2017/06/25

「こいこい」恋しい青空 『教王護国寺の柳と蛙のお話』

皆さん梅雨ですね~!流石に雨の日は古墳も一休みしてカウチポテトを楽しみましょうか(笑)。
雨が気にならない方なら、この時期は紫陽花や苔の綺麗な寺院などに出かけると良いのでしょうが。

私、実は出不精なんです(どれだけ出かけとんねん!と怒られるかもしれませんが(;^_^A)。
今日はブログを書き続ける自分への自戒も込めてこちらのお話をご紹介します。
皆さんもこちらの絵はご存知ですよね(そう「こいこい・花札」の蛙に小野道風ですね)。


yanagi0[1]
(花札の柳に飛びつく蛙と小野道風です)

この絵柄の人物誰だか知っておられましたか?
小野道風さんといわれる公卿さんです。
その公卿さんと、蛙の関係は?そして「教王護国寺」てどこ?

其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログ「梅雨時」をお楽しみくださいね(人´ω`*).☆.。
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【教王護国寺てどこのお寺】



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(東寺なんです。弘法市の早朝の南大門!)
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(たぶん今日あたりこんな風景が見られているはずです。)
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(たまらない絶景!右に見えているのが問題の柳なのです。)


教王護国寺は京都の東寺の事です。
正式名として「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」「弥勒八幡山総持普賢院」の2つの名称があります。
宗教法人としての登録名は「教王護国寺」というのですね~!
奈良時代の各国にできた国分寺・国分尼寺の正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」と言います。
「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」、まさしく同じですね~平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えました(役割は国分寺と同じなんですよね)。

東寺の場所、意外と西に在ると思われませんか(JR京都駅よりも西です)?
東寺が在るのですから西寺も在ったはずですよね~?、そして真ん中に朱雀大道が在ったと考えると、御所の位置がずれているのがお判りでしょうか?平安遷都(延暦13年・794年)時の内裏は、現在の京都御所よりも1.7キロ西の千本通り沿いに在りました。
現在の京都御所は、もと里内裏(内裏が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏)の一つ、土御門東洞院殿なんです。

土御門東洞院殿は、南北朝時代(14世紀半ば)元弘元年(元徳3年・1331年)、後醍醐天皇が京都を脱出した後に鎌倉幕府が擁立した光厳天皇がこれを里内裏として使用したことから、北朝側の内裏の所在地として定着し、明徳3年(1392年)の南北朝の合一以後、ここが正式の皇居となりました。

もうわかりますよね~そう、この花札の柳が、東寺の中に残っているんです。

CIMG9330.jpg
(特別公開日の五重塔、歴史好きにはたまりません!)
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(中にも入れるのです~ウキッキ~!!!!)

【小野 道風さんはどんな人物?】

小野 道風(おのの みちかぜ/とうふう)は、平安時代の貴族で能書家(書道家)です。
参議であった小野篁の孫で、大宰大弐・小野葛絃の子です(知らないですよね~私も知りませんでした)。
藤原純友討伐に功を成した公卿の小野好古は実兄で(官位は正四位下・内蔵頭)、「三蹟」の一人です。

時代:平安時代前期~中期
生誕:寛平6年(894年)死没康保3年12月27日(967年2月9日)
官位:正四位下・内蔵頭
主君:醍醐天皇→朱雀天皇→村上天皇→冷泉天皇
氏族:小野氏
父:小野葛絃
兄弟:好古、
道風子:奉時、長範、奉忠、奉明、公時(一説には小野小町の従弟)

平安時代前期、10世紀に活動した能書家で、それまでの中国的な書風から脱皮して和様書道の基礎を築いた人物と評されています。
後に、藤原佐理と藤原行成と合わせ、「三蹟」と称されています。

『因みに三筆とは』
書道が上手な御三人ですが、三筆(さんぴつ)とは、日本の書道史上の能書のうちで最も優れた3人の並称で、平安時代初期の空海・嵯峨天皇・橘逸勢の3人を嚆矢(始まり)と言われます(三蹟と三筆を比べるのはやめときましょう)。

道風は中務省に属する少内記という役職にあり、宮中で用いる屏風に文字を書いたり、公文書の清書をしたりするのがその職務でした。
能書としての道風の名声は生存当時から高く、当時の宮廷や貴族の間では「王羲之の再生」ともてはやされました。
『源氏物語』では、道風の書を評して「今風で美しく目にまばゆく見える」(意訳)と言っています。
没後、その評価はますます高まり、『書道の神』として祀られるに至っています。

