2017/03/21

平家物語の最後を飾るのは「灌頂巻 」そして舞台は『寂光院』

「祇園精舎の鐘の音」とは、無常院無常堂の鐘の事だそうです。
無常堂は祇園精舎で終末期を迎えた僧たちが、最後のひとときを過ごす場所、彼等が臨終を迎えると、建物の4隅に配されていたこの鐘が、ひとりでに鳴るのです。
信者の内なる世界にしみこみ、不安やおそれを取り除いて心の平安をもたらす癒やしの鐘の音は、「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」(すべての物がうつろうのは世の定め。この法則を超越すると、死もまた楽しみとなる)と聞こえるらしいです。
病僧は、その響きを聞いて死の苦悩から解放され、安らかに浄土に旅立ったといわれます。
そして、人々はそこの鐘の音を聞き、いかほど栄華を極めた人でも、最後は滅亡してしまうことを知るのです

飛ぶ鳥を落とす勢いの平家一族の滅亡、平家座頭(平家物語を語る琵琶法師)は当初から廻国の芸能者でありました。
中世には文化人の伝手や紹介状を頼りに、各地の有力な大名家に芸を披露して回りました。

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(季節外れですが、やはり幕を下ろすにふさわしいのは紅葉ではありませんか?)

琵琶法師が弾き語る歴史物語の『平家物語』、今回シリーズの平家物語の最後を飾るのはやはり、幕引き役平徳子(建礼門院)と後白河法皇ですね。
「盛者必衰の理」の総括を『寂光院』からお届けします

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【後白河法皇寂光院大原御幸((おおはらごこう))】
平家物語の最後は「灌頂巻」といって徳子の後日譚です。
平家滅亡時に壇ノ浦で入水しようとした徳子は助けられて京の大原で隠棲し出家します。
平家や安徳天皇の菩提を弔いますが、そこに後白河法皇が、大原に隠棲した建礼門院徳子(平清盛・時子の娘。安徳帝の母)を訪れる「大原御幸」で終わります。
そして二人は平家の栄華と滅亡を振り返るのです。

そして「平家物語」は徳子の極楽往生で物語が終わります。



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(有名な大原女も伝統漬物のひとつ「大原のしば漬」も寂光院が始まりだそうです。)
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(素敵な門構えです。)
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(雪見鉄灯篭は豊臣秀吉ゆかりの物だそうです。秀吉は平氏を名乗ったために征夷大将軍に成れなかったのだそうです。驚)


『平家物語』によると徳子は安徳天皇・時子の入水の後に自らも飛び込みますが、渡辺昵に救助されたといわれます。
しかし同じ『平家物語』の「大原御幸」の章や説話集『閑居友』では、時子(清盛の妻)が「一門の菩提を弔うために生き延びよ!」と徳子に命じたとしています。
いずれが正しいか不明ですが(後の演者の創作?)、生き残った徳子は平宗盛・平時忠らと京都に護送されます。
宗盛は斬首、時忠は配流となりますが、徳子は罪に問われることはなく洛東の吉田の地に隠棲します。
5月1日には出家して、直如覚を名乗ります。

7月9日、京都を大地震が襲い、多くの建物が倒壊してしまいます。
吉田坊も被害を受けたと思われ、9月になると徳子は「山里は物のさびしき事こそあれ 世の憂きよりは住みよかりけり」(『古今集』読人知らず)の心境で比叡山の北西の麓、大原寂光院に入ります(『平家物語』)。
大原を訪れた建礼門院右京大夫は、御庵のさま、御住まひ、ことがら、すべて目も当てられず (ご庵室やお住まいの様子など、すべてまともに見ていられないほどひどいものだった)。
都ぞ春の錦を裁ち重ねて候ふし人々、六十余人ありしかど、見忘るるさまに衰へはてたる墨染めの姿して、僅かに三四人ばかりぞ候はるる (都ではわが世の春を謳歌して美しい着物を着重ねて仕えていた女房が、60人余りもいたけれど、ここには見忘れるほどに衰えた尼姿で、僅かに3、4人だけがお仕えしている)と涙を流し、今や夢昔や夢とまよはれて いかに思へどうつつぞとなき (今が夢なのか、それとも昔が夢なのかと心は迷い、どう考えても現実とは思えません)
仰ぎ見し昔の雲の上の月 かかる深山の影ぞ悲しき (雲の上のような宮中で見た中宮様を、このような深山で見るのは悲しいことです)と歌を詠んでいます(『建礼門院右京大夫集』)。

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(ご本尊は聖徳太子ゆかりの六万体地蔵尊と称される地蔵菩薩です。)
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(建礼門院座像)
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(庭も美しいですね~写真一杯あるんですけど…ほどほどで、笑)
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(一昨年の紅葉はイマイチでした~残念!)

