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2018/07/26

取材旅行の第一目的地、木花咲耶姫に会う為に、「海の日、富士登山に挑む!」

取材3日目7月16日は、とうとうやって来ました~~。「富士登山初日」。「脱サラ起業宣言」したままPC持たずに、取材旅行に出かけたうえに8日にわたってブログを全く構わず。「こりゃ、ブログ挫折したな!」の声が聞こえそうな中、16日(海の日)は富士登山初日、八合目の太子館を目指して五合目2300m(富士吉田ルート)~3100m(八合目の最初の山小屋「太子館」800m迄登りました。年齢を考慮して余裕もっての登山です。

毎回申しておりますとおり、歴史ブログは、私の人生のテーマですから、勿論中断するつもりはございません。日本文化の伝承と発信を、生涯の仕事と考えて第二の「柳宗悦(思想家)」を目指す目標も忘れてはおりません。




【プロローグ】7月16日「海の日」目指したのは標高3100mの当日のお宿「太子館」です。



弾丸登山といわれる、一気に山頂の危険な登山も話題になっているようですが、私のような年齢の登山者には身体を慣らしながらの登山が最適と考えて、富士吉田ルート(初心者向き)を選びました。

富士吉田ルートは、ネットでは頂上まで6時間の時間配分でしたが、無理をせず8合目で一泊し(御来光も見たいので)、8合目までの登山時間を4時間+2時間(予備)の6時間、8合目から頂上までを、日の出の朝4時27分に余裕を持って上がれるように11時出発で5時間半(こちらはも予備時間と混雑を考慮しました、)に計画しました。

IMG_20180722_135123_397 (002)
(気落ち悪いかもしれませんが・・・ごめんね、岩場では手袋してたのですけれどね。)


実際に登り始めてみると、火山灰・火山弾・火山の石を含んだ砂利道で、なかなかに足が進みませんし、高度が高いので周りに木陰も無く、お日さまに照らされまくる結構きつい登山に成りました。

それでは、『市郎右衛門』の歴史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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「次世代セミナー」1万円PL終了でもセミナーは素晴らしいい!



1万 LP(無料プレゼント) が7月31日でセミナー LP に移行され終了しました。



初年度年商1億売り上げたIQ148のMENSA会員でもある京大MBA卒の講師が、最速で1億円に到達する道筋を14時間・定価11万円を超える無料映像で提供されています。参加者は4,000名突破とのこと、これはちょっとヤバい話かも?(笑)

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それが「次世代セミナー」で、最初は一万円の小遣い欲しさでした。(笑)

しかしながら、一月の無料登録をしてみると、これが良く出来ていてとても面白いのです。

その中で、成る程な言葉が耳に焼き付きました。「自分自身に投資せよ!」「そして一歩を踏み出す勇気を!」。

年齢的にもこれが最後のチャンスかもしれないと考えて、自己投資して一歩を踏み出してみようと決心しました。

私の夢は、日本文化の伝統を継承するために、第二の(山陰の)柳宗悦になる事です。

大きな目標ですが、少しずつでも近づきたいと考えています。

ちなみに、1万円PLは終了しましたが、私には1万円+Webテストで65点取って+5000円それに次世代セミナーにも、申し込んだので+1万円で2万5000円分の仮想通貨リップル500.000000XRPが振り込まれました。

知識のない私は?5億~~~!×48円(現在1XRPの値段)=24億円振り込まれた~~~!と勘違いしてしまい怖くなってしまいました。(-"-;A ...アセアセ

6桁は少数点以下だったようです(相変わらずの慌て者です)。

タダで頂いたものですから、今日から楽しみにリップルの動向を見守りたいと思います。

富士山の一番の敵は空気の薄さです。


P7160971.jpg
(五合目7はまだ木々も有ります)

空気が薄いというのは、少し語弊があります。本来は酸素が少ないわけですが、酸素が少ないことがこれほど体力を奪うとは考えていませんでした。

少し登るたび、にゼーゼーと息があがってしまいますし、登山道はジグザグのなだらかなコースになっているのですが、そのジグザグコースを1往復するだけで休憩しないと筋肉に抜き乳酸が貯まって、次に足が進まないような厳しさです。

P7160975.jpg(パークレンジャ―さんに一番きついといわれた6~7合目!うそつき~~~!)

もちろん一番大切なのは水分補給です。さらにはカロリーメイト・羊羹やビスケット等、歩きながら食べられるお菓子を(山ほど)持って行ったのですが、頂上に登る間に全て、なくなってしまいました(笑)。

思い込みほど怖いものはない


P7160998.jpg(霧の中に浮かぶのは、「太子館」では無くて、7合目最期の「東洋館」でした。)

途中7合目の一番最後あたりで150mほど上に山小屋が見えたので、てっきり八合目「太子館」だと思って頑張って登ったのですが、実際は7合目最後の山小屋「東洋館」でした(東洋館と大子館迄の高低差100m)。その時の落胆ぶりといったら大変なものです。 それでも時間に余裕を持たせていたので午後3時半に8合目最初の山小屋「太子館」へ無事到着出来ました。

P7161009.jpg(到着~~3100m!ですが、まだ頂上迄は、600m以上登ります。)

今回は、富士登山の初日8合目までの記事ですので、あまり紹介する写真もないです。

実際登山はかなりきつくて、写真をあまり撮影できませんでした。

決意変わらず!「脱サラして起業の勉強するぞ」


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次世代の起業家を育成するセミナーです(その物ですね(;^_^A)。



セミナー講師は、 ココデ・グローバル株式会社 代表取締役
加藤将太さんです。

【経歴】
京都大学工学部電気電子工学科卒業
京都大学経営管理大学院経営管理専攻事業創再生マネジメントコース終了 MBA取得
(株)NTTデータ 第一公共事業本部 第二公共システム事業部 勤務後、独立

