2017/01/24

ひこにゃんも気になる大河ドラマ「おんな城主直虎」の視聴率!『国宝 彦根城見参』

彦根城(ひこねじょう)に行ったのは、五年前に成ると思います。

勿論、当時は大河ドラマで井伊直虎が取り上げられると思ってもおらず!
むしろ当時の大河ドラマ2011年の「江~姫たちの戦国~」の宣伝ポスターが有ったと記憶してます。

実は海洋堂フィギュアミュージアム(長浜)が主な目的だったので、長浜城にもいきませんでした(今考えるともったいないな~)。
勿論ブログを書くこと等考えてもおらず、写真も家族のスナップ写真で少ないです。

それでも、今回大河ドラマの人気にあやかって(姑息な考えですね~(^^;)、国宝彦根城を御紹介します。

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『彦根城』は日本の滋賀県彦根市金亀町にある城で~す。

天守、附櫓及び多聞櫓は国宝に指定されています。
城跡は特別史跡かつ、琵琶湖国定公園第1種特別地域に成っています。

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(天秤櫓です。確かに天秤に見えますね~。時代劇でもよく見かける場所です。)




【築城について!】
江戸時代初期、現在の滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、徳川幕府の鎮西を担う井伊氏の拠点として置かれた平山城です。山は「金亀山(こんきやま)」(標高50m)との異名を持つため、城は「金亀城(こんきじょう)」とも言われます。
多くの大老を輩出した譜代大名である井伊家14代の居城でした。

明治時代初期の廃城令(此が無ければもっとお城が残ってたと思うと残念でなりません。)に伴う破却を免れ、天守が現存します(戦国~江戸初期の現存天守の数は12だったと思います。「国宝五城」、「重文七城」)。

天守と附櫓(つけやぐら)及び多聞櫓(たもんやぐら)の2棟が国宝に指定されるほか、安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し、国の重要文化財に指定されている。
中でも馬屋は重要文化財指定物件として全国的に稀少だそうです。

天守が国宝指定された五城の一つに数えられます。
姫路城とともに遺構をよく遺している城郭で、1992年(平成4年)に日本の世界遺産暫定リストに掲載されましたが、近年の世界遺産登録の厳格化の下、20年以上推薦は見送られています(残念です!)。

滋賀県下で唯一、城郭建築が保存されました。
滋賀県は戦国時代は名城の宝庫でしたね~数々残っていれば凄いと思いますけどねぇ。

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(太鼓門櫓へ向かう階段!平山城ですから、少しは登りますよ~(;^_^A)
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(もうすぐ太鼓門櫓です。右上に少し見えています。)

【築城の経緯】
徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、家康は直政に全幅の信頼を寄せ、その軍功により彼を近江佐和山城18万石の大名(近江国北東部)に任じます。

佐和山城は石田三成が改築した後は「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城(ご存知だとは思いますが、武将島左近と佐和山城です。)」の一つともいわれた名城ですが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌い、湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していました。

しかしながら、関ヶ原の戦いでの戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)直政は数え42歳で亡くなっています

その後直継が家督を継ぎますが、幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して彼の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山、現在の彦根城の場所)に彦根城が築城されました。

築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩や越前藩など7か国12大名(15大名とも)が手伝いを命じられる天下普請であった。1606年(慶長11年)2期までの工事が完了し、同年の天守完成と同じ頃に直継が入城しました。
1616年(元和2年)彦根藩のみの手により第3期工事が開始され、この時に御殿が建造され、1622年(元和8年)すべての工事が完了彦根城は完成しました。

彦根城の建築物には、近江の名族京極高次が城主を務めた大津城からの天守を始め、佐和山城から佐和口多門櫓(非現存)と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城からや、どこのものかは不明とされているが太鼓門、などの移築伝承が多くあります。
建物や石材の移築転用は縁起担ぎの他、コスト削減と工期短縮のために行われたといわれています。

