2017/08/01

この大きさになると古墳なのか山なのか分かります?「景行天皇天皇陵」

奈良の取材旅行の残りが少し?有りますので、お城の後は古墳廻りということで、崇神天皇の孫にあたります、景行天皇(第12代天皇)の陵墓を御紹介いたします。
とはいっても、題名にも付けましたように、300mを越える陵墓を近くから見ても山なのか、何なのか良く解りません(笑)、不遜な話ですが、灌漑様の池の向こう側が山に成ってる?位の感じですね。古墳拝所がなければ、いえカーナビと看板が無ければ本当に分からないのです。

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(大きすぎる場合小さな物からアピールする方が良いかもしれません。)

其では、景行天皇の陵墓、山邊道上陵(奈良県天理市)を御紹介致しますm(__)m景行天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県天理市渋谷町にある山邊道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ、山辺道上陵)に治定されています。公式形式は前方後円で考古学名は「渋谷向山古墳」(墳丘長300m国内第7位の大きさ)。

『古事記』には「御陵は山邊の道上にあり」とあります。

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【景行天皇ってどんな天皇?】

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(景行天皇の画像が無かったのでWikiよりお借りしています。)
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(拝所、玉砂利踏むと背筋が伸びますね~!)
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(宮内庁の看板は出来ればもう少し説明が欲しいですね。)
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(空撮写真も同じくWikiからお借りしました。少し時代が古いみたいですね。左の水口神社も前方後円墳に見えますが、陪塚?)

景行天皇(けいこうてんのう、垂仁天皇17年~景行天皇60年11月7日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第12代天皇です(在位:景行天皇元年7月11日~同60年11月7日)。記紀によれば第11代垂仁天皇と丹波道主王の娘日葉酢媛(ひばすひめのみこと)の子、垂仁天皇の第三皇子、日本武尊(やまとたけるのみこと)の父として有名です。『日本書紀』には自ら九州に遠征して熊襲・土蜘蛛を征伐し、東国には日本武尊を遣わして蝦夷を征討させたと伝わっています。和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)・大帯日子淤斯呂和氣天皇(古事記)と記載され。「常陸風土記」には大足日足天皇と「播磨風土記」には大帯日子天皇、大帯日古天皇、大帯比古天皇と多くの名前が有りますね~(記紀も風土記も発音を漢字に当てはめるのに苦労した様子がうかがえます)。
皇后は播磨稲日大郎姫、その死後は八坂入姫。子に第13代成務天皇、日本武尊がいます。都は纏向日代宮(桜井市穴師付近)。自ら日向(九州南部)の熊襲を討ち、日本武尊をして熊襲、出雲、東国を征討させたといわれています。子は80人におよび、その多くは地方に分封したと伝えられます。また九州関係の『風土記』には多様な巡行、活動が描かれる。伝承上の事績は事実としては疑わしいですが、地方伝承への強い浸透を念頭におくと、実在の人物としの可能性が有ります。

【物語、景行天皇熊襲を征伐する】

第12代景行天皇は、日本書紀によると、6年間にわたって、日向(ひむか)に滞在したと記され、熊襲征伐の伝承が伝えられています。ある年、九州南部の熊襲一族が朝廷に反抗し、みつぎ物を差し出しませんでした。景行天皇は熊襲を討つことを決め、みずから軍を率いて、九州へ向かいます。そして、豊後の国(今の大分県)を通って、日向の国に入ると、「高屋宮(たかやのみや)」という仮の住まいを建てました。ある日、天皇は熊襲討伐作戦を考えます。

「聞くところによると、熊襲には熊襲梟帥(くまそたける)という強者がいるらしい。何かうまく攻略する方法はないものか」景行天皇の臣の一人が、「熊襲梟帥には姿は美しく、心は雄雄しい2人の娘がいるので、その娘たちを傍に召し、利用すれば、自らの手を汚さずに、熊襲を滅ぼすことが出来るでしょう。」と天皇に奏上しました。それはいい考えということで、2人の娘は財宝を与えられ、天皇の下に召しだされます。そして景行天皇は、その姉のイチフカヤを寵愛しました(その愛は勿論偽りだったのですが)。懐柔されたイチフカヤは策を話します。「私に良い考えがあります」イチフカヤは家に帰ると強いお酒をたくさん用意して父親の熊襲梟帥にそれを飲ませると、熊襲梟帥は酔ってぐっすり寝てしまい、その間に天皇の兵によって殺されてしまいました。熊襲梟帥を失った熊襲一族は勢力を失い、その半年後には天皇によってほろぼされてしまいました。

襲国を平定し、高屋宮に滞在する事6年、景行天皇は御刀媛(ミハカシヒメ)という美しい女性を妻に迎え、豊国別皇子(トヨクニワケノミコ)という名の男の子をもうけました。豊国別皇子は日向を支配した「日向国造(ヒムカノクニノミヤツコ)」の先祖といわれています。

また、あるとき、天皇は児湯(こゆ)地方に出かけ、そのとき、東の方を見て、こう言いました。「この国はまっすぐに日の出る方に向かっている」それでこの地方を名付けて「日向(ひむか)」というようになったそうです。皆さんおかしい?と思いませんでしたか?初代天皇の神武天皇が東征に出発したのが日向ですよね~12代景行天皇が日向に名前を付けたのなら~?神武天皇の出発点は現在の日向ではないことに成りませんか(あら~やっちまったよ!大足彦忍代別天皇)?

色々な出来事が有りましたが、気がつけば景行天皇が日向にきてから、はや六年の月日が過ぎていました。天皇はいよいよ都に帰ることになり、出発した翌年に無事に都に着いたということです。

【景行天皇九州巡幸記】

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(景行天皇九州巡行記録)

景行12年熊襲が背いたので、これを征伐すべく、8月に天皇自ら西下。周防国の娑麼(さば、山口県防府市)で神夏磯媛から賊の情報を得て誅殺します。筑紫(九州)に入り、豊前国京都郡(福岡県行橋市)に行宮(かりみや)を設けます。豊後国の碩田(おおきた、大分県大分市)で土蜘蛛を誅して、11月ようやく日向国に入ることが出来ます。熊襲梟帥(くまそたける)をその娘に殺させ、翌年夏に熊襲平定を遂げた。日向高屋宮(宮崎県西都市か)に留まること6年。18年3月に都へ向け出立し、熊県(熊本県球磨郡)や葦北(同葦北郡)・高来県(長崎県諫早市)・阿蘇国(熊本県阿蘇郡)・的邑(いくはのむら、福岡県浮羽郡)を巡り、19年9月に還御しました。なお、この天皇親征について、古事記には一切記されていません。

「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇が持ち、時代が下って7世紀前半に在位したことが確実な34代舒明・35代皇極(37代斉明)の両天皇も同じ称号をもつことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであるとして、12,13,14代の称号は後世の造作と考える説があり、景行天皇の実在性には疑問が持たれています。記紀の記事は多くが日本武尊(やまとたける)の物語で占められ、残るのは帝紀部分のみになり史実性には疑いが持たれるものの、実在と仮定すれば、その年代は4世紀前半だと考えられています。

【垂仁天皇の業績と羨ましいくらいの子だくさん!】

『古事記』によれば記録に残っている御子が21人、記録に残ら無い御子が59人、合計80人もの御子がいたことになっています。

垂仁天皇37年1月1日に立太子。景行天皇元年7月に即位、翌2年3月3日に播磨稲日大郎姫を皇后に立てます。
景行4年、美濃国に行幸し、泳宮(くくりのみや、岐阜県可児市)に滞在します。八坂入媛命を妃とします。
景行51年8月4日、八坂入媛命との間の皇子・稚足彦尊(後の成務天皇)を皇太子に立てます。
景行52年5月4日に播磨稲日大郎姫が崩御されたので、同年7月7日に八坂入媛命を新たな皇后としました。
景行25年7月、武内宿禰を遣わして、北陸・東方諸国を視察させます。

