2018/06/03

「刀剣女子」必見!国宝『童子切り』はここで創られた。

『出雲大社・荒垣内摂社・そして最期の神殿』シリーズをお待ちの皆さんもう少し待ってください。出雲大社取材後ゴールデンウィークで実家に帰省する途中大山で見出し取材を慣行。



【プロローグ】刀剣女子と春日神社の屋根裏



名刀を擬人化したオンラインゲーム『刀剣乱舞(とうけんらぶ)』をきっかけに(”とうけんらんぶ”だと思ってたんですが、”らぶ”だそうです)、約3年前に火が付いた刀剣ブームがさらに広がりを見せています。人気を支えるのは「刀剣女子」と呼ばれる若い女性たちです。展覧会などが各地で計画され、開催される刀剣展にも女性たちがこぞって詰めかけているのだそうです。ブームを通して鑑賞眼を養い、知識を深めていく刀剣女子。彼女たちはなぜ日本刀に魅了されるのでしょう?女性たちはみずからをゲームでプレイヤーを指す呼称である審神者(さにわ)と呼んでいるのだそうです。ちなみに本来の歴史用語の審神者(さにわ)とは、古代の神道の祭祀において神託を受け、神意を解釈して伝える者のことです。後には祭祀の際に琴を弾く者を指すようにもなっています。

そんな「刀剣女子」の皆さんこんなレジェンドも作ってます。銘刀『蛍丸』復元のため、刀工の福留さんと興梠さんががクラウドファンディングを開始すると4500万円があっさりと集まった!ちなみに、蛍丸(ほたるまる)とは、来国俊作の日本刀(大太刀)で、阿蘇神社に保管されたことから”阿蘇の蛍丸”とも呼ばれる物ですが戦後の混乱期に行方不明に成っていました(ゲームの中では可愛い男の子キャラだそうです。)。

P5200586.jpg(奈良春日大社宝庫の写真は撮ってなかった。大社自体はまたの機会にご紹介します。)

先日、我が但馬でも「竹田城」最後の城主「赤松広秀」が所蔵し数奇な運命に翻弄された日本刀『獅子王』の写し刀が、418年ぶりに”帰郷”したニュースがありました。こちらもクラウドファンディングで刀剣女子の皆さんの尽力が有ったようです。但馬人の一人として感謝申し上げます(刀剣女子の知識は私の歴史雑学の及ぶところでは無いようなので、ちょっとビビッてます。)。『獅子王』418年ぶりに“帰郷”の話題はまたの機会に取り上げたいと思います。

春日神社の屋根裏って何だ?と考えられたと思いますが、戦前「春日大社」の宝庫の天井裏で発見された太刀を約80年経ってサビを落として修理を施したところ、最古級の日本刀だったことがわかりました。長くなりそうなので詳しく後で説明しましょう。

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天井裏の刀は古伯耆の中でも最古とみられる刀工「安綱(やすつな)」作?


ss032-3[1]
(先日国宝展に見に行ったのですが古伯耆は無かったのでWikipediaから拝借しました。)

春日大社(奈良市)の発表によりますと、所蔵する太刀1本を研磨した結果、日本刀の原型が成立した最初期である平安時代末期ごろに作られた「古伯耆物(こほうきもの)」と呼ばれる最古級の日本刀と判明したそうです。現存する鎌倉時代以前の刀剣の中でも長寸の刃長82.4センチで、製作した当時の形がほぼ残っており貴重なものだそうです。

1939(昭和14)年に大社宝庫の解体修理をした際に天井裏(屋根裏ではなく天井裏ですね・笑)から発見された太刀12本のうちの1本です。刀身がさびていた太刀について2015年から「第60次式年造替(しきねんぞうたい)」を記念して順次、刀剣研磨師の人間国宝、「本阿弥光洲(ほんあみこうしゅう・光意系本阿弥18代、本阿弥家は刀剣のとぎ(磨研)・ぬぐい(浄拭)・めきき(鑑定)の三業を家職としています。本阿弥光悦が有名ですね。)さんに研磨してもらっており、今回の太刀が4本目だったそうです。

日本の刀剣は、古代遺跡での出土品や正倉院宝物などにみられる反りのない「直刀」から、平安後期に反りなどの付いた現在の日本刀の形が成立し始めます。伯耆国(現鳥取県中西部)で作られた「古伯耆」などが最初期のものとされています。この刀も持ち手付近からの反り方など最初期の特徴を備えていたうえ、焼き入れの際に刃の表面に入った模様の特徴などから、伯耆国(現在の鳥取県)で作られた古伯耆物と分かりました。古伯耆には十数点の国宝・重要文化財があり、この刀も製作者の銘は無いものの、調査した東京国立博物館の酒井元樹・主任研究員(日本工芸史)によると、「これだけ長寸の古伯耆で、外装も残っているのは珍しく、国宝「童子切(どうじぎり)」(同博物館蔵)で知られ、同時代に活躍した刀工、安綱(やすつな)が製作した可能性があるといいます。

平安時代から武家に伝わる「伝家の宝刀」が、南北朝~室町時代初め(14~15世紀)に大社に奉納されたとみられ、外装は、中世の武士が常用していた「黒漆山金作太刀拵(くろうるしやまがねづくりたちこしらえ)」と呼ばれる作りですが、その前には別の外装が施されていたとも考えられ、日本刀の歴史を考える上で重要な資料として注目されます。 

国宝『童子切り』ってどんな刀?



童子切(どうじぎり、どうじきり)は、平安時代の伯耆国の大原の刀工・安綱作の日本刀(太刀)です。童子切安綱(どうじぎりやすつな、どうじきりやすつな)とも呼ばれ、日本の国宝に指定されています。国宝指定名称は「太刀 銘安綱(名物童子切安綱) 附 絲巻大刀 梨地葵紋散蒔絵大刀箱」(たち めい やすつな めいぶつどうじぎりやすつな つけたり いとまきたち なしじあおいもんちらしまきえたちばこ)です(;^_^A。

刃長二尺六寸五分(約80.3cm)、反り?(はばき)元にて約一寸(3.03cm)、横手にて約六分半(1.97cm)、重ね(刀身の厚さ)二分(約0.6cm)。造り込みは鎬造(しのぎづくり)、庵棟(いおりむね)。腰反り高く小切先。地鉄は小板目が肌立ちごころとなり、地沸(じにえ)が厚くつき、地斑(じふ)まじり、地景しきりに入る。刃文は小乱れで、足よく入り、砂流し(すながし)、金筋(きんすじ)入り、匂口深く小沸つく。帽子は小丸ごころに返り、掃き掛ける。茎(なかご)は生ぶ。先は栗尻。鑢目(やすりめ)は切。目釘孔1つ。佩表に「安綱」二字銘を切る。制作は平安時代後期とされます。

なお、刀身と共に金梨地鞘糸巻拵えの陣太刀様式の外装が現存していますが、この拵えは桃山時代に製作されたものであり、それ以前に収められていた拵えがどのようなものであったのかは判然としていません。天下五剣の一つで、大包平と共に「日本刀の東西の両横綱」と称される最も優れた名刀とされます(データはWikipediaより)。

『童子切り』の名前の謂れが凄すぎる。



かつて伯耆国会見郡の『大原五郎太夫安綱』という鍛冶が一心清浄の誠で鍛え、時の将軍・坂上田村麻呂(蝦夷征伐で有名)にこれを奉じたものだといわれます。田村麻呂が鈴鹿山にて鈴鹿御前と剣合わせした太刀であり、その後は田村麻呂が伊勢大神宮に参拝の折、大宮より夢の告を受け、御所望有りて御殿へ奉納したといわれています。 源頼光が太神宮参拝の時に夢想があり「汝に此剣を与える。是を以って子孫代々の家嫡に伝へ、天下の守たるべし」と示給された太刀です。ちなみに源頼光は但馬国司として但馬に赴任し、前回UPでも登場した我が家となり地区上郷の館で「朝まだき 空櫓(からろ)の音の聞こゆるは、蓼刈る舟の 過ぐるなりけり」と円山川の景観を詠っています。

