2017/10/16

歴史の禁忌を開放するIF「秀頼野戦を選択」『瀬田の唐橋で家康を迎え撃つ』

前回のお約束、歴史にIFはありませんが、その禁忌を破って、豊臣秀頼が野戦を選んで近畿を制圧、瀬田の唐橋において家康を迎え撃ちます。そんな設定でシュミレーションを楽しんでみましょう。
紀州九度山で 真田昌幸が亡くなる直前 息子の信繁(幸村)に託した 豊臣勝利の秘策に勝利の奇跡は起こるのか?から想像を働けせて見ましょう。

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(真田信繁(幸村)出したかっただけです。)


【真田昌幸の秘策は、こんな作戦】

豊臣秀頼から兵を借り 青野ヶ原(現大垣市)へ布陣、します。そこは何もないただの平原で何故真田がこんなとこに布陣したのか徳川は疑問に思います。物見などを出してこちらの様子を伺いますが(家康は過去に昌幸に散々に負けた経験があり、真田が無策でこんなとこに布陣したとは考えないと推測します)。そうこうしているうちに一ヶ月は時間を稼ぐ事に精巧、真田の小勢が徳川の大軍を一ヶ月も釘付けにしたとなれば、豊臣有利とみて寝返る武将も出てくるのではないかと想像できます。そうなると徳川方に猜疑心が生まれ、混乱も起き始めます。そこを一気に攻め立てて劇はする作戦でした。しかし野戦上手の家康をそうも簡単に敗れるはすはありません。その時は「瀬田の唐橋」を落としてさらに時間を稼ぎ、西国大名の心変わりを待つというものでした。

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【真田幸村の父真田昌幸ってどんな武将?】

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(ちょっと見ずぼらしいいおじいさんですね。草刈正雄フアンの皆さん、期待裏切って申しわけない!)

真田昌幸は現代の歴史小説においては「謀略家」「謀将」として描かれる傾向が非常に強い武将です。もちろん幸村の活躍によって創作された部分も多いかと考えます。 江戸期に書かれた、『真武内伝』が信頼できるかどうかには疑問も持たれますが、これから昌幸の人物像を紹介しますと、「昌幸卒去」の項に死に臨んで信繁に対し、昌幸は九度山幽閉中に家康が近い将来豊臣氏を滅ぼすことを予期していたと記載され、その際には青野ヶ原(大垣市を中心とする西美濃一帯・関ヶ原とほぼ同地点)で徳川軍を迎撃する策などを画し、徳川軍が攻めてくれば巧妙に撤退しながら隙を見ては反撃し、最後は瀬田の唐橋を落として守り、多くの西国大名を味方に付けるように策す事を幸村に遺言したとされています。

戦上手で徳川軍に大損害を与えた真田昌幸、真田昌幸は、基本的に少数で大軍を追い払うことと、調略戦術を得意としていました。第一次上田合戦で徳川家康を撃退した時も、第二次上田合戦(関ケ原前夜です)で徳川秀忠を追い払ったときも、軍勢で大きく劣る相手を挑発して限界までひきつけ、怒涛の攻撃を加えています。

ちなみに、第一次上田合戦で家康と戦った際は2000弱の兵力で7000の軍勢を、第二次上田合戦では3000~4000の軍勢で38000の秀忠軍を打ち払うという離れ業を演じています。

昌幸は自軍手前ぎりぎりまで敵を引き付けての、一斉攻撃が得意でした。攻め入る敵を見て焦る家臣や兵たちを前に碁を楽しんだり、配下の者に能の演目を踊るように命じたなどの逸話もあり、冷静沈着で豪快、戦慣れした名参謀としての名を欲しいままにしています。

CIMG8016.jpg(大阪城ですが、今の城は豊臣の城をつぶして作ったものです。空襲で焼けてコンクリートエレべーター付きです。)
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(幸村死す!安居神社は、慶長二十年(1615)の大坂夏の陣の時、真田幸村(信繁)が 最後を迎えた場所です)

大坂の陣で真田が大阪城に入城したと聞いた徳川家康は、「それは親か?子か?」と配下の者に聞いたという逸話があります。過去に真田昌幸に手痛い目に遭わされていた家康は昌幸を非常に恐れていたらしく、手をかけていた戸がガタガタ音を立てて震えるほどだったといわれています(ちょっと大河ドラマの見過ぎですね)。配下の者が「昌幸は既に死去しており、息子の信繁(幸村)が入城致しました」と返答すると、家康は安堵してへたり込んでいました。

【私が豊臣VS徳川を選んだ理由】

現在の瀬田の唐橋状態が一番防御力に優れていると現地で考えたからです。織田信長が現在の位置に架橋(少し上流に移動しています)しています。架橋奉行は木村次郎左衛門と瀬田城主の山岡景隆で、若狭の神宮寺山と近江朽木から材木を取り寄せ、幅四軒(約7.2m)長さ一八〇軒(約327m)の橋を90日で完成させたといわれます。

P761986549.jpg(浮世絵で見ると中州がちっちゃいんですけど実は!)

明智光秀が本能寺の変で信長を倒すと、光秀が安土を攻めようと橋を渡ろうとしたため、景隆は唐橋と瀬田城を焼いてこれを阻止しました。光秀が仮橋を架けるのに3日かかっています。焼失後の唐橋を架けたのは豊臣秀吉で、そのとき初めて現在の位置に、大小二橋の橋を架けたとされます。(ハッキリしませんが長さ一八〇軒(約327m)の橋は現在の全長260mの橋に比べてはるかに長いですよね、つまり一本橋ではなかったかと考えるのです。

中州を西に持つ現在の形なら、防御力の差は歴然です。実際に一本橋だったと思われる時代の戦乱を見ると、橋を焼き払って防御するしか方法も無く、焼き払って防御した陣営がほとんどの場合負けています。、「壬申の乱(672年 )」、「藤原仲麻呂の乱(764年)」、「寿永の乱(1180年から1185年)」、「承久の乱(1221年)」、「建武の乱(もしくは、延元の乱・1336年4月11日)」等どがその例に成ります。一本橋の上で「や~や~我こそは」とやってた時代はそんなものだったのかもしれませんね。

【真田昌幸の秘策?は実現できたのか?】

関ヶ原の戦いの時代とは異なり、20年の間に、家康は豊臣の力を弱めるために鉄壁とも呼べる布陣を行っています。大阪の陣の頃には、徳川家康の天下普請により築かれた堅城が大阪城を囲うように築かれています。

IMG_5724.jpg(西濃への通り道は彦根城が守る)

西濃への通り道は彦根藩(東国へ到る三関の一つ不破関の西方を治める)は譜代大名筆頭の井伊氏の所領であり、その居城の彦根城は、西国大名が徳川に反旗を翻した際にその軍勢を押し留める事を目的に光成の佐和山城を解体するがごとく、天下普請で築かれた城です。

彦根藩を大幅に迂回する経路(南周り)を進撃しようとしても、伊勢(東国へ到る三関の一つ鈴鹿関)は家康の信任あつい藤堂家が治めています。外様大名でありながら譜代大名格であり、徳川軍の先鋒は譜代は井伊、外様は藤堂という慣例ができた程の家康親藩です。

運よく彦根城を抜いて、美濃に入る事が出来ても、西濃(青野ヶ原を含む大垣藩)は徳川歴代の譜代家臣である石川氏の所領に成っており、その居城の大垣城は関ヶ原の合戦の際に家康がこの城に篭った西軍との決戦を避けて迂回し関ヶ原に布陣したほどの堅城です。複雑に絡み合った河川と水壕で大垣は水の都と呼ばれ、大垣城は巨鹿城とも呼ばれていました。

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(名古屋城、大垣もあるけどまだUPして無いので、ごめんなさい。)

さらに、美濃国には家康の娘婿たる奥平信昌が立藩した加納藩が控えていますし、しかも美濃の隣国尾張には御三家筆頭となる家康の九男、徳川 義直(とくがわ よしなお)が守っているのです。先日尾張城がさらに堅固な守備機能を持とうとしていた、古図面も確認されましたね。

