2017/10/06

やはり不思議な仙人が開基していた。西国三十三番札所第26番『法華山一乗寺』

みなさん、こんばんわ~!前回「水戸黄門」を取りあげたにもかかわらず、放送時間間違えて見られなっかお馬鹿さんです。
今日は、まじめに西国三十三番札所をご紹介します。


実は大きな声では?言ってなかったのですが、私ある意味オタクなんです。興味を持つと「ずっぽし」はまりこんでしまい、楽しくてしょうがなくなってしまう、しょうがない性格です。御朱印集めにはまっているのもその性格故かもしれません。収集癖は子どもの頃からありました。当時はみんなが集めていた?「切手」「古銭」「化石」「土器のかけら」などなど今も田舎を探せば出てくると思います。

CIMG9206.jpg(インパクトでトップフォトにしました~猿の腰掛デカ~!)

漫画は読まない子どもでした。自慢ではないですが「漫画」読んだのは大学生に成ってからです。漫画収集は結婚してから(笑)弟が途中であきらめていた。「三国志」60巻、ジョジョ全巻『ジョジョの奇妙な冒険』Part6 ストーンオーシャンと『スティール・ボール・ラン』全24巻までは集めています。『ジョジョの奇妙な冒険 Part8 ジョジョリオン』はまだ連載中ですかね?などなど結構集めているんですよね~「ゴルゴ13」は途中で諦めましたけどね。

そんな私が近頃ハマっているのが「御朱印集め」です。歴史ももちろん好きな私にとっては一石二鳥の趣味となっています。そこでそろそろ(これまでも四寺院ほどはご紹介したと思いますが)本格的に、西国三十三番観音霊場をご紹介していきたいと思っています。まだ満願はしておりませんが、十八寺は廻っておりますので、機会があるごとにご紹介していきたいと思います。

今日は兵庫県内で、それほどわが家から遠くない、加西市の『一乗寺』をご紹介したいと思います。

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
ブログランキングならblogram
👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。

CROOZ




【まず復習から、西国三十三カ所観音霊場巡りとは?】

P32167982.jpg
(一乗寺伽藍)
CIMG9186.jpg(粟嶋堂粟嶋堂は一乗寺の塔頭寺院である隣聖院にある御堂)
CIMG9184.jpg(水子供養のお供え)

養老2年(718年)、大和国長谷寺の開山「徳道上人」が病にて仮死状態になられた際、冥土で閻魔大王に会い、「生前の悪い行いによって地獄へ送られるものが多い故、観音の霊場へ参ることにより功徳が得られるよう、人々に観音菩薩の慈悲の心を説け」とのお告げを受け、起請文と三十三の宝印を授かって現世に戻され、その証拠でもって人々に観音信仰、及びその霊場へ参ることをすすめられました。

徳道上人が極楽往生の通行証となる宝印をお配りになったという場所は、観音菩薩が衆生を救うために示現された霊験所や寺院でした。上人と弟子たちはこの三十三所巡礼を人々に説きましたが、世間の信用が得られずあまり普及しなかったため、機が熟すのを待つこととし、閻魔大王から授かった宝印を摂津国の中山寺の「石の唐戸」の中に納めました。そして月日がたち、徳道は隠居所の法起院で80歳で示寂し、三十三所巡礼は忘れ去られていきました。

徳道上人が中山寺に宝印を納めてから約270年後、花山法皇(安和元年 ~寛弘5年「968年~1008年」)が紀州国の那智山で参籠していた折、熊野権現が姿を現し、徳道上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を授けます。

花山法皇は、988年(永延2年)観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった摂津国の中山寺(兵庫県宝塚市)で宝印を探し出し、播磨国書写山圓教寺の性空上人の勧めにより、河内国石川寺(叡福寺)の仏眼上人を先達として紀伊国熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し修行に勤め、大きな法力を身につけたといわれます。

このことにより、やがて観音霊場を巡る西国三十三所という信仰となり、西国三十三所は日本最古にして、巡礼の元祖となりました。この花山法皇の観音巡礼が西国三十三所巡礼として現在でも継承されており、各霊場で詠んだ御製の和歌が御詠歌となっています。

【第26番札所『法華山一乗寺』】

CIMG9187.jpg(説明版です。)
CIMG9189.jpg(階段上るぞ~!境内入口左手に宝物館 「公開は年に2日、4月4日と11月5日のみで、それ以外の拝観は事前の許可が必要」。)

山号は「法華山」といいます。 宗派は「天台宗」ですね、 大事なご本尊は「聖観音菩薩」です。創建年は「伝・白雉元年(650年)」、開基は、伝・法道仙人(そうここら辺ではちょっと?有名な)孫悟空の様な方です。

西国三十三所26番札所の他、播磨西国三十三箇所33番札所、神仏霊場巡拝の道 第77番札所などの札所に成っています。 文化財としては三重塔、聖徳太子及び天台高僧像10幅が(国宝)、本堂他が(重要文化財)に指定されています。

寺伝では孝徳天皇の勅願で650年に創建、開基(創立者)は法道仙人とされています。 国宝に指定されている三重塔(1171年建立)は平安時代後期を代表する和様建築の塔であり、日本国内屈指の古塔ですね。 境内は山深く、春は桜、秋は紅葉の名所としてもよく知られています(私が訪れたのはそのどちらの時期でもありませんが)。

【法道仙人って誰?】

法道仙人(ほうどうせんにん)開基伝承をもつ寺院は兵庫県東部地域に集中しています。法道仙人はインド出身だということに勝手に?なっています。鉄の宝鉢を持っており神通力で鉢を飛ばし、米などの供物を得ていたため、「空鉢仙人(からはちせんにん)」とも呼ばればれていたことから、不思議な術を使う超能力の持ち主だったと伝わっています。

多くの寺の縁起などによると、推古天皇(すいこてんのう)の頃に日本へ渡ってきたとされていますので、6~7世紀の人物ということになりますが、本当の事跡や没年、墓所などすべて不明で、伝わっているのはその名前と仙術にまつわる伝説ばかりです。つまり実在の人物か解りません。第一、「法道上人」や「僧法道」ではなく、なぜか「仙人」の名前がついています。

播磨国の山には、法道仙人を開山もしくは開基と伝える寺が多いのです。此までに御紹介した寺院の多くに仙人開基の寺が有りました。西国三十三観音霊場でも二十五番札所の「清水寺」・番外の花山院菩提寺などです。仙人が開いたと伝える寺院は、兵庫県下に110か所以上あるといわれています。

