2017/11/10

「おんな城主 直虎」も後一月、ここらで御紹介しとかないと乗り遅れるぜ『龍潭寺』

出雲神代巡りも少しお腹いっぱいになった方もおられると思いますので今日は、戦国時代「大河ドラマの世界」でお口直しをしていただきます。
本日ご紹介いたしますのは、大河ドラマ『おんな城主 直虎』 で井伊家の菩提寺である「龍潭寺」なのですが、なんとこの「龍潭寺」実は二つあります。


一つはもちろんドラマの中で小林薫さんが演じる、「南渓瑞聞禅師(なんけい ずいもん)」が二世住職を務めた、臨済宗龍潭寺で現在も静岡県浜松市北区引佐町井伊谷に存在します。

p159876549.jpg
(彦根で大河ドラマ祭りに来られた、昊天・小松和重さんとおとわ・新井美羽ちゃん可愛いですね~。NHKさんから拝借!)

今日ご紹介するのは、俳優「小松和重」さんが演じる南渓和尚の弟子「昊天宗建禅師(こうてん)」が井伊直政の関ケ原の活躍において佐和山城主に成ったのを機に、井伊谷から佐和山麓に移建開山した、井伊家と深いゆかりを持つ臨済宗妙心寺派の名刹です。

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
ブログランキングならblogram
👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。

CROOZ




【龍潭寺ってどんなお寺?】

PA151231.jpg(弘徳山龍潭寺入り口です。)
PA151258.jpg(山門は裏へ通じて佐和山城址登り口に成っています。)

龍潭寺(りょうたんじ)は、733年(天平5年)遠江国引佐郡(現在の静岡県浜松市北区引佐町)に行基(仏教の布教により、東大寺の大仏を造ったのが行基です)によって開かれたと伝えられます。平安時代中期一条天皇のころに、井伊共保がここで葬られたことから、井伊氏の菩提寺となりました。禅宗寺院となったのは、室町時代末期井伊直平の代のようです。 風光明媚な奥浜名湖その北に位置し、豊かな自然、緑と花に抱かれた町、浜松市井伊谷、そこに萬松山龍潭寺は有ります。

共保公とは、平安時代から戦国時代までの六百年にわたり当地方を治めた名門井伊氏の元祖です。井伊氏は保元の乱で源義朝に、鎌倉時代には源頼朝に仕え、南北朝時代では後醍醐天皇皇子、宗良親王を迎え北朝と戦い武勲をなしています。

うんちく「保元の乱(ほうげんのらん)」は、平安時代末期の保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変の事です。武家が力をつけて政治に介入するきっかけを作った乱です。

室町時代、今川氏に仕え「桶狭間の戦い」で戦死した井伊家22代直盛(ドラマでは杉本哲太さんが直虎の父直盛を演じていました)の戒名をとり龍潭寺と寺号を変えています。

【今日ご紹介するのは弘徳山龍潭寺】

PA151265.jpg(方丈入り口です。清々しですね。)
PA151559.jpg(昊天宗建禅師お手植えの松だそうです)

それが、1600年(慶長5年)に井伊氏が近江国佐和山に転封となり、龍潭寺の五世昊天禅師を招いて遠江国から分寺し、この地に建立したのがこの寺です。方丈南庭と書院東庭は、開山・昊天禅師の作庭による枯山水と池泉式庭園となっています。

PA151557.jpg
(枯山水「ふだらくの庭」真ん中の石が観音立像、大海を渡って補陀落へ向かう船「右石」を表しています。)
PA151606.jpg(書院東庭、借景式「蓬莱池泉式庭園」です。)

後背の佐和山には佐和山城跡があり、龍潭寺が全山を所有し無料での入山を許可しています(もちろん登って来ましたがご報告は又近いうちにいたします)。

昊天禅師は龍潭寺二世住職南渓瑞聞の弟子であり、井伊直虎の死後、井伊直政が小牧・長久手の戦いで先鋒として出陣する際に、南渓瑞聞から傑山宗俊(ドラマでは市原隼人さんが演じれています)とともに遣わされた。昊天は長刀の優れた人物であり、長久手にて池田恒興と森長可の両隊を討つことにより、直政は名をあげ後に徳川四天王筆頭に成っています。

1600年頃、龍潭寺四世・「悦岫永怡」より「昊天」の号を授かっています。直政の死後、遺命により佐和山に豪徳庵を建てています。1611年には、臨済宗本山妙心寺の九十七世住職と成りました。1615年、彦根に弘徳山龍潭寺を創建し、開山として迎えられる。その後、井伊谷龍潭寺五世となっています。

【なんだかおかしいい?】

大河ドラマでは「昊天」が兄弟子と「傑山」が弟弟子のような設定だと思いますが。井伊直虎(不詳~1582)・井伊直政(1561~1602)・龍潭寺一世 黙宗瑞淵(1463~1554)・龍潭寺二世 南渓瑞聞(不詳~1589)・龍潭寺三世 傑山宗俊(不詳~1592)・龍潭寺五世 昊天宗建(不詳~1644)遷化(死亡年)した年から考えると、昊天(小松和重さん)が傑山(市原隼人さん)よりも年上だとは思ませんね、昊天禅師が亡くなるのは50年も後になります。

傑山(市原隼人さん)は南渓(小林薫さんと)ほぼ同じ年代で、昊天(小松和重さん)は直虎(柴咲コウ)さんの孫位の年齢に成ります。(笑)

【いつもの最後に】

PA151528.jpg
(森川許六筆、牡丹図・獅子図「獅子の間」)
PA151542.jpg
(同じく森川許六筆の松竹梅鶴図「鶴の間」おめでたいですね。)

龍潭寺は元和三年(1617)諸堂が完成した後は、近江随一の禅刹となり、近郊に十余の末寺を有する巨刹となります。更には全国有数の禅宗大学寮として発展し、特に「園頭科」は日本の造園専門学の発祥とされ、当寺で学んだ僧たちが全国の禅寺の庭園を手掛けたことは広く知られています。
また元禄年間からは達磨様にあやかる「だるま寺」として人々の信仰を集め、四季折々に美しい花の寺としても親しまれています。
大河ドラマでも描かれる、龍潭寺の僧たちが井伊家の舞台骨を支えたからこそ、井伊家の発展が有った事を忘れてはいけません。

PA151566.jpg
(禅宗といえば達磨大師!インパクト強すぎる。)

