2017/04/15

吉備国の立地は、戦国~江戸期に岡山城に何をもたらしたのか?

前回の続きですが、今日は吉備国の立地についても少し考察してみましょう。

吉備の国・岡山(岡山城)は古代から大きな勢力の間で、時代と供に東西どちらの味方と成るべきかの選択を迫られる事を繰り返してきたとのかも知れません。
古代には、大和と九州もしくは出雲国(山陰勢力)との間で戦国時代は毛利VS織田(羽柴)、のどちらに付くべきか選択を迫られたのではないでしょうか?

PB230070.jpg(天守閣を後楽園方面から望む。)

海上交通の観点からも、岡山県中南部の港は古代・中世から海運・軍事の要衝であり、江戸時代、風待ち潮待ちの場所として繁栄してきました。
瀬戸内海航路の要所であり、北前船や参勤交代の御座船も寄港し、人や物が集まる港として繁栄は幕末まで続きました。

吉備津彦?宇喜田直家も時代は違えど、同じ様に悩んだのかも知れませんね(笑)

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岡山城は戦国~安土桃山時代に、備前東部から興り美作・備中東部まで勢力を伸ばした宇喜多氏が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれ、その後小早川氏、池田氏により整備、拡張が行われました。

【池田家の治世の始まりと岡山城】
「池田輝政」は、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、父の恒興と兄の元助が討死したため家督を相続(家康は親と兄の仇なんですけどね~(^^;)、関ヶ原の戦いでは東軍に付き岐阜城攻略の功績から播磨姫路52万石に加増移封され、初代姫路藩主となりました。

慶長16年(1611年)3月には、二条城における家康と豊臣秀頼との会見に同席しています。
慶長17年(1612年)、正三位参議、および松平姓を許され「播磨宰相」「姫路宰相」などと称されます(失礼ながら家康の飼い犬に成っちゃた。)。
また、次男・忠継の備前国岡山藩28万石、三男・忠雄の淡路国洲本藩6万石、弟・長吉の因幡国鳥取藩6万石を合せ、一族で計92万石(一説に検地して100万石)もの大領を有しました。
徳川家との縁組、(家康の次女督姫を継室にしています。)は家格を大いに引き上げ、明治に至るまで池田家が繁栄する基盤となったのです。

さて岡山藩ですが、慶長8年、備前28万石は姫路城主池田輝政の次男忠継に与えられましたが、幼少(5歳)であったので兄の利隆「備前監国」として代政します。
利隆は「石山」の西端の西之丸を整備したと言われています。
慶長18年(1613年)に忠継は岡山城に入りましたが、慶長20年(1615年)に死去してしまいます。

PB230022.jpg(天守閣がこちらに在ったと考えていましたが、こちらで配置だけ再現していたようです。(;^_^A)
PB230037.jpg(天守閣から金鯱越しに後楽園を望む。)
PB230065.jpg(本丸と表書院の説明版ですね~空襲で燃えてます、残念ですね~涙。)
PB230058.jpg(西から天守への階段は味がありますね。下にはライトが有って夜はライトアップされているようです。)
PB230064.jpg(廊下門!蝶の家紋は池田家の物ですが、種類が結構あるようです。)

元和元年(1615年)、忠継の弟・忠雄が淡路島より31万5千石で入封します。
幕府の格式に見合った城とするため、忠雄は本丸中の段を大幅に北側に拡張し、本段の御殿に加え新たに表書院も設けています。
また大手の南門を造り替え、城下の西端を限る用水路の西川を整備するなどし、ここに岡山城の縄張りが完成したのでした。
PB230027.jpg
(元禄~宝永期の岡山の町割りです、南北に長い事と無理やりの河川工事は洪水が起きやすそうですね~。)

重要文化財に指定されている月見櫓はこの頃の創建とされ、中の段の北西角の隅櫓で一部地下付き、本葺き、総白漆喰塗籠の壁仕上げの二階建てです。
城外からは二層の望楼型、城内からは三層に見えます。

江戸期の縄張は「岡山」に本丸、二之丸内郭(東南の郭)、「石山」付近に二之丸内郭(西の郭)、西の丸が置かれそれらの南に二之丸、その西南に三之曲輪、中堀の外に三之曲輪の内、西に三之外曲輪の内という配置です。

本丸には天守の他に3つの御殿、大納戸櫓を含む高層(3層以上)の櫓が9棟(城全体では11棟)、さらに2層の櫓、櫓門が多数ありました。

石山の二之丸内郭には池田家祖廟、西之丸に前藩主の隠居所がおかれ、二之丸内郭(東南の郭)、二之丸は上級武士の屋敷地に成ります。
三之曲輪と三之曲輪の内の北側には西国往来が通り、町人地として領国経済の中心となっていました。

