2017/12/07

関ヶ原の戦いはいかにして終わったのか?「それぞれの顛末」

こんばんわ~!今日は「関ヶ原の戦」の顛末や、西軍・東軍それぞれの武将後日談をご紹介いたします。今回の「関ケ原シリーズ」ともいえる一連の戦いは、私の取材に基づくと、室町時代創成期に起こった、足利尊氏と弟義直の戦い「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」に匹敵するものであり、後世『慶長の擾乱』と呼び変えられる可能性が否定できないほどの全国規模の大きな戦いでした。

「関ケ原」の戦いそのものは、徳川家康中心の東軍が、小早川秀秋の内通・裏切りによって形勢を一気に引き入れることに成功し、六時間という短時間で勝利を勝ち取りました。

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(不運の天才武将、石田三成図)

一部で「島津ののきぐち」といわれるような敗走時の戦闘は有りましたが、総崩れを犯した西軍は北國街道を伊吹山方面、あるいは中山道を西へ、一部は伊勢街道を通って自国の領土へ帰国を始めます。

勝ったとはいえ、全国でまだその火種はまだくすぶっている状態でした。家康はこの火種を絶やすために、粛々と戦勝軍としての行動を始めます。

西軍の首謀者とみられる三成や小西行長、宇喜多秀家には追手命令が下され、「関ケ原」では首実検(残酷なようですが、礼儀作法に基づいたものだったようです。)や論功行賞が始まります。

今回取材しながらご紹介で来ていない「関ケ原の闘い」の史跡跡や武将のその後もご紹介したいと思います。

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【西軍逃走続編】

PA141108.jpg(伊吹山から関ケ原を望む①中央の山が毛利陣の南宮山)
PA141106.jpg(伊吹山から関ケ原を望む②天満山と奥に松尾山です)
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(観光協会の史跡巡り図)
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(東軍方面)
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(小早川秀秋の軍監として家康に遣わされた奥平貞治の墓)
PA141089.jpg(軍監にもかかわらず討たれている程大谷吉継の攻撃が激しかった証拠ですね)

西軍が壊滅する様を目の当たりにした南宮山の毛利勢は戦わずして撤退を開始します。浅野幸長・池田輝政らの追撃を受ますが、長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊の援護を受けて無事に戦線を離脱し、伊勢街道から大坂方面へ撤退しました。殿軍に当たった長宗我部・長束・安国寺らの軍勢は少なからざる損害を受けますが、退却に成功しています。安国寺勢は毛利勢・吉川勢の後を追って大坂方面へ、長宗我部勢と長束勢はそれぞれの領国である土佐と水口を目指して逃亡しています。

PA140805.jpg(井伊直政・松平忠吉陣の傍に東首塚が有ります。)
PA140806.jpg(史跡東首塚)
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(関ケ原の町の皆さんにより整備されています。)
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(東首塚説明版)
PA140757.jpg(西首塚・奥には胴塚とあります)
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(西首塚説明版)

家康は、翌日9月16日には裏切り組である小早川秀秋、脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠に石田三成の本拠である佐和山城攻略の先鋒を命じ、これに近江方面の地理に明るい田中吉政のほか軍監として井伊直政が加わり、2万を超える大軍を以って近江鳥居本へ進軍します。

佐和山城には三成の兄である石田正澄を主将に父・石田正継や三成嫡男・石田重家、大坂からの援兵である長谷川守知ら2,800の兵が守備しており、6倍以上もの兵力差に加えて御家安泰のために軍功を挙げねばならない秀秋らの攻撃を津田清幽らの奮戦で退けています(流石過ぎたるものの一つ名城佐和山ですね)。

正澄は家康の旧臣だった清幽を使者に降伏交渉に入ります。正澄の自刃、開城とひきかえに他の一族、城兵、婦女子を助命するという条件でまとまった交渉出したが、9月17日長谷川守知が寝返り、東軍の兵を引き入れ三の丸が陥落すると翌18日早朝に田中吉政隊が天守に攻め入り落城しました。

正澄ら三成の一族は自刃して滅びます。清幽は家康に違約を激しく詰問し、三成の三男佐吉をはじめとする生き残った者を助命させています。重家(三成嫡男)は脱出して京都妙心寺に入り、後に助命されて同寺へ出家させられました(以前人質として大坂城にいて助命と書きましたが混乱の時代ゆえお許しください)。

【家康さらに西へ進軍す】

家康は西軍の首謀者で、敗戦後逃亡し行方不明となっている石田三成や宇喜多秀家、島津義弘らの捕縛を厳命する一方で大坂城無血開城を行うべく、福島正則と黒田長政に西軍総大将である毛利輝元との、開城交渉を命じました。

家康は現在の近江八幡、日牟禮八幡宮で戦勝祈願の後、9月20日に京極高次の居城である大津城に入城し、しばらく留まっています。この間北陸方面の東軍総大将であった前田利長(利家嫡男)が、西軍に属した丹羽長重(丹羽長秀の長男)と青木一矩(末期の病床にあり10月10日死亡)の嫡男・青木俊矩を連れて合流しています。家康は両名の懇願を聞くことなく改易処分としました。

また家康が大津城に入城した同日に、中山道軍総大将であった徳川秀忠が合流します。真田昌幸に上田城で翻弄され本戦に間に合わなかった秀忠に対して家康は激怒していました。しばらく目通りを許さなかったとも伝わります。榊原康政の必死の諫言により9月23日対面が叶っています。

【三成捕縛】

一方逃亡していた西軍諸将でしたが、まず9月19日に小西行長が竹中重門(半兵衛嫡男)の兵に捕らえられ、草津に滞在中であった家康本陣に護送されました。

続いて三成が9月21日、近江伊香郡古橋村(後の高時村)において旧友である田中吉政の兵に逮捕されています。逮捕された場所は三成の領内であり、同地の農民が処罰を覚悟の上で匿っていました。しかし三成は逃亡場所が発覚したことを知ると、領民の処罰を考慮して、自ら吉政の兵に身分を明かし、捕縛されています。

捕縛された三成は9月22日に大津へ送られ、東軍諸将とここで再会しました。この時、福島正則は三成に罵詈雑言を浴びせ、黒田長政や浅野幸長は逆に三成に労りの声を掛けました。また小早川秀秋は三成に裏切りを激しく詰られたと伝えられています。このエピソードは映画「関ケ原」でも描かれ、原作司馬遼太郎の「関ケ原」下巻でも書かれていますので、次回エピソード特集として映画・本のお話を詳しくご紹介したいと思います。

9月23日には京都において安国寺恵瓊が奥平信昌の兵によって捕らえられ、大津に護送されました。この石田三成・小西行長・安国寺恵瓊の三名は、9月26日に家康が大津城から淀城に移動する際、大坂へ護送されました。五奉行の一人で関ヶ原本戦に参じていた長束正家は居城である水口城(滋賀県甲賀市)へ戻っていましたが、これを知った家康は池田輝政・長吉兄弟と稲葉貞通に水口城攻撃を命じ、9月30日に開城させています。

また細川忠興は家康の命を受け、父・細川幽斎の籠る田辺城を攻撃した総大将・小野木重勝が拠る丹波福知山城攻撃に向かっています。途中丹波亀山城において父と再会、丹後田辺城の戦いに加わりながら戦意を見せなかった谷衛友、別所吉治、川勝秀氏、藤掛永勝らを従え9月23日より攻撃を開始します。重勝は徹底抗戦の構えを見せましたが、井伊直政と山岡景友の説得により開城、城下の寺へ謹慎しました。

【家康の論功行賞】

家康は淀城を経て9月27日に大坂城に入城。豊臣秀頼や淀殿と会見した後、毛利輝元退去後の大坂城西の丸へ入り、井伊直政・本多忠勝・榊原康政・本多正信・大久保忠隣・徳永寿昌の6名に命じて、家康に味方した諸大名の論功行賞の調査を開始します。

9月30日、慶長出羽合戦を繰り広げていた上杉景勝の下に、ようやく西軍敗戦の報が伝えられ、長谷堂城にいた直江兼続は撤退を開始しています(長谷堂城の戦い)。

10月15日以降、論功行賞が順次発表されました。宇都宮城に拠って上杉景勝・佐竹義宣を牽制した結城秀康(家康次男)の67万石を筆頭に、豊臣恩顧の諸大名は、軒並み高禄での加増となっています。しかしいずれも西国を中心に遠国へ転封となり、京都・大坂および東海道は、家康の子供達や徳川譜代大名で占められました。

