2017/06/09

「戦いに生き・信仰に死す」殉教者『高山右近』福者に認定②!

今回は「戦いに生き・信仰に死す」と題して「高山右近」を御紹介します。
今日は、前回とは逆に「戦国武将」としての高山右近を取り上げます。

P6040276.jpg
(「太平記英雄伝」より戦国時代には用いない大鎧に薙刀で床机に座る右近!)


前回とは全く逆の、凛々しい?錦絵から御紹介です。
やはり戦国武将なんですよね~(^^;
余りのイメージの違いに驚かれたかもしれませんf(^_^;

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【高山右近の戦!高槻城主編】

P6040181.jpg(こちらの裏側が本丸辺りに成ります。)
P6040177.jpg(前回も申しましたが。高山右近の時代は城も整備されていません。)

高山氏は摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人領主でした。
出自は秩父氏の一派の高山党の庶流とも甲賀五十三家の一つともいわれています。

父の友照が当主のころには、当時畿内で大きな勢力を振るった三好長慶に仕え、三好氏の重臣・松永久秀にしたがって大和国宇陀郡の沢城(現在の奈良県宇陀市榛原)を居城としていました。

そうした中、右近は天文22年(1553年)に友照の嫡男として生まれます。
永禄6年(1563年)に10歳(数え12歳?)でキリスト教の洗礼を受けたようです。
それはが友照が奈良で琵琶法師だったイエズス会修道士・ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためでした。

永禄7年(1564年)、三好長慶が没すると三好氏は内紛などから急速に衰退し、高山氏の本来の所領がある摂津国においても豪族の池田氏・伊丹氏などが独自の力を強めていきました。

永禄11年(1568年)に織田信長の強力な軍事力の庇護の下、足利義昭が15代将軍となると状況は一変します。
義昭は摂津国の土着領主の一つである入江氏を滅ぼすと、直臣である和田惟政を高槻城に置き、彼と伊丹親興・池田勝正を加えた3人を摂津守護に任命しました(摂津三守護)。
高山父子はこの和田惟政に仕えることとなります。

元亀2年(1571年)、和田惟政が池田氏の被官・荒木村重と中川清秀の軍に敗れて討死し(白井河原の戦い)、まもなくその村重が池田氏を乗っとるかたちに成ります。
村重は信長に接近して「摂津国の切り取り勝手(全域の領有権確保)」の承諾を得ると、三好氏に再び接近した伊丹氏を滅ぼし
、摂津国は石山本願寺が領有する石山周辺(現在の大阪市域)を除き、村重の領有となりました。

和田惟政の死後高槻城はその子・惟長が城主となりましたが、17歳と若年だったため、叔父の和田惟増が彼を補佐することに成ります。
しかし惟長は何を思ったのか、この叔父を殺害してしまいます。

これにより高山家が和田惟長の主だった相談役とりましたが、これを良く思わない和田家臣たちは、惟長に高山親子の暗殺を進言します。
高山家には「惟長は好機があり次第、高山親子を殺すことに決めた」という知らせが届いていましたが、友照はこの事を荒木村重に相談、村重は「もしそうであるなら殺される前に殺すべき、自分は兵をもって援助する。」と言い、惟長の所領から2万石を与えるという書状を与えます。

元亀4年(1573年)3月、惟長は反高山派の家臣と共に、高山父子を話し合いと偽って呼び出しに成功します。
高山父子は仲間から呼び出しが罠だと聞かされていましたが、14~15名の家臣を連れて高槻城へ赴き、待ち構えていた惟長らと斬り合いになります。

夜だった上に乱闘で部屋のロウソクが消えてしまい真っ暗な中、右近は火が消える直前に惟長が床の間の上にいるのを確認、火が消えるとすぐさま床の間に突っ込んで、腕に傷を受けつつも惟長に二太刀の致命傷を負わせました。
だが、騒ぎを聞いて駆けつけた高山の家臣達が加勢すると、そのうちの1人が誤って右近に斬りつけ、右近は首を半分ほども切断するという大怪我を負ってしまいます(半分は言い過ぎ違いますか?)。
およそ助かりそうにない傷でしたが、右近は奇跡的に回復し、一層キリスト教へ傾倒するようになりました。
一方、惟長は輿に乗せられて家族や家臣たちと和田家の生国・近江国甲賀郡へ逃れましたが、同地で死亡します。

この事件の後、高山父子は荒木村重の支配下に入る事になります。
村重は既に信長から摂津一円の支配権を得ていたため、この事件は問題にされることもなく、高山父子は晴れて高槻城主となることができました。
2人はまもなく高槻城の修築工事を行い、石垣や塗り壁など当時畿内で流行しつつあった様式を取り入れました。

P6040265.jpg(西国街道の位置と比べると重要な要害なのが解りますね!側面を突かれると終わりです。)
P6040258.jpg(こちらはかなり新しい江戸中期の高槻城、守りも固くできていますね!)
P6040330.jpg(だそうです(;^_^A、枡形門とは、コの字型に入った敵を三方から攻撃できる防御門です。上の模型でも確認できます。)
P6040331.jpg(桜の根本の石がそうですが、右近は築城の技術にも優れていたようですね。)

【高槻城主変遷】

P6040176.jpg
(全国の城が破却されずに残っていたらどんなに凄いかといつも思います。)

室町時代は入江氏の居城でしたが織田信長に滅ぼされ、その後和田惟政、次いで高山右近が城主と成ります。
天正元年(1573年)からは本格的な城塞が築かれました。
豊臣氏滅亡後は内藤信正が城主となり、以降高槻藩の藩庁として用いられ、内藤氏の後は土岐氏、松平氏、岡部氏、永井氏とたびたび城主が入れ替わりますが、長井氏は十三代を数え廃藩置県を迎えます。

【天下人の影響による畿内動乱】

P6040196.jpg
(もう少し戦国武将としても評価されても良いのではないでしょうか?)