また、彼が日本に渡るときに、共に渡ってきた「牛頭天王(ごずてんのう)」は、姫路市の広峰神社(ひろみねじんじゃ)に祭られ、その後、八坂神社(やさかじんじゃ)中の座に祭られたとされていますから、播磨の国がとりわけ仙人と関わりが深いことは間違い有りません。つまり須佐之男命と同一視されたり、大国主の荒魂とも言われます。「牛頭天王(ごずてんのう)」もう少し勉強が要りますね。(-"-;A ...アセアセ。

伽藍(がらん)を構えた寺院だけでなく、あちこちにある不可思議な自然物が、法道仙人と結びつけて理解され伝えられていることは、仙人に対する素朴な信仰がこの地の人々にとっても身近であったことを示しています。「インドから紫雲に乗って飛来」云々の真偽は別としても、こうした伝承の元になり、地域の信仰の中心となった人物が実在した可能性は否定できません。

法道仙人は、天竺(インド)から紫の雲に乗って飛来したとされる伝説的人物です。『元亨釈書』等の記述によれば、法道はインドに住んでいたが、紫の雲に乗って中国、百済を経て日本へ飛来、播州賀茂郡(兵庫県加西市)に八葉蓮華(8枚の花弁をもつハスの花)の形をした霊山を見出したので、そこへ降り立ち、法華経の霊山という意味で「法華山」と号したといわれます。


【法華山一乗寺の歴史】

不思議な法道仙人の評判は都へも広まり、白雉元年(650年)、時の帝である孝徳天皇の勅命により法道に建てさせたのが今回ご紹介する一乗寺なんです。

一乗寺には7世紀~8世紀にさかのぼる金銅仏6躯が存在し(うち3躯は重要文化財)、付近には奈良時代にさかのぼる廃寺跡、石仏などが存在することからも、この地域一帯が早くから仏教文化の栄えた地であることは確かなようです。

創建当時の一乗寺は現在地のやや北に位置する笠松山にあったと推定されています。笠松山の山麓には古法華(ふるぼっけ)石仏と称される奈良時代の三尊石仏(重要文化財)があり、「古法華」とは「法華山一乗寺の旧地」の意味と思われます。

現存する一乗寺国宝三重塔は平安時代末期の承安元年(1171年)の建立であるところから、その年までには現在地において伽藍が整備されていたと思われますが、正確な移転時期は不明なんです。

一乗寺は中世、近世には何度かの火災に遭っていますが、平安時代の三重塔をはじめとする古建築がよく保存されていてうれしいですね。本堂は姫路藩主本多忠政の寄進により、寛永5年(1628年)に建てられたものだそうです。

【建築物「伽藍」の紹介】

CIMG9188.jpg(石造笠塔婆、ちょっと遠くて見えませんね~!)
CIMG9191.jpg
(石造五輪塔 - 鎌倉時代、元亨元年(1321年)の銘がある。)
CIMG9190.jpg
(太子堂)

山間に位置する境内は長い石段が続き、数段に分けて整地されています。バス通りに面した境内入口には山門はなく、正面に石造笠塔婆(県指定文化財)が立つっています。その左方には宝物館(平素は非公開)と本坊の地蔵院があります。右方は公園風に整備され、太子堂、放生池、やや奥まったところに見子大明神の社がありました。

CIMG9192.jpg(常行堂)
CIMG9194.jpg(古いけど風情があります。本堂への階段。左が国宝です。)
CIMG9204.jpg
(国宝の三重塔)
境内入口から最初の石段を上った狭い平地の左手に常行堂があり、次の石段を上ると左手に国宝の三重塔、右手に法輪堂(経蔵)があります。三重塔の直上、さらに階段を上った位置に懸崖造の本堂が建つっています。このため、本堂の縁に立つと三重塔を見下ろすことができます。本堂裏手には鎮守社の護法堂、妙見堂、弁天堂(以上重要文化財)、行者堂があり、本堂からさらに200メートルほど登ったところに法道仙人を祀る奥の院開山堂が建つっています(大雨の影響で通行止めになっていました。残念)。

CIMG9200.jpg(本堂「重要文化財」)
CIMG9199.jpg
(重要文化財からの国宝三重塔)

本堂(重要文化財) は大悲閣または金堂とも称されます(だいたいの寺院では御朱印は大悲閣と書かれますね~。入母屋造、本瓦葺き、正面9間、側面8間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を示す建築用語です)。斜面にせり出した懸造とし、内部は広い外陣と、閉鎖的な内陣、脇陣、後陣からなる、密教仏堂の典型的な平面をもっています。札所寺院として、参拝者用の空間である外陣を広く取っており、外陣天井には巡礼者の打ちつけた木札が大量に残っています(現在は木札や千社札は禁止されています)。

『法華山諸堂記』の記載により、寛永5年(1628年)、藩主本多忠政の援助で再建されたことがわかります。内陣には三間の大厨子を置き、中央の間に本尊聖観音立像(重要文化財)、左右の間には不動明王と毘沙門天像を安置するが、いずれも秘仏なんです。厨子外の左右には二十八部衆と風神・雷神像が安置されています。

堂は1998年の台風で大きな被害を受け、1999年から2009年にかけて災害復旧を兼ねた半解体修理が行われた。 銅造観音菩薩立像(重要文化財) の秘仏本尊像は像高72.7 cm、お前立ち像(現在は宝物館に安置)は80.3 cm。いずれも飛鳥時代末~奈良時代初(7世紀後半)の金銅仏です。直立した姿勢、素朴な顔貌表現、緻密に表現された装身具などに時代の特徴が出ています。秘仏本尊像は、2009年11月1日~30日及び2010年5月11日~30日、22年ぶりに開扉されました(見たかった~)。

CIMG9480.jpg
(お姿(レプリカ)だけですが、こんな秘仏本尊像です)

三重塔(国宝)は伏鉢(屋根上、相輪の下部にある半球状の部材)の銘から、承安元年(1171年)の建立と判明しています。平安時代にさかのぼり、建立年代の明らかな塔として日本でもとても珍しいものです。塔身部の逓減率(初重から三重に向かって小さくなる率)の大きいことが特色です。

【その他の建造物】

CIMG9203.jpg
(本堂横手から裏手に廻りたいかったのですが・・・)

護法堂(重要文化財) - 本堂裏手、石段上に建つ、一間社春日造の社殿。鎌倉時代。
妙見堂(重要文化財) - 本堂裏手に建つ、三間社流造の社殿。室町時代。
弁天堂(重要文化財) - 妙見堂の左に並んで建つ、一間社春日造の社殿。室町時代。

法道仙人を祀る開山堂(超危険なために通行止めでした)

国宝「聖徳太子及び天台高僧像 10幅」 は平安時代、11世紀後半頃の作。各図とも縦125.6~131.6 cm、横74.7~75.8 cm。龍無畏像と慧文像は東京国立博物館、灌頂像は大阪市立美術館、他の7幅は奈良国立博物館に、それぞれ寄託されている。

謎の仙人の正体については少し調べてみます。まずは姫路の広峰神社へ行きますかね~?