また豊臣氏の蔵入地(江戸時代の天領と同意で、豊臣時代は太閤蔵入地と呼ばれます)が廃止され、それぞれの大名領に編入されたことで、豊臣直轄領は開戦前の222万石から摂津・河内・和泉65万石余りに事実上減封されています。

一方家康は自身の領地を開戦前の255万石から400万石へと増加させ、京都・堺・長崎を始めとする大都市や佐渡金山・石見銀山・生野銀山といった豊臣家の財政基盤を支える都市・鉱山も領地としました。また豊臣恩顧の大名が家康の論功行賞によって加増された事は、彼らが豊臣家の直臣から切り離され、独立した大名家となった事を意味しています。これにより徳川家による権力掌握が確固たるものになり、徳川と豊臣の勢力が逆転することに成りました。

ただし以前は、この一連の論功行賞で豊臣家が一大名の地位に陥落したとする学説が一般的でしたが、豊臣家がなお特別の地位を保持して、徳川の支配下には編入されていなかったとする説が現在では一般的と成っています。

【三成処刑時も尊厳を失わず】

CIMG81499516.jpg(京都建仁寺にある安国寺恵瓊首塚)

10月1日、大坂・堺を引き回された三成・行長・恵瓊の3名及び伊勢で捕らえられた原長頼(関ケ原参戦を目指すも敗北を知り、敗走し、10月13日に自害したとも言われます。享年57。)は京都六条河原において斬首されました。首は三条大橋に晒されました。
三成斬首は三成成りの関ヶ原戦の正統性を主張するエピソードでもありますので、こちらも次回ご紹介いたします。

10月3日には長束正家と弟の直吉が自刃し、やはり三条大橋に首を晒されています。福知山城を開城した小野木重勝は、直政や景友の助言によって、一旦は出家ということで助命が決まりかけたが、細川忠興が強硬に切腹を主張し、重勝は10月18日に丹波福知山浄土寺で自刃しました。一説には父の面前で自刃させたとも伝えられています(忠興意外と残忍ですね。愛する妻・ガラシャが死んだとはいえ、ちょっとひどいかな?)。この他赤松則英、垣屋恒総(私の故郷、日高町を本拠にしていた但馬四天王の一人です。)、石川頼明、斎村政広などがこの10月に自刃を命じられています。

家康の弾劾状に署名した残りの五奉行、増田長盛と前田玄以については、両名とも東軍に内通していたが、長盛は死一等を減じられましたが武蔵岩槻に配流。玄以は所領の丹波亀山を安堵されるという、両極端な処分が下されました。

一方、西軍副将を務めた宇喜多秀家は、家康から捕縛を厳命されましたが、薩摩へ逃亡を果たしていました。島津と家康の和睦により、秀家は家康に引き渡され、前田利長と忠恒による助命嘆願により死罪を免れて1606年(慶長11年)八丈島に流罪となっています。

【大坂城開城と毛利氏の処分】

吉川広家や毛利秀元ら毛利一族、福原広俊ら毛利家臣団の反対を押し切り、三成と彼の意を受けた安国寺恵瓊の要請によって、西軍の総大将に就任した毛利輝元でしたが、関ヶ原の敗北後もなお秀頼を擁して大坂城に滞在していました。立花宗茂は大坂城に籠城しての徹底抗戦を主張しており(『立斎旧聞記』)、秀頼の命と称して篭城抗戦が行われる可能性も残されていました。

家康は大野治長を大坂城に遣わし、秀頼と淀殿が今回の戦に関係あるとは家康は全く思っていないと説得させました。淀殿は礼の手紙を持たせて大野を送り返しています。

一方で、関ヶ原本戦において功のある吉川広家が「輝元の西軍総大将就任は本人の関知していないところである」と家康を説得し、家康はその説明に得心したと回答しています。これを知った輝元は、福島正則と黒田長政の開城要求に応じてしまいます。

さらに家康家臣の本多忠勝と井伊直政が、家康に領地安堵の意向があることを保障する起請文を輝元に差し出し、それと引換えに、輝元は9月24日に大坂城西の丸を退去しました。27日、家康は大坂城に入城して秀頼に拝謁し、西の丸を取り戻して秀忠を二の丸に入れています。

しかし10月2日、家康は、黒田長政を通じ広家に対し、実際には輝元が積極的に西軍総大将として活動していたという証拠(諸大名への西軍参加を呼びかけた書状の発送、伊予において河野通軌ら、河野氏遺臣に毛利家臣である村上元吉を付けて、東軍・加藤嘉明の居城である伊予松前城攻撃に従軍させたこと、大友義統を誘い軍勢を付けて、豊後を錯乱したことなど)が多数発覚してしまいます。

家康は広家の説明は事実ではなかったことが明らかだとして、所領安堵の意向は取り消して「毛利家は改易し、領地は全て没収する」と通告しています。その上で広家には彼の「律儀さ」を褒めた上で、「律儀な広家」に周防国と長門国を与えて西国の抑えを任せたいという旨を同時に伝えています。

毛利氏安泰のための内応だったにも関わらず、その努力が水泡に帰した吉川広家は進退窮まる形になりました。謀反人の宿老であるにも関わらず「律儀さ」ゆえに彼のみは破格の扱いを受けるという形になった以上、今更「輝元の西軍への関与は知っていたが、自分の努力でなるべく動かないようにさせたので免責してほしい」などと前言を翻し実情を述べて交渉することもできなくなってしまいます。

そのため、自分自身に加増予定の周防・長門(現在の山口県)を毛利輝元に与えるよう嘆願し、本家の毛利家を見捨てるくらいなら自分も同罪にしてほしい、今後輝元が少しでも不届きな心をもてば自分が輝元の首を取って差し出す、という起請文まで提出しています。

家康としても、九州・四国情勢などの不確定要素がある以上は毛利を完全に追い詰めることは得策ではないと考え、吉川広家の嘆願を受け入れ、先の毛利氏本家改易決定を撤回し、周防・長門29万8千石(現在の山口県)への減封とする決定を10月10日に下しました。さらに本拠地を毛利氏が申請した周防山口ではなく、長門萩にするよう命じました。輝元は出家し、家督を嫡男である毛利秀就に譲り隠居す事に成りました。

毛利領が、安芸ほか山陽・山陰8か国(112万石)から防長2か国(29万8千石、のち高直しにより36万9千石)まで一気に減らされたことから、吉川氏に対し毛利本家は、残された毛利領より3万石(岩国領、後に高直しして6万石)を割き与えたものの諸侯待遇の推挙を幕府に行わない仕打ちを行っています。

しかし吉川広家の功績を知る幕府は、吉川氏を諸侯並みの待遇とし、当主は代替わりに将軍への拝謁が許されるという特権を与えて、吉川広家の功に報いました。本家の為を考えた広家ですが、結果は皮肉なものになりました。広家の行動が無ければ、毛利将軍家と成っていたかも知れませんね~残念ながら歴史にIFは有りません。

【上杉氏・佐竹氏の処分】

10月に毛利氏の処分が決定し、11月には島津氏が謝罪したことにより、西軍に加担した大大名で処分が未決となっているのは、関ヶ原の導火線となった上杉征伐の張本人である上杉景勝と、態度を曖昧のままにしていた佐竹義宣の2人となりました。

景勝は最上軍と長谷堂城を中心に激戦を繰り広げましたが、9月30日に西軍敗走の一報が伝えられると撤退しています。

勢いづいた最上義光は庄内へ攻撃を開始、伊達政宗も10月6日より桑折への侵攻を開始しています。景勝は防戦する一方で家中に今後の対応を協議しました。この中で直江兼続や甘糟景継、竹俣利綱らは徳川との抗戦を主張するが、本庄繁長や千坂景親らは和睦を主張しています。最終的に10月23日に和睦の方針が決定され、主君の意を汲んだ兼続は主戦派の「江戸へ南下するべし」との意見を退けました。

