2017/08/12

桃太郎の正体は誰だ!犬・猿・雉は?吉備『鬼ヶ城』を訪ねて!

先日市郎右衛門が岡山(吉備の国)へ取材旅行へ行ったのは皆さん周知の事実ですね。岡山といえば桃~~~!と思われていらっしゃると思いますが、何と桃生産高1位は山梨県です。それでは2位?残念ながら福島県です。なんと岡山県はベスト5にも入らず6位なのです。
それではなぜ桃のイメージが岡山県に定着しているのでしょう?


やはり「桃太郎伝説」ですか?(笑)実は桃太郎ゆかりの地とされる場所は全国にあります。その中でも岡山県は(吉備の国)江戸時代の地元土産品「吉備団子」と同音の黍団子、(一寸キツイこじ付けですけどね)、をつなげさせるなどして、全県を挙げての宣伝活動を行いました。そのおかげでゆかりの地として全国的に有名になりましたが、「吉備団子」と作中の「黍団子」との関係は証明されて居ません。

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(皆さんどうですか~~~!再現された西の門鬼の城のイメージ出ていますか?)


今回はそんな吉備の国で鬼ヶ島ならぬ「鬼ノ城(キノジョウ)」をご紹介します。鬼が出るか蛇が出るか?はたまた桃太郎の伝説はどうなんだよ~~~!

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(展望台から「鬼の城」全景を望む!西門(復元・右)角楼(左))
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(散策コースを歩いていくと、出た~て感じですね。)
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(西の門、直ぐに入りたいのを我慢して周りを探索してみます。)

【昔話桃太郎超簡単あらすじ】

むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。ある日、おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました(懐かしの定番ですね(#^.^#))。
おばあさんが川で洗濯していると、「どんぶらこっこどんぶらこ」と、川上から大きな桃が流れてきました。おばあさんはその桃を家に持ち帰りました。

桃を食べようと割ったところ、桃の中から元気な男の子が飛び出しました。子どもがいなかったおじいさん、おばあさん大変喜んで、桃から生まれた男の子に桃太郎と名付け、大事に育てました。

大きく成長した桃太郎は、鬼ヶ島へ鬼退治に行くことになりました。おばあさんが作ってくれたきび団子を腰にぶらさげ鬼ヶ島へと出発しましたが、道中、犬、猿、キジが順番に現れ、きび団子を欲しがります。桃太郎は、鬼ヶ島へ同行することを条件に、きび団子を分け与えます。

犬、猿、キジの3匹は桃太郎の家来となり船で鬼ヶ島へと向かいます。鬼ヶ島では鬼たちが酒盛りの真っ最中で、奇襲を仕掛けた桃太郎と3匹の家来は大勝利、鬼が悪行を重ねて集めた宝物を荷車に山積みにして村へと持ち帰りましたとさ。おわり!(簡単に過ぎるわの謗りも承知でお受けします、笑)

【桃太郎原作?】

さて、桃太郎伝説の原作とも言えるお話は、第7代孝霊天皇の第3皇子・彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、吉備津彦命)、稚武彦命(わかたけひこのみこと)の兄弟が、吉備国(岡山)の鬼・温羅(うら)を退治して吉備国を平定したことが語り継がれて、室町時代以降、江戸時代に曲亭馬琴の草双紙「童蒙話赤本事始」が初版本で五大昔噺の冒頭を飾り、その後、「桃太郎」、「桃太郎昔話」などが出版され、広く世に広まりました。
1887年(明治20年)に国定教科書にも採用されて皆の知るところとなって、1894年(明治27年)巖谷小波により「日本昔話」にまとめられました。

その様な訳で、岡山の吉備津彦神社で吉備津彦命が祀られて、岡山の桃太郎になり、また、岡山の沖と云うよりも高松の屋島の沖に鬼が島(女木島)があったりして、岡山の桃太郎が有名になりました。
桃太郎の話は岐阜県の木曽川の辺りを始め、全国にもあるようです。なお、桃の収穫量の話ですが、岡山県で桃の栽培が始まったのは明治時代以降で、昔話ではありませんよ(笑)。

【それでは私が訪れた、鬼城山(鬼ノ城)とは何なの?】

『鬼ノ城(きのじょう)』は、岡山県総社市の鬼城山(きのじょうさん)に築かれた、日本の古代山城(神籠石式山城)です。
城跡は、1986年(昭和61年)3月25日に指定された国指定史跡「鬼城山」に含まれています。

城郭構造:古代山城(神籠石式山城)、築城主(推定)大和朝廷と考えられます。
築城年:(推定)7世紀後半に作られて、荒廃城年も不明です。
遺構:城門、角楼、石塁、土塁、水門、敷石指定文化財国の史跡「鬼城山」に含まれています。
再建造物:城門、角楼。

当時の倭朝廷は、乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)は、中大兄皇子、中臣鎌足らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代のクーデターの後、大化の改新のを行った中大兄皇子(天智天皇)ですが、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗してしまいます。
大和朝廷は倭(日本)の防衛のために、対馬~畿内に至る要衝に様々な防御施設を築きました。鬼ノ城は史書に記載が無い上に、築城年も不明ですが、発掘調査では7世紀後半に築かれたとされている事から、唐・新羅連合軍に対する防衛拠点の一つではないかと考えられます。