三之曲輪の内の南半分は小早川氏時代の武家地であり、三之外曲輪は武家地、外堀を隔てて寺町や下級武士の屋敷や町人町がさらに広がっていたようです。

寛永9年、(1632年)忠雄の子・光仲が鳥取へ転封し、入れ代わって鳥取から池田光政が31万5千石で入封します。
光政は利隆の子であり、姫路城で生まれたが、父の死後元和元年(1615年)に鳥取城主となっていました。
以後、幕末まで光政系池田氏の居城となりました(鳥取城も同じように池田氏が幕末迄居城としています。鳥取藩池田家の最後の城主は15代将軍慶喜の兄です。)。

明治2年(1869年)の版籍奉還により藩主・池田章政は岡山藩知事に任ぜられ、岡山城は藩の府城たる役割を終えて兵部省管轄、つまり存城となりました。
明治6年(1873年)の廃城令により順次建物の取り壊し・堀の埋め立てが行われていき、明治15年(1882年)頃までには、天守・月見櫓・西之丸西手櫓・石山門を残すのみとなってしまいました(残念)。
明治23年(1890年)、旧藩主池田章政に払い下げられた後、池田家は岡山県に提供し、明治29年(1896年)には本丸趾に県立岡山中学校が建てられました。

PB230019.jpg(岡山中学校の跡)


ちなみに我が母校の兵庫県立豊岡高校ですが、なんと同じく明治29年兵庫県立豊岡尋常中学校として創立されています。
現岡山高校かな?兄弟校と言えますね~。

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2017/04/13

戦国時代の『烏城』を訪ねて岡山へ!

今日のご紹介は引き続き岡山県、『岡山城』です。

別名烏城、金烏城城郭構造梯郭式平山城
天守構造は、複合式望楼型4重6階
(1597年築)(鉄筋コンクリート造外観復元・1966年)
築城主は上神高直とされます。
築城年1346年~1369年(正平年間)ですが、主な改修者は宇喜多秀家、小早川秀秋、池田忠雄等です。
明治6年(1873年)に残念ながら廃城となります。
遺構としては、櫓、石垣、堀
国の重要文化財(月見櫓、西の丸西手櫓)です。

PB230024.jpg
(複合式望楼型4重6階のコンクリート天守閣です(;^_^A)

別名は烏城(うじょう)、金烏城(きんうじょう)と呼ばます。

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簡単な概要は戦国時代に、備前東部から興って、美作、備中東部まで勢力を伸ばした宇喜多氏が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれ、その後小早川氏、池田氏により整備、拡張が行われました。



PB230008.jpg
(本丸地図ですこの地図に沿ってご紹介して行きます。)

岡山城は標高が十数メートルの丘が連なる小高い土地に建設されています。

当時(戦国時代ですが)、旭川河口部は複数の派川に分岐しており、その中の大洲原と呼ばれる広大なデルタ地帯中央に「岡山」(柴岡山)、その西隣に「石山」、さらにその北西には「天神山」(天満山)の3つの丘が連なり、各時代ごとに要害として使用されていた様です。

その中の石山にあった石山城(いしやまじょう)に宇喜多直家が入城・改築し、後に、子の宇喜多秀家が隣接する岡山に新たに本丸を設け、石山城を取り込む形で城郭が建造されました。

城の縄張は基本的には梯郭式となっており、三段の城郭配置が西側の一方だけに広がる平山城となっています。
言いかえると本丸の北から東には郭の無い、非常に防備が薄い縄張と成っています。
そのため旭川の流路を変更し、天然の堀として東側の備えに利用した様です。
さらには郭の代りとして、「後園(後楽園)」が築かれたとも言われます。

天守は4重6階の複合式望楼型で、特に初重平面形状が歪んだ多角形をしているため、同じく歪んだ多角形平面の天守台を持つ安土城天主を模したものではないかとも言われていますが、羽柴秀吉による大坂城天守を模しているという説もあり意見が別れています(現在の天守の前に礎石が配置されて居ました。)。

その外観は黒漆塗の下見板が特徴的で、この印象から「烏城(うじょう・カラスじょう)」とも呼ばれ、同じ山陽道の隣県勿論ご存知兵庫県の「白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう)」とも呼ばれる姫路城と対比されることもあります(岡山県民の皆様には(^人^)ですが、兵庫県民としては、心外かも(-""-;))。

元禄時代の古地図からは、五重の濠に囲まれた城郭と、南北3.5km、東西1.3kmにおよぶ城下町の姿が伺えます。

明治時代に御殿・櫓・門の大半が取り壊されました(これに関しては、明治政府の政策は本当に腹立たしいです。)。
堀は内堀の一部を除いてほとんど埋められましたが、街路は江戸時代の位置をほぼ踏襲している個所が多いようです。

さらに第二次大戦中、空襲のため天守・石山門を焼失してしまいました。
現在までに2つの櫓、本丸付近の石垣、内堀が残り、戦後に天守・不明門・廊下門・六十一雁木上門・塀の一部が再建されています。

