2018/02/04

今年(2018年)は「南南東」『恵方巻』はコンビニの策略だ!

今年もやって来ました。今や全国的に広まった節分の恵方巻イベント、元々は、関西の一部(大阪と兵庫県の一部)だけで行われていた行事?でした。兵庫県北部但馬生まれの私は、子供の頃はまったく知りませんでしたし、そんな食べ方していなかったと思います。同級生や同郷の妻も、子供時代は知らなかったとのことでした。

兵庫県尼崎市(阪神間ですね!)の伯母の家では、私が小学生の40年以上前から、丸かぶりしていたのを記憶しています。
この近畿圏の私が知らない、「「恵方巻」成るものの歴史を追いかけて見ました。


P2020100.jpg(セブンイレブンの我がもの顔の垂れ幕です。)

どうやら、コンビニが大きな役割を担っているので、そちらも調べてまいりました。もう少しするとバレンタイン!こちらも同じように業者の策略に乗せられているようなので、少し冷静に考えてみましょうのブログです。

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【恵方巻の名前自体がコンビニの発案?】

P2020095.jpg
(子どもの頃は関西のコンビニはローソンだった。兵庫県の店舗数1位はセブンイレブン、2位はファミリーマート、ローソンは3位に後退しています。)

調べてみると、『恵方巻』の名前自体がセブンイレブン(1990年)の発案でした。元々は、関西圏でも『節分のり巻き』の名前だけだったようです。皆さんはこの、海苔巻きにかぶり付いている姿、何か日本らしからぬお下品さと、感じられた事はありませんか?そうなんです。

発祥に付いては幾つかの説が有る様ですが、江戸時代末期から明治時代初期、大阪の商人(「船場の商人」とする資料も存在します。)による商売繁盛の祈願事として始まったという説や、豊臣秀吉の家臣・堀尾吉晴(初代松江城主)が偶然節分の前日に海苔巻きのような物(様な物って?)を食べて出陣し、戦いに大勝利を収めたという故事を元にしているという説も有ります。ただし、板海苔の誕生は江戸時代であることから、この説の根拠の乏しさが指摘もされています(他にも幾つか説は有るようです)。

起因として「厄落とし・縁起担ぎ」や「船場にある階段の中段で女性が太巻きを丸かじりして願い事をした」更には「船場の旦那衆のあそび」等が挙げられています(その他にもまだ有ります。)。

【遊女と巻寿司】

しかし、私は最後の旦那遊びを推薦します。花街発祥の、「怪しげな風習」ですが、かつては商家の旦那たちが、遊女と巻寿司を使った遊びを楽しんでいたのだそうです。花街の遊女に海苔巻きをかぶり付かせて楽しんでいる旦那周の助平心が、このお下品な風習を広めたと考えると、納得しやすいのです(///∇///)。あっ!貴方、今ソフトクリームを舐める女性を想像しましたね。バナナやウィン…もうやめときましよう。兎に角そういう事だと思います。

なぜ、そんな風習が全国的に広まったのか?節分にその年の恵方を向いて巻き寿司に無言でかぶりつく、そうすれば幸せになる、願い事が叶う?毎年恒例の行事となりつつある「恵方巻」ですが。ただ、この風習の由来は定かではありません。あたかも伝統であるかのように「装われた」ものだと言われています。

いったいどういう経緯で、ここまでの広がりを見せたのか、恵方巻に詳しい民俗学者はこのように分析しています。熊本大准教授の岩崎竹彦さんは「とりあえず大阪の船場が発祥だということは確かでしょう」とBuzzFeed Newsの取材答えられています。節分の巻き寿司(恵方巻)の研究者で、「フォークロリズムからみた節分の巻きずし」などの論文をお出しの方です。

フォークロリズムとは、伝統的な民間伝承が、違う文脈で使われるようになることを指す言葉です。「もともとは船場の旦那衆が、花街でやっていた遊びでしょうね」岩崎さんの調査などによると、やはりかつて商家の旦那たちが、遊女と巻寿司を使った遊びを楽しんでいたのだそうです。

平安時代の絵巻物や映画・ドラマなとでも扇で口を隠す姿を良く見かけます。口を開ける(若しくは、口の中を見られる)事は恥ずかしい事だったようです。現代の様な歯科医院が無かった時代、虫歯等で歯が痛い時には、丸々抜いてしまう方法が取られました。ですから、お口の中はぼろぼろだったのかも知れません(恥ずかしい)。それがいつ頃から少しずつ、人々に浸透していったのでしょうか?明治末期の大阪で生きた人が残している回顧録などには、「家でそういうことをしていた」という記載もあるといいます。

いずれせにせよ、恵方巻きの明確なルーツは不明です。近畿地方の一部に広がっていた風習であり、「伝統行事」と言えるまでではなかったのです。

【大阪鮓商組合が商売に利用】

戦前から始まった「幸運巻寿司」こうした「怪しげな風習」にそれらしさを付与したのが、商業キャンペーンでした。前出の岩崎さんは、巻寿司に関するビラを収集しておられます。発見した一番古いものは、やはり1932(昭和7)年に大阪鮓(すし)商組合後援会が発行したものだそうです。これは、太巻きを自ら広めた大阪鮓商組合後援会事務局長も、認めておられるようなので、信憑性が高いですね!太巻は七福にちなんで、7つの具を入れて巻くのが基本になったようです。

「幸運巻寿司」をPRするためのビラには、こんな内容が書かれています。《この流行は古くから花柳界にもて囃されていました。それが最近一般的に宣伝して年越には必ず豆を年齢の数だけ食べるように巻寿司が食べられています。これは節分の日に限るもので、その年の恵方に向いて無言で一本の巻き寿司を丸かぶりすればその年は幸運に恵まれるということであります。宣伝せずとも誰言うともなしに行ってきたことを考えると、やはり一概に迷信として軽々しく片付けるべきではないかも知れません。いま、私たちが知っている「恵方巻」そのものだ。》ここでも「花柳界」(遊郭など)に原点があるとされています。

次に古いのは、1940年(昭和15)年に同じ組合が発行しているものです。そこに書かれている内容は、《巳の日に巳寿司と言うてお寿司を喰べるように毎年節分の日にその年の恵方に向かって巻寿司の丸かぶりをすると大変幸運に恵まれるという習わしが昔から行事の一つとなって年々盛んになっています。》

「習わし」「昔からの行事」としつつ、その由来には一切触れられていません。花柳という言葉が消えているのは、時勢として良くないとの判断があったのかもしれません。この年は「皇紀2600年」の節目です。戦時であり、国威高揚に熱心だったご時世でした。「大変幸運に恵まれる」ことは、消費者が望んでいたものでもありました。いずれにせよ、恵方巻と同じような風習は、戦前から寿司屋のマーケティングに活用されていたのです。

戦火が激しくなるうちに中断していたこのマーケティングは、終戦から4年後には再開していた様です。その後、高度経済成長期に突き進む日本で、この「風習」を利用したのが、スーパーマーケットとコンビニエンスストアでした。全国展開の基礎をスーパーがつくり、結実させたのはコンビニです。

1970年代後半から、大阪の海苔組合や厚焼組合などがビラを発行し始めます。大手のスーパーマーケットから依頼されたものもあったといわれます。ただ、どれも「昔の言い伝え」などとしている物でした。

一方の鮓組合は、風習の起源を明確に示したビラを発行しています。いつからかは不明だが、1990年のものにはこう記載されています。《江戸時代の末期若しくは明治の始め頃から大阪の中心地、船場が発祥地とされております。商売繁盛、無病息災、家内円満を願ったのが事の始りです。一説には若い女性の願いである好きな人と一緒になりたいという祈りから広く普及したとも伝えられております。》

岩崎さんは前出の論文の中で、こう指摘されています。「鮓組合のコピーによって昔からの言い伝えに根拠が与えられ、いわば怪しげで不可思議な風習が本物となった、あるいは本物であることの装いができあがった、と考えられる。」。こうして作られた「風習」はスーパーマーケットの折り込みチラシやチェーン店の寿司屋(小僧寿し?)、コンビニエンスストアによって広がりを持つようになっていきます。

バブル期には巻き寿司がどんどん豪勢になっていきました。マグロやカニやイクラを入れて、値段が高くなっていきました。一方のバブル崩壊後は、社寺で祈祷を受けたノリを使ってプレミアをつけていたようです。その頃はリストラの嵐でしたから、国民みんな大変な思いをしていると言うことで、祈りをキーワードに巻寿司も販売させようとした、業界の苦労が感じられます。

【全国に展開させたセブンイレブン】

P2020102.jpg(セブンイレブン恵方巻セット?)