鬼ノ城は、吉備高原の南端に位置し、標高397メートルの鬼城山の山頂部に所在してあます。すり鉢を伏せた形の山容の7~9合目の外周を、石塁・土塁による城壁が鉢巻状に2.8キロメートルに渡って巡っています。城壁で囲まれた城内の面積は、約30ヘクタール、城壁は土塁が主体で、城門4か所・角楼1か所・水門6か所などで構成されます。そして、城壁を保護するための敷石の発見は、国内初のことでした。城内では、礎石建物跡7棟・掘立柱建物跡1棟・溜井・烽火場・鍛冶遺構などが確認されました。西門と角楼や土塁は復元され、その他、城門・水門・礎石建物跡・展望所・見学路などの整備とともに、「鬼城山ビジターセンター」と駐車場を整え、「史跡・自然公園」として一般公開されています。

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(角楼跡です。)
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(中国、朝鮮半島の城を再現した造りに成っているようです。)
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(角楼から見た西の門です。)
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(城の内側に張り巡らされている敷石、かなりの幅が有ります。)
P7290276.jpg(柵が出来る前の敷石に成ります。)


城壁は、幅7メートル×高さ6~7メートルの版築土塁が全体の8割強を占めています。しかし、城壁最下の内外に1.5メートル幅の敷石が敷設されており、石城の趣が強いようです。そして、防御正面の2か所の張り出しは、石垣で築かれています。流水による城壁の崩壊を防止するための水門が、防御正面に集中しています。城壁下部の2~3メートルに石垣を築いて水口を設け、通水溝の上部を土塁で固めた水門が4か所あります。他の2か所は、石垣の間を自然通水させる浸透式の水門です。また、水門の城内側の2か所の谷筋で、土手状遺構が発掘されました。土石流や流水から城壁を守るためと、水を確保するための構築物であるとかんがえられます。そして、第10水門の城壁下部で、マス状の石囲の浅い貯水池が発掘され、多くの木製品が出土しています。
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(正面側に積み上げられた城壁の石垣です。)
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(排水施設も確認されています。七世紀の時代にと考えると見事ですね。)

城門は、防御正面に東門・南門・西門、防御背面に北門の4ヵ所が開きます。主の進入路と思われる場所に西門があり、西門の北側約60メートルの隅かどに角楼がありました。各々の城門は、門礎を添わせた掘立柱で、門道は石敷きである。西門は平門構造で、他の門は懸門構造になっています。

城内の中心部には、食糧貯蔵の高床倉庫と思われる礎石総柱建物跡5棟、管理棟と思われる礎石側柱建物跡2棟が発掘されました。また、12基の鍛冶炉の発掘は、鉄器製作の鍛冶工房とされ、羽口・鉄滓・釘・槍鉋・砥石などが出土しています。他の出土遺物は、須恵器の円面硯・甕・壺・食器類に加え、土師器の製塩土器・椀・皿などです

鬼ノ城は、山城に必要な設備がほぼ備わっています。未完成の山城が多い中で稀な完成した古代山城といえますね。

瀬戸内海は、いにしえから海外交流交易の主海路でした。東端の難波津(港)の西方、約180キロメートルに吉備津は位置すします。吉備津港の西方、約240キロメートルに那大津港の博多湾があります。吉備津は、東西航路のほぼ中間点に位置するのです。鬼ノ城の山麓一帯は、勢威を誇った古代吉備の中心部であり、鬼ノ城は吉備津から約11キロメートルの距離感です。

鬼ノ城は、いにしえから吉備津彦命による温羅退治の、伝承地として知られていました。苔むした石垣が散在する状況から、城跡らしいと判断され、「キのシロ」と呼んでいました。「キ」は、百済の古語では城を意味し、後に「鬼」の文字をあてたにすぎません。「鬼ノ城」は「シロ」を表す、百済と倭との言葉を重ねた名称です(偶然かも知れませんが)。

鬼城山の山頂では、眼下に総社平野・岡山平野西部・岡山市街が一望できます。児島半島の前方は瀬戸内海、海の向こうの陸は香川県に成ります。坂出市の「讃岐城山城」と高松市の「屋嶋城」が視野に入り瀬戸内海の往来を一望出来るわけですね。

【関連の歴史について少しだけ】

『日本書紀』に記載された、白村江の戦いと、防御施設の設置記事は下記の通りです。

663年(天智天皇2年)の白村江の戦いで、倭(日本)百済復興軍は、朝鮮半島で唐・新羅連合軍に大敗します。664年には対馬島・壱岐島・筑紫国などに防人と烽(とぶひ)を配備し、筑紫国に水城を築きます。665年には長門国に城を築き、筑紫国に大野城と基肄城を築く、667年には大和国に高安城・讃岐国に屋嶋城・対馬国に金田城を築城。この年、中大兄皇子は、大津に遷都し、翌年の正月に天智天皇に即位しました。

【とどのつまり】

P7290312.jpg(西門復元前の遺構です。ファンには再現されたものよりもマニアックで良いかな?)
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(これを攻めあがるのは難しいです。城を作ることが外的に対するものというより、倭の結束のためとも思われました。)
P7290310.jpg(素晴しいい景色、靄が無ければ、瀬戸内海まで見えるはずですが…)

鬼ノ城は、鬼が住んでいたわけでも無ければ、吉備国の鬼・温羅の城でも無かった。むしろ、桃太郎こと中大兄皇子が唐・新羅連合軍という「鬼?」から倭を守るための要塞だった訳ですね!其では桃太郎は天武天皇(中大兄皇子)として、猿は中臣鎌足(藤原鎌足)と成りますか?犬は鎌足の次男、藤原不比等、文献『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などの史料では天智天皇の御落胤と書かれていますし、諡号は文忠公(犬公にぴったりです。)、最後の雉ですが、中大兄皇子に上手く利用された?朝廷に滞在し、百済復興を図った百済王子・扶余豊璋でしょうか?