さて『童子切り』ですが、酒呑童子の説話を書いた絵巻や絵詞などの諸本では、清和源氏の嫡流、源頼光(『太平記』では渡辺綱とされています。)が酒呑童子を斬った太刀として「血吸」(血すい、ちすい)の名前が登場します。頼光が丹波国大江山に住み着いた鬼、「酒呑童子」の首をこの太刀で切り落としたという伝承から「童子切」の名がついたとされます。享保4年(1719年)に江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が本阿弥光忠に命じて作成させた『享保名物帳』には「名物 童子切」として由来と共に記載されています。

慶応義塾大学図書館蔵『しゆてんとうし』には『太平記』からの引用が見られるます。『太平記』によると、坂上田村麻呂が伯耆国大原五郎大夫安綱が打った太刀であり、田村麻呂が鈴鹿御前との戦いに用いた後に伊勢神宮に納められ、頼光が参宮した際に夢中で託宣があり伊勢神宮より下賜った源氏累代の太刀とされます。しかし、その後の渡辺綱が牛鬼を切ったという逸話は綱の持つ鬼切に引用されています。また酒呑童子絵巻の中には酒呑童子の首を絶つに用いた太刀をすでに鬼切丸と称すものもあるようです。『太平記』の物語は以下のようなものです。

【大和国宇陀郡大森に夜な夜な妖者が出没するので頼光は配下の渡辺綱に妖者を討つよう命じ、貸し出したこの太刀で妖者の手を切り落とした。綱が妖者の手を頼光に奉じたところ、妖者は手を取り返そうと頼光の母に化けて頼光の家の門を叩いた。頼光が切り落とした手を見せたとたんにそれを掴み、妖者は自分の右ひじに指し合せ長二丈ばかりの牛鬼となった。頼光は件の太刀で牛鬼の頭を切り落としたがその頭は飛び踊り、太刀の切先を五寸食いちぎって半時吠え怒ったあと地に落ちて死んだという。そののち、この太刀は多田満仲の手に渡り、信濃国戸蔵山にて鬼を切ったという。これにより「鬼切」と称することになったという。— 『太平記』より大意】

現在では制作年代は酒呑童子伝説(10~11世紀)の時期よりも後なのではないかとの見解もあるようです。刀剣研究家の佐藤寒山は、「大江山物語はフィクションが多く含まれていることは否めないだろう(そりゃそうですよね)。しかし童子切は享保名物帳にあることでも、同作の安綱在銘の太刀が比較的に多く現存する中で、安綱中第一等の作であるのは明らか」と記しています。

室町時代には足利将軍家が所蔵していたとされています。足利義昭から豊臣秀吉に贈られたとされ、さらに徳川家康とその子である徳川秀忠へと受け継がれました。慶長16年(1622年)には勝姫が越前国福井藩主である松平忠直へと嫁ぐ時の引き出物であったといい、忠直から松平光長を経て津山藩の松平家に継承されたとされます。光長が幼少の頃、疳の虫による夜泣きが収まらないのでこの刀を枕元に置いたところたちどころに夜泣きが止んだ、浮かんだ錆を落とすために本阿弥家に持ち込んだところ近隣の狐が次々と本阿弥家の屋敷の周囲に集まってきた、等の様々な逸話が伝わっている刀です。

江戸時代に町田長太夫という試し斬りの達人が、6人の罪人の死体を積み重ねて童子切安綱を振り下ろしたところ、6つの死体を切断しただけではなく刃が土台まで達した、という逸話が残っています(どれほど切れるんだ~笑)。明治に入って後も津山松平家の家宝として継承され、1933年(昭和8年)1月23日付で子爵松平康春の所有名義で国宝保存法に基づく国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定されています。文化財保護法に基づく現”国宝”に指定されたのは1951年(昭和26年)です。太平洋戦争終戦後は、津山松平家から手放され、個人所蔵家の所有となりましたが、1962年(昭和37年)に文化財保護委員会(文化庁の前身)によって買い上げられ、現在は東京国立博物館に所蔵されています。

DOJI_KIRI_sword[1](初めて反りが入った刀とも言われます。)

『童子切り』はここで創られた!


P5041970.jpg(大原神社、御祭神は不明です。)
P5041980.jpg(拝殿、安綱も祈りを捧げたのか?)
P5041986.jpg(巌藻ですね~現在は伯耆国ですが古代はこの地は出雲の一部だった証拠かもしれません。)
P5041996.jpg(簡素な神殿ですが、水の流れる音が聞こえます。)



さて今回取材したのは鳥取県伯耆町大原にある伯耆安綱伝承の地と伝承地の傍の大原神社です。刀を作ることは神事ですし、当然伯耆安綱も大原神社で祈りを捧げたと思います。更には神社の御祭神は不明ですが、地下を流れる大山の湧水の音がしました。水は焼き入れに欠かせないもので、反りのかたちもこの工程で決まります。水は古い水で汲み置きして余計なガスが飛んだ落ち着いた水を使うそうです。大山の不純物の無い湧水が名刀の創出に一役買ったのではないでしょうか?

P5042002.jpg(伯耆安綱伝承の地)
P5042019.jpg(説明版「大原古鍛治発祥の地」と伯耆安綱の系図)
P5042007.jpg(伯耆安綱伝承の碑)

【最後に一言】やはり日本刀って凄い。



日本刀には二度の存亡の危機がありました。一度目は、1876年(明治9年)3月28日に発せられた年に出された「大礼服並軍人警察官吏等制服着用の外帯刀禁止の件(たいれいふくならびにぐんじんけいさつかんりとうせいふくちゃくようのほかたいとうきんしのけん、明治9年太政官布告第38号)は、大礼服着用の場合並びに軍人や警察官吏などが制服を着用する場合以外に刀を身に付けることを禁じる内容の太政官布告です。なお、略称として、廃刀令または帯刀禁止令と呼びます。この法令により武士の刀の着用禁止を指示しています。廃刀令による武士の消滅こそ最終的な戦国時代の終わりとも言えます。

二度目は、1945年に日本が敗戦時です。占領軍は軍隊や民間の武装解除を求め、この時 GHQ が摂取した日本刀は数百万にものぼり、名刀も多数ありました。戦利品として海外に持ち出されたもの、海に捨てられたもの、ガソリンをかけて燃やされたものまでありました。戦時の抜刀突撃の怖さはアメリカ兵を恐怖させたと言われています。1946年摂取した刀の一部は美術刀剣の名目で返されることになりました。

日本刀は古代に古来より信仰の対象権威の象徴で、美術工芸品でもありました。刀は複合的な文化財で、なくてはならないものなのです。 私は、日本刀だけは日本人として守り伝えていかなければいけないものだと思います。「美術刀剣」として、これからはクールジャパンの象徴として、刀剣を海外に発信していくことも必要だと思います。ただ、歴史の”負の部分”「刀剣が人を切るもの」だということも考えながら付き合っていく必要があると思います。命を奪う物だからこその怪しい美しさが「刀剣女子」を魅了するのかもしれません。

さらに刀剣作りには、鞘師・塗師・研り師等の関連職業があります。刀の必要性は今現在は無いわけですから、”孤塁を守る(ただ一つ残った土塁を守る)”彼ら達に頑張ってもらいたいと思います。その援軍が「刀剣女子」の皆さんになれれば良いと考えます。刀は日本人の成功と失敗の出発点になっています。失敗は刀に象徴される力や武力に過信が増えた場合に多くの問題が起きる。最も成功した事は、技術をアイデンティティにしたことだと思います。物作りをする人を尊敬する(とうとぶ)文化です。技術者全てが尊敬すると言って過言ではない、「本田宗一郎」は刀鍛冶の孫です。彼は死の床に就くまで、刀鍛冶だった祖父の話をしたといわれています。日本の"ものづくり"の精神性に刮目してほしいです。

宜しければ、日本刀ファンにもう一本送るブログ読んでください。素晴しい話ですよ!「関ヶ原の生き証人」、国宝太刀『銘 豊後国行平作』は歴史その物だった!