それでも、昭和60年代や平成の初め頃ではまだ全国に浸透しているとは言い切れない状況でした。そんな中、チェーン店として初めて「恵方巻」という言葉を用いて全国展開を図ったのが、セブンイレブンです。

セブン&アイの広報担当者は、BuzzFeed Newsの取材にこう語っています。「1989年に広島県の一部店舗で『太巻きを節分にどうぞ』と売り出してみたのが始まりです。2月は催事が節分しかなく、関西出身のオーナーが関西では節分に太巻きを食べるという風習があることに目をつけて、おすすめしてみたそうです」。

オーナーの目論見は見事に功を奏し、そのまま展開が広がります。全国展開が始まったは、1998年のことです。売り上げは年々増加しています。2016年は、664万本が販売されました。(セブン&アイHLDGS)

ここまでくれば、「怪しげな風習」だった恵方巻は、もはや新たな「伝統」と言えるのではないでしょうか?北海道や沖縄には最近になってようやく風習が広がり始めたようです。特に沖縄はもともと節分行事がありませんでしたから、スーパーマーケットがどんどん宣伝をしている段階です。

ほぼ全国制覇は完結しそうです。まだ伝統と言えるかは微妙ですが、間違いなく、将来的には伝統になるでしょう。ちなみに、今年の恵方は「南南東」です。

【我が家の恵方巻!いや此方の方が重要だ。】

P2030149.jpg(鰯と柊、こちら重要です。ちなみに柊は食彩館さんの御好意で頂きました。角皿は下手くそな私の作品です。)
P2020119.jpg(そして豆まきセット、お面も付いてました。)
P2030129.jpg(そして私が食べるのは上の海鮮巻き「須磨寺」の胡麻祈祷・厄災難除のお札付きです。)
P2220222.jpg
(具は七種類、神戸七福神ゆかりのありがたい具材です。)

結婚してから毎年我が家でも、恵方巻(私は当然?海鮮巻ですが、笑)を買って黙って黙々と恵方にむかって食べております。近頃日本古来からの風習である、豆まきやイワシとヒイラギの魔除けの方を大切にしなければ行けないと感じています。反省材料ですね(笑)。

此方伝統の豆まきですが、宇多天皇(在位887~897)の時代に、鞍馬山の鬼(朝廷に、まつろわない民の総称?土蜘蛛等)が出て来て都を荒らしたので、祈祷で鬼の穴?を封さぎ、三石三升の炒り豆(大豆)で鬼の目を打ちふさぎ、災厄を逃れたという故事伝説が始まりといわれています。

豆まきは、「穀物には生命力と魔除けの呪力が備わっている」という信仰、または語呂合わせで「魔目(豆・まめ)」を鬼の目に投げつけて鬼を滅する「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いがあります。

柊と鰯は、柊の尖った葉に魔除け意味合いがあるようですし、鰯に付いては鬼は生ぐささが嫌いみたいです(ニンニク嫌いのバンパイアか!(;^_^A)。

【ここで何時ものうんちくを!】

鬼といえば、鬼門を思い出しませんか。鬼門は丑寅の方角(鬼は牛の角が生えていて、虎のパンツルックなのがご理解頂けましたか?)ですね。

京都御所は(鬼門封じとして比叡山延暦寺を作ったにも関わらず)北東が削られて、鬼に角が立たないように造ってあります。知っておられましたでしょうか(一昨年京都御所の鬼門写真が無くて、岩清水八幡宮の写真を使いました。その翌日京都御所の鬼門だけ撮影に行った私は、Bloggerの鏡です。自分言うか~!Σ(×_×;)!)?

DSC_0075.jpg
(京都御所の鬼門、角がへこんでいます。)

豆まきの掛け声にも地域性は有るようで、我が家の近く三田市(みたではなくて「さんだ」です。東京の三田と混同されるので、サンダクロースを掛け声にしています。無理ないかな?)では、戦国武将九鬼氏(九鬼水軍で有名!)の城下町なので、旧市街地では、「福は~内」「鬼も~内」だそうです(成る程ですね!)。

【最後に一言】

昨年比は、子供たちが私の書斎にも豆をまいてくれました。昔は普通に豆をまいていましたが、今は袋入りの豆(圧力で揚焼き?してあるのか、柔らかくて食べやすいです。埃も付くしね!)ですね、風情は無くなったけど、これも時代です。

今年は、私が友人と三ノ宮で遊んでいたので、豆まきは妻が代わりに行ってくれました。もう立春ですか、年を重ねると早いですね~(;つД`)。幼馴染というのは良いものです。気兼ねも無いし、女の子(もう子じゃないな)も皆若々しく、素敵な奥様方です。

伝統文化は当然ですが、少しずつ変化しています。これは今に始まった事では無いと思いますが、例え形は変わっても、日本人として伝えて行かなければいけない文化も有ると思います。勿論!「恵方巻」も良いですが、古来の豆まきも是非行って文化を引き継いで頂きたいです。

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リュミエールブラン ネージュ

2018/01/20

「大国主」は屠られて『出雲王国』は滅亡した?

今回のブログは、「大国主」は暗殺された?哀愁の『須勢理毘売命』を追って!vol③に当たるものです。このシリーズはvol②で終わる予定でしたが、鳥取県の考古学関係者の友人から愛あるクレームが有りました。(笑)成る程~と思ったので、vol③に当たるこのブログを書くことにしました。

問題点は前回の「まだご紹介していないのですが、出雲には四隅突出墓といわれる、独特の古墳が有り、国譲り以前の出雲が独特の文化を有していたのではないのかと考えています。妻木晩田遺跡には四隅突出墓が数多く発掘されています。」の部分です。

CIMG1626.jpg
(やはり大国主は殺されたのか?神話の謎を解き明かそう。)

彼いわく、「四隅突出墓では無い!正確には四隅突出墳丘墓で、古墳では無い!」とのこと。説明が難しいので調べてみると共に、vol①でプレゼントのお話もしたので、そちらも合わせて今回のシリーズは最終話にしたいと思います。(^人^)

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【墳丘と古墳の違い】

P5190131.jpg(墳丘と古墳の基準となる箸墓古墳!やはり美しいですね。)
CIMG2608.jpg(妻木晩田遺跡で最初に作られた洞ノ原1号墳。)
P8111380.jpg(四隅突出墳丘墓の分布図、これが出雲王国の全貌だと思います。)
P8111360.jpg(西谷墳墓群の横穴墓と呼ばれる横穴の墳墓群)

愛有るクレームを頂きまして、墳丘墓と古墳にどのような違いがあるのか調べてみました。webの見解では「古墳」は墳丘が一人の埋葬者のために造成されている(複数の埋葬者がある場合は古墳に含めない)。前方後円墳、または前方後方墳・円墳・方墳という規定形で、一定の政治的意味が付与されていると考えられているようです。

