2017/11/21

「三成に過ぎたるものが二つある。島の左近に佐和山の城」『佐和山城』をご紹介します!

早く関ケ原に行け~!という皆さんの声が聞こえそうですが、私にも都合が有りまして(言い訳ですけど、笑)その前に三成の居城『佐和山城』をご紹介します。「三成に過ぎたるものが二つある。島の左近に佐和山の城」は三成を揶揄した狂歌ですが、実は元々「○○に過ぎたるもの」の狂歌モデルが家康だったと知ってましたか?

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(じらす作戦ではありませんがもう少しお待ちください。いい話しますから、笑)

一説には怖さの余り脱糞して帰城したともいわれる、武田信玄に大敗北を喫した、三方原の戦いの前哨戦、元亀3年(1572年)10月13日に遠江国「二俣城」をめぐり、武田信玄と徳川家康の間で行われた戦いが有りました。結果はもちろん若き家康の大敗北、そして家康の退却戦「一言坂の戦い」の後、「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」という本多忠勝の武功を称える狂歌(落書)が登場しました。これは殿(しんがり)を見事に務めきった、本多平八に対して道を譲った小杉左近(武田軍将)が書いたと言われています。

「本多平八」とは徳川四天王、本多平八郎忠勝のことです。「唐の頭(からのかしら)」とはヤクの毛で作られた兜のことで、中国四川省やチベット原産(つまり「唐」原産)の日本では珍しい品でした。一説には家康が難破した南蛮船からこれを入手し、愛用していたといわれています。

正に勝者が歴史を作るのです。家康の時は勝った武田が家康を笑い(本多忠勝を褒め称えたのか?)、三成の時は関ケ原で勝った東軍が三成を笑いました。『佐和山城』は本当に三成に過ぎた城だったのか?検証もかねてご紹介します。

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p2456987.jpg(教育委員会の参考地図を見ていただけたら登るのは龍潭寺からしか行けないようです。)
PA151232.jpg(ということで龍潭寺からの朝登山です。城趾への登山道入口となっている龍潭寺門前!)
PA151224.jpg(佐和山城へGO!)


【揶揄されるほど三成は無能だったのか?】

三成のエピソードをご紹介するお約束をしておりましたので、一つ二つご紹介します。秀吉が三成に禄を与えようとしたとき、三成が「領地はいりません。その代わり、淀川の河原の葦に対する運上(税金)を許していただきたい。それで一万石の軍役を致します。」と嘆願したという逸話です。秀吉は「何と欲の無い奴よ」と笑ったといわれています。

「ちなみに『一万石の軍役』」ですが、諸大名の所領・石高で準備しておく、一定の兵員と武器最低数の事です。備える義務のある兵員は石高50石につき一人(信長・秀吉・家康時代で少しずつ変化するようです)で、1万石では最低200名が必要とされ、軍役・武器は馬上(侍)10騎・鑓30本・旗30本・弓10張・銃20丁が規定として課されていました。

話を戻して、葦はご存知のとおり、屋根を葺いたり、簾や御座などに使われるものです。当時は河原に自生していたものを、使っていました。三成はこれに課税することで、秀吉の丹波攻めの時には、約束どおり一万石分の軍役をし、華麗な軍装で参加したといわれています。

これは「古今武家盛衰記」「名将言行録」等に出てくる話ですが、他の多くの逸話と同じく史実として裏づけることは出来ません。「秀吉の丹波攻め(但馬攻めに関しては、資料が残っています。)」とは一体いつのことを指してるのか、特定できません(光秀ならわかるのですが?)。

三成には、このような官吏能力は高いが、功利的(効果や利益のみを重視するさま)な逸話が、いくつかあります。これからも江戸時代の三成観を察することができます。

「翁物語」に記載される、功利的な逸話をもう一つご紹介しましょう。大雨で淀川の水かさが増し、土嚢を積んでも間に合わず、もう少しで堤が決壊しそうになった時、三成は部下に指示して大坂城の米倉を開き、土嚢の代わりに米俵を積み上げて、決壊を食い止めたというものです。

雨が上がったのち、三成は近在の百姓に米俵を土嚢に積み替えさせ、報酬にその米俵を与えたため、百姓も喜び工事が一気に進んだといいます。

私はこうのような逸話は?三成らしく無いように感じます。むしろ秀吉の逸話を三成にすり替えた様な気がします。三成の政策の特徴は、律儀に筋を通すことにあり、こういう奇策はいかにも秀吉らしい逸話のように感じます。ただ戦国から安土桃山のこの時期は、人々が功利性に走り、似たようなことが数多くあった可能性はあります。

三成はもともと官僚タイプです。とても優秀な官僚・政治家でした。 しかしながら、先頭に立っての戦は経験が少ないです。むしろ縁の下の力持ちといった兵站運用を得意としています。

しかしながら、本人自身はけしてひ弱な文官では有りませんでした。賤ヶ岳の戦いと言えば、七本槍(糟屋武則・片桐且元・加藤清正・加藤嘉明・平野長泰・福島正則・脇坂安治のこと)といわれるほど、秀吉の若き近習たちの武功は有名ですが、賤ヶ岳で活躍したのは七本槍だけでは有りません。賎ヶ岳の先駆け衆と呼ばれた14人の若者もおり、その中には石田三成、大谷吉継らも含まれていて、先駆け衆が一番槍を付けたともいわれています。

先駆け衆とは、その名の通り本体よりも先駆けて戦場で戦った者たちのことを呼びます。石田三成という人物は、いわゆる武断派と呼ばれた加藤清正、福島正則、黒田長政らとは反りが合わず、武断派の面々は三成は槍働きをせずに出世したと思い込んでいました。確かに武功という意味では三成は武断派には敵わなかったでしょう。しかしながら武断派の活躍は三成の兵站あってこそのものだったことを、忘れては行けません。

関が原の戦いでは戦術的には戦上手の家康と互角の戦いをしています。戦略的には三成の方が上だったと考えて良いのではないでしょうか、しかし戦には計略がつきものです。 家康と違い姑息な手段を嫌う三成にとっては考えられなかった裏切りが続出し大敗してしまいました。三成ファンにとっては残念ですね。

【佐和山城はどんな城】

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(門を入った左手に三成の像が正座して見据えています。)
PA151290.jpg(220m結構きついですよ~、登山靴を忘れないように、途中分かれ道を右へ進むと西の丸へ到着)
PA151302.jpg(塩櫓とありますが柱は硝煙櫓、混乱が有るようです。)
PA151294.jpg(硝煙櫓とあります。西の丸は三段に区切られています。かなりの段差です。)
PA151295.jpg(最後に火薬で爆発?瓦も出土!間違いありませんね、想像です。)
PA151308.jpg(西の丸だけでも竪堀がかなりあります。竪堀は自然地形の斜面に上下方向に設けた堀で、多くは攻城軍が斜面を横に移動しにくくするために設けます。)

佐和山城(さわやまじょう)は、中世中期から近世初期にかけて、近江国坂田郡(現・滋賀県彦根市)の佐和山に存在した山城です。

城郭構造は連郭式山城で天守は五層(三層説もあります)でした。主な城主は佐保氏、小川氏、磯野氏、丹羽氏、石田氏、井伊氏慶長11年(1606年)廃城と成っています。現在は、石垣、土塁、堀、曲輪、等が残っています。

織豊政権下において畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも重要な拠点であり、16世紀の末には織田信長の配下の丹羽長秀、豊臣秀吉の奉行石田三成が居城とし、関ヶ原の合戦後は井伊家が一時的に入城したことでも知られています。

【佐和山城の歴史】

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(登りました~本丸です。)
PA151325.jpg(かなりの広さです。残るのは隅石垣位です。)
PA151323.jpg(大きな城ですね~!)

