2018/02/17

今日だからこそ行っとこ!羽生結弦選手ファンの聖地 『弓弦羽神社』

皆さ~ん平昌オリンピック見てますか~?人気日本選手が中々金メダル取れないので、イライラしてないですか?やっぱりフィギュアスケートの羽生結弦選手に最初の金メダル期待しましょう。昨日ショートプログラム完璧でしたね~ということで今日は朝からこちらの神社にお詣りしてきました。『弓弦羽神社』 です。名前が似ているということで羽生結弦選手の活躍を期待するファンで人気急上昇だそうです。問題は今日のライブ放送、フリーの演技が13:30頃ということで、御朱印をもらうまで待ってられませんでした。お詣りと写真だけ撮って帰宅!我が家から往復一時間程なので助かりました。つまり時間が無いのです(-"-;A ...アセアセ

P2170005.jpg(朝7時ですが参拝に訪れる方もおられました。結構待ちました。笑)

羽生結弦選手ファンの聖地との題名は、御祭神の伊弉册尊と事解之男命・速玉之男命に失礼かもしれませんが、羽生結弦選手なので許してもらえると信じています。 平昌冬季五輪のフィギュアスケート男子で、66年ぶりの連覇の期待がかかる羽生結弦選手と名前が似ていることからファンの間で「聖地」となっている、『弓弦羽(ゆづるは)神社』(神戸市東灘区)には多くのファンが訪れ、「けがを乗り越え金メダルを」などの応援メッセージを記した絵馬を奉納し、その数は1000枚を超えているそうです。本日のフリーの演技を目前に控え、けがからの復活を成し遂げて金メダルを~のファン「神頼み」の思いは、叶うのでしょうか?

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【弓弦羽神社】

P2170080.jpg(拝殿です。失礼ですがイメージしていた物と違って立派な神社です。)
P2170017.jpg(御水舎、水の出口は八咫烏です。)
P2170021.jpg(さすが神戸の高級住宅地、神社に犬の御手水が、笑神社で初めて見た!)
P2170032.jpg(狛ちゃんカッコイイですね~申し訳ないですが阿像だけです。)
P2170047.jpg(矢を持つ八咫烏!いいですね~。)
P2170059.jpg(朝早かったので朝日に照らされて綺麗です。)

弓弦羽神社(ゆづるはじんじゃ)は、兵庫県神戸市東灘区御影郡家にある神社です。旧社格は村社となります。

所在地:兵庫県神戸市東灘区御影郡家2丁目9番27号
主祭神:伊弉册尊・事解之男命・速玉之男命
社格等:村社
創建:嘉祥2年(849年)
本殿の様式:流造
例祭:10月15日

【御祭神】

P2170040.jpg(ご由緒です。)
P2170049.jpg(ちょっとゆず丸君欲しくなりました。)

熊野三山に祀られる神である伊弉冉尊(那智大社)・事解之男命(本宮大社)・速玉之男命(速玉大社)を祀り、「根本熊野三所大神」と総称されています。天照皇大御神・素佐男尊を配祀すると記載されていました。八咫烏をシンボルとしています(ゆるキャラ?ゆず丸君可愛いです)。

IMG_6107.jpg
(これは出雲の黄泉平坂、黄泉の国との境です。)
IMG_6110.jpg
(神跡!ここで伊邪那岐と伊邪那美、別れの場所です。ハデスがペルセポネーを連れ去る場所が世界にありますか~?)

伊弉册尊(イザナミノミコト・那智大社)ちょと珍しい記載方法ですね。

事解之男命(コトサカノヲノミコト・本宮大社)黄泉の国から逃げ帰る「伊邪那岐神」が吐いた唾を掃きはらって生まれたとされる神です(縁切りのシーンですね)。 掃きはらったことで、事物を明らかにし事態を収拾させる神とも、魔を祓う神とも言われています。『伊邪那岐神』、『須佐之男命』と共に全国の熊野神社に祀られている事が多い様です。

速玉之男命(ハヤタマノオノカミ)、速玉男命を紹介するときに決して無視することのできない神様がおられます。それが熊野古道や熊野詣で有名な熊野三山の一つ「熊野速玉(新宮)大社」の主祭神である「熊野速玉大神」です。同一視されてしまうことが多いのですが、熊野速玉大神は伊弉諾尊の別の名前であり、速玉男命とは違う神様であるとされています。ちなみに、速玉男命は日本書紀にしか出て来ません。

しかしながら「熊野本宮大社」で伊弉諾尊とともに祀られている「速玉之男命」は「事解之男命」と同一人物だと思われます。黄泉比良坂で離縁することになった二神、その約束をかためるためにはいた唾(つば)から生れたのが、「速玉之男命」同じですね。『弓弦羽神社』のご由緒には速玉之男命(速玉大社)を祀りとあるので、伊弉諾尊の事かもしれませんね。羽生結弦選手が金メダル取られましたら、お礼参りと共に御朱印も頂き、御祭神「事解之男命」「速玉之男命」「伊弉諾尊」の関係についても聞き取り調査してきます。

【勿論歴史の勉強もちゃんとね】

P2170089.jpg(流造の神殿)

神功皇后の三韓征伐中に筑紫で誉田別尊(ほむたわけのみこと・応神天皇)を出産され、その帰途出産を聞いた麛坂皇子と忍熊皇子が挙兵したことを知り、この地で弓矢・甲冑を納めて熊野大神に戦勝を祈願しました。弓矢・甲冑を納めたということから、当社背後の山を「弓弦羽岳」「武庫山」(後に「六甲山」の字が宛てられた)と呼ぶようになりました。つまり「六甲山」の名前が神功皇后や「弓弦羽神社」の由来に関係するということですね、これは知りませんでした。(驚)

延暦年間(782年 - 805年)に弓弦羽の森が神領地と定められ、嘉祥2年(849年)、社殿を造営し遷座しています。平安中期以降は熊野信仰の隆盛に伴い崇敬を集めました。17世紀に入ると、灘地方で酒造家の創業が相次ぎ、造酒・回船業の氏子を集め繁栄しています。