それなら東国へ到る最後の三関の愛発関。越前(北周り)は、家康の次男秀康が立藩した福井藩(67万石)があります。

『うんちく三関(さんげん、さんかん)』とは、古代の日本で畿内周辺に設けられた関所の内、特に重視された三つの関の総称です。三国之関とも呼ばれた。当初は不破関(美濃国、現在の岐阜県不破郡関ケ原町)、鈴鹿関(伊勢国、現在の三重県亀山市近辺)、愛発関(越前国、現在の福井県敦賀市内)の三つを指したが、9世紀初頭に逢坂関(相坂関。近江国、現在の滋賀県大津市付近か)が愛発関に代わりました。また、三関のある律令国は三関国と呼ばれています。

結論から言いますと真田昌幸の策は無理だったと考えます。それでは、豊臣側に勝機は無かったのか?と考えるのですが、私は「瀬田の唐橋」で家康を迎え撃つ方法なら勝利できたと、現地を見て考えました~(*^^*)

【豊臣勝利の法則「瀬田の唐橋」】

大阪冬の陣の時点の双方の勢力です。徳川将軍家側約20万、豊臣側約9万でした。私の構想では豊臣側は半数の4万5千でも勝利できたのではないかと考えます。

幾つか条件が在るのですが、まず天皇です。後水尾天皇(ごみずのおてんのう)第108代天皇(在位:慶長16年3月27日(1611年5月9日) ~寛永6年11月8日(1629年12月22日))を調略する事です。後陽成天皇の第三皇子ですが、母は、関白太政大臣・豊臣秀吉の猶子(兄弟や親族の子などを自分の子として迎え入れたもの。義子)で後陽成女御の中和門院・近衛前子ですから意外とすんなり調略できるかもしれません。さらに当然幕府を開くことは政治から切り離されることであり、天皇としては喜ばしい事ではないはずです。

次に天皇の綸旨を発して西国の武将を味方に付けます。実際味方につけなくても家康の誘いに乗らないだけで充分です。

【いざ決戦~】

PA080294.jpg(逃げ道無いでしょ。まあ川に飛び込むくらい?)
PA080303.jpg(西は直ぐなので補給が簡単。)
PA080308.jpg(東は必死で逃げる~)PA080322.jpg(お水頂戴が届きそうです。)

畿内を手中に治めた、豊臣軍の本体は「瀬田の唐橋」で家康軍を迎え撃ちます。一部一万は福井藩秀康の牽制に向かいます(牽制して軍を止めるだけで充分です)。
一万は南下して桂川を牽制(山崎の橋はもったいないけど落とします)に向かいます。これにより渡河できるのは瀬田の唐橋のみです。さらに、もう一万は(必要ないかもしれませんが)姫路の池田家に備えて湊川を守備します(池田家は徳川家と親族関係に有りもしかすると?の懸念があります)。

西国の武将は九州には関ヶ原敗戦組の島津家の動向が気になって動けないでしょうし、中国地方も同様に毛利家が後ろに控えていますから、そう軽々には動けませんね。土佐に入った山内家も長宗我部の残党に苦しめられているので四国も動きは無いと考えました。

さあ舞台は整いました。豊臣軍の残存勢力は6万ですが、対する徳川将軍家は、前述の事情で、20万から2割減の16万ほどに減っている筈です。決戦はもちろん『瀬田の唐橋』です。出来れば西側正面に新真田丸でも築けば完璧ですが(笑)。



ここで現在の航空写真をご覧いただきましょう。中州が意外に多きい事に気が付かれましたか?大きな駐車場やレストラン、食堂など実際の地図は浮世絵とは全く違います。攻める徳川軍は7.5m幅の橋を200mも攻め込まなければ前線での戦いは出来ませんし、橋の幅は7.5mしかありません、横に並んで戦えるのは、10人が限度だと考えます。徳川軍は最前列の50人程度が戦闘に参加できたら精一杯ではないでしょうか。

一方豊臣軍は中州の両側に2000人ずつ位は入れると現地で感じました。正面には3000人!ちょっと、ぎゅぎゅう詰めですが(実質戦闘参加は500人程度かと考えます。)、それでも徳川軍の10倍の戦力の上にこちら(もう西軍の味方、笑)は1人に対して3方向(中州南北と西側)から攻め込めます。城でいえば桝形構造のうえに鶴翼陣形。それが小橋のお陰で二重に配置出来る所に、更に地形の有利さが有ります。対する徳川軍は突撃して突き破る以外に方法はありません。

戦いが始まれば、損失の差は数だけでも10:1ですね、単純に考えれば初戦?の徳川勢2万人が突撃して、戦闘不能に落ちいった時点で、こちら(豊臣軍)の損失は2000人です。200mの橋の上で引くこともできない徳川軍に対してこちらは60mで補給ができます。豊臣軍の損失は2000を毎回補うこととすると、徳川軍が14万に成った時点でこちらは58000人、12万で56000人、10万で54000人、8万人で52000人、6万人で5万人、4万人で48000人!もういいでしょう。家康軍が壊滅した時点で、豊臣軍は44000人が残っていることになります。

PA080327.jpg(瀬田の唐橋)
PA080336.jpg(美しいけど怖いです~!)
PA080363.jpg(古代から戦争に次ぐ戦争!)

「瀬田の唐橋」での豊臣勝利後の展開ですが、家康ももちろん歴戦の強者です。自軍が壊滅するまでの戦闘は行わないと考えますし、一度関東に引いて態勢を整えようとするはずです。豊臣軍?は、「瀬田の唐橋」を最前線に畿内連合を作って真田昌幸が提唱した、少しでも多くの西国大名と条約を結び時を稼ぐ作戦を取ります。史実でもそうですが、大阪夏の陣の二年後家康は天ぷらにあたって死亡しています(事実か知りませんよ?笑)。対する秀頼、史実は(享年23「満21歳没」)でしたから、これからですよね~天下の形勢がどちらに傾いたかは、考える必要も無いでしょう。

【最後に、歴史のIF「taboo」は本当に面白いですよね】

首都は京都か大阪でしょう。明治維新も起こらなかったと思いますね~。アッ!大学とかで歴史を学んでいたらこんなおとぎ話をブログに書いたりはしないと思います。
私が歴史に素人で、理系の人間だから面白可笑しく考えてみました。皆さんどうですか?楽しんでいただけました?(笑)


(最後にプレゼントです。笑)

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リュミエールブラン ネージュ

2017/10/14

伝説と歴史に彩られる『瀬田の唐橋』②

瀬田の唐橋の続編です。瀬田の唐橋が歴史に登場する事件は、まだまだ有りますよ~。今日は、戦国自体から現代(あんまり意味が無いかもですが)迄をお送りしたいと思います。

瀬田の唐橋(せたのからはし)は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる橋(現在はコンクリート、勿論昔は木材です)です。全長260mの長さを誇ります。滋賀県道2号大津能登川長浜線がこの橋を渡っていて、「勢多の唐橋」とも書き、「瀬田の長橋」とも言われています。

P761986549.jpg(安藤広重(歌川広重)の『近江八景』シリーズのひとつ「近江八景・瀬田の夕照」)


京都の宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋・日本三大古橋の一つとされてきました。また、1986年(昭和61年)8月10日の道の日に、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された、「日本の道100選」にも選ばれています。前回と同じじゃない!

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【初恋の君が本を出版されたのでご紹介します】

初恋の君!「坪内美樹」さんが本を出版されました~(*^^*)。素敵な本なのでご紹介します。

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(写真はこちらもお友達の同級生のくー子ちゃんからはいしゃくしました)

中学生・高校生と憧れの君だった美樹ちゃん、初恋の相手っていくつに成ってもドキドキするんものですよね、おじさんなのに面白いですよね、勿論やけぼっくいにも火が付く何て事は間違っても、無いので誤解の無いようにハッキリしておきましょう。私の片思いでしたし、告白して振られたとは明記しておきます~。(ToT)

それでも、私が好きに成っただけのことは有るぞというご活躍です。ブログもリンクさせて頂きますので、ご覧下さい。
坪内美樹のGood Luckブログ

【歴史と伝説「戦国から現代へ」】



さて本題ですね!東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡るか、もしくは南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川(迂回って、瀬田川、宇治川、淀川と名前を変えて大阪湾に流れ込むからどこかで渡河しなければ成りません)を渡る必要があるのです。1889年(明治22年)まで瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は、交通の要衝でもあり、京都(平安京)防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われて来ました。唐橋を舞台として繰り広げられた、壬申の乱、寿永の乱、承久の乱、建武の乱など、古代から様々な戦乱に巻き込まれています。

【突然うんちくクイズ~(* ̄∇ ̄)ノ】

平安京はいつまで続いたでしょうか?

