2017/10/18

羽柴秀吉天下取りへの第二歩?「城持ち大名に躍進『長浜城』」

関ケ原を取材してきたので、関ケ原古戦場をご紹介したかったのですが、妻が司馬朗太郎原作の映画「関ケ原」を見に行きたいというので、それでは少し時代を遡る長浜城(ながはまじょう)をそれまでのつなぎにご紹介しておこうと考えて、本日は長浜城のご紹介です。

現在の長浜城資料館はもちろん模擬天守のコンクリート造りなので、秀吉が作った当時の城とは景観もかなり違うとおもいます。そのあたりも前座とは申しませんが、先に登場の要因の一つに成りました。

PA151790.jpg(言われてみれば「白帝城こと国宝・犬山城に似てます。)

しかしながら、天守展望台から四方を見渡すと。東は賤ケ岳古戦場から、浅井氏の小谷城や鉄砲で有名な国友村方面、南は彦根城や、その後ろに佐和山城跡、西を見ると安土城址や比叡の山々、北は三十三観音霊場でも有名な竹生島が一望できる素晴しい景観です。私が登城した当日はあいにくの雨に降られて残念な景観となってしまったのですが、天気が良い日には是非出かける価値はあります。


お得情報として、整備された駐車場が3時間(城内展示と散策には十分な時間です。)無料開放されていました。

さてそれでは、滋賀県長浜市公園町にある羽柴秀吉(豊臣秀吉)が築城した『長浜城跡』をご紹介しましょう。

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【秀吉の長浜城と城下町】

PA151777.jpg(駐車場は少し南側北に通りすぎると戻らなければなりません。)
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(本丸跡・天守閣跡もほんの少し北にあります。)
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(秀吉像・大阪城の豊國神社前の銅像がカッコイイです。)
PA151793.jpg(歴史博物館に成っていますが、古い古典資料の文字が読めたらな~。)

1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、浅井長政攻めの功績により織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に、当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名しました。小谷城で使用されていた資材や、あらかじめ、竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用し築城を開始しました。

他のブロガーさんもWikipediaのこの記載を使われていますが、古来、信仰の対象となった島で神の棲む島とも言われ、奈良時代に行基上人が四天王像を安置したのが竹生島は、南部には都久夫須麻神社(竹生島神社)、宝厳寺(西国三十三所三十番)があり、古来から神仏習合の一大霊場でした。寺社殿建て替え用の、針葉樹林の森が大切に保存されていたのでは推測します。これが密かに隠されていた木材の正体だと思います。

PA151834.jpg(美人薄命、割とよくある人柱伝承、松江城にもありました。盆踊りで人柱を決めたために松江には盆踊りが無いとか?)
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(かなり琵琶湖湖面まで城が有ったようです。水中にも石垣遺跡が残るようです。)
同3~4年頃長浜城が完成し秀吉が入城しています。湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていました。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した形跡があります。そのため、現在でも城下町には当時の面影や名残がありました(一時間半くらいの滞在で長浜全てを見て来たようです、講釈師見てきたような嘘を言い、笑)。秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を徐々に作りあげた場所でもあります。

PA151811.jpg(竹生島が見えますね。)
PA151812.jpg(賤ヶ岳古戦場辺り!)
PA151823.jpg(滋賀県一番の高さを誇る伊吹山先端少しだけ見えています。わかりますか?登って来ました(;^_^A アセアセ・・・)
PA151824.jpg(白い建物の後ろ、彦根城天主見えますか~右に三段櫓も見えますね)

『うんちく「長浜曳山まつり」』は毎年4月9日~16日に、長濱八幡宮の春の例祭に合わせ執行されます。13日~16日は、絢爛豪華な山車「曳山」が登場し、その舞台の上で「子ども歌舞伎」が演じられます(子ども歌舞伎が演じられるのは毎年4台のようです)。曳山は「長刀山」と子ども歌舞伎が演じられる12基とあわせて13基あります。

長浜曳山まつりの由来ですが、秀吉が長浜城主だったころに初めての男の子が生まれました?(誰の事でしょうね)。たぶん羽柴 秀勝(はしば ひでかつ、生年不詳~天正4年10月14日(1576年11月4日))と思われます。羽柴秀吉が、近江長浜城主時代にもうけた子で、幼名は石松丸(いしまつまる)または石松のことと思われます。その他にも織田信長の四男で秀吉の養子に迎えられた於次丸「秀勝」と、秀吉の甥でのちに秀吉の養子となった小吉「秀勝」がいて少しややこしいです。

「石松丸秀勝」の出生を喜んだ秀吉は城下の人々に金(きん)を振る舞い、町民がこれをもとに山車を作って八幡宮の祭礼に曳き回したのが始まりといわれています。

【秀吉城主後の長浜城】

1582年(天正10年)の本能寺の変後、清洲会議で長浜の支配権を獲得したのは柴田勝家でした(秀吉の計略で獲得させられたとも考えられますが)。勝家の甥の柴田勝豊が長浜城の守将として入城ることに成りました。同年末には勝家と対立した秀吉に攻められ、勝豊は城ごと降伏しています。秀吉に見透かされていたのかもしれませんね。

1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い後は、山内一豊が城主となり、6年間在城しています。1586年1月18日(天正13年11月29日)には天正地震により城が全壊し、一豊の一人娘である与祢らが死亡しています。

【関ケ原後の長浜城】

1606年(慶長11年)に内藤信成・信正が城主になりますが(長浜藩)、大坂の陣後の1615年(元和元年)に内藤氏は摂津高槻に移封され、長浜城は廃城になっています。資材の大半は彦根城の築城に流用されました。彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられています。その他、長浜市内にある大通寺の台所門は長浜城の大手門を移したものと伝えられ、今でも矢尻の跡を見ることができるそうです。同市内にある知善院の表門は、長浜城の搦手門を移したものと伝えられています(きれいに解体されていますね)。

