2017/03/25

松江藩松平家の菩提寺、小泉八雲も愛した!『月照寺』

久々に出雲の国を御紹介致しますo(^o^)o

出雲神仏霊場第五番札所『月照寺(げっしょうじ)』です。

松江城から西へ程近く、島根県松江市外中原町に有る「歓喜山」『月照寺』は歴代松江藩主松平家の菩提寺です。

CIMG9654.jpg(書院です中庭が美しいです。)


珍しい物が幾つか有るので、お楽しみにして下さいね(#^.^#)

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『月照寺』をご紹介するのですが、その前に松江藩の変成について少し説明します。

CIMG9649.jpg(月照寺の入り口)




【松江藩と松平家の成り立ち】
豊臣政権時代、出雲は中国地方西部を領していた毛利氏の支配下で、一族の吉川広家がかつて尼子氏の居城だった月山富田城(現島根県安来市)を政庁として出雲および隠岐の2国を経営していました。

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、毛利氏は周防・長門2国に減封となり、吉川広家も岩国に移されます。
これにより遠江国浜松で12万石を領していた堀尾忠氏が、この前年に隠居して越前国府中に5万石の隠居料を得ていた父・堀尾吉晴とともに、あらためて出雲・隠岐2国24万石で入部、ここに出雲富田藩(いずもとだはん)が立藩します。

忠氏は慶長9年(1604年)に27歳で早世、後を継いだ忠晴はまだ5歳の幼児だったことから、祖父・吉晴がその後見として事実上の藩主に返り咲くことに成ります。
吉晴は月山富田城が山城で不便を感じたため、慶長12年(1607年)から足かけ5年をかけて松江城を築城するとともにその城下町の建設を行いました。
慶長16年(1611年)に吉晴は松江城に移り、ここに松江藩が成立しましたが、吉晴はこれを見届けると間もなく死去します。
忠晴は成人したものの男子に恵まれず、寛永10年(1633年)に33歳で死去すると堀尾家は無嗣改易となりますが、堀尾氏が築いた松江は以後も政治経済の中心として栄え、今日に至っています。

結局、堀尾氏に代わって寛永11年(1634年)若狭小浜藩より京極忠高が入部しました。
京極氏は戦国時代に守護代の尼子氏に支配権を奪われる以前の出雲守護であり、故地に復帰したことになりますね。
24万石の領地に加え、公儀御料の石見銀山、石見国邇摩郡・邑智郡の計4万石を預かることとなりました。
しかしわずか3年後の寛永14年(1637年)忠高は死去しました。
死に臨み末期養子として甥の高和を立てたが認められず改易となってしまいました。

寛永15年(1638年)、結城秀康の三男・松平直政が18万6000石で信濃松本藩より転封しました(松江藩松平家初代藩主)。
以後、出雲一国は越前松平家が領する事に成りました。
また松平家は公儀御料となった隠岐1万4000石も預かることになっっています。

【結城秀康うんちく】

此処で取り上げるのもなんだと思いますが、私の大好きな武将なので、彼の戦国乱世に翻弄された、運命が不可思議で興味深いので少しお話させて下さい。
天正7年(1579年)、武田勝頼との内通疑惑から、織田信長の命令により松平信康(家康長男)が切腹させられます(近年では信康が家康と対立したために切腹させられた、ともされます)。
このため、次男である秀康は本来ならば徳川氏の後継者となるはずでした。
しかし、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和解するときの条件として、秀康は秀吉のもとへ養子(実際は人質)として差し出され、家康の後継者は異母弟の長松(後の徳川秀忠)と成ります。

天正12年(1584年)12月22日、元服して、羽柴の名字、および、養父・秀吉と実父・家康の名から一字ずつ取った名を与えられ、羽柴秀康と名乗ることに成ります。

秀康は天正15年(1587年)の九州征伐で初陣を果たし、豊前岩石城攻めで先鋒を務めます(続く日向国平定戦でも抜群の功績を挙げています。)。
天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜され、天正18年(1590年)の小田原征伐、天正20年(1592年)からの文禄・慶長の役にも参加しています。

しかし天正17年(1589年)、秀吉に実子の鶴松(秀頼とは別人です)が誕生すると、秀吉は鶴松を生後4ヶ月で豊臣氏の後継者として指名され、秀康は他の秀吉の養子同様に、他家へ養子に出されることとなりました。

養子先の結城氏は下野国の守護に任命されたこともある名家、秀康は関東に下り黒田孝高の取り成しで結城晴朝の姪と婚姻して結城氏の家督および結城領11万1000石を継ぎました。
また改めて称号として羽柴姓を贈られ、官位から羽柴結城少将と呼ばれました。
パチンコやスロットをされる方は「鬼武者(蒼鬼)」で有名なのでご存知かもしれません。

その結城秀康の三男・松平直政公が生母月照院の冥福を祈って造立したのが『月照寺』です(創建:開創寛文四年「1664」)。

CIMG9652.jpg(本来ならこちらが徳川宗家ともいえるのですがね。)
CIMG9651.jpg(小泉八雲「ラフカディオ ハーン」もこよなく愛したお寺です。)

この地には洞雲寺(とううんじ)という禅寺がありました。
永く荒廃していましたが、松江藩松平家初代藩主・松平直政は生母の月照院の霊牌安置所として、1664年(寛文4年)に、この寺を再興します。
浄土宗の長誉を開基とし、「蒙光山(むこうさん)月照寺」と改めました。

CIMG9669.jpg(直政の母月照院の墓です。)

直政は1666年(寛文6年)に江戸で死去しましたが、臨終の際に「我百年の後命終わらば此所に墳墓を築き、そこの所をば葬送の地となさん」と遺言しました。
2代藩主・綱隆は父・直政の遺命を継ぎ境内に直政の廟所を造りました(この際に山号を現在の「歓喜山」と改めました。)。
以後、9代藩主までの墓所となっています。