歴史好きには当たり前なのですが、「鎌倉時代!」と答えた皆さん、間違いですよ~(*^^*)、引っかけ問題ですが、いがいにだまされませんか?平安京は明治になるまで続いて京都に有りました。「平安京時代はいつまで続いたでしょう?」と質問しないところが肝なんですよ。
クイズも楽しんで日本史を好きになってくださいね。

【戦国時代から現代まで】

PA080294.jpg(今日も瀬田の唐橋は美しいです。)
PA080335.jpg(ボートやバス釣りの方が多くて驚きました。)
PA080322.jpg(二重になった短い方です。左折用に路線が増えました。)

唐橋を現在の位置に移したのは織田信長でした。架橋奉行は木村次郎左衛門と瀬田城主の山岡景隆で、若狭の神宮寺山と近江朽木から材木を取り寄せ、幅四軒(約7.2m)長さ一八〇軒(約327m)の橋を90日で完成ました。中州(島)をはさんだ大橋と小橋の形となったのはこの時からと考えられます。

それ以前の戦いでは中州があったにもかかわらず一本の大橋だったわけですね。都守備側には不利な構造だったと言えます。明智光秀が「本能寺の変」で信長を倒した後の天王山の戦いまでの間に、光秀が安土城を攻めようと橋を渡ろうとしたため、山岡景隆は唐橋と瀬田城を焼き払ってこれを阻止しました。明智光秀が仮橋を架けるのには3日を要しました。

焼失後の唐橋を架けたのは豊臣秀吉で、そのとき初めて現在の位置に、大小二橋の橋を架けたとされます。

【江戸時代になると】

PA080330.jpg(この橋が無いと機内には入れません。「近江八景・瀬田の夕照」は最初に召せました。)


瀬田の唐橋は安藤広重(歌川広重)の『近江八景』シリーズのひとつ「近江八景・瀬田の夕照」に描かれ、往時の唐橋の様子をよく表しています。

瀬田の川橋は、膳所藩(本多家)が管理し、東海道の要所として発展しました。江戸幕府は、瀬田川に唐橋以外の他の橋をかけることを禁じ、膳所城主に保護監理の任務を課しました。1795年(寛永7年)~1894年(明治27年)までの100年間で、18回の架け換えの記録が残っています。

【明治以から現在】

1875年(明治8年)12 月には国が、1895年(明治28年)3 月には県が、ともに木造にて架替えを行っています。
1919年(大正8年)に道路構造令が公布されたのを機に、翌1922年(大正11年)4月に事業費47万円(当時)をかけて事業に着手し、1924年(大正13年)6月に、これまで木造であった橋が、はじめて鉄筋コンクリート製の橋に架け替えられました(風情は無くなりましたねぇ)。

その後、補修は何度も繰り返えし行われましたが、1974年(昭和49年)に本格的な架橋工事が行われ、1979年(昭和54年)に現在の橋が竣工されました。橋の特徴である擬宝珠は歴代受け継がれており、「文政」「明治」などの銘が入ったものも現存しています。1995年(平成7年)、瀬田唐橋の小橋に右折レーンの設置工事が行われ、1997年(平成9年)に完成しています。2012年(平成24年)には、唐茶色に塗り替えられ、現在に至っています。

【面白うんちく逸話特選】

戦国時代の武将である武田信玄は、臨終の際に「瀬田橋に、風林火山の我旗をたてよ」と言ったといわれますが、この逸話は、山を越えればすぐに京都・奈良に通じる瀬田唐橋が、軍事上の要害として重要な位置を示していたことが伺い知れるエピソードの一つになっています。

江戸時代初期の安楽庵策伝『醒睡笑』巻二は連歌師・宗長の歌を引用し、「急がば回れ」の諺の発祥であると紹介されています。
「武士(もののふ)のやはせのわたりちかくともいそかはまはれ瀬田の長はし」、東から京都へ上るには矢橋(やばせ)の港から大津への航路が最も早いとされていましたが、その反面、比叡おろしの強風による船出・船着きの遅れも少なくありませんでした。 瀬田まで南下すれば風の影響を受けずに唐橋を渡ることができ、日程の乱れも起きないことから、これを「急がば廻れ」と詠んだものであると言われました。

 松尾芭蕉も旅の途上にてこの橋について「五月雨に隠れぬものや瀬田の橋」「橋桁の忍は月の名残り哉」の二句を詠んでいます。

千利休が弟子達の集まっている席で「瀬田の唐橋の擬宝珠の中に見事な形のものが2つあるが、見分けられる人はいないものか?」と訊ねました。すると一座にいた古田織部は急に席を立ってどこかに行ってしまいます。夕方になって戻ってきた織部は、利休が何をしていたのか訊ねると「例の擬宝珠を見分けてみようと思いまして早馬で瀬田に参りました。見事なものと言われました2つの擬宝珠は東と西の、これとこれではありませんか??と答えました。利休をはじめ一座の者は織部の執心の凄まじさに感心したと言われています。へうげ者と呼ばれた古田織部ならではの逸話だと思いませんか?

PA080328.jpg(織部が探し出した、擬宝珠はどれなんでしょうね~?)
PA080312.jpg(架け替えによって無くなっていますね~笑!私馬鹿ですね~!)

【最後に】

瀬田の唐橋の防御力について私なりに考察してみました。織田豊臣時代以前は、一本の大橋だったために東からの攻撃側の勝利も数多くありますが、現在の様な二橋の唐橋構造ならば、五倍の軍勢にも負けることはないと確信しました。次回は、真田幸村が籠城戦を用いずに瀬田の唐橋を手中にした場合を例に挙げて、家康との戦を検証をしてみたいと思いますので、お楽しみにしてください。
PA080354.jpg(珍しい水位観測所が有るのご存知でした?)
PA080356.jpg(こんなちっちゃな場所なんですが。)
PA080360.jpg(明治から平成4年まで使われていた、オランダの測量機これもまた歴史ですね。)

歴史って本当に面白いですよね~!
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リュミエールブラン ネージュ

2017/10/12

伝説と歴史に彩られる『瀬田の唐橋』①

今日は日本三名橋の一つ、瀬田唐橋(滋賀県大津市/瀬田川)をご紹介する予定なのですが、日本三名橋については、まず日本橋(東京都中央区/日本橋川)、錦帯橋(山口県岩国市/錦川)、眼鏡橋(長崎県長崎市/中島川)という意見があります(瀬田唐橋入っていない)。

さらには今回の瀬田唐橋(滋賀県大津市/瀬田川)、二重橋(東京都千代田区/皇居の濠)、三条大橋(京都府京都市/鴨川)の意見やウィキトラベルだと、三奇橋として錦帯橋(山口)・猿橋(山梨)・かずら橋(岩国)が選ばれています。

さて今回は歴史に基づいて、日本三古橋の宇治橋(京都府宇治市/宇治川)、山崎橋(京都府八幡市・大山崎町/淀川)、と瀬田唐橋を、日本三大橋と理解して、ご紹介したいと思います。
ちなみに山崎橋(やまさきばし)は、かつて山城国山崎–橋本間(現在の京都府乙訓郡大山崎町–八幡市橋本間)で淀川に架かっていた橋です。日本三古橋の筆頭として、山崎太郎と呼ばれましたが、現在は存在していません。

PA080294.jpg(瀬田の唐橋、ボートが行き交う優雅ですね。)


