2017/04/27

「新企画」阪急沿線七福神を巡る旅!最初は「布袋様」『清荒神清澄寺』

今日は新企画?阪急沿線七福神巡りに皆さんをお連れします。

勿論、西国三十三観音霊場巡りや出雲神仏霊場の企画を忘れた訳では有りませんが、自宅から近いものは、早めに書いとこう(何故ならばいつでも書ける!の甘えが出てしまうので?)?という考えでお送りしたいと思います。

最初は「布袋さま」を奉る『清荒神清澄寺』を御紹介します。

CIMG7774.jpg
(見事なお腹の布袋様、袋に何が入っているのか?サンタに似てない?似てないよね(;^_^A)

もう一つお知らせします。
先日のブログオフ会で素敵なBloggerご夫妻にお会いしましたので、ブログを共有をお願いしました(^人^)。

まず今日は奥様「ビー玉」さんです。
アバター通りの、可愛いらしい奥様でした(⌒‐⌒)
ブログはおっちょこ主婦の家計救出日記アドレスを張っておきますので、此方も宜しくお願い致しますm(__)m。

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(お寺ですよね、確かにお寺です。)

【そもそも一人七福神て何者?七福神の由来】

七福神とは、大黒天(だいこくてん)、毘沙門天(びしゃもんてん)、恵比寿天(えびすてん)、寿老人(じゅろうじん)、福禄寿(ふくろくじゅ)、弁財天(べんざいてん)、布袋尊(ほていそん)の七つの神様の総称です。

「七難即滅、七福即生」の説に基づくように、七福神を参拝すると七つの災難が除かれ、七つの幸福が授かると言われています。
七福神の信仰は、室町時代の末期のころに生まれ、当時の庶民性に合致して民間信仰の最も完全な形となって育まれてきました。
特に農民、漁民の信仰として成長し、現代の今も生き続けています。

【七福神の歴史】
室町時代、仏教の布袋道教の福禄寿・寿老人なども中国から入ってきてそれぞれに知られるようになり、それらをまとめて七柱の神仏のセットができたのは室町時代末頃、近畿地方から始まりました(この頃は銀閣寺に代表される東山文化の時代でしたね。)。

CIMG8157.jpg(京都建仁寺の「竹林の七賢」図です。竹林じゃなくて松ですけど、撮影場所の問題です。左側は竹林です。)

中国の文化に影響され、大陸的な水墨画が多く描かれた。もてはやされた画題は『竹林七賢図』(竹林の七賢人先日建仁寺の襖絵でも御紹介しましたね。)。
この絵に見立てて、人々は別々に信仰されていた7つの福の神を集め、七福神としました。
ただし、当初は必ずしもメンバーが一定していなかったそうです(驚)。
仏教・道教・神道の神様もごちゃ混ぜな所が、凄く日本的で面白いですね~、その内八福神に成ってミネルバとか入りそうな気がしますが(笑)。

【布袋さまってどんな神様?】

布袋尊は、弥勒菩薩の化身といわれ、いつも笑顔を絶やさず人々に接していた人で、大きな袋には宝物がいっぱい入っていて、信仰の厚い人に与えられるそうです
笑門来福、夫婦円満、子宝の神として信仰が厚いですね。
清荒神清澄寺では、境内眷属堂に布袋尊が安置されています。

【清荒神清澄寺】

CIMG7769.jpg
(写真が雑なのは、ブログを書き始める前だからです。お許しください。)
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(日本庭園です。笑)
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(池の向こうに朱色の歩道がありますね、頂点にお稲荷さん、神仏習合してます。)

清荒神清澄寺(きよしこうじん せいちょうじ)は、兵庫県宝塚市にある真言三宝宗の寺院(大本山)。
896年(寛平8年)に宇多天皇の勅願寺として静観僧正により建てられました。
本尊は大日如来(重要文化財)。
鎮守社として三宝荒神社があり、竃の神の荒神などを祀る神仏習合から「清荒神清澄寺」の名称があります。

山号蓬莱山宗派真言三宝宗(大本山)
本尊は大日如来(重要文化財)
創建年寛平8年(896年)
開基静観僧正、宇多天皇(勅願)
別称清荒神

真言宗十八本山第3番
摂津国八十八箇所;第72番
神仏霊場巡拝の道第79番

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(鳥居ですよね、荒神様です。)
CIMG7772.jpg
(拝殿?の裏手に荒神影向の榊が有ります。)

