は今日にも退院だったのですが、次女の運動会のため一日伸ばしましたところ、この台風でさらに伸びて火曜日に成ってしまいましたが、良かったです。もう一つは明日17日にコロッケが届きます(笑)毎回皆さんが話題にしてくださるブログ仲間の「馬肉会」でメンバー続、ものグラムな生活。(ラーメン編)の「ものグラム」さんが話題にされて、「アッ!それ頼んでる」と思いだした凄いコロッケです。
また到着しましたら、ブログでご紹介します。

CIMG7435.jpg(明治天皇が眠られる伏見桃山陵)

本題に帰って、京都府京都市伏見区に在る『伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ、ふしみももやまりょう)』をご紹介します。被葬者は『明治天皇』です。
形状は上円下方墳で、1912年築造(大正元年)、 宮内庁治定「伏見桃山陵」として文化財指定されています。

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【明治天皇って誰?(不敬な表現は慎みましょう)どんな方?】

235487.jpg
(軍服姿の明治天天皇!、凛々しいですね)
 

明治天皇は第122代天皇です。
在位期間は1867年1月30日~1912年7月30日(慶応2年12月25日~明治45年7月30日)です。

即位礼は1868年10月12日(慶応4年8月27日)京都御所において行われました。

1852年11月3日(嘉永5年9月22日)中山忠能邸 にて誕生され、1912年(明治45年)7月30日に(宝算59)崩御されています。
喪儀は1912年(大正元年)9月13日、帝国陸軍青山練兵場 にて執り行われました。

【生誕から即位まで】

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(誕生された中山邸跡)
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(明治天皇生誕の地)
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(産湯を汲んだ井戸が二歳の時に枯れたので掘りなおした井戸だそうです。ややこしい(-"-;A ...アセアセ)

孝明天皇の第二皇子として生まれます。生母は権大納言・中山忠能の娘・中山慶子、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)に京都石薬師・中山邸にて誕生。出生8日目(9月29日)に父・孝明天皇が祐宮(さちのみや)と命名されました。中山邸で暮らし安政3年(1856年9月29日)に宮中に転居します。

予定より2年遅れて万延元年(1860年)閏3月16日に深曽木の儀を行う。7月10日、儲君(皇太子、東宮) と定められ、准后(文字の通り皇后に准ずる)・九条夙子の実子とされます。9月28日、親王宣下を受け睦仁の諱名(天皇からもらう名前で皇室は「仁」が付いています)を賜ります。

うんちく「深曽木の儀」とは?松と山橘の小枝を持って碁盤の上に乗り、子の髪を少し切った後、掛け声とともに飛び降りる儀式。悠仁親王の際41年ぶりに行われましたね。
「親王宣下」とは?、明治以前は親王宣下を受けなければ、天皇の子どもでも皇族とは認められませんでした。

慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇が崩御されると。慶応3年1月9日(同2月13日)、満14歳で践祚(「践」とは位に就くこと、「祚」は天子の位を意味する)の儀を行い皇位につきました。

慶応4年1月15日(1868年2月8日)、元服、同年8月21日(10月6日)からの一連の儀式を経て、8月27日(10月12日)、京都御所にて即位の礼を執り行い即位を内外に宣言しました。大嘗祭(天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭[収穫祭ですね])は明治4年11月17日(1871年12月28日)に東京で行い、12月28日、一条美子を皇后に定めています。

幕末の動乱については、あらためてご紹介する機会があると思いますので、今回は我慢していただきます。

【新時代明治始まる】

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(紅葉が綺麗な時期でした~が、この楓一本だけです。)

慶応4年(明治元年)3月14日(1868年4月6日)には五箇条の御誓文を発布して新政府の基本方針を表明し、閏4月21日(6月11日)には政体書によって新しい政治制度が採用されます。また、明治と改元して一世一元の制を定めた(改元の詔書を発したのは、慶応4年9月8日(1868年10月23日)でしたが、改元は慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って適用されました。

江戸開城から半年を経た明治元年10月13日、明治天皇は初めて江戸に行幸し、同日江戸を東京に、江戸城を東京城に改称します。一旦京都に還幸後、翌明治2年(1869年)に再び東京に移り崩御まで東京に居住しました。

明治2年6月17日(1869年7月25日)には版籍奉還の上表を勅許し、明治4年7月14日(1871年8月29日)には廃藩置県を断行し、中央集権体制を確立しました。

1872年(明治5年)に太陽暦を導入し、明治5年12月2日(1872年12月31日)の次の日(1873年1月1日)を「明治6年1月1日」と定めています。

明治天皇は外国要人と頻繁に会談しています。まず明治2年(1869年)に英国女王ヴィクトリアの子・アルフレートが英国王族として初めて訪日し会談、明治12年(1879年)にはユリシーズ・グラントが、アメリカ大統領経験者として初めて訪日し会談しました。明治14年(1881年)にハワイ国王(まだアメリカではありません)カラカウアが外国元首としては初めて訪日し会談しました。