PA151688.jpg(彦根城の天秤櫓こちらも国宝です)

現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので、市立長浜城歴史博物館として運営されています。
PA151808.jpg(訪れる価値あり!市郎右衛門)

ハッキリ言って行くだけの価値があるかですが、この地に後に天下人と呼ばれる豊臣秀吉が立っていた。同じ場所に自分自身も立っていると考えると、ほんの一時間程度のお安い買い物?違うか(笑)、一見するのも楽しいいですよ。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/10/10

兵どもが夢の跡!明智光秀居城『坂本城跡』の哀れ。

今日ご紹介するのは、裏切り者、主人殺し、謀反者と呼ばれ430年間にわたって悪役を一手に引き受けた明智光秀の居城『坂本城(さかもとじょう)』です。何故光秀は「本能寺の変」を起こしたのか?日本史最大の謎といっても過言ではないでしょう。
今回はミステリーは、またの機会のお楽しみにさせて頂いて、光秀の居城「坂本城」がその後どのようになっているのか、取材してきました。


1689年3月27日(新暦5月16日)、松尾芭蕉は門人の曾良をともなって、江戸から東北・北陸へ600里(約2400km)、150日間の「おくのほそ道」の旅に出ました。奥州藤原氏が平泉で滅亡してから500年後のことです。江戸・深川を出発してから44日目、5月13日(新暦6月29日)に奥州平泉を訪れた芭蕉は、藤原三代の栄華の儚さと義経の最期を偲び、あの有名な句を詠みました。

「夏草や 兵どもが 夢の跡」(なつくさや つわものどもが ゆめのあと)

高館(たかだち)にのぼってあたりを見渡すと、藤原氏の栄華の痕跡はあとかたもなく、ただ夏草が茂る風景が広がるばかり。栄華の儚さを詠んだ句です。

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(明智光秀図)

「坂本城」は、明智光秀によって築かれた近江国滋賀郡坂本(滋賀県大津市下阪本3丁目の坂本城址公園内)にあった琵琶湖に面する平城です。さて現在坂本城はどうなっているのでしょうか?

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【坂本城はどんな城だった?】

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(坂本城址公園、駐車料無料です。)
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(滋賀県の皆さん~これでいいのか?)
PA080227.jpg(文化人五木ひろしに似てないか?隣は鳥羽市郎さんの歌碑だし?)
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城址公園のまわりにそれらしき石積)

城郭構造は平城、水城天守構造不明(天守と小天守が推定されています)築城主はもちろん、明智光秀で築城は1571年(元亀2年)主な改修は、丹羽長秀・浅野長政など、主な城主明智光秀、丹羽長秀、杉原家次、浅野長政です。1586年(天正14年)廃城となっています。残る遺構は遺石垣、井戸、暗渠、礎石建物等で指定文化財も再建造物も全くありませんでした。

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(これは本物!すこしだけ残る遺構は石垣)

坂本城は、琵琶湖の南湖西側にあり、大津市の北郊に位置します(取材は正に大津まつり当日でした)。西側には比叡山の山脈があり、東側は琵琶湖に面していることから、天然の要害を具えた地です。比叡山は近江国と山城国にまたがっており、白鳥道と山中道の2つの道は両国を結ぶ道路が通じていて、中世~近世においても頻繁に利用され、比叡山への物資輸送のための港町として、坂本は交通の要所として繁栄しました。

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(湊の繁栄が偲ばれます。)

現在城郭の大半は宅地化され、推定地の中央には国道161号が本丸上を通っています。

【坂本城の役割は何?】

1571年(元亀2年9月)、比叡山焼き討ちの後、宇佐山城の城主であった明智光秀に近江国滋賀郡が支配を命じられ、織田信長の命によって京の抑えと、比叡山延暦寺の監視、琵琶湖の制海権の獲得が目的で、坂本城が築城されました。

『永禄以来年代記』によると、「明智坂本に城をかまへ、山領を知行す、山上の木にまできり取(永禄以来年代記)」とあります。山領というのは延暦寺のことで、比叡山焼き討ち後、1571年(元亀2年)中に築城が開始されたと思われます。

また『兼見卿記』元亀3年(1572年)12月22日の記述によると、「明智見廻の為、坂本に下向、杉原十帖、包丁刀一、持参了、城中天守作事以下悉く披見也、驚目了(—兼見卿記)」とされていることから坂本城には天守があり、作事が行われ翌12月頃には天守がかなり進捗(物事が進みはかどる)していたと思われます。『兼見卿記』の筆者でもある吉田兼見は、短文ながら天守の壮大さに驚いている様子が分かります。

また坂本城はイエズス会宣教師のルイス・フロイスは著書『日本史』にて豪壮華麗で安土城に次ぐ名城と記しています。フロイスの日本史(坂本城の記述部分ではないですが)には、「明智は、都から4レーグァほど離れ、比叡山に近く、近江国の25レーグァもあるかの大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に、邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗にもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。」と記されている。この記述はルイス・フロイスの感想ではありますが、名城安土城と並び称される建物として認識していたことが分かります。

【坂本城主明智光秀の活躍】

その後明智光秀は坂本城を拠点に近江国の平定を目指します。1572年(元亀3年)~1573年(天正元年)にかけては木戸城、田中城を落城させ、また湖面より囲船にて湖北の浅井勢に襲撃し打撃を与えました。その後、石山城、今堅田城も攻城し湖南はほぼ手中に収めています。その後坂本城は近江国における反織田信長に対する重要な軍事施設として使用されました。黒井城の戦いでほぼ丹波国を手中に収めると、1580年(天正8年)亀山城の城主となったが、坂本城もそのまま城主となっていたようです。