交渉には本多正信と親交の深い千坂景親と和睦を主張した本庄繁長が任命され、以後正信を始め東軍の対上杉防衛軍総大将であった結城秀康、本多忠勝、榊原康政らに取り成しを依頼しています。彼らの取り成しにより、当初領地没収を予定していた家康も、次第に態度を軟化させていきました。

年が明けた1601年(慶長6年)7月1日、千坂・本庄両名の報告などから和睦が可能となったことを受け景勝は兼続と共に上洛し、秀頼への謁見後、8月8日結城秀康に伴われて伏見城の家康を訪問し謝罪しています(『上杉家御年譜』)。

上杉氏への処分は1ヶ月ほど経った8月16日に言い渡され、陸奥会津120万石から75%減の出羽米沢30万石(出羽置賜1郡および陸奥伊達・信夫2郡)へ減封となります。景勝はこの時「武命の衰運、今において驚くべきに非ず」とだけ述べ、11月28日に米沢へ移動し。ました

一方、佐竹義宣は、三成との親交から西軍への加担を決め、景勝と密約を結び、上杉領内に入った徳川軍を挟撃する方針を採っていた。このため上杉征伐では動かず、与力大名である岩城貞隆、相馬義胤、多賀谷重経もこれに同調しました。しかし佐竹家中では父である佐竹義重、弟の蘆名義広、佐竹氏家臣筆頭である佐竹義久が東軍徳川方への加担を主張します。

特に父・義重は、東軍への加担を強く主張し、これに抗し切れない義宣は、佐竹義久を中山道進軍中の徳川秀忠軍へ、兵300と共に派遣するという、曖昧な態度を取っています。しかし家康はすでに佐竹氏の動向を疑っており、松平信一や水谷勝俊などを佐竹監視部隊として国境に配置し、秀忠も義久ら派遣部隊を、謝絶しました。

西軍敗北後、父・義重はただちに家康に戦勝を祝賀する使者を送り、さらに上洛して家康に不戦を謝罪した。しかし義宣は居城である水戸城を動かず、そのまま2年が経過しました。上杉氏、島津氏の処分も決定し、処分が済んでいないのは佐竹義宣のみとなってしまいます。その上、謝罪すら行っていませんでしたが、それでも義宣は動きません。しかし、義重の説得により1602年4月に上洛し、ようやく家康に謝罪したといわれます。

しかし家康は義宣の観望について『寛政重修諸家譜』の中で「上杉景勝より憎むべき行為」として厳しく非難したと記載されえいます。死罪は許されましたが、常陸一国など、佐竹氏勢力の54万石は没収され、出羽久保田に20万石格での減転封となりました。また与力大名である岩城・相馬・蘆名・多賀谷の各大名も改易となっっています。義宣はわずかな家臣を連れて久保田へ移動しています。佐竹氏の石高が確定するのは2代藩主・佐竹義隆の代になってからです。

【最後に織田氏の処分】

CIMG153645987.jpg(兵庫県柏原市勲君神社、京都はお詣りしましたが山形はまだです。)

織田信忠の遺児で、幼名三法師とよばれていた織田家嫡流の織田秀信は改易となり岐阜城を追われ高野山に追放となりました。

おなじく織田秀雄も改易され江戸に居住することを命じられましたが、父に先立ちて夭逝。織田信雄も改易となりましたが後に許され大和で大名となっています。信長・信雄の子孫は、天童藩2万石と柏原藩2万石(信長の弟・信包立藩、後天領、再立藩)の2家が明治に至っています。

因みに、織田信長を祀る勲君神社は全国に三社のみ、京都と山形県の天童市・兵庫県柏原市に在ります。さらには七男織田信高の家系、1616年(元和2年)1月、嫡男高重は幕臣として召し出されて近江・安房に2000石を与えられました。高重の孫信門は高家となり、以後、同家は明治維新まで高家旗本として存続しています。尚、フィギュアスケート選手織田信成さんは信高系の旗本織田家の末裔であると称しておられますが、それを客観的に裏付ける証拠はないそうです(残念ですね)。

【最後に一言】

佐竹氏の減転封が決定されたことで関ヶ原における一連の論功行賞と西軍諸大名への処罰は終了しました。1603年(慶長8年)、家康は征夷大将軍に任命され江戸幕府を開きます。

西軍に加担した大名の中には明治維新まで存続したものも多く、島津氏の薩摩藩や毛利氏の長州藩は倒幕に活躍しています。関ケ原の恨みを、明治維新でと言えるのかもしれません。

しかし、領地を没収された西軍加担大名及びその家臣の多くは浪人となります。幕府旗本や諸藩の藩士として天寿を全うする者もいましたが、長宗我部盛親や毛利勝永(毛利勝信嫡男)、真田信繁(真田昌幸二男・幸村)、大谷吉治(大谷吉継嫡男)などは、10数年後の大坂の役で豊臣方の浪人衆として幕府軍と戦い、戦死することになります。

「関ヶ原」の勝負の分かれ目は、他人のために死ぬ事の出来た三成と、自分のためだけを考えて生き抜いた家康の生への執着心の違いかもしれませんね。

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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リュミエールブラン ネージュ

2017/12/05

西軍の敗北決定!「鬼島津・島津義弘」の戦いが今始まる!

「関ケ原開戦」シリーズ第四弾、ついに決着、私的には非常に残念なのですが(家康ファンの皆さんご免なさい!)、小早川隊の寝返りによる大谷隊の壊滅により、旗本中心の家康本隊も動き出し、東軍は西軍に最後の猛攻撃をかけます。

宇喜多隊は小早川隊などを相手に奮戦しますが、やがて3倍以上の東軍勢の前に壊滅してしまいます。宇喜多秀家は善戦むなしく、北国街道を敗走します。宇喜多隊の総崩れに巻き込まれた形の小西隊も壊滅し、小西行長も同じく北国街道を北に逃れます。

石田隊も東軍の攻撃を相手に戦闘を続けましたが、島・蒲生・舞などの重臣が討死したことにより壊滅し、三成も伊吹山方面へ逃走しました。

Shimazu_Yoshihiro[1]
(こんな穏やかな顔ですが、鬼島津こと島津義弘なんです。)

このような状況の中で、鬼島津こと島津義弘率いる島津隊は取り残され敵に包囲される状況に陥ります。ここにおいて、島津勢の敵中突破退却戦、いわゆる「島津の退き口(捨て奸・すてがまり)」が開始されます。後の薩摩藩島津家、明治維新にまで影響を及ぼしたと語り継がれる名場面です。

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(凄い!島津の退路を毎年青少年が大阪まで歩くんだって。完歩すると後ろの石碑に名前を刻んでもらえる。)
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(灯篭にも丸に十の島津紋)
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(状況を見ていた義弘、守備のみの戦いに徹していました。)
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(島津義弘陣地跡)
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(島津ファンが多いのか?薩摩の人が訪れるのか?ほかの陣地よりも盛りが多いんですよね、笑)

【退き口って何だ?】

戦国時代を主にした、撤退戦(退却戦)の方法、あるいはその戦いそのものを意味します。有名なのは、織田信長軍が朝倉義景軍との戦いの最中、浅井氏の離反に遭って撤退した「金ヶ崎の退き口」、三方ヶ原の前哨戦で、徳川家康を護った本田忠勝の「一言坂の戦い」、直江兼続と前田慶次(事実よりも漫画の中で有名かもしれませんが?)が参加した「長谷堂城での戦い」、そしてこの関ケ原において、島津義弘軍が行った「島津の退き口」が有名です。と言いますか?それ以外の例はネットで探しても見つかりません。それほど、負け戦の中で勢いづいた敵に背中を見せて逃げるということは至難だと言わざるをえません。

殿(しんがり)は撤退する軍勢の最後尾に位置して、追撃してくる敵軍に効果的な迎撃を加えながら、味方の軍勢が安全な場所まで逃避出来る時間を稼ぐ部隊の事です。殿の第一目的は主君を無事に逃がすことであり、そのため殿を引き受けた部隊は命懸けで敵軍を阻止し、追撃してくる敵と交戦しながら本隊を無事に退却させなければなりません。

最悪の場合、殿を引き受けた部隊はが全滅することも多く、非常に難しく危険の大きい任務でした。従ってこの任務を遂行するには、「主君のために死ねる」という確固たる意思がなければ務まらず、自らこの任務を引き受けようとする者は少なかったようです。

