2018/04/05

古式『四條流姫井会包丁式』って何だ?

先日、平清盛由来の神戸市平野の祇園神社をご紹介しました。実はその時に、4月1日に行われる摂社「白玉稲荷明神社」で行われる『四條流姫井会包丁式』の紹介ポスターがあり、これは珍しいと早速出掛けて取材してきました。

P4011185.jpg(包丁とは思えません!まるで日本刀の様です)

四条流庖丁道は東京「神田明神」でも行われる包丁儀式で、平安時代から始まると伝えられる日本料理の流派で、「庖丁式」ともいわれます。庖丁道(庖丁式)とは料理に関する作法・故実や調理法などを最も頻用する調理器具の包丁で象徴した呼び名の事です。

私もテレビ等では、数度見たことが有ったのですが、実際に現場!それも目の前で見るのは初めてで、貴重な1日に成りました。それでは、作法に則り古来の包丁式を写真多めでご紹介致します。

それでは、『市郎右衛門』歴史ブログをお楽しみ?ください(人´ω`*).☆.。
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(包丁式が行われる舞舞台)
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(桜満開です。奥のテントの下が白玉稲荷です。)
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(祇園神社からは神戸の街並みが綺麗に見渡せます。)

【四條流起源】

P4011096.jpg(神官による神事が執り行われています。)


四條流の起源は、藤原山蔭(四条中納言、824年~888年)が、光孝天皇の勅命により庖丁式(料理作法)の新式を定めたことに由来すると伝えられています。朝廷の料理は宮内省に属す内膳司が司っていましたが、山蔭は宮内省内膳職とは関係ない人物なので、単に料理法や作法に通じた識者として指名されたと考えられます。9世紀には、唐から伝えられた食習慣や調理法が日本風に改善されて定着しつつあったと考えられ、それらをまとめて故実という形で山蔭が結実させたものだと思われます。これにより、山蔭は「日本料理中興の祖」とされています。四條流には様々な分流が有りますが、今回は神戸四條姫井会の四條流を取材してきました。

【四条流庖丁書】

P4011129.jpg(まな板を清めた後花を添えます。)
P4011134.jpg(三宝に飾る紙飾りも手は使いません。)
P4011167.jpg(紙を切って飾りを折っていきます。気迫が入ります。)
P4011150.jpg(三宝からまな板に鯛を移します。)


室町時代後期、すでに四条流の大意をまとめた料理書として『四条流庖丁書』が書かれています。奥書に「長享三年(1489年)二月下旬多治見備後守貞賢在判」とあり、この時期に成立したと思われます。四条流庖丁式の次第が記述され、俎(まないた)の名所・寸法などから記載が始まり、続いて具体的な料理法や、箸・膳の飾り方なども記載されており、当時の日本料理の素材や調理法を知る上で貴重な史料となっています。

驚いた事に、雁の皮煎・潮煎、カマボコ、鳥(雉)の焼き物・刺身、エビの舟盛り、このわた、鯛の潮煮、クラゲの和え物など、多彩な料理が紹介されています。また、四条流では刺身に添えるわさびと塩は接して並べる、酢も添えるべき云々など興味深い記述も有るようです(刺身に酢?面白いですね。)。花鰹の使用も記されており、当時から利用されていることが分かります。日本人の味覚、恐るべしですね。

もちもち、四条中納言藤原朝臣山蔭卿が、鯉の庖丁式を始めたことから、庖丁の儀式の切形が始ったと記載されています。

【庖丁儀式】

今回取材したように、四条流の庖丁儀式とされる、巧みな庖丁さばきによる荘厳な技術披露が現在でも継承され、行われています。藤原山蔭が鯉をさばいて以来の伝統と言われる技法を烏帽子・直垂をまとった姿で再現し、庖丁と真魚箸(まなばし)のみを用いて、鯉・鯛・鰹(今回は鯛でした!)などの素材に一切手を触れることなくさばいていくもので、各地の神事などで奉納されているようです。webで検索すると、伊勢神宮等でも行われたようです。今回庖丁式を執り行うのは、神戸四條流姫井会の方々です(家元、
三重道場・神戸道場が有るようです。)。

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「題 兜鯛」
庖丁人 神戸道場会頭 姫井隆之氏
持ち出し・納め 錬氏 山口るみ子氏

持ち出し・納め 錬氏の女性山口るみ子さんは、まだ慣れておられない様子で姫井隆之さんから、直前迄色々な所作を教わっておられました(笑)。先にどんな物か知りたくて、web検索したのですが、詳細はわかりませんでした。儀式の内容は、流派内の一部の人間で受け継がれる秘伝・秘事として取り扱われているとの事です。

元々年頭や慶事の際に庖丁の型を披露する儀式で、その初めは殿上人や大名が 賓客を歓待する意味で、主人みずから庖丁をとって、その庖丁ぶりを見せ、その切ったものを お抱えの料理人に調理させて賓客に供したといわれています。

P4011218.jpg(見事に下ろされた鯛です。)
P4011238.jpg(鯛の料理が終わりました。)
P4011240.jpg(決めのポーズではありません。円を描く流れの型です。)
P4011273.jpg(三宝に飾り付けた鯛の前で古式四條流の扇子で終了です。)

【最後に一言】

P4011287.jpg(三宝に綺麗に飾られた兜鯛です。見事!)

四條流姫井会包丁式は庖丁と真魚箸(まなばし)のみを使用しますが、手が鯛に触れることは全くありません。さらには、俎にも手を触れず調理された鯛を三宝に盛り付けます。最後にまな板を清め儀式はすべて終わります。古式ゆかしい包丁さばきはまるで能の舞を見ているようでした。庖丁を突き出す所作が裂帛の気合と共に太刀を差し出すような気迫を感じました。ちなみに戦国大名の伊達氏が藤原山蔭の子孫だそうです。神戸道場会頭の姫井隆之さんは料理人というより写真の通り武士の様ですよね。

歴史って本当に素敵ですよね~!
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2018/03/03

「上巳の節句」=『桃の節句』=わが家のお雛祭りをご紹介!

七草粥の時に節句についてはお話いたしました。今日は3月3日「上巳の節句」「桃の節句」!お雛様ですね、実は今日から高校の同級生と香川に遊びに行く予定なのでジャスト24時を過ぎてUPしました。今日・明日は書けそうにないので苦肉の策です。

娘が二人(まん中に長男の三人兄弟です.。)いるのですが、ひな祭りを祝った事は余りありませんでした(娘達!ゴメンね)。長女の最初の雛祭りに妻の両親から大きなお雛様を頂きました。但馬の実家に置いていまして、毎年父(母が亡くなる前は二人で)が飾ってくれてます。凄く大きいので、残念ながら、神戸の家には飾るところが無いのです。でかくて高いので、八畳を占拠してしまいます。

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(かわいいですね~次女のお雛様です。)

次女が産まれて、実家の物は娘二人の物だよと納得させようとしましたが、やはり子供の事、「私のやで~」と長女をが権利を主張するので、亡くなった母が次女を気遣って、可愛らしい、神戸でも飾る事が出来る、コンパクトなお雛様をプレゼントしてくれました。中々セットする機会が無かったのですが、ブログも始めたので、紹介したいと思います。

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【お内裏様は右?左?】

ところで、お内裏様とお雛様の位置関係が、京都(京都でも一部だけかも?)と関東地方(京都以外の全て?)で違うのをご存じでしょうか。普段見慣れているお雛様は、お内裏様は向かって左側に並べられている場合が多いと思います。これは、関東(京都以外)でのお雛様の並べ方なんです。一般的なお雛様は向かって左側がお内裏様(男雛)で、右側がお雛様(女雛)ですね。