【トドのつまりうんちく~~~!】

とどは魚のボラの名前の事です。とどは、いな、ぼら、とどと名前を変える魚(出世魚)なのですが、鰤(ぶり)や鱸(鱸)など他の出世魚に比べると味が相当落ちる?魚です、(ぼらは、泥臭いような独特のにおいがあり、一度焼いてから煮るなどの工夫をしないと食べにくい魚です。住処によって違うと思いますが、汽水域に生息すことが多いのでなのかもしれません。)。

このことから、「出世したところで、たいしたものにならない。行き着いたところで、たかが知れている。」等の意味で、「とどのつまり」という語が使われています。更に、「良くない計画を進めていて、結局行き詰った」というような場合にも使われますね。

さて、鬼ノ城は、2006年4月6日に日本城郭協会が選定した、日本100名城(69番)に選定されています。



最後に、伝説は謎が多ければ面白いですよね!是非「鬼ノ城」出掛けてみて下さい。トレッキングとしても中々楽しいですよ(笑)。
山道は整備されて居ますが、靴は最低スニーカーをお勧めします。
更に鬼ヶ城の登り口には、総社市砂川公園が有って、キャンプやBBQに川遊びも出来るので、家族で是非お出掛け下さい。

お問い合わせは砂川公園管理事務所(TEL0866-92-1118)
キャンプ場使用料、宿泊利用1000 円/区画 (テント設営)日帰り利用500円/区画 (バーベキュー等)

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リュミエールブラン ネージュ

2017/07/30

市郎右衛門は裏鬼門の呪いを解いたのか?「明石城跡」

前回、写真が多過ぎて、選ぶのに苦労したばかりか、取材旅行中で未完成なブログをUPする不手際で申し訳ありませんでした。思い出話が過ぎてしまい、「歴史ブログもとしては、一寸な~」と思われた方々も多かったのでは無いでしょうか?その分今回はしっかり行きますよ~(^^)b

さて、明石城が造られ始めた1617年(元和3年)は、1615年の大阪夏の陣も終わり、徳川将軍家にとっては、戦後処理を考えた大名の転封が非常に多く行われた時期になります。

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(巽櫓、この角度が一番綺麗です。)

明石城も西国外様大名の抑えとして、譜代大名が次々に転封されています。もうひとつ西に有る姫路城との二段構えに成っているのです。

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明石城は、兵庫県明石市に在り、明石公園として整備されています。旧明石藩の政庁と藩主の居所が置かれ、別名、喜春城(きはるじょう、きしゅんじょう)又は錦江城(きんこうじょう)とも呼ばれています。本丸付近には柿本人麻呂を祀った人丸塚があったと言われており実際に古墳らしき小さな丘が有ります。



P7140456.jpg(高さは2m位、柿本人麻呂が眠っているのか?小さな円墳程度の大きさです。)

【柿本人麻呂って誰?】

柿本人麻呂(かきのもと の ひとまろ、斉明天皇6年(660年)頃~神亀元年(724年)3月18日)は、飛鳥時代の歌人です。名は「人麿」とも表記されます。後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられています。また三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されています(短歌の達人ですね)。

【さてややこしい江戸時代の説明】

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(巽櫓と坤櫓良い感じです。)
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(後ろに明石大橋を従える巽櫓高いので展望台?が有りました。)
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(本丸公園から巽櫓を眺める。)
P7140449.jpg(狭間です弓矢や鉄砲を安全に打てます。)

1617年(元和3年)信濃松本より明石へ転封となった小笠原忠真は、明石城の西方明石川河口西岸にあった船上城に入城しします。譜代大名たる小笠原氏10万石の居城として城郭を建設するよう、同年2代将軍徳川秀忠より築城命令されました。当時姫路城の城主であった本多忠政と小笠原忠真は相談しながら(忠政は忠真の義父にあたります)、築城から町割りまで行ったようです。当初三ヵ所が検討されたが、人丸山(赤松山)には大きな池があり城の防備に役立つとして人丸山に決定されました。徳川秀忠は旗本の都筑為政、村上吉正、建部政長らを普請奉行として派遣するとともに、築城費として銀一千貫を支給したと言われます。

人丸山の地の利を利用し、三木城、高砂城、枝吉城、船上城の木材を使用し着工され、坤櫓は伏見城、巽櫓は船上城の遺材が使用されたと伝えられています。元和5年(1619年)正月から作事が始まり、元和6年(1620年)正月には小笠原忠真が船上城から移り住み、同年6月から城内の建物関係の工事が開始されました。このとき天守は台石まで積まれましたが結局建てられませんでした。

本丸を中心に配して、東側に二の丸、その東に東の丸が配され、南側に三の丸、西側には稲荷郭が設けられました。本丸、二の丸、東の丸は明石城の主郭部分で、この部分の石垣、土塁、堀などの作事は徳川幕府が担当し、三の丸と町屋に関しては、小笠原氏と徳川幕府の共同事業として進められました。