拝殿に向かって左の眷属堂には、三宝荒神王の眷属(従者)である「布袋尊」をお祀りしています(御札やおみくじを売っている所なんですけど(((^_^;))。

山内には画家富岡鉄斎の作品を集めた鉄斎美術館が1975年に設立されました。
(とみおか てっさい、1837年1月25日(天保7年12月19日)~1924年12月31日)は、明治・大正期の文人画家、儒学者。
日本最後の文人と謳われる。
私の記憶が正しければ富士山に登って初めて山頂の絵を描いた方と記憶しています(凄)。

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(兵庫県立美術館の富岡鉄斎「富士山頂全図」)


「清荒神清澄寺」を近隣地域では、「荒神さん」と呼び慣わされ、かまど神の一種として、ここで受け取ったお札を台所の神棚に祀るなどの信仰が根付いているようです。
門前の緩やかな坂道には、屋台を含め200近い店舗が軒を並べて門前町を形成しています(私が訪れたのはお正月の少し後でしたが、すごい賑わいでした)。

【荒神影向の榊】 

開創の際、荒神がお姿を現されたと伝えられています。
この霊験の報告を受けた宇多天皇は大変感銘され、「日本第一清荒神」の称号を下賜されています。

現在では、いつの頃からかそこに供えられたお賽銭をいただいて帰り、次回参詣されたとき、そのお賽銭を倍にしてお返しするという風習が伝えられています。
いただいたお賽銭を紙に包んで財布に入れておくと小遣銭に不自由しない、また次に参詣されるまでそれを「御守り」として持っていると吉事があるなど言われています。


実は私も持っているんです。
いただいたお賽銭の五円を大事に財布に入れています(喜)


阪急電車、大阪・神戸・京都の広いエリアが1日乗り降り自由の大変お得で便利な乗車券がありまして(発売期間2017年4月1日~2018年3月31日<通年発売>有効期間発売期間に同じ発売額大人1,200円 小児600円
七つの寺社仏閣でスタンプと小さな神様をもらって、阪急電車に乗った七福神が出来る企画もありますよ。

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2017/04/25

陰陽師とは何者なのか?安倍晴明を祀る『晴明神社』

今日は、小説や漫画(アニメーション)等で有名な安倍晴明をお祀りする「晴明神社」をご紹介します。

「晴明神社」は、平安時代中期の天文学者(陰陽師)である安倍晴明をお祀りした神社です。
創建は、寛弘4(1007)年となっています。
晴明の偉業を讃えた一条天皇の命により、そのみたまを鎮めるために、晴明公の屋敷跡である現在の場所に社殿が設けられたと伝わります。

CIMG7972.jpg(安陪晴明といえば五芒星ですよね~(^o^)v。)

式神という人知を超えた者どもを使ったともいわれる安倍晴明とは、どんな人物だったのでしょうか?

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CIMG7971.jpg(正面すぐ左隣にタイムス?の駐車場がありました。割と簡単にお詣りできました。)

【そもそも陰陽師って何者?】

陰陽師(おんみょうじ、おんようじ)は、古代日本の律令制下において中務省の陰陽寮に属した官職の1つで、陰陽五行思想に基づいた陰陽道によって占筮(せんぜい)及び地相などを職掌とする方技(技術系の官人で技官です。)として配置された者を指しますが、それら官人が後には本来の律令規定を超えて占術など方術や、祭祀を司るようになったために陰陽寮に属する者全てを指すようになり、更には中世以降の民間において個人的に占術等を行う非官人の者をも指すようになり、声聞師と重ねられることもあって「声聞師(陰陽師の文化を源流とした読経、曲舞、卜占、猿楽等の呪術的芸能を行った人々)」と呼ばれる場合もありました。
中・近世においては民間で私的祈祷や占術を行う者の総称となり、中には神職の一種のように見られる者も存在するようになります。