吉野ヶ里の墳丘墓、山陰地方の四隅突出墳丘墓(西谷墳墓群も取材済みですが、まだご紹介していません。)などは複数の埋葬者があるので古墳とは呼べません。更に、岡山の楯築遺跡(此方もまだご紹介していません。取材済みです。)は、一人の墳丘ですが、前方後円墳ではないので古墳と認められない(前方後円墳の原型ともいわれ、方部が2つの双方中円墳)、という論理のようでした。

また、wikipediaを参考にすると、3世紀後半を境に呼び方を変え、区別していると説明されています。これは箸墓古墳を基準にしていると思われ、それ以前は墳丘墓、それ以降を古墳と呼ぶようです。実際は箸墓古墳の在る纒向遺跡には、箸墓古墳以前の纒向石塚古墳・纒向勝山古墳(此方を卑弥呼の墓と考える学説も有るようです。)・纒向矢塚古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳があり、木製品の年輪年代測定などから、纒向石塚古墳は遅くとも225年頃までには造られていた事がわかっています。

この事実から、古墳の形や発展、社会の動きや時代を基準に墳丘と古墳を分ける明確なラインはないと考えますが、教科書や新聞では、はっきりと分かれているようです。墳丘墓と古墳を分けているのは、時代の様です。初現期については諸説あり、意見が割れていますが、極論で分けてしてしまえば、古墳時代に作られたのが古墳で弥生時代以前に作られたものが墳丘墓と呼ばれています。

楯築や四隅突出型などは誰もが弥生時代と認めるので墳丘墓と成るようですが、纏向にある箸墓以外の5つの墳丘を持つ墓は3世紀代を古墳時代に含めるか、箸墓以降を古墳時代とするかの見解が割れているので、人によっては古墳と言い、人によっては墳丘墓と呼んでいます。ただし、教科書的には従来からの箸墓以降を古墳時代とするという見解を取っていますので、箸墓よりも古いものは墳丘墓、箸墓より新しいものは古墳と分けて記載しているようです。

古墳であるか否かの基準としては「定型化(前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳等)」ということがあげられますが、この条件をいろいろ調べていくと古墳時代でも小さい古墳や地方の古墳だと整合性の無い物が多く現れ、基準や定義だけから古墳と墳丘墓を厳格に区別するのは事実上無理だと考えます。

岡山の楯築遺跡は、埋葬者は一人ですが、前方後円墳でない上に弥生時代の物ですから古墳と認めないという考え方は、明らかに間違っていると思います。「古墳」というものが王権の象徴と考えたうえで、弥生時代とは全く異なる社会的な意味がある物なのだということを強調し明確化するために用語が変えられていると思います。

私の結論では、基本的に箸墓古墳以降の物は全て古墳(人数が二人の野口王墓や藤ノ木古墳は個人墓では有りません)と呼ばれます。一方纒向遺跡の5古墳や楯築遺跡は、箸墓古墳より古いのですが、古墳と呼んで差し支えないと思います。墳丘墓と呼ばれるのは、明らかに弥生時代のもので(移行期は個々に選定する。)、なおかつ現代の○○家代々の墓、に相当するものです。

前回私が四隅突出墓(墳丘墓)を古墳と書いたのは使用間違いだったわけですが、私的には固有名詞としての古墳ではなく、古い墓の意味で使用したつもりだったので、お許し頂けましたら幸いです。

CIMG2398.jpg
(出雲では狛犬も独特、意宇六社の中でも私が最も美しいと思える、真名井神社の云型狛ちゃんです。)

【雲太、和二、京三】

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(48mと言われる中古代の出雲大社当時の復元模型・雲太です)
CIMG1283.jpg(和二・東大寺大仏殿!建設当時は横幅がさらに大きかったようです。)
PA280331.jpg(現在京都にある御所の大極殿ですが、南北朝時代にこの場所に移って建て直されています。)

松江市出身の友人が「雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きようさん)という言葉を、小学生時代に覚えされられた」と言っていたのでご紹介します。平安時代中ごろに「口遊(くちずさみ)」と呼ばれた、大建造物の歌謡の事です。「雲」は出雲、「太」は太郎という名前が示すように長男、「和」は大和、「京」は京都。つまり、出雲大社が1番、奈良の大仏殿が2番目、京都御所の大極殿が3番目という意味で、日本の巨大建築のベスト3を表しています。

世界最大の伝統木造建築物として大仏殿をご紹介する予定が有るのですが、(此方も取材は行っているのですが、まだご紹介出来ていません。)、それより大きな建築物があったのです。

現存する大仏殿は、正面の幅57.5m、奥行き50.5m、棟までの高さ49.1mで、古代の物より少し高いようですが、『東大寺要録』の「大仏殿碑文」によると創建時の大仏殿の規模は、幅29丈(約85.8m)、奥行き17丈(約50.3m)、高さ12丈6尺(約37m)と記録されています。高さは現在の方が高いようですが、横幅は現在1.5倍も有ったんですね~驚きました。

現在は焼失して実物は残っていませんが、昔の書物に「出雲大社は16丈(48.5m)、大仏殿は15丈(46.4m)」と記録されています。つまり古代出雲大社の方が高さは高かったことになります。

さらに、本居宣長は、幻の出雲大社を記述した本居宣長の「玉勝間」の中で、「出雲大社本殿の高さは、太古は32丈(96.96m)、中古は16丈、近古は8丈という言い伝えを記載しています。現代の建築学者は「32丈(96.96m)は、構造的に不可能」と言っているようですが、100m近い木造建築物が本当にあったのでしょうか、見てみたいですね。

平安時代、雲太といわれたころの出雲大社は16丈(48.48m)の壮大な建物でした。これが8丈に縮小されたのは、鎌倉時代宝治2年(1248)の造営からの様です。すなわち、平安時代中ごろには、出雲大社がもっとも大きく、次いで東大寺大仏殿、京都御所大極殿の順だと歌われました。

《幻の出雲大社を記述した本居宣長の「玉勝間」を参考》

古代出雲大社、長い間その出雲大社は記録に残るだけの「幻の木造建築」でしたが、2000年にそれを裏付ける遺構が発掘されました。出雲大社の境内の地下から、直径1.35mの柱を鉄の輪で3本束ねた直径約3mの柱の跡が2ヵ所発見されたのです。

6本の柱のうち4本がスギ。あとの2本は不明ですが、おそらくヒノキかコウヤマキでしょう。建築されたのは平安末期と推定されています。江戸時代に再々建された現在の東大寺大仏殿には集成材の柱が使われていますが、平安末期すでに丸太のまま束ねて柱にするという技術があったわけです。日本の建築技術は凄いですね。

日本人気質ということで、一つお話をさせていただきます。ウズベキスタンの首都タシケントに、1,500人の観客を収容する壮麗なレンガ作りのナヴォイ・オペラ・バレエ劇場があります。1966(昭和41)年4月、震度8の大地震が市を襲い、市内の建物の殆んどが倒壊した中でも、この劇場はびくともせず、市民の避難所となりました。この劇場を造ったのは、大戦後シベリアに抑留され強制労働に従事した日本兵でした。1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本人抑留者が、このアリシェル・ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場の建設に参加し、その完成に貢献しました。

同様に、ウズベキスタン全体では、2万5,000人の日本人抑留者が強制労働に従事して、道路や運河、発電所、市庁舎、学校などを作っています。どの建物も地震被害はほとんどなく、日本人が勤勉に働いていた様子が語り継がれています。捕虜となり過酷な労働条件の中でもできうる限りの最高の物を作ろうとした日本人の姿が目に浮かびます。

現在首都タシケントでは、春になると桜が満開になるのだそうです。この桜は日本人墓地を管理してくれているタシケントの市民に感謝の意を込めて、遺族会が苗木を送ったものだそうです。お隣の国では嫌われているわが国ですが、世界で日本を嫌っている国はほんの数か国だということも考えておきたい事実です。

【追いやられた出雲系一族】

国譲り神話を元に、地方に分散され力を削がれた出雲系一族をご紹介しましょう。まずは「八上姫」です。こちらは「須勢理毘売命」の嫉妬心に恐怖した「八上姫」が子供を置いて因幡に帰国(内輪もめ)したことに成っていますが、大和から出雲を征服するコース上にあるのが、因幡に成ります。戦国時代には、羽柴秀吉が出雲進攻を美作から因幡へと行っています。因幡が懐柔され「八上姫」は実家に帰されたのかもしれません。歴史は繰り返すの例えもありますからね。

次は「須佐之男(すさのお)」です。須佐族王の意味かもしれません。日本神話の中でも三貴神の一人として登場します。しかしながら、このシリーズでご紹介したように、天孫族では無いようです。全国に須佐之男を祀る神社は数多くあります。京都祇園祭りも八坂神社(御祭神は須佐之男です)のお祭りです。須佐之男が誓約で生んだのは宗像三女神、海の神様ですね。海路の重要性を考えた大和勢力が一番先に懐柔したかった人物ではないでしょうか?