それでは、滋賀県大津市にある、瀬田川にかかる橋、瀬田の唐橋をご紹介しましょう。

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【その前に(まだあるのかい)自慢話を一つ】

(是非ご覧ください)

昨夜Facebookのお友達にはお知らせしたのですが、ブログランキングの「ブログ村」日本史部門で初めて一位を獲得しました~(喜)もちろん一日だけです。(笑)先日、現在一位の「しばやん」さん(URLをご紹介する必要もないでしょう。一位なのですからね~)とコメントでお話させていただきました。ブログがとても素晴らしいのはもちろんですが、人柄や知識にも圧倒されました。
とてもじゃないが、私の様な文章も書いた事のない、理系の人間が追いつけるレベルではありえないと思っておりました。

しばやんさんから「素敵なブログを書かれますね」とコメントされた時には、お世辞とわかっていながらうれしくてふるえてしました。そのトップブロガーさんにたとえ一日でも追いつけたことは、大きな自信につながりました。二年間ブログを書いて来てこれほど諦めなくてよかったと思った日はありませんでした。

これもひとえに、応援してくださった皆様と、支え・励まし・教授してくれた。ブログ仲間の皆さんのおかげです。これからももっともっと努力して、今回のように一日天下ではない一位を目指しますので、これからもよろしくお願いいたします。

【瀬田の唐橋(せたのからはし)に話を戻して~】



PA080303.jpg(中州が有るので、長い橋と短い橋が有ります。こちらは短い方)
PA080322.jpg(信号までの長さです交通量も多いですね。)
PA080343.jpg(下から撮影すると風情が無いですね~コンクリート橋)
PA080346.jpg(ビニール袋はゴミ箱に捨てようね、水草があります。バリスネリアか!和名はとちかがみだったかな?)

瀬田の唐橋(せたのからはし)は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる橋の名前です。全長260m。滋賀県道2号大津能登川長浜線がこの橋を通過しています。「勢多の唐橋」とも書かれ、「瀬田の長橋」とも言われています。

京都の宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋・日本三大橋の一つとされてきました。また、1986年(昭和61年)8月10日の道の日に、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定されました、「日本の道100選」にも選ばれています。

【歴史と伝説「古代から室町」】

PA080308.jpg(こちらは長い橋です。瀬田川の文字ですね。)

戦国時代から現代までは次回のお楽しみです。立地ですが、東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡るか、もしくは南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要があります。1889年(明治22年)まで瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は、交通の要衝であり、京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われて来ました。実際に唐橋を舞台として繰り広げられた、「壬申の乱(672年 )」、寿永の乱(1180年から1185年)、承久の乱、建武の乱(もしくは、延元の乱・1336年4月11日)など、昔から様々な戦乱に巡り合ってきました。

本格的には近江大津宮遷都の時に架橋されたと考えられますが、当時は現在の位置より65m南の龍王社・雲住寺を東端としていたようです。

唐橋が架けられた年代は不詳ですが、神功皇后の時代にはすでにあったと考えられ、摂政元年、香坂皇子と忍熊皇子が反乱を起こしたとき。忍熊皇子は神功皇后(応神天皇の母)の家来である武内宿禰の軍に攻められ、瀬田で自害したとされます(『日本書紀』 気長足姫尊 神功皇后)。

こちらを参考にしてください。
 ①謀略の偽陵なのか?「五色塚古墳」に浪漫を求めて!

「壬申の乱(671年)」では、大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となりました。大友皇子方が、橋板をはずして大海人皇子方を待ち受けたが、突破されて滅んでいます(私的には瀬田の唐橋は城にも匹敵する鉄壁の防御力だと考えるねですが)。御霊神社(滋賀県大津に在る四つの御霊神社の内三つの主祭神は大友皇子です(『日本書紀』天武天皇&上 元年七月)。これが瀬田の唐橋の文献上に見られる初見です。。

「藤原仲麻呂の乱(764年)」孝謙太上天皇・道鏡と対立した太師(太政大臣)藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)が軍事力をもって政権を奪取しようとして失敗した事件です。または、恵美押勝の乱とも言われ、宇治から近江を取ろうとした恵美押勝に対して、孝謙上皇方は田原道(関津遺跡)を通って瀬田の唐橋に先回りし橋を焼き落とします。押勝は高島郡に走りますが、滅びてしまいました(『続日本紀』淳仁天皇天平宝字八年九月)。

【平安時代はよく焼ける木の橋ですから】

870年1月9日(貞観11年12月4日)に火事(『日本三代実録』巻十六)。871年12月19日(貞観13年11月4日)に火事(『日本三代実録』巻二九)。『延喜式』主税式によれば、近江国の国司の管理下に置かれています。近江国の正税・公廨稲から「勢多橋料」1万料が拠出され、その出挙収入によって橋の維持が行われました、橋の建て替えは朝廷への報告義務が有ったようです。

【俵藤太「藤原秀郷」の伝説】

PA080302.jpg(俵藤太大ムカデ退治伝説の看板がありました。)

「俵藤太大ムカデ退治伝説」、近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなりましたが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまいます。その夜、美しい娘が藤太を訪ねて来ました。娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で、昼間藤太が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えた姿だったのです。娘は龍神一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願しました。

藤太は美しい娘の話に快諾し(いつでも美女には弱いよね)、剣と弓矢を携えて三上山に臨むと、山を七巻き半する大百足が現れます。藤太は矢を射たが大百足には全く通じません。最後の1本の矢に唾をつけ、八幡神に祈念して射るとようやく大百足を退治することができました。藤太は龍神の娘からお礼として、米の尽きることのない俵などの宝物を贈られます。また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、討ち取ることができたといわれています(この伝説自体が「平将門の乱平定」から作られたと思って間違いないでしょう)。

【蜻蛉日記と更級日記】

PA080327.jpg(まさしく瀬田の唐橋です。)

「更級日記(竹芝伝説の章)」で、下男と帝の娘が京から武蔵国へ逃走する際、追手から逃れるため瀬田橋を破壊したとの記述があり、当時から交通の要所であったことがうかがえます(下男といえど帝の娘と駆け落ち?する度胸が有れば、橋くらいは破壊するかもしれません)。「更級日記」の作者は菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標の次女菅原孝標女で、母の異母姉は『蜻蛉日記』の作者藤原道綱母です。970年8月25日(天禄元年7月21日)に藤原道綱母(作者本人)が明け方に船で勢多橋を渡河の記録が有ります。題名は日記のなかの文「なほものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし」からつけられています。

【鎌倉・室町の戦】

治承・寿永の乱(源平合戦) 1183年(寿永元年)に源義仲対平家が戦います(ちなみに1183年は現代歴史でも鎌倉時代ではありませんが(-"-;A ...アセアセ)。『平家物語』において源義仲は、朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれています。

以仁王の令旨によって挙兵、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京します。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となります。1184年(寿永2年)に源義経対義仲の合戦があった際に、源範頼が攻める瀬田橋の橋板をはずして守っていたのは今井兼平でした。宇治で義経に敗れた義仲と合流しますが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれています。

「承久の乱」では1221年(承久3年)、後鳥羽上皇の京軍(山田次郎重忠が率いる比叡山の僧兵三百騎)と北条義時の弟・時房率いる鎌倉幕府軍が瀬田川を挟んで交戦しました。結果はご存知ですよね~。
後鳥羽上皇は隠岐島(隠岐国海士郡の中ノ島、現海士町)に配流され、隠岐島で亡くなっています。百人一首99番目の歌人「人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は」ですね。(人を愛しくも恨めしくも思う。世の中も自分の思い通りにならなくて悩んでしまう)という感じですか?ちなみに16弁の菊の御門、後鳥羽上皇が作者です。


「建武の戦い」 1336年(建武4年)、足利直義率いる足利勢と名和長年率いる朝廷軍が瀬田川を挟んで交戦。足利尊氏は南下して宇治川で楠木正成に勝利し、京都へ進攻しました(宇治川は渡河できたんですね)。