【政府内部の政治的対立調停役としての明治天皇】

明治6年(1873年)に征韓論を巡って政府部内が紛糾した明治六年の政変では、勅旨を出して西郷隆盛の朝鮮派遣を中止させてこれを収め、明治7年(1874年)から同8年(1875年)にかけて続いた自由民権運動では、立憲政体の詔を発して政体改革を進めるなど、天皇は政府内部の政治的対立を調停する役割を果たしています。この自由民権運動への対応として、明治14年(1881年)には、国会開設の勅諭を発して議会創設の時期を明示し、運動の沈静化をうながしています。

明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法が発布されました。この憲法は、日本史上初めて天皇の権限(天皇大権)を明記しており、立憲君主制国家確立の基礎となりました。翌明治23年(1890年)10月30日には教育勅語を発し、近代天皇制国家を支える国民道徳を育てて広めることに努めました。

【日本世界の列強国へ変貌する】

日本が初めて直面した近代戦争である日清戦争と日露戦争では、天皇は大本営で直接戦争指導にあたっています。また、外交上は日英同盟を締結し、列強の一員たるべく、軍事的・経済的な国力の増強につとめました。日露戦争後は、韓国併合や満州経営を進め、日本をイギリスやフランス、ドイツなど他の列強のような植民帝国へと膨張させる政策を採用しています。

明治44年(1911年)には、開国以来の懸案であったイギリスやアメリカなどの各国との不平等条約の改正を完了させ、名実共に日本は列強の一員となっていきました。

もちろんすべてが明治天皇の指導で行われたわけではありませんが、大きな柱として天皇の存在が影響したことは間違いありません。

【明治天皇崩御】

1441920177105.jpg
(同じ一本、画質はガラケー写真なので許してください)
CIMG7433.jpg
(ここでも階段かい~桃山台地ね)
CIMG7440.jpg(上から見た南方面、宇治方面だと思うのですが?)

1912年(明治45年)7月30日、明治天皇は東京の宮城・明治宮殿で崩御しました。同年(大正元年)9月13日に東京・青山の帝國陸軍練兵場(現在の神宮外苑)にて大喪儀が執り行なわれた後、翌9月14日に埋葬されました。ん~?翌日埋葬ですか、伏見桃山陵ではありませんね~再度埋葬し直したのかな?

伏見桃山陵の敷地は、豊臣秀吉の築いた伏見城の本丸跡地で、京都に墓所が造られたのは明治天皇の遺言だったそうです。天王は京都の御所に帰りたいと言葉を漏らすほどの京都好きだったようです。すぐ東には皇后である昭憲皇太后の伏見桃山東陵(ふしみのももやまのひがしのみささぎ)が隣接しています。周囲一帯は宮内庁の管理地となっており、京都市南西部から旧山陽道、旧西海道地域の陵墓を管理する宮内庁書陵部桃山陵墓監区事務所がありました。

墳丘は古式に範を採った上円下方墳で、下段の方形壇の一辺は約60メートル、上段の円丘部の高さは約6.3メートル、表面にはさざれ石が葺かれている。方形の墓坑を掘って内壁をコンクリートで固め、その中に棺を入れた木槨が納められています。槨内の隙間には石灰を、石蓋をしてコンクリートで固めてあるようです。上円下方墳の墳形は天智天皇陵がモデルにされたといわれます。

幕末の孝明天皇についで火葬にせず、天武天皇以前の古制に戻しています。火葬に関しては今上陛下もお考えがあるような報道がされていますね。歴代天皇の陵は伏見桃山陵に至るまで、すべて近畿以西に作られていますが、大正天皇(多摩陵)と昭和天皇(武藏野陵)の各陵は東京都八王子市の武蔵陵墓地に作られています。

CIMG8217.jpg(明治天皇が帰りたいと洩らされた、京都御所「内庭園」一枚だけお見せします)
CIMG7436.jpg(最後は紅の豚と天皇陵、妻が撮影してくれているので、ちょっと恥ずかしがっていますね、恥ずかし~~~!)


【最後にお詫び】

今回のブログは漢字を意味の通りに簡単にすることと、時代が中途半端?なために敬語の使用についてとても迷いました。あえて「ですます」で書かせていただきました。不敬につきましてはお許しください。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/09/14

今話題の『前方後円墳を嗜(たしな)む』見処と鑑賞法!

今日は趣向を変えまして、古墳を見に行く機会が有ったなら、是非ここだけはチェックしてほしい四つの目利き?ポイントについてお話したいと思います。

この四つが理解出来るようになると、その古墳の位置付けが分かるように成って、かっこよくくうんちくを友達や恋人に語れるように成りますよ。

CIMG9040.jpg(今城塚古墳、真の第26代継体天皇といわれる入って遊べる天皇陵墓の埴輪レプリカ群)

それでは人気の、前方後円墳を例に上げて注目点を説明していきましょう。

キーワードは次の四つです。『段築』 『周濠』 『葺石』 『埴輪』です。それでは前方後円墳の説明から始めましょうか?

