2017/04/27

「新企画」阪急沿線七福神を巡る旅!最初は「布袋様」『清荒神清澄寺』

今日は新企画?阪急沿線七福神巡りに皆さんをお連れします。

勿論、西国三十三観音霊場巡りや出雲神仏霊場の企画を忘れた訳では有りませんが、自宅から近いものは、早めに書いとこう(何故ならばいつでも書ける!の甘えが出てしまうので?)?という考えでお送りしたいと思います。

最初は「布袋さま」を奉る『清荒神清澄寺』を御紹介します。

CIMG7774.jpg
(見事なお腹の布袋様、袋に何が入っているのか?サンタに似てない?似てないよね(;^_^A)

もう一つお知らせします。
先日のブログオフ会で素敵なBloggerご夫妻にお会いしましたので、ブログを共有をお願いしました(^人^)。

まず今日は奥様「ビー玉」さんです。
アバター通りの、可愛いらしい奥様でした(⌒‐⌒)
ブログはおっちょこ主婦の家計救出日記アドレスを張っておきますので、此方も宜しくお願い致しますm(__)m。

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CIMG7775.jpg
(お寺ですよね、確かにお寺です。)

【そもそも一人七福神て何者?七福神の由来】

七福神とは、大黒天(だいこくてん)、毘沙門天(びしゃもんてん)、恵比寿天(えびすてん)、寿老人(じゅろうじん)、福禄寿(ふくろくじゅ)、弁財天(べんざいてん)、布袋尊(ほていそん)の七つの神様の総称です。

「七難即滅、七福即生」の説に基づくように、七福神を参拝すると七つの災難が除かれ、七つの幸福が授かると言われています。
七福神の信仰は、室町時代の末期のころに生まれ、当時の庶民性に合致して民間信仰の最も完全な形となって育まれてきました。
特に農民、漁民の信仰として成長し、現代の今も生き続けています。

【七福神の歴史】
室町時代、仏教の布袋道教の福禄寿・寿老人なども中国から入ってきてそれぞれに知られるようになり、それらをまとめて七柱の神仏のセットができたのは室町時代末頃、近畿地方から始まりました(この頃は銀閣寺に代表される東山文化の時代でしたね。)。

CIMG8157.jpg(京都建仁寺の「竹林の七賢」図です。竹林じゃなくて松ですけど、撮影場所の問題です。左側は竹林です。)

中国の文化に影響され、大陸的な水墨画が多く描かれた。もてはやされた画題は『竹林七賢図』(竹林の七賢人先日建仁寺の襖絵でも御紹介しましたね。)。
この絵に見立てて、人々は別々に信仰されていた7つの福の神を集め、七福神としました。
ただし、当初は必ずしもメンバーが一定していなかったそうです(驚)。
仏教・道教・神道の神様もごちゃ混ぜな所が、凄く日本的で面白いですね~、その内八福神に成ってミネルバとか入りそうな気がしますが(笑)。

【布袋さまってどんな神様?】

布袋尊は、弥勒菩薩の化身といわれ、いつも笑顔を絶やさず人々に接していた人で、大きな袋には宝物がいっぱい入っていて、信仰の厚い人に与えられるそうです
笑門来福、夫婦円満、子宝の神として信仰が厚いですね。
清荒神清澄寺では、境内眷属堂に布袋尊が安置されています。

【清荒神清澄寺】

CIMG7769.jpg
(写真が雑なのは、ブログを書き始める前だからです。お許しください。)
CIMG7770.jpg
(日本庭園です。笑)
CIMG7771.jpg
(池の向こうに朱色の歩道がありますね、頂点にお稲荷さん、神仏習合してます。)

清荒神清澄寺(きよしこうじん せいちょうじ)は、兵庫県宝塚市にある真言三宝宗の寺院(大本山)。
896年(寛平8年)に宇多天皇の勅願寺として静観僧正により建てられました。
本尊は大日如来(重要文化財)。
鎮守社として三宝荒神社があり、竃の神の荒神などを祀る神仏習合から「清荒神清澄寺」の名称があります。

山号蓬莱山宗派真言三宝宗(大本山)
本尊は大日如来(重要文化財)
創建年寛平8年(896年)
開基静観僧正、宇多天皇(勅願)
別称清荒神

真言宗十八本山第3番
摂津国八十八箇所;第72番
神仏霊場巡拝の道第79番

CIMG7773.jpg
(鳥居ですよね、荒神様です。)
CIMG7772.jpg
(拝殿?の裏手に荒神影向の榊が有ります。)

拝殿に向かって左の眷属堂には、三宝荒神王の眷属(従者)である「布袋尊」をお祀りしています(御札やおみくじを売っている所なんですけど(((^_^;))。

山内には画家富岡鉄斎の作品を集めた鉄斎美術館が1975年に設立されました。
(とみおか てっさい、1837年1月25日(天保7年12月19日)~1924年12月31日)は、明治・大正期の文人画家、儒学者。
日本最後の文人と謳われる。
私の記憶が正しければ富士山に登って初めて山頂の絵を描いた方と記憶しています(凄)。