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。

ブログランキングならblogram

リュミエールブラン ネージュ

2017/09/28

『備前国分寺』の周りは古墳の宝庫だった!そして大仙古墳を上回る巨大古墳の噂!

今日は以前ご紹介した「両宮山古墳」のすぐそばにある『備前国分寺跡』です。備前国分寺の周りには、「両宮山古墳」をはじめとして、ある程度規模の大きな前方後円墳が数多くあるのです。一度ではご紹介できないかもしれませんが、次の機会に必ずご紹介したいと思います。

P7300808.jpg
(鎌倉時代後期頃の塔跡に立てられた石造七重層塔(赤磐市指定有形文化財)。何故いがんでる?笑)


さらに、今日Facebookのお友達の投稿読んでおりますと、凄い発見がありました。なんとあの仁徳陵墓よりも規模の大きい巨大古墳が吉備の国にあるというのです。私はびっくりしてしまいました~~!吉備国恐るべし(笑)

興奮がMaxになる前に、まずは基本の『備前国分寺跡』のご紹介です。

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
ブログランキングならblogram
👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。

CROOZ




【いつも説明している国分寺の復習】

国分寺は、聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、天平13年(741年)の国分寺建立の詔を発して、当時の日本の各国に建立を命じた寺院です、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれています。
正式名称がこれまた長いんですよ、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」といいます。なお、壱岐や対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられました(島なんですから当たり前の事なんですけどね)。大和国の「東大寺」と「法華寺」は総国分寺と総国分尼寺とされ、全国の国分寺と国分尼寺の総本山に位置づけられました。

【うんちく~!こちらもいっつも書いてるし~~!】

平安京の「東寺」(私も弘法市でたまに行くのですが)は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場としての役目を担ったのですが、その「東寺」正式名称を「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」といいます。「国分寺」に本当にそっくりでしょう。

役目も同じく都を守りそれぞれ国を守るために建立されたということでしょうね。ちなみに東寺の位置知っておられますか?京都駅の西南西方向にあるんです。京都の中心が今とずれているのに築かれましたでしょうか?東寺が有るということは当然西寺も有った事に成りますね、その中心を都大路が通っていたことに成ります。観光で良く行く東山のお寺群ど田舎です。(笑)

【さて備前国分寺ですよね】

P7300812.jpg(国分寺ですね~!説明板上達の兆し無し。)
P7300815.jpg
(結構大きい国分寺です。)
P7300803.jpg(必ずある七重の塔現存は一つもしていないと思います。)
P7300805.jpg(塔基壇は復元ですが、石の七重の塔は本物です。)

備前国分寺跡(びぜんこくぶんじあと)は、岡山県赤磐市馬屋(まや)にある古代寺院跡です。もちろん国の史跡に指定されています。

奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、備前国国分僧寺の寺院跡にあたります。備前国分尼寺跡(史跡指定なし)についてもご紹介したいと思います。

「備前国分寺跡」は岡山県南部、赤磐市南西部の扇状地斜面に位置しています。聖武天皇の詔で創建された国分僧寺の遺構に比定されています。寺域南方には古代山陽道が通り、現在は寺域西辺中央に国分寺八幡宮が鎮座するほか、寺域東方には両宮山古墳が、古代山陽道を挟んだ南方には国分尼寺跡が位置しています。

寺域では、宅地開発の計画を受けて1974年(昭和49年)に確認調査が実施されたのち、1975年(昭和50年)に国の史跡に指定されました。また2003~2012年度(平成15~24年度)に計6次(少ないですね但馬なんかの昨年34次調査が行われました。)発掘調査が実施されており、判明した主要伽藍の一部は史跡整備されています。

両宮山古墳の記事も参考にしてください。①備前地域最大の前方後円墳、『両宮山古墳』は倭への架け橋か!

【備前国分寺の歴史】

P7300820.jpg
(往時を思えば凄い景色だったでしょうね~!)


創建年は不明ですが、天平13年(741年)から暫らくしてと考えられます。延長5年(927年)成立の『延喜式』主税上の規定では、備前国の国分寺料として稲4万束があてられていました。
考古学的には、平安時代中頃から後半頃(10世紀代)に改修が実施されたのち、平安時代末頃(12世紀中頃-後半頃)には講堂および北側回廊が焼失したものと見られ、その頃には金堂・塔などの諸堂宇も機能を喪失したものと推測されます。「国分寺」は全国だいたい同じ造りに成っています。回廊で囲まれた中に講堂と金堂それに七重の塔の三点セットです。

中世期の変遷は詳らかではありませんが、考古学的には鎌倉時代前半頃に講堂東北部に堂宇1宇(中世期の本堂と推定)の再建が認められています。また鎌倉時代後期頃には、塔跡に石造七重層塔が建てられていて、現在も残っています(赤磐市指定有形文化財)。

16世紀後半~17世紀初頭頃には、上記堂宇(推定本堂)の廃絶が確認されていることから、寺院としての機能は完全に喪失したと考えられます。

江戸時代に諸国一宮・国分寺を参詣した人物の記録では、寛政3年(1791年)に備前国において円寿院・八幡宮(国分寺八幡宮か)・吉備津宮(吉備津彦神社)の3箇所に参った旨が記載されており、当時頃からは西方の円寿院が備前国分寺の法燈を継承する寺院と見なされていたようです。

また土肥経平の『寸簸之塵(きびのちり)』や松本亮の『東備郡村誌』においても、備前国分寺および国分寺八幡宮のことが記述されています。天明年間(1781年~1789年)には塔付近において銅製小塔(非現存が残念ですね)が出土したといい、その底面には「宝亀元年(770年)春三月慈園奉詔」と記されていたといわれます。