京都は公家の装いで飾るといわれています。京都ではお内裏様(男雛)が向かって右側に並べられます。理由については諸説がありまが、ちょっとややこしく成るので、よく考えて下さいね。解りやすく説明出来ないかもしれません。
御所における天子の玉座の位置は左ですから(天皇陛下に成ったつもりで考えて下さい)。つまり、天子様の左側には誰もい無い事に成ります。

日本古来の左は右よりも格が高い「左上座」という考えに倣っています。「左上座」とはお雛様側に立ってみて左であり、お雛様に向かってみると右になります。ですから「右大臣」より「左大臣」の方が地位は上に成ります。ちなみに相撲では東が上位ですよね~、あれは明治に成って東京に明治天皇が移られたので立場が変化しています。

「天子は南面し、臣下は北面す」とあるように天皇は南を向いているので、東は左、右は西に成ります。京都御所から見て東が左京区、西が右京区なのも(地図を北を上に見ると左右が逆転しています)内裏目線なんですね。御所の左近の桜・右近の橘も同じですね。見に行くと(一昨年から毎日見学できるように成っています。)右側が左近の桜です。

ここで重要なのは、日が昇る東が上座にあたるということで、天照信仰とも関連しているかもしれません。左大臣・右大臣が、天子の前に座っている場合、左大臣が東側で上位に当たります(左大臣から見ると下位の右大臣が左側に居ることに成り、左上座のルールが崩れた様に思えますが、この場合も天子を中心に考えて、西側に座って居るから右大臣が下位と考えれば良いでしょう)。

日本古来の「左上座」の考え方があるのなら、関東(京都以外)のお内裏様はなぜ向かって左に並べられているのでしょうか?江戸は武家の装いで飾る。武家社会中心の関東では「右上位」という考え方があり、身分や等級によって座る順番が決められていました。そのため関東地方のお雛様の配置もそちらに習って決められました。

大正天皇が、御即位式で皇后陛下の右に立たれた事は、文明開化以降に西洋文化が日本に入ってきて、西洋スタイルの即位に倣ったと思われます。大正天皇以降の天皇御即位式の配置が、お雛様の並び方に影響を与えた事は確かなようですが、それを決定付けたのは、昭和天皇の御即位式時、陛下が御立ちになる、高御座の位置が右側だった事が基準とされたようです。この時始めて新聞紙上に天皇と皇后の写真が載りました。その際にお二人がお写りになった位置をもって、関東の雛人形では右(お雛様側からの右です)がお内裏様(男雛)、左がお雛様(女雛)と決めた様です(写真で見ると昭和天皇が左側に香淳皇后が右側ですね)。

【 雛祭りの歴史】

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(桃は398円でしたが、一輪挿しは~備前焼「伊勢崎 晃一朗」さん「伊勢崎 淳」人間国宝の息子さんの作です。初めて使った~(;^_^A)

さて雛祭りは、もともと古代中国からわが国に七世紀頃に伝わり、平安時代にはお祝いとして宮廷行事となり、定着しました。 今年は昨年に引き続き雛祭りの原型ともいえる『流し雛』について少しお話させて頂きたいと思います。『流し雛(ながしびな)』は雛祭りのもとになったといわれる行事とも言われています(「雛流し」ともいわれます)。祓い人形と同様に身の穢れを水に流して清める意味の民俗行事として、現在も各地で行われています。今回写真で御紹介するのは鳥取県倉吉市の「流し雛」です。

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(鳥取県倉吉市の流し雛!鳥取市の物とはまた違った風情がありますね~。)
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(綺麗で穏やかですが、建物は地震で被害が有ったとも聞きました。残念な出来事です。)

この流し雛の起源は、『源氏物語』の須磨の巻に出てくるほどに古い歴史を持っています。光源氏がお祓いをした人形(形代)を船に乗せ、須磨の海に流したという記述があります。

三月節句に川や海へ流し送る雛人形、鳥取市周辺では竹骨に貼った小型の一対の紙人形を、三月節句(雛祭)に飾り祭ったうえ、3日の夕方供物の苞(つと)ともども、桟俵にのせて川へ流すのだそうです。現在は郷土玩具として流布もしますが、罪穢を移して流す「祓」の形代(かたしろ)の古意をとどめるもので岐阜県などでは粗製の土人形を流し送る風習が残っているようです。

また関東・中部の各地には、三月節句に子供たちが野外に雛人形を据えて祭り、名残を惜しみつつ「雛送り」をする風習がかなりみられる様です。さらには、古びた雛人形を神社や辻に送り納める習俗も広くみられ、「流し雛」とのつながりを示していると思われます。出雲「佐太神社」の「祓」形代(かたしろ)を紹介しましょう。此がお雛様の最も原形かも知れませんね。

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(佐太神社の水無月大祓の形代です。これがひな人形の原型「原点」だと考えます。)

江戸時代以来、雛人形が美術工芸品と化して保存愛玩されるようになると、「祓の人形」としての古意は失われますが、なお一部には古い「流し雛」の風習が残りました。「上巳(陰暦三月三日の桃の節句。)の祓」と習合した三月節句の原義は、むしろこうした「流し雛」の風習によくその跡をとどめているように思います。

その後、流し雛からさまざまな雛人形の形が生まれます。 そして、江戸時代のはじめに、雛祭りと呼ばれるようになり現在の雛人形の形ができあがります。その形に至る過程は、女性自身と子供の幸せを祈る気持ちの積み重ねによるものであることが、十五人の人形や付随する道具の多くのいわれの中からうかがわれます。

『うんちく①』雛人形の道具の中には、一対の貝桶が付いています(家の大きいお雛様にはついてると思ったけど、ついてませんでした(;^_^A)。
貝桶とは、現在のカルタと同じような遊び方をする、平安時代の遊具を入れる器で、中には蛤の貝が百八十づつ入っています。
そして、その貝の裏側には、絵が描かれ、同じ絵を合わせて遊んだり、また、歌貝とも言われ、和歌の上歌と下歌を会わせて遊ばれました。蛤は、他の蛤のフタとは絶対に合わないので、女の子が大きくなって婚姻したら蛤のように、一生夫と心を合わせて仲良く暮らしたいという気持ちを蛤に託したのでしょう。今日、貝合わせの遊びはなくなりましたが、雛祭りの料理としてちらし寿司に蛤のお吸い物は、付き物になっています。

因みに、今日私もブログ用にセットだけします~!(料理は大好きなのですが!)。蛤のお吸い物は昨年、蛤の身を柔らかなままに作るコツを長女に伝授したので、長女がチャレンジしました。ちらし寿司は、時間が無かったので購入しました。昨年はインスタントですが、お寿司も作り雛あられもありました。今年は手抜きですね。(;^_^A

P3020177.jpg(蛤のおすましに菜の花を添えて、ちらし寿司にと小鉢、器の説明したいけど見えないからな~笑、残念!)
P3030021 (2)(分かりました~ものグラム師匠のおかげで、写真の技術が上がっていますね、うんうん。)


『うんちく②』雛人形のお飾りとして、また食べ物として欠かせないものに、菱餅があります(今日は菱餅は買わなかった、笑)。菱餅の形は、水草のひしの実からきています(ひしの実が菱形なんです。)。昔は、ひしの実は、万病に効く薬草として重宝されました。