古い資料によれば、創建当時の晴明神社は、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通という広大なものであったとされています。
ところが、応仁の乱の後、豊臣秀吉による都の造営や度重なる戦火によって、その規模は縮少され、古書・宝物なども散逸し、社殿も荒れたままの時代が続きました。
その後、式年祭の度に、氏子が中心となって整備・改修が行われ、昭和25(1950)年には、多年の宿望であった堀川通に面する境内地が拡張されるなど、晴明の御神徳を仰ぎ尊ぶ崇敬者の真心によって復興が進められました。
近年は、文芸、漫画、映画などを通じて晴明の存在は広く知られ、全国にその崇敬者を集めるようになっています。

CIMG7975.jpg(もう一本細い通りがあります。)

御祭神は勿論安倍晴明御霊神ですね

【安倍晴明ってどんな人?】

安倍晴明(920-1005)は、孝元帝(こうげんてい)の皇子・大彦命(おおびこのみこと)の御後胤で、幼い頃から非常に多くの道に秀でていました。
特に、天文暦学の道を深く極め、神道を思いのままに操る霊術をも身に付けていたともいわれます。
長じては、天文陰陽博士として活躍、天体を移り行く星や雲の動きを観察し、宮殿の異変や遠方での吉凶を言い当て、朝廷を始め多くの人々が信望を寄せたと伝えられています。
晴明は、朱雀帝から村上、冷泉、円融、花山、一条の6代の天皇の側近として仕え、数々の功績をたてています。
村上天皇の代には、唐へ渡航し、はるか城刑山にて伯道仙人の神伝を受け継ぎ、帰国後これを元に、日本独特の陰陽道を確立したとされます。
今日、私たちの日常生活の基準となる年中行事や暦術、占法はこの時に創られたものだそうです。

そして、一条天皇に仕えて、寛永2(1005)年9月 26日、85歳で亡くなりますが、晴明御霊神として祀られた後も、陰陽道の祖として広く世の中の尊敬を集めます。
「晴明神社にお祈りすれば、不思議な霊の利益を受けることができ、さまざまな災いから身を守り、病気や怪我が治る……」そうした評判が、今も多くの人々に語り継がれています。

以前も書きましたが、「大鏡」の花山天皇御退位場面で、(花山天皇を)お連れ出し申し上げたとき、安倍晴明(あべのせいめい 陰陽師)の家の前をお通りになりましたが、清明自身の声がして、手を激しくぱちぱちと打って、 「帝(みかど)がご退位あそばされると思われる天の異変があったが、すでに事はなってしまったとみえるようだ。(宮中に)参上して奏上しよう。 車に支度をせよ」といふ声をお聞きになられた、そのときの(天皇の)お心は感慨無量に思われたことでありましょう。
「とりあえず、式神(しきがみ)一人が内裏(だいり)に参上せよ」と(清明が)申し上げると、人の目には見えない何物かが戸を押し開けて、(天皇の)御後ろ姿をお見申し上げたのでしょう、 「ただ今、ここをお通りになられているようです」と答えたということです。
清明の家は、土御門(つちみかど)町口(まちぐち)ですので、天皇がお通りになった道です。
「大鏡現代訳より」
というような、お話が出て来ます。
本当に式神という使い魔(ゴブリンみたいな?)術が仕えたのかもしれませんね~(驚)

【戻り橋の伝説】

CIMG7973.jpg(有名な一条戻り橋のレプリカ、冥界との境かもしれません。)

文章博士で参議だった三善清行の八男に浄蔵貴所という修験道を極めた者がいました。
918年(延喜18年)、紀州熊野で修行していた浄蔵のもとへ父が危篤だという知らせが届きます。
急ぎ都へ向かった浄蔵ですが、この橋のにさしかかったところで葬列に出会います。
父の臨終に間に合わなかった事をさとった浄蔵は、父に一目会いたいという一心で祈ると法力がとどき、父は一時的に冥府からこの世へ戻ることを許されたという。
これ以来、「土御門橋」と呼ばれていた橋は、「戻橋」と呼ばれるようになったのだといわれます。

た源頼光の四天王「渡辺綱」が鬼女の腕を切り落とした場所としても知られます。
「晴明神社」の戻り橋は、架け替えが行われた際に、本橋の部材を使って作られたレプリカだそうです。
 