日本酒の名産地である灘五郷にあり、氏子には造酒メーカーも多いようです。新年に菊正宗、白鶴、剣菱の奉納した樽酒がふるまわれるほか、メーカーの醸造祈願祭も行われています。

【弓弦羽神社とスポーツ】

前述しましたように、弓弦羽神社は八咫烏をシンボルとしている御縁から、日本サッカー協会も同じ八咫烏をシンボルとしていること、また日本初のサッカーチームが近隣の御影師範学校(新制神戸大学教育学部「現・発達科学部」の前身の一つとなった)で編成されたという地縁もあり、境内に御影石製のサッカーボールが設置されていました(寄進はINAC神戸レオネッサとビッセル神戸のようです。)。神戸を本拠地とする女子サッカークラブのINAC神戸レオネッサがシーズンイン前に必勝祈願を行うことでも知られます。

P2170061.jpg(INAC神戸レオネッサとビッセル神戸奉納の八咫烏付きサッカーボール。)
P2170054.jpg(絵馬掛けですが、羽生結弦選手人気凄いですね~。修正してないので拡大禁止です。見えないかな?)

さあここです。フィギュアスケート選手の羽生結弦が、ファンからのお守りで、名前の似た当社の存在を知って2011年7月に参拝したこともあり、とりわけソチオリンピックでの羽生結弦選手の活躍を祈願しての絵馬が多数かけられ、金メダルを獲得した直後には参拝者が20倍になったといわれます(羽生結弦選手さまさま、明日のお礼参りはやめた方が良いかも、笑)。そのこともあり、年々羽生結弦選手を応援する参拝者が増加し、羽生ファンの聖地と呼ばれるようになっており、神社に奉納される絵馬の7割近くが羽生を応援し、必勝祈願をするものだそうです。

【最後に一言】

結果がどうであっても、国民に夢を与えてくれる選手の皆さんには本当に敬意を表したいです。前回のソチオリンピックの羽生結弦選手の演技は正に陰陽師そのもので、鳥肌が立ちましたね(京都の晴明神社も行っといたほうが良かったんじゃないかな)。私的には羽生結弦選手は勿論ですが、パシュートの金メダル期待してます。チームプレイが日本の和の精神を本当に良く表しています。日の丸が真ん中に上がり、君が代が流れると必ず涙が出てしまいます。君が代や日の丸を認めない方もおられるでしょうが、日本国に対する愛と誇りは持っていただきたいと思う市郎右衛門でした。

P2170074.jpg(白梅が綺麗に咲いてました。この梅の花のように、満開に花開け日本選手~~~~!)


スポーツって本当に面白いですよね。4年に一度のオリンピックですしね~(笑)
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リュミエールブラン ネージュ

2018/01/28

「西国三十三観音霊場」番外札所って何だ?『法起院』を訪れてみた。

「西国三十三観音霊場」をバスでツアーすると7番札所「岡寺」と8番札所「長谷寺」の間に必ず『法起院』を訪れるコースが組み込まれていま。

もちろん、日本で一番古い「西国三十三観音霊場」を巡ってみようと考えられる、信心深い方はご存知でしょうが、私のブログはそんな方ばかりがご覧になるわけでもないですし。むしろ歴史や寺社仏閣なんて苦手~と思われる方に是非読んでいただきたいので、出来るだけ分かりやすいように、「西国三十三観音霊場」や『法起院』の魅力をお届けしたいと思います。
CIMG9260.jpg(法起院の山門です。塔頭だけにこじんまりしていますね。)

話は全く飛ぶのですが、先日新聞を読んでいると、春日大社(奈良市)の宝庫で昭和14年に見つかった太刀が、伯耆(ほうき)国(現在の鳥取県中西部)の刀工によって平安時代後期に製作された最古級の日本刀と判明し、同大社が22日(私はブログのオフ会で楽しんでいたのですが)、発表しました。刀身には使用したり研いだりした形跡がほとんどなく、「当時の長寸太刀は現存数が少なく、貴重な資料」に成るそうです。

太刀は無銘ですが、刀身の古さから「天下五剣」に数えられる国宝「童子切(どうじぎり・渡辺綱が酒呑童子の腕を切り落とした刀です)」で名高い刀工「伯耆国安綱」作の可能性もあり、南北朝~室町時代初期に武家から奉納されたと言われます。

太刀の刀身は刃長82・4センチ、反り3センチ、幅3・3~2センチ。昭和14年に宝庫の解体修理の際に天井から見つかった太刀の一振りで、刀身が錆(さび)に覆われていたことから、人間国宝の本阿彌光洲(ほんあみ・こうしゅう)氏に研磨を依頼していました。もちろん刀にもビックリですが、人間国宝の本阿彌光洲(有名な本阿弥光悦とは分家違いのようですが)さん、あの本阿彌家がまだ存続して稼業?を続けていることにビックリでした。刀剣女子の雄たけびが聞こえて来るようです。(笑)


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【西国三十三観音霊場を復習しときましょう】

西国三十三カ所観音霊場巡りの由来は、養老2年(718年)、大和国長谷寺を開山した「徳道上人」が病にて仮死状態になられた際、冥土で閻魔大王に会い、「生前の悪い行いによって地獄へ送られるものが多い故、観音の霊場へ参ることにより功徳が得られるよう、人々に観音菩薩の慈悲の心を説け」とのお告げを受け、起請文と三十三の宝印(仏教寺院で用いる印鑑の一種。宝珠形などの中に、本尊を表わす梵字や真言などが刻んであります。)を授かって現世に戻され、その証拠でもって人々に観音信仰、及びその霊場へ参ることをすすめられました。
徳道上人が極楽往生の通行証となる宝印をお配りになったという場所は、観音菩薩が衆生を救うために示現された霊験所や寺院でした。上人と弟子たちはこの三十三所巡礼を人々に説きましたが、世間の信用が得られずあまり普及しなかったため、機が熟すのを待つこととし、閻魔大王から授かった宝印を中山寺(兵庫県宝塚市)の「石の唐戸」の中に納めました。そして月日がたち、徳道は隠居所の法起院で80歳で示寂し、三十三所巡礼は忘れ去られていきます。

CIMG7777.jpg
(中山寺の石棺が「石の唐戸」?)