本丸の西南に天守台の広さは約152坪有ります。広さから推察すると5重規模相当の天守が築かれる予定でしたが、天守は建設されず、四隅に巽櫓、坤櫓、乾櫓、艮櫓が建設されました。天守台の規模を考えると熊本城天守と、ほぼ同じ広さだそうです。ただ、堀とか石垣も中途半端な感じもありますので、平和な時代が訪れたことで役所以上の戦略的意味が喪失したのではないかと思います。

『日本城郭大系』によると「坤櫓が天守の代用となっている」となっていると記載されています。4基のうち南側の2棟、すなわち巽櫓(たつみやぐら、南東側)、坤櫓(ひつじさるやぐら、南西側)が現存し国の重要文化財に指定されています。巽櫓・坤櫓の棟(破風)の方向は実際とは違っています。西側は明石川を自然の外堀とし、南側は運河を掘って港を兼ねた外堀(現在の明石港)としました。北側は鴻の池(剛の池)と自然林、谷筋で防備を固めています。艮櫓(うしとらやぐら)は神戸相生小学校(現在の湊川小学校)の建築用材とするため解体利用されました。

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(艮櫓の調査説明版です。ハッキリ北東方向に在るのが分かります。)
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(大きな木の根と見間違うかもしれませんが、艮櫓の石組です。)

築城と並行して城下町の町割りも実施され、当時小笠原忠真の客分だった宮本武蔵が指導したと『赤石市中記』『播磨鑑』『播州明石記録』『小笠原忠真一代覚書』など各史書に記録されています。平成15年、三の丸に「武蔵の庭園」を整備し一般公開してます。

P7140504.jpg(流石明石ともなると、案内板もカラフルです。真ん中下の武蔵の庭園に注目~!宮本武蔵の才能は凄いです。)
P7140493.jpg(本丸と二の丸の間の谷に成ります。)
P7140511.jpg(向こうに見える石垣が東の丸に成ります。)
P7140498.jpg(こちらは二の丸公園)

【歴代城主の皆さん(転封が多すぎて記憶に残らないかも)】

苦心して明石城を築城した小笠原忠真ですが、1632年(寛永9年)豊前小倉藩(小倉城)に転封となります。翌1633年(寛永10年)信濃松本藩より 松平庸直(戸田氏)が7万石で入城しましたが、急死したため松平光重が城主となった。しかしその松平光重も1639年(寛永16年) が美濃加納藩(加納城)に転封となると、大久保忠職が7万石で入城しますが、1649年(慶安2年)のわずか10年間で肥前唐津藩(唐津城)に転封してしまいます。
その後、丹波篠山藩より松平忠国が7万石で入城、その子・松平信之と共に名君として知られ、林崎掘割の用水路や一里塚の設置、海岸の防風林の造成、そして多くの新田の開発に努めました。文化人でもあったらしく城内十景を選んでこの時に「喜春城」の名を付けています。しかしその松平信之も、1679年(延宝7年)大和郡山藩(郡山城 (大和国))に転封となると、代わりに郡山城 にいた本多政利が6万石で入城します。しかし、領内を収める事ができず1682年(天和2年) 僅か3年後、苛政を責められ陸奥岩瀬藩に1万石に減知転封となり、その後改易になっています。
僅か50年の間に城主が目まぐるしく入れ替わったのですが、本多氏転封の後、越前家の松平直明が6万石で入城し、以後明治維新まで10代、189年間親藩として松平氏の居城となりました(やっと平穏な日々)。各城の遺材を集めて築城したせいか、老朽化が早く第2代藩主松平直常の1739年(元文4年)には大修築が行われました。最後の明石城主は松平直致で、1874年(明治7年) 廃城令により廃城となっています。

【明石城は裏鬼門?】

鬼門(きもん)とは、北東(「艮」うしとら:丑と寅の間)の方位のことです。陰陽道では、鬼が出入りする方角であるとして、万事に忌むべき方角とされています。他の方位神とは異なり、鬼門は常に艮の方角にあります。鬼門とは反対の、南西(坤、ひつじさる)の方角を裏鬼門(うらきもん)と言い、この方角も鬼門同様、忌み嫌われるのです。私が住む神戸北区から見ると正に南西(坤、ひつじさる)の方角を裏鬼門(うらきもん)に成りそうです(笑)。でも前回の佐用高校の勝利で(三回戦も勝利しました)私の鬼門疑惑も晴れました。
以前もお話いたしましたが「鬼」は虎皮のパンツに牛の角が基本ですよね、これも丑寅の方角から来ています。

【「13人の刺客」という映画のお話】

明石の殿様といえば、これまた以前に「13人の刺客」という映画を見ました。「十三人の刺客」のあらすじは、弘化元年、明石藩江戸家老間宮図書(内野聖陽さん)が、筆頭老中土井利位(平幹二朗さん)邸の門前で明石藩主松平斉韶(元SMAPの稲垣吾郎さん)の暴政に抗議の訴状と共に自決します。斉韶の異常性格と暴虐ぶりがこの事件によって幕閣の知るところとなりますが、将軍徳川家慶の弟である斉韶を幕閣は容易に処罰できません。しかも事情を知らない将軍が斉韶を老中に抜擢する意向を示したことから、老中土井利位は暴君斉韶の暗殺を企てるという筋立てです。

