2017/12/14

「十九代 市郎右衛門家」の討ち入りそば、平成29年バージョン。

今日12月14日は、赤穂浪士の討ち入りの日です。

我が家では赤穂浪士の討ち入り日に合わせて、毎年お蕎麦を食べています。

PC140027.jpg(器は丹波焼「俊彦窯」の清水剛さんの作品・本年度兵庫県芸術奨励賞を受賞されました。おめでとうございます🎵。箸置きは信楽の篠原希さんの焼き締め、おてしょう「お手塩」は私の自作です。お箸はtaka:aさんからのプレゼントです。)

つまり、今日の晩御飯はお蕎麦なんです(実際の討ち入りは15日未明なんですけれどね!)。

毎年「我が家の討ち入り蕎麦」と題してわが家に伝わる古いお話をUPさせて頂いております!

その経緯については毎年ご報告しておりますね。今年は大石りくの自筆文章が見つかり、実家但馬豊岡は大いに盛り上っています。私の調べ直しによりますと、但馬豊岡藩京極家と大石(内蔵助妻)りくの実家、石束家とわが家との関係に、少し新しい事実が判明しましたのでご紹介させてください。

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PC140039.jpg(taka:aさんのお箸、初デビューです。)
討ち入りそば(昨年の「討ち入りそば」出西窯の器に輪島塗の箸で100円のかきあげでも少し贅沢な感じです)

昨年の今日このようにブログをUP致しましたが今年はプラスアルファがいっぱいです。

【今回発見された資料とは】

忠臣蔵で知られる大石内蔵助の妻りくによる直筆の手紙がこのほど、りくの出身地、兵庫県豊岡市で見つかりました。手紙には内蔵助の遺児となった三男の(広島浅野本家への)仕官や、次女の縁組への喜びがつづられ、関係者は「300年の時を超え、りくの思いがよみがえった」と喜んでいます。赤穂義士の討ち入りがあった14日(今日)から2日間、公開されます。

りくは、内蔵助との間に3男2女をもうけました。三男の大三郎をみごもっていた時、家族に罪が及ぶのを避けるため、討ち入り前に豊岡に帰されています。夫の死後も子どもたちを育て、赤穂義士の評判により三男が広島の浅野家の本家に召し抱えられ、一緒に広島に移っています。

書状は豊岡市城崎町の土産物店主で、郷土資料を集める森貞淳一さん(73)が約10年前に古書店から購入し、保管していたそうです。今年夏に資料を整理した際、同市立歴史博物館の資料調査員、石原由美子さん(56)に調査を依頼。筆跡や宛先、朱書きされた年号などから本物と確認されました。

手紙は討ち入りから12年後の1714(正徳4)年10月、三男の仕官にも尽力した大石家の親戚に宛てたものです。「かように子供仕合(しあわ)せよくなり候(そうろう)」「祝言(しゅうげん)用意にとりこみまいらせ候」などと、仕官できたことへの感謝や、次女るりの婚礼の支度に追われている幸せをつづっています。同時に見つかった三男の書状も、姉の婚礼が無事終わったことへの礼などが書かれています。

石原さんによると、市内に残るりくの書状は実家の菩提(ぼだい)寺に残る1通だけで、貴重だそうです。「夫の死後、りくと子らが再び幸せを取り戻していく様子が分かる」と話されます(地方歴史学者も捨てたものではありませんね~)。

【以下昨年のブログ内容です】

話せば長いお話なのですが、簡単に書きますと、大石内蔵助の妻、りくの父親、豊岡藩京極家家老、石束源五兵衛と我が家のご先祖が懇意にしていたらしく、赤穂義士討ち入り成功(仇討ち成就)が伝わると、近所に蕎麦がき(当時蕎麦切りが、全国に的に広まっていたかは不明ですf(^_^;)を振る舞ったという、言い伝えが残っているのです。

離縁されて実家に帰って来ていたりくと子ども達ですが、のちに三男大三郎が、忠臣の子息と言うことで、広島安芸、浅野本家に仕官がかない(りくも忠臣の妻として録をもらってます)、我が家で家財を売って、路銀のたしにして広島へ向かったという、言い伝えがわが家に有り、そのとき石束家からの家屋を借りた礼として、京極家拝領の野点茶道具を頂いたと伝えられています(実物確認が出来ていません、時間が有るときに倉の中を調べて見ます)。

などのいわれを、一昨年書きました。昨年にブログを書くときに調べ直しててみますと、石束家と懇意にしていた事実は変わりませんが、家財を売った人物とその経緯に少し特殊な事情を発見しました。

当時の石束家は但馬豊岡藩、京極家筆頭家老として1200石の家柄でした。貞享4年(1687年)にりくが播州赤穂浅野家、筆頭家老大石(内蔵助)良雄(知行1500石)の正室となったのも頷けます。

CIMG1191.jpg
(大石りく、長女くう、次男吉千代ですかね~?)
CIMG1192.jpg(顕彰碑)


【大石りくの父、石塚源五兵衛】

大石りくの父、石塚源五兵衛は寛永18年(1641年)、但馬国豊岡藩、京極家筆頭家老の石束毎術(知行1200石)の長男として生まれます。本名は「毎公」でしたが、主君京極高住に対しては「毎好」を使っています。

佐々休西(佐々成政の曾孫・話が大きく成ってきました。)の娘と結婚し、その間に石束毎明・石束毎済・りく(香林院)などの子をもうけます。延宝2年(1675年)、父の隠居により家督相続、このとき父と同じ源五兵衛に改名し、筆頭家老職を継ぎました。

赤穂事件の際には、赤穂藩浅野家改易後の元禄14年(1701年)5月には大石(内蔵助)良雄が、遠林寺で赤穂藩残務処理にあたっている間、りくやその子・松之丞(大石良金)通称(こちらの方が有名ですね)は主税(ちから)らを石束家に受け入れ、この際に良金に自らの脇差を与えています。

7月に大石良雄が山科に住居を落ち着けると、りくや良金たちも山科へ移りますが、次男の吉之進(碑文では吉千代)は石束家に残っています。元禄15年(1702年)4月15日、仇討ち計画が進むなか大石は、盟約に加わることを望んだ長男良金(主税)を除いてりくと子らを、再度石束家に戻しています。

このときりくは身ごもっており、7月に石束家にて大石大三郎を出産しています。元禄16年(1703年)に家督を長男の毎明に家督を譲って隠居しました。正徳3年(1713年)7月25日に死去、享年73

【大石りくの兄「石束毎明」】

石束家を継いだ、りくの兄石束毎明(いしづか つねあき)、生年不詳~宝暦5年1月15日(1755年2月25日)もちろん豊岡藩、京極家の筆頭家老です。通称は宇右衛門(うえもん)です。元禄16年(1703年)に石束家の家督と家老職を相続しています。この際に300石を加増され、石束家の家禄は都合1500石となりました。

しかし享保12年(1727年)主家京極家が無嗣になり、京極高永に家督相続が認められたものの3万石から1万5千石に半地(末期養子の決りですね~(^^;)される事件があり、石束家の家禄も半減してしまいます。毎明はこの半地に対応するため、積極的に家人(武士)のリストラと倹約にあたり、豊岡藩、京極家の財政維持にあたります。

殖産興業に力を尽くし、のちに豊岡名物品となる柳行李を生産させたのも、彼の業績なんです。現在では、その柳行李の代わりに鞄の生産に取り組んで、豊岡鞄は日本全国シェア70%を誇る迄に成っています(豊岡の鞄関係者の皆さん知ってますか?)。

中谷高房の娘を妻に迎え、その間に石束毎雅をもうけます。毎雅に家老職を譲りますが、嫡男毎雅は京極高永と御家改革を巡って対立を深め、延享4年(1747年)には家老を辞して京極家を去ることとなり、毎明も豊岡を去っています。

晩年は甥、大石大三郎(大石内蔵助良雄の子)のもとに身を寄せています。宝暦5年(1755年)広島で死去。妹・りくと同じ国泰寺に埋葬されました。

【大石りくの甥・毎雅、さあこの人物です】

石束毎雅(いしづか つねまさ)、元禄13年(1700年)~宝暦2年5月22日(1752年7月3日)は、父毎明より石束家の家督と筆頭家老職を相続しましたが、主家京極高永と対立を深めて御家を去ています。通称は、一学(いちがく)、源五右衛門(げんごえもん)、宇右衛門(うえもん)。

父毎明から豊岡藩、京極家筆頭家老職を受け継ぎ、また前の殿様京極高住の娘万里姫を妻に迎えますが、当代主家・京極高永とは御家改革を巡って対立を深め、延享4年(1747年)に家老を辞して豊岡京極家を去ることになってしまいます。その後は京都に隠遁し、宝暦2年(1752年)に同地で死去しています。墓は京都の妙心寺に有ります。芳名は馨徳院殿立所?伯居士。

さてここで問題が起こるわけです。我が家の言い伝え石束家が家財を売ったという話は、お父さんか?りくの兄か?それとも殿様と喧嘩別れしたりくの甥かという事です。

どうも当初は赤穂事件に関係している(石束家から大罪人の妻を出した!)と考えていましたが、りくの兄や甥の可能性の方が高いのではないかと思われます。理由の一つは、父が「源五右衛門(石束毎雅の通称です)」の名前を記憶(先祖から伝えられていること)二つ目は我が家に置いて行ったとされる、野点の茶器が京極の殿様から拝領したものだと記憶(先祖から伝えられていること、そんな大事な物をと考えますよね)等です。しかし殿様と仲たがいして豊岡藩を去ったなら、「もういらないわ」も考えやすいですね(笑)



