2018/06/16

『出雲大社』「荒垣内摂社」で神々と御縁を結ぶ旅!vol②

引き続き荒垣内摂社と建造物を、ご紹介させていただきます。瑞垣内は次回のおたのしみです。



【プロローグ】荒垣内摂社の素鵞社と文庫・彰古館・宝庫をご紹介させていただきます。


出雲大社に車で参拝しますと、参道の西側に大きな駐車場があるのですが、拝殿に向かうにはお土産屋さんが並ぶ細道を神楽殿の方角(北)に歩き、千家家館前・神楽殿前(祓社がありますのでお詣りしてください。)の道路から出雲大社荒垣内に入る事が出来ます。つまり横から入るにもかかわらず、荒垣内の銅鳥居の中に入る事に成ります。

今日は、荒垣内で瑞垣外の拝殿(改めてご紹介させていただきます。) 神祜殿(宝物殿)・収蔵庫・仮拝殿・庁舎以外の荒垣内の建物で、前回ご紹介出来なかった建築物の荒垣内摂社の素鵞社と文庫・彰古館・宝庫をご紹介させていただきます。

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(嫌いな方は申し訳ないのですが無類の蛙好き。無事帰るにかけて拉致被害者の皆さん無事帰れ!)


今更ですが出雲大社建築物の歴史について少しお話しさせていただきます。出雲大社は『古事記』や『日本書紀』の日本神話において特に重要な神社として登場し大国主大神をっ御祭神としています。神話では国譲りの時に神の国の宮殿と同じように太い柱や厚い板で本殿が建てられたと語られています。また平安時期には平安時代には奈良にある東大寺大仏殿を凌ぐ48mのもの高さがあったと記録されています。

現在の境内は江戸時代前期、寛文7年(1667年)の造営遷宮で計画されたもので、今もその時の建物が多く残っています。本殿など瑞垣内のお社はその次の延享元年(1740年)の造営遷宮で建て替えられたものです。今の本殿はかつての半分ほどの高さですが国内最大級の社殿建築であり往時のお社を彷彿とさせる迫力があります。

遷宮はその後、文化6年(1809年)明治14年(1881年)昭和28年(1953年)に行われ、そのたびに本殿をはじめとする諸社殿の修造が行われてきました。平成の修造については、平成20年から8年にわたる「平成の大遷宮」の主事業として行われ平成25年5月10日には本殿遷座祭が執り行われました。

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DSC_0036_2018061613273592c.jpg(出雲国造館千家家です。)
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(「平成の大遷宮」まだ屋根がふさがっている状態。)
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(歴史そのものさざれ石!)
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(銅鳥居の傍には神牛?)
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(そして神馬。)

荒垣内摂社の素鵞社


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(石垣に張り付くように、素鵞社。)

素鵞社(そがのやしろ)は延享2年(1745年)以降に建立され、本殿は出雲大社本殿後方の山際に築かれた石垣の上にあり、素戔嗚尊が祀られています。社殿は延享の造営で建られたもので、この時に立て替えられた出雲大社本殿や御向社、門神社などの寛文造営時に使われていた部材が一部使用されています。社殿の形式は二間×二間の大きさで、切妻造妻入、檜皮葺で、正面東側に階隠しが取り付きます。本殿を一回り小さくしたような形ですが、心御柱がない点が本殿と異なります。

平成の修造では小屋裏などから延享造営時の墨書きが見つかり、素鵞社本殿の製造年月が延享2年(1740年6月など〉とわかった他、建設に神門郡(現在の出雲市南部)の大工が携わって言ってることもわかりました。

文庫


1265987654.jpg(文庫の写真が無かったのでパンフレットから。)

文庫(ぶんこ)は、素鵞社東に立っています。土蔵部分文化年間以前庇(ひさし)部分は文化5年(1808年)の建立されています。もとは現在の彰古館の位置にありましたが、大正元年(1912年)に彰古館建設に伴い移築されました。土蔵の周囲三方(南東西)に木造の平屋(庇と呼んでいます。)が取り付いています。これまで建立年代が不明でしたが修理中に見つかった墨書から庇部分は文化5年(1808年)に建てられたとわかりました。土蔵についても使用されている木材の材質や仕様などから文化年間以前とわかり貴重な建物と判明しました。

彰古館


DSC_0153.jpg(彰古館、正に証拠を残す?)

彰古館は、大正3年(1914年)に、出雲大社の宝物館として造営されています。現在は銅鳥居の右脇に神祜殿(宝物殿)が新設されていますので、あまり目立たなくなっています。彰古館の役割りは、出雲大社に伝わる各種資料を陳列・展示するための建物の様です。館内には「大小の大黒様」、「えびす様の木造彫刻」や、「神楽用の楽器類」、「出雲大社の1/30分のサイズの模型」さらに神社に伝わる古文書類も多数展示されています(拝観料200円)。

宝庫


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(宝庫、宝物を納める為の・・・宝庫。)


宝庫は寛文7年(1667年)に宝物を納める為の建物として((-"-;A ...アセアセ)建立されました。境内の西側北寄りに立っています。建物の壁は、東大寺正倉院と同じ校倉造りに見せかけた断面が三角形の木材を水平に積み重ねる工法となっています。

建物は寛文期のものですが、建立当時は現在地よりやや北東に位置していました。また明治の造営で大規模な修理が行われていたことがわかりました。平成17年(2005年)に屋根葺き替え行ったので「平成の大遷宮」の修理では木部の修理とゆがみの是正などを行いました。

【最後に一言】頑張れ日本!



DSC_0227.jpg(波向こうに願いを込めて。)


近頃、悲しいニュースばかりが新聞紙面を躍っています。「目黒虐待死事件」死亡した女児が遺した、ひらがなだけの”もうおねがいゆるしてゆるしてください”と書かれたノートが日本中に衝撃を与えました。静岡では闇サイトを使った「看護師拉致遺棄事件」、新幹線の安全神話を揺るがしかねない「東海道新幹線殺傷事件」、走行中の東海道新幹線車内で男女3人が刃物で襲われ男性1人が死亡した事件など、どこかおかしいくないか?ということが多いですよね。

それぞれに、対策を真剣に考えなければいけないと思いますが、私的には日本中が喜びに浸れるような良いニュースが新聞を賑やかにすることを期待しています。例えば「阪神タイガース優勝!」オットこれは間違えました、個人的な事ではいけません。「拉致被害者全員帰国」とか、したたかな北朝鮮相手に簡単にはいかないと思いはしますが…、「日本代表ワールドカップ優勝!」本日、朝のスペイン×ポルトガル戦を見た限は、100年は無理と思いましたが…、ああああああああ!やっぱりそう簡単には行かよな~~~!