次は「事代主」です。島根県美保が関の美保神社に祀られていますが、なぜか継母の美穂津姫と一緒です(お目付け役かな?)。美保神社には古事記に題材をとった「青柴垣神事」で有名です。以前私も偶然に拝見する機会がありました。神事の中心は御船が宮灘から離れ、最も尊い神域である「青柴垣」に近づきます。そして、これまで続いた精進潔斎を経た當屋(氏子から選ばれた男性)は神がかり状態になり、その体に神霊を戴きます。ここで、當屋は船内において「生き化粧」へと化粧を塗りかえます。

IMG_6082.jpg
(美保神社の青柴垣神事、當屋が青柴垣を祀る船に向かいます。正にうなだれる「事代主」に見えませんか?)
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(小忌人は地面に足を突かないそうです。天津神の使いですね。)

解釈ははっきりしないようですが、精進潔斎を経た當屋がうなだれ両脇を支えられながら、御船に乗り込む姿は大和軍に引き立てられる事代主そのものに感じました。小忌人(古くは大齋人)と言われる少女が、當為知に背負われ地に足を付けない姿は天孫族の使いとも見えました。国津神から天津神へ変わる神事ということでしたが、古事記に有る青柴垣に隠れるは、死を意味するものかもしれませんし、伯耆国には事代主が逃げて来たという伝承場所(倉吉市波波伎神社社)が残っています。

さらに、『古事記』の国譲りに登場する武闘派神、「建御名方(たけみなかた)」、『先代旧事本紀』「地祇本紀(地神本紀)」では、大己貴神(大国主)が高志沼河姫(こしのぬなかわひめ)を娶って生まれた一男が建御名方であるとされます。日本書紀には記載はありません。 建御雷に力競べを挑み建御雷神の手を掴むと、建御雷神の手は氷や剣に変化しました。建御名方神がこれを恐れて下がると、建御雷神は建御名方の手を握りつぶして投げ飛ばしてしまいます。

建御名方は逃げ出したが、建御雷がこれを追い、ついに科野国(信濃国)の州羽海(諏訪湖)まで追いつめて建御名方神を殺そうとしました。その時に、建御名方はその地から出ない旨と、大国主・八重事代主に背かない旨、葦原中国を天つ神の御子に奉る旨を約束したといいます。

そして最後が今回シリーズとして取り上げた「須勢理毘売命」です。唐王神社や大山町の伝承によると、大国主と離れて大山の見える、出雲の端で生涯を閉じています。出雲大社では仲良く祀られていることに成っています。

PB020002.jpg(出雲大社一の鳥居、やはり大きいですね~!)
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(二匹の兎は大社に何を祈るのか?)

唐王神社近くに存在する「妻木晩田遺跡」も少しだけご紹介しておきましょう。標高90~120メートル前後(平野部との比高差100メートル前後)の尾根上を中心に立地し、面積約170ヘクタールにおよびます(吉野ヶ里の5倍)。これまでにま17.2ヘクタールが調査され(それでも10分の1です)、集落関係では竪穴住居395基、掘建柱建物跡502基、墳丘墓(四隅突出型墳丘墓含む)24基、環壕等が検出されています。

一連の集落は弥生時代後期を中心に中期終わり頃から古墳時代前期初頭にわたって営まれてたことが分かっています。いわゆる倭国大乱の影響とされる高地性集落ですが、比較的大規模で長期にわたる例は少なく、注目されていて昨年も12月まで発掘調査が行われていました。今年も予算が付けば、更なる調査が行われる予定です。

【最後に一言】

毎回言っていることですが、歴史は勝者が書き換えるのです。大国主の国譲りも、事代主の青柴垣へのお隠れも、建御名方の諏訪湖への逃亡劇も、須勢理毘売命が出雲大社で仲良く暮らしたお話も疑っていきますと限がありません。

しかしながら、国を譲られた大和勢力が古事記において出雲国の神話を中心に据えた理由は、やはり出雲王国の底力を恐れたからではないかと思います。邪馬台国論争、卑弥呼論争は出雲抜きでは語れないのではないかと思うのですが、皆様はどう思われますか?

最後に成りましたが、プレゼントのお話忘れていました。「須勢理毘売命」が「大国主(葦原の醜男)」を助けるために渡した砂と同じものだとも言われる唐王神社神殿下の砂です。私の分も含めて3つ頂きました。ご要望がございましたらプレゼントさせていただきます。

神話のお話、須佐之男が頭の虱を取るように言いつけられた大国主最後の試練、頭にいたのは虱ではなくムカデでした。大国主は、須勢理毘売命からもらった椋(むく)の実を噛み砕き、同じくもらった赤土(実物は赤くありませんが、笑)を口に含んで吐き出して難を逃れたあの砂と同じものだそうです。蝮や毒虫の危険は少なくなりましたが、昔ながらの悪い虫はまだいます。それは、女性にとっては男性、男性にとっては女性だそうです(爆)。この悪虫に対する須勢理比売命の神通力は今なおこの地で信じられています(結構必要な人いるかもしれません)。ご希望の方はコメントを頂きましたらお贈りいたします。応募多数の場合は厳正にくじをひかせていただきます。

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リュミエールブラン ネージュ

2018/01/16

「大国主」は暗殺された?哀愁の『須勢理毘売命』を追って!vol②

さて、今回も前回ご紹介した、出雲の成り立ちと古事記の説明も交えながら、前回の続き『須勢理毘売命』の逃避行の続編をお送り致します。勿論看板兎もご紹介します(笑)!

P8111160.jpg(大国主と須勢理毘売命の結婚式壁画の前で三々九度をする二匹の兎可愛い~!)