後白河法皇が大原「寂光院」の徳子を訪ねる「灌頂巻」は古典文学『平家物語』の終巻で、徳子の極楽往生をもって作品は終わりますが、この大原御幸の史実性については諸説ある様です。

文治2年(1186年)4月、後白河法皇が徳大寺実定、花山院兼雅、土御門通親や北面武士を伴にお忍びで大原の閑居を訪ねます。
徳子は落魄した身を恥じらいながらも、泣く泣く法皇と対面して、「太政大臣清盛の娘(人間)として生まれ、国母となり、わたしの栄耀栄華は天上界にも及ぶまいと思っていましたが、やがて木曾義仲に攻められて都落ちし京を懐かしみ悲しみました。海上を流浪し飢えと渇きに餓鬼道の苦しみを受けました。そして、壇ノ浦の戦いで二位尼は「極楽浄土とてめでたき所へ具しまいらせ侍らふぞ」と言うと先帝を抱いて海に沈み、その面影は忘れようとしても忘れられません。残った人々の叫びは地獄の罪人のようでした。捕えられ播磨国明石まで来たとき、わたしは夢で昔の内裏よりも立派な場所で先帝と一門の人々が礼儀を正して控えているのを見ました。『ここはどこでしょう』と尋ねると『竜宮城ですよ』と答えられました。『ここに苦しみはあるのでしょうか』と問いますと『竜畜経に書かれています』と答えられました。それで、わたしは経を読み、先帝の菩提を弔っているのです」とこれまでのことを物語した。
法皇は「あなたは目前に六道を見たのでしょう。珍しいことです」と答えて涙を流したと記載されます。
あの後白河院が落ちぶ れた、建礼門院を見て涙を流して同情し、「あなたは生きながらに六道を見た稀有の人だ」等と本当に言ったのでしょうかねぇ(大河ドラマのイメージ入り過ぎかも知れませんが、笑)?

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(それでも綺麗に映っていますかね。)
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(この池のほとりでお二人の「平家物語」の最後のワンシーンが実際に在ったんですよ~!)

【建礼門院没年】

『平家物語』(覚一本)では建久2年(1191年)2月に没したとされますが、この時期はまだ人々に平氏への関心が高く、徳子の死も何らかの記録に残ったと思いますので可能性は薄いかと思います。
そのため『皇代暦』『女院小伝』『女院記』などの記述から、建保元年(1213年)に生涯を閉じたとする説が一般的となっています。

【陵墓】

陵墓入口
陵は寂光院隣接地にある(宮内庁管轄の大原西陵)。

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(勿論宮内庁管轄)
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(「建礼門院」平徳子のお墓です。)

また安德天皇とともに各地の水天宮で祀られています(前回、須磨でも一箇所御紹介致しました。)。
また、京都府京都市東山区にある長楽寺にも墓があります。

最後に、天の邪鬼の私は、後白河院なら「お前の父清盛が武家の分際で皇室を蔑ろにし、言仁親王(安徳天皇)を強引に即位させた報いなのじゃ」と建礼門院を嘲笑いそうな気もするのですが(((^_^;)。

まあ、後白河天皇(77代)→高倉天皇(80代)→安徳天皇(81代)と実の孫な訳ですから、そこまでは無いかなとも思ってますが!

平氏は滅びますが、清盛が成し遂げた武力(武士)による政治力は此の後も、ずっと続く事に成ります(むしろ武士無くしては、政治が出来なくなります。)。
清盛の努力は決して無駄ではなかったと言うことですね。


安徳天皇は「平家の都落ち」に同行、都では、新天下人たる木曽義仲の要望をあしらって、「治天の君」である後白河法皇の「天皇なしというわけにはいかない」との主張と指図により、安徳帝の異母弟・尊成親王(たかなり)が、三種の神器なしで即位します。
わずか4歳で皇位を継いだこの子こそが、後鳥羽天皇なのです。
後鳥羽帝は「承久の乱」を引き起こして鎌倉幕府討幕を目指すのですが、北条政子の有名な演説「いざ鎌倉」の一言?で坂東武士団に完敗、身柄を隠岐に流され、平家も上皇も天皇もいなくなった都では、平安時代が名実ともに幕を閉じ、武士の世が始まりを告げます。

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2017/03/18

悲劇の幼帝『安徳天皇』須磨「一の谷」内裏跡伝説地を訪れて !

今回も涙が多くなりそうでタオルが必要と思うのですが、感傷的に成るよりも、冷静に考察したいと思うお話ですσ(^_^;)?

安徳天皇は2歳で即位しながら、壇ノ浦の戦いで祖母二位の尼(清盛の妻)に抱かれ、平家一門とともに関門海峡に沈んまれた8歳の幼帝です。

須磨の安徳帝内裏跡伝説地を訪れて来たのですが、はっきり言うと「場所分かりにくい~(^^;」でした(笑)

今回のテーマは、「卑怯者だった?義経」「三種の神器の行方」について少しお話させて下さい。

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(安徳天皇内裏跡伝説の地)

須磨の安徳天皇内裏跡伝説の地とは余り関係無いのですが(^人^)、勿論内裏跡も御紹介しますよ~(^^;。

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【安徳天皇内裏跡伝説の地】



P2220119.jpg(安徳宮と真理胡弁財天)
P2220120.jpg(安徳宮大鳥居)
P2220124.jpg(安徳宮)

安徳天皇は、高倉天皇を父親平清盛の娘「建礼門院徳子」を母として生まれた悲劇の幼帝です。
1180(治承4)年に2歳で即位しましたが、 1185(寿永4)年、壇ノ浦の戦いで平氏の敗北とともに祖母二位尼(清盛の妻)にいだかれて入水したと伝えられています。
この須磨一の谷の伝説地には、一時内裏がおかれたとのいい伝えがあり、 安徳天皇の冥福を祈って安徳宮がまつられています。

山と海に挟まれた須磨は、古くから白砂青松の景勝地として知られ、歌枕の地としても親しまれています。
かつて一ノ谷合戦で激しい戦いを繰り広げたこの地には、合戦にまつわる史跡や伝説が数多く残っています。