佐和山城の歴史は、鎌倉時代、近江守護職・佐々木荘地頭であった佐々木定綱の六男・佐保時綱が築いた砦が始まりとされ、建久年間(1190- 1198年)の文書にその名が見られます。

六角政頼・久頼・高頼・氏綱・定頼の代の期間、六角氏が犬上郡を支配し、応仁の乱の後、家臣の小川左近大夫・小川伯耆守を城主として置いています。

しかし戦国時代が後期に入ると、北近江における六角氏勢力は衰退し、それにともなっては新興勢力である浅井氏が勢力を伸ばします。佐和山城もその支配に入って、城は磯野員吉に引き渡され、小谷城の支城の1つとなりました。

元亀年間には時の城主・磯野員昌が織田信長らと8ヶ月におよぶ戦闘を繰り広げています。しかし、1571年(元亀2年)2月に員昌は降伏し、代わって織田氏家臣の丹羽長秀が入城、浅井氏旧領と朝倉氏の旧領南部、すなわち、北近江六郡と若狭国の支配拠点としています。

天正10年(1582年)6月の本能寺の変の後に行われた清洲会議では、明智光秀討伐に功があった堀秀政に与えられ、秀政は翌年に入城しています。これ以降は事実上、豊臣政権下の城となってゆきます。堀秀政の留守中は弟の多賀秀種が城代を務めました。天正13年(1585年)には、転封となった堀家に替わって堀尾吉晴が入城、さらに、天正18年(1590年)には五奉行の一人である石田三成が入城したとされますが、三成の佐和山領有が文献上でみえるのは文禄4年からです。 三成は、当時荒廃していたという佐和山城に大改修を行って山頂に五層(三層説あり)の天守が高くそびえたつほどの近世城郭を築きました。

ただし、三成は奉行の任を全うするために伏見城に滞在することが多く、実際に城を任されていたのは父の正継であった。城内の作りは極めて質素で、城の居間なども大抵は板張りで、壁はあら壁のままであった。庭園の樹木もありきたりで、手水鉢も粗末な石で、城内の様子を見た当時の人々もすこぶる案外に感じたと記されています(『甲子夜話』)。

【佐和山城の戦いと廃城】

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(かなりの規模です。山城としては凄いです。)
PA151342.jpg(眼下に見えるのが彦根城ですよ!佐和山城本丸趾より!)

皆さんご存知でしょうが、慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を猛攻撃しています。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人でした。城主不在にもかかわらず城兵は健闘し、敵を寄せ付けなかったが、やがて城内で長谷川守知など一部の兵が裏切り、敵を手引きしたため、同月18日、奮戦空しく落城し、父・正継や正澄、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てました。

家康に従軍した板坂卜斎は陥落した佐和山城に金銀が少しもなく、三成は殆んど蓄えを持っていなかったと記録しています(『慶長年中卜斎記』)。

石田氏滅亡の後、徳川四天王の一人である井伊直政がこの地に封ぜられ、入城しています。井伊家が、このまま佐和山城を利用すると、領民は井伊家が石田家を継承したような錯覚を抱き、領民達の前領主への思慕を断ち切ることができないことから、新たに彦根城築城を計画しました。しかし、直政は築城に着手できないまま、慶長7年(1602年)に関ケ原の傷が悪化して死去します。

計画は嫡子の直継が引き継ぐこととなり、大津城・佐和山城・小谷城・観音寺城などの築材を利用しつつ、天下普請によって彦根城を完成させています。佐和山城は慶長11年(1606年)、完成した彦根城天守に直継が移ったことにともない、廃城となりました。なお、彦根城の城下町までを含めた全体の完成は元和8年(1622年)のことです。

佐和山城の建造物は彦根城へ移築されたもののほかは徹底的に城割されたため、城址には何も残っていないません。しかしそれでも、石垣の一部、土塁、堀、曲輪、その他施設が一部に現存しています。

【最後に一言】

石田三成は『大一大万大吉』と記された家紋を用いました。「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」という意味なんです。悪者に作り上げられた三成像、近頃変わって来ましたよね。テレビの影響かもしれませんが、私がいつも言うように敗者には敗者なりの言い分が有ります。「関ケ原」は天下分け目の戦い、一歩間違えば立場は逆転していたはず。敗者の言い分が正しかったとも言えませんか?

三成は関ヶ原の戦いに万が一敗北した場合を考え、佐和山城での再戦も考えていたのではないでしょか?『佐和山城』確かに堅固な素晴らしい要塞だったことが分かりました。その素晴らしい城に見合う名武将だったと思いますね。

PA151446.jpg(模型と実物の佐和山城址)
PA151363.jpg(本丸下の30cmの大キノコ、三成の心はキノコに託された~笑。)


歴史って本当に面白いですよね~!
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リュミエールブラン ネージュ

2017/11/15

「石田三成」挙兵、伏見城を落として『大垣城』へ進軍す。

今日は、関ヶ原の戦い前夜の「石田三成」と「徳川家康」双方の動きを説明しながら、西軍の拠点となった『大垣城』をご紹介します。ドキドキしますよね~じわりじわりと近づいてくる感じがしますね。

「大垣城」は、岐阜県大垣市郭町にあった平城です。麋城(びじょう)または巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれます。現在の「大垣城」はけして大きなものではありませんが、水郷の町大垣というように、本丸と二ノ丸のまわりを河川を利用した堀で囲んだ惣構の城です。

PA140392.jpg(先の大戦で燃え落ちた天守を再現しています。)


大垣城は織田信長が岐阜を掌握した後は、賤ヶ岳の戦いに勝利してこの地域の支配権を獲得した豊臣秀吉により、1583年(天正11年)に池田恒興が(所領15万石)城主となりました。翌1584年(天正12年)に小牧・長久手の戦いで恒興が戦死すると息子の輝政が継ぎましたが、さらに翌年の1585年(天正13年)に輝政が岐阜城主になると、代わって田中吉政(秀次近侍)・中村一氏(近江水口岡山城)・堀尾吉晴(近江佐和山城)・山内一豊(近江長浜城)らとともに秀吉の甥・豊臣秀次(近江八幡山城)の宿老に任命された「一柳直末」が、3万石を領して大垣城主に成りますが1586年(天正13年)11月29日(旧暦)(1月18日)の天正地震で城は全壊焼失してしましました。