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(兵庫県立美術館の富岡鉄斎「富士山頂全図」)


「清荒神清澄寺」を近隣地域では、「荒神さん」と呼び慣わされ、かまど神の一種として、ここで受け取ったお札を台所の神棚に祀るなどの信仰が根付いているようです。
門前の緩やかな坂道には、屋台を含め200近い店舗が軒を並べて門前町を形成しています(私が訪れたのはお正月の少し後でしたが、すごい賑わいでした)。

【荒神影向の榊】 

開創の際、荒神がお姿を現されたと伝えられています。
この霊験の報告を受けた宇多天皇は大変感銘され、「日本第一清荒神」の称号を下賜されています。

現在では、いつの頃からかそこに供えられたお賽銭をいただいて帰り、次回参詣されたとき、そのお賽銭を倍にしてお返しするという風習が伝えられています。
いただいたお賽銭を紙に包んで財布に入れておくと小遣銭に不自由しない、また次に参詣されるまでそれを「御守り」として持っていると吉事があるなど言われています。


実は私も持っているんです。
いただいたお賽銭の五円を大事に財布に入れています(喜)


阪急電車、大阪・神戸・京都の広いエリアが1日乗り降り自由の大変お得で便利な乗車券がありまして(発売期間2017年4月1日~2018年3月31日<通年発売>有効期間発売期間に同じ発売額大人1,200円 小児600円
七つの寺社仏閣でスタンプと小さな神様をもらって、阪急電車に乗った七福神が出来る企画もありますよ。

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2017/04/25

陰陽師とは何者なのか?安倍晴明を祀る『晴明神社』

今日は、小説や漫画(アニメーション)等で有名な安倍晴明をお祀りする「晴明神社」をご紹介します。

「晴明神社」は、平安時代中期の天文学者(陰陽師)である安倍晴明をお祀りした神社です。
創建は、寛弘4(1007)年となっています。
晴明の偉業を讃えた一条天皇の命により、そのみたまを鎮めるために、晴明公の屋敷跡である現在の場所に社殿が設けられたと伝わります。

CIMG7972.jpg(安陪晴明といえば五芒星ですよね~(^o^)v。)

式神という人知を超えた者どもを使ったともいわれる安倍晴明とは、どんな人物だったのでしょうか?

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CIMG7971.jpg(正面すぐ左隣にタイムス?の駐車場がありました。割と簡単にお詣りできました。)

【そもそも陰陽師って何者?】

陰陽師(おんみょうじ、おんようじ)は、古代日本の律令制下において中務省の陰陽寮に属した官職の1つで、陰陽五行思想に基づいた陰陽道によって占筮(せんぜい)及び地相などを職掌とする方技(技術系の官人で技官です。)として配置された者を指しますが、それら官人が後には本来の律令規定を超えて占術など方術や、祭祀を司るようになったために陰陽寮に属する者全てを指すようになり、更には中世以降の民間において個人的に占術等を行う非官人の者をも指すようになり、声聞師と重ねられることもあって「声聞師(陰陽師の文化を源流とした読経、曲舞、卜占、猿楽等の呪術的芸能を行った人々)」と呼ばれる場合もありました。
中・近世においては民間で私的祈祷や占術を行う者の総称となり、中には神職の一種のように見られる者も存在するようになります。

古い資料によれば、創建当時の晴明神社は、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通という広大なものであったとされています。
ところが、応仁の乱の後、豊臣秀吉による都の造営や度重なる戦火によって、その規模は縮少され、古書・宝物なども散逸し、社殿も荒れたままの時代が続きました。
その後、式年祭の度に、氏子が中心となって整備・改修が行われ、昭和25(1950)年には、多年の宿望であった堀川通に面する境内地が拡張されるなど、晴明の御神徳を仰ぎ尊ぶ崇敬者の真心によって復興が進められました。
近年は、文芸、漫画、映画などを通じて晴明の存在は広く知られ、全国にその崇敬者を集めるようになっています。

CIMG7975.jpg(もう一本細い通りがあります。)

御祭神は勿論安倍晴明御霊神ですね

【安倍晴明ってどんな人?】

安倍晴明(920-1005)は、孝元帝(こうげんてい)の皇子・大彦命(おおびこのみこと)の御後胤で、幼い頃から非常に多くの道に秀でていました。
特に、天文暦学の道を深く極め、神道を思いのままに操る霊術をも身に付けていたともいわれます。
長じては、天文陰陽博士として活躍、天体を移り行く星や雲の動きを観察し、宮殿の異変や遠方での吉凶を言い当て、朝廷を始め多くの人々が信望を寄せたと伝えられています。
晴明は、朱雀帝から村上、冷泉、円融、花山、一条の6代の天皇の側近として仕え、数々の功績をたてています。
村上天皇の代には、唐へ渡航し、はるか城刑山にて伯道仙人の神伝を受け継ぎ、帰国後これを元に、日本独特の陰陽道を確立したとされます。
今日、私たちの日常生活の基準となる年中行事や暦術、占法はこの時に創られたものだそうです。