CIMG9656.jpg(松江藩松平家初代藩主直政公のお墓にご対面です。)
CIMG9657.jpg(もう少し早い季節が良いかもですね~蓮池も寂しいです。)
CIMG9658.jpg(お寺なのに鳥居?気にしないで行きましょう。)
CIMG9659.jpg(立派なお腹?五輪塔ではありませんね~笑)


茶人藩主として著名な7代藩主・不昧の廟門は松江の名工・小林如泥の作によるとされ、見事な彫刻が見られます。

CIMG9660.jpg(七代治郷公、不昧公の方が有名ですか、江戸中期の茶人としては一番有名かもしれません?)
CIMG9661.jpg(だそうです。大圓庵をなぜか見なかった?なぜだろう?また来いよかな~?)
CIMG9663.jpg(治郷公がお好きだった葡萄の彫り物です。)
CIMG9664.jpg(見事ですね~ここに来てから、細かい所も撮影するようになりました。)
CIMG9665.jpg(怖いほどの見事さ!昔の職人さんはすごいですね~(;^_^A)

境内には不昧お抱えの力士であった雷電爲右衞門の碑があります(次回ご紹介します。)。
また、不昧が建てた茶室・大円庵があります。
1891年(明治24年)、松江に訪れた小泉八雲はこの寺をこよなく愛し、墓所をここに定めたいと思っていたそうです。

「松江藩主松平家墓所」として1996年(平成8年)3月29日に国の史跡に指定されました。
高真院(直政)と大円庵(治郷(不昧))の廟門は島根県の有形文化財に指定されています。
境内には宝物殿があり歴代藩主の遺品が展示されています。
また、アジサイが数多く植えられており「アジサイ寺」として開花時期には多くの観光客が訪れます。

一度でご紹介しようと思いましたが、とても無理、もう一・二度係りそうです。
本当に城下町というのは素敵な場所が多いのですね~。


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2017/03/23

近畿最大級の円墳(勿論兵庫県では1位)茶すり山古墳の凄さ!

長女の大学合格報告を私の父(長女の祖父、当たり前か(;^_^A)にするということで二か月ぶりに実家但馬に帰省する事に成りました。
折角但馬に帰省するのですから、やはり但馬の歴史に触れておかねばと考えて、途中『茶すり山古墳』に寄ってみる事にしました。

少し前に神戸須磨の「五色塚古墳」のお話をさせて頂いたときに、寄り添うように在った「千壺古墳」が兵庫県の円墳2位の大きさだというので、それでは1番はどこだ?と調べたことから、『茶すり山古墳』に興味を持っていたのです。
さらに以前から、毎回帰省時に利用する、北近畿豊岡自動道の和田山から山東への道中、綺麗に復元された埴輪群が飾られた「茶すり山古墳」を見て気になっていたのでした(北近畿豊岡自動道といえばこの25日に八鹿~日高間が開通します。また一歩但馬が近く成りました~めでたいです~。(´∇`))

P3190082.jpg(兵庫県最大、近畿でも最大級の茶すり山です。)

お話を戻しまして、和田山から山東へ抜ける「宝珠峠」の途中の朝来市和田山筒江、標高約144メートルの尾根の先端に位置する「茶すり山古墳」は、5世紀前期の大型円墳です。
円墳としては奈良県富雄丸山古墳(奈良県奈良市丸山に存在し、富雄川の西岸丘陵上に位置する直径約86メートルの奈良県最大級の円墳です。築造は4世紀末ごろとされます。)よりも大きく、近畿地方最大規模を有しています。
其では、近畿地方最大規模の円墳をご覧いただきましょう。

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【茶すり山古墳の規模】



P3190077.jpg(パネル、埋蔵文化財センターは山東PAに在るのかな?今度行ってみよう~(;^_^A)
P3190081.jpg(流石の大きさですね~毎回帰省する度に見てたんですけどね~(^^;)
P3190089.jpg(テラスの円筒埴輪と朝顔型埴輪です。神戸の五色塚と違い鰭が無いですね?)

直径約90メートル・短径78メートル高さ約18メートルの円墳で、2段に築成されていたと考えられます。

近畿地方では最大、全国でも4番目の規模である事が判明しています(驚)。
墳頂平坦面は長径東西約36m、短径南北約27mの楕円形を呈し、墳丘全体の規模からするとかなり広く、この地域(但馬南部)の墳丘形態の特徴を示しています。
墳丘は大部分が削り出し(元々在った山を切り崩して作っています。)によって造られ、斜面の一部には葺き石が遺存していました。
また、墳頂平坦面及びテラス部からは円筒埴輪や朝顔形埴輪が、墳頂からは家形・翳形(さしばがた)埴輪等も確認されています。

P3190094.jpg(ブルーシートで見られませんでした。夏になるとOKかな?今年は雪が多かったからね。私の影はご愛嬌でm(__)m。)
P3190126.jpg(テラスにも木の柱が有りましたね~トーテムポールの様な魔除けでもあったのでしょうか?)

斜面には葺石が見られますが多くは流出しています(一部観察できるように成っていましたが、季節の関係か?ブルーシートでおおわれていました。)。
墳頂部には二つの埋葬施設があり、大型の第1主体部とこれより小さい第2主体部が平行に並んでいます。
調査の結果、墳丘の規模や中心主体の内容がほぼ判明し、中央政権(ヤマト政権)と強く結びついた首長の墓であることが確認されています。

P3190098.jpg
(墳頂部、私の立ち位置を考えると、前方後円墳だと思うのは、素人考えですかね~笑!ちなみに右山山頂部に松山が見えますが、あの!「竹田城」ですよ~驚きました?)