現存する月見櫓・西之丸西手櫓は国の重要文化財に指定され、「岡山城跡」として史跡にも指定されています。

その他、京橋御門が岡山市南区小串に移築され現存しています。
城跡は「烏城公園」として整備される一方、二之丸跡に山陽放送、林原美術館、岡山市民会館が、三之丸跡に岡山県庁、岡山県立図書館などの公共機関があります。
近年本丸御殿の再建が検討されましたが、今のところ目処は立っていません(名古屋城の建て替えも決まった事ですし、頑張れ岡山県?)。

また隣接する大名庭園「後楽園」は、水戸・偕楽園金沢・兼六園とともに、日本三名園として並び称されていますね。

PB230001.jpg(内下馬橋を渡って城内に?ここも本来城内なのですがね。)
PB230009.jpg(巨石が使われていますね~とても守備が弱いとは思えませんが?此方は南側です。)
PB230011.jpg(不明門を横から見ています。高い石垣やはり南側ですが?)
PB230015.jpg(同じく不明門を横から、天守までもう少しです。)

【今回は城の築城~小早川家迄の歴史を御紹介】

南北朝時代の正平年間(1346年~1369年)に、名和氏(南朝の武将の一族)が「上神高直」石山台(岡山)に城を築いたと、「備前軍記」に書かれているのが最初と伝えられています。

その後およそ 150年間の城主は記録が有りません。
なおこの付近には摂関家領・鹿田荘の中心部があったとされ、旭川(鹿田川)河口の港町としても栄えていた様です。
戦国時代の大永年間(1521年~1528年)には、金光氏が居城とし金川城主の松田氏に仕えていました。

元亀元年(1570年)、「宇喜多直家」が金光宗高を謀殺しこの地を支配します。
直家は備前守護代浦上氏の一族浦上宗景の被官であったが、備前西部を中心に勢力を急速に伸ばしていました。
天正元年(1573年)、直家はそれまでの居城である亀山城(沼城)から石山城に入城し、城の改築と城下町の形成を行ないます。
この頃の石山城(岡山城)は、縄張が東西に走る連郭式であったと推定されており、直家は北方の山裾にあった西国街道を、城の南に沿うように付け替えて城下に導来ました。
そして備前福岡、備前西大寺などから商人を呼び寄せ、いわゆる城下町の整備を行うなど積極的に流通主導による経済振興とも言うべき政策をとりました。
これは、信長が安土城を築城する3年前のことで、直家が幼少の頃に、備前福岡の商人に庇護を受けたと言われていることも無縁ではないとみられていますが、武人としても行政官としても宇喜多直家は非凡な人物では無かったことがわかりますね(大河ドラマdと結構な悪役でしたが(;^_^A)。
なお主家である宗景の居城の天神山は巨大ではありますが天神山にある山城で、直家の水辺に近い小高い丘の石山城とは対照的です。

喜多直家は天正3年(1575年)には、浦上宗景の兄・政宗の孫をおしたてて宗景を播磨へ放逐し、事実上の下克上を行いやがて備前、美作、さらに播磨、備中の一部を支配下に置きました。

直家の子「宇喜多秀家」は、豊臣政権下で父の遺領をほぼ継承し、57万4,000石の大大名となりました。
これに相応した城とするため天正18年~慶長2年(1590年~1597年)の8年間にわたる大改修が行われ、近世城郭としての体裁を整えます。
秀家は「岡山」に本丸を構え、石山城の本丸を二之丸内郭に、二之丸を西之丸とし、そして内堀を挟んで二之丸、その西に三之丸の郭を整備します。
これらは織豊系城郭に特徴的な高石垣の積まれた城に成ります。
本丸は本段、中の段、下の段に分かれた構造で、本段の北寄りに金箔瓦を使用した壮麗な4重6階の望楼型天守を建てました。
そしてそのままでは本丸の東側の守りが極めて薄い構造となったため、旭川本流を城郭の北から東側に沿うように極端に寄り添わせる形とし、天然の堀としています。
ただしこの付け替えによる明らかに不自然な形の流路は、城下に洪水を多発させる原因となり、やがて放水路としての百間川の整備へとつながります。
そして城を南から取り巻くように西国往来の道筋を変えて、直家時代の城下町を拡大整備し、引き続き領内の有力商人を勧誘して経済活動を発展させるよう努めました。
築城には義父となった「豊臣秀吉」の意向が大いに働いていたのは間違いないでしょう
こののち城は「岡山城」城下町は「岡山」の呼称が定着しました。

PB230018.jpg(不明門正面中が天守台ですが、場所は少し違っています。)
PB230026.jpg
(金の鯱ですね~天守にもあります。)
PB230039.jpg
(烏城のいわれ~カラス!見たまんまですけどね。笑)
PB230062.jpg(宇喜多秀家の頃の石垣が天守台のそばに埋まっているようです。)