しかしながら視点を変えると、殿は負け戦の中で功名を立てるチャンスであり、信長軍が朝倉、浅井軍の挟み撃ちにされそうになった「金ヶ崎の退き口」でも、殿を務めた秀吉は功名を立てるチャンスとばかり、最も危険な殿の役目を引き受けたのでしょう。

【殿の作戦はどんなもの】

「金ヶ崎の退き口」の殿作戦は、複数の殿部隊が交互に追撃してくる敵を撃退しながら退却する戦法です。秀吉は金ヶ崎城に立て籠り砲隊で朝倉勢を撃退し、城を出て家康に追いついて、光秀とともに峠の山道で敵を引きつけては銃撃を加えて敵の追撃を振り切り、退却に成功。この例は「長谷堂城での戦い」で、直江兼続も採用しています。

「一言坂の戦い」では、退却する本多・内藤隊が一言坂で武田軍に追いつかれ、内藤隊ら先発隊は挟み撃ちに遭いますが、本多忠勝が単騎で敵中に馬を進め、鬼気迫る忠勝に武田軍はたじろき、さらに忠勝は民家に火を放って味方の退却を促し、忠勝に威圧された武田軍はひるんで道を開けたところを、徳川全軍が一気に走り抜けて撤退に成功しています(「名将言行録」にある逸話で、誇張があると思われます)。

羽柴秀吉・徳川家康・明智光秀・本多忠勝・直江兼続・前田慶次、皆さんこのメンバーがいかに優秀な人物達かご存知ですよね。つまり、だからこそ成功したのです。

【鬼島津「島津義弘」中央突破の退却を決意す】

東軍に囲まれ孤立した義弘は「敵はいづかたが猛勢か」と家臣に問いかけます。問われた家臣は「東よりの敵、もってのほか猛勢」と応じました。東には家康の本陣が居ます。この時義弘の心は決まります。「その猛勢の中に、あい駆けよ~~!」と突撃を命じました。

島津義弘隊(1588)『日本戦史 関原役』が鉄砲を放ち、正面に展開していた福島隊の中央に突撃を開始します。西軍諸隊が壊滅逃亡する中での反撃に虚を衝かれた福島隊は混乱し、その間に島津隊は福島隊強行突破に成功します(福島正則の軍勢と数メートルの距離まで接近しますが、福島勢は決死の島津勢との戦闘を避け、攻撃をせずに傍観します。)。更に寝返った小早川隊をもかすめ抜け、家康旗本の松平忠吉・井伊直政・本多忠勝の3隊に迎撃されますがこれも突破します。

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(松平忠吉・井伊直政陣跡、東首塚と同じ場所です。)
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(古い石柱と新しい説明版が丁寧ですね。)
PA140829.jpg(こちらはあの本田忠勝陣地ですが、忠勝は軍監として500の兵しかともなっていませんでした。余裕?)
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(下に書いてある通りの姿でドラマに登場するので分かりやすいキャラ設定です。)
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(忠勝陣所跡、ボランティアのおばさまが説明してくださいましたが、ごめん!知ってます。笑)


この時点で島津隊と家康本陣までの間に遮るものは無くなっています。島津隊を見た家康は、迎え撃つべく床几から立ち、馬に跨って刀を抜いたといわれます。しかし島津隊は直前で転進、家康本陣をかすめるように通り抜け、正面の伊勢街道を目指して撤退を開始しました。

松平・井伊・本多の徳川諸隊は島津隊を追撃しますが、島津隊は「捨て奸戦法」を用いて戦線離脱を試みます。島津隊将兵の抵抗に、追撃した井伊直政が狙撃されて負傷し後退(この傷が元で井伊直政は二年後死没します)。この際島津方では島津豊久(義弘の甥)、阿多盛淳が戦死しています。

次に追撃した松平忠吉は申の中刻に狙撃されて後退(『関ヶ原合戦進退秘訣』)、負傷しています。本多忠勝は乗っていた馬が撃たれ落馬して追撃をやめます。徳川諸隊は島津隊の抵抗の凄まじさに加え、指揮官が相次いで撃たれたことと、すでに本戦の勝敗が決していたこと、また家康から追撃中止の命が出たことなどから深追いを避けたと思われます。

一方の島津隊は島津豊久・阿多盛淳・肝付兼護ら多数の犠牲者を出し、兵も80前後に激減しながらも、殿軍の後醍院宗重、木脇祐秀、川上忠兄らが奮戦し義弘は撤退に成功しました。盛淳は、義弘がかつて秀吉から拝領した陣羽織を身につけ、義弘の身代わりとなって切腹したと言われています。島津家は下馬して踏み止まり奮戦した5人に「小返しの五本鑓(こがえしのごほんやり)」の顕彰を与えています。

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(とても分かりやすい地図です。薩摩への愛情感じさせていただきました。)

地図をお借りしました。ありがとうございました。">

【一死一殺の「捨て奸(がまり)戦法」とは】

「捨て奸(すてがまり)」は、最後尾の何人かが点々と敵前に散って敵を待ち、敵が接近すると銃撃して敵を倒して本陣に戻って次の射撃の準備をし、その間に別の捨て奸が留まって敵を待つという戦法です。「島津の退き口」関ヶ原の戦いの退却時に敵中突破の手段として島津義弘が用いたことで知られています(座禅陣とも言われます)。

ただ関ケ原の島津軍は小勢であり、本隊が撤退する際に「殿の兵の中から小部隊をその場に留まらせ、追ってくる敵軍に対し死ぬまで戦い、足止めする作戦に成っています。そうして小部隊が全滅するとまた新しい足止め隊を退路に残し、これを繰り返して時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせる」という戦法を用い、足止め隊はまさに置き捨てであり生還する可能性がほとんど無い、壮絶なトカゲの尻尾切り作戦に成りました。

西軍方が崩壊し、周りが徳川方の敵だらけの中で陣を引くにあたり、すでに300程に減っていた兵数で「捨て奸戦法」を用いて伊勢街道経由で戦場から撤退しました。それは敵に視認しづらくするのと射撃時の命中率向上の為に、退路叢に点々と配置しておいた数人ずつの銃を持った兵達を、あぐらをかいて座らせておき、追ってくる敵部隊の指揮官を狙撃してから槍で敵軍に突撃するという壮絶なものでした。、

【生還率5パーセントの帰還】

それでも島津兵の士気は高く、「捨て奸戦法」に志願しない者の方が少ないくらいであったといわれます。その後、伊賀を越えて境の港まで行き、ここで義弘は冷静に大坂城の人質となっていた妻子を助け、船で薩摩に着いた時、義弘に従ったのはわずか 80人でした。

この義弘に対する兵士の忠義は何処から生まれたものでしょう。いくつかの逸話がそれを語っています。『身分の上下にかかわらず』秀吉が始めた朝鮮出兵は寒さが厳しく、日本軍では凍死者が続出したといわれます。しかし島津隊には一人の凍死者も出ませんでした。加藤清正は不思議に思い、義弘の陣を訪れます。兵営では身分の上下に関わらず一緒に暖を取って粥をすすっていました。義弘は兵士と寝食を共にして、夜は3回程陣中を巡って火が不足していないか気を配っていました。これを見た清正は深く感じ入ったといわれています。

『為高麗國在陣之間敵味方戦死軍兵皆令入佛道也』朝鮮出兵から帰還した義弘が紀州高野山に建立した供養碑の碑文で、朝鮮の戦いで死んでいった者は敵も味方も平等に供養するという内容です。この供養碑は後に日本が国際赤十字に加入を認められる決め手となりました。

【島津は領地を失わなかった】

「関ケ原」の後、九州は島津討伐の機運が最高潮に達しましたが、島津義弘が家康に謝罪の使者を送ったため、島津征伐は中止となりました。

以降、家康と島津氏の間で交渉が行われましたが、義弘は退却戦において傷を負わせた、井伊直政に仲介を依頼しました。
直政は、この仲介要請を快諾し、以降徳川方の仲介役として島津氏との交渉に当たりましたが、島津側の窓口は義弘ではなく、
兄の当主島津義久、及び養子である島津忠恒が受け持ちました。

