2017/10/20

市郎右衛門、『倭建命と伊吹山』にリベンジを誓う

関ケ原取材当日の午後、滋賀県最高峰の伊吹山登山にチャレンジしました。伊吹山(いぶきやま、いぶきさん)は、滋賀県米原市、岐阜県揖斐郡揖斐川町、不破郡関ケ原町にまたがる伊吹山地の主峰(最高峰)で標高1,377 mの山です。前回の長浜城跡の展望台からも雲の合間から頂上がちらっと見えていましたね。

この山は滋賀県最高峰というだけではなく、「記紀神話」の『倭建命』や高山植物でも有名で、一度は登ってみたい山の一つでした。もちろん山登りも好きな私ですが。伊吹山ドライブウエイのおかげで、9合目までは簡単に車で行けますので、実質100メートルほどの登山で頂上まで登れる。大着な私にとっては最高に素敵な山なんです。

PA141121.jpg(伊吹山~さあ登りますか~って100mほどですけどね)


それでは、関ケ原を歩きまわってへとへとな私でも、割と気楽に山頂まで登ることが出来る伊吹山をご紹介しましょう。ただし、季節的にはけしてよい時期とはいえず、伊吹山の素晴しさを皆さんに伝えることが出来なかったと感じましたので、リベンジを誓うの題名を採用いたしました。

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
ブログランキングならblogram
👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。

CROOZ




【伊吹山てどんな山なの?】

PA141118.jpg
(芭蕉も詠んでいます。「そのままよ 月もたのまし 伊吹山」)
PA141110.jpg(関ケ原を一望、家康が最初に布陣した桃配山方面!)
PA141107.jpg(裏切り者?小早川秀秋が布陣した松尾山方面!)
PA141141.jpg(木々が少ないので紅葉もどうだろ?って感じですね。)

一等三角点が置かれている山頂部は滋賀県米原市にあり、滋賀県最高峰の山です。山域は琵琶湖国定公園に指定されています。ご紹介したように、歴史的には関ヶ原から非常に近い場所にあり、倭建命の伝説でも有名な山です。

登山好きと言いはなっておりますが、それほどガチ登山というわけでもなく、二度登った鳥取県の大山(標高1,729m)の次に標高が高いのが今回の伊吹山(標高1,377.31m)という軟弱(それも9合目までは車で行ってしまう)クライマー(アルピニスト?)です。

歴史ブログと名うってブログを書いている私ですから、以前にご紹介した、「古事記神話」の八岐大蛇を退治したスサノオが降り立ったとの伝説がある、鳥取県と島根県の県境にある『船通山(標高1,142m)』などが丁度良いのです。

そういう意味では、伊吹山も倭建命伝説があることを考えれば、私的には最高な山な訳で、以前から憧れていたのです。

【霊峰伊吹山】

古くから霊峰とされ、『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、が東征の帰途に伊吹山の神を倒そうとして返り討ちにあったとする神話が残されています。『日本書紀』では「五十葺山」あるいは「膽吹山」とも記され、古事記では「伊服阜能山」と記述されています。かつては修験道においては「大乗峰」と呼ばれていました。

『うんちく「修験道(しゅげんどう)」』とは、山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の宗教の事です。日本中の霊峰と呼ばれる多くの山で、修験道は行われています。

修験道の他にも、日本百名山、新・花の百名山、一等三角点百名山、関西百名山、近畿百名山、ぎふ百山の一つに選定されているそうです(いかにも名山ですね)。

「伊吹山」の読み方について、国土地理院の登録された山名をはじめ、地図や道路標識などの振り仮名は「いぶきやま」となっており、伊吹山の山麓地域では「いぶきやま」と呼ばれているようです。一方、「いぶきさん」という呼び方も存在し、滋賀県の伊吹町では「いぶきやま」、美濃尾張方面では「いぶきさん」とする名鑑があるほか、滋賀県内の伊吹山に近い地域では「いぶきやま」、遠い地域になるほど「いぶきさん」と呼ぶ傾向があるようで、岐阜県でも同様の傾向があります。滋賀県、岐阜県、愛知県、三重県の多くの学校の校歌で「伊吹山」に関する語句が用いられています。

【伊吹山のヤマトタケル伝説】

PA141142.jpg(もう山頂!山小屋?「伊吹山寺覚心堂」です。)
PA141148.jpg
(倭建命を死に至らしめる「伊吹大明神」の白猪)
PA141158.jpg
(倭建命!日本最大級の英雄の姿が~これ?)

伊吹山の神は「伊吹大明神」とも呼ばれ、古事記では「牛のような大きな白猪」、日本書紀では「大蛇」とされています。古事記には倭建命がこの伊吹大明神と戦って敗れる物語があります。伊吹山の神に苦しめられて敗れた倭建命は病に冒されて山を下り、居醒の泉(米原市醒ヶ井の平成の名水百選の一つに選定されている「居醒の清水」)で少し回復したものの、のちに悪化して亡くなったとする伝説が伝えられています。

山頂部にはその倭建命(白猪は、古事記伝説なので倭建命と書きましたが、山頂の石像は日本武尊と刻まれています)の像と、伊吹山の神の白猪の像が設置されています。

表登山道の三合目西側の「高屋」と呼ばれる場所はヤマトタケルが山の神に出会った場所とされ、大正時代に石の祠が建立されその中に木造の日本武尊が祀られました。山麓の長浜市山階町の「伊吹神社」は伊吹神を祭神としています。ちなみに9合目までドライブウエイで上った私には、三合目の「高屋」や「伊吹神社」は素通りなので、確かめることは出来ていません。同級生に本格的に登山している女性陣(日本アルプスやヒマラヤの練習で伊吹山に登っているらしい)が居るので今度機会が有れば聞いておきます。

【山岳宗教と伊吹山寺】
PA141183.jpg(南側にあるから?南弥勒菩薩。)
PA141174.jpg
(弥勒菩薩、三修上人が亡くなったとき、この塚あたり葬られたのではないかとも思いますね)

役小角が伊吹山に登り、弥高寺と大平寺を建立したと伝えられています。白山を開山した泰澄は、この山に分け入り白山信仰を伝えました。9世紀に伝わった密教と結びついて修験の場として、多くの寺院が山中に建立されるようになりました。

「うんちく『役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの)』」についてちょっと説明、舒明天皇6年(634年)伝 によると、役 小角は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者です。修験道の開祖とされている。 実在の人物ですが呪術者部分は後世に作られたものだと考えす。私は寺社仏閣巡りで役 小角にまつわる寺社が結構多い事も知りました。私は横山光輝のSF漫画、『時の行者』(ときのぎょうじゃ)が、「役 小角」の話だと勘違いしていました。(笑)