「観応の擾乱」 1350年(観応元年)12月4日、足利直義派の伊勢・志摩守護石塔頼房が上野直勝とともに近江に進出し、近江守護軍と交戦しました。その日のうちに瀬田へ進出し、唐橋を焼き払っています(観応の擾乱 、こちらは 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦いです) 。

PA080363.jpg(4人乗りルスカル、良いですね~!)
PA080335.jpg(やはりこれでなきゃね~水面も綺麗です。笑)

【最後まで戦乱】

このように、瀬田の唐橋は古代からずっと日本の栄華と衰退を見て来た橋といって過言ではありません。次回は戦国時代から瀬田の唐橋の面白エピソードをご紹介します。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/10/08

聖武天皇は東大寺より先に大仏を作っていた?『甲賀寺跡』なのか『紫香楽宮跡』

昨夜は大阪でミュージカル「キャッツ」の家族サービス。
今日はFacebookのお友達、篠原希さんにお会いしたくて、珍しく妻と信楽焼き祭りに出かけました。素敵な焼き締めの徳利を頂き帰宅しようと、会場を後にすると、直ぐな場所に「紫香楽宮前」という駅名があるではありませんか!歴史好きの私の事「ピピン」と頭の歴史レーダーが反応しました。

帰宅して資料を調べてみると面白いことが分かったので、ご紹介したいと思います。ただこの『紫香楽宮跡』が本物の宮跡なのか?東大寺に先立って作られた『甲賀寺跡』なのかはいまだに議論があるようです。

PA080044.jpg(おじさんご機嫌です。真ん中は篠原希さんと、左は下北沢ORIBE開発部長の奥村さんです。)

ただ私が重い身体を引きずりながら、汗だくで走り廻った限りにおいては、巨大な寺院か宮殿跡が存在したことは間違いありません。

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【紫香楽宮って何?】

PA080053.jpg
(見つけた~て感じだったんですけどね、笑)
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(ちょっと田舎すぎますかね?)
PA080065.jpg(感じは国分寺そっくりです。)
PA080072.jpg(紫の東大寺と比べると、黒い甲斐寺?小さいな~!)

紫香楽宮・信楽宮(しがらきのみや)は、奈良時代に聖武天皇が近江国甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市)に営んだ離宮の事で、後に甲賀宮(こうかのみや)とも呼ばれ、都となりました。

740年(天平12年)の藤原広嗣の乱ののち、聖武天皇は恭仁京(現在の京都府木津川市加茂地区)に移り、742年(天平14年)には近江国甲賀郡紫香楽村に離宮を造営してしばしば行幸しました。これが紫香楽宮といわれています。

『うんちく「藤原広嗣の乱」』
奈良時代、天平 12 (740) 年9月北九州で起こった反乱です。大養徳守(やまとのかみ)から大宰少弐(だざいのしょうに)に左遷され不満のあった藤原広嗣(宇合(うまかい)の子)は、管轄下の兵1万に及ぶ兵をを動員して九州で反乱を起しました。左大臣橘諸兄の政権を構成する、吉備真備 (きびのまきび) 、僧正玄 昉 (げんぼう) を除こうとして東上を開始しました。朝廷では大野東人を将として1万 7000の兵で鎮圧にあたらせます。戦闘はほぼ2ヵ月にも及びましたが、広嗣は捕えられて処刑され鎮圧されました。この結果、広嗣の出た藤原式家は一時衰えて南家が台頭し遷都が計画されました。玄 昉、真備は左遷されています。


翌年743年(天平15年)10月、天皇は紫香楽の地に盧舎那仏を造営することを発願します(奈良東大寺に先だってですよ~事件です!)。これは恭仁京を唐の洛陽に見立て、その洛陽と関係の深い龍門石窟の盧舎那仏を紫香楽の地で表現しようとしたものだと考えられます(中国の真似がしたかったのね)。12月には恭仁宮の造営を中止して、紫香楽宮の造営が更に進められました。

【信楽宮から甲賀宮へ】

PA080179.jpg
(行ってみよう~!いつもの階段じゃないだけましですね。)
PA080073.jpg(何が出るかな~?)
PA080079.jpg(南大門を入り中心伽藍に入る中門跡です。)
PA080094.jpg(祠が寄進されています。お寺の中心金堂跡ですね?)
PA080106.jpg(やはり金堂跡です。礎石が綺麗に残っていますね)

翌年744年(天平16年)、信楽宮から甲賀宮へ宮名の変化が徐々にあらわれ、11月には甲賀寺に盧舎那仏像の体骨柱が建てられ始めます。

745年(天平17年)1月にはもう新京と呼ばれ、宮門に大楯と槍が立てられ、甲賀宮が都とされることに成りました。更に同年4月15日には、流罪となっていた塩焼王(名前が凄いね)を許して京に入ることを許していることから、実態はいまだ不明ながら京(紫香楽京)の範囲が設定されていたとみられます。しかし人臣の賛同を得られず、また天災など不幸なことが相次ぎ、同年5月に平城京へ戻ることになりました(わがままに振り回される周りも大変ですね)。このため甲賀寺の盧舎那仏の計画は、「奈良の大仏」東大寺盧舎那仏像として完成されることになりました。

『うんちく「塩焼王」』塩焼王(しおやきおう)は、日本の奈良時代の皇族です。 ?-764 奈良時代,新田部(にいたべ)親王の王子で道祖(ふなど)王の兄で、不破(ふわ)内親王の夫に成ります。天平勝宝(てんぴょうしょうほう)9年(757)皇太子候補となりますが、しりぞけられています。のちに臣籍降下し氷上 塩焼(ひがみ の しおやき)と称しました。天武天皇の孫にあたります。

紫香楽の地は、当時の感覚においては余りに山奥である事から、ここを都としたことを巡っては諸説があります、恭仁京周辺に根拠を持つ橘氏に対抗して藤原仲麻呂ら藤原氏に関与したとする説や天皇が自らの仏教信仰の拠点を求めて良弁・行基などの僧侶の助言を受けて選定したとする説などがあります(なお、藤原氏と同氏出身の光明皇后に関しては紫香楽宮放棄と大仏計画中止の原因になった紫香楽周辺での不審な山火事に関与したとする説もあります)。

「紫香楽」の地名表記については、正倉院文書には「信楽宮」としたものが3件ある一方で、「紫香楽」と表記したものが全く無いため、続日本紀が編纂されたときの修辞(うまく書き直された)の可能性も考えられます。また744年(天平16年)を境に、宮名が「信楽宮」(続日本紀では「紫香楽宮」)から「甲賀宮」へと変化しており、これは単なる離宮から甲賀寺と一体の都とされたことにより宮名が改められたか、離宮の紫香楽宮とは別に宮町遺跡の地に甲賀宮が新しく造営されたことによるともいわれます。

【紫香楽宮遺跡】

PA080134.jpg(規模の大きさからも国分寺によく似ています。)
PA080115.jpg(鐘楼跡です)
PA080128.jpg(塔の礎石、五重の塔が有ったと考えられますね。)
PA080140.jpg(金堂の後ろは講堂に成っています。仏教の教義のお勉強です。)

かつては甲賀郡信楽町(現・甲賀市)黄瀬・牧地区の遺跡(1926年「紫香楽宮跡」として国の史跡に指定)が紫香楽宮跡と考えられていましたが、北約1kmに位置する宮町遺跡から大規模な建物跡が検出され、税納入を示す木簡が大量に出土したことなどから、宮町遺跡が宮跡と考えられるようになり、黄瀬・牧地区の遺跡は甲賀寺(甲可寺)跡であるという説が有力に成りました。2005年には宮町遺跡を含む19.3ヘクタールが史跡「紫香楽宮跡」に追加指定れています。北約1kmに位置する宮町遺跡が本当の『信楽宮→甲賀宮』ですかね?

今回「妖怪レーダー」ならぬ私の「歴史レーダー」に反応したのは黄瀬・牧地区の遺跡は甲賀寺(甲可寺)跡の可能歳が強くなっています。しかしながら、現在でも、「宮町」「勅旨」「内裏野」などの地名が残り、往事の宮城の名残を残しています。

【紫香楽宮(しがらきのみや)跡比定地ご紹介】

PA080149.jpg(さらに後ろは多くの僧侶が寝泊まりする僧房です。ずっと紹介してきたのですが(-"-;A ...アセアセ)
PA080169.jpg(金堂の左は経堂、多くのお経が安置されていました。)
PA080172.jpg(横から見た金堂跡礎石が見事です。ここに廬舎那仏が作られるはずだったのですかね?)