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。

ブログランキングならblogram

リュミエールブラン ネージュ

2017/11/08

驚愕のパワースポット!祠はおろか鳥居すらない?『立石神社』

古代の祈りは究極のパワースポットなのか?観光客は勿論、多分一部のマニアだけが訪れていると思われる。『立石(たていわ)神社』をご紹介します。

あれ俺ってマニアだったのか~?、ただの歴史好きだったはずなのに、このまま行くと歴史ブログの枠から外れて行きそうで怖くなって来ました。(笑)

PB020351.jpg(先に大きさイメージしてもらわないと、フレームに入らないので、笑)

島根半島の中央部、出雲市小伊津町という山陰の岸壁に張り付いた町のすぐ近くです、日本海の荒波を背に受けて、お詣りしてきました。

阿遅須枳高日子(アヂスキタカヒコネ・出雲国風土記表記)の息子である『多伎都比古』を祀る神社です。

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
ブログランキングならblogram
👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。

CROOZ

CIMG2254.jpg(失礼ですが、山肌にへばりつくような小伊津町、山陰の厳しい自然を感じさせます。)
CIMG2251.jpg(これが立石神社でもいいんじゃないか?)


PB020314.jpg(今日は下り~笑楽勝~?帰りは登りやんか~(;^_^A アセアセ・・・)


【まず、アヂスキタカヒコネて誰?】

アヂスキタカヒコネ(アヂシキタカヒコネとも)は、日本神話に登場する神で、『立石神社』に祀られる『多伎都比古』の父親に成ります。 『古事記』では阿遅鉏高日子根神、阿遅志貴高日子根神、阿治志貴高日子根神、『出雲国風土記』では阿遅須枳高日子と表記されています。また、阿遅鋤高日子根神、味耜高彦根命とも表記されることもあるようです。別名もあり「迦毛大御神(かものおおみかみ)」といわれます。

ビックネーム、「大国主神」と宗像三女神(誓約によって生まれた須佐之男の娘)「多紀理毘売命(古事記)」(宗像大社では「田心姫神」)として、沖ノ島にある沖津宮に祀られている今注目の女神を両親に持ちます。同母の妹に高比売命(シタテルヒメ)がいます。

農業の神、雷の神、不動産業の神として信仰されており、別名は賀茂社の神の意味である。阿遅須枳高日子神は大和国葛城の賀茂社の鴨氏が祭っていた大和の神ですが、鴨氏は出雲から大和に移住したとする説もあるようです。『古事記』で最初から「大御神」と呼ばれているのは、天照大御神と迦毛大御神だけなんです(これはすごいお宝見つけちゃったぞ~笑)。

【息子・多伎都比古】

『出雲国風土記』楯縫郡の項に、「阿遅須枳高日子根」の后・「天御梶日女命」が、多具の村に行かれて、 「多伎都比古命」を出産されます。その時、胎児の御子にかけた言葉は、 「おまえの御父上のように元気に泣きなさい。いままさに産もうと思うが、ここがちょうどよいのです(父神のおられる方向に向かった位置で産みたいと思っていたが、まさにその方向でちょうと良い)。」と言われたと記載されています。

名前に付けられた多伎は、お生まれになった土地・多具(もしくは多久)のことと思われますが、今回訪れた「多伎都比古命」の御霊代である石神「立石神社」は、日照り続きで雨乞いをした時は、かならず雨を降らせられたと伝えられ、 瀧(古代もたきが現在言葉に直結するとは思いませんが)に通じる言葉なのかもしれません。

「多伎都比古命(タキツヒコ)」という名前の神様は、『古事記』や『日本書紀』には見ることが出来ず、『出雲国風土記』の中でしか登場しない出雲在地の神ですが、日照りに必ず雨をもたらす神とすると、農耕にも関与した水神様かもしれませんね。

【立石神社の場所と立地】

PB020307.jpg(説明版は道路の上です)
PB020348.jpg
(下り道は楽勝!あっでも気を抜いてはいけませんよ。)
PB020319.jpg(鳥居代わりの注連縄を取りぬければそこはもう聖域です。)

『立石神社』島根県出雲市坂浦町立石の住所に立地しています。立地といっても社が有るわけではありません。出雲国風土記には約400の神社が記載されていますが、これは大和・伊勢に次ぐ数の多さだそうです。しかしその大半は岩に注連縄(しめなわ)を飾っただけのものだったようです。

現代までに、地元住民の手により、ほとんどの神社に社や祠が作られましたが、この「立石神社」は出雲風土記の時代そのままの姿で1300年間に至って変わらない数少ない神社の一つです。それほどに「立石神社」では古代神信仰が厚かったと考えて良いのではないでしょうか。

「雲陽誌」には「山の神」として3つの岩からなり、地元の人は立岩さんといって祀る神社があると書かれています。「立石神社」のことで、ちなみに神社の名は「たていわ」、地区名は「たていし」です。

PB020336.jpg(大きいですね~!空気が違います。)
PB020337.jpg(真ん中が祈りの場所です。)
PB020327.jpg(もちろん素敵な旅の出会いを、お祈りしてきました。)

看板から私にとっては珍しく下り道を歩いてゆくと、山中に最大高さ12m、最大幅26mなどの巨石が3つあります、一つの岩が自然に割れたものだそうです。

本殿も鳥居も無く、木と木の間に注連縄が渡してあり、そこが鳥居の代わりのように仕立てられています。祈りの場所は大岩の割れ目前に4本の細竹榊を立てた神域があるだけです。御神体である高さ十数メートルの巨石と私ひとり、人の手による構築物は何もないのですが、霊気漂う古代神道の場を彷彿とさせる貴重な場所です。

地区にある2軒の家が脈々と氏子として面倒を見てきたようです、驚くことに年に1回のお祭りも絶やさずに続けられています。

PB020330.jpg
(何処をとってもフレームから漏れてしまいます。)
PB020339.jpg
(満足しました~。)

1300年に渡り時間が止まったままのパワースポットの空気を体験されてみてはいかがでしょうか。

立岩神社から松江へ向かう途中、分かれ道の貯水タンクのところに老母石(おぼいし)神社という立看板があり、そこに地面に埋まったような石がありました。多伎都比古命の連れて来た姥(うば)を祀ったものと言われているそうです。この老母石の近くの石段の上に柵で囲まれた石は客神社です。石神が密集していてどう見ても間違えそうです。

PB020358.jpg(こちらだと思いますよね~。)
PB020364.jpg(お隣にあるこちらが老母石(おぼいし)神社だそうです。)