【伽藍について、パターン通りです】

P7300826.jpg(講堂跡黒い石が本物です。)
P7300830.jpg(手前のこれね。)
P7300833.jpg(横から見るとよくわかる4個の本物、手前は講堂に続く回廊の礎石です。左看板が僧房跡です)
P7300834.jpg
(僧房跡の説明版)


僧寺跡の寺域は東西175メートル・南北190メートルで、築地塀をもって区画されています。主要伽藍として南門・中門・金堂・講堂・僧房が南から一直線に配されるとともに、寺域南東隅には塔が配される東大寺式伽藍配置(国分寺式伽藍配置の通り)です。講堂左右からは回廊が出て中門左右に取り付き、金堂がその回廊に囲まれる変形の様式になっています。

本尊を祀る金堂の基壇は、東西116尺(34.45メートル)・南北74尺(21.98メートル)、基壇上の建物は桁行7間(88尺)・梁間4間(46尺)です。創建期の金堂は平安時代中期に倒壊し講堂に見られる中世期の瓦が見られないため、それ以前に廃絶した推測されます。

塔経典を納めた塔(国分寺以外の場合は釈迦の遺骨(舎利)を納めた)。基壇は一辺60尺(17.82メートル)、基壇上の建物は一辺30尺(8.91メートル)。礎石は心礎のみ現存します。平安時代中期頃には廃絶したと見られ、鎌倉時代には心礎上に石塔(石造七重層塔、赤磐市指定有形文化財)が建てられています。

経典の講義・教説などを行う建物の講堂は、金堂の北方に位置し基壇は東西127尺(37.72メートル)・南北70尺(20.79メートル)、基壇上の建物は桁行7間(111尺)・梁間4間(54尺)です。創建期の講堂は12世紀半ば-後半頃に焼失し、鎌倉時代前半頃に再建されたと見られます。再建建物は基壇東北部に位置し、半分ほどに縮小されました。16世紀後半~17世紀初頭頃までの存続が認められ、備前国分寺跡では最後の建物の1つとされます。講堂の位置で中世期の本堂が営まれる例は、讃岐国分寺など多くの寺院で見られます。

寺域からは大量の瓦のほか、銅印、泥塔、三彩、土器片などが出土しています。そのほか、現在では寺域西辺中央に国分寺八幡宮が鎮座しています。

P7300840.jpg(小さな祠と両宮山古墳、朝もやの中で綺麗ですね~。)
P7300842.jpg(国分寺八幡宮鳥居)
P7300848.jpg(国分寺八幡宮神門もしっかりあるのですが~?)
P7300845.jpg(国分寺八幡宮拝殿兼本殿がさみしいかな?)

【備前国分尼寺跡】

尼寺跡は、僧寺跡から古代山陽道を挟んで南方約300メートルに位置します。推定寺域は1町半四方(135メートル四方)で、現在ではその東半は溜池(仁王堂池)、西半は農地となっています(急いでいたので行けていませんつまり写真も無いのです、ごめん)。

本格的な調査が実施されておらず詳細は明らかでないが、推定寺域からは国分僧寺のものと同様の瓦が出土しているほか、かつては礎石と見られる岩が点在したと言われています。

【最後に周りの古墳群と驚愕の巨大古墳】

『備前国分寺』の周りには、両宮山古墳群(りょうぐんざんこふんぐん)は、岡山県赤磐市にある古墳群で「西高月古墳群(にしたかつきこふんぐん)」とも言われます。岡山県南部、吉備地方南東部の備前地方に分布する古墳群です。前方後円墳4基・帆立貝形古墳2基などから構成され、主墳の両宮山古墳は岡山県第3位の規模の巨大古墳になっています。こちらのまだご紹介していない古墳群の古墳は次回ご紹介したいと考えています。

最後の目玉は、大仙古墳を上回る巨大古墳の噂!

P9280400.jpg(600mの前方後円墳、グーグルアースの映像なので勘弁を、次回取材してきます。)


いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。

ブログランキングならblogram

リュミエールブラン ネージュ

2017/08/29

山陰の山奥にこんなに素敵な霊場が有った『清水寺』

実は今回、備前の国分寺か古墳群をUPする予定だったのですが、昨日米子在住でご夫君の海外勤務で、ドイツに滞在中の同級生のお友達から、Facebookで連絡が有りました。

前回のブログ投稿に、「米子城気持ち良いよね~~(*^^*)」「中海の小島、サークルでご一緒してるお仲間のご主人の所有なのよ~。」と、びっくりの連絡!「えっあの無人島何て名前?(Google地図に名前無し)」と聞くと「確か 萱島と呼ばれていたように記憶してます。違ってたらゴメン!」とコメントが入り、島持ちってか~~?と驚いていると、更に別情報で妻木晩田の最高所に位置する「松尾頭地区で33次発掘が先週から始まったよ~。今回は墳丘だよ~~楽しみ~!」の情報も飛び込んで来ました。

先日ご紹介した出雲安来市の清水寺境内宿泊施設、「松琴館」の名物精進料理の反響も大きくて、今は山陰が来てるな?とかってに判断した私は、急遽記事を差し替え、『清水寺』をご紹介することにしました~~(;^_^A アセアセ・・・。

ということで、今日ご紹介するのは、「出雲国神仏霊場第十一番」『清水寺』です。

P8120324.jpg
(出雲神仏霊場のご紹介も残り少なくなって来ましたかね~。)


それでは、『市郎右衛門』の歴史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
ブログランキングならblogram
👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。

CROOZ


P8130519.jpg
(そうこの島、萱島!個人所有だそうです。その方とお友達に成りたい市郎右衛門です。)


こちらを参考にしてくださいね。石垣も美しいが、やはり眺めが絶景「米子城址」前回のブログです。
そして、清水寺境内宿泊施設、「松琴館」の名物精進料理出雲の国は安来、「清水寺」の隠れ家宿坊『松琴館』の精進料理が完璧過ぎる!
最後は、妻木晩田遺跡のご紹介!投馬国の都か?ズバリ邪馬台国なのか~!凄いぞ『妻木晩田遺跡』



【清水寺との出会い】

P8120315.jpg
(着きました~清水です。京都じゃないよ~笑)
P8120318.jpg
(二年前より案内板も新調されていました。)
P8120326.jpg
(ヤッパリ~(;^_^A 、登るのね~~~!)