京都大学大学院にてMBAを取得後、
(株)NTTデータ等での勤務を経て、26歳の時に起業。(元手20万円)

1年目で年商1.1億を達成し、延べ1,000名以上を面接し社員数十人を使う社長になる。
2年目で年商2億6千万円を達成。

書籍流通支援システム、法人向けデータマーケティング支援システム等の開発・販売を行う一方で、
MBAで学んだ知識や、実際にゼロから短期間で事業を軌道に乗せた経験を伝える活動を行う。

2013年より開始した「次世代起業家育成セミナー」は
これまでに5回開催され、累計3,000名の法人代表・法人代表候補・起業家の卵が参加。




この経歴!凄いとしかいえません。

一般公立中学から高専、そして京都大学。

新聞配達のバイトを経て起業も凄いですね。

義弟の大学・学部の後輩ということも、加藤さんに親近感を持った原因のひとつです。

いつも応援ありがとうございます。歴史って本当に面白いですよね~!
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CROOZ


  
2018/07/23

八日間の取材旅行報告!7月15日「駿府城」「久能山東照宮」「浅間神社」

取材2日目7月15日は、「駿府城」「久能山東照宮」「浅間神社」と取材して来ました~。「脱サラして企業設立」表明したまま取材旅行に出かけ、八日にわたってPCを全く構わず。「こりゃ、ブログ挫折したな!」と、思われた方々も多かったと思います(ランキング順位が如実に物語る?笑)。しかし前回・前々回とも申しましたとおり、歴史ブログは、私の人生のテーマですから、勿論続けますし(猛暑の中、八日間しっかり取材して来ました。)、日本文化の伝承と発信を、生涯の仕事と考えて第二の「柳宗悦(思想家)」を目指す目標も忘れてはおりません。



【プロローグ】富士登山前日の久能山 東照宮の1159段「いちいちご苦労さん」は無理!



7月13日の夜は車中泊!今の車は、軽自動車でもフラットに成るので、それほどは苦しく無いのですが、コンビニの隅はちょっと恥ずかしいです。

そんな時は、道の駅がオススメ、トイレもあるし、元々が何時でも利用して下さいの場所なので、とても便利です。

猛暑の為に、朝涼しくなるまでエンジンかけっぱなし、ガソリンへるへる(笑)。

一応は、ハイブリッドもどき?のスズキのワゴンRなんですけれどね。

P7150438.jpg
(当然お解りと思いますが、当たり障りの無い写真を少なめに使用しています。)

15日(日曜日)の取材は、たぬき親父(家康)が余生を過ごした「駿府城」に墓所の「久能山 東照宮」と巡りましたが、最初に記載したように、東照宮は階段が1159段なんです。

私、明日富士山登るよね~~?やっぱりやめとこ、と思っていたら、日本平からロープウェイがあるじゃないですか!

これや~~!と車の中で叫びなからガッツポーズしたとか、しなかったとか(笑)。

ロープウェイの駅前で、桜海老と白魚の団子を食べて、駿河湾の海幸も満喫?したつもりになって、富士宮市の「浅間神社」へ向かいました。

毎度申しますが、本来は皆様に一社・一寺・一所ずつ、ご紹介するのが筋なのですが、とりあえず”真面目に取材をしてきました”のご報告を先にさせて頂きます。

取材場所だけを、順次日にちごとに上げていき、後に書くで有ろう本編で、細かいところを補足したいと思っています。

今回の第一目的の富士登山は、正に日本一の山で素晴らしかったですが、疲れも半端がなかったです(空気の薄いのが一番つらいです)。

それでも、皆さんも一度富士山に登ると人生観変わりますよ~~!是非登山してみてください(何といっても、日本のてっぺんですからね)。

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たぬき親父「駿府城」で余生を過ごす。


駿府城(すんぷじょう)は、現在の静岡県静岡市葵区にあった城です。別名は府中城や静岡城などと呼ばれました。

14世紀に室町幕府の駿河守護に任じられた今川氏によって、この地には今川館が築かれ今川領国支配の中心地となりました。

今川氏は隣接する甲斐国の武田氏、相模国の後北条氏と同盟を結び領国支配を行いましたが、16世紀には甲斐を中心に領国拡大を行っていた武田氏との同盟関係が解消され、武田氏の駿河侵攻により今川氏は駆逐され、城館は失われてしまいます。

武田氏は1582年(天正10年)に織田・徳川勢力により滅亡し、駿河の武田遺領は徳川家康が領有となります。徳川氏時代に駿府城は近世城郭として築城し直され、この時に初めて天守が築造されました。

江戸時代初期、家康は徳川秀忠に将軍職を譲り、大御所となって江戸から駿府に隠居します。このとき駿府城は天下普請によって大修築され、ほぼ現在の形である3重の堀を持つ輪郭式平城が成立します。

天守閣は、石垣天端で約55m×48mという城郭史上最大のものでした。しかし1607年(慶長12年)に、完成直後の天守や本丸御殿などが城内からの失火により焼失してしまいます。その後直ちに再建されましたが、1610年(慶長15年)再建時の天守曲輪は、7階の天守が中央に建つ大型天守台の外周を隅櫓・多聞櫓などが囲む特異な構造だったようです。

P7150421.jpg(現在も発掘中です。)

現在も、発掘調査が行われており、調査の様子も見ることが出来ました。

家康の墓所「久能山 東照宮」


P7150591.jpg(扁額「東照大権現」)

久能山 東照宮(くのうざんとうしょうぐう)は、日本の静岡市駿河区根古屋に所在する神社で、晩年を駿府で過ごした徳川家康が元和2年(1616年)に死去した後、遺命によってこの地に埋葬されました。

徳川家康は生前、家臣に対し、自分の死後について「遺体は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ、関八州の鎮守になろう」(『本光国師日記』より)との遺言を残します。