【最後に歴史は語る】

『出雲国風土記』に、彼の母親「天御梶日女命」がこの神社の近くの多久村で彼を生んだと書かれています。「多伎都比古命」という名前の神様は、『古事記』や『日本書紀』には見ることが出来ません。明治の初めに地域全体の神社が須佐之男を祀る鞆崎(ともさき)神社にまとめられ、「立石神社」は廃社されました。しかし昭和十年代、地元民の熱意により立石を含む庄部地区全体の祭祀の場として復活させたそうです。

ちなみに「多伎津比古命」はビッグネーム「大国主命」の孫で、この地で生まれ近くに産湯をつかった滝壺等があるとされ、更に幼い頃を過ごしたと云われているにも関わらず、今ではその滝壺の位置がどこなのか地元の人にもわからないそうです。

歴史を護り伝えることは、自国の心を伝える作業です。どんなに小さな祠や注連縄の木にも謂れが有るのです。それらの遺物に少しだけ心を残して古老の話に耳を傾けようではありませんか。

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。

ブログランキングならblogram

リュミエールブラン ネージュ

2017/11/06

追加取材!「日本初の宮」『須我神社奥の宮』へお詣り。

須我神社(すがじんじゃ)は、島根県雲南市にある出雲國神仏霊場第十六番札所の神社です。以前にも一度ご紹介いたしました。

須佐之男命が八岐大蛇退治の後に建てた宮殿が神社になったものと伝えられ、「日本初之宮(にほんはつのみや)」と通称されています。

PB030438.jpg
(日本初之宮・和歌発祥の遺跡とありますね。)

二年前に家族で大山登山の時に訪れたのですが、予定がタイトだったので、奥の宮へのお詣りは断念せざるをえませんでした。
今回は時間も十分に有ったので、追加取材として『須我神社奥宮』へお詣りしてきましたので、ご紹介いたします。


それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
ブログランキングならblogram
👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。

CROOZ




【須我神社はどんな神社?】

PB030423.jpg(神社前の小さな池に縁結びの夫婦松とありました。この池温泉だったそうです。)
PB030427.jpg(前回よりも何かすっきりしているようです。)
PB030431.jpg(神門から拝殿まで一直線ですね、コンパクトな造りの神社です。いい感じ~!)
PB030437.jpg(おや?御由緒が新しく成っていました。)

須佐之男命、稲田比売命、両神の子の清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)事、八島士奴美神を主祭神とし、諏訪大社の武御名方命(大国主の息子で、高志沼河姫(こしのぬなかわひめ)を娶って生まれた一男が建御名方命といわれています)を配祀する分霊を配祀しています。

【古事記物語】

PB030447.jpg(ん?社務所が新築されて拝殿横に移動してますね。)

『古事記』によれば、建速須佐之男命は海を治めるように伊邪那岐に命じられますが、須佐之男命はそれを断り、母神伊邪那美のいる根之堅洲国に行きたいと願い出ます。伊邪那岐は大いに怒かって、須佐之男命を追放してしまいます。そこで母の故地、出雲と伯耆の堺近辺の根の国へ向う前に姉の天照大神に別れの挨拶をしようと高天原へ上りますが、天照大神は弟が攻め入って来たのではと思い武装して応対し、二柱(神様は人ではなく柱と数えます)は疑いをはっきり究明するために誓約(うけひ)を行こなうことに成ります。

自身の潔白が誓約によって証明されたと考えて(ある意味勝手な妄想です、笑)、高天原に滞在する事にした佐之男命でしたが、居られることになると次々と粗暴を行って、天照大神は天の岩屋に隠れられてしまいました(皆さんも一番ご存知の一節です)。そのため、須佐之男命は高天原を追放されることに成りました(神逐)。

出雲の鳥髪山(現在の船通山・登りました~(;^_^A ・・・)へ降った須佐之男命は、その地を荒らしていた巨大な怪物八岐大蛇(八俣遠呂智)への生贄にされそうになっていた美しい少女櫛名田比売(奇稲田姫・くしなだひめ)と出会うことに成ります。

須佐之男命は、櫛名田比売の姿形を歯の多い櫛に変えて髪に挿し、八俣遠呂智を退治します。そして八俣遠呂智の尾から出てきた草那芸之大刀(くさなぎのたち、草薙剣・天の叢雲剣)を天照御大神に献上し、それが古代天皇の権威たる三種の神器の一つとなりました(現在は、愛知県名古屋市の熱田神宮の御神体となっています)。

【日本初の宮と和歌発祥の地】

PB030448.jpg(神詠・神詠~とあります。日本初和歌の碑です。)
PB030460.jpg(前回気が付きませんでした。拝殿中の扁額、公爵近衛文麿とありました。)

その後、出雲の根之堅洲国(中国・山陰地方にある島根県安来市)へ行き、妻の稲田比売命とともに住む土地を探し、あたりを眺め渡すと、澄み切った大気、雲の美しさ、天と地に溢れんばかりの命の息吹を感じ、「気分がすがすがしくなった」として「須賀」と命名し、そこに宮殿を建てて住むことに成ります。

これが日本初の宮殿ということで「日本初之宮」と呼ばれ、この時に須佐之男命が詠んだ歌が日本初の和歌ということに成り、「和歌発祥の地」とされています。

『八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を』まあ、歌も詠みたくなる気分でしょうね~(*^^*)
あれ?八重垣神社にも石碑があったような?「和歌発祥の地」については八重垣神社も同様の主張をされているようですが、大きく離れた距離でもないので大目に見てもよいかと思います。

須我神社6(神殿、前方の日章と後方月章の飾りが注目です。)


天平5年(733年)、『出雲国風土記』大原郡条に記載されている「須我社」に比定されますが、風土記の時点では神祇官の管轄ではなく、延長5年(927年)の延喜式神名帳には記載されていません。本来の祭神は大原郡海潮郷の伝承に登場する須義禰命であったものが、記紀神話の影響により須佐之男命に結び付けられたとも考えられます。

PB030502.jpg(宝塚、200mほど登ると古墳が有るようです?足名椎命・手名椎命・櫛名田比売両親の祠でもあるのかな?宿題にしときます。)

【追加取材の奥の宮にGO!】

PB030506.jpg(歩いて向かおうとするとご近所さんが、結構あるよ~3キロ位?山の下までは車で行けるよとアドバイス~ラッキ~!)
PB030507.jpg(車で10分ほど、400mで済んだ。登山道のまわりに地元の方々の和歌が50首ほど石碑に成って並んでました。)
PB030557.jpg(丁度半分くらいで、禊の水脈が有りました。有難いです。御神水で喉を潤す。ちべたい~!)
PB030574.jpg(最後の登りです。参道のよこにちいさな石、全て和歌が彫り込んでありました。)