851-854年(仁寿年間)に僧三修により、伊吹山の南側の中腹の尾根上に山岳寺院の弥高寺が建立されたことが「日本三代実録」に記録されています。三修(さんじゅ)により山上と山麓に山岳寺院が建立され、江戸時代まで山岳修行の山とされていたようです。弥高寺は伊吹山寺と呼ばれる定額寺の中心となる一つで、伊吹四大寺として他に大平寺、長尾寺、観音寺が建立され、のちに伊吹護国寺となっっています。

鎌倉時代には修験者による山岳宗教が発達し一時は数百の堂房が山中に建ち隆盛しましたが、戦国時代に兵火でほとんどが焼失し現存せずその地名だけが残っているようです。弥高寺は戦国時代に京極氏や浅井氏により城郭の一部として改造され、1512年(永正9年)に兵火に遭い、その後ふもとに坊舎が移されました。

円空は伊吹山の太平寺に暮らし、平等石(行道岩)で修業を行い、木彫仏を残しています。「弥高寺跡」は1986年(昭和61年)3月28日に、滋賀県により天然記念物(史跡)の指定を受けました。

「うんちく『円空(えんくう)』」は、江戸時代前期の修験僧(廻国僧)・仏師・歌人です。特に、全国に「円空仏」と呼ばれる独特の作風を持った木彫りの仏像を残したことで知られ、生涯に約12万体の仏像を残したとされます。山頂の「伊吹山寺覚心堂」と呼ばれる本堂のみの小さなお寺に円空上人自刻像があってなでなですることが出来ました。

【伊吹山の歴史の時間です】

伊吹山は古くから神が宿る山として信仰の対象でした。天武天皇(673年 )により麓に三関のひとつである不破関が置かれています。平安時代には、日本七高山(近畿地方の7つの霊山)の一つに数えられました。古事記の景行記(712年「和銅5年」)に、伊吹山にまつわる日本武尊の伝説が記されています。伊吹山の南側の中腹の尾根上に山岳寺院の弥高寺が建立されました(851~854年「仁寿年間」)。

室町時代後期1558年(永禄元年)、この年から1570年(永禄13年)の間に、織田信長が南蛮人から入手した薬草を栽培する菜園を伊吹山上に野草園が造られたとされます(信長ってすごいな~と感心しました)。その菜園には、ポルトガル人が自国で用いていた約3000千種のハーブが移植されたといわれています。

明治以降には近代登山の対象となっています(もちろんドライブウエイは在りませんでした)さらに明治末には川崎義令が千種類に及ぶ薬草を採取しています。

1912年(大正元年)10月山頂の弥勒堂近くに礎石を築き、現代にも残る日本武尊の石像が供養されました。1919年(大正8年)8月1日、山頂に設置された伊吹山観測所が気象観測を開始します。この観測所の建設時には、周辺で古刀や古銭が発掘されています(山岳信仰の遺物ですかね)。さらに大正時代から中山再次郎により、関西におけるスキーの山として注目されるようになります(現在スキー場は在りません)。

1927年(昭和2年)2月14日11.82m の積雪量が観測され、世界山岳気象観測史上1位となる。1929年(昭和4年)5月1日、山頂の観測所が国営の気象庁付属伊吹山測候所となりました。2001年(平成13年)3月31日、伊吹山測候所の観測が終了しています。跡地は2010年に撤去されて更地化されています)。

1950年(昭和25年)7月24日、山腹周辺が琵琶湖国定公園の特別保護地区に指定されます。1967年(昭和42年)3月17日、岐阜県が、岐阜県側の山域を県立伊吹自然公園に指定されました。2003年(平成15年)7月25日、伊吹山頂草原植物群落が、国の天然記念物に指定されています。

1964年(昭和39年)に深田久弥により日本百名山に選定されると、百名山ブームもあり全国的に登山対象の山として知名度も高まっています。1965年(昭和40年)に伊吹山ドライブウェイが開通すると、9合目まで容易に上がれるようになり山頂部は観光地化しました。ちなみに、伊吹山ドライブウェイの料金軽自動車一台で3090円(どか~ン!)一人で行くにはもったいないですね。

【目的の一つ高山植物にがっかり?】

PA141217.jpg(イブキジャコウソウ、もう最後の一輪だそうです)
PA141136.jpg(リンドウ)
PA141219.jpg(固有種、ミヤマコアザミ!ハナムグリが可愛いね。)
PA141137.jpg(やはり日本撫子)
PA141124.jpg(リュウノウギク)

季節が悪かったです。残念、高山植物の最盛期は7~8月だそうです。伊吹山には他では見られない特産種8種あるととされています。イブキタンポポ、コバノミミナグサ、ミヤマコアザミ、ルリトラノオ、イブキアザミ、コイブキアザミ、イブキコゴメグサ、イブキレイジンソウ、ただしイブキヒメヤマアザミを固有種とするサイトも多いようですね。これを加えると9種ということになります。またイブキアザミは伊吹山地と鈴鹿山地北部に固有とされています。これを加えていいのかどうか悩むところですね。追加や変更がある可能性ももちろんあります。

PA141207.jpg
(白猪ならぬ紅の豚~脂肪どうにかしろ!シャッターをお願いした登山小屋のおじさんごめんね、笑)
PA141178.jpg(最後にミステリーの謎を解く?ヤマトタケル遭難の4合目)
PA141222.jpg(美しい花には毒がある「伊吹トリカブト」これだ~!)


歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。

ブログランキングならblogram

リュミエールブラン ネージュ

2017/10/18

羽柴秀吉天下取りへの第二歩?「城持ち大名に躍進『長浜城』」

関ケ原を取材してきたので、関ケ原古戦場をご紹介したかったのですが、妻が司馬朗太郎原作の映画「関ケ原」を見に行きたいというので、それでは少し時代を遡る長浜城(ながはまじょう)をそれまでのつなぎにご紹介しておこうと考えて、本日は長浜城のご紹介です。

現在の長浜城資料館はもちろん模擬天守のコンクリート造りなので、秀吉が作った当時の城とは景観もかなり違うとおもいます。そのあたりも前座とは申しませんが、先に登場の要因の一つに成りました。

PA151790.jpg(言われてみれば「白帝城こと国宝・犬山城に似てます。)

しかしながら、天守展望台から四方を見渡すと。東は賤ケ岳古戦場から、浅井氏の小谷城や鉄砲で有名な国友村方面、南は彦根城や、その後ろに佐和山城跡、西を見ると安土城址や比叡の山々、北は三十三観音霊場でも有名な竹生島が一望できる素晴しい景観です。私が登城した当日はあいにくの雨に降られて残念な景観となってしまったのですが、天気が良い日には是非出かける価値はあります。


お得情報として、整備された駐車場が3時間(城内展示と散策には十分な時間です。)無料開放されていました。

さてそれでは、滋賀県長浜市公園町にある羽柴秀吉(豊臣秀吉)が築城した『長浜城跡』をご紹介しましょう。

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
ブログランキングならblogram
👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。

CROOZ




【秀吉の長浜城と城下町】

PA151777.jpg(駐車場は少し南側北に通りすぎると戻らなければなりません。)
PA151781.jpg
(本丸跡・天守閣跡もほんの少し北にあります。)
PA151842.jpg
(秀吉像・大阪城の豊國神社前の銅像がカッコイイです。)
PA151793.jpg(歴史博物館に成っていますが、古い古典資料の文字が読めたらな~。)

1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、浅井長政攻めの功績により織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に、当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名しました。小谷城で使用されていた資材や、あらかじめ、竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用し築城を開始しました。

他のブロガーさんもWikipediaのこの記載を使われていますが、古来、信仰の対象となった島で神の棲む島とも言われ、奈良時代に行基上人が四天王像を安置したのが竹生島は、南部には都久夫須麻神社(竹生島神社)、宝厳寺(西国三十三所三十番)があり、古来から神仏習合の一大霊場でした。寺社殿建て替え用の、針葉樹林の森が大切に保存されていたのでは推測します。これが密かに隠されていた木材の正体だと思います。

PA151834.jpg(美人薄命、割とよくある人柱伝承、松江城にもありました。盆踊りで人柱を決めたために松江には盆踊りが無いとか?)
PA151849.jpg
(かなり琵琶湖湖面まで城が有ったようです。水中にも石垣遺跡が残るようです。)
同3~4年頃長浜城が完成し秀吉が入城しています。湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていました。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した形跡があります。そのため、現在でも城下町には当時の面影や名残がありました(一時間半くらいの滞在で長浜全てを見て来たようです、講釈師見てきたような嘘を言い、笑)。秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を徐々に作りあげた場所でもあります。

PA151811.jpg(竹生島が見えますね。)
PA151812.jpg(賤ヶ岳古戦場辺り!)
PA151823.jpg(滋賀県一番の高さを誇る伊吹山先端少しだけ見えています。わかりますか?登って来ました(;^_^A アセアセ・・・)
PA151824.jpg(白い建物の後ろ、彦根城天主見えますか~右に三段櫓も見えますね)

『うんちく「長浜曳山まつり」』は毎年4月9日~16日に、長濱八幡宮の春の例祭に合わせ執行されます。13日~16日は、絢爛豪華な山車「曳山」が登場し、その舞台の上で「子ども歌舞伎」が演じられます(子ども歌舞伎が演じられるのは毎年4台のようです)。曳山は「長刀山」と子ども歌舞伎が演じられる12基とあわせて13基あります。

長浜曳山まつりの由来ですが、秀吉が長浜城主だったころに初めての男の子が生まれました?(誰の事でしょうね)。たぶん羽柴 秀勝(はしば ひでかつ、生年不詳~天正4年10月14日(1576年11月4日))と思われます。羽柴秀吉が、近江長浜城主時代にもうけた子で、幼名は石松丸(いしまつまる)または石松のことと思われます。その他にも織田信長の四男で秀吉の養子に迎えられた於次丸「秀勝」と、秀吉の甥でのちに秀吉の養子となった小吉「秀勝」がいて少しややこしいです。

「石松丸秀勝」の出生を喜んだ秀吉は城下の人々に金(きん)を振る舞い、町民がこれをもとに山車を作って八幡宮の祭礼に曳き回したのが始まりといわれています。

【秀吉城主後の長浜城】

1582年(天正10年)の本能寺の変後、清洲会議で長浜の支配権を獲得したのは柴田勝家でした(秀吉の計略で獲得させられたとも考えられますが)。勝家の甥の柴田勝豊が長浜城の守将として入城ることに成りました。同年末には勝家と対立した秀吉に攻められ、勝豊は城ごと降伏しています。秀吉に見透かされていたのかもしれませんね。

1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い後は、山内一豊が城主となり、6年間在城しています。1586年1月18日(天正13年11月29日)には天正地震により城が全壊し、一豊の一人娘である与祢らが死亡しています。

【関ケ原後の長浜城】

1606年(慶長11年)に内藤信成・信正が城主になりますが(長浜藩)、大坂の陣後の1615年(元和元年)に内藤氏は摂津高槻に移封され、長浜城は廃城になっています。資材の大半は彦根城の築城に流用されました。彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられています。その他、長浜市内にある大通寺の台所門は長浜城の大手門を移したものと伝えられ、今でも矢尻の跡を見ることができるそうです。同市内にある知善院の表門は、長浜城の搦手門を移したものと伝えられています(きれいに解体されていますね)。

PA151688.jpg(彦根城の天秤櫓こちらも国宝です)

現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので、市立長浜城歴史博物館として運営されています。
PA151808.jpg(訪れる価値あり!市郎右衛門)

ハッキリ言って行くだけの価値があるかですが、この地に後に天下人と呼ばれる豊臣秀吉が立っていた。同じ場所に自分自身も立っていると考えると、ほんの一時間程度のお安い買い物?違うか(笑)、一見するのも楽しいいですよ。

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。

ブログランキングならblogram

リュミエールブラン ネージュ

2017/10/16

歴史の禁忌を開放するIF「秀頼野戦を選択」『瀬田の唐橋で家康を迎え撃つ』

前回のお約束、歴史にIFはありませんが、その禁忌を破って、豊臣秀頼が野戦を選んで近畿を制圧、瀬田の唐橋において家康を迎え撃ちます。そんな設定でシュミレーションを楽しんでみましょう。
紀州九度山で 真田昌幸が亡くなる直前 息子の信繁(幸村)に託した 豊臣勝利の秘策に勝利の奇跡は起こるのか?から想像を働けせて見ましょう。

p651349.jpg
(真田信繁(幸村)出したかっただけです。)