そして、一条天皇に仕えて、寛永2(1005)年9月 26日、85歳で亡くなりますが、晴明御霊神として祀られた後も、陰陽道の祖として広く世の中の尊敬を集めます。
「晴明神社にお祈りすれば、不思議な霊の利益を受けることができ、さまざまな災いから身を守り、病気や怪我が治る……」そうした評判が、今も多くの人々に語り継がれています。

以前も書きましたが、「大鏡」の花山天皇御退位場面で、(花山天皇を)お連れ出し申し上げたとき、安倍晴明(あべのせいめい 陰陽師)の家の前をお通りになりましたが、清明自身の声がして、手を激しくぱちぱちと打って、 「帝(みかど)がご退位あそばされると思われる天の異変があったが、すでに事はなってしまったとみえるようだ。(宮中に)参上して奏上しよう。 車に支度をせよ」といふ声をお聞きになられた、そのときの(天皇の)お心は感慨無量に思われたことでありましょう。
「とりあえず、式神(しきがみ)一人が内裏(だいり)に参上せよ」と(清明が)申し上げると、人の目には見えない何物かが戸を押し開けて、(天皇の)御後ろ姿をお見申し上げたのでしょう、 「ただ今、ここをお通りになられているようです」と答えたということです。
清明の家は、土御門(つちみかど)町口(まちぐち)ですので、天皇がお通りになった道です。
「大鏡現代訳より」
というような、お話が出て来ます。
本当に式神という使い魔(ゴブリンみたいな?)術が仕えたのかもしれませんね~(驚)

【戻り橋の伝説】

CIMG7973.jpg(有名な一条戻り橋のレプリカ、冥界との境かもしれません。)

文章博士で参議だった三善清行の八男に浄蔵貴所という修験道を極めた者がいました。
918年(延喜18年)、紀州熊野で修行していた浄蔵のもとへ父が危篤だという知らせが届きます。
急ぎ都へ向かった浄蔵ですが、この橋のにさしかかったところで葬列に出会います。
父の臨終に間に合わなかった事をさとった浄蔵は、父に一目会いたいという一心で祈ると法力がとどき、父は一時的に冥府からこの世へ戻ることを許されたという。
これ以来、「土御門橋」と呼ばれていた橋は、「戻橋」と呼ばれるようになったのだといわれます。

た源頼光の四天王「渡辺綱」が鬼女の腕を切り落とした場所としても知られます。
「晴明神社」の戻り橋は、架け替えが行われた際に、本橋の部材を使って作られたレプリカだそうです。
 
【ご利益】

CIMG7976.jpg(桃は古代から破魔や厄除けとして有名ですね、桃太郎もその流れかも?)
CIMG7977.jpg
(安倍晴明の像です。)
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(本殿をのぞかせていただきました。)

晴明神社は、「魔除け」「厄除け」の神社です。
御祭神である安倍晴明は、ご生前より、天皇から貴族、庶民に至るまで、広くその悩みや苦しみを取り払うことで大きな信頼を得ていました。
その信頼は、神様となって祀られた現在も変わることは無いようです。
勿論、映画や漫画などの影響もあって参拝者は多かったですね~。

そもそも、「魔」や「厄」というものは、好むと好まざるに拘らず、誰しもが抱え込んでしまうものですから、折りに触れ、その厄を取り除くことが肝要です。
私たちの日々の生活には、なかなか解決できない問題もありますが、神前で静かに手を合わせ、その心を正直に安倍晴明公にお伝えすれば、その絡まった糸がほぐされることでしょう。
「晴明神社HPより抜粋いたしました」

私が言ったときは隣のお土産やさんとの権利問題でもめているようで、ちょっと残念なお詣りに成りました。
五芒星のお守りは車の後部にも良く張ってあるのを見かけますね(笑)


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2017/04/15

吉備国の立地は、戦国~江戸期に岡山城に何をもたらしたのか?

前回の続きですが、今日は吉備国の立地についても少し考察してみましょう。

吉備の国・岡山(岡山城)は古代から大きな勢力の間で、時代と供に東西どちらの味方と成るべきかの選択を迫られる事を繰り返してきたとのかも知れません。
古代には、大和と九州もしくは出雲国(山陰勢力)との間で戦国時代は毛利VS織田(羽柴)、のどちらに付くべきか選択を迫られたのではないでしょうか?