徳道上人が中山寺に宝印を納めてから約270年後、花山法皇(安和元年〈968年〉~寛弘5年〈1008年〉)が紀州国の那智山で修行していた折、熊野権現が姿を現し、徳道上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を授けます。

花山法皇は、988年(永延2年)観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった、中山寺で宝印を探し出し、播磨国書写山圓教寺の性空上人の勧めにより、河内国石川寺(叡福寺)の仏眼上人を先達として紀伊国熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し修行に勤め、大きな法力を身につけたといわれます。このことにより、やがて観音霊場を巡る西国三十三所という信仰となり、西国三十三所は日本最古にして、巡礼の元祖となりました。

この花山法皇の観音巡礼が、西国三十三所巡礼として現在でも継承されており、各霊場で詠んだ御製の和歌が御詠歌となっています。花山法皇は、寛弘5年(1008年)2月花山院の東対にて崩御、紙屋上陵(現在の京都市北区衣笠北高橋町)に葬られています。

【今日ご紹介する「法起院」番外札所って何?】

復習の前書きにも出て来ましたが、法起院(ほうきいん)は、徳道上人の隠居所で80歳でお亡くなりになった場所です。奈良県桜井市初瀬に所在し長谷寺の塔頭寺院(すぐ傍)です。宗派は真言宗豊山派。本尊は徳道上人。西国三十三所番外札所です。

うんちく「西国三十三所観音霊場番外札所」とは?。番外札所については、まとまった資料がなく、どれだけあるのかもよくわかっていません。 徳道上人に関係するお寺(今日ご紹介の「法起院」)、中興の祖、花山法皇と関係の深いお寺、更にはお礼参りの長野県「善光寺などが、有名な番外札所となります、菩提寺、元慶寺、法起院の3つが有名ですが、その他にもあるようです。

CIMG7451.jpg(番外札所「東光山 花山院 菩提寺」 )
CIMG0900.jpg
(番外札所「荒陵山 四天王寺 」の満願供養塔!)

「東光山 花山院 菩提寺」 兵庫県三田市尼寺352番地
「華頂山 元慶寺」 京都府京都市山科区北花山河原町13
「豊山 法起院」 奈良県桜井市初瀬776番地
「熊野妙法山 阿弥陀寺」 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町南平野2270-1
「荒陵山 四天王寺 金堂」 大阪府大阪市天王寺区四天王寺1-11-18
「比叡山 延暦寺 根本中堂」 滋賀県大津市坂本本町 4220
「高野山 金剛峯寺 奥之院」 和歌山県伊都郡高野町高野山132
「東大寺 二月堂」 奈良市雑司町406-1
「特別名跡 五百羅漢 壺阪山 奥之院」 奈良県高市郡高取町壷阪3番地
「天竺渡来 大観音石像 壺阪山」 奈良県高市郡高取町壷阪3番地
「定額山 善光寺」 長野県長野市長野元善町491

webで調べると11寺が発見できました。私は半分の6寺院にお参りしているようです。

【「法起院」について学ぼう】

開山堂(本堂):地奈良県桜井市初瀬776
宗派:真言宗豊山派
寺格:長谷寺塔頭
本尊:徳道上人
創建年:伝・天平7年(735年)
開基:伝・徳道中興年元禄8年(1695年)
中興英岳正式名:長谷寺 開山坊 法起院
札所等:西国三十三所番外
御詠歌:極楽は よそにはあらじ わがこころ おなじ蓮(はちす)の へだてやはある

CIMG9261.jpg(ご由緒書き)
CIMG9262.jpg(徳道上人の廟と伝えられる十三重石塔が見えますか?)

寺伝によれば奈良時代の天平7年(735年)に西国三十三所を創始したと伝えられている徳道がこの地で隠棲した事に始まるとされます。徳道は晩年、境内の松の木に登り法起菩薩となって遷化したと言われています。当院の名称はそれに由来します。境内には徳道の廟と伝えられる十三重石塔があります。

CIMG9263.jpg(説明札の手前の石が法起菩薩となる前に草鞋を脱いだ石だそうです。そういえば草鞋が付いているようにも見えますね。)

江戸時代前期の元禄8年(1695年)長谷寺化主の英岳僧正が寺院を再建し、長谷寺開山堂としました。

【最後の一言】

バスツアーでまわると、先達さん(西国三十三観音霊場を何度も巡られた先輩です)のお話など、とても勉強に成って面白いのですが、そこはやはりツアーなりのルール(時間が足りない等)があります。ゆっくりとお参りするなら自分で行った方が良いかもしれませんね?しかしながら「旅は道連れ世は情け」の言葉もございます。偶然お隣に成った方ともお話も面白いですし、一番札所の青岸渡寺等は自分で運転して行くなどと思うと東京の方が楽じゃない?と思えるところでした。お値段もお安いですし、ほどほどお弁当も美味しいですので、ご利用されるのもよいかと思います。私はもう一度位ツアー利用しようと考えていますよ。(笑)

CIMG9264.jpg
(タラヨウ・手紙の木、奥の木です。)


うんちく『多羅葉』、本州静岡以西~九州、中国、四国に分布します。関東にも植樹されていることがあります。雌雄異株で、花期は4~5月頃、4mmほどの小さな淡黄緑色の花が群れて咲きます。秋には8mmほどの小さな球形の赤い実がなり、葉は肉厚で20センチほどもある長楕円形をしており、その縁は鋸のように細かいきざぎざとなっています。日本では葉の裏面に経文を書いたり、葉をあぶって占いに使用したりしたため、その多くは寺社に植樹されています。また、葉の裏面を傷つけると字が書けることから、郵便局の木として定められており、東京中央郵便局の前などにも植樹されています。