天正6年(1578年)、右近が与力として従っていた荒木村重が主君・織田信長に反旗を翻します(三木の別所氏に呼応する形です)。
村重の謀反を知った右近はこれを翻意させようと考え、妹や息子を有岡城(伊丹市錦絵城跡が残ります)に人質に出して誠意を示しながら謀反を阻止しようとしましたが重村の考えは変わりませんでした。
右近は村重と信長の間で苦悩し、尊敬していたイエズス会員・オルガンティノ神父に助言を求めました。
神父は「信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよ」とアドバイスしたようです。

高槻城は要衝の地(西国街道のそばです)であったため、信長はここをまず落とそうとします。
右近が金や地位では動かないと判断した信長は、右近が降らなければ畿内の宣教師とキリシタンを皆殺しにして、教会を壊滅させると脅迫までします。

城内は徹底抗戦を訴える父・友照らと開城を求める派で真っ二つに別れました。
懊悩した右近は信長に領地を返上することを決め、紙衣一枚で城を出て、信長の前に出頭しました(豊臣秀吉の前に出た伊達政宗ですね)。
村重は城に残された右近の家族や家臣、人質を殺すことはしませんでしたが、結果的に右近の離脱は荒木勢の敗北の大きな要因となりました(後に村重の重臣であった中川清秀も織田軍に寝返っています)。
この功績を認めた信長によって、右近は再び高槻城主としての地位を安堵された上に、2万石から4万石に加増されました。

天正10年(1582年)6月に「本能寺の変」で信長が没すると、明智光秀高山右近中川清秀の協力を期待していたようですが、右近は高槻に戻ると羽柴秀吉の幕下にかけつけました。
まもなく起こった「山崎の戦い」では先鋒を務め、清秀や池田恒興と共に奮戦、光秀を敗走させ、清洲会議ではその功を認められて加増されています。
また、本能寺の変後の動乱で安土城が焼けると安土のセミナリヨ(イエズス会司祭・修道士育成のための初等教育機関、小神学校のこと)を高槻に移転しています。

「賤ヶ岳の戦い」では岩崎山を守るものの、柴田勝家の甥・佐久間盛政の猛攻にあって清秀は討死し、右近はやっとのことで羽柴秀長の陣まで撤退して一命を保ちました。
この件では助かったことで、勝家への内通を疑われ、天正11年5月16日(1583年7月5日)には一時、居城・高槻城を攻められています(多聞院日記)。
その後も「小牧・長久手の戦い」「四国征伐」などにも参戦しています。

秀吉からも信任のあつかった右近は、天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城としました。
しかし、まもなくバテレン追放令が秀吉によって施行されてしまいます。
キリシタン大名には苦しい状況となるが、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、世間を驚かせます。
その後しばらくは小西行長に庇護されて小豆島や肥後国などに隠れ住むが、天正16年(1588年)に前田利家に招かれて加賀国金沢に赴き、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らしました。

天正18年(1590年)の「小田原征伐」にも建前上は追放処分の身のままでありながら前田軍に属して従軍しています。

金沢城修築の際には、右近の先進的な畿内の築城法の知識が大きく役に立ったともいわれます。
また利家の嫡男・前田利長にも引き続き庇護を受け、政治・軍事など諸事にわたって相談役になったと思われます。

慶長14年(1609年)には、利長の隠居城・富山城の炎上により、越中国射水郡関野(現富山県高岡市)に築かれた新城(高岡城)の縄張を担当したともいわれます。

慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康による「キリシタン国外追放令」を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去しました。
長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着しました。
しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに熱病にかかります。
翌年の1月6日(1615年2月3日)に息を引き取ります(享年63)。

P6040283.jpg
(高槻カトリック教会の式場ですか?十字架の光が取り入れられていますね。)
P6040287.jpg
(その一番下にやはり高山右近のレリーフです。)


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2017/06/03

「八岐大蛇」の首を切り落とした「十束の剣」を追って『石上神宮』へ①。

「日本最古」の称号をもつ神社を、三社を一度に参拝できる道、それが奈良「山辺の道」です。
今回は、日本神道の始まりと、原始のままの「神」を今に伝える神社をピックアップして、皆様にご紹介します。

本日御紹介するのは『石上神宮』です。

P5190170.jpg(本当に五月かと思うような暑い日でした。古代の武器庫石上神宮!)