【一ノ谷と戦の濱】
「一ノ谷」は鉄拐山と高倉山との間から流れ出た渓流にそう地域で、須磨公園の東の境界にあたります。
1184年(寿永3年)2月7日の源平の戦いでは、平氏の陣があったといわれ、この谷を200mあまりさかのぼると、二つに分かれ、東の一ノ谷 本流に対して、西の谷を赤旗の谷と呼び、平家の赤旗で満ちていた谷だと伝えられています。

一ノ谷から西一帯の海岸は「戦の濱」といわれ、毎年2月7日の夜明けには松風と波音のなかに軍馬の嘶く声が聞こえたとも伝えられ、ここが源平の戦いのなかでも特筆される激戦の地であったことが偲ばれます(現地説明板より)。
 
「戦の濱」の碑がある辺から北(山側)に向かい、山陽電鉄の線路を越えて、つづら折れの急坂を上って行くと、高台の住宅街の一角に内裏跡公園があります(ハッキリ言って分かりずらい。)。

「福原鬢(びん)鏡」では、安徳天皇皇居跡としながらも、平家の諸軍勢がこもった場所で土手の跡が今も残っているとしています。

【安徳天皇を祀る安徳宮】

安徳帝は平家物語にあるように「海の下にも都があります、涙」との祖母二位の尼の言葉と共に千尋の底へ鎮まれました。
海の下の都とは龍宮であって、龍宮の主は龍神であり、安徳帝の御守護神であると伝えられております。
公園奥には安徳天皇の冥福を祈って「安徳宮」が祀られると共に「真理胡弁財天(龍神)」も祀られています。

P2220131.jpg(説明版)P2220133.jpg(海の下の龍神を祀っています。)

平氏の総大将宗盛(清盛の三男)は、一の谷合戦の三日前に清盛の三回忌を海上で営み、上陸する間もなく突然の源氏軍の来襲に、そのまま安徳天皇や建礼門院らと沖合の船で、戦いの情勢を見守っていたので、実際にここに内裏があったのかどうかはっきりしませんが、地元ではこの地に一時安徳天皇の内裏があったと伝えています。

後白河法皇は源氏に対して平氏追討の命令を発する一方、戦いの直前まで、平氏との間で三種の神器の返還をめぐる和平交渉を進めていました。
講和の相談のために静賢法印(平治の乱で殺害された信西の子)を2月8日に派遣、という内報が平氏側に伝わりましたが静賢法印が辞退してしまい、法皇は和平の提案をしておきながら、結果的に平氏を騙討ちにしたことになりました。
そのような交渉は休戦状態のもとでしか進められないはずであり、平氏側はこの内報を信じ、油断していたようですが、7日、突如源氏軍(義経)が来攻し、意表をつかれた形となりました(この点も平氏惨敗の一因とされています)。

【壇之浦での義経は卑怯者?】

ちょっと強引に壇ノ浦の戦い話題なのですが、関門海峡は潮の流れの変化が激しく、水軍の運用に長けた平氏軍はこれを熟知しており、早い潮の流れに乗ってさんざんに矢を射かけて、海戦に慣れない坂東武者の義経軍に対して優勢に戦いを進めました。
義経軍は満珠島・干珠島のあたりにまで追いやられ、勢いに乗った平氏軍は義経を討ち取ろうと攻めかかります。

ここで不利を悟った義経が敵船の水手、梶取(漕ぎ手)を射るよう命じます(この時代の海戦では非戦闘員の水手・梶取を射ることは戦の作法に反する行為だったのです、現在の戦いでも民間人に対する誤爆が問題になりますが、それを故意に行う事は、戦時国際法違反となります「非戦闘員への攻撃」。)。
義経があえて、その掟破りを行って戦況が変化させたとする話が、ドラマや小説等によく見られます。
しかし『平家物語』では義経が水手・梶取を射るよう命じる場面はなく、もはや大勢が決した段階で源氏の兵が平氏の船に乗り移り、水手や船頭を射殺し、斬り殺したと描かれています(義経は卑怯な戦法を取ったのか?取らなかったのか?)。
義経を弁護するなら、阿波重能の水軍300艘が寝返ったこと?潮の流れが変わった事が勝因として挙げられます。

【源氏の反攻と平氏滅亡】

『平家物語』には平氏一門の最後の様子「先帝身投」の場面が描かれています。
敗けを覚った、建礼門院や二位尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えます。
安徳天皇が「どこへ行くのか」と仰ぎ見れば、二位尼は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、安徳天皇とともに海に身を投じたとされます。
『吾妻鏡』によると二位尼が宝剣と神璽を持って入水、按察の局が安徳天皇を抱いて入水したとあり、続いて建礼門院ら平氏一門の女たちも次々と海に身を投げたと記載が有ります。

武将たちも覚悟を定め、平家の総帥宗盛(清盛の三男)以下教盛(清盛の弟四男)・経盛(清盛の弟三男)・資盛(平清盛の嫡男である平重盛の次男)・有盛(平重盛の四男)・行盛(平清盛の次男である平基盛の長男)・清宗(平宗盛の長男)・入水、皮肉な事に宗盛だけが、水練が達者なために泳ぎ回っていたところを義経軍に捕らえられてしまいました。