「夏のボーナス過去最高を更新!どうです?私は夏のボーナスない会社なので関係ないのですが、皆が幸せを感じるムーブメント起こしてくれ~~~!頑張れ日本。

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2018/06/13

『出雲大社』「荒垣内摂社」で神々と御縁を結ぶ旅!vol①

縁を結ぶといえば結婚、出雲大社の結婚式場も兼ねる『神楽殿』と荒垣内摂社の『十九社(東西二社)』 『釡社・氏社(二社)』の五社をご紹介します。



【プロローグ】何故寺社仏閣巡りを始めたのか?


さて、お約束通り『出雲大社』荒垣内摂社をご紹介して行きたいと思います。本来の参拝では拝殿でお詣りし、拝殿裏に回って八足門から本殿にお詣りし、その後に時計と反対回りで荒垣内を本殿を回る様に進み駐車場に戻るのですが、今回のご紹介では先に荒垣内摂社をご紹介して行きながら、最後のクライマックスに拝殿から本殿のご紹介したいと思います。本日は出雲大社の結婚式場も兼ねる『神楽殿』と荒垣内摂社の『十九社(東西二社)』と『釡社・氏社(二社)』をご紹介します。

そもそも、私が寺社仏閣巡りを始めたきっかけは、以前にも書きましたが約8年半ほど前に心を患ったことに始まります。 3ヶ月の入院と4ヶ月の自宅療養を余儀なくされました。会社に復帰はしましたが、やはり其処は居心地の良い場所では無くなっていました。失意の底にあった私に命じられたのは、鳥取県米子市への単身赴任でした。私はそこで一冊の運命的な本に出会うことになります。それは私が「古事記赤本」と呼んでいる『山陰の古事記謎解き旅ガイド(出雲古代出雲王国研究会)』出版定価本体476円+税です。その本によって私は「多くの神社」で神様の存在を知る事に成りました。そして、歴史という長い川の上流へ船を漕ぎ出す事を決意したのでした。

DSC_0265.jpg(二十一年程前に不肖私も行いました。)

当時は、”古事記編纂1300年”に加えて、”出雲大社が60年に一度の遷宮”さらには”20年に一度の伊勢神宮の遷宮”が重なった上に御朱印ブームがそれを後押しする様に寺社仏閣パワースポットブームが巻き起こっていました。

女性の間で盛り上がり始めていた御朱印ブームは私の中にあった歴史好きの「焼けぼっくいに火を付けた」と言っても過言ではありません。そして最初に御朱印帳に御朱印を頂きましたのが、blogシリーズで紹介し続けている出雲大社でした。

ご参考までに、出雲大社での御朱印のもらい方について少し注意をさせて頂きますが、出雲大社では出雲大社公式の御朱印帳はありません。ですから御朱印をもらわれる方は、事前に御朱印帳を用意する必要があります。

当然私もそんなことは知りませんでしたので、近くのお土産さんでで御朱印帳を用意いたしました。その御朱印帳というのが、現在はFacebookでもお友達に成って頂いている、島根県安来市広瀬町の紺屋さん「天野 尚」さんが古事記編纂1300年企画で作成した。本藍型染の御朱印帳でした。

いつもは、御朱印帳及び御朱印をご紹介していないのですが、今回を最初の機会として、できれば随時「寺社仏閣」の御朱印をご紹介していきたいと思います。ただ、お寺については、一寺で数多くの御朱印があるために、全てをご紹介することはできないと考えています。これは神社の御朱印が御神札(神様・神社の御札)の性格を持つのに対して、お寺ではお経を納めた者に対する証として御朱印が押されるからです。出雲大社の出雲大社も23の摂社を持ちますが御朱印は一つです。対して私が度々「弘法市」に通う京都の「東寺」では御朱印だけで九つの種類があります。これは納経した場所(お堂)証となるからでしょう。

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P6130009.jpg(「天野 尚」さんの本藍型染の御朱印帳と出雲大社・但馬一宮出石神社御朱印。)
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(地図を参考にしながら足を進めてください。)
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(祓社の後も御手水でお清めしてください。)

神楽殿で結婚式を上げよう~!


DSC_0044_20180613210250cd0.jpg(神楽殿の文字読めますか?(;^_^A)

神楽殿は本来、千家國造家(出雲大社宮司家)の大広間として使用されており、「風調館(ふうちょうかん)」と呼ばれていました。明治に入り、出雲大社教が設立されてからは出雲大社教の神殿としても使用され、現在では國造家大広間、並びに出雲大社・出雲大社教の神楽殿として御祈祷や結婚式をはじめ様々な祭事行事が執り行われています。昭和56年に出雲大社教が特立100年を迎えた折、現在の神楽殿として規模を拡張して建て替えられました。その大広間は270畳の広さを誇り、神社建築にはめずらしく正面破風の装飾にステンドグラスが使われています。正面の大注連縄は長さ約13メートル、重さ約4.5トンに及びます。この大注連縄は数年に一度、新しい注連縄へと懸け替えられます。そして、神楽殿前庭には高さ47メートルの国旗掲揚塔が聳え立ち、揚げられる国旗は75畳の大きさです。

DSC_0038_20180613210249a37.jpg(正面の大注連縄がとにかく凄いです。正面ではなく西の方向にあります。)

以前説明いたしましたが、出雲国造家は天照大御神の第二御子の天穂日命(あめのほひのみこと)の神裔にあたります。出雲大社の祭祀者である出雲国造家は、南北朝時代に「千家」と「北島」の2家に分裂し、その祭事は幕末までは両家が二分して行っていたが、明治以降から現在までは千家家が執り行っています(島根県の友人は、北島家で結婚式を挙げた方が離婚率が低いと申しています。彼の私見ですのでお許しください)。北島家は出雲大社東に位置して健在です。少し静かで大社の喧騒につかれた方にはお勧めです。

それぞれ大国主大神を主祭神とする宗教団体として、千家家が出雲大社教、北島家が出雲教を主宰しています。出雲大社教との一体化は1951年(昭和26年)4月に出雲大社と教派神道の宗教法人出雲大社教が一体化され、出雲大社の職員は出雲大社教の職員を兼務し、出雲大社宮司は出雲国造として出雲大社教を総攬し、出雲大社教の教務本庁は出雲大社の教務部として活動しています。

荒垣と銅鳥居


DSC_0201.jpg(銅鳥居をくぐると、そこからが境内です。)

荒垣内だ荒垣外だと散々言ってきましたので、どこからどこまでが内側でどこからどこまでが外側だと疑問に思われた方も多いと思います。「荒垣」とは本殿鎮座地の四囲にめぐらした石垣と塀で、大社ではこの内側をいわゆる「境内」としています。簡単に説明しますと囲い(荒垣)が有り囲まれている場所が、当然荒垣内なわけですが通りぬけられる場所があります。それが次で説明する銅鳥居です。

出雲大社の荒垣正門に立つ銅鳥居の建立は寛文6年(1666年)毛利輝元の孫綱広により寄進されたものです。毛利藩の鋳物師「郡司喜兵衛」が長州阿武郡(現在の山口県萩市)で鋳造したものと伝えられています。銅鳥居両柱の銘文には、出雲大社の御祭神や毛利家ゆかりの鳥居のいわれなどが刻まれています。修理に伴う基礎の調査によって銅鳥居の足元は地表に見える大きな石以外に大小をたくさんの石で支えられていることが明らかになりました。銅製の鳥居は全国でも例が少なく非常に貴重な建造物で、国の重要文化財に指定されています。この銅鳥居の中が荒垣内ということになります。