利位は予てから信任を置いていた御目付役旗本島田新左衛門(役所広司さん)に斉韶暗殺を命じるのですが、島田新左衛門が暗殺と言う姑息な手段で?老中にて裁きを下し将軍を説くべきだと正論を進言しますが、斉韶の前回の参勤交代の折、尾張領、木曽上松陣屋にて尾張藩士、牧野靭負(松本幸四郎さん)の息子・妥女(斉藤工さん)の嫁、千世(谷村美月さん)を手込めにし、千世を探しに来た妥女をメッタ刺しに惨殺し、千代も自害させられるも斉韶には何のお咎めもなしという理不尽極まりない仕打ちをされた牧野靭負と引き合わされ事情を聞き、身震いがするほどの憎悪感が画面から伝わって来ました。殿様の余りの凶悪さに、当時はまだアイドルグル-プSMAPの一員だった稲垣吾郎さんのアイドルとしての役目は終わったなと思ったほどでした。よろしければ近頃時代劇が余り無いので是非ご覧ください。



【最後の最後に!お城に関係ない歴史の話】

明石城が造られた1617年(元和3年)と言えば、鳥取藩の町人が日本海に浮かぶ竹島を発見した年にあたります。当然ですが竹島には一人の人間も住んでおりませんでした。その変わりに竹島を天国として生息していたのは、今や絶滅に追いやられてしまった、我が国固有の海獣「日本アザラシ」だったのです。竹島の領有権を示す、大きな一次資料の一つをここで明石とは関係ないのですが、付け加えておきます。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/07/27

裏鬼門?高校野球とお見合いと私!「明石城跡」を三度訪ねて。

明石城に訪れたのは今回で三度目です。話せば古いお話なのですが、最初は1979年の夏の兵庫県高校野球夏の大会四回戦?でした(同級生の皆さん、記憶が違ってたら訂正して下さい)。我高校は珍しく?強くて勝ち進み、ベスト16をかけた戦いを明石城の明石球場(現在の明石トーカロ球場)で行いました。結果は武庫之荘高校(現在は武庫之荘総合高等学校!舌嚙みそうだ)と対戦し5対2で敗北してしまいました。あの時の落胆!出場している選手の気持ちは私などと比べ物にならないでしょう。雪深い但馬の高校が阪神間の高校に勝つのは大変な事です。事実我が母校は兵庫県で神戸高校と並んで二番目の歴史を持ちながら、一度も甲子園大会に出たことは有りません。

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(流石!と声を掛けたくなる明石城址左が坤櫓、右が巽櫓です。)

二度目は20数年前になんと初めてのお見合いをいたしまして、見事に振られてしまいました。きっと明石城には何か私にとって、良からぬ事が有るのではないかと「三度目の正直」を確認しに訪れて来ました。

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【明石城ってどんな城?】

P7140421.jpg(JR明石駅からすぐ!山陽電鉄明石駅もすぐです。)
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(天主閣の変わりといわれる坤櫓、確かにです。)
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(本丸内からはイメージが湧きませんが、石垣をつけるとほら、天守でしょ!)
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(石垣の内と外ではこんなにも違うのですからね~。)

明石城はJR明石駅北側に位置し、駅ホームより間近に望める事が出来ます。縄張りは連郭梯郭混合式の平山城に成っています。丘陵舌端に築かれ、本丸付近は柿本人麻呂を祀った人丸塚があったと言われており(それらしき小山が有ります)、この地は嘉吉の乱で激戦地となりました。

P7140456.jpg(本丸付近は柿本人麻呂を祀った人丸塚こんもり古墳の様でした。)


「嘉吉の乱(かきつのらん)」とは、室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が、室町幕府6代将軍足利義教を暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱の事です。

城郭構造は連郭梯郭混合式平山城で天守構造は有りません(天守台はあります)築城主は小笠原忠真、築城年1618年(元和4年)です。
主な改修者は松平直常で、主な城主としては松平氏(越前系)に成ります。廃城年1874年(明治7年)ですがその後、遺構櫓、石垣、堀、移築門が指定文化財、巽櫓・坤櫓は国の重要文化財に指定されました。城跡が国の史跡に指定されています。

P7140411.jpg(坤櫓なのですが、左の石垣カーブが本来天守の石垣です。)
P7140434.jpg(五層程度の天守が作られていても不思議は無かった出すね。)

明石の地は、山陽道が通り、北には丹波国、但馬国への道が分かれ、淡路島、四国のルートがあり、古来より交通の要衝でした。徳川幕府が西国の外様大名の抑えの城として、姫路城についで着目し築城しました。
現在中堀の内側は兵庫県立明石公園として整備され、日本さくら名所100選に指定されています(そういえば桜綺麗ですね)。櫓や石垣は1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災で被害を受けましたが全面修復されています。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(58番)に選定されました。

【三度目の正直は?】

P7140432.jpg(37年位前にあの同じスタンドで必死で応援してたんですよね、懐かし)
P7140406 (2)
(第三試合、応援した佐用高校は三田学園に勝利しました~!)

この日城址公園明石トーカロ球場で開催されていた夏の高校野球大会第三試合は私の父が高校教師時代、校長として最初に赴任した佐用高校でした。野球部の部長さんらしき先生に話しかけみると、「ええ!覚えています。お世話に成りました」と父の事もご存知でした。隣に居られたお父様も「高校一年生の時の校長先生でした」との事、嬉しくなって、帰りに電話してみました。父も殊の外喜んで居りました。そして二回戦佐用高校は見事に勝ちをおさめたのでした。明石方面はもう裏鬼門じゃないな~!卵焼き食べに行こう(笑)


明石焼き(卵焼き)がたこ焼き全くの別物と知っておられましたか?以前東京の友人を連れて明石焼きを食べた時、出されたダシをお茶と勘違いして飲んでしまって大笑いした経験が有ります。本場の味を是非ご賞味ください。

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リュミエールブラン ネージュ
2017/06/09

「戦いに生き・信仰に死す」殉教者『高山右近』福者に認定②!