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍の主力となった秀家は八丈島に流刑となり、宇喜多家は改易となった。
代わって「小早川秀秋」が備前・美作52万石の領主として入城した。
秀秋は本丸中の段を拡幅し、三之丸の外側に15町余の外堀を掘り三之外曲輪の整備をして城下町の拡大を行った。
この外堀工事に農民だけでなく武士も使役し20日で完成したため、「廿日堀、二十日堀(はつかぼり)」と呼ばれている。
慶長六年には、中の段南隅に沼城天守を移築したとされ、これは大納戸櫓と呼ばれ、岡山城最大の櫓で二層の大入母屋造りの上に望楼を乗せた形式の三層四階の櫓であった。
秀秋は2年後の慶長7年(1602年)10月に岡山で急死し(勿論関ケ原の裏切りの恨みの噂が絶えなかったのはしょうがないですね)、嗣子がなく小早川家は断絶しました。

次回は池田家の岡山城をご紹介できますか?ご期待ください。

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2017/04/07

丹波の赤鬼『悪右衛門』死す!「第二次黒井城戦」光秀面目躍如?

前回、「丹波の赤鬼」こと赤井悪右衛門直正の活躍を御紹介しました。

第一次黒井城攻防戦では、明智光秀を取り囲み、光秀に「もはやこれまで」と死を覚悟させるほどに撃ち破った直正ですが、第二次黒井城の戦いでは織田軍トップの精鋭部隊明智光秀の反撃が始まります。

P3190024.jpg(正面でなくて申し訳ないのですが、説明板前に登山者の車が有り正面撮影が出来ませんでした。許してください!)

今回は、直正の最後と黒井城落城彼の末裔のその後について御紹介します。

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【光秀汚名挽回に奔走する!】
明智光秀は第一次黒井城攻略戦失敗の後、第三次信長包囲網を破るべく、畿内を転戦します。
「石山本願寺攻め(天王寺の戦い)」「紀州征伐」「加賀攻め」「信貴山城の戦い」、など休む暇もなく戦場を往来し、丹波攻略に集中出来る状況では有りませんでした。
明智軍は必要に応じて駆り出される「遊撃軍」を担っていたと思われます。

【第二次黒井城の戦い】

明智光秀は、加賀の一向一揆が終息に向かい、信貴山城の戦い(松永久秀は、上杉謙信・毛利輝元・石山本願寺などの反信長勢力と呼応して、本願寺攻めから勝手に離脱します。織田軍は信忠を総大将とし、筒井勢を主力とした大軍を送り込み、信貴山城を包囲させます。佐久間信盛は名器・「平蜘蛛茶釜」を城外へ出すよう求め、久秀は「平蜘蛛の釜と我らの首と2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ、火薬で粉々に打ち壊すことにする」と返答、織田軍の攻撃が始まると平蜘蛛を叩き割って天守に火をかけ自害、享年68。)が終了する天正5年(1577年)10月、第二次丹波征討戦を開始します。

一方、赤井直正は下館中心に信長包囲網の一翼を担っていました。
足利義昭や吉川元春の使者安国寺恵瓊、武田勝頼の使者跡部勝資や長坂光堅、石山本願寺の顕如からの密書、密使が再三この地を訪れていたという記録が残っています。

特に石山本願寺からは信長の動向、その対抗策、返信の要請など緊密に連絡が行き来されていたと考えられます。
また、直正と弟の幸家は吉川元春に太刀や馬を贈り、上洛と丹波への急援を要望しています。

明智光秀は吉川元春の援軍が到着する前に、多紀郡にある籾井城、桑田郡にある亀山城を攻略、この二城を丹波征討戦の本拠地としました。

第一次丹波征討戦と違い光秀は一挙に黒井城を攻めようとせず、慎重に周りの城から攻城していく各個撃破戦略をとります(大軍による各個撃破は兵法の常道ですね(#^.^#))。

その上に信長は細川藤孝・忠興父子の援軍を送り、翌天正6年(1578年)3月に八上城と氷上城の包囲を完成させます。

P3190044.jpg(東曲輪から見ると、三の丸・二の丸・本丸と続いています。)
P3190046.jpg(三の丸跡です。最初の光秀の説明板に矢竹が自生と有りました。戦国の城らしいですね!。)
P3190048.jpg(二の丸から本丸を望む。桜がもったいないですね~週末辺り最高かも知れません。)

【丹波の赤鬼・赤井直正・悪右衛門死す!光秀に勝って病魔に敗北!!Σ(×_×;)!】

この時に赤井方では、主将である赤井(荻野)直正が3月9日に病没するという大事件がおきています。

数十年に亘り実質的な赤井氏の指導者であった直正の死去は丹波の国人衆に大きな影響を与え、一旦光秀を裏切った丹波国人衆も八上城が包囲されるのを見ると再び光秀に降っていきました。
黒井城と赤井家は息子の赤井悪右衛門直義(9歳)が継ぎ、弟の幸家が後見と成り統率することになります。