【真田昌幸の秘策は、こんな作戦】

豊臣秀頼から兵を借り 青野ヶ原(現大垣市)へ布陣、します。そこは何もないただの平原で何故真田がこんなとこに布陣したのか徳川は疑問に思います。物見などを出してこちらの様子を伺いますが(家康は過去に昌幸に散々に負けた経験があり、真田が無策でこんなとこに布陣したとは考えないと推測します)。そうこうしているうちに一ヶ月は時間を稼ぐ事に精巧、真田の小勢が徳川の大軍を一ヶ月も釘付けにしたとなれば、豊臣有利とみて寝返る武将も出てくるのではないかと想像できます。そうなると徳川方に猜疑心が生まれ、混乱も起き始めます。そこを一気に攻め立てて劇はする作戦でした。しかし野戦上手の家康をそうも簡単に敗れるはすはありません。その時は「瀬田の唐橋」を落としてさらに時間を稼ぎ、西国大名の心変わりを待つというものでした。

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
ブログランキングならblogram
👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。

CROOZ


【真田幸村の父真田昌幸ってどんな武将?】

p9845675.jpg
(ちょっと見ずぼらしいいおじいさんですね。草刈正雄フアンの皆さん、期待裏切って申しわけない!)

真田昌幸は現代の歴史小説においては「謀略家」「謀将」として描かれる傾向が非常に強い武将です。もちろん幸村の活躍によって創作された部分も多いかと考えます。 江戸期に書かれた、『真武内伝』が信頼できるかどうかには疑問も持たれますが、これから昌幸の人物像を紹介しますと、「昌幸卒去」の項に死に臨んで信繁に対し、昌幸は九度山幽閉中に家康が近い将来豊臣氏を滅ぼすことを予期していたと記載され、その際には青野ヶ原(大垣市を中心とする西美濃一帯・関ヶ原とほぼ同地点)で徳川軍を迎撃する策などを画し、徳川軍が攻めてくれば巧妙に撤退しながら隙を見ては反撃し、最後は瀬田の唐橋を落として守り、多くの西国大名を味方に付けるように策す事を幸村に遺言したとされています。

戦上手で徳川軍に大損害を与えた真田昌幸、真田昌幸は、基本的に少数で大軍を追い払うことと、調略戦術を得意としていました。第一次上田合戦で徳川家康を撃退した時も、第二次上田合戦(関ケ原前夜です)で徳川秀忠を追い払ったときも、軍勢で大きく劣る相手を挑発して限界までひきつけ、怒涛の攻撃を加えています。

ちなみに、第一次上田合戦で家康と戦った際は2000弱の兵力で7000の軍勢を、第二次上田合戦では3000~4000の軍勢で38000の秀忠軍を打ち払うという離れ業を演じています。

昌幸は自軍手前ぎりぎりまで敵を引き付けての、一斉攻撃が得意でした。攻め入る敵を見て焦る家臣や兵たちを前に碁を楽しんだり、配下の者に能の演目を踊るように命じたなどの逸話もあり、冷静沈着で豪快、戦慣れした名参謀としての名を欲しいままにしています。

CIMG8016.jpg(大阪城ですが、今の城は豊臣の城をつぶして作ったものです。空襲で焼けてコンクリートエレべーター付きです。)
CIMG0364.jpg
(幸村死す!安居神社は、慶長二十年(1615)の大坂夏の陣の時、真田幸村(信繁)が 最後を迎えた場所です)

大坂の陣で真田が大阪城に入城したと聞いた徳川家康は、「それは親か?子か?」と配下の者に聞いたという逸話があります。過去に真田昌幸に手痛い目に遭わされていた家康は昌幸を非常に恐れていたらしく、手をかけていた戸がガタガタ音を立てて震えるほどだったといわれています(ちょっと大河ドラマの見過ぎですね)。配下の者が「昌幸は既に死去しており、息子の信繁(幸村)が入城致しました」と返答すると、家康は安堵してへたり込んでいました。

【私が豊臣VS徳川を選んだ理由】

現在の瀬田の唐橋状態が一番防御力に優れていると現地で考えたからです。織田信長が現在の位置に架橋(少し上流に移動しています)しています。架橋奉行は木村次郎左衛門と瀬田城主の山岡景隆で、若狭の神宮寺山と近江朽木から材木を取り寄せ、幅四軒(約7.2m)長さ一八〇軒(約327m)の橋を90日で完成させたといわれます。

P761986549.jpg(浮世絵で見ると中州がちっちゃいんですけど実は!)

明智光秀が本能寺の変で信長を倒すと、光秀が安土を攻めようと橋を渡ろうとしたため、景隆は唐橋と瀬田城を焼いてこれを阻止しました。光秀が仮橋を架けるのに3日かかっています。焼失後の唐橋を架けたのは豊臣秀吉で、そのとき初めて現在の位置に、大小二橋の橋を架けたとされます。(ハッキリしませんが長さ一八〇軒(約327m)の橋は現在の全長260mの橋に比べてはるかに長いですよね、つまり一本橋ではなかったかと考えるのです。

中州を西に持つ現在の形なら、防御力の差は歴然です。実際に一本橋だったと思われる時代の戦乱を見ると、橋を焼き払って防御するしか方法も無く、焼き払って防御した陣営がほとんどの場合負けています。、「壬申の乱(672年 )」、「藤原仲麻呂の乱(764年)」、「寿永の乱(1180年から1185年)」、「承久の乱(1221年)」、「建武の乱(もしくは、延元の乱・1336年4月11日)」等どがその例に成ります。一本橋の上で「や~や~我こそは」とやってた時代はそんなものだったのかもしれませんね。

【真田昌幸の秘策?は実現できたのか?】

関ヶ原の戦いの時代とは異なり、20年の間に、家康は豊臣の力を弱めるために鉄壁とも呼べる布陣を行っています。大阪の陣の頃には、徳川家康の天下普請により築かれた堅城が大阪城を囲うように築かれています。

IMG_5724.jpg(西濃への通り道は彦根城が守る)

西濃への通り道は彦根藩(東国へ到る三関の一つ不破関の西方を治める)は譜代大名筆頭の井伊氏の所領であり、その居城の彦根城は、西国大名が徳川に反旗を翻した際にその軍勢を押し留める事を目的に光成の佐和山城を解体するがごとく、天下普請で築かれた城です。

彦根藩を大幅に迂回する経路(南周り)を進撃しようとしても、伊勢(東国へ到る三関の一つ鈴鹿関)は家康の信任あつい藤堂家が治めています。外様大名でありながら譜代大名格であり、徳川軍の先鋒は譜代は井伊、外様は藤堂という慣例ができた程の家康親藩です。