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2018/05/13

神々を訪ねて「出雲大社」を歩く!スピンオフ『天照大御神は卑弥呼なのか?』

『天照大御神は卑弥呼なのか?』


前々回、謎多き邪馬台国と女王卑弥呼。その正体が天照大御神では無いかとの説をブログに乗せたところ、大きな反響がありました。この謎に迫るために、スピンオフ企画として、卑弥呼=天照大神について私なりに考えてみました。

以前、邪馬台国サミット伯耆に参加した時に、基調講演で安本美典さん(元産能大学教授・季刊「邪馬台国」編集責任者・「邪馬台国の会主催」)が「私の邪馬台国(九州説)」の中で、「卑弥呼は、日本神話の天照大神(あまてらすおおみかみ)と同一人物ではないかと考えている。中国の史書「魏志倭人伝」は、卑弥呼が239年に魏へ使者を送ったと記す。神話を集めた「古事記」が完成したのは712年。400年以上後の奈良時代だが、古事記の天照大神に関する記述は、倭人伝中の卑弥呼と類似する箇所がある。」と述べられました。

amaterasu.jpg
(KOEI三国志卑弥呼より)

安本さんの考え方はこんなん感じです。「私は日本、中国、西洋の天皇や王の在位年数を平均し、1~4世紀の天皇の平均在位年数を?年と割り出した。古事記に記された天皇が全て実在すると仮定し、それぞれ約10年在位したとすると、九州から東へ攻め上り、大和政権をつくったとされる神武天皇が活躍したのは280~290年ごろと計算できる。つまり、近畿地方における大和政権の成立は、邪馬台国の時代より後になる。天照大神は神武天皇の5代前なので、50年さかのぼると活躍した年代は230~240年。卑弥呼が魏へ使者を送った時期と重なり合う。」でした。それでは反対意見も踏まえて私も、少し考えてみましょう。

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【天照大御神は卑弥呼とそっくりだ!】

CIMG1613.jpg(伊勢神宮と一緒に昼と夜を護る!あれ?夜は月読様じゃなかったっけ!)
CIMG2758.jpg(伊勢神宮に祀られる天照大御神)
CIMG1614.jpg(出雲「日御碕神社・日沈宮」に祀られる天照大御神)


まず最初に、皇紀2600年について私市郎右衛門の見解ですが、はっきり言って無理が有るかも知れません。ただし全くの否定というわけでもありません。「日本書紀」の日本建国は2678年前であり、考古学では2000年かそれ以前と考えられています。皆さんは縄文時代がどれくらい続いたかご存知でしょうか?約1万5,000年前(紀元前131世紀頃)から約2,300年前(紀元前4世紀頃)なんです。その間14700年間に素晴しい国造りをしていたことは、青森の三内丸山遺跡で見て来ました。その様な国の一つとして生まれた倭国が、最後に日本を統一したとすれば、あながち皇紀2600年もありえなくはないと考えます。古代天皇が100歳生きたというのは、さすがに無理が有ると考えているわけです。さて、前出の「安本美典さん」の考えを箇条書きにするとこんな感じです。

卑弥呼は三世紀あたりに実在した日本の女王です。日本の歴史書である古事記・日本書紀にはもちろん中国名である卑弥呼は出てきません。しかし、記紀にも卑弥呼は別名つまり、日本の呼び名で登場するのではないかと考えるのは妥当です。記紀の記述から、女性で最高の地位にある古代の人物を探すと、天照大神と神功皇后くらいしかいません。しかし、神功皇后は時代が異なるというのが通説です。日本書紀の神功皇后の三韓征伐には新羅や百済が出てきますが、新羅の建国は356年。百済は346年なので卑弥呼時代よりも100年以上は後になるのです。

それでは、天照大神はどうでしょう。記紀では天照大神の時代はありえないほど太古となっています。日本書紀によると日向時代だけで179万2470年余りとなっています。しかし、天皇の在位期間を考えてみると、意外に新しいのではないかと考えることも可能です。

31代・用明天皇は585年に即位しています。40代・天武天皇は686年崩御です。つまり、31代から40代までの10代の平均在位期間は10年ほどとなります。これを適用すると神武天皇の即位は285年あたりとなり、その五代前の天照大神の時代は240年あたりになります。このような考え方をすれば、天照大神と卑弥呼の年代は重なる可能性があるわけです。また、文献的に見た記紀の天照大神と魏志倭人伝の卑弥呼には共通点が多くあります。

1、共に女性で最高の地位にあること。共に独身であること。共に巫女的な存在であること。
2、卑弥呼は日御子(ヒノミコ)の中国読みと考えられますが、天照大神の名前も太陽に関係あること。
3、天照大神は岩戸から出てくるとき鏡が重要な役割を果たしますが、卑弥呼も魏から百枚の鏡をもらっていること。
4、卑弥呼には狗奴国、天照大神には須佐之男命という宿敵がいること。
5、卑弥呼は狗奴国との争いの最中に亡くなり、天照大神は須佐之男命の乱暴に怒って天岩戸に隠れること。
6、卑弥呼が亡くなると、跡継ぎをめぐる争いが起こり千人あまりが殺され、天照大神が岩戸に隠れると、高天原や葦原中国はみんな真っ暗闇になり、悪い神が騒ぎ出すこと。
7、卑弥呼の後を継いだ台与が女王になると国中が定まり、天照大神が天岩戸から出てくるともとのように明るくなること。
8、台与が女王になると、さらに男王が立ち、共に中国の爵命を受け、また天照大神が岩戸から出てくると高皇産霊尊が登場し、共同で高天原を治めること。つまり、共に男女の王の並存が語られていること。

このように、卑弥呼とそのあとを継いだ台与という二人の女王が、ひとりの天照大神の伝説として残っていたと考えられるわけです。天岩戸の隠れる前が卑弥呼で、天岩戸から出てきたあとが台与ということになります。

天照大神の子孫である神武天皇は、その後日向を発ち東征の旅に出ます。大和の橿原で即位し、初代天皇として即位するわけです。というわけで、天照大神=卑弥呼+台与は邪馬台国九州説(東遷説)ということになります。

【反論】


1)天皇在位年数の計算が都合よすぎる。
2)卑弥呼 は本来在位していた男王の後に共立されて歴史に登場しているが、天照大神 は血統に基もとづいて、始めから女神として神話に登場している。
3)天照大神 には婿が いた筈で あるが、卑弥呼 に夫や婿は いない。
4)天照大神 には五男三女が いたと記録されているが、卑弥呼 に子息,息女が いた形跡は無い。
5)卑弥呼 の男弟は 卑弥呼 を補佐しているが、素戔男尊 は とても 天照大神 を補佐しているとは言い難い。
6)卑弥呼 の後には男王が立った後に廃立されて女王 壱与 が再度共立されているが、天照大神 の後には血統による継嗣が続いて おり、女王が共立された形跡は見当たらない。
7)卑弥呼 の後を継いだ 壱与 に当たる人物が、天照大神 の近辺では見出し にくい。

等々、確かに納得できる疑問ですね~(;^_^A、私はこの反論を跳ね返すことが出来るのか~~?