その後、井伊家は加増を重ね、1633年(寛永10年)には徳川幕府下の譜代大名の中では最高となる35万石を得るに至りました。
なお、筆頭家老・木俣家は1万石を領していましたが、陣屋を持たなかったため、月間20日は西の丸三重櫓で執務を行っていました。
これは、徳川統治下の太平の世においては、城郭というものがすでに軍事施設としての役目を終えて、その存在理由が、権勢の象徴物へと変じたためでした。
江戸幕府の西国への重要な備えとしての役割を担う彦根城も、彦根藩の各組織の管轄で天守以下倉庫等として江戸時代を通して使われました。

なお、幕末における幕府の大老井伊直弼は、藩主となるまでをこの城下で過ごしています。
直弼が青春時代を過ごした屋敷は「埋木舎(うもれぎのや)」として現存しています。

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(どど~ん、天守正面です。太鼓門過ぎちゃいました、涙。)
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(天守に入ってみましょう。)
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(附櫓のはずです。天守と共に国宝です。)

【計画者の井伊直政について】
徳川四天王のひとり、井伊直政は赤備え(真田信繁も赤備えで有名すよね)の軍装で知られる猛将です。
少年時代から家康に仕えた直政は、一説にはその美少年ぶりから家康の寵童(衆道(しゅどう、英: Shudō)とは日本における男性の同性愛関係「男色」の中で、武士同士のものをいいます。)となり、やがて家康から武田家の旧臣を附属されて一手の大将となりました。

その戦いぶりは勇猛果敢で、つねに陣頭でみずから刃をまじえ、家康から「直政はいつも重装備の甲冑に身を包んでいても負傷が絶えないな」とからかわれるほどでした。

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の後、家康はそんな直政の歴戦の功を賞して「開国の元勲(げんくん)」と称えています(『寛政重修諸家譜』)。
この合戦の前後、外交手腕にも長けていた直政は、多数派工作や戦後処理にも活躍し、家康の政権樹立を輔佐しました。
ちなみに関ケ原の戦いでは待ちきれずに戦端を開いた事で有名です。

直政の死因は関ヶ原の戦いでの負傷による破傷風とされますが、2年もかけて苦しむ破傷風は無いですし、2年前の古傷が開いて破傷風に感染するなど、どうにも不自然に感じられますね。

此処は素直に、破傷風は直ったが歴戦の疲れが、直政の命を縮めたと考えておきます。

【残った彦根城】
明治に入り各地の城が廃城令で破壊・売却されていく中、彦根城も例外ではありませんでした。
しかし、明治11年10月、明治天皇が巡幸で彦根を通過した際に城の保存を命じたため破却は逃れたといわれています。
その際、巡幸に随行していた大隈重信が城の破却中止を天皇に奉上したという説と、天皇の従妹にあたるかね子(住持攝専夫人)が奉上したという説があります。

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(天守左前方向~桜が満開なら最高だったですね~笑)
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(天守後方と附櫓と子供達、小さいですね~写真も小さいから怒られ無いかな?)
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(玄宮園の茶室八景亭のはずです。)
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(玄宮園から天守を臨む!世界遺産でも良いんじゃないですか~?)

【戦略拠点としての彦根城】
湖と山の間、5キロメートルほどの狭い平地に立地する彦根は、中山道と北陸道(俗に北国街道ともいう)が合流し、水陸から京に至る東国と西国の結節点であり、壬申の乱(672年「白鳳元年」)・姉川の戦い(1570年「元亀元年」)・賤ヶ岳の戦い(1583年「天正11年」)・関ヶ原の戦い(1600年「慶長5年」)など、古来、多くの天下を目指した合戦がこの地域で行われました。

戦略拠点として注目され、織田信長は佐和山城に丹羽長秀を入れ、ほど近い長浜城を羽柴秀吉に与えています。

豊臣秀吉と徳川家康がそれぞれ譜代筆頭の石田三成と井伊直政を、この地に配置したことが、この彦根の地がいかに天下取りにとって重要な場所だったのかを物語っていますね。

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2016/11/21

第一次鳥取城攻略本陣跡?「川原城」

出雲へ旅行するときに、高速道路代を考えて、神戸から中国自動車道佐用JCT~鳥取道(無料)を通ります。
米子自動車道を使うと一時間以上早いと思うのですが、いつも貧乏旅なのでね~(^^;
岡山県を抜けて、鳥取市近くの道の駅川原を過ぎてすぐに、左手に凄く綺麗なお城が見えてきます。