現在と違い、陸路の交通網は整備されておらず、須勢理毘売命を追い掛ける?大和軍もアウェイな陸路道中のリスクは避けなければいけなかったのかも知れませし、強力な水軍の存在は疑問が残ります。元々日本海交易の中心を担って来たのは、出雲なのですから。

一方、逃げる須勢理毘売命側の上陸地点近くには環濠集落をも備えた、妻木晩田遺跡も有り、出雲勢力が色濃く残っています。妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)は、鳥取県西伯郡大山町富岡・妻木・長田から米子市淀江町福岡に所在する国内最大級の弥生集落遺跡です。遺跡の面積は156ヘクタールにもなり、これは発掘当時国内最大級と喧伝された吉野ヶ里遺跡(当時32ヘクタール、現在は調査が進み、約2倍の面積になっている)の5倍にもおよぶ大規模なものです。

ところで、まだご紹介していないのですが、出雲には四隅突出墓といわれる、独特の古墳が有り、国譲り以前の出雲が独特の文化を有していたのではないのかと考えています。妻木晩田遺跡には四隅突出墓が数多く発掘されています。正に出雲の牙城といえます。

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【意宇の杜ってなに?】

CIMG2378.jpg(杜というより林位ですが、周りは国府や国分寺、六所神社・真名井神社等、正に古代出雲の中心です。)

前回写真で紹介致しましたが意宇の杜(おうのもり)は、『出雲風土記』の中に登場する(「古事記」「日本書紀」にも登場しない)『くにびき神話(出雲成り立ちの物語)』の最後の地で古代出雲の中心といえます。国引き神話(くにびきしんわ)は、出雲国に伝わる神話の一つです。『古事記』や『日本書紀』には記載されておらず、『出雲国風土記』の冒頭、意宇郡の最初の部分に書かれています。

昔々、出雲の創造神、八束水臣津野命は出雲の国を見渡して「この国は、細長い布のように小さい国だ。どこかの国を縫いつけて大きくしよう」とお思われました。

そこで、どこかに余分な土地はないかと海の向こうを眺めると、朝鮮半島の新羅(しらぎ)という国に余った土地がありました。ミコトは、幅の広い大きな鋤(すき)を使い、大きな魚を突き刺すように、ぐさりと土地に打ち込み、その魚の身を裂いて切り分けるように土地を掘り起こし、切り離しました。

そして三つ編みにした丈夫な綱をかけて、「国来、国来(くにこ、くにこ)」と言いながら力一杯引っ張ると、その土地は川船がそろりそろりと動くようにゆっくりと動いてきて出雲の国にくっつきました。

こうして合わさった国は、杵築(きづき)のみさき「出雲市小津町から日御碕まで」になりました。その時、引っ張った綱をかけた杭が佐比売山「さひめやま、現在の三瓶山(さんべさん)」で、その綱は薗の長浜(稲佐の浜の海岸です)になりました。

その後も、ミコトは北の方の国から同じように狭田(さだ)の国「小津から東の鹿島町佐陀まで」と、闇見(くらみ)の国「松江市島根町のあたり」を引っ張ってきてつなぎ、最後に北陸地方の高志(こし)の国から引っ張ってきた国が三穂の埼「松江市美保関町のあたり」になりました。

この時、ミコトが引っ張った綱をかけた杭は伯耆の国の火の神岳「ひのかみたけ、現在の大山(だいせん)」で、持って引っ張った綱は夜見の島(弓ヶ浜)になりました。

そしてミコトは「国を引くのが終わった」とおっしゃって、杖をおつきになって「おえ。(終えた~~!おりゃ~~!の掛け声かも)」と言われたので、その地を意宇というようになりました。

意宇の杜はその杖が刺さった場所です。「出雲国風土記」の冒頭を飾る「国引き神話」の主人公である「八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)」は出雲神仏霊場の「長浜神社」に主祭神として祀られています。

【古事記を簡単に説明します】

私が出雲神話の基本としている「古事記」は上つ巻(序・神話)中つ巻(初代から十五代天皇まで)下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで)の3巻より成っています。

上つ巻神話部分の約半分が何かしら、出雲に関わっていると言われています。何故大和政権はそこまで、出雲を持ち上げる必要性が有ったのでしょう。征服者なのに不思議だと思いませんか?

内容は、神代における天地の始まりから推古天皇の時代に至るまでの様々な出来事(神話や伝説などを含む)が紀伝体で記載された歴史書です。また、数多くの歌謡を含みます。さらに、『古事記』は「高天原」という語が多用される点でも特徴的な文書です。

【古事記より古い文献の存在が有った?】

中大兄皇子(天智天皇)らによる蘇我入鹿暗殺事件「乙巳の変(いっしのへん」に憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害しました。この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上したと言われています。『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ「国記」は難を逃れ天智天皇に献上されたとされますが、共に現存していません。

天智天皇は白村江の戦いで唐と新羅連合に敗北し、予想された渡海攻撃への準備のため記紀編纂の余裕はな有りませんでした。その時点で既に諸家の帝紀及本辭(旧辞)には虚実が交じってしまいました。壬申の乱後、天智天皇の弟である天武天皇が即位し、『天皇記』や焼けて欠けてしまった「国記」に代わる国史の編纂を命じます。

まずは28歳の稗田阿礼の記憶と帝紀及本辭(旧辞)など数多くの文献を元に『古事記』が編纂されました。古事記には、大国主と須勢理毘売命は杵築の日隅宮[ひすみのみや](出雲大社)でお暮らしになったと記されています(この取材の趣旨からすると間違いですね。)。なんて事をしてくれたんだ、中大兄皇子・中臣鎌足~~と叫びたいところです。(ノ-_-)ノ~┻━┻

奈良県高市郡明日香村豊浦にある丘陵、「甘樫丘(あまかしのおか)」の、朝廷の歴史書を保管していた書庫が残っていたら、『天皇記』など数多くの歴史書が失われずに現存したら、今日の教科書の古代史部分にかなりの違いが有るはずです。

【唐王神社御由緒書(公式サイトより抜粋)】

PB051686.jpg(神紋は梅!)
PB051699.jpg(千木・鰹木・神紋はどうやら菅原道真公のようです。)

須勢理比売命[すせりびめのみこと]は古来唐王御前神社と号し、普[あまね]く諸民の尊崇他に異れる旧社なり。

社伝に曰く、須勢理比売命は、大国主大神と共に夜見[よみ]の国より帰り座して、土地経営の神功を畢[お]へ、稼穡[かしょく](農業)の道を立て、疾苦患難救助の神咒[かじり]の法則[ことわり]を萬世に垂訓し給ひて、大国主大神は永く日隅宮[ひすみのみや](出雲大社)に鎮座し、須勢理比売命は比地に鎮座す。

故に該神社域内宏大なりしこと、往古の規模を存せり。字御前畑[あざごぜんばた]と申所西側にあり。

井屋敷とて御手洗の井泉東側にあり、今は人家の邸内となれども汚穢[おあい]の輩[やから]此の水を汲めば忽[たちま]ち濁る、即ち社前の砂を投じて浄むれば、自ら清水となる。

社伝口碑に據[よ]るに、此の所正しく須勢理比売の御陵[みささぎ]ならむと。太古より一社の伝説あり。

蓋[けだ]し該地位は大山を距[へだた]る三里、夜見浜を距ること三里強、其の中間にあり。

往古は此地も出雲の国境なるや詳[つまび]かならざれども、出雲風土記に「持曳く綱は夜見島是なり云々」中世海洋を隔[へだ]つる外国は総て加羅と通称せり、故を以て夜見国より帰り給ひをも唐土より来り給へるものとし、又大国主大神の后神[きさきがみ]なるを以て唐王御前神と稱[たた]へ奉りしなり。

亦、命の御陵と認むる所以は、神験不測[しんけんふそく]の神呪方神蹟[しんせき]今猶此地に存在す。

本殿の下に方一間余の石の玉垣あり、其中に高五尺余の古造の碑石あり。中古仏者の為に惑わされ、命の尊陵たるを知らず。往々祭祀を廃絶し社字衰頽す。

諸人該玉垣内の砂を請ひ或は之を御手洗の井泉に撒きて其の身を清むれば、年中虫毒の難に触るること無く、適其害に遭ふも其水を温湯にし砂を入れて紙に涵し、身体の損傷せし所を摩拭すれば疼痛忽ち止み全癒す。故に崇敬の信徒日に増し月に加はる。

《鳥取県神社誌より》

現在のように医薬が発達していなかった時代、蝮や毒虫は人々の暮らしに危険この上ない存在だったと想像できます。明治初期の氏子が12300人で、その範囲は中山町から東出雲町にまで及んでいたのはそれ故でしょう。しかし蝮や毒虫の危険が減るに連れ、往年の参詣者は減り賑わいも無くなっています。