【市郎右衛門夢物語】


まず、最初に反論に対する代替え案を出す前に、私がけして「安本美典さん」のご意見に感化されて味方(賛同)しているわけでは無い事を表明させていただきます。安本さんは邪馬台国九州説を採用されていますが、私は邪馬台国移動説を提唱したいと思います。王都は移動するんです。纒向にも行きましたが、王(女王)に死が訪れると神殿(政殿)は廃棄されて移動しているようです。つまり卑弥呼ないし壱与がいる場所が邪馬台国であるという意見です。

次に、卑弥呼の呼び名は地位であり日御子(ヒノミコ)ではなく「姫巫女」の当て字ではないかと考えます。さらに卑弥呼と天照大神が同一人物である「安本説(邪馬台国は九州)」なら「古事記」の神話部分に九州が出てこないわけがありません。

26代継体天皇・継体元年(507年?)即位、50代桓武天皇・延暦25年(806年)崩御の299年間に26人の天皇が変わり、平均在位期間は約12年、継体天皇以前の25代にその三代前の邇邇芸命と二代前の天照大神を足すと30代、30×12=360ですから、継体天皇即位の507年から360を引くと147年となってしまい卑弥呼の年代と100年の誤差が出て重なるとはいえません。確かに31代・用明天皇は585年に即位と40代・天武天皇は686年崩御を採用するのは都合がよすぎる気がします。しかし欠史八代を信じて、神武天皇と崇神天皇を同一人物と考ええば、武烈天皇から天照大神まで21代、21×12=252、507-252=255となり時代が合ってきますね。

卑弥呼→男王→ 壱与の王位継承についてですが、伊邪那美→伊邪那岐→天照大神はどうでしょう。古事記における伊邪那美の足跡は出雲にたくさん有るのですが、天照大神についてはあまり無いのです。天照大神は伊邪那美が死んだ後に伊邪那岐一人(別の女性との間)が生んだことになります。さらに伊邪那美と伊邪那岐は兄妹神(姉弟でも問題ないのでは?)です。天の岩戸にお隠れになったは、死を意味すると考えます。伊邪那美の死を多いわで、ふさいだのは伊邪那岐です。新たな太陽神が天照大神(壱与)ではないでしょうか。

天の岩戸=皆既日蝕説について、近年の研究では247年248年に皆既日蝕が発生していますが、邪馬台国は3世紀ごろのお話、国の始まりは1世紀ごろという説が有力です。手掛かりとして、国立天文台の谷川清隆特別客員研究員と相場充助教が2年かけて調べたのは、その間の1~3世紀に日本付近であった皆既日食の通り道です。

「皆既日食が見られる皆既帯の場所は限られる。邪馬台国で皆既日食が見えた事はないか」という推論をもとに研究されています。推論の根拠は日本書紀です。天照大神が天の岩屋戸に隠れ、辺りが闇に包まれたという神話が描かれています。記述が具体的であることから、この描写は皆既日食を指しているという解釈があります。天照大神=卑弥呼の説を成り立つためには、岩屋戸神話は邪馬台国など文明地で見られた皆既日食に基づいているのではないか、と推論されています。

1~3世紀には58年、158年、247年、248年の4回の皆既日食があったことが計算上わかっています。問題となったのは、地球の自転でした。月の引力などの影響を受け、地球が1回転する時間は少しずつ長くなっている。このため、約2千年前に起きた日食の場所をシュミレーションするには、時刻の補正が必要でした。2人は朝鮮の歴史書「三国遺事」に出てくる「新羅地方で太陽の光が消えた」との記事に着目します。これが新羅で見えた158年の日食と特定した。そこから導いた補正の幅から、248年皆既帯は東北地方、247年の日食は日本では日没後で、畿内、九州のいずれも皆既日食が見られなかったことがわかりました。

158年の日食は、朝鮮半島から山口、愛媛で日没直前の午後7時過ぎに20秒ほど皆既になったが、これも畿内、九州は外れています。つまりつまり天照大神の天岩戸に隠れるは日蝕とは関係なく、天照大神の死亡を意味しているのではないでしょうか?

私の勝手な(素人だから言いたい放題!)考えを採用すれば、安本さんに対する反論はほぼ解決できるのではないでしょうか?

【最後に一言】


今回、2011年に米子で行われた、古代史(邪馬台国)サミットIN伯耆から題材を頂き、言いたい放題書かせていただきました。この中には邪馬台国山陰説も勿論有りました。私のような素人がプロの考えに真っ向から反対意見を述べられるのも、まだ事実が解明されていないからですし、それがまた楽しみでもあります。

米子に単身赴任したことで、とても面白い生涯学習のテーマをもらうことが出来たことに感謝するとともに、私の産まれた山陰にスポットが当たる事は素晴らしく嬉しい事ですね。

まだ取材はしてはいないのですが、島根県松江市の田和山遺跡を松江市教育委員会のページから簡単にご紹介させていただきます。風土記の丘資料館から、西へ車で10分進むと、山陰自動車道沿いに田和山遺跡が現れます。今から約2,000年前に、その威容を誇った田和山遺跡は、三重の環壕(全国に類を見ない)がぐるりと山頂を囲み、その外側に住居跡が広がるという、他に例のない構造を持つ、謎めいた弥生の環壕遺跡です。山頂に上がると、遠くは大山など『出雲国風土記』にも登場する山々を見晴らすことができ、眼下には宍道湖が広がります。まさに心洗われる風景だそうです。現在は松江市立病院が隣に立っていますが、是非出かけてみたいですね~ここが卑弥呼の神殿跡かもしれません。


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2018/04/05

古式『四條流姫井会包丁式』って何だ?

先日、平清盛由来の神戸市平野の祇園神社をご紹介しました。実はその時に、4月1日に行われる摂社「白玉稲荷明神社」で行われる『四條流姫井会包丁式』の紹介ポスターがあり、これは珍しいと早速出掛けて取材してきました。

P4011185.jpg(包丁とは思えません!まるで日本刀の様です)

四条流庖丁道は東京「神田明神」でも行われる包丁儀式で、平安時代から始まると伝えられる日本料理の流派で、「庖丁式」ともいわれます。庖丁道(庖丁式)とは料理に関する作法・故実や調理法などを最も頻用する調理器具の包丁で象徴した呼び名の事です。

私もテレビ等では、数度見たことが有ったのですが、実際に現場!それも目の前で見るのは初めてで、貴重な1日に成りました。それでは、作法に則り古来の包丁式を写真多めでご紹介致します。

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(包丁式が行われる舞舞台)
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(桜満開です。奥のテントの下が白玉稲荷です。)
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(祇園神社からは神戸の街並みが綺麗に見渡せます。)

【四條流起源】

P4011096.jpg(神官による神事が執り行われています。)


四條流の起源は、藤原山蔭(四条中納言、824年~888年)が、光孝天皇の勅命により庖丁式(料理作法)の新式を定めたことに由来すると伝えられています。朝廷の料理は宮内省に属す内膳司が司っていましたが、山蔭は宮内省内膳職とは関係ない人物なので、単に料理法や作法に通じた識者として指名されたと考えられます。9世紀には、唐から伝えられた食習慣や調理法が日本風に改善されて定着しつつあったと考えられ、それらをまとめて故実という形で山蔭が結実させたものだと思われます。これにより、山蔭は「日本料理中興の祖」とされています。四條流には様々な分流が有りますが、今回は神戸四條姫井会の四條流を取材してきました。