【日本武尊の活躍に涙しない者はいない!】

景行27年8月、熊襲が再び叛旗を翻す。10月に日本武尊を遣わして、熊襲を征討させます。首長の川上梟帥を謀殺し、翌年に復命します。
景行40年10月、日本武尊に蝦夷征討を命じます。尊は途中、伊勢神宮で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)より草薙剣を授かっっています。陸奥国に入り、戦わずして蝦夷を平定します(常陸は蝦夷)。日高見国から新治(茨城県真壁郡)・甲斐国酒折宮・信濃国を経て尾張国に戻り、宮簀媛(みやずひめ)と結婚します。その後近江国に出向来ますが、胆吹山の荒神に祟られて身体不調に陥ります。そのまま伊勢国に入りますが、能褒野(のぼの、三重県亀山市)で病篤くなり崩御しました(景行43年)。白鳥陵に葬られました。なお、『古事記』によれば、死の直前に大和を懐かしんで「思国歌(くにしのびうた)」を詠んだとされ、この歌は、太平洋戦争中に東アジア地域へ派遣された兵士の間で大変流行ったといわれます。
『倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし(『日本書紀』歌謡三一)』
景行53年、息子の日本武尊を追慕し、東国巡幸に出る。東国から戻って伊勢に滞在し、翌年9月に纒向宮に帰ります。
景行58年、近江国に行幸、高穴穂宮に滞在すること3年、60年11月に崩御143歳でした。『古事記』では137歳でした(あと90年は生きられるな)。

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(実は前の玉砂利を踏めないので環濠も見られないのです。不遜で失礼ですが、森です。)

【宮はどこだ編】

宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では纒向日代宮(まきむくのひしろのみや)といわれます。伝承地は現在の奈良県桜井市穴師です。
また晩年の景行天皇58年には、近江国に行幸して、志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや、現在の滋賀県大津市穴太か)に滞在したと考えられます。



現実と虚像が入り混じるこの時代、真実は何処に在るのか?140歳の天皇が居たとはとても思えませんが、だからといって景行天皇の業績や、日本武尊の活躍が全くの夢物語とも思えません。さて皆さんはどう思われますか?


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リュミエールブラン ネージュ

2017/07/17

三ツ矢マークはやはり『毛利元就?』「サイダー発祥の地」

子供の頃はサイダー等と言う上等なものは飲んでいませんでした。
ニッキ水という串団子瓶?に入った真っ赤(緑・黄も有りました)な原色のジュースを飲んでいました。
コーラが売れ始めた頃は、麻薬のコカインが入っていて、中毒に成って歯が溶けると本気で思ってました(笑)。


ラムネのビー玉?が詰まって上手に飲めなかった記憶が甦ります。

さて今日はサイダーの歴史を紐解いてみましょう。

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(2001年に復元された「三ツ矢塔」)

能勢電鉄の線路と並行に伸びる国道173号線、平野駅(兵庫県川西市)の改札を出で陸橋の先に「三ツ矢サイダー発祥の地」「平野湯跡」と書いた看板があります。国道沿いに北へ進むと、ホームセンターコーナンの向こう側に見覚えのある「三ツ矢マーク」の建物?が見えます。2001年に復元された「三ツ矢塔」だそうです。

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【三ツ矢サイダーの歴史】




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(誰もが知ってる三ツ矢のマークです)
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(此処が三ツ矢サイダー発祥の地です。)
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(階段とかも在るのですが、私有地なので頑丈なケージで囲われています。)
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(つまり中には入れません。)

この地には、平安時代の中頃、源満仲がわき出る鉱泉を見つけたと伝わっています。鉱泉は薬用や浴用として利用され、約130年の歴史をもつ、三ツ矢サイダーなのです。

明治14年(1881年)、ウィリアム・ガウランドというイギリス化学者が、平野鉱泉を飲み物として「理想的な鉱泉」として飲料用に適しているとお墨付きを与えたことで、炭酸水の製造をはじめ、明治17(1884)年に「平野水」として発売されたのがはじまりです。3年後に飲料水工場ができ、天然鉱泉を瓶詰めした「平野水」が誕生、これが「三ツ矢サイダー」の始まりとなったのです。

明治30(1897)年には、宮内省から東宮殿下(後の大正天皇)の御料品に指定され、明治40(1907)年には、サイダーフレーバーエッセンスを使用した「三ツ矢」印の「平野シャンペンサイダー」を発売。その後1952年に、商品名は「全糖 三ツ矢シャンペンサイダー」となり、1968年には、シャンペンという名前をけずり、正式名称が「三ツ矢サイダー」になります。
いまでこそ、無色透明の「三ツ矢サイダー」ですが、最初のころは、黄色っぽい色でした。

また、「三ツ矢印の平野シャンペンサイダー」の頃から、三ツ矢サイダーは紙のラベル(当時のラベルは文字が右から左)を貼ったビンに入れて販売されていましたが、1971年には、はじめて缶入りの「三ツ矢サイダー シルバー」缶250mlを発売、1972年からはビンに直接ラベルをプリントするようになり、1985年には1.5リットル入りのペットボトルを発売しました。

容量も、最初は家族が1本のビンからつぎわけて飲むように現在よりも大きなビンで発売されていたのが、暮らしが豊かになってきた1970年には、1人で1 本を飲むように200ml入りの「三ツ矢サイダーシルバー」を発売、ラベルや形状をみていくだけでも、「三ツ矢サイダー」の長い歴史を感じることができます。

【日本に炭酸飲料が入ってきたのは何時?】

日本にはじめて炭酸飲料が入ってきたのは江戸時代の末の1853年。ペリーの黒船に飲料として、炭酸レモネードが積まれてきたのが日本の炭酸飲料第一号といわれています。1860年には長崎にイギリスの船がラムネを持ち込み、長崎に住むイタリア人が商品として製造、外国人用に販売したという記録が残されています。ラムネという名称も、もともとはレモネードが転じたもので、「三ツ矢サイダー」のルーツでもある「三ツ矢平野水」が発売されたのは、ペリー来航から約30年ほど後の1884年のことでした。

【ラムネとサイダーとソーダの違いって何?】

ラムネは、レモン水を意味する英語「レモネード(lemonade)」がなまったもので、炭酸水にレモンやライムの香料、砂糖などを加えた清涼飲料水のこです。
ビー玉入りの瓶もラムネの重要な特徴です。二つの凹みが瓶についていて、其処でビー玉を止めると上手に飲めるのは御存じですよね(笑)。

サイダーは、リンゴ酒を意味するフランス語「シードル(cidre)」からであるが、日本では炭酸水にクエン酸や香料、砂糖などを加えた清涼飲料水のことです(つまりリンゴ風味)。
容器が王冠栓の瓶なのもラムネとの区別の一つですね。

ソーダ(ソーダ水)は、炭酸ガスを含む水のことで、炭酸水全般を意味し、ラムネもサイダーもソーダ水の一種になります。

ラムネはレモン風味、サイダーはリンゴ風味で、元々は味に違いがありましたが、サイダーにレモン系の香料が使われるようになったため、両者の味に差がなくなっています。
現在では、グレープフルーツ・らいでんメロン・ぶどう・もも・ヨーグル・はっさく・レモンC・トキりんご・グレープ・オレンジ・佐藤錦(さくらんぼ)・梅 ・いちご・桃・マンゴー・梨・パイナップル・ピンクグレープフルーツ・柚子・青りんご等切りがないのでこの辺で、勿論販売が中止に成ったものや、地位期限等で求められない物も有りますよ。