この遺命により御遺骸を久能山に埋葬し、その地に2代将軍秀忠の命により久能山東照宮が創建されました。

気になるのは、家康の御霊を久能山から日光に移した際、遺体も移したのか?ですよね、改葬は「大化の改新」で知られる藤原鎌足の死後1年後、摂津から大和に遺体を移した故事にならったものとされ、「遺体も移ったと考えるのが自然」とみる識者もいるようです。

現宮司は「家康公は今もここに眠っていると思っている。四角い棺(ひつぎ)の中に正装して座し、西を向いているはず。遺体を日光に運んだのなら、久能山に大きな墓を建てる必要はなかった」と話されてるようです。

明日は富士登山!無事を祈願「富士山本宮浅間神社」


P7150811 (2)(登山の無事を「此の花咲くや姫」にお願いしとかなきゃね。)

富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)は、静岡県富士宮市にある神社です。式内社(名神大社)、駿河国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社と成っています。

全国に約1,300社ある浅間神社の総本社でも有り。「富士山信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されています。

P7150952.jpg(富士の湧水が滾々と湧き出ています。チドメグサが可愛くてパチリ。)

富士山の8合目以上の約385万m2も社地として所有しています。

つまり、富士山の頂上は富士山本宮浅間神社の境内で奥の院なのです。

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2018/07/22

八日間の取材旅行報告!7月14日「岡崎城」「浜松城」「龍潭寺」

脱サラして企業設立の夢に向かって!「次世代起業セミナー」を始める事にしたと表明したまま、取材旅行に出かけ八日にわたってPCを構わず。「やはりブログみかぎったな」と、思われた方々も多かったようです(ランキング順位が如実に物語る・笑)。しかし前回も申しましたとおり、歴史ブログは勿論続けますし(八日間しっかり取材してきました。)、日本文化の伝承と発信を、生涯の仕事にと、第二(山陰の)の「柳宗悦(思想家)」目指す目論見目的も忘れていません。7月14日は「岡崎城」「浜松城」「龍潭寺」。



【プロローグ】とにかく熱かったぜよ!



7月の13日の仕事終わりに、大阪を出発してそのまま名古屋に向かいました。

大雨による大きな被害があった後なのですが、梅雨明け宣言を聞いた途端とてつもない猛暑に襲われました。

取材初日14日(土曜日)は、家康生誕の地「岡崎城」をかわきりに「浜松城」井伊家発祥の地、「井伊谷」と回る予定だったのですが、とにかく暑さがとんでもなかったです。

P7140046.jpg
(三方ヶ原でうんち洩らした?後に描かせた画が石像にしつらえてあまりました。)

これから、皆様に一つ一つご紹介するのは、もちろんなのですが、とりあえず、真面目に取材をしてきたことのご報告をしたいと思います。

ただカメラがカメラを構える手が震える、水分が足りなくなって体から塩をふく、などなどこの暑さは本当に酷いものでした。

車を停めてクーラーを切ってしばらく取材すると、車中の水やコーヒーが熱くて飲めなくなるほどの猛暑に一週間以上晒されました。

涼しかったのは、富士山頂日の出前の0°だけでした。

昨夜7月21日10時頃に、家に帰宅しましたが、倒れこむように眠ったまま、今日の10時朝の10時まで起きることはありませんでした。

こんなに暑い取材旅行は初めてで、どちらかと言うと確かに晴れ男なのですが、晴れ過ぎにも程があるという感じでした。

とりあえず取材は一生懸命頑張って行ってきましたので、皆様にそれぞれひと場所ずつと歴史を、ご報告取材報告ができればと考えています。

とりあえず行った場所だけを、順次日にちごとに上げていき、できるだけ後の本編で細かいところを補充したいと思っています。

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徳川時代の出発点「岡崎城」


P7140071.jpg(復元された門・暑さ半端ない!)

岡崎城(おかざきじょう)は、愛知県岡崎市にある城跡です。徳川家康の生地で有名。別名は、「龍城」。岡崎公園の中に有ります。

戦国時代から安土桃山時代には松平氏の持ち城、江戸時代には岡崎藩の藩庁でした。 菅生川と矢作川の合流地点にある龍頭山という丘陵を利用して造られています。

元は、龍頭山の砦として三河国仁木氏の守護代であった西郷稠頼(つぎより、つぐより、又は、ちかより)、そして、その子頼嗣(よりつぐ)が北方に対する防御として築城しました。それを、松平清康(徳川家康の祖父)が西郷信貞(松平昌安)から奪い取り改修拡張整備したものが岡崎城です。

家康壮年期?「浜松城」


P7140196.jpg
(浜松城の家康像・精悍です。羊歯の前立てに注目。)

ごくごく簡単に説明します。浜松城は、静岡県浜松市にある城跡です。野面積みの石垣で有名。歴代城主の多くが後に江戸幕府の重役に出世したことから「出世城」といわれています。

浜松城の前身は15世紀頃に築城された曳馬城で、築城時の城主は不明です。16世紀前半には今川氏支配下の飯尾氏が城主を務めていました。この頃の引馬城は、江戸時代の絵図にみられる「古城」と表記された部分であり、現在の元城町東照宮付近にあたります。

徳川家康が元亀元年(1570年)に曳馬城に入城し、浜松城へと改称します。城域の拡張や改修を行い、城下町の形成を進めました。

P7140281.jpg(暑さの中にもちょっぴりなごみますね。)

徳川家康在城時における浜松城の具体像は不明確ですが、古文書や出土遺物から現在の本丸に向けて城域が拡張されたことが窺えます。また、徳川家康が築造した浜松城は、土造りの城であり、石垣や瓦葺建物は有りませんでした。

10分間に合わなかった。井伊の谷「龍譚寺」


P7140344.jpg(「龍潭寺」も行ったのですよ)