背後にある八雲山には、夫婦岩と呼ばれる巨石と小祠があり、須我神社の奥宮となっています。この巨石は磐座(古神道における岩に対する信仰のことで依り代となります。)であり、元は須賀の地の総氏神として信仰されていたものだそうです。それではご覧いただきましょう。

PB030645.jpg(到着~朝の涼しい風が気持ち良いです。)
PB030653.jpg(大きい須佐之男命、左に稲田比売命、両神の間に小さい八島士奴美神ですかね。)

【いつもの最後に~!】

出雲を旅すると、必ずといってよいほどに、磐座に出会います。本来の信仰というものはこの様なものだったのだと、気づかされます。そして神様に対する「畏怖と畏敬」の気持ちを忘れてはいけないことを、思い起こさせてくれるのです。都会では中々感じる事のない、自然に対する感謝の気持ちも一緒に呼び覚ましてくれるのが嬉しいですね~。

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。

ブログランキングならblogram

リュミエールブラン ネージュ

2017/10/31

「本能寺」で『本能寺の変』の真相を推理してみた!

昨日UPの予定でしたけど、一日ずらして今日に成りました。出雲に取材旅行に行く予定で、明日の夜は車の中でUP出来そうにありません。一日ずらした言い訳ですけどね~(笑)。

有名な『愛宕百韻(あたごひゃくいん)』は、「本能寺の変」の直前に愛宕山で明智光秀が催した連歌会で、「明智光秀張行百韻」「天正十年愛宕百韻」ともいわれています。

PA280154.jpg
(信長公の墓所・織田信孝が信長の愛刀を埋めて作ったといわれています。場所が違うので今は無いかもですね。)


天正10年(1582年)5月24日(本能寺の変の9日前)当日、『愛宕百韻』の発句は光秀の「ときは今 あめが下しる 五月かな(有名ですね!)」で始まります。脇は行祐の「水上まさる 庭の夏山」、第三は里村紹巴の「花落つる 池の流を せきとめて」でした。発句は、明智の姓の「土岐・とき(土岐氏は摂津源氏の流れを酌む名門で、美濃守護としても有名ですね。)」をかけて、「雨が下」には「天が下」をかけて、主人織田信長の殺害という宿願の祈請のものであるといわれ、紹巴はこのために後日、責問を受けたといわれます。

もし信長に対して謀反の気持ちが有ったとしても、皆の前で詠む(この場合は、ほのめかすかな)でしょうか?私は光秀程の人物がそんな事をするはずがないと思います。織田軍最大の勢力を誇り、中心畿内を手中に収め、各方面で戦う司令官の遊撃隊を担っている明智光秀程の男が、主人殺害を簡単に洩らすはずが無いと思いませんか?それならば、この『愛宕百韻』の後に起こった何かが謀反を決意させたことに成ります。それは何だったのか推理してみましょう。

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
ブログランキングならblogram
👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。

CROOZ




PA280121.jpg(本能寺本堂)
PA280125.jpg(本堂は出入り自由ですが撮影は禁止!日蓮上人お帽子かぶっておられました。お帽子ちょっと大事なんです。)
PA280120.jpg(宝物殿、事前に僧侶・子者・女性は逃がされたそうです。お宝抱えてね、笑)

【「愛宕百韻」と「連歌」とは?】

「愛宕百韻」とは、天正10年(1582年)5月24日(本能寺の変の9日前)、光秀が山城国愛宕山五坊の一つ威徳院で、明智光慶(光秀の息子)、東行澄、里村紹巴、里村昌叱、猪苗代兼如、里村心前、宥源、威徳院行祐と巻いた(百韻を一巻を収める)百韻の事です。

『連歌』は五七五に七七を付けて完結する俳句のみではなく、七七にさらに五七五、七七、五七五……と次々に句を付けて展開し、おおよそ百句をもって一作品とすることが一般的となっています。このような長大な形式の連歌を「長連歌」(初期には「鎖連歌」とも)と呼び、長連歌のもっとも基本的な形式は上記のように百句を一作品とするもので、これを「百韻」と呼びます。

「愛宕百韻」では、この寺の院主・行祐が亭主、明智光秀が主客の立場で、当時の連歌界の第一人者であった紹巴が宗匠(評価して、優劣を判定する師匠役)を務めています。他には、紹巴の門下で既に名の高かった連歌師、昌叱、心前、兼如が加わり、愛宕山の僧や、光秀の家臣も参加していました。

発句は、世によく知られている、「時は今天が下しる五月かな」です。表面上句の内容は、今は正しくこの世は五月そのものであるとなります。「しる」は治めるの意味で、字句どおりに読めば、天下を治めている五月である、この世界を五月という時節にした、ということに成ります。この連歌は戦勝祈願の会でもあったので、その意も込められていなければ意味がありません。「天が下しる五月」は天下を治めることになる五月、と読めます。これで内容上もますます発句にふさわしく成っています。

句の解釈は単純ともいえますが、このような作品を詠んだ事情ということになると、誰が天下を治めることになるのか、などの問題の考察に踏み込んでいかなければならなくなります。巷間では、「本能寺の変」と絡めて、光秀自身が天下を治めることになる、と推測されることが多いですね、そうなると話としては面白くなっていきます。前出のように「時」には光秀の氏であった「土岐」が掛けられているともされています。このような真意があったのかどうかは謎ですが、当時、織田信長は天下統一の最後の段階として中国地方制覇の途上にありました。光秀の出陣も、最前線にいた羽柴(豊臣)秀吉援助のためで、信長が京都の本能寺に入ったのもそれに関わった事情です。常識的にみて、天下を治めるのは信長、もしくはその陣営ということで、この発句は信長を言葉で祝ったものでしょう。

連歌師が多くの武将と密接な関係を持ったことは確かですが、連歌師はでき得る限り政治的な偏りを持たないように心していたのは当然ですし、だからこそ、戦乱の中を比較的自由に動けたともいえます。武将の方もそれは十分に承知していましたし、どちらに付くか分からない多くの連歌師を前に光秀が危険な真意を吐露したとは考えにくいと思えます。

【リアル本能寺】

PA280135.jpg(現在の寺院には、恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、龍雲院の7院の塔頭があります。)
PA280129.jpg(「一つ結び雁金紋」は、本能寺開基・日隆聖人の実家、越中国射水の桃井氏の家紋です。現在の140世 日英貫首も、苗字は「桃井」です。見えます手水と提灯!)


羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられて6月2日(6月21日)早朝に出陣しますが、その途上の亀山城内か柴野付近の陣で光秀は重臣達に信長討伐の意を告げたといわれています。軍勢には「森蘭丸から使いがあり、信長が明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ」として京都へ向かいます。

『本城惣右衛門覚書』によれば、雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされておらず、本城惣右衛門も信長の命令で徳川家康を討つのだと思っていたと記載しています。光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して包囲しました。光秀軍13,000人に対し、近習の100人足らずに守られていた信長は奮戦しましたが、やがて寺に火を放ち自害します。
PA280161.jpg
(天文5年(1536年)天文法華の乱にて延暦寺・僧兵により旧本能寺焼失します。とにかくよく焼ける寺です~!)
PA280158.jpg(天文16年から17年(1537-1538年)ごろに寺が帰洛し、日承上人(伏見宮第5代邦高親王の子)が入寺して本能寺8世となります。)

【「本能寺の変」の原因】

近年になって、新しい資料も出てきて余計に原因が複雑になってきました。これまでに言われてきた幾つかの説から、「本能寺の変」の原因となるのではないかと思える説を簡潔に説明したいと思います。

『怨恨説』

「本能寺の変」の原因のトップに上げられます。主君の信長は短気かつ苛烈な性格であったため、光秀は常々非情な仕打ちを受けていたという説です。以下はその代表例とされるものの一部です。 信長に七盃入りの大きい盃に入った酒を強要され、下戸の光秀が「思いも寄らず」と辞退すると、信長に「此の白刃を呑むべきか、酒を飲むべきか」と脇差を口元に突き付けられ酒を飲まされた(『常山紀談』)。

同じく酒席で光秀が目立たぬように中座しかけたところ、「このキンカ頭(禿頭の意)」と満座の中で信長に怒鳴りつけられ、頭を打たれた(キンカ頭とは、「光秀」の「光」の下の部分と「秀」の上の部分を合わせると「禿」となることからの信長なりの洒落という説もあります)。

天正10年(1582年)、信長は武田家を滅ぼした徳川家康の功を労うため、安土城において家康を饗応します。この時の本膳料理の献立は「天正十年安土御献立」として『続群書類従』に収録されています。光秀は家康の接待を任され、献立から考えて苦労して用意した料理を「腐っている」と信長に因縁をつけられて饗応役の任を解かれ、すぐさま秀吉の援軍に行けと命じられてしまいます。

この時の解釈にも諸説あり、安土大饗応の時、信長は光秀に対して徳川家康を討てと命じたが光秀がそれを拒否した為に接待役を免ぜられたという説、「魚(肴)が腐っている」というのは毒を入れろと言ったのになぜ入れなかったのかという信長の怒りに触れた説、信長自らがわざわざ鷹狩の途中に立寄って材料の魚鳥を吟味したが、肉が腐っていると草履で踏み散らし、光秀が新たに用意していたところ「備中へ出陣せよ」と下知されたが、忍びかねて叛いたとしています(『常山紀談』)。

中国二国(出雲国・石見国)は攻め取った分だけそのまま光秀の領地にしてもいいが、その時は滋賀郡(近江坂本)・丹波国は召し上げにする、と伝えられました。(明智軍記)

甲州征伐の際に、信濃の反武田派の豪族が織田軍の元に集結するさまを見て「我々も骨を折った甲斐があった」と光秀が言った所、「お前ごときが何をしたのだ」と信長が激怒し、小姓の森成利(森蘭丸)に鉄扇で叩かせ恥をかかされます(明智軍記)。

フロイスは、「人々が語るところによれば密室で信長が口論の末光秀を1、2度足蹴にした」と記しています(『フロイス日本史』)。これらの史実を元に、面目を失ったための怨恨説が成り立っています。

『野望説』

光秀自身が天下統一を狙っていたという説。この説に対しては「知将とされる光秀が、このような謀反で天下を取れると思うはずがない」という意見や、「相手の100倍以上の兵で奇襲できることは、信長を殺すのにこれ以上ないと言える程の機会だった」という意見に分かれているようです。

『恐怖心説・幕府再興説』

長年信長に仕えていた佐久間信盛、林秀貞達が追放され、成果を挙げなければ自分もいずれは追放されるのではないかという不安から信長を倒したという説です。これは怨恨説など諸説の背景としても用いられています。今までにない新しい政治・軍事政策を行う規格外な信長の改革に対し、光秀が旧態依然とした統治を重んじる考えであったという説です。

理想相違説とも言われます、信長が伝統的な権威や秩序を否定し、犠牲もいとわない手法(一向宗勢力、伊賀の虐殺等)で天下の統一事業を目指したと歴史解釈した上で、光秀は衰えた室町幕府を再興し、混乱や犠牲を避けながら安定した世の中に戻そうとした、と考えたところから発生した説です。この説は、光秀は信長の命とともにその将来構想(独裁者の暴走)をも永遠に断ち切ったと主張されます。

そして光秀も自らの手でその理想を実現することは叶わなかったが、後の江戸幕府による封建秩序に貫かれた安定した社会は270年の長きに渡って続き、光秀が室町幕府再興を通じて思い描いた理想は、江戸幕府によって実現されたと考える事も出来ます。

なお、光秀は自身も教養人であったが、近畿地区を統括していた関係上、寄騎大名にも名門、旧勢力出身者が多食いました。特に両翼として同調が期待されていた細川氏(管領家の分流)、筒井氏(興福寺衆徒の大名化)は典型であり、こうした状況もこの説の背景となっています。

この説には、信長が平氏の出身で源氏が天下を治めるべきとも付説も加味されるようです(源氏の光秀、更には次の将軍復帰説にもつながります)。

『将軍指令説 』

足利将軍指令説 、室町幕府再興説光秀には足利義昭と信長の連絡役として信長の家臣となった経歴があるため、恩義も関係も深い義昭からの誘いを断りきれなかったのではないかとする説です。光秀が義昭を奉じるのは大義名分がありますが、直接の指令があったのかどうかも含めて、義昭の積極的関与を示すような証拠は依然として存在していません。

紀州の武将・土橋重治に充てた光秀直筆の書状から、光秀が「本能寺の変」の後に義昭を京に迎え入れ、室町幕府を再興するという明確な構想があったことが分かります。書状は天正10(1582)年6月2日の本能寺の変から10日後の12日付で、返信とみられます。「上意(将軍)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。しかしながら(将軍の)ご入洛(にゅうらく)の件につきましては既に承諾しています」とあります。