十九社(東西二社)


P5041740.jpg(東十九社この時は神様の到着待ちでした。)
P5041841.jpg(神様の到着を待つ西十九社。出雲大社ならではの建築物です。)
P5041845.jpg(西十九社ですね。)

十九社二棟は建立年代・文化6年(1809年)です。二棟は、瑞垣(本殿を囲む外側の垣根)の東西に向かい合うように建っています。南北約34.5メートルに及ぶ細長い建物です。全国から八百万の神々が集まるとされる神在祭では諸神の宿所となります。他の神社には例のない出雲大社ならではのお社です。修理中に発見された棟札から、文化6年(1809年)に建てられたことがわかりました。十九社では多くの部材にモミの木が使われています。建材にもみの木が使用されることは珍しく、出雲大社でも十九山本の二棟しかありません。当然ですが、国の重要文化財に指定されています。

釡社と氏社(二社)



本日最後の御紹介になりましたのは、釜社と氏社です。釜社(かまのやしろ)と氏社(二棟)はどちらも本殿を正面とし、釜社は東十九社北側に氏社(二棟)は西十九社北側に建てられています。三棟共寛文期に建てられました。どちらも境内で最も古いお社です。三棟は同じ形、同じ大きさの建物ですが、釜社の垂木の数が一本少ないことが異なる点です。修理中氏社の屋根から「東側御向」等と墨書きされた材料が、また釜社からも端垣内の建物にしかない階隠の転用材が発見され、いずれも延享の修理の際に瑞垣内のお社の材料を再利用していることがわかりました。

P5041751.jpg(少し歪んでます?急いでましたのでお許しください。)
P5041753.jpg(宇迦之御魂神を祀る釜社、東十九社のすく北側です。)

釜社の御祭神は、「スサノオノミコト」の子神で「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」です。この御祭神は、食物を司る神様で、全国にある稲荷社の御祭神としても祀られています。「宇迦之御魂神」は女神とされています。この神様は神宮(伊勢)の外宮の主祭神「豊受大御神」や伏見稲荷大社の主祭神「稲荷大神」と同じ御神体です。

11月23日の「古伝新嘗祭(こでんしんじょうさい)」の夜には、この社より御釜を拝殿に移して「御釜神事」が行われます。古伝新嘗祭は、国造の霊力を蘇らせる祭事であるのと同時に、神職が御釜の周りを巡る「御釜神事」によって「五穀豊穣(ごこくほうじょう)」への感謝と来年の豊作の祈りが捧げられるものです。つまり、これらが「釜社(かまのやしろ)」の名前の由来となります。

氏社(うじのやしろ)は境内西側、西十九社の奥に二つの殿舎が北と南に至近距離に建てられています。いずれの社の御祭神も大国主大神と非常に深いかかわり合いのある神様です。

P5041816.jpg(天穂日命を祀る氏社です。)
P5041811.jpg(北の氏社。)

二社のうち北側には、天照大御神の第二子である、「天穂日命(あめのほひのみこと)」が祀られています。この「天穂日命」は、天照大御神の国譲りの使者として出雲の国に来られましたが、逆に大国主大神に言いくるめられて家臣になってしまいます。その後3年間、高天原へ復命しなかったそうです。また「天穂日命」は出雲国造家の始祖であり祖神でもあります。

P5041832.jpg(南の氏社ですね。)
P5041826.jpg(南の氏社、宮向宿彌を祀ります。人が並んでおられるのは本殿神坐正面がこちらに成るからです。)

南側の社には、「天穂日命」の子孫で17代にあたる「宮向宿彌(みやむきのすくね)」が祀られています。「宮向宿彌」は19代天皇から「出雲臣」の姓を頂き、その子孫は出雲大社の宮司家として今日に至っています。

近年になって「氏社」を修理した際、屋根から「東側御向」や「東門神」と墨書きされた部材が見つかりました。これは、延享造営時(1744年)に新築した他のお社の材料を一部利用して補修(解体移築時)したということを意味しています。

このことから、「氏社」の創建は御本殿の造営をした1667年と考えられています。尚、この氏社は2004年(平成16年)7月6日に国の重要文化財の指定を受けています。

【最後に一言】神の伊吹を感じる。



ゴールデンウィーク企画の後に、近頃ずっと出雲大社の摂社巡りの企画で神社ばかりブログにUPしていたので、次は、お寺をご紹介しようか?とかいやいや古墳も有るしお城も有ると悩んで過ごしておりました。

当然の事ですが、旅行は楽しいですし、色々な歴史遺物を見るのは大好きなので、どうしても取材が先行してしまうのです。歴史というのは、川の流れの様な物です。河口の小石を拾い上げても、何処から流れてきたのか調べてみたくなります。

つまりは、きりがないのです。そんな私ですから、一度脱線し始めると彼方此方の方角へ飛んで行きそうに成るに違いありません。ですから、ここはしっかり出雲大社を終わらせようとの結論に至りました。

出雲に出向くと、本当に神々が近くに居られる気がします。出雲大社の瑞垣の回りでは、神々の伊吹が聞こえて来るようです。古代の人々が現在よりもより神々との距離感を身近に感じて事は想定の内ですが、出雲大社ではその距離感を実際に感じることが出来るような気持ちになるのです。

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2018/06/06

「ゴールデンウィーク企画」最終回?は我が村の神社『井田神社』をご紹介します。

「ゴールデンウィーク実家帰省企画」の最期を飾るのは、思いでの詰まった我が村の社『井田神社』です。



【プロローグ】故郷の誇りを確かめに『八幡さん』にお詣り。


今回ご紹介いたしますのは、私の故郷”兵庫県豊岡市日高町鶴岡区”の村社『井田神社』です。前回も申しましたように、鶴岡区は、日高町(市町村合併によって現在豊岡市日高町(旧:城崎郡日高町)の中でも歴史上一番といっても過言では無い大きな地区です(地図をご覧に入れます。)。勿論但馬地方の過疎化によって人口は減ってきてはいますが、平安時代に国府が存在した場所(二度の移動があり二期国府の位置は確定出来ていません。)と、明治以降日高町久斗地区にグンゼ工場の社員寮(女工さんがかなりの人数労働に従事していました。)が有った時期意外は、日高町(旧但馬國氣多郡)最大の人口を誇っていたと思います。

CIMG3119.jpg(顔の修正はしてませんが、区長さんの許可の元撮影してます。でも真ん中はひどい?弟です。笑)