CIMG1193.jpg(正福寺の大石りく遺髪塚、長女くう、次男吉千代?吉之進の墓です。)
CIMG1195.jpg(大石良雄妻理玖の墓はちょっと歌いすぎではないですかね~笑)


【日付うんちく話!】

最後にすごく余談なお話をいたしましょう(笑)赤穂浪士の討ち入りは、12月14日とされていますが、実際は15日未明です(ただし当時では朝日が登って翌日の感覚だった様です)。何故15日を選んだかですが、もちろん月明かりの必要性です。松明や提灯を持っていたとしても、元禄時代の事ネオンや街灯が有るわけではありませんね。月明かりが無いと戦えない状態になります。旧暦は陰陽歴ですから、15夜は必ず満月に成ります(お分かりですか)。

又、旧暦元禄15年12月14、15日はユリウス暦1703年1月30、31日に成りますし、今年?の旧暦12月14、15日は、2017年の12月312018年の1月1日(元旦)に成るはずです(月の満ち欠けで満月つまり雲が無ければ今年の除夜の鐘は満月の中で突けます)。だからどうなんだのお話です。

「十九代 市郎右衛門家]の討ち入りそばと題してお贈りいたしましたが、討ち入り蕎麦をいつ食べるのかはっきりと決めているわけではないのです。今年は今日12月14日にしました。ブログ更新の関係で正月は無理と判断いたしました。

【最後に一言】

我が家では、この時期にお蕎麦が食べたく成ると(年越し蕎麦とは別です)、子供たちに少しだけ赤穂浪士のお話と、我が家の歴史を話して、お蕎麦(必ず出石蕎麦)を食べる事にしています。わが家は古い家なので(お金は持っていませんが)、出来るだけ昔の話を子供たちにしてやりたいと考えています。日本史の成績が悪いのがたまにきずなのですが、そういえば蔵の中の整理をしなければなりませんね(-"-;A ...アセアセ。

今年はあえて書かなかったのですが、まだ父が「え~?」と思う話をしていますのでそちらは来年の十二月にでもお話ししましょう。
『忠臣蔵』における不忠臣の代表格、「大野九郎兵衛」赤穂藩浅野家の末席家老650石の子孫についてのお話なのですが、これは眉唾かもしれません。


赤穂城も訪れていないので(兵庫県広いんですよね)出来れば来年は訪れたいと思っています。年末のこの時期には必ず「赤穂浪士」の映画やドラマが有ったものですが、時代劇が少なくなり歴史ファンとしてはさみしいかぎりです。

次回は「えっ!島左近生存説」で「関ケ原シリーズ」の最後を飾ります。我が家のお宝も公開しちゃうかもしれません。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/12/13

芭蕉さん、「夏草や兵どもが夢のあと」の句は何故関ヶ原じゃないんですか?

関ケ原の取材中に「これは取材をしていた方が良いな」と思った場所が有ったので、本日は少しストーリー的にはずれるのですが、松尾芭蕉の『おくのほそ道』最後の場所をご紹介したいと思います。

その場所とは、「関ケ原からすぐの大垣市、大垣城のすぐ近くです。「関ケ原」時代の大垣城では惣構えの堀の内側に成ると思います。

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(史跡奥の細道むすびの地)

『おくのほそ道』(おくのほそみち)は、元禄文化期に活躍した俳人松尾芭蕉の紀行分と俳諧です。元禄15年(1702年)刊。日本の古典における紀行作品の代表的存在であり、芭蕉の著作中で最も著名で「 月日(つきひ)は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行(ゆき) かふ年も又旅人也(たびびとなり)。舟の上に生涯(しょうがい)をうかべ、馬の口とらえて 老(おい)をむかふる物(もの)は、日々(ひび)旅にして旅を栖(すみか)とす。古人(こじん)も 多く旅に死せるあり。」という序文より始まりますね。ここまでは自慢じゃないですが暗記してました。若い頃は暗記が得意でしたね「平家物語」「つれづれ草」「日本憲法前文」等は今でもある程度覚えてますね。(自慢しちゃった、笑)

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【何故大垣が最終地?】

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(川湊に灯台は珍しいですね~水運の町大垣だったんですね。住吉灯台)
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(川船が係留されてました。)
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(川灯台~~?読めない。(-"-;A ...アセアセ)
PA140509.jpg(桜の季節に来たいですね~!)
PA140506.jpg(水面も水草でおおわれて綺麗です)

「奥のほそ道(奥の細道)」は、1996年に松尾芭蕉の自筆本が発見されて話題になりました。芭蕉が崇拝する西行の500回忌にあたる1689この東北・北陸の旅は、元禄2年(1689)の3月27日(陽暦では5月16日)に深川芭蕉庵を愛弟子の河合曾良一人を連れて出立し、東北・北陸地方を回りながら、弟子を訪ね、歌枕を巡って歩いた旅行記です。9月6日(陽暦では10月18日)に大垣から伊勢へ旅立つところで、結びになっています。

この旅行は、全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間で東北・北陸を巡って、元禄4年(1691年)に江戸に帰った大旅行でした。その跡をたどると各所に句碑が立てられ、史蹟として保存されている所も多く、応時の芭蕉の旅をしのぶことができます。

江戸時代の俳人松尾芭蕉は、伊賀の武士出身といわれ、寂(さび)・撓(しお)り・細み・軽みを重んじて幽玄・閑寂の境地を求め、幽玄閑寂の蕉風俳諧を確立しました。その、生涯は日本各地を旅して、名所旧跡を回り、歌枕を巡り、様々な人とまじわっています。

それは、「笈の小文」「更級紀行」「野ざらし紀行」などの書物に著されていますが、最も有名なのは晩年の「奥のほそ道」の旅です。そして、最後に西へ向かって旅立ち、大阪の南御堂で門人に囲まれ息を引き取ったと伝えられています。まさに旅に生き、旅に死するの境地で、辞世の句も『旅に病んで 夢は枯れ野を かけ廻る』というものでした。

私の様な素人には分かるはずもありませんが、大垣を過ぎると東海道に出ます。怒らないらないでくださいよ、東名高速はほそ道では無いって事ではないですかね?(ほら、怒らないでって言ったのに~(;^_^A アセアセ・・・)。真面目なんですよ、東海道には芭蕉が目指した、寂(さび)・撓(しお)り・細み・軽みを感じなかったということではないかと思うのです。

【何冊もバージョンが有るって知ってました?】

推敲の跡多い原本には中尾本(おくの細道)と曾良本(おくのほそ道)があり、個々の芭蕉による真筆箇所もしくは訂正箇所(あるいはその真贋をも唱える学者もいる)については現在でも議論が分かれています。

そして1996年芭蕉本人の自筆本発見!真筆本が発見されたのは、平成8年のことです。古い文献に「芭蕉の真筆の『奥の細道』は門人の一人の野坡のもとにある。」と記されているので「野坡本」と推定されました。真贋については論議を呼びましたが、草稿本であると定着しているようです。

「曾良本」は芭蕉の弟子利牛が自筆本を筆写し、芭蕉が改めて推敲、朱や墨で補訂を加えた本で、曽良または門人・利牛の書写とされる本書には訂正や書入れなどがあり、「おくのほそ道」成立までの推敲過程を伝える重要な資料となっています。本書は、曽良の死後、故郷上諏訪の河西周徳(曽良の甥)に随行日記とともに伝えられ、その後、古美術収集家の斎藤幾太などに伝わり、現在、随行日記とともに天理大学附属天理図書館錦屋文庫に所蔵されています。これより本書は「天理本」とも称されます。

「西村本」は芭蕉の弟子で能書家の素竜が芭蕉の依頼で「奥のほそみ道(題字は本人が記載)」を清書したのが、福井の西村家に伝わった本です。柿衞本は兵庫県伊丹市の柿衞翁岡田利兵衛に伝わった素竜が清書本の一つです。この柿衞本・西村本は共に素龍本(素龍清書本)とも呼ばれる(柿衞本の発見以前は、西村本のみがそう呼ばれていました)。

西村本の題簽(外題)「おくのほそ道」は芭蕉自筆とされており、これが芭蕉公認の最終形態とされます。芭蕉はこの旅から帰った5年後、1694年に死去したため、「おくのほそ道」は芭蕉死後の1702年に西村本を基に京都の井筒屋から出版刊行され広まった。「奥の細道」ではなく「おくのほそ道」と書くのが正式とされるのはこの原題名に基づ物です。 この初版本は現在1冊しか確認されていませんが、増し刷りされ広まったため版本は多く残ります(本文に変化は見られない)。よって現在世間一般に知られる「おくのほそ道」は西村本を指す事に成り(中学校でも奥の細道で無く「おくのほそ道」と教えているようです)。

「おくのほそ道」では、このうち武蔵から、下野、岩代、陸前、陸中、陸奥、出羽、越後、越中、加賀、越前を通過して旧暦9月6日美濃大垣を出発するまでが書かれている。曾良の随行日記も、没後数百年を経て曾良本とともに発見されています。

【おくのほそ道の行程を簡潔に説明しましょう。】

PA140526.jpg(谷木因の俳句道標説明版!無いと意味不明です。)
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(南いせ くわなへ十り さいがうみち )

ほとんどの旅程で曾良を伴い、桜の花咲くころの元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)に江戸深川にあった芭蕉の草庵である採荼庵さいとあんを出発し「初句」が詠まれました。