京を追放された義昭は当時、中国地方を支配する毛利輝元(てるもと)の勢力下にある鞆(とも)の浦(広島県福山市)にいました。義昭が京に戻る際は協力することになっていると重治から示され、光秀自身も義昭と既に協力を約束していることを伝える内容という。

書状の手書きの写しは東京大史料編纂(へんさん)所に残っています。原本は縦11.4㎝、横56.8㎝で、細かな折り目がついているそうです。畳んで書状を入れる包み紙も一緒にあったことから、使者が極秘に運んだ密書とみられます。

光秀は京に上る前の信長と義昭を取り持ち当初は双方の家臣だったとされました。義昭との関係を復活させた光秀が、まず信長を倒し、長宗我部や毛利ら反信長勢力に奉じられた義昭の帰洛を待って幕府を再興させる政権構想を持っていたと考える研究者もおられるようです。前出の理想相違説に通じる部分もあります。

『朝廷説(私はこれを推薦したいです)』

「信長には内裏に取って代わる意思がある」と考えた朝廷から命ぜられ、光秀が謀反を考えたのではないかとする説です。この説の前提として、天正10年(1582年)頃に信長は正親町天皇譲位などの強引な朝廷工作を行い始めており、また近年発見された安土城本丸御殿の遺構(見て来ましたから)から、安土城本丸は内裏清涼殿の構造をなぞって作られたという意見を掲げる識者もおられるようです。

近年には「天正十年夏記」等をもとに、朝廷すなわち誠仁親王と近衛前久が「本能寺の変」の中心人物であったと各種論文で指摘されています。この「朝廷黒幕説」とも呼べる説の主要な論拠となった「天正十年夏記」(『晴豊記』)は、誠仁親王の義弟で武家伝奏(朝廷と武家との連絡役)の勧修寺晴豊の日記の一部であり、史料としての信頼性は高いと思います。

正親町天皇が信長と相互依存関係を築くことにより、窮乏していた財政事情を回復させたのは事実ですが、信長と朝廷の間柄が良好であったという解釈は成り立ちません。三職推任問題(「太政大臣」「関白」「征夷大将軍」どれでもいいよの凄い選択肢!)等を考慮すると、朝廷が信長の一連の行動に危機感を持っていたことになります。

朝廷または公家関与説は、足利義昭謀略説、「愛宕百韻」の連歌師・里村紹巴との共同謀議説と揃って論証されることが多く、それだけに当時の歴史的資料も根拠として出されています。ただし、この説では「首謀者」であるはずの誠仁親王が変後に切腹を覚悟するところまで追い詰められながら命からがら逃げ延びていること、『晴豊記』の近衛前久が光秀の謀反に関わっていたという噂を「ひきよ」とする記述の解釈などの問題も有ります(「非挙(よくない企て)」と解釈される一方で、これは「非拠(でたらめ)」と解釈されるべきであるとの指摘もあります)。

一時期は最も有力な説として注目されていたが、現在この説を唱える研究者はいません。現在の歴史学界では義昭黒幕説とともに史料の曲解であるとの見解が主流となっていますが、僭越ながら私は、朝廷あるいは公家が光秀謀叛に大きく関与していたのではないかと推測しています。(笑)

『四国説』

昨年新しい文章が発見されて、四国説に俄然注目が当たりました。信長は光秀に四国の長宗我部氏の懐柔を命じていました。光秀は斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結ぶところまでこぎ付けますが、天正8年(1580年)に入ると織田信長は秀吉と結んだ三好康長との関係を重視し、武力による四国平定に方針を変更したため光秀の面目は丸つぶれになってしまいます。

光秀と懇意でありながら、信長と敵対関係になった四国の戦国大名、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の窮地を救うために起こしたとする説です。大坂に四国討伐軍が集結する直前を見計らって光秀(正確には利三)が本能寺を襲撃しています。

2014年に岡山県で見つかった石谷(いしがい)家文書には、6月2日の「本能寺の変」の約5カ月前にあたる1月11日付書状で、斎藤利三が長宗我部元親に「要求に従うのが長宗我部家のためになるし、光秀も努力している」と助言しています。

これに対し元親は5月21日付で「阿波国中心部の諸城からは退いたことを信長殿に伝えてほしい」と返答。信長の命に従うことで激突を避けようとしていたことが証明されています。

『諸将黒幕説(いかにも有りそう)』

織田家を取り巻く諸将が黒幕という説です。徳川家康や豊臣秀吉が主に上がります。 徳川家康黒幕説家康の場合、信長の命により、長男・信康と正室・築山殿を自害させられたことが恨みの原因の一つに挙げられました。ただし近年では、2人の殺害は信長の命ではなく、家康と信康の対立が原因とする説も出されています。

家康は後に、明智光秀の従弟(父の妹の子)斎藤利三の正室の子である福(春日局)を徳川家光の乳母として特段に推挙しています(実際に福を推挙したのは京都所司代の板倉勝重)。

どこかで書きましたが、神君伊賀越えが胡散臭いんです。窮地に陥った家康の元に200人の手勢を連れた服部半蔵が急に現れます。そんなに用意周到にできるのかな?堺~岡崎の間は新名神高速でも218キロ数日で帰れますか~(笑)。秀吉の中国大返より速いスピードじゃないかな。

豊臣秀吉黒幕説の場合は、佐久間信盛や林秀貞達が追放され、将来に不安を持ったという説があります(中国大返しの手際が良過ぎることも彼への疑惑の根拠となっています。絶対無理やん!)。光秀の謀反を知ってないと山崎の戦いに間に合ったとお燃えません。

【「本能寺の変」は何故解明できないの】

1.事件を起こした動機には触れても、黒幕とされる人物や集団が、どのようにして光秀と接触したかの説明が出来ない。
2.実行時期の見通しと、機密漏洩防止策への説明が無い。
3.光秀が謀反に同意しても、重臣たちへの説得をどうしたのかの説明が不明です。
4.黒幕たちが、事件の前も後も、光秀の謀反を具体的に支援してない事が不思議、自分の部下以外ほとんど味方がいません。
5.決定的なことは、裏付け史料がまったくないことです、近衛前久の文章でも出てきたら決定的なのですけどね。
 
PA280140.jpg
(信長の墓所説明版)
PA280131.jpg(最後も信長の墓所、安土城にもありましたね。今の場所に移動させてのは、黒幕候補秀吉です。)

【最後に】

PA280177.jpg(禁門の変(蛤御門の変)に伴い発生したどんどん焼けにより堂宇を焼失ました。)
PA280187.jpg
(そのとき長州藩の目印になったこの、イチョウが水を吹いて人々を救った伝説が有ります。)

やっぱり歴史はミステリアス (mysterious) 、英語で神秘的、不可思議な様を表すのだそうですよ~。そんな女性が居たらくらくらですよね、私が歴史にはまり込む理由がお解りいただけましたでしょうか。(爆)

皆さんはどの説を採用なさいますか?