更に信長は同年4月に羽柴秀長軍と明智秀満軍の増援を送り込み、山垣城・細工所城・栗住野城・玉巻城・岩屋城・霧山城、等の「八上城」「黒井城」の支城は次々と落城していきました。

光秀は攻囲中に、軍勢を八上城周りに置きながら別所長治や荒木村重の謀反にも対処しています(三木合戦・有岡城の戦い!光秀の能力は流石といえます。)。

翌天正7年(1579年)3月に八上城と黒井城の分断を目的に金山城を築城します。
各支城が落城し、金山城の効果も出始めたのか、5月5日には氷上城が落城します。

極度の飢餓状態になった八上城に対して、『信長公記』によると「調略をもって」という記載がある事から、八上城兵に対して働きかけがあったと思われますが、遂に6月1日 八上城が落城、捕えられた波多野三兄弟は光秀護送の元、洛中を引き回され安土城に出向き信長の命により磔になります。

光秀は7月に再び丹波に入国し、最後の城、黒井城の攻略にとりかかります。

最初の戦いから約1年半後、再び光秀が黒井城の攻撃を開始したのは天正7年(1579年)8月でした。
両軍の戦力は、明智軍約10,000赤井軍約1,800でした。
明智光秀軍は明智光秀・明智秀満・細川藤孝・細川忠興・羽柴秀長と丹波の山城一つ落とすのに、ある意味オールスターです(#^.^#)。

P3190051.jpg(この広野に一万の軍勢が終結したのか?)P3190064.jpg(二の丸から本丸へ空堀の後ですかね。)

赤井忠家軍は、第一次黒井城の戦いの時とは違い、波多野家からの援軍もなく黒井城の支城もほとんどが落城してしまい、兵力も激減していたと思われます(五分の一以外ですからねぇ(^^;)。

戦いは8月9日早朝開始、光秀は第一次黒井城の戦いの反省をいかし慎重に攻め込み、仮想陣地に火をかけたり、ほら貝を吹いて混乱を装い、攻めると見せかけて退いたり、勢いに乗って追う黒井城兵を誘い込み挟撃したりしました。
そんな中、明智軍の四王天政孝隊が手薄になった千丈寺砦から攻め落とし、主曲輪に向けて総攻撃を仕掛けます。
明智軍の誘導作戦で主曲輪には僅かな手勢しか置いておらず忠家も奮戦したが、最後は自ら火を放ち敗走しました。

P3190060.jpg(本丸階段!小さいながらも建物が有れば、枡形に成って攻めにくいですか?)
P3190054.jpg(上からは槍をつき下ろすだけで良いですね。)

この黒井城の落城により丹波の組織的反抗は終止符をうったのでした。

若干の反対勢力との小競り合いや和睦などを片付けて、明智光秀、細川藤孝らは10月24日に安土城に凱旋し、信長に拝謁し丹波が平定できたことを報告します。

翌天正8年(1580年)に信長は丹波を光秀に、丹後を藤孝に与えることになりました。

黒井城落城から三年、天正10年の5月25日、愛宕百韻と言われる、連歌師・里村紹巴を招いて京都・愛宕神社で光秀が設けた連歌会で「時は今 あめが下しる 五月かな」と発句、本能寺の変~天王山の戦いで自身が破滅への道を進むとは、光秀も考えてはいなかったでしょうね(-""-;)。

P3190059.jpg(ハイキング・トレッキングには最適です。桜満開の時期も良し、舞い散る花びらに直正の死にざまを考えるも良し!)
P3190057.jpg
(別名・保月城跡!是非お出かけください~笑)

余談ですが、直正の嫡男、赤井直義(9歳)は後見の叔父の赤井幸家によって落城寸前の黒井城のから脱出します。
のちに京都に隠棲し、荻野金左衛門と名前を改名しました。
1610年、山口直友を介して藤堂高虎に仕え1000石を賜ると同時に旧姓赤井に復しています。
大坂の役では藤堂軍の足軽大将として活躍しました(子孫は藩士として続きます)。

直正の妻・桂光院は、大和国駒崎城主・古市胤栄へ再嫁し、三男・赤井弥七郎を生みます。
弥七郎は、大坂の陣にて豊臣方として参戦した後、元和2年(1616年)にやはり藤堂家に500石で召し抱えられています。

先日NHKのファミリーヒストリーと言う番組を見ていたところ、俳優の赤井英和さんが、赤井(悪右衛門)直正の嫡男・直義を守って落ち延びた、弟・赤井幸家の子孫だと知りました(驚!)。

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2017/04/05

「丹波の赤鬼」赤井悪右衛門直正奮戦!明智光秀敗退?『黒井城攻略戦』

先日お友達がFacebookで気持ち良さそうに山城の芝生に寝そべって居られたので、私も~と思い丹波黒井城に行って来ました(登って来ましたの方が正確!)。

黒井城は戦国時代、丹波・但馬間の火種と成ったばかりか、周りの数々の大大名の思惑がぶつかりあって有名武将達が攻防を繰り広げた山城です。

P3190026.jpg(風雲急をつげる黒井城~~~!丹波の赤鬼・悪右衛門こと赤井直正、イケメンですね~。)