運よく彦根城を抜いて、美濃に入る事が出来ても、西濃(青野ヶ原を含む大垣藩)は徳川歴代の譜代家臣である石川氏の所領に成っており、その居城の大垣城は関ヶ原の合戦の際に家康がこの城に篭った西軍との決戦を避けて迂回し関ヶ原に布陣したほどの堅城です。複雑に絡み合った河川と水壕で大垣は水の都と呼ばれ、大垣城は巨鹿城とも呼ばれていました。

CIMG6670.jpg
(名古屋城、大垣もあるけどまだUPして無いので、ごめんなさい。)

さらに、美濃国には家康の娘婿たる奥平信昌が立藩した加納藩が控えていますし、しかも美濃の隣国尾張には御三家筆頭となる家康の九男、徳川 義直(とくがわ よしなお)が守っているのです。先日尾張城がさらに堅固な守備機能を持とうとしていた、古図面も確認されましたね。

それなら東国へ到る最後の三関の愛発関。越前(北周り)は、家康の次男秀康が立藩した福井藩(67万石)があります。

『うんちく三関(さんげん、さんかん)』とは、古代の日本で畿内周辺に設けられた関所の内、特に重視された三つの関の総称です。三国之関とも呼ばれた。当初は不破関(美濃国、現在の岐阜県不破郡関ケ原町)、鈴鹿関(伊勢国、現在の三重県亀山市近辺)、愛発関(越前国、現在の福井県敦賀市内)の三つを指したが、9世紀初頭に逢坂関(相坂関。近江国、現在の滋賀県大津市付近か)が愛発関に代わりました。また、三関のある律令国は三関国と呼ばれています。

結論から言いますと真田昌幸の策は無理だったと考えます。それでは、豊臣側に勝機は無かったのか?と考えるのですが、私は「瀬田の唐橋」で家康を迎え撃つ方法なら勝利できたと、現地を見て考えました~(*^^*)

【豊臣勝利の法則「瀬田の唐橋」】

大阪冬の陣の時点の双方の勢力です。徳川将軍家側約20万、豊臣側約9万でした。私の構想では豊臣側は半数の4万5千でも勝利できたのではないかと考えます。

幾つか条件が在るのですが、まず天皇です。後水尾天皇(ごみずのおてんのう)第108代天皇(在位:慶長16年3月27日(1611年5月9日) ~寛永6年11月8日(1629年12月22日))を調略する事です。後陽成天皇の第三皇子ですが、母は、関白太政大臣・豊臣秀吉の猶子(兄弟や親族の子などを自分の子として迎え入れたもの。義子)で後陽成女御の中和門院・近衛前子ですから意外とすんなり調略できるかもしれません。さらに当然幕府を開くことは政治から切り離されることであり、天皇としては喜ばしい事ではないはずです。

次に天皇の綸旨を発して西国の武将を味方に付けます。実際味方につけなくても家康の誘いに乗らないだけで充分です。

【いざ決戦~】

PA080294.jpg(逃げ道無いでしょ。まあ川に飛び込むくらい?)
PA080303.jpg(西は直ぐなので補給が簡単。)
PA080308.jpg(東は必死で逃げる~)PA080322.jpg(お水頂戴が届きそうです。)

畿内を手中に治めた、豊臣軍の本体は「瀬田の唐橋」で家康軍を迎え撃ちます。一部一万は福井藩秀康の牽制に向かいます(牽制して軍を止めるだけで充分です)。
一万は南下して桂川を牽制(山崎の橋はもったいないけど落とします)に向かいます。これにより渡河できるのは瀬田の唐橋のみです。さらに、もう一万は(必要ないかもしれませんが)姫路の池田家に備えて湊川を守備します(池田家は徳川家と親族関係に有りもしかすると?の懸念があります)。

西国の武将は九州には関ヶ原敗戦組の島津家の動向が気になって動けないでしょうし、中国地方も同様に毛利家が後ろに控えていますから、そう軽々には動けませんね。土佐に入った山内家も長宗我部の残党に苦しめられているので四国も動きは無いと考えました。

さあ舞台は整いました。豊臣軍の残存勢力は6万ですが、対する徳川将軍家は、前述の事情で、20万から2割減の16万ほどに減っている筈です。決戦はもちろん『瀬田の唐橋』です。出来れば西側正面に新真田丸でも築けば完璧ですが(笑)。



ここで現在の航空写真をご覧いただきましょう。中州が意外に多きい事に気が付かれましたか?大きな駐車場やレストラン、食堂など実際の地図は浮世絵とは全く違います。攻める徳川軍は7.5m幅の橋を200mも攻め込まなければ前線での戦いは出来ませんし、橋の幅は7.5mしかありません、横に並んで戦えるのは、10人が限度だと考えます。徳川軍は最前列の50人程度が戦闘に参加できたら精一杯ではないでしょうか。

一方豊臣軍は中州の両側に2000人ずつ位は入れると現地で感じました。正面には3000人!ちょっと、ぎゅぎゅう詰めですが(実質戦闘参加は500人程度かと考えます。)、それでも徳川軍の10倍の戦力の上にこちら(もう西軍の味方、笑)は1人に対して3方向(中州南北と西側)から攻め込めます。城でいえば桝形構造のうえに鶴翼陣形。それが小橋のお陰で二重に配置出来る所に、更に地形の有利さが有ります。対する徳川軍は突撃して突き破る以外に方法はありません。

戦いが始まれば、損失の差は数だけでも10:1ですね、単純に考えれば初戦?の徳川勢2万人が突撃して、戦闘不能に落ちいった時点で、こちら(豊臣軍)の損失は2000人です。200mの橋の上で引くこともできない徳川軍に対してこちらは60mで補給ができます。豊臣軍の損失は2000を毎回補うこととすると、徳川軍が14万に成った時点でこちらは58000人、12万で56000人、10万で54000人、8万人で52000人、6万人で5万人、4万人で48000人!もういいでしょう。家康軍が壊滅した時点で、豊臣軍は44000人が残っていることになります。

PA080327.jpg(瀬田の唐橋)
PA080336.jpg(美しいけど怖いです~!)
PA080363.jpg(古代から戦争に次ぐ戦争!)