鳥居の扁額は松籬社とありました。神殿の屋根の千木は外削り、鰹木は3本でしたね、神紋は梅(どうやら天満宮が合祀されたようです。『鳥取県神社誌』によれば「菅原道真は古来天満宮と号し壹宮神社の摂社なり、明治元年10月神社改正の際唐王神社の境内に移転し松籬神社と称せしを同12年允許を得て唐王神社と改称合祀せらる。」とのことですので、扁額は明治初期の物に成るかと思われます。唐王神社の謎が、少し解けて来ました。

【『須勢理毘売命』の道行き続編】 

大山町の阿弥陀川河口付近に上陸され、最初は大山町国信の「若宮原」に居を構え暫らく滞在します。今でも大きな松の切り株や弥生式の土器が出土するようです。

しかしここは、海辺ゆえの波風が立ち海の音も高いがゆえに、大山町末吉の「天皇さん」に居を移されたといいます。暫らくご滞在になられましたが、やはりまだ海から近いということで、末長の「天皇さん(地元でこのように呼ばれています。末吉・末長共にめでたい名前ですね。)」に移られたということです。近くに喉を潤した湧き水と腰を下ろされた腰掛岩が在るとの記載がありました。そこでもまだ海が近いと唐王へお移りになったとの言い伝えもあります。

PB051735.jpg(末長の「天皇さん」ここも神社では無いので、聞き込みに苦労しました。)
PB051741.jpg(石の祠がいくつかありますが、神社の痕跡は在りません。)
PB051742.jpg(祠はあるのですが、須勢理毘売命とは関係なさそうです。場所は末長の「天皇さん」に間違いありません。)
PB051762.jpg
(走り回る事一時間、これか~?)
PB051753.jpg(須勢理毘売命が喉を潤した湧き水!私も舐めてみました。笑)
PB051765.jpg(須勢理毘売命が腰かけた岩、さすがに座れませんでした。)

【最後に一言】

PB051725.jpg(本当にこの下に眠るのか?「須勢理毘売命」)


神蹟を探すことは容易な事ではありません。時代を考えるとイエス・キリストの井戸や住処先をたどるのと変わりが無いのです。現地の古老のお話に耳を傾け地域地域を何度も回りました。そしてついにという感じですが、移動場所らしき場所は全て見つけました。最後の「本殿下に方一間余の石の玉垣があり、その中に高五尺余の古い碑石が在り、それが須勢理毘売命の陵墓だという。」だけ見つかりませんでした。唐王神社の神殿下に眠るのか?とても残念です。

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リュミエールブラン ネージュ

2018/01/13

「大国主」は暗殺された?哀愁の『須勢理毘売命』を追って!vol①

前回『須勢理毘売命』のお話しをさせて頂くために、大国主の女性達を紹介致しました。反響を頂いたのですが、皆さん最初の写真の出雲大社の兎が「可愛い~~!」との反響~?。(笑)

まわしを締めていたのは、野見 宿禰(相撲の神様)のお社の隣の兎だからでした。ということで、今回も「看板兎」で皆さんを惹き付けま~す。(*^^*)

DSC_0129.jpg
(こちらは大国主と因幡の素兎「ガマの穂をくわえた八上姫」ですね。)

さてお話しは、『須勢理毘売命』が大国主から離れて、出雲王国の端ともいえる大山町に移り住んだ経路を追い掛けるという企画です。行ってみよう~~!

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【唐王神社の賑わい】

PB051684.jpg(小さな神社、鳥居には松籬社「松垣根の社」だそうです。何か変?)

《唐王神社公式サイトより抜粋》

「まーむしまむし、よーけよけ、唐王御前のお通りだ」とは、山の茂みや草むらなどにわけ入る時の唱え言葉でありますが、当社のご神徳はこの地方に広くゆきわたっております。

ご祭神須勢理毘売の神様は、女神様で御父神様はあのご気性のはげしい素盞鳴命(すさのうのみこと)です。当時賢明で御徳高く信望の厚い大国主命が、須勢理毘売命を妻にと申出のあった際、素盞鳴命は姫の夫をしてふさわしいかどうかを色々な方法で試されたのでした。

最初の試練は、毒蛇の室で一夜を過すことでした。大国主命が部屋に入られるや否や、大蛇や蝮等毒蛇が数知れずどっと襲いかかって来たのです。その時すかさず須勢理毘売命は「この比礼を三度打ち払い給え」と申されて、その通りに比礼を振ると毒蛇はみな姿を消して危機を助けられました。

その次は、むかでと蜂の部屋でした。又火ぜめの試練もありましたが、その都度姫のご神徳によって危険をのがれられ目出度くご夫婦となられました。後御子事代主命の神々と共に力を合わせてこの国の農業の開拓、医療の進展、温泉の開発等と人々の福祉を進められたご功績は甚大なものがあります。この神社は、この須勢理毘売命を崩った地として、以前には毎年出雲大社から祭官が参向されていたそうであります。

現在も害虫毒虫蝮よけの守護神として県内外からの参拝者も多くあり、ご本殿下の砂をいただいて田畑にまけば害虫が去り、家屋敷にまけばささりやむかでが退散するし、又お守を身につけて居るならば蝮の危害をのがれることができるし、更に神社裏奥にあるご神井の水は如何なる旱祓にも涸れたこともなく(※)、蜂にさされた折等いち速くこのご神水をぬれば勿ち治癒するといわれて居ります。

旧8月3日には早朝から参拝者で賑わい、特に地方の名産干瓢市が立ち見る間に数百貫の干瓢も売り切れてしまいます。又芸能奉納や名物「どじょう汁」の売店もあります。

<昭和49年 汗西神社案内>

※現在は整備事業の為水脈が変わり、水は出なくなりましした。

汗西神社とは唐王神社の事の様です。何故か名前が違いますし、前回気がつかれた方も居られると思いますが、鳥居の名前も(松籬社)神社でしたね。土地のなまえが唐王なので唐王神社と呼ばれているのかも知れません。

PB051686.jpg(唐王神社の千木も外削り、鰹木も三本、男神様ですね~?)

【大国主は暗殺された?】

DSC_0055.jpg
(古代心柱の後地上40メートルの日本最大高を誇る大神殿が実在したことが証明されました。)
PB020109.jpg(出土した古代心柱のレプリカです。)

大国主と別居することになった「須勢理毘売命」ですが、はこの別居に疑問点があると感じています。

別居された理由とされる神話は、『日本書紀』の葦原中国平定の場面の第二の一書にのみに登場します。大穴牟遅命(大国主)が国譲りを決め、幽界に隠れた後、高皇産霊尊が大物主神(大国主の奇魂・和魂)に対し「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」と申されました。このように記載される「日本書紀」の解釈を物語の通りに考えると、色々な疑問がわいてきます。

ストレートに読むと、この時点で大物主神(大国主の奇魂・和魂)と成っています。つまり神霊、幽界に隠れた後とは、大国主の死を意味していると考えるのはおかしいでしょうか。「国譲り」といえば美しいお話ですが、つまりは戦争、もしくは脅しですね、大国主は一個人ではなく、出雲大国王の名称でしょう。多くの名前(大穴牟遅神・大己貴命・八千矛神・葦原醜男・大物主神・大國魂大神
等)も多くの子孫も大きな功績(国造りの神として有名)も出雲大国王が成し遂げたと考えると、理解出来ます。

倭もしくは大和、天孫族に国を奪われた出雲王国の王は杵築大社に祀られました。出雲王国は加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡、妻木晩田遺跡、更にはヤガミヒメの因幡、ヌナカワヒメの越までを、考えると大きな都市国家を線で繋いだ、日本海側の最大勢力を誇る王国でした。本来の出雲は現在の出雲大社がある出雲市ではなく、「 出雲風土記」で語られた『意宇(出雲六社や国府跡・国分寺跡が残る)』であったことは間違いないと思います。