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P3190075.jpg(保月城は別名のようです。)
P3190027.jpg(登山!まさに登山でした(;^_^A、後ろにお稲荷が見えるのですが…)
P3190030.jpg(我が実家と同じ豊岡神社?運命感じました、笑)

黒井城の戦いは、安土桃山時代に織田信長の命をうけた明智光秀などが丹波国征討を目的に行われた、赤井氏の堅城黒井城攻城戦の事です。
天正3年(1575年)と天正7年(1579年)の2度に渡って行われました。

今回はその第一弾、猛将『丹波の赤鬼こと赤井悪右衛門』と第一次黒井城の戦いをご紹介します。



P3190023.jpg(コースが二つあります。登りはゆるやかコースですが写真は混在しています。)
P3190072.jpg(急坂コース手前に灯篭とお墓らしきものがありました。)
P3190067.jpg(もう急坂~、笑!確かですね。)

【第一次黒井城の戦い】

第一次黒井城の戦は、天正3年(1575年)10月初旬~天正4年(1576年)1月15日に行われました。

永禄13年(1570年)3月、上洛していた織田信長に荻野直正(後の赤井悪右衛門直正、荻野家養子となっていました。)と甥の赤井忠家(直正の兄赤井家清は亡くなり、忠家は家清の嫡男)は拝謁し織田方につくことを約束します。
信長はこれに対して氷上郡・天田郡・何鹿郡の丹波奥三郡を安堵しました。

これにより丹波は安定するかに思えましたが翌元亀2年(1571年)11月、但馬守護で有子山城主(現在の出石城山上の山城です)山名祐豊と但馬国人の夜久野城主磯部豊直らが氷上郡にあった足立氏の山垣城を攻城します。
黒井城の直正と後屋城の忠家はこの動きに素早く対応し、山垣城に救援に向かい山名・磯部両軍を撃退しています。

4年後の天正3年(1575年)に直正は勢いに乗り但馬の竹田城(城主は太田垣輝延で但馬山名四天王の一人です。)を攻城し手中に収め、祐豊は信長に援軍を要請しましたが、当時信長は第三次信長包囲網により(足利義昭は毛利氏の庇護下に入り、鞆に移りましたが、それ以前の紀伊にいた頃から信長包囲網の再構築を画策していた様です。当時、義昭は形式的とは言え征夷大将軍であり、将軍として御内書を出して各地の大名の糾合に務めています。この結果、長らく信長と対立していた本願寺、武田氏のみならず、中国の毛利氏、山陽の宇喜多氏、北陸の上杉氏などが包囲網に参加しました。)織田軍は、分散対応余儀なくされており援軍を出せる余裕は有りませんでした(信長さんは、どっちに見方してるのかな?)。

しかしながら同年、越前一向一揆が一段落すると信長は明智光秀を総大将に丹波征討戦に乗り出すことになります(山中祐豊が信長さんに助けを求めたって事?ん~(^^;、そのくらい複雑化してたのか~)。

信長としてみれば、吉川元春(三本の矢の1人毛利元就次男ですね。)を討つ前に京都に近い丹波を平定し、背後の憂いを削ぐのが目的だったと思われます。

光秀は越前より坂本城に帰城し、戦の準備を整えて同年10月初旬に出陣しました。
この時直正はまだ竹田城にいましたが、光秀の動きを察知しいちはやく黒井城に帰城、戦闘態勢を整えました。
光秀の出陣と並行して信長は10月1日、丹波国人衆に向けた朱印状を出し、その調略によって八上城の波多野秀治をはじめ、国人衆の大半を取り込んでいたのですが...。

P3190032.jpg(ゆるやかコースといってもゆるやかではありませんけどね~!)
P3190066.jpg(急坂コースに在る三段曲輪跡です。)
P3190033.jpg(石踏の段跡!整備が始まっていました。)
P3190035.jpg(再建された?赤門です。)
P3190036.jpg(赤井氏の招魂碑が立っていました。)

光秀は黒井城の周囲に2、3箇所の砦を築き、圧倒的兵力で黒井城を包囲します。
戦況は勿論光秀に有利であり、『八木豊信書状(八木豊信は但馬国人八木家当主、山名四天王の一人)』によるとこの戦況について光秀は「城の兵糧は来春までは続かないので落城するであろう」と楽観しており、戦いは順調に推移していたはずでした。

