2017/04/19

『柳田國男』の生家で「河童の河太朗」に出会った!

少し前に、Facebookのお友達の上に、小・中・高校の先輩が企画された、日本最初の高速道路「銀の馬車道」を歩くイベントが有ったのですが、忙しくて参加出来なかったので、お昼休憩の場所だった?柳田國男(民族学者)の生家だけでも見てこようと、次女と出掛けました(次回の最終回6月10日は歩きたいけど(((^_^;))。

驚いた事に、河童に出会うことが出来ました(笑)

P1080087.jpg(迫力ありますよね~こちらが、弟の河次郎君ですよ。)


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【銀の馬車道って何?】

P1080019.jpg(この看板を撮影しているのが、左下の大庄屋三木住宅前です。)

銀の馬車道とは(About Old Silver Mine Carriage Road)、若き(明治)日本が挑んだ前人未到のプロジェクトです。
その名も「銀の馬道」、名前も素敵~~~ですよね!。

この馬車道は「殖産興業」を国策に掲げた明治新政府が産業を支える新たな物流手段の確立を考え、日本で初めて築いた高速産業道路です。
「銀の馬車道」は、先取先進で時代を切り拓いていくという、その後のわが国の姿勢を指し示し体現するものでした。

より速く、より安全に、生野から飾磨津の間、約49kmを結ぶ夢の道路は、経済性、社会性、利便性の絶妙なバランスと秀逸な道路計画によって史実としての興味深さと迫力、遺産として価値を礎、誕生当初の役割を終えてなお、時代を全力で駆け抜けた人々の輝きを、時を超えて現在に伝えています(褒めすぎちゃいまっか?)。
という道路なんです(´∇`)。

【柳田國男って誰?知ってますよね~。】

柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日~1962年(昭和37年)8月8日)は、日本の民俗学者・官僚です。
現在の兵庫県神崎郡福崎町生まれで、最晩年に名誉町民第1号となりました。



没後に正三位勲一等授賞
当時の池田勇人首相「民間人とはいえ、これだけの人物に瑞宝章では軽い」と発言し旭日大綬章が供えられました。
帝国憲法下の農務官僚で貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官に就いています(枢密院(すうみついん、旧字体:樞密院)は、枢密顧問(顧問官)により組織される天皇の諮問機関。憲法問題も扱ったため、「憲法の番人」とも呼ばれました。)。

P1080043.jpg(柳田國男の銅像、歌は三十三歳の時ですが、像は晩年の感じですね。)
P1080044.jpg(気持ちが良くわかります~私も歳取ったからかな~笑)

「日本人とは何か」その答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行し、初期は山の生活に着目し、『遠野物語』「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べています。

日本民俗学の開拓者で、多数の著作「遠野物語」「蝸牛考」(各地のカタツムリの呼び名の方言分布を比較検討することにより、言葉が近畿から地方へ伝播していったことを明らかにしたもの。この中で提唱された理論が方言周圏論です。)「桃太郎の誕生」等は今日まで重版され続けています。

【柳田國男の生家】

P1080046.jpg(四畳半二間に三畳二間!男八人兄弟父母十人ですか~(;^_^A)
P1080047.jpg(模型の様な家でした。確かに狭いですね。)
P1080049.jpg(田舎の田造りの家です。奥が四畳半手前が三畳です。)
P1080059.jpg(おくどさん、ご飯はいっぱい必要だったでしょうね~。)

1875年(明治8年)7月31日、飾磨県(兵庫県)神東郡田原村辻川(現:兵庫県神崎郡福崎町辻川)に儒者で医者の松岡操の六男(男ばかりの8人兄弟)として出生します。

辻川は兵庫県のほぼ中央を北から南へ流れる市川が山間部から播州平野へ抜けて間もなく因幡街道と交わるあたりに位置し、古くから農村として開けていました。

字の辻川は京から鳥取に至る街道と姫路から北上し生野へ至る街道とが十字形に交差している地点にあたるためといわれ、そこに生家がありました。
生家は街道に面し、さまざまな花を植えており、白桃、八重桜などが植えられ、道行く人々の口上に上るほど美しかったといわれます。
生家は狭く、國男は「私の家は日本一小さい家」だったといっています(確かに小さいですね~(^^;)。
家が小さかったことに起因する悲劇が幼き日の國男に強い影響を与え、将来的にも大きな影響を与えました(小さな家に八人の男の子、長男が嫁を貰うと?まあ問題がおきますね(#^.^#))。

父・操は旧幕時代、姫路藩の儒者・角田心蔵の娘婿、田島家の弟として一時籍に入り、田島賢次という名で仁寿山黌(じんじゅさんこう)や、好古堂という学校で修学し、医者となり、姫路の熊川舎(ゆうせんしゃ)という町学校の舎主として1863年(文久3年)に赴任しました。
明治初年まで相応な暮らしをしたが、維新の大変革の時には予期せざる家の変動もあり、操の悩みも激しかったらしく、一時はひどい神経衰弱に陥いる程でした。

幼少期より非凡な記憶力を持ち、11歳のときに地元辻川の旧家三木家に預けられ、その膨大な蔵書を読破し、12歳の時、医者を開業していた長男の鼎に引き取られ茨城県と千葉県の境である下総の利根川べりの布川(現・利根町)に移り住みます。