茶すり山古墳の所在地は播磨と但馬をつなぐ交通の要衝で、古代山陰道の郡部駅の推定地にも当たっています。
平成13年度、北近畿豊岡自動車道建設予定地を兵庫県教育委員会が発掘調査を行ったところ、規模が大きく重要な内容をもつ古墳であることが判明したため、協議を行い、道路計画を変更し現状保存することに成りました。

【埋葬者は誰だろう?】

墳頂平坦面では2基の埋葬施設を検出されました。
中央南寄りにある第1主体部は、墓坑が東西13.7m、南北10.5mで、その中央に長さ8.7mの組合式箱形木棺が埋設されていました。
棺内は粘土を敷き詰めて棺床とし、さらに小礫を敷き詰めた遺体埋葬部と、粘土敷きのままの副葬品埋納部とに分かれます。

P3190101.jpg(誰でしょうね?息子かな?ちなみに礫敷は但馬墳墓の特徴だそうです。)
P3190106.jpg
(こちらは写真タイルで再現されています。)

第2主体部は、第1主体部の北側にあり、東西7.5m、南北3.7mの墓坑内に、長さ4.8mの木棺痕跡が確認されています。
副葬品は非常に豊富で、二つの主体部の副葬品を合わせると、青銅鏡4点勾玉・管玉などの玉類2000点武具類では甲冑2組と盾7点武器類では鉄刀・鉄剣・鉄矛など85点と鉄鏃400点農工具類では刀子・斧・鎌など80点余りが出土しました。

これらの中で注目されるのは、畿内地域以外では初めての出土となる三角板革綴襟付短甲(これはすごい鎧らしいです。)や一つの棺からの出土数が最多であった鉄矛など、多量の武器・武具類が副葬されたことです。
また、漆の遺存状況が良好であり、刀剣類の装具の構造や盾の文様構成が確認されました。
さらには、畿内地域を中心に分布する鉄柄付手斧(釿「ちょうな」の事だと思います。木工に用いられる工具!)が出土したことも貴重です。
茶すり山古墳は古墳時代中期前半の近畿地方最大の円墳であり、武器・武具をはじめとする副葬品は豊富です。

墳丘の構築方法などに地域色は認められるものの、三角板革綴襟付短甲や鉄柄付手斧の出土は畿内地域と密接に関わりがあったことを示し、刀剣類の装具や盾における漆の遺存状況が良好であるなど、傑出した内容となっています。
茶すり山古墳は古墳時代の社会や政治動向、とりわけ畿内の中央政権と地域の首長の関わりを知る上で大変重要です。
(文化庁資料より)

P3190128.jpg(一号埋葬施設、綺麗に復元されています。)
P3190109.jpg(こんな感じ、順番に行きますよ~。)
P3190112.jpg(鎧・兜・鉄剣等、ちなみに蛇行剣が見つかっています。珍しいそうです。大和の大王からのお土産かも?)
P3190113.jpg(鏡や勾玉・櫛・刀等、枕の朱色と礫石が見えますね。)
P3190115.jpg(武器が一杯です。一度に1つの墳墓から出る数としては異例だそうです。)
P3190120.jpg(こちらも槍の先などの武器です。)
P3190122.jpg(最後に模様が見えるのは盾です。副葬品の山々すごいですね~驚!!!!)

【大和政権と但馬首長の関わりとは?】
これらの出土品は、古墳時代中期における但馬地域の王墓の実態、ヤマト王権と地方の首長との関係、古墳時代の祭祀や工芸技術を知る上で極めて重要なものです。
このことが高く評価され、国の重要文化財に指定されました。

兵庫県朝来市内には、4世紀~5世紀代に造られた大型の前方後円墳や円墳が多く存在します。
これは、他の但馬地域にはない状況です。
特に、但馬第1.2の規模を誇る池田古墳(茶すり山古墳の先代の首長の墓と考えられているようです。)船宮古墳は、茶すり山古墳と同じく、但馬全域を治めた王墓(首長の墓)と考えられています。


これらの大型古墳の位置は散在的ではありますが、いずれも丹波や播磨に通じる街道沿いにあります。

これは畿内の大和王権の頂点に立つ大王が、交通の要衝に拠点を置く有力な首長との関係を強めながら、日本列島における、地域支配を進めていった結果の一つであると考えられます。

最後に、北但馬生まれ人間としての私といたしましては、豊岡市日高町に後に国府や国分寺・国分尼寺が作られることを考えると、出雲勢力との境界線であった朝来地区は但馬で最も重要な地域だったために、により強力な中央(大和王権)の補助(保護・援助)政策が行われたのではないかと考えるのですが、皆さんいかがでしょう?

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2017/03/21

平家物語の最後を飾るのは「灌頂巻」そして舞台は『寂光院』

「祇園精舎の鐘の音」とは、無常院無常堂の鐘の事だそうです。
無常堂は祇園精舎で終末期を迎えた僧たちが、最後のひとときを過ごす場所、彼等が臨終を迎えると、建物の4隅に配されていたこの鐘が、ひとりでに鳴るのです。
信者の内なる世界にしみこみ、不安やおそれを取り除いて心の平安をもたらす癒やしの鐘の音は、「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」(すべての物がうつろうのは世の定め。この法則を超越すると、死もまた楽しみとなる)と聞こえるらしいです。
病僧は、その響きを聞いて死の苦悩から解放され、安らかに浄土に旅立ったといわれます。
そして、人々はそこの鐘の音を聞き、いかほど栄華を極めた人でも、最後は滅亡してしまうことを知るのです

飛ぶ鳥を落とす勢いの平家一族の滅亡、平家座頭(平家物語を語る琵琶法師)は当初から廻国の芸能者でありました。
中世には文化人の伝手や紹介状を頼りに、各地の有力な大名家に芸を披露して回りました。

CIMG9938.jpg
(季節外れですが、やはり幕を下ろすにふさわしいのは紅葉ではありませんか?)