【義経の八艘飛びは逃亡するためだった?】
剛の者である平教経(平清盛の弟教盛の次男)は、鬼神の如く戦い坂東武者を多数討たました、知盛(清盛の四男)が既に勝敗は決したから罪作りなことはするなと伝えます。
教経は、ならば敵の大将の義経を道連れにせんと欲し、義経の船を見つけてこれに乗り移った。
教経は小長刀を持って組みかからんと挑むが、義経はゆらりと飛び上がると船から船へと飛び移り八艘彼方へ飛び去ってしまいます。
これが世にいう義経の「八艘飛び」です(詰まり、攻撃の為の八艘飛びではなくて、一目散に逃亡するため~(^^;)。
義経を取り逃がした教経に大力で知られる安芸太郎が討ち取って手柄にしようと同じく大力の者二人と組みかりますが、教経は一人を海に蹴り落とすと、二人を組み抱えたまま海に飛び込んで最後を遂げます。
『平家物語』に描かれた平氏随一の猛将として知られ屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで義経を苦しめた教経(義経のライバルといえますね)の最後ですが、『吾妻鏡』によれば教経はこれ以前の一ノ谷の戦いで討ち死にしているという記述がありますが、『醍醐雑事記』には壇ノ浦で没した人物の一人として教経の名が挙げられている。
知盛は「見るべき程の事は見つ(最後は見届けたの意味ですかね?)」とつぶやくと、鎧二領を着て乳兄弟の平家長と共に入水しました。

申の刻(16時ごろ『玉葉』)(『吾妻鏡』では午の刻(12時ごろ))平氏一門の多くが死ぬか捕らえられ、戦いは源氏の勝利に終わりました。

なお、この戦いで平氏一門は政治勢力としては滅亡しましたが、一般的なイメージとは異なり一門そのものは断絶することなくその後も続いています(私の実家但馬の海岸にも平家の落人村が有るようです。ここでいう「一門そのもの」とは意味合いが違うのですが…)。

【後白河法皇も最後までこだわった『三種の神器』の行栄】

「吾妻鏡」などでは、安徳天皇や二位の尼とともに「三種の神器」が海に沈みます
「八咫鏡」の記載は少なく、引き上げられたとも言われますが、八咫鏡は元来伊勢の神宮の皇大神宮に収められていて、壇ノ浦の「八咫鏡」「形代(レプリカという意味ではありません)」」ということに成りますか。
「八尺瓊勾玉」はハッキリと浮び上がった記載がありますし現在は、皇居の吹上御所の「剣璽の間」に安置されています。
「草薙剣(天叢雲剣、あまのむらくものつるぎ)」は海中に沈んでしまい、行方不明になったとあります。

朝廷に伝わっていたとされる壇ノ浦の「草薙剣」ですが、第十代崇神天皇が神器と一緒にいるのは畏れ多いと剣の「形代」を鋳造し、これを護身のため宮中に置いたといわれます。
『古語拾遺』にも、第十代崇神天皇の時、鏡と剣は宮中から出され、外で祭られることになったため、「形代」が作られたと記載されます。
第十一代垂仁天皇の時、伊勢神宮が創始されたおり、旧剣は伊勢に移され新剣のほうが宮中に留まったとみられています(この新しい剣が壇ノ浦で沈んだ「草薙剣」ではないかと推測します。
日本武尊(第十二代景行天皇の皇子)東征のおりに伊勢神宮から持ち出された「草薙剣(旧剣)」は熱田で宮簀姫(みやずひめ)に渡り、宮簀姫は熱田神宮を建ててこの草薙剣を祀ったとされています

つまり、現在では「草薙剣(旧剣)」は熱田神宮に、「八咫鏡」は伊勢の神宮の皇大神宮内宮にそれぞれ神体として奉斎され、「八尺瓊勾玉「と「草薙剣の形代」、「八咫鏡の形代」は宮中三殿吹上御所の「剣璽の間」に保存されています。
三神器[1]
(三種の神器のイメージ図)

しかし同皇居内に皇族らが住まいされていますが、天皇陛下でさえもその実見はでさえ未だになされていないという事です。

さて、今回の平家物語の最後を飾るのはやはり、幕引き役平徳子(建礼門院)ですね。
平家物語の最後は「勧請巻」といって徳子の後日譚です。
平家滅亡時に壇ノ浦で入水しようとした徳子は助けられて京の大原で隠棲し出家します。
平家や安徳天皇の菩提を弔いますが、そこで後白河法皇の訪問をうけ、平家の栄華と滅亡を振り返ります
そして徳子は極楽に往生して物語が終わります。

私も次回「盛者必衰の理」の総括を寂光院からお届け出来ればと考えています。

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2017/03/14

涙脆い人はハンケチをご用意下さいね!平敦盛『胴塚』

私のブログの特徴として、時代(時間)の移動が極端すぎる事をご理解ください(^人^)。
今回も12世紀の終わり、前回から7~800年程移動しました(笑)。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。 
中学で覚えて40年忘れた事は有りませんでした。
自慢に成りますけど(自慢するな~(*`Д´)ノ!!!)。
やはり琵琶の音とか欲しいな(((^_^;)

今日は「平家物語」の中でも、最も涙の量が多くなる「巻第九~敦盛最後」ゆかりの地から、「平敦盛の胴塚」を御紹介します(。´Д⊂) 
涙脆い人は注意してね!