「瀬田の唐橋」での豊臣勝利後の展開ですが、家康ももちろん歴戦の強者です。自軍が壊滅するまでの戦闘は行わないと考えますし、一度関東に引いて態勢を整えようとするはずです。豊臣軍?は、「瀬田の唐橋」を最前線に畿内連合を作って真田昌幸が提唱した、少しでも多くの西国大名と条約を結び時を稼ぐ作戦を取ります。史実でもそうですが、大阪夏の陣の二年後家康は天ぷらにあたって死亡しています(事実か知りませんよ?笑)。対する秀頼、史実は(享年23「満21歳没」)でしたから、これからですよね~天下の形勢がどちらに傾いたかは、考える必要も無いでしょう。

【最後に、歴史のIF「taboo」は本当に面白いですよね】

首都は京都か大阪でしょう。明治維新も起こらなかったと思いますね~。アッ!大学とかで歴史を学んでいたらこんなおとぎ話をブログに書いたりはしないと思います。
私が歴史に素人で、理系の人間だから面白可笑しく考えてみました。皆さんどうですか?楽しんでいただけました?(笑)


(最後にプレゼントです。笑)

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。

ブログランキングならblogram

リュミエールブラン ネージュ

2017/10/14

伝説と歴史に彩られる『瀬田の唐橋』②

瀬田の唐橋の続編です。瀬田の唐橋が歴史に登場する事件は、まだまだ有りますよ~。今日は、戦国自体から現代(あんまり意味が無いかもですが)迄をお送りしたいと思います。

瀬田の唐橋(せたのからはし)は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる橋(現在はコンクリート、勿論昔は木材です)です。全長260mの長さを誇ります。滋賀県道2号大津能登川長浜線がこの橋を渡っていて、「勢多の唐橋」とも書き、「瀬田の長橋」とも言われています。

P761986549.jpg(安藤広重(歌川広重)の『近江八景』シリーズのひとつ「近江八景・瀬田の夕照」)


京都の宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋・日本三大古橋の一つとされてきました。また、1986年(昭和61年)8月10日の道の日に、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された、「日本の道100選」にも選ばれています。前回と同じじゃない!

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
ブログランキングならblogram
👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。

CROOZ


【初恋の君が本を出版されたのでご紹介します】

初恋の君!「坪内美樹」さんが本を出版されました~(*^^*)。素敵な本なのでご紹介します。

P631254879.jpg
(写真はこちらもお友達の同級生のくー子ちゃんからはいしゃくしました)

中学生・高校生と憧れの君だった美樹ちゃん、初恋の相手っていくつに成ってもドキドキするんものですよね、おじさんなのに面白いですよね、勿論やけぼっくいにも火が付く何て事は間違っても、無いので誤解の無いようにハッキリしておきましょう。私の片思いでしたし、告白して振られたとは明記しておきます~。(ToT)

それでも、私が好きに成っただけのことは有るぞというご活躍です。ブログもリンクさせて頂きますので、ご覧下さい。
坪内美樹のGood Luckブログ

【歴史と伝説「戦国から現代へ」】



さて本題ですね!東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡るか、もしくは南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川(迂回って、瀬田川、宇治川、淀川と名前を変えて大阪湾に流れ込むからどこかで渡河しなければ成りません)を渡る必要があるのです。1889年(明治22年)まで瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は、交通の要衝でもあり、京都(平安京)防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われて来ました。唐橋を舞台として繰り広げられた、壬申の乱、寿永の乱、承久の乱、建武の乱など、古代から様々な戦乱に巻き込まれています。

【突然うんちくクイズ~(* ̄∇ ̄)ノ】

平安京はいつまで続いたでしょうか?

歴史好きには当たり前なのですが、「鎌倉時代!」と答えた皆さん、間違いですよ~(*^^*)、引っかけ問題ですが、いがいにだまされませんか?平安京は明治になるまで続いて京都に有りました。「平安京時代はいつまで続いたでしょう?」と質問しないところが肝なんですよ。
クイズも楽しんで日本史を好きになってくださいね。

【戦国時代から現代まで】

PA080294.jpg(今日も瀬田の唐橋は美しいです。)
PA080335.jpg(ボートやバス釣りの方が多くて驚きました。)
PA080322.jpg(二重になった短い方です。左折用に路線が増えました。)

唐橋を現在の位置に移したのは織田信長でした。架橋奉行は木村次郎左衛門と瀬田城主の山岡景隆で、若狭の神宮寺山と近江朽木から材木を取り寄せ、幅四軒(約7.2m)長さ一八〇軒(約327m)の橋を90日で完成ました。中州(島)をはさんだ大橋と小橋の形となったのはこの時からと考えられます。

それ以前の戦いでは中州があったにもかかわらず一本の大橋だったわけですね。都守備側には不利な構造だったと言えます。明智光秀が「本能寺の変」で信長を倒した後の天王山の戦いまでの間に、光秀が安土城を攻めようと橋を渡ろうとしたため、山岡景隆は唐橋と瀬田城を焼き払ってこれを阻止しました。明智光秀が仮橋を架けるのには3日を要しました。

焼失後の唐橋を架けたのは豊臣秀吉で、そのとき初めて現在の位置に、大小二橋の橋を架けたとされます。

【江戸時代になると】

PA080330.jpg(この橋が無いと機内には入れません。「近江八景・瀬田の夕照」は最初に召せました。)


瀬田の唐橋は安藤広重(歌川広重)の『近江八景』シリーズのひとつ「近江八景・瀬田の夕照」に描かれ、往時の唐橋の様子をよく表しています。

瀬田の川橋は、膳所藩(本多家)が管理し、東海道の要所として発展しました。江戸幕府は、瀬田川に唐橋以外の他の橋をかけることを禁じ、膳所城主に保護監理の任務を課しました。1795年(寛永7年)~1894年(明治27年)までの100年間で、18回の架け換えの記録が残っています。

【明治以から現在】

1875年(明治8年)12 月には国が、1895年(明治28年)3 月には県が、ともに木造にて架替えを行っています。
1919年(大正8年)に道路構造令が公布されたのを機に、翌1922年(大正11年)4月に事業費47万円(当時)をかけて事業に着手し、1924年(大正13年)6月に、これまで木造であった橋が、はじめて鉄筋コンクリート製の橋に架け替えられました(風情は無くなりましたねぇ)。

その後、補修は何度も繰り返えし行われましたが、1974年(昭和49年)に本格的な架橋工事が行われ、1979年(昭和54年)に現在の橋が竣工されました。橋の特徴である擬宝珠は歴代受け継がれており、「文政」「明治」などの銘が入ったものも現存しています。1995年(平成7年)、瀬田唐橋の小橋に右折レーンの設置工事が行われ、1997年(平成9年)に完成しています。2012年(平成24年)には、唐茶色に塗り替えられ、現在に至っています。