日本神話で「須戔鳴尊」が八岐大蛇の首を切り落とした時、尻尾から出てきた剣が「天叢雲剣(草薙剣)」で『三種の神器(天皇の証)』の一つであることは、皆さんご存知ですよね。

常々私は、後で出てきた(少々不敬なのですが)「天叢雲剣(草薙剣)」より八岐大蛇の首を一撃の元に切り落とした『十束の剣』の方が霊力?が有るのではないか?とブログでも申し上げて来ました。
その十束の剣を祀るのがここ『石上神宮』なのです。

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P5190171.jpg(鳥居ですがうまい具合に紅葉の青葉で扁額が隠れています。)
P5190179.jpg
(布都御魂大神、神剣が神様です。)

【須佐乃男命の大蛇退治復習~!(日本書紀参考)】

高天原(たかまがはら)での悪さが度を越して、高天原を追放された須戔鳴尊(すさのおのみこと)は、出雲の国(島根県)、斐伊川(ひいがわ)上流の鳥髪(現船通山、登山してきました♪)に降り立ちます。

船通山11
(おっさん初めての登山が船通山でした。)

須戔鳴尊が上流へ向かうと、一人の娘を囲んで泣いている老夫婦を見つけます。
二人は脚摩乳(あしなづち)、手摩乳(てなづち)と言い、傍らにいた小さな娘が奇稲田姫(くしいなだひめ)でした。
須戔鳴尊が、泣いている理由を尋ねると、「私たちには、8人の娘がいたのですが、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)がやってきては、毎年娘たちを一人ずつ食べていったのです。そして今年もまた八岐大蛇がやってくる時期がきたので、最後の娘である奇稲田姫も食い殺されてしまうかと思うと悲しくて、涙が止まらないのです」と申します。

須戔鳴尊がその八岐大蛇とは何者だと尋ねると、「一つの胴体に8つの頭、8つの尾を持ち、目はほおずきのように真っ赤であり、体には苔や檜、杉が生え、8つの谷と8つの丘にまたがるほど巨大で、その腹は、いつも血でただれている」と2人は答えました。

その恐ろしい風貌に須戔鳴尊はしばらく考え、「あなたたちの娘・奇稲田姫をわしにくれるなら、八岐大蛇を退治してやろう。お前たちは今からわしの言う通りにするのだ。そうすれば、化け物は必ず退治できる」と切り出しました。
須戔鳴尊の急な提案に脚摩乳、手摩乳は戸惑いましたが、「娘の命が助かるなら」と頷きました。

須戔鳴尊は、退治の準備の前に、まず嫁になった奇稲田姫の身を守るために、彼女を爪櫛の姿に変え、髪にさしました。
そして脚摩乳、手摩乳に、「8回も繰り返して醸造した強い酒を造り、また、垣根を作り、その垣根に8つの門を作り、門ごとに8つの棚を置き、その棚ごとに酒を置いておくように」と指示を出しました。

二人は言われたとおりに準備し、八岐大蛇がやってくるのを待つっていると、そこに八岐大蛇がすさまじい地響きを立てながらやってきました。
そして、8つの門にそれぞれの頭を入れて、がぶがぶと辺り一帯に響き渡る豪快な音をたてながら、酒を飲み始めました。
酒を飲みほした八岐大蛇は酔っ払ってしまったのか、ぐうぐうとすさまじいいびきをかきながら眠り始めました。

その時を待っていた須戔鳴尊は刀を振りかざし、八岐大蛇に切りかかり、体を切り刻み始めたのです。
刀が八岐大蛇の尻尾に差しかかった時、何かが刃先に当たり、中を裂いてみると、なんと剣が出てきました。この剣は、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)で、不思議に思った須戔鳴尊は、姉(天照大御神)にこの剣を献上したと伝えられています。
八岐大蛇を無事退治し、この出雲の地が気に入った須戔鳴尊は、ここに奇稲田姫と住むための宮殿を造ることにしました。
この宮殿を作る最中、雲が立ち上がった様子を見て、須戔鳴尊は歌を詠みます。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(ご)みに 八重垣作る その八重垣を」、これは、日本で初めて詠まれた和歌として神話に残されているのです。

八重垣神社A
(島根県八重垣神社の石碑です。須戔鳴尊絶好調です。)

その後、須戔鳴尊と奇稲田姫の間には多くの子どもが誕生、そのうちの1人、須戔鳴尊の7世の孫が、因幡の白兎でも有名な大国主命(おおくにぬしのみこと)とも言われています。
余談ですが、大国主は須戔鳴尊の娘、須勢理毘売命と結ばれているので、「大国主」は一人ではなく出雲王の称号なのかもしれませんね。

この八岐大蛇を切り刻んだ剣こそ『十束の剣』です。

【十束剣てどんな剣?】

十束剣(とつかのつるぎ)は日本神話に登場する剣で「十握剣」「十拳剣」「十掬剣」など様々に表記されます(同じ一本の剣だとは思えませんね)。
様々な場面で登場していることや、「10束(束は長さの単位で、拳1つ分の幅)の長さの剣」という意味の名前であることから、一つの剣の固有の名称ではなく、長剣の一般名詞と考えられ、それぞれ別の剣であると考えらます。

その中で『石上神宮』に関係が有ると思われる剣を抜粋してご紹介します(近頃女性の間で日本刀ブームが盛んなようですが、こちらはそれら刀とは性質が違うと思います)。

「天之尾羽張剣(伊都之尾羽張剣)」
天照大御神と須戔鳴尊の誓約の場面では、古事記では須戔鳴尊が持っていた十拳剣から天照大御神が3柱の女神を産んでいます(宗像三女神ですね)。