PB230070.jpg(天守閣を後楽園方面から望む。)

海上交通の観点からも、岡山県中南部の港は古代・中世から海運・軍事の要衝であり、江戸時代、風待ち潮待ちの場所として繁栄してきました。
瀬戸内海航路の要所であり、北前船や参勤交代の御座船も寄港し、人や物が集まる港として繁栄は幕末まで続きました。

吉備津彦?宇喜田直家も時代は違えど、同じ様に悩んだのかも知れませんね(笑)

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岡山城は戦国~安土桃山時代に、備前東部から興り美作・備中東部まで勢力を伸ばした宇喜多氏が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれ、その後小早川氏、池田氏により整備、拡張が行われました。

【池田家の治世の始まりと岡山城】
「池田輝政」は、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、父の恒興と兄の元助が討死したため家督を相続(家康は親と兄の仇なんですけどね~(^^;)、関ヶ原の戦いでは東軍に付き岐阜城攻略の功績から播磨姫路52万石に加増移封され、初代姫路藩主となりました。

慶長16年(1611年)3月には、二条城における家康と豊臣秀頼との会見に同席しています。
慶長17年(1612年)、正三位参議、および松平姓を許され「播磨宰相」「姫路宰相」などと称されます(失礼ながら家康の飼い犬に成っちゃた。)。
また、次男・忠継の備前国岡山藩28万石、三男・忠雄の淡路国洲本藩6万石、弟・長吉の因幡国鳥取藩6万石を合せ、一族で計92万石(一説に検地して100万石)もの大領を有しました。
徳川家との縁組、(家康の次女督姫を継室にしています。)は家格を大いに引き上げ、明治に至るまで池田家が繁栄する基盤となったのです。

さて岡山藩ですが、慶長8年、備前28万石は姫路城主池田輝政の次男忠継に与えられましたが、幼少(5歳)であったので兄の利隆「備前監国」として代政します。
利隆は「石山」の西端の西之丸を整備したと言われています。
慶長18年(1613年)に忠継は岡山城に入りましたが、慶長20年(1615年)に死去してしまいます。

PB230022.jpg(天守閣がこちらに在ったと考えていましたが、こちらで配置だけ再現していたようです。(;^_^A)
PB230037.jpg(天守閣から金鯱越しに後楽園を望む。)
PB230065.jpg(本丸と表書院の説明版ですね~空襲で燃えてます、残念ですね~涙。)
PB230058.jpg(西から天守への階段は味がありますね。下にはライトが有って夜はライトアップされているようです。)
PB230064.jpg(廊下門!蝶の家紋は池田家の物ですが、種類が結構あるようです。)

元和元年(1615年)、忠継の弟・忠雄が淡路島より31万5千石で入封します。
幕府の格式に見合った城とするため、忠雄は本丸中の段を大幅に北側に拡張し、本段の御殿に加え新たに表書院も設けています。
また大手の南門を造り替え、城下の西端を限る用水路の西川を整備するなどし、ここに岡山城の縄張りが完成したのでした。
PB230027.jpg
(元禄~宝永期の岡山の町割りです、南北に長い事と無理やりの河川工事は洪水が起きやすそうですね~。)

重要文化財に指定されている月見櫓はこの頃の創建とされ、中の段の北西角の隅櫓で一部地下付き、本葺き、総白漆喰塗籠の壁仕上げの二階建てです。
城外からは二層の望楼型、城内からは三層に見えます。

江戸期の縄張は「岡山」に本丸、二之丸内郭(東南の郭)、「石山」付近に二之丸内郭(西の郭)、西の丸が置かれそれらの南に二之丸、その西南に三之曲輪、中堀の外に三之曲輪の内、西に三之外曲輪の内という配置です。

本丸には天守の他に3つの御殿、大納戸櫓を含む高層(3層以上)の櫓が9棟(城全体では11棟)、さらに2層の櫓、櫓門が多数ありました。

石山の二之丸内郭には池田家祖廟、西之丸に前藩主の隠居所がおかれ、二之丸内郭(東南の郭)、二之丸は上級武士の屋敷地に成ります。
三之曲輪と三之曲輪の内の北側には西国往来が通り、町人地として領国経済の中心となっていました。

三之曲輪の内の南半分は小早川氏時代の武家地であり、三之外曲輪は武家地、外堀を隔てて寺町や下級武士の屋敷や町人町がさらに広がっていたようです。

寛永9年、(1632年)忠雄の子・光仲が鳥取へ転封し、入れ代わって鳥取から池田光政が31万5千石で入封します。
光政は利隆の子であり、姫路城で生まれたが、父の死後元和元年(1615年)に鳥取城主となっていました。
以後、幕末まで光政系池田氏の居城となりました(鳥取城も同じように池田氏が幕末迄居城としています。鳥取藩池田家の最後の城主は15代将軍慶喜の兄です。)。

明治2年(1869年)の版籍奉還により藩主・池田章政は岡山藩知事に任ぜられ、岡山城は藩の府城たる役割を終えて兵部省管轄、つまり存城となりました。
明治6年(1873年)の廃城令により順次建物の取り壊し・堀の埋め立てが行われていき、明治15年(1882年)頃までには、天守・月見櫓・西之丸西手櫓・石山門を残すのみとなってしまいました(残念)。
明治23年(1890年)、旧藩主池田章政に払い下げられた後、池田家は岡山県に提供し、明治29年(1896年)には本丸趾に県立岡山中学校が建てられました。

PB230019.jpg(岡山中学校の跡)


ちなみに我が母校の兵庫県立豊岡高校ですが、なんと同じく明治29年兵庫県立豊岡尋常中学校として創立されています。
現岡山高校かな?兄弟校と言えますね~。

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2017/04/13

戦国時代の『烏城』を訪ねて岡山へ!