生地とは異なった利根川の風物や貧困にあえぐ人たちに強い印象を受け、徳満寺という寺では、間引き絵馬(母親が、生んだばかりの我が子の命を奪っている姿を描いている)を見て、終生忘れることの出来ない衝撃を受けます。
ここでも、隣家の小川家の蔵書を乱読し、知識をおおいに増やしています。

16歳のときに東京に住んでいた三兄井上通泰(帝国大学医科大学に在学中)と同居、図書館に通い読書を続けます。

三兄の紹介で森鴎外の門をたたき17歳の時、尋常中学共立学校(のちの開成高等学校)に編入学(驚!)、この年田山花袋に出会っていますね。
翌年、郁文館中学校に転校し進級し、19歳にして第一高等中学校に進学、青年期を迎えます。

東京帝国大学法科大学政治科(現・東京大学法学部政治学科)卒業後、明治33年(1900年)に農商務省に入り、主に東北地方の農村の実態を調査・研究するようになりました~(^^;。

今回は、柳田国男の少年期~青年期を紹介しました。
河童のインパクト強かったですか?(笑)

P1080028.jpg(河太郎!お兄ちゃんです。こちらは動きませんよ!)
P1080033.jpg(この物語はフィクションですの注意書き要ります?笑)

民俗学者、柳田國男の生家や特産館もちむぎのやかた近くにある「辻川山公園」のため池に、河童の河太郎(がたろう)と河次郎(がじろう)が出没します。

これは、柳田國男が幼い頃を過ごした福崎町辻川での暮らしぶりなど、自身の人生を回顧して書いた著書『故郷七十年』に登場する、市川の駒ヶ岩の河童のガタロ(河太郎)をモチーフにした河童の兄弟で、1匹は池のほとりにいますが、もう1匹は池の中にいて、9時~17時の毎時0分・15分・30分・45分に水中から飛び出てきます。

実は出てくるのは河童だけでは無いのですよ~!
次回はもうひとり?と柳田國男の優秀な兄弟についてご紹介できれば良いと思っています。


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2017/04/17

日本三大名園『後楽園』は何れ程の物?

岡山城に出掛けたなら、ここは押さえとかなきゃね~(^^;
ということで、今日御紹介するのは、日本三大名園の一つ『後楽園』です。


但し、私他の二つ金沢市の「兼六園」水戸市の「偕楽園」を恥ずかしながら、訪れた事が有りません!

つまり、「比べるものが無い中で、評価するのは如何なものでしょう?」なのです。

そこで、アメリカの日本庭園専門誌『Sukiya Living Magazine/The Journal of Japanese Gardening(ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング)』が、全国の日本庭園900か所以上を対象に実施した「2016年日本庭園ランキング」日本庭園部門「14年連続日本一」に選ばれている足立美術館の庭園(島根県)と2位の桂 離宮を参考に(ちなみに、二つは訪れているんです、私!)、「後楽園」を査定?(笑)してみたいと、思います。

PB230095.jpg(当日の?イベントのモデルさんなので撮影させていただきました。綺麗ですね~!)

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PB230108.jpg(旭川越しに見る岡山城です。素敵ですね。)

後楽園(こうらくえん)は、岡山県岡山市北区後楽園にある日本庭園(大名庭園)で、皆さんも御存じの日本三名園のひとつです

江戸時代初期に岡山藩主・池田綱政によって造営された、元禄文化を代表する庭園で、国の特別名勝に指定されています。

後楽園は岡山藩主・池田綱政が岡山郡代官・津田永忠に命じて造らせたもので、1687年(貞享4年)に着工し14年の歳月をかけ1700年(元禄13年)に完成しました。
岡山市内を流れる旭川をはさみ、岡山城の対岸の中州に位置します。

藩主が賓客をもてなした建物・延養亭(えんようてい)を中心とした池泉回遊式の庭園で岡山城や周辺の山を借景としています。

江戸時代には延養亭を茶屋屋敷、庭園を後園または御後園と呼んでいました。
1871年(明治4年)、園内を一般開放するにあたって、これを後楽園と改めます(つまり後楽園は明治からの名前ですね(#^.^#))。

総面積は133,000平方メートルであり、東京ドームの約3倍です。
東京ドームのまえは何で後楽園球場だったのか知ってますか?、江戸時代初期に水戸徳川家の江戸上屋敷内につくられた築山泉水回遊式の日本庭園、小石川後楽園(こいしかわこうらくえん)東京都文京区後楽一丁目にちなんでいるんですって、ジャイアンツファンはご存知でしたかね?