「天羽々斬(あめのはばきり)」最も有名な剣といえますね、八岐大蛇退治の時に須戔鳴尊が使った十拳剣(別名「天羽々斬」です。
羽々とは大蛇の意味)で、八岐大蛇の尾の中にあった草薙剣に当たって刃が欠けたとされます。
この剣は石上布都魂神社(現・岡山県赤磐市)に祭られていましたが、崇神天皇の代に石上神宮に遷されました。
石上神宮ではこの剣を布都斯魂剣と呼び、本殿内陣に奉安され祭られています。

「布都御魂剣(韴霊剣)」
葦原の中津国平定の説話において、「建御雷神」らが大国主の前で十掬剣を海の上に逆さまに刺し、その切先にあぐらをかいて威嚇しました。
この剣は後に神武東征の場面において神武天皇の手に渡る事となります。
そこに、この剣が「佐士布都神」(さじふつのかみ)「甕布都神」(みかふつのかみ)または「布都御魂」(ふつのみたま)という名前であると記されています。
現在は上述の布都斯魂剣と共に、石上神宮本殿内陣に御神体として奉安され祭られています。

P5190193.jpg(綺麗な楼門「重文」ですね~。)
P5190196.jpg(前から見るとこんな感じです。)

【石上神宮御祭神三柱】

「石上神宮」は武門の棟梁である物部氏の総氏神として、当然のことながら?剣を御祭伸としてお祀りしています。

その三柱とは、神武天皇東征の砌、国土平定に偉功をたてられた天剣(平国之剣)とその霊威を「布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)」、古事記・日本書紀に見える国譲りの神話に登場される武甕雷神(たけみかづちのかみ)が用いた剣だそうです。
鎮魂の主体である天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)に宿る起死回生の御霊力を称えて、神体に宿る「布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)」です。

最後は天十握剣(あめのとつかのつるぎ)に宿られる御霊威を称えて「布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)」素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの剣だと伝わっています。
岡山県(なぜ岡山県なのかも面白い疑問ですが?)の「石上布都魂神社」(いそのかみふつみたまじんじゃから)に祀られ、後に崇神天皇の時代、奈良天理市の石上神宮に移されています。

P5190204.jpg
(こちらご神体では無いです。国宝「七支刀」古代の日朝関係を考察できる刀として重要です。)


【石上神宮データ】

所在地:奈良県天理市布留町
社格等:式内(名神大)、二十二社(中七社)、旧官幣大社
神社創建:(伝)崇神天皇7年
本殿の様式:流造
札所等:神仏霊場巡拝の道19番(奈良6番)

【社名別名】

石上振神宮・石上坐布都御魂神社・石上布都御魂神社・石上布都大神社・石上神社・石上社・布留社・岩上大明神・布留大明神
(おいおい!)などがあります。
幕末~明治期には地元で「いわがみさん」と呼ばれていた様です。

なお『日本書紀』に記された「神宮」は「石上神宮(他には伊勢神宮の二つだけ)」です。
つまり日本最古の神社といっても過言ではありませんね。

P5190227.jpg(楼門を少し上から撮影しました。)
P5190237.jpg(上部のみです。綺麗な木組みですね。)
P5190199.jpg(国宝の拝殿です。)
P5190201.jpg(本殿も入れて撮影しました。剣だけに枕木立っています。男神様です。)

長くなってしまいました?
まだ写真が有るので次回お見せしたいと思います。

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2017/05/17

神様以外に誰が投げ入れられる?「三徳山三仏寺」『投げ入れ堂』

鳥取県の三徳山「投入堂」が昨年の鳥取中部地震の影響を受けて、登る事が出来ず見る事が出来なかったようなのですが、安全が確保されて、開山式が平成29年4月18日(火)10時からと決定しました。
開山法要及び、慶雲入峰修行後、一般の方も入山可能となりましたので、皆様にも是非とも御紹介したいと思い、今日は国宝三徳山三仏寺「投入堂」をご覧頂きます。

CIMG15961.jpg(国宝!「投入堂」役行者が投げ入れた伝説があります。)

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【三徳山 三佛寺ててどんなお寺なの?】

山号は三徳山、三仏寺は宗派天台宗の寺院です。
住所は、鳥取県東伯郡三朝町三徳1010



御本尊は、「釈迦如来」「阿弥陀如来」「大日如来」です。

創建年は嘉祥2年(849年)とされ、開基は慈覚大師と伝わっています。

『札所』中国三十三観音霊場31番
伯耆観音霊場29番
中国四十九薬師43番(皆成院)


『文化財』
投入堂(国宝)
文殊堂、地蔵堂、納経堂ほか(重要文化財)

元々は、慶雲3年(706年)に役行者(ここにも役行者が!)が修験道の行場として開いたとされ、その後、慈覚大師円仁により嘉祥2年(849年)に本尊釈迦如来・阿弥陀如来・大日如来の三仏が安置され開山に至ったとされています。

鳥取県のほぼ中央に位置する三徳山(標高900メートル)に境内を持つ山岳寺院です。
古くは三徳山全体を境内としていた様です。
「投入堂」(なげいれどう)の通称で知られる奥院の建物は、垂直に切り立った絶壁の窪みに建てられた他に類を見ない建築物で、国宝に指定されています(これを是非ご覧頂きたいです。)。