天正10年(1582年)6月2日、明智光秀は中国攻めには向かわず本能寺の織田信長を急襲し、本能寺と共に信長を炎の中で焼き、次いで二条城を攻城し織田信忠を自害させました(本能寺の変)。しかし、同年6月13日山崎の戦いで敗れた明智光秀は一旦勝竜寺城に退き、その後坂本城を目指している途中、山城国の小栗栖周辺で百姓らに襲われ死去したと言われています(少なくとも3日天下ではなく11日生存していますね)。

一方安土城の城主となっていた明智秀満(光秀の娘婿、福知山城代)は、山崎の戦いで敗戦を知り安土城から移ってきましたが、羽柴秀吉軍が城を囲む中、明智秀満自身が天守に火を放ち光秀の妻子もろとも焼け落ちました。

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(明智供養塔一応私有地です。)

その後、羽柴秀吉が丹羽長秀に再建を命じ城主となりました。その後賤ヶ岳の戦いの軍事上の基地として使用され、後に杉原家次そして浅野長政が城主となります。この時期に城下町が形成されたとかんがえられます。

しかし1586年(天正14年)秀吉の命を受けた浅野長政が大津城を築城し居城を移したことにより廃城になり、資材は大津城築城に使用されました。築城からたった15年後のことでした。

【なぜ廃城】

なぜ廃城になったか『信長戦国近江』によると2つの理由を紹介しています。

ひとつは山門に対する監視の必要性が薄くなったことです、本能寺の変で信長が倒れ、光秀も山崎の戦いで敗れると、生き残った僧侶達は続々と比叡山に帰山し始めます。秀吉は山門復興こそ簡単には許しませんでしたが、詮舜とその兄賢珍の2人の僧侶を意気に感じ、陣営の出入りを許るし、軍政や政務についての相談にものって、徐々に秀吉の心をつかんでいったと思われます。

そして小牧・長久手の戦いで出軍している豊臣秀吉に犬山城で度重なる要請を行い、ついに天正12年(1584年)5月1日、正覚院豪盛と徳雲軒全宗に対して山門再興判物が発せられ、ついにに山門復興が許可されました。

もうひとつは1583年(天正11年)~1588年(天正16年)に大坂城を築城しており、大津の地が東海道や淀川を通じた北国を結ぶ上に重要視された為ではないかと考えられます(坂本の役目が大津にとって変わられたということです)。


【坂本城の構造】

PA080214.jpg(見えにくいですが、ごめんね、城址公園は城外です。)
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(公園周りの石積二が坂本城の物と思いたいですね。)
PA080264.jpg(二の丸内にある立専寺の無縁仏が明智一族の物であってほしいです。)
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(二の丸端にある坂本城の石碑)
PA080279.jpg(溝ですが、地図と合わせると二の丸の堀跡とだいたい合致します。)

坂本城は歴史上重要な役割を果たしていましたが、ながらく城の位置や構造については不明となっていました。しかし1979年(昭和54年)に実施された発掘調査によって城の構造が明確になってきました。

天正6年(1578年)1月11日に明智光秀の茶の師匠であった堺の津田宗及が坂本城に招かれ茶会がひらかれたいますが。この時の『天王寺屋会記』の資料によると、「御座船を城の内より乗り候て、安土へ参(天王寺屋会記)」と記載されています。城内には琵琶湖の水が引き入れており、城内から直接船に乗り込み、そのまま安土城に向かえたようです。

従って城郭の建物が湖水に接した「水城」形式の城であったとかんがえられます。また吉田兼見が天正10年(1582年)1月20日に坂本城に訪れた時に「小天守」で茶湯を喫した記録があります。これによりただちに小天守があったと断言はで来ませんが、『信長戦国近江』によると「姫路城のような大天守と小天守が並び建つ壮麗な城だったのであろうか」と紹介しています。

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(こんな感じ?連結式天守の例/天守と小天守)
PA080282.jpg(推定本丸の上を通る国道161号!この下が本丸ですね。)

【発掘調査】

1979年(昭和54年)まで坂本城は一度も発掘調査されなかったため、坂本城の遺構に関してはほとんど注目されませんでした。しかし、坂本城跡の中心部で大規模な宅地開発が計画され、これに伴う調査を実施したことがきっかけとなり、現在に至り断続的に発掘調査が行われ、城の縄張りなどが少しずつ明らかになってきました。

1979年(昭和54年)に行われた発掘調査では、10cm-30cmの焼土層が発見されています。これは明智秀満が天守に火を放ち光秀の妻子もろとも落城した時のものと推測できます。その焼土層の上に整地した層があり、この遺構は丹羽長秀時代のものと考えられています。

本丸部分で発掘された遺構は、礎石の規模や配列から推察して邸宅遺構の可能性が強く、城主が使用されていた可能性が高いと考えられます。またこの周辺からは、大量の瓦、壺、甕、碗、鉢、擂鉢、天目茶碗の他、中国から輸入されたと思われる青磁、青白磁、白磁などの遺物が発掘されました。このことより贅を尽くした城内の様子が伺えますね。また金属製品としては、銭貨、鏡、刀装具、鋲等が出土しています。これらの出土物は室町時代後期から安土桃山時代のもと判断されました。

坂本城は後に築かれた大津城、膳所城(琵琶湖大橋の袂に在ります)も琵琶湖に面して本丸がその先端部に位置していること等、類似点が多い縄張りとなっており、坂本城が二城のモデルとなった可能性が大きいですね。

PA080290.jpg(お山の向こうは比叡山延暦寺)

