2018/02/17

今日だからこそ行っとこ!羽生結弦選手ファンの聖地 『弓弦羽神社』

皆さ~ん平昌オリンピック見てますか~?人気日本選手が中々金メダル取れないので、イライラしてないですか?やっぱりフィギュアスケートの羽生結弦選手に最初の金メダル期待しましょう。昨日ショートプログラム完璧でしたね~ということで今日は朝からこちらの神社にお詣りしてきました。『弓弦羽神社』 です。名前が似ているということで羽生結弦選手の活躍を期待するファンで人気急上昇だそうです。問題は今日のライブ放送、フリーの演技が13:30頃ということで、御朱印をもらうまで待ってられませんでした。お詣りと写真だけ撮って帰宅!我が家から往復一時間程なので助かりました。つまり時間が無いのです(-"-;A ...アセアセ

P2170005.jpg(朝7時ですが参拝に訪れる方もおられました。結構待ちました。笑)

羽生結弦選手ファンの聖地との題名は、御祭神の伊弉册尊と事解之男命・速玉之男命に失礼かもしれませんが、羽生結弦選手なので許してもらえると信じています。 平昌冬季五輪のフィギュアスケート男子で、66年ぶりの連覇の期待がかかる羽生結弦選手と名前が似ていることからファンの間で「聖地」となっている、『弓弦羽(ゆづるは)神社』(神戸市東灘区)には多くのファンが訪れ、「けがを乗り越え金メダルを」などの応援メッセージを記した絵馬を奉納し、その数は1000枚を超えているそうです。本日のフリーの演技を目前に控え、けがからの復活を成し遂げて金メダルを~のファン「神頼み」の思いは、叶うのでしょうか?

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【弓弦羽神社】

P2170080.jpg(拝殿です。失礼ですがイメージしていた物と違って立派な神社です。)
P2170017.jpg(御水舎、水の出口は八咫烏です。)
P2170021.jpg(さすが神戸の高級住宅地、神社に犬の御手水が、笑神社で初めて見た!)
P2170032.jpg(狛ちゃんカッコイイですね~申し訳ないですが阿像だけです。)
P2170047.jpg(矢を持つ八咫烏!いいですね~。)
P2170059.jpg(朝早かったので朝日に照らされて綺麗です。)

弓弦羽神社(ゆづるはじんじゃ)は、兵庫県神戸市東灘区御影郡家にある神社です。旧社格は村社となります。

所在地:兵庫県神戸市東灘区御影郡家2丁目9番27号
主祭神:伊弉册尊・事解之男命・速玉之男命
社格等:村社
創建:嘉祥2年(849年)
本殿の様式:流造
例祭:10月15日

【御祭神】

P2170040.jpg(ご由緒です。)
P2170049.jpg(ちょっとゆず丸君欲しくなりました。)

熊野三山に祀られる神である伊弉冉尊(那智大社)・事解之男命(本宮大社)・速玉之男命(速玉大社)を祀り、「根本熊野三所大神」と総称されています。天照皇大御神・素佐男尊を配祀すると記載されていました。八咫烏をシンボルとしています(ゆるキャラ?ゆず丸君可愛いです)。

IMG_6107.jpg
(これは出雲の黄泉平坂、黄泉の国との境です。)
IMG_6110.jpg
(神跡!ここで伊邪那岐と伊邪那美、別れの場所です。ハデスがペルセポネーを連れ去る場所が世界にありますか~?)

伊弉册尊(イザナミノミコト・那智大社)ちょと珍しい記載方法ですね。

事解之男命(コトサカノヲノミコト・本宮大社)黄泉の国から逃げ帰る「伊邪那岐神」が吐いた唾を掃きはらって生まれたとされる神です(縁切りのシーンですね)。 掃きはらったことで、事物を明らかにし事態を収拾させる神とも、魔を祓う神とも言われています。『伊邪那岐神』、『須佐之男命』と共に全国の熊野神社に祀られている事が多い様です。

速玉之男命(ハヤタマノオノカミ)、速玉男命を紹介するときに決して無視することのできない神様がおられます。それが熊野古道や熊野詣で有名な熊野三山の一つ「熊野速玉(新宮)大社」の主祭神である「熊野速玉大神」です。同一視されてしまうことが多いのですが、熊野速玉大神は伊弉諾尊の別の名前であり、速玉男命とは違う神様であるとされています。ちなみに、速玉男命は日本書紀にしか出て来ません。

しかしながら「熊野本宮大社」で伊弉諾尊とともに祀られている「速玉之男命」は「事解之男命」と同一人物だと思われます。黄泉比良坂で離縁することになった二神、その約束をかためるためにはいた唾(つば)から生れたのが、「速玉之男命」同じですね。『弓弦羽神社』のご由緒には速玉之男命(速玉大社)を祀りとあるので、伊弉諾尊の事かもしれませんね。羽生結弦選手が金メダル取られましたら、お礼参りと共に御朱印も頂き、御祭神「事解之男命」「速玉之男命」「伊弉諾尊」の関係についても聞き取り調査してきます。

【勿論歴史の勉強もちゃんとね】

P2170089.jpg(流造の神殿)

神功皇后の三韓征伐中に筑紫で誉田別尊(ほむたわけのみこと・応神天皇)を出産され、その帰途出産を聞いた麛坂皇子と忍熊皇子が挙兵したことを知り、この地で弓矢・甲冑を納めて熊野大神に戦勝を祈願しました。弓矢・甲冑を納めたということから、当社背後の山を「弓弦羽岳」「武庫山」(後に「六甲山」の字が宛てられた)と呼ぶようになりました。つまり「六甲山」の名前が神功皇后や「弓弦羽神社」の由来に関係するということですね、これは知りませんでした。(驚)

延暦年間(782年 - 805年)に弓弦羽の森が神領地と定められ、嘉祥2年(849年)、社殿を造営し遷座しています。平安中期以降は熊野信仰の隆盛に伴い崇敬を集めました。17世紀に入ると、灘地方で酒造家の創業が相次ぎ、造酒・回船業の氏子を集め繁栄しています。

日本酒の名産地である灘五郷にあり、氏子には造酒メーカーも多いようです。新年に菊正宗、白鶴、剣菱の奉納した樽酒がふるまわれるほか、メーカーの醸造祈願祭も行われています。

【弓弦羽神社とスポーツ】

前述しましたように、弓弦羽神社は八咫烏をシンボルとしている御縁から、日本サッカー協会も同じ八咫烏をシンボルとしていること、また日本初のサッカーチームが近隣の御影師範学校(新制神戸大学教育学部「現・発達科学部」の前身の一つとなった)で編成されたという地縁もあり、境内に御影石製のサッカーボールが設置されていました(寄進はINAC神戸レオネッサとビッセル神戸のようです。)。神戸を本拠地とする女子サッカークラブのINAC神戸レオネッサがシーズンイン前に必勝祈願を行うことでも知られます。

P2170061.jpg(INAC神戸レオネッサとビッセル神戸奉納の八咫烏付きサッカーボール。)
P2170054.jpg(絵馬掛けですが、羽生結弦選手人気凄いですね~。修正してないので拡大禁止です。見えないかな?)

さあここです。フィギュアスケート選手の羽生結弦が、ファンからのお守りで、名前の似た当社の存在を知って2011年7月に参拝したこともあり、とりわけソチオリンピックでの羽生結弦選手の活躍を祈願しての絵馬が多数かけられ、金メダルを獲得した直後には参拝者が20倍になったといわれます(羽生結弦選手さまさま、明日のお礼参りはやめた方が良いかも、笑)。そのこともあり、年々羽生結弦選手を応援する参拝者が増加し、羽生ファンの聖地と呼ばれるようになっており、神社に奉納される絵馬の7割近くが羽生を応援し、必勝祈願をするものだそうです。

【最後に一言】

結果がどうであっても、国民に夢を与えてくれる選手の皆さんには本当に敬意を表したいです。前回のソチオリンピックの羽生結弦選手の演技は正に陰陽師そのもので、鳥肌が立ちましたね(京都の晴明神社も行っといたほうが良かったんじゃないかな)。私的には羽生結弦選手は勿論ですが、パシュートの金メダル期待してます。チームプレイが日本の和の精神を本当に良く表しています。日の丸が真ん中に上がり、君が代が流れると必ず涙が出てしまいます。君が代や日の丸を認めない方もおられるでしょうが、日本国に対する愛と誇りは持っていただきたいと思う市郎右衛門でした。

P2170074.jpg(白梅が綺麗に咲いてました。この梅の花のように、満開に花開け日本選手~~~~!)