それが、今日ご紹介する「川原城」です。

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CIMG6491.jpg(御覧の通り綺麗なお城ですが、故郷創成に役立っているとは思えませんね、笑)

河原城(かわはらじょう)は、鳥取県鳥取市河原町谷一木にかつて存在した城です(今も存在しますが近年に建てられたものです)。



川原城の正式名称は「丸山城」と言うのですが、鳥取市内には丸山城という名の城跡がこの城を含めて3つあり、旧邑美郡でも、この城を含めて2つあるのでややこしいです。
河原城は、天守風建造物(模擬天守)が建てられて以後の名称に成りますが、他2城との混同を避けるため、ここでは河原城と呼ばせていただきます。

美作方面への街道と播磨方面への街道の結節点であり、重要な水運路でもあった千代川を見下ろす要衝の小丘に建てられ、1580年羽柴秀吉による第一次鳥取城攻略戦の際に陣が置かれたと伝えられています。
ただし、川原城が本当に秀吉の本陣だったかどうかは不明です。

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(愛称は若鮎城!自ら考え自ら行う地域造り。暴走しましたね~)
CIMG6493.jpg(これでもか~の大国主と八上姫まで引っ張り出されています。(;´・ω・))

城跡には犬山城天守を模した(模擬天守どこかで見たような気がしたのはそのせいですね)展望台が建設され、「河原城」「お城山展望台」と呼ばれています。
最初に見つけた時にはこれは~なんだ~!とびっくりしてしまいました。
展望台の内部は、旧河原町の観光案内所と資料館となっており、羽柴秀吉が因幡平定後に発した感状などが展示されています。

武田高信(前回のUPで出て来ましたね。)が守る大振袖山城(鳥取市河原町曳田)の砦として建造されました。
正確な建造年代は不明ですね。
1580年(天正8年)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉鳥取城の山名豊国を攻める際に陣がおかれました(第一次鳥取城攻め)
鳥取城主豊国は3か月の籠城戦を戦い抜きますが、力及ばず落城!
川原城は廃城となった様です。

CIMG6494.jpg(確かに犬山城の天守によく似ていますね~。)

1991年(平成3年)から翌年にかけて城跡の全面発掘調査が行われ、曲輪跡・堀切跡・掘っ立て柱の跡などが発見され、古城跡であったことが確認されました。

そこで「ふるさと創生事業」として山頂に展望台(模擬天守)が設置されたというのがこの綺麗なお城の経緯です。
気持ちはわかりますが、少し無理されたんじゃないですかね~(笑)
私も無理がたたらないように、今日は楽させていただきました。


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2016/11/19

羽柴秀吉二度目の兵糧攻め!「鳥取の渇殺し」の悲惨!

「鳥取の渇え殺し」といえば、先日キャラクター問題で有名に成りましたね~(^^;

2014年、鳥取城跡のマスコットキャラクター「かつ江(渇え)さん」が、お披露目からわずか3日間で公開停止となったニュース知ってますよね!

7月7日に鳥取市役所の公式サイトで公開されるとネットで拡散。
反響が凄くて苦情や問い合わせが相次いだことを受けて、7月9日にはサイトから削除されてしまいました。

「かつ江(渇え)さん」見てみましょうか?(笑)

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インパクト凄いけど、わざわざこれに決めなくても...というところです~(^^;


色々な情報も含めて今日は「鳥取城跡」をご紹介いたします。

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鳥取城は、鳥取県鳥取市(旧・因幡国邑美郡)に築かれた戦国時代から江戸時代に使用された城です。
勿論、国の史跡に指定されています。