【最後に夏草!】

松尾芭蕉は平泉の藤原氏の栄華と衰退を歌っていますが、同じものを坂本城跡で感じました。城の址らしきものは殆どありません。整備された坂本城址公園も地図で見ると城外です。少し寂しいですね。歴史ファンよりも多くの人がバス釣りやヨットセイルに興じていました。石垣もあとで積んだ物なのか判断できませんでした。

以前、渇水で琵琶湖の水位が下がった平成6年夏のニュースが注目を浴びました。現在の水際から約10メートル沖で城の一部の石垣が姿を現したのです。夢は夏草の中ではなく水の中に在ったわけです。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/09/24

信長に反旗を翻し、信長の死後茶人として復活した「荒木 村重」の生涯『花隈城』編

江戸時代に築かれ、復元が計画されている尼崎城について、尼崎市は2016年12月19日、完成予想図を公表しました。阪神尼崎駅の南東、徒歩約5分の場所に当時とほぼ同規模の天守閣が建てられるということです。12月20日に着工し、築城400年の2018年8月に完成する見込みです。

尼崎城は江戸初期に尼崎藩主の戸田氏鉄(うじかね)が築来ました。海が近いことから「琴浦城」の名で親しまれたが、1873年の廃城令で取り壊されています。

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(尼崎城は江戸初期に尼崎藩主の戸田氏鉄(うじかね)が築きました。海が近いことから「琴浦城」と呼ばれました。)

しかし、同市で創業した家電量販店ミドリ電化(現エディオン)の創業者が一昨年、私財で天守閣を復元した上で、市に寄贈を打診。完成後は市が管理することで協定を結びました。

尼崎城(あまがさきじょう)は、兵庫県尼崎市にあった日本の城です。江戸時代初期に築城された平城で安土桃山時代の天正6年(1578年)に荒木村重が織田信長に反旗を翻した際、有岡城から逃げ込んだ先である大物城は尼崎城(尼崎古城)とも呼ばれますが、今回復元が決定した尼崎城とは残念ながら別物です。

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【村重卑怯也】

P9220003.jpg(神戸高速鉄道花隈駅を上がったすぐにあります。『花隈城跡』)
P9220007.jpg(城址公園、三階建ての城内地下?駐車場に成っています。)
P9220008.jpg(JRと三陽電鉄の高架がすぐそばを通る神戸の中心地にあります。)

村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦したましたが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となってしまいます。まわりは全て織田の兵に囲まれ、兵糧も尽き始めます。期待していた毛利氏の援軍も現れずに窮地に陥ることとなりました。天正7年(1579年)9月2日、単身で有岡城を脱出し、嫡男・村次の居城である尼崎城(大物城)へ逃げ出してしまいます。

信長は「尼崎城と花隈城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束を、村重に代わって有岡城の城守をしていた、荒木村重の家臣たちと取り交わし、尼崎城の村重を説得に向かわせますが、村重は全く受け入れませんでした。信長は村重への見せしめの為、人質の処刑を命じざるをえなかったのです。

しかし肝心の村重本人は息子・村次とともに荒木元清(荒木一族)のいる花隈城に移り、花隈城の戦いで最後の戦いを挑むも敗北、最後は毛利氏に亡命し、尾道に隠遁したとされたところまでは前回もお話いたしました。

【茶人として復活~?】

P9220021.jpg(全てが近年に作られたものです)
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(池田侯爵とは、戦国武将池田恒興の末裔です。旧岡山藩池田家第15代当主ですね。)
P9220035.jpg(裏手に小さなお地蔵さんの祠が有りました。小さな五輪塔などは往時の物かも知れません!)

村重は、天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で明智光秀に殺害されると、堺に戻りそこに居住しています。豊臣秀吉が覇権を握ってからは、大坂で茶人として復帰し、千利休らと親交を持つようになりました。しかし有岡城の戦いでキリシタンに恨みを持っていた村重は、小西行長や高山右近を讒訴して失敗し、秀吉の勘気を受けて長く引見を許されませんでした。

注)小西行長や高山右近の二人はキリシタン大名で有岡城の戦いで村重を裏切り?信長についています。
注)讒訴とは、他人をおとしいれようとして、事実を曲げて言いつけること。陰で人の悪口を言うことです。

さらに、秀吉が出陣中、村重が秀吉の悪口を言っていたことが北政所に露見したため、処刑を恐れて出家し、荒木道薫(どうくん)と名乗るようになりました。はじめは過去の過ちを恥じて「道糞」(どうふん)と名乗っていたが、秀吉は村重の過去の過ちを許し、「道薫」に改めさせたと言われています。天正14年(1586年)5月4日、堺で死去しました。享年52歳。戒名は、秋英宗薫居士心英道薫禅定門 。墓所は大阪府堺市堺区南宗寺と兵庫県伊丹市荒村寺に在ります。

【謀反の原因と理由を考察する】

P9220032.jpg(天主様の石垣も組まれています。)
P9220029.jpg(登ってもベンチも無いので夜景を眺める程度ですか?)
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(城跡?ただの公園に成っています。)

村重の織田信長に対する謀反の理由は、諸説があって今でも定かではありません。現在検証が進められているいくつかの説について、ご紹介いたします。ただ、信長は村重を重用していたため、その反逆に驚愕し、翻意を促したと言われています(信長公記、フロイス日本史など)。

村重は足利義昭や石山本願寺とも親しかったため、両者の要請を受けて信長に反逆したと考えるのはどうでしょう。村重が支配していた摂津は当時、中国方面に進出していた羽柴秀吉と播磨、丹波方面に進出していた明智光秀らにとって重要な地点であり、村重が反逆した場合、両者は孤立することになるため、義昭や本願寺の意向を受けての謀反だったのではないかという説ですね。この説では、幕府奉公衆の小林家孝が有岡城に入城して連絡係を務めていたといわれています。