此方岡山後楽園は岡山県が所有管理していますが、管理業務については県の外郭団体である財団法人岡山県郷土文化財団が県からの受託業務として行っています。

築庭の経緯は、後楽園から旭川を隔てて南にある岡山城は1597年(慶長2年)、豊臣家五大老の一人で、時の岡山藩主であった宇喜多秀家が旭川の流域にあった「岡山」という小高い山を利用して築城したものでしたね。
この時、旭川を城および城下町の防御を固めるための堀の代わりとして用いるために、旭川の流路を岡山城の手前で大きく東方へ曲げて城の北東面に沿わせ、さらに南流するように変えました。

これにより、城と城下町の防御は強固なものとなったが、あまりに不自然な流路となったため、以後、岡山城下はたびたび洪水に悩まされることになりました。

PB230027.jpg
(無理な河川工事正に洪水の温床です。)

藩主の座は宇喜多氏の後、小早川氏から池田氏へと移り変わり、4代目の池田綱政は、父光政に見出されていた津田永忠を登用し、度重なる洪水の被害に疲弊していた岡山藩の財政再建のために新田開発はもとより、放水路・百間川の開削などの抜本的な洪水対策を行い、藩の財政を再建させました(名君ですね~(^^;)。

1686年(貞享3年)ごろに百間川が完成し、藩の財政にも余裕が生じてきたため、綱政は永忠に命じて城北側の旭川沿い低湿地および宇喜多秀家によって集められた小姓たちが居住していた「小姓町」に自らの休息のための庭園を造るよう命じました。

池田家史料によると、1687年(貞享4年)12月に着工し(鍬始め)、翌1688年(元禄元年)には本格的な土木工事にとりかかり、次々と園内の建造物や植栽が完成していきました。
綱政は岡山在城中に足しげく庭園に通い、工事開始4年後の1691年(元禄4年)には、完成したばかりの延養亭で綱政が永忠ら工事に携わっている家臣の労をねぎらって園内で宴を催していることからも、この時点で綱政が満足できる出来栄えになっていたとみられます。

途中、洪水の被害を受けて施設の建て替え等を余儀なくされたが、その後も庭園の拡張や新たな施設の建築が行われ、1700年(元禄13年)に一応の完成をみます。

PB230076.jpg(簾池軒でお茶を一腹!)
PB230107.jpg(勿論きび団子ですね~笑)

なお、庭園は工事が始まった当初は「御菜園」、「御菜園塚」などと呼ばれていましたが、1695年(元禄8年)頃には城の背後にあることから「御後園」または「後園」と呼ばれるようになりました。

御後園の管理には専門の奉行職が設けられて徹底した管理が行われ、園内は時の藩主の好みによってところどころ変えられていきます。

当初の園内は綱政が田園風景を好んでいたため、田んぼや畑が多く配置されていましたが、1771年(明和8年)に藩が財政難に見舞われ、藩主・池田治政が経費節減のために芝生を植えさせ、次第に現在のような景観に変化していきました。

PB230106.jpg(唯心山は綱政の子、継政の時に築かれ、平面的だった庭園が立体的な景観へと変化しました。)
PB230079.jpg(曲水に板を渡した八橋(やつはし)のそばには杜若(かきつばた)があります。 『伊勢物語(いせものがたり)』の「東下り(あずまくだり)」の段にちなんだ、風雅な情景!)
PB230084.jpg(中央に水路を通し、色彩に富んだ奇石六個を配した全国的にも珍しい建物です。藩主の庭廻りや賓客の接待などで、休憩所として使われました。)
PB230085.jpg(唯心山へ登ります。)
PB230086.jpg(沢の池 園内中央にある池で、左から島茶屋(しまぢゃや)のある中の島(なかのしま)、釣殿(つりどの)のある御野島(みのしま)、白砂青松が美しい砂利島(じゃりじま)があります。)
PB230087.jpg(鶴鳴館本館も見えます。)
PB230091.jpg(島茶屋、園内最大の池である「沢の池」の中の島にある茶屋です。)
PB230088.jpg(井田!田んぼで~す。昔は園内に広く田畑が作られていましたが、今は井田だけがそのなごりを伝えています。)
PB230092.jpg(江戸時代には、ここで作った葉茶は、藩主がふだんに飲むお茶として使われました。茶畑!)

御後園には藩主が岡山在城中に休息のために度々訪れていたが、幕府が大名の生活を厳しく監視していたため、他藩の藩主や客人等が岡山に来訪した時には御後園は用いられず、すべて岡山城内で接待しました。

御後園で岡山藩主が客人らをもてなすようになったのは、幕府の力が衰えた幕末になってからで、1830年(天保元年)と1838年(天保9年)に9代藩主・池田斉敏が実の父親で薩摩藩主であった島津斉興をもてなした記録があります
また、日を定めて藩内の人々を対象に園内の公開が行われていました。

1869年(明治2年)の版籍奉還によって御後園は岡山城とともに一時的に明治新政府の手に渡りますが、翌1870年(明治3年)11月に御後園は再び岡山藩の所有となり、1871年(明治4年)2月7日に藩知事に就任していた池田章政が日を限って一般に開放しました。
この時、「御後園」の名称を中国・宋の范仲淹が著した『岳陽楼記』にある「先憂後楽」(「先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」)からとって「後楽園」と改めます。

しかし、それまで池田家の居住していた岡山城が兵部省管轄下になり、居住場所を失ったため、同年7月14日には嶺泉院(9代藩主・池田斉敏夫人)、10代藩主・池田慶政夫妻らが後楽園に移住することとなりました。

その後、1882年(明治15年)に多額の負債を抱え財政的に苦しかった池田家は当主の章政が岡山県に後楽園を土地は無償で、建造物と樹石は有償で譲渡することを打診します。

1883年(明治16年)12月22日から27日にかけて開催された県会では反対派の議員から後楽園に県有とするだけの価値があるかどうか疑問の声が上がり、後楽園買収の議案はいったん否決されたものの、後楽園の文化的価値や観光地としての価値を再検討した結果、1万2500円で買い取ることを決定します。