別名は「久松山城(久松山に有るからですかね)」
戦国時代から江戸末期にかけての城郭形態の変化を伺うことができることから「城郭の博物館」の異名を持つそうです(なんでなんで?)。

CIMG6496.jpg(博物館や緑地がある城の入り口です。)
CIMG6499.jpg(仁風閣説明版読んでください(;^_^A)
CIMG6498.jpg(松江城もそうですが、城に洋館があるのは?なぜかな?)
CIMG6497.jpg(西側にある博物館の地下?ですね。)

鳥取城の歴史ですがややこしいので覚悟してください。

「因幡守護⇒本当は但馬山名氏支配」まず、鳥取城は戦国時代中頃の天文年間に因幡の守護である山名誠通が久松山(やっぱりね。)の自然地形を利用した山城として築城したとされましたが、近年の研究では誠通の因幡山名氏と対立する但馬山名氏(山名祐豊)の付城として成立した可能性が支持されているようです(同じ山名ですのにね~(^^;)。

「但馬山名氏支配⇒武田高信力をつける」正式に城主が確認されるのは、元亀年間の武田高信からです。
高信は誠通の滅亡後、但馬山名氏の分家として再興された因幡山名氏の家臣でしたが、しだいに力をつけ永禄年間には鳥取城を拠点として独りつした形になります。

「武田高信力下剋上達成⇒毛利氏と誼を通じる」湯所口の戦い以降、守護家に対して優勢になった高信は天神山城を攻撃し、因幡守護の山名豊数を鹿野城に逃亡させ名目上の守護・山名豊弘を擁立し下剋上を果たします。
高信はその後も豊数の弟で主筋である山名豊国としばしば対立し、安芸の毛利氏とよしみを通じるようになります。

「尼子氏再興鳥取城明け渡し⇒吉川元春に降伏⇒再度尼子氏に降伏⇒またまた毛利支配」1573年(天正元年)、高信を討つために山中幸盛ら尼子残党と結んだ豊国の攻撃を受け、劣勢の高信は和議を結び城を明け渡すが(尼子再興軍による鳥取城の戦い)、まもなく豊国の手によって謀殺されてしまいます。
因幡山名氏の本拠も鳥取城に移されますが、同年に後巻に進出した吉川元春に攻められ豊国は降伏、市場城主・毛利豊元が城主となりました。
しかし、1574年(天正2年)再度尼子氏残党に攻められて降伏します。
1575年(天正3年)芸但和睦で毛利氏の力が鳥取に直接及ぶようになると、その手から逃れるため尼子残党が鳥取城を退き豊国が城主に落ち着きました。

「織田軍に降伏⇒毛利軍に降伏⇒鳥取の渇殺しで秀吉に降伏」1580年(天正8年)に織田方・羽柴秀吉の第一次鳥取城攻めで3か月の籠城戦(この時の籠城費用は全て豊国が負担しました。)の末、9月に豊国は和議により信長へ降伏、臣従します。
ところが、同月毛利氏が襲来して再度の降伏、鳥取城は牛尾春重が城将として入ることになります。
この時点で豊国は因幡守護であるが鳥取城主ではなくなりました(あっちへ降伏、こちへ降伏、納得できなかったでしょうがこれも戦国時代の常です。)。
春重は織田方の桐山城を攻めたとき深手を負い帰還、何人かの城将の入れ替えの末、1581年(天正9年)3月毛利氏の重臣である吉川経家が城主に座ります。
同年4月、因幡守護(名目だけになっていますが)豊国は織田氏へ密使を送ります。
しかしながら密使が市場城主・毛利豊元の家臣達に斬られ織田氏への内通が発覚、豊国は秀吉の下へ出奔せざるを得なくなりました。
残存する山名氏旧臣は毛利氏への従属を継続したため、信長の部将で中国地方の攻略を担当していた秀吉は2度目の鳥取城攻撃をすることとなります。

CIMG6501.jpg(城門跡)
CIMG6502.jpg
(勿論ですが、登ります。)
CIMG6503.jpg(二の丸高いのが三階櫓跡です。)
CIMG6504.jpg(三階櫓跡)
CIMG6505.jpg(石垣の修復が急ピッチで進められていました。)