今日のご紹介は引き続き岡山県、『岡山城』です。

別名烏城、金烏城城郭構造梯郭式平山城
天守構造は、複合式望楼型4重6階
(1597年築)(鉄筋コンクリート造外観復元・1966年)
築城主は上神高直とされます。
築城年1346年~1369年(正平年間)ですが、主な改修者は宇喜多秀家、小早川秀秋、池田忠雄等です。
明治6年(1873年)に残念ながら廃城となります。
遺構としては、櫓、石垣、堀
国の重要文化財(月見櫓、西の丸西手櫓)です。

PB230024.jpg
(複合式望楼型4重6階のコンクリート天守閣です(;^_^A)

別名は烏城(うじょう)、金烏城(きんうじょう)と呼ばます。

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簡単な概要は戦国時代に、備前東部から興って、美作、備中東部まで勢力を伸ばした宇喜多氏が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれ、その後小早川氏、池田氏により整備、拡張が行われました。



PB230008.jpg
(本丸地図ですこの地図に沿ってご紹介して行きます。)

岡山城は標高が十数メートルの丘が連なる小高い土地に建設されています。

当時(戦国時代ですが)、旭川河口部は複数の派川に分岐しており、その中の大洲原と呼ばれる広大なデルタ地帯中央に「岡山」(柴岡山)、その西隣に「石山」、さらにその北西には「天神山」(天満山)の3つの丘が連なり、各時代ごとに要害として使用されていた様です。

その中の石山にあった石山城(いしやまじょう)に宇喜多直家が入城・改築し、後に、子の宇喜多秀家が隣接する岡山に新たに本丸を設け、石山城を取り込む形で城郭が建造されました。

城の縄張は基本的には梯郭式となっており、三段の城郭配置が西側の一方だけに広がる平山城となっています。
言いかえると本丸の北から東には郭の無い、非常に防備が薄い縄張と成っています。
そのため旭川の流路を変更し、天然の堀として東側の備えに利用した様です。
さらには郭の代りとして、「後園(後楽園)」が築かれたとも言われます。

天守は4重6階の複合式望楼型で、特に初重平面形状が歪んだ多角形をしているため、同じく歪んだ多角形平面の天守台を持つ安土城天主を模したものではないかとも言われていますが、羽柴秀吉による大坂城天守を模しているという説もあり意見が別れています(現在の天守の前に礎石が配置されて居ました。)。

その外観は黒漆塗の下見板が特徴的で、この印象から「烏城(うじょう・カラスじょう)」とも呼ばれ、同じ山陽道の隣県勿論ご存知兵庫県の「白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう)」とも呼ばれる姫路城と対比されることもあります(岡山県民の皆様には(^人^)ですが、兵庫県民としては、心外かも(-""-;))。

元禄時代の古地図からは、五重の濠に囲まれた城郭と、南北3.5km、東西1.3kmにおよぶ城下町の姿が伺えます。

明治時代に御殿・櫓・門の大半が取り壊されました(これに関しては、明治政府の政策は本当に腹立たしいです。)。
堀は内堀の一部を除いてほとんど埋められましたが、街路は江戸時代の位置をほぼ踏襲している個所が多いようです。

さらに第二次大戦中、空襲のため天守・石山門を焼失してしまいました。
現在までに2つの櫓、本丸付近の石垣、内堀が残り、戦後に天守・不明門・廊下門・六十一雁木上門・塀の一部が再建されています。

現存する月見櫓・西之丸西手櫓は国の重要文化財に指定され、「岡山城跡」として史跡にも指定されています。

その他、京橋御門が岡山市南区小串に移築され現存しています。
城跡は「烏城公園」として整備される一方、二之丸跡に山陽放送、林原美術館、岡山市民会館が、三之丸跡に岡山県庁、岡山県立図書館などの公共機関があります。
近年本丸御殿の再建が検討されましたが、今のところ目処は立っていません(名古屋城の建て替えも決まった事ですし、頑張れ岡山県?)。