スポーツって本当に面白いですよね。4年に一度のオリンピックですしね~(笑)
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リュミエールブラン ネージュ

2018/02/14

今年もこの日がやって来た~!『es koyama』の人を選ぶショコラで小山進パティシエと勝負する!

そうです。今日は2月14日バレンタインデーです。私の年(半世紀越え!)にも成って、バレンタインデーも無いものだと思いますが、毎年妻がショコラを買ってプレゼントしてくれます。感謝の気持ちで一杯です(ママありがとうねぇ~(*^^*))。

恵方巻の時にも書きましたが、企業の策略~(笑)バレンタインのチョコプレゼントは、「Morozoff」さんの戦略にズッポシはまっている私です(バレンタインにチョコを送る習慣は神戸のMorozoffさんが始めた売上キャンペーンが始まりです!)。早速のうんちくですが、サンタさんが赤白の衣装なのもコカ・コーラのCMの影響なんですよね。(#^.^#)

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(es koyama、2018チョコレートカタログ)

今年は、長女も手作りのチョコをプレゼントしてくれました。昨年は受験と友チョコ?作りに夢中で、私の所までは回って来ませんでした。長女は三日間徹夜して友チョコを作る程の懲り性なので、女子力だけで人生乗りきりそうな勢いです。

さて、妻が買ってくれるチョコレートなんですが、妻の職場から近い事もあり、毎年あの有名な『es koyama』さんのチョコレートです(私がリクエストしていることも有りますが🎵)。皆さんご存知ですよね。これが、とんでもなく美味しいので、御紹介させて頂きます。(*^.^*)

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【『es koyama』って何?】

兵庫県三田市に在る『es koyama』さんは、結婚当時からの贔屓のケーキ屋さんで、始めは小山ロール(勿論ロールケーキ)が有名で、お店も今と違って小さなお店が一店舗だけだったと記憶しています。人気が人気を呼び、大きくなってきたので、驚いています。(笑)この20年の間に店舗は細分化(ケーキ・ショコラ・マカロン等)スイーツの聖地ともいえる程に変わりしました。観光バスは来るわ、駐車場は一杯過ぎて店迄どんだけ~歩~になっています。

ある時、バレンタイン用でチョコのロールケーキ『小山ロールマイルドショコラ』が有るというので購入してみたところ、中に巻かれているチョコが半端なく美味しくて、小山ショコラ(チョコ)の大ファンに成りました(o^-')b !

P2140016.jpg(小山ロールマイルドショコラ)

【小山進ショコラ店舗は「Rozilla」】

『es koyama』のショコラ専門店はRozilla「(路地裏+ゴジラと小山シェフの遊び心一杯)」となっております。

そして今年(昨年のテーマ)は、DISCOVERY~終わりなきカカオ探求の旅~です。

『小山進』1964年京都生まれ。2003年兵庫県三田市にパティシエ エス コヤマをオープン。「上質感のある普通味」を核にプロフェッショナルな味を展開し続けておられます。

フランスの最も権威のあるショコラ愛好会「C.C.C.」のコンクールでは、2011年の初出品以来7年連続で最高位を獲得されています。

また、2013年からは「インターナショナル・チョコレート・アワーズ」にも出品し、2016年は世界大会で、金・銀・銅賞合わせて、24品という世界最多の受賞!続く2017年アジア太平洋予選では39品全て受賞を果たし、10月にロンドンで開催する世界大会に全作を出品、世界的なショコラティエとして活動の幅をますます広げておられます。
P2140003695.jpg(インターナショナル・チョコレート・アワーズ「ロンドン」バージョン)

【『es koyama』小山進パティシエの2017年の世界大会の結果】

『小山進シェフの今年(2017年)の結果は?』パリで誕生した世界最大級のチョコレートの祭典「サロン・デュ・ショコラ」の結果です。ショコラ好き、スイーツ好きの方は必見です。「Club des Croqueurs de Chocolat=チョコレートをかじる会」C.C.Cショコラアワード授賞者が発表されました。しかしながら評価方式が、今回から大きく変更されています。

2017年10月31日(現地時間)、パリで開催中のサロン・デュ・ショコラでC.C.C(フランスのショコラ愛好会「Club des Croqueurs de Chocolat=チョコレートをかじる会」の略)によるアワード授賞式が行われました。約180社の出品の中から、「AWARD ÉTRANGER L’EXCELLENCE(外国人優秀賞)」で「パティシエ エス コヤマ『es koyama』」の小山進氏がアワードを受賞したほか、「AWARD DU CHOCOLATIER ÉTRANGER EN FRANCE(フランス在住の外国人ショコラティエ賞)」でパリの「MORI YOSHIDA」の吉田守秀氏がアワードを受賞。小山氏、吉田氏を合わせ総勢12組が表彰されました。

評価担当の責任者、アラン・ブロンション氏によれば、アワードは昨年までの「とくに優秀なショコラティエに与える」というコンセプトから、「今後に期待できる人」「才能があり注目してほしい人」に与える賞として位置づけを変更したそうです。

なお、長年続いていた5段階評価(1タブレットから5タブレット)を今年からやめ、「金タブレット」、「銀タブレット」、「銅タブレット」の3段階評価に変更。「外国部門」での日本での金タブレット獲得者は、「パティシエ エス コヤマ」、「ミュゼ・ド ショコラ テオブロマ」、「トーキョーチョコレート」、「ル ショコラ ドゥ アッシュ」の4ブランドです。小山シェフは初出展から7年連続最高位『ゴールドタブレット』を獲得されていることになります。数々の受賞、本当におめでとうございます!ファンとしても嬉しい限りです。

P2140007.jpg(マカロン)

【今年のバレンタインチョコはこちらがお薦め!】

SUSUMU KOYAMA’S CHOCOLOGY 2017 ススム コヤマズ チョコロジー DISCOVERY~終わりなきカカオ探求の旅~です。(2018、じゃないの?と思われるかも知れませんが、今年のコンクールはまだ開催されておりませんのでm(__)m)。

フランスで最も権威のあるショコラ愛好会「クラブ・デ・クロクール・ドゥ・ショコラ(以下C.C.C)」による2017年品評会で、パティシエの小山進氏がアワードを獲得した際のショコラ4種が詰め合わされています。

P2140012256987.jpg(SUSUMU KOYAMA’S CHOCOLOGY 2017)
P2140018.jpg(中身です)

つまり、世界一美味しいショコラ4粒と言っても過言ではありません。世界のカカオと個性ある素材の出会いに魅せられて。 小山進のクリエイションの結晶です。

SUSUMU KOYAMA’S CHOCOLOGY 2017 ススム コヤマズ チョコロジー 2017 1箱(4個入) ¥1,728

賞味期限 
30日(20℃以下)
箱サイズ:縦10× 横10× 高さ3.5cm
アレルギー特定原材料7品目:乳
特定原材料に準ずる20品目:大豆

DISCOVERY~終わりなきカカオ探求の旅~

【小山進シェフのお話】

子どものときからいろいろな発見を繰り返してきたが、今回発表した作品は2016~2017年の1年間での発見である。身近なモノでも虫眼鏡で覗いて観察をしたり、顕微鏡を使って深く観察すれば、たくさんの発見があったように、今年の私もまさに身近で慣れ親しんだモノから、そして未知のモノから、新しいたくさんの発見があった。新しい発見とは、全てが初めてものという意味ではない。過去に出会ったモノも深く掘り下げれば、まだまだたくさん得るものがある。過去と今では素材に対する向き合い方も見え方も違っているからだ。僕の仕事はそういったものを見つけ、ショコラを通じて世の中に伝えることだと思っている。今も昔も変わらず、良いモノは良いし、カカオのように同じ樹から採れるものでも収穫年によって味は全く異なるという素材も数多ある。これまでは素材に対して一方向からしか見えていなかったのが、時を経て経験を重ねていくにつれ、自身の成長と共に見え方・感じ方が変化する。人との繋がりも広がって、価値観が同じ人とも数多く出会えるようになる。そうして、手に入れられる素材の品質にも変化が出てくるのだ。そう考えると、これからも面白い出逢いが待っていることにワクワクせずにはいられない。今、僕の周りにはいろいろな良い風が吹いている。これからも僕の旅の先には、無限大のショコラ創作の可能性が広がっている。