最後の織田信長の中国攻めでは、家臣の羽柴秀吉が兵糧攻めを用いて攻略しました。
秀吉は播磨・三木城攻め(三木合戦)で行った徹底的な兵糧攻めをここでも実施します。
これが、「鳥取の渇殺し」と呼ばれます(秀吉は、但馬を弟の小一郎秀長に任せて、美作から因幡へ直接攻め込みます。)。

「鳥取の渇殺し」について簡単?に説明しますね。
『陰徳太平記』によると、秀吉は若狭から商船を因幡へと送り込み米を高値で買い占めさせる一方で、1400の兵が籠る鳥取城に付近の農民ら2000以上を城に追いやります(勿論、理由はおわかりですよね~(^^;)。
さらに河川や海からの毛利勢の兵糧搬入も阻止します。
このとき城には20日分の兵糧しか用意されておらず、この作戦により瞬く間に兵糧は尽き飢餓に陥ります。
何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、4か月も経つと餓死者が続出し人肉を食らう者まで現れたと言われています。
『信長公記』には「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と記されています。
城主の吉川経家はこの凄惨たる状況に、自決と引き換えに開城しました。

経家や山名氏旧臣に代わり、浅井氏旧臣で、秀吉の与力となっていた宮部継潤が城代として鳥取城に入り、織田勢の山陰攻略の拠点と成ります。

継潤は豊臣政権に代わった1585年(天正13年)の九州征伐で功績を挙げ、正式に因幡・但馬のうち5万石を与えられ、鳥取城を本拠として城主となります。
宮部継潤によって山上ノ丸の改修が行われました。、
その後も継潤は、九州平定後五奉行として連署するなど(宮部法印 前田玄以 富田知信 増下長盛 石田三成)秀吉の与力として重要な役割を果たし、隠居後は御伽衆として秀吉のそばに仕えます(御伽噺って微妙な表現ですが、つまるところお話相手!ですね。)。
所領は継潤の子の宮部長房が受け継ぎます。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで宮部家は西軍に所属し、城主の長房は因幡の外にいたので城代家老の伊吹三左右衛門や一族の者が留守を守りますが関ヶ原での本戦終了後、東軍の亀井茲矩らに激しく攻められ開城させられます。

関ヶ原の戦いの近江甲賀郡水口岡山城攻めでの功により、池田長吉(池田氏)が6万石で鳥取城に入り、池田氏によって近世城郭に改修されました。
江戸時代には鳥取池田家の治下に入り、麓の二の丸以下の曲輪が拡張されました。
現在は天守台、石垣、堀、井戸などが残っています(私が伺った時も修復してました。)。

1617年(元和3年)、さらに池田光政が因幡・伯耆32万5,000石の大封で入府、鳥取城も大大名に相応しい規模に拡張されます。
光政によって城下町の整備も同時に行われたといいます。
その後ふたたび、備前岡山藩に入っていた池田氏(長吉とは別系)と所領の交換が行われて池田光仲が入封、そのまま12代続いて明治維新を迎えました。

CIMG6506.jpg(右に見えるのが)
CIMG6507.jpg(天球丸かな山を頂上まで上がったところに、山之上丸、ご天守がありました。(;´・ω・)申し訳ない!)
CIMG6508.jpg(明治になり、島根鳥取が合併県になったときに松江城以外は廃城の憂き目をみたのでした。もったいない!)

分かっているだけで、山中幸盛(鹿之助)に2度、吉川元春に2度、豊臣(羽柴)秀吉に2度、と合計6度の降伏や力攻めによる落城があります。

今日ニュースで鳥取中部地震でも落ちなかった梨を「合格まちがい梨」として売り出していました。
鳥取県は「スタバ」もとい「スナバ」でもインパクトのあるコマーシャルをされますよね。
でも鳥取城が六度も落城した事は内緒にしときましょうね平井知事(笑)




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2016/11/07

「明智光秀」山崎での敗北をさとり『勝竜寺城』へ退却す!