【面白うんちく逸話特選】

戦国時代の武将である武田信玄は、臨終の際に「瀬田橋に、風林火山の我旗をたてよ」と言ったといわれますが、この逸話は、山を越えればすぐに京都・奈良に通じる瀬田唐橋が、軍事上の要害として重要な位置を示していたことが伺い知れるエピソードの一つになっています。

江戸時代初期の安楽庵策伝『醒睡笑』巻二は連歌師・宗長の歌を引用し、「急がば回れ」の諺の発祥であると紹介されています。
「武士(もののふ)のやはせのわたりちかくともいそかはまはれ瀬田の長はし」、東から京都へ上るには矢橋(やばせ)の港から大津への航路が最も早いとされていましたが、その反面、比叡おろしの強風による船出・船着きの遅れも少なくありませんでした。 瀬田まで南下すれば風の影響を受けずに唐橋を渡ることができ、日程の乱れも起きないことから、これを「急がば廻れ」と詠んだものであると言われました。

 松尾芭蕉も旅の途上にてこの橋について「五月雨に隠れぬものや瀬田の橋」「橋桁の忍は月の名残り哉」の二句を詠んでいます。

千利休が弟子達の集まっている席で「瀬田の唐橋の擬宝珠の中に見事な形のものが2つあるが、見分けられる人はいないものか?」と訊ねました。すると一座にいた古田織部は急に席を立ってどこかに行ってしまいます。夕方になって戻ってきた織部は、利休が何をしていたのか訊ねると「例の擬宝珠を見分けてみようと思いまして早馬で瀬田に参りました。見事なものと言われました2つの擬宝珠は東と西の、これとこれではありませんか??と答えました。利休をはじめ一座の者は織部の執心の凄まじさに感心したと言われています。へうげ者と呼ばれた古田織部ならではの逸話だと思いませんか?

PA080328.jpg(織部が探し出した、擬宝珠はどれなんでしょうね~?)
PA080312.jpg(架け替えによって無くなっていますね~笑!私馬鹿ですね~!)

【最後に】

瀬田の唐橋の防御力について私なりに考察してみました。織田豊臣時代以前は、一本の大橋だったために東からの攻撃側の勝利も数多くありますが、現在の様な二橋の唐橋構造ならば、五倍の軍勢にも負けることはないと確信しました。次回は、真田幸村が籠城戦を用いずに瀬田の唐橋を手中にした場合を例に挙げて、家康との戦を検証をしてみたいと思いますので、お楽しみにしてください。
PA080354.jpg(珍しい水位観測所が有るのご存知でした?)
PA080356.jpg(こんなちっちゃな場所なんですが。)
PA080360.jpg(明治から平成4年まで使われていた、オランダの測量機これもまた歴史ですね。)

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。

ブログランキングならblogram

リュミエールブラン ネージュ

2017/10/12

伝説と歴史に彩られる『瀬田の唐橋』①

今日は日本三名橋の一つ、瀬田唐橋(滋賀県大津市/瀬田川)をご紹介する予定なのですが、日本三名橋については、まず日本橋(東京都中央区/日本橋川)、錦帯橋(山口県岩国市/錦川)、眼鏡橋(長崎県長崎市/中島川)という意見があります(瀬田唐橋入っていない)。

さらには今回の瀬田唐橋(滋賀県大津市/瀬田川)、二重橋(東京都千代田区/皇居の濠)、三条大橋(京都府京都市/鴨川)の意見やウィキトラベルだと、三奇橋として錦帯橋(山口)・猿橋(山梨)・かずら橋(岩国)が選ばれています。

さて今回は歴史に基づいて、日本三古橋の宇治橋(京都府宇治市/宇治川)、山崎橋(京都府八幡市・大山崎町/淀川)、と瀬田唐橋を、日本三大橋と理解して、ご紹介したいと思います。
ちなみに山崎橋(やまさきばし)は、かつて山城国山崎–橋本間(現在の京都府乙訓郡大山崎町–八幡市橋本間)で淀川に架かっていた橋です。日本三古橋の筆頭として、山崎太郎と呼ばれましたが、現在は存在していません。

PA080294.jpg(瀬田の唐橋、ボートが行き交う優雅ですね。)


それでは、滋賀県大津市にある、瀬田川にかかる橋、瀬田の唐橋をご紹介しましょう。

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
ブログランキングならblogram
👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。

CROOZ


【その前に(まだあるのかい)自慢話を一つ】

(是非ご覧ください)

昨夜Facebookのお友達にはお知らせしたのですが、ブログランキングの「ブログ村」日本史部門で初めて一位を獲得しました~(喜)もちろん一日だけです。(笑)先日、現在一位の「しばやん」さん(URLをご紹介する必要もないでしょう。一位なのですからね~)とコメントでお話させていただきました。ブログがとても素晴らしいのはもちろんですが、人柄や知識にも圧倒されました。
とてもじゃないが、私の様な文章も書いた事のない、理系の人間が追いつけるレベルではありえないと思っておりました。

しばやんさんから「素敵なブログを書かれますね」とコメントされた時には、お世辞とわかっていながらうれしくてふるえてしました。そのトップブロガーさんにたとえ一日でも追いつけたことは、大きな自信につながりました。二年間ブログを書いて来てこれほど諦めなくてよかったと思った日はありませんでした。

これもひとえに、応援してくださった皆様と、支え・励まし・教授してくれた。ブログ仲間の皆さんのおかげです。これからももっともっと努力して、今回のように一日天下ではない一位を目指しますので、これからもよろしくお願いいたします。

【瀬田の唐橋(せたのからはし)に話を戻して~】



PA080303.jpg(中州が有るので、長い橋と短い橋が有ります。こちらは短い方)
PA080322.jpg(信号までの長さです交通量も多いですね。)
PA080343.jpg(下から撮影すると風情が無いですね~コンクリート橋)
PA080346.jpg(ビニール袋はゴミ箱に捨てようね、水草があります。バリスネリアか!和名はとちかがみだったかな?)