今回は「戦いに生き・信仰に死す」と題して「高山右近」を御紹介します。
今日は、前回とは逆に「戦国武将」としての高山右近を取り上げます。

P6040276.jpg
(「太平記英雄伝」より戦国時代には用いない大鎧に薙刀で床机に座る右近!)


前回とは全く逆の、凛々しい?錦絵から御紹介です。
やはり戦国武将なんですよね~(^^;
余りのイメージの違いに驚かれたかもしれませんf(^_^;

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【高山右近の戦!高槻城主編】

P6040181.jpg(こちらの裏側が本丸辺りに成ります。)
P6040177.jpg(前回も申しましたが。高山右近の時代は城も整備されていません。)

高山氏は摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人領主でした。
出自は秩父氏の一派の高山党の庶流とも甲賀五十三家の一つともいわれています。

父の友照が当主のころには、当時畿内で大きな勢力を振るった三好長慶に仕え、三好氏の重臣・松永久秀にしたがって大和国宇陀郡の沢城(現在の奈良県宇陀市榛原)を居城としていました。

そうした中、右近は天文22年(1553年)に友照の嫡男として生まれます。
永禄6年(1563年)に10歳(数え12歳?)でキリスト教の洗礼を受けたようです。
それはが友照が奈良で琵琶法師だったイエズス会修道士・ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためでした。

永禄7年(1564年)、三好長慶が没すると三好氏は内紛などから急速に衰退し、高山氏の本来の所領がある摂津国においても豪族の池田氏・伊丹氏などが独自の力を強めていきました。

永禄11年(1568年)に織田信長の強力な軍事力の庇護の下、足利義昭が15代将軍となると状況は一変します。
義昭は摂津国の土着領主の一つである入江氏を滅ぼすと、直臣である和田惟政を高槻城に置き、彼と伊丹親興・池田勝正を加えた3人を摂津守護に任命しました(摂津三守護)。
高山父子はこの和田惟政に仕えることとなります。

元亀2年(1571年)、和田惟政が池田氏の被官・荒木村重と中川清秀の軍に敗れて討死し(白井河原の戦い)、まもなくその村重が池田氏を乗っとるかたちに成ります。
村重は信長に接近して「摂津国の切り取り勝手(全域の領有権確保)」の承諾を得ると、三好氏に再び接近した伊丹氏を滅ぼし
、摂津国は石山本願寺が領有する石山周辺(現在の大阪市域)を除き、村重の領有となりました。

和田惟政の死後高槻城はその子・惟長が城主となりましたが、17歳と若年だったため、叔父の和田惟増が彼を補佐することに成ります。
しかし惟長は何を思ったのか、この叔父を殺害してしまいます。

これにより高山家が和田惟長の主だった相談役とりましたが、これを良く思わない和田家臣たちは、惟長に高山親子の暗殺を進言します。
高山家には「惟長は好機があり次第、高山親子を殺すことに決めた」という知らせが届いていましたが、友照はこの事を荒木村重に相談、村重は「もしそうであるなら殺される前に殺すべき、自分は兵をもって援助する。」と言い、惟長の所領から2万石を与えるという書状を与えます。

元亀4年(1573年)3月、惟長は反高山派の家臣と共に、高山父子を話し合いと偽って呼び出しに成功します。
高山父子は仲間から呼び出しが罠だと聞かされていましたが、14~15名の家臣を連れて高槻城へ赴き、待ち構えていた惟長らと斬り合いになります。

夜だった上に乱闘で部屋のロウソクが消えてしまい真っ暗な中、右近は火が消える直前に惟長が床の間の上にいるのを確認、火が消えるとすぐさま床の間に突っ込んで、腕に傷を受けつつも惟長に二太刀の致命傷を負わせました。
だが、騒ぎを聞いて駆けつけた高山の家臣達が加勢すると、そのうちの1人が誤って右近に斬りつけ、右近は首を半分ほども切断するという大怪我を負ってしまいます(半分は言い過ぎ違いますか?)。
およそ助かりそうにない傷でしたが、右近は奇跡的に回復し、一層キリスト教へ傾倒するようになりました。
一方、惟長は輿に乗せられて家族や家臣たちと和田家の生国・近江国甲賀郡へ逃れましたが、同地で死亡します。

この事件の後、高山父子は荒木村重の支配下に入る事になります。
村重は既に信長から摂津一円の支配権を得ていたため、この事件は問題にされることもなく、高山父子は晴れて高槻城主となることができました。
2人はまもなく高槻城の修築工事を行い、石垣や塗り壁など当時畿内で流行しつつあった様式を取り入れました。

P6040265.jpg(西国街道の位置と比べると重要な要害なのが解りますね!側面を突かれると終わりです。)
P6040258.jpg(こちらはかなり新しい江戸中期の高槻城、守りも固くできていますね!)
P6040330.jpg(だそうです(;^_^A、枡形門とは、コの字型に入った敵を三方から攻撃できる防御門です。上の模型でも確認できます。)
P6040331.jpg(桜の根本の石がそうですが、右近は築城の技術にも優れていたようですね。)

【高槻城主変遷】

P6040176.jpg
(全国の城が破却されずに残っていたらどんなに凄いかといつも思います。)

室町時代は入江氏の居城でしたが織田信長に滅ぼされ、その後和田惟政、次いで高山右近が城主と成ります。
天正元年(1573年)からは本格的な城塞が築かれました。
豊臣氏滅亡後は内藤信正が城主となり、以降高槻藩の藩庁として用いられ、内藤氏の後は土岐氏、松平氏、岡部氏、永井氏とたびたび城主が入れ替わりますが、長井氏は十三代を数え廃藩置県を迎えます。

【天下人の影響による畿内動乱】

P6040196.jpg
(もう少し戦国武将としても評価されても良いのではないでしょうか?)