【四条流庖丁書】

P4011129.jpg(まな板を清めた後花を添えます。)
P4011134.jpg(三宝に飾る紙飾りも手は使いません。)
P4011167.jpg(紙を切って飾りを折っていきます。気迫が入ります。)
P4011150.jpg(三宝からまな板に鯛を移します。)


室町時代後期、すでに四条流の大意をまとめた料理書として『四条流庖丁書』が書かれています。奥書に「長享三年(1489年)二月下旬多治見備後守貞賢在判」とあり、この時期に成立したと思われます。四条流庖丁式の次第が記述され、俎(まないた)の名所・寸法などから記載が始まり、続いて具体的な料理法や、箸・膳の飾り方なども記載されており、当時の日本料理の素材や調理法を知る上で貴重な史料となっています。

驚いた事に、雁の皮煎・潮煎、カマボコ、鳥(雉)の焼き物・刺身、エビの舟盛り、このわた、鯛の潮煮、クラゲの和え物など、多彩な料理が紹介されています。また、四条流では刺身に添えるわさびと塩は接して並べる、酢も添えるべき云々など興味深い記述も有るようです(刺身に酢?面白いですね。)。花鰹の使用も記されており、当時から利用されていることが分かります。日本人の味覚、恐るべしですね。

もちもち、四条中納言藤原朝臣山蔭卿が、鯉の庖丁式を始めたことから、庖丁の儀式の切形が始ったと記載されています。

【庖丁儀式】

今回取材したように、四条流の庖丁儀式とされる、巧みな庖丁さばきによる荘厳な技術披露が現在でも継承され、行われています。藤原山蔭が鯉をさばいて以来の伝統と言われる技法を烏帽子・直垂をまとった姿で再現し、庖丁と真魚箸(まなばし)のみを用いて、鯉・鯛・鰹(今回は鯛でした!)などの素材に一切手を触れることなくさばいていくもので、各地の神事などで奉納されているようです。webで検索すると、伊勢神宮等でも行われたようです。今回庖丁式を執り行うのは、神戸四條流姫井会の方々です(家元、
三重道場・神戸道場が有るようです。)。

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「題 兜鯛」
庖丁人 神戸道場会頭 姫井隆之氏
持ち出し・納め 錬氏 山口るみ子氏

持ち出し・納め 錬氏の女性山口るみ子さんは、まだ慣れておられない様子で姫井隆之さんから、直前迄色々な所作を教わっておられました(笑)。先にどんな物か知りたくて、web検索したのですが、詳細はわかりませんでした。儀式の内容は、流派内の一部の人間で受け継がれる秘伝・秘事として取り扱われているとの事です。

元々年頭や慶事の際に庖丁の型を披露する儀式で、その初めは殿上人や大名が 賓客を歓待する意味で、主人みずから庖丁をとって、その庖丁ぶりを見せ、その切ったものを お抱えの料理人に調理させて賓客に供したといわれています。

P4011218.jpg(見事に下ろされた鯛です。)
P4011238.jpg(鯛の料理が終わりました。)
P4011240.jpg(決めのポーズではありません。円を描く流れの型です。)
P4011273.jpg(三宝に飾り付けた鯛の前で古式四條流の扇子で終了です。)

【最後に一言】

P4011287.jpg(三宝に綺麗に飾られた兜鯛です。見事!)

四條流姫井会包丁式は庖丁と真魚箸(まなばし)のみを使用しますが、手が鯛に触れることは全くありません。さらには、俎にも手を触れず調理された鯛を三宝に盛り付けます。最後にまな板を清め儀式はすべて終わります。古式ゆかしい包丁さばきはまるで能の舞を見ているようでした。庖丁を突き出す所作が裂帛の気合と共に太刀を差し出すような気迫を感じました。ちなみに戦国大名の伊達氏が藤原山蔭の子孫だそうです。神戸道場会頭の姫井隆之さんは料理人というより写真の通り武士の様ですよね。

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2018/03/03

「上巳の節句」=『桃の節句』=わが家のお雛祭りをご紹介!

七草粥の時に節句についてはお話いたしました。今日は3月3日「上巳の節句」「桃の節句」!お雛様ですね、実は今日から高校の同級生と香川に遊びに行く予定なのでジャスト24時を過ぎてUPしました。今日・明日は書けそうにないので苦肉の策です。

娘が二人(まん中に長男の三人兄弟です.。)いるのですが、ひな祭りを祝った事は余りありませんでした(娘達!ゴメンね)。長女の最初の雛祭りに妻の両親から大きなお雛様を頂きました。但馬の実家に置いていまして、毎年父(母が亡くなる前は二人で)が飾ってくれてます。凄く大きいので、残念ながら、神戸の家には飾るところが無いのです。でかくて高いので、八畳を占拠してしまいます。

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(かわいいですね~次女のお雛様です。)

次女が産まれて、実家の物は娘二人の物だよと納得させようとしましたが、やはり子供の事、「私のやで~」と長女をが権利を主張するので、亡くなった母が次女を気遣って、可愛らしい、神戸でも飾る事が出来る、コンパクトなお雛様をプレゼントしてくれました。中々セットする機会が無かったのですが、ブログも始めたので、紹介したいと思います。

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【お内裏様は右?左?】

ところで、お内裏様とお雛様の位置関係が、京都(京都でも一部だけかも?)と関東地方(京都以外の全て?)で違うのをご存じでしょうか。普段見慣れているお雛様は、お内裏様は向かって左側に並べられている場合が多いと思います。これは、関東(京都以外)でのお雛様の並べ方なんです。一般的なお雛様は向かって左側がお内裏様(男雛)で、右側がお雛様(女雛)ですね。

京都は公家の装いで飾るといわれています。京都ではお内裏様(男雛)が向かって右側に並べられます。理由については諸説がありまが、ちょっとややこしく成るので、よく考えて下さいね。解りやすく説明出来ないかもしれません。
御所における天子の玉座の位置は左ですから(天皇陛下に成ったつもりで考えて下さい)。つまり、天子様の左側には誰もい無い事に成ります。

日本古来の左は右よりも格が高い「左上座」という考えに倣っています。「左上座」とはお雛様側に立ってみて左であり、お雛様に向かってみると右になります。ですから「右大臣」より「左大臣」の方が地位は上に成ります。ちなみに相撲では東が上位ですよね~、あれは明治に成って東京に明治天皇が移られたので立場が変化しています。

「天子は南面し、臣下は北面す」とあるように天皇は南を向いているので、東は左、右は西に成ります。京都御所から見て東が左京区、西が右京区なのも(地図を北を上に見ると左右が逆転しています)内裏目線なんですね。御所の左近の桜・右近の橘も同じですね。見に行くと(一昨年から毎日見学できるように成っています。)右側が左近の桜です。

ここで重要なのは、日が昇る東が上座にあたるということで、天照信仰とも関連しているかもしれません。左大臣・右大臣が、天子の前に座っている場合、左大臣が東側で上位に当たります(左大臣から見ると下位の右大臣が左側に居ることに成り、左上座のルールが崩れた様に思えますが、この場合も天子を中心に考えて、西側に座って居るから右大臣が下位と考えれば良いでしょう)。

日本古来の「左上座」の考え方があるのなら、関東(京都以外)のお内裏様はなぜ向かって左に並べられているのでしょうか?江戸は武家の装いで飾る。武家社会中心の関東では「右上位」という考え方があり、身分や等級によって座る順番が決められていました。そのため関東地方のお雛様の配置もそちらに習って決められました。