『行く春や 鳥啼魚の 目は泪』

船に乗って千住に渡り、そこから日光街道で草加、日光へ道を取って下野国の城下町黒羽へ着きます。黒羽では大いに歓迎されたこともあり、おくのほそ道の旅程では最長となる十数日間滞在する地となりました。 ここからさらに北へ向かい白河関を越えて奥州に入ります。須賀川、飯坂、仙台と渡り歩き、日本三景の一つに数えられる松島では、その美しい風景に感動するあまり句を詠めず、曾良が詠んだ句「松島や 鶴に身をかれ ほととぎす」が収載されています。

5月13日 藤原三代の栄華をしのび、二句詠んでいます。「三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり」「国破れて山河あり 城春にして草青みたり」という杜甫の詩「春望」を踏まえて詠む。

『夏草や 兵つはものどもが 夢のあと』
「五月雨の 降り残してや 光堂」

光堂と経堂は鞘堂に囲まれ開帳されていなかったと伝えられこれら二つ堂を芭蕉はは見ていないとされます。

ここから奥羽山脈を越えて出羽国に入って山寺(立石寺)に立寄り、「閑しずかさや 岩にしみ入る 蝉の聲こえ」の句を残します。 日本三大急流のひとつに数えられる最上川を下り、出羽三山の最高峰である月山にも登り、6月半ばにおくのほそ道の最北の地となった象潟きさかたに到達します。

当時の象潟は、松島に劣らぬ景勝地で「松島は笑ふが如く、象潟はうらむが如し」と、その美しい多島風景を評しています。 ここから、再び折り返して日本海岸沿いに南下して新潟へ向かい、出雲崎では「荒波や 佐渡によこたふ 天河」と佐渡島を望む日本海の荒波の情景を詠んでいます。 さらに海岸を南下して富山、金沢、福井と北陸道を歩いて渡り、美濃国の大垣で「おくのほそ道」は終了しています。

露通もこの港まで出迎え(にきており)、美濃へと一緒に行きます。8月21日頃馬に支えれて大垣の荘園に入ると、曾良(一度体を壊して山中温泉で分かれて伊勢で治療)も伊勢から来て合流し、越人も馬を飛ばして、如行の家に集合します。

前川子や荊口の親子、そのほかの仲の良い人たちも、日夜訪れてきて、まるで生き返った人に会うかのように、一方では喜び一方ではねぎらってくれました。旅の(疲れからくる)心の重さもまだ治まらないうちに、9月6日になったので、伊勢の遷宮を拝もうと、また船に乗って出かける。結びの句です。

『蛤の ふたみにわかれ 行く秋ぞ』

蛤の蓋と身が引き剥がれる様な、つらい思いを残し、親しい人々と別れ、自分はいま行く秋とともに、伊勢の二見に向けてまた旅に出るのだ(元禄二年(1689)、芭蕉翁、四十六歳の句です)。

伊勢の名産である蛤をふまえ、「蓋・身」に掛けて、旅の目的である伊勢の「二見浦」と「二身」を読み込んだ技巧的修辞であり、「蓋・身に別れ」から「別れ行く」「行く秋」と引き出した重層的表現です。さらに下五に「行秋ぞ」と置いて、千住出発の折の歌「行く春や鳥啼魚の目は泪」と対をなすように構成されています(天才~!)。

PA140492.jpg(以前にもご紹介しましたか?大垣城の大外堀に成ると思います)
PA140490.jpg(直角なのも作られた堀の後です)
PA140518.jpg(奥の細道むすびの地看板)
PA140527.jpg(見送る谷木因と旅立つ芭蕉像)
PA140535.jpg(「蛤の ふたみにわかれ 行く秋ぞ」大好きな俳句です)

【何故「夏草や兵どもが夢のあと」が平泉で関ケ原じゃいけないの?】

と私も思ったのですが、旅行は元禄2年(1689)ですが、関ケ原の戦いの、慶長5年(1600)から89年、さらに慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)から74年、医療技術も悪く民衆が短命とはいえ、少し生臭くありませんか?丁度先の大戦(太平洋戦争)と同じくらいの感じだと思うのです。

それに比べて、平泉の衰退は1200年ころ、490年の月日が「夢のあと」を演出したのだと感じました。いかがですか?

【最後の一言】

明日(正確には明後日未明)は12月14日、320年前の明日!元禄15年12月14日(1703年1月30日)「芭蕉の旅行から13年」赤穂藩士が旧主浅野長矩の仇である高家吉良義央の屋敷に討ち入り、吉良義央および家人を殺害した(赤穂事件)が起こります。
実は少しだけ関係がございますので、次回はそちらをご紹介します。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/12/11

映画やドラマで描かれた、或いは描かれ無かった名場面!

皆さん、こんばんわ~!昨日college collectionのイベントthe partyに行って来ました。それ何?の方々が多いと思いますが、要は学生主体のファッションショーといったところですか?またなんでそんなところに「紅の豚」が出没しているのだとお思いでしょうが、私市郎右衛門の長女が、イベントの中で行われるミュージカルに、ご出演(笑)ということで、親バカですが大阪まで出かけました。

学生の本文は勉強ですが、色々と経験して楽しんでいる様子を観賞してまいりました。東京・福岡・大阪と行われたようですが、若くて(若く無くても)ファッションに興味のある方は、来年も開催されると思いますので是非行かれてみてはいかがでしょうか?

PA151572.jpg(最初から衝撃的ですが三成の頭骸骨、三成の墓所は墓は京都大徳寺三玄院にありますが公開されていません。こちらは学術調査時の物です。)

さて、「天下分け目の関ケ原」の取材で書き始めたこのところの、「関ケ原」シリーズですが、取材ソースも後少しとなりました。まだまだ表面的で、「慶長の擾乱ともいえる」と私が評しているように、全国各地で色々な戦闘が起こっておりますので、今回のシリーズは後2回で終わる予定ですが、また関連事項の取材ができましたら。ご紹介していきたいと思います。

さて本日は、映画「関ケ原」の話題や、原作の司馬遼太郎「関ケ原の中から、これまでまだブログに書いていない名場面(名エピソード)をご紹介するコーナーを作ってみました。

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【映画「関ケ原撮影場所名場面】

CIMG9492.jpg(「書写山圓教寺」家康の岐阜赤坂岡山の陣所の場面!)

私が映画「関ケ原」を見に行ってこのシーンはこの場所で撮影されたと分かる場面がいくつかありましたのでまずご紹介しましょう。まずは家康の岐阜赤坂岡山の陣所となった場所です(現在の岐阜県大垣市赤坂町字勝山にある安楽寺)。ハリウッド映画『ラストサムライ』でも使用され、大河ドラマ「軍師官兵衛」でも使用された、兵庫県姫路市にある西国三十三観音霊場、「書写山圓教寺」が使われていました(圓教寺はまだブログでご紹介していませんので、近いうちにご紹介出来ればと思います)。家康の赤坂円山陣地が凄く立派だという設定が少々おかしいと感じました(笑)。

PA151576.jpg(西軍血判状の場面は龍潭寺での撮影でした。)
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(姫路城!この角度よく出て来ます。)

さらには、西軍前線基地となった大垣城ですが、今回の「関ケ原シリーズ」でもご紹介した通り、先の大戦で燃えてしまっておりますし立て直された、現在の大垣城は規模も小さくて撮影向きではありません。こちらも見覚えのある城が登場しました。同じく兵庫県の世界遺産「姫路城」でした。ドラマ「暴れん坊将軍」等でも使われている場所だったので、すぐに気が付きました。

それなら合戦場面は同じく兵庫県神崎郡神河町の砥峰高原(とのみねこうげん・標高800~900mに位置する面積約90ヘクタールの草原)かと考えました。映画『ノルウェイの森』『信長協奏曲』や、大河ドラマ「軍師官兵衛」「平清盛」等でも使われた有名な場所なんです。しかし今回の合戦場面は山梨県小淵沢で行われたそうです。

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(兵庫県神崎郡神河町の砥峰高原・とのみねこうげん)

いつものうんちく話を少ししましょう。なぜほとんどの合戦場面の撮影が、同じ場所(同じ草原や高原)で行われるのでしょうか?それには、その場所でなければいけない理由が有るからです。その理由とは、セイタカアワダチソウのせいです。北アメリカ原産で、日本では切り花用の観賞植物として導入された帰化植物(外来種)であり、ススキなどの在来種と競合しています。つまり戦国時代には無かった黄色い花が時代劇の合戦シーンにあると非常に困るのです。しかしこのセイタカアワダチソウ実は寒さに弱いい性質が有り高所の高原や、北海道東北部などでは生息出来ません。そこで兵庫県砥峰高原の様な標高800以上の高原や山梨県小淵沢等の高原地域での撮影ではセイタカアワダチソウそのものが無く、撮影に適しているというわけです(納得?)。

p6953547セイタカアワダチソウ(篠山市)(同じく兵庫県の平地のススキとセイタカアワダチソウ)

京都下賀茂神社糺の森では流鏑馬のシーンや三成が小川から水を飲むシーンが有ったような気がします。以上が私が映画「関ケ原」を観賞して「アッ!この場所は」と気付いたロケ地になります。

CIMG7986.jpg(京都下賀茂神社糺の森)

【場所の特定はできなかったが、映画に描かれた名場面】

PA151701.jpg(三成が繋がれる、彦根城太鼓門、大津城として撮影。)