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(幽閉は黒田官兵衛の事です。この図面を見るといかに有岡城が重要な地点に在ったか理解できます。)

村重の家臣(中川清秀という)が密かに石山本願寺に兵糧を横流ししていたため、それが信長に発覚した場合の処罰を恐れての謀反であったという説が有ります(こちらはNHKの大河ドラマで採用されていました)。

信長の側近・長谷川秀一の傲慢に耐えかねたという説(『当代記』)。同書では秀一が村重に対して小便をひっかけたとしている。これは竹中重治と同じ逸話であり信頼性は乏しいが、信長の側近衆と何らかの対立があったとみる説もあります。

黒田孝高(当時は小寺孝隆)と相談の謀略説もありました。信長暗殺のため手勢が手薄なところへ誘き出し夜襲する計画であったといわれます。そのため信長の遺産を継いで天下人となった豊臣秀吉・徳川家康などからは厚遇されることになったとされる説です。これを採用すると「本能寺の変」自体を豊臣秀吉・徳川家康が仕組んだか、そこまでは言えなくとも、知ってはいたことに成りそうです。実際、信長は孝高を村重方に寝返ったと決めつけ、人質としていた孝隆の子・松寿丸(のちの黒田長政)の処刑を秀吉に命じています。処刑について大河ドラマでは、軍師としての器量をかった竹中半兵衛が、自分の領地にかくまって助けた設定でした。

将来に希望が持てなくなったからという説はどうでしょう?石山合戦では先鋒を務め、播磨国衆との繋がりもありましたが、本願寺攻めの指揮官が佐久間信盛になってしまった上に、播磨方面軍も羽柴秀吉が司令官に就任したことから活躍の場がなくなったからといもいわれています。

歴史のいたずらか、本願寺攻めの指揮官、佐久間信盛は功を立てられず。信長から19ヶ条にわたる折檻状を突きつけられて、嫡男の信栄と共に高野山へと追放されました。信盛失脚後に信長の実質的な本拠地である近畿地区で大軍団を統率することになったのは明智光秀であり、この事件は「本能寺の変」に動機(信長に仕え続けることの難しさ)と機会(近畿地区の掌握)の両面で影響したといえます。

摂津国内では信長勢力の進出までは国衆や寺内町・郷村などが比較的独自の支配体制を築いてきたが、信長はこうした勢力を統制下に置こうとしたために織田政権への反発が強まり、その矛先が村重に向けられつつありました。村重は国衆や百姓からの突き上げに追い込まれた結果、かえって信長に叛旗を翻して彼らの支持を受けた方が摂津支配を保てると判断したとする説はどうでしょう。

実際、村重の反逆の直後にこれまで石山本願寺の目の前にありながら石山合戦に中立的であった摂津西部の一向一揆が蜂起し、尼崎城や花隈城の戦いではむしろ彼ら百姓主導による抵抗が行われました。信長軍も西宮から須磨の村々を焼き討ちにして兵庫津では僧俗男女の区別なく皆殺しにしたと伝えられます。

P9220040.jpg(東からの眺め、立地的に便利なので私も良く使っています。)
P9220050.jpg
(人通りも多くて人が居ない時の撮影に苦労しました。)


【荒木村重という男】

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(「太平記英勇伝三十八:荒木摂津守村重」(落合芳幾作))

『絵本太閤記』が何らかの史実に基づいてこの場面を描いたのかは不明ですが、これによると、天正元年(1573年)、信長を近江の瀬田で出迎え拝謁した村重は、「摂津国は13郡分国にて、城を構え兵士を集めており、それがしに切り取りを申し付ければ身命をとして鎮め申す」と言上しました。これに対して、信長は腰刀を抜き、その剣先を饅頭を盛っている皿に向けて饅頭3、5個を突き刺して、「食してみろ」と村重の目の前につき出します。周りにいたものは青ざめてしまったが、村重は「ありがたくちょうだいします」と大きな口を開け剣先が貫いた饅頭を一口で食べ、それを見ていた信長は大きな声を上げて笑い、その胆力を賞して摂津国を村重に任せたといわれています。(こちらも大河ドラマで再現されていたような気がしますね)。

村重はこの時38歳。信長は村重が高槻城を攻略した(高槻城攻城戦)事を激賞して、村重がどのような人物なのか、どのような態度をとるのか試したのではないか、とも想像できる逸話です。信長は村重を信頼していたのかもしれません。

【殺害を免れた子孫の人々】

江戸時代初期に絵師として活躍し浮世絵の祖といわれる岩佐又兵衛は、信長による処刑から乳母の機転によって生き延びた子孫のひとりとされています。
荒木善兵衛も荒木村重の子であり、有岡城落城の際に幼い善兵衛を細川忠興が預かって家中で育てた。成長すると無役の御知行三百石を賜り、後に丹後大江山の細川家高守城代などを務めています。
現在の大阪府岸和田市荒木町には、伊丹城陥落時に村重の子の岩楠が乳母と共に当地へ逃れ来て、吉井村の荒地だった当地を開墾して土着し、後に荒木村が成立したという伝承があるようです。
熊本藩に息子・荒木村勝の子・荒木克之の系統が仕官しています。
荒木流拳法は創始者を村重の孫・荒木夢仁斎源秀縄としています。

【最後に有岡城の歌碑をご紹介】

P9220180.jpg(最後にと思ってとっておいた有岡城の歌碑をご紹介します)