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リュミエールブラン ネージュ

2018/01/24

日本三景「天橋立」を見ながら、西国三十三所第28番札所『成相寺』を訪ねよう。

今日ご紹介するのは、西国三十三観音霊場第28番札所『成相寺』です。記事が多くなってくると、ご紹介したのか?記憶が確かでなくなってきます(確か松傘公園は紹介しましたね)。「成相寺」へは、丹後一ノ宮の「籠神社」裏手のケーブルを使って、松傘公園まで登り、そこからは徒歩(マイクロバスも有ったのですが)で、運動がてら家族で訪れました。

これが結構距離があり、山菜等を子ども達に教えながら、トレッキング気分でお参りしました。丹後国分寺跡方面から車で行くことも出来ますが、せっかくならと橋立を眺めて、徒歩で向かいました。

P4160192.jpg(左甚五郎の真向いの龍のインパクトで勝負です。笑)

もちろん松傘公園では又覗きを楽しみ、日本三景を堪能しました。

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【天橋立、又覗きイグノーベル賞を受賞】

P4160109.jpg(次女が又覗きしています。もちろん私もしましたよ。カラス飛んでますね~笑)

そりゃ絶景ですわね、日本三景なのですから、又覗きの台が有りまして、勿論チャレンジしました。今のカメラは凄く賢くて逆さに撮影しても修正してくれてます。又覗きの意味が全く無い~f(^_^;って事です。(爆)

因みにこの又覗きに関連して、イグノーベル賞を受賞しているって知ってました?立命館大学文学部の東山篤規教授が、「 光学的・身体的変換視野の効果(股のぞき効果)」 に関する研究で、第26回イグノーベル賞知覚賞を受賞されました。前かがみになって股の間から後ろ方向にものを見ると、実際より小さく見える事をを実験で示した研究に対して受賞されて居ます。だからどうなんだっていわれましても、イグノーベル賞自体そんな賞ですからご理解下さいねm(__)m

『うんちく「イグノーベル賞」』イグノーベル賞(イグノーベルしょう、英: Ig Nobel Prize)は、1991年に創設された「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」に対して与えられるノーベル賞のパロディーです。1991年、ユーモア系科学雑誌のマーク・エイブラハムズ(英語版)編集長が廃刊の憂き目に遭いながらサイエンス・ユーモア雑誌『風変わりな研究の年報』 (Annals of Improbable Research)を発刊する際に創設した賞であり、面白いが埋もれた研究業績を広め、並外れたものや想像力を称賛し、科学、機械、テクノロジーへの関心を刺激するためと始まりました。

毎年9月もしくは10月に「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」や風変わりな研究、社会的事件などを起こした10の個人やグループに対し、時には笑いと賞賛を、時には皮肉を込めて授与されます。このようにインパクトのある斬新な方法によって、脚光の当たりにくい分野の地道な研究に、一般の人々の注目を集めさせ、科学の面白さを再認識させてくれるという貢献に繋がっています。日本は、カラオケやたまごっち、バウリンガルといった商品も受賞している常連国です。

【成相寺のあらまし】

P4160131.jpg(到着~妻と長男・次女、長女はアルバイトでした。)
P4160133.jpg(成相寺ご由緒)
P4160117.jpg(「籠神社」裏手のケーブルを使って、松傘公園まで登り、そこからは徒歩)

本題に戻ります。成相寺(なりあいじ)は、京都府宮津市にある真言宗の寺院です。山号は成相山、西国三十三所第28番札所に成っています(御朱印集めをしている私にとっては是非ともお参りせねばならない寺院でした)。本尊は聖観世音菩薩で、境内から日本三景のひとつ天橋立が一望できます。

本堂所在地:京都府宮津市成相寺
山号:成相山宗派真言宗単立
本尊:聖観世音菩薩
創建年:(伝)704年(慶雲元年)
開基:真応上人
別称:成相観音
札所等:西国三十三観音28番
文化財:絹本著色紅玻璃阿弥陀像・鉄湯船ほか(重要文化財)
本堂・鎮守堂・成相寺参詣曼荼羅ほか(府文化財

【成相寺歴史】

P4160138.jpg(山門ですが、車やバスですと通り過ぎてしまいます。素敵な仁王様が迎えてくださいます。別名橋立観音!)

寺伝によれば704年(慶雲元年)、真応上人の開基で、文武天皇の勅願寺となったといわれますが、中世以前の寺史は良く解っていません。2007年(平成19年)、高野山真言宗から独立し、真言宗単立寺院となっています。

寺は天橋立を一望する成相山(569m)の山腹にあります。創建時は山のさらに上方に位置し、修験の道場となっていました。現在地に移ったのは1400年(応永7年)の山崩れ以降のようです。山号は古くは「世野山」と称し、雪舟の『天橋立図』(京都国立博物館蔵、国宝)には、「世野山成相寺」の書き込みとともに寺が描かれています。

p352846.jpg(雪舟の『天橋立図』(京都国立博物館蔵、国宝)には、右上「世野山成相寺」分かりますか?)

【寺名の由来と撞かずの鐘の伝説】

P4160166.jpg(最後の階段です。)
P4160176.jpg(本堂ですね。中に入ると奥に秘仏聖観世音菩薩の厨子があり、甚五郎の龍も睨んでます。)

真応上人が霊地を求め諸国を旅していたが、この地の風景に惹 かれて庵を結び修行していたところ、慶雲元年(704年)のある 日、老人が現れ観世音菩薩像を置いて立ち去りました。上人はこの像 を安置するための堂を建てたのが寺の創始とされています。 大雪の続いた冬のある日、食べ物はなくなり上人は餓死寸前となりましたが、そこに一頭の傷ついた鹿が現れます。肉を食べてはなら ないという戒律に心は揺らぎますが、命には代えられず、その鹿の肉を煮て食べました。上人は食べてから、鹿の肉と思ったのは本尊の腿の木 片であることに気付き、観世音菩薩が身代わりになり助けてくれたことを知ります。 上人は喜び、木片を観世音菩薩の腿につけると像は元通りになったといわれます。これが成相(合) 寺の寺名の由来とされている伝説です。