神戸市須磨区の須磨公園駐車場の直ぐ隣に有ります。

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(須磨寺奉納額より「平敦盛を呼び止める熊谷直実」)

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『平家物語』の中でも最も有名な逸話であり、諸行無常の念を強くさせるのが、平敦盛の最期の場面です。

【平敦盛って誰?】
平 敦盛(たいら の あつもり)は、平清盛の弟、平経盛末子です(清盛の甥に成ります。)。
織田信長が『敦盛』を好んで舞ったと伝わることから、戦国史ファンにとっては馴染の有る名前ですね。  
平敦盛は若年ながら笛の名手と歌われます。
平氏軍が敗走する際、漢竹の横笛(青葉の笛・小枝)を忘れ取りに戻る
そんな「平家物語」のシーンが有名ですね。

【ストーリー】
平安時代末期、政治の実権を握り、栄華を極めていた、平氏一門。
しかし、それに反発する源氏の勢力も急速に拡大し、平清盛の死後、源氏の軍の圧倒的な兵力により、平氏は一度は都を追われてしまいますが、何とか軍勢を立て直し、神戸「一ノ谷(現在の須磨公園の辺りです)」に陣をかまえます。

寿永3年(1184年)の一ノ谷の合戦は、源義経の奇襲によって勝敗を決します

P2220065.jpg(須磨公園駐車場の直ぐ西側、敦盛胴塚です。)
P2220090.jpg(この角度を馬で駆け下りた義経もさるものですね~驚!)
P2220091.jpg(須磨海水浴場が見えていますが、平地部分が一の谷ですね。)
P2220106.jpg(標高253mの旗振山頂上です。ここから源氏の猛攻が始まったんですね。)
P2220108.jpg(駆け下る?ハッキリ言って歩いても簡単ではありません。私はロープウェーです。(;^_^A)

不意を突かれた平家軍は堪えきれず、逃げまどい総退却、 屋島(香川県高松市の東北部)に向かって海上を船で敗走し始めます。

先陣を切ったものの、戦功を挙げることが出来ずにいた源氏方の「熊谷直実」は、「平氏の軍が、助け船に乗ろうと、波打ちぎわの方へ逃げているにちがいない、 身分の高い大将と立ち合いたいものだ」と考えていました。
そこに、馬で沖の舟まで辿り着こうとする一騎の武者を見つけます。
身なりからいって平家の公達であることは間違いないと考えた熊谷直実が「待て敵に背中を見せて逃げるか?戻って立ち合え!」と声を掛けると、敵将の一人がその呼びかけに振り向き、「おう」と凛々しくも応じて陸に向かって引き返して一騎打ちとなります。

直実は歴戦の強者、またたく間に敵将を馬から引きずり下ろして組み伏せます。
そして首を切ろうと相手の顔を見ると、まだ幼さが残る薄化粧にお歯黒(当時の貴族は男性も既婚者は此のような化粧だったようです。)の若く美い若者でした。
直実には、ちょうど自分の息子「小次郎」と同じぐらいに見えました。

直実が名を尋ねると、若者は「名乗る必要は無い。首実検すればわかること」とにべもない返事、殺すに忍びないと、逃がそうかとも考える直実(なんと立派な大将だ!この者一人を討ち取っても、討ち取らなくても、 勝つ時は勝つ、負ける時は負けるのが戦というものであろう。この者の父は、この者が討たれたと聞けば、どんなにか嘆き悲しむ事だろう。 なんと哀れなことだ。なんとかして助けてやろう!)だったのですが。

しかしこの時、味方の騎馬50騎程が近づいており、ここで敵将を助けたならば、武士として恥ずべき裏切り行為を犯すことになります。
「あなたを何とか助けたいとは思うが、味方も数多く迫ってくるので、 もう逃がす事ができない。 あわれとは思うまい、他の誰かの手にかけるよりは、せめて私が首をとって、後に立派に供養いたします」と声をかけるものの、それを聞いても若武者は、 「さあ、さっさと首を取れ!」と相変わらず堂々とした、毅然とした態度は変わりません。

直実は、後世の供養を誓うと、涙ながらに若者の首を取ったのでした。

直実が後に知る事ですが、若武者は名を「平敦盛」といい、歳はまだ16歳。
そして遺体についていた腰の袋の中に、笛を見つけます。
甲冑を着ながらも所持していたその笛は、こんな戦場でも雅を忘れない、貴族の心を持っていた人物だという事の証拠でした。
敵陣から聞こえてきた笛を吹いていたのがこの若者であったのかと気づき、戦の世の無常を悟るのです(ToT)。

平家物語の中でも最も悲しく泣ける話と有名な、敦盛の最後のシーンです。

【平敦盛胴塚】
一ノ谷の古戦場のそば、国道2号線に面したところに大きな五輪塔があります。



これが平敦盛の胴塚とされる敦盛塚です。
高さ3.5mという大きな塔で、室町時代に供養塔として建てられたとされます
一方、敦盛の首は実検を終えると近くの須磨寺に葬られ、その境内に首塚が建てられています。
また、須磨寺には敦盛が身につけていた名笛「青葉の笛」が収蔵されています(首塚・青葉の笛は次回御紹介させて頂きます。)。
 
P2220074.jpg
(敦盛の胴塚お花に線香!美少年の人気は800年経っても変わりませんね。)
P2220067.jpg(五輪塔説明版)
P2220069.jpg
(凄い大きさです。全国2位、1位は石清水八幡宮に在るそうです。写真有ったかな?)