CIMG2378.jpg(古代出雲の中心「出雲風土記」の意宇の杜)
IMG_6188.jpg
(荒神谷遺跡、日本最多358本の銅剣「国宝」が出土しました。 『出雲国風土記』記載の神名火山「神の山」とされます。)
IMG_6206.jpg
(加茂岩倉遺跡、1ヵ所からの銅鐸出土としては全国最多、総数は39個「国宝」。)

大和政権が自分たちの神話に取り入れ、大国主が死してなおその勢力を恐れ、地上40メートルにも及ぶ巨大な空中神殿を作って祀らなければ怖くてしょうがなかったのです。前回も申しました様に、出雲王国の三種の神器は、生大刀と生弓矢、天詔琴です。しかし出雲大社の御神体は、その何れでも無いであろうことを、実は私「有る関係筋」からの聞き取り調査で存じております。大国主は、死に追いやられたと私は推測します。

【社伝「須勢理毘売命」の道行き】

PB051801.jpg(上陸地大山町の阿弥陀川河口付近、今はサーファーの聖地と成っていました。)
PB051793.jpg(浜を上がると大山が見えます。やはり目印は大山!)
PB051841.jpg(最初の地、国信の「若宮原」付近)
PB051847.jpg(鳥居は在っても社は在りません。戦国期には吉川元春VS尼子勝久の戦があった森末城の一部に成ったかもしれません。)
PB051848.jpg(振り返るとやはり大山)


倭に首都を奪われた、大国主の妻「須勢理毘売命」は辺境の妻木晩田遺跡(妻木晩田は1世紀に最盛期を迎え2世紀後半に滅んでいます。)からすぐ傍の唐王の地に逃れる事を余儀なくされます。その道行は意宇から東に逃れ揖屋の港から米子市夜見を通り(ここまでは私の私見です。)、大山町の阿弥陀川河口付近に上陸され、最初は大山町国信の「若宮原」に居を構え暫らく滞在します。今でも大きな松の切り株や弥生式の土器が出土するようです。

しかしここは、海辺ゆえの波風が立ち海の音も高いがゆえに、大山町末吉の「天皇さん」に居を移されたといいます。暫らくご滞在になられましたが、やはりまだ海から近いということで、末長の「天皇さん(地元でこのように呼ばれています。末吉・末長共にめでたい名前ですね。)」に移られたということです。近くに喉を潤した湧き水と腰を下ろされた腰掛岩が在るとの記載がありました。そこでもまだ海が近いと唐王へお移りになったとの言い伝えもあります。

PB051767.jpg(末吉の「天皇さん」と呼ばれているらしい。由来は地元の方も良くわからない様子でした。)
PB051777.jpg
(質素なお社、謎が謎を呼ぶ~笑次回もよろしくお願します。)

【最後に一言】

フィールドワークの大切さを実感させられるようなブログに成りました。ハインリヒ・シュリーマンが19世紀末に、ギリシャ神話やホメーロスの英雄叙事詩『イーリアス』をもとに、長く伝説上の古代都市と思われていたトロイアの都市国家イーリオス遺跡を発見したことに思いをはせました。あのトロイの木馬が現実の話だったとなると、出雲神話の神々や場所も神話としてかたずけて良いのでしょうか?神話や伝承を語り継がない国は滅びる運命にあります。

アメリカがスターウオーズを必死に製作するのは、出雲神話や金太郎や桃太郎に浦島太郎が無いからだと思いませんか?チューバッカ・C‐3PO・R2-D2が猿・犬・雉に見えてきたらルークが桃太郎だとわかりますよね。(笑)

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リュミエールブラン ネージュ

2018/01/10

高天原の圧力による政略結婚と『須勢理毘売命』の悲哀。

今日は『出雲繁栄』に至る大国主の奥様達について少しお話させて頂きます。建速須佐之男命の娘『須勢理毘売命』がメインなのですが、今日はまず神話の舞台を楽しんでいただきましょう。

その前に少し、今日は西宮神社の開門神社が有りました。毎年TV等で話題に成るので、皆さんもご存じですよね~。私の同僚、勿論若手(サッカー経験者)ですよ~(*^^*)、がチャレンジしてたんです。前回は最前列のA組108人に選ばれたので、「今回も」と期待したのですが、残念ながら抽選に漏れてしまいました。もし彼が抽選されていたら、開門神事の記事をUPするつもりだったのですが、来年に期待です。(笑)

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(今人気の出雲大社のうさぎさんもちろん因幡の素うさぎですが全部で何匹居るのかな?)

ということで、神話のお話です。『古事記』での出雲神話の主人公『大国主(大穴牟遅命)』の活躍はまず、「因幡の素兎(これでしろうさぎです)」「燃え盛る猪岩(八十神の嫉妬)」「復活して根の国へ逃亡(母の愛)」と進んで行きます。そして須佐之男の娘『須勢理毘売命』と結ばれ大国主と呼ばれる様に成ります。まずはこの辺の神話、思い出して頂きましょう。

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【再生した大穴牟遅命】

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(出雲大社の大国主様)

『古事記』での出雲神話の主人公『大国主(大穴牟遅命)』の活躍は、「因幡の素兎(これでしろうさぎです)」「燃え盛る猪岩(八十神の嫉妬)」「再生するもまた殺害(ひつこい八十神)」「復活して根の国へ逃亡(母の愛)」と進んで行きます。

因幡の国(稲羽の素兎物語)ヤガミヒメ(八上姫)に選ばれた、オオナムヂ(大穴牟遅命)の復活を知った八十神は、再度殺害を試みます。大木を切り倒して楔で割れ目を作り、そのなかにオオナムヂを入らせ、楔を引き抜いて打ち殺してしまいます。母親は泣きながらオオナムヂを探して大木をみつけ、すぐに木を裂いて取り出してまた生き返らせます。

母親は、「あなたはここにいたら、八十神に滅ぼされてしまうだろう」といい、木国のオオヤビコの所へ行かせることになります。オオヤビコの所へ行くと、追ってきた八十神がオオナムヂの引き渡しを求めてきます。オオヤビコはオオナムヂを木の股を潜り抜けさせて逃がし、スサノオのいる根の堅州国に向かうようにいいます。

【根の国訪問と須勢理毘売命との出会い】

CIMG2424.jpg
(須勢理毘売命生誕の地)
CIMG2429.jpg(須勢理毘売命が産湯代わりにつかったと言われる岩坪、神社もあります。)

根の国のスサノオ(須佐之男)の家で、オオナムヂ(大穴牟遅命)はスサノオの娘のスセリビメ(須勢理毘売命)と出会い、二人は一目で恋に落ちてしまいます。

スセリビメが「とても立派な神が来られました」というので、スサノオはオオナムヂを呼び入れますが「ただの醜男ではないか。葦原醜男(アシハラシコヲ)と言った方が良い。蛇の室にでも泊めてやれ(葦原醜男ですよ、ちょとひどくないですか、笑)」と、蛇がいる室に寝させます。スセリビメは「蛇の比礼(呪具・女性が、結ばずに首の左右から前に垂らすスカーフの様なもの)」を葦原醜男にさずけ、蛇が食いつこうとしたら比礼を三度振るよういいます。その通りにすると蛇は鎮まったので、葦原醜男は無事に一晩寝て蛇の室を出られました。

次の日の夜、スサノオは葦原醜男を呉公(ムカデ)と蜂がいる室で寝させた。スセリビメは「呉公と蜂の比礼」をさずけたので、葦原醜男は無事にムカデと蜂の室を出られた。

更に、スサノオは広い野原の中に射込んだ鳴鏑(なりかぶら)を拾うよう葦原醜男に命じます。葦原醜男が野原に入ると、スサノオは火を放って野原を焼き囲んでしまいます。

葦原醜男が困っていると鼠が来て、「内はほらほら、外はすぶすぶ」(穴の内側は広い、穴の入り口はすぼまって狭い)と教えてくれます。それを理解した葦原醜男がその場を踏んでみると、地面の中に空いていた穴に落ちて隠れることができ、火をやり過ごすことができました。