琵琶法師が弾き語る歴史物語の『平家物語』、今回シリーズの平家物語の最後を飾るのはやはり、幕引き役平徳子(建礼門院)と後白河法皇ですね。
「盛者必衰の理」の総括を『寂光院』からお届けします

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【後白河法皇寂光院大原御幸((おおはらごこう))】
平家物語の最後は「灌頂巻」といって徳子の後日譚です。
平家滅亡時に壇ノ浦で入水しようとした徳子は助けられて京の大原で隠棲し出家します。
平家や安徳天皇の菩提を弔いますが、そこに後白河法皇が、大原に隠棲した建礼門院徳子(平清盛・時子の娘。安徳帝の母)を訪れる「大原御幸」で終わります。
そして二人は平家の栄華と滅亡を振り返るのです。

そして「平家物語」は徳子の極楽往生で物語が終わります。



CIMG9918.jpg
(有名な大原女も伝統漬物のひとつ「大原のしば漬」も寂光院が始まりだそうです。)
CIMG9941.jpg
(素敵な門構えです。)
CIMG9924.jpg
(雪見鉄灯篭は豊臣秀吉ゆかりの物だそうです。秀吉は平氏を名乗ったために征夷大将軍に成れなかったのだそうです。驚)


『平家物語』によると徳子は安徳天皇・時子の入水の後に自らも飛び込みますが、渡辺昵に救助されたといわれます。
しかし同じ『平家物語』の「大原御幸」の章や説話集『閑居友』では、時子(清盛の妻)が「一門の菩提を弔うために生き延びよ!」と徳子に命じたとしています。
いずれが正しいか不明ですが(後の演者の創作?)、生き残った徳子は平宗盛・平時忠らと京都に護送されます。
宗盛は斬首、時忠は配流となりますが、徳子は罪に問われることはなく洛東の吉田の地に隠棲します。
5月1日には出家して、直如覚を名乗ります。

7月9日、京都を大地震が襲い、多くの建物が倒壊してしまいます。
吉田坊も被害を受けたと思われ、9月になると徳子は「山里は物のさびしき事こそあれ 世の憂きよりは住みよかりけり」(『古今集』読人知らず)の心境で比叡山の北西の麓、大原寂光院に入ります(『平家物語』)。
大原を訪れた建礼門院右京大夫は、御庵のさま、御住まひ、ことがら、すべて目も当てられず (ご庵室やお住まいの様子など、すべてまともに見ていられないほどひどいものだった)。
都ぞ春の錦を裁ち重ねて候ふし人々、六十余人ありしかど、見忘るるさまに衰へはてたる墨染めの姿して、僅かに三四人ばかりぞ候はるる (都ではわが世の春を謳歌して美しい着物を着重ねて仕えていた女房が、60人余りもいたけれど、ここには見忘れるほどに衰えた尼姿で、僅かに3、4人だけがお仕えしている)と涙を流し、今や夢昔や夢とまよはれて いかに思へどうつつぞとなき (今が夢なのか、それとも昔が夢なのかと心は迷い、どう考えても現実とは思えません)
仰ぎ見し昔の雲の上の月 かかる深山の影ぞ悲しき (雲の上のような宮中で見た中宮様を、このような深山で見るのは悲しいことです)と歌を詠んでいます(『建礼門院右京大夫集』)。

CIMG9936.jpg
(ご本尊は聖徳太子ゆかりの六万体地蔵尊と称される地蔵菩薩です。)
CIMG9931.jpg
(建礼門院座像)
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(庭も美しいですね~写真一杯あるんですけど…ほどほどで、笑)
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(一昨年の紅葉はイマイチでした~残念!)

後白河法皇が大原「寂光院」の徳子を訪ねる「灌頂巻」は古典文学『平家物語』の終巻で、徳子の極楽往生をもって作品は終わりますが、この大原御幸の史実性については諸説ある様です。

文治2年(1186年)4月、後白河法皇が徳大寺実定、花山院兼雅、土御門通親や北面武士を伴にお忍びで大原の閑居を訪ねます。
徳子は落魄した身を恥じらいながらも、泣く泣く法皇と対面して、「太政大臣清盛の娘(人間)として生まれ、国母となり、わたしの栄耀栄華は天上界にも及ぶまいと思っていましたが、やがて木曾義仲に攻められて都落ちし京を懐かしみ悲しみました。海上を流浪し飢えと渇きに餓鬼道の苦しみを受けました。そして、壇ノ浦の戦いで二位尼は「極楽浄土とてめでたき所へ具しまいらせ侍らふぞ」と言うと先帝を抱いて海に沈み、その面影は忘れようとしても忘れられません。残った人々の叫びは地獄の罪人のようでした。捕えられ播磨国明石まで来たとき、わたしは夢で昔の内裏よりも立派な場所で先帝と一門の人々が礼儀を正して控えているのを見ました。『ここはどこでしょう』と尋ねると『竜宮城ですよ』と答えられました。『ここに苦しみはあるのでしょうか』と問いますと『竜畜経に書かれています』と答えられました。それで、わたしは経を読み、先帝の菩提を弔っているのです」とこれまでのことを物語した。
法皇は「あなたは目前に六道を見たのでしょう。珍しいことです」と答えて涙を流したと記載されます。
あの後白河院が落ちぶ れた、建礼門院を見て涙を流して同情し、「あなたは生きながらに六道を見た稀有の人だ」等と本当に言ったのでしょうかねぇ(大河ドラマのイメージ入り過ぎかも知れませんが、笑)?

CIMG9939.jpg
(それでも綺麗に映っていますかね。)
CIMG9937.jpg
(この池のほとりでお二人の「平家物語」の最後のワンシーンが実際に在ったんですよ~!)