子供の頃は、お詣りに行くというよりはよく遊びに行きました。カブトムシやクワガタムシを取りに行く場所でした。私が初めて徹夜をしてカブトムシを一人で捕獲したのも、この神社でした。要領の良い上級生がいつも私よりも先に行って昆虫を取ってしまっていたので、絶対に欲しかった私にとっては徹夜して暗いうちにチャレンジするしか彼らに勝てる方法はなかったのです。最初に取った一匹はカブトムシの♀でしたがすごく嬉しかったことを記憶しています。

そんな井田神社ですが、古い歴史を誇る神社であるとともに円山川の岸壁という天然の要害を備えた山城「伊福城」という側面も持ち合わせています。今回ネットで地図を探してみたところ神社の裏山そのものが城として存在していたことにが分かり、びっくりしました。

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兎追いしあの頃、「凄いぜ!でかいぜ!」



”兎追いしあの頃”と書きましたが、実際は昆虫追いしあの頃ですね、先日クワガタムシの値段について検索するとミヤマクワガタとノコギリクワガタを比べるとミヤマクワガタの方が高額なのにびっくりしました。井田神社にはミヤマクワガタが以外に多くてノコギリクワガタが少なかったので、ノコギリクワガタの方が値段が高いと大人になるまで思っていました。ノコギリクワガタの顎のラインの美しさに魅了され、今でもノコギリクワガタは上手にスケッチできます。



上の地図は、鶴岡地区の現在の範囲を赤線で囲い表したものですが、いかに鶴岡地区が大きいかお分かりでしょう。実際に人が暮らしているのは円山川の西側と対岸一部なのですが地区が多くの山林を保有しているのは珍しいと思います。

時代を遡ること400年前、戦国時代に豊臣秀吉の弟秀長が但馬征伐(但馬人としては但馬侵略としたいです)の時秀長に味方して、”漫画センゴク”で有名な「仙石権兵衛久秀」や城作りの名人としても有名な「藤堂高虎」などと共に『水生城』を攻略した郷氏一族がいました。その一族は宵田城主の垣屋氏に代わって、但馬国氣多郡のほとんどを褒美として手中にしたと言われています。

その一族は現在も続いており地区のほとんどの土地に関係を持っておられます(つまり大庄屋さんです。)。さて我が家ですが、どちらかと言うと但馬側勢力であったと伝わっています。ただ郷氏一族との関係もあり、古くは婚姻関係も結んでいるようです(江戸初期に二度、我が家から嫁に行っているようです。その理由も調べたいですね。)。

戦国期の但馬は山名氏と山名氏四天王(垣屋・田結庄・太田垣・八木)が支配していましたが、「織田勢・羽柴秀吉軍」が攻撃を始め山名が有子山城(現出石城山城部)から逃れると、羽柴軍に内通するものも出て、毛利支配下の但馬勢力と二派閥に分かれて戦闘に成ります。この隙をつくように美作を抜けて因幡に攻め込んだ秀吉と対峙する事になった「毛利勢・吉川元春」は、但馬に援軍を送りようもなく弟「羽柴秀長軍」が難なく但馬を制圧しています。

伊福城が併設されています(笑)。 


P5052023.jpg(円山川沿いの井田神社参道ですが、車通交止めに成っています。)
0365215594.jpg(伊福城図、井田神社裏山全てが山城ですね。)

次は伊福城概略ですが、山名氏の家臣下津屋氏の居城でした。康正年間(1455年~1457年)頃には下津屋伯耆守、永正年間(1504年~1521年)頃には下津屋新三郎、永禄年間(1558年~1570年)には下津屋安芸守、天正年間(1573年~1592年)には下津屋丹後守の名が城主として知られています。

CIMG0919.jpg(父が新鶴岡橋の工事を撮影していました。手前の山が北西五郭「曲輪4」、奥に見える三連山は須留岐山です。川の岸壁は天然の要害です。)

「伊福城」は円山川に沿って北西に伸びた丘陵に築かれており、登山道が整備されていました。以前は地区の花見を北西五郭(曲輪4)あたりで催すことがありましたが、現在は台風の影響によって登山道が削られることも度々あり、花見なども催されなくなったことで、北西五郭の状況もよく分かりません。

主郭は山頂にあって東西に長く城内で最も広く平坦です。この主郭の周辺に腰曲輪などが付いており、曲輪の切岸も高く明瞭です。主郭の北西側は堀切状の窪地の先に一段の曲輪があり、南東側は竪堀が長く伸びた堀切と、北側のみ竪堀のような感じに落とした二重の堀になっています。また、北東側の山腹に三条の竪堀があり、西の二条はともに深く長く伸びているようです。子どもの頃に神社の裏山に当る城山中を駆けずりまわって遊びました。当時は城山だとは思ってなかったですね~(;^_^A

式内社:但馬國氣多郡『井田神社』



P5052119.jpg(鳥居が新しくなってました19年前長女の宮参り以来です。)

P5052105.jpg(かごの木?なんじゃもんじゃ?)


式内社但馬國氣多郡『井田神社(旧村社)』は主祭神「倉稲魂命(ウカノミタマミコト)」 配祀神に「誉田別命・気長足姫命(ホンダワケノミコト・オキナガタラシヒメノミコト)」を祀っています。                  

倉稲魂命(ウカノミタマミコト)は、『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記されます。名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神です。両書とも性別が明確にわかるような記述はないが、古くから女神とされてきました。『特選神名牒』には、大冝都比賣命(オオゲツヒメ)とありやはり穀物神です。

誉田別命(ホンダワケノミコト)応神天皇(おうじんてんのう)の事です。(仲哀天皇9年12月14日~応神天皇41年2月15日)は、第15代天皇(在位:応神天皇元年1月1日~同41年2月15日)。諱は誉田別尊(ほむたわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけのみこと)。

気長足姫命(オキナガタラシヒメノミコト)神功皇后は『古事記』ではオキナガタラシヒメ命という名で記され、神社ではその名で祀られることが多いです。オキナガとは地名とも長寿の意味とも言われ、タラシは尊称でこの語を名にもつ天皇も多いそうです。第十四代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の后で、八幡神として祀られる第十五代応神天皇の母です。但馬では始祖とも言われる『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」が出石神社に祀れており、神功皇后の祖先としても知られています。

P5052122.jpg
(古い神社は階段が定番。)


創祀は不詳ですが、元々は倉稲魂命を祀っていましたが、嘉祥元年(848)悪疫流行の際、山城国「石清水八幡宮」より誉田別命・気長足姫命の二柱を勧請したと言われています。

山陰本線「江原駅」の北東1.5Kmほどの距離です。国道482号線を進み、円山川にかかる新鶴岡橋を渡って左に戻りと参道入口(鳥居)がありますが、車は通行止め、入口には「式内井田神社」と刻まれた社号標が立っています。車で向かうなら、新鶴岡橋経由上之郷区から井田神社へ向かう山道か、もしくは日置区日置橋から鶴岡区の多田谷経由の迂回路を使わないと行けなくなっています。