【ご利益】

CIMG7976.jpg(桃は古代から破魔や厄除けとして有名ですね、桃太郎もその流れかも?)
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(安倍晴明の像です。)
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(本殿をのぞかせていただきました。)

晴明神社は、「魔除け」「厄除け」の神社です。
御祭神である安倍晴明は、ご生前より、天皇から貴族、庶民に至るまで、広くその悩みや苦しみを取り払うことで大きな信頼を得ていました。
その信頼は、神様となって祀られた現在も変わることは無いようです。
勿論、映画や漫画などの影響もあって参拝者は多かったですね~。

そもそも、「魔」や「厄」というものは、好むと好まざるに拘らず、誰しもが抱え込んでしまうものですから、折りに触れ、その厄を取り除くことが肝要です。
私たちの日々の生活には、なかなか解決できない問題もありますが、神前で静かに手を合わせ、その心を正直に安倍晴明公にお伝えすれば、その絡まった糸がほぐされることでしょう。
「晴明神社HPより抜粋いたしました」

私が言ったときは隣のお土産やさんとの権利問題でもめているようで、ちょっと残念なお詣りに成りました。
五芒星のお守りは車の後部にも良く張ってあるのを見かけますね(笑)


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2017/04/23

大阪造幣局構内『桜の通り抜け』の凄さを堪能しました!

一度は見ておきたかった「桜の通り抜け」どれ程凄いのか、実際に見学して来ました~(⌒‐⌒)v

毎年4月中旬頃の桜の開花時には、造幣局構内旧淀川沿いの全長560mの通路を一般花見客のために1週間開放しています
今年は、4月11日(火曜日)から4月17日(月曜日)までの7日間、平日は午前10時から午後9時まで、土曜日・日曜日は午前9時から午後9時まで開放されていました。

CIMG8245.jpg(結構並んでおられました。帰る頃には意外とすいていた様子、開門前は物々しい警備です。列は200Mくらい?)

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桜と言えば、ソメイヨシノですよね~!しかしながら、造幣局の通り抜けはソメイヨシノでは無いのです
現在構内にある桜は、関山、普賢象、松月、紅手毬、芝山、楊貴妃などですが、大半は遅咲きの八重桜で、満開時の美しさはたとえようもなく、明治16年に開始した「通り抜け」も昭和58年春には100年を迎え、今では浪速の春を飾る風物詩として、人々に愛されています。
なお、紅手毬、大手毬、小手毬及び養老桜などは、他では見られない珍種と言われています(余り聞いたことの無い桜ですよね)。
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(最初からこんなに綺麗で良いのか~の桜です。)
CIMG8249.jpg(綺麗な桜なのですが、カメラのテクニックが悪くてそれほどでもないと思わないでくださいね。)
CIMG8251.jpg(桜色とは正にこれですかね~笑)
CIMG8253.jpg(本当に素晴らしいです。解説いらないかな?)
CIMG8273.jpg(縦に眺めると壮観ですね。)

【其では、ソメイヨシノは何故「ソメイ」なんですか~?】

CIMG1571.jpg(これはうちの近所のソメイヨシノです。桜といえば染井吉野なんですけどね~(;^_^A)

染井吉野は、江戸末期から明治初期に、江戸の染井村に集落を作っていた造園師や植木職人達によって育成されました。
初めサクラの名所として古来名高く西行法師の和歌にもたびたび詠まれた大和の吉野山にちなんで「吉野」「吉野桜」として売られ、広まりましたが、藤野寄命による上野公園のサクラの調査によってヤマザクラとは異なる種の桜であることが分かり(1900年)、この名称では吉野山に多いヤマザクラと混同される恐れがあるため、「日本園芸雑誌」において染井村の名を取り「染井吉野」と命名されたそうです。
翌年、松村任三が学名をつけています。

遺伝子研究の結果、ソメイヨシノはエドヒガンとオオシマザクラの雑種が交雑してできた単一の樹を始源とするクローンであることが判明しています。
上野公園の一本が全てのソメイヨシノの始まりとも言われているの知ってました?


【桜と言えばソメイヨシノでは無くなるって本当!】

但し、ありがたく?観賞しているソメイヨシノですが、若木はソメイヨシノでは無い可能性が有るって知ってました?