【建礼門院没年】

『平家物語』(覚一本)では建久2年(1191年)2月に没したとされますが、この時期はまだ人々に平氏への関心が高く、徳子の死も何らかの記録に残ったと思いますので可能性は薄いかと思います。
そのため『皇代暦』『女院小伝』『女院記』などの記述から、建保元年(1213年)に生涯を閉じたとする説が一般的となっています。

【陵墓】

陵墓入口
陵は寂光院隣接地にある(宮内庁管轄の大原西陵)。

CIMG9916.jpg
(勿論宮内庁管轄)
CIMG9947.jpg
(「建礼門院」平徳子のお墓です。)

また安德天皇とともに各地の水天宮で祀られています(前回、須磨でも一箇所御紹介致しました。)。
また、京都府京都市東山区にある長楽寺にも墓があります。

最後に、天の邪鬼の私は、後白河院なら「お前の父清盛が武家の分際で皇室を蔑ろにし、言仁親王(安徳天皇)を強引に即位させた報いなのじゃ」と建礼門院を嘲笑いそうな気もするのですが(((^_^;)。

まあ、後白河天皇(77代)→高倉天皇(80代)→安徳天皇(81代)と実の孫な訳ですから、そこまでは無いかなとも思ってますが!

平氏は滅びますが、清盛が成し遂げた武力(武士)による政治力は此の後も、ずっと続く事に成ります(むしろ武士無くしては、政治が出来なくなります。)。
清盛の努力は決して無駄ではなかったと言うことですね。


安徳天皇は「平家の都落ち」に同行、都では、新天下人たる木曽義仲の要望をあしらって、「治天の君」である後白河法皇の「天皇なしというわけにはいかない」との主張と指図により、安徳帝の異母弟・尊成親王(たかなり)が、三種の神器なしで即位します。
わずか4歳で皇位を継いだこの子こそが、後鳥羽天皇なのです。
後鳥羽帝は「承久の乱」を引き起こして鎌倉幕府討幕を目指すのですが、北条政子の有名な演説「いざ鎌倉」の一言?で坂東武士団に完敗、身柄を隠岐に流され、平家も上皇も天皇もいなくなった都では、平安時代が名実ともに幕を閉じ、武士の世が始まりを告げます。

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2017/03/18

悲劇の幼帝『安徳天皇』須磨「一の谷」内裏跡伝説地を訪れて !

今回も涙が多くなりそうでタオルが必要と思うのですが、感傷的に成るよりも、冷静に考察したいと思うお話ですσ(^_^;)?

安徳天皇は2歳で即位しながら、壇ノ浦の戦いで祖母二位の尼(清盛の妻)に抱かれ、平家一門とともに関門海峡に沈んまれた8歳の幼帝です。

須磨の安徳帝内裏跡伝説地を訪れて来たのですが、はっきり言うと「場所分かりにくい~(^^;」でした(笑)

今回のテーマは、「卑怯者だった?義経」「三種の神器の行方」について少しお話させて下さい。

P2220140.jpg
(安徳天皇内裏跡伝説の地)

須磨の安徳天皇内裏跡伝説の地とは余り関係無いのですが(^人^)、勿論内裏跡も御紹介しますよ~(^^;。

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【安徳天皇内裏跡伝説の地】



P2220119.jpg(安徳宮と真理胡弁財天)
P2220120.jpg(安徳宮大鳥居)
P2220124.jpg(安徳宮)

安徳天皇は、高倉天皇を父親平清盛の娘「建礼門院徳子」を母として生まれた悲劇の幼帝です。
1180(治承4)年に2歳で即位しましたが、 1185(寿永4)年、壇ノ浦の戦いで平氏の敗北とともに祖母二位尼(清盛の妻)にいだかれて入水したと伝えられています。
この須磨一の谷の伝説地には、一時内裏がおかれたとのいい伝えがあり、 安徳天皇の冥福を祈って安徳宮がまつられています。

山と海に挟まれた須磨は、古くから白砂青松の景勝地として知られ、歌枕の地としても親しまれています。
かつて一ノ谷合戦で激しい戦いを繰り広げたこの地には、合戦にまつわる史跡や伝説が数多く残っています。

【一ノ谷と戦の濱】
「一ノ谷」は鉄拐山と高倉山との間から流れ出た渓流にそう地域で、須磨公園の東の境界にあたります。
1184年(寿永3年)2月7日の源平の戦いでは、平氏の陣があったといわれ、この谷を200mあまりさかのぼると、二つに分かれ、東の一ノ谷 本流に対して、西の谷を赤旗の谷と呼び、平家の赤旗で満ちていた谷だと伝えられています。

一ノ谷から西一帯の海岸は「戦の濱」といわれ、毎年2月7日の夜明けには松風と波音のなかに軍馬の嘶く声が聞こえたとも伝えられ、ここが源平の戦いのなかでも特筆される激戦の地であったことが偲ばれます(現地説明板より)。
 
「戦の濱」の碑がある辺から北(山側)に向かい、山陽電鉄の線路を越えて、つづら折れの急坂を上って行くと、高台の住宅街の一角に内裏跡公園があります(ハッキリ言って分かりずらい。)。

「福原鬢(びん)鏡」では、安徳天皇皇居跡としながらも、平家の諸軍勢がこもった場所で土手の跡が今も残っているとしています。

【安徳天皇を祀る安徳宮】

安徳帝は平家物語にあるように「海の下にも都があります、涙」との祖母二位の尼の言葉と共に千尋の底へ鎮まれました。
海の下の都とは龍宮であって、龍宮の主は龍神であり、安徳帝の御守護神であると伝えられております。
公園奥には安徳天皇の冥福を祈って「安徳宮」が祀られると共に「真理胡弁財天(龍神)」も祀られています。