容器の件!以前は、ラムネはサイダーとソーダガラス瓶をビー玉で栓をするタイプのもので、サイダーは胴長丸形瓶に王冠で栓をするビールと同じタイプのものだっため、瓶の形や栓によって区別されていました。

しかし、現在では容器が多様化し、缶やペットボトルなども使われるようになったため、ビー玉の入ったものを「ラムネ」、ビー玉の入っていないものを「サイダー」と呼んで区別していますね。

p1236548.jpg(懐かしいですね~瓶に三ツ矢のマーク!お洒落です。)


【戦艦大和にラムネの自動販売機?】

旧日本軍の食事量は、1日に米麦840g、野菜600g、肉150gといった「食事」とは別に、嗜好品の配布が行われていました。
有名なところでは、タバコ5本の支給がありましたが、それ以外に何といっても「甘いもの」は大人気でした。
中でも、ラムネは大人気の品でしたので、軍艦に限らず、南方に出陣する部隊は必ずと言っていいほど「ラムネ製造機」を持参しています。

ラムネの需要が高かったのは、潮風にあたったり、しぶきが口に入るような環境だと、兵士たちがのどの渇きを訴える場合が多く、特に甘い飲み物を求める傾向が高かったためで、特に当時の日本人は香辛料とかにも不慣れでしたから、ともかくシンプルな甘みのものが評判も良かったようです。
パンに塗るものでも、「バター」「マーガリン」「レモンクリーム」とかより「ネギ味噌」のほうが人気だったりする、当時の日本人の嗜好が有ったようです。

陸軍用の装備でも、製造能力の違う何種類かの装備がありました。
師団レベルでの補給部隊だと、これに製氷装置、冷蔵庫などと運用して、冷えたラムネを供給したようですから、当然大和でもそうようにラムネが飲めたようです。

これら装備の存在は、後に反撃に移ったアメリカ軍が製氷装備を接収、アイスクリーム製作したことでも有名になりました。

うんちく語りますと、「カルピス」も、海軍が増加食、熱量食として採用しています。こちらは発病兵や負傷兵の栄養源として利用されたようです。

【三ツ矢マークの由来は毛利元就?】

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(JR川西池田駅の源満仲ブロンズ像、凛々しいです。)
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(最後にもう一度「三ツ矢塔」をどうぞ!コーナンの裏手すぐです。)

「三ツ矢」という名前の由来は、平安時代にまでさかのぼることができます。

清和源氏の祖、源満仲が城を築くため、現在の大阪にある住吉大社に祈念したところ、『矢の落ちたところを居城にせよ』と白羽の鏑矢(かぶらや)を与えられました。
お告げどおり、満仲が鏑矢を天に向けて放つと、矢は火を吹いて飛び、見えなくなりました。射った鏑矢は、現在の兵庫県にある多田沼に棲みついて住民を苦しめていた「九頭の龍(くずのりゅう)」に見事命中します。

そこで源満仲は、多田沼に居城を定めて多田源氏と名のりました。満仲の放った矢を見つけた孫八郎には領地ともに三ツ矢の姓と三本の矢羽根の紋を与えました。
そんな満仲がある日、鷹狩りに出かけたとき、居城に近い塩川の谷間の湧き水で一羽の鷹が足の傷を治して飛び立つのを目の当たりにし、湧き水が霊泉(れいせん)であることを知ります。
それが、多田村平野(現在の兵庫県川西市)の天然鉱泉です。以来、明治初年頃まで、霊泉を沸かした平野温泉郷は永く繁栄してきました。明治時代に平野温泉の水は「平野水」という鉱泉水として認知され、その後、伝承にちなんだ名称をとりいれた「三ツ矢平野水」「三ツ矢タンサン」として市販されるようになりました。これが、後の三ツ矢という商標になりました。

最後に成りましたが、三ツ矢サイダー?毛利元就と全く関係なかったですね(#^.^#)

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リュミエールブラン ネージュ


2017/07/15

特派員報告第二弾「 廃墟ファン必見・世界文化遺産」『軍艦島』へ上陸②!

廃墟マニアなる人々が居るらしい!

ぎっくり腰を再発して、ブログUP出来なかったうつけ者も居たらしい(お前やがな!)。

私にはよく理解出来ませんが、廃墟に衰退の美を感じられておられるのでしょうか?人の手が加わった建物の荒廃に盛者必衰の思いをいだかれるのでしょうか?桜が満開に咲いて、そして儚く散っていく様を見て美しいと感じる心と似ているようにも思えます。
私が生活する神戸市の摩耶山にはその山中の鬱蒼とした森を漂流する一艘の軍艦があるそうです。それは昭和4年、摩耶山にケーブルが開通した際にその客の誘致施設の一つとして建設された鉄筋L字5階建てのホテルの事で、神戸の街から遠目で見るとまるで軍艦のように見える事から「山の軍艦ホテル」という名で呼ばれていました。此が今!廃墟マニアの聖地と言われているようです(世界遺産には成りませんけど)。

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(北側の社員住宅群、こちらは船でしか見る事が出来ません。)

此方はもう世界遺産!「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の『軍艦島』上陸記です。

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(三ツ瀬側から見た軍艦島です。)



今日は第二次世界対戦が修理した後の日本の復興を裏から支えた『軍艦島』についてお話しましょうね(#^.^#)。

【第四期・復興・近代化期(1945~1964年)】

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(右下に見えるのが第一次埋め立て石積ならば、こちらは世界遺産に成ります。)
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(この辺は緑も多いですね~上の建物は職員クラブハウス?パンフレットによって地図が曖昧です。)
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(第二見学広場から撮影の「総合事務所跡」です。煉瓦が綺麗ですね~オット私は廃墟マニアではないですよ、笑)


終戦直後、朝鮮人・中国人の帰国や労働者の島外離脱のために一時的に人口が激減しますが、戦後の復興資金の供給や復員者の帰還によって1948年以降には逆に人口が急激に増加します。1946年には労働組合が結成され、組合闘争の結果として賃金が上がり、ますます転入者が増えることになります。同時に住宅不足は深刻化することになりました。労働法の整備などによって、労働者の労働時間が制限されたため、人口が増加したにもかかわらず、石炭の生産量は戦時中を超えるには至りませんでした。

賃金の上昇と同時に炭坑の稼働率は下がり、余暇が増えます。遊び場にブランコ(それだけか?で感じですが、笑)も設置され、住みやすくなっていきます。特に1957年の海底水道開通で、いつでも真水の風呂に入れるようになるなど生活環境は劇的に改善していきます。ただし、住宅問題は労使のタブーであり、会社の職員に上層の広い部屋があてがわれ、一般の鉱員に中層のやや狭い部屋があてがわれ、下請け労働者に下層のとても狭い部屋があてがわれる、と言う不公平な区分は歴然と存在したようです。

人口が最盛期を迎えた1960年(昭和35年)には5,267人の人々が生活し、人口密度は83600人/km2と世界一を誇り東京特別区(東京23区)の9倍以上に達したといわれます。炭鉱施設・住宅のほか、小中学校・店舗(常設の店舗のほか、島外からの行商人も多く訪れていました)・病院(外科や分娩設備もありました)・寺院「泉福寺」(禅寺だがすべての宗派を扱っていました、しょうがありませんね、笑)・映画館「昭和館」・理髪店・美容院・パチンコ屋・雀荘・社交場(スナック)「白水苑」などがあり、島内においてほぼ完結した都市機能を有していたと考えられます。ただし火葬場と墓地、十分な広さと設備のある公園は島内になく、これらは端島と高島の間にある中ノ島に(端島の住民のためのものが)建設されました。