実はソメイヨシノは、てんぐ巣病「(てんぐすびょう)とは植物病害の一種で、植物(多くは樹木)の茎・枝が異常に密生する奇形症状を示すものの総称です。高い木の上に巣のような形ができるためこの名で呼ばれています。英語ではwitch's broom もしくはwitches' broom(魔女のほうき)といいます。」に弱いために、2005年度から苗木の配布を、2009年度からは販売も中止し、代替品種として、てんぐ巣病に強く花や開花時期がソメイヨシノと類似するジンダイアケボノの苗木の配布を開始し植え替えを推奨していんですよ~(^^;。
ですから、12年程前からソメイヨシノと思っている桜はジンダイアケボノかも知れませんねf(^_^;。

【桜の通り抜けの始まり】

CIMG8261.jpg(真っ白も素敵ですね~名前は写して無いのでご勘弁ください。)
CIMG8263.jpg(…)
CIMG8269.jpg(この花の塊牡丹のようです。)
CIMG8282.jpg(ピンク大好きの私もうっとりの上品な色です。)
CIMG8281.jpg(しだれ桜も良いです。)
CIMG8276.jpg(純白の清楚な事。)
CIMG8274.jpg(枝が絡んでいるのか?紅白に交じるのか?)
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(須磨浦普賢桜、名前が見えました。)

造幣局の所在地である大阪市北区天満の旧淀川沿いは、昔から景勝の地として名高く、春は桜、夏は涼み舟、秋は月見など四季折々のにぎわいを見せ、特に春の桜は有名で、対岸を桜ノ宮と呼ぶにふさわしく、この地一帯に桜が咲き乱れていたと言われています。
明治16年(1883年)、時の遠藤謹助局長の「局員だけの花見ではもったいない。市民とともに楽しもうではないか」との提案により、構内の桜並木の一般開放が始まりました。

【「通り抜け」の名の由来】

CIMG8295.jpg(緑の花です。珍しい!)
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(花の後ろに造幣局博物館ですかね?)
CIMG8290.jpg(吉原虎の尾ですか!)
CIMG8289.jpg(林一号、林さんの改良品種、ちなみに八重桜以上の二十重桜もありました。)
CIMG8298.jpg(造幣局の敷地なので、屋台などは外の川べりに在ります。)

「通り抜け」とは、「桜花縦覧のため表門(現在は南門)から入り、造幣局構内を通って裏門(現在は北門)へ抜ける」、つまりは文字どおり構内を通り抜けることが、その名の由来です(まあそのままですね(^^)b)。
「あともどりできない通り抜け」がいつしか「通り抜け」という固有名詞となってしまいましたとさ(笑)。

CIMG8303.jpg(葉っぱと花が一緒に咲くのは東北のイメージを思い出させます。)
CIMG8302.jpg(滑桜ですかね?)
CIMG8301.jpg(本当に綺麗。)
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(江戸桜またはあずま桜ですか。)
CIMG8306.jpg(最後出口のこの桜は覚えていました。「一葉」です。樋口一葉5000円からの記憶、笑!)

素晴らしい日本の桜文化(品種改良も含めて)を堪能出来る、「造幣局の通り抜け」一度御覧になって下さいm(__)m

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ブロトピ:ブログ更新通知
2017/04/21

柳田國男の生家に行ったら「天狗にもに出会った!」

前回、柳田國男さんの実家(移築されているのですが)の近くの公園の池に河童が出現する情報を御紹介しました。
実は隠していたのですが、出没するのは河童だけでは有りませんでした。
なんとこんな物まで~(^^;


P1080094.jpg
(池の方ばかりに気を取られていたら、頭の上に天狗が飛んできました。)

人を集めるって大変ですよね~(;^_^A
私の様な二流Bloggerには、ご苦労が本当に良くわかります(笑)。


以前何かのセミナーで、「いかに良い商品を開発するかは問題では無くて、どれだけ良いコマーシャルをするかだ」と言われて愕然(笑)
良いもの=売れるものと認識していたのですがf(^_^;

さて天狗はさておき、柳田國男の兄弟と福崎町立神崎郡歴史民俗資料館を紹介しましょう。

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「自らの民俗学の原点」と評した生家は、兵庫県福崎町に建設された柳田國男・松岡家顕彰会記念館の西隣に、移築・保存されています。
福崎町立神崎郡歴史民俗資料館が隣接しています。