また隣接する大名庭園「後楽園」は、水戸・偕楽園金沢・兼六園とともに、日本三名園として並び称されていますね。

PB230001.jpg(内下馬橋を渡って城内に?ここも本来城内なのですがね。)
PB230009.jpg(巨石が使われていますね~とても守備が弱いとは思えませんが?此方は南側です。)
PB230011.jpg(不明門を横から見ています。高い石垣やはり南側ですが?)
PB230015.jpg(同じく不明門を横から、天守までもう少しです。)

【今回は城の築城~小早川家迄の歴史を御紹介】

南北朝時代の正平年間(1346年~1369年)に、名和氏(南朝の武将の一族)が「上神高直」石山台(岡山)に城を築いたと、「備前軍記」に書かれているのが最初と伝えられています。

その後およそ 150年間の城主は記録が有りません。
なおこの付近には摂関家領・鹿田荘の中心部があったとされ、旭川(鹿田川)河口の港町としても栄えていた様です。
戦国時代の大永年間(1521年~1528年)には、金光氏が居城とし金川城主の松田氏に仕えていました。

元亀元年(1570年)、「宇喜多直家」が金光宗高を謀殺しこの地を支配します。
直家は備前守護代浦上氏の一族浦上宗景の被官であったが、備前西部を中心に勢力を急速に伸ばしていました。
天正元年(1573年)、直家はそれまでの居城である亀山城(沼城)から石山城に入城し、城の改築と城下町の形成を行ないます。
この頃の石山城(岡山城)は、縄張が東西に走る連郭式であったと推定されており、直家は北方の山裾にあった西国街道を、城の南に沿うように付け替えて城下に導来ました。
そして備前福岡、備前西大寺などから商人を呼び寄せ、いわゆる城下町の整備を行うなど積極的に流通主導による経済振興とも言うべき政策をとりました。
これは、信長が安土城を築城する3年前のことで、直家が幼少の頃に、備前福岡の商人に庇護を受けたと言われていることも無縁ではないとみられていますが、武人としても行政官としても宇喜多直家は非凡な人物では無かったことがわかりますね(大河ドラマdと結構な悪役でしたが(;^_^A)。
なお主家である宗景の居城の天神山は巨大ではありますが天神山にある山城で、直家の水辺に近い小高い丘の石山城とは対照的です。

喜多直家は天正3年(1575年)には、浦上宗景の兄・政宗の孫をおしたてて宗景を播磨へ放逐し、事実上の下克上を行いやがて備前、美作、さらに播磨、備中の一部を支配下に置きました。

直家の子「宇喜多秀家」は、豊臣政権下で父の遺領をほぼ継承し、57万4,000石の大大名となりました。
これに相応した城とするため天正18年~慶長2年(1590年~1597年)の8年間にわたる大改修が行われ、近世城郭としての体裁を整えます。
秀家は「岡山」に本丸を構え、石山城の本丸を二之丸内郭に、二之丸を西之丸とし、そして内堀を挟んで二之丸、その西に三之丸の郭を整備します。
これらは織豊系城郭に特徴的な高石垣の積まれた城に成ります。
本丸は本段、中の段、下の段に分かれた構造で、本段の北寄りに金箔瓦を使用した壮麗な4重6階の望楼型天守を建てました。
そしてそのままでは本丸の東側の守りが極めて薄い構造となったため、旭川本流を城郭の北から東側に沿うように極端に寄り添わせる形とし、天然の堀としています。
ただしこの付け替えによる明らかに不自然な形の流路は、城下に洪水を多発させる原因となり、やがて放水路としての百間川の整備へとつながります。
そして城を南から取り巻くように西国往来の道筋を変えて、直家時代の城下町を拡大整備し、引き続き領内の有力商人を勧誘して経済活動を発展させるよう努めました。
築城には義父となった「豊臣秀吉」の意向が大いに働いていたのは間違いないでしょう
こののち城は「岡山城」城下町は「岡山」の呼称が定着しました。

PB230018.jpg(不明門正面中が天守台ですが、場所は少し違っています。)
PB230026.jpg
(金の鯱ですね~天守にもあります。)
PB230039.jpg
(烏城のいわれ~カラス!見たまんまですけどね。笑)
PB230062.jpg(宇喜多秀家の頃の石垣が天守台のそばに埋まっているようです。)

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍の主力となった秀家は八丈島に流刑となり、宇喜多家は改易となった。
代わって「小早川秀秋」が備前・美作52万石の領主として入城した。
秀秋は本丸中の段を拡幅し、三之丸の外側に15町余の外堀を掘り三之外曲輪の整備をして城下町の拡大を行った。
この外堀工事に農民だけでなく武士も使役し20日で完成したため、「廿日堀、二十日堀(はつかぼり)」と呼ばれている。
慶長六年には、中の段南隅に沼城天守を移築したとされ、これは大納戸櫓と呼ばれ、岡山城最大の櫓で二層の大入母屋造りの上に望楼を乗せた形式の三層四階の櫓であった。
秀秋は2年後の慶長7年(1602年)10月に岡山で急死し(勿論関ケ原の裏切りの恨みの噂が絶えなかったのはしょうがないですね)、嗣子がなく小早川家は断絶しました。