攻城戦開始後2か月以上が経過した翌天正4年(1576年)1月15日、明智軍は黒井城の前方(南側)にあたる「平松」という土地に移動し、黒井城の東側「大路城主波多野秀香軍」黒井城の西側「霧山城主波多野秀尚軍」黒井城の北側「八上城主波多野秀治軍」と黒井城の四方に陣取り、いよいよ黒井城を攻め立てるべく準備が整ったところに、突如波多野秀治軍が裏切り、三尾城城主赤井幸家(直正の弟)が明智軍に襲い掛かり、これに即応して波多野秀香軍と波多野秀尚軍が西、東より挟撃を加えました。
明智軍は体制を整えるべく一旦柏原方面に退却しようとしましたが、そこには高見城で赤井忠家が待ち伏せており、明智軍は黒井川に追いやられ大敗しました。

P3190039.jpg(丹波の街並み結構登っていますね~。)
P3190041.jpg(光秀も初回は攻め落とせませんでしたので、今回は東曲輪までにしましょう。次回本丸をご紹介いたします。)

この戦いは「赤井の呼び込み軍法」と呼ばれ、秀治の裏切りにより勝敗がついた訳ですが、赤井・波多野両家は姻戚関係にあり、事前に密約があった可能性がささやかれてはいるものの、はっきりした証拠や記録は無い様です。

大敗した光秀は京都に逃げ込み、その後坂本城に帰城し増した。

一方、この戦いで織田軍に土をつけたことで直正は「丹波の赤鬼」という名を広め、全国の武将から一目おかれる存在となってい来ます。

『甲陽軍鑑』によると直正は「名高キ武士」として
徳川家康長宗我部元親松永久秀らと共に、しかも筆頭として赤井直正(養子に行った荻野姓から赤井姓に戻しています。)の名が挙がっています。
つまり、後の天下人と四国の覇者・乱世の梟雄と並び紹介されるほどの武将なのです。

戦国史には大きく取り上げられてはいませんが、すごい武将がいたものですね~。
光秀を撃破したのは秀吉位だと思っていました(驚愕~~~!)


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2017/01/24

ひこにゃんも気になる大河ドラマ「おんな城主直虎」の視聴率!『国宝 彦根城見参』

彦根城(ひこねじょう)に行ったのは、五年前に成ると思います。

勿論、当時は大河ドラマで井伊直虎が取り上げられると思ってもおらず!
むしろ当時の大河ドラマ2011年の「江~姫たちの戦国~」の宣伝ポスターが有ったと記憶してます。

実は海洋堂フィギュアミュージアム(長浜)が主な目的だったので、長浜城にもいきませんでした(今考えるともったいないな~)。
勿論ブログを書くこと等考えてもおらず、写真も家族のスナップ写真で少ないです。

それでも、今回大河ドラマの人気にあやかって(姑息な考えですね~(^^;)、国宝彦根城を御紹介します。

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『彦根城』は日本の滋賀県彦根市金亀町にある城で~す。

天守、附櫓及び多聞櫓は国宝に指定されています。
城跡は特別史跡かつ、琵琶湖国定公園第1種特別地域に成っています。

IMG_5704.jpg
(天秤櫓です。確かに天秤に見えますね~。時代劇でもよく見かける場所です。)




【築城について!】
江戸時代初期、現在の滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、徳川幕府の鎮西を担う井伊氏の拠点として置かれた平山城です。山は「金亀山(こんきやま)」(標高50m)との異名を持つため、城は「金亀城(こんきじょう)」とも言われます。
多くの大老を輩出した譜代大名である井伊家14代の居城でした。

明治時代初期の廃城令(此が無ければもっとお城が残ってたと思うと残念でなりません。)に伴う破却を免れ、天守が現存します(戦国~江戸初期の現存天守の数は12だったと思います。「国宝五城」、「重文七城」)。

天守と附櫓(つけやぐら)及び多聞櫓(たもんやぐら)の2棟が国宝に指定されるほか、安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し、国の重要文化財に指定されている。
中でも馬屋は重要文化財指定物件として全国的に稀少だそうです。

天守が国宝指定された五城の一つに数えられます。
姫路城とともに遺構をよく遺している城郭で、1992年(平成4年)に日本の世界遺産暫定リストに掲載されましたが、近年の世界遺産登録の厳格化の下、20年以上推薦は見送られています(残念です!)。

滋賀県下で唯一、城郭建築が保存されました。
滋賀県は戦国時代は名城の宝庫でしたね~数々残っていれば凄いと思いますけどねぇ。

IMG_5705.jpg
(太鼓門櫓へ向かう階段!平山城ですから、少しは登りますよ~(;^_^A)
IMG_5708.jpg
(もうすぐ太鼓門櫓です。右上に少し見えています。)

【築城の経緯】
徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、家康は直政に全幅の信頼を寄せ、その軍功により彼を近江佐和山城18万石の大名(近江国北東部)に任じます。

佐和山城は石田三成が改築した後は「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城(ご存知だとは思いますが、武将島左近と佐和山城です。)」の一つともいわれた名城ですが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌い、湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していました。

しかしながら、関ヶ原の戦いでの戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)直政は数え42歳で亡くなっています