これは、なるほどと思わされた名場面です。撮影場所は彦根城太鼓門でした(重要文化財)。捕まった三成が縛られて繋がれる大津城の城門の設定だと思います。東軍諸将とここで再会します。この時のエピソードは原作「関ケ原」でも書かれている名場面です。

捕まった石田三成は、大津城門前に晒される訳ですが、ここで多くの東軍武将達が三成の顔を見に来ます。福島正則は三成に罵詈雑言を浴びせ、黒田長政や浅野幸長は逆に三成に労りの声を掛けています。また小早川秀秋は三成に裏切りを激しく詰られたと伝えられています。それぞれの武将たちの素顔が判るエピソードです(諸説あるので、真逆の話もあるようです)。

まず最初に通りかかったのは、福島正則だといわれています。正則は馬上から、「汝は無益の乱を起こし、日本一の弓取り内府公にたてをつき、このような有様に成った。これが五奉行筆頭のなれの果てか」と大声で怒鳴ると、三成は「我武運つたなくして、汝を生け捕ってこのようにすることが出来なかったのを残念に思う。汝の様な知恵足らずに我の心が分かってたまるか」と毅然と答えます。

さらに正則は「何故死なぬ、腹切らぬ、縄目の辱めを受けながらおめおめと…」とたたみかけますが、「人々の心の底をこの目で見て、泉下の太閤殿下に報告し奉る。正則、心得ておけ」と返すと正則は返す言葉もなく「世迷言を言うわ」とつぶやき去っています。

次は、黒田長政です。長政は三成を認めると馬から下りて、「勝敗は天運とはいえ、不幸にもこのようになられて、さぞ不本意であろう」と敵ながらその将に対し労りの言葉をかけて、三成の汚れた服装を見ると、自らの羽織を三成に着せたといわれます。一方の三成は一言も放たなかったそうですが、実際には長政の調略により敗北したといっても過言ではなく、長政のしたたかさと三成の純粋さが際立つエピソードだと思います。

小早川秀秋は、余程のおバカさんといいますか節操の無いというのか、捕らえられた三成を一目見てやろうと細川忠興が止めるにも関わらず、三成のいる陣外へ赴いたところ、三成は秀秋を見て、「金吾か~!その伺い方のあり様よ、聞こえたか!我、汝の二心あるを知らなかったのは愚かであったが、太閤の恩を忘れ、義を捨てて約に違い、裏切りをした汝は、武将として恥じる心はないか」と激しく罵倒したので秀秋は何も言えず赤面して引き下がったと言われます。

藤堂高虎との問答は非常に面白いと思いました。高虎は三成に、「関ヶ原での我が軍の鉄砲隊は如何でござった?」と尋ねています。この高虎の問いに対し三成は、「少し乱れがござった」と答え、その原因は何かと高虎が重ねて聞くと、「指揮官に自信がないせいかと思われる。お替えになるがよかろう」と答えました。それを聞くと高虎は、「実は拙者もそう思っておりました。ご指導、ありがとうございます」と、三成の返答に満足してその場を離れています。ここでは敗色濃厚な中でも情勢を冷静に判断していた、に三成の優秀さが良くわかる逸話です。

家康との対面は双方無言であったとも伝えられます。その後三成を預けられた本多正純は、三成に向かって「秀頼様はまだ年若く、事の是非もしろしめされないのであるから、ただ太平を致す道を講ずべきであるのに、よしなき軍を起こして、かかる縄目の恥辱を受けられる結果になった」のではないかと三成批判しました。

それに対し三成は「世のさまを見るに、徳川殿を打ち滅ぼさなければ、豊臣家のためにならないと考え、宇喜多秀家・毛利輝元を始め同心しない者を強いて語らって軍を起こした。ところが戦いに挑んで二心ある輩があって反撃したため、勝つべき軍に打ち負けたのが口惜しい。自分の負けたのは全く天命である」と嘆息して答えたといいます。

さらに正純が反駁して「智将は人情をはかり、時勢を知るというが、諸将が同心しないのも知らず、軽々しく軍を起こし、軍に破れても自害せず、搦め捕らえられたのは、貴公にも似合わないことである」と言うと、三成は憐れむように嘲笑し「この心事はこの大事を起こした者のみが知る。古に源頼朝公有り、今三成が有る。汝らの様な葉武者の知る処ではない」と言い放つと以降は口を閉ざしたといわれます。

一方家康との面会には会話説もあります。家康は関ヶ原の戦いで敗れて捕縛された三成に面会した際、「このように戦に敗れることは、古今良くあることで少しも恥では無い」と言っています(どっちだ?)。三成が「天運によってこのようになったのだ。早々にに首を刎ねよ」と応えると家康も「三成はさすがに大将の器量である。平宗盛などとは大いに異なる」と嘆じたとも言われます。

【映画に描かれたて知った福島正則・黒田長政の兜交換】

PA151471.jpg(井伊家菩提寺「清凉寺」)

映画の中で福島正則・黒田長政が、仲直りの証として『一の谷形兜』「黒漆塗桃形大水牛脇立兜」を交換するシーンが描かれていました。撮影場所は滋賀県井伊家菩提寺「清凉寺」だと思います。佐和山城時代は石田三成と島左近の屋敷跡に建てられています。

秀吉の朝鮮出兵、文禄・慶長の役で黒田長政は出撃順の運が良く多くの功績を残しましたが、出撃順の運が悪く名護屋留守居を命じられた正則が因縁をつけたとも言われます。つまり功績が少なかった、福島正則と不仲になっていました。その仲直りの証として、黒田長政所用の「大水牛桃形兜」と、福島正則所用の「一の谷形兜」とを交換しました。

関ヶ原での戦場ではお互い、交換した兜を着用したと伝えられ、現在も残る馬上での軍装姿を描いた肖像画にも、一の谷形兜を付けている様子が見えます。この一の谷形兜は、非常に変わった形をしています。遠目で見ると、正面からも背面からも長方形。横から見ると大きな曲面が特徴的です。銀箔が光を反射し、奇抜な印象を与えます。

これは、源義経の現在の神戸市『鵯越(ひよどりごえ)』の断崖をモチーフに作られたものだと言われています。ずいぶんと重そうに見えますが、張り懸けという製法で軽く仕上げられているそうで、着用の負担は大きくありません。大水牛形と共に代々、少しずつ形や性能を変え、黒田家で長く愛用された兜です。

元々の所有者である竹中半兵衛が作らせたと言われます。黒田官兵衛と半兵衛は豊臣軍において両兵衛と言われた名軍師でした。廻り廻って黒田長政の元に移ったのも因縁かもしれませんね。

【確か映画の場面には無かったかもと思う名シーン】

秀吉が開いた茶会において、一口ずつ飲み次へ茶碗を回す回し飲みが開かれました。ハンセン病を患っていたといわれる大谷吉継は飲む振りのみで茶碗を回そうとしましたが、顔から出た膿が茶に落ちてしまいました。以降の諸大名は茶に口を付けるのを嫌がり飲む振りだけで茶碗を回していったが、三成は躊躇わず茶を飲み干すというシーンです。それ以降二人の間には厚い友誼が結ばれたといわれます。ただしこの逸話の典拠は不明で、江戸時代に遡ることが難しく、明治44年(1911年)に刊行された『英雄論』では、三成ではなく秀吉が吉継の膿が落ちた茶を飲んだ話として記載されています(このシーンが映画の中に有ったような気がしたのですが、飲んだのは秀吉でした?記憶違いなら申し訳ないです)。

【「島津ののきぐち」も無かったが、これも入れてほしかった「如水無念」のシーン】

関ケ原の戦いの前年には、病の療養を口実に、家康から暇をもらって居城のある中津に戻り、大阪・備後・周防の三箇所に船を停泊させて、天下の情勢を見極めていました。そして三成が挙兵の意志を固め、諸将に大阪参集を呼びかけると、早々に家康方について出陣することを决めました。このことについて官兵衛は「家康公の進撃を聞いてから出陣したのでは、戦勝の分前にあずかれない」と述べています。

関ヶ原の戦いの6日前の9月9日、官兵衛は9千の兵を率いて中津城を出ます。そして豊後の大友氏、筑後の立花氏らと戦い、11月半ばには一円を平定してしまいました。しかし、関ケ原の戦いは9月15日に開戦すると半日で決着していましたので、官兵衛は肥後・水俣で停戦命令を受けとり、撤退することになります。

戦後官兵衛は吉川広家に宛てた手紙で「関ケ原の戦いがもう1ヶ月も続いていれば、中国地方にも攻めこんで、華々しい戦いをするつもりだったのに、家康勝利が早々と確定したため何もできなかった」と述べ、関ケ原の戦いに乗じて勢力を拡大しようとしたことがわかる記録が残されています。

また、関ヶ原の戦いの後、九州に戻ってきた黒田長政は意気揚々でした。戦功によって大幅加増されて52万石の大名が約束されました。「父上、徳川殿から一番手柄と手を握って喜ばれました」「我が徳川家の子孫の末まで黒田家に対して疎略はしない」と右手を握って家康が感謝していたことを報告する長政でしたが、黒田如水(官兵衛)は浮かばれない表情で、とても不機嫌であったといわれています。

長政には如水の胸中が分かりません。以外に喜ばない如水に(父上はお耳が悪いのかと)もう一度家康が自分の手を三度押し頂いたというくだりをもう一度繰り返します。如水はやっとうなずき、「その手は右手で有ったか、左手であったか?」と問い返します。長政が「されば、それがしの右手でございます」と答えると、「右手の一件は相分かった。しかしその時お前の左手は何をしていたのだ」と言います。左手で家康を討つこともできたのにという趣旨の発言をした逸話もあります。このとき長政は初めて父である黒田官兵衛が天下を狙い、そのために行動していたということが分かったのでした。