聖武天皇が天平17年(745年)に遷都した紫香楽宮(しがらきのみや)の跡に比定され、1926年(大正15年)に史跡として約33000平方メートルが指定されました。しかし、その後の発掘調査の進展により、当遺跡の北2キロメートルにある甲賀市信楽町宮町の宮町遺跡が実際の紫香楽宮跡とみなされるようになり、黄瀬・牧にある遺跡は東大寺に先駆けて紫香楽宮で大仏建立を行った甲賀寺の跡、または近江国国分寺の跡である可能性が高くなっています。

黄瀬・牧の遺跡は、300あまりの礎石が残るなど遺構の保全状態はとても良好です。礎石の配列から東大寺の伽藍配置と同様の建物配置を持つ寺院跡とみられています。当遺跡から出土した軒丸瓦が種類、軒平瓦2種類のうち、創建期とされる瓦は、恭仁宮大極殿造営に際して新調された瓦をモチーフとした単弁十七葉蓮華文の軒丸瓦と均整唐草文の軒平瓦が、恭仁宮廃都後に建立された山城国分寺の塔跡と同笵瓦であることが確認されていることから、寺院跡であることは疑う余地はありません。

遺跡の北東約600メートルには2000年(平成12年) ~2002年(平成14年)にかけて、新名神高速道路建設に関連して発掘された鍛冶屋敷遺跡があります。この遺跡は銅鋳造関連遺跡で、紫香楽宮跡にも近い場所です。遺跡周辺では当時作られた信楽製の坩堝(るつぼ)が多数出土しています。この坩堝は、銅を混ぜた合金を作るのに使われたとかんがえられます。

坩堝は、江戸時代に使用された真鍮を溶解した「梅干壷」と呼ばれるもので、大仏建立に関連した奈良時代のものではありません。大仏鋳造や寺院などの大型品の鋳造では、坩堝は用いず溶解炉から直接鋳型に流し込む技法であったことが考古学的にも立証されています。つまり大仏を作るための物ではなかったということですかね?何を作ってたんでしょう。

PA080177.jpg(希望をこめて「紫香楽宮」の祠が寄進されています。ある所にはあるんだな~ホント!)

なお、当地域では、甲賀市信楽町勅旨の玉桂寺を保良宮の跡とする伝承もあるようです。つまりどういうことだ?今回私が見つけた『紫香楽宮跡』は本来は『甲賀寺跡』で後に奈良に建築された『東大寺』の試作モデルだったのかもしれません?

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リュミエールブラン ネージュ

2017/10/04

『水戸黄門』再開!漫遊もせず、名君でも無かった、史実的見処のご紹介!

時代劇がなくて寂しく毎日を過ごしておりましたが、『徳川光圀』がTVで再開されるそうです。(もうしたのかな?)
アッ!今日からでした(笑)


そこで今日は東京や水戸迄は取材に行けないので、TVドラマ水戸黄門観賞法?もお話しながら、実際の水戸光國公のお話をさせて頂きます。

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(フレッシュなメンバーで楽しみです。)

今回のTVシリーズは、水戸光圀に武田鉄矢さん、佐々木助三郎(助さん)に財木琢磨さん、渥美格之進(格さん)に荒井敦史さん、風車の弥七(復活)津田寛治を迎え、6年ぶりの再開に成ります。

武田さん以外全く知りませんでしたm(__)m

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【何故水戸黄門様?】

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(水戸光圀公の肖像)


水戸家は御三家の中では格下で、尾張・紀伊が大納言なのに比べて、歴代藩主の殆どが最終的には従三位権中納言に叙任されていました。水戸黄門というのは歴代水戸藩主の別名でもあります。その中でも特に第二代藩主の徳川光圀が著名ななので、水戸黄門と言うと一般的には徳川光圀を指します。

中国の宮殿の「禁門」(きんもん)を、秦や漢では、宮殿の門が黄色に塗られていたことに由来して「黄門」と呼びました。中国皇帝に近侍して勅命を伝える職務であった「黄門侍郎」(または「給事黄門侍郎」)を略して黄門と呼び、転じて、日本の中納言を唐名の「黄門侍郎」または「黄門」と呼んだことから、水戸の中納言「水戸黄門」なわけですね。ドラマでは「諸国漫遊」を楽しむ黄門様ですが、水戸家は参勤交代もなく、当主は江戸常駐を言い渡されていたので、漫遊どころか、実際は日光、鎌倉、金沢八景、房総などしか訪れたことがなく、関東に隣接する勿来と熱海(新編鎌倉志参照)を除くと現在の関東地方の範囲から出た記録は無いはずです。

【徳川光圀ってどんな人】

徳川 光圀(とくがわ みつくに)は、常陸水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られます。 水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たります。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくりました。

生誕寛永5年6月10日(1628年7月11日)死没元禄13年12月6日(1701年1月14日)。

藩主時代には寺社改革や殉死の禁止、快風丸建造による蝦夷地(後の石狩国)の探検などを行っています。また、後に『大日本史』と呼ばれる修史事業に着手し、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業も行いました。さらに、徳川一門の長老として、徳川綱吉期には幕政にも大きな影響力を持っていました。

光圀の主導した多方面の文化事業が評価されている一方で、為政者としては、石高に対し高い格式のために頼房時代からすでに悪化していた藩財政に対し、広範な文化事業がさらに財政悪化をもたらしたとの指摘がなされています。

水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たります。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくりました。

【出産~~~!】

寛永5年(1628年)6月10日、水戸徳川家当主・徳川頼房の三男として水戸城下柵町(茨城県水戸市宮町)の家臣・三木之次(仁兵衛)屋敷で生まれています。

後年の光圀自身が回想した『義公遺事』によれば、久子は奥付きの老女の娘で、正式な側室ではありませんでした。母につき従って奥に出入りするうちに頼房の寵を得て(ドキドキ)、光圀の同母兄である頼重を懐妊しましたたが、久子の母はこのことに憤慨し、正式な側室であったお勝(円理院、佐々木氏)も機嫌を損ねたため、頼房に堕胎を命じられています。

同じく奥付老女として仕えていた三木之次の妻・武佐が頼房の准母である英勝院と相談し、密かに江戸の三木邸で頼重を出産したといいます。光圀にも同様に堕胎の命令が出されましたが、光圀は水戸の三木邸で生まれました。英勝院は大河ドラマ「真田丸」で家康の側にいた女性(話題の?斉藤由貴さんが演じてました。)「一番上手いものは塩」の逸話で有名な女性です。

寛永9年(1632年)に水戸城に入城します。翌寛永10年(1633年)11月に光圀は兄を差し置いて世子になるこtが決定し、翌月には江戸小石川邸に入り世子教育を受けることに成りました。世子内定の時期や経緯は諸書で若干異なっていますが、頼房の付家老・中山信吉が水戸へ下向して行われており、第3代将軍・徳川家光や英勝院の意向もあったのではないかといわれています。翌寛永11年(1634年)には英勝院に伴われて江戸城で家光に拝謁しました。

寛永13年(1636年)には元服し、将軍・家光からの偏諱を与えられて光国と名前を改めました。また水戸藩家老職の山野辺義忠の薫陶を受けるようになります。義忠は山形藩の藩祖・最上義光の子で、最上騒動で改易される要因になりましたが、有能な人物として知られています。光圀18歳の時、司馬遷の『史記』伯夷伝を読んで感銘を受け不良光圀から正義の力を授かっています(笑)。