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【前方後円墳 って何?知らない方はおりません!】

前方後円墳 (ぜんぽうこうえんふん)は、古墳の形状の1つですよね小学校の教科書で習っています。円形の主丘に方形の突出部が接続する形式で、双丘の鍵穴形をなしています。

主に日本列島で3世紀中頃から7世紀初頭頃(畿内大王墓は6世紀中頃まで)にかけて築造され、日本列島の代表的な古墳形式としてよく知られていますね。

【あの鍵穴形の起源は何なの?】

ん~~~謎なんですよ~!、奈良県桜井市の纏向古墳群が最古の前方後円墳群とされています。3世紀中頃の築造で、完成形が箸墓古墳(卑弥呼の墓とも言われています)です。

P5190134.jpg(卑弥呼の墓とも言われる箸墓古墳)


以前に書いたブログ参考にしてください。
「豊鍬入姫命」「卑弥呼」「台与」?誰が眠るんだ~『ホケノ山古墳』
本当に眠るのは「卑弥呼」なのか?纒向遺跡最後を飾る『箸墓古墳』

日本(およびそれに影響を受けた朝鮮半島南部)でのみ見られる前方後円墳の起源については、これまでに様々な仮説が唱えられました。

最もよく知られているものは、弥生時代の墳墓から独自に発展したものという学説です。この説は従来より存在した円形墳丘墓の「周濠(あら出ちゃった)」を掘り残した陸橋部分(通路部分)で祭祀などが行われ、その後この部分が墓(死の世界)と人間界を繋ぐ陸橋として大型化し円墳と一体化したと考えられる説です。

それに対して円部は軍事・政治を担った男王、方部は祭祀を司った女王の墓に由来するという説もあります。奈良県橿原市の瀬田遺跡では弥生時代終末期(2世紀頃)の前方後円形の円形周溝墓が発見されており、前方後円墳の原型である可能性が指摘されています。

「前方後円」の語は、江戸時代の国学者蒲生君平が19世紀初めに著した『山陵志』で初めて使います。明治時代末期になり、ウィリアム・ゴーランドは円墳と方墳が結合して作られた。清野謙次は主墳と陪塚が結合して前方後円墳になったと推測します。その後、壺形土器の形や盾の形を模倣したというような学説も生まれています。

現在の研究では、平面では円形をしている後円部が埋葬のための墳丘で主丘であり、平面が撥形・長方形・方形・台形などの突出部をひっくるめて前方部と呼びます。前方部は、弥生墳丘墓の突出部が変化したもので、もともと死者を祀る祭壇として発生・発達とする説や葬列が後円部に至る墓道であったとする説があり、次第に独特の形態を成したと考えられています。ただし時代が下ると前方部にも埋葬がなされるようになっていきます。

しかし、慣習と便宜によって前方後円墳、前方部、後円部といった用語はそのまま使われています。古い形の前方後円墳は前方部は低く撥形をしており、後円部は新古にかかわらず大きく高く造られている。撥形にしているのは、葬列が傾斜の緩やかな道を通れるように前方部の左右の稜線のどちらかを伸ばしたものと考えられています。

近畿地方、宮崎県を中心として日本全国に広く分布する大型の前方後円墳の周りには、小型の前方後円墳、あるいは円墳・方墳が寄り添うように建造されており、複数の大型古墳から構成される古墳群が形成されている箇所が多くあります。古墳時代に築かれた巨大な墳墓はその多くがこの前方後円墳であり、その中で最も大きなものは大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)であり、墳墓の表面積としてはクフ王のピラミッドおよび始皇帝陵をしのぐ世界最大の墳墓に成ります。墳丘の全長が486メートル、高さが36メートル、周りには、三重の周濠を巡らしています。

後円部は、前方後円墳で最も大切な場所です。それは、そこに亡き首長を埋葬し、盛大に埋葬祭祀が行われてきたと考えられます。その頂上は狭いが平坦に造られていて、その下の土中に埋葬を行うのに都合のよい形に造られています。裾部から頂までは高く造られ、その斜面の勾配は、平均的には25度から26度もあり、それ以上の急勾配の墳墓もあります。築造当時には斜面に葺き石が敷かれて、登ることができないように造られています。

また、くびれ部や前方部の斜面も急勾配に造られており、簡単に登ることができなくなっています。葬列が登れるのは前方部の前面の左右の隅角のどちらかで、そこを緩い斜面にして登りやすくしています。このように前方後円墳は簡単に登れないような急斜面で囲まれています。登ることを慎めという意味であり、前方後円墳は禁忌の状態に築造されているのです。