1588年(天正16年)に一柳直末によって、若しくは 1596年(慶長元年)頃、伊藤祐盛が城主の時に改築が行われ、天守が築かれたとされています。天正18年(1590年)の小田原征伐で功を挙げたことから伊藤盛景が城主となり、1599年に盛景が死ぬと子の伊藤盛宗があとを継いでいます。

そして1600(慶長5年) 年、関ケ原の戦いに向かいます。

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【三成挙兵す!伏見城を攻略すると共に畿内を平定。】

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(石田三成が1600年に本陣とした大垣城です。)
PA140379.jpg(復元城門、腰曲輪の櫓と合わせて国宝だったそうです。焼失前!)
PA140383.jpg(平成22年に改修が行われて綺麗になってます。北東櫓、民家と近いね~。)
PA140386.jpg(城としては、小さいですが右下の地図を見ると以前の、大きさが分かりますね。)
PA140472.jpg(大垣市指定史跡、説明版も得意になってきたかな?)
PA140452.jpg(茶色にぬられている部分が再建部分です。本丸周囲は堀ですが今はありません。)
PA140437.jpg(公園側から再建された門を眺める。ぴかぴか~!)
PA140491.jpg(河川をうまく利用して堀に成っています。こちらも外堀の残りです。)
PA140490.jpg(大垣は、芭蕉が曾良と別れた場所としても有名ですね。)

1600年(慶長5年)7月5日、宇喜多秀家が豊国社で出陣式を行い(『舜旧記』)、これに高台院(秀吉妻ねね・おねとも)は側近の東殿局(大谷吉継の生母)を代参させています。 7月11日、三成は東軍に加わる予定の大谷吉継に「家康打倒」を打ち明け、吉継を己の陣営に引き込みます。大谷吉継は光成を止めたとも言われますし、高台院は家康寄りだったとも言われています。

7月12日、佐和山城で三成は吉継、増田長盛、安国寺恵瓊と秘密会議を行い、毛利輝元への西軍総大将就任要請などを決定しました。同日、愛知川に東軍に参加予定の諸将を食い止める関所が設けられ、 長宗我部盛親、鍋島勝茂、前田茂勝(玄以の子)らが足止めを食らい、結果的に西軍への参加を余儀なくされました。また島津義弘は家康との約束に従い伏見城に入城しようとしたが、鳥居元忠に断られ(『島津家代々軍記』)西軍に身を投じています。

この動きは当初三奉行側に通牒されておらず、三奉行は徳川家康と毛利輝元に急使を送り、至急大坂に戻り石田・大谷の動きを鎮定するよう要請しています。

7月17日、安国寺の建議を採用した毛利輝元は大坂城に入城して、家康が割拠していた西の丸を、家康妻妾を落ち延びさせることと引き換えに留守居役佐野綱正から無血接収し、西軍の総大将に就任します。ここに至って三成は増田長盛・長束正家・前田玄以三奉行の連署による挙兵宣言「内府ちがひの条々」を発し、主に中国・四国・九州の諸大名が追従、およそ10万の兵力とないました。しかし内部は必ずしも一枚岩ではなく、吉川広家(吉川元春・三男)や鍋島直茂(勝茂の父)のように早くも東軍への内応を画策する武将もいました。

三成はまず会津征伐に従軍していた諸大名の妻子を人質に取る作戦を発動します。しかし、加藤清正や黒田長政の妻子が逃亡、さらに細川忠興の正室である細川ガラシャが、人質に取られることを拒否し、細川邸に火を掛け自害するなどして計画は頓挫しています。細川ガラシャの死は有名ですね、キリシタンだった彼女は自殺は許されません。家臣・小笠原秀清が障子越しに槍で突いて介錯し最期を遂げたといわれています。

この諸大名の妻子を人質に取る作戦は、ガラシャの死の壮絶さに石田方が驚き、天守閣に集める行動を、むやみに拡大することをやめています。また、「内府ちがひの条々」には家康が勝手に諸大名の妻子の帰国を認めていたことを弾劾する一文があり、家康の養女で真田信幸の妻の小松姫(沼田城において西軍についた舅・真田昌幸を追い返したという伝説で有名)が開戦以前に帰国していた可能性が指摘されています。

翌18日、西軍は鳥居元忠が預かる伏見城に、毛利輝元の名で開城要求を勧告しています。当然鳥居元忠は拒絶、明くる7月19日から伏見城の戦いが始まりました。伏見城は宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘ら4万の大軍により攻められ、8月1日に陥落しています。

伏見城陥落後、三成は家康に味方する細川幽斎( 藤孝・忠興の父)が籠る、丹後国の田辺城を制圧するため、親密な関係にあった小野木重勝を総大将に1万5,000の軍勢を丹後に差し向け、宇喜多秀家を総大将に毛利秀元や鍋島勝茂など約3万の軍勢を、伊勢国平定に送り込んでいます。大谷吉継は北陸道平定に向かい、三成自身は美濃方面を抑えるため、8月10日に佐和山城から西軍の拠点をなす大垣城に入城しています。その先の岐阜城には織田信長の嫡孫である織田秀信が城主として拠っていましたが、秀頼の後見と美濃・尾張加増を条件に西軍へ引き入れることに成功しています。

【「家康」三成成挙兵の報を得て小山評定を開く】

PA140431.jpg(本文とは関係ないのですが、1635年(寛永12年)に戸田氏鉄が城主となって以降、明治に至るまで大垣藩戸田氏の居城でした。)

この頃、家康は会津征伐のために江戸城に居ましたが、7月19日に書状が家康に届けられます。差出人は西軍首脳の増田長盛であり、三成らが家康打倒の謀議を行っているという内容でした。その後も長盛からの書状は届けられており、この書状を送った時点では長盛は石田方には与していないようです。また淀殿も石田・大谷の動きを鎮圧するよう要請を送っています。しかし家康はそのまま7月21日には江戸城を発ち、7月24日に下野小山に到着。ここで三成が挙兵し伏見城攻撃を開始したことを鳥居元忠の使者によって知らされたといわれます。

ここで、家康は会津征伐に従軍した諸大名を招集し、翌25日に今後の方針について軍議を開きます。いわゆる「小山評定」です。家康にとって最大の問題は、東海道・東山道に所領を有する豊臣恩顧の武将たちが、どのような態度をとるかであった。三成挙兵の報は彼らの耳にも届いており、動揺するとともに判断に苦慮していました。そのため、家康の命を受けた黒田長政は福島正則に秀頼には害が及ばないこと、三成が秀頼のためにならないことを説明し、東軍につく態度を鮮明にするよう説得したといわれます。

なお、この時点では「内府ちがひの条々」はまだ小山に届いておらず、毛利輝元が大坂城で秀頼を擁して石田方の総大将になっていることは、家康以下諸将の知るところではなかったはずです。さきに届いた淀殿や三奉行からの鎮定要請に基づき、大坂城からの指示に従っている形式を保っていました。