社号の井田は「いだ」とも「いた」とも読み、通称は伊福八幡社(伊福は鶴岡、江戸期前の名前です。)です。神社の鳥居は円山川に面しており、川の方向から階段が続き船着場があります。現在の参道が付く前は対岸から船で参拝するのが正式な参拝していました。鳥居(私の知る限り3回作り直され現在は御影石)をくぐり階段を上り、木々の茂った参道を進むと境内です。明治以降の一時期、円山川対岸の楯縫神社が井田神社に合祀されていましたが、昭和二十二年、現在地(対岸日高区)に分離されました。

P5052125.jpg(もう少し、見えて来ました。)
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(初めてカブトムシをつかまえたしいの木です。)
P5052145.jpg(拝殿と神殿は一緒にUPします。)


『播磨国風土記』では、「アシハラシコの黒葛は一条は但馬の気多の郡に、一条は夜夫(養父・ヤブ)の郡に、もう一条はこの村(御方里・おごうり)に落ちたので三条(ミカタ)と云う。」とあり葦原醜男(大国主・アシハラシコ)と天之日矛の土地争いの話が出て来ます。


さらに『但馬故事記(貴重な歴史資料と考えるべきか偽物と考えるべきか?な書物です。)』では、神功皇后2年、気多の大県主の物部連大売布命が亡くなり、その子・物部多遅麻連公武をもって多遅麻国造とする。 多遅麻国造、彦狭知命(職の神)の末裔・楯縫首を召し、矛・楯を作らせ、(式内楯縫神社は現在地ではなく鶴岡字多田谷) 石凝姥命の末裔・伊多首を召し、鏡を作らせたとあります(式内井田神社)。伊多首は鏡造りの祖・石凝姥命(いしこりどめのみこと)事で鋳含(いふく)丘に祀りました。やはり伊福は鋳含から来ているようです。

兵庫県無形文化財”井田大神楽”と四年に一度の大祭り


CIMG3086.jpg(幟を持った村役さんたちです。)
CIMG3088.jpg(続いてお囃子。)
CIMG3108.jpg(御神輿来ました。皆さんへべれけですが、大祭りですから。)
(子どもだんじり、一つの区で出来るレベルは越していると思いませんか?凄いぜ~!)
CIMG0825.jpg
(女の子たちの手踊りですが、雨のため急遽、我が家で踊る事に(;^_^A、30分で準備無理があると思うけどね。)


井田神社大祭(ここでいう大祭四年に一度の事ではなく通常の秋のお祭り)は、鶴岡区の氏神である井田神社に奉納する秋の神事で、五穀豊穣、村内安全を祈願するため江戸初期から始まったと伝えられています。

例年は『大神楽』と「子どもだんじり」だけの奉納ですが四年ごとの夏のオリンピックの歳には区民総出の大祭が行われます(戦中戦後は時節柄、また男手不足から中断していました。私が中学生の1976年モントリオールオリンピックの年に再開されるようになったと記憶しています)。

昔の大祭では、屋台に乗る囃子や三十石船で円山川を渡る雅やかな船渡御(ふなとぎょ)勇壮な馬の早駆けなども行われ、一つの地区の祭としては稀有のにぎやかさでした。現在は、陸渡御(りくとぎょ)のみとなり、旗持ちと大太鼓を先導に神輿が練り歩き、それに続き屋台、囃子、大神楽、子供の手踊り、子供だんじりなどが随行して総勢300人の行列が区内を一日かけて巡行します。

(物語!横暴な獅子がおりました。)
(天狗が獅子の剣を奪って懲らしめようとします。)
(力比べをして、獅子をこらしめる天狗。)
(天狗が勝利して、改心した獅子に太刀を返します。)
(獅子は大変喜んで、豊穣の舞を踊る。伊勢大神楽は、”壬申の乱”の時に大海人皇子「後の天武天皇」が舞った姿を模しているといわれます。)

『井田大神楽』ですが「伊勢大神楽」の流れを汲むと思われ、兵庫県の無形文化財に指定されています。午前中に氏子を廻り「浄めの舞」を舞い、午後2時過ぎに井田神社本殿前で「幣の舞」「天狗の舞」「祇園囃子」「剣の舞」「わくわく」「豆ひろい」「乱獅子」を奉納します。円山川の対岸(左岸)にある楯縫神社と氏子が合併した時期があり、大神楽もかつては一つで、芸態・衣装などよく似ていますがいずれも、約200年前の文化年間が起源と伝えられています。

【最後に一言】三つ子の魂百まで。


子供の頃の思い出は楽しいものばかりでもありません。せっかく捕まえたミヤマワガタを無理やり上級生に買い取られたこともあります。今思えばおかしな感じがしますが、両親は大変怒ってそのお金を私に返しに行かせました。その上私が採った虫までも、上級生にプレゼントしてしまいました。教育者だった両親は、そのようなことにも厳しかったような気がします。

さて今回久々に”お宮さん”を訪れ、やはり故郷はいいなあと感じました。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」と言いますが、離れて生活しているからこそ素晴らしさに気がつきます。父が送ってくれる米や野菜や果物はいつも新鮮で美味しい、これで母が健在でいてくれたらと思う今日この頃です。

厳しかった父も八十歳を超え、少し弱くなったなあと感じるようになりました。そろそろ田舎に帰って面倒を見る日もそう遠くないのかもと考えてしまいます。親不孝をしてきた私、親孝行できる日にも限りが有ると考えると複雑な心境です。ブログを書き終えて、目を閉じると「子供だんじりの太鼓の音」「神楽の笛の音」が頭の中に鮮烈に蘇ってきました、やはり故郷は良いですね。



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2018/05/27

神々を訪ねて『出雲大社・荒垣外摂社』を歩く!「スクープ&祓社」vol⑧

『出雲大社・荒垣外摂社』シリーズは最期の祓社となりましたが、その前にスクープをご紹介いたします。
【速報!特配員報告】
松江市大草町に所在する西百塚山古墳群は、東百塚山古墳群とともに昭和45年に県指定史跡となった県内最大級の古墳群です。島根県教育委員会では、古墳群の実態解明と活用を図るため、平成27年度より調査を実施していました。このたび、古墳群最大の50mクラスの19号墳の発掘調査を実施し、築造時期や墳丘構造などについて、新たな知見を得られたことから、その調査成果を公開するために現地説明会が本日実施されました。 お友達が今日説明会に参加されましたので、ご紹介したいと思います。私のポリシーのフィールドワークに反しますが、埋め戻されると纒向遺跡の様に、ただの原っぱ(たぶん野山)?となるので今回は、お許しください。秋に必ず自分で取材して、再度詳細をご報告いたします。


(トレンチ)

そして長々とご紹介してきました、出雲大社・荒垣外摂社シリーズも最後の一社「祓社」です。大社にお詣り前には御手水前にさらに、こちらで身体のお祓いです。

「祓社」をご紹介したその後は、少し休憩も入れながら(他の話題のブログもUPしながら)出雲大社・荒垣内摂社もご紹介します。

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【西百塚山古墳群の概要】



(古墳だらけですね)