また、菱餅の色は、下から白、緑、赤の順番になっていますね、これは雪が降り、芽が出て花が咲く、といった春の草木の成長を表しているようです。子供が、健やかに成長し、立派に育ってほしいといった親の願いが込められているのですね(#^.^#)。

『うんちく③』
同じく、雛人形の飾りとして欠かせないものとして桃の花があります(桃の節句(*`・ω・)ゞだからね)。古くから中国では桃は単なる果物ではなく、桃源郷の不老不死の「仙果」として考えられていました。『西遊記』の中で、仕事もなくぶらぶらしていた孫悟空は天界の桃園・蟠桃園の管理をまかされます。

その桃園には、3,600本の桃の木があり、それを食べると不老不死が約束されるとされていました。この桃を、西王母(中国で古くから信仰されている仙女)の誕生日を祝う会・蟠桃会で食べる慣わしとなっていましたが、孫悟空が盗み食いをしてしまい、蟠桃会を台無しにしてしまったばかりか、不老不死の力も手に入れてしまうのは有名なお話です。西王母の誕生日が3月3日、つまり桃の節句です。

また、桃の花は、悪魔を祓うと言われてきました。古事記の神話で「黄泉の国」から逃げ帰る伊邪那岐は、その場にあった桃の木から実をもぎ取ってを投げつけることで黄泉の醜女を追い払っており、ここらにも中国文化の影響が出ているのかもしれません。ちなみに出雲安来の「黄泉比良坂」には今でも山桃の木が植えてあります。

そうしたことから、お雛さまの横には、桃の花を花瓶に生けたり、前飾りとして三宝を置き、その上の徳利に、桃の花をさして飾っているのです。そして、旧暦三月三日頃には、桃の花が咲くことから三月三日は、桃の節句とも言われています。

『うんちく④』
そして、現代になって雛人形の飾りとして、最も象徴的な存在が、雪洞(ぼんぼり)!これは、雛祭りの歌によるものが大きいと考えられます。「あかりをつけましょぼんぼりに…」から始まるこの歌はあまりにも有名です。雪洞に照らされたお雛さまのはんなりした雰囲気は、家庭の中にやすらぎと家族の絆を強く感じさせてくれます。この雪洞に照らされた雛人形の姿は、日本人が世界に誇る人形文化の傑作といえます。 

【歴史ブログなのでこんなお話】

兵庫県たつの市御津町室津地区では、ひな祭りを旧暦8月1日に行っていました。『室津追考記』によると、永禄9年1月11日(1566年2月1日)、室山城主・浦上政宗の次男・清宗と小寺職隆の娘との間で挙げた祝言(結婚式)の夜に、かねてより対立関係にあった龍野城主・赤松政秀の急襲を受けて政宗は清宗もろとも戦死し、花嫁も亡くなり、室山城は落城します。室津の人々はこの出来事を悼み、非業の死を遂げた花嫁の鎮魂のために、3月3日ではなく、半年遅れの八朔に雛祭りを延期したとされています。戦後、この風習は長く途絶えていたが、近年、町おこしの一環の「八朔のひな祭り」として復活したそうです。

たぶん?大河ドラマ「軍師 官兵衛」の影響?小寺職隆(「小寺」黒田官兵衛の父で配役は柴田恭兵さんでした)が養女にした娘の結婚式が襲われるシーンでしたね。岡田准一さん演じる黒田官兵衛の初恋の相手でしたか?

【デカいですね~トリを飾るのは長女が自分用と主張するモネ雛】

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(最後に登場、長女のお雛様!デカいですね~貝桶はやはり無いですね。このブログは時間かかりました~半日有給、爆笑)


元は中国の影響かも知れませんが、現在は完全に日本のひな祭りに成っています。こんな素敵な文化を子供たちに受け継いで行ければ、日本の国は1000年は大丈夫だと考える市郎右衛門です。

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リュミエールブラン ネージュ

2018/02/04

今年(2018年)は「南南東」『恵方巻』はコンビニの策略だ!

今年もやって来ました。今や全国的に広まった節分の恵方巻イベント、元々は、関西の一部(大阪と兵庫県の一部)だけで行われていた行事?でした。兵庫県北部但馬生まれの私は、子供の頃はまったく知りませんでしたし、そんな食べ方していなかったと思います。同級生や同郷の妻も、子供時代は知らなかったとのことでした。

兵庫県尼崎市(阪神間ですね!)の伯母の家では、私が小学生の40年以上前から、丸かぶりしていたのを記憶しています。
この近畿圏の私が知らない、「「恵方巻」成るものの歴史を追いかけて見ました。


P2020100.jpg(セブンイレブンの我がもの顔の垂れ幕です。)

どうやら、コンビニが大きな役割を担っているので、そちらも調べてまいりました。もう少しするとバレンタイン!こちらも同じように業者の策略に乗せられているようなので、少し冷静に考えてみましょうのブログです。

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【恵方巻の名前自体がコンビニの発案?】

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(子どもの頃は関西のコンビニはローソンだった。兵庫県の店舗数1位はセブンイレブン、2位はファミリーマート、ローソンは3位に後退しています。)

調べてみると、『恵方巻』の名前自体がセブンイレブン(1990年)の発案でした。元々は、関西圏でも『節分のり巻き』の名前だけだったようです。皆さんはこの、海苔巻きにかぶり付いている姿、何か日本らしからぬお下品さと、感じられた事はありませんか?そうなんです。

発祥に付いては幾つかの説が有る様ですが、江戸時代末期から明治時代初期、大阪の商人(「船場の商人」とする資料も存在します。)による商売繁盛の祈願事として始まったという説や、豊臣秀吉の家臣・堀尾吉晴(初代松江城主)が偶然節分の前日に海苔巻きのような物(様な物って?)を食べて出陣し、戦いに大勝利を収めたという故事を元にしているという説も有ります。ただし、板海苔の誕生は江戸時代であることから、この説の根拠の乏しさが指摘もされています(他にも幾つか説は有るようです)。

起因として「厄落とし・縁起担ぎ」や「船場にある階段の中段で女性が太巻きを丸かじりして願い事をした」更には「船場の旦那衆のあそび」等が挙げられています(その他にもまだ有ります。)。

【遊女と巻寿司】

しかし、私は最後の旦那遊びを推薦します。花街発祥の、「怪しげな風習」ですが、かつては商家の旦那たちが、遊女と巻寿司を使った遊びを楽しんでいたのだそうです。花街の遊女に海苔巻きをかぶり付かせて楽しんでいる旦那周の助平心が、このお下品な風習を広めたと考えると、納得しやすいのです(///∇///)。あっ!貴方、今ソフトクリームを舐める女性を想像しましたね。バナナやウィン…もうやめときましよう。兎に角そういう事だと思います。

なぜ、そんな風習が全国的に広まったのか?節分にその年の恵方を向いて巻き寿司に無言でかぶりつく、そうすれば幸せになる、願い事が叶う?毎年恒例の行事となりつつある「恵方巻」ですが。ただ、この風習の由来は定かではありません。あたかも伝統であるかのように「装われた」ものだと言われています。

いったいどういう経緯で、ここまでの広がりを見せたのか、恵方巻に詳しい民俗学者はこのように分析しています。熊本大准教授の岩崎竹彦さんは「とりあえず大阪の船場が発祥だということは確かでしょう」とBuzzFeed Newsの取材答えられています。節分の巻き寿司(恵方巻)の研究者で、「フォークロリズムからみた節分の巻きずし」などの論文をお出しの方です。