次回は池田家の岡山城をご紹介できますか?ご期待ください。

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2017/04/10

天平時代の国分寺の雰囲気をそのまま残す『備中国分寺』を訪ねて。

今日は「備中国分寺」をご紹介いたします。

天平は、日本の元号の一つで、神亀の後~天平感宝の前となります。
西暦では729年か~749年までの期間を指し、この時代の天皇は聖武天皇です。
奈良時代の最盛期にあたるため、東大寺、唐招提寺などに残るその時代の文化を天平文化と呼びます。
備中国分寺は往時の雰囲気をそのままの姿で残している?なかなかの建物ですよ、但馬も含めて痕跡だけ(礎石だけとか!)に成っている所が多い中、しっかり国分寺でした(´∇`)

CIMG2875.jpg
(岡山市内で邪馬台国サミットが迫っておりまして、写真が少ないです。まだブロガーじゃ無かったし…言い訳です。)

其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいね。 
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【備中国分寺】

住所:岡山県総社市上林
山号:日照山宗派真言宗御室派
本尊:薬師如来
創建年:天平13年(741年)
開基:聖武天皇(官立)
中興年:江戸時代中期
備中西国三十三所観音霊場28番




CIMG2872.jpg
(田んぼの中の国分寺、天平時代もこんな感じだったのでしょうか?五重の塔は七重でしたけどね。)


奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、備中国国分寺の後継寺院にあたります。
現寺院と、創建当時の史跡である備中国分寺跡・備中国分尼寺跡についても御紹介します。

田園風景の中に建つ五重塔は、観光地吉備路のシンボル的な存在となっています。

寺伝では、廃寺となっていた国分寺を天正年間(1573年~1592年)に備中高松城主・清水宗治(あの秀吉の水攻めで切腹した猛将ですね。)が再興しましたが衰退し、江戸時代中期の宝永年間(1704年~1711年)に再建されたとされています。

CIMG2873.jpg
(これでも35メートルほど、最初は50メートルですから)

五重塔(国の重要文化財)五重塔は、高さ34.32メートル。
南北朝時代に奈良時代の七重塔(推定50メートル、塔跡が残っています。)を焼失したのち、1821年(文政4年)に位置を変えて再建を開始、弘化年間(1844年~1847年)に完成しました。
江戸時代後期の様式を濃く残す岡山県内唯一の五重塔です(備前市に三重の塔は有った気がします。)。
当初は三重塔で計画されたのを五重塔に変更されたようです。
塔は国の重要文化財に指定されています。

備中国分寺跡は、創建当初の国分寺跡は現在の国分寺境内と重複しています。
寺域は東西160メートル・南北180メートルと推測され、出土した土器などから中世初期まで存続したと推定されています(なお国府は賀陽郡ですが、国分寺は窪屋郡に位置している。)。

旧伽藍は以下に示す通りで、配置は法起寺式(金堂の右に塔が配置される。現在とは逆配置に成りますか!)と考えられています。
一部は現伽藍と重複しており、詳細は明らかには成っていません。

南門は南端に位置し、間口5間・奥行2間、天平年間に3間1戸から5間1戸に大改修されています。

中門は間口5間・奥行2間、全体としては南門を上回る規模、南門との間には大井戸が見つかっています。

塔は高さ約50メートルの七重塔。

金堂・講堂は現在の境内伽藍の下にあり、位置・規模は不明です。

CIMG2874.jpg
(伽藍の下に本堂・講堂が有ったようです、国分尼寺は右方向少し先に在ります。地図で確認ください。)

【聖武天皇の不可解な御幸】
国分寺建立の背景なんですが、聖武天皇の伊勢行幸が行われました(740年「天平12年」10月26日)。
折りから大宰小弐藤原広嗣が九州大宰府に反乱の兵を挙げ、都へと上がろうとする中、時の帝聖武天皇は不意に平城京を捨て、後世に『不可解な御幸(みゆき)』ともいわれる伊勢行幸をおこないます。
「朕(ちん)、意(おも)うところあるによって、今月末暫く関東に往かんとす。その時に非ずといえども、こと已むことあたわず」
こうして聖武天皇は、反乱征討軍の将軍大野朝臣東人(おおののあそんあずまひと)宛に一文を送ると、右大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)を伴い、伊勢路をたどり、やがて遠く美濃、近江までも行幸とも彷徨ともつかない旅を続け、12月半ば、ようやく山背国恭仁(やましろのくにくに)郷へと着いたのでした。
直ちに恭仁京遷都がおこなわれ、都の造営が始まりましたが、明けて天平13年3月、この地から諸国に向けて発せられたのが「国分寺創建の詔」でした。