伝説では草創の時期や事情についてははっきりわかっていない様ですが、近世の地誌『伯耆民談記』によれば、慶雲3年(706年)、修験道の開祖である役小角が子守権現、勝手権現、蔵王権現の三所権現を祀ったのが始めとされています。

役小角は伝説的要素の多い人物で、この伝承を文字通り信じることはできないのが残念ですが、三徳山(近世以前は「美徳山」と書くことが多いそうです。)は、同じ鳥取県所在の大山や船上山(両方登りましたしブログにUPさせて頂きました。)と同様、山岳信仰の霊地として古くから開けていたことが想像されます。

なお、子守権現、勝手権現、蔵王権現はいずれも奈良県の吉野山(修験道の霊地)に祀られる神です。

前出の『伯耆民談記』によれば、嘉祥2年(849年)慈覚大師円仁が釈迦如来・阿弥陀如来・大日如来の三仏を安置して「浄土院美徳山三佛寺」と号したといわれていますが、この説も伝承の域を出ないものですね(^_^;)。

中世になると、平安時代末期頃までの寺史はあまりはっきりしていないが、現存する奥院(投入堂)の本尊「蔵王権現像」の像内に納められていた文書には仁安3年(1168年)の年記があり、奥院の建物自体も様式上平安時代後期にまでさかのぼるもので、この頃には山岳修験の霊場として寺観が整っていたものと思われます。

中世以降、文書、記録等に「美徳山」の名が散見されるが、「三佛寺」の寺号が文献に現われるのは江戸時代中期以降に成ります。

近世に入って、慶長4年(1599年)には近隣の坂本村(三朝町坂本)のうち百石が三仏寺に寄進され、寛永10年(1633年)には鳥取藩主池田光仲から百石を寄進されます(これらの寺領は幕末まで維持されています)。
天保10年(1839年)には池田斉訓が本堂を再建するなど、近世を通じて鳥取藩主の庇護を受けました。

境内は、石段など一般的な参道によりアクセス可能な山下区域と、険しい登山道(行者道)によってのみアクセス可能な山上区域とに実質分かれています。

本堂裏にかかる宿入橋を境に、これより先は滑落事故の前歴を有する険しい行者道によってのみアクセス可能な山上区域となり、野際稲荷(十一面観音堂)、文殊堂、地蔵堂、鐘楼、納経堂、観音堂、元結耕堂、不動堂、投入堂などが所在します。

なお、山上区域への進入は「8時から15時まで」とされており、当該時間帯以外はもちろんのこと、冬季(12月~翌年3月)および荒天時には進入禁止となります。
加えて、進入に際しては寺側が定める入山手続きを踏む必要があります(結構厳しい約束事が在ります)。

【投入堂って何?勿論知ってるよね】

CIMG15931.jpg(どうやって投げ入れたんだ~?造るっていってもね~!すごいよね。)

奥の院(投入堂)実は、平安時代後期の建立(つまり役行者とは時代が違うんです、残念!)。
国宝指定名称は「三仏寺奥院(投入堂)」となっています。
愛染堂、棟札1枚、古材43点が国宝の附(つけたり)として指定されています。
永和元年(1375年)の修理棟札によると、当時は「蔵王殿」と呼ばれていた様ですね~。

「投入堂」左手奥にわずかに見えるくっついた小さい棟が「愛染堂」です。

当寺の奥の院たる「投入堂」は、前述の険しい登山道(行者道)を登った先、三徳山の北側中腹の断崖絶壁の窪みの中に建てられており、堂の上方は岩壁がオーバーハングしています。
堂が所在する場所は文字通りの絶壁となっており、参拝者は堂を斜め上方に見上げる地点までは立ち入りが出来るが、堂に近付くことは危険なため固く禁じられています。
過去に投入堂に近付こうとして滑落死した人もいるそうです。

投入堂の東(向かって左)には小規模な愛染堂が付属しています。
愛染堂は桁行一間、梁間一間、切妻造、檜皮葺きで、投入堂側の西面に両開きの板扉が設けられています。
投入堂の縁の東端は格子でふさがれており、投入堂・愛染堂間の行き来はできなくなっているそうです。

投入堂の写真から明らかなように、堂の正面・側面のいずれにも入口はなく、特別に許可されて入堂する者は、崖伝いに堂の床下を通って背面から縁に這い上がるしかないそうです。

前記の通り立ち入りが固く禁じられている投入堂であるが、2007年11月14日に約100年ぶりに修復されたことを祝する落慶法要が同堂内に於いて営まれ、その際に約60年ぶりに同堂の一般拝観が許可され、18歳以上の身体健康な約340名の応募者の中から選出された3名が、草鞋に作務衣・輪袈裟姿に着替えた上で、当寺住職・米田良中や当寺境内に構える三徳山皆成院住職の清水成眞などと共に行者道を登って入堂し、同法要に参列しました(凄!)。

日本建築史上他に例を見ない特異な建造物であるとともに、屋根の軽快な反り、堂を支える長短さまざまな柱の構成など、建築美の観点からも優れた作品ですよね。
建造時期については、様式上平安時代後期と言われてきましたが、確実な史料がなく、修験道の開祖、役小角がその法力でもって建物ごと平地から投げ入れたという伝説が語り継がれていたそうです(「投入堂」の名称はこの伝説に由来する)。