【「三成の処刑」シーンが有ったなら涙をそそったはず】

家康は処刑前の三成、小西行長、安国寺恵瓊の3人が破れた衣服ままである事を聞き、「将たるものに恥辱を与える行為は自分の恥である。」として小袖を送り届けましたが。三成は小袖を見て「誰からのものか」と聞き、「江戸の上様(家康)からだ」と言われると、「上様とは誰だ」と聞き返します。「徳川殿だ」と言われると「なぜ家康を尊ぶ必要があるのか?上様とは秀頼様の他にはおられるはずが無い。」と礼もいわずに嘲笑うという逸話です。是非映画のシーンに入れてほしかった。

さらに、三成が京都の町を引廻されている最中に喉が渇き、警護の者に伝えたところ、お湯がなかったので干柿を差出されます。三成は「柿は痰の毒であるから食べない」と言って断るシーンです。警護の者は間もなく首を刎ねられる者が毒を断つのはおかしいと笑いますが、三成は「大義を思うものは、首をはねられる瞬間まで命を大事にするものだ、それは何とかして本望を達したいと思うからである」と言って刑場に向かう場面です。(『明良洪範』亨保以降成立)。

【三成辞世の句と共に最後の一言】

石田三成辞世の句は『筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり 』

筑摩江は滋賀県の琵琶湖東北端にある場所の事で処刑される前に、「ああ、あの芦の間に燃えているかがり火がやがて消えていくように、自分の命ももうすぐ潰(つい)えてしまうのだな」という半分のあきらめと半分の覚悟のこもった歌だと思います。

映画「関ケ原」は歴史に詳しい人でないと分かりにくい映画でした。それを分かりやすくするために「義の人」石田三成、「義を支えた」島左近、「義に殉じた」大谷吉継、「義を果たさなかった」小早川秀秋という単純な人物表現によって歴史フアン以外にも分かりやすいストーリーを展開しています。それでも規模が大きすぎて分かりにくいと思いますけどね~(-"-;A ...アセアセ

DSC_0029.jpg(覚悟を決めた三成の心は伊吹山頂のように清々しかったのか?)

歴史って本当に面白いですよね~!
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リュミエールブラン ネージュ

2017/12/07

関ヶ原の戦いはいかにして終わったのか?「それぞれの顛末」

こんばんわ~!今日は「関ヶ原の戦」の顛末や、西軍・東軍それぞれの武将後日談をご紹介いたします。今回の「関ケ原シリーズ」ともいえる一連の戦いは、私の取材に基づくと、室町時代創成期に起こった、足利尊氏と弟義直の戦い「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」に匹敵するものであり、後世『慶長の擾乱』と呼び変えられる可能性が否定できないほどの全国規模の大きな戦いでした。

「関ケ原」の戦いそのものは、徳川家康中心の東軍が、小早川秀秋の内通・裏切りによって形勢を一気に引き入れることに成功し、六時間という短時間で勝利を勝ち取りました。

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(不運の天才武将、石田三成図)

一部で「島津ののきぐち」といわれるような敗走時の戦闘は有りましたが、総崩れを犯した西軍は北國街道を伊吹山方面、あるいは中山道を西へ、一部は伊勢街道を通って自国の領土へ帰国を始めます。

勝ったとはいえ、全国でまだその火種はまだくすぶっている状態でした。家康はこの火種を絶やすために、粛々と戦勝軍としての行動を始めます。

西軍の首謀者とみられる三成や小西行長、宇喜多秀家には追手命令が下され、「関ケ原」では首実検(残酷なようですが、礼儀作法に基づいたものだったようです。)や論功行賞が始まります。

今回取材しながらご紹介で来ていない「関ケ原の闘い」の史跡跡や武将のその後もご紹介したいと思います。

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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CROOZ


【西軍逃走続編】

PA141108.jpg(伊吹山から関ケ原を望む①中央の山が毛利陣の南宮山)
PA141106.jpg(伊吹山から関ケ原を望む②天満山と奥に松尾山です)
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(観光協会の史跡巡り図)
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(東軍方面)
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(小早川秀秋の軍監として家康に遣わされた奥平貞治の墓)
PA141089.jpg(軍監にもかかわらず討たれている程大谷吉継の攻撃が激しかった証拠ですね)

西軍が壊滅する様を目の当たりにした南宮山の毛利勢は戦わずして撤退を開始します。浅野幸長・池田輝政らの追撃を受ますが、長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊の援護を受けて無事に戦線を離脱し、伊勢街道から大坂方面へ撤退しました。殿軍に当たった長宗我部・長束・安国寺らの軍勢は少なからざる損害を受けますが、退却に成功しています。安国寺勢は毛利勢・吉川勢の後を追って大坂方面へ、長宗我部勢と長束勢はそれぞれの領国である土佐と水口を目指して逃亡しています。

PA140805.jpg(井伊直政・松平忠吉陣の傍に東首塚が有ります。)
PA140806.jpg(史跡東首塚)
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(関ケ原の町の皆さんにより整備されています。)
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(東首塚説明版)
PA140757.jpg(西首塚・奥には胴塚とあります)
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(西首塚説明版)

家康は、翌日9月16日には裏切り組である小早川秀秋、脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠に石田三成の本拠である佐和山城攻略の先鋒を命じ、これに近江方面の地理に明るい田中吉政のほか軍監として井伊直政が加わり、2万を超える大軍を以って近江鳥居本へ進軍します。

佐和山城には三成の兄である石田正澄を主将に父・石田正継や三成嫡男・石田重家、大坂からの援兵である長谷川守知ら2,800の兵が守備しており、6倍以上もの兵力差に加えて御家安泰のために軍功を挙げねばならない秀秋らの攻撃を津田清幽らの奮戦で退けています(流石過ぎたるものの一つ名城佐和山ですね)。

正澄は家康の旧臣だった清幽を使者に降伏交渉に入ります。正澄の自刃、開城とひきかえに他の一族、城兵、婦女子を助命するという条件でまとまった交渉出したが、9月17日長谷川守知が寝返り、東軍の兵を引き入れ三の丸が陥落すると翌18日早朝に田中吉政隊が天守に攻め入り落城しました。

正澄ら三成の一族は自刃して滅びます。清幽は家康に違約を激しく詰問し、三成の三男佐吉をはじめとする生き残った者を助命させています。重家(三成嫡男)は脱出して京都妙心寺に入り、後に助命されて同寺へ出家させられました(以前人質として大坂城にいて助命と書きましたが混乱の時代ゆえお許しください)。

【家康さらに西へ進軍す】

家康は西軍の首謀者で、敗戦後逃亡し行方不明となっている石田三成や宇喜多秀家、島津義弘らの捕縛を厳命する一方で大坂城無血開城を行うべく、福島正則と黒田長政に西軍総大将である毛利輝元との、開城交渉を命じました。

家康は現在の近江八幡、日牟禮八幡宮で戦勝祈願の後、9月20日に京極高次の居城である大津城に入城し、しばらく留まっています。この間北陸方面の東軍総大将であった前田利長(利家嫡男)が、西軍に属した丹羽長重(丹羽長秀の長男)と青木一矩(末期の病床にあり10月10日死亡)の嫡男・青木俊矩を連れて合流しています。家康は両名の懇願を聞くことなく改易処分としました。

また家康が大津城に入城した同日に、中山道軍総大将であった徳川秀忠が合流します。真田昌幸に上田城で翻弄され本戦に間に合わなかった秀忠に対して家康は激怒していました。しばらく目通りを許さなかったとも伝わります。榊原康政の必死の諫言により9月23日対面が叶っています。

【三成捕縛】

一方逃亡していた西軍諸将でしたが、まず9月19日に小西行長が竹中重門(半兵衛嫡男)の兵に捕らえられ、草津に滞在中であった家康本陣に護送されました。

続いて三成が9月21日、近江伊香郡古橋村(後の高時村)において旧友である田中吉政の兵に逮捕されています。逮捕された場所は三成の領内であり、同地の農民が処罰を覚悟の上で匿っていました。しかし三成は逃亡場所が発覚したことを知ると、領民の処罰を考慮して、自ら吉政の兵に身分を明かし、捕縛されています。

捕縛された三成は9月22日に大津へ送られ、東軍諸将とここで再会しました。この時、福島正則は三成に罵詈雑言を浴びせ、黒田長政や浅野幸長は逆に三成に労りの声を掛けました。また小早川秀秋は三成に裏切りを激しく詰られたと伝えられています。このエピソードは映画「関ケ原」でも描かれ、原作司馬遼太郎の「関ケ原」下巻でも書かれていますので、次回エピソード特集として映画・本のお話を詳しくご紹介したいと思います。

9月23日には京都において安国寺恵瓊が奥平信昌の兵によって捕らえられ、大津に護送されました。この石田三成・小西行長・安国寺恵瓊の三名は、9月26日に家康が大津城から淀城に移動する際、大坂へ護送されました。五奉行の一人で関ヶ原本戦に参じていた長束正家は居城である水口城(滋賀県甲賀市)へ戻っていましたが、これを知った家康は池田輝政・長吉兄弟と稲葉貞通に水口城攻撃を命じ、9月30日に開城させています。