【四種類のボンボンショコラ】

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(NO1とのNO2)

💛No.1 HARU~赤と緑が交差するとき(苺&ふきのとう)~

赤と緑のマリアージュ
一粒に春の息吹を感じて

2012年に「ふきのとう」をショコラにした時、表現したのは“苦味”でした。そして数年が経ち様々な素材と触れ合う中で2017年に表現したのは、土の中から今にも花が開きそうな姿をしている状態の時に宿している野生的で青々しい香りでした。その香りをかいだ時、ふと映像として浮かんだのは苺畑の側で芽吹いたふきのとうが広がる情景。 「きっと苺の華やかな香りや甘酸っぱさと合う」と、感じました。フレッシュなふきのとうは、その香りを活かすためミルクのやさしい味わいと華やかな香りを持つペルー産チャンチャマイヨ48%と合わせて下層に。上層の苺のガナッシュは、苺の可愛らしさや甘酸っぱさと非常に相性の良いニカラグア産カカオのショコラ・オレ(カカオ分50%)を合わせ、苺の甘酸っぱさと、ふきのとうの野性味を帯びた春のパワーが交差する瞬間が表現できました。 デコールもふきのとうの緑の味が漂う中に、トンっと苺がある、そんなイメージです。

💛No.2 神の木~クロモジ~

自然の贈り物×日本の最先端技術
ペルー産カカオのポテンシャルが全てを引き出して

クロモジは、日本では高級な爪楊枝として和菓子を食べるときに使われてきた樹木。その高貴な香りには、ヒーリング作用や、抗菌作用もあり、一部の地域では儀式に必ず使用されるなど“神の木”とも呼ばれています。そんなクロモジの香りはシェフ小山も大好きで「いつかこの香りをショコラにしたい」と思っていました。それを実現したのがこのショコラ。今回使ったクロモジは「新月切り」と言って、引力が一番弱くなる新月の日の樹木の香りが最も濃くなるタイミングに伐採していただいたもの。そうして刈り取られた枝や葉を「真空常温乾燥」と「プラズマ乾燥」という二つの技法で乾燥させ、全てを生クリームにアンフュゼ。樹木のオイルまでも入れ込んで、ペルー産のチャンチャマイヨのショコラ・オレ(カカオ分48%)と合わせました。鼻へ近づけていただくと、口の中に入るまでの間に、クロモジのパワーを感じていただけます。神の木と呼ばれる樹木が持つ高貴な香りをご堪能ください。

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(NO3とNO4)


💛No.3 YUZU~エスペレットピーマンの刺激と共に~

素材を掘り下げた先に見えるもの
日本と世界の素材が生み出す絶妙なマリアージュ

柚子は、皮、果汁と様々な活かし方があり、加工品も数多ありますが、今回の発見は次元の違うアプローチ。柚子の皮の表面0.1ミリほどの薄い表皮のみを削ったという、金に輝く柚子のパウダーに出会ったことが誕生のキッカケでした。それは、これまでショコラに限らず柚子を様々なシーンで使用してきたシェフ小山にとって、「本物のフレッシュな柚子には到底及ばない」という悔しさを消し去るほどの衝撃。最高の柚子ゼストパウダーで柚子を最大限に表現し、そこへ強い刺激を合わせたくなって思いついたのが、数年前訪れたフレンチバスクで出会ったエスペレットピーマンとの組み合わせ。柚子の素晴らしい香りの中から、スパイシーなエスペレットピーマンの味が後からじわりとやってきてアーモンドプラリネのふくよかな味わいに優しく包まれます。クリアに柚子の特長が際立った素材のポテンシャルが生み出した新たな表現です。

💛No.4 サンマルティン~終わりなきカカオ探求の旅~

「テオブロマ」の名にふさわしく
カカオの可能性を強く感じる一粒

2016年に訪れたペルー・サンマルティン。ここで出会ったカカオを「使ってみたい」とシェフ小山が現地で申し出たところ、様々な人との繋がりによって、以前から「この地のカカオを手に入れたい」と思っていた小山の友人でもあるクーベルチュリエの手に渡り、クーベルチュールに仕立てられました。味わいは、クランベリーのような香りにやさしく広がるマンゴーやアプリコットのようなフルーティーな味わい。そして、ややナッティな分厚いカカオの余韻が、刺激の強いエスペレットピーマンの後でも、一口でガラリと口の中を違う物語にリセットします。「カカオが学名で『テオブロマ=神の食べ物』と名づけられた意味をつくづく感じた」というシェフ小山の、「今後もカカオ探求の旅はこれからもずっと続いていく」という思いが込められた、4種類の中でどんなショコラよりも力強いパワーを秘めたこのショコラ・ノワールが最後です。そして再びNo.1を味わったとき、新しい発見が待っていることでしょう。

以上が今年の「SUSUMU KOYAMA’S CHOCOLOGY 2017」です。一応、グルメを自称している私は、この小山さんのショコラを食べる時は、ある意味「戦」だと思って食べているのです。説明通りの味覚を、私の舌が感じることが出来るのかどうか?いつもドキドキしながらいただいています。食べる側の人間の味覚も試されているような、そんな気持ちがいつもするショコラなのです。ですから、『es koyama』のショコラは人を選ぶと書きました。

【食べる人を選ぶショコラ】

このような体験は、これまでは有名なバックブランド『エルメス』(元は馬具の会社ですよね) でしか体験した事はありません。以前、妻の誕生日プレゼントに『エルメス』の小物を買いに行ったことが有るのですが、私の格好が汚かったのか?一度目のスカーフも、二度目のバングルも、何故か1つランク下?の安い方を進められました。「こちらの(お安い)方も素敵ですよ」なんてね(笑)、妻に感謝の気持ちを表そうと、ある程度は用意して行ったのですが、私がそんなにみずほらしかったのかな?謎です~(無理してるなと思われたのかもしれません?)。

「エルメス」ケリーやバーキンといった有名で素敵なバッグが有りますよね、もちろん私の給料ではとても無理ですし、バブル時には何年も待たなければ届かない物でした。今なお直営店でも店頭には並ばないそうです。

ケリーバッグはモナコ皇太子妃だった「グレース ケリー」が妊娠報道加熱から空港で待ち受けるカメラマン(パパラッチですかね)から、ぷっくりお腹をバッグで隠したことから名前が、付いています。バーキンバックは「ジェーン バーキン」(オリエント急行殺人事件のメイド役が印象的な、私も大好きな、ロングヘアーの美しい女優さんです)が作らせたことから、名前が付いています。

私的には、これらエルメスのバッグはある程度年齢を重ねて地位や名誉を得、それに見会う魅力を兼ね備えた女性が持つべき物だと考えています。そういう意味合いで、『エルメスのバッグは持つ人を選ぶ』のでは?と普段から考えています。いつか妻にプレゼントしたいと考えておりますが、結婚もうすぐ21年!妻はともかく、私はプレゼントするだけの男性にはまだまだ、成ってはいないと思っています(店員さんにも見透かされていたのかな?勿論努力は怠らないつもりですがね!)。

話が逸れてしまいましたが、『es koyama』のショコラを味わってみましょう。このショコラは、全てにおいて計算しつくされているので、半分ずつというような食べ方はいけません。一粒の中にすべての世界があるのです。友達から、「少しかじらせて」などと隣から言われても、無視してください(笑)。ボンボンショコラならではの食べ方、お口にぱくり?と投げ込んで、ゆっくりと、融けていくのを味わいます。説明通りの味が脳裏に届くと、うんうん、なるほど流石だなぁと感じて、美味しさに満足します。

食べる順番も決まっていて、フルコースの様に最高のフレーバーが楽しめる様になっています。日本のチョコレートは世界一美味しいと思いますが、『es koyama』のショコラはあなたのショコラ概念そのものを変えてしまうほどの完成度です!私が感じた、一粒ずつの味の説明はあえて致しません。あなたが是非、御賞味して自分なりの体感を味わって下さい(⌒‐⌒)v。