P2220131.jpg(説明版)P2220133.jpg(海の下の龍神を祀っています。)

平氏の総大将宗盛(清盛の三男)は、一の谷合戦の三日前に清盛の三回忌を海上で営み、上陸する間もなく突然の源氏軍の来襲に、そのまま安徳天皇や建礼門院らと沖合の船で、戦いの情勢を見守っていたので、実際にここに内裏があったのかどうかはっきりしませんが、地元ではこの地に一時安徳天皇の内裏があったと伝えています。

後白河法皇は源氏に対して平氏追討の命令を発する一方、戦いの直前まで、平氏との間で三種の神器の返還をめぐる和平交渉を進めていました。
講和の相談のために静賢法印(平治の乱で殺害された信西の子)を2月8日に派遣、という内報が平氏側に伝わりましたが静賢法印が辞退してしまい、法皇は和平の提案をしておきながら、結果的に平氏を騙討ちにしたことになりました。
そのような交渉は休戦状態のもとでしか進められないはずであり、平氏側はこの内報を信じ、油断していたようですが、7日、突如源氏軍(義経)が来攻し、意表をつかれた形となりました(この点も平氏惨敗の一因とされています)。

【壇之浦での義経は卑怯者?】

ちょっと強引に壇ノ浦の戦い話題なのですが、関門海峡は潮の流れの変化が激しく、水軍の運用に長けた平氏軍はこれを熟知しており、早い潮の流れに乗ってさんざんに矢を射かけて、海戦に慣れない坂東武者の義経軍に対して優勢に戦いを進めました。
義経軍は満珠島・干珠島のあたりにまで追いやられ、勢いに乗った平氏軍は義経を討ち取ろうと攻めかかります。

ここで不利を悟った義経が敵船の水手、梶取(漕ぎ手)を射るよう命じます(この時代の海戦では非戦闘員の水手・梶取を射ることは戦の作法に反する行為だったのです、現在の戦いでも民間人に対する誤爆が問題になりますが、それを故意に行う事は、戦時国際法違反となります「非戦闘員への攻撃」。)。
義経があえて、その掟破りを行って戦況が変化させたとする話が、ドラマや小説等によく見られます。
しかし『平家物語』では義経が水手・梶取を射るよう命じる場面はなく、もはや大勢が決した段階で源氏の兵が平氏の船に乗り移り、水手や船頭を射殺し、斬り殺したと描かれています(義経は卑怯な戦法を取ったのか?取らなかったのか?)。
義経を弁護するなら、阿波重能の水軍300艘が寝返ったこと?潮の流れが変わった事が勝因として挙げられます。

【源氏の反攻と平氏滅亡】

『平家物語』には平氏一門の最後の様子「先帝身投」の場面が描かれています。
敗けを覚った、建礼門院や二位尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えます。
安徳天皇が「どこへ行くのか」と仰ぎ見れば、二位尼は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、安徳天皇とともに海に身を投じたとされます。
『吾妻鏡』によると二位尼が宝剣と神璽を持って入水、按察の局が安徳天皇を抱いて入水したとあり、続いて建礼門院ら平氏一門の女たちも次々と海に身を投げたと記載が有ります。

武将たちも覚悟を定め、平家の総帥宗盛(清盛の三男)以下教盛(清盛の弟四男)・経盛(清盛の弟三男)・資盛(平清盛の嫡男である平重盛の次男)・有盛(平重盛の四男)・行盛(平清盛の次男である平基盛の長男)・清宗(平宗盛の長男)・入水、皮肉な事に宗盛だけが、水練が達者なために泳ぎ回っていたところを義経軍に捕らえられてしまいました。

【義経の八艘飛びは逃亡するためだった?】
剛の者である平教経(平清盛の弟教盛の次男)は、鬼神の如く戦い坂東武者を多数討たました、知盛(清盛の四男)が既に勝敗は決したから罪作りなことはするなと伝えます。
教経は、ならば敵の大将の義経を道連れにせんと欲し、義経の船を見つけてこれに乗り移った。
教経は小長刀を持って組みかからんと挑むが、義経はゆらりと飛び上がると船から船へと飛び移り八艘彼方へ飛び去ってしまいます。
これが世にいう義経の「八艘飛び」です(詰まり、攻撃の為の八艘飛びではなくて、一目散に逃亡するため~(^^;)。
義経を取り逃がした教経に大力で知られる安芸太郎が討ち取って手柄にしようと同じく大力の者二人と組みかりますが、教経は一人を海に蹴り落とすと、二人を組み抱えたまま海に飛び込んで最後を遂げます。
『平家物語』に描かれた平氏随一の猛将として知られ屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで義経を苦しめた教経(義経のライバルといえますね)の最後ですが、『吾妻鏡』によれば教経はこれ以前の一ノ谷の戦いで討ち死にしているという記述がありますが、『醍醐雑事記』には壇ノ浦で没した人物の一人として教経の名が挙げられている。
知盛は「見るべき程の事は見つ(最後は見届けたの意味ですかね?)」とつぶやくと、鎧二領を着て乳兄弟の平家長と共に入水しました。

申の刻(16時ごろ『玉葉』)(『吾妻鏡』では午の刻(12時ごろ))平氏一門の多くが死ぬか捕らえられ、戦いは源氏の勝利に終わりました。

なお、この戦いで平氏一門は政治勢力としては滅亡しましたが、一般的なイメージとは異なり一門そのものは断絶することなくその後も続いています(私の実家但馬の海岸にも平家の落人村が有るようです。ここでいう「一門そのもの」とは意味合いが違うのですが…)。