【第五期・石炭衰退・閉山期(1964~1974年)】

1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行(エネルギー革命)により衰退が始まります。特に1964年の九片治層坑道の自然発火事件が痛手となり、人口が急速に減少を始めます。しかし端島炭坑は1965年(昭和40年)に三ツ瀬区域の新坑が開発されて一時期に持ち直し、人口は減ったものの機械化・合理化によって生産量も戦時中に迫る水準を回復します。さらに、空き部屋となった2戸を1戸に改造するなどして、住宅事情は劇的に改善しました。住民の満足度も高く、この時期の端島は、福祉施設の不足を賃金の高さでカバーしている他は、全てが狭い所で完結している、「シビル・ミニマムの完全充足期」と評されます。

『シビル・ミニマム』(シビルミニマム、civil minimum)は、都市化社会・都市型社会において、市民が生活していくのに最低限必要な生活基準の事です。これに基づき市民と自治体の協働で、社会資本整備、まちづくり、社会保障等の基準を定めるべきとされます。

しかし、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受け、数百万トンの石炭を残したまま1974年(昭和49年)1月15日に閉山しまいます(残念じゃないの?)。閉山時に約2000人まで減っていた住民は4月20日までに全て島を離れ、4月20日の連絡船の「最終便」で退去した総務課のN氏、端島の最後を見届けるべく乗船していた研究者の片寄俊秀、阿久井喜孝、片寄の友達である作家の小松左京(日本沈没はここから生まれた?)らの離島をもって、端島は無人島となります。しかしその後すぐに人がいなくなったわけではなく、高島鉱業所による残務整理もあり、炭鉱関連施設の解体作業は1974年の末まで続しました。

【第六期・廃墟ブームと産業遺産期(1974年~)】

閉山前より西山夘三や、片寄俊秀をはじめとする西山研究室の人々によって、主に「住まい」の方面からの調査が行われていましたが、島全体が三菱の所有地と言うことから、部外者に対しては「外勤」と呼ばれる監視が付き、調査を行う西山研究室の人々の後を総務課のN氏が密かに付けているなど、会社に常に監視されており、調査は限定的にならざるを得ませんでした(北朝鮮ですか?)。

また、住人らは戦時中の「闇」の部分を語ろうとはしなかったといいます。長崎造船大学の教授として、京大の西山夘三に代わって1970年5月から1974年の閉山までにかけて端島の生活を詳細に調べ上げた片寄は、軍艦島の充足した生活という「光」の部分だけでなく、戦時中の「圧制ヤマ(言葉自体は戦時中だけの表現ではないはずです)」と呼ばれる奴隷労働や、中国人・朝鮮人の強制労働の実態といった「闇」の部分も明らかにし、論文『軍艦島の生活環境』(1974年)としてまとめ上げ、雑誌『住宅』(日本住宅協会、1974年5月号~7月号)に掲載されました(この論文は西山研究室の研究の一環とみなされ、 西山の撮影した閉山前の写真・西山の論文とともに『軍艦島の生活(1952/1970)住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート』としてまとめられている)。

差別的な待遇や、過酷な労働が無かったとは言いませんが、敵国捕虜と当時日本人として徴用された朝鮮の人々を全く同じ尺度で推し量るのには無理が有るように感じます(私見です)。

しかし、「これ以上暗い時代のことをほじくり出さないで欲しい」と言う元住民のまなざしの間で板挟みとなり、片寄は研究を中断するに至ります。一方で、戦時中の奴隷労働や強制労働は無かったと言う説もあり、軍艦島の当時を知るNPO法人「軍艦島を世界遺産にする会」理事長の坂本道徳や、軍艦島に詳しい音楽家の黒沢永紀も、徴用または出稼ぎだったと証言しており、2017年4月に雑誌『SAPIO』に掲載された。

閉山後より阿久井喜孝の調査によって、建築の方面からも光が当てられます(端島の建築には鉱山の技術が使われていることが明らかにされた)。また、高浜村端島支所の跡地から戦時中の日本人・中国人・朝鮮人の死亡者が記された『火葬認可証付申請書』が発見され、林えいだいの調査によって、端島炭坑の「闇」の部分にも光が当てられるようになった。戦時中の端島の朝鮮人坑夫の足取りに関しては、1992年に『死者への手紙―海底炭鉱の朝鮮人坑夫たち』としてまとめられた(奴隷労働があったとする片寄は、この調査に対して「その努力を決して無駄にしてはならないと思う」としていますが、「強制連行は無かった」という立場から見ると、この本は虚偽ということに成り、仮に虚偽であってもこの本が出版されたことは事実なので、両論併記をしてその事実を記す)。しかし、当時は一般人の上陸は禁止されていました。

『徴用(ちょうよう)』とは、戦時などの非常時に、国家が国民を強制的に動員して、一定の仕事に就かせること、また、物品を強制的に取り立てることです。占領地住民に対する徴用・徴発についてはハーグ陸戦条約に規定があり、正当な対価のない徴用・徴発は禁じられていました(朝鮮は当時日本国内でハーグ陸戦条約に規定占領地住民に対する徴用・徴発には当たりません)。

国民徴用令(こくみんちょうようれい、昭和14年7月8日勅令第451号)とは、国家総動員法に基づいて、昭和14年に制定された日本の勅令です。一部地域では白紙などと呼ばれました。
国家総動員法第4条の規定に基く国民の徴用
国家総動員法第6条の規定に基く被徴用者の使用、賃金、給料、その他従業条件に関する命令
の二つについて規定されました。1945年、国民勤労動員令によって廃止されています。

朝鮮における施行については、1944年(昭和19年)8月8日、国民徴用令の適用を免除されていた朝鮮人にも実施する、とした閣議決定がなされました。1944年9月より実施され、1945年8月の終戦までの11ヶ月間実施されています。日本本土への朝鮮人徴用労務者の派遣は1945年3月の下関-釜山間の連絡船の運航が困難になるまでの7ヵ月間でした。


【廃墟ブーム到来】

CIMG3531.jpg
(灯台の隣が、貯水槽なのか?独身寮なのか不明です。)
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(大正5年築造の30号棟「140戸」旧鉱員社宅、下請け飯場!)
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(下請け作業員飯場、旧船頭小屋)
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(見学広場と呼ばれる安全な場所は三か所だけです。どうしても写真が同じようになりますね(;^_^A)
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(見学通路から外れることはできません)


『軍艦島』は2000年代より、近代化遺産として、また大正から昭和に至る集合住宅の遺構としても注目されていました。廃墟ブームの一環でもしばしば話題に上るように成ります。無人化以来、建物の崩壊が進んでいますが、外壁の崩壊箇所については、一部コンクリートで修復が行われています。

島は三菱マテリアルが所有していたが、2001年(平成13年)、高島町(当時)に無償譲渡されました。所有権は、2005年(平成17年)に高島町が長崎市に編入されたことに伴い、長崎市に継承されています。建物の老朽化、廃墟化のため危険な箇所も多く、島内への立ち入りは長らく禁止されていました。2005年(平成17年)8月23日、報道関係者限定で特別に上陸が許可され、荒廃が進む島内各所の様子が各メディアで紹介され始めます。
島内の建築物はまだ整備されていない所が多いものの、ある程度は安全面での問題が解決され、2008年に長崎市で「長崎市端島見学施設条例」と「端島への立ち入りの制限に関する条例」が成立したことで、島の南部に整備された見学通路に限り、2009年(平成21年)4月22日から観光客が上陸・見学できるようになりました(条例により、見学施設以外は島内全域が立入禁止)。解禁後の1か月で4,601人が端島に上陸し、その後も、半年間で34,445人、1年間で59,000人、3年間で275,000人と好調です。なお、上陸のためには風や波などの安全基準を満たしていることが条件になっており、長崎市は上陸できる日数を年間100日程度と見込んでいます。