最後に井伊家の「龍潭寺」も取材に行きましたが、16:30拝観終了到着16:40でした(残念)。

周りの取材はしっかり行いましたので、ご紹介したいと思っております。


そして今決意する!「脱サラして起業の勉強するぞ」


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CROOZ


  
2018/06/03

「刀剣女子」必見!国宝『童子切り』はここで創られた。

『出雲大社・荒垣内摂社・そして最期の神殿』シリーズをお待ちの皆さんもう少し待ってください。出雲大社取材後ゴールデンウィークで実家に帰省する途中大山で見出し取材を慣行。



【プロローグ】刀剣女子と春日神社の屋根裏



名刀を擬人化したオンラインゲーム『刀剣乱舞(とうけんらぶ)』をきっかけに(”とうけんらんぶ”だと思ってたんですが、”らぶ”だそうです)、約3年前に火が付いた刀剣ブームがさらに広がりを見せています。人気を支えるのは「刀剣女子」と呼ばれる若い女性たちです。展覧会などが各地で計画され、開催される刀剣展にも女性たちがこぞって詰めかけているのだそうです。ブームを通して鑑賞眼を養い、知識を深めていく刀剣女子。彼女たちはなぜ日本刀に魅了されるのでしょう?女性たちはみずからをゲームでプレイヤーを指す呼称である審神者(さにわ)と呼んでいるのだそうです。ちなみに本来の歴史用語の審神者(さにわ)とは、古代の神道の祭祀において神託を受け、神意を解釈して伝える者のことです。後には祭祀の際に琴を弾く者を指すようにもなっています。

そんな「刀剣女子」の皆さんこんなレジェンドも作ってます。銘刀『蛍丸』復元のため、刀工の福留さんと興梠さんががクラウドファンディングを開始すると4500万円があっさりと集まった!ちなみに、蛍丸(ほたるまる)とは、来国俊作の日本刀(大太刀)で、阿蘇神社に保管されたことから”阿蘇の蛍丸”とも呼ばれる物ですが戦後の混乱期に行方不明に成っていました(ゲームの中では可愛い男の子キャラだそうです。)。

P5200586.jpg(奈良春日大社宝庫の写真は撮ってなかった。大社自体はまたの機会にご紹介します。)

先日、我が但馬でも「竹田城」最後の城主「赤松広秀」が所蔵し数奇な運命に翻弄された日本刀『獅子王』の写し刀が、418年ぶりに”帰郷”したニュースがありました。こちらもクラウドファンディングで刀剣女子の皆さんの尽力が有ったようです。但馬人の一人として感謝申し上げます(刀剣女子の知識は私の歴史雑学の及ぶところでは無いようなので、ちょっとビビッてます。)。『獅子王』418年ぶりに“帰郷”の話題はまたの機会に取り上げたいと思います。

春日神社の屋根裏って何だ?と考えられたと思いますが、戦前「春日大社」の宝庫の天井裏で発見された太刀を約80年経ってサビを落として修理を施したところ、最古級の日本刀だったことがわかりました。長くなりそうなので詳しく後で説明しましょう。

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天井裏の刀は古伯耆の中でも最古とみられる刀工「安綱(やすつな)」作?


ss032-3[1]
(先日国宝展に見に行ったのですが古伯耆は無かったのでWikipediaから拝借しました。)

春日大社(奈良市)の発表によりますと、所蔵する太刀1本を研磨した結果、日本刀の原型が成立した最初期である平安時代末期ごろに作られた「古伯耆物(こほうきもの)」と呼ばれる最古級の日本刀と判明したそうです。現存する鎌倉時代以前の刀剣の中でも長寸の刃長82.4センチで、製作した当時の形がほぼ残っており貴重なものだそうです。

1939(昭和14)年に大社宝庫の解体修理をした際に天井裏(屋根裏ではなく天井裏ですね・笑)から発見された太刀12本のうちの1本です。刀身がさびていた太刀について2015年から「第60次式年造替(しきねんぞうたい)」を記念して順次、刀剣研磨師の人間国宝、「本阿弥光洲(ほんあみこうしゅう・光意系本阿弥18代、本阿弥家は刀剣のとぎ(磨研)・ぬぐい(浄拭)・めきき(鑑定)の三業を家職としています。本阿弥光悦が有名ですね。)さんに研磨してもらっており、今回の太刀が4本目だったそうです。

日本の刀剣は、古代遺跡での出土品や正倉院宝物などにみられる反りのない「直刀」から、平安後期に反りなどの付いた現在の日本刀の形が成立し始めます。伯耆国(現鳥取県中西部)で作られた「古伯耆」などが最初期のものとされています。この刀も持ち手付近からの反り方など最初期の特徴を備えていたうえ、焼き入れの際に刃の表面に入った模様の特徴などから、伯耆国(現在の鳥取県)で作られた古伯耆物と分かりました。古伯耆には十数点の国宝・重要文化財があり、この刀も製作者の銘は無いものの、調査した東京国立博物館の酒井元樹・主任研究員(日本工芸史)によると、「これだけ長寸の古伯耆で、外装も残っているのは珍しく、国宝「童子切(どうじぎり)」(同博物館蔵)で知られ、同時代に活躍した刀工、安綱(やすつな)が製作した可能性があるといいます。

平安時代から武家に伝わる「伝家の宝刀」が、南北朝~室町時代初め(14~15世紀)に大社に奉納されたとみられ、外装は、中世の武士が常用していた「黒漆山金作太刀拵(くろうるしやまがねづくりたちこしらえ)」と呼ばれる作りですが、その前には別の外装が施されていたとも考えられ、日本刀の歴史を考える上で重要な資料として注目されます。 

国宝『童子切り』ってどんな刀?