有岡城での抗戦の最中にもかかわらず、荒木家家臣、その家族を置き去りにして村重は一人子息の尼崎城へ脱出する際に、妻荒木ダシが村重に送ったとされる歌である。

「霜がれに残りて我は八重むぐら 難波の浦の底のみくづに」
(私は霜枯れた路傍の雑草のようなもの。このまま難波の海の底に沈む水屑となるのでしょう)
これに対し、村重は次の歌を返したと言われています。
「思ひきや あまのかけ橋ふみならし 難波の花も夢ならんとは」
(自分が築き上げてきたものは夢のようにはかなく、このようなことになるとは思わなかった)


重村さんもう少し考えましょうね~(;^_^A アセアセ・・・

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リュミエールブラン ネージュ

2017/09/23

池田家を乗っ取り、信長にに反旗を翻した「荒木 村重」の生涯『有岡城』編

昨日は定期通院で神戸県立中央病院に診察に行った後の時間を利用して、ブリューゲル「バベルの塔」展に行ってきました。
そちらの話題は近々にブログにUPしたいと思っておりますが、ついでと行っては何ですがJR伊丹駅前の有岡城址を取材に行ってきました。

有岡城といえば、城主「荒木村重」と黒田官兵衛が一年間監禁されたことで有名ですが、実際どの程度の城だったのかはイメージ出来ておりませんでした。

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(「太平記英雄伝 廿七 荒儀摂津守村重」歌川国芳筆 嘉永元年-2年(1848-49年)頃)

記事関連事項と言えるのかは少し疑問ですが、尼崎城が再現されることが昨年末新聞の話題になりました。疑問といいますのは、荒木村重が体一つで逃げ込んだ、嫡男荒木村次の尼崎城ではないようなのです。尼崎は私が予備校時代に一年間過ごした地でもありますし、新名所ができるのは歓迎なのですが。(笑)

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【有岡城跡】



P9220122.jpg(JR伊丹駅前の史跡有岡城址の石碑ですが、JR伊丹駅そのものが城の主郭部を崩して作られています。)
P9220102.jpg(かなり大きな城だったことがうかがえますね~)
P9220107.jpg
(東は川でまもられ、西南北に砦を築きその中に町屋もある総構えの城郭です)
P9220115.jpg(整備された駅前の石垣です)
P9220119.jpg
(エスカレーターに時計台?付きの城に成ってます)

【荒木 村重ってどんな武将?】

荒木 村重(あらき むらしげ)は戦国時代~安土桃山時代 に活躍した武将・大名です。誕生は天文4年(1535年)、 死没天正14年5月4日(1586年6月20日)です。 利休十哲の1人でもあり(利休七哲は有名ですが十哲は初めて聞きました)。幼名を十二郎、後に弥介(または弥助)、村重、道糞、道薫(号)と名前を変えています 。荒木氏は元は波多野氏の一族とされ、先祖は藤原秀郷です。

「藤原秀郷」は別名「俵藤太」としても有名です。室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山の百足退治の伝説で有名ですね。平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられて、勢力を拡大します。死後、正二位を追贈されており。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出しました。

【荒木村重の生涯・池田氏織田家臣時代】

P9220131.jpg
(村重説明版)
P9220125.jpg(綺麗に整備されていますが史跡公園というほどではありませんね)
P9220134.jpg(結構雨が降っていて、落ち葉かたずける余裕も無くてごめんなさい。)

摂津池田城主である摂津池田家の家臣・荒木信濃守義村(よしむら)の嫡男として池田(現:大阪府池田市)に生まれました。最初は池田勝正の家臣として仕え、池田長正(勝正の一族)の娘を娶り一族衆となります。しかし、三好三人衆の調略に乗り池田知正(長正の長男)と共に三好家に寝返り、知正に勝正を追放させると混乱に乗じ池田家を掌握します。

その後、元亀2年(1571年)8月28日の白井河原の戦い(村重の摂津勢力拡大の戦い)で勝利し、池田氏が仕えていた織田信長からその性格を気に入られて三好家から織田家に移ることを許され、天正元年(1573年)には茨木城主となり、同年、信長が足利義昭を攻めた時にも信長を迎え入れ、若江城の戦い(織田信長軍と三好義継軍の合戦)で功を挙げています。

一方義昭方に属していた池田知正はやがて信長に降って村重の家臣となり、村重が完全に主君の池田家を乗っ取る形となりました。下剋上を果たした村重は、天正2年(1574年)11月15日に摂津国人である伊丹氏の支配する伊丹城を落とし、伊丹城主となり、摂津一国を任されます。翌年には有馬郡の分郡守護であった赤松氏を継承する摂津有馬氏を滅ぼして同郡も平定します。

村重は細川政権・三好政権を通じての摂津統治の中心であった芥川山城・越水城の両城を廃して有岡城(伊丹城の改称)を中心とした新たな支配体制を構築しました。以後も信長に従い、越前一向一揆討伐・石山合戦(高屋城の戦い、天王寺の戦い)や紀州征伐など各地を転戦し、武功を挙げています。この間の活躍により、従五位下摂津守に任ぜられています。

【村重謀反~~~!】

P9220151.jpg(当時をしのばせるほぼ唯一の石垣です)
P9220162.jpg(墓石なども使用した野づら積みですかね?)
P9220171.jpg(井戸跡が二つと建物跡の礎石ですが、綺麗すぎて、半分くらいは後にあつらえた物だと思います)

天正6年(1578年)10月、三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた村重は有岡城(伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻した(理由については次回考察したいと思います)。一度は糾問の使者(明智光秀、松井友閑、万見重元)に説得され翻意し、釈明のため安土城に向買いますが、途中で寄った茨木城で家臣の中川清秀から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け伊丹に戻ってしまいます。