【行政区域の変遷】

江戸時代は幕府領の彼杵郡高浜村に属していました。ただし前述のように境界をめぐる争論があり、1773年(安永2年)に「幕府領・佐賀領とも端島に干渉しない」とされ、帰属先は定められていません。1889年(明治22年)4月1日の町村制施行により西彼杵郡高浜村端島名となります。1955年(昭和30年)4月1日に高浜村が野母村・脇岬村・樺島村と合併して野母崎町(現・長崎市)となった際、端島は高浜村から分離し、高島町に編入されます。2005年(平成17年)1月4日に高島町が長崎市に編入され、長崎市高島町字端島となっています。

【小説で紹介された『軍艦島』】

赤川次郎『三毛猫ホームズの無人島』(みけねこホームズのむじんとう)は、赤川次郎によって1997年に発表された三毛猫ホームズシリーズの短編集です。

炭鉱が突然閉山になり、無人島となった軍艦島。それから10年が経ったある日、突如軍艦島に明かりが点灯。翌朝、江川哲也という人物から、軍艦島のパーティーに招待する手紙が届きます。だが、江川がその手紙を書けるはずはなかったのです。江川はもう死んでいたのですから。そして惨劇の始まり、4作品が納められた肩のこらない短編集です。

そして私の大好きな内田康夫の人気「浅見光彦」シリーズ記念すべき100番目の事件『棄霊島(きれいじま)』.

浅見光彦は「旅と歴史」の依頼で、長崎県五島列島へ教会堂の取材に行くことになった。飛行機嫌いの浅見がフェリーで九州へ向かっていると、船中で元刑事の後口と出会い意気投合する。彼は浅見を案内しながら、軍艦島で起きた未解決の連続変死事件について語る。だが、後口は娘が住むという長野県へと向かう途中で、静岡県御前崎の海岸で遺体となって発見された。現地で浅見は、後口と意外な人物との接点に気づいたのですが。

軍艦島全景(写真集)をご紹介!



【最後にえ~!なうんちく】

『軍艦島』は島全体が世界文化遺産構成資産ではなく、島の8割近くは緩衝地帯(バッファーゾーン)と呼ばれる世界遺産の核心部分を保護するため周囲に巡らされた区域です。勿論緩衝地帯は世界遺産ではありません(え~)。

軍艦島を含む世界遺産の正式名称は「明治日本の産業革命遺産」です。ユネスコへ提出した推薦書でも、その下限は1910年までと定めています。つまり軍艦島というと99%の方が廃墟が世界文化遺産だと連想されておられると思いますが、あの廃墟の大半が大正・昭和に建築れたもので、1910年「明治日本の産業革命」のものではないため、世界遺産には登録されていません。

それでは、軍艦島の中で本当の世界遺産部分はどこかというと、島の中心部、廃墟建物の地下にある明治時代の石炭の掘削坑になります(上陸しても誰も見られない部分です)。大正・昭和の掘削坑は世界遺産ではありませんので、軍艦島上陸ツアーで現地を訪れても、安全上この明治の掘削坑は公開してしません。
そレでは、何故明治の掘削坑の何が評価されたかというと、明治3年の時点で海底トンネルを掘削していたことです。掘削機械を欧米から買い付け、地質に合わせて独自改良しながら掘り進めました。当時、同時期に欧米の鉱山技術を独自改良して生産性を高めた事例は皆無であり、日本人の探究心の高さを物語っています。
また、元々は小さな岩礁島だった端島を開拓すべく、島の周囲を護岸工事を施したのですが、断片的に残る明治の石積護岸は、西洋の技術に九州地方に江戸時代から伝わる技法を組み合わせ、より頑丈なものに仕上げています。この天川(あまかわ)積みの護岸も世界遺産に登録されており、こちらは上陸ツアーで見ることができます(軍艦島で本当の世界遺産見ても気づかないかも!)。

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リュミエールブラン ネージュ
2017/07/12

特派員報告第二弾「 廃墟ファン必見・世界文化遺産」『軍艦島』へ上陸①!

特派員報告第二弾「世界文化遺産」『軍艦島』へ上陸①!ですが、何時もは自分自身が行った場所(遺跡・自社仏閣・自城)、実体験した事(登山・トレッキング・陶芸)、グルメ(スイーツ)等自分の体験以外は御紹介しない事にしておりますが、家族特派員だけは例外にさせて頂きましたm(__)m。

以前弟が京都の桂川でおおサンショウウオを見つけた写真を送って来たので、おおサンショウウオ(天然記念物)の遺伝子汚染に危機感を覚えて、記事にさせて頂きました経緯も有ります。

CIMG3495.jpg(特派員報告第二弾「世界文化遺産」『軍艦島』へ上陸?)

今回は妻が友人との旅行で「端島」に上陸しましたので御報告致します(^人^)。世界遺産『軍艦島』です。

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長崎港からやまさ海運のクルーズ船に乗って約20分ドルフィン桟橋に到着します。200名も乗れるクルーズ船にも関わらず救命胴衣着用です。結構揺れるらしいです。

CIMG3484.jpg(クルーズの途中にも教会が、世界遺産登録候補では無いようですが綺麗♡神の島教会!)
CIMG3486.jpg(次は伊王島の沖ノ島天主堂)

【軍艦島って何?】

CIMG3496.jpg(見えてきました~ワクワクです~私じゃ無いですよ妻の気持ちの代弁ですから、左が端島、右が中ノ島)

『軍艦島(ぐんかんじま)』の通称で知られている、端島(はしま)は、長崎県長崎市(旧高島町)にある島です。明治時代から昭和時代にかけては海底炭鉱によって栄え、東京以上の人口密度を有していましたが、1974年(昭和49年)の閉山にともなって島民が島を離れてからは、無人島と成っています。2015年、国際記念物遺跡会議(イコモス)により、軍艦島を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界文化遺産に登録されました(世界遺産シリーズでは有りません(^人^))。

『端島「軍艦島」』
面積0.063 km²海岸線長1.2 km最高標高47.7 m
所在海域:五島灘
所属国・地域:日本(長崎県)

CIMG3499.jpg(着いた~てっ感じですか?)


【端島(軍艦島)の地理や気候等】

長崎港から南西の海上約17.5キロメートルの位置にあります。旧高島町の中心であり同じく炭鉱で栄えていた高島(の南端)からは南西に約2.5キロメートルの距離にあり、長崎半島(野母半島)からは約4.5キロメートル離れています。端島と高島の間には中ノ島という小さな無人島があり、ここにも炭鉱が建設されましたが、わずか数年で閉山となり、島は端島の住民が公園や火葬場・墓地として使用していました。そのほか端島の南西には「三ツ瀬」という岩礁があり、端島炭鉱から坑道を延ばしてその区域の海底炭鉱でも採炭を行っていました。

端島は本来、南北約320メートル、東西約120メートルの小さな瀬でした。その小さな瀬と周囲の岩礁・砂州を、1897年(明治30年)から1931年(昭和6年)にわたる6回の埋め立て工事によって、約3倍の面積に拡張して利用を始めました。その大きさは南北に約480メートル、東西に約160メートルで、南北に細長く、海岸線は直線的で、島全体が護岸堤防で覆われています。面積は約6.3ヘクタール、海岸線の全長は約1200メートル。島の中央部には埋め立て前の岩山が南北に走っており、その西側と北側および山頂には住宅などの生活に関する施設が、東側と南側には炭鉱関連の施設がありました。