【兄を差し置いて水戸藩相続】

寛文元年(1661年)7月、父・頼房が水戸城で死去しました。葬儀は儒教の礼式で行い、領内久慈郡に新しく作られた儒式の墓地・瑞竜山に葬られました。光圀は当時の風習であった家臣の殉死を禁じ、自ら殉死の噂が有った家臣宅を廻り、「殉死は頼房公には忠義だが私には不忠義ですよ~」と問いかけ殉死をやめさせたといわれています。幕府が殉死禁止令を出したのはその2年後なので、『義公行実』では殉死の禁止の初例としています。ただし、同じ頃、紀州・彦根・会津でも殉死を禁ずる旨の記録があるので、水戸藩が初例かどうかは定かではありませんね。

藩主就任直後の寛文2年(1662年)、町奉行・望月恒隆に水道設置を命じました。頼房時代に造営された水戸下町はもともと湿地帯であったため井戸水が濁り、住民は飲料水に不自由でした。望月は笠原不動谷の湧水を水源と定め、笠原から細谷まで全長約10kmを埋設した岩樋でつなぐ笠原水道に着工、実際の敷設は永田勘衛門とその息子が担当しています。約1年半で完成、笠原水道は改修を重ね、明治時代に近代的な水道が整備されるまで利用されています。

寛文5年(1665年)、明の遺臣・朱舜水を招く。朱舜水の学風は、実理を重んじる実学派でした。朱舜水を招いた主な目的は、学校建設にあったようですが、おそらく費用の面から実現しなかったようです。しかし、その儒学と実学を結びつける学風は、水戸藩の学風の特徴となって残りました。朱舜水は、17年後の天和2年(1682年)死去し、瑞竜山に葬られています。

【不良少年光圀君】

だが、少年の頃の光圀の振る舞いはいわゆる不良であり、光圀16~17歳のとき、傅役の小野言員が「小野言員諫草(小野諫草)」を書いて自省を求め程だそうです。

幼少時には、兄(頼重)を差し置いての世子決定が光圀の気持ちに複雑なものを抱かせたといわれ、少年時代は町で刀を振り回したりする不良な振る舞いを行っており、吉原遊廓通いも頻繁にしていた。さらには辻斬りを行うなど蛮行を働いている。

光圀が18歳の時、『史記』伯夷伝を読んで感銘を受け、それまでの素行を改めて学問に精を出すようになった。この経験により、紀伝体の日本の史書を編纂したいと考えるようになったと、後年、京都の遣迎院応空宛の書簡(元禄8年10月29日付)に書いている。19歳の時には、上京した侍読・人見卜幽を通じて冷泉為景と知り合い、以後頻繁に交流するが、このとき人見卜幽は光圀について朝夕文武の道に励む向学の青年と話しています。

没後15年後に書かれた『大日本史』の序文には、「善は以て法と為すべく、悪は以て戒と為すべし、而して乱賊の徒をして懼るる所を知らしめ、将に以て世教に裨益し綱常を維持せんとす」とあり、紀伝体の史書を編み歴史を振り返ることにより、物事の善悪や行動の指針としようという考えでした。個人がいかなる役割を果たしたかを明らかにし、それにふさわしい「名」をその人物に与えるという、儒教の正名論に基づいたものでした。

【兄への贖罪】

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(神戸「摂津」湊川の黄門様です。ちょっとイメージが(-"-;A ...アセアセ)

寛文元年(1661年)8月19日、幕府の上使を受け水戸藩28万石の第2代藩主となりました。『桃源遺事』では、この前日、兄・頼重と弟たちに「兄の長男・松千代(綱方)を養子に欲しい。これが叶えられなければ、自分は家督相続を断り、遁世するつもりである」と言ったとされます。兄弟は光圀を説得しましたが、光圀の意志は固く、今度は弟たちが頼重を説得し、頼重もやむなく松千代を養子に出すことを承諾した、とされています。しかし実際には、綱方が光圀の養子となったのは、寛文3年(1663年)12月でした。翌寛文4年(1664年)2月、光圀の実子・頼常が頼重の養子となりました。さらに寛文5年には頼重の次男・采女(綱條)が水戸家に移り、綱方死後の寛文11年(1671年)に光圀の養子となって水戸家を継ぐことになります。また、弟・頼元に那珂郡2万石(額田藩)を、頼隆に久慈郡2万石(保内藩)を分与しています。

水戸家三代、水戸綱條は、明暦2年(1656年)8月26日、讃岐高松藩主・松平頼重の次男として江戸の高松藩邸にて生まれます。
寛文5年(1665年)8月、本家・水戸家に移り、2,000石を与えられます。これに先立って同母兄・徳川綱方が第2代水戸藩主・徳川光圀の養嗣子に迎えられており、綱條は光圀の次男格という扱いでした。

綱條の実父・松平頼重は光圀の実兄ですから、綱條は甥に当たります。父・頼重の後嗣には、光圀の子・頼常が内定していたため、高松藩主の次男であるより水戸藩主の次男である方がいいだろうということで、水戸家に入ったといわれています。 兄・綱方が早世したため、寛文11年(1671年)6月、正式に光圀の養嗣子として迎えられました。

光圀が養嗣子を迎えた理由は、彼の生い立ちにあります。光圀の父・徳川頼房(綱條の祖父)は、頼重・光圀の母である久昌院が身ごもると、家老・三木之次に久昌院を預け、頼重は江戸で、光圀は水戸で生まれました。頼重はその後に京へ送られたため、同母兄弟であったが、互いに会ったのは頼重12歳、光圀6歳のときでした。

こうしたことから光圀は、実子による藩主の世襲にこだわらず、他家から養子に迎えた者の方が色々な識見もあってよいとの考えが有ったようです。光圀はまた、『史記』の「伯夷伝」の影響や、兄を差し置いて家督を継いだことへの負い目もあって、兄の子を養子として迎えることを決意したといわれます。なお、頼常は生後間もなく京都に、翌年には高松に送られて、2歳から高松城内にて養育されています。のちに頼重の養嗣子となる(高松藩2代目藩主)です。いわば兄弟の子のトレードがなされたのでした。

【あの御隠居が住む西山荘】

元禄3年(1690年)10月14日に幕府より隠居の許可がおり、養嗣子の綱條が水戸藩主を継ぎました。翌15日、権中納言に任じられた光圀は。11月29日江戸を立ち、12月4日水戸に到着。5か月ほど水戸城に逗留ののち、元禄4年(1691年)5月、久慈郡新宿村西山に建設された隠居所(西山荘)に隠棲しました。佐々宗淳ら60余人が伺候しました。

同年、水戸藩領・那須郡馬頭村近隣の湯津上村(旗本領)にある那須国造碑の周辺の土地買い取りが整い、佐々宗淳に命じて碑の修繕、鞘堂の建設を行います。加えて、碑のそばの古墳(上侍塚・下侍塚)を那須国造の墓と推定して発掘調査を行っています。出土品は絵師に描き取らせたのち、厚い松板の箱に入れて元のように古墳内におさめさせています。これは日本初の学術的着想による発掘といわれています。

調査は、翌元禄5年(1693年)4月に終了し、6月には光圀が湯津上村を訪れ、那須国造碑と両古墳を視察しました。また、古墳の調査を終えた同年4月、佐々を楠木正成が自刃したとされる摂津国湊川(神戸)に派遣し、楠木正成を讃える墓を建造させました(湊川神社)。墓石には、光圀の筆をもとに「嗚呼忠臣楠氏之墓」と刻まれています。
CIMG1842.jpg(説明版です。)
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(光圀の筆をもとに「嗚呼忠臣楠氏之墓」)


72歳頃から食欲不振が目立ち始め、元禄13年12月6日(1701年1月14日)に食道癌のため死去した。享年73(満71歳没)。

【水戸黄門の初めて?】

日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるものは、餃子、チーズ、牛乳酒、黒豆納豆があります。ラーメンも光圀が最初と言われてきたが、光圀が食した時期より200年以上前の『蔭涼軒日録』(相国寺の僧による公用日記)に、ラーメンのルーツとされる経帯麺を食べたことが記されていたことが2017年に判明しました~(残念)。肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は5代将軍徳川綱吉が制定した「生類憐れみの令」を無視して牛肉、豚肉、羊肉などを食べていました。野犬20匹(一説には50匹)を捕らえてその皮を綱吉に献上したという俗説も生まれています。鮭も好物であり、カマとハラスと皮を特に好んだようです。