皆さんご存知の通りに、山崎の戦い「天王山の戦い」は、羽柴秀吉軍の勝利に終わります。
明智光秀は敗北を悟り、軍を「勝竜寺城」へ引かせます。

一方、羽柴軍も無傷というわけでもなく、前線部隊の消耗が激しく、日没が迫ったこともあり追撃は散発的なものに留まります。
しかし、それ以上に明智軍では士気の低下が著しく、勝竜寺城が大軍を収容できない平城だったこともあって兵の脱走・離散が相次ぎ、その数は700余にまで減少したといわれます。

明智光秀は勝竜寺城を密かに脱出して居城坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖の藪(京都市伏見区、現在は「明智藪」と呼ばれる)で土民の落ち武者狩りに遭い、竹槍に刺されて絶命したとも、何とか逃れたものの力尽きて家臣の介錯により自刃したとも伝えられます。

光秀の最後はみじめな結果に終わり、この後秀吉は天下統一への道を進んでいくことになります。
彼の謀反は、今なお原因がよく分かっておらず、日本史においても最もミステりーな出来事といえるでしょう。

今日はその明智光秀が最後に退却した「勝竜寺城」をご紹介します。


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「勝竜寺城」の歴史は、南北朝にさかのぼります。
延元4年(南朝)、暦応2年(北朝、1339年)、京都をうかがう南朝方に対抗するため、北朝方の細川頼春が築いた城と言われてきた様ですが、
資料精査では、山城守護畠山義就が郡代役所として築城したと推定されています。



北朝方の細川頼春が築いたに関しては、『よみがえる日本の城』によると「歴史的根拠はなく、むしろ後に城主となる細川藤孝(幽斎)の正当性を強調するための創作である可能が高い(幽斎は頼春次男頼有の末裔)」としています。


戦国時代末期には淀古城と共に松永久秀、三好三人衆の属城となっていました。

観音寺城の戦いで勝利した織田信長は、足利義昭を奉じて上洛する2日前の永禄11年(1568年)9月26日柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚ら4人の家臣に先陣を命じ、桂川を渡河し三好三人衆の岩成友通が守る勝竜寺城を攻撃させます。

岩成友通は足軽衆を全面に押し立て応戦したが、織田軍は精鋭の馬廻り衆を乗り入れ戦いを有利に進めて首級を50余りあげ、上洛を果たしていた信長の陣所である東福寺へ届けたとされます。

信長は、上洛を果たした翌9月29日に全軍に出陣を命じ、自身が5万兵を率いて勝竜寺城の攻略に向かいます。
畿内の広範囲を勢力下に置いていた三好三人衆でしたが、織田方の大軍を前に降伏開城を余儀なくされます。
これは、三好衆が観音寺城の戦いで近江守護六角義賢・義治父子が織田軍の上洛を防ぐと予想していたが、一日も経たずに観音寺城が落城したことが、少なからず影響したと考えられます。

その後信長は芥川山城、越水城、高屋城を攻城、降伏させていき、三人衆を阿波に追い出し畿内から掃討することになります。
元亀2年(1571年)、細川藤孝が山城西岡一帯を信長より与えられ勝竜寺城主となり、二重の堀を持つ堅固な城に改修したといわれます。

この頃の勝竜寺城槇島城と共に信長の山城の二大前線拠点としての役割を担っていたと思われます。

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(右が本丸楼閣、左が沼田丸の分かれ目になります。)
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(説明版、私の説明が無くても良いですね~!)
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(南門から歴史観です。ボランティアガイドさんがいらして、ご丁寧な説明をしていただきました。)

勝竜寺城は細川忠興・ガラシャ夫妻ゆかりの城としても有名です。
天正6年(1578年)8月、藤孝の嫡男忠興と明智光秀の娘お玉(細川ガラシャ)が勝竜寺城で盛大な結婚式を挙げ、新婚時代を過ごしたとされています。