鹿が出る話、割と良くあるようです。鹿の角は冬落ちて春に生え変わる事から、再生をイメージするようです。絵画銅鐸にも鹿は題材として出て来るようですが、食料よりも呪術の利用として捕らえられたようです。食料用はは猪が多いです。

慶長十四年(1609年)、お寺で新しく鐘を作ることになり、 村人から寄付を募りました。 一回、二回と鋳造に失敗し、三回目の寄進を募ったとき、 ある長者の妻はお金の代わりに自分の子供を寄進すると言って、寄付を断りまし た。 やがて鋳造の日、人々が見物に集まりました。 その中に例の長者の妻も子供を抱えて見物をしていました。 ところが長者の妻は誤って 煮えたぎるルツボの中に我が子を落としてしまったのです。 このような悲劇もありましたが出来上がった鐘は美しい音色を響かせていまし た。 しかし耳を澄ますと子供の泣き声のように聞こえたそうです。 人々はあまりの哀れさに子供の成仏を願って一切この鐘を撞くことをやめ、 それ以来「撞かずの鐘」と呼ばれるようになりました。
《成相寺ホームページより》

P4160164.jpg(撞かずの鐘のご由緒)
P4160162.jpg(撞かずの鐘、鐘楼です。次になるのは91年後ですかね~?)

成相寺の撞かずの鐘が400年ぶりに撞かれたニュースを見つけました(2011年8月の京都 新聞です)。400年の時を越え 伝説の鐘が響く 宮津・成相寺で「撞かずの鐘供養」(宮津市成相寺) 日本 三景・天橋立近くにある 宮津市成相寺の西国第28番札所・成相寺で11日、 「撞(つ)かずの鐘供養」が行われた。 鋳造時以来約400年間、突かれることがなかった伝説の鐘が1日だけ復活、 境内一帯に時を超えた音を響かせた。 寺伝によると、江戸時代の初めに新鐘を鋳造。 乳飲み子が銅湯のルツボに落ちたまま完成した鐘を鳴らすと、 子どもの泣き声が聞こえたため、その成仏を願って突かれなくなった、とされる。 今回、開山1300年の記念行事の一環として、 供養と鐘本来の時を告げる役目を再現しようと鐘突きが実現した。 この日午後、石坪昭真住職ら11人が参道脇の鐘堂前で読経。 この後、板張り、密封された堂内の鐘を 僧侶らが中に入って交代で打ち鳴らした。 午後2時半に2回、3時に3回、4時に4回、5時に5回。 「ゴーン」という鐘の音が周囲の山間にこだまし、 詰めかけた多くの参拝者や観光客らも静かに手を合わせていた。 この鐘は12日から再び100年間封印され、「撞かずの鐘」に戻る。
《2011年8月12日の京都 新聞より抜粋》

【成相寺の秘仏】

本堂は1774年(安永3年)の再建されています。堂内には中央の厨子内に本尊の聖観音(しょうかんのん)像、向かって左に地蔵菩薩坐像(重要文化財)、右に千手観音立像を安置します。本尊は33年に一度開扉の秘仏で、近年では2005年(平成17年)に開扉されました。なお、西国三十三所観音霊場の中興の祖とされる花山法皇の一千年忌を記念して、2008年から2010年にかけて各札所寺院で本尊の開帳が行われ、当寺の本尊は2008年9月6日~11月30日、2009年4月5日~5月30日に開帳されました。

五重塔は本堂下、山門近くの広場に面して建つ。1998年(平成10年)に完成した新しい塔ですが、鎌倉時代の建築様式を再現した木造塔です。

P4160154.jpg
(そして近年に建てられた五重の塔です。新しいですが鎌倉様式に成っています。)

【最後に一言】

P4160214.jpg(本堂全景です。)
P4160085.jpg(又覗き、実際はこんな感じに撮影出来たはずなんですけどね)

時々お話させていただいていますが、8年ほど前に心を患いまして、入院いたしました。現在も完治したとはいえないのですが、寺社仏閣を巡ることで、少しづつではありますが、自分を取り戻して来たような気がします。御朱印集めから始まった寺社仏閣巡りはブログという形で新たな花を開かせてくれました。素敵な友人も出来ました。有難い事、神仏に感謝ですね、今後もより良い方向へ進んでいけたらと日々願っております。

歴史って本当に面白いですよね~!
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リュミエールブラン ネージュ

2018/01/06

下照姫命を追いかけて!付いた先には「三ノ宮」『倭文神社』

倭文神社(しとりじんじゃ)これが読めれば、貴方は神社おたく!昨日ご紹介した、伯耆一ノ宮倭文神社に行きたくて、カーナビを操作して到着した場所は、「倭文神社」当然だけど行き先を間違えたなんて、思わないよね。(笑)

例え、其が三ノ宮だったとしても、それから一宮に辿り着いてお詣りするのに二年間かかりました。まあ一年半は勘違いに気が付かなかっただけですけれどね。

CIMG6546.jpg(三ノ宮・倭文神社の鳥居)

せっかくなので、伯耆三ノ宮の『倭文神社』をご紹介すると共に、一ノ宮や二ノ宮についても、お話させて下さいね(#^.^#)

今年も私と一緒に日本の歴史散策にお付き合いくださいね~。それではみんなで~~「歴史にGO!」

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【「三ノ宮」『倭文神社』】

CIMG6547.jpg(三ノ宮・倭文神社ご由緒)
CIMG6548.jpg(拝殿正面ですがちょっと歪んでます(;^_^A)

創立年代は不詳ですが、延喜式神名帳記載の神社(弐内社)です。古くより武門武将の信仰が厚く、中世には山名氏、吉川氏、南条氏(伯耆の国人毛利を離反して秀吉軍に剛力する)などに崇敬され、江戸時代に入っては旧鳥取藩池田家の祈願所として隆昌を極めた神社です。 

倭文とは「シツオリ」のつまった形で(シツ「日本古来の文洋」オリ「織」)、当時この一帯(現在でも倉吉絣は山陰三大絣として有名)。は、日本古来の織物(倭織)が盛んで、この地に移り住んだ特殊技能を持った集団「倭文部」が、氏神(倭文神)として機織の祖神「武葉槌神」を祀ったのが始まりと考えられます。

住所の「志津」は、社名の「倭文」から転じたもので、やがてこの里がシツ(志津)となったと思われます。武葉槌神(武神の一面があることは前回お話しました。)国譲り神話出での出雲進軍の際、陣営をかためたがこの地で、倭文神社はこの神跡であると伝えられているようです。

【御祭神】

P8260205.jpg(下照姫命の伝承が多く残ります。)
P8260206.jpg(東郷湖絶景、左奥に大山が見えます。)
P8260213.jpg(出雲山からの東郷湖絶景~!)