年間平均気温は15から16℃。平均降水量は2000ミリメートル、冬は比較的雨量が多く、夏は南東風・南風、冬は北西風・北風が多い(いずれも旧高島町資料によります)。

端島を舞台とした1949年(昭和24年)の映画『緑なき島』のタイトルにも現れていますが、この島には植物がとても少なく、住民は本土から土砂を運んで屋上庭園を作り、家庭でもサボテンをはじめ観葉植物をおくところが多かったようです。また、主婦には生け花が人気でした。西山夘三も草木はほとんどないと述べていますが、これについては誇張的という指摘があります。閉山後の調査では二十数種類の植物が確認されており、特にオニヤブマオ(イラクサ科)、ボタンボウフウ(セリ科)、ハマススキ(イネ科)の3種が端島の主な植物として挙げられています。

【端島の歴史】

端島炭坑の歴史区分は大まかに、第一期・原始的採炭期(1810~1889年)、第二期・納屋制度期(1890~1914年)、第三期・産業報国期(1914~1945年)、第四期・復興・近代化期(1945~1964年)、第五期・石炭衰退・閉山期(1964~1974年)、第六期・廃墟ブームと産業遺産期(1974年~)に分けられます。
今日は闇とも呼ばれた暗い歴史が有ったとも言われる、太平洋戦争前迄を御紹介します。

【第一期・原始的採炭期(1810~1889年)】

端島の名がいつごろから用いられるようになったのか正確なところは不明だが、『正保国絵図』には「はしの島」、『元禄国絵図』には「端島」と記されています。『天保国絵図』にも「端島」と記載されています。

端島での石炭の発見は一般に1810年(文化7年)のこととされます(発見者は不明)[1が、『佐嘉領より到来之細書答覚』によると、1760年(宝暦10年)に佐賀藩深堀領の蚊焼村(旧三和町・現長崎市)と幕府領の野母村・高浜村(旧野母崎町・現長崎市)が端島・中ノ島・下二子島(のちに、埋め立てにより高島の一部となる)・三ツ瀬の領有をめぐって争いになり、その際に両者とも「以前から自分達の村で葛根掘り、茅刈り、野焼き、採炭を行ってきた」と主張、特に後者は「四拾年余以前」に野母村の鍛冶屋勘兵衛が見つけ、高浜村とともに採掘し、長崎の稲佐で売り歩いていたと述べています。なお当時は幕府領では『初島』と、佐賀領では『端島』と書いていたようです(『佐嘉領より到来之細書答覚』『安永二年境界取掟書』『長崎代官記録集』)。

上記のように石炭発見の時期ははっきりしませんが、江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、ごく小規模に露出炭を採炭する程度だったようです。1869年(明治2年)には長崎の業者が採炭に着手したものの、1年ほどで廃業し、それに続いた3社も1年から3年ほどで、台風による被害のために廃業に追い込まれました。36メートルの竪坑が完成したのは1886年(明治19年)のことで、これが第一竪坑です。

【第二期・納屋制度期(1890~1914年)】

CIMG3509.jpg(上陸~~~!こんな所歩けるの?に見えますが、観光用の歩道が出来ています。)

1890年(明治23年)、端島炭鉱の所有者であった鍋島孫太郎(鍋島孫六郎、旧鍋島藩深堀領主)は三菱社へ10万円で譲渡します。端島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となりました。譲渡後は第二竪坑と第三竪坑の開鑿もあって、端島炭鉱の出炭量は高島炭鉱を抜く(1897年)までに成長しています。この頃には社船「夕顔丸」の就航、蒸留水機設置にともなう飲料水供給開始(1891年)、社立の尋常小学校の設立(1893年)など基本的な居住環境が整備されるとともに、(1897年から1931年)島の周囲が段階的に埋め立てられました。

1890年代には隣の高島炭鉱における納屋制度が社会問題となっていましたが、端島炭坑でも同様の制度が敷かれていました。高島同様、端島でも労働争議がたびたび起こった様です。
納屋制度期における軍艦島の生活は以下の通りです。端島における納屋制度の廃止は高島よりも時間が掛かりましたが、段階的に廃止され、全ての労働者は三菱の直轄となっています。

『納屋制度(なやせいど)』

明治に炭鉱などでみられた前近代的労務管理制度の事です。明治の初め、炭鉱労働者は囚人を主体としていましたが、徐々に農村からの労働者へと移行しました。炭鉱資本家はこうした労働者を直接管理せずに、納屋頭(親方ですかね)を設け、それに労働者の雇入れや管理をまかせます。納屋頭は、雇入れた労働者を納屋と称する合宿所に収容し、家具や作業器具一式を貸与するとともに、仕事の割当てから賃金の一括受取りまで行なっていました。そしてさまざまな名目で搾取し、待遇は残忍でさえあったといわれています。鉱夫の死亡率は高く、逃亡する者には私刑も加えられていました。このような制度は、囚人労働の慣行が引継がれたためでしたが、大炭鉱の進出につれ次第に後退していきました。

そういえば、2015年度下半期放送のNHK「連続テレビ小説」第93シリーズの作品『あさが来た』の中でも、納屋制度に苦労させられる「あさ(波瑠)」さんの姿が有りましたね。

三菱端島労働状況(1907(M40)3~8月ごろ) 日本労務管理年誌・労務管理資料編纂会 S37~S39

1 坑夫募集人は応募者1人に付3円ずつの手数料を得る。炭坑を楽園のごとく吹聴し、世人を欺瞞。
2 坑夫は何れも故郷忘れがたく、募集人の舌端に欺されたるを悔いている。
3 会社は淫売婦を雇い随所に淫売店を開業させ更に賭博を奨励。
4 坑夫はあわれこの陥穽に陥入り、前借の弱身に自由を縛し去られている。

ひどい待遇だったようですね。

【三期・産業報国期(1914~1945年)】

CIMG3516.jpg(先ほども写っていましたが、赤煉瓦の建物総合事務所跡、右の階段の建物が第二竪坑の様です。)
CIMG3517.jpg(一番高くそびえたつ建物が職員単身寮、奥が職員クラブハウスです。)
CIMG3518.jpg(手前右が仕上げ工場、奥が日本初の鉄筋コンクリート造の集合住宅!)
CIMG3523.jpg(1916年(大正5年)に造られた日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」です。)




納屋制度の廃止・三菱による坑夫の直轄化がRCアパートの建造とともに進められ、1916年(大正5年)には日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」が建設されます。この年には大阪朝日新聞が端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道しており、5年後の1921年(大正10年)に長崎日日新聞も、当時三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍の戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼んでいることから、「軍艦島」の通称は大正時代ごろから用いられるようになったとおもわれます。ただし、この頃はまだ鉄筋コンクリート造の高層アパートは少なく(30号棟と日給社宅のみ)、大半は木造の平屋か2階建てでした。

端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つでした。それを支える労働者のための福利厚生も猛烈な勢いで整えられ、1937年の時点で、教育、医療保険、商業娯楽等の各施設は、既に相当なレベルで整備されていました。一方で仕事は非常にきつく、1日12時間労働の2交代制で、「星を頂いて入坑し星を頂いて出坑する。陽の光に当ることがない」との言葉があるほどです。戦時中の1941年から始まる「産業報国戦士運動」の結果、石炭出炭量が最盛期を迎えた1941年(昭和16年)には約41万トンを出炭[(端島の歴史における年間最高出炭)、1943年には第2立坑より1日に2062トンを出炭しました。