評定では情勢の説明と、妻子が人質になっているため進退は各自の自由であるとの、家康の意向が伝えられます。すると真っ先に福島正則が大坂のことは考えず、家康に味方することを表明します。黒田長政・徳永寿昌がこれに続き、ほぼ全ての従軍諸将が家康に従うことを誓約しました。その一方で信濃上田城主である真田昌幸と、美濃岩村城主である田丸直昌はこれに与せず、西軍へ退転します。

【それぞれの道】

山内一豊のお話も有名です。一豊は関ケ原後、大出世しますが、ほとんど小山評定での功績と言われます。上方の情勢を伝える妻の手紙を未開封のまま家康に差し出したといわれ、評定で一豊は「わが城をお使いくだされ」と提案した。一豊の城は東海道中の静岡・掛川。これに東海道筋に領地を持つ大名が「わが城も」と続き、家康は安全に西に向かうことができたといわれます。

一豊は、豊臣秀吉にその忠実さ、真面目さを買われて掛川の領地を任されていました。秀吉は、家康を東海から関東に領地替えさせ、なおもその西上に備え、通り道の東海道に最も信頼できる忠義者、律義者を並べています。何重もの対家康防衛壁を戦わずして突破できた家康にとって、城の明け渡しとともに家康に対する忠誠心を明確にした一豊への感謝の念は、大きかったと思われます。

この案は堀尾忠氏(一豊の盟友、堀尾吉晴の子)と事前に協議したもので、さらに正則が秀吉より預かっていた、非常用兵糧20万石も家康に提供すると表明、秀吉が家康封じ込めのために配置した、東海道筋の諸城と兵糧を確保したことで、東軍の軍事展開と前線への兵力投入が容易となっています。

諸将が提供した居城には松平康重、松平家乗、内藤信成、保科正光、北条氏勝ら徳川譜代の武将が城将として入城し、守備に当りました。

三成迎撃で評定が決定すると、諸大名は7月26日以降陣を払い、正則の居城である尾張清洲城を目指し出陣します。また伊勢方面に所領を持つ富田信高、古田重勝、氏家行広、福島正頼、九鬼守隆らは居城防備のため各居城へ戻りました。家康は徳川秀忠に榊原康政や大久保忠隣、本多正信を添えた約3万8,000の軍勢(こちらが徳川本隊といえます)を付けて、中山道より美濃方面への進軍を命じ、8月4日に出陣しました。

一方上杉・佐竹への抑えとして、自身の次男の結城秀康を総大将に、里見義康、蒲生秀行、那須資景らを宇都宮城に留め、監視させています。家康は江戸城に戻りますが、そこから動かなくなっています。『内府ちがひの条々』の内容が東軍側にも伝わり、豊臣恩顧の武将たちの動向が不透明となる危惧を考えたといわれます。

真田家では小山評定後の「犬伏の分かれ」が有名ですね。7月21日、真田親子が宇都宮城の手前、犬伏に構えた陣所へ、石田三成の密使が到着します。 昌幸は三成とは姻戚関係で義兄弟でもあり(三成・昌幸とも宇田頼忠の娘を娶っています)、 幸村の妻は豊臣恩顧の大谷刑部小輔吉継の娘(竹林院)です。 何より昌幸は第一次上田合戦(神川合戦)の遺恨が残っており、家康を嫌っていました。

一方、長男の信之は神川合戦の後、かねてからその人物に傾倒していた家康の下に秀吉の取り成しで仕えることに成ります。
家康は神川での遺恨を信之には向けず、かえって寵愛し信之に妻として 稲姫(後の小松殿。徳川家の重臣、本多忠勝の娘)を家康(秀忠の説も有り)の養女としてから娶らせます。この処遇を見ても家康の信頼は明らかで、信之は徳川親派となりました。 家康には関東・甲信州での大名間との結びつきを強くし秀吉に対抗しようという考えが有ったかとも考えられますが。

【伊勢・美濃での前哨戦】

三成は真田昌幸への書状の中で、尾張と三河国境付近で東軍を迎撃、背後より上杉・佐竹軍と挟撃することで勝利をする目算であると言っています。そのため早急に伊勢・美濃を平定して、岐阜城を西軍の拠点とし、尾張に侵攻する必要がありました。伊勢路を進む宇喜多秀家ら西軍の軍勢約3万は、筒井定次(順慶の従兄、養嗣子)の居城・伊賀上野城を開城させ(上野城の戦い)、その後富田信高、分部光嘉が籠る安濃津城(安濃津城の戦い)、古田重勝の松坂城などを攻略し8月までには陥落させています。

その後さらに北上を進め尾張攻略を目指し、桑名城の氏家行広・氏家行継兄弟を西軍に加担させるが、東軍先発部隊(福島正則・黒田長政・池田輝政・伊直政・本多忠勝)が清洲城に集結するとの報を得て、福島正頼・山岡景友の拠る長島城攻撃を諦め、三成の居る大垣城へと向かいます。この時点で三成の尾張・三河で東軍を迎撃する戦略は破綻し、木曽川で迎撃する方針へと修正せざるをえませんでした。

一方の背後を挟撃する予定の上杉景勝は、徳川軍を攻撃せずに軍勢を山形方面の最上義光領へと向けます。佐竹軍は、当主である佐竹義宣が主張した西軍への参加に、父・佐竹義重や弟、重臣一同らの反対により、義宣は意見を押し切ることができず、佐竹義久に少数の兵をつけて秀忠軍に派遣するなどの曖昧な態度に終わり、関東の徳川領に侵攻しませんでした。結局、佐竹義宣、上杉景勝が大坂へ向かう徳川軍を攻撃しなかったことは、三成にとって大きな誤算となりました。なお、鍋島勝茂は父・直茂の命により美濃・伊勢国境付近に留まり、大垣城に向かう宇喜多・毛利軍などから離脱、以降西軍の軍事行動には加わらず傍観しています。

【西軍の大垣城集結】

PA140402.jpg(天主は100円で登れますし、重要な資料がいっぱいです。)
PA140397.jpg(私はあさ7:00に伺ったのでもちろん開いてはおりませんでした。)
PA140411.jpg(静かなお城です。笑、朝だから!)

かくして、毛利 秀元・宇喜多秀家・石田三成等は「大垣城」に入城、個人の思惑はその通りには運ばず、運命の神が振る振り子の行方に任せれたのでした。
PA140410.jpg(こちらの角度が綺麗ですかね?)