【うんちく~アツモリソウ】
アツモリソウ(敦盛草)の名前は、寿永3(1184)年2月、源氏の名将源義経は、平氏を真下に見下ろす、人間が降りることが困難な断崖絶壁である鵯越を馬で降りて、平氏の陣に火を放ちます。
この奇襲攻撃で平氏は大敗し沖の船に乗り込み逃げ落ちる事に成りました。
この戦いで討たれた平家の若き将、平敦盛の名に由来する花です。

DSC00314[1]
(Wikipediaよりアツモリソウ、綺麗ですね~丸いところが母衣に似ています。)

和名の由来は勿論!当時合戦で流れ矢を背後から受けた場合の防具として、大きく膨らませた袋(母衣、近頃のドラマや映画ではよく出て来るように成りましたね。)を鎧の上に背負っていたようで、その形がこの花の形に似ていることから付いた名称といわれています。

Kumagai_Naozane,Ichinotani[1]
(Wikipediaより、平敦盛を呼び止める熊谷直実。その背中に大きな赤い母衣を負う。永青文庫蔵「一の谷合戦図屏風」より。)

袋状の唇弁を持つ花の姿を、平敦盛の背負った母衣(ほろ)に見立ててつけられています。
また、この命名は熊谷直実の名を擬えた同属のクマガイソウと対をなしています。

W_kumagaisou4041[1]
(Wikipediaよりクマガイソウです。)

日本人の美意識に敬服しますね。
戦国武将の家紋も殆どが花ですが、そんな国が日本以外に有りますかね~(*^.^*)
本当に日本人で良かったと思える発想ですね(#^.^#)。


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2017/03/12

謀略の偽陵なのか?「五色塚古墳」に浪漫を求めて!

「五色塚古墳」「小壺古墳」最後はのロマンな?お話を御紹介したいと思います。

「五色塚古墳」に関して、『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条が関連記事として知られています。

そちらにによれば、新羅征討から戻った神功皇后が、征討前に崩御した仲哀天皇(第14代)の遺骸および誉田別尊(のちの第15代応神天皇)を伴って大和に戻る際、麛坂皇子と忍熊皇子(いずれも仲哀天皇皇子)が次の皇位が誉田別尊に決まることを恐れて皇后軍を迎撃しようとしたというのです。
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(神功皇后の五円紙幣、価値は60万円程だそうです。ちなみにこっそり教えますが、モデルは造幣局の職員だそうです。)

どうですか?興味が湧いてきませんか。

それでは、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいね。 
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【この物語の登場人物は以下の方々です。】

神功皇后
第14 第天皇仲哀天皇
第15 第応神天皇(誉田別尊)
麛坂皇子(仲哀天皇皇子ですが母親は別人)
忍熊皇子(仲哀天皇皇子ですが母親は別人)

【そもそも三韓征伐とはどんな事件なのでしょう?】

三韓征伐(さんかんせいばつ)は、仲哀天皇皇后、神功皇后が軍を起こして三韓に攻め入り新羅を屈服、任邦(みなま)に日本府をおき大陸経営にいそしみ、後に百済を拠点として、朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる戦争を指します。
神功皇后は、仲哀天皇の后で応神天皇の母です(遠征の途中に仲哀天皇を亡くし、応神天皇を身ごもりながら戦闘を行った(井伊直虎も真っ青な女傑です)。
経緯は『古事記』『日本書紀』に記載されていますが、朝鮮や中国の歴史書にも関連するかと思われる記事があります。
新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるためこの名で呼ばれますが、直接の戦闘が記されているのは対新羅戦だけなので新羅征伐とも言われます。
吉川弘文館の『国史大辞典』では、「新羅征討説話」という名称で項目となっています。
ただし三韓とは馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加羅)・辰韓(後の新羅)を示し高句麗を含まない朝鮮半島南部のみの征服とも考えられます。

動機としては、神功皇后は新羅人の族長の娘で自分を追い出した新羅への復讐だったとも言われていますが、定かではありません。
私の実家のある但馬一宮「出石神社」の天の日矛は新羅の王族の王子で、神功皇后の祖先といわれています。
戦後は日本の学者は神功皇后自体を架空の人物として否定的に捉える向きもあるようです。

三韓御征伐の神託を受けた神功皇后は、九州に軍をすすめますが、仲哀天皇の崩御という予期せぬ事態?が起こります。
そこで神功皇后は重臣、武内宿禰と協議の上、仲哀天皇の崩御を隠してして、妊娠の身にももかかわらず男の姿で、多くの軍船を率いて筑紫の松浦より、玄海の荒波を乗越へ、新羅に侵攻します。
朝鮮の史書『三國史記(新羅本紀)』では、第11代新羅王 助賁尼師今3年(西暦232)4月、初めて倭が新羅の都まで討入り「金城」包囲の記述があるようです。
倭国を見た新羅王は、驚いて一戦も交えずして軍門に降り、たとえ太陽が西より出て、河の水が逆さまに流れるようとも、倭国には逆らわない、また毎年貢物を献上すると誓って、80艘に金銀財宝を積み献上をしたので、皇后はこれを許し、毎年貢物を献上される事に成ったと記録されていますが、いかにも都合の良い話です。

むしろ目的は、新羅攻略では無くて、朝鮮と関係を強くして、後躯の憂いを取ってから、倭国の不穏な状況を一掃しようと考えたのではないかと、勝手に想像します。

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(管理事務所のフイルムが光って申し訳ありません。海上封鎖には丁度良い淡路島までの距離ですかね?)
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(大阪湾の立地も考えると迎え撃つのは此処が最適か?)
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(高台は砦としても使えますね、それでは埴輪の必要はあるかな?)
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(鉄道が無い古代すぐに海です。陸を進めば前に在るのはこの古墳ということに成りますが?)