場所は六所神社の前方の山の中に成ります。六所神社は出雲国府跡遺構が境内に残る出雲国総社で、式内論社で意宇六社の一つです(今回の情報を頂いたのも六所神社の宮司さんです。)。”西百塚山古墳群”は、総数250基以上の古墳で構成された島根県最大級の「大草丘陵古墳群」の一角を構成する古墳群です。これまで測量調査や分布調査が行われ、60基以上が確認されています。西百塚山古墳群では、1960年に七曲(ななまがり)古墳に発掘調査が行われて以来、58年ぶりの調査となりました。 19号墳は、平成27~28年にかけて、松江北高校歴史愛好会の測量調査により、径約49mの二段築成の円墳であることがわかりました。 そこで今回は、測量成果をもとに、19号墳の築造時期や墳丘構造、規模などを明らかにするため、発掘調査を実施しました。

Screenshot_20180527-181902 (002)(凄い数です。ここの場所が古代出雲の中心、意宇郡 「おうぐん」なんです。)
Screenshot_20180527-181822 (004)
(49mの円墳とトレンチ「考古学で遺構の所在を確認するために行う試掘調査用の溝」)

19号墳の築造時期は、出土した埴輪から古墳時代中期前葉~中葉(5世紀前葉~中葉)頃であると考えられます。埴輪は、円筒埴輪や朝顔(あさがお)形埴輪の他、蓋(きぬがさ)形埴輪と呼ばれる形象埴輪が出土しました。いずれの埴輪も破片で墳頂部から流れてきたものであると考えられます。 古墳の築造方法として、地山を削り出し、墳丘を成形していることが分かりました。土層堆積状況から削られた地山の土は、墳頂部分に盛土として、利用されていることが分かりました。また、当初想定されていた古墳の外表を飾る葺石は確認されず、葺石を持たない可能性が高くなるなど、墳丘構造の一部を明らかにすることができました。

(埴輪の破片です。)

今回の発掘調査意義 は、西百塚山19号墳は、葺石を持たず埴輪を墳頂部に配置していた可能性が高まりました。西百塚山古墳群の中でも最も高所に位置し、古墳群の始祖的な古墳の様相が判明した意義は大変大きいものです。また、当該期における島根県内の大型円墳の出現と展開について、新たな比較・検討資料が示され、西百塚山古墳群の形成過程や古墳時代の出雲の様相を考える上で重要な資料になりました。 -島根県埋蔵文化センター資料-より抜粋させて頂きました。

(凸凹が全て古墳なんです。)

【今回ご紹介するのは、最後の一社、祓戸四柱神を祀る⑫祓社(はらいのやしろ)です。★がマークされているのは紹介済(全て紹介済です。)】


①★神魂伊能知奴志神社(命主社、いのちぬしのやしろ)・式内社。神産巣日神を祀る。(出雲市大社町杵築東182)

②★阿須伎神社(阿式社、あじきのやしろ)・式内社。大国主の神子の阿遅鉏高日子根神を祀る。(出雲市大社町遥堪1473)

③★大穴持御子神社(三歳社、みとせのやしろ)・式内社。子の事代主神・高比賣命(古事記では下照比賣命)と素戔嗚尊の孫の御年神を祀る。(出雲市大社町杵築東)

④★大穴持御子玉江神社(乙見社、おとみのやしろ)・式内社。子の下照比賣命を祀る。(出雲市大社町修理免字向地920)

⑤★大穴持伊那西波岐神社(いなせはぎのかみのやしろ)・式内社。天穂日命の子で、国譲りの際に事代主のもとに使者として向かった稻背脛命(いなせはぎのみこと)を主祭神とし、白兔神を配祀する。(出雲市大社町鷺浦102)

⑥★上宮(かみのみや)・素戔嗚尊・八百萬神を祀る。神在祭の際、神々の会議所となる。(出雲市大社町杵築北)

⑦★下宮(しものみや)・天照大御神を祀る。(出雲市大社町杵築北)

⑧★出雲井社(いずもいのやしろ)・岐神(ふなどのかみ)を祀る。(出雲市大社町修理免)

⑨★因佐神社(いなさのかみのやしろ)・建御雷神を祀る。(出雲市大社町杵築3008)

⑩★湊社(みなとのやしろ)・櫛八玉神を祀る。(出雲市大社町中荒木)

⑪★大歳社(おおとしのやしろ)・素戔嗚尊の子の大歳神を祀る。(出雲市大社町杵築北)

⑫★祓社(はらいのやしろ)・祓戸四柱神を祀る。参道大鳥居の東側にあり参拝者が前もって身心を祓い清める社。(出雲市大社町杵築東195)

⑬★野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)・参道大鳥居の西側、神苑相撲場の北西にあり相撲の始祖野見宿禰命(第13代出雲國造 襲髄命(かねすねのみこと)を祀る。

【最後にご紹介するのは、祓戸四柱神を祀る。⑫祓社(はらいのやしろ)です。】




P5041558.jpg(祓社はこの地図中鳥居から入って直ぐ右です。)
P5041589.jpg(勢溜の大鳥居)
P5041599.jpg(右の列が祓社の行列です。)
P5041578.jpg(祓戸の神?知りませんでした~!)

祓社は祓戸四柱の神(はらえどよはしらのかみ)をお祀りし、出雲大社に参拝する人々は、まずここで身心を祓い清めます。 祓戸四柱の神とは、瀬織津比咩神(せおりつひめのかみ)、速開都比咩神(はやあきつひめのかみ)、気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)、速佐須良比咩神(はやさすらひめのかみ)です。 こちらは正面下り参道右側ですが、駐車場側から直接お詣りされる方のために、神楽殿前にもお祀りされています。

祓戸大神(はらえどのおおかみ)とは、神道において祓を司どる神です。祓戸(祓所、祓殿)とは祓を行う場所のことで、そこに祀られる神という意味です。神職が祭祀に先立って唱える祝詞である「祓詞」では「伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊祓給ひし時に生り坐せる 祓戸大神等」と言っており、祓戸大神とは、日本神話の神産みの段で黄泉から帰還した伊邪那岐が禊をしたときに化成した神々の総称ということになります。

同時に禍津日神、直毘神、少童三神、住吉三神、三貴子(天照大神・月夜見尊・素戔嗚尊)も誕生していますが、これらは祓戸大神にはふくれません。ここに祀られたいる四神はそれぞれに役目があります

●瀬織津比咩神(瀬織津比売・せおりつひめのかみ)は、もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す。
●速開都比咩神(速開都比売・はやあきつひめのかみ)は、海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む。
●気吹戸主神(気吹戸主・いぶきどぬしのかみ)は、速開津媛命がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・底の国に息吹を放つ。
●速佐須良比咩神(速佐須良比売・はやさすらひめのかみ)は、根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う。

P5041569.jpg
(やはり女性がお詣りしている姿が良いですよね~良き!)

【最後に一言「それでは、出雲大社へ大国主と兎に会いに行きましょうか?」】

P5041610.jpg(神様がお通りになられる中央は歩くのを避けるのですが、この立て札の作戦は良く考えられています。ズームできます?)