【最後に・・・】

アクセス数が20000を越えました。本当にありがたい事です。自分の好きな事を勝手に書いて読んでいただけるなんて、なんて私は幸せな人間なのでしょう。少し三成君に分けてあげたいね~。

歴史って本当に面白いですよね~!
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リュミエールブラン ネージュ

2017/11/12

そろそろ関ケ原へ突入するのか?前哨戦「伏見城の戦い」

今日は母校○○高校の同窓会神戸達徳会に参加してきました。○○高校と書いたのは、自分の出身高校を今から褒めるのがはずかしいからです。(笑)

母校は明治29年に尋常中学として開校された県下有数の伝統校で、兵庫北部を代表する進学校です。普通科の他に理数科があり、理科系大学への高い進学実績を出しています。自然科学系の教育が充実しており、文部科学省からSSHの指定を受けています。兵庫県下では姫路西高校に次いで、神戸高校と並ぶ2番目に古い高校です。初代校長・岡垣徹治は「和魂の精神」(旧制○○中の建学の精神)と「花橘の気品」(旧制○○高女の校風)を受け継ぎ本校の教育理念とし、開校から120年以上経った現在まで脈々と受け継がれています。

その神戸達徳会の末席(本当にこの年で末席、Oテーブル)後輩は2人だけ、(笑)旧制中学や旧制高女の大先輩が5名も来られる、170名の盛況で、先輩方の優しさに感激しながら、旧制中学や旧制高女、現高校の3校歌を高らかに歌って帰宅、今日中のブログUPは無理かもと思いながらPCに向かっている市郎右衛門です(神戸達徳会の事はすばらしいので、又の機会にお話いたします)。

PA280032.jpg(伏見城ではなく、伏見桃山城模擬天守です。笑)

さて本題、関ヶ原の戦いの前哨戦、伏見城の戦いが行われた伏見桃山城址をご紹介いたします。

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【御紹介するのは、伏見桃山城模擬天守】



PA280014.jpg(大手門でもありません。正門トホホ!)
PA280024.jpg(伏見城ではなく伏見桃山城。)
PA280022.jpg(子どもたちは見向きもせずにサッカーに興じてました。)

伏見桃山城運動公園には天守閣を有するお城がありますが、これは豊臣秀吉・徳川家康の「伏見城」とは全く別のものです(なんじゃと~~~~!)。
運動公園のお城は、昭和39年に開園した遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」の目玉施設として建築された模造天守((-"-;A ...アセアセ)。キャッスルランドは平成15年1月に閉園となり、その際、お城も取り壊される予定でしたが、存続を求める市民の皆様の要望により、伏見のシンボルとして運動公園に引き継がれ、現在では映画やドラマの撮影等にも活用されています(許してください)。場所は大丈夫なはずです?と言いますか、明治天皇陵(以前ご紹介しました)の場所が本来の伏見城跡に成ります。

関ケ原の後、慶長7(1602)年家康によって再建され、翌年家康は伏見城で征夷大将軍に就任しました。家康は将軍在任中のほとんどを伏見城で過ごし、伏見城は近畿地方における徳川政権の拠点となりました。

大坂の陣で豊臣氏が滅亡した後、一国一城令により京都に二条城と伏見城の2つの城を維持する名目がなくなり、元和9(1623)年の徳川家光の将軍宣下が行われたことを最後に、伏見城は廃城になりました。

廃城後,各地の寺社などに伏見城の遺構が移築されましたが、これらのほとんどは、豊臣秀吉時代の伏見城ではな、徳川家康時代の伏見城の遺構と考えられています。

取り壊された伏見城跡の一帯には、桃の木が植えられ、桃山という地名が生まれました。後年、明治天皇陵造営によって、本丸跡附近が陵地となり、現在往時をしのぶものは内堀の一部が紅雪池(こうせついけ)や治部池(じぶいけ)として残っているほかはほとんど見られません。

【石田三成佐和山城に蟄居する】

PA280049.jpg
(模擬大天守です。雨も降って女性が一人沖縄民謡?の練習されてました。)

伏見城の戦い(ふしみじょうのたたかい)は、1600年8月26日(慶長5年7月18日)から1600年9月8日(8月1日)まで行なわれた関ヶ原の戦いの前哨戦に成ります。

開戦の経緯ですが、慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が死去。秀吉から生前、嫡子・豊臣秀頼が成人するまでの間、政治を託された大老・徳川家康の台頭(そろりそろりと天下を狙い始めた兆候が有ります)が始まります。家康は諸大名の屋敷を頻繁に訪問始めます。この訪問は他の大老・奉行には無断で行われており、豊臣政権の法令の一つ「傍輩のうち、その徒党を立つべからず」に反するものでした。

また家康はこの時期、他の大老・奉行に無断で諸大名との縁組を行っています。これもまた、豊臣政権の法令の1つ「諸大名の無許可での縁組の禁止」に違反する行為であったため、慶長4年1月19日、豊臣氏から無断婚姻の問罪使として三中老(生駒親正・中村一氏・堀尾吉晴)らが派遣されました。家康は追及をかわし、2月2日に前田利家らと誓書を交わすことで和睦しています。

しかし閏3月3日、家康に次ぐ実力者の前田利家が死去すると。かねてから石田三成と対立関係にあった加藤清正・福島正則ら七将が、三成の大坂屋敷を襲撃します。三成は事前に襲撃を知り、佐竹義宣の助力を得て伏見城内の自邸に逃れます。家康邸に逃げ込んだとするドラマや小説が数多くあるようですが、根拠のない俗説のようです。その後、家康は仲裁に乗り出し、仲裁の結果、三成は五奉行から退隠、佐和山城に蟄居となりました。

【上杉景勝謀反の疑いと直江状】

家康の政治的影響力が強まる中、五大老の一人・上杉景勝は家臣の直江兼続に命じて神指城を築城させるなど軍事力の増強に乗り出します。この景勝の動向は、近隣の大名である最上義光や堀秀治らによって家康に報告されていました。慶長5年3月11日、家康と景勝の関係の修復に努めていた藤田信吉が上杉家から追放されます。4月1日、家康は景勝に対して伊奈昭綱、河村長門(増田長盛の家臣)の両名を問罪使として派遣します。このとき家康は西笑承兌に弾劾状をしたためさせています。その内容は景勝の軍事力増強を咎め、異心が無いのであれば誓書を差し出した上で上洛し、弁明すべきというものでした。

これに対して直江兼続はあの有名な直江状(あまりに出来すぎの感が否めず、後世に作りあがられたともいわれます)を家康に送っています。家康への挑戦状というのは江戸幕府成立後、徳川家と上杉家の対立構図を成立させて、会津征伐を正当化する目的で改変されたとも推定されます。事実『徳川実紀』には、直江状が傲慢無礼の極みであり、そのために家康が上杉の討伐に向かったと記載されているようです。

5月3日、直江状が家康の下に届けられ、家康は即刻、景勝の征伐を決意します。会津征伐の先鋒は福島正則、細川忠興、加藤嘉明が任じられました。伏見城の留守には家康の家臣・鳥居元忠が任じられています。

【会津征伐出立と伏見城攻略】

PA280055.jpg(模擬大天守ですが風情が有ります。写真がぼやけてるの雨です。)
PA280059.jpg(こちらは小天守閣、あめが~。)