「小野道風神社」小野神社(滋賀県)祭神は小野道風(おののとうふう)(894-966)。
道風は小野篁(おののたかむら)の孫(甥という説もある)にあたる人物です。

一方で気性が激しく、「空海筆の額を批判した」などという不評も同時に伝わっており、晩年は健康を壊し、随分苦しんだといわれています。

【小野道風と蛙】

CIMG8717.jpg
(これがその伝柳です。宝蔵の周りを囲む堀の前に在ります。)
3107e0b2[1]
(歌舞伎の物語はかなり複雑になっています。千年経ったとは思えません(;^_^A)

道風が、自分の才能のなさに自己嫌悪に陥り、書道をやめようかと真剣に悩む程落ち込んでいた時のこと。
ある雨の日散歩に(東寺ですね)出かけていて、柳に蛙が飛びつこうと、何度も挑戦している姿を見て「蛙はバカだ、いくら飛んでもあれほどの高さの柳に飛びつけるわけない」と馬鹿にしていた時、偶然にも強い風が吹き、柳がしなり、見事に飛び移ることが出来ました。
これを見た道風は「馬鹿は自分の方だ、蛙は一生懸命努力をして偶然を自分の味方としたのに、自分はまだまだ努力が足りないではないか」と目が覚め、血を滲むほどの努力をするきっかけになったといわれています。

ただし、この逸話は史実かどうか不明で、広まったのは江戸時代中期の浄瑠璃『小野道風青柳硯』(おののとうふうあおやぎすずり:宝暦4年〈1754年〉初演)からと見られます。
その後、第二次世界大戦以前の日本の国定教科書にもこの逸話が載せられ、多くの人に広まる事に成りました。
戦後の道徳の教科書にも採用されています。

この逸話は多くの絵画の題材とされ、花札の札の一つである「柳に小野道風」の絵柄もこの逸話を題材としています。
また現在では東名高速道路上での春日井市のカントリーサインの絵柄にこの絵が採用されています。

【最後に】

今日は柳に蛙、東寺についてはいずれまたの機会にご紹介いたします。
皆さん、あの世界の?「任天堂」が花札の会社だった事をご存知でしょうか?
任天堂も、蛙と同じくいつも一生懸命に飛び続けて、蛙と同じように柳(テレビゲームか!)をつかんだんですね~!


実はわたくし蛙が大好きなんです~あの蛙と同じように跳び続けて、柳を必ずつかみますので皆さん応援してくださいね。
しかし「柳の下には泥鰌は二匹居ない」とも言いますけどね~(;^_^A


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(こちらの蛙に興味を持たれた方が居られましたら、応援クリックしていただきましたら、情報をお教え致しますΨ( ̄∇ ̄)Ψ。)

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2017/06/23

次の古墳は?まとめ二つご覧下さい 『纒向矢塚古墳』 『東田大塚古墳』だ~!

「一気に箸墓まで突っ走るか~?」と思いながらも、「少し柔らかい話題も入れた方が良いかな?」などとも考えつつ、やはり「古墳をご紹介する」(;^_^Aに落ち着きました。
林ばかりの写真だと、飽きられるかも知れません(笑)!

P5190087.jpg
(小学校の校舎から石棺が見える事間違いなしです。)

次回は御期待してください(^人^)それでは「古墳でGO!」

今回御紹介致しますのは(お分かりでしょうが)。
『纒向矢塚古墳』と『東田大塚古墳』です。


前回、前々回と同じく纒向古墳群の二つの古墳です。

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P5190083.jpg(矢塚古墳の方が近いですね(;^_^A)

【先ずは纒向矢塚古墳からどうぞ】

(纒向小学校検を索した方が早いですね!)
P5190088.jpg
(すこしだけ近づいて見ましたが、竹藪蝮注意~退散!失礼しました。登山靴持ってたのに暑くて半ズボンです。)

所在地:奈良県桜井市東田(ひがいだ)字矢塚
形状:纒向型前方後円墳(葺石・埴輪なし)
規模:全長約96m、後円部径約64m、前方部長32m、周濠幅約17-23m、周濠深さ約0.6m
築造年代:3世紀中頃以前
被葬者:不明
指定文化財:国指定(纒向古墳群)

