2017/07/25

「播磨風土記」多可町の巨人伝説は「だいだらぼっち」か「天の邪鬼」?

前回御紹介しました「東山古墳群」の横に「播磨風土記」に関する碑文が有ったので、撮影しておいたのですが、取材の帰りに、面白い物を見つけたので、駐車して写真に撮りました。どうやら多可町の昔話のようでしたが、帰って調べると関連性が見えてきました。
とても興味深いので、今日は「むかしむかしあるところに」で始まります。

四天王[1](私の大好きな東大寺の国宝四天王のお二人ですが。今日の主役は足元でつぶされている天邪鬼です。)

皆さんはあまのじゃくですか?私は少し「天邪鬼」な性格なんです(笑)。それではあまのじゃくな性格ってどんなものですか?
一つのグループでの動向や指示に対し、逆の反する態様をとる順応性に乏しい性格です(私言いたい事直ぐ口にするので)!


例えば、論議がまとったにもかかわらず、自分だけ反論を続ける、更に自分だけ別行動をとる、指示に素直に従わないなどの順応性の低い人、平均的な性格の人は そのような態様を故意と思うことが多いようですが、本人にとっては故意はなく あくまで天然さから表れた態様である場合が多のだそうです。そろそろ本題に入りましょうか?

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【多可郡の巨人伝説とあまんじゃこ】

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(スタジオジブリの「もののけ姫(でいだらぼっち)」をジブリ祭りのパンフレット~はいしゃくしました。)


播磨の北部、多可郡(たかぐん)は四方を山に囲まれています。そうした山国に伝わった伝説が「天の邪鬼(あまのじゃく)」伝説です。多可では、「あまんじゃく」、あるいは「あまんじゃこ」と呼んでいるこの妖怪ですが、役に立つのかどうかもわからないことをいろいろとしようとして、結局しくじってばかりという、かなりおっちょこちょいな面白昔話が伝わっています。

P7230005.jpg(播磨風土記より多可郡名前由来の碑!)
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(天が高いので多可郡と名づけられましたとさ。笑)


しかし、この話の中にはかなり古い要素も含まれています。8世紀初めにできた『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』では、多可郡の地名伝説としてつぎのような記述が見られます。

むかしむかし、巨人がいて、常に背をかがめて歩いていました。南の海から北の海へ、東から西へと巡り歩いているうちに、多可郡にたどりつきました。巨人は「ほかのところは低いので、ずっと背をかがめていなければならなかった。でも、ここは高いので背が伸ばせる。あぁ、高いなぁ」と言ったとな。それで、この地域を多可郡と言うように成ったのです。巨人の歩いた足跡は、たくさんの沼に変わりました。

此処でで紹介した伝説の冒頭部分は、この播磨国『風土記』の伝説とよく似ています。播磨の場合、『風土記』や中世の歴史書である『峰相記(みねあいき)』が残っているため、伝説の古いかたちがわかる場合が少なく有りません。この伝説も、古代に源をもち、時代を超えて語りつがれてきた話であることがわかる事例です。ただし、今日伝わっている伝説では、主人公が巨人から「あまんじゃ」くに代わっていることにも注意して考えてみたいですね。

ところで、『風土記』の巨人伝説は、全国的に見られる「ダイダラボッチ」という巨人伝説に相当します。巨人の足跡が沼や池になったという話は全国的に数多く有るようです。多可郡の伝説も、こうしたダイダラボッチ型の伝説が『風土記』段階の古い形であって、それが後に「天の邪鬼」伝説と結びついたことで今日の姿になっていったのではないかと思われます。

こうしたダイダラボッチ型の巨人伝説は、一般的に山への信仰と深い関係があるとされています。多可の場合も、『風土記』の巨人が「ここは高い」と言ったのは、この市域の山が高いということではないでしょか?この巨人自体が、山を擬人化したものであるとの考え方もできますね、真相はともかくとして、この地域の人々が持っていた、周囲の山への信仰が、この伝説を生み出す背景にあったことは間違いないのではないでしょうか。