前方後円墳は、墳丘(前方部・後方部・造出)、埋葬施設(棺室・槨室・石室)、副葬品、外表施設(封土固めの葺石、祭祀用の土器・埴輪など)などの諸要素から成っています。今回私が取り上げるのは、『周濠』『葺石』 『段築』 『埴輪』です。

【祈りはどこで行われた?】

CIMG9045.jpg(今城塚古墳の造出は四角いです。)

前方後円墳には造出(つくりだし)という括れ部分の突出が見られます。最古級の前方後円墳では造出は見つかっていません。大王墓および地方の有力首長墓のみに付随する物と考えられています。造出には埴輪を立て並べたり、形象埴輪を置いたりしています。祭祀・追葬が後円部や前方部の墳頂で行われるのではなく、くびれ部裾付近に作られた造出で行われたことは、埋葬祭祀の考え方が変わって来たことをうかがえます。それは、墳頂へ登ることが禁忌され、畏敬されたことと関わっていると考えられ、追葬や祭祀は一定期間行われると停止されたと考えられます(33回忌いいえ50回忌までかな?)

【最初のキーワードは 『段築』 】

P7290446.jpg(大きさは前国10位の282m、岡山2位の作山古墳三段築成の二段目!わかります?)

古墳の外部施設の一種です。墳丘を数段の階段状に造ること,またはそのような墳丘のことです。畿内の大型前方後円墳では,初期には墳丘は3~4段に造られ、後円部最上段は円丘を呈していましたが、4世紀中期以降には前方部・後円部ともに3段の形が定着しました。各平坦面には埴輪が並べられました。

箸墓古墳NO~~1!後円部は4段築成で、4段築成の上に小円丘(径約44-46メートル、高さ4メートルの土壇、特殊器台が置かれていたと考えられる)が載ったものと指摘する研究もあります(4.5段)。前方部は側面の段築は明瞭ではないが、前面には4段の段築があるとされます。ちなみに五段築成(四段築成で、後円部に小円丘が載る)は箸墓古墳のみで四段築成(三段築成で、後円部に小円丘が載る)は西殿塚古墳(大和古墳群)、行燈山古墳(柳本古墳群)、渋谷向山古墳(柳本古墳群)、桜井茶臼山古墳(鳥見山古墳群)、メスリ山古墳(鳥見山古墳群)、築山古墳(馬見古墳群)等が考えられ他の天皇陵クラスの古墳は全て三段築成(後円部も前方部も三段築成)とされます。被葬者の格付けを表しているのかも知れませんね。

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(箸墓古墳、NO1、4.5段)

ちなみに最初の前方後円墳といわれる「纒向石塚古墳」は、もうすでに2段築成なんですよ~。

P5190064.jpg(纒向石塚古墳分かるかな左側面に段が有りますよね。)

【次のキーワードは『葺石』】

葺石(ふきいし)とは、主として古墳時代の墳墓の遺骸埋葬施設や墳丘を覆う外部施設の1つで、古墳の墳丘斜面などに河原石や礫石(れきいし)を積んだり、貼りつけるように葺(ふ)いたものです。「葺石」は前期古墳と中期古墳に多いが、後期になると葺石をともなわない古墳が大多数をしめるようになります。

日本の墳墓においては、中国の墳墓に顕著にみられる版築の工法がほとんどみられない一方で、斜面を礫石などで葺いてがっしりと安定させる手法が採用されており、この工法は日本列島独自のものなのです。

葺石の発生については阿波(いまの徳島県)の吉野川流域や瀬戸内海沿岸など日本の古い積石塚の分布する地域で工夫されたとする説が唱えられています。古くから瀬戸内および四国地方には石工集団がおり、石に関する知識が特に豊富であったことも指摘されています。

なお、『日本書紀』と『古事記』には、箸墓古墳(奈良県桜井市)の造営の際、大坂山の石をリレー方式(一列に大阪から並んでバケツリレーした?)で運んだという説話が記されています、このとき運ばれたのは葺石のための石材であったと考えられています。

P5190160.jpg(奈良桜井市、ホケノ山古墳の葺石です)

葺石墓は、弥生時代中期以降の西日本に点々とみられ、古墳時代へとつながっていきます。とくに一般的に「定型化された大型前方後円墳」の最古の例と考えられている箸墓古墳および若干それに先立つとみられるホケノ山古墳(奈良県桜井市)では葺石をともなうことが確認されており、葺石は、出現期古墳の特徴を示す一要素となっています。なお、定型化以前の、いわゆる「纒向型」と称される墳墓では、纒向石塚古墳、纒向勝山古墳、東田大塚古墳いずれの場合でも埴輪・葺石はともなっていません。