『纒向矢塚古墳』の埋葬部は未調査ですが、墳頭部より板石が露出しているので竪穴式石室・箱式石棺だと考えられます(小学校の窓から見えてるんじゃないかな?)。
出土遺物は、埴輪、纒向3類の須恵器、瓦器です。

【東田大塚古墳に行きましょう】


P5190126.jpg(だいたい後円部正面に成ります。)
P5190120.jpg
(確かに大分削られているのがわかります。)

所在地:奈良県桜井市東田字大塚
形状:纒向型前方後円墳規模全長約120m、後円部径約68m、前方部長約50m、周濠幅約21m、周濠深さ1.3メートル
築造年代:3世紀後半
埋葬施設:周濠外堤部1基(ちょっと珍しくありませんか?陪塚の始まりかな?)
被葬者:不明
指定文化財:国指定(纒向古墳群)

現在はかなり削られている前方部が西南に長く延びていたようです。
試掘調査により前方部に盛土が残っていることが確認され、2007年4月12日、桜井市教育委員会は全長がこれまでの推測より14メートル長く110メートル以上である旨を発表しました。

周濠外堤部より東海系壺片で蓋をした西部瀬戸内系土器棺「甕棺」が埋納されていました。
名古屋の蓋をした広島産の甕に入った遺骨が古墳外の堀の外で見つかったと書けばわかりやすいですかね?
出土遺物、土師器(布留0式)、木製品等。

P5190123.jpg(私有地立ち入り禁止、上は花畑かな?取り会えず、注意書きは守りました。)

ちなみに「東田大塚古墳」私有地で立ち入り禁止、日本史の転換点の大地で大根作る農家のおばあちゃん、ある意味大物です(畑作られてるのがおばあちゃんだとか、私の勝手な妄想ですからね、笑)。
田んぼ道なので、車で行くのはやめた方が良いと思いました(軽自動車で精一杯です)。

地図で秘密の大発見~!前述の石塚古墳と勝山古墳、今回の矢塚古墳とを結ぶとほぼ正三角形の配置となります。
地図で確認してください、真ん中掘ったらお宝ザクザクと考えるのは、欲に目がくらむ素人考えですかね~?
でも、三角形の真ん中小学校の校庭ですね。

P5190130.jpg(斜め後ろから撮影、本当に穏やかな土地です。暑かったけど~!)

【またまた最後に私の妄想を膨らませます】

私は、子供の頃から古墳がが大好きで、掃除中に小学校の裏庭で前方後円墳のレプリカを作って遊んでました(掃除しろよ!)。
鬼ごっこもお寺の墓地で遊んでいたので、お墓が怖いという感覚はありません(笑)

色々な事が有りまして、歴史探訪を長い間してなかったのですが、米子に単身赴任したことが、私の歴史熱を再燃させる切っ掛けに成った訳ですが、出雲(旧出雲国)の地形はけして穏やかな土地とは言えません。
雲南市や奥出雲町を散策すると、ここなら八岐大蛇が本当にいても可笑しくないと思わせる、厳しく荒々しい自然に囲まれています。

そういえば、話180度変わりますが、映画『たたら侍』見たかったな~( ノД`)…
不祥事で打ちきりに成ってしまいました~f(^_^;、DVD出てくれるかな~?


オット、本論ですね、それに比べて「山辺の道(やまのべのみち)」は本当に穏やかです。
有史以前から、ここは古代の人々によって「道」として使用されていました。
山辺の道は、史実に記される我が国最古の道、遠く弥生時代から、すでに道として機能していた痕跡があります。
そして古墳時代には、街道として整備され、飛鳥時代になるとその名を文献に残しています。
「山辺の道」の途中途中に在る古墳群、それらはまるで弥生の甍とも思え、古墳の数々は目を見張るものが在りました。
史実もさることながら、実際歩いてみると、「ここは弥生から万葉の時代まで、確実に古代日本の最重要拠点だったに違いない」と確信できる、史実上の重要な遺跡の多さに驚かされます。

そして、今日もご紹介した、「纒向の地」はおおらかで優しく、初めてここに立った者なら、「ここに住んで生活を営もう」「神殿を建てて神も迎えよう」と考えたに違いないと思える場所です。
卑弥呼も、そう思ったはずなんです。

ここは、まだ大部分が解き明かされていない、弥生・古墳・飛鳥の古代日本ミステリースポットの中心地です。
是非お出かけください、そして妄想(想像)をフル回転させてみてお楽しみください。