童子切(どうじぎり、どうじきり)は、平安時代の伯耆国の大原の刀工・安綱作の日本刀(太刀)です。童子切安綱(どうじぎりやすつな、どうじきりやすつな)とも呼ばれ、日本の国宝に指定されています。国宝指定名称は「太刀 銘安綱(名物童子切安綱) 附 絲巻大刀 梨地葵紋散蒔絵大刀箱」(たち めい やすつな めいぶつどうじぎりやすつな つけたり いとまきたち なしじあおいもんちらしまきえたちばこ)です(;^_^A。

刃長二尺六寸五分(約80.3cm)、反り?(はばき)元にて約一寸(3.03cm)、横手にて約六分半(1.97cm)、重ね(刀身の厚さ)二分(約0.6cm)。造り込みは鎬造(しのぎづくり)、庵棟(いおりむね)。腰反り高く小切先。地鉄は小板目が肌立ちごころとなり、地沸(じにえ)が厚くつき、地斑(じふ)まじり、地景しきりに入る。刃文は小乱れで、足よく入り、砂流し(すながし)、金筋(きんすじ)入り、匂口深く小沸つく。帽子は小丸ごころに返り、掃き掛ける。茎(なかご)は生ぶ。先は栗尻。鑢目(やすりめ)は切。目釘孔1つ。佩表に「安綱」二字銘を切る。制作は平安時代後期とされます。

なお、刀身と共に金梨地鞘糸巻拵えの陣太刀様式の外装が現存していますが、この拵えは桃山時代に製作されたものであり、それ以前に収められていた拵えがどのようなものであったのかは判然としていません。天下五剣の一つで、大包平と共に「日本刀の東西の両横綱」と称される最も優れた名刀とされます(データはWikipediaより)。

『童子切り』の名前の謂れが凄すぎる。



かつて伯耆国会見郡の『大原五郎太夫安綱』という鍛冶が一心清浄の誠で鍛え、時の将軍・坂上田村麻呂(蝦夷征伐で有名)にこれを奉じたものだといわれます。田村麻呂が鈴鹿山にて鈴鹿御前と剣合わせした太刀であり、その後は田村麻呂が伊勢大神宮に参拝の折、大宮より夢の告を受け、御所望有りて御殿へ奉納したといわれています。 源頼光が太神宮参拝の時に夢想があり「汝に此剣を与える。是を以って子孫代々の家嫡に伝へ、天下の守たるべし」と示給された太刀です。ちなみに源頼光は但馬国司として但馬に赴任し、前回UPでも登場した我が家となり地区上郷の館で「朝まだき 空櫓(からろ)の音の聞こゆるは、蓼刈る舟の 過ぐるなりけり」と円山川の景観を詠っています。

さて『童子切り』ですが、酒呑童子の説話を書いた絵巻や絵詞などの諸本では、清和源氏の嫡流、源頼光(『太平記』では渡辺綱とされています。)が酒呑童子を斬った太刀として「血吸」(血すい、ちすい)の名前が登場します。頼光が丹波国大江山に住み着いた鬼、「酒呑童子」の首をこの太刀で切り落としたという伝承から「童子切」の名がついたとされます。享保4年(1719年)に江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が本阿弥光忠に命じて作成させた『享保名物帳』には「名物 童子切」として由来と共に記載されています。

慶応義塾大学図書館蔵『しゆてんとうし』には『太平記』からの引用が見られるます。『太平記』によると、坂上田村麻呂が伯耆国大原五郎大夫安綱が打った太刀であり、田村麻呂が鈴鹿御前との戦いに用いた後に伊勢神宮に納められ、頼光が参宮した際に夢中で託宣があり伊勢神宮より下賜った源氏累代の太刀とされます。しかし、その後の渡辺綱が牛鬼を切ったという逸話は綱の持つ鬼切に引用されています。また酒呑童子絵巻の中には酒呑童子の首を絶つに用いた太刀をすでに鬼切丸と称すものもあるようです。『太平記』の物語は以下のようなものです。

【大和国宇陀郡大森に夜な夜な妖者が出没するので頼光は配下の渡辺綱に妖者を討つよう命じ、貸し出したこの太刀で妖者の手を切り落とした。綱が妖者の手を頼光に奉じたところ、妖者は手を取り返そうと頼光の母に化けて頼光の家の門を叩いた。頼光が切り落とした手を見せたとたんにそれを掴み、妖者は自分の右ひじに指し合せ長二丈ばかりの牛鬼となった。頼光は件の太刀で牛鬼の頭を切り落としたがその頭は飛び踊り、太刀の切先を五寸食いちぎって半時吠え怒ったあと地に落ちて死んだという。そののち、この太刀は多田満仲の手に渡り、信濃国戸蔵山にて鬼を切ったという。これにより「鬼切」と称することになったという。— 『太平記』より大意】

現在では制作年代は酒呑童子伝説(10~11世紀)の時期よりも後なのではないかとの見解もあるようです。刀剣研究家の佐藤寒山は、「大江山物語はフィクションが多く含まれていることは否めないだろう(そりゃそうですよね)。しかし童子切は享保名物帳にあることでも、同作の安綱在銘の太刀が比較的に多く現存する中で、安綱中第一等の作であるのは明らか」と記しています。

室町時代には足利将軍家が所蔵していたとされています。足利義昭から豊臣秀吉に贈られたとされ、さらに徳川家康とその子である徳川秀忠へと受け継がれました。慶長16年(1622年)には勝姫が越前国福井藩主である松平忠直へと嫁ぐ時の引き出物であったといい、忠直から松平光長を経て津山藩の松平家に継承されたとされます。光長が幼少の頃、疳の虫による夜泣きが収まらないのでこの刀を枕元に置いたところたちどころに夜泣きが止んだ、浮かんだ錆を落とすために本阿弥家に持ち込んだところ近隣の狐が次々と本阿弥家の屋敷の周囲に集まってきた、等の様々な逸話が伝わっている刀です。

江戸時代に町田長太夫という試し斬りの達人が、6人の罪人の死体を積み重ねて童子切安綱を振り下ろしたところ、6つの死体を切断しただけではなく刃が土台まで達した、という逸話が残っています(どれほど切れるんだ~笑)。明治に入って後も津山松平家の家宝として継承され、1933年(昭和8年)1月23日付で子爵松平康春の所有名義で国宝保存法に基づく国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定されています。文化財保護法に基づく現”国宝”に指定されたのは1951年(昭和26年)です。太平洋戦争終戦後は、津山松平家から手放され、個人所蔵家の所有となりましたが、1962年(昭和37年)に文化財保護委員会(文化庁の前身)によって買い上げられ、現在は東京国立博物館に所蔵されています。

DOJI_KIRI_sword[1](初めて反りが入った刀とも言われます。)

『童子切り』はここで創られた!