その後直継が家督を継ぎますが、幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して彼の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山、現在の彦根城の場所)に彦根城が築城されました。

築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩や越前藩など7か国12大名(15大名とも)が手伝いを命じられる天下普請であった。1606年(慶長11年)2期までの工事が完了し、同年の天守完成と同じ頃に直継が入城しました。
1616年(元和2年)彦根藩のみの手により第3期工事が開始され、この時に御殿が建造され、1622年(元和8年)すべての工事が完了彦根城は完成しました。

彦根城の建築物には、近江の名族京極高次が城主を務めた大津城からの天守を始め、佐和山城から佐和口多門櫓(非現存)と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城からや、どこのものかは不明とされているが太鼓門、などの移築伝承が多くあります。
建物や石材の移築転用は縁起担ぎの他、コスト削減と工期短縮のために行われたといわれています。

その後、井伊家は加増を重ね、1633年(寛永10年)には徳川幕府下の譜代大名の中では最高となる35万石を得るに至りました。
なお、筆頭家老・木俣家は1万石を領していましたが、陣屋を持たなかったため、月間20日は西の丸三重櫓で執務を行っていました。
これは、徳川統治下の太平の世においては、城郭というものがすでに軍事施設としての役目を終えて、その存在理由が、権勢の象徴物へと変じたためでした。
江戸幕府の西国への重要な備えとしての役割を担う彦根城も、彦根藩の各組織の管轄で天守以下倉庫等として江戸時代を通して使われました。

なお、幕末における幕府の大老井伊直弼は、藩主となるまでをこの城下で過ごしています。
直弼が青春時代を過ごした屋敷は「埋木舎(うもれぎのや)」として現存しています。

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(どど~ん、天守正面です。太鼓門過ぎちゃいました、涙。)
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(天守に入ってみましょう。)
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(附櫓のはずです。天守と共に国宝です。)

【計画者の井伊直政について】
徳川四天王のひとり、井伊直政は赤備え(真田信繁も赤備えで有名すよね)の軍装で知られる猛将です。
少年時代から家康に仕えた直政は、一説にはその美少年ぶりから家康の寵童(衆道(しゅどう、英: Shudō)とは日本における男性の同性愛関係「男色」の中で、武士同士のものをいいます。)となり、やがて家康から武田家の旧臣を附属されて一手の大将となりました。

その戦いぶりは勇猛果敢で、つねに陣頭でみずから刃をまじえ、家康から「直政はいつも重装備の甲冑に身を包んでいても負傷が絶えないな」とからかわれるほどでした。

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の後、家康はそんな直政の歴戦の功を賞して「開国の元勲(げんくん)」と称えています(『寛政重修諸家譜』)。
この合戦の前後、外交手腕にも長けていた直政は、多数派工作や戦後処理にも活躍し、家康の政権樹立を輔佐しました。
ちなみに関ケ原の戦いでは待ちきれずに戦端を開いた事で有名です。

直政の死因は関ヶ原の戦いでの負傷による破傷風とされますが、2年もかけて苦しむ破傷風は無いですし、2年前の古傷が開いて破傷風に感染するなど、どうにも不自然に感じられますね。

此処は素直に、破傷風は直ったが歴戦の疲れが、直政の命を縮めたと考えておきます。

【残った彦根城】
明治に入り各地の城が廃城令で破壊・売却されていく中、彦根城も例外ではありませんでした。
しかし、明治11年10月、明治天皇が巡幸で彦根を通過した際に城の保存を命じたため破却は逃れたといわれています。
その際、巡幸に随行していた大隈重信が城の破却中止を天皇に奉上したという説と、天皇の従妹にあたるかね子(住持攝専夫人)が奉上したという説があります。

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(天守左前方向~桜が満開なら最高だったですね~笑)
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(天守後方と附櫓と子供達、小さいですね~写真も小さいから怒られ無いかな?)
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(玄宮園の茶室八景亭のはずです。)
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(玄宮園から天守を臨む!世界遺産でも良いんじゃないですか~?)

【戦略拠点としての彦根城】
湖と山の間、5キロメートルほどの狭い平地に立地する彦根は、中山道と北陸道(俗に北国街道ともいう)が合流し、水陸から京に至る東国と西国の結節点であり、壬申の乱(672年「白鳳元年」)・姉川の戦い(1570年「元亀元年」)・賤ヶ岳の戦い(1583年「天正11年」)・関ヶ原の戦い(1600年「慶長5年」)など、古来、多くの天下を目指した合戦がこの地域で行われました。

戦略拠点として注目され、織田信長は佐和山城に丹羽長秀を入れ、ほど近い長浜城を羽柴秀吉に与えています。

豊臣秀吉と徳川家康がそれぞれ譜代筆頭の石田三成と井伊直政を、この地に配置したことが、この彦根の地がいかに天下取りにとって重要な場所だったのかを物語っていますね。

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