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2017/06/21

古さでも有名ですが、「卑弥呼の父親かも?」『纒向勝山古墳』

前回の続きで、本日御紹介しますのは纒向墳群の古墳の一つ『纒向勝山古墳(まきむくかつやまこふん)』です。

奈良県桜井市の、纒向古墳群に属する古墳の一つです。
纏向石塚古墳と同じ様に、最も古いと言われる前方後円墳の一つです

P5190079.jpg
(纒向小学校の校舎から纒向勝山古墳が見えるのですから)

先日発見されて大きな話題に成っている『纒向遺跡』もすぐ近くに在りますし、纒向は日本最初の都所在地かも知れません。

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【纒向勝山古墳ってどんな古墳なの?】

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(一見すると古墳には見えませんが、下の地図や写真で見ると古墳だらけです。)



Makimuku_kohun.jpg
(国土交通省 国土画像情報を基に作成しましたが、映りは勘弁です)
P5190072.jpg
(形が少し?変わっていますね、うちわみたいです)


纒向勝山古墳(まきむくかつやまこふん)は、奈良県桜井市の纒向古墳群に属する古墳です。
2006年1月26日、纒向古墳群の一つとして国の史跡に指定されました。

【規模・年代等の編集】

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(少しずつ回り込んでみましょう。結構歩きますよ~!)

所属:纒向古墳群
所在地:奈良県桜井市東田字勝山
形状:纒向型前方後円墳
規模:全長約115m、後円部径約70m、前方部長約45m、周濠幅約25m(葺石・埴輪もなし)
築造年代:3世紀前期~後期
被葬者:不明
国指定指定文化財(纒向古墳群として)

【纏向勝山古墳出土遺物】

埋葬施設:未調査のため詳細不明(早く~調べて!)。
出土遺物:主として周濠部より出土しています。
木製の刀剣把手・団扇・槽等の祭祀具・U字形木製品(くびれ部の周濠から出土)・土師器(布留0式土器)

【纒向古墳群とは?】

前回も説明しましたが、初めての方々へ、纒向古墳群(まきむくこふんぐん)は、奈良県桜井市に所在する古墳時代前期初頭の古墳群です。

「オオヤマト古墳集団」は、奈良盆地の南東部に所在し、北から、萱生古墳群・柳本古墳群・纒向古墳群・磯城の古墳の4グループに分類され、本古墳群は、天理市から桜井市の「山辺の道」沿いに広がる柳本古墳群の南、かつての「水垣郷」に位置し、広大な纒向遺跡のなかに分布しています。

纒向古墳群の古墳は、3世紀の中頃から後半に築造されたと推定されます。
この定型化古墳の出現をもって「古墳時代」が始まったという時期区分が一般的に採用されています。
つまり、前方後円墳「発祥の地」というわけです。
こちらより古い前方後円墳は無いのですが、実は岡山の「楯築墳丘墓」が前方後円墳のモデルとも言われています(まだ行って無いんです~涙)。

箸墓古墳は『魏志』倭人伝のいう邪馬台国に都した倭の女王卑弥呼の墓ではないかという説を唱える研究者もいますが、宮内庁では「倭迹迹日百襲姫命大市墓」として管理しています。
地形的には、珠城山丘陵によって柳本古墳群とは分断されます。

盟主墳とされる「箸墓古墳(箸中山古墳)」は、定型化した最初の前方後円墳とみなされており、その他の纒向古墳群古墳の特徴は特別です。
ちなみに箸墓古墳以外の主な古墳は、纒向勝山古墳・矢塚古墳・石塚古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳です。
順番にご紹介しますね。

箸墓古墳をのぞく5基の前方後円形の墳墓は「纒向型前方後円墳」と呼ばれ、帆立貝のような形状をもっており、以下のような共通の特徴を有しています。

P5190082.jpg
(前方部まで回ってきました。箸墓では一周は出来ませんね。)

後円部に比べ前方部が著しく小さく低平でに成っています。
墳丘全長・後円部直径・前方部の長さの比は、正しく3:2:1を原則としています。
後円部は、扁球・倒卵か不正円形で正円形ではありません。
周濠を持つ古墳は、前方部が狭いようです。


いっぽう箸墓古墳は、後円部が5段築成によるものであり、前方部の前面幅は撥(ばち)状を呈し、規模も他の5基の約3倍に相当する278メートルであり、そこには隔絶性が明らかに存在し、しばしば「初期ヤマト王権最初の王墓」と評されます。

P5190133.jpg(「箸墓古墳」に眠るとされる「倭迹迹日百襲姫命=吉備津彦の妹」なのでしょうか?)