【後白河法皇も最後までこだわった『三種の神器』の行栄】

「吾妻鏡」などでは、安徳天皇や二位の尼とともに「三種の神器」が海に沈みます
「八咫鏡」の記載は少なく、引き上げられたとも言われますが、八咫鏡は元来伊勢の神宮の皇大神宮に収められていて、壇ノ浦の「八咫鏡」「形代(レプリカという意味ではありません)」」ということに成りますか。
「八尺瓊勾玉」はハッキリと浮び上がった記載がありますし現在は、皇居の吹上御所の「剣璽の間」に安置されています。
「草薙剣(天叢雲剣、あまのむらくものつるぎ)」は海中に沈んでしまい、行方不明になったとあります。

朝廷に伝わっていたとされる壇ノ浦の「草薙剣」ですが、第十代崇神天皇が神器と一緒にいるのは畏れ多いと剣の「形代」を鋳造し、これを護身のため宮中に置いたといわれます。
『古語拾遺』にも、第十代崇神天皇の時、鏡と剣は宮中から出され、外で祭られることになったため、「形代」が作られたと記載されます。
第十一代垂仁天皇の時、伊勢神宮が創始されたおり、旧剣は伊勢に移され新剣のほうが宮中に留まったとみられています(この新しい剣が壇ノ浦で沈んだ「草薙剣」ではないかと推測します。
日本武尊(第十二代景行天皇の皇子)東征のおりに伊勢神宮から持ち出された「草薙剣(旧剣)」は熱田で宮簀姫(みやずひめ)に渡り、宮簀姫は熱田神宮を建ててこの草薙剣を祀ったとされています

つまり、現在では「草薙剣(旧剣)」は熱田神宮に、「八咫鏡」は伊勢の神宮の皇大神宮内宮にそれぞれ神体として奉斎され、「八尺瓊勾玉「と「草薙剣の形代」、「八咫鏡の形代」は宮中三殿吹上御所の「剣璽の間」に保存されています。
三神器[1]
(三種の神器のイメージ図)

しかし同皇居内に皇族らが住まいされていますが、天皇陛下でさえもその実見はでさえ未だになされていないという事です。

さて、今回の平家物語の最後を飾るのはやはり、幕引き役平徳子(建礼門院)ですね。
平家物語の最後は「勧請巻」といって徳子の後日譚です。
平家滅亡時に壇ノ浦で入水しようとした徳子は助けられて京の大原で隠棲し出家します。
平家や安徳天皇の菩提を弔いますが、そこで後白河法皇の訪問をうけ、平家の栄華と滅亡を振り返ります
そして徳子は極楽に往生して物語が終わります。

私も次回「盛者必衰の理」の総括を寂光院からお届け出来ればと考えています。

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2017/03/16

涙脆い人はハンケチをご用意下さいね!平敦盛『首塚』

前回に引き続き平敦盛ゆかりの場所を御紹介させて頂きます(^人^)。

「敦盛」と言えば「人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり~。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか~~。」の「織田信長」の幸若舞で有名ですが、原作とは少し?意味合いが違い、信長の創作?らしいですよ~(嘘でしょ~って感じです(^^;)

引き続き、「平家物語」の中でも、最も涙の量が多くなる?「巻第九~敦盛最後」ゆかりの地から、須磨寺の「平敦盛の首塚」を御紹介します(。´Д⊂) 
涙脆い人は注意してね~の第二段です。

P2220146.jpg(須磨寺奉納額より、敦盛青葉の笛を奏でる。)

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幸若舞の演目のひとつ「敦盛」は前回御紹介した「平家物語」のお話と少し?相違点がようなので、御紹介します(作者と製作年は不詳ですね)。

【ストーリー】

1184年(元暦元年)(平家方の呼ぶ寿永2年)、治承・寿永の乱(源平合戦)の一戦である須磨の浦における「一ノ谷の戦い」で、平家軍は源氏軍に押されて敗走をはじめます。
 平清盛の甥で平経盛の子、若き笛の名手でもあった平敦盛は、退却の際に愛用の漢竹の横笛(青葉の笛・小枝)を持ち出し忘れ、これを取りに戻ったため退却船に乗り遅れてしまいます。
出船しはじめた退却船を目指し渚に馬を飛ばす敦盛、退却船も気付いて岸へ船を戻そうとしますが、逆風で思うように船体を寄せられません。
敦盛自身も荒れた波しぶきに手こずり馬を上手く捌けずにいました。

そこに源氏方の熊谷直実が通りがかり、格式高い甲冑を身に着けた敦盛を目にすると、平家の有力武将であろうと踏んで一騎討ちを挑みます。
敦盛はこれに対して受けあいませんでしたが、直実は将同士の一騎討ちに応じなければ兵に命じて矢を放つと威迫します。
多勢に無勢、一斉に矢を射られるくらいならと、敦盛は直実との一騎討ちに応ました。
しかし実戦経験の差は歴然、百戦錬磨の直実に一騎討ちでかなうはずなく、敦盛は捕らえられてしまいます。

直実がいざ頸を討とうと組み伏せたその顔をよく見ると、元服間もない紅顔の若武者、名を尋ねて初めて、数え年16歳の平敦盛であると知ります。
直実の同じく16歳の息子熊谷直家は、この一ノ谷合戦で討死したばかり、我が嫡男の面影を重ね合わせ、また将来ある16歳の若武者を討つのを惜しんでためらっていました。
これを見て、組み伏せた敵武将の頸を討とうとしない直実の姿を、同道の源氏諸将が訝しみはじめ、「次郎(直実)に二心あり!次郎もろとも討ち取らむ」との声が上がり始めたため、直実はやむを得ず敦盛の頸を討ち取ります。