葺石の祖形のひとつとして掲げられることの多いのは、弥生時代の山陰地方にみられる四隅突出型弥生墳丘墓(こちらまだご紹介していませんが凄いですよ~今回少しだけ見せちゃいます)にみられる貼石(はりいし)です。島根県出雲市の西谷墳墓群3号墓では、墳丘の裾部分を全周するかたちで貼石がなされている。また、岡山県総社市の楯築遺跡(こちらもまだ内緒です)では墳丘に石列をめぐらせており、このような例は山陰・山陽で広くみられます。さらに、山陽地方においては、石垣状に積んで墳丘を造る例もみられます。

P8111324.jpg(まだ見せたく無かった!四隅突出型弥生墳丘墓、島根県出雲市の西谷墳墓群3号墓)

葺石の目的としては、墳丘の偉容を示すとともに墳丘そのものの保護を目的とするとみられています。とくに墳丘斜面に使用され、平坦面では通常使用されないことから、盛土流出を防ぐ目的があったものと考えられ、防水・排水の効果も高かったと推察されます。

また、他の隣接する地域とは明確に区別するという意味合い、すなわち、「ここからは聖域であり、霊域である」という境界を示して周囲とのあいだを画する意味合いもあったとも考えられます。

【三番目のキーワードは『周濠』】

p3652148.jpg
(奥が大仙陵古墳、三重の盾形周濠)

考古学では普通、古墳の周囲に掘られた堀をさします。湛水しているものが多いですが、空濠の場合もあります。前者では一般に、濠が畦で区切られ、水面が階段状をなすものから、畦がとれ水面が同じ高さで一周するものへと変遷したと考えられています。

形は墳丘に沿って同じ幅の周濠がめぐるもののほかに、前方後円墳では盾形(馬蹄形も含む)、前方後方墳では長方形のものが多いようです。古墳時代中期には、墳丘の巨大化に伴う外部施設の整備の一環として、著しい発達をとげ大阪府古市・百舌鳥(もず)古墳群などでは、墳丘との統一企画のもとに、二重・三重の盾形周濠が掘削されました。

すこしわかりやすく簡単に説明しますと、自然の山などを利用した場合土はいりませんよね、しかしながら平地に小山の様な古墳を作ろうとすると、当然土をどこからか運ばなければなりません。もうお分かりですよねそう「周濠」部分の土が使われたのです。

段築と同じく一重周濠からの被葬者の格付けを表しているのかも知れませんね。大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)のように、三重の周濠を巡らした古墳もあります。

【最後のキーワードは祭祀用土器『埴輪』】

P3190089.jpg(但馬の茶すり山古墳、円筒埴輪と朝顔形埴輪、朝顔形埴輪には貢物の壺を乗せたのか?)

埋葬祭祀で使用された土器は、最古級の前方後円墳では、宮山型特殊器台・特殊壺、この土器から変化した最古の埴輪といわれる都月形円筒埴輪と次に古い特殊壺形埴輪、円筒埴輪、家型埴輪、武器形埴輪、人形埴輪などが有ります。特殊土器は、日常の器台・壺と違い大きく、文様で飾られています。器台は1メートルほどもあるものもあり、壺も40センチから50センチぐらいで、器台に壺を載せると人の肩ほどにもなります。このような大きな目立つ道具を使って亡くなった首長の霊魂と首長権を継承するための祭祀を行ったと考えられています。

【まとめ「古墳を語るなら」】

P2220002.jpg(神戸五色塚古墳、復元すると全て明らか『段築』 『周濠』 『葺石』 『埴輪』)

古墳時代の日本の大型墳墓は、墳丘の斜面などにびっしりと『葺石』が施され、遠目には石塚のように見えました。平坦なテラス部分『段築』には『円筒埴輪』をならべ、さらに墳丘周囲には『周濠』をめぐらせて、その外側には数基より成る陪塚をともなうなど、色彩豊かで華麗な装いをみせています。規模や形状のみならず、当時は側面からしか古墳を見られない人びとに対して、葺石によって白く輝く構築物としての陵墓の色彩的イメージは、他の構築物とのあいだに大きな格差を感じさせるに充分であったと考えられます。このような意味からも、古墳は単なる墓ではなくて政治の柱として機能したのでした。

さあ、長々のお付き合いありがとうございました。これであなたも古墳博士です(笑)ホントか~~~!