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。

ブログランキングならblogram

リュミエールブラン ネージュ

2017/10/28

「旧本能寺跡」と現「本能寺」!「本能寺の変」の影の役者は誰だ?

今日は台風に秋雨前線が台風に持ち上げられて、ぐずついた天気に成りました。明日はもっと影響が出ると覚悟して、京都に取材に出かけました。目的の一つは旧本能寺史跡です。現在の本能寺は以前も伺っていたのですが、やはり実際に「本能寺の変」の舞台となった場所は気になりますよね。

信長は、1568(永禄11)年に足利義昭を奉じて上洛を果たしましたが、京都には居館を構えず、妙覚寺や本能寺を宿所としていたといわれています。

PA280085.jpg(旧本能寺南西角にあたると思います。)

いろいろ廻ってへとへとになりましたが、気力を振り絞って京都御苑へ行ってみました。いつもの駐車場の入り口が入車禁止になってました。引き返すとなんと蛤御門が駐車場の入り口に成ってます。「蛤御門の変の」取材に来たのでその門から入れるなんて、運がいいなと思いきや、何やら御所の門が空いているではありませんか、知らなかったのですが、(本当に歴史ブロガーかい)

2016(平成28年)7月26日から通年公開されているらしいです。是非皆さんも日程時間の変更がありますので、webでご確認の上拝観してください、素晴しいですよ~(美)

そんなんことはつゆ知らない私、「こ、これは拝観せねば~」と入所させていただいたホルダーナンバーが39番(サンキュー!)なんて出来すぎじゃないですか(笑)、雨で拝観者も少なく、御所の庭園をのんびり散策~日本人の心の豊かさを改めて感じ、癒された一日を過ごしました。

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
ブログランキングならblogram
👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。

CROOZ




【旧本能寺はどこにあった?】

PA280078.jpg
(一本の道標、旧本能寺南にあたります。)
PA280092.jpg(この蛸薬師通が南端部分だと思います。)

本能寺跡の所在については、元本能寺町や本能寺町の町名などから旧京都市立本能小学校付近と推定されていました。しかし、1992(平成4)年に小学校の廃校後に行われた発掘調査により、織田信長の定宿だった当時の遺構が発見されて話題を呼びました。現在では石柱が建立されているのが南側の端で、南は蛸薬師通、北は三条通、東は西洞院通、西は油小路に囲まれた区域とする説が有力視されているようです。上記の通りを囲む地域が本能寺の敷地だと考えると、寺の大きさも東西約100m、南北約200mの規模を有していたものと考えられています。

旧地の元本能寺南町には京都市立本能小学校がありましたが、平成4年(1992年)廃校となり、その際に発掘調査が行われました。現在は京都市立堀川高等学校本能学舎と高齢者福祉施設本能(京都市が設置し指定管理者が運営)、カフェ「信長茶寮」となっています。平成19年(2007年)マンション建設に伴う遺構調査では、本能寺の変において焼けたと思われる瓦や、「能」の旁が「去」となる異体字がデザインされた丸瓦が、堀跡の屁泥の中から見つかっています。

PA280088.jpg(廃校になった小学校を表す記念碑、ここで焼け瓦などの遺物が見つかっています)
PA280095.jpg(こんな物が~笑、旧本能寺境内になるはずです。元本能寺跡 信長茶寮です)

【現在の本能寺にGO!】

PA280106.jpg(雨の現代、本能寺へGO!)
PA280096.jpg
(朝鮮通信使も宿泊しています。教科書で習いましたよね。)
PA280098.jpg(表札上手く取れた?読める?)
PA280114.jpg(本能寺ご由緒沿革!)

現本能寺(ほんのうじ)は、京都府京都市中京区下本能寺前町にある、法華宗本門流の大本山。本能寺の変の舞台として知られる。現在の寺院には、恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、龍雲院の7院の塔頭があります。法華宗とは、日蓮を開祖とする宗旨の名称または、宗旨「日蓮宗」の別称です。日蓮門下の全門流の総称としての呼称でも有ります(ちょっと難しいね)。1334年に後醍醐天皇より日像が宗派の名として法華宗の宗号を賜ったといわれています。(我が家は日蓮宗ですが、本門流では無いのでよくわからないのですが(-"-;A ...アセアセ)。

日隆上人(本能寺「大本山」が所属する。法華宗本門流の開祖)は妙本寺(現在の「妙顕寺(みょうけんじ)」、京都府京都市上京区にある、日蓮宗の大本山)の4世・日霽に師事するが、法華経の解釈をめぐり本迹勝劣を主張した日隆は、妙本寺5世・月明と対立します。日隆は応永22年(1415年)伯父にあたる日存・日道両聖人と共に妙本寺綱紀の粛清に務めましたが志を遂げられず同寺を後にします。

うんちく『本迹勝劣』とは? 所依の法華経を構成する二十八品(28章)を前半の「迹門」、後半の「本門」に二分し、本門に法華経の極意があるとする考え方です(分からなくても良いと思いますけど・・・)。

後半の「本門」に極意があるとする勝劣思想ですが、勝劣派(対義語→一致派「二十八品(28章)」を一体として所依とします。次の問題は、勝劣派の中で本仏を、釈尊とするか日蓮とするかで意見の対立が有ります。末法思想では釈尊入寂後、年代がたつにつれて正しい教法が衰滅することを説いた仏教の予言思想で、1500年~2000年といわれ、新しい釈尊に変わる人物が現れるという思想です。法華宗ではそれが日蓮上人であるという考えに基づく宗派伐もあります。(難しいよね~説明している私が理解してない部分も多いのでね)。