1939年(昭和14年)からは朝鮮人労働者の集団移入が本格化し、最重労働の採鉱夫のほとんどが朝鮮人に置き換えられたほか、1943年(昭和18年)から中国人捕虜の強制労働が開始されています。朝鮮人労働者は納屋、中国人捕虜は端島の南端の囲いの中にそれぞれ収容されたといわれます(闇の歴史ですか?次回少し詳しくご紹介しましょう)。
戦後、高島・端島・崎戸の3鉱の中国人労働者やその遺族らが国・長崎県・三菱マテリアル・三菱重工を相手に損害賠償を求めて起こした訴訟では、長崎地裁が2007年3月27日に、賠償請求自体は請求権の期限(20年)が経過しているとして棄却したものの、強制連行・強制労働の不法行為の事実については認定しています。

【長崎で建造された戦艦「土佐」】

戦艦「土佐」とはどのような船なのでしょう。1921年(大正9年)三菱重工業長崎造船所で起工され、1921年(大正10年)に進水した日本海軍の戦艦「土佐」に形似ていたため「軍艦島」と呼ばれる様になりました。「土佐」が進水式を終えた同時期に、アメリカではワシントン会議が開かれており、そこで軍縮条約が調印されました。それにより、建造途中だった「土佐」を含む9隻に建造中止命令が出されたのです。役目を失った「土佐」は海軍の標的演習用の戦艦として利用されることが決まり、魚雷や防弾を船体に受けて海中に沈んで行ったのです。悲劇の軍艦「土佐」!その悲運を予知するかのように、進水式でのくす玉は何故か割れなかったと伝わっています。

1945年(昭和20年)6月11日にアメリカの潜水艦「ティランテ」が、停泊していた石炭運搬船「白寿丸」を魚雷で攻撃し撃沈しましたが、このことは「米軍が端島を本物の軍艦と勘違いして魚雷を撃ち込んだ」という噂話になりました。1945年には高島二子発電所が空爆を受け、第2立坑が水没しています。

次回は戦後の復興する日本の原動力となった「軍艦島」を御紹介したいと思います。

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リュミエールブラン ネージュ
2017/07/06

本当に眠るのは「卑弥呼」なのか?纒向遺跡最後を飾る『箸墓古墳』

今回の取材旅行のもうひとつの目的のひとつでした纒向古墳群のトリを勤めるのは、卑弥呼の墓ではないか?ともいわれる「箸墓古墳」です。
宮内庁は、「倭迹迹日百襲姫命」墳墓と治定しています。不遜な意見を承知で言わせて頂けましたら、「調べさせてください」m(__)m。

IMG_0001.jpg
(卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命なのか?)

『箸墓古墳(はしはかこふん、箸中山古墳)』は、奈良県桜井市箸中にある三世紀最大の前方後円墳です。

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【箸墓古墳(箸中山古墳データ)】

P5190134.jpg(本当に綺麗な古墳です。写真をこんなに撮ったのは初めてです。)


墳丘全景(右に前方部、左に後円部)



別名:箸中山古墳
所属:纒向古墳群
所在地:奈良県桜井市箸中
形状:前方後円墳
規模:墳丘長278m高さ30m
築造年代:3世紀中頃
被葬者:(宮内庁治定)倭迹迹日百襲姫・(推定)卑弥呼
出土品:特殊器台形埴輪・壷形埴輪
指定文化財:宮内庁治定「大市墓」国の史跡「箸墓古墳周濠」
特記事項:全国第11位/奈良県第3位の規模、全国最古級の前方後円墳、『日本書紀』崇神天皇紀に記述

p51489551.jpg
(倭迹迹日百襲姫命大市墓 拝所)

【箸墓古墳概要】

P5190136.jpg(良くドラマの撮影にも使われています。青芝は殺人事件が起きそうですね。)
P5190135.jpg
(百選ですが上位間違いありません。)
P5190138.jpg(大きいので少し近づくとただの山のようですが、すべてが盛り土で岡や山の先端は使っていないのです。)

実際の被葬者は明らかでは有りませんが、宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定されています。また周濠が国の史跡に指定されているほか、周濠の一部は「箸中大池」としてため池百選(此は知らなかった、(((^^;))の1つに選定されています。

纒向遺跡の箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳(最後に造られた全ての纒向古墳の集大成)で、古墳出現期の3世紀中の古墳でも最古級と考えられている、大型前方後円墳です。

この古墳を、『魏志』倭人伝が伝える倭国の女王、「卑弥呼」の墓とする(一部の邪馬台国畿内説)説もあります。以前は築造年代が3世紀末から4世紀初頭とされ、卑弥呼が死亡したとされる3世紀前半(248年)との時期にずれがあるため、その可能性は少ないといわれてきました。しかし、1980年代以降の新しい考古学的年代決定論により箸墓古墳の築造年代も卑弥呼の没年(248年から遠くない頃)に近い3世紀の中頃から後半とする説も出てきました。

現在は宮内庁により陵墓として管理されており、研究者や国民の墳丘への自由な立ち入りが禁止されています(残念)。倭迹迹日百襲姫命とは、『日本書紀』では10代崇神天皇の祖父8代孝元天皇の姉妹になります。大市(纒向遺跡の出土品から市場の存在)は古墳のある地名です。『古事記』では、夜麻登登母母曾毘売(やまととももそびめ)命と記載されています。

【何故箸墓なのか?名の由来】

『日本書紀』崇神天皇19月の条に、つぎのような説話が載せられています。一般に「三輪山伝説」と呼ばれているものです。原文は難解なので完全現代語訳でお贈りいたします。

倭迹迹日百襲姫命は大物主神の妻となりますが、大物主神は昼には来ないで夜だけに来るので、百襲姫はその顔を見ることができませんでした。そこで百襲姫が大物主神にその姿を見たいと話しますと、大物主神は「明日の朝、あなたの櫛の箱に入っているから驚かないように」と話します。夜が明けて、百襲姫が櫛の箱の中を見ると、そこには美しい小蛇がいました。百襲姫が驚いて叫ぶと大物主神は恥じて人の形になって、御諸山に登ってい行きました。百襲姫はこれを悔いて、箸で陰を撞いて亡くなってしまいます。そこで大市に墓をつくり葬りました。この話から、百襲姫の墓を名づけて箸墓と呼ぶように成りました(完全簡易現代語訳)。

なお、箸が日本に伝来した時期(7世紀か)と説話の作成された時期とに大きなずれがあるところから、古墳を作成した集団である土師氏の墓、つまり土師墓から箸墓になったという土橋寛氏の説もあるようです。

【墳形と規模】

2dcb80bf[1](国土交通省 国土画像情報「カラー空中写真」を基に空から見てみましょう。)
0220-05[1]
(こちらは流行りのレーダー地図後円部の五段の段築「4+1」も良く確認できます。周りの道や家で少し削られてます。)

最古級の前方後円墳によくみられるように前方部が途中から撥型(ばちがた)に大きく開く墳形です。測量図の等高線の様子から前方部正面が現状より拡がっていたことが分かる。前方部の先が撥型に開いている他の古墳は、兵庫県揖保川町の養久山(やくやま)1号墳、同県の権現山51号墳、京都府山城町の椿井大塚山古墳、岡山市の浦間茶臼山古墳などがあります(自宅から其ほど遠くないので又出かけます)。ちなみに浦間茶臼山古墳は箸墓古墳の2分の1の相似形といわれ、長さも幅も2分の1であるが前方部の頂の形は横長の長方形と台形の違いがあるようです。

現状での規模は墳長およそ278メートル、後円部は径約150メートル、高さ約30メートルで、前方部は前面幅約130メートル、高さ約16メートルを測る。その体積は約37万立方メートル。周辺地域の調査結果から、本来はもう一回り大きかった可能性もあります。