後楽園はこの後、岡山県庁の付属地として扱われ、1884年(明治17年)に一般に広く公開されるようになり、現在も「日本三名園」の一つとして多くの人々で賑わっています。

PB230103.jpg(能舞台なのですが…能舞台の周囲の座敷は、能の見所(けんしょ)や接待の場として使われました。)
PB230105.jpg(花交の池、築庭当時は山桜などの入り交じった景色で、池辺には花交という名の建物があり、池や滝にはその名が残りました。)
PB230099.jpg(延養亭(えんようてい)藩主の居間で、園内で最も重要な建物!左が能舞台に成っているはずです。)
PB230101.jpg(白砂青松が美しい砂利島)
PB230102.jpg(岩の向こうが茂松庵のはずです。)
PB230094.jpg(釣殿のある御野島)

【それでは年表を見ていただきましょう。】
1687年(貞享4年):12月、御後園(後楽園)鍬始め。
1689年(元禄2年):6月、菜園場と御茶屋が完成。7月、初の田植え。10月、芝原ができる。 
1691年(元禄4年):10月、御茶屋(後の延養亭)が完成。その後も園内各所に御茶屋・小座敷を整備。
1694年(元禄7年):2月、騎射亭の完成。
1695年(元禄8年):11月、渕明堂の完成。このころには「御後園」と呼ばれていたとされる。
1696年(元禄9年):1月、濂渓堂(廉池軒)が完成。2月、観騎亭の完成。
1697年(元禄10年):7月、御舞台の完成。9月、観音堂(慈眼堂)建立遷座。
1698年(元禄11年):1月、水害により損害を受けた延養亭を再建。地蔵堂と境沢(沢の池)の中島に弁財天堂を建立。
1699年(元禄12年):観音堂および仁王門の完成。延養亭と長屋の建て直し。
1700年(元禄13年):御後園が一応完成する。
1707年(宝永4年):能舞台が完成。
1716年(享保元年 :現存する御後園の絵図「御茶屋御絵図」が作成される。
1732年(享保17年):池田継政が2代目能舞台を造る。
1743年(寛保3年):この頃までに唯心山およびひょうたん池が完成。
1771年(明和8年):池田治政により園内の田畑が芝生に変えられる。
1863年(文久3年):この頃までに砂利島が半島から島になり、現在の姿になる。
1871年(明治4年):池田章政、御後園を「後楽園」と改める。2月7日に一般公開。7月14日に池田家が移住。
1884年(明治17年): 池田家から岡山県の所有となり一般に公開。
1922年(大正11年):名勝に指定される。
1934年(昭和9年):室戸台風で被害。
1945年(昭和20年):太平洋戦争時、岡山市が空襲を受けた際に岡山城天守とともに園内の建物も焼失した。
1947年(昭和22年):この頃まで 進駐軍の宿舎として使用される。
1949年(昭和24年):再び岡山県の所有となり、鶴鳴館を山口県岩国市の吉川邸から移築。
1952年(昭和27年):文化財保護法により国の特別名勝に指定される。茂松庵を復元。
1954年(昭和29年):6月1日から一般公開が有料になる。
1956年(昭和31年):かつて岡山に遊学した中国の政治家・郭沫若より2羽のタンチョウヅルを贈られた。これ以降も鶴の飼育が続けられ、元日には園内に放つイベントが催されている。「岡山県自然保護センター」も参照
1958年(昭和33年):能舞台を復元。
1960年(昭和35年):延養亭が再建。
1967年(昭和42年):園内の全ての建物が復元される。
2000年(平成12年):築庭300周年を迎える。

PB230098.jpg(最後も美男美女で…日本人で良かった~笑)

私の点数は??/100です(笑)。
私などが査定なんておこがましいですね、足立美術館の庭園には其処なりの、桂離宮にも勿論素晴らしい美しさがありました。
勿論後楽園にも、心を揺さぶる美しさがあります。
日本人で良かったと思える庭園ですね~GOOD!


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2017/03/27

松江藩松平家の菩提寺、夜な夜な石の亀が歩き回る?『月照寺』

前回に続いて出雲の国からこんにちはです。

ちょっとその前に、共有Bloggerのお友達紹介です
ザ・カップ麺レポート - 新商品レビューブログの管理人「とりまS」さんとそのブログです。

以前から仲良くさせて頂いていたのですが、仕事が忙しくて、ブログUPを暫くお休みされていました。
この度お仕事も一段落して、ブログもUPされ始めたので(ブログ制作は御本職なのでシンプルで素敵なブログと成っております。)、私共々応援宜しくお願い致します(^人^)。

さて、引き続き出雲神仏霊場第五番札所『月照寺(げっしょうじ)』の御紹介です。

CIMG9683.jpg
(書院で拝見したのですが、初代直政公なのか?七代不昧公なのかわかりません(;^_^A、聞いて無かった市郎右衛門です。)

珍しい物が幾つか有るので、お楽しみにして下さいね(#^.^#)

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前回のUPで、元々は「洞雲寺(とううんじ)」という禅寺で、長い間荒廃していましたが、徳川家康の孫に当たる松江藩松平家初代藩主・松平直政が、生母・月照院の霊牌を安置するために浄土宗の「蒙光山(むこうさん)月照寺」として改称復興したのが始まりで、その後二代藩主の綱隆が父の遺命により境内に廟を造り、山号を「歓喜山」に改めた事、松江藩主を務めた松平家の初代から第9代藩主までの廟所が厳かに並んでいるいる古刹である事など御紹介させて頂きました。