大正天皇が、御即位式で皇后陛下の右に立たれた事は、文明開化以降に西洋文化が日本に入ってきて、西洋スタイルの即位に倣ったと思われます。大正天皇以降の天皇御即位式の配置が、お雛様の並び方に影響を与えた事は確かなようですが、それを決定付けたのは、昭和天皇の御即位式時、陛下が御立ちになる、高御座の位置が右側だった事が基準とされたようです。この時始めて新聞紙上に天皇と皇后の写真が載りました。その際にお二人がお写りになった位置をもって、関東の雛人形では右(お雛様側からの右です)がお内裏様(男雛)、左がお雛様(女雛)と決めた様です(写真で見ると昭和天皇が左側に香淳皇后が右側ですね)。

【 雛祭りの歴史】

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(桃は398円でしたが、一輪挿しは~備前焼「伊勢崎 晃一朗」さん「伊勢崎 淳」人間国宝の息子さんの作です。初めて使った~(;^_^A)

さて雛祭りは、もともと古代中国からわが国に七世紀頃に伝わり、平安時代にはお祝いとして宮廷行事となり、定着しました。 今年は昨年に引き続き雛祭りの原型ともいえる『流し雛』について少しお話させて頂きたいと思います。『流し雛(ながしびな)』は雛祭りのもとになったといわれる行事とも言われています(「雛流し」ともいわれます)。祓い人形と同様に身の穢れを水に流して清める意味の民俗行事として、現在も各地で行われています。今回写真で御紹介するのは鳥取県倉吉市の「流し雛」です。

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(鳥取県倉吉市の流し雛!鳥取市の物とはまた違った風情がありますね~。)
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(綺麗で穏やかですが、建物は地震で被害が有ったとも聞きました。残念な出来事です。)

この流し雛の起源は、『源氏物語』の須磨の巻に出てくるほどに古い歴史を持っています。光源氏がお祓いをした人形(形代)を船に乗せ、須磨の海に流したという記述があります。

三月節句に川や海へ流し送る雛人形、鳥取市周辺では竹骨に貼った小型の一対の紙人形を、三月節句(雛祭)に飾り祭ったうえ、3日の夕方供物の苞(つと)ともども、桟俵にのせて川へ流すのだそうです。現在は郷土玩具として流布もしますが、罪穢を移して流す「祓」の形代(かたしろ)の古意をとどめるもので岐阜県などでは粗製の土人形を流し送る風習が残っているようです。

また関東・中部の各地には、三月節句に子供たちが野外に雛人形を据えて祭り、名残を惜しみつつ「雛送り」をする風習がかなりみられる様です。さらには、古びた雛人形を神社や辻に送り納める習俗も広くみられ、「流し雛」とのつながりを示していると思われます。出雲「佐太神社」の「祓」形代(かたしろ)を紹介しましょう。此がお雛様の最も原形かも知れませんね。

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(佐太神社の水無月大祓の形代です。これがひな人形の原型「原点」だと考えます。)

江戸時代以来、雛人形が美術工芸品と化して保存愛玩されるようになると、「祓の人形」としての古意は失われますが、なお一部には古い「流し雛」の風習が残りました。「上巳(陰暦三月三日の桃の節句。)の祓」と習合した三月節句の原義は、むしろこうした「流し雛」の風習によくその跡をとどめているように思います。

その後、流し雛からさまざまな雛人形の形が生まれます。 そして、江戸時代のはじめに、雛祭りと呼ばれるようになり現在の雛人形の形ができあがります。その形に至る過程は、女性自身と子供の幸せを祈る気持ちの積み重ねによるものであることが、十五人の人形や付随する道具の多くのいわれの中からうかがわれます。

『うんちく①』雛人形の道具の中には、一対の貝桶が付いています(家の大きいお雛様にはついてると思ったけど、ついてませんでした(;^_^A)。
貝桶とは、現在のカルタと同じような遊び方をする、平安時代の遊具を入れる器で、中には蛤の貝が百八十づつ入っています。
そして、その貝の裏側には、絵が描かれ、同じ絵を合わせて遊んだり、また、歌貝とも言われ、和歌の上歌と下歌を会わせて遊ばれました。蛤は、他の蛤のフタとは絶対に合わないので、女の子が大きくなって婚姻したら蛤のように、一生夫と心を合わせて仲良く暮らしたいという気持ちを蛤に託したのでしょう。今日、貝合わせの遊びはなくなりましたが、雛祭りの料理としてちらし寿司に蛤のお吸い物は、付き物になっています。

因みに、今日私もブログ用にセットだけします~!(料理は大好きなのですが!)。蛤のお吸い物は昨年、蛤の身を柔らかなままに作るコツを長女に伝授したので、長女がチャレンジしました。ちらし寿司は、時間が無かったので購入しました。昨年はインスタントですが、お寿司も作り雛あられもありました。今年は手抜きですね。(;^_^A

P3020177.jpg(蛤のおすましに菜の花を添えて、ちらし寿司にと小鉢、器の説明したいけど見えないからな~笑、残念!)
P3030021 (2)(分かりました~ものグラム師匠のおかげで、写真の技術が上がっていますね、うんうん。)


『うんちく②』雛人形のお飾りとして、また食べ物として欠かせないものに、菱餅があります(今日は菱餅は買わなかった、笑)。菱餅の形は、水草のひしの実からきています(ひしの実が菱形なんです。)。昔は、ひしの実は、万病に効く薬草として重宝されました。

また、菱餅の色は、下から白、緑、赤の順番になっていますね、これは雪が降り、芽が出て花が咲く、といった春の草木の成長を表しているようです。子供が、健やかに成長し、立派に育ってほしいといった親の願いが込められているのですね(#^.^#)。

『うんちく③』
同じく、雛人形の飾りとして欠かせないものとして桃の花があります(桃の節句(*`・ω・)ゞだからね)。古くから中国では桃は単なる果物ではなく、桃源郷の不老不死の「仙果」として考えられていました。『西遊記』の中で、仕事もなくぶらぶらしていた孫悟空は天界の桃園・蟠桃園の管理をまかされます。

その桃園には、3,600本の桃の木があり、それを食べると不老不死が約束されるとされていました。この桃を、西王母(中国で古くから信仰されている仙女)の誕生日を祝う会・蟠桃会で食べる慣わしとなっていましたが、孫悟空が盗み食いをしてしまい、蟠桃会を台無しにしてしまったばかりか、不老不死の力も手に入れてしまうのは有名なお話です。西王母の誕生日が3月3日、つまり桃の節句です。

また、桃の花は、悪魔を祓うと言われてきました。古事記の神話で「黄泉の国」から逃げ帰る伊邪那岐は、その場にあった桃の木から実をもぎ取ってを投げつけることで黄泉の醜女を追い払っており、ここらにも中国文化の影響が出ているのかもしれません。ちなみに出雲安来の「黄泉比良坂」には今でも山桃の木が植えてあります。

そうしたことから、お雛さまの横には、桃の花を花瓶に生けたり、前飾りとして三宝を置き、その上の徳利に、桃の花をさして飾っているのです。そして、旧暦三月三日頃には、桃の花が咲くことから三月三日は、桃の節句とも言われています。

『うんちく④』
そして、現代になって雛人形の飾りとして、最も象徴的な存在が、雪洞(ぼんぼり)!これは、雛祭りの歌によるものが大きいと考えられます。「あかりをつけましょぼんぼりに…」から始まるこの歌はあまりにも有名です。雪洞に照らされたお雛さまのはんなりした雰囲気は、家庭の中にやすらぎと家族の絆を強く感じさせてくれます。この雪洞に照らされた雛人形の姿は、日本人が世界に誇る人形文化の傑作といえます。 