フォークロリズムとは、伝統的な民間伝承が、違う文脈で使われるようになることを指す言葉です。「もともとは船場の旦那衆が、花街でやっていた遊びでしょうね」岩崎さんの調査などによると、やはりかつて商家の旦那たちが、遊女と巻寿司を使った遊びを楽しんでいたのだそうです。

平安時代の絵巻物や映画・ドラマなとでも扇で口を隠す姿を良く見かけます。口を開ける(若しくは、口の中を見られる)事は恥ずかしい事だったようです。現代の様な歯科医院が無かった時代、虫歯等で歯が痛い時には、丸々抜いてしまう方法が取られました。ですから、お口の中はぼろぼろだったのかも知れません(恥ずかしい)。それがいつ頃から少しずつ、人々に浸透していったのでしょうか?明治末期の大阪で生きた人が残している回顧録などには、「家でそういうことをしていた」という記載もあるといいます。

いずれせにせよ、恵方巻きの明確なルーツは不明です。近畿地方の一部に広がっていた風習であり、「伝統行事」と言えるまでではなかったのです。

【大阪鮓商組合が商売に利用】

戦前から始まった「幸運巻寿司」こうした「怪しげな風習」にそれらしさを付与したのが、商業キャンペーンでした。前出の岩崎さんは、巻寿司に関するビラを収集しておられます。発見した一番古いものは、やはり1932(昭和7)年に大阪鮓(すし)商組合後援会が発行したものだそうです。これは、太巻きを自ら広めた大阪鮓商組合後援会事務局長も、認めておられるようなので、信憑性が高いですね!太巻は七福にちなんで、7つの具を入れて巻くのが基本になったようです。

「幸運巻寿司」をPRするためのビラには、こんな内容が書かれています。《この流行は古くから花柳界にもて囃されていました。それが最近一般的に宣伝して年越には必ず豆を年齢の数だけ食べるように巻寿司が食べられています。これは節分の日に限るもので、その年の恵方に向いて無言で一本の巻き寿司を丸かぶりすればその年は幸運に恵まれるということであります。宣伝せずとも誰言うともなしに行ってきたことを考えると、やはり一概に迷信として軽々しく片付けるべきではないかも知れません。いま、私たちが知っている「恵方巻」そのものだ。》ここでも「花柳界」(遊郭など)に原点があるとされています。

次に古いのは、1940年(昭和15)年に同じ組合が発行しているものです。そこに書かれている内容は、《巳の日に巳寿司と言うてお寿司を喰べるように毎年節分の日にその年の恵方に向かって巻寿司の丸かぶりをすると大変幸運に恵まれるという習わしが昔から行事の一つとなって年々盛んになっています。》

「習わし」「昔からの行事」としつつ、その由来には一切触れられていません。花柳という言葉が消えているのは、時勢として良くないとの判断があったのかもしれません。この年は「皇紀2600年」の節目です。戦時であり、国威高揚に熱心だったご時世でした。「大変幸運に恵まれる」ことは、消費者が望んでいたものでもありました。いずれにせよ、恵方巻と同じような風習は、戦前から寿司屋のマーケティングに活用されていたのです。

戦火が激しくなるうちに中断していたこのマーケティングは、終戦から4年後には再開していた様です。その後、高度経済成長期に突き進む日本で、この「風習」を利用したのが、スーパーマーケットとコンビニエンスストアでした。全国展開の基礎をスーパーがつくり、結実させたのはコンビニです。

1970年代後半から、大阪の海苔組合や厚焼組合などがビラを発行し始めます。大手のスーパーマーケットから依頼されたものもあったといわれます。ただ、どれも「昔の言い伝え」などとしている物でした。

一方の鮓組合は、風習の起源を明確に示したビラを発行しています。いつからかは不明だが、1990年のものにはこう記載されています。《江戸時代の末期若しくは明治の始め頃から大阪の中心地、船場が発祥地とされております。商売繁盛、無病息災、家内円満を願ったのが事の始りです。一説には若い女性の願いである好きな人と一緒になりたいという祈りから広く普及したとも伝えられております。》

岩崎さんは前出の論文の中で、こう指摘されています。「鮓組合のコピーによって昔からの言い伝えに根拠が与えられ、いわば怪しげで不可思議な風習が本物となった、あるいは本物であることの装いができあがった、と考えられる。」。こうして作られた「風習」はスーパーマーケットの折り込みチラシやチェーン店の寿司屋(小僧寿し?)、コンビニエンスストアによって広がりを持つようになっていきます。

バブル期には巻き寿司がどんどん豪勢になっていきました。マグロやカニやイクラを入れて、値段が高くなっていきました。一方のバブル崩壊後は、社寺で祈祷を受けたノリを使ってプレミアをつけていたようです。その頃はリストラの嵐でしたから、国民みんな大変な思いをしていると言うことで、祈りをキーワードに巻寿司も販売させようとした、業界の苦労が感じられます。

【全国に展開させたセブンイレブン】

P2020102.jpg(セブンイレブン恵方巻セット?)


それでも、昭和60年代や平成の初め頃ではまだ全国に浸透しているとは言い切れない状況でした。そんな中、チェーン店として初めて「恵方巻」という言葉を用いて全国展開を図ったのが、セブンイレブンです。

セブン&アイの広報担当者は、BuzzFeed Newsの取材にこう語っています。「1989年に広島県の一部店舗で『太巻きを節分にどうぞ』と売り出してみたのが始まりです。2月は催事が節分しかなく、関西出身のオーナーが関西では節分に太巻きを食べるという風習があることに目をつけて、おすすめしてみたそうです」。

オーナーの目論見は見事に功を奏し、そのまま展開が広がります。全国展開が始まったは、1998年のことです。売り上げは年々増加しています。2016年は、664万本が販売されました。(セブン&アイHLDGS)

ここまでくれば、「怪しげな風習」だった恵方巻は、もはや新たな「伝統」と言えるのではないでしょうか?北海道や沖縄には最近になってようやく風習が広がり始めたようです。特に沖縄はもともと節分行事がありませんでしたから、スーパーマーケットがどんどん宣伝をしている段階です。

ほぼ全国制覇は完結しそうです。まだ伝統と言えるかは微妙ですが、間違いなく、将来的には伝統になるでしょう。ちなみに、今年の恵方は「南南東」です。

【我が家の恵方巻!いや此方の方が重要だ。】

P2030149.jpg(鰯と柊、こちら重要です。ちなみに柊は食彩館さんの御好意で頂きました。角皿は下手くそな私の作品です。)
P2020119.jpg(そして豆まきセット、お面も付いてました。)
P2030129.jpg(そして私が食べるのは上の海鮮巻き「須磨寺」の胡麻祈祷・厄災難除のお札付きです。)
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(具は七種類、神戸七福神ゆかりのありがたい具材です。)

結婚してから毎年我が家でも、恵方巻(私は当然?海鮮巻ですが、笑)を買って黙って黙々と恵方にむかって食べております。近頃日本古来からの風習である、豆まきやイワシとヒイラギの魔除けの方を大切にしなければ行けないと感じています。反省材料ですね(笑)。

此方伝統の豆まきですが、宇多天皇(在位887~897)の時代に、鞍馬山の鬼(朝廷に、まつろわない民の総称?土蜘蛛等)が出て来て都を荒らしたので、祈祷で鬼の穴?を封さぎ、三石三升の炒り豆(大豆)で鬼の目を打ちふさぎ、災厄を逃れたという故事伝説が始まりといわれています。

豆まきは、「穀物には生命力と魔除けの呪力が備わっている」という信仰、または語呂合わせで「魔目(豆・まめ)」を鬼の目に投げつけて鬼を滅する「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いがあります。

柊と鰯は、柊の尖った葉に魔除け意味合いがあるようですし、鰯に付いては鬼は生ぐささが嫌いみたいです(ニンニク嫌いのバンパイアか!(;^_^A)。

【ここで何時ものうんちくを!】

鬼といえば、鬼門を思い出しませんか。鬼門は丑寅の方角(鬼は牛の角が生えていて、虎のパンツルックなのがご理解頂けましたか?)ですね。

京都御所は(鬼門封じとして比叡山延暦寺を作ったにも関わらず)北東が削られて、鬼に角が立たないように造ってあります。知っておられましたでしょうか(一昨年京都御所の鬼門写真が無くて、岩清水八幡宮の写真を使いました。その翌日京都御所の鬼門だけ撮影に行った私は、Bloggerの鏡です。自分言うか~!Σ(×_×;)!)?