また細川忠興は家康の命を受け、父・細川幽斎の籠る田辺城を攻撃した総大将・小野木重勝が拠る丹波福知山城攻撃に向かっています。途中丹波亀山城において父と再会、丹後田辺城の戦いに加わりながら戦意を見せなかった谷衛友、別所吉治、川勝秀氏、藤掛永勝らを従え9月23日より攻撃を開始します。重勝は徹底抗戦の構えを見せましたが、井伊直政と山岡景友の説得により開城、城下の寺へ謹慎しました。

【家康の論功行賞】

家康は淀城を経て9月27日に大坂城に入城。豊臣秀頼や淀殿と会見した後、毛利輝元退去後の大坂城西の丸へ入り、井伊直政・本多忠勝・榊原康政・本多正信・大久保忠隣・徳永寿昌の6名に命じて、家康に味方した諸大名の論功行賞の調査を開始します。

9月30日、慶長出羽合戦を繰り広げていた上杉景勝の下に、ようやく西軍敗戦の報が伝えられ、長谷堂城にいた直江兼続は撤退を開始しています(長谷堂城の戦い)。

10月15日以降、論功行賞が順次発表されました。宇都宮城に拠って上杉景勝・佐竹義宣を牽制した結城秀康(家康次男)の67万石を筆頭に、豊臣恩顧の諸大名は、軒並み高禄での加増となっています。しかしいずれも西国を中心に遠国へ転封となり、京都・大坂および東海道は、家康の子供達や徳川譜代大名で占められました。

また豊臣氏の蔵入地(江戸時代の天領と同意で、豊臣時代は太閤蔵入地と呼ばれます)が廃止され、それぞれの大名領に編入されたことで、豊臣直轄領は開戦前の222万石から摂津・河内・和泉65万石余りに事実上減封されています。

一方家康は自身の領地を開戦前の255万石から400万石へと増加させ、京都・堺・長崎を始めとする大都市や佐渡金山・石見銀山・生野銀山といった豊臣家の財政基盤を支える都市・鉱山も領地としました。また豊臣恩顧の大名が家康の論功行賞によって加増された事は、彼らが豊臣家の直臣から切り離され、独立した大名家となった事を意味しています。これにより徳川家による権力掌握が確固たるものになり、徳川と豊臣の勢力が逆転することに成りました。

ただし以前は、この一連の論功行賞で豊臣家が一大名の地位に陥落したとする学説が一般的でしたが、豊臣家がなお特別の地位を保持して、徳川の支配下には編入されていなかったとする説が現在では一般的と成っています。

【三成処刑時も尊厳を失わず】

CIMG81499516.jpg(京都建仁寺にある安国寺恵瓊首塚)

10月1日、大坂・堺を引き回された三成・行長・恵瓊の3名及び伊勢で捕らえられた原長頼(関ケ原参戦を目指すも敗北を知り、敗走し、10月13日に自害したとも言われます。享年57。)は京都六条河原において斬首されました。首は三条大橋に晒されました。
三成斬首は三成成りの関ヶ原戦の正統性を主張するエピソードでもありますので、こちらも次回ご紹介いたします。

10月3日には長束正家と弟の直吉が自刃し、やはり三条大橋に首を晒されています。福知山城を開城した小野木重勝は、直政や景友の助言によって、一旦は出家ということで助命が決まりかけたが、細川忠興が強硬に切腹を主張し、重勝は10月18日に丹波福知山浄土寺で自刃しました。一説には父の面前で自刃させたとも伝えられています(忠興意外と残忍ですね。愛する妻・ガラシャが死んだとはいえ、ちょっとひどいかな?)。この他赤松則英、垣屋恒総(私の故郷、日高町を本拠にしていた但馬四天王の一人です。)、石川頼明、斎村政広などがこの10月に自刃を命じられています。

家康の弾劾状に署名した残りの五奉行、増田長盛と前田玄以については、両名とも東軍に内通していたが、長盛は死一等を減じられましたが武蔵岩槻に配流。玄以は所領の丹波亀山を安堵されるという、両極端な処分が下されました。

一方、西軍副将を務めた宇喜多秀家は、家康から捕縛を厳命されましたが、薩摩へ逃亡を果たしていました。島津と家康の和睦により、秀家は家康に引き渡され、前田利長と忠恒による助命嘆願により死罪を免れて1606年(慶長11年)八丈島に流罪となっています。

【大坂城開城と毛利氏の処分】

吉川広家や毛利秀元ら毛利一族、福原広俊ら毛利家臣団の反対を押し切り、三成と彼の意を受けた安国寺恵瓊の要請によって、西軍の総大将に就任した毛利輝元でしたが、関ヶ原の敗北後もなお秀頼を擁して大坂城に滞在していました。立花宗茂は大坂城に籠城しての徹底抗戦を主張しており(『立斎旧聞記』)、秀頼の命と称して篭城抗戦が行われる可能性も残されていました。

家康は大野治長を大坂城に遣わし、秀頼と淀殿が今回の戦に関係あるとは家康は全く思っていないと説得させました。淀殿は礼の手紙を持たせて大野を送り返しています。

一方で、関ヶ原本戦において功のある吉川広家が「輝元の西軍総大将就任は本人の関知していないところである」と家康を説得し、家康はその説明に得心したと回答しています。これを知った輝元は、福島正則と黒田長政の開城要求に応じてしまいます。

さらに家康家臣の本多忠勝と井伊直政が、家康に領地安堵の意向があることを保障する起請文を輝元に差し出し、それと引換えに、輝元は9月24日に大坂城西の丸を退去しました。27日、家康は大坂城に入城して秀頼に拝謁し、西の丸を取り戻して秀忠を二の丸に入れています。

しかし10月2日、家康は、黒田長政を通じ広家に対し、実際には輝元が積極的に西軍総大将として活動していたという証拠(諸大名への西軍参加を呼びかけた書状の発送、伊予において河野通軌ら、河野氏遺臣に毛利家臣である村上元吉を付けて、東軍・加藤嘉明の居城である伊予松前城攻撃に従軍させたこと、大友義統を誘い軍勢を付けて、豊後を錯乱したことなど)が多数発覚してしまいます。

家康は広家の説明は事実ではなかったことが明らかだとして、所領安堵の意向は取り消して「毛利家は改易し、領地は全て没収する」と通告しています。その上で広家には彼の「律儀さ」を褒めた上で、「律儀な広家」に周防国と長門国を与えて西国の抑えを任せたいという旨を同時に伝えています。

毛利氏安泰のための内応だったにも関わらず、その努力が水泡に帰した吉川広家は進退窮まる形になりました。謀反人の宿老であるにも関わらず「律儀さ」ゆえに彼のみは破格の扱いを受けるという形になった以上、今更「輝元の西軍への関与は知っていたが、自分の努力でなるべく動かないようにさせたので免責してほしい」などと前言を翻し実情を述べて交渉することもできなくなってしまいます。

そのため、自分自身に加増予定の周防・長門(現在の山口県)を毛利輝元に与えるよう嘆願し、本家の毛利家を見捨てるくらいなら自分も同罪にしてほしい、今後輝元が少しでも不届きな心をもてば自分が輝元の首を取って差し出す、という起請文まで提出しています。

家康としても、九州・四国情勢などの不確定要素がある以上は毛利を完全に追い詰めることは得策ではないと考え、吉川広家の嘆願を受け入れ、先の毛利氏本家改易決定を撤回し、周防・長門29万8千石(現在の山口県)への減封とする決定を10月10日に下しました。さらに本拠地を毛利氏が申請した周防山口ではなく、長門萩にするよう命じました。輝元は出家し、家督を嫡男である毛利秀就に譲り隠居す事に成りました。

毛利領が、安芸ほか山陽・山陰8か国(112万石)から防長2か国(29万8千石、のち高直しにより36万9千石)まで一気に減らされたことから、吉川氏に対し毛利本家は、残された毛利領より3万石(岩国領、後に高直しして6万石)を割き与えたものの諸侯待遇の推挙を幕府に行わない仕打ちを行っています。

しかし吉川広家の功績を知る幕府は、吉川氏を諸侯並みの待遇とし、当主は代替わりに将軍への拝謁が許されるという特権を与えて、吉川広家の功に報いました。本家の為を考えた広家ですが、結果は皮肉なものになりました。広家の行動が無ければ、毛利将軍家と成っていたかも知れませんね~残念ながら歴史にIFは有りません。

【上杉氏・佐竹氏の処分】

10月に毛利氏の処分が決定し、11月には島津氏が謝罪したことにより、西軍に加担した大大名で処分が未決となっているのは、関ヶ原の導火線となった上杉征伐の張本人である上杉景勝と、態度を曖昧のままにしていた佐竹義宣の2人となりました。

景勝は最上軍と長谷堂城を中心に激戦を繰り広げましたが、9月30日に西軍敗走の一報が伝えられると撤退しています。

勢いづいた最上義光は庄内へ攻撃を開始、伊達政宗も10月6日より桑折への侵攻を開始しています。景勝は防戦する一方で家中に今後の対応を協議しました。この中で直江兼続や甘糟景継、竹俣利綱らは徳川との抗戦を主張するが、本庄繁長や千坂景親らは和睦を主張しています。最終的に10月23日に和睦の方針が決定され、主君の意を汲んだ兼続は主戦派の「江戸へ南下するべし」との意見を退けました。

交渉には本多正信と親交の深い千坂景親と和睦を主張した本庄繁長が任命され、以後正信を始め東軍の対上杉防衛軍総大将であった結城秀康、本多忠勝、榊原康政らに取り成しを依頼しています。彼らの取り成しにより、当初領地没収を予定していた家康も、次第に態度を軟化させていきました。