瀬田の唐橋(せたのからはし)は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる橋の名前です。全長260m。滋賀県道2号大津能登川長浜線がこの橋を通過しています。「勢多の唐橋」とも書かれ、「瀬田の長橋」とも言われています。

京都の宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋・日本三大橋の一つとされてきました。また、1986年(昭和61年)8月10日の道の日に、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定されました、「日本の道100選」にも選ばれています。

【歴史と伝説「古代から室町」】

PA080308.jpg(こちらは長い橋です。瀬田川の文字ですね。)

戦国時代から現代までは次回のお楽しみです。立地ですが、東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡るか、もしくは南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要があります。1889年(明治22年)まで瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は、交通の要衝であり、京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われて来ました。実際に唐橋を舞台として繰り広げられた、「壬申の乱(672年 )」、寿永の乱(1180年から1185年)、承久の乱、建武の乱(もしくは、延元の乱・1336年4月11日)など、昔から様々な戦乱に巡り合ってきました。

本格的には近江大津宮遷都の時に架橋されたと考えられますが、当時は現在の位置より65m南の龍王社・雲住寺を東端としていたようです。

唐橋が架けられた年代は不詳ですが、神功皇后の時代にはすでにあったと考えられ、摂政元年、香坂皇子と忍熊皇子が反乱を起こしたとき。忍熊皇子は神功皇后(応神天皇の母)の家来である武内宿禰の軍に攻められ、瀬田で自害したとされます(『日本書紀』 気長足姫尊 神功皇后)。

こちらを参考にしてください。
 ①謀略の偽陵なのか?「五色塚古墳」に浪漫を求めて!

「壬申の乱(671年)」では、大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となりました。大友皇子方が、橋板をはずして大海人皇子方を待ち受けたが、突破されて滅んでいます(私的には瀬田の唐橋は城にも匹敵する鉄壁の防御力だと考えるねですが)。御霊神社(滋賀県大津に在る四つの御霊神社の内三つの主祭神は大友皇子です(『日本書紀』天武天皇&上 元年七月)。これが瀬田の唐橋の文献上に見られる初見です。。

「藤原仲麻呂の乱(764年)」孝謙太上天皇・道鏡と対立した太師(太政大臣)藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)が軍事力をもって政権を奪取しようとして失敗した事件です。または、恵美押勝の乱とも言われ、宇治から近江を取ろうとした恵美押勝に対して、孝謙上皇方は田原道(関津遺跡)を通って瀬田の唐橋に先回りし橋を焼き落とします。押勝は高島郡に走りますが、滅びてしまいました(『続日本紀』淳仁天皇天平宝字八年九月)。

【平安時代はよく焼ける木の橋ですから】

870年1月9日(貞観11年12月4日)に火事(『日本三代実録』巻十六)。871年12月19日(貞観13年11月4日)に火事(『日本三代実録』巻二九)。『延喜式』主税式によれば、近江国の国司の管理下に置かれています。近江国の正税・公廨稲から「勢多橋料」1万料が拠出され、その出挙収入によって橋の維持が行われました、橋の建て替えは朝廷への報告義務が有ったようです。

【俵藤太「藤原秀郷」の伝説】

PA080302.jpg(俵藤太大ムカデ退治伝説の看板がありました。)

「俵藤太大ムカデ退治伝説」、近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなりましたが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまいます。その夜、美しい娘が藤太を訪ねて来ました。娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で、昼間藤太が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えた姿だったのです。娘は龍神一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願しました。

藤太は美しい娘の話に快諾し(いつでも美女には弱いよね)、剣と弓矢を携えて三上山に臨むと、山を七巻き半する大百足が現れます。藤太は矢を射たが大百足には全く通じません。最後の1本の矢に唾をつけ、八幡神に祈念して射るとようやく大百足を退治することができました。藤太は龍神の娘からお礼として、米の尽きることのない俵などの宝物を贈られます。また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、討ち取ることができたといわれています(この伝説自体が「平将門の乱平定」から作られたと思って間違いないでしょう)。

【蜻蛉日記と更級日記】

PA080327.jpg(まさしく瀬田の唐橋です。)

「更級日記(竹芝伝説の章)」で、下男と帝の娘が京から武蔵国へ逃走する際、追手から逃れるため瀬田橋を破壊したとの記述があり、当時から交通の要所であったことがうかがえます(下男といえど帝の娘と駆け落ち?する度胸が有れば、橋くらいは破壊するかもしれません)。「更級日記」の作者は菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標の次女菅原孝標女で、母の異母姉は『蜻蛉日記』の作者藤原道綱母です。970年8月25日(天禄元年7月21日)に藤原道綱母(作者本人)が明け方に船で勢多橋を渡河の記録が有ります。題名は日記のなかの文「なほものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし」からつけられています。

【鎌倉・室町の戦】

治承・寿永の乱(源平合戦) 1183年(寿永元年)に源義仲対平家が戦います(ちなみに1183年は現代歴史でも鎌倉時代ではありませんが(-"-;A ...アセアセ)。『平家物語』において源義仲は、朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれています。

以仁王の令旨によって挙兵、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京します。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となります。1184年(寿永2年)に源義経対義仲の合戦があった際に、源範頼が攻める瀬田橋の橋板をはずして守っていたのは今井兼平でした。宇治で義経に敗れた義仲と合流しますが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれています。

「承久の乱」では1221年(承久3年)、後鳥羽上皇の京軍(山田次郎重忠が率いる比叡山の僧兵三百騎)と北条義時の弟・時房率いる鎌倉幕府軍が瀬田川を挟んで交戦しました。結果はご存知ですよね~。
後鳥羽上皇は隠岐島(隠岐国海士郡の中ノ島、現海士町)に配流され、隠岐島で亡くなっています。百人一首99番目の歌人「人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は」ですね。(人を愛しくも恨めしくも思う。世の中も自分の思い通りにならなくて悩んでしまう)という感じですか?ちなみに16弁の菊の御門、後鳥羽上皇が作者です。


「建武の戦い」 1336年(建武4年)、足利直義率いる足利勢と名和長年率いる朝廷軍が瀬田川を挟んで交戦。足利尊氏は南下して宇治川で楠木正成に勝利し、京都へ進攻しました(宇治川は渡河できたんですね)。

「観応の擾乱」 1350年(観応元年)12月4日、足利直義派の伊勢・志摩守護石塔頼房が上野直勝とともに近江に進出し、近江守護軍と交戦しました。その日のうちに瀬田へ進出し、唐橋を焼き払っています(観応の擾乱 、こちらは 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦いです) 。

PA080363.jpg(4人乗りルスカル、良いですね~!)
PA080335.jpg(やはりこれでなきゃね~水面も綺麗です。笑)

【最後まで戦乱】

このように、瀬田の唐橋は古代からずっと日本の栄華と衰退を見て来た橋といって過言ではありません。次回は戦国時代から瀬田の唐橋の面白エピソードをご紹介します。

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。

ブログランキングならblogram

リュミエールブラン ネージュ