P5190083.jpg
(さて次回はどちらを訪ねましょうね~?って二者選択じゃん!)


【最後に私の妄想を膨らませてみましょう】

纏向石塚古墳出土遺物の周濠より弥生時代後期最終末期から古墳時代初頭の土器と共に、弧紋円盤(こもんえんばん、吉備系の祭祀用遺物)が出土していますね、この吉備の遺物にとても興味深いロマンを感じるのです。
当然、纏向石塚古墳だけでなく、纏向勝山古墳も吉備の人物が埋葬されている可能性があります。
被葬者は不明ですが卑弥呼の父親とも言われているのです。

邪馬台国論争はいつも「場所がどこだ?」に成りますよね~しかし「都はどこだ?」と考えてみてはどうでしょう。
日本の首都は東京ですか?因みに、遷都は天皇が行う行為で、明治天皇の即位は元服前の満14歳(今の中学校二年生)、「東京に遷都するぞ~d(^-^)」なんて事実が有るでしょうか?取り巻きの海千山千の大人発想ですよね。
つまり東京は首都ですが、実は都では無い事に成りますね、間違っていても私の妄想ですから(笑)

しかしながら天皇が居られる場所が都だと考えると、今上天皇が居られる東京は都ということに成ります。
同じ論理で高天原や邪馬台国も大王と一緒に移動したと考えてみてはどうでしょう。
古事記によると神武天皇東征過程は吉備に8年もの間滞在しています。

この長い滞在は何を意味するのでしょうか?私は、神武天皇が此処で大きな味方を二つ見つけたのだと考えました。
一つは吉備の巫女「卑弥呼」です(倭迹迹日百襲姫命の系図には代八代孝元天皇と共に吉備津彦命の名前が有ります。
もう一つは隣の国、出雲の「大国主」です。
隣の国なら交渉「国譲り」も出来ますよね~(-_-;)

この時代、三国大連合国家に歯向かって勝てる国が有ったでしょうか?
この後、神武天皇は大和へ入り、橿原の宮で即位、卑弥呼は箸墓古墳に眠り、大国主は大物主として三輪山に眠ったなんてサクセスストーリーはいかがですか?(笑)

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2017/06/19

日本最古の「前方後円墳」はこれだ~!纒向古墳群 『纒向石塚古墳』

そろそろ皆さんが?古墳も見たいな~と思って下さるのではないかと思い(笑)、今日御紹介しますのは、『纒向石塚古墳(まきむくいしづかこふん)』です。

奈良県桜井市にある、纒向古墳群に属する古墳です。
纏向遺跡内では最古の古墳の可能性があります。
つまり日本一古い前方後円墳かもしれませんね。

P5190056.jpg(何処に行こうか迷いますよね~全部行きますけどね。笑)

纒向遺跡が発見されたことも相まって、前方後円墳成立期の古墳として注目されているのです
纒向古墳群の纒向石塚古墳をご覧下さい。

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【纒向石塚古墳ってどんな古墳なの?】

P5190062.jpg(綺麗に若草が生えています。上まで登りたかったのですが、蝮注意です。)
P5190064.jpg
(墳丘に段築成が在りませんか?どうだろこんな初期からは無かったかな?)

(国土交通省 国土画像情報カラー空中写真をご覧下さい)。

所属:纒向古墳群
所在地:奈良県桜井市太田字石塚
形状:纒向型前方後円墳
規模:全長約96m(後円部径約64m、周濠幅約20m)
築造年代:3世紀初頭
被葬者:不明

2006年1月26日、纒向古墳群の一つとして国の史跡に指定されました。

P5190060.jpg(なるほどね~造り側もどうするか悩んだかもしれないね~!埋葬施設が確認されれば分るか?)
P5190068.jpg(周濠は今はありませんが昔は在ったんだ、小さく見えるけど96メートルデカい!)