天正6年(1578年)、右近が与力として従っていた荒木村重が主君・織田信長に反旗を翻します(三木の別所氏に呼応する形です)。
村重の謀反を知った右近はこれを翻意させようと考え、妹や息子を有岡城(伊丹市錦絵城跡が残ります)に人質に出して誠意を示しながら謀反を阻止しようとしましたが重村の考えは変わりませんでした。
右近は村重と信長の間で苦悩し、尊敬していたイエズス会員・オルガンティノ神父に助言を求めました。
神父は「信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよ」とアドバイスしたようです。

高槻城は要衝の地(西国街道のそばです)であったため、信長はここをまず落とそうとします。
右近が金や地位では動かないと判断した信長は、右近が降らなければ畿内の宣教師とキリシタンを皆殺しにして、教会を壊滅させると脅迫までします。

城内は徹底抗戦を訴える父・友照らと開城を求める派で真っ二つに別れました。
懊悩した右近は信長に領地を返上することを決め、紙衣一枚で城を出て、信長の前に出頭しました(豊臣秀吉の前に出た伊達政宗ですね)。
村重は城に残された右近の家族や家臣、人質を殺すことはしませんでしたが、結果的に右近の離脱は荒木勢の敗北の大きな要因となりました(後に村重の重臣であった中川清秀も織田軍に寝返っています)。
この功績を認めた信長によって、右近は再び高槻城主としての地位を安堵された上に、2万石から4万石に加増されました。

天正10年(1582年)6月に「本能寺の変」で信長が没すると、明智光秀高山右近中川清秀の協力を期待していたようですが、右近は高槻に戻ると羽柴秀吉の幕下にかけつけました。
まもなく起こった「山崎の戦い」では先鋒を務め、清秀や池田恒興と共に奮戦、光秀を敗走させ、清洲会議ではその功を認められて加増されています。
また、本能寺の変後の動乱で安土城が焼けると安土のセミナリヨ(イエズス会司祭・修道士育成のための初等教育機関、小神学校のこと)を高槻に移転しています。

「賤ヶ岳の戦い」では岩崎山を守るものの、柴田勝家の甥・佐久間盛政の猛攻にあって清秀は討死し、右近はやっとのことで羽柴秀長の陣まで撤退して一命を保ちました。
この件では助かったことで、勝家への内通を疑われ、天正11年5月16日(1583年7月5日)には一時、居城・高槻城を攻められています(多聞院日記)。
その後も「小牧・長久手の戦い」「四国征伐」などにも参戦しています。

秀吉からも信任のあつかった右近は、天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城としました。
しかし、まもなくバテレン追放令が秀吉によって施行されてしまいます。
キリシタン大名には苦しい状況となるが、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、世間を驚かせます。
その後しばらくは小西行長に庇護されて小豆島や肥後国などに隠れ住むが、天正16年(1588年)に前田利家に招かれて加賀国金沢に赴き、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らしました。

天正18年(1590年)の「小田原征伐」にも建前上は追放処分の身のままでありながら前田軍に属して従軍しています。

金沢城修築の際には、右近の先進的な畿内の築城法の知識が大きく役に立ったともいわれます。
また利家の嫡男・前田利長にも引き続き庇護を受け、政治・軍事など諸事にわたって相談役になったと思われます。

慶長14年(1609年)には、利長の隠居城・富山城の炎上により、越中国射水郡関野(現富山県高岡市)に築かれた新城(高岡城)の縄張を担当したともいわれます。

慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康による「キリシタン国外追放令」を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去しました。
長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着しました。
しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに熱病にかかります。
翌年の1月6日(1615年2月3日)に息を引き取ります(享年63)。

P6040283.jpg
(高槻カトリック教会の式場ですか?十字架の光が取り入れられていますね。)
P6040287.jpg
(その一番下にやはり高山右近のレリーフです。)


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2017/04/15

吉備国の立地は、戦国~江戸期に岡山城に何をもたらしたのか?

前回の続きですが、今日は吉備国の立地についても少し考察してみましょう。

吉備の国・岡山(岡山城)は古代から大きな勢力の間で、時代と供に東西どちらの味方と成るべきかの選択を迫られる事を繰り返してきたとのかも知れません。
古代には、大和と九州もしくは出雲国(山陰勢力)との間で戦国時代は毛利VS織田(羽柴)、のどちらに付くべきか選択を迫られたのではないでしょうか?