【さあ投入堂まで行ってみよう】

投入堂は険しい登山道(行者道)のみによりアクセス可能な山上区域内(区域末端)に所在します。
このため、同堂の参拝には本堂裏手に設置されている登山事務所で入山手続きを済ませる必要があります(受付時間「8:00~15:00」)。

この際、寺側による靴と服装のチェックを受けます。
三仏寺では投入堂への入山はあくまでも観光ではなく修行であるとされていて、三仏寺拝観料とは別にここで入山料(800円)を支払い、入山届に記入した上、貸与された「六根清浄」と書かれた輪袈裟を身につけ、すぐ裏にかかる宿入橋から行者道を登ることになります。
そして下山時には登山事務所でたすきを返納すると共に下山時間を入山届に記入してもらうことで、入山者の下山の確認を行い、不慮の事故に備えています。

投入堂への行者道は非常に険しく、登山に不適当な服装や靴を着用している者は入山を拒否されることがあり、特に女性のスカート姿は厳禁で、スラックスも望ましくないとされています。
また靴では底面にスパイクが付いたものについても、行者道や木の根の損傷防止の観点から、禁じられていました。

寺側では、投入堂の参拝に際し、動きやすい服装に登山に適した靴の着用、更に荷物をリュックサックに纏める等して両手が使える状態にすることを要求していますが、更に手袋(軍手、確か借りられました。)やタオルも準備しておくことが望ましいとされています(私は用意して行ったので問題はありませんでした)。
ここで使用する靴について、寺側では金具の付いていない登山用シューズの使用を推奨していますが、深い溝のついたゴム底を備えた靴であってもOKです。
登山事務所では、登山に適しない靴を履いて来た参拝者のため、草履を販売していました(私は勿論登山靴です。)。
なお、行者道には水分補給のための水場が無く、水筒等の装備も準備しておいたほうが望ましいが、途中トイレも無いため、初めから水分を摂り過ぎるのはよくない点にも注意が必要です。
登山事務所には飲料の自動販売機、トイレが備え付けられています。

以上のように寺側、滑落事故はあとを絶たないため、現在では1人での入山は拒否されている様です(私は一人でもOKでした?記憶違いかなぁ、同じ時間に来られた男性グループと一緒に成ったかも?)。
CIMG1602.jpg
(宿入橋、たどり着けるのか?)
CIMG1590.jpg
(文珠堂!高所恐怖症の方は絶対に無理です。写真の右下の岩が登山道です。)
CIMG1589.jpg(20メートルくらいはありますか?時期も五月だったかと?緑が綺麗です。)
CIMG1587.jpg
(分かるかしれませんが?縁が斜めに下がってるんですよ~涙!)
CIMG1597.jpg(正面観音堂、左半分は元結掛堂?だと思います。)
CIMG1599.jpg(観音堂の向こう登ってきた納経堂です。)
CIMG1592.jpg
(到着~国宝「投入堂」確かに登山というより修行でした。修行した甲斐は勿論ありますよね~美!)

投入堂へ向かう途中には野際稲荷、文殊堂、地蔵堂、鐘楼堂、納経堂、観音堂、元結掛堂、不動堂などが建っています(文殊堂、地蔵堂、納経堂は重要文化財、他は鳥取県指定保護文化財)。
いかにも山岳信仰の中心地らしく、山の麓から投入堂までの道程のうち、特に麓から鐘楼までは、起伏に富んだ自然の山道がほとんど改良されることなく、以前のままの状態で残されているため、非常に過酷な部分が多かったです。
CIMG15955.jpg(一緒に上がって来た大学生に撮影してもらうおじさん~痩せてます(;^_^A)

本堂裏の宿入橋からの高低差200メートル、全長ほぼ700メートルの行程は全て難所と言っても過言ではありません。
ところによっては鉄の鎖やロープ、時にはむき出しになっている木の根だけを頼りにしがみついて、その都度足場を確保しながら登り下りすることになります。
なお、難所は下りの方がはるかに通過困難ですから注意してください。
CIMG1606.jpg(そして、本当の汗と冷汗は此処、有名な三朝温泉の河原露天風呂でさっぱり~鳥取って本当に魅力的です。)

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2017/05/13

阪急沿線七福神を巡る旅「満願」!第七弾「毘沙門天」を奉る『東光院』

さて今回の七福神巡りも今日で満願と成りました。
長々とお付き合いありがとうございました(^人^)。
皆様に少しでも御利益がございます様にお祈り申し上げます。

P4290539.jpg(最初の写真はインパクト!かわいらしい水かけ地蔵様、水をかけながら写真に写したのですが、ひしゃくが入らなかった。)

阪急沿線西国七福神の最後を飾りますのは、「毘沙門天」を奉る、「萩の寺」こと、『東光院』です。

西国七福神は阪急宝塚線沿いに、それぞれ由緒ある各社寺に古くから祀られている神々です。
一年の福徳を願って、集印めぐりをいたしましょう。

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【西国七福神巡りおさらい!】

P4290495.jpg
(一番霊場はこちらですが、完全に逆打ちに成ってしまいました。うるう年じゃ無かったですね?)
P4290558.jpg(こちらが大人?用の満願金杯です。300円ずつ払って印鑑を集めていきます。)