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(京都御所の鬼門、角がへこんでいます。)

豆まきの掛け声にも地域性は有るようで、我が家の近く三田市(みたではなくて「さんだ」です。東京の三田と混同されるので、サンダクロースを掛け声にしています。無理ないかな?)では、戦国武将九鬼氏(九鬼水軍で有名!)の城下町なので、旧市街地では、「福は~内」「鬼も~内」だそうです(成る程ですね!)。

【最後に一言】

昨年比は、子供たちが私の書斎にも豆をまいてくれました。昔は普通に豆をまいていましたが、今は袋入りの豆(圧力で揚焼き?してあるのか、柔らかくて食べやすいです。埃も付くしね!)ですね、風情は無くなったけど、これも時代です。

今年は、私が友人と三ノ宮で遊んでいたので、豆まきは妻が代わりに行ってくれました。もう立春ですか、年を重ねると早いですね~(;つД`)。幼馴染というのは良いものです。気兼ねも無いし、女の子(もう子じゃないな)も皆若々しく、素敵な奥様方です。

伝統文化は当然ですが、少しずつ変化しています。これは今に始まった事では無いと思いますが、例え形は変わっても、日本人として伝えて行かなければいけない文化も有ると思います。勿論!「恵方巻」も良いですが、古来の豆まきも是非行って文化を引き継いで頂きたいです。

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リュミエールブラン ネージュ

2018/01/20

「大国主」は屠られて『出雲王国』は滅亡した?

今回のブログは、「大国主」は暗殺された?哀愁の『須勢理毘売命』を追って!vol③に当たるものです。このシリーズはvol②で終わる予定でしたが、鳥取県の考古学関係者の友人から愛あるクレームが有りました。(笑)成る程~と思ったので、vol③に当たるこのブログを書くことにしました。

問題点は前回の「まだご紹介していないのですが、出雲には四隅突出墓といわれる、独特の古墳が有り、国譲り以前の出雲が独特の文化を有していたのではないのかと考えています。妻木晩田遺跡には四隅突出墓が数多く発掘されています。」の部分です。

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(やはり大国主は殺されたのか?神話の謎を解き明かそう。)

彼いわく、「四隅突出墓では無い!正確には四隅突出墳丘墓で、古墳では無い!」とのこと。説明が難しいので調べてみると共に、vol①でプレゼントのお話もしたので、そちらも合わせて今回のシリーズは最終話にしたいと思います。(^人^)

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【墳丘と古墳の違い】

P5190131.jpg(墳丘と古墳の基準となる箸墓古墳!やはり美しいですね。)
CIMG2608.jpg(妻木晩田遺跡で最初に作られた洞ノ原1号墳。)
P8111380.jpg(四隅突出墳丘墓の分布図、これが出雲王国の全貌だと思います。)
P8111360.jpg(西谷墳墓群の横穴墓と呼ばれる横穴の墳墓群)

愛有るクレームを頂きまして、墳丘墓と古墳にどのような違いがあるのか調べてみました。webの見解では「古墳」は墳丘が一人の埋葬者のために造成されている(複数の埋葬者がある場合は古墳に含めない)。前方後円墳、または前方後方墳・円墳・方墳という規定形で、一定の政治的意味が付与されていると考えられているようです。

吉野ヶ里の墳丘墓、山陰地方の四隅突出墳丘墓(西谷墳墓群も取材済みですが、まだご紹介していません。)などは複数の埋葬者があるので古墳とは呼べません。更に、岡山の楯築遺跡(此方もまだご紹介していません。取材済みです。)は、一人の墳丘ですが、前方後円墳ではないので古墳と認められない(前方後円墳の原型ともいわれ、方部が2つの双方中円墳)、という論理のようでした。

また、wikipediaを参考にすると、3世紀後半を境に呼び方を変え、区別していると説明されています。これは箸墓古墳を基準にしていると思われ、それ以前は墳丘墓、それ以降を古墳と呼ぶようです。実際は箸墓古墳の在る纒向遺跡には、箸墓古墳以前の纒向石塚古墳・纒向勝山古墳(此方を卑弥呼の墓と考える学説も有るようです。)・纒向矢塚古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳があり、木製品の年輪年代測定などから、纒向石塚古墳は遅くとも225年頃までには造られていた事がわかっています。

この事実から、古墳の形や発展、社会の動きや時代を基準に墳丘と古墳を分ける明確なラインはないと考えますが、教科書や新聞では、はっきりと分かれているようです。墳丘墓と古墳を分けているのは、時代の様です。初現期については諸説あり、意見が割れていますが、極論で分けてしてしまえば、古墳時代に作られたのが古墳で弥生時代以前に作られたものが墳丘墓と呼ばれています。

楯築や四隅突出型などは誰もが弥生時代と認めるので墳丘墓と成るようですが、纏向にある箸墓以外の5つの墳丘を持つ墓は3世紀代を古墳時代に含めるか、箸墓以降を古墳時代とするかの見解が割れているので、人によっては古墳と言い、人によっては墳丘墓と呼んでいます。ただし、教科書的には従来からの箸墓以降を古墳時代とするという見解を取っていますので、箸墓よりも古いものは墳丘墓、箸墓より新しいものは古墳と分けて記載しているようです。

古墳であるか否かの基準としては「定型化(前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳等)」ということがあげられますが、この条件をいろいろ調べていくと古墳時代でも小さい古墳や地方の古墳だと整合性の無い物が多く現れ、基準や定義だけから古墳と墳丘墓を厳格に区別するのは事実上無理だと考えます。

岡山の楯築遺跡は、埋葬者は一人ですが、前方後円墳でない上に弥生時代の物ですから古墳と認めないという考え方は、明らかに間違っていると思います。「古墳」というものが王権の象徴と考えたうえで、弥生時代とは全く異なる社会的な意味がある物なのだということを強調し明確化するために用語が変えられていると思います。

私の結論では、基本的に箸墓古墳以降の物は全て古墳(人数が二人の野口王墓や藤ノ木古墳は個人墓では有りません)と呼ばれます。一方纒向遺跡の5古墳や楯築遺跡は、箸墓古墳より古いのですが、古墳と呼んで差し支えないと思います。墳丘墓と呼ばれるのは、明らかに弥生時代のもので(移行期は個々に選定する。)、なおかつ現代の○○家代々の墓、に相当するものです。

前回私が四隅突出墓(墳丘墓)を古墳と書いたのは使用間違いだったわけですが、私的には固有名詞としての古墳ではなく、古い墓の意味で使用したつもりだったので、お許し頂けましたら幸いです。

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(出雲では狛犬も独特、意宇六社の中でも私が最も美しいと思える、真名井神社の云型狛ちゃんです。)