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リュミエールブラン ネージュ

2017/08/01

この大きさになると古墳なのか山なのか分かります?「景行天皇天皇陵」

奈良の取材旅行の残りが少し?有りますので、お城の後は古墳廻りということで、崇神天皇の孫にあたります、景行天皇(第12代天皇)の陵墓を御紹介いたします。
とはいっても、題名にも付けましたように、300mを越える陵墓を近くから見ても山なのか、何なのか良く解りません(笑)、不遜な話ですが、灌漑様の池の向こう側が山に成ってる?位の感じですね。古墳拝所がなければ、いえカーナビと看板が無ければ本当に分からないのです。

P5190288.jpg
(大きすぎる場合小さな物からアピールする方が良いかもしれません。)

其では、景行天皇の陵墓、山邊道上陵(奈良県天理市)を御紹介致しますm(__)m景行天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県天理市渋谷町にある山邊道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ、山辺道上陵)に治定されています。公式形式は前方後円で考古学名は「渋谷向山古墳」(墳丘長300m国内第7位の大きさ)。

『古事記』には「御陵は山邊の道上にあり」とあります。

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【景行天皇ってどんな天皇?】

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(景行天皇の画像が無かったのでWikiよりお借りしています。)
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(拝所、玉砂利踏むと背筋が伸びますね~!)
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(宮内庁の看板は出来ればもう少し説明が欲しいですね。)
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(空撮写真も同じくWikiからお借りしました。少し時代が古いみたいですね。左の水口神社も前方後円墳に見えますが、陪塚?)

景行天皇(けいこうてんのう、垂仁天皇17年~景行天皇60年11月7日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第12代天皇です(在位:景行天皇元年7月11日~同60年11月7日)。記紀によれば第11代垂仁天皇と丹波道主王の娘日葉酢媛(ひばすひめのみこと)の子、垂仁天皇の第三皇子、日本武尊(やまとたけるのみこと)の父として有名です。『日本書紀』には自ら九州に遠征して熊襲・土蜘蛛を征伐し、東国には日本武尊を遣わして蝦夷を征討させたと伝わっています。和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)・大帯日子淤斯呂和氣天皇(古事記)と記載され。「常陸風土記」には大足日足天皇と「播磨風土記」には大帯日子天皇、大帯日古天皇、大帯比古天皇と多くの名前が有りますね~(記紀も風土記も発音を漢字に当てはめるのに苦労した様子がうかがえます)。
皇后は播磨稲日大郎姫、その死後は八坂入姫。子に第13代成務天皇、日本武尊がいます。都は纏向日代宮(桜井市穴師付近)。自ら日向(九州南部)の熊襲を討ち、日本武尊をして熊襲、出雲、東国を征討させたといわれています。子は80人におよび、その多くは地方に分封したと伝えられます。また九州関係の『風土記』には多様な巡行、活動が描かれる。伝承上の事績は事実としては疑わしいですが、地方伝承への強い浸透を念頭におくと、実在の人物としの可能性が有ります。

【物語、景行天皇熊襲を征伐する】

第12代景行天皇は、日本書紀によると、6年間にわたって、日向(ひむか)に滞在したと記され、熊襲征伐の伝承が伝えられています。ある年、九州南部の熊襲一族が朝廷に反抗し、みつぎ物を差し出しませんでした。景行天皇は熊襲を討つことを決め、みずから軍を率いて、九州へ向かいます。そして、豊後の国(今の大分県)を通って、日向の国に入ると、「高屋宮(たかやのみや)」という仮の住まいを建てました。ある日、天皇は熊襲討伐作戦を考えます。

「聞くところによると、熊襲には熊襲梟帥(くまそたける)という強者がいるらしい。何かうまく攻略する方法はないものか」景行天皇の臣の一人が、「熊襲梟帥には姿は美しく、心は雄雄しい2人の娘がいるので、その娘たちを傍に召し、利用すれば、自らの手を汚さずに、熊襲を滅ぼすことが出来るでしょう。」と天皇に奏上しました。それはいい考えということで、2人の娘は財宝を与えられ、天皇の下に召しだされます。そして景行天皇は、その姉のイチフカヤを寵愛しました(その愛は勿論偽りだったのですが)。懐柔されたイチフカヤは策を話します。「私に良い考えがあります」イチフカヤは家に帰ると強いお酒をたくさん用意して父親の熊襲梟帥にそれを飲ませると、熊襲梟帥は酔ってぐっすり寝てしまい、その間に天皇の兵によって殺されてしまいました。熊襲梟帥を失った熊襲一族は勢力を失い、その半年後には天皇によってほろぼされてしまいました。

襲国を平定し、高屋宮に滞在する事6年、景行天皇は御刀媛(ミハカシヒメ)という美しい女性を妻に迎え、豊国別皇子(トヨクニワケノミコ)という名の男の子をもうけました。豊国別皇子は日向を支配した「日向国造(ヒムカノクニノミヤツコ)」の先祖といわれています。

また、あるとき、天皇は児湯(こゆ)地方に出かけ、そのとき、東の方を見て、こう言いました。「この国はまっすぐに日の出る方に向かっている」それでこの地方を名付けて「日向(ひむか)」というようになったそうです。皆さんおかしい?と思いませんでしたか?初代天皇の神武天皇が東征に出発したのが日向ですよね~12代景行天皇が日向に名前を付けたのなら~?神武天皇の出発点は現在の日向ではないことに成りませんか(あら~やっちまったよ!大足彦忍代別天皇)?