【規模・年代等の編集】

纒向型前方後円墳丘墓で、規模は全長96メートル、後円部径64メートル、後円部の主丘部の東西59メートル、南北45メートル、前方部の長さ約32メートル、幅約34メートル(くびれ部の幅15-16メートル)。
周濠幅約20メートルです。
後円部は不整形円形で、前方部は三味線の撥状に開いているのが特長的です。
葺石および埴輪は用いられていません。
残念なことに、墳頂部は太平洋戦争末期に削平され、そこに高射砲か対空機銃の砲台の基礎部分の跡が検出されています。

その際、埋葬施設の検出や遺物の出土がなかったことから、後円部に埋葬施設が在るのではないのか、あるいは削平のおよばない深淵部に埋葬施設があるものと考えられています。

築造時期は古墳時代前期初頭と推定されています。
3世紀の初頭(庄内0式期、西側周濠の出土土器による)、前半(庄内1式期、盛土内出土土器による)、または中頃(庄内3式期、導水溝出土土器による)という3つの説があります(被葬者は不明です)。

【纏向石塚古墳出土遺物】

周濠より弥生時代後期最終末期から古墳時代初頭の土器が出土しています。
その他、弧紋円盤(こもんえんばん、吉備系の祭祀用遺物)、朱塗の鶏形木製品、木製鋤・鍬、横槌、水槽、建築部材などの木製品、土師器(纒向I式期)が出土しました。

【纒向古墳群とは?】

纒向古墳群(まきむくこふんぐん)は、奈良県桜井市に所在する古墳時代前期初頭の古墳群の事です。
オオヤマト古墳集団のなかの1つで、柳本古墳群の南に位置し、三輪山の西麓に広がります。
前方後円墳発祥の地とみられています。
こちらより古い前方後円墳といえば実は無いのですが、岡山の「楯築墳丘墓」が前方後円墳のモデルとも言われています(まだ行って無いんです~涙)。

盟主墳とされる「箸墓古墳(箸中山古墳)」は、定型化した最初の前方後円墳とみなされており、その他の纒向古墳群古墳の特徴は特別です。
ちなみに箸墓古墳以外の主な古墳は、纒向勝山古墳・矢塚古墳・石塚古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳です。
順番にご紹介しましょうかね~(笑)

箸墓古墳をのぞく5基の前方後円形の墳墓は「纒向型前方後円墳」と呼ばれ、帆立貝のような形状をもっており、以下のような共通の特徴を有しています。

後円部に比べ前方部が著しく小さく低平でに成っています。
墳丘全長・後円部直径・前方部の長さの比は、正しく3:2:1を原則としています。
後円部は、扁球・倒卵か不正円形で正円形ではありません。
周濠を持つ古墳は、前方部が狭いようです。


P5190070.jpg(青草の辺りに水面が有ったんですね~綺麗な古墳です。)

いっぽう箸墓古墳は、後円部が5段築成によるものであり、前方部の前面幅は撥(ばち)状を呈し、規模も他の5基の約3倍に相当する278メートルであり、そこには隔絶性が明らかに存在し、しばしば「初期ヤマト王権最初の王墓」と評されます。

P5190133.jpg(こちらは堂々とした完成形「箸墓古墳」さあ「倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼」かな?)


何がうらやましいって「纒向小学校」の生徒達、周りにこんなに素晴らしい古墳がいっぱいあるんですよ~(;^_^A。
私、小学校の卒業時の目標は「歴史学者に成りたい」でした~どこで道を間違えたのかな~?不思議です。

P5190085.jpg
(さて次回はどちらを訪ねましょうね~?)


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2017/06/17

こんなのを残しておかなきゃね~「国指定重要有形民族文化財」『下谷上農村歌舞伎舞台』

今日はちょっと地味な話題です。
しかながら、文化を継承するためには必要な場所だと思いご紹介させていただきます。

本日ご紹介するのは「下谷上農村歌舞伎舞台」です。
P6030153.jpg
(国指定重要有形民族文化財下谷上農村歌舞伎舞台です)

農村歌舞伎舞台(のうそんかぶきぶたい)は、日本において江戸時代より農民の娯楽として行われている農村歌舞伎や人形浄瑠璃を催すための舞台で兵庫県では特に数多く残されています。

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【農村歌舞伎舞台って何?】

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(江戸時代の舞台がこんなに綺麗に残されているのですね~)

農村歌舞伎舞台(のうそんかぶきぶたい)は、日本において江戸時代より農民の娯楽として行われている農村歌舞伎や人形浄瑠璃を催すための舞台なのです。

西日本、特に兵庫県において発達しました(なんでだろう?宿題ですね)。
農村舞台は全国に1000基以上残っていますが、およそ10%が兵庫県内に存在するって知っていましたか?
旧・山田町を含む北神戸には15の農村舞台があり、この地域で特に盛んであったと推測されていますね。
一般に歌舞伎舞台は神社境内に建てられることが多く、奉納芸能であり、主に農閑期に上演されました。
当初は田んぼなどに仮設の小屋をかけただけの素朴な形で上演されていたものが発達し、神社境内の長床などを舞台として上演されるようになりました。