秀吉は村重と旧知の仲でもある小寺孝隆(官兵衛、のちの黒田孝高)を使者として有岡城に派遣し翻意を促しますが、村重は孝高を拘束し土牢に監禁しています。黒田官兵衛がTVなどのメディアに取り上げられる時には必ず杖をついて、跛行する姿が目に付きますが、この原因は一年間にも及ぶ監禁生活の現れだと思います。

以後、村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦しましたが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となりました。その後も万見重元(織田信長元小姓で有能な側近といわれます)らの軍を打ち破るなど、一旦は織田軍を退けることに成功しますが、兵糧も尽き始め、期待の毛利氏の援軍も現れず窮地に陥ることとなりました。

それでも村重は「兵を出して合戦をして、その間に退却しよう。これがうまくいかなければ尼崎城と花隈城とを明け渡して助命を請おう」と家臣を励ましますが、自身は天正7年(1579年)9月2日、単身で有岡城を脱出し、嫡男・村次の居城である尼崎城(大物城)へ逃げてしまっています(情けない~)。

P9220183.jpg(裏側から見ると空堀?のように見えますね)
P9220167.jpg(建物跡からまだ2m程度は土塁の高さが有ります)
P9220188.jpg(空堀と言えるのか高低差はなんとなくわかりますね、右が主郭部です)



【信長の逆鱗】

11月19日、信長は「尼崎城と花隈城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束を、村重に代わって有岡城の城守をしていた荒木久左衛門(池田知正)ら荒木の家臣たちと取り交わしました。久左衛門らは織田方への人質として妻子を有岡城に残し、尼崎城の村重を説得に向かいますが、村重は受け入れず、窮した久左衛門らはこちらも、妻子を見捨てて出奔してしまいます(本当に情けない連中です)。これをみた信長は村重や久左衛門らへの見せしめの為、人質の処刑を命じました。

12月13日、有岡城の女房衆122人が尼崎近くの七松において鉄砲や長刀で処刑されます。この事は「百二十二人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目もくれ心も消えて、感涙押さえ難し。これを見る人は、二十日三十日の間はその面影身に添いて忘れやらざる由にて候なり」 と信長公記に記載されるほどの虐殺だったようです。

12月16日には京都に護送された村重一族と重臣の家族の36人が、大八車に縛り付けられ京都市中を引き回された後、六条河原で斬首されました。

立入宗継はその様子を、「かやうのおそろしきご成敗は、仏之御代より此方のはじめ也。」 — 立入左京亮宗継入道隆佐記と記しています。「立入宗継」は禁裏御蔵職をあずかる戦国時代から安土桃山時代にかけての商人であり官人です。

その後も信長は、避難していた荒木一族を発見次第皆殺しにしていくなど、徹底的に村重を追及していきました。天正9年(1581年)8月17日には、高野山金剛峯寺が村重の家臣をかくまい、探索にきた信長の家臣を殺害したため、全国にいた高野山の僧数百人を捕らえ、殺害するほどの断罪を行っています。

裏切り者の家族・一族に対して容赦しなかった信長ですが、それほど卑怯者に対する怒りを爆発させてのか?またはそれほど荒木村重の力を認めていたとも考えられます。しかし肝心の村重本人は息子・村次とともに荒木元清(村重の一族)のいる花隈城に移り(花隈城の戦い)、最後は毛利氏に亡命し、尾道に隠遁したとされています。

【最後にヒント?】

信長に対して反旗を翻した理由については、次回考察したいと思いますが、当時は、三木合戦(みきかっせん)の最中でした。天正6年3月29日(1578年5月5日)から天正8年1月17日(1580年2月2日)にかけて行われた織田氏と別所氏の合戦は22か月にも及び、織田家の武将羽柴秀吉が行った播磨征伐の一戦です。中国攻めの織田勢から離反した別所氏は、播磨三木城(兵庫県三木市)に一族・領民7500人と共に篭城したといわれます。この合戦で秀吉が行った兵糧攻めは、三木の干殺し(みきのひごろし、またはほしごろし)と呼ばれる凄惨な物でしたが。この陣中で病気で命を落とした、もう一人の軍師竹中半兵衛の「兵を失わずに勝つ」を実行したものといわれています。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/09/20

山陰但馬の小京都、出石藩「仙石家」の居城『出石城』

今日は、但馬の「出石」を代表する建築遺跡『出石城』をご紹介いまします。出石城跡(いずしじょうし)は、兵庫県豊岡市出石町に有る但馬に残る唯一の城です。

城を中心とした静かなたたずまいと、江戸期を思わせる古民家は山陰の小京都と呼ばれ、出石蕎麦をはじめ白磁の出石焼などが有名で、年間を通して多くの観光客が訪れます。

DSC_0173 (2)(復元された西隅櫓)


江戸時代には漫画「センゴク一統記」でも有名な「仙石権兵衛秀久の末裔」仙石政明が長野から転封され、明治迄の時代を出石藩仙石家として廃藩置県まで居城を守っています。

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DSC_0070 (2)(子供の頃は登城橋が無かったのでもっぱらこの有子橋から登城してましたね~!)
DSC_0153 (2)(最上段稲荷曲輪へ続く朱の鳥居綺麗ですね~笑)

 
【出石ってどんな町?】

DSC_0071 (2)(夏らしく風鈴がいっぱいでした。蛍の季節も綺麗だそうですよ。)

以前には、大手門跡の「辰鼓楼」や「おりゅう灯篭」をご紹介しました。その他にも天日槍を祀る、但馬一宮「出石神社」や出石生まれの沢庵禅師で有名な「宗鏡寺」などがあり、家老屋敷や町のたたずまい、小京都にふさわしい街並みを残しています。
近年では100年以上歴史を持つ建築の劇場「永楽館(えいらくかん)」がリニューアルされました。永楽館は1901年(明治34年)に竣工し、現地に現存する劇場建築としては日本最古とされます。(現存する日本最古の劇場は旧金毘羅大芝居 金丸座)
座頭6代目 片岡愛之助によるこけら落とし公演が行われ、愛之助さんは毎年のように永楽館歌舞伎を公演されていますね~(笑)奥様も来られるので話題になっていますね。