【最後の一言】

バレンタインデーには忘れられない二つの思い出があります。初めてプレゼントされたのは、小学校5年生の時でした(自慢じゃないですよ(-"-;A ...アセアセ)。45年も前のお話ですね~(笑)甘い思い出?いえいえ苦い思い出です。子どもだったんですね~(小学校5年生は子供だろうって、笑)。素敵な思い出も、苦い思い出もいつか笑って話せるように成れば良いと思うのですがね。今日は『es koyama』のショコラで甘い夜を過ごしたいと思います。

P2140011254.jpg(長女のチョコです。中身は秘密です。)

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リュミエールブラン ネージュ

2018/02/13

織田家の血脈は残った?「柏原藩陣屋跡」

ほぼ天下を実質手中にしたといっても良い織田信長でしたが、明智光秀の謀叛によってその人生をの幕を閉じることに成ります。信長の死と共に、信長に連なる織田家は次の天下人となった豊臣秀吉や、徳川家康によって没落の一途を辿ります。そんな、織田家においても、したたかに戦国時代や江戸時代を生き抜いた末裔も居るのでご紹介したいと思います。

P2120083.jpg(柏原藩陣屋跡)

今日ご紹介するのは、兵庫県丹波市柏原町を支配した柏原藩の織田家です。城下町のゆるやかな坂を上ると、人の背丈ほどの白壁に囲まれた陣屋跡に行きつきます。かつて織田信長の子孫が治めた柏原藩の政庁です。内部に長屋のような空間を備えた国指定文化財「長屋門」をくぐると、檜皮葺きの玄関を持つ「表御殿」が威厳を放ちます。

柏原藩は信長の兄弟信包と、後に信長の次男信雄の子孫が柏原藩主として、転封されています。城は有りませんが柏原藩陣屋が有り、一部が保存されたり再建されたりしています。

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【織田家(信秀・信長系列)って?】

「信長公記」によると、織田信長の家系は、尾張守護でもある管領の斯波武衛家の家臣で、応仁の乱における斯波氏の内紛に派生する混乱のため分裂し、それぞれが主家の斯波氏を凌ぎ戦国大名化した家系です。戦国時代において、清洲三奉行(織田信長の家系はこの三奉行の一家に過ぎません。)が仕える清洲織田氏(大和守家)は清洲城を本拠に守護斯波氏を奉じ尾張下4郡を支配下に治めており、もう一つの岩倉織田氏(伊勢守家)は岩倉城を本拠とし尾張上4郡を治めていました。つまり、織田家(信長)は尾張の守護代でもなく、尾張半分の守護代家老三奉行の一つに過ぎない訳です。

天下統一を目前に本能寺の変で信長および嫡子の織田信忠が討たれると、織田家有力家臣の勢力争いとなります。最終的に羽柴秀吉が織田家中をまとめますが、織田家当主とされた織田秀信(織田三法師、織田信忠の嫡男、信長の孫)成長後も政権は織田家に返されることはありませんでした。しかし織田家の本国である岐阜城は返却され美濃の領主とされました。

関ヶ原の戦いで西軍についたことで徳川家康により織田秀信は改易され、5年後の彼の死を以って織田家嫡流は断絶したと言われています。しかし、織田信長の次男である織田信雄を筆頭に弾正忠家の庶流は存続し続け、江戸時代には外様の小大名や高家、旗本、尾張藩や明石藩家老などとして存続しました。なかには藤掛氏、津田氏のように織田を称しない一族もいます。現在でも直系子孫は続いているんです。明治維新後、大名の織田家四家が子爵に列しました。

フィギュアスケートで有名な織田信成さんも、信長の子孫を自称されていま。。織田信長から数えて17代目の末裔(旗本高家の織田信高の系統)にあたると自称しされています。

【丹波柏原藩史信包流】

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(丹波柏原藩初代、織田信長の弟・信包)


織田信長の弟・信包は慶長3年(1598年)6月、伊勢国安濃津から柏原3万6000石に移封されます。これが柏原藩の立藩でした。信包は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属しましたが、戦後は改易されずに済み(名門の血脈を惜しまれたのか?)、大坂城で豊臣秀頼に仕えました。慶長19年(1614年)、信包は大坂冬の陣直前に死去しています。

その後、信包の孫で第3代藩主・織田信勝の時代に治水工事や新田開発などが行なわれて藩政の基礎が固められましたが、信勝は慶安3年(1650年)5月17日に嗣子が無いまま死去してしまい、ここに柏原藩は廃藩となり、その所領は幕府領(天領)となります。

P2120147.jpg(三代藩主・織田信勝を祀る織田神社、ちなみに全国で三社の建勲神社もすぐ側にあります。)
P2120150.jpg(織田権現とも呼ばれているそうです。)

【丹波柏原藩史信雄流】

元禄8年(1695年)4月14日、信長の次男(三男ともいわれます)、織田信雄の五男・織田高長から始まる大和宇陀藩の織田信休が、2万石で柏原に入部したことにより、柏原藩が再度?立藩されました。

これは大和宇陀藩2万9000石の藩主であった信休の父・織田信武が元禄7年(1694年)に発狂して家臣の田中五郎兵衛らを殺して自らも自害するという「宇陀崩れ」を起こしたため、処罰としてその子である信休が減移封されることとなったためです。ちなみに宇陀崩れ(うだくずれ)とは、江戸時代に大和国の宇陀松山藩で起こったお家騒動の事です。

宇陀松山藩三代織田長頼の時、弟の長政に福知村ほか8か村3000石を分与した。4代織田信武の代に至り藩の財政は窮乏し、打開策をめぐって重臣が対立します。1694年(元禄7年)、信武は、創業功臣の裔である重臣生駒三左衛門、田中五郎兵衛を討ち果たして自らも自害を遂げました。このため翌年、後継の織田信休は丹波国氷上郡柏原藩2万石に減封のうえ国替となり、宇陀松山藩は廃藩となり終焉しました。

信休は藩財政窮乏の中で藩政の基盤固めに努めましたが、大洪水や旱魃などが相次ぎ、元禄9年(1696年)には年貢軽減を求める愁訴が起こります。その後も柏原藩では藩財政の窮乏化が進み、藩内では要人をはじめとする61人の解雇(リストラ)、藩士の俸禄削減、藩札の発行などの諸改革を断行しましたが効果はなく、文政7年(1824年)には物価高騰に反対する百姓一揆が起こりました。

第五代藩主・織田信守はこのような中で奢侈(身分不相応に金を費やす事)に走って藩政に関心を示さなかった上、その快楽のために百姓に重税を強いたため、領民は信守を恨みました。しかも信守が愛妾の保野を寵愛して政務にまで関与させた結果、藩主の地位をめぐっての争い(秘命騒動や保野騒動)が起こり、藩政は大いに乱れることとなりました。

第六代藩主・織田信古の代には先代の信守のツケに加えて藩札の発行により藩経済が大混乱し、天保4年(1833年)には遂に百姓の怒りが爆発して、打ち壊し騒動が発生しています。このような中で第八代藩主となった織田信敬は、小島省斎と協力して倹約を主とする藩政改革を断行します。そして藩内で文武を奨励し、藩校として又新館を設立しました。

第九代藩主・織田信民は信敬の遺志を受け継いで新たに藩校・崇広館を設立し、小島省斎と共に藩政改革に臨んでいます。現在「柏原藩陣屋跡」は表御殿が残り、お台所等は地表面に表示されています。奥部分は小学校の敷地に組み込まれました。

P2120117.jpg(信雄流のお墓!柏原高校の右山側にありました。)
P2120142.jpg(真ん中が信雄流初代・織田信休、奥が二代・織田信朝、手前が三代・織田信舊)

【織田家の血脈】

織田氏の諸藩では、信雄の系統は柏原藩の他に天童藩が、織田長益(有楽斎)の系統は柳本藩、芝村藩(戒重藩)が、明治維新まで存続しています。有楽斎の系統は他に味舌藩、野村藩が存在しましたが、これらは江戸時代初期に除封、無嗣断絶しています。

【柏原藩歴代藩主】

代・氏名・官位・在職期間・享年・備考の順に記載。

『織田信包流・外様 3万6000石』

①織田信包(おだ のぶかね)
従三位左近衛中将
慶長3年~慶長19年(1598年~1614年)72?
父は織田信秀。織田信長の実弟。

②織田信則(おだ のぶのり)
従四位下刑部大輔
慶長19年~寛永7年(1614年~1630年)31

③織田信勝(おだ のぶかつ)
従五位下上総介
寛永7年~慶安3年(1630年~1650年)28
無継嗣のため改易。

『幕府領(天領)』

慶安3年(1650年)~元禄8年(1695年)