【播磨国風土記って何?】

播磨国風土記(はりまのくにふどき)は、奈良時代初期に編纂された播磨国の『風土記』である。平安時代末期に書写された写本が国宝に指定されています。

『続日本紀』の和銅6年(713年)5月2日の条には令制国に下記の事項を記した報告書を提出せよと命じたことが記されています。
好(よ)き字を用いて郡・郷の名を記す。銀・銅・染料・草・木・鳥・獣・虫などの物産、土地の肥沃さ、山・川・原・野などの地名の由来、古老に伝承されている旧聞・異事等が記載されました。

私が注目しているのは最初に記載されている、「好(よ)き字を用いて郡・郷の名を記す」です。兵庫県に「生野」という銀山で古くから有名な町が有りますが、風土記編纂以前は「死に野」と呼ばれていたそうです。正に好き字を用いて生野に成ったわけですが、問題もあります。歴史を研究したいものにとって、地名の変化は場所を特定するためには重要な事なのです。それを勝手に・替えられてはたまりませんよね(笑)。

この、国情を記した報告書(解)が『風土記』と呼ばれるようになります。解では冒頭などに特定の書式がありますが、播磨国風土記には欠損があり、それは確認されていません。ただし、「前述の解と同様である」といった意味の一文があり、解として書かれたものであることがわかります。

播磨国風土記の成立年代に関する史料は残されていませんが、霊亀元年(715年)あるいは霊亀3年(717年)に地方の行政組織が国・郡・里から国・郡・郷・里となったこと(古代日本の地方官制#里長)、播磨国風土記では国・郡・里が用いられていることから霊亀元年前後に成立したものと見られています。あえてかつての表記が使われたとも考えられますが、他の名称の表記には揺らぎがある中で、里・郷のみ例外なくかつての表記で統一された可能性は低いとされます。編纂が行われた期間は和銅6年(713年)から霊亀元年(715年)頃までとなり、その当時の国司であった巨瀬邑治・大石王・石川君子、大目であった楽浪河内などが携わったのではないかと考えられています。

【天の邪鬼って誰?】

P7230225.jpg(天邪鬼ではなくてあまんじゃこです。ちょっとかわいい?)
P7230232.jpg(道中通り過ぎて気になった。腰掛石)
P7230236.jpg(確かに平たくて腰かけやすい)
P7230238.jpg(お昼御飯がまだだったので腰かけて食べてみました。横を走る車の視線が凄く冷たかった。(;^_^A)

仏教では人間の煩悩を表す象徴として、四天王や執金剛神に踏みつけられている悪鬼、また四天王の一である毘沙門天像の鎧の腹部にある鬼面とも称されますが、これは鬼面の鬼が中国の河伯(かはく)という水鬼に由来するものであり、同じく中国の水鬼である海若(かいじゃく)が「あまのじゃく」と訓読されるので、日本古来の天邪鬼と習合され、足下の鬼類をも指して言うようになったと考えられます。

日本古来の天邪鬼は、古事記・日本書紀にある天稚彦(アメノワカヒコ)や天探女(アメノサグメ)に由来します。天稚彦は葦原中国を平定するために天照大神によって遣わされたが、務めを忘れて大国主神の娘を妻として8年も経って戻りませんでした。そこで次に雉名鳴女を使者として天稚彦の下へ遣わしますが、天稚彦は仕えていた天探女から告げられて雉名鳴女を矢で射殺してしまいます。しかし、その矢は天から射返され、結局のところ天稚彦自身も死んでしまいます。