東京都世田谷区成城の自宅書斎[柳田國男の書屋]は、1989年に長野県飯田市の飯田市美術博物館内へ移築されているそうです(柳田家は旧飯田藩士)。

蔵書は成城大学に寄贈され、同大学の民俗学研究所「柳田文庫」として活用されていますし、2003年には成城大学民俗学研究所編『増補改訂版 柳田文庫蔵書目録』が刊行されました(初刊1967年)。

P1080026.jpg(やっぱりこのインパクトにはかなわないかな~前回と別方向から~!)
P1080031.jpg(こちらは固まった天狗?なぜ固まったのかの説明はありませんでした。)




【歴史と民族学と現地調査主義と私】

柳田國男は、『郷土生活の研究法』(1935年)において「在来の史学の方針に則り、今ある文書の限りによって郷土の過去を知ろうとすれば、最も平和幸福の保持のために努力した町村のみは無歴史となり、我邦の農民史は一揆と災害との連鎖であった如き、印象を与へずんば止まぬこととなるであろう」と述べています。

ここでは、文献史学においては典拠とする史料そのものに偏りが生まれるのは避けられないとしており、それゆえ公文書などに示された一揆や災害とかかわる民衆の姿をそこで確認できたとしても、その生活文化総体は決して見えてこないという國男独自の考えが示されています。

「常民」の生活文化史の解明を目的とする民俗学にとっては文献資料にのみ依拠することには限界と危険が伴うのであり、それゆえフィールドワークによる民俗資料の収集が重要だと論じています(私のブログも訪れた場所以外は記事にしない、又食べたもの、読んだ本以外は書かない信念で書いているんですよ~、エヘン( ̄^ ̄)柳田流フィールドワークの実践者なのですよ、笑・笑・笑・笑・笑)

また、柳田は『日本民俗学』(1942年)において「民俗学は微細な事実の考証から出発する」とし、随筆や紀行文等との差異からも確なる学的立脚を求め、計画調査を重要視しました。

【柳田國男と歴史学】

和歌森太郎『柳田国男と歴史学』(NHKブックス)によれば、國男の問題意識と関心は、常に歴史学と歴史教育にあったことが記され、國男が長野県東筑摩郡教育会で「青年と学問」と題して講演した際に、「自分たちの一団が今熱中している学問は、目的においては、多くの歴史家と同じ。ただ方法だけが少し新しいのである」と述べたことが紹介されています。

そして「日本はこういうフォークロアに相当する新しい方法としての歴史研究をなすには、たいへんに恵まれたところである」と記しています。

たとえば、ヨーロッパでは1000年以上のキリスト教文明と民族大移動、そしてまた近代以降の産業革命の進展のためフォークロア(民間伝承、民俗資料)の多くが消滅ないし散逸してしまっているのに対し、日本ではそのようなことがなく現実のいたるところに往古の痕跡が残っているというのです(なんと素晴らしい事じゃないですか!)。

言い換えれば日本にはフォークロアを歴史資料として豊かに活用できる土壌があるということであり、柳田民俗学とはこのような民間伝承の歴史研究上の有効性を所与の条件として構築されたものということが言えますね。

また東北地方や沖縄を様々な観点から詳細に調査したことから、東北と沖縄こそが柳田民俗学の出発点であり、古き日本の神話や伝説が今も生きてそこに存在する、そういう地域共同体として発見した事も重要です。

【柳田國男の兄弟も凄い】
柳田國男の兄弟の銅像が設置されている生家の裏山の「学問の道」を散策してきました。
八人兄弟なのにも関わらず、銅像は五体でしたが…

P1080064.jpg(学問成就の道この時は子供たちの学問成就を願って訪れましたが、今は自分の勉強ですね~生涯現役受験生の気持ちでね。)
P1080067.jpg(長男はお医者様です。)
P1080068.jpg(歌人で国文学者の三男)
P1080070.jpg(六男の柳田先生)
P1080074.jpg(言語学者の七男)
P1080076.jpg(日本画壇の巨匠の八男、すごい兄弟ですね~次男と四・五男は早逝されたのかな?)