改めて出雲王国の凄さを実感していただけましたでしょうか?全体図に方墳が多いと思いませんか、出雲の特徴的な四隅突出墓も方墳です。さらには須佐之男を祀る須賀神社と曽我氏の関係に遠く思いをはせて、石舞台古墳も方墳だななんて考えるわけです?何かしら関係が有ったら面白いとおもうのは私だけでしょうか????ばかり書いてるな~笑。

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2018/05/26

神々を訪ねて『出雲大社・荒垣外摂社』を歩く!最後の三社の予定、「まずは二社・スクープ&祓社へ変更」vol⑦

『出雲大社・荒垣外摂社のご紹介が残り三社に成りましたが、一度にご紹介予定の変更です。 今日は二社』

前回ご紹介したFacebook友人に成って頂いている方からお知らせが届きまた。”【速報】出雲で総数250基以上の古墳群県内最大級「大草丘陵古墳群」本日現地説明会”です。とても行けないけれど、色々あがいてみたところ、快く?「いいよ~」のご返事がありました。友達様々!明日ご報告します。ポリシーのフィールドワークに反するけど、埋め戻されるとこの前の纒向遺跡みたいにただの原っぱ?となるのでお許しください。秋に必ず自分の目で確かめて再度詳細をご報告いたします。

さて次のプロローグです(プロローグに次ぎとかあるのか?笑)。PCもしくはPC版でご覧んの方はアバターが可愛く変化したことに気が付かれましたでしょうか?五十半ばのオジサンにしては可愛すぎる?私を図案化してくださったのは、ブログサークルでお友達に成って頂いている「ウル」さんです。「ウル」さんのブログは子育て情報や工作そして私に書いてくださったような素敵なイラスト満載のブログ「もちもちもっちー(*´ω`*)」です。子育ての悩みも共有できて、面白い工作やイラストで癒される、素敵なブログなので是非訪れてみてくださいね。

ウルさんにキラーパスで以来してくれたのは、もちろん親友のtaka:aさんです。こちらにもありがとう!さらに白内障の手術で皆さんのブログを一週間におよび拝見出来なかった私、こちらももう親友?皆さんもご存知のビー玉さんのブログ名が「おっちょこブログ @ ビー玉の雑記ノート」 に変わっていたのに気づきませんでした。ごめんね~!パワーUPしたビー玉さんのブログも是非ご覧ください。

CIMG2530.jpg(幸の神と記載されています。安来平濱八幡宮・武内神社の塞の神です。)

さて今回、ご紹介させて頂きます二社は、出雲大社の東すぐですが弥山の山裾⑧出雲井社(いずもいのやしろ)・岐神(ふなどのかみ)を祀る。(出雲市大社町修理免)と、国道431と高浜川を挟んだ、④大穴持御子玉江神社(乙見社、おとみのやしろ)・式内社。子の下照比賣命を祀る。(出雲市大社町修理免字向地920)です。 さあ、出雲大社に戻って荒垣外摂社をご紹介しましょう。

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【今回ご紹介するのは、④大穴持御子玉江神社(乙見社、おとみのやしろ)と⑧出雲井社(いずもいのやしろ)・★がマークされているのは紹介済】

①★神魂伊能知奴志神社(命主社、いのちぬしのやしろ)・式内社。神産巣日神を祀る。(出雲市大社町杵築東182)

②★阿須伎神社(阿式社、あじきのやしろ)・式内社。大国主の神子の阿遅鉏高日子根神を祀る。(出雲市大社町遥堪1473)

③★大穴持御子神社(三歳社、みとせのやしろ)・式内社。子の事代主神・高比賣命(古事記では下照比賣命)と素戔嗚尊の孫の御年神を祀る。(出雲市大社町杵築東)

④★大穴持御子玉江神社(乙見社、おとみのやしろ)・式内社。子の下照比賣命を祀る。(出雲市大社町修理免字向地920)

⑤★大穴持伊那西波岐神社(いなせはぎのかみのやしろ)・式内社。天穂日命の子で、国譲りの際に事代主のもとに使者として向かった稻背脛命(いなせはぎのみこと)を主祭神とし、白兔神を配祀する。(出雲市大社町鷺浦102)

⑥★上宮(かみのみや)・素戔嗚尊・八百萬神を祀る。神在祭の際、神々の会議所となる。(出雲市大社町杵築北)

⑦★下宮(しものみや)・天照大御神を祀る。(出雲市大社町杵築北)

⑧★出雲井社(いずもいのやしろ)・岐神(ふなどのかみ)を祀る。(出雲市大社町修理免)

⑨★因佐神社(いなさのかみのやしろ)・建御雷神を祀る。(出雲市大社町杵築3008)

⑩★湊社(みなとのやしろ)・櫛八玉神を祀る。(出雲市大社町中荒木)

⑪★大歳社(おおとしのやしろ)・素戔嗚尊の子の大歳神を祀る。(出雲市大社町杵築北)

⑫祓社(はらいのやしろ)・祓戸四柱神を祀る。参道大鳥居の東側にあり参拝者が前もって身心を祓い清める社。(出雲市大社町杵築東195)

⑬★野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)・参道大鳥居の西側、神苑相撲場の北西にあり相撲の始祖野見宿禰命(第13代出雲國造 襲髄命(かねすねのみこと)を祀る。

【最初にご紹介するのは、④大穴持御子玉江神社(乙見社、おとみのやしろ)・式内社です。】



P5041532.jpg(東から向かうと国道431を左、高浜川を渡ってすぐです。)
P5041549.jpg
(正面から、小さいながらも綺麗な社です。)
P5041541.jpg(説明版もぴかぴかです。)
P5041552.jpg(ン?屋根が変!枕木が縦削りで鰹木が三本、男神様仕様ですね?)

通称は”乙見社”と呼ばれています。祭神は「下照比賣命」ですね、前回”三歳社”でも「高比賣命」として祀られていました。いつもながら神様の名前は難しくて覚えきれません。『古事記』では、高比売命(たかひめのみこと)の亦の名が、下光比売命・下照比売命(したてるひめのみこと)。『日本書紀』では、下照姫。亦の名は高姫、稚国玉。『先代旧事本紀』地神本紀では、下照姫命と成っています。

前出の高比賣命(古事記では下照比賣命)は出雲大社ホームページからの情報で、直上出はWikipediaです(;^_^A。まあしょうがないですね。ひらがなで覚えておいてください。前回もご紹介しましたお話、『古事記』では、大国主神と多紀理毘売命の娘で、阿遅鉏高日子根神(アヂスキタカヒコネ)の妹と紹介されています。『日本書紀』では、顕国玉(大国主)の娘とだけ。『先代旧事本紀』地神本紀では、大巳貴神(大国主)と田心姫命(多紀理毘売命)の娘で、味金且高彦根神の同母妹と紹介されています。