応永5年(1418年)、本応寺は月明により破却され、日隆は河内三井(本厳寺)・尼崎(本興寺)へ移りました。永享元年(1429年)、帰洛して大檀那・小袖屋宗句(山本宗句)の援助により、千本極楽付近の内野(大内裏跡、南北朝時代に現在の御所に場所が移動しています。東寺・西寺跡の真ん中に朱雀大路が通っていたと考えると、大内裏は現在の千本丸太町辺りにあったと思います。)に本応寺を再建します。永享5年(1433年)、檀那・如意王丸なる人物から六角大宮の西、四条坊門の北に土地の寄進を受け再建し、寺号を「本能寺」と改めました。

そして油小路高辻と五条坊門の間に本応寺を建立し、日蓮大聖人の念願である人々の口に「南無妙法蓮華経」を唱えさせるべく教化を始めました。本能寺は1415年から1432年までは「本応寺」と寺名を使い、1433年から現在まで「本能寺」を使用しています。
その理由は「本門八品相応能弘之寺」の言葉より本応寺を本能寺という寺名に変えました。また現在「䏻」という文字に替えて使用しているが、これは五度も火災に遭遇したので匕(火)を嫌い䏻を用いる字に替えたものです。有名な信長が上杉謙信に送った「洛中洛外図屏風」では「本能寺」と書かれています。

写真のとおり、本能寺の「能」の字は「䏻」という俗字になっている。これは本能寺が度重なって焼き討ちに遭っているため、「『ヒ』(火)が『去』る」という意味で字形を変えているといわれています。なお、この「䏻」は本能寺のために作字されたわけではなく、当時は現在の「能」よりも広く使われていた字体だそうです。

PA280108.jpg
(字体の違い見てくださいね、死体が発見されなかったのにお墓?何が眠っているのかは次回です。)

その後、本能寺は法華経弘通の霊場として栄え、中世後期には洛中法華21ヶ寺の一つとなり、足利氏の保護を受けます。寺域は六角小路以南、四条坊門小路以北、櫛笥小路以東、大宮大路以西で方1町の敷地を有し、また多くの子院も有していたようです。応仁の乱後、京都復興に尽力した町衆は、大半が法華宗門徒で、法華宗の信仰が浸透し「題目の巷」と呼ばれ、本能寺は繁栄を極めます。天文5年(1536年)天文法華の乱にて延暦寺・僧兵により、堂宇はことごとく焼失し、一時堺の顕本寺に避難する事態が起きます。

【日承上人と本能寺の変】

天文16年から17年(1537-1538年)ごろに帰洛し、日承上人(伏見宮第5代邦高親王の子)が入寺して本能寺8世となります。四条西洞院大路、油小路、六角小路、四条坊門小路にわたる地域(旧本能小学校のあたり)に広大な寺地を得て、大伽藍が造営され、子院も30余院を擁しました。

日隆の開山以来、尼崎の本興寺とともに山号はなく両山一貫主制をしいていたが、その後、歴代貫主が地方に布教し、日承の時代には末寺が畿内、北陸、瀬戸内沿岸諸国さらに種子島まで広布し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立しました。

今はやりの刀剣女子にプレゼン、「本興寺」は兵庫県尼崎市にある法華宗(本門流)の本山です。天下五剣の一つ、日蓮大聖人御所持の名刀「数珠丸」(重要文化財)があることで知られています。

「うんちく『天下五剣』」

「童子切安綱」源頼光が酒呑童子退治に用い、童子の首を落とした刀。人の胴体六つを叩き斬り、土台に刃が食い込むほどの鋭さを誇るという噂です。
「鬼丸国綱 」北条時政を鬼の呪詛による病から救った刀です。その際、時頼の夢に老人の姿で現れたといわれています。
「三日月宗近 」天下五剣で最も美しいとされる刀ですね。高台院(ねね)が所有しており、高台院の死後は徳川家に渡っています。
「大典太光世 」人の胴体を二つ以上を輪切りにできるという謂れを持つほか、年月を経て強大な霊力を宿しているそうです。
「数珠丸恒次 」日蓮上人ゆかりの刀で、身延山に久遠寺を開山する際に寄進され、以来、数珠を巻き付けて“魔除けの守り刀”とされてきました。

童子切安綱・鬼丸国綱は「鬼を斬った」という退魔の霊刀であり、また童子切安綱・三日月宗近・大典太光世は国宝指定を受けています。鬼丸国綱に至っては「御物(ぎょぶつ/皇家所蔵の宝物)」です。 数珠丸恒次も重要文化財とされています。

年に一度の数珠丸お披露目。それが、11月3日に行われる大本山本興寺(ほんこうじ)の虫干会です。つまり来週の金曜日です。
刀剣女子は是非お出かけください。私?もちろん出雲取材中です(今年も見られへん~涙)。

織田信長は日承に帰依して、この寺を上洛中の宿所としていました。しかし、天正10年6月2日(1582年6月21日)、明智光秀の率いる軍勢に包囲されるという本能寺の変が起きて、その際の兵火で本能寺は焼失しました。『信長公記』では同寺で信長が自害したとされていますが、遺体は発見されず、その最期は明らかに成っていません。しかし一般的には生害地とされ、光秀を破って京に入城した織田信孝(秀吉はいまだ影に徹しています)は、16日、焼け跡に光秀の首と胴、その手勢3,000の梟首を晒させて供養しています。7月4日、信孝は同寺に御触を出して、信長の御屋敷として造成された焼け跡を墓所とするように、離散した住僧は戻るように命じています。

【現在の場所への移転とその後】

天正19年(1591年)、豊臣秀吉の命で、現在の寺域(中京区下本能寺前町)へと移転させられました(現在の京都を作り上げたのは基本秀吉です)。伽藍の落成は、天正20年(1592年)。現在の御池通と京都市役所を含む広大な敷地でした。元和元年(1615年)、江戸幕府から朱印地40石を与えられた。前述の理由で戦国大名との関係も深かったこともあり、寛永10年(1633年)の『本能寺末寺帳』によれば末寺92を数える大寺院になっています。

PA280102.jpg
(辻説法をする日蓮上人像!いいですね~個人は宗教観はあんまりですが、長男なので家の宗派は大事にしています。笑)

天明8年(1788年)の天明の大火、元治元年(1864年)の禁門の変(蛤御門の変)に伴い発生したどんどん焼けにより堂宇を焼失しています。従来は長州藩邸に隣接していたため、長州藩邸の火が延焼したと思われていたが、それ以前に薩摩藩の砲撃により長州藩邸よりも先に焼け落ちたという説もあります。境内の大銀杏が長州藩邸の目印になったためとも言われますが、このイチョウにも伝説があるのですが、長くなったので次回にお話しします。

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。

ブログランキングならblogram

リュミエールブラン ネージュ