P5041970.jpg(大原神社、御祭神は不明です。)
P5041980.jpg(拝殿、安綱も祈りを捧げたのか?)
P5041986.jpg(巌藻ですね~現在は伯耆国ですが古代はこの地は出雲の一部だった証拠かもしれません。)
P5041996.jpg(簡素な神殿ですが、水の流れる音が聞こえます。)



さて今回取材したのは鳥取県伯耆町大原にある伯耆安綱伝承の地と伝承地の傍の大原神社です。刀を作ることは神事ですし、当然伯耆安綱も大原神社で祈りを捧げたと思います。更には神社の御祭神は不明ですが、地下を流れる大山の湧水の音がしました。水は焼き入れに欠かせないもので、反りのかたちもこの工程で決まります。水は古い水で汲み置きして余計なガスが飛んだ落ち着いた水を使うそうです。大山の不純物の無い湧水が名刀の創出に一役買ったのではないでしょうか?

P5042002.jpg(伯耆安綱伝承の地)
P5042019.jpg(説明版「大原古鍛治発祥の地」と伯耆安綱の系図)
P5042007.jpg(伯耆安綱伝承の碑)

【最後に一言】やはり日本刀って凄い。



日本刀には二度の存亡の危機がありました。一度目は、1876年(明治9年)3月28日に発せられた年に出された「大礼服並軍人警察官吏等制服着用の外帯刀禁止の件(たいれいふくならびにぐんじんけいさつかんりとうせいふくちゃくようのほかたいとうきんしのけん、明治9年太政官布告第38号)は、大礼服着用の場合並びに軍人や警察官吏などが制服を着用する場合以外に刀を身に付けることを禁じる内容の太政官布告です。なお、略称として、廃刀令または帯刀禁止令と呼びます。この法令により武士の刀の着用禁止を指示しています。廃刀令による武士の消滅こそ最終的な戦国時代の終わりとも言えます。

二度目は、1945年に日本が敗戦時です。占領軍は軍隊や民間の武装解除を求め、この時 GHQ が摂取した日本刀は数百万にものぼり、名刀も多数ありました。戦利品として海外に持ち出されたもの、海に捨てられたもの、ガソリンをかけて燃やされたものまでありました。戦時の抜刀突撃の怖さはアメリカ兵を恐怖させたと言われています。1946年摂取した刀の一部は美術刀剣の名目で返されることになりました。

日本刀は古代に古来より信仰の対象権威の象徴で、美術工芸品でもありました。刀は複合的な文化財で、なくてはならないものなのです。 私は、日本刀だけは日本人として守り伝えていかなければいけないものだと思います。「美術刀剣」として、これからはクールジャパンの象徴として、刀剣を海外に発信していくことも必要だと思います。ただ、歴史の”負の部分”「刀剣が人を切るもの」だということも考えながら付き合っていく必要があると思います。命を奪う物だからこその怪しい美しさが「刀剣女子」を魅了するのかもしれません。

さらに刀剣作りには、鞘師・塗師・研り師等の関連職業があります。刀の必要性は今現在は無いわけですから、”孤塁を守る(ただ一つ残った土塁を守る)”彼ら達に頑張ってもらいたいと思います。その援軍が「刀剣女子」の皆さんになれれば良いと考えます。刀は日本人の成功と失敗の出発点になっています。失敗は刀に象徴される力や武力に過信が増えた場合に多くの問題が起きる。最も成功した事は、技術をアイデンティティにしたことだと思います。物作りをする人を尊敬する(とうとぶ)文化です。技術者全てが尊敬すると言って過言ではない、「本田宗一郎」は刀鍛冶の孫です。彼は死の床に就くまで、刀鍛冶だった祖父の話をしたといわれています。日本の"ものづくり"の精神性に刮目してほしいです。

宜しければ、日本刀ファンにもう一本送るブログ読んでください。素晴しい話ですよ!「関ヶ原の生き証人」、国宝太刀『銘 豊後国行平作』は歴史その物だった!

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2018/05/13

神々を訪ねて「出雲大社」を歩く!スピンオフ『天照大御神は卑弥呼なのか?』

『天照大御神は卑弥呼なのか?』


前々回、謎多き邪馬台国と女王卑弥呼。その正体が天照大御神では無いかとの説をブログに乗せたところ、大きな反響がありました。この謎に迫るために、スピンオフ企画として、卑弥呼=天照大神について私なりに考えてみました。

以前、邪馬台国サミット伯耆に参加した時に、基調講演で安本美典さん(元産能大学教授・季刊「邪馬台国」編集責任者・「邪馬台国の会主催」)が「私の邪馬台国(九州説)」の中で、「卑弥呼は、日本神話の天照大神(あまてらすおおみかみ)と同一人物ではないかと考えている。中国の史書「魏志倭人伝」は、卑弥呼が239年に魏へ使者を送ったと記す。神話を集めた「古事記」が完成したのは712年。400年以上後の奈良時代だが、古事記の天照大神に関する記述は、倭人伝中の卑弥呼と類似する箇所がある。」と述べられました。

amaterasu.jpg
(KOEI三国志卑弥呼より)