母のタキリビメ(タギリヒメとも)は、日本神話に登場する宗像三女神の一柱ですね。宗像大社では「田心姫神」として、沖ノ島にある沖津宮に祀られています(2017年世界遺産登録)。天照大神と素戔嗚尊の誓約により誕生した「宗像三女神」の一柱で『古事記』では多紀理毘売命、『日本書紀』では田心姫(たごりひめ)・田霧姫と表記されます。別名奥津島比売命(おきつしまひめ)とも呼ばれますが、『日本書紀』第三の一書では市杵嶋姫(市寸島比売・いちきしまひめ)の別名とされています。

神名の「タキリ」は海上の霧(きり)のこととも、「滾(たぎ)り」(水が激しく流れる)の意で天の安河の早瀬のこととも解釈されます。日本書紀の「タゴリ」は「タギリ」が転じたものと考えらています。大国主と多紀理毘売命の結婚は出雲王国が日本海上交通を手中にした証と考えています。神話では海を任された須佐之男の娘が海の神として祀られています。その須佐之男から大国主の名前を名乗る許可をもらった葦原醜男(大国主・出雲国王)が日本海上交通権利も譲り受けたと考えてはどうでしょう。

【次にご紹介するのは⑧出雲井社(いずもいのやしろ)・岐神(ふなどのかみ)を祀る。(出雲市大社町修理免)です。】



P5041511.jpg(弥山の山裾に鎮座!)
P5041525.jpg(出雲は立て札も丁寧でうれしい、けど見つけにくい場所、普通乗用車は無理かもしれません。)
P5041521.jpg(出雲大社を結界で守っているのかもしれませんね。)

出雲井社(いずもいのやしろ)は出雲市大社町修理免にあります。岐神(ふなどのかみ)が祀られています。岐神?あまり聞いたことないですよね~?岐の神(クナド、くなど又はくなとのかみ)、と読みます。古来より牛馬守護の神、豊穣の神としてはもとより、禊、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されています。 日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落(集落)に入るのを防ぐとされています(結界神ですね)。また、久那土はくなぐ、即ち交合・婚姻を意味するものという説もあるようです。

「くなど」は「来な処」すなわち「きてはならない所」の意味です。もとは、道の分岐点、峠、あるいは村境などで、外からの外敵や悪霊の侵入をふせぐ神の様です。東北に滞在していました30年ほど前には集落の教会に人型を形どった藁人形がありましたが、あれ岐神を祀っていたのかもしれません。

道祖神の原型の一つとされ。読みをふなと又はふなどのかみともされるのは、「フ」の音が「ク」の音と互いに転じやすいためとする説がある様です。以下のように、意味から転じた読みが多い。岐(ちまた、巷、衢とも書きます)または辻(つじ)におわすとの意味で、巷の神(ちまたのかみ)または辻の神(つじのかみ)、峠の神、みちのかみとも言われるようです。また、障害や災難から村人を防ぐとの意味で、さえ又はさいのかみ(障の神、塞の神)、さらに「塞ぐ」の意味から転じて幸の神、生殖の神、縁結びの神、手向けの神の意味を併せるところもあります。以前単身赴任していた米子市は塞の神が多く祀られている場所で、米子市と合併した淀江町内だけで60体以上の塞の神がありました。これらの塞の神は自然石に男女の像が彫刻されていることから、特に縁結びの神として信仰されています。

神話では、『古事記』の神産みの段において、黄泉から帰還した伊邪那岐が禊をする際、脱ぎ捨てた褌から道俣神(ちまたのかみ)が化生しています。この神は、『日本書紀』や『古語拾遺』では猿田彦と同神と考えられています。また、『古事記伝』では『延喜式』「道饗祭祝詞(みちあえのまつりのりと)」の八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)と同神であるとされています。

道饗祭(みちあえのまつり、ちあえのまつり)とは、神道祭祀の一つです。上代(おおむかし・上古)から毎年6月と12月の2回、都の四隅道上で、八衢比古神(やちまたひこのかみ)、八衢比売神(やちまたひめのかみ)、久那斗神(くなどのかみ)の3柱を祀り、都や宮城の中に災いをもたらす鬼魅や妖怪が入らぬよう防ぎ、守護を祈願する神事、および神社の祭を行います。四隅を三人で?と思われるかもしれませんが、この四隅は四辻の意味で道路交差点(道がつながる場所、1つの通りまたは路が別のものと交差する合流点。)を意味しています。

「日本書紀」では、黄泉津平坂(よもつひらさか)で、伊弉諾が黄泉国より逃げ帰るとき、「くな=来るなかれ」と、投げた杖が「岐神」となったとされています。「古事記」では、最初に投げた杖から化生した神を衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)としているようです。

治安が安定してくる平安後期以降は、往来に置かれた道祖神は道標(みちしるべ)としての役割を持つようになります。仏教の説く六道輪廻の概念から生じた末法思想を背景に、六道に迷った衆生を救う地蔵菩薩信仰が民間で盛んとなり六地蔵が置かれるようになって行きます。六道(ろくどう、りくどう)とは、仏教において、衆生がその業の結果として輪廻転生する六種の世界(あるいは境涯)のことです。 六趣、六界ともいわれ。 六道には次の分類があります。 天道、人間道、修羅道を三善趣(三善道)といい、畜生道、餓鬼道、地獄道を三悪趣(三悪道)と呼びます。

CIMG2630.jpg(米子市淀江、天神垣神社の塞ノ神、素朴です。こちら本州で唯一の石馬があります。九州北半に集中し福岡の岩戸山古墳等が有名なのですが?)

【最後に一言】


さて今日の一言はどうにもまとまりそうにありません。私は神官でもなければ、僧侶でもないからです(;^_^A。信仰というのは本当に奥が深いものですね~。まだまだ勉強が足りないようです。我が家の仏教宗派は「日蓮宗」です。仏教には勿論神様はいません。仏教は、キリストがキリスト教を始めたのでは無いのと同じように、シャカが仏教を創ったわけではありません。キリストはちょっと変わったユダヤ教徒だったでしょうし、シャカもちょっと変わったバラモン教徒だったに過ぎません。ン?またやらかしましたか?私は仏教はある意味、宗教では無いかもしれないと考えています。他の宗教は神の元へ行くために善行を行う事が義務付けられています。しかし仏教は自分自身が仏陀(悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人を指す)に成るためにどう生きるかが問われます。つまり自分自身と人生論を戦わせる学問だと、私は勝手に考えています。)。

一日、今日の自分はベストに生きられたか?今日がベターなら明日はベストな一日を目指す。それが仏教思想だと考えています(神教のブログ書いてたはずなのに?笑)。今ブログを書いている間も、一呼吸の間ももう二度と訪れない一生涯の瞬間なのです。今を懸命に生きなければ明日も無い!そんな目標を持って一日・一時間・一分・一秒を充実させて人生を送りたいと考えています。『仏陀として覚醒するために!』今日はちょっとおかしいな(爆)

P5041558.jpg(次回はこの地図の中に入って行きます?)

いつも応援ありがとうございます。歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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