一ノ谷合戦は源氏方の勝利に終わりましたが、若き敦盛を討ったことが直実の心を苦しめ事に成ります。
合戦後の論功行賞も芳しくなく同僚武将との所領争いも不調、翌年には屋島の戦いの触れが出され、また同じ苦しみを思う出来事が起こるのかと悩んだ直実は世の無常を感じるようになり、出家を決意して世をはかなむようになります。

という具合です。
敦盛最初は逃げたんですね、幾つか相違点が出てきました。
此方の方が美化が少なくて、現実に近い感じがしますし、直実の無情感の出所を克明に描いていますね。




P2220206.jpg(須磨寺の庭に、合戦のシーンが再現されています。)
P2220207.jpg(呼び止められる敦盛像)
P2220208.jpg(勿論呼び止める直実像)

【人物紹介です前回もしましたが...】
「平敦盛」(1169~1184)父は平経盛、平清盛の甥にあたる。
従五位下に叙せられるが官職につかなかったため、無官大夫と呼ばれます。
笛の名手とされ、愛用の青葉の笛は、祖父の平忠盛が鳥羽院より下賜されたものでだそうです。
この一ノ谷の合戦が初陣、兄(経正・経俊)も一ノ谷の合戦で討死しています。

「熊谷直実」(1141~1207)武蔵国熊谷の御家人、源頼朝の挙兵直後より源氏方となり、各地を転戦します。
一ノ谷の合戦で平敦盛を討ち取る功績を挙げるが、同時に戦いの無常を知り、徐々に仏門への帰依の念を強めていきました。
建久3年(1192年)に相続争いの裁定を不服として出奔、翌年、浄土宗開祖「法然」の弟子となって出家し、名を蓮生とし、後は浄土宗の普及に努めます。

【須磨寺の『敦盛首塚』と平家関連史跡の紹介】

大師堂傍らの池は「敦盛首洗い池」、その背後には、合戦終了後、義経が池の前に腰を掛けて平家武将らの首実検をした名残という「義経腰掛の松」があります(この5年後、義経自らが鎌倉で首実検されるとは、思いもよらなかったでしょうが(((^_^;))。

P2220197.jpg
(義経首実検、腰掛の松です。前に首洗いの池が在るのですが、撮影し忘れてます(;^_^A)

敦盛の首は「須磨寺」で実検を終えると葬られ、その境内に「首塚」が建てられ祀られました。

P2220158.jpg(敦盛首塚の入り口です。)
P2220159.jpg(堂に成っています。五輪塔が首塚)
P2220162.jpg(首塚、敦盛さん眠っておられるのですかね?)


また、須磨寺には敦盛が身につけていた名笛「青葉の笛」が収蔵されています(須磨寺については、とても素敵なお寺なので、又の機械に丁寧に御紹介させて頂きます。)。

P2220210.jpg(青葉の笛?二本在りますね~確か細い方だったような…)
 

【さて幸若舞の謡?ですが】

直実が出家して世をはかなむ中段後半の一節に、『思へばこの世は常の住み家にあらず草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる南楼の月を弄ぶ輩も月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり一度生を享け、滅せぬもののあるべきかこれを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ』
という詞章があり、織田信長がこの節を特に好んで演じたのは皆さんもご存知ですね(#^.^#)。

「人間(じんかん、又は、にんげんと詠みます)五十年」は、人の世の意味です。
「化天」は、六欲天の第五位の世化楽天で、一昼夜は人間界の800年にあたり、化天住人の定命は8,000歳とされます(800×360×8000=23040000年ですか?する事無くなるf(^_^;)。
「下天」は、六欲天の最下位の世で、一昼夜は人間界の50年に当たり、住人の定命は500歳とされます。
信長は16世紀の人物なので、「人間」を「人の世」の意味で使っていた様ですし「化天」を「下天」と読み替えています。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」は、「人の世の50年の歳月は、下天の一日にしかあたらない」という意味になりますが、現代において、「(当時の平均寿命から)人の一生は五十年に過ぎない」という意味としばしば誤って説明される場合があるが、この一節は天界を比較対象とすることで人の世の時の流れの儚さについて説明しているだけで、人の一生が五十年と言っているわけではないのです。
さて、信長が49歳で本能寺に倒れた事もあり、人の人生は50年と信長が謡っていたと思っておられる方が多いいのでは無いでしょうか(若しくは信長が本当に間違えていたのかも知れませんが!)?

【最後にこんな伝説も】

直実は建久元年(1190年)法然の勧めにより、高野山で敦盛の七回忌法要を行っています。
また『一谷嫩軍記』では、実は敦盛は後白河院のご落胤で、直実はそれを知っていて、自分の息子小次郎の首を刎ねたという記述となっているのも面白いですねσ(^_^;)?。

【最後にも一つ】

2012年NHK大河ドラマ「平清盛」で題字を担当し、多岐に渡り様々な活動を展開、人々に感動と勇気と希望を与えているダウン症の女流書家「金澤翔子」さんの書を紹介します(偶然出会えたし、実は大河ドラマの題字の事を知りませんでしたf(^_^;)。

P2220214.jpg
(素晴しいものに出会うことが出来ました。これも敦盛さんの導きです。)
P2220216.jpg(「慈眼視衆生」意味は上に…ガラスが光って申し訳ありません)


1985 年東京都目黒区に誕生。
5歳から書道を始め、母でもある金沢蘭凰に師事。
10歳で「般若心経」を書き、2004 年に雅号 小蘭を取得。
2005年より様々な会場にて席上揮毫を行い、 奇跡の天才書家として注目をあつめる。
2009 年京都・建仁寺に「風神雷神」を奉納(こちらは写真に収めているはずなので、建仁寺ご紹介のおりに紹介いたします)。

歴史は私に新しい発見と素晴しい出会いをもたらしてくれます。
学生時代を通してこんなにも勉強したことが有ったかと思ってしまう、今日この頃です。


又、長々とお付き合いをありがとうございましたm(__)m

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