五色塚古墳の築造に関しては、『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条が関連記事として知られる。
同条によれば、新羅征討から戻った神功皇后が、征討前に崩御した仲哀天皇(第14代)の遺骸および誉田別尊(のちの第15代応神天皇)を伴って大和に戻る際、麛坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)、(いずれも仲哀天皇皇子)が次の皇位が誉田別尊に決まることを恐れて皇后軍を迎撃しようとしたというのです。

麛坂皇子と忍熊皇子両皇子が仲哀天皇の陵の造営のためと偽り、播磨に陵(をまねた砦)を、淡路島まで船を渡しその石を運んで赤石(= 現明石)に陣地を構築しました。
明石海峡も封鎖しますが、その名目として、「淡路島の石を運ばせていると嘘をつくのです」( 『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条)。
この伝承について、明石の海沿いで「陵」と呼べる規模の古墳は五色塚古墳のみであることから、古くより五色塚古墳がこの「赤石の山陵」に比定されている。

上の伝承に関連する記事として、『播磨国風土記』賀古郡大国里条(印南郡大国里条)にも、息長帯日女命(神功皇后)が帯中日子命(仲哀天皇)の埋葬の際に讃岐国の羽若石(= 羽床石か)を求めたとする伝承があります。
なお、『播磨国風土記』では明石郡条が欠落していることもあり(残念!)、五色塚古墳自体に関する記述は在りません。

P2220049.jpg
(戦闘の基本は高地に陣すること、理にかなっています。)
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(淡路から運んだ石は偽装のためか?投石様か?)
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(凄い量だったですよね~(;^_^A)
P2220063.jpg(墓なのか偽陵墓なのか?謎は多いい方が楽しめます。)
【つまりはこういうお話】
仲哀天皇(第14代天皇)の死後、二人の皇子、麛坂皇子忍熊皇子が、神功皇后に政権を握られることを快く思わず、朝鮮遠征から帰国する皇后を迎え討つために軍船を明石海峡に浮かばせましたが、そのままではクーデターがバレてしまうので、仲哀天皇の墓をつくるための葺石を淡路島から運搬する船に見せかけるため、この墓?7を造ったという事です。
つまり、五色塚古墳は仲哀天皇の偽墓で、実は何も埋葬されていないということに成ります。
実に手の込んだ嘘ですよね。
ちなみに、神功皇后とは、実在性が濃厚な最古の天皇とも言われる応神天皇の生母で、この人が卑弥呼ではないかという説もある人物です(逆に神功皇后そのものが想像の人物との考えもあるようです)。

浪漫~ではないでしょうか?
結局、応神天皇が即位されたということから、このクーデターは失敗に終わって二人の皇子、麛坂皇子と忍熊皇子は無くなってしまったのですかね?


さて、三回にわたって「五色塚古墳」「小壺古墳」についてお話させていただきました。
「前方後円墳」「円墳」ですね。

先日すごい「方墳」の記事が新聞を賑わせました。

方墳の濠(ほり)とみられる巨大な石溝が見つかった奈良県明日香村の小山田(こやまだ)遺跡で、新たに石室への通路跡が見つかったと県立橿原(かしはら)考古学研究所が1日発表した。一辺約70メートルと推測され、飛鳥時代(7世紀)最大級の方墳と確定した。研究所は「出土した瓦片などから640年ごろの築造とみられる。当時の最高権力者の墓」と指摘。被葬者は舒明(じょめい)天皇か大臣(おおおみ)の蘇我(そがの)蝦夷(えみし)に絞られた。

 橿考研は2015年1月、県立明日香養護学校の校舎建て替えに伴い、長さ約48メートル、上部幅約7メートル、底面幅約3・9メートル、残存する深さ約1メートルの石溝を発見したと発表。墳丘の斜面に板石を階段状に積む特異な構造も注目された。石溝は方墳の北辺と考えられ、橿考研は昨年12月から溝の南約60メートルの地点を発掘していた。(新聞記事より)

時代は墳墓の形を方墳に(仏教寺院の影響か?)そして六角形、さらには八角形(現在の天皇陵墓は八角です)と時代と共に変化
していきます。


しかしながら、前夫後円墳という日本独特の墳墓も形の謎はいまだ解けておりません。
一部につぼ型と考えて、壺の中に現世と同じ生活ができる、来世が有ると考えられている学者もおられるようです。
「壺の中を覗いてみたいですね~」市郎右衛門でした。


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2017/03/10

五色塚古墳にひっそり寄り添う『小坪古墳』可愛いと思ったらデカかった!

『小壺古墳』を御紹介します。
『五色塚古墳』と一緒に御紹介する予定だったのですが、文章長くなり過ぎて、別々にしました(o^-')b !

ところで、兵庫県が古墳の数日本一ってご存知でしたか?