オランダ製の靴下、すなわちメリヤス足袋(日本最古)を使用したり、ワインを愛飲するなど南蛮の物に興味を示し、海外から朝鮮人参やインコを取り寄せ、育てています。蝦夷地(後の石狩国)探索のため黒人を2人雇い入れ、そのまま家臣としています。また、亡命してきた明の儒学者・朱舜水を招聘し、教授を受けています。

朱舜水が献上した中華麺をもとに、麺の作り方や味のつけ方を教えてもらい、光圀はこれを自分の特技としてしきりにうどんを作りました。汁のだしは朱舜水を介して長崎から輸入される中国の乾燥させた豚肉からとり、薬味にはニラ、ラッキョウ、ネギ、ニンニク、ハジカミなどのいわゆる五辛を使っていますね、正に現在でいうラーメンです。光圀はこの自製うどんに後楽うどんという名をつけた。後に西山荘で客人や家臣らにふるまったとの記録もあります。

『大日本史』完成までには光圀の死後250年もの時間を費やすこととなり、光圀の事業は後の水戸学と呼ばれる歴史学の形成につながり、思想的影響も与えました。

【全然名君じゃなかった?】

「大日本史」の編纂に水戸藩は多大な費用を掛けました。一説に藩の収入の3分の1近くをこの事業に注ぎ込んだといわれている(3分の1説の他、多くの費用を当てて完成した説もあります。)。

水戸藩の財政は初代の父・頼房の藩主時代から苦しく、光圀の藩主時代後期には財政難が表面化していました。光圀は藩士の俸禄の借り上げ(給料削減)を行っているが、大きな成果は上がりませんでした。光圀の養子・綱條も財政改革に乗り出しますが、水戸藩領全体を巻き込む大規模な一揆を招き、改革は大失敗します。その後も水戸藩にとって財政の立て直しは重要課題であり続け、様々な改革と幕府からの借金を繰り返しました。一方で「大日本史」の編纂は光圀の死後も継続され、豊かとはいえない慢性的な逼迫財政をさらに苦しめたとされます(少しは考えろよ~!)。

また光圀は他の御三家(尾張・紀伊)に対抗するため、当時1間=6尺3寸だったのを6尺に改め、表高が28万石だった水戸藩を見かけ上36万9千石にしました(どうするよ)。この石高が次代の綱條の代に幕府に認められることとなり、これが上記大日本史編纂事業とあいまって水戸藩困窮の要因となりました(見栄っ張りですね)。

光圀の学芸振興が「水戸学」を生み出して後世に大きな影響を与えたことは高く評価されるべきですが、その一方で藩財政の悪化を招き、ひいては領民への負担が大きく、そのため農民の逃散が絶えなかったのは残念ですね。結果的には「民を愛して悪を憎む」水戸黄門思想の理想からは逸脱している側面も存在し、単純に「名君」とはいえません。

反面、父の頼房が死の床にあったとき自ら看病に当たり、死去すると3日も食事がのどを通らなかった。など、のやさしさも見せています。

五代将軍綱吉期に大老の堀田正俊が稲葉正休に刺殺され、正休も大久保忠朝らによってすぐに殺害された事件が発生します。光圀は幕閣の前で「如何に稲葉が殿中で刃傷に及んだとはいえ、理由も聞かず取り調べもせず誅するとは何事か」と激怒し、幕閣に対して強い不信を抱いたといいます(正義感は強いようです)。

【先の副将軍水戸光圀公に在らせられるぞ~は嘘?】

水戸徳川家は参勤交代を行わず江戸に常駐しており、帰国は申し出によるものでした(常に将軍の傍に居る事から水戸藩主は(俗称として)「(天下の)副将軍」と呼ばれるようになります(実際に副将軍という地位はありません)。財政悪化もあり、中・後期の水戸藩主はほとんど帰国しませんでした。光圀は藩主時代計11回帰国しており、歴代藩主の中では最も多い回数帰国しています。また歴代藩主唯一の水戸生まれであり、誕生から江戸に出るまでの5年と、隠居してから没するまでの10年を水戸藩領内で過ごしました。そのため、水戸藩領内における関連した史跡は後の藩主に比べると格段に多いようです。

初期のTVドラマでは「先の中納言(副将軍ではない)水戸光圀公に在らせられるぞ~」といって格さんが印籠を出していました。その時間は午後8時45分前後に固定されていました。背景には二代目黄門様の西村晃さんが、特攻隊時代からの友人である千玄室(茶道裏千家前家元15代汎叟宗室)が時代劇が好きでどうしても見たいが、お茶の稽古が40分まであるので、印籠シーンの時間を一定(45分)にするよう西村晃さんに依頼したことがきっかけで45分に決まったといわれています。

【格さん助さんにはモデルが有った】

そこで活躍するのが、格さん助さんですが、ドラマでの名前は助さんは佐々木助三郎、格さんは渥美格之進です。
この二人はモデルが実在します。
本当の名前は助さんは、佐々木十竹(ささじゅちく・介三郎宗淳)、1640~1698)、格さんは、安積 澹泊(あさかたんぱく・覚兵衛、1656~1737)という学者だそうです。

【史実的見処】

実の親子ではない、後継ぎ徳川綱條(養嗣子)面会の場面でよそよそしい「つなえだ殿」と遠慮がちに呼びかけます。逆に高松藩2代目藩主松平頼常(光圀実子)には優しく上座から「よりつねどの~」「父上」と親子の情を感じさせる設定に成っていますね。

今回は、南部支藩八戸藩?へ行くようです。震災もありましたからね~。もし上の様な場面が有りましたら注目です。

また、他の時代劇にも見られるため水戸黄門のみの話ではありませんが、「藩」や「藩主」といった名称は後世のものであり、江戸時代においてはそのような呼称は用いていません。これ最初私も苦労したんです。ブログを全て過去と同じに表記しようと思ったからです。ハッキリ言って無理です。例えば私が但馬出石藩士だったと仮定しましょう。ブログで名前を呼ぶには、「但馬国出石仙石家御家中○○市郎右衛門」がとなります。「出石藩○○市郎右衛門」!どうですか藩を使うと簡単ですよね~、つまりそういうことです。(笑)

光圀の敵役として柳沢吉保(今回は袴田吉彦さんです。)が登場しますが、実際の光圀隠居時には柳沢保明と名乗っており、吉保を名乗るのは光圀が亡くなってからです。

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(いつも適役でかわいそう?今の袴田さんならうってつけか?柳沢吉保公)
CIMG1670.jpg(奈良大和郡山城内にある柳沢神社です)
CIMG1678.jpg(息子が柳沢吉保を祀っています。)

毎回うるさ型の家老として、水戸藩国家老・山野辺兵庫が出演していますが、実際の光圀隠居時にはすでに亡くなっています。

最後に、但馬豊岡藩の藩主(藩が使えると楽でしょ)として京極高永が出演していましたが、実際の光圀隠居時の豊岡藩主は祖父の京極高住である。高永が豊岡藩主に就任するのは、1726年です(重箱のすみをつついて申し訳ありませんが)これも期待の表れです。

【最後に黄門様のお墓】

「墓所」 常陸太田市瑞竜町の瑞龍山にあり、現在、日本最大の儒式墓所となっています。
「霊廟」 母の菩提寺である常陸太田市新宿町の久昌寺の義公廟があります。
「奉斎神社」 水戸市常磐町鎮座の常磐神社に主祭神として祀られます。神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。

【まだ行くか~雑学王?】

私が子供の頃「仮面の忍者赤影」というヒーロー物がありました。前水戸黄門の里見浩太郎さんが木下藤吉郎役で出演されています。秀吉といえば「猿面冠者」といわれた天下人。個性的な俳優さんがキャスチングされるのがほとんどです。なんと40年前の里見浩太朗さんですよ~ビックリです(爆)

いや~時代劇まだまだ語りつくせませんが、今日はこの辺で失礼しときます。

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歴史って本当に面白いですよね~!
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