私が清水寺を訪れたのは四度目です。最初は能楽の三番叟(さんばそう)を観覧に行ったのが初めてのお参りでした。当時お隣の米子市に単身赴任していました。一人の気ままな休みに日本の伝統芸能に触れてみるかなと、かるい気持ちで伺いました。

三番叟(さんばそう)は、日本の伝統芸能式三番(能の翁)で、翁の舞に続いて舞う役、あるいはその舞事をさします。能楽では狂言役者が演ずるそうです。
解説をご紹介しますと、元々「式三番」という名称は、例式の 3番の演目という意味で、「父尉」「翁」「三番猿楽」の 3演目を指すものだそうです。室町時代初期には最初の「父尉」を省くのが常態となっていましたが、式二番とは呼ばずそのままの名称が使われています。古くは、その3番のうち 1、2番目は聖職者である呪師が演じましたが、「三番叟」は 3番目の演目であり呪師に代って猿楽師が演じ、「三番猿楽」と呼ばれ、「三番三」とも呼ばれています。

三番叟の舞は、揉ノ段と鈴ノ段に分かれます。前半の揉ノ段は、面を付けず、足拍子を力強く踏み、軽快・活発に舞います。後半の鈴ノ段は、黒式尉を付け、鈴を振りながら、荘重かつ飄逸に舞うのです。

翁の舞が、天下泰平を祈るのに対し、三番叟の舞は五穀豊穣を寿ぐといわれ、足拍子に農事にかかわる地固めの、鈴ノ段では種まきを思わせる所作があり、豊作祈願の意図がうかがえます。式三番のうちでも、翁以上に後世の芸能に影響を与えたとされます。歌舞伎や人形浄瑠璃などに取り入れられ、また日本各地の民俗芸能や人形芝居のなかにも様々な形態で、祝言の舞として残されています。

【安来の清水寺ってどんなお寺なの?】

P8120329.jpg
(不動明王)
P8120335.jpg
(飾りが美しいので、先日の写真、大門です。)
P8120337.jpg
(まだ歩きます。雨だと滑るので気をつけてね。)
IMG_6022.jpg
(此処はもう敷地内ですがまだ登り!杉の太さ半端ないです。)

社寺名称:瑞光山 清水寺(ずいこうざん きよみずでら)  通称 安来 清水寺
宗派:天台宗
御本尊:十一面観世音菩薩(じゅういちめんかんぜおんぼさつ)平安初期の一木造り、島根県指定文化財に指定
創建・開創:尊隆上人 用明2年(587年) 開創
御利益:厄払い、延命長寿の観音様
お祈りの言葉:オン ロケイ ジンバラキリ ソワカ (御真言)
御詠歌:にごらじな きよみずでらに まいるみは こころのうちの つきぞさやけき
代表的宝物・文化財:国重要文化財  根本堂、十一面観音立像、弥陀三尊坐像(三体) 丈六阿弥陀坐像、県指定文化財 三重塔、十一面観音立像、梵鏡ほか


【清水寺の歴史】


用明天皇二年(587)尊隆上人によって開かれました。当時この山は一滴の水も出ませんでしたが、一週間祈願したところ水が湧出し、しかもその水が雨期にも濁ることなく、乾期にも枯れることなく常に清い水を湛えたところから清い水の出る寺、清水寺と命名されたと伝えられています。

ご本尊には推古天皇が瑞夢に厄ばらいの霊験あらたかを感得されたと云われる十一面観音様をお祀りし、ご祈祷をする寺として、厄ばらいの観音様として祟められ、毎年厄年に当たる人たちを中心に信仰を集めています。

早くから朝廷や多くの豪族の信仰を受け栄えてきましたが、盛時には四十八坊を数えたといわれます。一時荒廃しましたが平城天皇の詔勅を仰いで、中興開山盛縁上人が復興に尽くし、大同元年(806年)七堂伽藍を完備しました。中国随一を誇ったといわれます。 承和十四年(847年)十一月、慈覚大師(天台座主円仁)唐留学の帰路、当山に立ち寄り、光明真言の秘法を伝法、これを機に天台宗となっています。残念ながら尼子氏と毛利氏の戦いに巻き込まれ毛利軍によって焼き討ちを受け、根本堂のみを残して全山灰尽となるも、勝った毛利家や、江戸時代に入って松江歴代藩主の庇護を受け、今日の伽藍に再興されました。

山陰随一総欅造りの三重塔は安政六年(1869年)1万人講を組織して和尚二代、大工三代の彼岸の末完成しました。現在も清水寺のシンボルとなっています。また当寺の四季は素晴らしく、特に春の桜・新緑と秋の紅葉は絶景だそうです(私、夏にしかうかがっていません)。

CIMG8976.jpg(私、実はモスおたく、笑…この苔見ただけで来たかいがあったかも、美しさにうっとりです。)

【三斎流茶道と清水寺】

三斎流(さんさいりゅう)茶道をご存知の方は、なかなかおられないでしょう。三斎流は、豊前小倉藩主細川忠興(三斎)を祖と仰ぐ茶道の一派です。三斎の門人である一尾伊織が許しを得て興したので一尾流(いちおりゅう)、三斎流一尾派などとも言われます。現在家元は島根県出雲市にあり庵号を観翠庵、同門組織として九曜会(細川家は九曜紋です)があります。安藤家御家流も一尾流の流れを汲む他、細川三斎流と称する流派があります。

細川 忠興(ほそかわ ただおき)はご存知ですか?戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名です。細川 藤孝(幽斎)を父に、丹後国宮津城主を経て、豊前小倉藩初代藩主。肥後細川家初代となります。足利氏の支流・細川氏の出身で、正室は明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)、室町幕府将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、大坂の陣後に細川氏へ復名しています。元総理大臣の細川護熙さんは細川忠興の末裔に成ります。

参考までに、「明智光秀」山崎での敗北をさとり『勝竜寺城』へ退却す!細川 忠興・玉子(通称細川ガラシャ)のお話も書いています。

足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築来ました。また父・幽斎と同じく、教養人・茶人としても有名で、利休七哲の一人に数えられます。

茶道の三斎流の開祖、細川忠興(三斎)は利休七哲に数えられるほどの達人であり、家中には門人が多くいました。その中でも1000石の旗本で幕府御書院番を務めた一尾伊織は、三斎の家臣の佐藤将監に茶を学び、後に三斎について学んだとされ、許しを得て一派を興しました。一尾伊織の門人には稲葉正喬、米津田賢、高木正陳、舟橋希賢などがいます。