色々な出来事が有りましたが、気がつけば景行天皇が日向にきてから、はや六年の月日が過ぎていました。天皇はいよいよ都に帰ることになり、出発した翌年に無事に都に着いたということです。

【景行天皇九州巡幸記】

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(景行天皇九州巡行記録)

景行12年熊襲が背いたので、これを征伐すべく、8月に天皇自ら西下。周防国の娑麼(さば、山口県防府市)で神夏磯媛から賊の情報を得て誅殺します。筑紫(九州)に入り、豊前国京都郡(福岡県行橋市)に行宮(かりみや)を設けます。豊後国の碩田(おおきた、大分県大分市)で土蜘蛛を誅して、11月ようやく日向国に入ることが出来ます。熊襲梟帥(くまそたける)をその娘に殺させ、翌年夏に熊襲平定を遂げた。日向高屋宮(宮崎県西都市か)に留まること6年。18年3月に都へ向け出立し、熊県(熊本県球磨郡)や葦北(同葦北郡)・高来県(長崎県諫早市)・阿蘇国(熊本県阿蘇郡)・的邑(いくはのむら、福岡県浮羽郡)を巡り、19年9月に還御しました。なお、この天皇親征について、古事記には一切記されていません。

「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇が持ち、時代が下って7世紀前半に在位したことが確実な34代舒明・35代皇極(37代斉明)の両天皇も同じ称号をもつことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであるとして、12,13,14代の称号は後世の造作と考える説があり、景行天皇の実在性には疑問が持たれています。記紀の記事は多くが日本武尊(やまとたける)の物語で占められ、残るのは帝紀部分のみになり史実性には疑いが持たれるものの、実在と仮定すれば、その年代は4世紀前半だと考えられています。

【垂仁天皇の業績と羨ましいくらいの子だくさん!】

『古事記』によれば記録に残っている御子が21人、記録に残ら無い御子が59人、合計80人もの御子がいたことになっています。

垂仁天皇37年1月1日に立太子。景行天皇元年7月に即位、翌2年3月3日に播磨稲日大郎姫を皇后に立てます。
景行4年、美濃国に行幸し、泳宮(くくりのみや、岐阜県可児市)に滞在します。八坂入媛命を妃とします。
景行51年8月4日、八坂入媛命との間の皇子・稚足彦尊(後の成務天皇)を皇太子に立てます。
景行52年5月4日に播磨稲日大郎姫が崩御されたので、同年7月7日に八坂入媛命を新たな皇后としました。
景行25年7月、武内宿禰を遣わして、北陸・東方諸国を視察させます。

【日本武尊の活躍に涙しない者はいない!】

景行27年8月、熊襲が再び叛旗を翻す。10月に日本武尊を遣わして、熊襲を征討させます。首長の川上梟帥を謀殺し、翌年に復命します。
景行40年10月、日本武尊に蝦夷征討を命じます。尊は途中、伊勢神宮で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)より草薙剣を授かっっています。陸奥国に入り、戦わずして蝦夷を平定します(常陸は蝦夷)。日高見国から新治(茨城県真壁郡)・甲斐国酒折宮・信濃国を経て尾張国に戻り、宮簀媛(みやずひめ)と結婚します。その後近江国に出向来ますが、胆吹山の荒神に祟られて身体不調に陥ります。そのまま伊勢国に入りますが、能褒野(のぼの、三重県亀山市)で病篤くなり崩御しました(景行43年)。白鳥陵に葬られました。なお、『古事記』によれば、死の直前に大和を懐かしんで「思国歌(くにしのびうた)」を詠んだとされ、この歌は、太平洋戦争中に東アジア地域へ派遣された兵士の間で大変流行ったといわれます。
『倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし(『日本書紀』歌謡三一)』
景行53年、息子の日本武尊を追慕し、東国巡幸に出る。東国から戻って伊勢に滞在し、翌年9月に纒向宮に帰ります。
景行58年、近江国に行幸、高穴穂宮に滞在すること3年、60年11月に崩御143歳でした。『古事記』では137歳でした(あと90年は生きられるな)。

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(実は前の玉砂利を踏めないので環濠も見られないのです。不遜で失礼ですが、森です。)

【宮はどこだ編】

宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では纒向日代宮(まきむくのひしろのみや)といわれます。伝承地は現在の奈良県桜井市穴師です。
また晩年の景行天皇58年には、近江国に行幸して、志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや、現在の滋賀県大津市穴太か)に滞在したと考えられます。



現実と虚像が入り混じるこの時代、真実は何処に在るのか?140歳の天皇が居たとはとても思えませんが、だからといって景行天皇の業績や、日本武尊の活躍が全くの夢物語とも思えません。さて皆さんはどう思われますか?