聖武天皇は七重の塔に主眼を置いた金光明四天王護国之寺(国分僧寺)と、法華滅罪之寺(国分尼寺)の二寺の名を正式に定め、国家鎮護を目的とした寺院建立を広く諸国へ命じたのでした。
その動機について、当時、飢饉と疫病の流行がうち続き、また藤原広嗣の乱による政情不安から一層悩みを深くした聖武天皇が、仏の加護による安寧を求めておこなったものである、と歴史書の多くは時代背景を説いています。
また、天然痘の流行により一気に壊滅に瀕した藤原一族の余命を支えるため、光明皇后(藤原不比等(ふじわらふひと)の娘)が仏教を奉じて、亡父不比等の封戸3,000戸を国分寺に施入した結果 である、と後宮政治説の立場からの解釈もあります。

【仏教および国分寺の必要性って何?】
聖武天皇の詔に先立つこと200年、宣化天皇代の538年(一説に552年)、百済からはじめて仏教が日本へと伝えられたといわれています。
663年の白村江の戦に敗れ朝鮮半島における足掛かりを失った日本は、壬申の乱を経て、やがて内政充実の方向へと向かって行きました。
律令国家建設の大きな柱として、国分寺建立の思想はすでに六世紀中ごろからあったともいわれます。
その推進者である天武天皇代の676年、全国に使者を遣わして「金光明経」「仁王経」を購読させています。
天武14年(685年)3月には諸国に仏舎を造り、仏像や経を礼拝せよとの詔が出されています。
持統7年(693年)10月には諸国で仁王経を講じさせ、翌年金光明経百部を全国へ配布しています。
神亀5年(728年)12月には、金光明経が再び全国へ配布されました。
天平9年(737年)3月には釈迦仏像と挟持菩薩を造り、大般若経を写経せよとの詔が出されます。
天平13年(741年)3月、国分寺(国分僧寺、国分尼寺)造営の詔が出されます。
これらの流れを考えますと、改まって寺の造営を命じたというよりも、むしろ今までに出した仏像造営と写経、そして仏教崇拝の詔を徹底する為の、最後の一押しが「国分寺創建の詔」だったのではないでしょうか。

仏教による中央集権国家体制の安定を目指した六世紀の初めでしたが、文武天皇代の703年に端を発した凶作は、続く疫病の流行と相まって治まるところを知らず、諸国に飢餓と疫疾を蔓延させました。
そんな状況の中でおこなわれた元明(げんみょう)天皇の平城京遷都(710年)は、造都にかり出された民衆の多くが帰郷の途に餓死するという悲惨な結果となってしまいます。

聖武天皇の即位(724年)は、政教一致による律令国家構想がわずか20年にわたる天災によって、危機に瀕した、そんな時代状況の中でおこなわれたのでした。
即位 と同時に、聖武天皇は仏教界の立て直しを図ります。

『続日本紀』によると、国分寺創建の詔よりも以前に、
「国毎に釈迦仏の像一、挟侍(きょうじ)菩薩二を造り、兼て大般若経一部を写 さしめよ」(737年3月)
「天下の諸国をして国毎に法華経十部を写し、ならびに七重の塔を建てしむ」(740年6月)
と、二度にわたり、諸国国分寺の存在を思わせる聖武天皇の詔が発せられています。
天平13年(741年)3月の聖武天皇による「国分寺創建の詔」は、永年にわたる国分寺構想の集大成であったと考えられます。

聖武天皇は、日本全国に護国の教典をまつる寺院を建立し、平城京には全国の国分寺の総寺として東大寺と大仏を、国分尼寺の総寺として法華寺を建立しました。

国分寺は「金光明経(金光明最勝王経)」に基づき、国分尼寺は「法華経」に基づき建立されました(正式名称を「法華滅罪之寺」)。
「金光明経」「法華経」、そして「仁王経」を総称し「護国三部経」といいます。
「金光明経」には「この経を広め、また読誦して正法をもって国王が施政すれば国は豊かになり、四天王をはじめ弁才天や吉祥天、堅牢地神などの諸天善神が国を守護する」と説かれています。
「法華経」にも「この教典に帰依すれば仏法によって国土が夜叉から守られる」と説かれてます。(「法華経」は女人の往生を説いている関係から、こちらをまつる寺院が「尼寺」となったのではないでしょうか?)

国分寺や大仏には天皇および朝廷の権威を示す、公共事業、文化の普及、といった政治的意図もあったとは思いますが、やはり仏教によって国を守り、繁栄させるというのが国分寺・国分尼寺建立の基本精神だったと考えます。

さて~備中国分尼寺跡ですが、国分寺の東方に位置します。
寺域は東西108メートル・南北216メートル、南北朝時代の戦火で焼失したとされるが、多くの礎石・遺構が残っています。

持統天皇、元明天皇、元正天皇が皇位を繋ぎ、藤原氏に実権がうつった後は、藤原不比等の娘達が皇后となって政治力を握って行くことになります。
この時代の女性は強かったですね~(笑)


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