家康は義弘上洛の上で謝罪することを再三迫ったが、義久・忠恒は、本領安堵の確約がない限りは上洛には応じられないとしてこれを拒否します。交渉は長期化しました。島津側は家康に対し、そもそも家康の要請で義弘が伏見城守備に就こうとしたが、鳥居元忠に拒絶されたために止む無く西軍に加担したのであり、積極的な加担ではないと主張しました。

その後二年にわたり交渉は続けられたが、のらりくらりと逃れる義久に、最終的に家康が折れる形で直筆の起請文を書き、1602年(慶長7年)3月に薩摩・大隅・日向諸県郡60万石余りの本領安堵が約束されました。本領安堵決定後、島津家は義久の名代として忠恒が12月に上洛し、謝罪と本領安堵の御礼を家康に伝え、島津氏も徳川氏の統制下に入りました。

結果から見れば、交渉の長期化を避けたい家康の心理を逆手に取った義久の巧みな外交手腕が、島津氏の本領安堵に結びついた、島津側の交渉の「粘り勝ち」と言えます。この家康の安易な妥協が250年後明治維新での徳川敗北への階段の一歩だったとは歴史とは皮肉なものですね。

【最後に一言】

今日は島津の良い所ばかりを書いてきました。ですが最後にこれだけは皆さんに知っておいていただかなくてはいけません。それは、『琉球侵攻(りゅうきゅうしんこう)』です。薩摩藩が1609年に行った、琉球王国(中山)版図に対する軍事行動を指します。対する中山王府は、一貫して和睦を求める方針をとり、全面的な抵抗を試みることは有りませんでした。

発端は1602年、仙台藩領内に琉球船が漂着しましたが、徳川家康の命令により、1603年に琉球に送還されました。以後、薩摩を介して家康への謝恩使の派遣が繰り返し要求されたが、中山王府は最後までこれに応じませんでした。1608年9月には、家康と徳川秀忠が軍船を出そうとしていると聞いた島津家久が、改めて使者を遣わして、尚寧王及び三司官に対し、家康に必ず来日して礼物を献じるするよう諭したが、琉球側は応じませんでした。

こうして遂に、琉球征伐の御朱印が、薩摩に下る事となりました。日本側の資料は幕府とその命を受けた島津氏による「琉球征伐」と位置づけています。1610年、尚寧は、薩摩藩主島津忠恒と共に江戸へ向かいました。途上の駿府で家康に、8月28日に江戸城にて秀忠に謁見しています。忠恒は、家康から琉球の支配権を承認されたほか、奄美群島を割譲させ直轄地としました。この事実は是非皆さんには覚えていてほしいです。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/12/03

「関ケ原」に二柱の烽火が上がり問鉄砲が火を噴く、ついに動くか『小早川秀秋』

「関ケ原開戦」シリーズ第三弾、ついに家康の問鉄砲が火を噴きます。決めかねていた「小早川秀秋」に決断の時が迫ります。
秀秋はどちらを選択したのか?皆さんもうご存知ですよね~(笑)


さて今日は前回の続きとして、西軍諸将の数的な不利にもかかわらず驚異的な健闘により持ちこたえていた前線に決定的な不運がやって来ます。西軍が健闘していた午前10時頃から正午の問鉄砲直後までをお話させてください。

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(男が惚れ込む大谷吉継)

頑張れ西軍!頑張れ三成!まだ南宮山には毛利秀元(15000)長宗我部盛親(6600)が居る。松尾山の小早川秀秋15000が徳川の側面を突けば勝利はこっちのものだ~。「もう少しの辛抱だ~」と声をかける市郎右衛門です。

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【互いの狼煙】

PA140692.jpg(煙出てるの分かりますよね~西軍の狼煙写真紛失、涙)
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(東軍烽火ばまであと少し。ちょっと登ります。)
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(烽火場=黒田・竹中陣地です。)
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(東軍岡山烽火場)
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(黒田長政・竹中重門、の幼馴染コンビ陣です。)

動けなかった、毛利秀元(15000)長宗我部盛親(6600)長束正家(1500)安国寺恵瓊(1800)らは、家康との密約で本家毛利の所領安堵を約束していた吉川広家(3000)によって道をふさがれ後方の四部隊は戦闘参加出来ませんでした。これはのちに、秀元宰相殿の空弁当として逸話に成っています。結局、最後まで南宮山の毛利軍ら33000もの大軍は参戦出来ませんでした。

動けるのは松尾山の小早川秀秋(15000)です。秀秋が乱戦の側面を突けば、勝負はどちらに動くかわからない状態でした。そんなんな中先に動いたんのは三成です。午前10時過ぎ、三成は秀秋に戦闘参加の狼煙を自陣前方で上げます。松尾山の小早川陣は高地に位置し、関ケ原全体を見渡せるばかりか、武将陣地も見渡せる場所にあります(今回は時間の関係で松尾山陣地までは登れませんでした)。

一方東軍も秀秋の寝返りを促す狼煙を、黒田長政と竹中重門が上げます。二人は黒田官兵衛と竹中半兵衛という「両兵衛」とうたわれた秀吉政権の名参謀二人の嫡男で幼馴染でもありました。重門は当初は西軍に属していましたが、井伊直政の仲介で東軍に鞍替えし、黒田長政軍に合力して激戦地で奮戦し、さらに戦後まもない9月19日(10月25日)、伊吹山で、西軍の武将・小西行長を捕縛するなどの大功を挙げています。

【ついに撃たれた問鉄砲】

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(松尾山小早川陣地まで十丁)
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(小早川秀秋陣地。ここは松尾山の下に成るので本人はもっとお山の上だったと思います。)
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(同じく呼応して寝返った脇坂安治陣、賤ヶ岳七本槍の気概はどこへやった~~!)

家康は内応を約していた小早川秀秋隊が、松尾山の山奥に布陣したまま動かないことに業を煮やし、正午過ぎには松尾山へ向かって威嚇射撃を加えるように命じます(問鉄砲)。この家康の督促によって東軍に与する事を決断した秀秋は、松尾山を降り小早川隊15000の大軍は、ようやく東軍に寝返ったといわれていますが、一部の歴史家は当時の信用できる史料で威嚇射撃は裏付けることはできないとして、家康は小早川軍に鉄砲を撃ち込ませてはいないとしています。

その理由として地形上の疑問点を上げています、轟音が響き渡り、黒煙が視界を塞いでいる中で、家康が打ちかけた鉄砲だけを、松尾山で識別できるはずが無いというものです。当然家康が打った鉄砲だけを峻別するのは無理だったと思われますし、現地を見た私には、家康の陣地から鉄砲を撃っても、到底秀秋の松尾山に弾が届く距離だとは思えません。家康が打った鉄砲は小早川の寝返りを促したというより、小早川隊に西軍を攻めよとの合図のようにも受け取られています。

前回も御紹介いたしましたが、小早川秀秋隊が最初から寝返っていた場合は、問鉄砲自体の存在が有りえない事に成っていきます。

なお、小早川隊の武将で先鋒を務めた松野重元は「盾裏の反逆は武士としてあるまじき事」として秀秋の命令を拒否・離反・出奔しています。しかし、このことが豊臣家を裏切らなかった忠義者としての評価を受け、戦後は田中吉政に仕官しています。

【盾裏の反逆か、帰り忠?小早川秀秋動く】

PA140928.jpg(ここから大谷吉継は松尾山の情勢を見ていました。裏切られた時の気持ちはいかばかりか?)
PA140927.jpg(松尾山が良く見えますね頂上付近の白旗が秀秋の陣です。)
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(名前のサインは全て吉継としているが吉隆が本名とも言われます。同一人物です。)

小早川隊は山を駆け降りると、東軍の藤堂・京極隊と戦闘を繰り広げていた大谷隊の右翼を攻撃します。大谷吉継は、かねてから風聞のあった秀秋の裏切りを予測していたため、温存していた600の直属兵でこれを迎撃し、小早川隊15000を松尾山の麓まで押し返しています(大谷吉継に愛すら感じる)。

ところが、それまで傍観していた脇坂安治(賤ヶ岳七本槍の一人)、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱ら(秀秋の黒田長政ルートではなく藤堂高虎ルートで内通を約束していました)計4,200の西軍諸隊も、小早川隊に呼応して東軍に寝返り、大谷隊の側面を突きました。予測し得なかった四隊の裏切りで戦局は一変、戸田勝成・平塚為広は戦死し、吉継も自刃しています。