武葉槌神(たけはづちのかみ)機織・織物の神、国土平定の神
下照姫命(したてるひめのみこと)安産の神、婦人病の神、和歌の神
經津主神(ふつぬしのかみ)武の神、風土平定の神、体育・運動の神

ここでも一ノ宮と同じように武葉槌神と下照姫命が何故かセットに成っています。鳥居の傍らには戦争殉職者碑らしい石版がありました。建葉槌命(たけはづち)は全国平定に功績があったことから武神としての一面が戦前は大きく祀られていたようです。残念ながら現在では人気がない。一方下照姫命は大国主の神裔に、宗像三女神のタギリ姫を妻として生んだ子として、兄アジスキタカヒコネと一緒に紹介されています。

下照姫命は国譲りで、高天原が送り込んだ第二交渉人のアメノワカヒコと結婚した女神です。出雲族と宗像族の血を受けた馬女神です。安産の神様として慕われてきました。現代の安産の定義は、一人か二人の子供を産み母子健康な状態と思いますが、戦前までは「産めや増やせや」のスローガンで、五~六人の子供を産み、しかもその都度すぐに家事ができる状態を安産と考えていました。

下照姫命は、よほど健康な女神(女性)だったと思われます。農家の若嫁の守護神として慕われています。一方で和歌の神としても有名?なのですが、日本書紀の一文に兄アヂスキタカヒコネの名を明かす歌を詠んだ。この歌は「夷振(ひなぶり)」と呼ばれ、これが和歌の原型と言われるからです。

P8260216.jpg(下照姫命伝承は此処にも…)
P8260223.jpg(弁財天は宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命と同一視されます。母親、田心姫命の姉妹関連があるのかな?)

【二つの大きな倭文神社と二つの二ノ宮】

伯耆国(ほうき)、今の鳥取県西部には二つの大きな倭文神社がああります。一つはここで、もう一つは前回ご紹介した「倭文神社」です。古来より伯耆国一宮は倭文神社であるとされていましたが、近年には二つの「倭文神社」のどちらが一ノ宮か議論がありました。一時はこちらが一宮とされていた事もありましたが、大正になって東郷「の倭文神社」の参道脇にある経塚から発掘された経筒の銘文によって、そちらが一宮であることが判明しました。その後、こちらは三ノ宮と名乗る事になったようです。

因みに、伯耆国二宮は大神山神社(おおがみやま)とされていますが、これもまた最近は倉吉の波波伎神社(ははき)が同じく二ノ宮を称していて混乱があるようです。私的には大神山神社(おおがみやま)は、大山を信仰する自然信仰であり、古事記などの神話からの関連性を考えると、倉吉の波波伎神社は事代主の終焉の地とも言われ、社殿裏手に古墳も有るようなので、そちらが二ノ宮の方が納得できると考えています。

CIMG6593.jpg(大神山神社、こちらは大山奥の宮ではなく、米子市内にあります。)
CIMG8661.jpg(倉吉の波波伎神社、どちらが二ノ宮)

志津は小さな集落で中の道は大変狭いのです。自動車一台分の幅しかないような砂利道を進み、軽自動車でなければ曲がり切れないような直角のカーブを折れると正面が神社でした。一時は伯耆国一宮ではないかと考えられていただけに、集落の大きさにしては立派過ぎる規模の神社でした。

日本書紀によれば、高天原の天照大神は孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)にこの国である葦原中国を治めさせようと思い、出雲にいた大国主命に国譲りを迫り、平定させるため建御雷神(たけみかづちの神)と経津主神(ふつぬしのかみ)を遣わした。結局、ニ神の前に出雲は国を譲り渡すことになります。

その後更に、ニ神は従わない神々などを退治して行くのですが、星の神香香背男神(ほしのかがせおのかみ)だけが手に余り、倭文神である建葉槌命を遣わして服従させたとあります。何故、機織の倭文神であるはずの建葉槌命が、軍神、剣の神であるとされる建御雷神と経津主神が敵わない相手を倒せるのかということなのですが、私は単純に「錦の御旗」と考えたいです。

【「一ノ宮」『倭文神社』の禊水】

P8260186.jpg(宮内井戸の椿)
P8260192.jpg(大きな椿ですね~。)
P8260195.jpg(井戸は塞がれて、水は村へ流れているようです。)

「一ノ宮」『倭文神社』の登り口に宮内井戸という禊水があります。前回ご紹介できなかったのでご紹介するとともに、「三ノ宮・倭文神社」を訪れた頃はブログも書いて居ませんでしたので、写真が少ない事をご了解いただけますとありがたいです。さらに全く「一ノ宮と三ノ宮」を間違えた事にきずかなかった訳ですが、そのおかげで両方の『倭文神社』にお詣りできたことは、喜ばしいかぎりです。

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リュミエールブラン ネージュ

2018/01/04

新年はやはり神社から「伯耆国一宮」『倭文神社』

皆さん、明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願い致します。年末にひいた風邪の体調回復が思わしくなく、初記事が4日にずれ込んでしまいました。毎年おおくりする初日の出ですが、元旦は実家但馬に居たので、「初日の出」は曇りで撮影することが出来ませんでした(残念&申し訳ない)。