CIMG6772.jpg
(細川忠興、玉夫妻の像が…とても仲が良い夫婦でした。天下分け目の関ケ原で悲しい顛末を迎えるのですが。)
CIMG6773.jpg
(細川忠興のちに利久七哲「三斎」を名乗り、細川護熙総理は末裔になります。玉はガラシャの方が有名ですかね。)


細川藤孝は天正9年(1581年)に丹後に入封し、代わって村井貞勝の家臣矢部善七郎、矢部猪子兵助の両名が城主となったが、翌天正10年(1582年)、本能寺の変によって明智光秀の属城となる。
山崎の戦いで敗走した光秀隊退去の後は、翌日に明智軍を破った秀吉が勝竜寺城に入城しました。

日本史最大のミステリーですが今年新たな資料が見つかったのでご紹介いたしましょう。

今年6月、土佐(高知)の戦国大名、長宗我部元親が四国の領有権をめぐり、本能寺の変の直前に織田信長の命令に従う意向を示した手紙が見つかり、本能寺の変の動機解明につながる有力な新史料として大きな注目を集めました(新聞でも大きく扱われましたね)。
所蔵する林原美術館(岡山市)と、共同研究する岡山県立博物館によると、信長は当時、四国攻めの準備を進めており、元親との交渉役を任されていた明智光秀が恭順の意を示した元親との武力衝突を回避するため、本能寺の変を起こしたとする「四国説」を後押しする有力史料と評価されました。
つまり、自分が御膳立てをして、長宗我部元親の恭順を調整したにも関わらず、信長に四国征伐を開始されると、男としての矜持が立たないというところでしょうか。

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2016/09/07

流石は御三家筆頭!『名古屋城』

今回の中部地方城巡りも本当に(笑)最後に成りました。
最後は『名古屋城』です。
今回も写真満載?お楽しみください!

「市郎右衛門」の歴史ブログをお楽しみください。
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『名古屋城』は、尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区・北区)にある城跡(現存天守ではないので)です。
「名城」「金鯱城」「金城」の異名を持ち、日本100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されています。



名古屋城は、織田信長誕生の城とされる那古野城跡の周辺に、徳川家康が九男義直のために「天下普請(江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行わせた土木工事のこと。)」によって築城されました。

この時、各大名は関ヶ原で徳川方に味方した事を後悔したと思います(実質天下様の家康や将軍秀忠なら未だしも、いってみれば同格の筈の大名家なんですからね~(T^T))。

徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城として、明治まで利用されました。

CIMG6663.jpg
(追手門!さすが天下普請、でかい・大きい・分厚い石垣~!)

大阪城熊本城(熊本城と熊本の一日でも早い復興を願います。)とともに日本三名城に数えられているます(三名城の基準が難しいですね。)。
大天守に上げられた金の鯱は、城だけでなく名古屋の街の象徴にもなっています。

CIMG6664.jpg(早くも出ました~金鯱、よく光ってますね、尾張名古屋は城で持つとは、よく言ったものです。)

大小天守と櫓、門、御殿などの一部は昭和前期まで残存していましたが、名古屋大空襲によって大部分を焼失してしまいました。
戦後に天守などの外観が復元され、城跡は名城公園として整備されています(私が行ったときも、本丸御殿が再現公開されていました。)。

CIMG6672.jpg(再現されたばかりの本丸御殿の書院です。)
CIMG6673.jpg(まあ、とにかくきらびやかです。)
CIMG6674.jpg(私寅年、トラ好きですが~今年のトラは猫に成ってます。何の話~f(^_^;?)