慶長5年6月18日に家康は伏見を立ち東国へ向かいました。家康は前々夜伏見城に宿泊して鳥居元忠と酒を酌み交わし「我は手勢不足のため伏見に残す人数は三千ばかりにて汝には苦労をかける」と述べると「そうは思いませぬ。天下の無事のためならば自分と松平近正両人で事足ります。将来殿が天下を取るには一人でも多くの家臣が必要です。もし変事があって大坂方の大軍が包囲した時は城に火をかけ討死するほかないのですから、人数を多くこの城に残すことは無駄です。一人でも多くの家臣を城から連れて出てほしい」と答えました。家康はその言葉に喜び、深夜まで酒を酌んで別れたと伝わっています。

一方大坂城にいた前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行は7月17日、家康が大坂城西の丸に残していた留守居役を追放して、家康に対する13か条の弾劾状を発布します。これに先立つ7月15日の時点で家康の家臣鳥居元忠らが在城する伏見城はすでに籠城を開始しており、反家康の立場を明らかにした西軍はこれに対する攻撃を準備します。 守る城側の兵力は城兵1800人に大坂城西の丸から移動してきた500人を加えた計2300人でした。

【伏見城の健闘の影響】

PA280039.jpg(ススキ原も入れると中々いいですよね。)

本格的な戦闘は19日から開始され、当初は籠城側が打って出て前田玄以、長束正家らの屋敷を焼き払うなどしますが、以降は攻め手が昼夜問わず大小の鉄砲を打ちかけ、さらに22日には宇喜多秀家勢が加勢するなどして圧力を強めます。攻め手は築山(小山)を築いてそこに大筒・石火矢を設置したり、堀を埋めるなどするが十分に防御された城は容易に落ちませんでした。 しかし孤立した城は8月1日昼ごろついに落城します。鳥居元忠は鉄砲頭鈴木孫三郎に討ち取られ、他に内藤家長父子・松平家忠以下800人が討ち死にしました。この戦いは、9月15日に行なわれることになる関ヶ原本戦の前哨戦にあたりますが、伏見城に10日以上もの時間をかけたため、美濃・伊勢方面に対するその後の西軍の展開が大きく遅れる要因となりました。

【最後に関ケ原で後の時代に影響を与える二人の武将について!】

PA280066.jpg
(裏側に廻ると?)
PA280064.jpg
(倒れたままの、昭和7年軍部駐屯地の碑、立てられない者でしょうかね?)

当初鬼島津こと「島津義弘」と金吾中納言「小早川秀秋」は当初、東軍に味方するつもりであっため、伏見城城側に入城の意思を示しましたが拒否され、やむなく西軍に属して城攻めに加わったとする説があります。しかし前者は「島津家譜」、後者は「寛政重修諸家譜」等といずれも江戸時代成立の二次史料の記述を典拠としており、史実である確証は有りません。

後に二人のキーマンの活躍が関ケ原の闘いの大きな1ページを飾る事は後のお楽しみです。

母校の歴史も120年を越えました。素晴らしいい先輩方を数多く輩出しています。私たちよりもう少し若い後輩たちに、○○高校でも当然わかるはず。来年は多くの後輩が同窓会に訪れて、私たちが末席から一つ上がれるようにお願します。母校の歴史は今後の皆さんの活躍にかかっているのですから。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/10/18

羽柴秀吉天下取りへの第二歩?「城持ち大名に躍進『長浜城』」

関ケ原を取材してきたので、関ケ原古戦場をご紹介したかったのですが、妻が司馬朗太郎原作の映画「関ケ原」を見に行きたいというので、それでは少し時代を遡る長浜城(ながはまじょう)をそれまでのつなぎにご紹介しておこうと考えて、本日は長浜城のご紹介です。

現在の長浜城資料館はもちろん模擬天守のコンクリート造りなので、秀吉が作った当時の城とは景観もかなり違うとおもいます。そのあたりも前座とは申しませんが、先に登場の要因の一つに成りました。

PA151790.jpg(言われてみれば「白帝城こと国宝・犬山城に似てます。)

しかしながら、天守展望台から四方を見渡すと。東は賤ケ岳古戦場から、浅井氏の小谷城や鉄砲で有名な国友村方面、南は彦根城や、その後ろに佐和山城跡、西を見ると安土城址や比叡の山々、北は三十三観音霊場でも有名な竹生島が一望できる素晴しい景観です。私が登城した当日はあいにくの雨に降られて残念な景観となってしまったのですが、天気が良い日には是非出かける価値はあります。


お得情報として、整備された駐車場が3時間(城内展示と散策には十分な時間です。)無料開放されていました。

さてそれでは、滋賀県長浜市公園町にある羽柴秀吉(豊臣秀吉)が築城した『長浜城跡』をご紹介しましょう。

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【秀吉の長浜城と城下町】

PA151777.jpg(駐車場は少し南側北に通りすぎると戻らなければなりません。)
PA151781.jpg
(本丸跡・天守閣跡もほんの少し北にあります。)
PA151842.jpg
(秀吉像・大阪城の豊國神社前の銅像がカッコイイです。)
PA151793.jpg(歴史博物館に成っていますが、古い古典資料の文字が読めたらな~。)

1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、浅井長政攻めの功績により織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に、当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名しました。小谷城で使用されていた資材や、あらかじめ、竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用し築城を開始しました。

他のブロガーさんもWikipediaのこの記載を使われていますが、古来、信仰の対象となった島で神の棲む島とも言われ、奈良時代に行基上人が四天王像を安置したのが竹生島は、南部には都久夫須麻神社(竹生島神社)、宝厳寺(西国三十三所三十番)があり、古来から神仏習合の一大霊場でした。寺社殿建て替え用の、針葉樹林の森が大切に保存されていたのでは推測します。これが密かに隠されていた木材の正体だと思います。

PA151834.jpg(美人薄命、割とよくある人柱伝承、松江城にもありました。盆踊りで人柱を決めたために松江には盆踊りが無いとか?)
PA151849.jpg
(かなり琵琶湖湖面まで城が有ったようです。水中にも石垣遺跡が残るようです。)
同3~4年頃長浜城が完成し秀吉が入城しています。湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていました。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した形跡があります。そのため、現在でも城下町には当時の面影や名残がありました(一時間半くらいの滞在で長浜全てを見て来たようです、講釈師見てきたような嘘を言い、笑)。秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を徐々に作りあげた場所でもあります。

PA151811.jpg(竹生島が見えますね。)
PA151812.jpg(賤ヶ岳古戦場辺り!)
PA151823.jpg(滋賀県一番の高さを誇る伊吹山先端少しだけ見えています。わかりますか?登って来ました(;^_^A アセアセ・・・)
PA151824.jpg(白い建物の後ろ、彦根城天主見えますか~右に三段櫓も見えますね)

『うんちく「長浜曳山まつり」』は毎年4月9日~16日に、長濱八幡宮の春の例祭に合わせ執行されます。13日~16日は、絢爛豪華な山車「曳山」が登場し、その舞台の上で「子ども歌舞伎」が演じられます(子ども歌舞伎が演じられるのは毎年4台のようです)。曳山は「長刀山」と子ども歌舞伎が演じられる12基とあわせて13基あります。