【歴史ブログなのでこんなお話】

兵庫県たつの市御津町室津地区では、ひな祭りを旧暦8月1日に行っていました。『室津追考記』によると、永禄9年1月11日(1566年2月1日)、室山城主・浦上政宗の次男・清宗と小寺職隆の娘との間で挙げた祝言(結婚式)の夜に、かねてより対立関係にあった龍野城主・赤松政秀の急襲を受けて政宗は清宗もろとも戦死し、花嫁も亡くなり、室山城は落城します。室津の人々はこの出来事を悼み、非業の死を遂げた花嫁の鎮魂のために、3月3日ではなく、半年遅れの八朔に雛祭りを延期したとされています。戦後、この風習は長く途絶えていたが、近年、町おこしの一環の「八朔のひな祭り」として復活したそうです。

たぶん?大河ドラマ「軍師 官兵衛」の影響?小寺職隆(「小寺」黒田官兵衛の父で配役は柴田恭兵さんでした)が養女にした娘の結婚式が襲われるシーンでしたね。岡田准一さん演じる黒田官兵衛の初恋の相手でしたか?

【デカいですね~トリを飾るのは長女が自分用と主張するモネ雛】

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(最後に登場、長女のお雛様!デカいですね~貝桶はやはり無いですね。このブログは時間かかりました~半日有給、爆笑)


元は中国の影響かも知れませんが、現在は完全に日本のひな祭りに成っています。こんな素敵な文化を子供たちに受け継いで行ければ、日本の国は1000年は大丈夫だと考える市郎右衛門です。

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リュミエールブラン ネージュ

  
2018/02/04

今年(2018年)は「南南東」『恵方巻』はコンビニの策略だ!

今年もやって来ました。今や全国的に広まった節分の恵方巻イベント、元々は、関西の一部(大阪と兵庫県の一部)だけで行われていた行事?でした。兵庫県北部但馬生まれの私は、子供の頃はまったく知りませんでしたし、そんな食べ方していなかったと思います。同級生や同郷の妻も、子供時代は知らなかったとのことでした。

兵庫県尼崎市(阪神間ですね!)の伯母の家では、私が小学生の40年以上前から、丸かぶりしていたのを記憶しています。
この近畿圏の私が知らない、「「恵方巻」成るものの歴史を追いかけて見ました。


P2020100.jpg(セブンイレブンの我がもの顔の垂れ幕です。)

どうやら、コンビニが大きな役割を担っているので、そちらも調べてまいりました。もう少しするとバレンタイン!こちらも同じように業者の策略に乗せられているようなので、少し冷静に考えてみましょうのブログです。

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【恵方巻の名前自体がコンビニの発案?】

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(子どもの頃は関西のコンビニはローソンだった。兵庫県の店舗数1位はセブンイレブン、2位はファミリーマート、ローソンは3位に後退しています。)

調べてみると、『恵方巻』の名前自体がセブンイレブン(1990年)の発案でした。元々は、関西圏でも『節分のり巻き』の名前だけだったようです。皆さんはこの、海苔巻きにかぶり付いている姿、何か日本らしからぬお下品さと、感じられた事はありませんか?そうなんです。

発祥に付いては幾つかの説が有る様ですが、江戸時代末期から明治時代初期、大阪の商人(「船場の商人」とする資料も存在します。)による商売繁盛の祈願事として始まったという説や、豊臣秀吉の家臣・堀尾吉晴(初代松江城主)が偶然節分の前日に海苔巻きのような物(様な物って?)を食べて出陣し、戦いに大勝利を収めたという故事を元にしているという説も有ります。ただし、板海苔の誕生は江戸時代であることから、この説の根拠の乏しさが指摘もされています(他にも幾つか説は有るようです)。

起因として「厄落とし・縁起担ぎ」や「船場にある階段の中段で女性が太巻きを丸かじりして願い事をした」更には「船場の旦那衆のあそび」等が挙げられています(その他にもまだ有ります。)。

【遊女と巻寿司】

しかし、私は最後の旦那遊びを推薦します。花街発祥の、「怪しげな風習」ですが、かつては商家の旦那たちが、遊女と巻寿司を使った遊びを楽しんでいたのだそうです。花街の遊女に海苔巻きをかぶり付かせて楽しんでいる旦那周の助平心が、このお下品な風習を広めたと考えると、納得しやすいのです(///∇///)。あっ!貴方、今ソフトクリームを舐める女性を想像しましたね。バナナやウィン…もうやめときましよう。兎に角そういう事だと思います。

なぜ、そんな風習が全国的に広まったのか?節分にその年の恵方を向いて巻き寿司に無言でかぶりつく、そうすれば幸せになる、願い事が叶う?毎年恒例の行事となりつつある「恵方巻」ですが。ただ、この風習の由来は定かではありません。あたかも伝統であるかのように「装われた」ものだと言われています。

いったいどういう経緯で、ここまでの広がりを見せたのか、恵方巻に詳しい民俗学者はこのように分析しています。熊本大准教授の岩崎竹彦さんは「とりあえず大阪の船場が発祥だということは確かでしょう」とBuzzFeed Newsの取材答えられています。節分の巻き寿司(恵方巻)の研究者で、「フォークロリズムからみた節分の巻きずし」などの論文をお出しの方です。

フォークロリズムとは、伝統的な民間伝承が、違う文脈で使われるようになることを指す言葉です。「もともとは船場の旦那衆が、花街でやっていた遊びでしょうね」岩崎さんの調査などによると、やはりかつて商家の旦那たちが、遊女と巻寿司を使った遊びを楽しんでいたのだそうです。

平安時代の絵巻物や映画・ドラマなとでも扇で口を隠す姿を良く見かけます。口を開ける(若しくは、口の中を見られる)事は恥ずかしい事だったようです。現代の様な歯科医院が無かった時代、虫歯等で歯が痛い時には、丸々抜いてしまう方法が取られました。ですから、お口の中はぼろぼろだったのかも知れません(恥ずかしい)。それがいつ頃から少しずつ、人々に浸透していったのでしょうか?明治末期の大阪で生きた人が残している回顧録などには、「家でそういうことをしていた」という記載もあるといいます。

いずれせにせよ、恵方巻きの明確なルーツは不明です。近畿地方の一部に広がっていた風習であり、「伝統行事」と言えるまでではなかったのです。

【大阪鮓商組合が商売に利用】

戦前から始まった「幸運巻寿司」こうした「怪しげな風習」にそれらしさを付与したのが、商業キャンペーンでした。前出の岩崎さんは、巻寿司に関するビラを収集しておられます。発見した一番古いものは、やはり1932(昭和7)年に大阪鮓(すし)商組合後援会が発行したものだそうです。これは、太巻きを自ら広めた大阪鮓商組合後援会事務局長も、認めておられるようなので、信憑性が高いですね!太巻は七福にちなんで、7つの具を入れて巻くのが基本になったようです。

「幸運巻寿司」をPRするためのビラには、こんな内容が書かれています。《この流行は古くから花柳界にもて囃されていました。それが最近一般的に宣伝して年越には必ず豆を年齢の数だけ食べるように巻寿司が食べられています。これは節分の日に限るもので、その年の恵方に向いて無言で一本の巻き寿司を丸かぶりすればその年は幸運に恵まれるということであります。宣伝せずとも誰言うともなしに行ってきたことを考えると、やはり一概に迷信として軽々しく片付けるべきではないかも知れません。いま、私たちが知っている「恵方巻」そのものだ。》ここでも「花柳界」(遊郭など)に原点があるとされています。