【今回ご紹介する「下谷上農村歌舞伎舞台」】

以前千年家の時にも少しお話させていただきましたが、心の病気を患っていました時に、体力作りの為の水曜日の恒例ウォーキングの行き先がこちらでした。

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(説明版がいつも私の説明よりも分かりやすいです。字が大いのだけ私の勝ちですかね(;^_^A)
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(天彦根神社鳥居、毎週病気の完治を願って毎週お詣りいたしました。)
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(歌舞伎舞台は必ず神社併設なんですよね~)

天彦根神社境内の下谷上農村歌舞伎舞台(天保11年、1840年建立)は特に保存状態がよく当時の面影を伝えています。
江戸時代には農民による芝居の鑑賞や上演は原則禁止されていたが、実際には各地にこうした歌舞伎舞台が造られ農民らは歌舞伎を楽しんでいたのです。

下谷上農村歌舞伎舞台では、天保12年(1841年)から始まった水野忠邦による天保の改革の風俗粛清の影響で閉鎖された大坂の芝居小屋の浄瑠璃太夫や人形遣いらがこの地に流れ込み、特に水野忠邦の失脚後には盛況を極めました。

規模は間口12m、奥行8mと壮大です。
また舞台には、皿回し型の回り舞台が設置され、花道には一部が反転すると反り橋が現れる「裏返し機構」まで備わっていた様です。
これは全国的に見ても珍しく、ここ以外では見られない装置です。

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(横は舞台袖に成って、俳優の出入り場所にも使われます)
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(地下も補強されています。回り舞台やせり上がりが地下に在るのでは?の写真です)
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(緞帳も上に隠れてますね~!)
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(茅葺を保存するのが、大変ですね)

本来は神社境内の付属建造物である長床を舞台に利用したり、その他、太夫座、二重台、回り舞台、大迫(おおせり)、ぶどう棚など多彩な機能を有していたと考えられます。

【その他県指定重要有形民族文化財指定の舞伎舞台のご紹介】

『上谷上農村歌舞伎舞台』

天満神社(神戸市北区山田町上谷上)境内には文久3年(1863年)年建立の、割拝殿形式の歌舞伎舞台があり、床几回しという装置を備えていた。
また山田村周辺で催された人形浄瑠璃は山田文楽と呼ばれ、淡路島の三原地区と並び称されるほど有名であったが、その後芸能が継承されずに現在では上演不能となっていました。
平成29年1月に屋根の葺き替えが終わり、秋に農村歌舞伎が上演されます。

『北僧尾農村歌舞伎舞台』

淡河町北僧尾厳島神社境内の農村舞台(県指定の重要有形民俗文化財であり、現存する日本最古(1777年建立)の農村歌舞伎舞台)が平成26年秋に全面改修を終えました。
これを記念し広く県民市民へ周知するために、改修記念公演が開催されました。
この記念公演において淡河中学校生徒も地元中学校として出演し、伝統文化の継承と地域の活性化に寄与し、地域の一員としての自覚を育みました。

【最後に言わなければいけないこと、無形文化財の農村歌舞伎の伝承】

北区での農村歌舞伎上演会は平成12年度から始まり、平成26年度までは毎年4月中旬~下旬に開催してきました。
平成27年度からは、北区農村歌舞伎上演会実行委員会による主催となり、秋に農村歌舞伎舞台での上演が実施されています。上演する舞台として、山田町内の4箇所の舞台(下谷上、上谷上、藍那、小河)をローテーションで活用しています。
平成28年は山田町下谷上の舞台で行われました。
平成29年は上谷上の舞台で開催予定です。

舞台の保存は勿論ですが、演じる歌舞伎の伝承が無ければ意味がないのです(難しい事でしょう)。
しかし文化の伝承は日本人の最も得意とするところではないですか。
是非農村歌舞伎文化の伝承の応援をよろしくお願いいたします。

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(神戸市HPの講演の写真からお借りしました。歌舞伎の伝承をよろしくお願いいたします。「回り舞台人力でした、笑」)


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歴史って本当に面白いですよね~!

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