年が明けた1601年(慶長6年)7月1日、千坂・本庄両名の報告などから和睦が可能となったことを受け景勝は兼続と共に上洛し、秀頼への謁見後、8月8日結城秀康に伴われて伏見城の家康を訪問し謝罪しています(『上杉家御年譜』)。

上杉氏への処分は1ヶ月ほど経った8月16日に言い渡され、陸奥会津120万石から75%減の出羽米沢30万石(出羽置賜1郡および陸奥伊達・信夫2郡)へ減封となります。景勝はこの時「武命の衰運、今において驚くべきに非ず」とだけ述べ、11月28日に米沢へ移動し。ました

一方、佐竹義宣は、三成との親交から西軍への加担を決め、景勝と密約を結び、上杉領内に入った徳川軍を挟撃する方針を採っていた。このため上杉征伐では動かず、与力大名である岩城貞隆、相馬義胤、多賀谷重経もこれに同調しました。しかし佐竹家中では父である佐竹義重、弟の蘆名義広、佐竹氏家臣筆頭である佐竹義久が東軍徳川方への加担を主張します。

特に父・義重は、東軍への加担を強く主張し、これに抗し切れない義宣は、佐竹義久を中山道進軍中の徳川秀忠軍へ、兵300と共に派遣するという、曖昧な態度を取っています。しかし家康はすでに佐竹氏の動向を疑っており、松平信一や水谷勝俊などを佐竹監視部隊として国境に配置し、秀忠も義久ら派遣部隊を、謝絶しました。

西軍敗北後、父・義重はただちに家康に戦勝を祝賀する使者を送り、さらに上洛して家康に不戦を謝罪した。しかし義宣は居城である水戸城を動かず、そのまま2年が経過しました。上杉氏、島津氏の処分も決定し、処分が済んでいないのは佐竹義宣のみとなってしまいます。その上、謝罪すら行っていませんでしたが、それでも義宣は動きません。しかし、義重の説得により1602年4月に上洛し、ようやく家康に謝罪したといわれます。

しかし家康は義宣の観望について『寛政重修諸家譜』の中で「上杉景勝より憎むべき行為」として厳しく非難したと記載されえいます。死罪は許されましたが、常陸一国など、佐竹氏勢力の54万石は没収され、出羽久保田に20万石格での減転封となりました。また与力大名である岩城・相馬・蘆名・多賀谷の各大名も改易となっっています。義宣はわずかな家臣を連れて久保田へ移動しています。佐竹氏の石高が確定するのは2代藩主・佐竹義隆の代になってからです。

【最後に織田氏の処分】

CIMG153645987.jpg(兵庫県柏原市勲君神社、京都はお詣りしましたが山形はまだです。)

織田信忠の遺児で、幼名三法師とよばれていた織田家嫡流の織田秀信は改易となり岐阜城を追われ高野山に追放となりました。

おなじく織田秀雄も改易され江戸に居住することを命じられましたが、父に先立ちて夭逝。織田信雄も改易となりましたが後に許され大和で大名となっています。信長・信雄の子孫は、天童藩2万石と柏原藩2万石(信長の弟・信包立藩、後天領、再立藩)の2家が明治に至っています。

因みに、織田信長を祀る勲君神社は全国に三社のみ、京都と山形県の天童市・兵庫県柏原市に在ります。さらには七男織田信高の家系、1616年(元和2年)1月、嫡男高重は幕臣として召し出されて近江・安房に2000石を与えられました。高重の孫信門は高家となり、以後、同家は明治維新まで高家旗本として存続しています。尚、フィギュアスケート選手織田信成さんは信高系の旗本織田家の末裔であると称しておられますが、それを客観的に裏付ける証拠はないそうです(残念ですね)。

【最後に一言】

佐竹氏の減転封が決定されたことで関ヶ原における一連の論功行賞と西軍諸大名への処罰は終了しました。1603年(慶長8年)、家康は征夷大将軍に任命され江戸幕府を開きます。

西軍に加担した大名の中には明治維新まで存続したものも多く、島津氏の薩摩藩や毛利氏の長州藩は倒幕に活躍しています。関ケ原の恨みを、明治維新でと言えるのかもしれません。

しかし、領地を没収された西軍加担大名及びその家臣の多くは浪人となります。幕府旗本や諸藩の藩士として天寿を全うする者もいましたが、長宗我部盛親や毛利勝永(毛利勝信嫡男)、真田信繁(真田昌幸二男・幸村)、大谷吉治(大谷吉継嫡男)などは、10数年後の大坂の役で豊臣方の浪人衆として幕府軍と戦い、戦死することになります。

「関ヶ原」の勝負の分かれ目は、他人のために死ぬ事の出来た三成と、自分のためだけを考えて生き抜いた家康の生への執着心の違いかもしれませんね。

歴史って本当に面白いですよね~!
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リュミエールブラン ネージュ

2017/12/05

西軍の敗北決定!「鬼島津・島津義弘」の戦いが今始まる!

「関ケ原開戦」シリーズ第四弾、ついに決着、私的には非常に残念なのですが(家康ファンの皆さんご免なさい!)、小早川隊の寝返りによる大谷隊の壊滅により、旗本中心の家康本隊も動き出し、東軍は西軍に最後の猛攻撃をかけます。

宇喜多隊は小早川隊などを相手に奮戦しますが、やがて3倍以上の東軍勢の前に壊滅してしまいます。宇喜多秀家は善戦むなしく、北国街道を敗走します。宇喜多隊の総崩れに巻き込まれた形の小西隊も壊滅し、小西行長も同じく北国街道を北に逃れます。

石田隊も東軍の攻撃を相手に戦闘を続けましたが、島・蒲生・舞などの重臣が討死したことにより壊滅し、三成も伊吹山方面へ逃走しました。

Shimazu_Yoshihiro[1]
(こんな穏やかな顔ですが、鬼島津こと島津義弘なんです。)

このような状況の中で、鬼島津こと島津義弘率いる島津隊は取り残され敵に包囲される状況に陥ります。ここにおいて、島津勢の敵中突破退却戦、いわゆる「島津の退き口(捨て奸・すてがまり)」が開始されます。後の薩摩藩島津家、明治維新にまで影響を及ぼしたと語り継がれる名場面です。

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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CROOZ


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(凄い!島津の退路を毎年青少年が大阪まで歩くんだって。完歩すると後ろの石碑に名前を刻んでもらえる。)
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(灯篭にも丸に十の島津紋)
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(状況を見ていた義弘、守備のみの戦いに徹していました。)
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(島津義弘陣地跡)
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(島津ファンが多いのか?薩摩の人が訪れるのか?ほかの陣地よりも盛りが多いんですよね、笑)

【退き口って何だ?】

戦国時代を主にした、撤退戦(退却戦)の方法、あるいはその戦いそのものを意味します。有名なのは、織田信長軍が朝倉義景軍との戦いの最中、浅井氏の離反に遭って撤退した「金ヶ崎の退き口」、三方ヶ原の前哨戦で、徳川家康を護った本田忠勝の「一言坂の戦い」、直江兼続と前田慶次(事実よりも漫画の中で有名かもしれませんが?)が参加した「長谷堂城での戦い」、そしてこの関ケ原において、島津義弘軍が行った「島津の退き口」が有名です。と言いますか?それ以外の例はネットで探しても見つかりません。それほど、負け戦の中で勢いづいた敵に背中を見せて逃げるということは至難だと言わざるをえません。

殿(しんがり)は撤退する軍勢の最後尾に位置して、追撃してくる敵軍に効果的な迎撃を加えながら、味方の軍勢が安全な場所まで逃避出来る時間を稼ぐ部隊の事です。殿の第一目的は主君を無事に逃がすことであり、そのため殿を引き受けた部隊は命懸けで敵軍を阻止し、追撃してくる敵と交戦しながら本隊を無事に退却させなければなりません。

最悪の場合、殿を引き受けた部隊はが全滅することも多く、非常に難しく危険の大きい任務でした。従ってこの任務を遂行するには、「主君のために死ねる」という確固たる意思がなければ務まらず、自らこの任務を引き受けようとする者は少なかったようです。

しかしながら視点を変えると、殿は負け戦の中で功名を立てるチャンスであり、信長軍が朝倉、浅井軍の挟み撃ちにされそうになった「金ヶ崎の退き口」でも、殿を務めた秀吉は功名を立てるチャンスとばかり、最も危険な殿の役目を引き受けたのでしょう。

【殿の作戦はどんなもの】

「金ヶ崎の退き口」の殿作戦は、複数の殿部隊が交互に追撃してくる敵を撃退しながら退却する戦法です。秀吉は金ヶ崎城に立て籠り砲隊で朝倉勢を撃退し、城を出て家康に追いついて、光秀とともに峠の山道で敵を引きつけては銃撃を加えて敵の追撃を振り切り、退却に成功。この例は「長谷堂城での戦い」で、直江兼続も採用しています。

「一言坂の戦い」では、退却する本多・内藤隊が一言坂で武田軍に追いつかれ、内藤隊ら先発隊は挟み撃ちに遭いますが、本多忠勝が単騎で敵中に馬を進め、鬼気迫る忠勝に武田軍はたじろき、さらに忠勝は民家に火を放って味方の退却を促し、忠勝に威圧された武田軍はひるんで道を開けたところを、徳川全軍が一気に走り抜けて撤退に成功しています(「名将言行録」にある逸話で、誇張があると思われます)。