次に古いのは、1940年(昭和15)年に同じ組合が発行しているものです。そこに書かれている内容は、《巳の日に巳寿司と言うてお寿司を喰べるように毎年節分の日にその年の恵方に向かって巻寿司の丸かぶりをすると大変幸運に恵まれるという習わしが昔から行事の一つとなって年々盛んになっています。》

「習わし」「昔からの行事」としつつ、その由来には一切触れられていません。花柳という言葉が消えているのは、時勢として良くないとの判断があったのかもしれません。この年は「皇紀2600年」の節目です。戦時であり、国威高揚に熱心だったご時世でした。「大変幸運に恵まれる」ことは、消費者が望んでいたものでもありました。いずれにせよ、恵方巻と同じような風習は、戦前から寿司屋のマーケティングに活用されていたのです。

戦火が激しくなるうちに中断していたこのマーケティングは、終戦から4年後には再開していた様です。その後、高度経済成長期に突き進む日本で、この「風習」を利用したのが、スーパーマーケットとコンビニエンスストアでした。全国展開の基礎をスーパーがつくり、結実させたのはコンビニです。

1970年代後半から、大阪の海苔組合や厚焼組合などがビラを発行し始めます。大手のスーパーマーケットから依頼されたものもあったといわれます。ただ、どれも「昔の言い伝え」などとしている物でした。

一方の鮓組合は、風習の起源を明確に示したビラを発行しています。いつからかは不明だが、1990年のものにはこう記載されています。《江戸時代の末期若しくは明治の始め頃から大阪の中心地、船場が発祥地とされております。商売繁盛、無病息災、家内円満を願ったのが事の始りです。一説には若い女性の願いである好きな人と一緒になりたいという祈りから広く普及したとも伝えられております。》

岩崎さんは前出の論文の中で、こう指摘されています。「鮓組合のコピーによって昔からの言い伝えに根拠が与えられ、いわば怪しげで不可思議な風習が本物となった、あるいは本物であることの装いができあがった、と考えられる。」。こうして作られた「風習」はスーパーマーケットの折り込みチラシやチェーン店の寿司屋(小僧寿し?)、コンビニエンスストアによって広がりを持つようになっていきます。

バブル期には巻き寿司がどんどん豪勢になっていきました。マグロやカニやイクラを入れて、値段が高くなっていきました。一方のバブル崩壊後は、社寺で祈祷を受けたノリを使ってプレミアをつけていたようです。その頃はリストラの嵐でしたから、国民みんな大変な思いをしていると言うことで、祈りをキーワードに巻寿司も販売させようとした、業界の苦労が感じられます。

【全国に展開させたセブンイレブン】

P2020102.jpg(セブンイレブン恵方巻セット?)


それでも、昭和60年代や平成の初め頃ではまだ全国に浸透しているとは言い切れない状況でした。そんな中、チェーン店として初めて「恵方巻」という言葉を用いて全国展開を図ったのが、セブンイレブンです。

セブン&アイの広報担当者は、BuzzFeed Newsの取材にこう語っています。「1989年に広島県の一部店舗で『太巻きを節分にどうぞ』と売り出してみたのが始まりです。2月は催事が節分しかなく、関西出身のオーナーが関西では節分に太巻きを食べるという風習があることに目をつけて、おすすめしてみたそうです」。

オーナーの目論見は見事に功を奏し、そのまま展開が広がります。全国展開が始まったは、1998年のことです。売り上げは年々増加しています。2016年は、664万本が販売されました。(セブン&アイHLDGS)

ここまでくれば、「怪しげな風習」だった恵方巻は、もはや新たな「伝統」と言えるのではないでしょうか?北海道や沖縄には最近になってようやく風習が広がり始めたようです。特に沖縄はもともと節分行事がありませんでしたから、スーパーマーケットがどんどん宣伝をしている段階です。

ほぼ全国制覇は完結しそうです。まだ伝統と言えるかは微妙ですが、間違いなく、将来的には伝統になるでしょう。ちなみに、今年の恵方は「南南東」です。

【我が家の恵方巻!いや此方の方が重要だ。】

P2030149.jpg(鰯と柊、こちら重要です。ちなみに柊は食彩館さんの御好意で頂きました。角皿は下手くそな私の作品です。)
P2020119.jpg(そして豆まきセット、お面も付いてました。)
P2030129.jpg(そして私が食べるのは上の海鮮巻き「須磨寺」の胡麻祈祷・厄災難除のお札付きです。)
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(具は七種類、神戸七福神ゆかりのありがたい具材です。)

結婚してから毎年我が家でも、恵方巻(私は当然?海鮮巻ですが、笑)を買って黙って黙々と恵方にむかって食べております。近頃日本古来からの風習である、豆まきやイワシとヒイラギの魔除けの方を大切にしなければ行けないと感じています。反省材料ですね(笑)。

此方伝統の豆まきですが、宇多天皇(在位887~897)の時代に、鞍馬山の鬼(朝廷に、まつろわない民の総称?土蜘蛛等)が出て来て都を荒らしたので、祈祷で鬼の穴?を封さぎ、三石三升の炒り豆(大豆)で鬼の目を打ちふさぎ、災厄を逃れたという故事伝説が始まりといわれています。

豆まきは、「穀物には生命力と魔除けの呪力が備わっている」という信仰、または語呂合わせで「魔目(豆・まめ)」を鬼の目に投げつけて鬼を滅する「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いがあります。

柊と鰯は、柊の尖った葉に魔除け意味合いがあるようですし、鰯に付いては鬼は生ぐささが嫌いみたいです(ニンニク嫌いのバンパイアか!(;^_^A)。

【ここで何時ものうんちくを!】

鬼といえば、鬼門を思い出しませんか。鬼門は丑寅の方角(鬼は牛の角が生えていて、虎のパンツルックなのがご理解頂けましたか?)ですね。

京都御所は(鬼門封じとして比叡山延暦寺を作ったにも関わらず)北東が削られて、鬼に角が立たないように造ってあります。知っておられましたでしょうか(一昨年京都御所の鬼門写真が無くて、岩清水八幡宮の写真を使いました。その翌日京都御所の鬼門だけ撮影に行った私は、Bloggerの鏡です。自分言うか~!Σ(×_×;)!)?

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(京都御所の鬼門、角がへこんでいます。)

豆まきの掛け声にも地域性は有るようで、我が家の近く三田市(みたではなくて「さんだ」です。東京の三田と混同されるので、サンダクロースを掛け声にしています。無理ないかな?)では、戦国武将九鬼氏(九鬼水軍で有名!)の城下町なので、旧市街地では、「福は~内」「鬼も~内」だそうです(成る程ですね!)。

【最後に一言】

昨年比は、子供たちが私の書斎にも豆をまいてくれました。昔は普通に豆をまいていましたが、今は袋入りの豆(圧力で揚焼き?してあるのか、柔らかくて食べやすいです。埃も付くしね!)ですね、風情は無くなったけど、これも時代です。

今年は、私が友人と三ノ宮で遊んでいたので、豆まきは妻が代わりに行ってくれました。もう立春ですか、年を重ねると早いですね~(;つД`)。幼馴染というのは良いものです。気兼ねも無いし、女の子(もう子じゃないな)も皆若々しく、素敵な奥様方です。

伝統文化は当然ですが、少しずつ変化しています。これは今に始まった事では無いと思いますが、例え形は変わっても、日本人として伝えて行かなければいけない文化も有ると思います。勿論!「恵方巻」も良いですが、古来の豆まきも是非行って文化を引き継いで頂きたいです。

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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