約1万㎡の広さを持つ境内に、本堂や宝物殿と共に、各廟所の保存状態が極めて良好ということで、平成8年(1996年)に「松江藩主松平家墓所」として国の史跡に指定された事も御紹介しました。

又、県指定有形文化財として、高真院直政廟門大圓庵治郷廟門も写真にて紹介しましたね。

今回は先の藩主御二方以外の廟所も御紹介すると共に、「夜な夜な松江を徘徊する」小泉八雲の随筆に登場する、六代宗衍公廟所の巨大亀形の寿蔵碑も御紹介すると共に、不昧公の恩願を受けた力士雷電の碑など、藩主菩提寺として由緒正しき遺品・遺跡が数多く残っている、歴史と信仰の寺「月照寺」を御紹介いたします。

CIMG9653.jpg(七代治郷「不昧公」の看板前が茶筅供養塔のはずなのです。)
CIMG9666.jpg(七代治郷「不昧公」廟所)
CIMG9668.jpg(見えにくいですが、五代宣維公廟所)
CIMG9671.jpg(三代綱近公廟所)
CIMG9672.jpg(九代斉斎公廟所、藩主在任中は斉貴を名乗ってます。)
CIMG9673.jpg(二代綱隆公廟所、綱は第4代将軍家綱の文字を頂いています。)
CIMG9674.jpg(八代斉恒公廟所、お父さんの道楽で苦労したとも…笑えん(;^_^A)
CIMG9675.jpg(四代吉透公廟所三代綱近は兄です。)
CIMG9676.jpg(六代宗衍公廟所)

【夜な夜な徘徊する石の亀】
小泉八雲の随筆に登場するお話では、「月照寺の石で出来た大亀が、夜な夜な松江の町に出て人を食べていた。あまり騒ぎを起こすので、困ったあげく亀の背中に大きな石の杭を打ち込んで、動けなくした。あるいは亀の首を切り落としたとも伝わる」と記載されているようです。

CIMG9679.jpg(贔屓の首に傷が有ますね~切り落とされたのかな?)

【実際は亀趺(キフ)の亀うんちく!】
亀趺(キフ)とは台石の一種で、石碑を載せる台石を大亀の形にしたものです。
亀趺は、もともと中国の貴族階級の風習だったのが、江戸時代に日本でも取り入れられた(私が良く訪れる京都東寺にも有ります。)。
亀趺は功績や功徳などを刻んだ石碑を載せるものが多いのですが、鳥取藩主池田家の墓碑のように墓石を載せるものもある様ですね。
亀趺の亀は贔屓(ひいき)といい、龍の九子のうち龍になれなかった一子で、巨大な亀の形に似た想像上の霊獣だとされます。
「贔屓(ひいき)」は「贔屓にする」などと用いられる「贔屓」の事です。
贔屓は「一生懸命努力して力を出すさま」を意味するとされますが、それが「特別に便宜を図ったり、力添えをする」努力した結果に対するご褒美?の意味で使われているのですかね?

【松江藩主松平治郷の贔屓(笑)、雷電 爲右エ門】

CIMG9687.jpg
(左下に手形も見える雷電の記念碑!2メートル近い大大関でした。)

雷電為右衛門(らいでん ためえもん)、明和4年(1767年)1月 ~文政8年2月11日(1825年3月30日)は、信濃国小県郡大石村(現長野県東御市)出身の大相撲力士です。

現役生活21年、江戸本場所在籍36場所中(大関在位27場所)で、通算黒星が僅か10、勝率9割6分2厘で、大相撲史上未曾有の最強力士とされています。

雷電は、大関が最高位で、横綱には成っていません(横綱推挙が今の様な制度ではなかったのです。)。
本場所も年間二場所で、20日間ですね(#^.^#)
「一年を二十日(十日)で暮らすよい男」と江戸川柳で言われた相撲取、昨日の稀勢の里を見ていると、今は大変ですよね~、もらい泣きしましたけどね!

江戸では当時の第一人者だった谷風梶之助の預り弟子となり、初土俵までの6年間を谷風の元で過ごします。
この間に将来の有望性を見込まれ、松江藩藩主松平治郷の抱え力士となります。
初土俵前から士分への抱え上げは異例でした。
初期の禄は「切米8石3人扶持」と伝わっています。

CIMG9681.jpg(綺麗な中庭です。)
CIMG9684.jpg
(おもてなしの心がにくいね。)
CIMG9685.jpg
(備前焼の花器も素敵です。)

さて松江といえば、お茶ですね~不昧公の影響もあって一般の方でも休憩時間は薄茶なんて事も多いようです。
この時は大圓庵は見られなかったですが、次回は丁寧に散策しましょう(笑)
お茶菓子も松江・京都・加賀は有名なんですよ~背筋の伸びる武家の茶も是非味わってくださいね。


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2017/03/25

松江藩松平家の菩提寺、小泉八雲も愛した!『月照寺』

久々に出雲の国を御紹介致しますo(^o^)o

出雲神仏霊場第五番札所『月照寺(げっしょうじ)』です。

松江城から西へ程近く、島根県松江市外中原町に有る「歓喜山」『月照寺』は歴代松江藩主松平家の菩提寺です。

CIMG9654.jpg(書院です中庭が美しいです。)