【ダイダラボッチって何?】

ダイダラボッチは、日本の各地で伝承される巨人の事です(私はスタジオジブリの「もののけ姫(でいだらぼっち)」の印象が強いです)。数多くの類似の名称が存在すようです。日本各地の伝説には、「だいだらぼっち」などとよばれる巨人が出てくる話が数多くあります。こうしたダイダラボッチの伝説で最もスケールが雄大なのは、滋賀県で伝えられていた琵琶湖と富士山の話ですね。富士山はダイダラボッチが近江国(おうみのくに=現在の滋賀県)の土を掘って運んでこしらえた山であり、琵琶湖はその掘られた跡というスケールの大きな物語です。手を突いたあとが浜名湖になった、榛名山にすわって利根川で足を洗った、とか・・・途方もない大きさの巨人です。
伝説によって、その名前は、でいだらぼっち、だいらんぼう、だいだらぼう、でいらんぼう、だいらぼう、だだぼう、だいたぼう、だんだらぼっち、でいたらぼっち、いちもくれん、だいだらほうし・・・たくさんあります。
古代の「たたら製鉄」に携わった一族を「象徴的に巨人にたとえたもの」とする民俗学上の指摘もあります。山や湖沼を作ったという伝承が多く、元々は国づくりの神に対する巨人信仰がダイダラボッチ伝承を生んだと考えられています(鬼や大男等の妖怪伝承が巨人伝承になったという説も勿論あります)。


【ゆるキャラも居た~笑】

i_character[1]

ゆるキャラもいました(驚)
名前:たか坊
生年月日:昔々年齢1504歳 <行こーよ(1504)多可町へ>。
性別:男の子
両親:県立多可高校生
現住所:多可町中区岸上281-1
出身地:明石市
名前の由来:多可町の「多可」を親しみのあるひらがなで「たか」とし、大男だけど見た目がかわいい「坊や」、多可のあまんじゃこの特徴である「食いしん坊」の「坊」を組み合わせて「たか坊」と名付けられた。
チャームポイント:2本の歯日焼けしたほおや赤い鼻
性格:のんびり・おっとり、あまのじゃく
趣味:多くの人に出会い遊ぶこと
好きな食べ物:果実(なんでも)
仕事:町の行事や観光キャンペーン、イベントに参加して、広く多可町のPRに努めること。

由来、多可町には昔から伝わる民話があります。 人が白と言えば黒、黒と言えば白と、反対のことをいう、あまのじゃくな『あまんじゃこ』がおりました。
『あまんじゃこ』は、「播磨国風土記」にでてくる大男で、空が今よりも低かった頃、ひとまたぎで3里歩き、天にも届く大男は、腰をかがめなければ歩けませんでした。 明石から北へ行く途中、多可町のあたりに来たとき急に空が高くなり背伸びをすることができました。喜んだ『あまんじゃこ』は「ここは空が高い、たかじゃ、たかじゃ」と叫んだ。それが「多可郡」の語源となったと言われています。多可町内には、石の天秤棒で山を持ち上げようとして折れて残ってしまった長石や巨大な架け橋など、あまんじゃこが暮らした様々な言い伝えが残っています。

その主人公である多可のあまんじゃこを基にして、地元の兵庫県立多可高等学校の生徒たちがデザインしたゆるキャラが生まれました。

国造りの神といえば大国主や少彦名ですよね。天邪鬼が、古事記・日本書紀にある天稚彦ならば無関係とはいえませんね。


此方は私プランターに使用してます。天空の城ラピュタの世界が再現できますよ。「オームの脱」け殻って商品も持ってるのですが、商品リストに有りませんでした(見つけました~!)。スプラウトやもやしを育てると、此方も腐海の森が再現できます(((^^;)

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リュミエールブラン ネージュ
2017/07/23

七世紀の土木・建築技術に驚愕!「東山古墳群」

今日は、兵庫県多可町の古墳群をご紹介します。時代が進み七世紀に成ると地方豪族の建築技術も飛躍的に進み、高い技術で作られた円墳が出現します。

兵庫県多可町の妙見山(標高693メートル)の山麓、平野部を見晴らせる位置に、こんもりとした円墳がいくつも並びます。美しい公園として整備された一帯は、直ぐ東隣(本当にお隣さんです)の多可高校の生徒らの下校途中のおしゃべりの場に成ったり、登山客が一息ついたりの、のんびりとした光景が広がっています。

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(15号墳の前から古墳群、奥の小高い緑が1号墳、右に多可高校校舎、後ろの山が妙見山です。)

その見本ともいえる古墳群が多可町の「兵庫県指定文化財)東山古墳群」です。

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【東山古墳群概要】



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(パンフレットで全体像をご覧いただきます。全てを写真では無理ですね。)
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(配置図と横穴式石室ですね。)
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(15号墳、円墳ですが綺麗な段築構造が見られます。)
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(右隣は直ぐ多可高校の校門です。ブラスバンドの練習の音がしてます。野球まだ勝ってるのか?)