「うんちく『戸田勝成』」織田長孝(とその父の織田長益(有楽斎))は勝成を討ち取る功を挙げ、徳川家康の前での論功行賞の際、長孝が勝成を討ち取った際に使用した槍が披露されたが、家康家臣が誤って槍を取り落とし、家康の指から血がしたたり落ちました。家康は「この槍は尋常の槍ではない。作は村正であるか。」と聞き、有楽は「村正」の作であると答えます。

退出した有楽は、近習から徳川家と村正の因縁を聞き、「内府(家康)の御味方である自分が村正を使うべきではない」と槍を微塵に砕いたといわれます。この話は、「妖刀村正」などと呼ばれ、徳川家に災いを成すと巷談で語られる村正伝説の数あるうちのひとつとなっています。

また勝成は織田長孝ではなく津田信成であったとする異説もあるようです。なお、有楽・信成は共に勝成の友人でした。『武功雑記』によれば、勝成は東軍の諸大名にも親交のある者が多く、その死を聞いて皆涙したといわれています。

「うんちく『平塚為広』」徳川家康に対して挙兵しようとする三成を大谷吉継と共に佐和山城にて諫言したが聞き入れられず、西軍に与することとなりました。大力で、薙刀の名手といわれた為広ですが、20000ともいわれる敵兵の中で孤軍奮闘しますがついに力尽きます。そして親友大谷吉継に敵将の首と一緒に辞世の句を送りました。

攻めるも退くもままならなくなった吉継の元に、為広からの使者が到着します。手紙には辞世の句が書かれていました。
「君がためすつる命は惜しからじ 終(つひ)にとまらぬ浮世と思へば」(主君を同じくし友誼を結んだ君のためになら、命を捨てるのも悪くない。この世で永遠に生きられるわけでもないのだから)書いていて涙が止まりません。

命を惜しまず、爽やかささえ感じるこの句を見て、吉継も覚悟を決め、返歌として次のように詠んでいます。
「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」(もしあの世でも縁があるとしたら、死後の世界の入り口で待っていてくれ。遅かれ早かれ、私もそこへ行くだろうから)なんていい人たちなんだ~涙!こんな素晴らしい人達の努力でつくられた日本という国に生まれて、なんて幸せな私なのだと思います。ちょっと30分いえ10分だけ泣かせてくださいね。

PA140976.jpg(この奥の小高い丘に陣を構えました。)
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(同じく吉継に準じたと言えるかも、薙刀の名手、平塚為廣碑)
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(大谷吉継の墓です。吉継の首は側近である湯浅隆貞の手により関ヶ原に埋められたまたは部下が持ち去ったとも言われます。)


宣教師のフェルナン・ゲレイロはその報告の中で奉行(石田三成)側の軍勢中には裏切り行為によってざわめきが起きて陣列の混乱が続いたと述べています。

大谷隊を壊滅させた小早川、脇坂ら寝返り部隊や、藤堂、京極などの東軍部隊は、宇喜多隊に狙いをつけ、関ヶ原中央へ向け進軍を始めます。ここに関ヶ原の戦いの勝敗は、ほぼ決しました。

【最後に一言】

確かに未来永劫戦争などという野蛮な行為は無いに越したことはありません。しかしながらこれまでに起きてしまった戦争(争い)においては、勝った者のの言い分だけが正しいわけではありません。負けた側にも勝った側と同じく正論が有ります。勝った者が作った歴史を眺めているだけでは、真の歴史には触れることが出来ません。敗者側の歴史に触れることで本当の歴史認識が培われるのだということを是非覚えていてほしいですね。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/11/30

天下分け目の『関ヶ原の戦』は朝八時にこの場所で始まった!

「関ヶ原」開戦シリーズ第2弾!「戦闘はこの場所から始まった。」9月15日早朝8時、垂れ込めていた霧が少しずつ消え始めた頃、井伊直政隊が緊張に耐えかねて、先走って抜け駆け戦闘を起こしてしまいます。歴史学者によると、抜け駆け行為は霧の中での偶発的な遭遇戦という形をとっており、戦闘開始はそれに続く福島正則の宇喜多隊に向けた銃撃戦とされています。

これは、家康から諸将に七月七日付で出された軍法の第四条で抜け駆けを厳禁の決めを破った事に成ります。この合戦に就いては先陣が福島正則と決まっていました。

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(史跡関ケ原古戦場 開戦地・井伊家の井戸囲いと福島の桐)


しかし、合戦開始時においても、合戦後においても福島正則から井伊直政に対して何らの抗議は示されておらず、井伊隊の開戦時における行為は、かなり抑制されたものであって、福島隊の名誉を傷つけないように配慮されたものだったと推測されます。

福島正則VS宇喜田直家の戦いで開始された「関ヶ原合戦」最初の二時間の様子を見てみましょう。新説では、小早川秀秋が最初から裏切っていた事で正午までの4時間で決着したとも言われてますが、ここでは通説の6時間で2時間区切りの三回で合戦をまとめたいと思います。

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【開始2時間!早朝8時~10時】

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(西軍副大将宇喜多秀家陣所・秀吉の養子として波乱の人生を送ります。)
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(宇喜多秀家陣所跡の天満神社・父は秀吉を苦しめた直家です。)
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(こちらも秀吉の親戚筋何故こんなことになったのでしょう。)
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(福島正則は春日神社に陣を構えています。)
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(樹齢800年の大杉!ということは、「関ケ原」に有りました。関ケ原前回の屏風右側の一番左下に描かれています。)

前回も最後に書いた通り、開戦直後に激突した主な武将は以下のとおりです(Wikipediaの資料を参考に部隊人数も記載しておきます。ただし人数には諸説あるのでおおよそと考えてください)。

東軍・福島正則(6000)VS西軍・宇喜多秀家(17220)
東軍・藤堂高虎(2500)・京極高知(3000)VS西軍・大谷吉継・吉治(3100)
東軍・織田長益「信長の弟・有楽斎如庵」(450)・古田重勝(1200)VS西軍・小西行長(4000)
東軍・松平忠吉(3000)、井伊(3600)、本多忠勝(500)VS西軍・島津義弘(1588)
東軍・黒田長政(5400)、細川忠興(5000)VS西軍・島清興「石田三成隊先陣」(6900内)

東軍・福島隊と西軍の宇喜多隊の争いは、「福島家の旗と、宇喜多家の旗が双方とも二、三度も退却した」(『関ヶ原軍記大成』)という激しい戦闘でした。

石田隊には黒田隊、細川隊が攻めかかりました。石田隊は木柵、空堀からなる野戦陣地(本当に笹尾山だったのか?)で敵勢を防ぎつつ、鉄砲、大筒などを用いて、必死に東軍部隊を抑えています。黒田隊の精鋭別働隊狙撃兵15名が石田隊の先陣・島左近の右山手に迂回して狙撃!左近を負傷させ、石田隊の先陣が退却すると、一斉攻撃を加える黒田・細川隊に石田隊は大砲の発射で応戦しています。

やや遅れて大谷隊には藤堂隊、京極隊が襲い掛かります。兵力的には東軍側が圧倒していましたが、吉継は2倍近い藤堂隊、京極隊を何度も押し返しています。西軍部隊の前線は地形の利を事前に考慮して陣を配置していたのが少数ながら善戦した要因の一つに成ります。

PA140936.jpg(不運の義将、大谷吉継陣所跡の看板、北斗の拳ならレイ?シュウですか?)
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(少し歩くと松尾山の小早川陣が良く見えます。)
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(小学校の中にあります。当日関ケ原祭りで開放中。土日は開いていても平日は無理かもです。)
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(藤堂・京極陣跡、京極氏は宮津に入封されますその後分家して我が但馬豊岡藩の殿様に成りますよ。)

小西隊には古田隊、織田隊がそれぞれ攻めかかりました。ここで疑問点が有るのでご紹介しておきます。新井白石は『藩翰譜』の中で古田重勝を茶人として有名な古田重然(漫画・「へうげもの」の織部で有名!「織部」の名は、従五位下織部正の官位に叙任されたことに由来しています)の甥としていますが、古田重勝重は慶長5年(1600年)、上杉景勝討伐のため会津に向かいますが、西軍挙兵の報を受け急ぎ帰国しています。松坂城に篭り鍋島勝茂らと対峙します。『日本戦史』図では重勝が関ヶ原合戦に参戦したように描かれていますが、重勝は松坂城に籠城していることは明らかであることから、関ヶ原に参戦したのは古田重然の誤りであると考えられています。