今回柳田國男さんに出会えた事に加えて、私がブログにおいて行っている姿勢(フィールドワーク)が間違っていないことも確信し、とても有意義な休日を送ったのでした。

P1080084.jpg(民族資料館の前にこんなものが?)
P1080085.jpg(組み合わせ式家形石棺)
P1080086.jpg(資料館は元神崎郡役場でした。〒ポスト珍しい?それとも結構見ますかね?)
P1080082.jpg(昔の建物ってこれですよね~右のブロックもモダンな建物のお尻が、柳田國男・松岡家顕彰会記念館です。)

最後に、「餅麦麺」成る代物、もちもちで半端なく美味しいです
是非皆さんも、柳田國男・松岡家顕彰会記念館、福崎町立神崎郡歴史民俗資料館+河童を御覧に成って下さいね。

P1080098.jpg(申し訳ないのですが、もちむぎ麺食べてしまったので、河童サイダーでご勘弁を~!)


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ブロトピ:ブログ更新通知
2017/04/19

『柳田國男』の生家で「河童の河太朗」に出会った!

少し前に、Facebookのお友達の上に、小・中・高校の先輩が企画された、日本最初の高速道路「銀の馬車道」を歩くイベントが有ったのですが、忙しくて参加出来なかったので、お昼休憩の場所だった?柳田國男(民族学者)の生家だけでも見てこようと、次女と出掛けました(次回の最終回6月10日は歩きたいけど(((^_^;))。

驚いた事に、河童に出会うことが出来ました(笑)

P1080087.jpg(迫力ありますよね~こちらが、弟の河次郎君ですよ。)


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【銀の馬車道って何?】

P1080019.jpg(この看板を撮影しているのが、左下の大庄屋三木住宅前です。)

銀の馬車道とは(About Old Silver Mine Carriage Road)、若き(明治)日本が挑んだ前人未到のプロジェクトです。
その名も「銀の馬道」、名前も素敵~~~ですよね!。

この馬車道は「殖産興業」を国策に掲げた明治新政府が産業を支える新たな物流手段の確立を考え、日本で初めて築いた高速産業道路です。
「銀の馬車道」は、先取先進で時代を切り拓いていくという、その後のわが国の姿勢を指し示し体現するものでした。

より速く、より安全に、生野から飾磨津の間、約49kmを結ぶ夢の道路は、経済性、社会性、利便性の絶妙なバランスと秀逸な道路計画によって史実としての興味深さと迫力、遺産として価値を礎、誕生当初の役割を終えてなお、時代を全力で駆け抜けた人々の輝きを、時を超えて現在に伝えています(褒めすぎちゃいまっか?)。
という道路なんです(´∇`)。

【柳田國男って誰?知ってますよね~。】

柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日~1962年(昭和37年)8月8日)は、日本の民俗学者・官僚です。
現在の兵庫県神崎郡福崎町生まれで、最晩年に名誉町民第1号となりました。



没後に正三位勲一等授賞
当時の池田勇人首相「民間人とはいえ、これだけの人物に瑞宝章では軽い」と発言し旭日大綬章が供えられました。
帝国憲法下の農務官僚で貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官に就いています(枢密院(すうみついん、旧字体:樞密院)は、枢密顧問(顧問官)により組織される天皇の諮問機関。憲法問題も扱ったため、「憲法の番人」とも呼ばれました。)。

P1080043.jpg(柳田國男の銅像、歌は三十三歳の時ですが、像は晩年の感じですね。)
P1080044.jpg(気持ちが良くわかります~私も歳取ったからかな~笑)

「日本人とは何か」その答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行し、初期は山の生活に着目し、『遠野物語』「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べています。

日本民俗学の開拓者で、多数の著作「遠野物語」「蝸牛考」(各地のカタツムリの呼び名の方言分布を比較検討することにより、言葉が近畿から地方へ伝播していったことを明らかにしたもの。この中で提唱された理論が方言周圏論です。)「桃太郎の誕生」等は今日まで重版され続けています。