【雲太、和二、京三】

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(48mと言われる中古代の出雲大社当時の復元模型・雲太です)
CIMG1283.jpg(和二・東大寺大仏殿!建設当時は横幅がさらに大きかったようです。)
PA280331.jpg(現在京都にある御所の大極殿ですが、南北朝時代にこの場所に移って建て直されています。)

松江市出身の友人が「雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きようさん)という言葉を、小学生時代に覚えされられた」と言っていたのでご紹介します。平安時代中ごろに「口遊(くちずさみ)」と呼ばれた、大建造物の歌謡の事です。「雲」は出雲、「太」は太郎という名前が示すように長男、「和」は大和、「京」は京都。つまり、出雲大社が1番、奈良の大仏殿が2番目、京都御所の大極殿が3番目という意味で、日本の巨大建築のベスト3を表しています。

世界最大の伝統木造建築物として大仏殿をご紹介する予定が有るのですが、(此方も取材は行っているのですが、まだご紹介出来ていません。)、それより大きな建築物があったのです。

現存する大仏殿は、正面の幅57.5m、奥行き50.5m、棟までの高さ49.1mで、古代の物より少し高いようですが、『東大寺要録』の「大仏殿碑文」によると創建時の大仏殿の規模は、幅29丈(約85.8m)、奥行き17丈(約50.3m)、高さ12丈6尺(約37m)と記録されています。高さは現在の方が高いようですが、横幅は現在1.5倍も有ったんですね~驚きました。

現在は焼失して実物は残っていませんが、昔の書物に「出雲大社は16丈(48.5m)、大仏殿は15丈(46.4m)」と記録されています。つまり古代出雲大社の方が高さは高かったことになります。

さらに、本居宣長は、幻の出雲大社を記述した本居宣長の「玉勝間」の中で、「出雲大社本殿の高さは、太古は32丈(96.96m)、中古は16丈、近古は8丈という言い伝えを記載しています。現代の建築学者は「32丈(96.96m)は、構造的に不可能」と言っているようですが、100m近い木造建築物が本当にあったのでしょうか、見てみたいですね。

平安時代、雲太といわれたころの出雲大社は16丈(48.48m)の壮大な建物でした。これが8丈に縮小されたのは、鎌倉時代宝治2年(1248)の造営からの様です。すなわち、平安時代中ごろには、出雲大社がもっとも大きく、次いで東大寺大仏殿、京都御所大極殿の順だと歌われました。

《幻の出雲大社を記述した本居宣長の「玉勝間」を参考》

古代出雲大社、長い間その出雲大社は記録に残るだけの「幻の木造建築」でしたが、2000年にそれを裏付ける遺構が発掘されました。出雲大社の境内の地下から、直径1.35mの柱を鉄の輪で3本束ねた直径約3mの柱の跡が2ヵ所発見されたのです。

6本の柱のうち4本がスギ。あとの2本は不明ですが、おそらくヒノキかコウヤマキでしょう。建築されたのは平安末期と推定されています。江戸時代に再々建された現在の東大寺大仏殿には集成材の柱が使われていますが、平安末期すでに丸太のまま束ねて柱にするという技術があったわけです。日本の建築技術は凄いですね。

日本人気質ということで、一つお話をさせていただきます。ウズベキスタンの首都タシケントに、1,500人の観客を収容する壮麗なレンガ作りのナヴォイ・オペラ・バレエ劇場があります。1966(昭和41)年4月、震度8の大地震が市を襲い、市内の建物の殆んどが倒壊した中でも、この劇場はびくともせず、市民の避難所となりました。この劇場を造ったのは、大戦後シベリアに抑留され強制労働に従事した日本兵でした。1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本人抑留者が、このアリシェル・ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場の建設に参加し、その完成に貢献しました。

同様に、ウズベキスタン全体では、2万5,000人の日本人抑留者が強制労働に従事して、道路や運河、発電所、市庁舎、学校などを作っています。どの建物も地震被害はほとんどなく、日本人が勤勉に働いていた様子が語り継がれています。捕虜となり過酷な労働条件の中でもできうる限りの最高の物を作ろうとした日本人の姿が目に浮かびます。

現在首都タシケントでは、春になると桜が満開になるのだそうです。この桜は日本人墓地を管理してくれているタシケントの市民に感謝の意を込めて、遺族会が苗木を送ったものだそうです。お隣の国では嫌われているわが国ですが、世界で日本を嫌っている国はほんの数か国だということも考えておきたい事実です。

【追いやられた出雲系一族】

国譲り神話を元に、地方に分散され力を削がれた出雲系一族をご紹介しましょう。まずは「八上姫」です。こちらは「須勢理毘売命」の嫉妬心に恐怖した「八上姫」が子供を置いて因幡に帰国(内輪もめ)したことに成っていますが、大和から出雲を征服するコース上にあるのが、因幡に成ります。戦国時代には、羽柴秀吉が出雲進攻を美作から因幡へと行っています。因幡が懐柔され「八上姫」は実家に帰されたのかもしれません。歴史は繰り返すの例えもありますからね。

次は「須佐之男(すさのお)」です。須佐族王の意味かもしれません。日本神話の中でも三貴神の一人として登場します。しかしながら、このシリーズでご紹介したように、天孫族では無いようです。全国に須佐之男を祀る神社は数多くあります。京都祇園祭りも八坂神社(御祭神は須佐之男です)のお祭りです。須佐之男が誓約で生んだのは宗像三女神、海の神様ですね。海路の重要性を考えた大和勢力が一番先に懐柔したかった人物ではないでしょうか?

次は「事代主」です。島根県美保が関の美保神社に祀られていますが、なぜか継母の美穂津姫と一緒です(お目付け役かな?)。美保神社には古事記に題材をとった「青柴垣神事」で有名です。以前私も偶然に拝見する機会がありました。神事の中心は御船が宮灘から離れ、最も尊い神域である「青柴垣」に近づきます。そして、これまで続いた精進潔斎を経た當屋(氏子から選ばれた男性)は神がかり状態になり、その体に神霊を戴きます。ここで、當屋は船内において「生き化粧」へと化粧を塗りかえます。

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(美保神社の青柴垣神事、當屋が青柴垣を祀る船に向かいます。正にうなだれる「事代主」に見えませんか?)
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(小忌人は地面に足を突かないそうです。天津神の使いですね。)

解釈ははっきりしないようですが、精進潔斎を経た當屋がうなだれ両脇を支えられながら、御船に乗り込む姿は大和軍に引き立てられる事代主そのものに感じました。小忌人(古くは大齋人)と言われる少女が、當為知に背負われ地に足を付けない姿は天孫族の使いとも見えました。国津神から天津神へ変わる神事ということでしたが、古事記に有る青柴垣に隠れるは、死を意味するものかもしれませんし、伯耆国には事代主が逃げて来たという伝承場所(倉吉市波波伎神社社)が残っています。

さらに、『古事記』の国譲りに登場する武闘派神、「建御名方(たけみなかた)」、『先代旧事本紀』「地祇本紀(地神本紀)」では、大己貴神(大国主)が高志沼河姫(こしのぬなかわひめ)を娶って生まれた一男が建御名方であるとされます。日本書紀には記載はありません。 建御雷に力競べを挑み建御雷神の手を掴むと、建御雷神の手は氷や剣に変化しました。建御名方神がこれを恐れて下がると、建御雷神は建御名方の手を握りつぶして投げ飛ばしてしまいます。

建御名方は逃げ出したが、建御雷がこれを追い、ついに科野国(信濃国)の州羽海(諏訪湖)まで追いつめて建御名方神を殺そうとしました。その時に、建御名方はその地から出ない旨と、大国主・八重事代主に背かない旨、葦原中国を天つ神の御子に奉る旨を約束したといいます。

そして最後が今回シリーズとして取り上げた「須勢理毘売命」です。唐王神社や大山町の伝承によると、大国主と離れて大山の見える、出雲の端で生涯を閉じています。出雲大社では仲良く祀られていることに成っています。

PB020002.jpg(出雲大社一の鳥居、やはり大きいですね~!)
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(二匹の兎は大社に何を祈るのか?)