安本さんの考え方はこんなん感じです。「私は日本、中国、西洋の天皇や王の在位年数を平均し、1~4世紀の天皇の平均在位年数を?年と割り出した。古事記に記された天皇が全て実在すると仮定し、それぞれ約10年在位したとすると、九州から東へ攻め上り、大和政権をつくったとされる神武天皇が活躍したのは280~290年ごろと計算できる。つまり、近畿地方における大和政権の成立は、邪馬台国の時代より後になる。天照大神は神武天皇の5代前なので、50年さかのぼると活躍した年代は230~240年。卑弥呼が魏へ使者を送った時期と重なり合う。」でした。それでは反対意見も踏まえて私も、少し考えてみましょう。

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【天照大御神は卑弥呼とそっくりだ!】

CIMG1613.jpg(伊勢神宮と一緒に昼と夜を護る!あれ?夜は月読様じゃなかったっけ!)
CIMG2758.jpg(伊勢神宮に祀られる天照大御神)
CIMG1614.jpg(出雲「日御碕神社・日沈宮」に祀られる天照大御神)


まず最初に、皇紀2600年について私市郎右衛門の見解ですが、はっきり言って無理が有るかも知れません。ただし全くの否定というわけでもありません。「日本書紀」の日本建国は2678年前であり、考古学では2000年かそれ以前と考えられています。皆さんは縄文時代がどれくらい続いたかご存知でしょうか?約1万5,000年前(紀元前131世紀頃)から約2,300年前(紀元前4世紀頃)なんです。その間14700年間に素晴しい国造りをしていたことは、青森の三内丸山遺跡で見て来ました。その様な国の一つとして生まれた倭国が、最後に日本を統一したとすれば、あながち皇紀2600年もありえなくはないと考えます。古代天皇が100歳生きたというのは、さすがに無理が有ると考えているわけです。さて、前出の「安本美典さん」の考えを箇条書きにするとこんな感じです。

卑弥呼は三世紀あたりに実在した日本の女王です。日本の歴史書である古事記・日本書紀にはもちろん中国名である卑弥呼は出てきません。しかし、記紀にも卑弥呼は別名つまり、日本の呼び名で登場するのではないかと考えるのは妥当です。記紀の記述から、女性で最高の地位にある古代の人物を探すと、天照大神と神功皇后くらいしかいません。しかし、神功皇后は時代が異なるというのが通説です。日本書紀の神功皇后の三韓征伐には新羅や百済が出てきますが、新羅の建国は356年。百済は346年なので卑弥呼時代よりも100年以上は後になるのです。

それでは、天照大神はどうでしょう。記紀では天照大神の時代はありえないほど太古となっています。日本書紀によると日向時代だけで179万2470年余りとなっています。しかし、天皇の在位期間を考えてみると、意外に新しいのではないかと考えることも可能です。

31代・用明天皇は585年に即位しています。40代・天武天皇は686年崩御です。つまり、31代から40代までの10代の平均在位期間は10年ほどとなります。これを適用すると神武天皇の即位は285年あたりとなり、その五代前の天照大神の時代は240年あたりになります。このような考え方をすれば、天照大神と卑弥呼の年代は重なる可能性があるわけです。また、文献的に見た記紀の天照大神と魏志倭人伝の卑弥呼には共通点が多くあります。

1、共に女性で最高の地位にあること。共に独身であること。共に巫女的な存在であること。
2、卑弥呼は日御子(ヒノミコ)の中国読みと考えられますが、天照大神の名前も太陽に関係あること。
3、天照大神は岩戸から出てくるとき鏡が重要な役割を果たしますが、卑弥呼も魏から百枚の鏡をもらっていること。
4、卑弥呼には狗奴国、天照大神には須佐之男命という宿敵がいること。
5、卑弥呼は狗奴国との争いの最中に亡くなり、天照大神は須佐之男命の乱暴に怒って天岩戸に隠れること。
6、卑弥呼が亡くなると、跡継ぎをめぐる争いが起こり千人あまりが殺され、天照大神が岩戸に隠れると、高天原や葦原中国はみんな真っ暗闇になり、悪い神が騒ぎ出すこと。
7、卑弥呼の後を継いだ台与が女王になると国中が定まり、天照大神が天岩戸から出てくるともとのように明るくなること。
8、台与が女王になると、さらに男王が立ち、共に中国の爵命を受け、また天照大神が岩戸から出てくると高皇産霊尊が登場し、共同で高天原を治めること。つまり、共に男女の王の並存が語られていること。

このように、卑弥呼とそのあとを継いだ台与という二人の女王が、ひとりの天照大神の伝説として残っていたと考えられるわけです。天岩戸の隠れる前が卑弥呼で、天岩戸から出てきたあとが台与ということになります。

天照大神の子孫である神武天皇は、その後日向を発ち東征の旅に出ます。大和の橿原で即位し、初代天皇として即位するわけです。というわけで、天照大神=卑弥呼+台与は邪馬台国九州説(東遷説)ということになります。

【反論】


1)天皇在位年数の計算が都合よすぎる。
2)卑弥呼 は本来在位していた男王の後に共立されて歴史に登場しているが、天照大神 は血統に基もとづいて、始めから女神として神話に登場している。
3)天照大神 には婿が いた筈で あるが、卑弥呼 に夫や婿は いない。
4)天照大神 には五男三女が いたと記録されているが、卑弥呼 に子息,息女が いた形跡は無い。
5)卑弥呼 の男弟は 卑弥呼 を補佐しているが、素戔男尊 は とても 天照大神 を補佐しているとは言い難い。
6)卑弥呼 の後には男王が立った後に廃立されて女王 壱与 が再度共立されているが、天照大神 の後には血統による継嗣が続いて おり、女王が共立された形跡は見当たらない。
7)卑弥呼 の後を継いだ 壱与 に当たる人物が、天照大神 の近辺では見出し にくい。

等々、確かに納得できる疑問ですね~(;^_^A、私はこの反論を跳ね返すことが出来るのか~~?