『織田信雄流・外様 2万石』

①織田信休(おだ のぶやす)
従五位下近江守
元禄8年~享保7年(1695年~1722年)45
父は大和宇陀松山藩4代藩主の織田信武。
大和宇陀松山藩から転封。

②織田信朝(おだ のぶとも)
従五位下出雲守
享保7年~元文2年(1722年~1737年)29

③織田信舊(おだ のぶひさ)
従五位下山城守
元文2年~天明3年(1737年~1783年)74
前藩主信朝の実弟。

④織田信憑(おだ のぶより)
従四位下出雲守
天明3年~文政10年(1783年~1827年)91
実父は高家旗本・織田信栄。
宝暦8年(1758年)に前藩主信旧の養子となる。

⑤織田信守(おだ のぶもり)
従五位下山城守
文政10年~文政12年(1827年~1829年)69

⑥織田信古(おだ のぶもと)
従五位下近江守
文政12年~天保13年(1829年~1842年)54
祖父は3代藩主の信旧。実父は織田信應。

⑦織田信貞(おだ のぶさだ)
従五位下出雲守
天保13年~弘化3年(1842年~1846年)44
実父は5代藩主の信守。

⑧織田信敬(おだ のぶのり)
従五位下出雲守
弘化3年~嘉永7年(1846年~1854年)18
実父は肥後宇土藩9代藩主の細川行芬。

⑨織田信民(おだ のぶたみ)
従五位下山城守
嘉永7年~慶応元年(1854年~1865年)26
実父は筑前秋月藩10代藩主の黒田長元。

⑩織田信親(おだ のぶちか)
従五位下出雲守
慶応元年~明治4年(1865年~1871年)77
実父は交代寄合の山崎治正。

【秘命騒動と保野騒動】

織田 信守丹波柏原藩第五代藩主は、第四代藩主織田信憑の長男でした。享和元年(1801年)6月14日、父信憑の嫡子となる。当初、信憑は信應(養父信旧の三男)を養嗣子としていたものの、この年に死去したため長男信守を嫡子としました。同年10月1日、将軍徳川家斉に御目見し、文化12年(1815)12月28日、従五位下山城守に叙任されます。父信憑の官位昇進にともない、世子の地位にありながら叙任しており、特別な待遇であったといえます。

その後、信守は信應の遺児信古の廃嫡を狙い「秘命騒動」を起こします。先々代藩主・信舊は後継者に恵まれず、分家から信憑を養子に迎えたものの、その後に実子信應を授かいます。成長した信應は先代信憑の養嗣子になったものの、藩主に就任する前に病没しました。つまり、信應の遺児・信古は柏原藩織田家の正統な後継者といえました。

しかし、信守は信古を養嗣子に迎えず、実子信貞を後継者にしようと企んだのでした。信古は病気のため嫡子にはできないとして、退隠をさせようとしたようです。文政4年(1821年)3月以降、たびたび信古の出府を延期させており、この頃の出来事と考えられます。結果的には、文政6年(1823年)、家臣九里政敬らの強い反発を受け、信古を婿養子に迎えました。

信守は、文政10年(1827年)10月10日、家督を相続、同12年(1829年)11月18日に隠居し、養子信古に家督を譲りました。信守の暴政に耐えられなくなった家臣団が幕府に藩主の交代を訴え、隠居させられたとも言われています。さらに隠居後、その側室保野による「保野騒動」が起こります。天保10年8月16日、信守は家臣に側室保野を柏原に連れてくるように厳命し、一方で側室保野に柏原に来ないように連絡をするなどして、家中を混乱させる原因を作ったことから、遠慮(「えんりょ」とは、江戸時代の刑罰の一つで、武士・僧侶などに科せられました。基本的に、自宅での籠居「ろうきょ」を命じたものです。)を命じられています。天保11年(1840年)5月10日江戸において死去、享年69。広徳寺に葬られています。

【柏原藩陣屋跡】

P2120043.jpg
(柏原藩陣屋跡)
P2120044.jpg(長屋門入り口)
P2120062.jpg(表御殿正面、200円で中も拝見出来ます。)
P2120055.jpg
(残っているのは、赤で囲まれた部分です。)
P2120060.jpg
(こちらは建物地図が表示されていました。)
P2120091.jpg(台所辺りと後方は近代的な小学校です。)

柏原陣屋(かいばらじんや)は現在の兵庫県丹波市柏原町(丹波国氷上郡)にあった柏原藩の藩庁の陣屋です。国指定の史跡と成っています。元禄8年(1695年)信長の次男信雄の孫、宇陀松山藩主信休がお家騒動の咎により領地を半減され2万石で移封します。移封より19年経た正徳3年(1713年)幕府より陣屋を築く事が許されました。以後十代にわたり織田氏が治め、明治にいたっています。

長屋門は正徳4年(1714年)に造られた表門で内部は左側が番所、右側が馬見所と砲庫に成っています。文政元年(1818年)御殿が焼失した時も延焼を免れています。創建時から残る唯一のものです。御殿は正徳4年、初代信休により築かれたものでした。文政元年の火災で焼失し、文政3年(1820年)に再建されました。しかし明治維新後に解体され、現在では再建時のおよそ5分の1が現存しているにすぎません。なお、正確な建築年代は判明していませんが、太鼓櫓は大手門にあり、番所や物見櫓の役割も果たしました。明治になってから石田大蔵神社境内に移築されています。

【最後の一言】

八代藩主、織田信敬の実父は肥後宇土藩九代藩主の細川行芬です。九代藩主織田信民の実父は筑前秋月藩十代藩主の黒田長元です。血脈を繋ぐ今の養子とは少し違いが在ると感じます。血より名をとる、江戸時代全国の大名が名前を護るための養子をとっています。我が家の近くでは、三田の九鬼家も血脈は途絶えていたはずですし。謙信公の上杉家も吉良上野介の息子が養子に成っていましたし、私の尊敬する上杉鷹山公も養子でした。大名家は企業と同じです。そこは出来の悪い創業者の息子よりも、能力のある、新社長ですかね~笑。

陣屋敷地は小学校の敷地の一画となっています。第九代藩主・織田信民が作った藩校の名前にちなんで、崇広小学校!「卒業の日に長屋門をくぐる」のが伝統のようです。柏原藩主のように強く大きく伸びろの願いは不変ですね。今年ももうすぐ織田家ゆかりの門から児童が巣立ちます。

P2120037.jpg(あとひと月ほどで児童が巣立つ「長屋門」が最後に成りました。)

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リュミエールブラン ネージュ

2018/02/11

吉備に突然巨大古墳が造られた謎!全国10位『作山古墳』

前回楯築墳丘墓をご紹介しました。私的には楯築墳丘墓は古墳と呼んでも差し支え無いと考えますが、教科書通り(本当に教科書の区分分けははっきりしています、笑)墳丘墓を使用させて頂きました。吉備は古代の国の中でも、後に中央と呼ばれることに成る大和(奈良)、出雲と共に中央集権国家の成立に、欠かせない存在だったと考えます。

勿論!「いやいや、九州を忘れるな!四国はどうした?近江や丹波・丹後も」と仰られる方々の意見を否定などするつもりは有りませんが、私がフィールドワークで現地に立った印象では、今のところ大和・出雲・吉備は飛び抜けていると思います。特に九州の皆さまには、私が神戸在住と言うことで、苦々しい思いをされていることも先にお詫びさせて頂きます。

P7290430.jpg(後円部左寄りの作山古墳の姿です。)

さて今日は、5世紀に大和以外でこれ程の巨大な古墳を造る勢力が、吉備に存在したという証明も込めて、作山古墳をご紹介致します。

その前に、本当に長くお待たせしてしまったのですが、皆さまが何時も興味を持って頂いている「馬肉会」にわざわざ愛知県から御参加くださいました、「アラフォー・シングルのカラーセラピストBlogger」「仁依菜」さん(私より有名なので皆んご存知ですよね)のブログをリンクさせて頂く事に成りました。

仁依菜さんは、日々実践しているダイエットのお話や健康のこと、日々感じたことなどをブログ『色とりどりな生活』でUPされています。私のブログ共々素敵なブログに訪れて頂けましたら幸いです。

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【全国10位は伊達じゃない「作山古墳」概要】



P7290435.jpg(それでは前方部左側の尾根を登ります。駐車場もありますよ。)
P7290432.jpg
(駐車場に在ったハイキングコースかな?)