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(小西行長陣所)
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(キリシタン大名がゆえに自殺できず、捕縛されます。最後は三成と共に斬首されました。)

【家康本隊3万が戦闘不参加の理由】

明治時代に成って日本陸軍に招聘されたドイツ陸軍の参謀メッケルが「関ケ原布陣図」を見て即座に西軍勝利と断じたのは有名な逸話です。つまりそれほど東軍の布陣は無謀だったと言えます。

にもかかわらず、家康本隊3万は戦闘には参加していませんでしたが、開戦間もなく桃配山を降りて最前線近く(現在の床几場)まで陣を移しています。関ケ原の戦いに参加したのは豊臣恩顧の武将達がほとんどです。家康軍は徳川本隊3万は中山道を秀忠と共に進んでおり。家康本体3万も家康の旗本だけで、強力な武将が居たわけではありません。

歴戦の強者、本田忠勝は軍監として兵数は500で戦闘には参加していませんし、井伊直政・松平忠吉がそれぞれ3600・3000の兵で島津義弘に対峙していましたが、逆に島津義弘は兵数も少なかったせいか、ほぼ趨勢が決まるまで戦いに参加してい無いのです。

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(鬼島津と呼ばれた名将!この人物の「関ケ原」の戦いが明治維新を切り開いたと言える。お楽しみにね~!)
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(遠方から訪れるファンも多いようです。)
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(この日も島津イベントが有りました。来年の大河ドラマの影響もありかな?)

調略によって南隅山の毛利勢を足止めした家康にとって、戦闘は必要ではなかったと言えます。豊臣恩顧の武将たちによる。消耗戦を見ているだけで良かったと考えられます。双方が消耗しあう方が家康にとっては都合が良かったのかもしれませんね。

【三成動く】

三成は、開戦から2時間を過ぎたころ(11時頃とも)、まだ参戦していない武将に戦いに加わるように促す狼煙を打ち上げました。さらに動きのない島津隊に応援要請の使いを出しています。西軍は総兵力のうち、戦闘を行っているのは3万3,000ほどながら、地形的に有利なため戦局をやや優位に運んでいました。しかし、西軍は宇喜多、石田、小西、大谷とその傘下の部隊がそれぞれの持ち場を守って各個に戦っているだけで部隊間の連携が取れているとは言えませんでした。

それに対し、部隊数、戦闘兵力数で上回る東軍は西軍一部隊に対し、複数の軍勢が連携して、同時多方面から包囲攻撃を仕掛け、または入れ替わり立ち代り波状攻撃を仕掛けるなどして間断無く攻め立てました。

さらに遊撃部隊として最前線後方に控えていた寺沢勢、金森勢が増援として加わったため、時間が経つにつれて次第に戦局は東軍優位に傾き始め、特に石田隊は攻撃を受けて柵の中に退却しています。各西軍武将にとっても三成の首を上げることが最大の戦功だということは分かっていたでしょう。しかしながら地の利がある西軍主力部隊の抵抗も頑強であり、戦況を決めるには至りませんでした。

【動かない西軍】

西軍の抵抗から、ここで松尾山の小早川秀秋隊1万5,000と南宮山の毛利秀元隊1万5,000、その背後にいる栗原山の長宗我部盛親隊6,600ら、計4万7,000が東軍の側面と背後を攻撃すれば、西軍の勝利へと形成は逆転するものと思われました。

しかし、島津は「使者が下馬しなかったため無礼だ」という理由で応援要請を拒否、また毛利秀元(輝元養子)・長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊らは、徳川家と内応済みの吉川広家に道を阻まれて参戦できずにいました。

うんちく「宰相殿の空弁当」毛利軍の背後に陣を構えていた長宗我部盛親の出陣要請に困惑した秀元は、苦し紛れに「今、兵に弁当を食べさせている」と答えた。そこから秀元の官位(参議。唐名で宰相)をとって「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれています。

結局、最後まで南宮山の毛利軍ら3万3,000もの大軍は参戦せず、直後に起きる小早川秀秋の裏切りと並ぶ西軍の敗因となりました。

【最後に一言】

陣形的には圧倒的に有利な西軍でしたが内情は、ほとんどが戦闘に参加しない日和見でした。その中で自分の陣地を守り抜いた西軍戦闘隊の諸将の活躍は目を見張るものが有ります。

宇喜多秀家・大谷吉継・小西行長などの西軍防御ラインの頑強さは素晴らしいの一言です。それにもまして、笹尾山に陣取る石田三成隊の活躍はすさまじいとしか言いようが有りません。

ここで私が最後に言いたいのは、三成隊に逃亡者も裏切り者も出ていないことです。通常これほどまでに劣勢で勝ち目のない戦いの場合、兵士たちは浮足立って次第に雲散逃亡して行くのが戦場の常ではないでしょうか?

ところが石田隊にはそのような兆候はみじんも見られていません。先方の島左近(生存説もあり)と蒲生郷舎も最後まで奮戦して討ち死にしています。二人のみならず末端の兵士一人に至るまで、配色歴然たる陣中においても最後まで三成の元を去らずに奮戦敢闘した態度は正にあっぱれで、三成が天下無双の徳川家康に匹敵する武将だったという証明ではないでしょうか。

歴史って本当に面白いですよね~!
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リュミエールブラン ネージュ

2017/11/26

「開戦?」布陣を終えたはずの陣営に謎の情報が飛ぶ『関ケ原開戦』

前回、細川藤孝(幽斎)の「古今伝授の太刀(こきんでんじゅのたち)」の御紹介をいたしました。同じような出来事が他でも起きています。9月2日に西軍の北陸道平定軍に従軍していた京極高次が突如として戦線を離脱、翌3日、居城の大津城に籠城して東軍への加担を鮮明にしました。

このため三成は毛利元康を大将に、小早川秀包、立花宗茂、筑紫広門ら1万5000の軍勢を割いて、9月7日、大津城攻撃へと向かわせました。この「大津城の戦い」は京極高次の開城で終わったものの、毛利元康らは本戦当日の9月15日まで足止めされ、関ヶ原に布陣する事は出来ませんでした(ここでも1万5000の軍勢・猛将、立花宗茂や毛利元康等は「関ヶ原」に必要な人材でした)。

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(関ケ原合戦屏風左西軍部分)

また三成は大坂城に居る豊臣秀頼、あるいは総大将である輝元の出馬を要請していましたが、いずれも淀君に拒否され果たせなかったといわれています。輝元には出馬の意思があったといわれますが、このころ増田長盛内通の風聞があり、動けなかったともされています。

更には、前図のように布陣したといわれる通説が、一時資料によって覆される発見も見られます。

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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(関ケ原合戦屏風右東軍部分)



【西軍有利「鶴翼の陣」のはずが?】

関ケ原配置図
(定説関ケ原配置図、慶長5年9月15日午前8時前)
PA140692.jpg(石田三成陣最前列右翼の旗は島左近、左翼は蒲生郷舎が配置しています。お祭りのテントが邪魔ですね、笑)
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(島左近陣地幟)
PA140609.jpg(島左近については漫画にも成っていますからご存知ですかね?討ち死にしたとも?笑ここみそです。)
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(左近の陣地を抜けて笹尾山に登ります。ほんの15分ほどです。三成の霊が写っているんじゃないですから)
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(丁度開戦時間の8時ごろでした。)
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(不運の天才武将と言えるのかもしれません。)
PA140624.jpg(大一大万大吉の家紋がさみしそうにはためいていました。)

細川幽斎の丹後田辺城籠城、京極高次の大津城籠城、増田長盛内通の風聞、さらに9月14日には西軍の首脳であったはずの前田玄以が大坂城を退去し、閑居するという事態も発生しました。この玄以も、一説には東軍に内応していたといわれます。

このように西軍の統率は東軍とは対照的にまとまりに欠けており、当初の戦略に少しずつ狂いが生じて来ます。家康は秀忠の到着を待ちましたが、9月14日に美濃の赤坂の岡山(現在の岐阜県大垣市赤坂町字勝山にある安楽寺)に設営した本陣に入ります。