珍しい物が幾つか有るので、お楽しみにして下さいね(#^.^#)

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『月照寺』をご紹介するのですが、その前に松江藩の変成について少し説明します。

CIMG9649.jpg(月照寺の入り口)




【松江藩と松平家の成り立ち】
豊臣政権時代、出雲は中国地方西部を領していた毛利氏の支配下で、一族の吉川広家がかつて尼子氏の居城だった月山富田城(現島根県安来市)を政庁として出雲および隠岐の2国を経営していました。

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、毛利氏は周防・長門2国に減封となり、吉川広家も岩国に移されます。
これにより遠江国浜松で12万石を領していた堀尾忠氏が、この前年に隠居して越前国府中に5万石の隠居料を得ていた父・堀尾吉晴とともに、あらためて出雲・隠岐2国24万石で入部、ここに出雲富田藩(いずもとだはん)が立藩します。

忠氏は慶長9年(1604年)に27歳で早世、後を継いだ忠晴はまだ5歳の幼児だったことから、祖父・吉晴がその後見として事実上の藩主に返り咲くことに成ります。
吉晴は月山富田城が山城で不便を感じたため、慶長12年(1607年)から足かけ5年をかけて松江城を築城するとともにその城下町の建設を行いました。
慶長16年(1611年)に吉晴は松江城に移り、ここに松江藩が成立しましたが、吉晴はこれを見届けると間もなく死去します。
忠晴は成人したものの男子に恵まれず、寛永10年(1633年)に33歳で死去すると堀尾家は無嗣改易となりますが、堀尾氏が築いた松江は以後も政治経済の中心として栄え、今日に至っています。

結局、堀尾氏に代わって寛永11年(1634年)若狭小浜藩より京極忠高が入部しました。
京極氏は戦国時代に守護代の尼子氏に支配権を奪われる以前の出雲守護であり、故地に復帰したことになりますね。
24万石の領地に加え、公儀御料の石見銀山、石見国邇摩郡・邑智郡の計4万石を預かることとなりました。
しかしわずか3年後の寛永14年(1637年)忠高は死去しました。
死に臨み末期養子として甥の高和を立てたが認められず改易となってしまいました。

寛永15年(1638年)、結城秀康の三男・松平直政が18万6000石で信濃松本藩より転封しました(松江藩松平家初代藩主)。
以後、出雲一国は越前松平家が領する事に成りました。
また松平家は公儀御料となった隠岐1万4000石も預かることになっっています。

【結城秀康うんちく】

此処で取り上げるのもなんだと思いますが、私の大好きな武将なので、彼の戦国乱世に翻弄された、運命が不可思議で興味深いので少しお話させて下さい。
天正7年(1579年)、武田勝頼との内通疑惑から、織田信長の命令により松平信康(家康長男)が切腹させられます(近年では信康が家康と対立したために切腹させられた、ともされます)。
このため、次男である秀康は本来ならば徳川氏の後継者となるはずでした。
しかし、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和解するときの条件として、秀康は秀吉のもとへ養子(実際は人質)として差し出され、家康の後継者は異母弟の長松(後の徳川秀忠)と成ります。

天正12年(1584年)12月22日、元服して、羽柴の名字、および、養父・秀吉と実父・家康の名から一字ずつ取った名を与えられ、羽柴秀康と名乗ることに成ります。

秀康は天正15年(1587年)の九州征伐で初陣を果たし、豊前岩石城攻めで先鋒を務めます(続く日向国平定戦でも抜群の功績を挙げています。)。
天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜され、天正18年(1590年)の小田原征伐、天正20年(1592年)からの文禄・慶長の役にも参加しています。

しかし天正17年(1589年)、秀吉に実子の鶴松(秀頼とは別人です)が誕生すると、秀吉は鶴松を生後4ヶ月で豊臣氏の後継者として指名され、秀康は他の秀吉の養子同様に、他家へ養子に出されることとなりました。

養子先の結城氏は下野国の守護に任命されたこともある名家、秀康は関東に下り黒田孝高の取り成しで結城晴朝の姪と婚姻して結城氏の家督および結城領11万1000石を継ぎました。
また改めて称号として羽柴姓を贈られ、官位から羽柴結城少将と呼ばれました。
パチンコやスロットをされる方は「鬼武者(蒼鬼)」で有名なのでご存知かもしれません。

その結城秀康の三男・松平直政公が生母月照院の冥福を祈って造立したのが『月照寺』です(創建:開創寛文四年「1664」)。

CIMG9652.jpg(本来ならこちらが徳川宗家ともいえるのですがね。)
CIMG9651.jpg(小泉八雲「ラフカディオ ハーン」もこよなく愛したお寺です。)

この地には洞雲寺(とううんじ)という禅寺がありました。
永く荒廃していましたが、松江藩松平家初代藩主・松平直政は生母の月照院の霊牌安置所として、1664年(寛文4年)に、この寺を再興します。
浄土宗の長誉を開基とし、「蒙光山(むこうさん)月照寺」と改めました。

CIMG9669.jpg(直政の母月照院の墓です。)