作山古墳(つくりやまこふん、三須作山古墳)は、岡山県総社市三須(みす)にある古墳です。形状は勿論、前方後円墳ですね、その規模や時代その他要因により、当然国の史跡に指定されています。

別名:三須作山古墳
所在地:岡山県総社市三須
形状:前方後円墳
規模墳丘長:282m(全国10位)
高さ:24m(後円部)
築造年代:5世紀中頃(古墳時代中期)
埋葬施設:不明
出土品:円筒埴輪・朝顔形埴輪
指定文化財:国の史跡「作山古墳 第一古墳」特記事項全国第10位・岡山県第2位(まだ一位が在るってのが凄いねぇ)の規模

岡山県南部の独立低丘陵を加工して築造された巨大前方後円墳です。東方の造山古墳(岡山市北区新庄下)も「つくりやまこふん」であるため、作山は「さくざん」、造山は「ぞうざん」と呼び分けられています(当初取材時は造山古墳のWki航空写真が作山古墳だったと思います)。これまでに本格的な発掘調査は実施されていません。

岡山一位の造山古墳も未盗掘で調査されていません。歴史(考古学)ファンとしては当然調査してほしい訳ですが、高松塚古墳やキトラ古墳が石室内の調査後にどうなったかを考えると、開けてしまえば良いとは行かないのですよね。より良い保存方法が見つかる迄、待つしか無さそうです。因みに岡山の古墳は宮内庁の管理では無いので、期待しても良いかも知れませんが、私が生きている間には無理かも知れませんね~f(^_^;

さて作山古墳の墳形は前方後円形で、前方部を南西方に向けています。墳丘は3段築成です。墳丘長は282メートルを測りますが、これは岡山県では造山古墳(350メートル、全国第4位/岡山県第1位)に次ぐ第2位になります。墳丘表面では角礫の葺石、埴輪列が認められます。また墳丘北側には造出を有するほか、前方部前面には未削平の残丘があります(途中で中断されたのでしょうかね?)。墳丘周囲に周濠は認められていません。主体部の埋葬施設は明らかでは有りませんが、盗掘坑が認められないことから、墳丘内部での現存が推測されています。

【古墳の見どころの基本】

P7290439.jpg(周濠に見えますがテラスが在るということで、テラス部分の耕作地かもしれません。)
P7290441.jpg(前方部縦側一段目段築)
P7290443.jpg(前方部正面側一段目段築)
P7290446.jpg(前方部縦側二段目段築)
P7290448.jpg(前方部正面側二段目段築)

以前古墳の見どころについてお話しました。勿論時代によっても違うのですが、『段築』 『周濠』 『葺石』 『埴輪』の四点に注目してください。作山古墳に無いのは『周濠』ですが、これは独立低丘陵を加工して築造された事によるものかもしれません。『周濠』は平坦地域で古墳を作るのに土を運ぶ必要があるときに掘られたものです。造山古墳も山の先端を利用したために、『周濠』は見られません。

P2220001.jpg(神戸五色塚古墳、復元すると全て明らか『段築』 『周濠(水は無いですが)』 『葺石』 『埴輪』)
P7290478.jpg(どう見ても周濠に見えるのですがね~笑)

古墳時代の日本の大型墳墓は、墳丘の斜面などにびっしりと『葺石』が施され、遠目には石塚のように見えました。平坦なテラス部分『段築』には『円筒埴輪』をならべ、さらに墳丘周囲には『周濠』をめぐらせて、その外側には数基より成る陪塚をともなうなど、色彩豊かで華麗な装いをみせています。規模や形状のみならず、当時は側面からしか古墳を見られない人びとに対して、葺石によって白く輝く構築物としての陵墓の色彩的イメージは、他の構築物とのあいだに大きな格差を感じさせるに充分であったと考えられます。このような意味からも、古墳は単なる墓ではなくて政治の柱として機能したのでした。

P7290454.jpg(前方部最高地点から後円部を望み下っていきます。)
P7290458.jpg(後円部に向かって進んでいきます。畿内の物は前方部が平坦の物が多いです。)

【作山古墳の立ち位置】

P7290460.jpg(美しい物に出会うとつい撮影してしまいます。見事な松茸(-"-;A ...アセアセ)
P7290462.jpg
(後円部の頂きです。)
 
つまり、この作山古墳は、古墳時代中期の5世紀中頃の築造と推定されます。作山古墳の南側には近世の旧山陽道が通りますが、作山古墳・造山古墳や両宮山古墳(赤磐市穂崎「備前国分寺側」)がいずれも旧山陽道沿いに位置することから、5世紀にはすでに旧山陽道に先行する道があり、その道を通る人々に対して権力を誇示する意図があったと推測されます。

一帯の首長墓系譜としては、推定首長墓系譜(古墳名・墳丘長・時期)造山古墳・350m・5c前半、作山古墳・282m・5c中頃、小造山古墳・142m・5c後半(岡山市北区新庄上・総社市下林)、の順に作られたと考えられます。順に墳丘規模が縮小する様相を示し、作山古墳自体も未削平の残丘などの点で端正さを欠いています。なお、吉備地方では前期古墳の営造地に中期古墳はほぼ築造されず、前期古墳の存在しない地にこれら中期古墳が突如営造される点が注目されます。

古墳域は、1921年(大正10年)に残丘部分を「第一古墳」とする「作山古墳 第一古墳」の名称で国の史跡に指定されています。現在では毎年12月に下草刈りが行われるそうです。かなりの木々が大きく成長しているため、巨木?を残して下草刈りを行っています。

【作山古墳あれこれ】

P7290463.jpg
(航空写真、後円部のテラスと左上に独立丘陵の一部が未削残存が分かります。)
P7290472.jpg(中央下の造山古墳と比べると後円部がいびつです。)
P7290470.jpg(さらにナガレ山古墳と比べると歴然、これが勢力の違いですかね~?)

墳丘長に関して、かつては航空測量図を基に約286メートルという値が知られたが、1997-2014年度(平成9-26年度)の測量結果では282メートルの値に修正されました。墳丘は北側で良好に遺存するが、南側では民家・道路の建設により裾部で大きく改変を受けています。また作山古墳の墳丘には、独特な築造企画として次の幾つかの点が挙げられます。まず、前方部前面などに、元の独立丘陵の一部が未削平のまま残存しています。前方部前端に台形突出部の存在があります(あまり聞いたことが無いです)。前方部前面の堀切(空堀の一種)が水平でなく高低差(約2メートル)が存在します。後円部が正円形でなく楕円形(墳丘を大きく見せるため?)。後円部周囲に「作山段」と呼ばれる段の存在(段築では無いようです)。

造出については、墳丘北側で認められるほか、南側にも存在可能性が指摘されます。造山古墳の造出がくびれ部付近にあるのに対し、作山古墳の造出はくびれ部から前方部寄りに位置し、後出的な様相になります。また、この北造出のさらに前方部寄りには、規模の小さい造出状の張出し部も認められています(色々と試してみた感じがありますね~プロトタイプ?)。

周濠の有無は明らかでない。周堤状の地形が見られることから周濠が存在したとする説もありますが、これについても墳丘テラス内側部分の耕作での削平によるもの(残存テラス部)という見解が示されています。なお吉備地方では、造山古墳も非常に浅い周濠(または周濠なし)と見られ、畿内地方のような深い周濠を有する大型古墳は『両宮山古墳』のみになります。

【出土品】

作山古墳からの出土品のほとんどは、円筒埴輪・朝顔形埴輪です。これらの埴輪列が墳丘各段の平坦面に巡らされたと見られています。総数は5,000本にも及ぶと推計されています。円筒埴輪・朝顔形埴輪のほとんどは窖窯焼成(登り窯は古墳時代中期より朝鮮半島より須恵器が伝来したことに伴って伝来しています。)と見られ、形状は多様です。製作時期にも時間幅があると見られますが、概ね5世紀第2四半世紀に始まり中頃に完成したと推定されています。そのほかには形象埴輪として、わずかに武人埴輪の肩鐙片1点、蓋形埴輪片数点、器種不明埴輪片のみが検出されています(未削平の残丘と共に形象埴輪の破片だけというのも何かありそうです)。