古来より七福神は、民衆の間で厚く信仰され、室町時代から盛んになりました。
神仏の数が七つに決められた経緯は諸説あるようですが、仁王般若経「七難即滅、七福即生」の出典によるというのが有力といわれています。
この七福神をそれぞれおまつりした七つの社寺を巡拝するのが「七福神巡り」ですね。
現在、今日の毘沙門天(東光院)を一番札所(巡りましたのは最後に成りました。
逆打ちに成りましたね~笑!、大阪基準かな?)とし、福禄寿(圓満寺)、大黒天(西江寺)、弁財天(瀧安寺)、恵比寿神(呉服神社)、寿老人(中山寺)、布袋尊(清荒神)が阪急宝塚線沿線の要所々々に鎮座して、多くの参拝者が訪れています。

【毘沙門天てどんな神様?】
元はインドのヒンドゥー教のクベーラ神と言われています。
戦いの神でしたが、仏教に取り入れられてから、福徳増進の神としてしだいに民衆に信仰される様に成りました。
日本では毘沙門天(ヴァイシュラヴァナ)と呼ばれます。

P4290490.jpg(萩の寺毘沙門天王略縁起です。)
P4290562.jpg(顔が欠けているのが残念ですが毘沙門天ですね~!)


毘沙門天(びしゃもんてん、梵名: ヴァイシュラヴァナ、梵: वैश्रवण, Vaiśravaṇa)は、仏教における天部の仏神で、持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神であり、四天王では多聞天として表わされます(知らんかった~(^^;、一人だと毘沙門天なんですね !)。
また四天王としてだけでなく、中央アジア、中国など日本以外の広い地域でも、独尊として信仰の対象となっており、様々な呼び方があります。

戦国武将の上杉謙信(上杉謙信は、自分のことを毘沙門天の生まれ変わりだと信じていました。軍旗にも「毘」の一字をとって使っています。更には、上杉謙信公、毘沙門天の御利益か生涯一度も敗北しなかったのです、凄!)が信仰していた事でも知られていますね。

つまり、福の神・力の神・抜苦与楽の神・として知られる毘沙門天、その御利益はといいますと、出世開運、家内安全、受験合格、病魔退散、常勝祈願、商売繁盛、良縁成就、交通安全と何でもこい状態です(笑)。

東光寺の毘沙門天王は、大阪最古の「西国七福神霊場」御本尊として、多くの人々に出世開運、福徳を授け、才能を与え、その誓願を守護する福神様です。

皆様の願い事が叶いますように、毘沙門天王の福徳ご集印にお参り下さい。

阪急七福神巡りの問い合せ、阪急電鉄交通ご案内センター TEL06-6133-3473
朱印受付時間のお問い合せ七福神会事務局 萩の寺 TEL06-6852-3002

【東光院ってどんなお寺なの?】


「東光院萩の寺」は、天平7年(735)行基開創による曹洞宗別格地寺院です。

P4290422.jpg(東光院の札、大阪に近づくとお寺の看板?もお洒落に成ります。)
P4290525.jpg(萩は秋の花、今は育成中でお庭に入れません。)
P4290474.jpg(多くの歌人の句碑がありました。一番有名な正岡子規「ほろほろと 石にこぼれぬ 萩の露」。)
P4290476.jpg
(雅号の子規はといえば不如帰の異称で、結核を病み喀血した自分を、血を吐くまで鳴くといわれる不如帰にたとえたと言われます。)
P4290455.jpg(多くの歌碑や句碑と青葉の萩の中にお寺が…)


もとは大坂豊崎の里(摂津国西成郡豊崎村下三番、現在の北区中津)にあって、境内に萩多く、通称「萩の寺」として親しまれ、「南の四天王寺、北の東光院」と並び称された格式ある古刹でした。

大正3年(1914)、阪急電車敷設により現在地に移転しました。

永い歴史の中には様々の変遷を経ておりますが、なかでも戦争にはばまれ、移転復興も中途の仮住まいを余儀なくされ、かつての名刹の偉容を知る人も少なくなって久しい時代もありました。
近年境内整備・堂宇再建も徐々に進み、その中で判明した史実も少なからずあります。
そうした点を、ふまえながら、当山の二百余年の歴史を略記します。

【萩の寺の略史】

P4290425.jpg(御由緒)
P4290428.jpg(医薬門、門構えも立派ですね。)
P4290437.jpg(門を入ってすぐにこんなものが在りました。)
P4290440.jpg
(魯山人観音!美味しんぼの世界です笑い。)
P4290449.jpg(折角の萩の寺なのですが、時期が違うので今の時期は牡丹です。また秋の東光院もご紹介できればです。)


奈良時代、行基菩薩による草創。
文化文政期の禅風による中興。
川崎東照宮の承継と道了大権現の再興。
隠岐島のあごなし地蔵尊の遷座。
阪急電車敷設による移転と沿線七福神(西国七福神)霊場の創設。
新西国霊場ご御本尊「こより十一面観音像」の復興。
スリランカ国「アヌラーダプラ仏舎利」迎聖。