直政は1666年(寛文6年)に江戸で死去しましたが、臨終の際に「我百年の後命終わらば此所に墳墓を築き、そこの所をば葬送の地となさん」と遺言しました。
2代藩主・綱隆は父・直政の遺命を継ぎ境内に直政の廟所を造りました(この際に山号を現在の「歓喜山」と改めました。)。
以後、9代藩主までの墓所となっています。

CIMG9656.jpg(松江藩松平家初代藩主直政公のお墓にご対面です。)
CIMG9657.jpg(もう少し早い季節が良いかもですね~蓮池も寂しいです。)
CIMG9658.jpg(お寺なのに鳥居?気にしないで行きましょう。)
CIMG9659.jpg(立派なお腹?五輪塔ではありませんね~笑)


茶人藩主として著名な7代藩主・不昧の廟門は松江の名工・小林如泥の作によるとされ、見事な彫刻が見られます。

CIMG9660.jpg(七代治郷公、不昧公の方が有名ですか、江戸中期の茶人としては一番有名かもしれません?)
CIMG9661.jpg(だそうです。大圓庵をなぜか見なかった?なぜだろう?また来いよかな~?)
CIMG9663.jpg(治郷公がお好きだった葡萄の彫り物です。)
CIMG9664.jpg(見事ですね~ここに来てから、細かい所も撮影するようになりました。)
CIMG9665.jpg(怖いほどの見事さ!昔の職人さんはすごいですね~(;^_^A)

境内には不昧お抱えの力士であった雷電爲右衞門の碑があります(次回ご紹介します。)。
また、不昧が建てた茶室・大円庵があります。
1891年(明治24年)、松江に訪れた小泉八雲はこの寺をこよなく愛し、墓所をここに定めたいと思っていたそうです。

「松江藩主松平家墓所」として1996年(平成8年)3月29日に国の史跡に指定されました。
高真院(直政)と大円庵(治郷(不昧))の廟門は島根県の有形文化財に指定されています。
境内には宝物殿があり歴代藩主の遺品が展示されています。
また、アジサイが数多く植えられており「アジサイ寺」として開花時期には多くの観光客が訪れます。

一度でご紹介しようと思いましたが、とても無理、もう一・二度係りそうです。
本当に城下町というのは素敵な場所が多いのですね~。


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2017/03/23

近畿最大級の円墳(勿論兵庫県では1位)茶すり山古墳の凄さ!

長女の大学合格報告を私の父(長女の祖父、当たり前か(;^_^A)にするということで二か月ぶりに実家但馬に帰省する事に成りました。
折角但馬に帰省するのですから、やはり但馬の歴史に触れておかねばと考えて、途中『茶すり山古墳』に寄ってみる事にしました。

少し前に神戸須磨の「五色塚古墳」のお話をさせて頂いたときに、寄り添うように在った「千壺古墳」が兵庫県の円墳2位の大きさだというので、それでは1番はどこだ?と調べたことから、『茶すり山古墳』に興味を持っていたのです。
さらに以前から、毎回帰省時に利用する、北近畿豊岡自動道の和田山から山東への道中、綺麗に復元された埴輪群が飾られた「茶すり山古墳」を見て気になっていたのでした(北近畿豊岡自動道といえばこの25日に八鹿~日高間が開通します。また一歩但馬が近く成りました~めでたいです~。(´∇`))

P3190082.jpg(兵庫県最大、近畿でも最大級の茶すり山です。)

お話を戻しまして、和田山から山東へ抜ける「宝珠峠」の途中の朝来市和田山筒江、標高約144メートルの尾根の先端に位置する「茶すり山古墳」は、5世紀前期の大型円墳です。
円墳としては奈良県富雄丸山古墳(奈良県奈良市丸山に存在し、富雄川の西岸丘陵上に位置する直径約86メートルの奈良県最大級の円墳です。築造は4世紀末ごろとされます。)よりも大きく、近畿地方最大規模を有しています。
其では、近畿地方最大規模の円墳をご覧いただきましょう。

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【茶すり山古墳の規模】



P3190077.jpg(パネル、埋蔵文化財センターは山東PAに在るのかな?今度行ってみよう~(;^_^A)
P3190081.jpg(流石の大きさですね~毎回帰省する度に見てたんですけどね~(^^;)
P3190089.jpg(テラスの円筒埴輪と朝顔型埴輪です。神戸の五色塚と違い鰭が無いですね?)

直径約90メートル・短径78メートル高さ約18メートルの円墳で、2段に築成されていたと考えられます。

近畿地方では最大、全国でも4番目の規模である事が判明しています(驚)。
墳頂平坦面は長径東西約36m、短径南北約27mの楕円形を呈し、墳丘全体の規模からするとかなり広く、この地域(但馬南部)の墳丘形態の特徴を示しています。
墳丘は大部分が削り出し(元々在った山を切り崩して作っています。)によって造られ、斜面の一部には葺き石が遺存していました。
また、墳頂平坦面及びテラス部からは円筒埴輪や朝顔形埴輪が、墳頂からは家形・翳形(さしばがた)埴輪等も確認されています。

P3190094.jpg(ブルーシートで見られませんでした。夏になるとOKかな?今年は雪が多かったからね。私の影はご愛嬌でm(__)m。)
P3190126.jpg(テラスにも木の柱が有りましたね~トーテムポールの様な魔除けでもあったのでしょうか?)