【出石の戦国時代~江戸期(時代をすべて書くと膨大になりますので)】

DSC_0131 (2)(東の隅櫓)
DSC_0126 (2)(手前に少しだけ庭園跡が残る本丸跡。石垣の上は最上段の稲荷曲輪です)
DSC_0148 (2)
(そして仙石権兵衛秀久を祀る感応殿)
DSC_0133 (2)(感応殿)

山名氏の最盛期、但馬国守護となった山名時義が、出石神社の北側の此隅山に、此隅山城(このすみやまじょう)を築きます。
永禄二年(1559)、丹波福知山城主の明智光秀が、出石の此隅山(このすみやま)城が虚城であることを聞いて攻撃しようと考え、陣代として大野内膳統康・伊藤七之助次織・伊藤加助の三名を派遣、進美寺(しんめいじ)の東に「掻上の城(かきあげじょう)」を築いて、「水生城(みずのうじょう)」を攻撃しましたが水生城は落ちませんでした。

此隅山城は長らく山名氏の本拠でしたが、1569年(永禄12)の織田軍の羽柴秀吉による但馬遠征で落城します(一次但馬征伐とは違います)。城主山名祐豊は城を失いましたが、今井宗久の仲介によって織田信長と和睦することになり、領地但馬にに復帰しています。

1574年(天正2)、祐豊は標高321mの有子山山頂を天守とする有子山城(ありこやまじょう)を築き、本拠を移します。麓には下館も築かれ小城下町の体を成しました。しかし、毛利氏方についたため、1580年(天正8)、羽柴秀吉による第二次但馬征伐で有子山城も落城、但馬国山名氏は滅亡してしまいます。

DSC_0157 (2)(山城の有子山後に登山しようともくろみましたが(-"-;A ...アセアセ)
DSC_0156 (2)(熊には勝てませんから~熊鈴もつけてるんですけどね。)

有子山城は、しばらく城代の時代が続きましたが、1585年(天正13)から前野長康(秀吉最古参の家臣)、1595年(文禄4)から小出吉政(秀吉のいとこ)が城主を務めました。関ヶ原の戦いにおいて、小出氏は家名存続のため、吉政が西軍、弟・秀家は東軍に分かれて戦う苦肉の策をとり、勝ちを納めた東軍に付いた秀家の功績により、吉政の西軍への加担の責任は問われず、出石の領土は安堵されています。

1604年(慶長9)、小出吉英(吉政嫡男)により有子山城の山上の丸および天守部分が廃され、有子山城山麓の郭および館のみを出石城と命名し幕府に居城として届けられました。それにともない平地に、堀で囲まれた三の丸が築かれ、下郭、二の丸、本丸、稲荷丸が階段状に築かれました。城主の居館も出来、このとき城下町も整備され、出石の町並みが形成されてゆきました。

山上の旧有子山城天守は取り壊しは行われませんでしたが、幕府をはばかって荒れるにままにされたため樹木が生い茂り一見したところ山林となってしまいました。出石城は、一国一城令により、但馬守護山名氏以来の出石城が但馬国唯一の城郭となっています。

江戸時代は、出石藩の藩庁となり、小出英及(吉英嫡男)が1696年(元禄9)3歳で死去すると小出氏は無嗣改易となりました。代わって松平(藤井)忠周が入城しますが、1706年(宝永3)忠周が転封となると、仙石政明(権兵衛秀久の末裔)が信濃小諸藩から転付入城し、廃藩置県まで仙石氏の居城となっています。江戸末期には「江戸期三大お家騒動といわれる」仙石騒動がおこっています。

DSC_0196 (2)(家老屋敷こちらも復元かな?)
DSC_0209 (2)(こんなに質素な生活だったのか~~?)

明治時代になり、廃城令で出石城も取り壊されましたが、辰鼓楼、堀、石垣などが現存、また隅櫓、登城門・登城橋などが復元され、堀の周囲一帯は登城橋河川公園として整備されて、観光地となっています。
おかしいと思ったんですよ~子どもの頃からよくお蕎麦を食べに行ってはおりましたが、お城はそんなにうかがう機会はありませんので、登城門・登城橋を通った時にこんな所有ったっけと思いましたもの、復元されていたのですね。

DSC_0164 (2)(最上階からの出石の町、真ん中のキノコみたいな建物「ひぼこ」ホールです。丸い山が進美寺か~?)
DSC_0191 (2)(子どもの頃には無かった登城橋と登城門初めてきぐりました。)

【出石といえばお蕎麦~~~!】

p12654879.jpg
(これが出石蕎麦「一鶴さん」の物で~す!上手いんだなこれが・・・・)


そうそうお蕎麦ですが、仙石政明が信濃小諸藩から転付時に蕎麦職人を伴ったことから発展したといわれています。今回はお蕎麦もご覧いただきましょう。
Facebookで店主さんとお友達になって頂いている「一鶴」さんのお蕎麦、ミシェラングリーンガイド2016兵庫特別版に記載された、ビブグルマン(5000円以下でコストパフォーマンスが高く、行く価値がある店)に記載されたお店です。

DSC_0185 (2)(最後に忘れてはいけない、親戚筋にあたる斎藤隆夫記念碑)
20150905200742b29[1]
(命を懸けた軍縮演説で有名ですね!ネズミの大将のあだ名が・・・納得。凄い人ほど見た目はそうでないのかも?)

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