三成は家臣である島清興(左近)の進言により、赤坂付近を流れる杭瀬川に兵を繰り出して、東軍の中村一忠・有馬豊氏を誘い出し、宇喜多隊の明石全登と連携してこれをに打ち破っています「杭瀬川の戦い」。

14日夜家康が赤坂を出て中山道を西へ向かう構えを見せます。これを察知した三成は東軍よりも早く大垣城を出陣、福原長堯に城の守りを託して、関ヶ原方面へ転進します。西軍の転進を知った家康も、関ヶ原への進軍を命じ、松平康元や堀尾忠氏、津軽為信らに大垣城監視を命じて夜中(15日2時)、西へ向かっています。

この14日には、小早川秀秋がそれまで陣を敷いていた伊藤盛正を追い出す形で松尾山に陣を構えます。秀秋は伏見城の戦い以降病と称して戦場に出ず、東軍への内応を黒田長政経由で家康に打診していました。このため三成ら西軍首脳は秀秋に対する不信の念を抱いていました。秀秋は文禄・慶長の役で三成の報告が元で筑前名島35万石から越前北ノ庄12万石に大減封されており、それを家康に回復してもらった経緯が有ったのです。

【不思議な幾つかの一次資料】

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(三成は本当に笹尾山に布陣していたのか?)

新たに歴史学者が「一次史料にみる関ヶ原の戦い」の中で、三成は笹尾山に布陣していないとしています。上記の家康が赤坂の岡山から中山道を西へ向かう構えを見た三成が大垣城を出陣して関ヶ原方面へ転進したことは何かしっくり行きません。後からの追撃の方が、家康を挟み撃ちにできるからです。

つまり、笹尾山という地名は一次史料には出て来ない事(山中の地名)、笹尾山には陣地の遺構が無い事等から。 通説の三成が笹尾山に本陣を置いていないとしています。これまで通説で流布してきた関ヶ原の戦いの布陣図が変更される日が来るかもしれません。

それでは何故三成が大垣城を出陣して関ヶ原方面へ転進したのか?ですが、家康ではなく裏切った小早川秀秋を先に討つためだという考えです。問鉄砲(家康が小早川秀秋に寝返りを催促した銃撃)の存在も無く、家康が赤坂の岡山から桃配山に布陣したことも「慶長年中卜斎記(軍医)」に東軍田中吉正が南宮山の毛利勢と小競り合いを起こした記録が有り。家康がそれを見ていた場所に居たのなら桃配山への布陣は無い事に成ります。

小早川秀秋は寝返ったのではなく、表帰った(伏見城では東軍に着く予定でした)ということに成ります。秀秋が手配して東軍諸将、福島正則・藤堂高虎・黒田長政・細川忠興を引き入れたともいわれ、最初から東軍として戦ったと考える歴史家もいるようです。

今これ程「関ケ原の戦」が議論を呼ぶことは歴史ファンにとっては好ましい事です。いずれ教科書が「観応の擾乱(観応のじょうらん・足利尊氏と弟直義との戦い)」のよう、『慶長の擾乱』と呼ばれるようになるかも知れません。

【事実は後世の歴史家の判断に任せて通説をお話しましょう】

前記の事情により、小早川秀秋は三成を恨んでおり当初から東軍への参戦を考えていたが、伏見攻めの一件により、成り行きで西軍についたという経緯がありました。1万5,000の大軍を擁する秀秋を繋ぎとめるため、家康と三成双方は秀秋に、恩賞を与える約束を行っています。家康は上方二ヶ国を与えると提示し、西軍は秀頼が15歳になるまでの間秀秋を関白に就け、さらに播磨一国を加増すると提示したのです。

秀秋を巡る水面下での謀略が入り乱れるなか、両軍は中山道、北国街道、伊勢街道が交差する要衝・関ヶ原に集結しました。

東軍に先んじて関ヶ原に到着した西軍方は三成の拠る笹尾山、宇喜多秀家の拠る天満山、小早川秀秋の拠る松尾山、そして毛利秀元が布陣する南宮山のラインで東軍を囲む鶴翼の陣を布くと同時に、実質的に関ヶ原における高所の大半を抑えました。しかし、東軍は鶴翼の「翼」の部分に相当する諸将の多くを内応させており、本来ならば圧倒的に不利である鶴翼の陣の奥深くに陣を置いたのである。

また、この戦いの総兵員のうち、10分の1(=約2万)ほどが鉄砲を装備しており、実際本戦や東軍の小早川秀秋に対する寝返り催促(問鉄砲といわれます)にも鉄砲が使われており、このことから、日本は世界一の鉄砲保有量を誇っていました(凄いですね~)。

主な東西の大名(石高の隣、○印は関ヶ原に布陣した大名、●は寝返った大名、▲は布陣のみに終った大名)
下表の兵力は、関ヶ原本戦に参陣した武将の動員兵力です。出典は『日本戦史・関原役』に拠る。

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(データはWikipediaより拝借しました。)


【開戦】

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(史跡「関ケ原古戦場」決戦の地)
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(「関ケ原」の戦い概要)
PA140662.jpg(笹尾山からの「関ケ原」全景)
PA140645.jpg(左手配置、写真と比べると分かりやすいですね。)
PA140647.jpg(開戦後?午後に成って家康も最後を見届けに出て来ます。最後の床几場)
PA140651.jpg(一番の激戦地と言えるかもしれません。)
PA140636.jpg(手前山頂に見えるのが小早川秀秋布陣場所、さすがに山裾までしか行けませんでした。)
PA140620.jpg(左手が開戦地、西軍は小西行長・宇喜多秀家軍が布陣していました。)


9月15日早朝霧がが立ち込める関ケ原で始まります。合戦は先陣が福島正則と決まっていたにもかかわらず、井伊直政の抜け駆けによって開始されたとされていますが、笠谷和比古によると実際は抜け駆け行為は霧の中での偶発的な遭遇戦という形をとっており、戦闘開始はそれに続く福島正則の宇喜多隊に向けた銃撃戦とされています。 家康から諸将に七月七日付で出されている軍法の第四条で抜け駆けを厳禁しています。合戦開始時においても、合戦後においても福島から井伊に対して何らの抗議めいた態度は示されておらず、井伊の開戦時における行為は、かなり抑制されたものであって、福島の名誉を傷つけないように配慮されたものと推測されています。

開戦直後に激突した主な武将は以下のとおりです。
東軍・福島正則VS西軍・宇喜多秀家
東軍・藤堂高虎・京極高知VS西軍・大谷吉継
東軍・織田長益・古田重勝VS西軍・小西行長
東軍・松平、井伊、本多忠勝VS西軍・島津義弘
東軍・黒田長政、細川忠興VS西軍・島清興(石田三成隊先陣)

東軍・福島隊と西軍の宇喜多隊の争いは、「福島家の旗と、宇喜多家の旗が双方とも二、三度も退却した」(『関ヶ原軍記大成』)という激しい戦闘となっっています。

石田隊には黒田隊、細川隊が攻めかかりました。石田隊は木柵、空堀からなる野戦陣地で敵勢を防ぎつつ、鉄砲、大筒などを用いて、必死に東軍部隊を抑えています。黒田隊の狙撃兵が石田隊の先陣・島を負傷させ、石田隊の先陣が退却すると、攻撃を加える黒田・細川隊に石田隊は大砲の発射で応戦しています。

やや遅れて大谷隊には藤堂隊、京極隊が襲い掛かります。兵力的には東軍側が圧倒していましたが、吉継は三倍近い藤堂隊、京極隊を何度も押し返しています。小西隊には古田隊、織田隊がそれぞれ攻めかかりました。

家康本隊3万は戦闘には参加していませんでしたが、開戦間もなく桃配山を降りて最前線近く(現在の床几場)まで陣を移しています。

【本日の最後は】

笹尾山陣地跡敵味方押し合い、鉄砲放ち矢さけびの声、天を轟かし、地を動かし、黒煙り立ち、日中も暗夜となり、敵も味方も入り合い、しころ(錣)を傾け、干戈を抜き持ち、おつつまくりつ攻め戦う―激戦をこの地で体験した太田牛一は『慶長記』において次のように記しています。

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(さあ~三成どうする~?)

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