稲葉正喬は駿河守大番頭を務めた7000石の旗本で、この系譜では荒井一掌が松平不昧(出雲松江藩の第7代藩主)と親交が深 く、それにより松江に三斎流がもたらされました。松平不昧は家臣にも三斎流を学ばせますが、不昧自身はさらに石州流を学んで松江藩では現在不昧流と呼ばれる系譜が伝えられることになります。一方で三斎流は松江城鬼門にあたる普門院の住職によって受け継がれ、明治維新後は在家に下り、現在は森山家が伝承しています。

何が清水寺と関係があるのか?なのですが、十一代「得故庵恵教」・安来清水寺蓮乗院住職・観月庵三世 、十二代「制心庵真浄」・安来清水寺蓮乗院住職・観月庵四世 、十三代「花月庵教好」・安来清水寺蓮乗院住職・観月庵五世の三代の家元は清水寺の住職が務めているんですね。

IMG_6021.jpg
(はい、ほぼ全景です。カメラが変わったから、縮小率がおかしいのはご勘弁です。)
IMG_6024.jpg
(本堂前の出雲型狛犬?お寺だけどね~気にしない、来待石かな柔らかそうです。)
IMG_6023.jpg
(本堂で御朱印をいただきます。)
IMG_6025.jpg
(山陰随一の三重塔、実は但馬の養父市にも凄いの有るんだけどね、またご紹介します。)
CIMG8960.jpg
(下から眺めると組み上げがが凄いですね。大山登山の後で、足を引きずりながらここまで来ました(''◇'')ゞ)


いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。

ブログランキングならblogram

リュミエールブラン ネージュ

2017/08/25

御礼第二弾!お腹がふくらんだら、懐もふくらませていただきましょう。『金持神社』

さて、お腹が膨らんだら次は何ですか~~?そうです。懐もふくらませたいですよね~任せてください、一気に大金持ちを目指しましょう。(笑)
そこでご紹介するのは、鳥取県日野郡日野町金持に鎮座する『金持神社(かもちじんじゃ)』です。「金持神社は金運祈願・開運祈願で有名な神社です。

主祭神、天之常立尊(あめのとこたちのみこと)、配神に八束水臣津努命(やつかみずおみずぬのみこと)、淤美豆奴命(おみずぬのみこと) を御祭神とし、国土経営、開運、国造りの神様をお祀りしています。

P8120119.jpg
(どうですか~そこらじゅうに飾ってある高額当選御礼凄いですね。)

開運伝説もある金持神社には多くの参拝客が訪れます。中には参拝し商売がうまくいった、宝くじの一等が当たったなどの開運話が多くあるそうです。金運祈願・開運祈願で有名になった今は、人気のスポットになっています。

いつものそれではの前にもう一つ大事なご報告が有ります。先日、私たちが主催した「馬肉会(ブログオフ会)」がサークルで話題に成りました。出席メンバーも有名ブロガーばかりなので(私は肩身が狭いですが)、本当に有り難いことだと感謝しています。
そしてわざわざスペシャルゲストとして、埼玉から参加してくださったLOCOさんのブログを私がリンクさせていただきます。
LOCOさんのブログは皆さんもご存知ですよね、そうLOCOの 簡単セルフネイルのカリスマブロガーLOCOさんです。私などが申し上げるのもヘンなお話ですが、LOCOさんのブログも私のブログ共々よろしくおねがいします。

それでは、『市郎右衛門』の歴史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
ブログランキングならblogram
👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。

CROOZ




【金持神社(かもちじんじゃ)ってどんな神社?】

P8120131.jpg(人気なのか御水舎も整備されています。)
P8120138.jpg
(はい恒例の長階段です。(笑))
P8120150.jpg
(まだまだ~~~!本当にダイエットしたいよ~~~!)
P8120157.jpg(本殿が見えてきました。)

鳥取県日野郡日野町金持(かもち)に鎮座する、金運祈願・開運祈願で有名な神社です。

主祭神、天之常立尊(あめのとこたちのみこと)は、天地開闢の際、別天津神五柱の最後に現れた神です。独神であり、現れてすぐに身を隠してしまいます。『日本書紀』本文には現れず、『古事記』および『日本書紀』の一書にのみ登場します。『古事記』では天之常立神と表され、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)の後、国之常立神(くにのとこたちのかみ)、『古事記』においては、神世七代の最初の神様に先立って登場します。(簡単に説明すると、日本神話で五番目に現れたえらい神様です。)

天(高天原)そのものを神格化し、天の恒常性を表した神であると考えられています。『先代旧事本紀』では天之御中主神(あめのみなかぬし)と同一の神であるとしています。

旧社格は村社なんですよね~(笑)。創建は810年といわれています。

【金持神社の概要】

P8120147.jpg(その前に久々の出雲駒ちゃんやっぱり風情が有りますね~。)
P8120142.jpg(身構えるように頭を低くして尾を建てる出雲型素晴しい造形です。)
P8120158.jpg(はい本殿に着きました、コンパクトな可愛い拝殿です。)
P8120198.jpg
(樹木で見えにくいですが、綺麗な神殿ですね。周りに御札は珍しいです。)

その縁起のよい名前から、金運・開運祈願の神社として広く信仰を集めています。このため、ジャンボ宝くじ発売シーズンになると参拝者が急増するそうです。(サマージャンボも終わってたから空いてたのかな?)

金持郷は、昔、黄金より勝ると言われた「玉鋼」の産地で、原料の真砂鉄が採れる谷を多く所有し、金具の文字で表されているように、鉄(てつ)のことを金(かね)と読んでいた事から、金の採れる谷を多く持つ郷「金持」と呼ばれるようになったと伝えられています。

810年(大同5年~弘仁元年)出雲国の神官の次男が、伊勢神宮参拝のため、この地(当時は伯耆国日野郡金持郷)を通りかかったところ、お守りとして身につけていた神前の根付の玉石が急に重くなりました。そして、この地に宮造りするよう神夢があったので、宮造りしたと伝えられています。

【金持景藤公が必勝祈願】

P8120096.jpg(今回碑文綺麗に撮れてます。そろそろ慣れてきたかも?)
P8120170.jpg(御由緒と龍神図の説明)
P8120175.jpg(「金持神社だけに」金銀の龍が迫力です。)

この地の豪族、金持景藤(鎌倉時代~南北朝時代)は、1333年、隠岐を脱出された後醍醐天皇を奉じて船上山へと義兵を挙げた元弘の忠臣です。鎌倉幕府討伐の軍に参加し大活躍しました。その際、金持神社に必勝祈願し、神前の戸帳を御旗にしたと伝えられています。京都への遷幸の折には、天皇の右側に名和長年公・左側が金持景藤公で「錦の御旗」を持ち上洛しました。金持大和守景藤公のお墓と伝えられている宝篋印塔が金持地内に現在も残っています。

金持神社の縁起物や、日野町の特産品を販売している、観光物産館 金持神社札所(売店)が、神社近く(国道181号沿い)にあります。

【境内の銘木サワラとチャンチン 】

P8120204.jpg(サワラの木は見つけました。チャンチンはどこに在ったんだろう?)