PB230070.jpg(天守閣を後楽園方面から望む。)

海上交通の観点からも、岡山県中南部の港は古代・中世から海運・軍事の要衝であり、江戸時代、風待ち潮待ちの場所として繁栄してきました。
瀬戸内海航路の要所であり、北前船や参勤交代の御座船も寄港し、人や物が集まる港として繁栄は幕末まで続きました。

吉備津彦?宇喜田直家も時代は違えど、同じ様に悩んだのかも知れませんね(笑)

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岡山城は戦国~安土桃山時代に、備前東部から興り美作・備中東部まで勢力を伸ばした宇喜多氏が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれ、その後小早川氏、池田氏により整備、拡張が行われました。

【池田家の治世の始まりと岡山城】
「池田輝政」は、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、父の恒興と兄の元助が討死したため家督を相続(家康は親と兄の仇なんですけどね~(^^;)、関ヶ原の戦いでは東軍に付き岐阜城攻略の功績から播磨姫路52万石に加増移封され、初代姫路藩主となりました。

慶長16年(1611年)3月には、二条城における家康と豊臣秀頼との会見に同席しています。
慶長17年(1612年)、正三位参議、および松平姓を許され「播磨宰相」「姫路宰相」などと称されます(失礼ながら家康の飼い犬に成っちゃた。)。
また、次男・忠継の備前国岡山藩28万石、三男・忠雄の淡路国洲本藩6万石、弟・長吉の因幡国鳥取藩6万石を合せ、一族で計92万石(一説に検地して100万石)もの大領を有しました。
徳川家との縁組、(家康の次女督姫を継室にしています。)は家格を大いに引き上げ、明治に至るまで池田家が繁栄する基盤となったのです。

さて岡山藩ですが、慶長8年、備前28万石は姫路城主池田輝政の次男忠継に与えられましたが、幼少(5歳)であったので兄の利隆「備前監国」として代政します。
利隆は「石山」の西端の西之丸を整備したと言われています。
慶長18年(1613年)に忠継は岡山城に入りましたが、慶長20年(1615年)に死去してしまいます。

PB230022.jpg(天守閣がこちらに在ったと考えていましたが、こちらで配置だけ再現していたようです。(;^_^A)
PB230037.jpg(天守閣から金鯱越しに後楽園を望む。)
PB230065.jpg(本丸と表書院の説明版ですね~空襲で燃えてます、残念ですね~涙。)
PB230058.jpg(西から天守への階段は味がありますね。下にはライトが有って夜はライトアップされているようです。)
PB230064.jpg(廊下門!蝶の家紋は池田家の物ですが、種類が結構あるようです。)

元和元年(1615年)、忠継の弟・忠雄が淡路島より31万5千石で入封します。
幕府の格式に見合った城とするため、忠雄は本丸中の段を大幅に北側に拡張し、本段の御殿に加え新たに表書院も設けています。
また大手の南門を造り替え、城下の西端を限る用水路の西川を整備するなどし、ここに岡山城の縄張りが完成したのでした。
PB230027.jpg
(元禄~宝永期の岡山の町割りです、南北に長い事と無理やりの河川工事は洪水が起きやすそうですね~。)

重要文化財に指定されている月見櫓はこの頃の創建とされ、中の段の北西角の隅櫓で一部地下付き、本葺き、総白漆喰塗籠の壁仕上げの二階建てです。
城外からは二層の望楼型、城内からは三層に見えます。

江戸期の縄張は「岡山」に本丸、二之丸内郭(東南の郭)、「石山」付近に二之丸内郭(西の郭)、西の丸が置かれそれらの南に二之丸、その西南に三之曲輪、中堀の外に三之曲輪の内、西に三之外曲輪の内という配置です。

本丸には天守の他に3つの御殿、大納戸櫓を含む高層(3層以上)の櫓が9棟(城全体では11棟)、さらに2層の櫓、櫓門が多数ありました。

石山の二之丸内郭には池田家祖廟、西之丸に前藩主の隠居所がおかれ、二之丸内郭(東南の郭)、二之丸は上級武士の屋敷地に成ります。
三之曲輪と三之曲輪の内の北側には西国往来が通り、町人地として領国経済の中心となっていました。

三之曲輪の内の南半分は小早川氏時代の武家地であり、三之外曲輪は武家地、外堀を隔てて寺町や下級武士の屋敷や町人町がさらに広がっていたようです。

寛永9年、(1632年)忠雄の子・光仲が鳥取へ転封し、入れ代わって鳥取から池田光政が31万5千石で入封します。
光政は利隆の子であり、姫路城で生まれたが、父の死後元和元年(1615年)に鳥取城主となっていました。
以後、幕末まで光政系池田氏の居城となりました(鳥取城も同じように池田氏が幕末迄居城としています。鳥取藩池田家の最後の城主は15代将軍慶喜の兄です。)。

明治2年(1869年)の版籍奉還により藩主・池田章政は岡山藩知事に任ぜられ、岡山城は藩の府城たる役割を終えて兵部省管轄、つまり存城となりました。
明治6年(1873年)の廃城令により順次建物の取り壊し・堀の埋め立てが行われていき、明治15年(1882年)頃までには、天守・月見櫓・西之丸西手櫓・石山門を残すのみとなってしまいました(残念)。
明治23年(1890年)、旧藩主池田章政に払い下げられた後、池田家は岡山県に提供し、明治29年(1896年)には本丸趾に県立岡山中学校が建てられました。

PB230019.jpg(岡山中学校の跡)


ちなみに我が母校の兵庫県立豊岡高校ですが、なんと同じく明治29年兵庫県立豊岡尋常中学校として創立されています。
現岡山高校かな?兄弟校と言えますね~。

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