文化庁のウェブサイトの中に埋蔵文化財の数を調査した報告書があります。
その中から古墳・横穴だけを抽出、数の多い都道府県順に並べてみました。
『最新全国古墳の数、多い順ランキング!』
「平成24年度周知の埋蔵文化財包蔵地数(古墳・横穴)」(文化庁調べ、現存と消滅を合算した数です。)

総数:158905
1位:兵庫県:18841個
2位:鳥取県:13459個
3位:京都府:13089個
4位:千葉県:12750個
5位:岡山県:11726個

2位3位の鳥取県京都府を5000個引き離して、断トツのトップです(⌒‐⌒)v

兵庫県って但馬・播磨・淡路・摂津・丹波の五つの国が合併しているので、まず広いですからね~(^^;

それでは18841個の一つ「小壺古墳」を御紹介します。

P2220007.jpg
(小壺古墳、大きいですよね、写真のテクニックです。笑)

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【小壺古墳】

所在地兵庫県神戸市垂水区五色山4丁目

高さは8.5mです。
築造年代4世紀末~5世紀初頭。
国の史跡に指定「五色塚(千壺)古墳 小壺古墳」。

P2220008.jpg
(二段目が埋められて小さく見えるようです。)

「小壺古墳(こつぼこふん)」は、五色塚古墳の西にある古墳です。
形状は円墳。
五色塚古墳と合わせて国の史跡に指定されています。



P2220006.jpg
(柴の変わり目あたりから、二段目が有るようです。)

古墳名の「小壺」は、五色塚古墳の別称「千壺」との対比とされます(小さな壺が一つだけ出土では無いですよ!)。
墳丘は2段築成。
下段直径は70メートル、上段直径は43メートル、墳頂高さは約8.5メートルを測り、円墳としては茶すり山古墳(朝来市、直径86メートル、北近畿豊岡自動車道からよく見えますよ。)に次ぐ兵庫県第2位の規模になります(結構でかいんじゃない?)。
現地での感じでは、陪塚(中心となる大型の古墳に埋葬された首長の親族、臣下を埋葬するもののほか、大型の古墳の埋葬者のための副葬品を埋納するために建設されたものもあるようです。)かと思いました。

P2220002.jpg
(手前の五色塚古墳後円部と比べると「小壺古墳」はいかにも小さいと思いませんか?)

墳丘が周辺道路の下まで及ぶため、現在は元来の2段では復元されず、盛土をして1段に成形して保護されています(だからなんだね、下はまだ埋ってるんだ!)。
墳丘表面では各段に埴輪列(推計約320本)が検出されていますが、五色塚古墳と異なり葺石は葺かれていません。
また、墳丘周囲には周濠が巡らされており、周濠内では墳丘北側で通路状遺構(土橋)も認められています。

出土品としては、円筒埴輪・朝顔形埴輪のほか、形象埴輪(家形・靭形・蓋形埴輪など)があります。
この小壺古墳は、五色塚古墳と同時期の4世紀末~5世紀初頭頃の築造と推定されますが、五色塚古墳との築造年代の前後は明らかでは有りません。

P2220023.jpg
(これ面白いです。初めてみました。滑石製子持勾玉!!!、こんな勾玉は初めてです~。驚!)
P2220024.jpg
(こちらも面白いです。場所柄明石海峡近く、昔1600年前もタコツボ漁が行われていたんですね~驚きです。)

文献によれば、かつて五色塚古墳の周囲には、小壺古墳のほかにも遊女塚・小塚(小壺古墳の事?)・四ッ塚・七ッ塚・東側陪塚と称される古墳が存在したとされます。

参考までに、兵庫県の近隣府県の古墳の大きさを比べてみると、兵庫県は数こそ日本一位ですが、大きさで負けている事が分かります(勝ち負けの問題じゃあ無いけどねf(^_^;)。

兵庫県で一番大きい「五色塚古墳」194m、鳥取県で一番大きい湯梨浜町の「北山1号墳」全長は110m(数でも大きさでも勝った!勝ち負けちゃう言うとんねん(*`Д´)ノ!!!)、岡山県で一番大きい「造山古墳」全長約350~360mの全国第4位の巨大古墳(因みに岡山2位の作山古墳も282mの規模です。)です。
京都府で最大の古墳「網野銚子山古墳」198m(惜しいf(^_^;因みに、網野銚子山古墳は山陰一位です。)、最後は大阪府ですが、此は説明する必要が有るかなって感じです。
「大仙古墳(私達が子供の頃は仁徳天皇陵でした!)」墳丘長486m(面積は世界一かも?)。

P2220055.jpg
(五色塚古墳の上からですが、周りの家から比べるとほどほどの大きさです。)

古墳大きさベスト10を御紹介(何の意味があるん?只のうんちくです。)!順位・古墳名・墳丘規模全長(約m)・所在地の順です。

1位:仁徳天皇陵古墳(大山古墳)486大阪府堺市堺区大仙町
2位:応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)425大阪府羽曳野市誉田
3位:履中天皇陵古墳(石津ヶ丘古墳)365大阪府堺市西区石津ヶ丘
4位:造山古墳350岡山県岡山市新庄下
5位:河内大塚山古墳335大阪府羽曳野市南恵我之荘・松原市西大塚
6位:五条野丸山古墳310奈良県橿原市見瀬町・五条野町
7位:ニサンザイ古墳300以上大阪府堺市北区百舌鳥西之町
8位:渋谷向山古墳(景行陵)300奈良県天理市渋谷町
9位:仲姫命陵古墳(仲津山古墳)290大阪府藤井寺市沢田
10位:作山古墳286岡山県総社市三須

P2220038.jpg
(敷地が四角いので方墳のようですが、円墳です。周りの道路下にも二段目が眠っています。)

大阪府・奈良県・岡山県、なんとなく倭が海に近づいて交易を始める、その前線基地が吉備の国!
五色塚古墳・小壺古墳はその途中の関所な感じがしてきますね。
皆さんも是非、想像を逞しくして考古学を楽しんで下さいね(#^.^#)


事実究明には、気候学や海洋科学、地質学に天文科学等の他分野からの知識が必ず必要だと考えますのでね(o^-')b !

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