初詣も例年は、但馬一宮の出石神社に出掛けるのですが、そちらもままならずに元日神戸に帰宅しました。結局初詣は、昨日神戸の我が家からには一番近い「有間神社」に詣でて来ました。おみくじは『大吉』今年は良い年になる予感がします。

P8260042.jpg(伯耆国一宮鳥居)

ということで、関連性は無いのですが、同じ一の宮繋がりとお正月はお宮参りでしょということで、伯耆一宮の『倭文神社(しとりじんじゃ)』をご紹介したいと思います。

今年も私と一緒に日本の歴史散策にお付き合いくださいね~。それではみんなで~~「歴史にGO!」

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【伯耆一宮『倭文神社(しとりじんじゃ)』って何処?】



P8260171.jpg(神社への道すがら、平成28年10月21日の鳥取県中部地震マグニチュード6.6の傷跡が残っていました。)
P8260043.jpg
(鳥居の扁額「伯耆一宮倭文神社」)
P8260054.jpg(神門歴史を感じますね)

『倭文神社(しとりじんじゃ/しずりじんじゃ)』は、鳥取県東伯郡湯梨浜町大字宮内にある神社です。式内社、伯耆国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社と成っています。境内にある経塚は国の史跡に指定され、出土品は国宝に指定されています。

倭文神社拝殿所在地:鳥取県東伯郡湯梨浜町大字宮内754
主祭神:建葉槌命
社格等:式内社(小)

機織に携わった氏族である倭文氏が祖神の建葉槌命を祀ったのが起源とされています。ただし、社伝には下照姫命に関するものが多く、大正時代までは下照姫命が主祭神であると考えられていました。社伝によれば、出雲から渡った下照姫命が現在の湯梨浜町(旧羽合町)宇野に着船し、御冠山に登って現在地に鎮まったといわれます。

着船したと伝えられる場所には、下照姫命が化粧を直したという「化粧水」や、腰を掛けたという「お腰掛岩」などが残っています。これについて、『式内社調査報告』では、元々は織物の神である建葉槌命を祀っていたのが、当地で織物が作られなくなったことにより建葉槌命の存在が忘れさられ、共に祀られていた下照姫命だけが残ったと推察されています。

具体的な創建年代は不明ですが、平安時代初期にあたる大同3年(808年)の医学書『大同類聚方』には「川村郡倭文神主之家所傳方 原者下照姫神方也 中暑小便止 頭痛煩熱 口乾者與之」(原文)という記述があり、これが文献上の初見とされています。

【主祭神に返り咲いた?建葉槌命とは!】

P8260127.jpg
(犬年に、狛犬阿形、出雲型の見事な狛犬です。)
P8260121.jpg
(狛犬云形、来待石ですね~見事です。)
P8260117.jpg(拝殿も綺麗でシンプル。)
P8260104.jpg(寝殿の鰹木は3本男神様です。千木も外削ぎ、同じく男神様です。アッ!一概には言えないそうですねんの為)
P8260095.jpg(神社を巡るように成って彫り物も興味が出ました。素晴らしい麒麟と牡丹ですか?)
P8260086.jpg(拝殿の中も綺麗で心洗われるようです。)

建葉槌命(武葉槌命・たけはづちのみこと)は、『日本書紀』に登場する倭文神で、経津主神(ふつぬし)・武甕槌命(たけみかずちのみこと)では服従しなかった星神香香背男(ほしのかがせお)を征服した神とされます。経津主神・武甕槌命は国譲りを成し遂げた武神として有名ですね。香取神社と鹿島神宮に祀られているので、関東の皆さんもご存知ですよね。ちなみに古事記では、「建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)」や「建御雷神(たけみかづちのかみ)」と記載される「タケミカズチ」しか出てきません。

別名と同一視されるのは天羽槌雄神(あめのはづちのおのかみ)で、日本神話の神です。こちらの方をご存知の方々も居られるかもしれません。『古語拾遺』に登場する。天羽雷命(あめのはづちのみこと)や、倭文神(しとりのかみ)、倭文神(しずのかみ)とも呼ばれます。

天照大神を天の岩戸から誘い出すために、文布(あや)を織ったとされます(女性的なのに、武神の一面も有るとは面白いですね~。)。文布は倭文布とも倭文とも書き、「シドリ」また「シヅリ」という織物の事です。同じ織物の神では栲幡千々姫命、天棚機姫命が挙げられますが、天羽槌雄神は機織りの祖神とされています(織女と違い機織工神なのですかね?)。また倭文(しどり)氏の遠祖でも有ります。

信仰としてはどちらの名でも織物の神、機織の神として信仰され、全国の倭文神社、静神社、服部神社などで祀られています。

【下照姫命って?】

下照姫命(したてるひめ)は、日本神話に登場する女神です。『古事記』、『日本書紀』などに記述される他、『先代旧事本紀』などでも記述されています。

『古事記』では、大国主神と多紀理毘売命の娘で、阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこね)の 妹として。『日本書紀』では、顕国玉(大国主)の娘として。『先代旧事本紀』地神本紀では、大巳貴神(大国主)と田心姫命の娘で、味金且高彦根神の同母妹として記載されています。

『古事記』の大国主神の系譜においては、アヂスキタカヒコネの同母妹と記されています。そのため、高比売(高姫)はシタテルヒメの別名とされるが、姉妹の別神とする解釈もあるようです。『先代旧事本紀』地神本紀では、大巳貴神と高津姫神の子、都味齒八重事代主神の同母妹に高照光姫大神命がおり、これと混同された可能性もあります。

『古事記』および『日本書紀』本文によれば、葦原中国平定のために高天原から遣わされたアメノワカヒコと結婚しました。天若日子が高天原からの返し矢に当たって死んだとき、シタテルヒメの泣く声が天(『古事記』では高天原)まで届き、その声を聞いたアメノワカヒコの父の天津国玉神は葦原中国に降りてアメノワカヒコの喪屋を建て殯を行っています。