長浜曳山まつりの由来ですが、秀吉が長浜城主だったころに初めての男の子が生まれました?(誰の事でしょうね)。たぶん羽柴 秀勝(はしば ひでかつ、生年不詳~天正4年10月14日(1576年11月4日))と思われます。羽柴秀吉が、近江長浜城主時代にもうけた子で、幼名は石松丸(いしまつまる)または石松のことと思われます。その他にも織田信長の四男で秀吉の養子に迎えられた於次丸「秀勝」と、秀吉の甥でのちに秀吉の養子となった小吉「秀勝」がいて少しややこしいです。

「石松丸秀勝」の出生を喜んだ秀吉は城下の人々に金(きん)を振る舞い、町民がこれをもとに山車を作って八幡宮の祭礼に曳き回したのが始まりといわれています。

【秀吉城主後の長浜城】

1582年(天正10年)の本能寺の変後、清洲会議で長浜の支配権を獲得したのは柴田勝家でした(秀吉の計略で獲得させられたとも考えられますが)。勝家の甥の柴田勝豊が長浜城の守将として入城ることに成りました。同年末には勝家と対立した秀吉に攻められ、勝豊は城ごと降伏しています。秀吉に見透かされていたのかもしれませんね。

1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い後は、山内一豊が城主となり、6年間在城しています。1586年1月18日(天正13年11月29日)には天正地震により城が全壊し、一豊の一人娘である与祢らが死亡しています。

【関ケ原後の長浜城】

1606年(慶長11年)に内藤信成・信正が城主になりますが(長浜藩)、大坂の陣後の1615年(元和元年)に内藤氏は摂津高槻に移封され、長浜城は廃城になっています。資材の大半は彦根城の築城に流用されました。彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられています。その他、長浜市内にある大通寺の台所門は長浜城の大手門を移したものと伝えられ、今でも矢尻の跡を見ることができるそうです。同市内にある知善院の表門は、長浜城の搦手門を移したものと伝えられています(きれいに解体されていますね)。

PA151688.jpg(彦根城の天秤櫓こちらも国宝です)

現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので、市立長浜城歴史博物館として運営されています。
PA151808.jpg(訪れる価値あり!市郎右衛門)

ハッキリ言って行くだけの価値があるかですが、この地に後に天下人と呼ばれる豊臣秀吉が立っていた。同じ場所に自分自身も立っていると考えると、ほんの一時間程度のお安い買い物?違うか(笑)、一見するのも楽しいいですよ。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/10/10

兵どもが夢の跡!明智光秀居城『坂本城跡』の哀れ。

今日ご紹介するのは、裏切り者、主人殺し、謀反者と呼ばれ430年間にわたって悪役を一手に引き受けた明智光秀の居城『坂本城(さかもとじょう)』です。何故光秀は「本能寺の変」を起こしたのか?日本史最大の謎といっても過言ではないでしょう。
今回はミステリーは、またの機会のお楽しみにさせて頂いて、光秀の居城「坂本城」がその後どのようになっているのか、取材してきました。


1689年3月27日(新暦5月16日)、松尾芭蕉は門人の曾良をともなって、江戸から東北・北陸へ600里(約2400km)、150日間の「おくのほそ道」の旅に出ました。奥州藤原氏が平泉で滅亡してから500年後のことです。江戸・深川を出発してから44日目、5月13日(新暦6月29日)に奥州平泉を訪れた芭蕉は、藤原三代の栄華の儚さと義経の最期を偲び、あの有名な句を詠みました。

「夏草や 兵どもが 夢の跡」(なつくさや つわものどもが ゆめのあと)

高館(たかだち)にのぼってあたりを見渡すと、藤原氏の栄華の痕跡はあとかたもなく、ただ夏草が茂る風景が広がるばかり。栄華の儚さを詠んだ句です。

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(明智光秀図)

「坂本城」は、明智光秀によって築かれた近江国滋賀郡坂本(滋賀県大津市下阪本3丁目の坂本城址公園内)にあった琵琶湖に面する平城です。さて現在坂本城はどうなっているのでしょうか?

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【坂本城はどんな城だった?】

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(坂本城址公園、駐車料無料です。)
PA080228.jpg
(滋賀県の皆さん~これでいいのか?)
PA080227.jpg(文化人五木ひろしに似てないか?隣は鳥羽市郎さんの歌碑だし?)
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城址公園のまわりにそれらしき石積)

城郭構造は平城、水城天守構造不明(天守と小天守が推定されています)築城主はもちろん、明智光秀で築城は1571年(元亀2年)主な改修は、丹羽長秀・浅野長政など、主な城主明智光秀、丹羽長秀、杉原家次、浅野長政です。1586年(天正14年)廃城となっています。残る遺構は遺石垣、井戸、暗渠、礎石建物等で指定文化財も再建造物も全くありませんでした。

P659321654.jpg
(これは本物!すこしだけ残る遺構は石垣)

坂本城は、琵琶湖の南湖西側にあり、大津市の北郊に位置します(取材は正に大津まつり当日でした)。西側には比叡山の山脈があり、東側は琵琶湖に面していることから、天然の要害を具えた地です。比叡山は近江国と山城国にまたがっており、白鳥道と山中道の2つの道は両国を結ぶ道路が通じていて、中世~近世においても頻繁に利用され、比叡山への物資輸送のための港町として、坂本は交通の要所として繁栄しました。

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(湊の繁栄が偲ばれます。)

現在城郭の大半は宅地化され、推定地の中央には国道161号が本丸上を通っています。

【坂本城の役割は何?】

1571年(元亀2年9月)、比叡山焼き討ちの後、宇佐山城の城主であった明智光秀に近江国滋賀郡が支配を命じられ、織田信長の命によって京の抑えと、比叡山延暦寺の監視、琵琶湖の制海権の獲得が目的で、坂本城が築城されました。

『永禄以来年代記』によると、「明智坂本に城をかまへ、山領を知行す、山上の木にまできり取(永禄以来年代記)」とあります。山領というのは延暦寺のことで、比叡山焼き討ち後、1571年(元亀2年)中に築城が開始されたと思われます。

また『兼見卿記』元亀3年(1572年)12月22日の記述によると、「明智見廻の為、坂本に下向、杉原十帖、包丁刀一、持参了、城中天守作事以下悉く披見也、驚目了(—兼見卿記)」とされていることから坂本城には天守があり、作事が行われ翌12月頃には天守がかなり進捗(物事が進みはかどる)していたと思われます。『兼見卿記』の筆者でもある吉田兼見は、短文ながら天守の壮大さに驚いている様子が分かります。

また坂本城はイエズス会宣教師のルイス・フロイスは著書『日本史』にて豪壮華麗で安土城に次ぐ名城と記しています。フロイスの日本史(坂本城の記述部分ではないですが)には、「明智は、都から4レーグァほど離れ、比叡山に近く、近江国の25レーグァもあるかの大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に、邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗にもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。」と記されている。この記述はルイス・フロイスの感想ではありますが、名城安土城と並び称される建物として認識していたことが分かります。