歴史的には、戦国時代の前半に今川氏親が、尾張進出のために築いた柳ノ丸が名古屋城の起源とされます。
この城は、のちの名古屋城二之丸一帯にあったと考えられています。

1532年(天文元年)、織田信秀が今川氏豊から奪取し那古野城と改名しました。
信秀は一時期この城に居住し、彼の嫡男織田信長はこの城で生まれたといわれています。
のちに信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となリましたが、1555年(弘治元年)、信長が清須城(清洲城)に本拠を移したため、一時廃城にされました。

清須城は長く尾張の中心でしたが、関ヶ原の戦い以降の政治情勢や、水害に弱い清須の地形の問題などから、徳川家康1609年(慶長14年) に、九男義直の尾張の居城として、名古屋に城を築くことを決定、1610年(慶長15年)、西国諸大名の助役による「天下普請」で築城が開始されます。

普請奉行は滝川忠征、佐久間政実ら5名、作事奉行には大久保長安、小堀政一ら9名が任ぜられます。
縄張は普請奉行の一人である牧長勝、石垣は諸大名の分担によって築かれ、中でも最も高度な技術を要した天守台石垣は普請助役として加藤清正が築きました。
天守は作事奉行の小堀政一、大工頭には中井正清と伝えられ、1612年(慶長17年)までに大天守が完成しました。

CIMG6665.jpg
(加藤清正が普請した天守石垣かな?)
CIMG6668.jpg
(大きいですね~戦いに巻き込まれたことはありません?米軍に焼かれたのか?(;´・ω・))
CIMG6671.jpg
(特設階段から中に入れます。天守の中の記憶飛んでいます。涙)

名古屋城築城普請助役としては、加藤清正以外に、寺沢広高、細川忠興、毛利高政、生駒正俊、黒田長政、木下延俊、福島正則、池田輝政、鍋島勝茂、毛利秀就、加藤嘉明、浅野幸長、田中忠政、山内忠義、竹中重利、稲葉典通、蜂須賀至鎮、金森可重、前田利光の外様大名が石に刻印を打って石垣工事を負担し延べ558万人の工事役夫で僅か1年足らずで石垣を完成させています(この大名が関ヶ原で西軍についていたならと思いますけれどね~f(^_^;)。

清須からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施した1612年(慶長17年)頃から徳川義直が名古屋城に移った1616年(元和2年)の間に行われたと思われます。
この移住は清須越しと称され、家臣、町人はもとより、社寺3社110か寺、清須城小天守も移るという徹底的ぶりでした。



戦国末期の物語も興味深いですが、江戸末期~明治維新時代のお話も少しいたしましょう。

尾張徳川家第十四代当主徳川慶勝(十七第も務めています。)は美濃高須松平家の出身です。
美濃高須松平家は、江戸時代、美濃国石津郡高須(岐阜県海津市)付近を領有し、尾張徳川家御連枝である事から江戸中期以降は尾張徳川支家でした。
美濃高須家の祖は、御三家尾張徳川第二代、徳川光友二男松平義行で、高須家は小さいながらも神君家康の血が流れています。

高須家(三万石)の第十代当主松平義建には子が多く、息子達は、「高須四兄弟」を始めとして多くが幕末期に活躍しました。
義建の次男は尾張徳川家第十四代当主徳川慶勝(慶勝は十七第も努めて居り、名古屋城最期のお殿様です。)となり、三男は石見浜田松平家当主松平武成となり、五男は高須松平家第十一代当主松平義比となった後に尾張徳川家第十五代当主徳川茂徳、さらに後には御三卿一橋家当主一橋茂栄となっています。
七男が幕末に活躍した会津松平家当主松平容保京都守護職として徳川宗家を支え美濃高須松平家から養子に入った人物です。
九男桑名松平家当主松平定敬となり、十男義勇高須松平家第十三代当主となっています。

つまり義建の子息達「高須四兄弟(何で四兄弟だけ特別?)」は、次男尾張徳川家当主徳川慶勝五男一橋家当主一橋茂栄七男会津松平家当主松平容保(京都守護職)九男が桑名松平家当主松平定敬(京都所司代)と、それぞれ幕末から明治維新にかけてそれぞれ大きな役割を担い、歴史に名前を残しています。

家に入れば家を守る!時代の流れとはいえ、兄弟で分かれて戦わなければならないのは考えさせられます。

CIMG6675.jpg(最後に、「名古屋おもてなし武将隊」あんまり?全然傾いていない前田慶次さんです~!)


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