【柳田國男の生家】

P1080046.jpg(四畳半二間に三畳二間!男八人兄弟父母十人ですか~(;^_^A)
P1080047.jpg(模型の様な家でした。確かに狭いですね。)
P1080049.jpg(田舎の田造りの家です。奥が四畳半手前が三畳です。)
P1080059.jpg(おくどさん、ご飯はいっぱい必要だったでしょうね~。)

1875年(明治8年)7月31日、飾磨県(兵庫県)神東郡田原村辻川(現:兵庫県神崎郡福崎町辻川)に儒者で医者の松岡操の六男(男ばかりの8人兄弟)として出生します。

辻川は兵庫県のほぼ中央を北から南へ流れる市川が山間部から播州平野へ抜けて間もなく因幡街道と交わるあたりに位置し、古くから農村として開けていました。

字の辻川は京から鳥取に至る街道と姫路から北上し生野へ至る街道とが十字形に交差している地点にあたるためといわれ、そこに生家がありました。
生家は街道に面し、さまざまな花を植えており、白桃、八重桜などが植えられ、道行く人々の口上に上るほど美しかったといわれます。
生家は狭く、國男は「私の家は日本一小さい家」だったといっています(確かに小さいですね~(^^;)。
家が小さかったことに起因する悲劇が幼き日の國男に強い影響を与え、将来的にも大きな影響を与えました(小さな家に八人の男の子、長男が嫁を貰うと?まあ問題がおきますね(#^.^#))。

父・操は旧幕時代、姫路藩の儒者・角田心蔵の娘婿、田島家の弟として一時籍に入り、田島賢次という名で仁寿山黌(じんじゅさんこう)や、好古堂という学校で修学し、医者となり、姫路の熊川舎(ゆうせんしゃ)という町学校の舎主として1863年(文久3年)に赴任しました。
明治初年まで相応な暮らしをしたが、維新の大変革の時には予期せざる家の変動もあり、操の悩みも激しかったらしく、一時はひどい神経衰弱に陥いる程でした。

幼少期より非凡な記憶力を持ち、11歳のときに地元辻川の旧家三木家に預けられ、その膨大な蔵書を読破し、12歳の時、医者を開業していた長男の鼎に引き取られ茨城県と千葉県の境である下総の利根川べりの布川(現・利根町)に移り住みます。

生地とは異なった利根川の風物や貧困にあえぐ人たちに強い印象を受け、徳満寺という寺では、間引き絵馬(母親が、生んだばかりの我が子の命を奪っている姿を描いている)を見て、終生忘れることの出来ない衝撃を受けます。
ここでも、隣家の小川家の蔵書を乱読し、知識をおおいに増やしています。

16歳のときに東京に住んでいた三兄井上通泰(帝国大学医科大学に在学中)と同居、図書館に通い読書を続けます。

三兄の紹介で森鴎外の門をたたき17歳の時、尋常中学共立学校(のちの開成高等学校)に編入学(驚!)、この年田山花袋に出会っていますね。
翌年、郁文館中学校に転校し進級し、19歳にして第一高等中学校に進学、青年期を迎えます。

東京帝国大学法科大学政治科(現・東京大学法学部政治学科)卒業後、明治33年(1900年)に農商務省に入り、主に東北地方の農村の実態を調査・研究するようになりました~(^^;。

今回は、柳田国男の少年期~青年期を紹介しました。
河童のインパクト強かったですか?(笑)

P1080028.jpg(河太郎!お兄ちゃんです。こちらは動きませんよ!)
P1080033.jpg(この物語はフィクションですの注意書き要ります?笑)

民俗学者、柳田國男の生家や特産館もちむぎのやかた近くにある「辻川山公園」のため池に、河童の河太郎(がたろう)と河次郎(がじろう)が出没します。

これは、柳田國男が幼い頃を過ごした福崎町辻川での暮らしぶりなど、自身の人生を回顧して書いた著書『故郷七十年』に登場する、市川の駒ヶ岩の河童のガタロ(河太郎)をモチーフにした河童の兄弟で、1匹は池のほとりにいますが、もう1匹は池の中にいて、9時~17時の毎時0分・15分・30分・45分に水中から飛び出てきます。

実は出てくるのは河童だけでは無いのですよ~!
次回はもうひとり?と柳田國男の優秀な兄弟についてご紹介できれば良いと思っています。


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