金持神社境内には、鳥取県銘木100選中、サワラ、チャンチンの2本があり樹齢600年位と云われています。サワラは神社の遷宮の際に屋根のコワ材として利用するために植えられたものと考えられています。チャンチンはセンダン科の薬木で、実は目薬に用い、先人が鉄生産の予防薬として、中国より取り寄せたものと考えられています。 鳥取県内では、このチャンチンの木は、この「金持神社」の銘木1本しか確認されていません。縁起物として、金持箸(350円)や金運招福ケースが販売されていました。

【金持姓のルーツはここだ~!】

P8120100.jpg
(金持姓が何人おられるのかわかりませんが?ここが発祥だそうです。)

日本で一番景気の良い名字の「金持」。その金持姓のもとになった地名がこの地です。歴史は古く鎌倉幕府御家人、金持広親は1205年から守護職として、この伯耆の国を治め、鉄器製造が盛んである地域にふさわしく、国宝・太刀「童子切安綱」で知られる日本最古の刀匠、伯耆安綱を輩出しています。「金持」は「吾妻鏡」などにも記載のある由緒ある名字なんです。
ちなみに、近頃刀剣女子なる刀好きの女性が多いいようですが、「童子切安綱」は清和源氏の嫡流である源頼光が丹波国大江山に住み着いた鬼・酒呑童子の首をこの太刀で切り落としたという伝承から「童子切」の名がついたとされる国宝です。

【開運伝説ももちろんあるよ~!「長谷部信連公の再起」 】

平家物語や源平盛衰記など多くの古書で快男児としてうたわれている長谷部信連公。1180年、後白河法皇の第二皇子の平氏追討計画が事前に発覚、信連公は密かに皇子を宮殿から脱出させ、孤軍奮闘しました。そのため七年間、金持郷に流刑の身となりました。その間に日野町にとって大切な延暦寺、長楽寺、祇園神社などを残しています。平氏滅亡後、源頼朝御家人七人衆の一人として、安芸国宮島の検非違使、能登国の地頭職として山中温泉の発掘等を手がけ、のちに加賀百万石前田家の筆頭家老職(穴水城主)として明治まで続く長氏の始祖となりました。つまりこれも金持郷「金持神社」の開運 祈願がかなったということですね。

P8120162.jpg(最後にもう一度正面から、自分の心とお金に向き合っておきましょう。)




【最後に一言】

現在、長崎県の五島列島沖で国立研究開発法人、情報通信機構(NICT)チームが太平洋戦争後米軍によって五島列島沖に沈められた、旧日本軍の潜水艦を撮影しています。目的は広島に落とされた原爆・リトルボーイの部品を運んだ重巡洋艦インディアナポリスを沈めた潜水艦「伊58」です。
「伊58」の戦果は素晴らしいかもしれません。ただ「伊58」が人間魚雷といわれる、人間魚雷回天を戦線に初めて投入し、第一陣である菊水隊(名前が悲しい)で初めて作戦に使われたことを忘れてはいけません。さらに重巡洋艦インディアナポリスを沈めた部隊では多聞隊(こちらも悲しい名前です)の一艦として「伊58」は呉を出撃し戦闘におよびました。

菊水は後醍醐天皇が楠木正成に菊の紋を与えようとしたところ「畏れ多い」といって半分をみずから水の流れにかえた紋ですし、多門は隠岐に流された後醍醐天皇を待つ間、京都で潜伏していた時に使用していた正成の偽名です。

先日TVのニュースで流れた人間魚雷回天の映像には、確かに菊水の紋が有りました。軍記物語『太平記』には、正成について「智・仁・勇の三徳を備え、命をかけて善道を守るは古より今に至るまで正成ほどの者は未だいない」と書かれていますが、陛下に対する忠勤を戦争に利用するのは、天皇が本来神を祀る最も大きな存在であることを考えると残念でなりません。

いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。

ブログランキングならblogram

リュミエールブラン ネージュ

2017/08/18

男の嫉妬は怖い~!えっまたまた生き返る?「大穴牟遅(大国主)」『大石見神社』

今日のお話は時代が前回より1000年ほどさかのぼります。「古事記」神代のお話です。
皆さん「因幡の白兎」は良くご存じですよね。裸の兎を助けて八上比売(ヤガミヒメ)と結婚した大国主之命、お話はめでたしめでたしで終わるのですが、実は「古事記」ではその後に、怖~い八十神の兄弟たちの恨み節サスペンス劇場が有るんですよ~(-""-;)。面目をつぶされた兄弟達は、みんなで大国主之命を殺してしまおうという計画をたてたのです。

P8120024.jpg(本日紹介する大石見神社車で来たけど入れるかな?)

一度目の計画は、「燃え盛る猪作戦」、猪ならぬ焼石につぶされて殺されてしまった大国主ですが、何と母の愛で生き返ります(驚)
そのお話は以前に「赤猪岩神社」の紹介でお話させて頂きました。


今回は二度目の計画のお話と、其にまつわる、『大石見神社』を御紹介します。

其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいね(人´ω`*).☆.。
ブログランキングならblogram
👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。

CROOZ


【意地悪な姉達ならぬ嫉妬深い兄弟八十神達!】

CIMG6532.jpg(ちょっとおじさんの足が邪魔ですが、白兎神社の砂像「素兎・八上比売・大穴牟遅)

まずは、因幡の白兎の後のお話を簡単にお話致します。八上比売と結婚した大国主之命(大国主と言っていますが、この時はまだ「大穴牟遅」オオナムジと呼ばれています)ですが、嫉妬深い?八十神の兄弟たちの恨みをかってしまいます。兄弟達は、みんなで大国主之命を殺してしまおうという計画をたてたのです。