唐王神社近くに存在する「妻木晩田遺跡」も少しだけご紹介しておきましょう。標高90~120メートル前後(平野部との比高差100メートル前後)の尾根上を中心に立地し、面積約170ヘクタールにおよびます(吉野ヶ里の5倍)。これまでにま17.2ヘクタールが調査され(それでも10分の1です)、集落関係では竪穴住居395基、掘建柱建物跡502基、墳丘墓(四隅突出型墳丘墓含む)24基、環壕等が検出されています。

一連の集落は弥生時代後期を中心に中期終わり頃から古墳時代前期初頭にわたって営まれてたことが分かっています。いわゆる倭国大乱の影響とされる高地性集落ですが、比較的大規模で長期にわたる例は少なく、注目されていて昨年も12月まで発掘調査が行われていました。今年も予算が付けば、更なる調査が行われる予定です。

【最後に一言】

毎回言っていることですが、歴史は勝者が書き換えるのです。大国主の国譲りも、事代主の青柴垣へのお隠れも、建御名方の諏訪湖への逃亡劇も、須勢理毘売命が出雲大社で仲良く暮らしたお話も疑っていきますと限がありません。

しかしながら、国を譲られた大和勢力が古事記において出雲国の神話を中心に据えた理由は、やはり出雲王国の底力を恐れたからではないかと思います。邪馬台国論争、卑弥呼論争は出雲抜きでは語れないのではないかと思うのですが、皆様はどう思われますか?

最後に成りましたが、プレゼントのお話忘れていました。「須勢理毘売命」が「大国主(葦原の醜男)」を助けるために渡した砂と同じものだとも言われる唐王神社神殿下の砂です。私の分も含めて3つ頂きました。ご要望がございましたらプレゼントさせていただきます。

神話のお話、須佐之男が頭の虱を取るように言いつけられた大国主最後の試練、頭にいたのは虱ではなくムカデでした。大国主は、須勢理毘売命からもらった椋(むく)の実を噛み砕き、同じくもらった赤土(実物は赤くありませんが、笑)を口に含んで吐き出して難を逃れたあの砂と同じものだそうです。蝮や毒虫の危険は少なくなりましたが、昔ながらの悪い虫はまだいます。それは、女性にとっては男性、男性にとっては女性だそうです(爆)。この悪虫に対する須勢理比売命の神通力は今なおこの地で信じられています(結構必要な人いるかもしれません)。ご希望の方はコメントを頂きましたらお贈りいたします。応募多数の場合は厳正にくじをひかせていただきます。

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リュミエールブラン ネージュ

2018/01/16

「大国主」は暗殺された?哀愁の『須勢理毘売命』を追って!vol②

さて、今回も前回ご紹介した、出雲の成り立ちと古事記の説明も交えながら、前回の続き『須勢理毘売命』の逃避行の続編をお送り致します。勿論看板兎もご紹介します(笑)!

P8111160.jpg(大国主と須勢理毘売命の結婚式壁画の前で三々九度をする二匹の兎可愛い~!)

現在と違い、陸路の交通網は整備されておらず、須勢理毘売命を追い掛ける?大和軍もアウェイな陸路道中のリスクは避けなければいけなかったのかも知れませし、強力な水軍の存在は疑問が残ります。元々日本海交易の中心を担って来たのは、出雲なのですから。

一方、逃げる須勢理毘売命側の上陸地点近くには環濠集落をも備えた、妻木晩田遺跡も有り、出雲勢力が色濃く残っています。妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)は、鳥取県西伯郡大山町富岡・妻木・長田から米子市淀江町福岡に所在する国内最大級の弥生集落遺跡です。遺跡の面積は156ヘクタールにもなり、これは発掘当時国内最大級と喧伝された吉野ヶ里遺跡(当時32ヘクタール、現在は調査が進み、約2倍の面積になっている)の5倍にもおよぶ大規模なものです。

ところで、まだご紹介していないのですが、出雲には四隅突出墓といわれる、独特の古墳が有り、国譲り以前の出雲が独特の文化を有していたのではないのかと考えています。妻木晩田遺跡には四隅突出墓が数多く発掘されています。正に出雲の牙城といえます。

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【意宇の杜ってなに?】

CIMG2378.jpg(杜というより林位ですが、周りは国府や国分寺、六所神社・真名井神社等、正に古代出雲の中心です。)

前回写真で紹介致しましたが意宇の杜(おうのもり)は、『出雲風土記』の中に登場する(「古事記」「日本書紀」にも登場しない)『くにびき神話(出雲成り立ちの物語)』の最後の地で古代出雲の中心といえます。国引き神話(くにびきしんわ)は、出雲国に伝わる神話の一つです。『古事記』や『日本書紀』には記載されておらず、『出雲国風土記』の冒頭、意宇郡の最初の部分に書かれています。

昔々、出雲の創造神、八束水臣津野命は出雲の国を見渡して「この国は、細長い布のように小さい国だ。どこかの国を縫いつけて大きくしよう」とお思われました。

そこで、どこかに余分な土地はないかと海の向こうを眺めると、朝鮮半島の新羅(しらぎ)という国に余った土地がありました。ミコトは、幅の広い大きな鋤(すき)を使い、大きな魚を突き刺すように、ぐさりと土地に打ち込み、その魚の身を裂いて切り分けるように土地を掘り起こし、切り離しました。

そして三つ編みにした丈夫な綱をかけて、「国来、国来(くにこ、くにこ)」と言いながら力一杯引っ張ると、その土地は川船がそろりそろりと動くようにゆっくりと動いてきて出雲の国にくっつきました。

こうして合わさった国は、杵築(きづき)のみさき「出雲市小津町から日御碕まで」になりました。その時、引っ張った綱をかけた杭が佐比売山「さひめやま、現在の三瓶山(さんべさん)」で、その綱は薗の長浜(稲佐の浜の海岸です)になりました。

その後も、ミコトは北の方の国から同じように狭田(さだ)の国「小津から東の鹿島町佐陀まで」と、闇見(くらみ)の国「松江市島根町のあたり」を引っ張ってきてつなぎ、最後に北陸地方の高志(こし)の国から引っ張ってきた国が三穂の埼「松江市美保関町のあたり」になりました。

この時、ミコトが引っ張った綱をかけた杭は伯耆の国の火の神岳「ひのかみたけ、現在の大山(だいせん)」で、持って引っ張った綱は夜見の島(弓ヶ浜)になりました。

そしてミコトは「国を引くのが終わった」とおっしゃって、杖をおつきになって「おえ。(終えた~~!おりゃ~~!の掛け声かも)」と言われたので、その地を意宇というようになりました。

意宇の杜はその杖が刺さった場所です。「出雲国風土記」の冒頭を飾る「国引き神話」の主人公である「八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)」は出雲神仏霊場の「長浜神社」に主祭神として祀られています。

【古事記を簡単に説明します】

私が出雲神話の基本としている「古事記」は上つ巻(序・神話)中つ巻(初代から十五代天皇まで)下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで)の3巻より成っています。

上つ巻神話部分の約半分が何かしら、出雲に関わっていると言われています。何故大和政権はそこまで、出雲を持ち上げる必要性が有ったのでしょう。征服者なのに不思議だと思いませんか?