また、その鼠はスサノオが射た鳴鏑を咥えて持って来てくれました。スセリビメは葦原醜男が死んだと思って泣きながら葬式の準備を始めます。スサノオは葦原醜男の死を確認しに野原に出てみると、そこに矢を持った葦原醜男が帰って来ます。

スサノオは葦原醜男を家に入れ、頭の虱を取るように言いつけます。ところが、その頭にいたのはムカデでした。葦原醜男は、スセリビメからもらった椋(むく)の実を噛み砕き、同じくヒメにもらった赤土(これちょっと大事なので覚えいて下さいね。)を口に含んで吐き出していると、スサノオはムカデを噛み砕いているのだと思い、かわいい奴だと思いながら眠りに落ちてしまいました。

葦原醜男はこの隙に逃げようと考えると、スサノオの髪を部屋の柱に結びつけ、大きな石で部屋の入口を塞ぎました。スサノオの生大刀と生弓矢、スセリビメの天詔琴を持ち、スセリビメを背負って逃げ出そうとした時、琴が木に触れて鳴り響いてしまいます。

その音でスサノオは目を覚ましましたが、その際に髪が結びつけられていた柱を引き倒してしまいます。スサノオが柱から髪を解く間に、葦原醜男は逃げることができたのでした。

スサノオは、葦原中津国(地上)に通じる黄泉比良坂(よもつひらさか)まで葦原醜男を追いましたが、そこで止まって逃げる葦原醜男に「お前が持つ大刀と弓矢で従わない八十神を追い払え。そしてお前が大国主神、また宇都志国玉神(ウツシクニタマ)になって、スセリビメを妻として立派な宮殿を建てて住め。分かったな!」といって二人の結婚を許します(出雲神国の三種の神器は刀・弓・琴ですね~(*^^*))。

葦原醜男は出雲国へ戻って大国主となりスサノオから授かった太刀と弓矢を持って、八十神を山坂の裾に追い伏せ、また河の瀬に追い払い、全て退けます。そしてスセリビメを正妻にして、宇迦の山(宇迦の山は今の出雲大社の後方・北側の山を指しますが、古代出雲王国を考えると、違和感を感じます。)のふもとの岩の根に宮柱を立て、高天原に届く様な立派な千木(ちぎ)のある新宮を建てて住み、国づくりを始めました。

大国主はダイコクと読めることから、同じ音である大黒天と習合して民間信仰に浸透しています。子のがえびすに集合していることから、大黒様とえびすは親子といわれるようになっています。

日本書紀本文によるとスサノヲの息子であるとの記述もあり、また古事記や日本書紀の一書、新撰姓氏録によると、スサノヲの六世の孫、また日本書紀の別の一書には七世の孫などとされています。

【モテモテ大国主の妻問】

ヤガミヒメ(八上姫)は本妻のスセリビメ(須勢理毘売命)を恐れ、オオナムヂ(大穴牟遅命)との間に生んだ子を木の俣に刺し挟んで実家に帰ってしまいます。スセリビメはさすがにスサノオの娘ちょっとやんちゃで怖いです。(笑)

ヤチホコ(八千矛神、大国主の別名)は高志国のヌナカワヒメ(沼河比売)をめとろうと出かけ、歌をよみかわします。そのため、妻のスセリビメが大変嫉妬しました。困惑したヤチホコは出雲国から大和国に逃れる際にスセリビメに歌をよむと、スセリビメは杯を捧げて留める歌を返しました。二神は杯を交わし、今に至るまで二神は仲睦まじく出雲大社に鎮座することとなったともいわれます(というのが出雲大社の祭神としてのお話ですね)。

大国主は多妻な事でも知られており、様々な女神との間に子をもうけました。その数、約180柱も居られます(モテモテですね)。そんな大国主の妻は古事記と日本書紀の記述の中では上記三人の他に、「宗像三女神」の一柱で『古事記』ではタギリヒメ(多紀理毘売命)とも結ばれています。古事記の大国主神の系譜では、大国主神との間にアジスキタカヒコネ(阿遅鉏高日子根神・味耜高彦根神)とシタテルヒメ(下照姫)を生んだと記されています。

さらに、カムヤタテヒメ(神屋楯比売)。コトシロヌシ(事代主神)の母、出雲の国譲りに際し、大国主がその意見を聞いたことは、この神が神の託宣を伝える役であったと推測されます。

まだまだ居られる様ですが、問題なのはこの方です。ミホツヒメ(三穂津姫)です。ミホツヒメは、日本神話に登場する女神です。高皇産霊尊の娘で、大国主神あるいは大物主神の神后です。

『日本書紀』の葦原中国平定の場面の第二の一書にのみ登場します。大穴牟遅命(大国主)が国譲りを決め、幽界に隠れた後、高皇産霊尊が大物主神(大国主の奇魂・和魂)に対し「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」と詔しました。

本妻はスサノオの娘スセリビメですよね、タギリヒメも誓約で生まれた宗形三女神の一人ですよ、それでも天孫系では無いということですよね~ということはスサノオとアマテラスは本当の姉弟ではないのか?ちょっと面白く成って来たと思いませんか?

【国譲りと須勢理毘売命の哀愁】

PB051665.jpg(須勢理毘売命の墓の上に立つという言い伝え唐王神社)
PB051671.jpg(最終目的地を先に見せるのは、実は以前にご紹介してたんです。今回は神の痕跡を探す一大スクープとなるか?)

三穂津姫は大国主大神の后神として高天原から稲穂を持って降り、稲作を出雲地方に広めたと言われています。后という漢字は正妻の意味です。大国主大神の正妻といえば須世理姫神を思い浮かべますが、三穂津姫神は国譲り後、出雲の姫神が正妻であるのは信用出来ないと、国譲りの証と誓いの一つとして高天原より降嫁したと言われます。

さて、「須勢理毘売」ですが「古事記」には、お二人は杵築の日隅宮(出雲大社)でお暮らしになったと記されております。ですが鳥取県西伯郡大山町唐王にある『唐王神社(とうのうじんじゃ)』は、須勢理毘売が最後を迎えた場所として知られています(現在はあまり知られてはいないと思いますが、古くは有名だったようです。出雲大社から80kmも離れています。そのように離れて暮らしたことは不思議ですが、当時はこの地方も出雲国の一部だったと私は考えています。

別居された理由は「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」という高皇産霊尊の一言です。このような経緯により、大国主神には新たに三穂津姫という天孫系神后ができたのです。ですから須勢理比売命は唐王へ別居せざるをえなかったと考えます。

唐王(とうのう)という村名は珍しいと思いませんか?鳥取県神社誌にあるように、昔ほとんど交通網のなかった時代は、海の向こうや遠方の国はみな加羅と言っていました。ですから夜見の国から船で来られた須勢理比売命を、唐(から)の王と呼んできました。それが村名になったとのことです。須勢理比売命は海辺の近くの国信辺りに着岸されたようですが、波の音が近すぎると末吉へ移っています。しかしそこも音が近く末長へ移住、そこでもまだ音が近いと唐王へ移られたたとの言い伝えがあります。

今回その、須勢理比売命の言い伝えを追って、着岸場所の国信から末吉・末長・唐王へと女神の足跡をたどる旅に出て来ました。これが大変!土地の古老も全く知らない場所やwebにも載っていない場所を探して駆けずりまわり移住ルートを発見してきましたので、ご紹介しましょう。今日はここまでです。次回のお楽しみですね~それによければですが、プレゼントもありますので期待して?ください。(笑)

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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