【市郎右衛門夢物語】


まず、最初に反論に対する代替え案を出す前に、私がけして「安本美典さん」のご意見に感化されて味方(賛同)しているわけでは無い事を表明させていただきます。安本さんは邪馬台国九州説を採用されていますが、私は邪馬台国移動説を提唱したいと思います。王都は移動するんです。纒向にも行きましたが、王(女王)に死が訪れると神殿(政殿)は廃棄されて移動しているようです。つまり卑弥呼ないし壱与がいる場所が邪馬台国であるという意見です。

次に、卑弥呼の呼び名は地位であり日御子(ヒノミコ)ではなく「姫巫女」の当て字ではないかと考えます。さらに卑弥呼と天照大神が同一人物である「安本説(邪馬台国は九州)」なら「古事記」の神話部分に九州が出てこないわけがありません。

26代継体天皇・継体元年(507年?)即位、50代桓武天皇・延暦25年(806年)崩御の299年間に26人の天皇が変わり、平均在位期間は約12年、継体天皇以前の25代にその三代前の邇邇芸命と二代前の天照大神を足すと30代、30×12=360ですから、継体天皇即位の507年から360を引くと147年となってしまい卑弥呼の年代と100年の誤差が出て重なるとはいえません。確かに31代・用明天皇は585年に即位と40代・天武天皇は686年崩御を採用するのは都合がよすぎる気がします。しかし欠史八代を信じて、神武天皇と崇神天皇を同一人物と考ええば、武烈天皇から天照大神まで21代、21×12=252、507-252=255となり時代が合ってきますね。

卑弥呼→男王→ 壱与の王位継承についてですが、伊邪那美→伊邪那岐→天照大神はどうでしょう。古事記における伊邪那美の足跡は出雲にたくさん有るのですが、天照大神についてはあまり無いのです。天照大神は伊邪那美が死んだ後に伊邪那岐一人(別の女性との間)が生んだことになります。さらに伊邪那美と伊邪那岐は兄妹神(姉弟でも問題ないのでは?)です。天の岩戸にお隠れになったは、死を意味すると考えます。伊邪那美の死を多いわで、ふさいだのは伊邪那岐です。新たな太陽神が天照大神(壱与)ではないでしょうか。

天の岩戸=皆既日蝕説について、近年の研究では247年248年に皆既日蝕が発生していますが、邪馬台国は3世紀ごろのお話、国の始まりは1世紀ごろという説が有力です。手掛かりとして、国立天文台の谷川清隆特別客員研究員と相場充助教が2年かけて調べたのは、その間の1~3世紀に日本付近であった皆既日食の通り道です。

「皆既日食が見られる皆既帯の場所は限られる。邪馬台国で皆既日食が見えた事はないか」という推論をもとに研究されています。推論の根拠は日本書紀です。天照大神が天の岩屋戸に隠れ、辺りが闇に包まれたという神話が描かれています。記述が具体的であることから、この描写は皆既日食を指しているという解釈があります。天照大神=卑弥呼の説を成り立つためには、岩屋戸神話は邪馬台国など文明地で見られた皆既日食に基づいているのではないか、と推論されています。

1~3世紀には58年、158年、247年、248年の4回の皆既日食があったことが計算上わかっています。問題となったのは、地球の自転でした。月の引力などの影響を受け、地球が1回転する時間は少しずつ長くなっている。このため、約2千年前に起きた日食の場所をシュミレーションするには、時刻の補正が必要でした。2人は朝鮮の歴史書「三国遺事」に出てくる「新羅地方で太陽の光が消えた」との記事に着目します。これが新羅で見えた158年の日食と特定した。そこから導いた補正の幅から、248年皆既帯は東北地方、247年の日食は日本では日没後で、畿内、九州のいずれも皆既日食が見られなかったことがわかりました。

158年の日食は、朝鮮半島から山口、愛媛で日没直前の午後7時過ぎに20秒ほど皆既になったが、これも畿内、九州は外れています。つまりつまり天照大神の天岩戸に隠れるは日蝕とは関係なく、天照大神の死亡を意味しているのではないでしょうか?

私の勝手な(素人だから言いたい放題!)考えを採用すれば、安本さんに対する反論はほぼ解決できるのではないでしょうか?

【最後に一言】


今回、2011年に米子で行われた、古代史(邪馬台国)サミットIN伯耆から題材を頂き、言いたい放題書かせていただきました。この中には邪馬台国山陰説も勿論有りました。私のような素人がプロの考えに真っ向から反対意見を述べられるのも、まだ事実が解明されていないからですし、それがまた楽しみでもあります。

米子に単身赴任したことで、とても面白い生涯学習のテーマをもらうことが出来たことに感謝するとともに、私の産まれた山陰にスポットが当たる事は素晴らしく嬉しい事ですね。

まだ取材はしてはいないのですが、島根県松江市の田和山遺跡を松江市教育委員会のページから簡単にご紹介させていただきます。風土記の丘資料館から、西へ車で10分進むと、山陰自動車道沿いに田和山遺跡が現れます。今から約2,000年前に、その威容を誇った田和山遺跡は、三重の環壕(全国に類を見ない)がぐるりと山頂を囲み、その外側に住居跡が広がるという、他に例のない構造を持つ、謎めいた弥生の環壕遺跡です。山頂に上がると、遠くは大山など『出雲国風土記』にも登場する山々を見晴らすことができ、眼下には宍道湖が広がります。まさに心洗われる風景だそうです。現在は松江市立病院が隣に立っていますが、是非出かけてみたいですね~ここが卑弥呼の神殿跡かもしれません。


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