内容は、神代における天地の始まりから推古天皇の時代に至るまでの様々な出来事(神話や伝説などを含む)が紀伝体で記載された歴史書です。また、数多くの歌謡を含みます。さらに、『古事記』は「高天原」という語が多用される点でも特徴的な文書です。

【古事記より古い文献の存在が有った?】

中大兄皇子(天智天皇)らによる蘇我入鹿暗殺事件「乙巳の変(いっしのへん」に憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害しました。この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上したと言われています。『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ「国記」は難を逃れ天智天皇に献上されたとされますが、共に現存していません。

天智天皇は白村江の戦いで唐と新羅連合に敗北し、予想された渡海攻撃への準備のため記紀編纂の余裕はな有りませんでした。その時点で既に諸家の帝紀及本辭(旧辞)には虚実が交じってしまいました。壬申の乱後、天智天皇の弟である天武天皇が即位し、『天皇記』や焼けて欠けてしまった「国記」に代わる国史の編纂を命じます。

まずは28歳の稗田阿礼の記憶と帝紀及本辭(旧辞)など数多くの文献を元に『古事記』が編纂されました。古事記には、大国主と須勢理毘売命は杵築の日隅宮[ひすみのみや](出雲大社)でお暮らしになったと記されています(この取材の趣旨からすると間違いですね。)。なんて事をしてくれたんだ、中大兄皇子・中臣鎌足~~と叫びたいところです。(ノ-_-)ノ~┻━┻

奈良県高市郡明日香村豊浦にある丘陵、「甘樫丘(あまかしのおか)」の、朝廷の歴史書を保管していた書庫が残っていたら、『天皇記』など数多くの歴史書が失われずに現存したら、今日の教科書の古代史部分にかなりの違いが有るはずです。

【唐王神社御由緒書(公式サイトより抜粋)】

PB051686.jpg(神紋は梅!)
PB051699.jpg(千木・鰹木・神紋はどうやら菅原道真公のようです。)

須勢理比売命[すせりびめのみこと]は古来唐王御前神社と号し、普[あまね]く諸民の尊崇他に異れる旧社なり。

社伝に曰く、須勢理比売命は、大国主大神と共に夜見[よみ]の国より帰り座して、土地経営の神功を畢[お]へ、稼穡[かしょく](農業)の道を立て、疾苦患難救助の神咒[かじり]の法則[ことわり]を萬世に垂訓し給ひて、大国主大神は永く日隅宮[ひすみのみや](出雲大社)に鎮座し、須勢理比売命は比地に鎮座す。

故に該神社域内宏大なりしこと、往古の規模を存せり。字御前畑[あざごぜんばた]と申所西側にあり。

井屋敷とて御手洗の井泉東側にあり、今は人家の邸内となれども汚穢[おあい]の輩[やから]此の水を汲めば忽[たちま]ち濁る、即ち社前の砂を投じて浄むれば、自ら清水となる。

社伝口碑に據[よ]るに、此の所正しく須勢理比売の御陵[みささぎ]ならむと。太古より一社の伝説あり。

蓋[けだ]し該地位は大山を距[へだた]る三里、夜見浜を距ること三里強、其の中間にあり。

往古は此地も出雲の国境なるや詳[つまび]かならざれども、出雲風土記に「持曳く綱は夜見島是なり云々」中世海洋を隔[へだ]つる外国は総て加羅と通称せり、故を以て夜見国より帰り給ひをも唐土より来り給へるものとし、又大国主大神の后神[きさきがみ]なるを以て唐王御前神と稱[たた]へ奉りしなり。

亦、命の御陵と認むる所以は、神験不測[しんけんふそく]の神呪方神蹟[しんせき]今猶此地に存在す。

本殿の下に方一間余の石の玉垣あり、其中に高五尺余の古造の碑石あり。中古仏者の為に惑わされ、命の尊陵たるを知らず。往々祭祀を廃絶し社字衰頽す。

諸人該玉垣内の砂を請ひ或は之を御手洗の井泉に撒きて其の身を清むれば、年中虫毒の難に触るること無く、適其害に遭ふも其水を温湯にし砂を入れて紙に涵し、身体の損傷せし所を摩拭すれば疼痛忽ち止み全癒す。故に崇敬の信徒日に増し月に加はる。

《鳥取県神社誌より》

現在のように医薬が発達していなかった時代、蝮や毒虫は人々の暮らしに危険この上ない存在だったと想像できます。明治初期の氏子が12300人で、その範囲は中山町から東出雲町にまで及んでいたのはそれ故でしょう。しかし蝮や毒虫の危険が減るに連れ、往年の参詣者は減り賑わいも無くなっています。

鳥居の扁額は松籬社とありました。神殿の屋根の千木は外削り、鰹木は3本でしたね、神紋は梅(どうやら天満宮が合祀されたようです。『鳥取県神社誌』によれば「菅原道真は古来天満宮と号し壹宮神社の摂社なり、明治元年10月神社改正の際唐王神社の境内に移転し松籬神社と称せしを同12年允許を得て唐王神社と改称合祀せらる。」とのことですので、扁額は明治初期の物に成るかと思われます。唐王神社の謎が、少し解けて来ました。

【『須勢理毘売命』の道行き続編】 

大山町の阿弥陀川河口付近に上陸され、最初は大山町国信の「若宮原」に居を構え暫らく滞在します。今でも大きな松の切り株や弥生式の土器が出土するようです。

しかしここは、海辺ゆえの波風が立ち海の音も高いがゆえに、大山町末吉の「天皇さん」に居を移されたといいます。暫らくご滞在になられましたが、やはりまだ海から近いということで、末長の「天皇さん(地元でこのように呼ばれています。末吉・末長共にめでたい名前ですね。)」に移られたということです。近くに喉を潤した湧き水と腰を下ろされた腰掛岩が在るとの記載がありました。そこでもまだ海が近いと唐王へお移りになったとの言い伝えもあります。

PB051735.jpg(末長の「天皇さん」ここも神社では無いので、聞き込みに苦労しました。)
PB051741.jpg(石の祠がいくつかありますが、神社の痕跡は在りません。)
PB051742.jpg(祠はあるのですが、須勢理毘売命とは関係なさそうです。場所は末長の「天皇さん」に間違いありません。)
PB051762.jpg
(走り回る事一時間、これか~?)
PB051753.jpg(須勢理毘売命が喉を潤した湧き水!私も舐めてみました。笑)
PB051765.jpg(須勢理毘売命が腰かけた岩、さすがに座れませんでした。)

【最後に一言】

PB051725.jpg(本当にこの下に眠るのか?「須勢理毘売命」)


神蹟を探すことは容易な事ではありません。時代を考えるとイエス・キリストの井戸や住処先をたどるのと変わりが無いのです。現地の古老のお話に耳を傾け地域地域を何度も回りました。そしてついにという感じですが、移動場所らしき場所は全て見つけました。最後の「本殿下に方一間余の石の玉垣があり、その中に高五尺余の古い碑石が在り、それが須勢理毘売命の陵墓だという。」だけ見つかりませんでした。唐王神社の神殿下に眠るのか?とても残念です。

歴史って本当に面白いですよね~!
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