7世紀、古墳時代の終わり頃に築かれた円墳が16基、これほどまとまって存在する古墳群は珍しいようです。この時代において直径15~30メートルは県内で最も大きいといいます。辺りには200基ほどの古墳が見つかっており、この東山古墳群の存在は古くから知られていましたが、1996~1999年の発掘調査で詳細が判明しました。

兵庫県内でも最大の横穴式石室を持つ古墳や巨石を用いた石室を持つ古墳が多く、当時のこの地の豪族の力がうかがえます。現在、残っている古墳は16基で、北群の4基は直径15m前後の円墳、南群の12基は直径15~30mの円墳でバラエティーに富んだ古墳群です。

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(15号墳石室、覗けますが金網で塞がれています。小さなライトが自動点滅します。)
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(破壊された9号古墳、両袖式の横穴式石室石室下部のみ復元、奥に見えるのは12号墳と14号墳から移動してきた天井石。)

古墳の造りは当時最新の土木技術が用いられています。横穴式石室は1500年間近くも崩れない造りで、現在の技術でも難しいほどだそうです。内部は長さ10m、高さ2~3mと広々としています。夏は涼しく冬は暖かい事もあって、江戸時代には古墳としての存在を忘れられていたのか?何者かが居住した形跡も有りました。江戸時代の一朱銀や一文銭が見つかっています。

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(直径約30メートル、高さ約7メートル。古墳群内最大の円墳。)
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(周濠が確認出来ました。)
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(石室全長約12.5m、玄室長さ約6.25m、幅2.8m、高さ約3.25m床全面に川原石が引き詰められています。)
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(12号石室の有名な陶棺、二人で一つらしいです。石棺・木棺も納られていました。一代限りのものではなく現在のように家族単位?)

12号墳の石室には、特殊な形をした長さ140cm×幅45cmで、12本の脚と切妻風の屋根を模した家形陶棺がありとても珍しいです。その他にも土器・馬具・装身具・などが出土しています。

中央政権との関係性もうかがえ、現在の多可町・西脇市の一帯を治めていた豪族が所有していた可能性が強いようです。
播磨風土記にも名前を残す多可のこの地が、加古川流域最古の寺院「多可寺」や古代の役所とみられる「思い出遺跡」などに続く歴史の流れの原点ではないかと感じました。

【多哥寺とは?】

量興寺(多哥寺遺跡) 650年頃に推古天皇の勅願寺として建立されたと伝えられる多哥寺の後身です。平安末期に藤原顕頼が再興し、高倉天皇の母君の寺として寺格が高まり、量興寺となりました。
これまでの調査で、南大門、塔、金堂、回廊、鐘楼、参道が確認されており、多哥寺が播磨地域で最古級の寺で、多可郡の中心となり郡を代表する寺院であったことがはっきりしました。東西64㍍、南北約80㍍の大きな規模を持ち、四天王寺と同様の伽藍配置の寺院だったことが判明しています。
12世紀には九篠家の荘園となって、僧房や食堂はとりこわされて水田になりました。現在、多哥寺跡に立つ量興寺には、巨大な塔心礎が残り、出土した瓦から、播磨地方でも最古の寺院のひとつに数えられています。また、梵鐘鋳造の遺構は奈良時代のもので、町の指定文化財に指定されています。

【最後に残念!】

見学してきたのは、南群の12基でしたが北の4基は妙見山参道沿いの林の中に埋もれているのかもしれません。ちなみに知らなかったのですが、那珂ふれあい館の開館時間に申し出ればいくつかの古墳石室内部見学できます。是非休館日等確認してお出かけください。



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