【陪塚】

陪塚(ばいちょう)とは日本の古墳時代に築造された古墳の様式です。 大型の古墳とともに古墳群をなす小型の古墳であり、なおかつ大型の古墳と同一の時代に、その周囲に計画的に築造されたとみなされるものを指します。中心となる大型の古墳に埋葬された首長の親族、臣下を埋葬するもののほか、大型の古墳の埋葬者のための副葬品を埋納するために築造されたものもあると考えられています。

作山古墳の陪塚(陪冢)の存在は明らかに成っていません。かつては、くびれ部南側にある小丘陵が陪塚と見られ「作山第1古墳」と称されていましたが、実際には前方部前面のものと同様に、未削平の残丘の1つと見られます。なお、作山古墳北側の丘陵尾根上には前方後円墳の野宮古墳の存在が知られるが、作山古墳との関係は明らかではありません。

【最後に一言】

吉備に大きな勢力を有した、首長の存在が有った事は事実なようです。しかしながらその勢力が急な拡大と衰退を経験したことは間違いないと思います。その原因が何だったのかは今後の研究の課題かもしれませんね。ここら辺にも吉備津彦命や倭迹迹日百襲姫命辺り絡んでいるかもしれませんね~?(時代は無視ですが、笑)

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リュミエールブラン ネージュ

2018/02/07

謎が謎を呼ぶ?『楯築遺跡(楯築墳丘墓 )』に眠るのは「吉備津彦」それとも「温羅」?

少し前に古墳と墳丘墓の違いについて、書きました。そのなかで、楯築遺跡が出て来ましたね、私見では「時代は弥生時代に入り、主墳に2基の埋葬施設が確認されましたが、墳頂中央部地下1.5メートルに埋葬されていた大きな木棺がこの墓の主人のものと思われる事。首長の墓として、周囲の物との規模にかなりの違いが有ること、同時代の他墳丘墓と比べても大きさが桁違いな事などから、古墳と呼んで良いのではないかと」提唱させて頂きました。

P7290034.jpg(備後一ノ宮「吉備津神社」の桃太郎です)

今回はその楯築遺跡をご紹介させて頂きます。楯築墳丘墓(古墳)には桃太郎の原型ともいわれる「吉備津彦と温羅」伝説もあり!今回も皆さんの想像力を刺激します。

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【楯築遺跡】



P7290315.jpg(王墓の丘史跡公園・楯築地区)

楯築遺跡(たてつきいせき、楯築墳丘墓)は、岡山県倉敷市矢部にある墳丘墓です。形状は「双方中円形墳丘墓(珍しいですし、前方後円墳の原型ともされます)」です。国の史跡に指定されています。古くは「片岡山古墳」と呼ばれていました。

墳頂所在地 岡山県倉敷市矢部
形状双方中円形墳
丘墓規模両端72m
墳丘直径50m
築造年代2世紀後半~3世紀前半
出土品鉄剣・首飾・ガラス玉・小管玉
指定文化財国の史跡に指定「楯築遺跡」昭和56年(1981年)12月9日
特記事項全国最大規模の弥生墳丘墓

【楯築墳丘墓概要】

P7290344.jpg(周りに小さい石室古墳が結構あります。)
P7290385.jpg(墳丘墓の中心に神社の代わりか?祠がありました。)
P7290356.jpg(祠の周りに正に楯のような板石が5個立っています。)
P7290393.jpg(神社跡と板石、何故このように立てたのでしょう。)


王墓山丘陵の北側に弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)に造営された首長の墳丘墓です。墳丘の各所から出土した土器片の多くが壺形土器、特殊器台(これ覚えてくださいね)・特殊壺の破片です。

直径約43メートル、高さ4、5メートルの不整円形の主丘に北東・南西側にそれぞれ方形の突出部を持ち、現在確認されている突出部両端の全長は72メートルで同時期の弥生墳丘墓としては日本最大級です。主墳の頂上には木棺を取り囲むように5個の巨石が立てられ、また、斜面にも2列に地表の露出分に高さ・幅とも1メートルあまりの20個ほどの列石がめぐらされ、北東側の突出部は団地造営工事のため、残念ながら破壊されています。

今ではその名残を一部にとどめているだけですが、前方部状の突出で、およそ十数メートルほど伸びています。その上面は幅約3、4メートルで、わずかに前面に向かって下降気味ですが、ほぼ平坦に造られています。突出部の前面はかなり急な傾斜で2~3メートルほど下がり、東西に走る小道に達しており、小道をわたると突出部の続きと思われる高まりがつづき、盛り土しているのが分かります。また円礫が二重三重に置かれていて、円丘につけられた遺構であることが分かります。

南西側の突出部は約20数メートルにわたって細長い幅数メートル高さ2メートルほどの尾根状のものが伸びている。先端部の両側が丸く整形されていてその先端には大きな列石が貼られている。西部分には現在、給水塔が建っていて、今は見ることができません(残念ですね~~!)。

香川県高松市の猫塚古墳や奈良県天理市の櫛山古墳などと同じ双方中円墳ですが、先行的な形態をしています。 2世紀末に起こった倭国大乱が終わった後、瀬戸内海沿岸地方では、古墳造営の新しい兆しが見られ、吉備でも墳丘の造営の動きが見られるようになっています。

このような大きな墳丘墓が、古墳時代より先に築造されていたのは、この地に葬送儀礼に特殊器台・特殊壺を用いる大きな政治勢力があったことを窺わせます。その勢力の代表的な首長の墓ではないかと推測されています。吉備地方では、後の古墳時代中期には造山(全国4位・350メートル)、作山古墳(全国9位・270メートル)の大前方後円墳が造られました。吉備の勢力がいかに大きかったか、を物語る墳丘墓(古墳)です。

【楯築墳丘墓発掘調査】

P7290326.jpg(双方中円形墳丘墓です。分かりますか?)
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(良く覚えてくださいね~!南西側には給水塔が、北東側は住宅地に成っています。)
P7290369.jpg(北側は宅地化されて削られています。)
P7290337.jpg(発掘調査説明版)
P7290371.jpg(北東方向は少し残っていますが、その先は削られていました。)
P7290401.jpg(西側の盛り土、南西側の方部の上に立っています。)
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(特殊器台にも弧帯文がデザイン?朝顔型埴輪とどう違うのか?)

昭和51年(1976年)より昭和61年(1986年)の間に、岡山大学文学部考古学研究室を中心とした調査団により6度にわたる調査が行われました。

主墳には2基の埋葬施設が確認され、墳頂中央部地下1.5メートルに埋葬されていた木棺がこの墓の主人のものと思われます。出土した木棺は全長約2メートル・全幅約0.7メートルで棺の底には30キログラムもの朱が厚く敷かれていました(古代の朱)。

「うんちく『古代朱』」について、硫黄と水銀を混ぜ、加熱し硫化水銀を作り、さらに加熱し硫黄分を飛ばして作ります。混合比・加熱温度によって黄~赤~黒まで色が作られます。辰砂(私も陶芸の釉薬に使います)と朱は両方とも硫化水銀が原料で、天然の硫化水銀(辰砂鉱・辰砂石)から作られたものが辰砂と呼ばれます。成分は同じで、天然物か人工物かの違いみたいです。硫化水銀を作る技術はかなり古くからあったようです。古代朱は、朱に特別な加工を施して作られた色だそうです。つまりとても貴重な物でした。

本題に戻りまして、遺骨は検出されず歯の欠片が僅かに2個出土したのみでした(遺骨は何処へ行ったのか?)。木棺は全長3.5メートル、全幅1.5メートルの木製外箱(木槨・朝鮮楽浪古墳に多い埋葬方法です。更には楽浪郡は鉄とも関係が深いのです。)に納められていました(かなり大きいですね)。副葬品が外箱の中に置かれており鉄剣1本、首飾り2個、多数のガラス玉と小管玉が一括り出土しました。これらは岡山大学考古学資料館に収蔵されています。

また、もう1基の埋葬施設は中心埋葬の南東9メートルの位置に発見されたが僅かに朱が認められるのみで出土品は有りませんでした。副葬品の貧弱さは、権威や富に関係するのではなく、その時代の埋葬の習俗の影響と考えられます。意味がよく分からないのですが、夫婦?とか、墳丘墓の設計者とかですかね?(ん~~謎です。)。