【坂本城主明智光秀の活躍】

その後明智光秀は坂本城を拠点に近江国の平定を目指します。1572年(元亀3年)~1573年(天正元年)にかけては木戸城、田中城を落城させ、また湖面より囲船にて湖北の浅井勢に襲撃し打撃を与えました。その後、石山城、今堅田城も攻城し湖南はほぼ手中に収めています。その後坂本城は近江国における反織田信長に対する重要な軍事施設として使用されました。黒井城の戦いでほぼ丹波国を手中に収めると、1580年(天正8年)亀山城の城主となったが、坂本城もそのまま城主となっていたようです。

天正10年(1582年)6月2日、明智光秀は中国攻めには向かわず本能寺の織田信長を急襲し、本能寺と共に信長を炎の中で焼き、次いで二条城を攻城し織田信忠を自害させました(本能寺の変)。しかし、同年6月13日山崎の戦いで敗れた明智光秀は一旦勝竜寺城に退き、その後坂本城を目指している途中、山城国の小栗栖周辺で百姓らに襲われ死去したと言われています(少なくとも3日天下ではなく11日生存していますね)。

一方安土城の城主となっていた明智秀満(光秀の娘婿、福知山城代)は、山崎の戦いで敗戦を知り安土城から移ってきましたが、羽柴秀吉軍が城を囲む中、明智秀満自身が天守に火を放ち光秀の妻子もろとも焼け落ちました。

P963214637.jpg
(明智供養塔一応私有地です。)

その後、羽柴秀吉が丹羽長秀に再建を命じ城主となりました。その後賤ヶ岳の戦いの軍事上の基地として使用され、後に杉原家次そして浅野長政が城主となります。この時期に城下町が形成されたとかんがえられます。

しかし1586年(天正14年)秀吉の命を受けた浅野長政が大津城を築城し居城を移したことにより廃城になり、資材は大津城築城に使用されました。築城からたった15年後のことでした。

【なぜ廃城】

なぜ廃城になったか『信長戦国近江』によると2つの理由を紹介しています。

ひとつは山門に対する監視の必要性が薄くなったことです、本能寺の変で信長が倒れ、光秀も山崎の戦いで敗れると、生き残った僧侶達は続々と比叡山に帰山し始めます。秀吉は山門復興こそ簡単には許しませんでしたが、詮舜とその兄賢珍の2人の僧侶を意気に感じ、陣営の出入りを許るし、軍政や政務についての相談にものって、徐々に秀吉の心をつかんでいったと思われます。

そして小牧・長久手の戦いで出軍している豊臣秀吉に犬山城で度重なる要請を行い、ついに天正12年(1584年)5月1日、正覚院豪盛と徳雲軒全宗に対して山門再興判物が発せられ、ついにに山門復興が許可されました。

もうひとつは1583年(天正11年)~1588年(天正16年)に大坂城を築城しており、大津の地が東海道や淀川を通じた北国を結ぶ上に重要視された為ではないかと考えられます(坂本の役目が大津にとって変わられたということです)。


【坂本城の構造】

PA080214.jpg(見えにくいですが、ごめんね、城址公園は城外です。)
PA080237.jpg
(公園周りの石積二が坂本城の物と思いたいですね。)
PA080264.jpg(二の丸内にある立専寺の無縁仏が明智一族の物であってほしいです。)
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(二の丸端にある坂本城の石碑)
PA080279.jpg(溝ですが、地図と合わせると二の丸の堀跡とだいたい合致します。)

坂本城は歴史上重要な役割を果たしていましたが、ながらく城の位置や構造については不明となっていました。しかし1979年(昭和54年)に実施された発掘調査によって城の構造が明確になってきました。

天正6年(1578年)1月11日に明智光秀の茶の師匠であった堺の津田宗及が坂本城に招かれ茶会がひらかれたいますが。この時の『天王寺屋会記』の資料によると、「御座船を城の内より乗り候て、安土へ参(天王寺屋会記)」と記載されています。城内には琵琶湖の水が引き入れており、城内から直接船に乗り込み、そのまま安土城に向かえたようです。

従って城郭の建物が湖水に接した「水城」形式の城であったとかんがえられます。また吉田兼見が天正10年(1582年)1月20日に坂本城に訪れた時に「小天守」で茶湯を喫した記録があります。これによりただちに小天守があったと断言はで来ませんが、『信長戦国近江』によると「姫路城のような大天守と小天守が並び建つ壮麗な城だったのであろうか」と紹介しています。

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(こんな感じ?連結式天守の例/天守と小天守)
PA080282.jpg(推定本丸の上を通る国道161号!この下が本丸ですね。)

【発掘調査】

1979年(昭和54年)まで坂本城は一度も発掘調査されなかったため、坂本城の遺構に関してはほとんど注目されませんでした。しかし、坂本城跡の中心部で大規模な宅地開発が計画され、これに伴う調査を実施したことがきっかけとなり、現在に至り断続的に発掘調査が行われ、城の縄張りなどが少しずつ明らかになってきました。

1979年(昭和54年)に行われた発掘調査では、10cm-30cmの焼土層が発見されています。これは明智秀満が天守に火を放ち光秀の妻子もろとも落城した時のものと推測できます。その焼土層の上に整地した層があり、この遺構は丹羽長秀時代のものと考えられています。

本丸部分で発掘された遺構は、礎石の規模や配列から推察して邸宅遺構の可能性が強く、城主が使用されていた可能性が高いと考えられます。またこの周辺からは、大量の瓦、壺、甕、碗、鉢、擂鉢、天目茶碗の他、中国から輸入されたと思われる青磁、青白磁、白磁などの遺物が発掘されました。このことより贅を尽くした城内の様子が伺えますね。また金属製品としては、銭貨、鏡、刀装具、鋲等が出土しています。これらの出土物は室町時代後期から安土桃山時代のもと判断されました。

坂本城は後に築かれた大津城、膳所城(琵琶湖大橋の袂に在ります)も琵琶湖に面して本丸がその先端部に位置していること等、類似点が多い縄張りとなっており、坂本城が二城のモデルとなった可能性が大きいですね。

PA080290.jpg(お山の向こうは比叡山延暦寺)

【最後に夏草!】

松尾芭蕉は平泉の藤原氏の栄華と衰退を歌っていますが、同じものを坂本城跡で感じました。城の址らしきものは殆どありません。整備された坂本城址公園も地図で見ると城外です。少し寂しいですね。歴史ファンよりも多くの人がバス釣りやヨットセイルに興じていました。石垣もあとで積んだ物なのか判断できませんでした。

以前、渇水で琵琶湖の水位が下がった平成6年夏のニュースが注目を浴びました。現在の水際から約10メートル沖で城の一部の石垣が姿を現したのです。夢は夏草の中ではなく水の中に在ったわけです。

歴史って本当に面白いですよね~!
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