さあ!西国七福神巡りいかがでしたか?
頑張れば、一日で満願できますが、無理をなされませんように、神様はお隠れにまりませんからね~。


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2017/05/10

阪急沿線七福神を巡る旅!第六弾「福禄寿」を奉る『圓満寺』

さぁ~そろそろ、西国七福神巡りも満願へ近づいてまいりました

阪急沿線と銘を打って、阪急電車で巡るからには(私は車で回りましたがf(^_^;)、何か良い事が有るのでは?とお思いの皆さんも居られるでしょう。

そうなんです。
実はこんな可愛い七福神の船と神様人形がもらえます(大人仕様?は金杯がもらえるバージョンも有るようです。)。

P4290557.jpg
(宝船ならぬ、宝阪急急行梅田行に乗り合わせた宝電車に可愛い七福神が勢ぞろいします。御朱印とは別に印と人形を集めると阪急の駅で宝電車がいただけます。)

七福神は、福をもたらすとして日本で信仰されている七柱の神ですから、これを集めて飾れば、必ず多くの副が訪れること間違い無しですね♪。

今日は「福禄寿」を奉る『圓満寺』を御紹介致します。

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【圓満寺】



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(曹洞宗圓満寺山門です。)
P4290390.jpg
(延年山圓満寺です。階段の向こうに本堂が見えますね。)
P4290394.jpg
(本堂です。ごく普通のお寺ですけど~笑)
P4290399.jpg
(御本尊の木造漆箔「阿弥陀如来座像」の説明版!)


住所:豊中市蛍ケ池東町1丁目13-12
御本尊は平安後期に造られたと推定される 木造漆箔の「阿弥陀如来坐像」です。
この御本尊、元は宝塚の中山寺にあったものと言われています。

【福禄寿たってどんな神様?】

先ずはおさらい、七福神(しちふくじん)とは、福をもたらすとして日本で信仰されている七柱の神様でしたね。

その中の一柱、「福禄寿」の名前は、「幸福の福・身分をあらわす禄・寿命を表わす寿」の三文字からなり、中国、道教の長寿神です。
南極老人(南極老人って!爆)星の化身であり中国の村や町に住み、人々の信仰を集めたといわれる仙人なのです。
長い頭、長い顎鬚、大きな耳たぶをもち年齢 千歳といわれます(仙人ですからね~、笑)。
長寿、幸福の徳を持ち、鶴と亀を連れて、左手に宝珠、右手に巻物を括り付けた杖をもつ姿が特徴です(私もスマホのストラップに福禄寿の根付を着けております。何かのオマケだったかな?この記事を書くまで、寿老人だと勘違いしてました。鶴が寄り添ってまして、驚!)。
招徳人望の神様として信仰されている他、寿老人と同一神とされることもあり、長寿と福禄をもたらしましす。

P4290407.jpg
(本堂を斜めから、西国七福神集印巡りの看板があります。)
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(西国七福神「福禄寿尊」の看板!)

【圓満寺の歴史はどうなの?】

P4290403.jpg
(本堂の圓満寺の額もなかなかです。)

住職の「伊串善道」氏のお話では、南蛍池の丘に建つ圓満寺は、天平元年(729)に行基菩薩が、この付近の新免の庄を中心に建立した、「金禅寺」という大伽藍(金寺千坊と称す)の一堂の建立を草創としたるを縁起の初めとします。
元は古義真言宗の寺院で、度重なる災禍により焼失し、後年現在の地に再建され、大阪「鳳林寺」四代目であった萬源燈瑞大和尚を招き禅宗「曹洞宗」に改めて「延年山圓満寺」と称することとなりました。

戦国時代の戦乱で焼失した後、麻田藩の初代藩主青木一重がこの地に再建したと伝えられています。
石段を登りきった正面に本堂があります。
秋の紅葉は見事で、特に本堂の左手の石垣に沿った紅葉は見事です(左手は駐車場に成っており、私はそちらから伺いました。)。

P4290384.jpg
(本堂左手の駐車場から登ると景色はこんな感じです。秋には紅葉がとても綺麗そうです(;^_^A)
P4290398.jpg
(鐘楼も普通~~!本当に普通のお寺でした~笑)

また、近年では阪急沿線の七福神めぐりの福禄寿として知られています。

【実は八福神も有るって知ってました~?】

「お多福」
お多福を加えて八福神とするケースがあります。
お多福の起源は、鎌倉時代初期の大工の高次の妻、阿亀(おかめ)らしいのですが、いかにも副が来そうです。
これに女性を表わす舞の面(お多福)や、天之宇受売命のイメージが習合した神です。

「吉祥天」
吉祥天を加えて八福神とするケースも有るようです。
吉祥天とはインドのラクシュミー女神のことで、毘沙門天の妹または妃らしいのですが、幸福・美・富などの神です。

「達磨」
達磨を加えて八福神とするケースも有ります。
達磨は、5世紀頃の人で南インドの王子ともペルシア人ともいわれる高僧で、中国の南朝の宋に渡り極東の禅宗の開祖となった事は有名ですね。
少林寺において坐禅9年、手足が腐って落ちたと伝わります(凄い修行ですね。)。
日本の曹洞宗や臨済宗もその門葉という事に成ります。

「宇賀神(男弁天)」
宇賀神は人間の頭で首から下は蛇という神で、弁財天と習合した日本土着の神です(これは知りませんでした~(^^;)。
こちらを加えて、八福神!。

流石は和国、日本ですね~!
色々な神様に対しても寛大ですね、関西人としては「ビリケンさん」なんかいかがでしょうか?(笑)

さぁ!後一柱、皆様に御利益が有ります様に頑張って、御紹介します(⌒0⌒)/~~


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