後円部は四段築成で、四段築成の上に小円丘(径約44-46メートル、高さ4メートルの土壇、特殊器台が置かれていたと考えられる、つまりは五段築成!)が載ったものと指摘する研究者も居られるようです。前方部は側面の段築は明瞭ではないが、前面には4段の段築があるとされます。ちなみに五段築成(四段築成で、後円部に小円丘が載る)は箸墓古墳のみで四段築成(三段築成で、後円部に小円丘が載る)は西殿塚古墳(大和古墳群)、行燈山古墳(柳本古墳群)、渋谷向山古墳(柳本古墳群)、桜井茶臼山古墳(鳥見山古墳群)、メスリ山古墳(鳥見山古墳群)、築山古墳(馬見古墳群)等が考えられ他の天皇陵クラスの古墳は全て三段築成(後円部も前方部も三段築成)とされる。被葬者の格付けを表しているのかも知れません。

奈良県立橿原考古学研究所や桜井市教育委員会の陵墓指定の範囲の外側を発掘した調査により、墳丘の裾に幅10メートルの周壕とさらにその外側に幅15メートル以上の外堤が存在していた可能性の在ることがわかりました。巨大な前方後円墳がその最古の時期から周壕を持っていた可能性があります。

【外表施設・遺物について】

前方部先端の北側の墳丘の斜面には、川原石を用いた葺石が存在していることが確認されています。

この時期には埴輪列はまだ存在していませんが、宮内庁職員によって宮山型特殊器台・特殊壺、最古の埴輪である都月型円筒埴輪などが採集されており、これらが墳丘上に置かれていたことは間違い在りません。また岡山市付近から運ばれたと推測できる特殊器台・特殊壺が後円部上でのみ認められるのに対して、底部に孔を開けた二重口縁の壺形土師器は前方部上で採集されており、器種によって置く位置が区別されていた可能性が高いと考えられます。特殊器台や特殊壺などの出土から古墳時代初頭に築造された古墳であると考えられています。

埋葬施設は不明であるが、墳丘の裾から玄武岩の板石が見つかっていることから竪穴式石室が作られていた可能性があるといわえます。この石材は、大阪府柏原市の芝山の石であることが判明しています。従って、崇神紀に記す大坂山(二上山)の石ではありません。

周濠は前方部と後円部の一部分の発掘調査から、幅10メートル前後の周濠と、幅数10メートル前後の外堤の一部が見つかっています。後円部の東南側の周濠部分では両側に葺き石を積み上げた渡り土手も見つかっています。

【築造時期は何時?】

墳丘形態や出土遺物の内容から白石太一郎氏らによって最古級の前方後円墳であると指摘されていましたたが、陵墓指定範囲外の周辺部である箸中大池西側の堤改修工事に先立って、奈良県立橿原考古学研究所が行った事前調査で周濠の底から布留0式(ふるぜろしき)土器が多量に出土しました。これの実年代について、奈良県立橿原考古学研究所は280~300年(±10~20年)と推定しています。しかし土器は古墳自体から発見されたものではなく、陵墓指定範囲外の周濠の底から発見された土器に付着していた炭化物が3世紀中頃のものだとしても、この古墳が発掘された纒向遺跡には縄文時代から古墳時代までの遺跡が存在しているのでそれが箸墓古墳の築造年を代表しているとは言えません。また炭化物による年代推定には通常数十年から百年程度の誤差があり、3世紀後半と断定できるほどの精度は今のところありません(微妙ですね)。

研究者の年代観によって造営年代は若干の異同があります。広瀬和雄氏はその時期を3世紀中ごろと考え、白石太一郎氏は3世紀中葉過ぎ、寺沢薫氏は260~280年頃、石野博信氏は3世紀後半の第4四半紀、西暦280年から290年にかけてとしていいます。
これだけの大きさの古墳を作るのにブルトーザー等の機械も使わずに没後40年の中に4つの説がなんて?私には同じ時期ではいけないのと思ってしまうのですがね~(笑)

【箸墓古墳の意義】

墳丘の全長約280メートル、後円部の高さ約30メートルで自然にできた小山と錯覚するほどの規模、全国各地に墳丘の設計図を共有していると考えられる古墳が点在している点、出土遺物に埴輪の祖形である吉備系の土器が認められる点などそれまでの墳墓とは明らかに一線を画しています。また規模、埴輪などは以後の古墳のモデルとなったと考えられ箸墓古墳の築造をもって古墳時代の開始と評価する研究者も多いのもうなずけますね。

【被葬者は誰だ!】

勿論誰もが知りたいこの質問ですが、宮内庁によって第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓として管理されています。

しかしながら、この古墳を卑弥呼の墓とする研究者も多く存在します。その根拠ですが、この古墳の後円部の直径が『魏志倭人伝』にある卑弥呼の円墳の直径「百余歩(径約150メートル)」にほぼ一致すること、後円部にある段築構造が前方部で消失することから、当初は円墳であり前方部が後世に付け加えられた可能性があること、大規模な古墳の中では、全国でももっとも早い時期に築造されたものであること、などが挙げられていますが、現時点では正確なことは分かりません(じれったいです)。

大きさについては、魏・晋時代の一里は300歩で魏・晋時代の1里は435.6メートル、1歩はほぼ145センチメートルとなり100余歩は約145メートル強となります。一方、魏志倭人伝で短里(76-77m)が採用されているとすれば、1歩は約25cmとなり100余歩で約30mほどとなり、大きさが違います。さらに魏志倭人伝ではそもそも塚の大きさが直径で表されていたので円墳であり前方後円墳でなかったとする意見もあります。

また、前方後円墳は、もともと円墳の回りの周堤の無い部分で祭祀が行われており、この部分が拡大して方墳となった説が有力で、箸墓古墳が前方後円墳のごく初期の古墳とすれば、あとで方墳を追加するのは不自然かもしれませんね。

白石太一郎氏は「卑弥呼の墓であっても不思議ではない」と述べるのに対し、石野博信氏は台与(壹与)の墓、また、箸墓を寿陵と考える寺沢薫氏は壹与(台与)の墓説やミマキイリヒコ(崇神)などの男王の墓である可能性もある言われています(「寿陵」とは君主たちが生前にあらかじめ造っておく陵墓の事で、中国では始皇陵が有名ですね)。

いずれにせよ、箸墓古墳が卑弥呼の墓のある可能性については奈良県立橿原考古学研究所などの限られた施設からの発信で、考古学的には定説とは言えません(残念)。現在(2009年位からですか?)ようやく発掘許可(完全な物では在りませんし少しずつです)がなされたため実質的調査はまだ始まったばかりです。

P5190143.jpg(ず~と見ていても飽きない美しさでしたが、陽ざしを遮るものが無く、後ろ髪ひかれる思いで箸墓を後にしました。)
P5190168.jpg(同じ角度からだったので、ホケノ山古墳後円部頂から、箸墓古墳後方部を眺める。)


最後に一言!もし箸墓古墳を調査して、「親魏倭王」の金印と一緒に100枚の銅鏡が枕元から見つかれば、子供たちは歴史の授業で卑弥呼という人物を覚えることは無くなるに違いありません。「倭迹迹日百襲姫」という難しい漢字を覚えなければならなく成りますが、少なくとも中国人が「姫巫女」「姫詔」を聞き違えたと思われる、卑弥呼という女性は日本史からいなくなります。(卑弥呼)と魏では間違って呼ばれたの注釈が付くようになるでしょう。
その上、欠史八代といわれる第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までの8人の天皇とその時代を指す実在説も同時に証明されることに成り日本の古代史が一度に解明されるという歴史ファンにはたまらない事が起きると思います(クーラー点けてるのに汗が出てきた、笑)。

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