一行が旅を続けて伯耆の国の手間の山の麓に来た時、兄弟たちは「大国主之命よ。この山には赤い猪がいるというぞ、我々が山の上からそいつを追い落とすからお前は下で待っていて、そいつをうまく捕まえろ。もし捕まえなかったらお前を殺すぞ。(いじめの域はすでに越えていますよね。)」と言って猪の形に良く似た大きな石を、火で真っ赤になるほど焼いて、これを山の上から突き落とします。これを猪だと思った大国主之命は 追いかけていってこれを抱きとめますが、その石に焼かれ死んでしまいます。

CIMG6585.jpg(こちらは南部町「赤猪岩神社」の邪悪な灼熱猪石を封印している巨石です。)

この知らせを聞いた母は嘆き悲しんで、高天原の神産巣日神(かむむすひのかみ)に御子の命を助けて頂きたいとお願いしました。 そこで生成をつかさどるこの神様は赤貝であるさき貝比売(さきがいひめ)と蛤である蛤貝比売(うむがいひめ)とに命じ、大国主之命を治療させて再び命を吹き返させました。

これを見た兄弟たちは、事が失敗したのでまた大国主之命を騙して、深い山の中へ連れて行きました(ひつこいなな~(*´ω`*))。そこで大きな木を切り倒し、木の割れ目にくさびを入れて開いておいて、大国主之命がその割れ目に入った時にくさびを引き抜いて挟み殺してしまいました。 ここでもまた母は泣きながら大国主之命の亡骸を木から取り出して、生き返らせました。

ちなみにここまでのお話については、以前にもブログでUPしましたので、そちらも参考にしてみてください。

①「因幡の白兎」の『白兎神社』で兎焼きが食べたい!
②生物学的に有るわけ無いよ「因幡の白兎」 
③大国主は何度でも生き返る!「甦り」の神社『赤猪岩神社』

そして大国主之命に「お前がここにいると本当に兄弟達に殺されてしまうでしょう。」と紀伊の国の植林の神様である大屋毘古之神(おおやびこのかみ)の元へ逃がします。 ところが、兄弟たちは紀伊の国まで追いかけて矢をつがえて殺そうとしたので、大国主之命は木の下に身を隠し、こっそりと木のまたから抜け出して逃げ出しました。

こうした度重なる危機を見て、母は「お前の祖父(六代前の先祖だったり、義父だったりします)にあたる須佐之男命がいらっしゃる根の堅州国(ねのかたすくに)逃げなさい。そうすれば大神がきっと良い取り計らいをしてくれましょう」と言われましたので、大国主之命はひとりで遠い根の国へと旅立ちました。

【大石見神社ご紹介~~~!】

P8120017.jpg(大石見神社に着いたのですが~と)
P8120019.jpg
(私を拒むかのように突然の雷雨!何かありそうです。)
P8120027.jpg(階段を上り始めると結界が解けたように雨がぴたりとやみました。)
P8120030.jpg(お約束の長階段です。)
P8120034.jpg(神門を通り抜けると少し。)

大石見神社(おおいわみじんじゃ) は、鳥取県日野郡日南町上石見の大倉山南に位置する神社です。大国主之命が二度目の復活を遂げた地と言われ、再生復活のパワースポットとして近年注目を浴びています。大名牟遅(大国主之命)は 南部町の赤猪岩神社での復活の後も、腹違いの兄弟・八十神の嫉妬が和らぐのを大倉山(大蔵山)の麓に隠れて逃れたともいわれます。また八十神の兄弟神に謀られ落命しますが、母神の助けにより二度目の復活をしたとも言い伝えられます。

ここ上石見の地は、八十神が木の割れ目にくさびを入れて開いておき、大国主之命がその割れ目に入った時にくさびを引き抜いて挟み殺した場所ともいわれています。

神社の神紋は「亀甲の中に三つ葉柏」で、柏の葉は春の新芽が出るのを見届けるまで落葉しないことから「復活」にあながち無縁ではないように感じられます。

P8120076.jpg
(到着です。大石見神社!)
P8120046.jpg(拝殿を見守るのは狛犬ならぬ、お狐様?さっきの雨は狐の成せる業か!)
P8120069.jpg(神殿の枕木・鰹木も男神様ですね、大名牟遅神・大国主之命別名・根の国では「葦原醜男」ですよ、笑)

【オハツキタイコイチョウで有名?】

また、境内には樹齢約300年以上とも推定される直径1.5mもの(「オハツキタイコイチョウ」(鳥取m県指定天然記念物の大イチョウ)があり、普通の種子(ギンナン)の他に「御葉付(葉の表面に種子が実る)」や「太鼓(二個組の種子が実る)」といった特徴のある種子をつけることで知られ、全国的に見ても珍しいイチョウです。

P8120083.jpg
(オハツキタイコイチョウまだ身が落ちて居なかったので、どのような物かよくわからなかったです。)
P8120094.jpg(写真が飾ってありました。こんな感じだそうです。変わってますね葉っぱ付き銀杏。)

【物語の真実はどうだ?】

手間山(鳥取県西伯郡南部町)で殺された大国主命は、母親と二人の女神の力により再生しさらに山奥へ逃げます。どこに逃げて行ったのか古事記にはその記載がありません。しかしながら、日野郡誌(1926)に「伝承の地」として記載あるそうですし、南部町の赤猪岩神社と同様の内容が大石見神社の由緒として残っているそうです。怪我が治る処まではほぼ同じ内容です。面白いのは「古事記」にはない八上比売同伴の記載が有るようです。二人でこっそり隠れ住んだのかもしれません。

上石見地区は、日南町の最南で中国山地の盆地にあります。もうあと少しで岡山県です。つまり伯耆国の最も奥地!今はのどかな土地ですが、大名牟遅の頃は昼なお暗いうっそうとした森だったに違いありません。裂いた木の間に挟まれた土地、皆さん納得できないでしょうか?

大岩見神社では、狛犬(こまいぬ)ではなく、キツネ様が、拝殿の両脇で社殿をお守りしています。ここでの大名牟遅は、お稲荷様(農耕神)なのかもしれません。


須佐之男命が治める根の堅州国(ねのかたすくに)、そこで大穴牟遅は正妻と『大国主』の名前を持つことに成りますが、そのお話はまたいつか?あれ!もう話しちゃったかもしれません(爆)



CIMG2282.jpg(須佐乃男祀る出雲、韓竈神社で出会った正にスサノオ30cm~~!葦原醜男の運命はいかに!)


いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ぽちぽち」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。

ブログランキングならblogram

リュミエールブラン ネージュ