団地造成時に破壊された突出部分にはかつて石列があり朱塗りの壺型土器が配列されていそうです(墳丘墓から見ると一目瞭然ですが、今は住宅地なんですよね~f(^_^;)。

P7290390.jpg(給水塔側から見た墳丘墓東側高4~5mくらいですね。)
P7290398.jpg(墳丘墓斜面にも2列に地表の露出分に高さ・幅とも1メートルあまりの20個ほどの列石があります。)

【弧帯文石(弧帯石)】

p7536512546.jpg(複製品、弧帯文石・東京国立博物館展示。)

墳丘上には大正時代の初め頃まであった楯築神社に、代々伝世し、ご神体として神石(亀石)と呼ばれる全表面に毛糸の束をねじったような弧帯文様が刻まれた石が安置されていましたが、現在はこの遺跡のそばの収蔵庫に祀られてます。こちらは「伝世弧帯文石」と呼ばれています。 この弧帯文は、纏向遺跡の弧文円板と葬送儀礼で共通するといわれているのです。纏向遺跡(箸墓古墳に眠るといわれる、倭迹迹日百襲姫命は、吉備津彦の姉妹に成ります。)との繋がりが出て来ました~f(^_^;

ここ楯築遺跡にも吉備津神社や鬼ノ城などのように温羅伝説が残っており、吉備津彦が温羅との戦いに備えて石楯を築き、防戦準備をしたと伝わっています(私には墓を壊して石室を曝した跡にしか見えなかったけどね!)。

鬼ノ城については、以前天智天皇が天智2年(663年)白村江の戦いで、倭(日本)百済復興軍は、朝鮮半島で唐・新羅連合軍に大敗した事をきっかけに、瀬戸内の守りを固めるために作らせたとの考えを以前ご紹介しました。

P7290236.jpg(温羅の本拠地?鬼ノ城!)

【吉備津彦は桃太郎か?温羅って誰だ?】

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(岡山駅の温羅の銅像、男前です。)


温羅(うら・おんら)は、岡山県南部の吉備地方に伝わる古代の鬼です(岡山駅の銅像が有名です。中央にまつろわない「服従しない」、国・地域・人物等を鬼と呼んだ様です。)。温羅とは伝承上の鬼・人物で、古代吉備地方の統治者であったとされます。「鬼神」「吉備冠者(きびのかじゃ)」という異称があり、中央の伝承によると吉備には吉備津彦命(きびつひこのみこと)が派遣されたとされ、吉備に残る伝承では温羅は吉備津彦命に退治されたといわれます。

伝承は遅くとも室町時代末期には現在の形で成立したもので、文書には数種類の縁起が伝えられています。また、この伝承は桃太郎のモチーフになったともいわれているので、岡山は『桃太郎』で有名なんですよね。

伝承によると、温羅は吉備の外から飛来(渡来)して吉備に至り、製鉄技術を吉備地域へもたらして鬼ノ城を拠点として一帯を支配したといわれます。吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたため(支配した?製鉄技術を教えたりして、名首長じゃないですか!)、これを救うべく崇神天皇(第10代)は孝霊天皇(第7代)の子で四道将軍の1人の吉備津彦命を派遣しました。

討伐に際し、吉備津彦命は現在の吉備津神社の地に本陣を構えまさた。そして温羅に対して矢を1本ずつ射ましたが矢は岩に呑み込まれて外れます。そこで命は2本同時に射て温羅の左眼を射抜きます。すると温羅は雉に化けて逃げたので、命は鷹に化けて追いかけます。さらに温羅は鯉に身を変えて逃げたので、吉備津彦は鵜に変化してついに温羅を捕らえました。そうして温羅を討ったといわれています。

討たれた温羅の首はさらされることになりましたが、討たれてなお首には生気があり、時折目を見開いてはうなり声を上げたそうです。気味悪く思った人々は吉備津彦命に相談し、吉備津彦命は犬飼武命に命じて犬に首を食わせて骨としましたが、静まることは有りませんでした。次に吉備津彦命は吉備津宮の釜殿の竈の地中深くに骨を埋めましたが、13年間うなり声は止まず、周辺に鳴り響きました。

ある日、吉備津彦命の夢の中に温羅が現れ、温羅の妻の阿曽媛に釜殿の神饌を炊かせるよう告げます。このことを人々に伝えて神事を執り行うと、うなり声は鎮まったといいます。その後、温羅は吉凶を占う存在となりました(吉備津神社の鳴釜神事がそれですね)。私は占いをお願いしたことは無いのですが、現地には訪れています。

【伝説登場人物の紹介】

『温羅』

温羅(うら)「吉備冠者」「鬼神」とも呼ばれます。鬼ノ城を拠点とした鬼です(鬼ノ城については前出!)。渡来人で空が飛べた、大男で怪力無双だった、大酒飲みだった、等の逸話が伝わります。出自についても出雲渡来説・九州渡来説・百済渡来説・加耶渡来説・新羅渡来説など複数の伝承があります。

『阿曽媛』

阿曽媛(あそひめ)温羅の妻。阿曽郷(現・総社市奥坂)の祝(神に祈る人)の娘。

『王丹』

王丹(おに)温羅の弟(そのままやん)。

『吉備津彦』

吉備津彦命(きびつひこのみこと)記紀に記載が有ります。「大吉備津日子命」ともいわれます。いずれも吉備平定後の名で、本当の名は「彦五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと、比古伊佐勢理毘古命)」。第7代孝霊天皇皇子。『日本書紀』では四道将軍に数えられます。『古事記』『日本書紀』とも、吉備へ征伐に派遣されたとされます。地元では、妃として百田弓矢比売命や高田姫命(たかだひめのみこと)の名が伝わっています。

四道将軍とは、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと・北陸道方面司令官)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと・東海道方面軍司令官)、吉備津彦命(きびつひこのみこと・山陽道方面軍司令官)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと・丹波丹後方面司令官)の4人を指します。

吉備津彦命(弟)は、稚武彦命(わかたけひこのみこと)とも記紀に記載があります。「若日子建吉備津日子命」ともいわれます。兄を「大吉備津彦命」、稚武彦命を「吉備津彦命」と記す場合もある様です。第7代孝霊天皇皇子で、吉備津彦命の弟です。『古事記』では、兄とともに吉備へ派遣されたとされます。(倭迹迹日百襲姫命の兄と弟か?)

『犬飼武命』

犬飼武命(いぬかいたけるのみこと)忠実な家臣といい、桃太郎における犬のモデルとされます。後世、犬養毅はその後裔を称しています(出来すぎです(;^_^A)。

『楽々森彦命』

楽々森彦命(ささもりひこのみこと)当地出身の家臣で智将といい、桃太郎における猿のモデルとされます。その出自は県主(律令制以前の地位、国造や伴造より古い呼び名です。)であったともいい、娘の高田姫命が吉備津彦命に嫁いだともいわれます。

『留玉臣命』

留玉臣命(とめたまのみこと)「遣霊彦命」とも言われます。鳥飼に優れた家臣といい、桃太郎における雉のモデルとされます。

【うらじゃ祭】

うらじゃ祭とは、岡山県岡山市にて行われている夏祭りです、新しい祭りで、YOSAKOIと同じようなお祭りです。岡山県に古くから伝わる鬼神「温羅(うら)」の伝説を元にしたものであり、名称もそれに由来します。「うらじゃ、うらじゃ」の掛け声で練り歩くお祭りのようです。つまり「鬼だぞ~鬼が来たぞ~」のイメージですかね(笑)?現在では、「おかやま桃太郎まつり」のメインイベントとして、8月の第1日曜日とその前日の土曜日に岡山市中心市街地で開催されています。踊りに参加する人が全員、顔に化粧を施すのが特徴だそうです。

【最後に一言】

いつもの事ですが、勝った者が歴史を書き換えていきます。渡来人「温羅」は人々から慕われ、首長として大きな力を持つようになったのかもしれません。その最新の技術や情報は、中央政権として台頭してきた倭の王からは邪魔な存在だったと考えられます。「出雲王国」と「吉備王国」の連携は中央集権国家を目指す倭にとって一番の脅威だったでしょう。

「楯築墳丘墓」は吉備津彦が温羅との戦いに備えて石楯を築き、防戦準備をしたとの伝承がありますが、私の現地での感覚は中央にたてついた温羅の墓を暴き死体を晒ものにした後のようにも見えました。防戦基地としてはお粗末すぎます。

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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