斜面には葺石が見られますが多くは流出しています(一部観察できるように成っていましたが、季節の関係か?ブルーシートでおおわれていました。)。
墳頂部には二つの埋葬施設があり、大型の第1主体部とこれより小さい第2主体部が平行に並んでいます。
調査の結果、墳丘の規模や中心主体の内容がほぼ判明し、中央政権(ヤマト政権)と強く結びついた首長の墓であることが確認されています。

P3190098.jpg
(墳頂部、私の立ち位置を考えると、前方後円墳だと思うのは、素人考えですかね~笑!ちなみに右山山頂部に松山が見えますが、あの!「竹田城」ですよ~驚きました?)


茶すり山古墳の所在地は播磨と但馬をつなぐ交通の要衝で、古代山陰道の郡部駅の推定地にも当たっています。
平成13年度、北近畿豊岡自動車道建設予定地を兵庫県教育委員会が発掘調査を行ったところ、規模が大きく重要な内容をもつ古墳であることが判明したため、協議を行い、道路計画を変更し現状保存することに成りました。

【埋葬者は誰だろう?】

墳頂平坦面では2基の埋葬施設を検出されました。
中央南寄りにある第1主体部は、墓坑が東西13.7m、南北10.5mで、その中央に長さ8.7mの組合式箱形木棺が埋設されていました。
棺内は粘土を敷き詰めて棺床とし、さらに小礫を敷き詰めた遺体埋葬部と、粘土敷きのままの副葬品埋納部とに分かれます。

P3190101.jpg(誰でしょうね?息子かな?ちなみに礫敷は但馬墳墓の特徴だそうです。)
P3190106.jpg
(こちらは写真タイルで再現されています。)

第2主体部は、第1主体部の北側にあり、東西7.5m、南北3.7mの墓坑内に、長さ4.8mの木棺痕跡が確認されています。
副葬品は非常に豊富で、二つの主体部の副葬品を合わせると、青銅鏡4点勾玉・管玉などの玉類2000点武具類では甲冑2組と盾7点武器類では鉄刀・鉄剣・鉄矛など85点と鉄鏃400点農工具類では刀子・斧・鎌など80点余りが出土しました。

これらの中で注目されるのは、畿内地域以外では初めての出土となる三角板革綴襟付短甲(これはすごい鎧らしいです。)や一つの棺からの出土数が最多であった鉄矛など、多量の武器・武具類が副葬されたことです。
また、漆の遺存状況が良好であり、刀剣類の装具の構造や盾の文様構成が確認されました。
さらには、畿内地域を中心に分布する鉄柄付手斧(釿「ちょうな」の事だと思います。木工に用いられる工具!)が出土したことも貴重です。
茶すり山古墳は古墳時代中期前半の近畿地方最大の円墳であり、武器・武具をはじめとする副葬品は豊富です。

墳丘の構築方法などに地域色は認められるものの、三角板革綴襟付短甲や鉄柄付手斧の出土は畿内地域と密接に関わりがあったことを示し、刀剣類の装具や盾における漆の遺存状況が良好であるなど、傑出した内容となっています。
茶すり山古墳は古墳時代の社会や政治動向、とりわけ畿内の中央政権と地域の首長の関わりを知る上で大変重要です。
(文化庁資料より)

P3190128.jpg(一号埋葬施設、綺麗に復元されています。)
P3190109.jpg(こんな感じ、順番に行きますよ~。)
P3190112.jpg(鎧・兜・鉄剣等、ちなみに蛇行剣が見つかっています。珍しいそうです。大和の大王からのお土産かも?)
P3190113.jpg(鏡や勾玉・櫛・刀等、枕の朱色と礫石が見えますね。)
P3190115.jpg(武器が一杯です。一度に1つの墳墓から出る数としては異例だそうです。)
P3190120.jpg(こちらも槍の先などの武器です。)
P3190122.jpg(最後に模様が見えるのは盾です。副葬品の山々すごいですね~驚!!!!)

【大和政権と但馬首長の関わりとは?】
これらの出土品は、古墳時代中期における但馬地域の王墓の実態、ヤマト王権と地方の首長との関係、古墳時代の祭祀や工芸技術を知る上で極めて重要なものです。
このことが高く評価され、国の重要文化財に指定されました。

兵庫県朝来市内には、4世紀~5世紀代に造られた大型の前方後円墳や円墳が多く存在します。
これは、他の但馬地域にはない状況です。
特に、但馬第1.2の規模を誇る池田古墳(茶すり山古墳の先代の首長の墓と考えられているようです。)船宮古墳は、茶すり山古墳と同じく、但馬全域を治めた王墓(首長の墓)と考えられています。


これらの大型古墳の位置は散在的ではありますが、いずれも丹波や播磨に通じる街道沿いにあります。

これは畿内の大和王権の頂点に立つ大王が、交通の要衝に拠点を置く有力な首長との関係を強めながら、日本列島における、地域支配を進めていった結果の一つであると考えられます。

最後に、北但馬生まれ人間としての私といたしましては、豊岡市日高町に後に国府や国分寺・国分尼寺が作られることを考えると、出雲勢力との境界線であった朝来地区は但馬で最も重要な地域だったために、により強力な中央(大和王権)の補助(保護・援助)政策が行われたのではないかと考えるのですが、皆さんいかがでしょう?

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