羽柴秀吉・徳川家康・明智光秀・本多忠勝・直江兼続・前田慶次、皆さんこのメンバーがいかに優秀な人物達かご存知ですよね。つまり、だからこそ成功したのです。

【鬼島津「島津義弘」中央突破の退却を決意す】

東軍に囲まれ孤立した義弘は「敵はいづかたが猛勢か」と家臣に問いかけます。問われた家臣は「東よりの敵、もってのほか猛勢」と応じました。東には家康の本陣が居ます。この時義弘の心は決まります。「その猛勢の中に、あい駆けよ~~!」と突撃を命じました。

島津義弘隊(1588)『日本戦史 関原役』が鉄砲を放ち、正面に展開していた福島隊の中央に突撃を開始します。西軍諸隊が壊滅逃亡する中での反撃に虚を衝かれた福島隊は混乱し、その間に島津隊は福島隊強行突破に成功します(福島正則の軍勢と数メートルの距離まで接近しますが、福島勢は決死の島津勢との戦闘を避け、攻撃をせずに傍観します。)。更に寝返った小早川隊をもかすめ抜け、家康旗本の松平忠吉・井伊直政・本多忠勝の3隊に迎撃されますがこれも突破します。

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(松平忠吉・井伊直政陣跡、東首塚と同じ場所です。)
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(古い石柱と新しい説明版が丁寧ですね。)
PA140829.jpg(こちらはあの本田忠勝陣地ですが、忠勝は軍監として500の兵しかともなっていませんでした。余裕?)
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(下に書いてある通りの姿でドラマに登場するので分かりやすいキャラ設定です。)
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(忠勝陣所跡、ボランティアのおばさまが説明してくださいましたが、ごめん!知ってます。笑)


この時点で島津隊と家康本陣までの間に遮るものは無くなっています。島津隊を見た家康は、迎え撃つべく床几から立ち、馬に跨って刀を抜いたといわれます。しかし島津隊は直前で転進、家康本陣をかすめるように通り抜け、正面の伊勢街道を目指して撤退を開始しました。

松平・井伊・本多の徳川諸隊は島津隊を追撃しますが、島津隊は「捨て奸戦法」を用いて戦線離脱を試みます。島津隊将兵の抵抗に、追撃した井伊直政が狙撃されて負傷し後退(この傷が元で井伊直政は二年後死没します)。この際島津方では島津豊久(義弘の甥)、阿多盛淳が戦死しています。

次に追撃した松平忠吉は申の中刻に狙撃されて後退(『関ヶ原合戦進退秘訣』)、負傷しています。本多忠勝は乗っていた馬が撃たれ落馬して追撃をやめます。徳川諸隊は島津隊の抵抗の凄まじさに加え、指揮官が相次いで撃たれたことと、すでに本戦の勝敗が決していたこと、また家康から追撃中止の命が出たことなどから深追いを避けたと思われます。

一方の島津隊は島津豊久・阿多盛淳・肝付兼護ら多数の犠牲者を出し、兵も80前後に激減しながらも、殿軍の後醍院宗重、木脇祐秀、川上忠兄らが奮戦し義弘は撤退に成功しました。盛淳は、義弘がかつて秀吉から拝領した陣羽織を身につけ、義弘の身代わりとなって切腹したと言われています。島津家は下馬して踏み止まり奮戦した5人に「小返しの五本鑓(こがえしのごほんやり)」の顕彰を与えています。

map3[1]
(とても分かりやすい地図です。薩摩への愛情感じさせていただきました。)

地図をお借りしました。ありがとうございました。">

【一死一殺の「捨て奸(がまり)戦法」とは】

「捨て奸(すてがまり)」は、最後尾の何人かが点々と敵前に散って敵を待ち、敵が接近すると銃撃して敵を倒して本陣に戻って次の射撃の準備をし、その間に別の捨て奸が留まって敵を待つという戦法です。「島津の退き口」関ヶ原の戦いの退却時に敵中突破の手段として島津義弘が用いたことで知られています(座禅陣とも言われます)。

ただ関ケ原の島津軍は小勢であり、本隊が撤退する際に「殿の兵の中から小部隊をその場に留まらせ、追ってくる敵軍に対し死ぬまで戦い、足止めする作戦に成っています。そうして小部隊が全滅するとまた新しい足止め隊を退路に残し、これを繰り返して時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせる」という戦法を用い、足止め隊はまさに置き捨てであり生還する可能性がほとんど無い、壮絶なトカゲの尻尾切り作戦に成りました。

西軍方が崩壊し、周りが徳川方の敵だらけの中で陣を引くにあたり、すでに300程に減っていた兵数で「捨て奸戦法」を用いて伊勢街道経由で戦場から撤退しました。それは敵に視認しづらくするのと射撃時の命中率向上の為に、退路叢に点々と配置しておいた数人ずつの銃を持った兵達を、あぐらをかいて座らせておき、追ってくる敵部隊の指揮官を狙撃してから槍で敵軍に突撃するという壮絶なものでした。、

【生還率5パーセントの帰還】

それでも島津兵の士気は高く、「捨て奸戦法」に志願しない者の方が少ないくらいであったといわれます。その後、伊賀を越えて境の港まで行き、ここで義弘は冷静に大坂城の人質となっていた妻子を助け、船で薩摩に着いた時、義弘に従ったのはわずか 80人でした。

この義弘に対する兵士の忠義は何処から生まれたものでしょう。いくつかの逸話がそれを語っています。『身分の上下にかかわらず』秀吉が始めた朝鮮出兵は寒さが厳しく、日本軍では凍死者が続出したといわれます。しかし島津隊には一人の凍死者も出ませんでした。加藤清正は不思議に思い、義弘の陣を訪れます。兵営では身分の上下に関わらず一緒に暖を取って粥をすすっていました。義弘は兵士と寝食を共にして、夜は3回程陣中を巡って火が不足していないか気を配っていました。これを見た清正は深く感じ入ったといわれています。

『為高麗國在陣之間敵味方戦死軍兵皆令入佛道也』朝鮮出兵から帰還した義弘が紀州高野山に建立した供養碑の碑文で、朝鮮の戦いで死んでいった者は敵も味方も平等に供養するという内容です。この供養碑は後に日本が国際赤十字に加入を認められる決め手となりました。

【島津は領地を失わなかった】

「関ケ原」の後、九州は島津討伐の機運が最高潮に達しましたが、島津義弘が家康に謝罪の使者を送ったため、島津征伐は中止となりました。

以降、家康と島津氏の間で交渉が行われましたが、義弘は退却戦において傷を負わせた、井伊直政に仲介を依頼しました。
直政は、この仲介要請を快諾し、以降徳川方の仲介役として島津氏との交渉に当たりましたが、島津側の窓口は義弘ではなく、
兄の当主島津義久、及び養子である島津忠恒が受け持ちました。

家康は義弘上洛の上で謝罪することを再三迫ったが、義久・忠恒は、本領安堵の確約がない限りは上洛には応じられないとしてこれを拒否します。交渉は長期化しました。島津側は家康に対し、そもそも家康の要請で義弘が伏見城守備に就こうとしたが、鳥居元忠に拒絶されたために止む無く西軍に加担したのであり、積極的な加担ではないと主張しました。

その後二年にわたり交渉は続けられたが、のらりくらりと逃れる義久に、最終的に家康が折れる形で直筆の起請文を書き、1602年(慶長7年)3月に薩摩・大隅・日向諸県郡60万石余りの本領安堵が約束されました。本領安堵決定後、島津家は義久の名代として忠恒が12月に上洛し、謝罪と本領安堵の御礼を家康に伝え、島津氏も徳川氏の統制下に入りました。

結果から見れば、交渉の長期化を避けたい家康の心理を逆手に取った義久の巧みな外交手腕が、島津氏の本領安堵に結びついた、島津側の交渉の「粘り勝ち」と言えます。この家康の安易な妥協が250年後明治維新での徳川敗北への階段の一歩だったとは歴史とは皮肉なものですね。

【最後に一言】

今日は島津の良い所ばかりを書いてきました。ですが最後にこれだけは皆さんに知っておいていただかなくてはいけません。それは、『琉球侵攻(りゅうきゅうしんこう)』です。薩摩藩が1609年に行った、琉球王国(中山)版図に対する軍事行動を指します。対する中山王府は、一貫して和睦を求める方針をとり、全面的な抵抗を試みることは有りませんでした。

発端は1602年、仙台藩領内に琉球船が漂着しましたが、徳川家康の命令により、1603年に琉球に送還されました。以後、薩摩を介して家康への謝恩使の派遣が繰り返し要求されたが、中山王府は最後までこれに応じませんでした。1608年9月には、家康と徳川秀忠が軍船を出そうとしていると聞いた島津家久が、改めて使者を遣わして、尚寧王及び三司官に対し、家康に必ず来日して礼物を献じるするよう諭したが、琉球側は応じませんでした。

こうして遂に、琉球征伐の御朱印が、薩摩に下る事となりました。日本側の資料は幕府とその命を受けた島津氏による「琉球征伐」と位置づけています。1610年、尚寧は、薩摩藩主島津忠恒と共に江戸へ向かいました。途上の駿府で家康に、8月28日に江戸城にて秀忠に謁見しています。忠恒は、家康から琉球の支配権を承認されたほか、奄美群島を割譲させ直轄地としました。この事実は是非皆さんには覚えていてほしいです。

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