それにアヂスキタカヒコネが訪れたが、その姿がアメノワカヒコにそっくりであったため、天津国玉神らはアメノワカヒコが生き返ったと喜びました。アヂスキタカヒコネは穢わしい死人と間違えるなと怒り、喪屋を蹴り飛ばして去って行きます。シタテルヒメは、アヂスキタカヒコネの名を明かす歌を詠みました。この歌は「夷振(ひなぶり)」と呼ばれる(夷振を詠んだという記述は『日本書紀』本文にはありません)。『日本書紀』の第一の一書では、アメノワカヒコの妻の名は記されておらず、夷振を詠んだ者の名としてのみシタテルヒメの名が登場し、アヂスキタカヒコネの妹と記載されています。

漢字・ひらがな・カタカナが混ざって混乱すると思いますが、基本的には漢字の前には「記紀」の記述どちらであるか記しています。ひらがなはその漢字の読み、カタカナは「記紀」両方の物語として簡略化して書いたものです。私的には「古事記」を正史と考えていますが、神社のご由緒には「日本書記」の記述が多いので説明文にご由緒を用いた時は、「日本書記」の記述に成っていることもあります。以上の事を踏まえて、同一人物にも関わらず漢字が違っていたり、読みが違っている事も有ると思いますが、ご容赦ください。

【配神】

通常、神社では複数の神を祀っており、その中で主として祀られる神を主神(しゅしん)・ 主祭神(しゅさいじん)、それ以外の神を配神(はいしん)と呼びます。

下照姫命:大国主と多紀理毘売命の娘
建御名方命:事代主命の弟、諏訪神社で有名
天稚彦命:下照姫命の夫、下照姫命と結婚し8年も高天原に連絡なし
事代主命:大国主の息子、恵比須神)
少彦名命:小人神、大国主とペアで祀られる事が多い
味耜高彦根命:下照姫命の兄、同じ両親

【経塚】

P8260135.jpg(経塚はこちら参道から少しだけ登ります。滑るのでトレッキングシューズが必要ですね。)
P8260057.jpg(説明版の出土品目録。)
P8260141.jpg(神様の墓ですよ、よく発掘調査出来ましたね~笑)
P8260142.jpg(穴のような物がありました。)
P8260152.jpg(国宝経筒出土場所。)

境内の塚が下照姫命の墓であると考えられていたが、大正4年(1915年)の発掘により経塚であることが判明しました。その出土品の銘文から、当社が平安時代後期には伯耆国一宮であったことがわかっています。このときの出土品である観音菩薩立像などは「伯耆一宮経塚出土品」の名称で、一括して国宝に指定されています。

先日、国宝展で足利義満が埋めた、国宝の経筒(経典を後世に遺すため埋納した塚)を見ることが、出来ましたが、此方も負けず劣らず素晴らしいものです。現在は東京国立美術館に所蔵されているようです。

戦国時代、当地を治めた武将に社領を没収され荒廃しましたが、天文23年(1554年)に尼子氏が社殿を再建しています。また、地元の国人・南条氏からも寄進を受け、その後江戸時代、当地を治めた池田氏も崇敬し、鳥取藩主の祈願所となっています。昭和14年(1939年)、国幣小社に列格し、第二次世界大戦後は別表神社となりました。

かつて主祭神であった下照姫命が女神であることから、安産に霊験があるとされています。本殿の後には、かつて「乳神」と呼ばれる神木がありましたが、現在は倒壊しています。

参道沿いには「安産岩」と呼ばれる岩があります。昔、毎回難産に苦しんでいた女性が願かけをし、その満願の日の夢に下照姫命が姿を現し、参詣の帰途、この岩の所で簡単に出産したため安産岩と呼ばれるようになったと伝えられます。この岩を削って飲むと霊験があるとされ削り後が有ります。

P8260170.jpg(安産岩右に削り跡があります。夫婦岩などもありました。)

【さあお宝、伯耆一宮経塚出土品(国宝)】

P伯耆一宮経塚出土品
(Wikipediaよりお借りしました。東京国立博物館展示、右奥は銅経筒、その手前は左から銅板弥勒像、銅鏡、銅銭、瑠璃玉。)
P伯耆一宮経塚出土_金銅観音菩薩立像・銅造千手観音菩薩立像
(Wikipediaよりお借りしました。出土品のうち金銅観音菩薩立像(左)・銅造千手観音菩薩立像(右))

伯耆一宮経塚出土品 一括(考古資料)内訳は以下のようなものです。大正4年(1915年)、社殿の南南東180メートルほどのところにある経塚(経典を後世に遺すため埋納した塚)から出土した一括遺物。銅経筒は径20センチ、高さ42.5センチで、円筒形の筒身に宝珠鈕付き、屋根形の蓋を付す。筒身には15行236字の銘文が線刻され、康和5年(1103年)に京尊という僧が埋納したものであることがわかりました。出土品のうち、金銅観音菩薩立像は奈良時代にさかのぼる作品です。出土品一括は東京国立博物館に寄託。1920年(大正9年)4月15日、当時の古社寺保存法に基づく旧国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定されます。1953年(昭和28年)3月31日に国宝に指定されました。

銅経筒 1口 康和五年十月三日伯耆一宮辰巳岳上奉埋納在銘
金銅観音菩薩立像 1躯
銅造千手観音菩薩立像 1躯
銅板線刻弥勒立像 1面
銅鏡 2面
桧扇残片 一括
短刀刀子残闕 一括
瑠璃玉 一括
銅銭 2枚
漆器残片 一括

【今日の一言は何故神社に経塚?】

何故神社に経塚が埋められていたのでしょう。平安時代も末期に成ると神仏習合が進み、神社にも神宮寺というお寺ができるようになります。

世界遺産の日光東照宮は神社で、家康は東照大権現という神様ですが、作った家光は日光山輪王寺に大猷院に廟所(墓所)がありお寺に眠っています。境内には世界遺産に 登録された22件の国宝、重要文化財が建ており、315基の灯篭も印象的です 。日本人らしくて良いではありませんか、多くの文化を柔軟に受け入れる日本人の美徳がそこに有るように感じました。

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