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リュミエールブラン ネージュ

2017/07/23

七世紀の土木・建築技術に驚愕!「東山古墳群」

今日は、兵庫県多可町の古墳群をご紹介します。時代が進み七世紀に成ると地方豪族の建築技術も飛躍的に進み、高い技術で作られた円墳が出現します。

兵庫県多可町の妙見山(標高693メートル)の山麓、平野部を見晴らせる位置に、こんもりとした円墳がいくつも並びます。美しい公園として整備された一帯は、直ぐ東隣(本当にお隣さんです)の多可高校の生徒らの下校途中のおしゃべりの場に成ったり、登山客が一息ついたりの、のんびりとした光景が広がっています。

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(15号墳の前から古墳群、奥の小高い緑が1号墳、右に多可高校校舎、後ろの山が妙見山です。)

その見本ともいえる古墳群が多可町の「兵庫県指定文化財)東山古墳群」です。

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【東山古墳群概要】



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(パンフレットで全体像をご覧いただきます。全てを写真では無理ですね。)
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(配置図と横穴式石室ですね。)
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(15号墳、円墳ですが綺麗な段築構造が見られます。)
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(右隣は直ぐ多可高校の校門です。ブラスバンドの練習の音がしてます。野球まだ勝ってるのか?)

7世紀、古墳時代の終わり頃に築かれた円墳が16基、これほどまとまって存在する古墳群は珍しいようです。この時代において直径15~30メートルは県内で最も大きいといいます。辺りには200基ほどの古墳が見つかっており、この東山古墳群の存在は古くから知られていましたが、1996~1999年の発掘調査で詳細が判明しました。

兵庫県内でも最大の横穴式石室を持つ古墳や巨石を用いた石室を持つ古墳が多く、当時のこの地の豪族の力がうかがえます。現在、残っている古墳は16基で、北群の4基は直径15m前後の円墳、南群の12基は直径15~30mの円墳でバラエティーに富んだ古墳群です。

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(15号墳石室、覗けますが金網で塞がれています。小さなライトが自動点滅します。)
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(破壊された9号古墳、両袖式の横穴式石室石室下部のみ復元、奥に見えるのは12号墳と14号墳から移動してきた天井石。)

古墳の造りは当時最新の土木技術が用いられています。横穴式石室は1500年間近くも崩れない造りで、現在の技術でも難しいほどだそうです。内部は長さ10m、高さ2~3mと広々としています。夏は涼しく冬は暖かい事もあって、江戸時代には古墳としての存在を忘れられていたのか?何者かが居住した形跡も有りました。江戸時代の一朱銀や一文銭が見つかっています。

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(直径約30メートル、高さ約7メートル。古墳群内最大の円墳。)
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(周濠が確認出来ました。)
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(石室全長約12.5m、玄室長さ約6.25m、幅2.8m、高さ約3.25m床全面に川原石が引き詰められています。)
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(12号石室の有名な陶棺、二人で一つらしいです。石棺・木棺も納られていました。一代限りのものではなく現在のように家族単位?)

12号墳の石室には、特殊な形をした長さ140cm×幅45cmで、12本の脚と切妻風の屋根を模した家形陶棺がありとても珍しいです。その他にも土器・馬具・装身具・などが出土しています。

中央政権との関係性もうかがえ、現在の多可町・西脇市の一帯を治めていた豪族が所有していた可能性が強いようです。
播磨風土記にも名前を残す多可のこの地が、加古川流域最古の寺院「多可寺」や古代の役所とみられる「思い出遺跡」などに続く歴史の流れの原点ではないかと感じました。

【多哥寺とは?】

量興寺(多哥寺遺跡) 650年頃に推古天皇の勅願寺として建立されたと伝えられる多哥寺の後身です。平安末期に藤原顕頼が再興し、高倉天皇の母君の寺として寺格が高まり、量興寺となりました。
これまでの調査で、南大門、塔、金堂、回廊、鐘楼、参道が確認されており、多哥寺が播磨地域で最古級の寺で、多可郡の中心となり郡を代表する寺院であったことがはっきりしました。東西64㍍、南北約80㍍の大きな規模を持ち、四天王寺と同様の伽藍配置の寺院だったことが判明しています。
12世紀には九篠家の荘園となって、僧房や食堂はとりこわされて水田になりました。現在、多哥寺跡に立つ量興寺には、巨大な塔心礎が残り、出土した瓦から、播磨地方でも最古の寺院のひとつに数えられています。また、梵鐘鋳造の遺構は奈良時代のもので、町の指定文化財に指定されています。

【最後に残念!】

見学してきたのは、南群の12基でしたが北の4基は妙見山参道沿いの林の中に埋もれているのかもしれません。ちなみに知らなかったのですが、那珂ふれあい館の開館時間に申し出ればいくつかの古墳石室内部見学できます。是非休館日等確認してお出かけください。



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